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…といっても、今回はラジオ・アイソトープのような放射性…という話ではない。なりゆき、本日、地方局FMきららのラジオ番組(生放送)に出演させていただいた。まさか、文明から取り残されつつあるような私が、ラジオに出ることになろうとは…。世の中、何が起こるかわからない。番組の内容は、5月から6月にかけて催される、うべ探検博覧会(体験交流型イベントを通じて地域の活性化を図る取り組み、通称:うべ探 http://ubetan.jp/)のPR。先立て、「地域の活性化を図るなら、まずは心とからだの活性化からやろ」ということで、「うべ探」に応募させていただいたところ、当治療院もワーク・ショップのような形で参加決定。かくして、昨日オファーがあり、本日のラジオ出演に結びついたわけである。昼の12時から13時に収録=放送が行われた。プロのとりはからいと、共演者の和やかな雰囲気づくりに救われて、想いの外あっけなく、あっという間に終了。もちろん、生じた課題を挙げればきりがない。想いをうまく伝えられたか、と問われれば、はっきり言って全然、だ。しかし、踏み出してよかった、という実感は確かにある。ご縁に、機会を与えてくれた方々に、心より感謝。今回のラジオ出演は、出るや、否や、相当決めあぐねた(実は先週も一回オファーがあったのだが、その時は断らせていただいた)。その心境は、ものすごく大袈裟に言わせてもらえば、原始人が未知なる文明の利器に奇しくも遭遇した時のような。黒船来航で開国を迫られた時の日本とも近いかもしれない。好奇心と警戒心との葛藤とでもいおうか。何せ私は臆病だから。だから、この一歩は私にとって、(これまた大袈裟に言わせてもらって)自然と文明、両者和合の道への一歩。未曾有の自然災害にみまわれ、さらに原発という文明の頂に脅かされている日本が、これから模索していく方向と一致しているように予感されてならない。
2011.03.31
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春はうれしい。畑の収穫もさることながら。海ではヒジキ、ワカメ、天草などの海藻と貝、散歩コースにはフキノトウ、キャラブキ、ヨモギ、ナズナ、ノビル、ハコベ、ナズナ、カラスノエンドウ、ツクシ、タンポポと多彩な野草の面々。命みなぎる食材が溢れている(おかげで食費もだいぶおさえられているようだ)。しかし、もし。近くで原発事故などあろうものなら、これらは全て、安心して食べることかなわなくなるのだろう。自給自足を目指して暮らしていると、身に染みて感じることができる。自然には、生きるために必要なものは、きっと全てそろっているのだろう、と。からだという自然に、生きる力が、治る力が、あらかじめ備わっているように。それは、このうえなく、ありがたいこと。しかし、人は目先の便利にとらわれて、それを自ら放棄し、破壊する。身の丈を超えた便利さと引き換えに、膨大な危険を抱え込む。明日の命を殺している。その象徴が「原発」ではないか。(からだでいうならば、クスリなどの対症療法で誤魔化すことが、それに相当し、結果、癌などという原発さながらのモノができあがる)ここらの海でも工場などの影響か、魚も海藻も減り続けているという。「私たちは戦後、物が無くても、海の恵みで何とか食いつなげた。けど、今度戦争が起きたら、それも無理だろうね。」ある患者さんがつぶやいたそんな一言を、私は忘れることができない。
2011.03.24
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人は皆異なる。 住んでいるところも。立場も。役割も。からだも。心も。 被災地の人。被災地から近い人。遠い人。 同じ地震という現象に対しても、観方、感じ方、考え方、皆違っていて当然だ。 近いからこそ、限られた視野の中で、瞬間、直感を大切にし、変わっていくことができる。 遠いからこそ、大きな視野でとらえ、冷静に深く考え、変わっていくことができる。 それぞれが、何を受け取り、想い、気づき、変わっていくか。それが大切だと想うのだ。 この未曾有の災害をきっかけに日本は、そして世界は大きく変わっていくだろう。 崩壊によってたくさんの想いが生じ、それらの入り混じった混沌から、きっと道が拓かれていく。 私たちの変化を映した未来へ向かって。 事態は決して収束に向かっていない。むしろ、歴史レベルの大きな変化は、まだ始まりを告げたばかりだ。
2011.03.17
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ネットにしても、テレビにしても、基本的に日本のマスコミは信頼性に欠く。情報が正確には伝わらない。発言の真意が巧妙に隠され、スキャンダラスに編集された情報がばら撒かれる。自分と向き合うことを恐れ、他人のスキャンダルに敏感な人々をうまく煽る。そういう人を誤魔化し、欺くのは簡単だろう。 私は政治にも疎い人間だ。政治がどっちを向いているかぐらいは把握しているつもりだが、政治家の名前もあまり知らなければ、どんな人なのかもよく知らない。「天罰」発言をした知事に関しても同様。名前はさすがに知っていたけど。 ただ、ネットの動画で某知事を診て。動画にしてもうまいこと編集して誤魔化しているが、消せないところもある。見えるところは編集できても、診れないところは編集できない。 こいつは向き合うとるナァ。そう感じた。腹を切る覚悟があるナァ、と。そして相当に賢い。さすが首都の知事をはるだけのことはある。 こういう時に、耳触りのよいことを言って、誤魔化すのは簡単だ。 「天罰」発言で火の粉が自分に降りかかることをわからぬはずがない。問題と向き合い、覚悟を伴った発言だ。震災が、自分に対する「天罰」であることもわかっているのだろう。こんな時、あの立場だからこそ、言う必要があることを理解し、実行している。心を揺さぶるために、時に強い言葉を選ばなくてはならない。これから皆が生き抜いていくために。 会見で撤回をしているが、一度出した言葉が消えないことも知っているはずだ。天罰である、という心は何ら変わっていまい。ただ、誤解を招き、被災地の人々を傷つけたことへの謝罪はきっと本心だろう。 正直、政治家に対しては、保身的、私腹を肥やすイメージが強く、不信感がつきまとうだけに、何やら新鮮に感じた。もう少し若かったら、撤回もしなかったかもしれない。80近い年寄りにあそこまでさせなくてはならない、日本の政界。 やはり、病んでいる。 (→続く)
2011.03.17
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災害と病気は似ている。 肝臓が悪いからといって、肝臓だけに問題があるわけではない。からだはすべてつながっているのだから。心も含めた全身に問題があって、そのしわ寄せが肝臓に集まっているのだ。肝臓が肩代わりしてくれているというわけ。 同様に、家族で母が病気になったとしよう。その病気の原因は、母の素行のみではない。家族の負担が母に集中し、発病、ということがある。関係性がすでに病んでいた、と診ることができる。家族一人一人がその素行、心のあり方を改める必要が本当はあるのだ。 学校や会社で自殺者などが出た日には...推して知るべし、だ。 さて。 日本という社会を一つのからだとするならば。一億二千七百万ばかりの細胞でなるからだとみるならば。 震災前からとっくに病んでいる。増える個々の病気。心の病抱える者も多く、年間の自殺者は3万人を超え続けていた。何か違うだろ...きっと多くの人は心の奥に疑問を抱いていたのではないだろうか。 そこへ、この震災。きっかけを与える、外からの強烈過ぎる刺激。 被災地の方々が文字通り犠牲になってしまった。私たちの肩代わりだ。 ...が、「天罰」の深意が問われるのは、実のところ、これからではないか、と想う。 原発の問題はもちろんのこと、今まで、誤魔化されて内面で深刻化を続けていた問題が、一度に外へ溢れ出てくるだろう。それは、当然、被災地の人々だけではなく、全ての人に甚大な影響を及ぼすことになる。 発症とはそういうことだ。 しかし、それと向き合わなくては、病は進行し続け、ゆくゆくさらに大きな崩壊をもたらすだろう。 (→続く)
2011.03.17
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胸苦しさが問いかけている。 「お前はこれでいいんか?これで全力か?もっとやれることがあるんとちゃうか?これからどこへ向かうんや?」 それは常に自問自答し続けてきたところであるが、今回の声はもう一つ大きい。 秋田にいる妹は、地震発生二日後、余震が続く中、確定申告関係の業務をしていたという。電話で「我ながら狂っている、こんなことをしている場合ではないだろうに」とぼやいていた。 きっと私だけでなく、誰しも心に波が、問いかけが生まれたのではないだろうか。いや、もうとっくに生まれていたのに、誤魔化し続けていた心の波が、再び押し寄せてきたのではなかろうか。 いつ、何時、何が起きても不思議ではない、次の瞬間にも平穏である、生きている保障はない、と気づかしめる天災によって。 「歩けなくなって、はじめてからだのありがたさ、周りのありがたさに気づきましたわ」治療をしていれば、そんな声を聴くこともある。病気をして、気づくこと。そして、そこから大きく変わっていく人生。 災害と病気は似ている。 どちらも苦しい。しかし、どちらも自分と、問題と向き合うきっかけをくれる。 崩壊と混乱を経て、再生が始まる。 誤魔化さずに向き合うならば、乗り越えることで、成長があり、よい方向へ変化していく。 (→続く)
2011.03.17
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津波は去ったものの、心に起きた波は未だ引ききらず。今一つ、どこか落ち着かない自分がいる。 遠く離れた山口でこれだ。 被害の甚大さ、そして、決して事態はまだ収束に向かっていないことを物語っている。 この時期の東北の寒さ。からだが覚えているだけに、忍びない。 テレビを見ることがない、情報に疎いわが家だが、一昨日嫁が某知事の「天罰」発言を知らせてくれた。なるほど、某社の朝刊に小さく出ている。少し気になったので、ネットで少し調べてみる。だいぶ批判を受けたようで、発言の撤回までしたらしい。が、どのページもあまり詳しくなくて、発言の全貌はわからず仕舞い。 発言の賛否など、この際どうでもよい。 ただ、震災に想うところと重ねた、「天罰」に対する私なりの解釈は以下のとおり。 今回の震災を「天罰」とするならば、誰の罪に対して、誰に向けて下されたものなのか。 それは、私たち一人一人の罪に対して、私たち一人一人に向けて、であると想う。 被災地の方々は、私たちの罪を特に集中して被ってしまった。代わりに被された、といってもいいかもしれない。 遠く離れているにもかかわらず、消えない心の波。 どこかいたたまれない、後ろめたいような、やりきれない、この胸苦しさの理由は、きっとそこにある。 (→続く)
2011.03.17
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よく晴れて風も少ない、穏やかな日曜日。午前中は家族と畑仕事に精を出し、昼食も畑で弁当をいただいた。至って平穏な山口県のとある畑。被災された方々も地震直前までは、きっといつもと変わらぬ日常だったにちがいない。しかし、一瞬。次の瞬間、一転。生は常に死とつながっている。認識していないだけで、死の危険は常にそこ、次の瞬間に存在している。生きているということは、実のところ、常に「命がけ」なのだ。同様に、日常と非日常の境も極めて曖昧だ。今あたりまえにできていることが、次の瞬間、あたりまえにできる、という保障はどこにもない。それはもはや避けようがない(意識的には)。リスクを想定して回避しようとしていても、その想定を簡単に覆すようなことが起こる。原発事故のように。だからこそ、今この一瞬。今ここを生きている喜びがある。遠い未来を案じて、今をおろそかにすることはできない。治療で、武術で、自然農で、そういう感覚・覚悟がなんとはなしに育つ。リスクと向かい合って生きていれば、自然と育つ感覚なのかもしれない。逆に、リスクを意識的に避けようとし続けて、便利になりすぎた現代。鈍感になっている部分ではないだろうか。被災地から遠い空の下、被災者の力になれることは、残念ながら今の私にはほとんど無い。だから、いつもと変わることなく、「今を大切に生きる」という自分の役割を果たす。目の前のことを全力で果たす。家族と大切な時間を心置きなく過ごすのもその一つだ。明日も、次の瞬間にも、会える保障などどこにもないのだから。 ただ、せめて、被災地を想い、そして祈ろう。(秋田出身ということで、血族の身の上を気遣ってくれた方々に心より御礼申し上げます。おかげさまで皆無事でございました)
2011.03.13
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三寒四温を経て、温かくなりつつある今日この頃。 植物は芽吹き、動物は巣穴より姿を現し始めます。自然界の万物が目に見えて躍動始めるこの時期、身近な自然である「からだ」にも大きな変化が起こりやすいもの。 問題があって、冬から春のからだへスムーズに変わっていけない場合、症状が現れます。症状という崩壊と混乱の中、反省や気づきを経て、心は成長し、からだは再生へ向かいます。 近年、叫ばれる「未病を治す」や「予防医学」。類を見ない健康ブーム。しかし、病と向き合い、「未病を治す」を深く理解している人がどれだけいるでしょうか。うたい文句に踊らされて、健康食品や健康グッズ、果ては薬を購入するといったように、予防を外に求めていませんか?特別なモノを求めて、身の周りを固めたとて、本当の意味での予防はできません。モノが無ければ安心できない、というのであれば、もうすでに病に陥っています。モノに囲まれて、身動きがとり辛く、不自由になってゆく。病に囚われて予防を意識し過ぎるがゆえに、自ら病に陥っていく。健康診断や検査も曲者です。そういう検査に頼るから、自分の感覚が鈍っていく。自分のことを自分でわからなくしてしまう。そこに自信が育つはずはなく、本当の安心もありません。数値や画像は絶対ではない。それらを信じて薬を飲み始め、あるいは手術し、逆に体調を崩していく、自信・自由を奪われて先細っていく方がたくさんいます。特別な予防など意識しなくていい。調子を崩したら、治ればよいのですから。人生山あり谷あり、波は必ずある。不調、病気も必ずあります。健康と病気は表裏一体、別ではないのですから。常に完璧、一定を求める方が無理、不自然というもの。その代わり、自身の感覚を大切にしてみては? からだの声を薬などで誤魔化さず、向き合う心を養ったらいいと想います。症状というからだの声が生活の、自らの誤りを教えてくれるのですから。からだの声に気づいたら、生活を省みて、少し修正してみる。おなかの調子が悪くなったら、胃薬を飲むのではなく、食べる量を減らしてみるとか。崩壊なくして、自己の否定なくして、真(心、芯、信)の成長、再生はありえません。壊しては芯を残し、壊しては信を残し。一歩一歩、死ぬまで成長は続きます。 植物は種の殻を破って芽を出し、蝶はさなぎを破って大空に飛び立つ。崩壊と混乱を受け入れ、乗り越えたとき、そこには大きな成長があり、より広く深い世界が拓けています。
2011.03.11
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暦の上では立春をむかえ、春の鼓動をからだのうちに感じる今日この頃。それでも外はまだまだ寒い。巷では人のそれもさることながら、鳥のインフルエンザが随分と騒がれています。様々な見方があるでしょうが、私的には、鶏の集団感染およびその殺処分は明らかな人災。生まれた時から抗生物質やら何やらといった薬で厳重に管理され、最悪の場合、狭いゲージで窓はなく、人工的な光で体内時計まで管理される生活。そうして異常なハイペースで成長、産卵(ホルモン調整による)。当然、そういった鶏のからだには無理、多大なストレスがかかり、生命力は減退しています。集団感染、発症の下地が人によって完璧につくられているのです。経済至上主義、目先の利益、効率を追い求めた結果が、一度に数十万というおびただしい骸。…ここまで読んで、何やら不安を感じませんか?そう、これは私たち人間の現在、医療の現在を映している現象。子どもの頃から化学合成物質、薬品で誤魔化され、便利さに囲まれて人工的に管理され続けた人間のからだがどうなっていくか。治癒力がどうなっていくか。感覚、感性がどうなっていくか。次世代への影響はどうなのか。その答えは目の前に諸問題として溢れてきています。ワクチンを当然とする前に、自分と周囲をみつめ、考えてみるとよいのでは?そのように考えてみると、細菌やウィルスは果たして病気の原因だろうか?という疑問が浮かんできます。ワクチンも必要だろうか、と。おそらく彼らは病気の「原因」ではなく「結果」。からだという生息環境が変われば、そこにすんでいる菌やウィルスの分布も変わります。一時的に特定の種が増殖することもあるでしょう。土壌微生物、バクテリア、細菌は死んだものに湧き、分解して土に還します。からだにおいてもそういうことがあるのではないか?風邪の時などは代謝が高まる分、死ぬ細胞も多い。それを分解するために特定の細菌やウィルスが増殖し、活躍するとしても不思議はありません。本当の敵は自分の外にあるのではなく、内に潜んでいます。思い込み、我執、囚われ、偏見…。そういう心の偏りが目を曇らせ、ありもしない敵を生み出す。「嫌な奴」と思い込めば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という具合で。そうして滅びへ向かう不毛な闘争が繰り広げられます。どんどん自ら世界を狭く、窮屈にしていく。誰かの、何かのせいにする前に、目の曇りを拭ってみませんか?そこには、共存共栄の素晴らしい世界、自然がただただどこまでも広がっています。
2011.03.11
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(何という草でしょうか?答えは文末に) 春。野菜もさることながら、草々も青々と伸びゆく。何とも逞しい。「この逞しい生命力、食べられたらいいのにね」そう想わずにはいられない。…というわけで、行ってきました(今回は家族で)、野草会。大分県は赤峰農場。主催者の赤峰勝人さんは30年も前から近代農業の危うさに気づき、循環農法に取り組んできた人だ。食養生にも通じており、全国からアトピーをはじめ、難病患者が訪れる。居合、合気道もたしなんでいるとのこと。農、治療、武道、著者と軸が共通している。さて、野草会。前日入りし、まずは草を摘むところから。ノビル、スイバ、カラスノエンドウ、ヨモギ、ハコベ、セリ、ナズナ…。休ませている畑には、ところ狭しと生えている。採れること、採れること。これらがいったいどんな料理に化けるのか。当日。天気は悪かったが、速攻でビニールハウスを組み上げ、皆で料理に入る。炒め物、おひたし、天ぷら、粥、酢の物、和え物、餅…。前日に採った草が次々と料理されていく。和気藹々と料理に取り組む人々。出来上がっていく野草料理。ともに生き生きとして、溢れる生命力が感じられた。そして、お楽しみの食事タイム。うまい。問答無用にうまい。味付けは極めてシンプルだが、命をいただく、という食の根源、命の根源を満たす料理。個性豊かな野草の香りが、命が生きていた。人と、草と、料理との出会い。生きる知恵を学び、家族の絆も深まった野草会。ご馳走さまでした。 (答え:上からカラスノエンドウ、ナズナ、ノビル)
2011.03.09
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エジプト、リビアと立て続けにそれは起こった。そして、それは国家だけではなく、個人レベルにおいても日々起こっていること。もちろん私にも。晴れの国、岡山。先週末、車をとばすこと5時間、私はそこにいた。某武術研究家のWS(ワークショップ)に参加するためである。その出会いがもたらした劇的崩壊。人として、まるでなっていなかった。大切なところを欠いていた。できていると錯覚していた。崩壊し、そのことに気づいた。からだで気づいていても、頭が受け入れ、整理するには時間がかかる。数日間に及ぶ混乱。今は方向をとらえ、再生が始まっている。崩壊なくして、自己の否定なくして、軸の形成、真の成長はありえない。壊しては芯を残し、壊しては芯を残し。一歩一歩研ぎ澄まされていく。今回の崩壊を経て、抑え込んでいた大切なものが再び脈打ち始めたのを感じる。今はまだチョロチョロといった具合だが、出会いに導かれ、これから川の如く大きく広く、そして深くなっていくことだろう。春。殻を、そして大地を破り、芽が吹き出る季節。
2011.03.04
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風呂に浸かっていた。浴槽の内壁に無数の水滴。一粒の水滴が水面へ向かって滑り始める。近くの水滴と引き合い、融合し、大きく膨らんで、動きは加速する。けっしてまっすぐには進まない。引き合うことで、方向を変え、道ができてゆく。出会いは成長の糧であり、道を拓く。出会い、変化し、まっすぐ進まないゆえに、面白さがある。
2011.03.03
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