草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月24日
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高塒 足利尊氏の上洛を 促す          

          尊氏は妻 及び子息を質として           
         起請文を奉る 高塒は喜悦して 尊氏を餞(はなむけ)す

 その中に、足利治部大輔高氏は所労(病気)の事があって、起居がいまだ快からざるに、又上洛の

その数に入って、催促が度々に及んだ。 足利殿はこの事に依って心中で憤り思ったのは、我は父

の喪に居て三月を過ぎていないのに、悲嘆の涙がいまだに乾かず、又病気が身を侵して負薪(ふし

ん、自分の病気を謙遜して言う語。薪・たきぎを負う事も出来ない心配)の愁いが未だ止まない所

に、征伐の役に随えとの催促があるのは遺恨である。 時移り、事が変じて、貴賤が位を変えると

言えども、彼は北條四郎時政の末孫(ばっそん)である。人臣の身に下ってから年が久しい。吾は源



家からは十代目)を出でて遠くはない。この理を知るならば一度は君臣の儀を存ずるべきであるの

に、これまでの沙汰に及ぶのは、偏(ひとえ)に身の不肖に依る故である。所詮、重ねて上洛の催促

を加えるよりは一家を尽くして上洛し、先帝の味方に参って六波羅を責め落し、家の安否を定める

べきであろう。と、心中に思い立たれたのだが、日とは更に知ることはなかった。 相模入道はこ

の様な事とは思い寄らずに、工藤左衛門の尉を使にたてて、御上洛の延引は心得られず、と一日に

二度も責められた。 足利殿は反逆の企てを既に心中に思い定められていたので、却って異議を申

さず、不日(すじつ、日ならず、近日)に上洛仕り候、と返答せられた。 則ち、夜を日に継いで

打ち立て(出発)られけるは、御一族・郎従は申すに及ばず、女性・幼稚の君達までも残さずに皆上

洛あるべしと聞こえければ、長崎入道圓喜が怪しく思って、急ぎ相模入道の所に参って申したの

は、誠にて候やらん、足利殿こそ、御台、君達まで皆引き具し参らせて、御上洛なされましたぞ。

事の體怪しく存知候。斯様の時には御一門の疎かならぬ(近親者)にも御心を置かれ候べし。況や、



るまで、世が乱れたる時には覇王が諸侯を集めて牲(牲)を殺して血を啜り、二心がない事を盟(ち

か)う。今の世の起請文がそれである。 或いは、その子を質に出し、野心の疑いを散ずる。木曾

殿(義仲、源義賢の子)の御子(おんこ)、清水冠者を大将殿の方に出だされた。 斯様の例を存知候

にも、如何様、足利殿の御子息と御台とを鎌倉に留め置かれて、一紙の起請文を書かせ参らせられ

るべしとこそ存知候、と申した所、相模入道はげにもとや思われたのか、やがて使者を以て申し遣



皆鎌倉に留め置かれ参らせ候べし。次に、両家の體は一つであり、水魚の思いをなされ候上、赤橋

相州(平氏、名は守時。越後の守久時の子、北條時政七代目の子孫。妹の登子が尊氏に嫁したので

尊氏の義兄に当たる)ご縁に成り候。かれこれと何の不審もないけれども、諸人の疑いを散ぜん為

にであるので、恐れながら一紙の誓言を留め置かれ候わんこと、公私につきてしかるべしと存じ

候、とおおせた所、足利殿は鬱胸(うっきょう、心中の不快)が益々深くなったのだが、憤りを抑え

て気色にも出だされず、これから御返事を申し上げるでありましょう、と使者を御帰しなされた。 

その後に、舎弟兵部大輔殿を呼び参らせて、この事は如何あるべきであろうか、と意見を問うたと

ころ、暫く案じてから申されたのは、今この一大事を思し召し立たれて事は、全く、御身の為では

ありません。ただ天に代わって無道を誅し、君の御為に不義を退かんとする。その上、誓言は神も

受けずとこそ申し習わしてこそ候。譬え偽って起請の言葉を載せられ候とも、仏神がどうして忠烈

の志を守らせ給わざらん。就中(なかんずく)、御子息と御台所とを鎌倉に留め置き候事は大儀の中

の小事であり、あながちに御心を煩わされるには及ばないでありましょう。君達はまだ御幼稚であ

られるので、自然の事(万一の時)がある場合には、その為に少々残し置かれる郎従共が、いずかた

へ也と抱きかかえて隠し候わん。御台の御事は、又、赤橋殿とてもおわし候故に、何のお労しきこ

とが候べし。 大行は細勤を顧みず(大事業を成そうとする者は、細かい慎みには頓着しない)と

こそ申します。

 これ等ほどの小事に猶予あるべきにあらず。兎も角も、相模入道の申すままに随って、その不振

を散ぜしめ、御上洛候て後に、大儀の御計略を廻らされるべく候とこそ存じ候。と申されければ、

足利殿はこの道理に服して、御子息の千壽王殿と御台所赤松相州の御妹とをば鎌倉に留め置き奉り

て一紙の起請文を書いて相模入道に遣わされた。

 相模入道はこれに不審を散じて喜悦の思いをなし、高氏を招請あって、様々に賞翫(褒めそやす)

どもありけるが、御先祖累代の白旗がある。これは八幡殿より代々の家督に伝えられて執せられる

重宝で候が、故頼朝卿の後室(身分の高い家の未亡人)、二位の禅尼が相伝して当家に今まで所持候

ものである。

 希代の重寶であるとは申せ、他家に於いては詮無きものであるよ。これを今度の饌送(はなむけ)

に進ぜ候。この旗をささせて凶徒を急ぎ御退治候え。とて、錦の袋に入れながら、自らこれを贈呈

したのだ。その外に乗り換えの御為だと言って飼育していた馬に白い鞍を置いて、十匹、白輻輪の

鎧を十領、金作(こがねつくり)の太刀一つ副えて引き出物として贈られた。

           尊氏 の 出発

 足利殿の御兄弟・吉良・上杉・仁木(にっき)・細川・今河・荒河、以下一族三十二人、高家(こ

うけ、家柄の良い者、名族)の一類四十三人、都合その勢は三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌

倉を立ち、大手(城の表門)の大将と定められて、名越尾張守高家に三日先だって、四月十六日に

京都に着き給う。

       山崎攻め の 事 付 久我畷(なわて、田の間の径、あぜ道)
          合戦の事  京都の武家方は 援軍が来たのを 悦ぶ

 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝ったので、西国の敵は恐れるに足らないと侮りながらも、宗徒

の勇士と頼まれた結城九郎左衛門尉、敵になって山崎の勢に加わった。

 その外に、国々の勢共が五騎、十騎と或いは転送に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀って敵

に属したので、宮方は負けても勢は益々重なって、武家は勝っても兵は日々に減じた。

 かくては如何にあるべきと、世を危ぶむ人が多かったところに、足利・名越の両勢がまた雲霞の

如くに上洛したので、いつしか人の心が入れ替わって、今は何事かあるべきと色(顔色)を直して勇

み合ったのだ。





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最終更新日  2026年04月24日 16時28分57秒
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