草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

×

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2026年04月28日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
尊氏 密使を船上山に遣わし
          朝敵追討の 綸旨を 賜る

 かかる所に、足利殿は京着の翌日から伯耆の船上に密かに密使を参らせて、味方に参るべき由を

申されたので、君は殊に叡感有りて、諸国の官軍を相催して朝敵を追討すべき由の綸旨をぞ成し下

されける。

 両六波羅も名越(なごや)尾張守も足利殿にかかる企てがあるとは思いも寄るべき事ではないか

ら、日々に参会して、八幡・山崎を責められるべき内談評定で一々に真底を残さずに尽くされける

こそ儚い事であった。

 大行の路はよく車を砕き、もしも人の心に比すれば平らかなる道である。巫夾の水はよく舟を覆



を以て有名な山の名。河南・山西二省の堺を南北に縦走する。大行の山は路が険難でよく旅人の車

を砕くと言うけれども、もし人心の険難なのに比べれば平坦な道である。巫夾揚子江の上流である

三峡の一つ。水流が迅急で往々舟を覆すと言うが、人心の険難さに比すれば、まだしも安流と言う

べきである。人の愛憎の心は常に変じて定まらない。人心の険を山川の険に比した物)

 そうは言うけれども、足利殿は代々相州(そうしゅう、相模入道高塒)の恩を戴き、徳を担う(御

蔭を蒙)って一家の繁昌は恐らくは天下の人は肩を並べるべくもなかった。

 その上に、赤橋前相模守の縁になって君達が数多くい出来給いぬれば、この人はよも二心は持た

ないだろうと、相模入道はひたすらに頼みにしたのも道理である。

         武家方 と 官軍 との部署

 四月に十七日には八幡・山崎の合戦とかねてより定められて、名越尾張守が大手の大将として七

千六百余騎を鳥羽の作道から向かわせられ、足利治部大輔高氏は搦手の大将として五千余騎、西岡



 八幡・山崎の官軍がこれを聞いて、されば難所に出で合って不慮(不意)に戦いを決せしめよと、

千種頭中将忠顯朝臣は、五百余騎で大渡の橋を打ち渡り赤井河原に控えられた。

 結城九郎左衛門尉光近は三百余騎で狐河の辺に向った。

 赤松入道圓心は三千余騎で淀・古河・久我畷の南北三か所に陣を張った。これ皆、強敵を取り拉

ぐ氣が天を廻らし、地を傾けると言うとも、機を解き(心の働きを緩め)勢いを呑まれようとも、



 足利殿は、兼ねて内通の仔細ありけれども、もしや謀りやし給う覧と、坊門の少将雅忠朝臣は寺

戸と西岡の野伏共五六百人を狩り催して岩蔵辺りに向われた。

       名越尾張守 の 武装 人目を眩ず

 さる程に、搦手の大将足利殿は、未明に京都を立ちなされたとの披露(知らせ)があったので、大

手の大将名越尾張守は、さては早や、人に先を駆けられた。と、不安に思い、さしも深い久我畷の

馬の足も立たない泥土の中に、馬を打ち入れて、我先にとぞ進みける。尾張守は元より気早の若武

者であるから今度の合戦、人の耳目を驚かすようにして名を揚げようものをと、兼ねてありましの

事であるからその日の馬・物の具・笠符に至るまで辺りを輝かして、立ち出でた。

 花緞子の濃い紅に染めた鎧直垂れに、紫糸の鎧金物を繁く打ったものを隙間もなく着下して、白

星の五枚甲の吹き返しに、日光・月光のに天子を金と銀とにて彫透かし打ったものを猪頸に着成

し、当家累代重宝に鬼丸と言う金造りの丸鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を佩き添えて、高うすべの

尾の矢三十六指したのを筈高に負成(おいな)し、黄瓦毛(黄色がちの河原毛・白馬で鬣が黒いもの)

の馬の太く逞しいのに三本唐笠を金具・蒔絵に張り付ける金・銀・銅・鈴などの薄片で黒い漆地に

磨き出したもの の鞍を置いて、厚房の革に秋(しりがい・馬の尾から鞍にかける組緒)の燃え立

つばかりの物を懸けて、朝日の影に輝かして光渡って見えるのがややもすれば軍勢より先に立って

進み出て、辺りを払って(威勢が立派な事)懸けられければ(馬を駆け進める)、馬・物の具の體

軍立ちの様、今日の大手の大将はこれであろうと知らぬ敵は射なかった。

 されば敵も自余の葉武者(はむしゃ、詰まらぬ武士)共にはめもかけずに、ここに開き合わせ、

かしこに攻め合って是一人を討とうとしたけれども、鎧がよいので裏をかかする(裏まで射抜かさ

せる)矢もない。

 打ち物達者(刀槍の名人)であるから近づく敵を切って落とす。その勢いが参然(さんぜん、群

がりたつさま、盛んな様)たるに辟易して(恐れ退いて)官軍の数万の士卒は既に開き靡びいたと

見えた。

         佐用範家 尾張守を 射殺する
           官軍の 勝利

 ここに赤松の一族に佐用(さよ)左衛門三郎範家(のりいえ)とて強弓(つよゆみ)で矢継ぎ早で、野

伏し軍(山野に潜伏して落ち武者を襲う軍)に心が利いて(気が利いて)卓宣公が秘した所をわが物と

体得した兵がいた。

 態と物の具を脱いで、徒歩立ちの射手となり、畔(くろ)を伝い藪をくぐってとある畔の蔭に隠れ

臥して大将に近づき、一矢を狙らわんとぞ待ったりける。

 尾張守は三方の敵を追いまくり、鬼丸に付いた血を笠符で押し拭い、扇を開き使って思う事もな

げに控えている所を、範家が近ぢかと狙い寄って、引き詰めて丁と射た。

 その矢は思う矢坪を違えずに尾張守の冑の真甲の外れ眉間の真ん中に当たって、脳を砕き骨を破

って頸の骨のはずれに矢先が白く射出した。さしもの猛将ではあるが、この矢の一隻に弱って馬か

ら真っ逆さまにどうと落ちた。

 範家は胡籙(えびら、矢を盛って背負う道具)を叩いて矢呼び(矢を物に射当てた時に、その射

手が上げる叫び声)をなし、寄せ手の大将名越尾張守を範家がただ一矢で射殺したるぞ、続けや、

人々と呼ばわりければ、引き色(負け色、逃げ色)になっていた官軍共はこれで機を直し、三方か

ら勝鬨を作って攻め合わせた。

 尾張守の郎従七千余騎、師泥(秩序なく乱れた様)になって引いたのだが、或いは大将を打たせて

何処にか帰るべきと引き返して、討ち死にするもあり、或いは深田に馬を馳せ込んでしまい叶わず

に自害するもあり。

 されば、狐河の端から鳥羽の今在家町まで、その道五十余町が間に死人が尺地も無く臥したの

だ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026年04月28日 09時59分08秒
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: