草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月15日
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その勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下(ふるとうげ)・八瀬・藪里・下松(さがりまつ)・赤山口

(せきさんぐち)に支えて、前陣は既に法性寺・眞如堂(京都市左京区浄土町小山にある天台宗の極

楽寺)につけば、後陣(ごじん)はいまだ山上・坂本に充満(じゅういつ)している。

 甲冑に映じる朝日は電光が激するに異ならず。旌旗(せいき)を靡かす山風は龍蛇が動くのに相似

ている。

 山上と洛中との勢との多少を見合わせるに、武家の勢は十分の一にも及ばない。げにも、この勢

にては容易く破り得る、と六波羅を見下ろした山法師達の心の程を思えば、大様(大雑把)ではある

が尤もなり。

         衆徒は大敗して 山上に帰る 


 さる程に、前陣の大衆はしばらくは法性寺につき、後陣の勢を待っていた所に六波羅勢が七千余

騎で三方から押し寄せて、鬨をどっと作った。

 大衆は鬨の声に驚いて、物の具・太刀よ・長刀よとひしめいて取る物も取り敢えずに僅かに千人

余りにて法性寺の西門(さいもん)の前に出で合い、近づく敵に抜いてかかった。

 武士は兼ねてから巧んだことであるから、敵が懸かる時には馬を馬を引き返してぱっと引き、敵

が留まれば開き合わせて後ろに駆けまわる。

 かくの如くに六、七度懸け悩ましける間、山徒は皆徒歩立ちである上に、重い鎧で肩を押さえつ

けられて次第に疲れたる様子に見えた。

 武士は、これに利を得て射手を揃えて散々に射た。

 大衆はこれに射たてられて平場での合戦は叶わないと思ったのか、またもや法性寺の中に引きこ

もろうとした所を、丹波の国の住人佐治(さちの)孫五郎と言う兵が西門の前に馬を横たえて、その



少し反り返ったのを門の扉に当てて推し直して、猶も敵を相待って西頭にして馬を控えさせた。

 山徒はこれを見て、その勢いに辟易したのか、又、法性寺にも敵が有ると思ったのか、法性寺に

は入らずに西門の前を北に向かって、眞如堂の前の神楽岡の後ろを二つに分かれて、ただ山上へと

引き返したのだ。

 ここに、東塔の南谷の善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧が居た。味方の大勢に引



つ時もあり負ける時もある。鬨の運に依る事であるから恥にして恥ではない。

 然りと言えども、今日の合戦の體は山門の恥辱であり、天下の嘲弄するところならん。いざや、

御辺、相共に返し合わせて討ち死にして、二人の命を捨てて三塔の恥を雪(きよ)めん。と、言いけ

れば、豪仙は、言うにや及ぶ、尤も庶幾(こいねがう)する所である。と、言って二人で踏みとどま

り法性寺の北の門の前に立ち並び、大音声を挙げて名乗ったのは、これ程に引き立てたる(逃げ輿

になった)大勢の中からただ二人が返し合わせるのを以て、三塔一の剛の者とは知るべし。その名

をば定めて聞き及びつらん。東塔の南谷・善智房の同宿で、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られた者

どもである。

 我と思わん武士共は寄れや、打ち物して自余の輩(ともがら)に見物をさせようぞ。と、言うまま

に四尺余りの大長刀を水車に廻して躍りかかり、躍り懸かりして火花を散らしてぞ切ったのだ。

 これを討ちとらんと相近づける武士共、多くは馬の足を薙ぎられ、兜の鉢を破られて、討たれて

しまった。彼等二人は此処にて半時ばかり支えて戦ったのだが、続く大衆は一人もいない。

 敵が雨が降る如くに射た矢で二人ながらに十余箇所じ傷を蒙って、今は所存はこれまでぞ(おも

う所はこれが最後だ)、いざや、冥途まで同道しよう、と約束をして、鎧を脱ぎ捨てて押し膚を脱

いで腹を十文字に掻き切って、同じ枕にこそ臥したのだ。

 これを見る武士共は、あわれ、日本一の剛の者共かな。と、惜しまない者とてなかった。

 前陣の軍が破れて引き返したので、後陣の大勢は軍場をさえ見ないで道から山門に引き返した。

ただ、豪鑒と豪仙の振る舞いにこそ山門の名を揚げたのだ。

       四月三日合戦の事 付 妻鹿(めが)孫三郎 勇力の事
        山門の離反 官軍の兵数 減少する

 去月(きょげつ)十二日に赤松は合戦に利なくして引き退いた後は、武家が常に勝ちに乗って、敵

を討つこと数千人なりと言えども、四海はいまだ静かならず、あまつさえ山門がまた武家に敵して

大嶽に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅に寄せるべしと聞こえたので、衆徒の心を取る

為に武家から大庄十三か所の寄進が山門にあった。

 その外に宗徒の衆徒に便宜(びんぎ)の地を一二か所充祈祷の為にとて恩賞を行われける。

 さてこそ、衆議は心々になして、武家に心を寄せる衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍

は先途京都の合戦に或いは討たれ、或るは傷を蒙むる者が多かったので、その勢は大半を減じて、

今は僅かに一万騎に足らざりけり。

        官軍は二手に分かれて 武家を攻める
         武家も軍を進めて 合戦する

 されども武家の軍立ち(軍勢の配置)、京都の形勢恐れるに足らずと見通していたので、七千余騎

を二手に分けて、四月三日の卯の刻(午前六時)に又京に押し寄せたのだ。

 その一方には殿法印良忠(りょうちゅう)・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田

(とんだ)の判官の一党、並びに眞木・葛葉の溢れ者(無法者、ならず者)共を加えてその勢は都合三

千余騎が伏見・木幡(きばた)に火をかけて、鳥羽・伏見から押し寄せた。

 又、一方には赤松入道圓心を始めとして、宇野・柏原・佐用(さよ)・眞嶋・得平・衣笠、菅家の

一党都合その勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸けて、西の七条から押し寄せた。

 両六波羅は度々の合戦で、打ち勝って兵が皆気を挙げている上に、その勢を数えると三万余騎に

余る間、敵は既に近づいたと告げけれども、仰天の)気色もない。

 六条河原に勢ぞろえをして閑(しずか)に手分けをせられたのだ。





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最終更新日  2026年04月15日 19時48分47秒
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