草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2026年05月26日
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諸国の早馬 急を鎌倉に告げた
          金澤貞将、桜田貞国、大軍を率して 發向する

 この様な次第であるので、国々の早馬(急使)が鎌倉に打ち重なって急を告げる事はj櫛の歯を引

くが如し(物事が頻繁で引き続いて絶えないのに言う)。

 これを聞いて、時の変化をも計らない者は、あな、事々し、(ああ、仰山な事であるよ」何程の

事が起こったのと言うのだ。唐土・天竺から寄せ来るならばげにも眞(まこと)しかるべし。我が朝

秋津嶋の内から出て、鎌倉殿を亡ぼさんとすることは、蟷螂が車を遮り(カマキリが車に歯向かう

事。自分の微弱な力量を知らずに強敵に反抗する譬え)、精衛が海を埋めようとした(不可能な事

を企てて遂に徒労に帰する譬え。精衛は中国の想像上の鳥で、夏を掌る炎帝の女が東海に溺れ、化



いを罵り合ったのだ。

 物の心を弁えて人は、すはや、大事が出来したわい。西国・畿内での合戦がいまだに静まっては

いないのに、大敵が又藩籬の中から起こったのだ。是は、伍子胥(ごししょ)が呉王夫差を諫めて

、晋は瘡痏(そうゐ、傷跡)であり、越は腹心の病(腹又は心に有る疾患。他日に患・うれいが

あるだろうの意)であると言ったのに異ならないと、恐れあった。

 さる程に、京都へ討っ手を差し向ける事をば差し置いて、新田殿退治の沙汰ばかりである。

 同(おなじ)く九日に軍の評定があって、翌日の巳(み)の刻(午前十時)に金澤武蔵守貞将(さだま

さ)に五万余騎を差し添えて下河辺(しもこうべ、千葉県野田市付近か、古く利根川の東岸一帯を言

う)に下されなされた。

 これは先ず、上総・下総の勢を付けて敵の後攻めをせよとの命令であった。

 一方には、櫻田治部大輔貞国を大将として、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治(かじ)二郎左



と武蔵の府中を連ねて相模・武蔵を貫く道)より入間河(いるまがわ)に向けられた。

 これは水澤を前に当てて、敵の渡さんとする所を討てと言うのだ。承久より以来、東風は閑(い

ずか)であり人は皆弓矢をも忘れたる如くであるのを、今始めて干戈(かんか、楯と桙)を動かす珍

しさに兵共は事々しくこれを晴れとして、出で立ったので馬・物の具・太刀・刀・皆照り輝くばか

りであり、由々しき見物(みもの)であるのだ。


            義貞の 勝利

 路地(ろし、途中)にて両日逗留があって、同十一日の辰の刻(午前八時)に武蔵の国小手差(久米

川と入間川との間の平野を言う。埼玉県所沢の東部)に打ち臨みなされた。

 ここにて遥かに源氏の陣を見渡せば、その勢は雲霞の如くにして、幾千万共とも、言うべき数を

知らず。櫻田・長崎がこれを見て、案に相違やしたのであろうか、馬を控えて進み得ず。

 義貞は忽ちに入間河を打ち渡って、先ず鬨の声を挙げ、陣を進め、はや矢合わせの鏑をぞ射せら

れた。

 平家も鯨波(ときのこえ)を合わせて、旗を進めて懸ったのだ。

 初めは射手を揃えて散々に矢軍を仕掛けていたが、前は究竟の(極めて優れた)馬の足立てであ

る。何れもが東国育ちの武士共であるから、いかでか少しも堪るべき、大刀・長刀の鋒(きっさき)

を揃え、馬の轡(くつわ)を並べて切って入った。

 二百騎・三百騎・千騎・二千騎を添えて相戦う事三十余度になったので、義貞の兵の三百余騎が

討たれて、鎌倉勢は五百余騎が討ち死にして日が既に暮れたので、人馬共に疲れたのであった。

 軍は明日だと約諾して、義貞は三里引き退いて、入間河に陣を取った。

 鎌倉勢も三里引き退いて、久米河に陣を取った。両陣が相去るその間を見渡せば三十余町に足ら

ない。何れもが今日の合戦の物語をして、人馬の息を継がせ、両陣共に篝を焚いて明けるのが遅い

と待っている。

 夜が既にあけたしまったので、源氏は平氏に先を取られまいと馬の足を進めて、久米河の陣へと

押し寄せたのだ。

 平家の方も、夜が明けたのであれば定めし源氏が寄せて来るであろう、待ちて戦えば利が有るだ

ろうと、馬の腹帯を固めて、甲の緒を締め、相待つとぞ見えた。

 両陣が互いに相寄せて、六万余騎の兵を一手に合わせて、陽に開いて(外に現れて積極的に)中に

取り籠めようと勇む。

 義貞の兵はこれを見て、陰に閉じて中を破られまいと構えた。

 これこそは、黄石公(おうせきこう、漢の張良に兵法を授けたと言う老人)の虎を縛するの手法

である。張子房(ちょうしぼう、張良は字を子房と言う。漢の高祖の謀臣である。189年の没)

が鬼をとり拉ぐ術である。いずれも皆存知の道であるから、両陣共に入り乱れて、破られず、囲ま

れず、ただ百戦の命を限りにして、一挙に死を爭ったのだ。

 されば、千騎が一騎となるまでも互いに引くまいと戦ったけれども、時の運によったのか源氏は

僅かに討たれて平氏は多く滅びたので、加治(かじ)・長崎は二度の合戦に打ち負けたる心地がし

て、分陪(ぶんばい、東京都府中市府中字分梅・ぶんばい。多摩河畔の平野を言うので、分陪河原

とも言う。南は水流を隔てて南多摩郡多摩村関戸に対する)を指して引き退いた。

 源氏は猶も続いて寄せようとしたが、連日数度の戦いで人馬があまた疲れたりければ、一夜馬の

足を休めて久米河に陣を取り寄せて、明くる日をこそ待ったのだ。

          高塒は 重ねて大軍を送り 義貞を討つ
          分陪河原の合戦 義貞 敗れる

 さる程に、櫻田治部大輔貞國・加治(かじ)・長崎等は十二日の軍に打ち負けて、引き退いた由を

鎌倉に聞こえたので、相模入道は舎弟の四郎左近大夫入道恵性(えしょう)を大将軍にして塩田陸奥

入道・安保(あぶ)左衛門入道・城(じょう)越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門

尉高塒・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差し副えて重ねて十万

余騎を下された。

 その勢は十五日の夜半ばかりに分陪に着いたので、当陣の敗軍が又力を得て、勇み進まんとす

る。

 義貞は敵に荒手の大勢が加わったとは思いも寄らずに、十五日の夜未明に分陪に押し寄せて鬨を

作った。





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最終更新日  2026年05月26日 19時06分18秒
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