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「知は開かれた(オープンな)もの」という発想が、EUやOECDの「学力観」「能力観」の根底にあります。 「知識とは、他の商品とは異なって決まった中身を詰められるものではない。それは、使用されるものであって、作成済みのものではない。その使用が、さらなる価値を生み出すのである。(・・・)ひとたび固定されると、知識は価値を失うのである。」 「知識とは、たくわえではない。・・・多くの場合『学習』は、現在考えていることを越えて進むために、すでに知っていることをいかに使うか、その方法を見つけ出すことである。」179頁 「伝達のための教育は、教師中心から学習者中心の教育方法へと転換される」、教師は「記憶するための知識を提供する者ではなく、生徒がコンピテンシー(広義の能力)を構築するプロセスを支援する者に変わる」のだ(・・・)。181頁 「熟達した受験生や高得点者、あるいは従順な従業員をつくり出す」ためではなく、「若者が自分自身や仲間が民主主義社会の一員となれるように、知的に、感受性豊かに、勇気を持って考え、行動することを援助するためにカリキュラムは存在するのだ」182頁 「知識の獲得」のみでなく、「知識の構造を整理し、分析し、さらに批判する」ことを生徒に奨励し、「その知識の使い方」が強調されている。そのような国の代表例が、フィンランドであるとOECDは紹介する。182頁 PISAは、子どもたちを「人生への学習者」と定義する。子どもたちは学習の主体者であり、学習は受身ではなく「積極的な過程」となり、「自己調整的」学習である。それを、個人の能力で表せば「自律的に行動する能力」というキー・コンピテンシーに一致する。185頁 以上のように、EUやOECDは「学習」と「能力(学力)」を定義し、「テストを変えれば教育も変わる」という戦略のもと、PISAという新しいタイプの「国際的な学力テスト」を開発するわけですが、現在のイギリスはこのPISAにおいて面白い結果を出しています。イギリス政府が重視するTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)よりも国際比較で高い得点を挙げているのです。〔『競争しても学力行き止まり』206頁〕 応用力や思考力、表現力を重視するPISAのテストには(・・・)イギリスは上位グループとみなせる高得点を挙げている。 205頁 特に総合読解力は日本を上回っています。この結果をどのように見るべきなのでしょうか。「全国統一テスト」など競争を取り入れた「教育改革」の成果なのか、それとも伝統的な「進歩主義的教育」の成果なのか。 私は、1996年現在の「成人の科学的リテラシー」の調査においてイギリスが日本の成人よりもはるかに高得点を挙げていたことを考え合わせると、伝統的な「進歩主義的教育」の成果と見るほうが妥当であると考えます。 例えば、佐貫浩氏は『イギリスの教育改革と日本』(高文研)においてイギリス教育の歴史と現状に関する包括的な考察を行っていますが、1999年から1年間滞在した自らの体験を次のように語っています。 「イギリスでの短い体験のなかでも、日本の教室との違いを感じることができた。討論が多用され、自分で調べること、自分の意見を述べること、が強く求められた。」 佐貫氏は、現在におけるイギリス教育を一定評価しているのですが、「イギリスの教育における競争には、(日本の場合と違って)いわば歯止めがある」こと(206頁)を強調します。 「日本の場合、(・・・)結局知識の習得に最大の力点が置かれる。(・・・)学習を対象や現象への分析と自己判断力の獲得として、あるいは学習を自らの表現と参加の文脈の中で進める習慣が本当に弱い。(・・・)そのような非主体的な学習を、日本の場合、競争の緊張、あるいは率直にいって競争の脅迫によって、子どもたちに強制してきたのである。」 11.12の記事でも述べましたが、日本における“競争”によって得られた“高学力”が本当に人生を豊かにする学力となってきたのか、EUやOECDが提示する「能力」「学力」の本質も検討しつつ、改めて問う事が大切なのではないでしょうか。 「成人の科学的リテラシー」(上の表)を見る限り「競争しても学力行き止まり」という評価はむしろ日本に対して妥当するようにも考えられるのです。(7に続く) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.11.28
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「競争しても学力行き止まり 1」におけるコメントのやり取り に関して、私自身考えさせられることが数多くありました。「“討論の継続”はほとんど無意味だ」と一旦は考えたのですが、ブログコミュニケーションにおける私自身の失敗や教訓を記すことを主な意図として記事をアップさせていただきます。 まずはPsycheさんの疑問等への「回答」です。(11.21に準備したもの)>もともと「kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである」>という認識のもとここのコメントのトップに意見を述べました。 そのような意思表示をいただいたのは、「このたびが初めて」ですね。 まず、前回コメント〔11月18日〕の時点における私の認識を述べておきます。 少なくとも、最初のコメントをいただいた時点では「kurazohさんへの私の注文」に対する肯定的な認識の表明はなく、その後、私のブログのコメント欄でも「『教員の立場(弱さ)を認めろ』という意図が含まれていたのではないか」、と述べておられます。 そのような認識であるということを前提にすれば、最初のコメントは以下のように読めてしまったのです。>それができてこそ反対派・賛成派双方にとって>あなたが(教師の自己保身を意図して僭越にも)kurazohさんにおっしゃったような>説得力のある有意義な考察になるのではないかと思います。〔( )内は引用者が補足〕 上記は、他の読者が冷静に読んでも違和感を感じると思うのです。 そして、その違和感を感じるかどうかを左右するポイントは「あなたが私の『注文』を全面的に否定していたかどうか」であり、二つの「注文」が同質であるか異質であるかとは別問題だと思います。>私の注文行為を否定することで>あなたのkurazohさんへの注文行為をあなた自身が否定することに他なりません。 私は「前向きな意志を持って」真剣にkurazohさんに「提案」いたしました。 そして、11月18日のコメント欄で「純粋に前向きに受け止めていません」と述べたのは、Psycheさんのコメント(当初)について、その「意図」に関しても「実際に行ったこと」に関しても問題がある、と判断していたからです。 そして明らかにすべき点は「その“認識”が誤解であるかどうか」です。「いきさつをご存知でない多くの読者の前で『kurazohさんへの私の注文とPsycheさんの注文が同質であるかどうか』という意見交換をすること」は望むところではありません。 さて、繰り返しますが、以上はあくまでも11月18日の時点における認識であり、「親修行中さん」のコメントを受けて、かなり考えさせられました。その点において、私は「親修行中さん」に心から感謝しています。まず、>発言に隠された意味を露にすることが、私にはそれほど重要とは思えないという意見については「まさにそのとおり」だと思ったのです。 確かに「もともと『kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである』という(Psycheさんの)認識」が、それ以前の記事やコメントの内容と多少矛盾する面は感じます。(何しろ明記されていなかったわけですから。) しかし、文月さんの言葉を借りて「どう考えるのがよりよいか」という観点からすると、最初のコメントの中に「皮肉」を読み取って追及することには何の意味もなく、「素直に受け止めたほうが私自身にとってよりよい」ということには疑いありません。 つまり、「ブログでの発信やコミュニケーションをより豊かなものにしていく」という観点からは、「皮肉・牽制ではないか」という「認識」にこだわりすぎていたわけです。このたび、Psycheさんから「kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである」という意思表示をはっきりいただきましたので、これまでのような「認識」は修正させていただきます。 続いて、別の反省点です。 私にとって「感情」や「情念」それ自体は大切なものです。文章の論旨を捻じ曲げたり、視野を狭めたりすることにつながりさえしなければ・・・。しかし、私のPsycheさんに向けた前回の質問がいわば「責め立てる」ような表現になっていたことは否めない と考えます。(それがPsycheさんの「返信」の文体・表現に影響してしまったのではないか、と反省しています。)語調が失礼なものになっていたことについて、お詫び申し上げます。 それでは、Psycheさんの当初コメントの「意図」ではなく「内容」についてどう考えるべきでしょうか。前回コメント(11月18日)において「私ならこうする」ということを述べました。本来そうすべきであり、あの段階におけるPsycheさんの「注文」には問題がある、というのが私の認識でした。 しかしながら「私ならこうする」⇒「こうあるべきだ」、という考えにとらわれていた点も否めないと思います。確かに、少し柔軟に考えれば「Psycheさんのような『注文』は絶対するべきではない」ということには決してならないでしょう。 「前回コメント」において「本来あるべきでない(従って前向きに受けとめていない)」という趣旨のことを書きましたが、その点についても再度修正させていただきます。 ただ、「どうするのがよりよいか」という観点からすると、やはり「論の途中であれば、その展開を待ってから意見を述べる。討論を通じて別の文献を対置する必要があると判断したときは自ら提示すること」 がより望ましいと考えます。 また、仮に最初の注文が「イギリスの教育改革を検証したもので“競争”や“改革”を肯定する立場の『○○』という文献もあります ので、ご一読の上“多角的な考察”を期待します」ということだったとしたら、「相手にすべて下駄を預ける(無責任な)コメント」といった受け止め方もされなかったでしょう。(実は、上記のような文献は探しても見当たらなかったので、私としても困ったのです。) 今後の問題として、大多数の人に受け入れられる「より良い注文」を目指していくことは大切ですよね。 以上、確かに、本ブログ上(「競争しても学力行き止まり 1」)での意見交換がこれまで「建設的なもの」にならなかった面は多々ありますが、今後の貴重な教訓にしていくことが自分にとって「よりよい道」なのではないか、と思っています。 「コミュニケーションにおいて一番大切なものは“信頼”であり、“不信感”を基盤にしていては不毛な論議になる」ということを、私の「失敗」とともにあらためて確認させていただきます。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.11.25
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私がU高校で行われた論議を紹介した次の記事(「子どもの成長可能性」2008.2.28)に、文月さんから「強烈なコメント」をいただきました。 不充分ながらも「応答」したいと思います。 根本的な問題として、教職員は「既成の学校秩序」が当然のものという「独断」を前提に、それこそ上から目線で「子どもたちの成長」を論じているだけではないか、そもそも「子どもの人権」から出発する議論が欠けているのではないか、という主張のようですね。 正直、文月さんの厳しい追求に対して「満足いただける回答」はできそうにありません。文月さんの眼から見れば私は「共犯」または「主犯」にあたる教員でしょう。 しかしながら、「少数者」の問題提起を「無意味なもの」と切って捨てる立場ではありません。「問題提起」を私なりに分けながらまとめていきます。1、「教職員の意識の問い直し」について 私はKさんの講演をもとに、「U高校内で行われた論議」を紹介しましたが、その中には「人権擁護活動の一環として茶髪にしている生徒」がいるかもしれない(U高校にいたかどうかは別として)、という視点が入っていないことは確かです。「少数者」の視点を欠落させた論議には問題があるのではないか、という指摘は受け止めていく必要があると感じました。 とりわけ、学校現場において様々な場面で「生徒の人権から出発する」論議が極めて不充分である、という点については「改革」していく必要があると考えます。2、「人権侵害の問題」について>頭髪、服装、行事への参加等の自由選択など、生徒の人権が保障されなければなりません。 「そのような意見があること自体」は受け止める必要があります。しかし、例えば「学校が制服を定めてそれを着ることを求めたり、頭髪に規制を加えることは人権侵害であり許されない」という主張は「絶対に正しい」ことが保障されているわけではないと考えます。(私もかつては文月さんのような考え方が「絶対に正しい」と信じて先輩教員と激論したものですが・・・) 確かに「人権の大切さ」については広範な社会的な合意が成立しています。例えば「天然の頭髪(茶髪)を黒く染めさせる」といったことは明らかな人権侵害でしょう。しかし、例えば、「公立高校が制服を定めたり、頭髪に規制を加えるのは、憲法で定められた基本的人権を侵害するものである」という形で、学校や自治体を相手に訴訟を起こした場合、結果がどうなるかは難しいと思います。3、「“志士”への対応」について かつては私自身が「志士」であったのかも知れません。(あなたの眼から見れば、今は「堕落した大人」なのでしょうか。) 生徒会の担当が長かったこともあって、何度か「校則」をテーマにした論議や取り組みをしたことがあります。基本的には「不要なものは見直していく」、という立場でした。 例えば、「新たな校則を定める」取り組みに「学校が生徒会の参加を求める(悪く言えば利用する)」動きに対しては、「本来生徒の要求を代表すべき生徒会執行部の立場がなくなる」ということで、生徒とともに「拒否」をしたり、会議で激論の末「提案を否決」したこともあります。 生徒総会で出された「“服装指導”に関する生徒の要望」を取り上げて、「生徒代表と職員代表の話し合いの場」を設定し、「指導の基準を緩和した」こともあります。実をいうと現在も、「校則指導の基準の緩和」について職員同士で意見交換をしています。 ただ、文月さんと異なるのは、「(現時点では)制服=学校のユニフォームを定めることを容認していること」、「頭髪に関する規制も一定容認していること」です。 確かに、「ルールとは(本来)色々な人が共存していくための約束事」であり、他者に迷惑をかけないことについては「基本的に自由であるべきだ」という視点は大切だと思います。しかし、茶髪・金髪にしたり制服を変形させてきた生徒は、「人権闘争の志士」だけではありません。「そのような生徒の多い学年・学校」の中で「人に迷惑をかける行為」が多発することをかなりの教職員は経験しているでしょう。 他方で、例えばバンドを熱心にやっている子が「その時だけスプレーで金髪に染めてライブで盛り上がる」ことは問題ないでしょう。私服でおしゃれをして「解放された気分で遊びに出る」こともいいことですね。しかし、「学校内で落ち着いた気分で学習していく雰囲気を大切にするならば、制服や頭髪に関する規制は無いよりあった方がいいのではないか」というのが、ほぼ学校における(あるいは半数以上の保護者の)「暗黙の合意」だと思うのです。 私自身はそのような「合意」を「現実に容認」しています。しかし、それに対する反論も含めて「現状を変えていくために意見を表明していく場」は大切だと考えています。私が所属する「高生研(民間教育研究団体のひとつ)」では、学校代表、保護者代表、生徒代表による会議「三者協議会」の取り組み(実践報告)がしばしば登場します。 かつては当たり前であった「男子への丸刈りの強制」「制帽の強制」も、少数者が声をあげることから出発して変えられていったのでしょう。 「現状の校則は人権侵害であり真っ向から論議して変えていきたい」という「骨のある志士」に出会った時は、そのような論議や場の設定も含めて応援していきたいと考えています。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.11.18
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「サッチャー教育改革」が定着する以前のイギリスの教育について『競争しても学力行き止まり』での記述の紹介を続けます。 1987~89年に(・・・)子どもを地元のミルバトン小学校に通わせた家田愛子は、当時のイギリスの小学校を次のように描いている。 「日本の学校のようにクラスでまとまって全員がいっせいに同じことを勉強することが授業の基本ではない。(・・・)子どもは一人ひとり自分の能力に合わせて勉強する」「黒板が使われる頻度は、日本と比べると非常に少ない。算数も、英語同様、一人ひとりの子どもの進行状況が異なるから、クラス全員に同じことを説明することは少ない」 また、学校長は「非常に研究熱心」で、それは、「すべての子どもにとって学校が『学ぶ場所』であり、生きいきと学校生活が送れるようにというこまごまとした配慮を私は直接膚で感じることが多かった。それは、『決定』が一番身近なところでされているからだろう」(・・・)(13頁、14頁) 家田は、イギリスの自由な教育の背景まで分析しているが、権限関係をめぐるこの描写もまた、今日のフィンランドにそっくりである。 この自由なイギリスの学校教育は、教育関係者の努力によって、急速に普及したと見られている。 その転換点が、1967年の『ブラウデン報告』からだといわれている。 『ブラウデン報告』は、当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し、一人ひとりの状況に応じて実質的に平等な教育を実現しようとしており、統合教育やいわゆる「落ちこぼし」「落ちこぼれ」をなくする「アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)」の立場に立っていた。 この報告の影響で、自由な教育がイギリス全土に行き渡ったようである。 1991年から2年間、(・・・)子どもの学校教育を体験した社会教育学者の志水宏吉は、当時の授業を「驚愕」だと描写している。「十人十色どころではない、二十五人二十五色とでも言うべき授業が展開されていたのである。(・・・)個人個人の生徒の能力と進度に合わせて教師が作業課題を割り当て、子どもたちは個別にそれにあたる。先生の役割は、教えると言うより、場をまとめるオーガナイザーのそれだ」 このような生徒個別に対応する授業は、筆者がルポルタージュした今日のフィンランドの、とりわけ小学校で普通に見られる授業と同じである。 (15頁) さて、前回私はサッチャー政権から始まる教育改革について、「『低学力批判』を展開しつつ強引に『改革』を進めることによって、イギリスは『それ以前の素晴らしい教育』を大きく後退させて行ったのではないのか?」と述べました。 確かに、「極端に単純な図式化」には多くの要素を捨象してしまう危険性があります。仮に「サッチャー政権以前のイギリスの教育が理想的で素晴らしい面だけ」だったならば、そもそも“強引な教育改革”そのものが成立しなかったでしょう。改革の背景には、学校教育に何らかの不充分さや、それに対する保護者の不満があったと考えた方が自然なのかもしれません。 しかしながら、実際にイギリスの学校に子どもを通わせた家田愛子などの「証言」を見る限り、「全面否定」されるべきものでは決してありません。そしてまた、 上記に紹介されたような授業の「成果」が前回のデータ(イギリスにおける成人の科学的リテラシーの高さ 1996年調査)にも現れている、とは言えないでしょうか。 そして何よりも1967年の『ブラウデン報告』が「当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、知識の詰め込みとしての教育を否定して、子どもたちがさまざまな経験を通して学ぶという活動主義的教育法を推進し」、「統合教育やいわゆる『アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)』の立場」を打ち出すなど、「あるべき社会」の構想と「教育のあるべき姿」を結びつけてまとめられたことが、注目できると思います。 「糸賀一雄の思想と実践」(カテゴリー 特別支援教育)の中でも繰り返し紹介しましたが、私は「“障害”のあるなしに関わらずともに生きられるような社会が豊かな社会だ」と考えます。そして、個人にとって必要なのは 「それぞれの具体的経験や人生の中で活かされる知」を獲得できる学びであり、かつ「上記のような社会を創造していく力」、「現実を批判的に読み解き関わっていく力」につながる学びであると考えるものです。 1990年代、EUやOECDは「知のヨーロッパ」に向けた「積極的市民性」の育成で合意し「知識の習得よりも社会に出て使える力」を重視するような「新しいテストが開発されて新しい質の教育が評価されれば、学校が本来行うべき教育活動に陽の光が当たり、理想的な教育に弾みがつくだろうと思案した」(164頁)のです。 いわゆるPISAはこのようにして生まれるわけですが、私たちは「テスト結果」や「数値」以上に、そのよって立つ「哲学」や「教育理念」に学ぶ必要があるのではないでしょうか。(6に続く) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.11.15
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確かに、(イギリスの)教職員は「成果」をあげるために必死になっている。しかし、色々な工夫をしながら「楽しく充実した授業を構想し、組み立てていく」という実践は「追いまくられる状況」の中で後退しているように見える。 私が前回記事で書いた最後のコメントですが、実際、『競争しても学力行き止まり』の中には次のような記述があります。 「時間、時間、時間、これが私の主要な問題なのだ。些末なことや書類作りが子どもたちと過ごす時間も、子どもたちのために準備する時間もなくしている」とトニー・ブレアの選挙演説をもじってある教師が述べる(・・・)。 中学・高校教師を対象にしたケンブリッジ大学の調査(2004年調査)によると、教師が日々の授業をじっくり反省する時間はなく、子どもたちの様子を専門的な知見から観察したり分析したりする時間もなく、同僚たちと話し合ったり教育方法を同僚から学ぶ時間もない。(29頁) それでは、生徒はどうなのでしょうか。教師や親への調査結果も掲載されています。 7歳の「全国学力テスト」で、子どもたちにストレスが一般化していることは疑いないと60%の教師が答えている。また、20%の教師は、ストレスの程度は「きわめて高い」と信じている。(47頁) 世論調査「ユーゴフ(YouGov)」は、2003年時点で200人の親を対象に調査した。まず、「全国学力テスト」を受ける前になると、11歳児の70%がストレスの兆候を示したという。11歳児の25%は自信をなくし、20%は復習で忙しく友達と遊ぶ時間がないのだという。調査によると7歳児の10%は「全国学力テスト」のことで悩み、涙もろく不眠症になっている。また、11歳児の12%は、登校せず受験しなかった。(48頁) 学校間競争を背景に「教職員も必死になっている状況」はあるのですが、子どもたちのために“授業をじっくり反省する時間”も“子どもたちの様子を観察する時間”も”教育方法を同僚から学ぶ時間”もないという状況の中で、子どもたちの「学力」が中学2年段階で頭打ちになってしまうだけでなく、少なくない子どもたちに大きなストレスを与えているようです。 確かに、このような子どもたちのストレスは(イギリスだけでなく)日本でも見られます。多かれ少なかれ「学力競争」や「受験競争」に必然のものなのかもしれません。しかし、イギリスにおいて「教育改革」の前と後とで大きく状況が変化したことだけは疑いありません。大切なのは、この「教育改革」の結果から何を学ぶかということでしょう。 さて、「教育改革」の時代にはイギリスにおいても「低学力批判」がなされました。この点も日本と状況がよく似ています。確かに以前のイギリスにおいてTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)の結果は(中学校2年段階では現在も)国際的に高いものではありませんでした。 日本の中学生570~580点に対してイギリスは490点台です。ところが、成人の「科学的リテラシー(実践的応用力)」の国際比較を見ると驚くべき結果が出ているのです。 『競争しても学力行き止まり』(196頁) 〔OECD加盟国14カ国に対して実施した、科学技術の理解度に関する調査結果〕 まず目につくのは、日本の「成人の科学的リテラシー」の驚くほどの低さです。小中学生の「学力」が国際的に高いにもかかわらず、何という結果でしょう。日本における“競争”によって得られた“高学力”が本当に人生を豊かにする学力となってきたのか、その時のテストや受験に対応するだけの“身にならない力”だったのではないか、私たちは深刻に問う必要があるのではないでしょうか。〔ちなみに、池上彰氏は日本における「子どもの学力低下」批判について「統計データをまともに読み取れなかった大人の学力低下のほうがよほど心配である」と述べていますが、皮肉ではすまない惨憺たる実態が調査結果にも現れているのです。〕 ここで著者は言及していませんが、私はイギリスの「成人の高学力」に注目せずにいられませんでした。「成人」を対象とする1996年の調査ですから、この数値はイギリスで「教育改革」が行われる以前の「学校教育の成果」が現れている、と見るべきでしょう。その意味では、サッチャー政権を中心とする「低学力批判」は的外れだった と言わなければなりません。 そして、「1988年改革」が行われる以前のイギリスの教育を検討してみると「学力世界一」のフィンランドの教育内容に極めて近いものだったのです。(「成人」に関しては全く妥当でない)「低学力批判」を展開しつつ強引に「改革」を進めることによって、イギリスは「それ以前の素晴らしい教育」を大きく後退させて行ったのではないのか? 私たちは、この点についても事実を検証しつつ学ぶ必要があると思われます。(5に続く) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.11.12
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『競争しても学力行き止まり』の著者福田誠治氏はかなりの期間フィンランドの教育を研究してきた人物で、サブタイトル「イギリス教育の失敗とフィンランドの成功」からも福田氏の立場はうかがえます。 「最初は、イギリスの教育を分析することに主眼をおいて書き始めた。だが、日本の教育のいく末が見えてくるのが最大の目的という助言を受け止め、表現方法に悩みながらやっとの思いで書き上げた」(228頁)と福田氏は述べています。 当面、前半の「イギリス教育の分析」に関する記述の紹介を続けます。 1988年教育法は、教育の原理(哲学)から教育制度、授業方法にいたるまで、イギリスの教育を根本から変えてしまった。 第一部のうち第1章は、「国家カリキュラム」と「全国学力テスト」の実施が規定されている。 イギリスの教育はこれまでは分権的であり、教科書検定はなく、また国家には統一的な教育到達度を示す学習指導要領もなかった。しかし、この法律によって、外部から教育目的が設定され、学校の作業内容が規定され、外部機関によって作業の成果が測定され、評価される仕組みが整った。(60頁) 第2章は(・・・)親や生徒を教育の「消費者」と定義して、「学校選択の自由」を保障するとした。また、学校は権利の保障主体ではなく、競争主体として再編成され、「学校の企業化」が促進される。(61頁) 1988年教育法のもう一つの重点は、学校選択制度である。市場原理に当てはめれば、教育は商品、親子は消費者、学校は店舗、教師は売り子となる。(62頁) 上記のように「学校の企業化(教育の市場化)」、「学校選択制度」がイギリス教育改革の大きな特徴であると言えます。そして、「全国学力テスト」の実施と「結果公表」も採り入れながら「改革」を推進することによって一定の「成果」?を挙げていることも確かです。 イギリスが特に重視しているTIMSS(『国際数学・理科教育動向調査』)では表2-5で見る限り 小学校4年生の「学力」(国際比較)は大きく伸びています。(『競争しても学力行き止まり』97頁) しかしながら、表2-6や表5-2をみると8年生(中学校2年)になれば伸びは止まってしまうのです。表2-6 TIMSSにみる数学の成績(中学2年生)最近3回の調査に連続して参加した18カ国の比較(『競争しても学力行き止まり』97頁) 「国を挙げて必死になってテスト勉強したわりには、効果はほとんどなかったのだ。」 (98頁) 「『公共政策研究所』報告書は、(・・・)政府機関の『普通教育会議(GTC)』によって認定されたものである。(・・・)この報告書は、現行のテスト体制が、狭い学習、薄っぺらな学習、テスト問題の『山かけ』、社会的な責任と自己の学習を結びつけられないという『困難回避型教育』をもたらし、教育に否定的な結果を引き起こしていると批判した。 つまり、今のイギリス教育はテストの点にならないようなことは教えない、子どもたちは難しいことを考え抜いて学ぶというようなことをしなくなった、と報告書が指摘しているわけだ。(103頁)〔コメントの補足〕 小学校でかなり「成果」をあげているかにみえる「イギリスの教育」が、中学校2年生段階で頭打ちになってしまうのはなぜでしょうか。私が思うところは次の点です。1、国を挙げてのテスト体制と「公開」による学校への圧力は、子どもたちに「テスト向けの訓練」を繰り返しさせていくような方向へと進ませることになった。2、このような「訓練」は、小学校段階における「学力」(例えば計算力等)を高めるには一定の効果をもたらした。3、しかし、中学校段階で頭打ちになってしまうのは、 「訓練」の繰り返しだけでは、子どもたちの「(幅広い意味での)学習意欲」を持続的に高めていくことにつながらなかったためではないか。4、「公開」によって学校間競争が促進されていく様子は、同書を読めばよくわかる。確かに、教職員は「成果」をあげるために必死になっている。しかし、色々な工夫をしながら「楽しく充実した授業を構想し、組み立てていく」という実践は「追いまくられる状況」の中で後退しているように見える。 このように見ていくと、中学校2年段階で生徒の学力と学習意欲が伸びていかないのは、必然の結果のように思われます。(4に続く) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.11.08
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このたびの「連載」は主に『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)の紹介と、それを通して「日本の教育改革」について考えていくことを目的としたものですが、本文に先立って、まず、日本におけるこの間の「教育改革」に対する私自身の立場を明記しておきます。 「全国学力テストの実施と結果公表」の問題、「学校選択制検討」の問題、「学校評価や人事考課」の問題等、いずれについても競争をあおるだけでは(競争をあおることを主眼におけば)大きな問題を生み出すだろう、という考えは以前から持っていました。 その考えは、自分自身の体験や実践・これまでの読書体験などによって形成されたものですが、このたび『競争しても学力行き止まり』-イギリス教育の失敗とフィンランドの成功-(朝日新聞社)を読んで、自分自身の危惧は「20年間のイギリスの教育改革」によって「現実」のものとなっている、ということを強く感じたのです。 従って、上記著書の内容紹介は同時に「自説を論拠とともに提示する」という性格を持っているということをあらかじめ明らかにしておきます。 確かに、複数の文献・意見(例えば『イギリスの教育改革と日本』高文研 など)を参照することで事実をていねいに検証したり、自説を一部修正することも大切なことでしょう。 しかし、日本における「教育改革」の今後を考える場合、「イギリス教育改革」のもたらした負の側面を検証することは不可欠であり、とりわけ「改革」に賛同する人は『競争しても学力行き止まり』で示されているような幾多の事実を踏まえ、今後の構想を示していく必要があると考えています。私自身も1、「改革を見直していくか」2、「現在の流れで(当面)進みつつ、イギリスでおこったような問題点を回避していく道をきちんと見出していくか」という二つの道のいずれかを選ばざるを得ない、と考えます。 さて、イギリスでは「全国統一学力テスト」の実施・公開とそれを背景にした学校間競争、地域間競争によって、どのような問題点が生み出されていったのでしょうか。 上記著書の引用をはじめます。 「イギリス社会は、現代でもなお階級制度を色濃く残している。」「(学校選択性や学力競争の推進は)ある意味では労働者階級にも学力競争のチャンスを与えようとしたことになる。ところが、実際に、学校選択を積極的に利用し、競争社会で実をあげられたのは、子どもに充分な教育を用意できる余裕のある中産階級であって、労働者階級あるいは下層階級は取り残され、ますます格差は広がりつつある。」〔21頁( )内は引用者〕 イギリスにおいても「教育改革」の目的は国家を挙げて教育に力を入れ、子どもたち(生徒)全体の学力を伸ばしていくことでした。しかし、この政策が現実にますます格差を拡大していると著者は言います。それはなぜなのでしょうか。引用を続けます。 学校選択制度は可能性を低める〔48頁〕 イギリスのある新聞の相談欄には、こんなやり取りが掲載された。質問「私の地域の学校は悪いランクです。いい地域に家を買ったほうがいいでしょうか。それとも、そのお金を家庭教師に使ったほうがいいでしょうか」答え「引っ越したほうがいいでしょう」 こうして人口移動が起きる。 人気校周辺の不動産価格は3割も高騰し、人気校には裕福な家庭の子どもしか通えなくなった。バラ色の学校選択も、自由を行使できるのは一部の人に限られるのが実態である。〔49頁〕 つまり、全国統一学力テストの結果公表と学校選択制の導入は、おそらく国民の中に「教育はサービスとして消費するもの」という意識を高めていったと考えられますが、「よい教育」を受けられる「消費者」はごく一部の裕福な国民に限られていった、というわけです。 そして、学力テストの平均点が低く「よい教育を提供できていない」学校が攻撃された結果、次のような「統合教育の後退」が起こりました。 1997年3月、10万人の生徒が「破壊的である」ので特別学校に移して授業すべきだという声明を、当時イギリスの第二の規模の教師組合(・・・)が発表した。特別措置の必要な生徒の教育を普通学級で行うといういわゆる統合教育は、30年近くイギリスで追求されてきた。(・・・)ところが、サッチャー教育改革以降、事情が違ってきた。学校は競争させられるのである。そのためには普通学級に在留して手を焼かせる「問題児」が邪魔になってきたのだ。〔24頁〕 普通学級は、いわゆる主流学級と表現される。そこから特別なニーズのある子どもたちははじき出され、「特別学校」といういわゆる養護学校に入れられる。さらに両者から放校処分を受け、籍を抜かれた者は、「児童生徒受け入れ施設」に入れられることになる。(この施設に通う生徒数 2000年で9,700人、2003年で12,005人)〔25頁〕 さらに、学力テストで高い得点をあげられない学校が周囲から責められ続け「過剰説明責任で校長は疲れている」〔37頁〕という状況が生まれています。 イギリスでは、教師だけでなく校長も学校ごとに募集され学校ごとに採用される。ところが、困難が予想される学校には教師のなり手がない。 なんと2006年現在で、学校長の採用ができないため、50万人以上の生徒が管理職のいない学校で教わっているという。 全英校長組合(NAHT)の調査によると、1200以上の公立学校が専任校長なしで運営されており、学校の「過剰勤務という文化」がこのまま続くなら、4分の1の校長は辞職したいと言っているという。〔44頁〕 校長になるような教職員の多くが「職業意識の低い不適格教員」であるはずはないと思われますが、上に示された状況はまさに「異常事態」ではないでしょうか。もし仮に、「地域の学校の『低学力』を克服していくために、学校内外で一緒に協力していこう」という機運が高まっていけば、このような事態は起こらなかったでしょう。 しかしながら、「学校選択制」の導入によって、「教育サービスの提供を受ける消費者」という意識が強化され、「地域の教育をともに創造していく主体」であるという意識が後退した結果、「『学力テストで高い得点をあげられない学校や校長』が一方的に攻撃を受ける」といった状況が生まれたのでしょう。 以上、「イギリス教育改革の生み出した問題点」をいくつかあげましたが、私たちはそれをしっかり踏まえつつこれからの教育を構想していく必要があるのではないでしょうか。 次回は、生徒の学力が実際にどうなったのか、というデータも含めて紹介したいと思います。(3に続く) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.11.03
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