草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月17日
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山門、今は武家に志を通じているとは言え、又如何なる野心を存じているだろうか。油断すべきに

あらずとて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿(ぬい)秀正に三千余騎を指し添えて糺(た

だす)河原に向けられた。 去月十二日の合戦も、その方から勝ったので、吉例であると言うので

河野と陶山とに五千騎を相副えて法性寺大路に差し向けられた。 富樫・林の一族・島津・小早河

の両勢に国々の兵六千余騎を相副えて八条東寺辺に差し向けられた。厚東加賀守・加治源太左衛門

尉・隅田(すだ)・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副えて、西七條口に向けられた。 自

余の兵千余騎を悪手(あくて、まだ戦わない元気のよい軍隊として)残し、いまだ六波羅に並びい

た。

 その日の巳の刻(午前十時)から三方ながらに同時に軍を始めて、入れ替え入れ替え責め戦った。 



た。六波羅勢は徒歩立ちは少なくて騎馬の兵が多いので、駆け違い駆け違いして敵を中に取り籠め

ようとした。 孫氏(春秋時代の呉の兵法家)の千反(せんべん、千変万化)の謀(はかりごと)、呉氏

(春秋戦国の兵法家)の八陣の法(陣立ての八つの形式。車箱・車軒・車輪・曲・鋭・直・卦・衡・

鵝鸛)などは互いに知っている道であるから、共に破られず囲まれずに命を際の戦いにて、更に勝

負も無かったのだ。 終日戦って、既に夕陽に及んだ時に、河野と陶山とが一手になって三百余騎

が轡を並べて懸った所、木幡の寄せ手は足をもためずに、懸け立てられて宇治路を指して引き退い

た。

 陶山と河野は逃げる敵をば打ち捨てて、竹田河原を筋交いに鳥羽殿の北門打ちまわり作道へと駈

け出して、東寺の前の寄せ手を取り籠めようとする。 作道の十八町に、充満している寄せ手れを

見て、叶わないとや思ったのか、羅城門の西を横切って寺戸を指して引き返した。 小早河と島津

安芸前司とは東寺の敵に向って、追いつ返しつ戦いけるが、己の陣の敵を陶山と河野に打ち払われ



軍をしよう、と言って、西八条を上って西朱雀へと出たのだった。 ここに赤松入道は屈強の兵を

すぐって三千余騎にて控えているので、左右なく破られるべき様のなかった。されども島津・小早

河が横合いに懸けるのを見て、戦い疲れたる六波羅勢は力を得て、三方から攻め合わせたので、赤

松の勢は忽ちに開き靡いて三所に控えた。       

          赤松勢中の 四勇士 進んで敵を招く       

 ここに赤松の勢の中から兵が四人進み出て、数千騎が控えている中に是非なく打ちかかったの

だ。その勢は決然として、あたかも樊噲・項羽が忿(いか)れる形のも過ぎていた。 近づくにした

がってこれを見れば、長(たけ)七尺ばかりの男で、髭を両方に生(お)い分けて眦(まなじり)が逆さ

に避けている者が、鎖(くさりかたびら、小さな鎖を繋ぎ合わせて襦袢のようにしたもの)の上に鎧

を重ねて着て、大立挙げの脛当てに膝鎧を懸けて、龍頭の冑を猪頸(仰向けに、敵を恐れない事を

示す)に着なして五尺余りの太刀を帯(は)き、八尺余りのかなさい(鉄撮)棒で八角形のものを手元

の二尺ばかりに丸めて、実に軽そうに引っ提げている。 数千騎が控えている六波羅勢は、彼等四

人の有様を見て、いまだ戦わざる先に三方に分かれて引き退いた。 敵を招いて彼等四人は大音声

を挙げて名乗ったのは、備中の国の住人、頓宮(はやみ・とんぐう)又次郎入道・子息孫三郎(員

利)・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と言う者である。我等父子兄弟は少年の昔より勅勘(ちょ

っかん、天子の御咎め)武敵(ぶてき、乱暴で法を犯す事。無法と同じ)の身となって山賊を業とし

て一生を楽しんだ。 然るに今、幸いにこの乱が出来(しゅったい)して忝くも万乗の君の御味方

に参じた。しかるを先度の合戦ではさしたる軍もせずに見方が負けしたることは、我らが恥と存ず

る間今日においてはたとえ御味方が負けを引いて引いたとしても、我等は引くまいと思う。敵が強

いとしてもそれにはよるまい。敵の中を破って通り、六波羅殿に直に対面申さんと存ずる。と、広

言を吐いて仁王立ちにぞ立ったのだ。 島津安芸前司はこれを聞いて、子息二人と手の者に向って

言ったのは、日頃に聞き及んだ西国一の大力とはこれである。彼等を討つことは大勢では叶うま

い。御辺達は暫く外にて控えて、自余(それ以外)と戦うべし。我等父子三人が相近づいて、進んだ

り退いたりして敵を悩ましたならばどうして相手を討てない事があろうか。

 たとえ力こそは強いとしても、身に矢を立て得ない事はないであろうよ。たとえ走る事が速いと

しても馬にはよも追いつけないであろう。多年稽古の犬笠懸(犬追い物と笠懸・射場に高く綾藺笠

を懸けて遠矢を射るもの)、今の用に立たないならば何時をか期(ご)するべし。

 いで、いで、不思議のひと軍をして、人に見せてやろう、と言うままに、ただ三騎打ち抜けて四

人の敵に相近づいた。

 田中藤九郎はこれを見て、その名は未だ知らないが、猛(たけく)も思える志かな。同じくは御辺

を生け捕って味方にして、軍をさせて見せようと、嘲笑って件の金棒を打ち振って閑に歩み近づい

た。

 島津も馬を静々(しずしず)と歩ませて寄り、矢頃(矢の当たる距離)になったので先ず、安芸前司

が三人張りに十二束三伏(みつぶせ)を暫し狙いを定めてから丁と放った。その矢は過たずに田中の

右の頬前を兜の菱縫いの板にかけて箆中(のなか)ばかりを射通したのだ。急所の痛手に弱って、さ

しもの大力ではあるが目が眩んで先には進めない。

 舎弟の弥九郎が走り寄り、その矢を抜いて打ち捨て、君(後醍醐天皇)の御敵は六波羅である。兄

の敵は御辺であるよ。余すまじ(皆殺しにするぞ)と言うままに兄の金棒を押っ取って振って懸れば

頓宮父子はそれぞれに五尺二寸の太刀を引き側(そば)めて、小躍りして続いたのだ。





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最終更新日  2026年04月17日 10時29分19秒
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