草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年05月01日
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天皇の御悲嘆、 日吉 賀茂両社の             
             祭礼の 停止 

 それ、天子は四海を以て家となす、と言えり。その上、六波羅も都近い所なので、東洛渭川(鴨

川)の行宮(あんきゅう)ではそれほどには御心を傷ましめられることではないのだが、この君御治

天の後天下は遂に穏やかではなくて、あまつさえ百寮(あらゆる役所)は忽ちに外都の塵に交わりぬ

れば、これ偏に帝徳が天に背きぬる故であると、罪は一人に帰して主上は殊に歎き思召されて常は

五更(午前四時。初更は午後八時、二時間ずつ距てて二更・三更・四更・五更と言う)の天に至るま

で夜のおとど(夜の御殿、御寝所)にも入らせならずに、元老(年齢・官位の高い国家の功臣)智化

(ちか、極めて智恵の働きがある)賢臣共を召されて、ただ堯舜(中国古昔の聖天子唐堯と虞舜)湯武



聞き召されない。 卯月の十六日は中の申(さる、陰暦四月の中で二番目の申の日に当たる日)で

あるが日吉の祭礼も無く、国の御神(天孫降臨以前にこの国土に土着して一地方を治めた神)も浦

さびて(心淋しく感じる)、御贄の錦鱗は徒に湖水の浪に撥辣(はつらつ、魚が元気よく飛び跳ねる

様)たり。 

 十七日は中の酉であるが、賀茂の御生所(みあれ、ここは葵祭)もなければ、一条大路に人が清み

て(しずま)り車を爭う所もない。銀面(唐鞍を飾る時に馬の面に飾る物)には空しく塵が積もって、

雲珠(うんじゅ、普通にはウズと読み、唐鞍の尻がいの組違いに付ける宝珠の形をした飾り物を言

う。葵祭りが行われないのでその時に使われる唐鞍なども使われずに塵に塗れている)は光を失っ

ている。 祭は豊年にも増せず、凶年にも減ぜず、とこそ言って開闢以来闕如なく、両社の祭礼も

この時に初めて絶えたので、神慮もいかがかと測り難く、恐れあるべき事共ではある。          

官軍が 京都に 寄せようとする          



 さて、官軍は五月七日に京の中に寄せて、合戦有るべしと定められければ、篠村・八幡・山崎の

先陣の勢、宵から陣を取り寄せて、西は梅津・桂の里、南は竹田・伏見に篝を焼き、山陽・山陰の

両道は既にかくの如くになった。 又、若狭路を経て高山寺(こうせんじ)の勢共が鞍馬路・高雄か

ら寄せるとも聞こえた。

 今は僅かに東山道(とうせんどう)だけが開けていたが、山門は矢張り野心を含んでいる最中であ



に至る要路に当たる)をも指し塞いだ様子である。

 籠の中の鳥、網代の魚のようであり、漏れ出る方もないので、六波羅の兵共は上には勇める気色

ではあるが、心は下に仰天している。

 かの雲南万里(ヴェトナムの北に位置する高原)の軍(いくさ)では、各家に三丁(ちょう、壮年の

男)があれば一人を選抜して兵としたと伝えている。

 況やまた、千葉屋程の小城一つを攻めんとして諸国の軍勢が数を尽くして、向かわれたれどもそ

の城は未だに落ちず、先に禍が既に蕭牆(しょうしょう、垣の内)から出ている。

 義旗は忽ちに長安の西に近づいた。防がんとするに勢は少なくして、救わんとしても道は塞がれ

ている。哀れ、兼ねてよりこうあるべしと知りたるならば、京中のへいをこうまでも間引かなかっ

たであろうにと、両六波羅を始めとして後悔するのだが、甲斐はないのだ。

         六波羅の舘を中心にして 城郭を築いた
         太平記著者の 批評

 かねがね、六波羅で議していたのは、今度、諸方の敵が牒(ちょう)じ合わせて大勢にて寄せるな

らば、平場での合戦だけでは叶わないだろう。要害を構えて、時々に馬の足を休めて兵の機を扶け

敵が近づけば駆け出で駆け出でして戦うべしとて、六波羅の舘を中に込めて、河原面の七八町に堀

を深く掘り、賀茂川を掛け入れたならば昆明池の春の水、西日を沈めて奫淪(いんりん、暗く沈ん

でいる)足るに異ならず。

 残りの三方には、芝築地を高く築いて、櫓を掻き並べ逆茂木を繁く引いたので、城塩州(白氏文

集に載っている)。受降城(敵の降参を受ける城の意であるが、実は防御のための城である)もこの

ようであったかと覚えて夥しい。

 誠に城の構えは謀があるのに似ているが、智は長じたのではない。剱閣は山に尞(さかん)なりと

言えどもこれに憑(よ)る者は蹶(つまず)く。非所以深根固草冠に帶也(ねをふかくしほぞをかため

るゆえんにあらず)。洞庭雖浚負盧者北(どうていはふかしといえどもこれをたのむものはにぐ)、

非所以愛人治國也(ひとをあいしくにをおさめるゆえんにあらざるなり)とかや。

 今は既に天下が二つに分かれて、安危をこの一擧に懸けたる合戦であるから、米に良(かて)捨て

舟を沈める謀をこそ致すべきであるのに、今日からはやがて後ろ足を踏んで僅かの小城に立て籠ろ

うと兼ねて心を使っている武略の程こそは、悲しける。

         尊氏 願書を篠村の八幡宮に 籠められる事
          尊氏は大軍を率して 篠村を出立つ
         林の中に八幡宮の祠を見て 匹壇妙玄をして
         願文を書かせ これを奉った

 さる程に、明ければ五月七日の寅の刻(午前四時)に足利治部大輔高氏朝臣は二万三千余騎を率

(そつ)して篠村の宿を出発し給う。

 夜がまだ深かったので、閑(しずか)に馬を打って、東西を見給う所に、篠村のやどの南に当たっ

て陰森(いんしん)たる故柳疎槐(こりゅうそかい、古木の柳、古木で枝が透き幹があらわなえんじ

ゅの木)の下に社壇が有ると覚える。焼き荒んでいる燎(にわび)の影がほのかであり、禰宜が袖を

振る鈴の音が幽かに聞こえて神さびている。

 如何なる社であるとは分からないが、戦場に赴く門出であるからとて馬から下りて甲を脱ぎ、叢

祠(そうし、神を祠る小さなやしろ)の前に跪(ひざまづ)いて今日の合戦事故なく朝敵を退治する

擁護の力を加え給え、と祈誓を凝らしてぞ坐(おわ」します。

 その際に帰って来た巫(かんなぎ)に、この社は如何なる神を崇め奉るのかと、問いなされたとこ

ろ、是は中頃に八幡(八幡宮の祭伸、主として応神天皇を祭る。弓矢の神)を遷し参らせてより以

来、篠村の新八幡と申し候也、とぞ答え申したのだ。





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最終更新日  2026年05月01日 16時47分32秒
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