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草加の爺(じじ)

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2026年04月23日
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千種(ちくさ)殿は小嶋に言い恥しめられて、しばしは峰の堂に居られたのだが、もしかすると敵が

夜討ちを懸けて来るやもしれない、と言った言葉に驚かれて、益々臆病心が募ったのか、夜半過ぎ

頃に宮(第四宮聖護院静尊)を御馬に乗せ奉りて葉室の前を筋違い(斜め)に、八幡を指してぞ落ちら

れける。

 備後(びんごの)三郎はこのような事とは思いも寄らずに、夜深方に峯の堂を見遣れば、星の如く

に見えていた篝火が次第に數消えて、所々に焼き捨てている。

 これは、哀れ、大将が落ちさせ給いぬるかと怪しんで、事の様を見る為に葉室大路から峯の堂に

上がる所に、荻野彦六朝忠と淨住寺の前で行き遇って、大将は既に昨夜の子の刻(午前零時)に落ち

させ給う間、力なく我らも丹波の方へと志して罷り下り候。いざ、御伴し御一緒致しましょう。



さりながらも直接に事の様を見なくては後難もあるであろう。早、お通り候え。高徳はなにさま峯

の堂に上って、宮の御迹を見奉り、追いつき奉るであろう。と言って、手の者をば麓に留めてただ

独りで落ちて行く兵を掻き分け、掻き分けして、峰の堂にぞ上ったのだ。

 大将がおわした本堂に入って見れば、よきもまあ、慌てて落ちたりと見えて、錦の御旗、鎧下

垂れまでもが捨てられてある。


 備後三郎は腹を立てて、哀れ、この大将は如何なる堀、崖にでも落ちて死んでしまうがよい。

と、独り言して、暫くは堂の縁に歯嚙みをして立っていたが、今は、さこそ手の者共も待ちかねて

いるだろう、と思ったので、錦の御旗だけを捲いて下人の持たせ、急ぎ淨住寺の前に走り下り、手

の者打ち連れてうまを速めたので、追分の宿の辺りで荻野彦六に追いついた。

 荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ちける勢が、篠村・稗田(ひえだ)辺に打ち集まって三千余

騎がいたのを相伴い、路次の野伏共を追い払って、丹波の国高山寺(こうせんじ)の城にぞ立てこも



        谷の堂 炎上の事 京中の軍勢が谷堂に 火を放つ

 千種頭中将は西山の陣を落ち給うと聞こえたので、翌日の四月九日、京中の軍勢が谷の堂・峯の

堂以下(いげ)、浄住寺・松の尾・萬石大慈(まんこくおおち)・葉室・衣笠に乱入して仏閣・神殿を

打ちこわし、僧坊民屋を追補(ついふ、取り上げ占領する事、没収)し、財宝を悉く運び取った後で

在家に火をかけたので、時節に魔風が烈しく吹いて、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じ



の煙となって立ち上った。

             谷堂(たにのどう) の 縁起

 かの谷堂と申すのは、八幡殿(八幡太郎義家。義家は七歳で石清水八幡宮で元服したので八幡太

郎と言う。安倍貞任等が武威に感じて八幡太郎と名付けた)の嫡男對馬の守義親(よしちか)の嫡

孫、延朗上人造立(ぞうりゅう)の霊地である。

 この上人は幼稚の昔から武略累代の家を離れて、偏に寂寞無人(物淋しくひとの居らない室を占

める事。俗塵を脱して仏門に入った事)の室を卜し給いし後に、戒定慧(禁慧・罪悪防止の戒め、

禅定・静かに一心に考える事)、智慧の三學を兼備して、六根清浄の功徳を得給いしかば、法華読

誦の窓の前には松尾の明神が列座して耳を傾け、真言秘密の扉(とぼそ)の中には、総角(そうか

く、幼童の髪の形)の護法(護法童子のことで、仏法守護の為に使役させられる童子姿の鬼神)が手

を束(つか)ねて奉仕(ぶし)し給う。

 かかる有智高行の上人(しょうにん、知徳を具備して、専念仏道を修する僧の尊称)草創sられ

た砌であるから、五百余歳の星霜を経て末世澆漓(澆薄、世が末になって道徳が衰え、人情が浮薄

となること)の今に至るまで智水の流れが清く、法灯は光明である。

 三間四面(さんげんしめん)の輪藏(自在に旋転するように作られた一切経を蔵する庫)には転法

輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られた。

 奇樹怪石の池上には都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並べている。十二の欄干珠玉を天に

捧げて五重の塔婆は金銀月を引く。恰も、極楽浄土の七寶荘厳の有様も、かくやと覚えるばかりで

ある。

           淨住寺 の 縁起

 又、淨住寺と申すのは、戒法流布の地、律宗作業の砌(みぎり、場所)である。

 釈尊が入寂の刻(きざ)み、金棺をまだ閉じない時に、捷疾鬼と言う鬼神が密かに雙林の下に近づ

いて御牙(犬歯)を一つ引き欠いて、これを取った。

 四集の仏弟子は驚き見て、これを留めようとし給いけるが、片時の間に四万由旬を飛び越えて、

須弥の半(なかば)四王天に逃げ上った。

 韋駄天が追い攻め、奪い取ってこれを得、その後に漢土の道宣律師に与えられた。

 そうしてから相承して我が朝に渡ったが、嵯峨天皇の御宇に始めてこの寺に安置し奉らる。大い

なるかな大聖世尊滅後の二千三百余年の以後、仏肉(仏の神体、仏経が行われたのを言ったもの)

猶留まりて、広く天下に流布する事あまねし。

          武家滅亡の 前表

 かかる異瑞奇特の大伽藍を咎なくして亡ぼしたのは、偏に武運の尽きるべき前表であるよと、

人々は皆唇を翻したのだが、果たして幾程もあらずして、六波羅は皆番馬(ばんば、滋賀県の一駅)

にて滅び、一類は悉く鎌倉にて失せぬる事ことそ不思議であるよ。

 積悪の家には必ず餘殃(様々な禍)が有る、とはかようの事を申すのだと思わぬ人は無かったのだ



            巻 第 九
          足利殿 御上洛の事
           高塒 名越尾張守 以下 軍勢を催した

 先朝は船上の御座ありて、討っ手を差し上らさせ、京都を攻められる由、六波羅の早馬が頻りに

打って、事は既に難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道は大いに驚いて、さらば重ねて大

勢を差し上させて、半ばは京都を警護し、宗徒は船上を責めるべしとの評定があって、名越尾張守

を大将として外様の大名の二十人を催したのだ。





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最終更新日  2026年04月23日 19時09分51秒
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