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草加の爺(じじ)

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2026年05月28日
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鎌倉勢は先ず究竟の射手を三千人をすぐって面に進め、雨が降る如くに散々に射させける間、源氏

は射立てられて駈け得ず。

 平氏はこれに利を得て、義貞の勢を取り籠め余さずとこそ責めたのだ。

 新田義貞は逞兵を引きすぐって敵の大勢を駆け破っては裏に通り、取りて返しては喚いて懸け入

り、電光が激するが如くに蜘手(くもで、蜘蛛の足のように交叉した状態)・輪違い(二つの輪は

行き違いになって半ば重なった状態)に七八度が程は当たったのだ。

 されども大敵は面も荒手であり、先度の恥を雪(きよ)めようと、義を専らにして闘いける間、義

貞は遂に打ち負けて堀金(ほりかね、埼玉県狭山市。当時は武蔵の国から上野国に抜ける通路に当

たっていたらしい)を指して引き退いた。



此処にて討たれ給いべかりしを、今は敵何程の事か有るべき、新田をば定めて武蔵・上野の者共が

打ちて出でさんずらんと大様に恃んで時を遷した。

 これぞ平家の運命が尽きてしまった所の印(前兆)なのだ。

          三浦大多和(おほたわ・おほと) 合戦
          意見の事  三浦義勝、義貞を援ける
          義貞は 義勝に合戦の 意見を問う
           義勝 分陪河原に迫る

 かかりし程に、義貞も詮方なく思召す所に、三浦大多和(三浦氏の一族は和田・大多和・佐原を

称する)平六左衛門義勝は、兼ねてより義貞に志がありしかば、相模の国の勢、松田・河村・土肥

(とひ)・土屋・本間・渋谷を具足して、以上その勢六千余騎、十五日の晩景に義貞の陣に馳せ参っ

た。



 平六左衛門が畏まって申されたのは、今、天下は二つに分かれて互いに安否を合戦の勝負に懸け

たる事にて候えば、その雌雄は十度も二十度もなどかはなくて候べき。但し、始終の落居(事の落

着)は天命の帰する所にて候故に、遂に太平を致される事は何の疑いも無い所に候。

 御勢に義勝のの勢を併せて戦うならば、十万余騎、これでも猶敵の勢に及ばず候と言うのだが、



る兵を以て大敵が勇み誇りたるに懸らん事は如何であろう、と宣いけるを、義勝が重ねて申しける

のは、今日の軍には治定(じじょう、必定、決まって)勝つべき謂われが候。

 その故は、昔秦と楚が国を爭った時に、楚の将軍の武信君は僅かに八万余騎の勢を以て、秦の将

軍李由(りゆう)の八十萬騎の勢に打ち勝ち、首を斬る事四十余萬である。

 これより武信君は心驕りして軍懈りして秦の兵を恐れるに足らずと思った。

 楚の副将軍に宋義(そうぎ)と言う兵がこれを見て、戦いに勝て将が驕り卒が惰(おこた)る時は必

ず敗れると言う。武信君は今かくの如し。滅びないとすれば何をか待たん、と申しけるが、果たし

て後の軍に武信君は秦の左将軍に章邯(しょうかん)の為に討たれて忽ちに一戦で滅びてしまった。

 義勝は昨日、潜に人を遣わして敵の陣を見させたところ、その将が驕っている様は武信君に異な

らない。これは則ち宋義が言ったことに相違していない。所詮、明日の御合戦には義勝は荒手で候

えば一方の前陣となって、敵を一当て当ててみ候わん。と、申しければ、義貞は誠に心に服して、

宜しきに随い、則ち今度の軍の成敗を三浦平六左衛門にぞ許されたのだった。

 明くれば五月十六日の寅の刻(午前四時)に、三浦は四萬余騎の真っ先に進んで分陪河原に押し寄

せたのだ。敵の陣近くなるまで態と旗の手をも降ろさずに、鬨の声も挙げなかった。これは敵を出

し抜いて手攻め(敵陣に詰め寄ること。猶予なく詰め寄る)の勝負を決せん為である。

 案の如くに敵は前日の戦いで人馬共に皆疲れている。その上に、今敵が寄せて来るとも思いもか

けないので、馬に鞍をも置かず、物の具をも取り揃えていない。或いは遊君(遊女)と枕を並べて帯

紐を解いて臥している者もある。或いは酒宴に酔って催されて前後を知らずに寝ている者もある。

ただ一業所感(前世でなした一作業が現世である結果を感起するのを言う)の者共が自滅を招いく

のに異ならない。

 ここに寄せ手が相近づくのを見て、河原面(多摩川の河原に面した所)に陣を取ったる者、ただ

今、面(おもて)から旗を捲き、大勢が閑に馬を打って来るので、もしや敵ではないだろうか。御用

心候え。と、告げたので、大将を始めとして、さることあり、三浦大多和が相模の国勢を催して、

味方に馳せ参ずると聞こえ敷かば、一定参りたりと覚えたり。かかる目出度き事こそなかりける、

とて驚く者は一人もいない。ただ、とにもかくにも運命が尽きてしまったのは浅ましい事である

よ。

           義貞の対戦 鎌倉勢は 大敗する
            長崎高重の 武勇

 さる程に義貞は、三浦の先駆けに追いすがって、十萬余騎を三手に分けて、三方から押し寄せ

て同じく鬨を作ったのだ。

 恵性(泰家の法名)は鬨の声に驚いて、馬よ、物の具よ、と慌て騒ぐ所に、義貞・義助の兵が縦横

無尽に懸けて立った。

 三浦平六はこれに力を得て、江戸・豊嶋(としま)・葛西・河越・坂東の八平氏、武蔵の七黨を七

手にして、蜘蛛手・輪違い・十文字にして余さずとぞ攻めたのだ。

 四郎左近大夫入道、大勢なりと言えども三浦の一時の謀に破られて、落ち行く勢は散りじりに鎌

倉を指して引き退いた。討たれる者は数を知らず。

 大将の左近大夫入道も關戸(せきど、東京都南多摩郡多摩村関戸)辺で既に討たれたと見えたの

で、横溝八郎が踏みとどまって、近づく敵に十三騎を暫時に射落して、主従三騎が討ち死にした。

 安保(あぶの)入道・道堪(どうかん)父子三人相随う兵百余人、同じ枕に討ち死にした。

 その外にも、譜代奉公(代々仕えている部下)の郎従、一言芳恩(いちごんほうおん、一言を賜っ

た恩に感じて主と仰ぐこと)の軍勢共、三百余人が引き返して討ち死にをしている間に、大将四郎

左近大夫入道はその身に恙無くして、山内(やまのうち、神奈川県鎌倉市山の内。円覚寺の南西)ま

で引かれたのだ。





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最終更新日  2026年05月28日 10時39分51秒
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