全8件 (8件中 1-8件目)
1

友人の結婚式が神戸にてありました。正直、しばらく結婚はないかな、と思っていた大穴万馬券、友人A君。数ヶ月前、最初に受けた報告、ビールを1杯あおった後に口から出た言葉は「結婚する」…ではなく、「できた」。できちゃった婚。未だ世間では偏見をもたれる方もいらっしゃるみたいですが。その意味に深く想いを馳せますと。子はかすがい。と古より申します。それは出産後からの話だけではなくて。家族の中だけの話でもなくて。生じるべくして生じ、今一歩未熟な二人の覚悟をまとめて、結婚。式にはたくさんの仲間が遠方より集い、再会や新たな出会いを喜び合う。新たな可能性が次々と芽を出しては枝を伸ばしていく。新たな生命が育む力。つむぐ力。新たな生命の誕生は、新たな宇宙のはじまり。新しい太陽を中心に、あまたの星々が尊い光を浴び、めぐりゆく。引力、という活かしあいの中で絶妙なバランスを保ちながら。学生時代はあまりにもよく眠るため、「眠り姫」とあだ名されたA君。そんな彼の姿が、数ヶ月前に比べて、式では実に堂々としたものになっていて。家族を築き、これから歩みゆくのに十二分な力量を感じることができました。つまらない偏見などものともせず、尊く輝く新たな生命。その光を受けて、長き眠りから目覚め、さなぎから蝶が飛び立つが如く、驚くほどの変化、成長を魅せたA君。そのあり様に見出せるのは、大いなる希望。あぁ、晴々。追記:できちゃった婚、最近ではおめでた婚などと表現を改められているそうです。いい傾向。これもまた希望。
2008.11.26
コメント(0)
毎日の通勤電車。退屈そうだけど、乗客の数だけドラマがあります。事実は小説より奇なり、ってね。今朝の一番気になったドラマは。電車に乗り込む際、小さな中学生が空席めがけて猛然とダッシュ。おっちゃんたちにぶつかりながらも、見事に空席を獲得。と同時にノートを広げて目を走らせている。社会科かな?上から覗き込むと、ノートはびっしりと自筆の赤と黒の文字で埋まっていた。その字は悲しいかな、お世辞にもきれいではなく、そして何より心亡く。隣りに座るのは、眉間にしわを寄せてうたた寝する、朝から疲れたふうのサラリーマン。その二人が、僕の中ではあまりに自然につながってしまって、憂い。治療の現場で子どもを診る機会も多々あり。その子たちの負傷や不調の原因をたどっていくと、たいてい親をはじめとする大人たちの圧力に行き当たる。親の都合や見栄のために嫌々習いごとを続けていて、けがをすることでメッセージを送ろうとする子。忙しい両親の注意を引きたいがために病気をつくりだす子。夫婦間の欲求不満のしわよせをくって、表情乏しく心を閉ざしてしまっている子。甘やかされすぎて、物を与えられすぎて、根腐れをおこしている子。大人が自分たちの問題、欲求不満に目を背け、誤魔化し続けるしわよせは、形を変えて、力の弱い部分、子どもたちにのしかかる。子どもは大人の奴隷でも、ペットでも、ましてや道具でもない。大人と同じ、人格をもった一つの生命。そして、親の、大人の、社会の鏡。中学生がノートをめくった。めくられたページには、赤字で「自由民権運動」の文字が。「自由民権運動」の意味を彼はどんなふうに学んでいるのだろう。いつの日か、自分の姿と結びつけることはあるんだろうか。まずは僕たち大人が子どもに見せられる背中をつくらなくては、ね。
2008.11.20
コメント(0)

色づく森は個性豊か。赤くなるもの、黄色くなるもの、変わらず緑のままのもの。葉を落として一休みするもの。葉を保ちつつ、マイペースに成長を続けるもの。枯れて土に還り、次の命を育むもの。 それぞれ、他と比較することなく、他を否定することもなく、ただただ自らの生を全うしようとする姿は美しい。そんな生き方をきっと僕らもできるはず。強いとか、弱いとか、多いとか、少ないとか。そんな枠を超えた世界を森は示してくれている。
2008.11.14
コメント(0)
前回の日記で紹介したメールから生じた発想をもう一つ。発想というのは、一つの刺激に対し一つではなくて、一つの種から同時多発的に多方向に広がる根の如しです。ビッグ・バン然り、脳細胞のニューロン然り。あぁ、無限。失礼、本題に移りましょう。メールから自らを省みたことは、内・外へ向ける力のバランス。基本的に休日も外へ出ていることが多い僕ですが、加えて最近はブログでのメッセージ発信など外へ意識を、エネルギー(以下Eと省略)を向けていることが多くなっていた。灯台下暗し、とはよく言ったもので。全体のEが変わらない状態で、外へ向くEばかり強くなっていくと、当然内は虚ろになっていくわけです。最悪、内部崩壊をきたす。どこぞの料亭の内部告発(少し古いか)を笑ってはいられないのです。皆その危険性は身近にあるのだから。しかし、今回のメールの如く、崩壊に至るまでに何らかの兆しがあるもの。それにどれだけ早く気づき、方向を転換してバランスを整えるかが大切でしょう。誤魔化し、目を背けるのではなく、向かい合って。身体においても、たかが肩こりと侮るなかれ。身体が何を訴えているのか、肩こりという尊い兆し、いわんや身体の声から読み取ることがやはり大切。向かい合わず、湿布や鎮痛剤で誤魔化していると、抑圧された訴えはクーデターの如く大病として表面化します。ちなみに家庭において、家の中が散らかってきた方は要注意。内が虚ろ警報が発令されています。冬。寒くなり、外での活動が抑えられる季節。一方で内を養うには最適な季節。家族でお掃除でもされて、絆という内なる軸を強めるのもいいかもしれませんね。案外、年末の大掃除にはそんな意味も隠されているのかも、ね。
2008.11.11
コメント(0)
たいがいいつも帰宅した後、僕と嫁はお互い一日あったことを情報交換、学びあいます。その日は、嫁のご機嫌斜めで「別に何も」みたいな、つっけんどんな感じ。お互いしばし沈黙の後、嫁の口から「何もしてないと思ってるやろ?」という言葉が飛び出しました。以下はその翌日に交わされたメールです。[嫁]昨日の「何もしてないと思ってるやろ?」というのは、わたし自身がそう気付いて少し悲しかったのです。のん助(娘)のつくろいものしたり、こまごまの仕事はしたんやけどね。こまごますぎて、した、ってわざわざ言うほどの仕事でなし。[小生]こまごまでも「した」に違いはないのでは。石を組むときでも、大きな荒い石ばかりだとメジが空いてしまって不安定です。メジに細かい石をつめることも大切だと思うのです。どんな小さなことでも家族の安定を支えていることに違いはなく、僕ものん助も感謝していますよ。ありがとう。[嫁]ありがとう。そう言ってもらえると救われます。うーむ、何だか夫婦らしからぬ問答、でしょうか。他の夫婦はどんなもんなのか知りませんけど。なお、例えに石組みを用いたのは、嫁が造園屋さんで働いていたことを踏まえてです。原理をおさえておけば、例えは無限。おっと、話が反れました。世の中に意味や価値のない存在、行動はないと思います。それぞれの存在や行動が、風が吹けば桶屋が儲かる式に、複雑に絡まりあって今の世界を形作っている。異なる形のピースが集って一つの絵を描くジグソーパズルの如くです。しかし、その絵がもしも偏って歪んでいるならば、それぞれのピースが行動の方向性を省みる必要があるのではないか、とも思います。偏りから、様々な症状が露呈しつつある現代は、幕末のような大きな転換期に近づきつつあると感じます。というか、もう入っているんじゃないかな?一人一人が幕末志士よろしく自分の方向性を省みて、転換し、世のバランスを整えていく。そんな時代。まずは自分のバランス、そして家族のバランス、結果として世のバランス。身近なことから、コツコツと。それにしても、こんな僕によくぞついて来れるもんだなぁ、と嫁には半ばあきれつつ、感心つつ、そして何より感謝しています。ありがとう。…って、もう寝てるし!
2008.11.10
コメント(0)
子供を授かると、やはり次の世代、さらに孫の世代のことなども考えてしまいます。ちなみにインディアンのイロコイ族は七世代先のことを考えてものごとを決定していたとか。七世代後までは想像つき難いにしても、僕は次世代以降に、金銭や物質的な財産ではなく、生きる力を育み、自然に生きていける世界を残したい。農で例えるなら、収益のために化学肥料や農薬をばら撒き続け、土や水を汚染し、自然のバランスを崩した状態で残すのではなくて。生命が正常に育まれる土を、水を、空気を残したいと思っています(ちなみに僕が学んでいる自然農はそんな想いに適った農です)。そんな想いもあり、日記という形でメッセージを発信させていただいております。メッセージという水が心の種に届いて、何かしら「気づき」という芽が出て。プラスの方向へ皆様の行動が、生活が、世界が変化、成長していくなら嬉しい限りなのですが。とりあえず今のところ、何が無くても楽しいわが家。自分は幸せですし、家族も幸せのよう。というわけで、根幹を育むに加えて、枝葉を広げる、という次のステップへ。個から全への展開とも言えるでしょうか。
2008.11.06
コメント(0)
連休最終日は、宇治で知り合いの農作業を手伝いがてら、イノシシをよばれてきました。シシ肉パーティの主催者であるおじさんは65歳、大学紛争でバリバリ活躍していた豪傑。未だ、知力・判断力・行動力etc.目を見張るものがあります。イノシシ猟40年の猟師さんをはじめ、集う面々も古強者ぞろい。しかし。どうしても、会うたびおじさんたちにところどころで気の衰えを感じてしまう。そこに想うのは時の残酷さなどではなく、世を担う世代として、まだまだ受け継ぐべきことが多すぎるくらいある、という焦り。受け渡すということ。受け継ぐということ。現代はここしばらく時代の流れ、変動があまりに急速であったためか、世代間の格差が大きいよう。極端な話、異文化コミュニケーションに近い部分もあるかもしれません。それだけに、自分の主張を押しつける支配的、一方向的な関係性ではなくて、お互いを受け入れ、理解して歩み寄る工夫が必要な気がします。どこぞのイラク侵攻の如きではきっとうまくいかないでしょう。例え表面的に治まっても、押さえ込まれた圧力は後々問題を生じるもの。鎮痛剤よろしくです。よしんば技術や方法が伝わったとしても、それを扱う心が伝わらなくてはいけないと思います。双方向的な関係を築くためには、まず心の余裕をもって、相手に対する偏見を捨てること。そして、相手を変えようとするのではなく、まず自分が変わること。そうすれば、結果として相手は、周囲はおのずとかわってくるもの。心の受け皿も育まれていく。その一連の過程でお互いの成長があり、全体の方向性もよりプラスの方へ向いていくと思うのです。混迷深き時代故、世代を超えた交流から生まれる新しい方向の探求が必要ではないでしょうか。
2008.11.05
コメント(0)

先日、職場の前任者の一周忌がありました。僕が今の職場で働き始めたのは去年の12月から。前任者がその約1ヶ月前に事故で亡くなられたのを聞いたのは面接の時。正直、ドキリとしたのを憶えています。約一年前。数ヵ月後には子どもが生まれるにもかかわらず、医療・治療に対する想いの違いで(前の)職場を離れることに決断。やはり想いが合わずに十数件の内定を蹴って、蹴って、蹴り続けました。そして、三日後から無職、というなかなかにきわどい状況の中、想いと近い今の職場とめぐり会ったのです。というわけで、直接会ったことは無いのですが、故人とはものすごい縁を感じずにはいられない。故人の死が僕を今の職場とめぐり会わせ、スタッフ、その友人たち、たくさんの患者様と引きあわせ、今の世界を成り立たせている。死が生を育む、という事実。死というと、僕らはどうしてもマイナスのイメージを抱き、目をそらしてしまいがちなのですが。山や畑に身を置くと、一瞬一瞬、生と死の交錯を感じることができます。植物を虫が食べる。虫を鳥が食べる。鳥とて死んだら土に還り、植物の栄養になる。生きるためには食さなくてはいけない。食すということは命をいただくということ。そこには確実に死がありますよね。人の死はどうでしょうか。生けるものに、時に出会いを、試練を、深い思考を、感情の波を与える。その結果として、死は心の糧、栄養となり、生けるものを成長へと導いていくのではないかと思うのです。栄養となるということは、肉体という枠、自他という枠を超え、他の内で生きるとも考えることができる。僕はこれこそ転生ということの意味じゃないかな、と思っています。睡眠が生活の一部であるように、死もまた生命の一部。死ぬことで個人の生命は、大きな生命の循環の中へ還っていく。夜空を見上げるとたくさんの星が輝いています。星と僕らはものすごく離れているので、星から光が届く頃には、ほとんどの星はすでに消滅しているのだとか。星の光もまた、星という生命の輝き。消滅した星の光が僕らを照らし、様々な想いを馳せさせるように、故人の生命も僕らの心を照らし、導いてくれている。本当にありがたいことですよね。生あるものは死と向かいあい、生あるものの役割を、充実した生の探求を全うしたいものです。
2008.11.03
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1
![]()

