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ところで、何を間違ったのか、私は農業・ミミズ研究家、というふれこみで、事前に子どもたちに連絡されていたらしい。確かに、農には関わっているし、ミミズを研究していた時代もあったのだが。そんなわけで(?)、興味をもって集まってくれた子は、一人を除き、全員男子だった。もっとも、整体ということで募っても結果は同じだったかもしれない。女子は、理容やキャビン・アテンダントなどに集中したにちがいないから。男子ばかり、ということをいいことに、話は「うんこ」を中心に攻めることに。農、ミミズ、生きている体、男子、とくれば、「うんこ」だ(?)。「うんこ」とからめて、代謝や循環、治る、生きている体、病気、生き死に、などを経験から語った。「うんこ」のおかげか、子どもたちは、異様な食いつきをみせ、盛り上がってくれた。現代には情報が溢れている。そのせいだろう、すぐに答えを得られるような錯覚に陥っている人は少なくない。頭で分かったことに満足してしまうのだ。しかし、そのことに果たして価値はあるのだろうか。そういう癖をつけさせてしまうことは、現代の教育、学校の罪深きところと思う。答えは、行動・体験を通し、自分で探求・獲得していくものではないか?そして、その過程を「学び」と呼ぶように思う。学び舎、学校とは、そういうところであって然り、だ。…というような含みも話の中、質問に答える際に、盛り込んでみたが、果たして子どもたちに伝わっただろうか。まぁ、これは、子どもたちより、先生方と問答するべきところか。情報に、言葉に翻弄され、遠くに目がいき、今、ここで、生きていることすら、イイカゲンになってしまうような現代だが。時には、自分の「うんこ」という目の前の現実から、足元を見直すきっかけを見出してみては、と思う。
2014.01.25
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先日、某小学校にて、児童(4〜6年生)にお話しをしてきた。キャリア教育(名前が何だかいけ好かん)とやらのために、様々な職業の人からお話してもらう、ということで依頼された。私の場合は、とある学校関係の知人が、現代においてやや変わった生き方をしている人、ということで推薦してくれたのだ。よく言えば、常識に縛られない、悪く言うと、物事を斜めにみる(多角的に見る、と言ってくれ)、世間的にはひねくれている、ところが幸いしたらしい。こんなキャリア教育とやらが必要になるのも、現在の教育が、子どもを長時間、机の前・学校という狭い箱の中に張り付けておくからだろう、と言いたいところだが、それが今の現実、依頼に対しては快諾したのだった。自分の子どもが小学校に通いだすこと、最近教育に関心が増してきていることもあり、非常に魅力的で有難い誘いだった。30分お話、15分質問を、30人ぐらいに2回ということを事前に聞いていた。私は勝手に私だけが招かれていると勘違いしていた。そうではなくて、複数の講師がいて、興味のあるところを生徒が選んでいる、ということを現場に着いて知った。見るからに消防士の人、警察の人が来ていたので、今日は避難訓練もあるのかな?と到着時思ったのだが、その人たちも同じく講師として呼ばれた人たちだった。その他、料理人やJALの人、理容、常盤公園の飼育係などなど、そうそうたる顔ぶれだ。いかにも、というメジャーな職業の中で、私は圧倒的にマイナーな存在だった。予想はしていたが、子どもたちに「はり・きゅう」を知っているか、初っ端尋ねてみたところ、30人中、知っていたのは1人、当然受けたことのある子は皆無。ということで、はり・きゅうの実体験から入った。当初3人ぐらいに体験してもらおうと思っていたのだが、子どもたちの好奇心は私の予測をはるかに上回り、ほぼ全員が体験を希望。結局、後から、休み時間を返上し、体験してもらうことができた。子どもたちの反応は基本的に素直だから、大人を相手にするより、気持ちがよい。好奇心の溢れて輝く目は、この頃はまだ生きているのだな、と再確認。そういう輝きを失わないような教育、ひいては社会環境を、私たち大人が再生しなくては、という想いの糧だ。
2014.01.25
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生れ落ちて、幼少期より、対立の文化に飲み込まれ、対立の精神を育まれていく、現在の日本を(2)で憂いてみた。私たちのような親となっていく世代が、そうして育ってきているのだから、事態は深刻きわまりない。子どもは何といっても親の背中を見て育つ。ちなみに、私たちの親の世代など、戦後、高度経済成長を築いてきた世代の中には、他との競争意識、対立意識がやたらと高い人を見かける。その競争心を煽られ、うまいこと金ヅルにされていく様を見ていると、なかなかに悲しいものがある。対立の文化においては、エネルギーが頂点に集まっていくようにシステム化されている。つまり、程度の差はあれ、頂点以外は皆奴隷同然と言える。いや、頂点さえも、転覆に怯える、哀れな奴隷なのかもしれない。話がそれた。もとに戻そう。そんな絶滅の危機に瀕している日本の文化、「和」の精神なのだが、希望が無いこともない。日本には、「道」と名の付く芸道が多数存在する。実は、その存在が、「和」の精神を自分のうちに呼び覚ますことのできる可能性、希望だ。教育システム、と言えないこともない。私は武道を探求する中で、そのことに気づかされる幸運を得た。…ただし、ここにもあまりにも大きな落とし穴がある。例えば、「武道」というと、何を思うだろうか。剣道、柔道、空手道、合気道…。いろいろ「道」のつくものは巷に存在する。が、しかし。結論から言うと、対立しない「和」の精神を養う道としての武道は、現在ほとんど存在していないだろう、ということだ。最近は、柔道も随分テレビで放送されるようになった。柔道の競技が、である。どちらが勝つか、息を飲んで、見守る観客。わかるだろうか、もはや、根底が勝ち負けを競う、対立文化に支配されているのだ。剣道や空手道、合気道までもが、ほとんどそのような状態だ。近年、武道教育必修化、ということで、中学校では柔道を取り入れているようだが、武道、という名前に踊らされているだけで、中身のないものが大半だろう。それにまつわる暴力事件の被害などが出ないことを切に祈るばかりである。他の芸道、茶道、華道、書道などは心得がないので、何とも言えない。茶道においては、高い道具を買い集めることに執心する輩がいる、と聞き、がっくりきたことはある。それこそ、形骸化の最たるものだ。書や華を見にいくことはあるが、出来上がった作品を入選だとか、評価して競っているあたり、やはり、根底にあるものが揺らいでいるのではないか、と心配する。大切なのは、出来上がった作品ではなく、それを生み出す過程で、自分の中にある「和」の精神を養っていくことだからである。その、養っていく過程、人間形成こそが、日本の文化、「和」の文化そのもの、と言えるかもしれない。 自分の中に「和」の文化を養うことは、現代の日本において、極めて困難と言えそうだ。しかし、幸いにも、その無謀に挑み続ける仲間がいる。あきらめず、進むのみ。
2014.01.18
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知人が発した、日本の文化を奪われないために、戦争も仕方ない、という意見。なぜそういう思考になるのか、という疑問。もう一つのポイントは「奪われないために」という現状把握の乏しさにある。残念ながら、とっくにほとんど奪われてますよ。ということだ。いや、奪われている、というのは適当ではない。滅びに瀕している、というべきか。絶滅危惧だ。精神は、分かち合うことはできても、奪って自分だけのものにする、ということはできない。(1)で記した、対立しない「和」という精神文化。やはり、その根幹・精神ではなく、その産物にばかり目をとられているから、絶滅の危機に気がつかないのだろう。法隆寺の五重塔は、現存していても、あなたの精神に、「和」は息づいていますか?ということだ。例えば、その知人に関して言えば、「戦争も仕方ない」という言葉の中に、端的に「和」の精神、すなわち日本文化は崩壊していることがわかる。偉そうに書いてはいるが、日本文化復興過程の私も、たびたび、対立の精神が頭をもたげる。それはそのはず。精神を養うべき教育が、もはや、対立を刷り込む場になってしまっているのだから。子どもの頃から、評価され、序列をつけられることで、競争を促すようなシステムの中で育つ。子どもの頃から、洗脳を受け、日本に住んでいても、対立の精神が刻まれてしまう。結果として、産物もどんどん西洋化していく。衣・食・住、自分も含め、周りが対立に溢れていることに気づくだろうか。残念ながら、気づく人はまだまだ少ないのだろう、「和」の感性が滅びかけているのだから。
2014.01.13
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日本伝統文化の根幹は「和」。その表現は難しい。が、簡単に一面を表現すると、対立しないことが挙げられるだろうか。石の家に代表される、西洋が自然と対立し、征服しようとする文化。対して、もとは木の家の日本、自然と対立するのではなく、調和し、ともにあろうとする文化。先日、知人と話していて、文化に関する話題になった。日本の文化を奪われないために、場合によっては戦争も仕方ない、といったご意見をお持ちだった。これには、かなり驚かされた。なぜそういう思考になるのか、という疑問。ポイントは日本の文化、そして文化そのもののとらえ方にある。日本の文化というと、何を思うだろう。法隆寺の五重塔に代表される日本建築、着物、日本食、茶道、華道、書道、武道…最近ではアニメか(苦笑)?多くの方は、自分の外にある形にそれを見出す。だから、先にあげたご意見のような、(モノを)奪われる、という不安が首をもたげるのだろう。しかし、日本建築、着物、日本食を作り出すのは何か。そう、人である。日本という風土に生きる人。そして、もっと深くみていくと、その人の中に築かれている、他と対立せず、調和していく精神なのだ。つまり、文化の根幹は、精神だ。それは言わずもがな、人の外ではなく、内にある。モノは奪われても、根幹である精神が生きていれば、いくらでも再生は可能なのだ。
2014.01.13
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31日から3日まで実家に帰っていた(早1週間たっている)。毎年大みそかから元日は吹雪いて、飛行機の着陸すら危ぶまれるのだが、今年は珍しく秋田市内に雪がほとんどなかった。昨年父が亡くなったため、今年は正月、という雰囲気ではないことに、拍車をかけていた。兄弟は集まったものの、父がいないと、どうも酒の進み具合も今一つ。やはり、寂しい。31日の夜に着き、3日の朝に発ったので、賞味中2日間。かなり退屈した。家族は、もっぱら正月の特番を見ていた。普段テレビを見ない私も、ついでに少し見たが、中身のあるものは少ない。時間がもったいなく感じてしまう。人には限りがある。死はいつ訪れるかわからない。前々から、頭では分かったつもりであったが、甘かったことを思い知らせてくれたのは、紛れもなく、昨年の父の死だ。だから、今目の前の人と一瞬を深く共有したい。テレビなどにその大切な時間を盗られるのが口惜しい。…と、まだまだ思っているに過ぎない自分を発見する。行動に必ずしも表れていないのだろう。それが、家族はテレビを見る、という現象=結果を生んでいる。今年も学ぶべきことは多い。
2014.01.09
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