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瀬田なつき「違国日記」シネリーブル神戸 予告編を見て、さてどうしたものか?? とためらっていると、看護士をなさっている、お友達の女性からメールが来て、「見ましたか?見ませんか?」 ということなので、結構、イソイソ出かけました。 見たのは瀬田なつきという、多分、お若い、女性監督の「違国日記」でした。「違国日記」ってなに? どういう意味? まあ、原作のマンガの題がそのまま使われているのでしょうね。見終えても、判然とはしませんでしたが、ひょっとしたら、主人公の一人、高校生のアサちゃんが、作家であるおばさんにすすめられてつけ始めたノートのことかなと思いましたが、まあ、確かではありません(笑)。 映画と関係があるか、ないかわかりませんが、この映画の、少女がオバサンにすすめられて「日記」を付けるという設定 は、乗代雄介という作家がデビュー作「十七八より」(講談社文庫)以来、「最高の任務」(講談社)あたりまで、何作か書き続けている、阿佐美景子という女性を主人公にして、彼女の日記を小説化している作品群とよく似ていると思いました。 映画では、両親に死に別れた少女である田汲朝ちゃんが、母親の妹で、母親とは、お互いに、互いの生き方を否定しあっていた、叔母で、小説家の高代槙生と暮らし始めるという設定でしたが、小説では「日記」を勧めた叔母は、すでに死んでしまっていて、主人公は両親や弟という家族と、平凡な日常を生きているというところが違うのですが、阿佐美景子という主人公の、小学生以来つけている、毎日の「日記」の書き出しが「あんた誰?」 というところが、おもしろい作品なのです。 で、映画を見ながらそれを思い出した理由はというと、この映画の主人公の二人をはじめとする、人と人の関係性の描き方を見ていて、登場人物たちが、朝ちゃんと槇生さんはもちろんですが、同級生の少女たちも、お友達の奈々さんや、信吾君、ああ、それから、おばあちゃんまでもが、自らに対して「あんた誰?」 という問いかけをすることで成立する「私」 として、他者と出会っている印象で、そこがこの作品の新しさだというように感じたからですね。 たとえば、主人公の朝ちゃんは、いかにも天真爛漫な様子で描かれていますが、自らに「あんた誰?」 と問いかけることで、両親に死なれてしまった不幸な少女を、ではなく、天真爛漫な少女を生きようとしてる、実は、かなりしたたかな少女だと感じましたね。 作中、確か、二度ほど映し出される、朝ちゃんが佇む、いや、渡るかな。跨線橋のシーンを見ながら、瀬田なつきという若い監督が、あらゆる人間が絡めたられてしまいがちな関係性の網のようなものを跨ごうとしている意欲のようなものを感じて、好感を持ちましたね。 ああ、映画には日記をつけるシーンはありますが、「あんた誰?」 なんていうセリフは、一度も出てきませんからね。もちろん、ボクの妄想ですよ(笑)。 見終えて、原作マンガで「こころを救われた」かどうだか知りませんが、チラシにあったから書きましたが、一緒に見た彼女がおっしゃってました。「マンガに比べて、なんか軽くて、拍子抜けしました(笑)」「ああ、そうなんですか?ボクは原作を知らないからいい加減なことをいいますが、「軽さ」が、この映画のいいところかもですね(笑)」さて、それで? という感じの映画でしたが、瀬田なつきという監督には期待を込めて拍手!でした(笑)。 結局、「違国日記」の意味は解りませんでしたが、一緒に見た彼女に教えられて、新垣結衣さんのお顔は覚えました。もっとお若い人だと思い込んでいましたが、お若い早瀬憩さんとともに、とりあえず拍手!ですね。監督・脚本・編集 瀬田なつき原作 ヤマシタトモコ撮影 四宮秀俊照明 永田ひでのり録音 髙田伸也美術 安宅紀史 田中直純衣装 纐纈春樹ヘアメイク 新井はるか音楽 高木正勝音楽プロデューサー 北原京子劇中歌作詞作曲 橋本絵莉子キャスト新垣結衣(高代槙生・叔母・小説家)早瀬憩(田汲朝・姪・高校生)夏帆(醍醐奈々・槙生の幼馴染)小宮山莉渚(楢えみり・朝の同級生)中村優子(高代実里・槙生の母・朝の祖母)伊礼姫奈(森本千世・優等生)滝澤エリカ(三森・軽音部)染谷将太(塔野和成・弁護士)銀粉蝶(高代京子・槙生の姉・朝の母)瀬戸康史(笠町信吾・槙生の男友達)2024年・139分・G・日本2024・06・22・no078・シネリーブル神戸no251
2024.06.23
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「あるじなき庭にアジサイです。」 徘徊日記 2024年6月18日芦屋・朝日ヶ丘あたり ここのところ、アジサイの花とよく出会います。まあ、季節が季節ですからあたりまえですが、今日は芦屋の丘の上のマンションの庭のアジサイです。 通りに面した一方はコンクリートの塀に囲まれた、広いとはとてもいえない、マンション1階の日当たりの悪い庭の隅に二株のアジサイがあって、誰に見てほしいわけでもないと思わせる花が咲いていました。 つい、先だって、この屋のご主人に去られてさみしい風情の花でした。 一月ほど前には、このバラが咲いていました。すでに、身動きが不自由で、車いすだったご主人に写真を撮ってお見せしたところにっこり微笑んでいらっしゃった! のが、ボクが最後に拝見したご主人の笑顔でした。 このバラの株は、ご主人に長年付き添い続けた方がご自宅でお世話続けるということで、今日は植木屋さんが掘りおこすお仕事をなさっていました。 通りと庭を隔てる壁をムカデのこどものような虫が這い上ろうとあえぐようにうごめいていました。何というか、むずむずと動く、小さくいながらも見かけだけは、やっぱりいいとはいえない姿に、思わず見入ってしまいました。 何度も、何度も、この屋のご主人と、数年前に去られた奥様の笑顔に出合いたい一心でおうかがいした部屋ですが、おうかがいするたびにボンヤリたばこを吸った庭です。 もう、ここに帰って来ることもないのでしょうね。にほんブログ村
2024.06.22
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勢古浩爾「定年後に見たい映画130本」(平凡社新書) 勢古浩爾という人は「まれにみるバカ」(洋泉社新書)で、20年ほど前にウケた人です。ボクは吉本隆明がらみの著作と、明治大学で橋川文三の門下だったということで興味を持って読んでいましたが、ここ10年、忘れていた人です。 市民図書館の新入荷の棚で見つけたのがこの本「定年後に見たい映画130本」(平凡社新書)ですが、2022年の新刊ですから、そんなに新しい本ではありません。 「定年後」と「見たい」と「映画」に目がとまりました。裏表紙でお年を確認すると1947年生まれですから、今年77歳です。2006年に、だから、59歳か60歳くらいでお勤めを退職されて、専業の文筆家ということですが、ボクが読んでいたのはサラリーマン時代の著作で、チョット言い捨てるような、それでいて、実はナイーブというニュアンスが好きだったような気がします。 で、定年後、10数年、お変わりになられたのでしょうか?フーン、映画ですか? まあ、そういう気分で読みました。 まえがきにこんなことが書いてあって笑いました。 現在でも、わたしは毎週のTSUTAYA通いがやめられない。おもしろそうな新作が入っていると、すこしうれしくなる。本と映画はわたしの趣味の両輪である。どちらか、ひとつだけになってしまうと、わたしは気持的に不完全になるような気がするのである。なにかお互いが補完しあっているようなのだ。 まあ、お暇なようですが、映画館というわけではなくて、TSUTAYA通いというところが、ボクとは違いますね。ボクの場合は映画館の人混みが好きというわけではないのですが、自宅で、まあ、大きかろうが、小さかろうが、テレビ画面の映画を一人でじっと見ているという姿を想像することが耐えられないのですね。その点、読書とセットであるらしい著者とは、多分、性格というか、性分というかが違うのでしょうね。 ちなみに、読書に関してであれば、ボクの場合、トイレか、電車か、午前零時を過ぎた夜中の台所なわけで、特に、定年後の「量」を読まなければ気がすまない場合の読書時間というのは午前零時以後がほとんどで、引きこもりを否定しているわけでもないのですが、映画に関しては、ほぼ、真反対なところで笑ってしまいました。 で、本書で紹介されている作品についてはこうおっしゃっています。本書で、わたしがひとまず推薦している映画は一三〇本である。その他、無番号のおススメ映画のタイトル(三六本)と、文章のなかだけで触れただけのタイトル(一五〇本)まで入れると、総数は三一六本になる。 と、いうことなのですが、上でも言いましたが、一九四七年生まれの著者は、現在77歳、おそらく、15年間くらいのサンデー毎日暮らし の中でのお楽しみでしょうから、ボクより10年ほど長いわけです。毎週5本の借り出しとして、年間50週くらいとして、250本。で、15年ですから、適当に概算すれば3800本くらいご覧になっているようで、その数が多いか少ないかはともかくとして、紹介のラインアップ作品は、下に写したのでご覧いただけばお分かりだと思いますが、案外、古い! ですね。130本のうち、ほぼ、半分が20年以上昔、1900年代の作品です。「定年後」を意識した選択なのかなとも思いますが、ボクが映画館に行くわけの一つは、こうなることを、ちょっと、オソレテいるからですね。そこは、まあ、人それぞれですがね。 で、130本の題名を写しながら、妙に懐かしかったのがこの映画ですね。《79》『Z』(1969・127分) コスタ・ガブラス監督。イブ・モンタン、ジャック・ペラン、ジャン・ルイ・トランティニャン。もう絶版で見られないかと思っていたら、TUTAYAで取り寄せができた。 映画では明示されないが、舞台は1963年、軍政下のギリシャの五十万人の地方都市。思想の病害をまき散らす人間として、Zと呼ばれる医師で大学教授でもある国会議員が街にやってくることになり、かれの暗殺計画が進行する。実行犯は街の選挙民たちだ。Zの仲間たちは広場での集会を中止するよう勧めるが、Zは強行し、実行犯たちに殴打され死亡する。憲兵隊も警察も一体になった街の上層部は、ただの交通事故として事件を隠蔽しようとするが、新聞記者(ジャック・ペラン)が取材をし、若き予備判事を動かす。しかしそれも次席検事によりもみ消される。それでも記者はあきらめず報道に成功する。検事総長まで事実が伝えられ、関係者は裁判で裁かれる。俊逸な政治サスペンス。 「現実の事件や人物との類似は意図的である」との文章が出る。当時、この映画を見たヨーロッパの観客たちは、これがギリシャで起きたあの事件だとわかっただろう。コスタ・ガブラスは他に、おなじイブ・モンタンを主演に据えた「告白」と「戒厳令」(合わせて政治三部作)がある。しかしレンタルの扱いはない。買うには高すぎる。アマゾンで2万4890円の値が付いている。(それもいまでは品切れ)。そこまで価値はない。(P168~P169) まあ、当たらず触らずの、こういう紹介ですが、ボクにとっては、ここで紹介されている三部作はイブ・モンタンという俳優を覚えただけでなく、たとえば、「Z」のエンドロールあたりだったと思いますが、「Z、彼は生きている。」 という、多分、ギリシア文字Zが含意していることばが流れた映画として、印象深く記憶している作品で、今、映画館でレトロなんとか企画で上映されれば必ず見るでしょうね。要するに、始まりの映画の1本というわけで、六甲道の勤労会館(今はもうありませんが)だったかで、自主上映を見た記憶がありますね。50年前のことです(笑)。思い出させていただいてありがとうという気分ですね(笑)。 まあ、サンデー毎日で、お暇な方が、適当に読み飛ばすのがいい1冊という感じです。ご本人も、そう思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。面白さの主張に何のこだわりもないところと、映画を観ると言わない、まあ、普通とは逆なこだわりが、この方らしくて、ちょっと笑えて、気楽に読めますね。 下に、映画の題名を写しました。興味をお持ちの方はそうぞ(笑)。目次第1章 人間ドラマは映画の王道1「摩天楼を夢みて」 2「アメリカン・ビューティー」 3「カンパニー・メン」 4「ファミリー・ツリー」 5「ジャージー・ボーイズ」 6「TED」 7「追いつめられて」 8「オーケストラ」 9「ニューオリンズ・トライアル」 10「ライフ」 11「アルゴ」 12「イントゥ・ザ・ワールド」 13「バートン・フェイク」 14「イエスタデイ」第2章 なんでもできる人間ドラマ15「ベンハー」 16「アルジェの戦い」 17「シービスケット」 18「サイダーハウス・ルール」 19「ターミナル」 20「チェンジリング」 21「ザ・ハリケーン」 22「ニュー・シネマ・パラダイス」 23「女神の見えざる手」 24「セッション」 25「ラスト・サムライ」 26「ドリーム」 27「ライト・スタッフ」 28「ブレイブハート」 29「JFK」 30「セブン・イヤーズ・イン・チベット」 31「フリーソロ」第3章 映画は凡作だけど、個人的に好きだ32「あゝ江田島」 33「エレキの若大将」 34「キック・アス」 35「エルビス・オン・ステージ」 36「燃えよドラゴン」第4章 わたしの一番好きなアクション&ミステリー映画37「アンタッチャブル」 38「ボディガード」 39「キングスマン」 40「トレーニングデイ」 41「タクシードライバー」 42「ダイ・ハード」 43「ブリット」 44「スピード」 45「ザ・ロック」 46「レオン」 47「欲望のバージニア」 48「パルプ・フィクション」 49「ザ・シークレットマン」 50「グッドフェローズ」 51「ミザリー」 52「デトロイト」 53「ノーカントリー」 54「96時間」 55「真実に彼方」 56「ファーゴ」 57「暗数殺人」第5章 日本映画の光と影58「用心棒」 59「椿三十郎」 60「上意討ち」 61「たそがれ清兵衛」 62「蝉しぐれ」63「最後の忠臣蔵」 64「殿、利息でござる!」 65「無法松の一生」 66「秋刀魚の味」 67「砂の器」 68「冬の華」 69「異人たちとの夏」 70「キッズ・リターン」 71「Shallwe ダンス?」 72「はやぶさHAYABUSA」 73「泣き虫しょったんの奇跡」第6章 社会派映画はリアルさが命74「弁護人」 75「1987、ある闘いの真実」 76「光州5・18」 77「ミシシッピー・バーニング」 78「ブラック・クランズマン」 79「Z」 80「顔のないヒトラーたち」 81「不都合な真実」 82「オフィシャル・シークレット」 83「コリー二事件」第7章 スポーツ映画があまりヒットしない理由84「ロッキー特別編」 85「フィールド・オブ・ドリームス」 86「マネー・ボール」 87「エニ・ギブン・サンデー」 88「しあわせの隠れ場所」 89「コンカッション」 90「タイタンズを忘れない」 91「コーチ・カーター」 92「炎のランナー」第8章 人間の業と戦争映画93「レッド・オクトーバーを追え!」 94「ア・フュー・グッドメン」 95「ブラックホーク・ダウン」 96「トラ・トラ・トラ」 97「プラトーン」 98「太陽の帝国」 99「イングロリアス・バスターズ」 100「フルメタル・ジャケット」 101「ホテル・ルワンダ」 102「ハート・ロッカー」 103「カジュアリティーズ」 104「アメリカン・スナイパー」 105「プライベート・ライアン」 106「アルキメデスの対戦」第9章 定年・老年映画が心に沁みる107「アバウト・シュミット」 108「わたしは、ダニエル・ブレイク」 109「ジョーブラックをよろしく」 110「クレイジー・ハード」 111「グラン・トリノ」 112「日の名残り」 113「世界最強のインディアン」 114「最高の人生のはじめ方」 115「ストレイト・ストーリー」第10章 これは傑作だ!わたしのベスト15116「七人の侍」 117「切腹」 118「逃亡地帯」 119「夜の台走査線」 120「セント・オブ・ウーマン」 121「カリートの路」 122「アポロ13」 123「ブラス!」 124「グリーンマイル」 125「リトル・ダンサー」 126「アトランティスのこころ」 127「冒険者たち」 128「ワールド・オブ・ライズ」 129「ジャンゴ」 130「ラ・ラ・ランド」 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.21
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「芦屋の親王塚ってごぞんじですか?」 徘徊日記 2024年6月18日(火)芦屋・翠ヶ丘あたり 雨がパラつく午後でしたが、JR芦屋駅を降りて、東に歩きました。大原町、親王塚町と、40年以上も昔、何度か寄せていただいたことがある、学生時代の恩師の旧居を探したのですが、まあ、当時、借家だったこともあったのでしょう、今ではもう見あたりませんでした。 しようがないので、少し北に歩くとうっそうとした森が見えてきました。 このあたりは翠ヶ丘町という地名らしいですが、静かな住宅街です。芦屋ですね(笑)。 緑の木立のまわりをぐるっと半周すると正面にやって来ました。平安時代の始まりの頃、平安京を開いた(?)桓武帝の跡取りだった平城帝の皇子、阿保親王のお墓ですね。通称、親王塚と呼ばれている墓所ですね。 平城帝が薬子の変だったかに関わったことから、ご本人も流浪の人生で、ホントはどこで亡くなったのかわからない人ですが、ボクは在原行平、在原業平兄弟の父親として名前を知っていました。 ここは本物の古墳だそうですが、実は平安時代よりずっと古い古墳で、阿保親王が埋葬されているわけではないそうですが、親王の塚として宮内庁が管理しているようです。 正門には宮内庁の看板があって、立ち入りの禁止と、動植物の保護を訴えていますが、柵も低いし、管理事務所もありませんから、入ろうと思えば入れます。ボクのように、もう、ちょっと奥までどうなっているか気になったり、昆虫採集の好きな方なら入っちゃいそうですね(笑)。 まあ、今日は入りませんけど(笑)。 すぐ、西には、宮川が流れています。まあ、今日の目的地はここではなくて、もう少し丘の上なので、ちょっと、川沿いを歩こうかな、という気分です。 このまま、道ぞいに歩けば、本物のお金持ちの住んでいらしゃる六麓荘の方というか、夙川の北の甲陽園というかに到るはずですが、この先のあたりで左折して、市民プールの方に向かって歩きます。バスに乗ればすぐなのですが、こうやって、芦屋とかにやって来ることも、これからはなくなりそうですし、約束の時刻に少し早いので、あれこれ思い出しながら歩きました。にほんブログ村
2024.06.20
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松岡正剛「うたかたの国」(工作舎) 今回の読書案内は、久しぶりに読んだ、あの松岡正剛の工作舎本です。 松岡正剛「うたかたの国」(工作舎)ですね。上の表紙をご覧になればわかりますが、本書の著者、書き手は松岡正剛となっているのですが、本の作りがいかにも工作舎です。奥付に出てきますが、米山拓也と米澤敬という二人の編集者による松岡正剛の発言、あるいは記述のコラージュ本なのです。で、この案内を読んでいただいているみなさんはコラージュ本て?となるわけですが、ようするに、松岡正剛という表現者が、過去、数十年に、十数年ではなく数十年! に渡って、たとえばネット上であれば「千夜千冊」であるとか、書籍であるなら、たとえば「花鳥風月の科学」(中公文庫)、「フラジャイル 弱さからの出発」(ちくま学芸文庫)として書籍化されてきた表現全体を対象に、特定のテーマによって、再び、貼り合わせることによって、新たな発見、あるいは、ああ、そうだったのか! という面白さの再構築をもくろんだ本で、これが見事に炸裂しているのです。で、本書のテーマは「うたかた」です。うたかたというのは,一つの言葉ととして読めば「泡・あわ」ですが、「歌方」と読めば、うたの移り変わり、詩的意識の変遷ということでもあるわけで、「うたかたの国」と、後ろに「国」が付けば、特定の地域、まあ、日本ですが、その国における「うた」の来歴について、松岡正剛が何を語って来たのか、あるいは、語ろうとしてきたのかを、一冊、一冊、一場、一場では、平面的発言でしかなかった言説を、いかに立体化するか! という意図によって、まあ、松岡正剛用語的に言えば「再編集」されているわけですが、かなりいまくいっていいますね。歌が歌を求めて漂泊する。歌人がさまようのではなく、歌そのものが「さすらい人」という日本古来に芽吹いた母型を使って漂泊する。(千夜千冊)本歌取り●本歌取りとは、その歌にはモト歌があるということで、たとえば「新古今集」は冒頭からして「春立つというふばかりにやみ吉野の山も霞てけさはみゆらむ」という「拾遺集」の歌を本歌として、「み吉野の山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり」を置き、続いて「万葉集」の「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」を引いて、「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」を続けてみせた。(千夜千冊・書籍未収録) と、冒頭37ページ、万葉から、新古今に至る「うたの苗床」と題した章が、まあ、こういう調子で編集され始めて、そこから、360ページ後、393ページには死ぬ鳥に春の色出る秋の暮れ 永田耕衣 という一句が、突如引用され、 耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏・・・・みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものを放っていた。正統の妖気である。 それが耕衣にあっては少々異なっていた。もうちょっと静謐なバサラのようなものがあって、俳諧が前へ行っているのか、沈みこんだのか、上下しているのか、飛来なのか飛散なのか、そういうことが見当がつかない横着が平ちゃらになっていくのである。(千夜千冊・求龍堂) と、まあ、こんなふうにコラージュされているのですが、ボクは、耕衣の句を口ずさみながら、本歌取りの章で引用されていた「歌が歌を求めて漂泊する」という断片にもどったりするわけです。 なんとなく、思いついた例を引きましたが、本書全体が、松岡ファンであれば、どこかで読んだ一言、一行が、よくぞまあ! というしかないような取り合わせで編集され、松岡理解の新しい地平! が開けている印象ですね。 なにはともあれ、ファンの方にはおススメですね。一応、下に目次を貼っておきますが、要するにこの国の「詩意識」の変遷を、万葉以前から、現代詩に到るまで、松岡発言でたどってみせた本です。彼を追いかけてきた人には、格好のRemix、まあ、音楽なら再演でしょうが、ボクには松岡正剛の読み直し始まりの一冊!になりそうですね(笑)。【目次】まえがきひぃ─うたの苗床─◉音と声と霊 方法の声 目当てと景色 文字霊か言霊か ふぅ─記紀万葉のモダリティ─◉古代 袖振る万葉 代作と枕詞 漢詩を少々 みぃ─仮名とあわせと無常感─◉平安 擬装する貫之 浄土と女房 いろはと五十音よ ─百月一首─◉うたの幕間 闇夜と月の詩歌いつ─数寄の周辺─◉中世 消息の拡大 古今と今様 すさびと念仏 連歌の時分むぅ─道行三百年─◉近世 俳諧の企み 歌う国学 三味線の言葉 なな─封印された言葉─◉近現代 断絶の近世 寅と鬼と童 世紀の背中あとがき 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.19
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ダニエル・ゴールドハーバー「HOW TO BLOW UP」シネリーブル神戸 ここのところ、精神的に引き籠り化してしまいそうなシマクマ君ですが、何とか元気の出そうな映画という気分でやってきたのがダニエル・ゴールドハーバーという監督の「HOW TO BLOW UP」という、全部横文字の作品でした。「どうやって炎上させるか」 かな、とか、「爆破の方法」 かな、とか、ない頭で、あれこれ訳を考えながらやって来ましたが、原題を見ると「How to Blow Up a Pipeline」で、何だ、パイプライン爆破の方法じゃないか!と納得して見始めました。 で、結構、ハラハラ・ドキドキの苦心惨憺の末、テキサスの石油パイプラインを本当に爆破するのがうまくいって、ちょっとホッとしながら、「おー、やった!やった!」 と、思わず拍手!しそうでした(笑)。 まあ、あとからわかったことですが、FBIが「環境テロを助長する!」 と上映に警告したことが話題の作品らしいということを知ったのですが、ボク自身は、こういう方法を選ぶタイプの環境保護思想には、今一、共感できませんし、リアリティも感じませんから助長されるわけではありませんが、この映画のように、たとえば、パイプラインを爆破してやろうと考える人がいることには、何の違和感も感じません。そりゃあ、いるでしょう! たとえばの話、東北の震災で、どこかの電力会社が国と結託してやったことと、その後始末のやり方を、被害の当事者の目で見れば、想定外とかいう無責任用語で開き直った経緯は暴力以外のなにものでもないとしか思えませんからね。そういえば、水俣病の患者さんの公聴会で、患者さんの代表の発言中に平気でマイクのスイッチを切る国の役人がいたことも、最近ありましたね。震災や公害に対する、そういう対応というのは、時代が時代なら、暴力で対抗しようと考える人がいても不思議ではないと、ボクは感じていますからね。 で、映画で、それをやったのは環境保護の活動家とか、パイプライン建設に恨みを持っている人たち、総勢8人で、足がつかないで逃げ切るには多すぎる人数! だと思いましたが、足がつかない工夫もあって、まあ、ちょっとご都合主義でしたが、無事成功という結末でした。 正直、結末には無理がありますね。FBIに限らず、どこの国でも、国家レベルでの情報管理は、もっと、有無を言わせなもので、そんなに甘くないでしょう。 ただ、拍手しながらいうのもなんですが、この映画が「環境テロを助長する」などというのは、むしろ、国家権力による環境保護運動に対する規制強化の正当化発言ではないかという印象で、残念ながら、プロパガンダ作品としては、それほどの説得力は感じませんでしたね(笑)。 余談ですが、環境保護運動とかが、こういう展開への方向性へ向かう一面があるとか、最近、読んだ「文学は地球を想像する」(岩波新書)に出てきましたが、文学研究の分野でもエコクリティシズムなんていう分野がすでにあるとか、なんだかポカン?としてしまいますね。いや、ホント、これからどうなっていくんでしょうね(笑)。監督 ダニエル・ゴールドハーバー原作 アンドレアス・マルム脚本 アリエラ・ベアラー ダニエル・ゴールドハーバー撮影 テイラ・デ・カストロ美術 アドリ・シリワット衣装 ユーニス・ジェラ・リー編集ダニエル・ガーバー音楽 ギャビン・ブリビクキャストアリエラ・ベアラー(ソチトル)サッシャ・レイン(テオ)ルーカス・ゲイジ(ローガン)フォレスト・グッドラック(マイケル)クリスティン・フロセス(ショーン)ジェイミー・ローソン(アリーシャ)ジェイク・ウェアリー(ドウェイン)アイリーン・ベダード2022年・104分・PG12・アメリカ原題「How to Blow Up a Pipeline」2024・06・17・no077・シネリーブル神戸no250追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.18
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「一遍上人遷化の地・真光寺」徘徊日記 2024年6月10日(月)和田岬あたり 6月10日の徘徊の続きです。 ジャカランダの花の普照院からすぐでした。もっとも、自動車で運転手付きですから、どっち向きにすぐだったのか、ちっともわかりませんが、乗せていただいたHさんがおっしゃるには「あんな、一遍上人って知ってるやろ。その人はな、ここでなくなりはってんや。そやから見といで。まだ昼には早いからな。」 で、下車するとザクロの木でした。 すぐ隣に「一遍示寂之地」の石碑です。ついて降りて来たHさんが言いました。「この示寂って、なんて読むんや。どういう意味や?」「知らん、しじゃくかな。死んだいうことちゃうかな?」 まあ、愚かしい会話をしていますが(笑)、「じじゃく」と読んで、立派なお坊さんが亡くなることですね。入滅とか入寂、入定とかと、同じような意味ですね(笑)。ちなみに、今日の徘徊の題にしている遷化も、「せんげ」と読んで、ほぼ同じ意味のようです。で、その近くに「大檀林」と彫られたでかい碑です。「檀林は?」「ああ、それは、多分、学校とか修業場やと思うで。」 そのようですね、ここは時宗の中心的なお寺の一つということですね。 チャンとお寺と一遍上人の由緒を書いた看板もありますが、素通りして境内です。 Hさんは、「ほんなら行っといで。わし、駐禁取られたらいややから、車停めるとこ探すわ。」 で、境内ですが、右手に鐘撞堂です。1995年の震災の跡での再建のようです。自由に鐘を撞いていいのかどうかわかりませんが、通り過ぎた後、後ろから来ていたはずの誰かが撞いたのでしょうかゴーン・・・ といい響きがして、あれ??? と思って振り向くとチッチキ夫人が小走りで追い抜いて行きましたが、ほかには誰もいません。素早い動きでしたね(笑)。 で、結構、広い境内で、右手は修業場とか、いや、阿弥陀堂でしょうか。右手の奥にお賽銭箱があって、なかなかの風情の面白い石仏さんが座っておられました。 で、左手にあるのが一遍上人の五輪塔ですね。旅ころも 木の根 かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき こんな和歌というか、御詠歌というかがある人ですね。鎌倉時代、もともとは伊予の松山の人のようですが、この地でなくなったようですね。所謂、遊行聖と呼ばれて、時宗の開祖ですね。 で、この隣にあったのが、石塔でつくりあげられているピラミッドでした。上にも貼りましたがもう一枚ね。なかなか壮観でしたよ。 戦前には、ここに阿弥陀堂があったそうですが、多分、戦災で焼けてしまったのでしょうね、戦後になって、無縁供養のために建立された無縁如来塔だそうです。戦災の中で、多くの人が無縁仏として亡くなったわけですが、町中全部が焼けたこの地に、こんなピラミッドがあったとは! と、心底驚きました。 一番下には、こんなかわいらしい石仏さんたちが並んでいはりましたよ。 隣には六人のお地蔵さんです。六地蔵というのだそうですが、お一人、お一人がちがう所作をなさっているのが面白いですね。 最後に、本殿の前のデカい石灯篭です。 なんか、これは、古そうです。戦災にも地震にもマケズニここにいたという感じがいいですよね(笑) さて、今日は、もう少し徘徊です。運転手付きの自動車徘徊は便利でいいですね(笑)。じゃあ、続きも覗いてね(笑)にほんブログ村
2024.06.17
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「ジャカランダってご存知ですか?」 徘徊日記 2024年6月10日(月)和田岬あたり あのー、ボクは知らなかったんですが、世界三大花木とかいう言い方があって、南アフリカ原産の「カエンボク」、マダガスカルが原産の「ホウオウボク」、またの名を火炎樹ともいうそうです。 で、もう一つがブラジルとかの熱帯アメリカが原産の「ジャカランダ」をいうのだそうです。 先週、お友達からメールがあって、「あんな、和田岬に世界三大花木のジャカランダいう木があって、今、咲いてるはずやねんけど、行くか?」「行く、行く、チッチキ夫人も一緒でもええか?」「ええで、ええで、うちのは孫見なあかんから行かれへんいうてるけどな。」 というわけで、6月10日の月曜日、家までお迎えいただいて、和田岬めざしてぴゅー と思いきや、国道43号線を南に下ったあたりで、「あんな、最近、このへんわからんようになるねん。ちょと、ナビ、ナビ。」「県工のとこらへんやろ。兵庫駅の東南ちゃうの。」「うん、そうやねん普照院いうお寺やねんけどな。」 誘っていただいて、運転手していただいているHさんは、生まれも育ちも、長田区の住人で、和田岬は、一応地元なのですが・・・・。「えっ?あれ県工やから、そこちゃうの?」「ああ、そやそや。」 で、やって来たのが普照院というお寺の駐車場でした。 これですね(笑)。ジャカランダという花です! 実際には青紫色が、写真よりあざやかにかんじます。 どうも、満開の時期は過ぎているらしく、足元には、独特の形の花がたくさん散っていますが、充分見ごたえがある花ですね。 青空に紫がかったハナブサが映えていいですねえ(笑)。 かなりな大木です。根もとに看板がありました。南アメリカ原産のノウゼンカズラ科の木だそうです。根っこからの太い幹には、何故か包帯(?)が巻いてありますね(笑)。 ちょっと離れると、こんなふうです。左の奥にネットが見えますが、県立の兵庫工業高校のグランドです。このあたりは、三菱とか川崎重工とかの工場群だった(今でもそうですが)こともあってでしょうね、1945年の空襲で、集中的に爆撃されて、焼け野原になった地域ですね。 お寺の本堂に上がる階段の横にお地蔵さんです。本堂は撮り忘れましたが、新しい建物で、一遍上人の時宗の寺院のようです。 お寺の今日の言葉です。慈悲ですね。励ましといたわりだそうです。最近、まあ、年のせいでしょうね、こういう言葉が身に沁みますね。 お寺の横に自動車を止めていたのですが、実はお隣は清盛塚で、北側は兵庫運河でした。お寺の前から北の方角はこんな風景です。 大輪田の泊まりとか、兵庫の津とか呼ばれていたところです。向うが神戸の町です。 さて、ここからどこに行くのでしょうね。まだお昼には少し早い時間ですが。徘徊はまだまだ続きますよ。 にほんブログ村
2024.06.16
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「メタモルフォーゼ!アゲハが巣立っています!」 ベランダだより 2024年6月14日(金) ベランダあたり 今日は6月14日の金曜日です。シマクマ君は、ここの所あれこれいろいろあって、さすがにおつかれで、朝寝をきめこんでいまたしたがベランダから洗濯物を干していたチッチキ夫人の声が聞こえてきて目覚めました。「ちょっとぉ、アゲハが次々よ。えーっと、このカメラ、これで写ってるの?あー、飛んじゃった。アッ、こっちも!ちょっと、ジッとしててよ!」 どうやら、自分ではいらないといい張っているスマホを持ち出して写真を撮っているようです。 写っていたのがこの写真です。ちゃんとピントが合っているのが不思議ですが、アゲハの巣立ち(?)です。二匹(?)、いや二頭(?)、まあ、どう数えるのかわかりませんが、次々と飛び立っていったようです。 実は、三日ほど前にも一頭、巣立っていって、それが下の写真です。スマホの持ち主が撮ったのですが、こちらはピンボケですね(笑)。 サナギだったころは、下の写真のような様子でした。6月になって、気温が一気に上がったからでしょうか?次々と孵化しています。 こんな格好で一冬過ごして、アゲハに変身するのですからね。メタモルフォーゼ! とかいう言葉がありますが、文字通り変身! ですね。不思議ですね(笑)。 で、こちらが、4月の15日だったかに、今年、最初に飛び立つのを見つけたアゲハです。翅がスムーズに開かなくて、変身に苦労してましたね。 もう一枚、6月14日の孵化、変身の姿です。 まだ、サナギがあるようで、もう少し続きがあるかもしれませんね。この日の前日の6月13日、86歳で去られた恩師を送ったばかりの朝の出来事でした。、にほんブログ村
2024.06.15
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穂村弘×東直子「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫) 唐突ですが、あの小野小町にこんな和歌がありますよね。恋ひわび しばしも寝ばや 夢のうちに 見ゆれば逢ひぬ 見ねば忘れぬ「こひわび」なのか「おもひわび」なのか、ボクには、まあ、判然としませんが、それはともかく、恋する乙女には「夢」なんですよね、カギは。 で、これに返事する人が出てくれば「相聞歌」ですよね。今回の読書案内「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫)は穂村弘と東直子という現代歌人二人による、いわば、相聞歌集なのですね。 もっとも、お二人とも還暦を過ぎていらっしゃるようですから、まあ、ごっこというこというか、気鋭の現代歌人共作の相聞和歌小説とでもいうべきかもでしょうね。 で、平安の昔であれば文であったのでしょうが、現代では、お二人の間を取り持つのはメールです。 俳諧には付け句ということがありますが、連歌の伝統を考えれば和歌にもあったはずで、それをお二人でやっていらっしゃるという面白みですね。 出会いは、ある年の春です。で、やがてめぐってきた再びの春に別れがやって来ますね。ボクは一年間の出来事として読みましたが、さて、短歌とメールが描き出す歌物語の主人公にはどれほどの歳月だったのか、まあ、お読みくださいという感じですね。 最初のページにこんな短歌が出てきます。遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた夢見ていた夢の中でボクは自転車に乗っていた(P9) 巻頭、この歌を詠み、「夢見ていた」とメールに書いているのは東直子さんです。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出す と答えて、夢から覚めたのが穂村弘さん。恋の季節の始まりです。歩くなら一人がいいの青空に象のこどもがうまれたようにおはよう。今、こちらは、朝です。生まれたての今日を、歩いています。ゆうべ少し降った雨が、空気にとけていて、音が遠くから近くからひびきます。清潔な音だな、と思います。わたしたちの身体は、どのくらい同じ時間をすごしたのだっけ。わたしたちを動かしていたものは、なんだったのかな。いちどあなたの身体にふれたものは、あなたのにおいが消えないね。ねえ、蜘蛛の巣があるよ。露をびっしりとまとって、それがひかりをはねかして、とてもきれい。ここに棲んでみたいよ。じょうだんでもかまわないから、あなたと、あなたのにおいと。ありがとう、時間。おはよう、時間。さよなら、あなたの身体。(P169) 東直子さんのオシマイの短歌とメールです。メールで相聞される短歌がやがて、こんなふうにとじられるまで、さて、何首の歌が詠まれたのか。で、二人に何があったのか。そのあたりはお読みいただいて、ということですね。なかなか、いけますよ(笑)。 最後の最後は、元に戻って、こんな結末でした。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出すジテンシャデユクネ遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた 1冊にまとめられた、二人の夢の跡ということでしょうか。まあ、それにしても、達者なものですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.14
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池内紀「101冊の図書館」(丸善ライブラリー101) 本棚から転がり落ちて来たので案内しますね。2019年に亡くなってしまったドイツ文学者の池内紀さんが1990年代に「サンデー毎日」とか、茶道の雑誌だと思いますが「なごみ」とかに連載していらっしゃった書評をまとめた新書です。 書名は「101冊の図書館」で、丸善ライブラリーの1冊です。出版は平成五年ですから、1993年、30年前の本です。ふるー! というところですが、案外古びていません、というのは、紹介されている本のほとんどが、もっと古いのですね(笑)。 要するに読書エッセイの達人が、知られていそうで知られていない、まあ、まったく知らなかった本もありますが、いつの時代に持ってきても、ナルホドという名著をネタにうーん! と唸るしかないような文章を、さらりと認めていらっしゃるのを読むというわけですからね、古びませんね。 で、100冊、どんな本かということですが、ネットの書誌にも出てこないので、仕方がありません。全部写してみました。ついでに、取り上げられている作品の出版社もつけておきます。目次1 H・メルヴィル「白鯨」(岩波文庫) 2 飯島友治編「古典落語志ん生集」(ちくま 文庫) 3 尾崎士郎「ホーデン侍従」(暁書房) 4 クラウゼヴィッツ「戦争論」(岩波文庫) 5 梶井基次郎「桜の樹の下には」(ちくま文庫) 6 杉浦茂「猿飛佐助」(筑摩書房) 7 カザノヴァ「回想録」(河出文庫) 8 兼常清佐「与謝野晶子」(角川文庫) 9 柳田國男「山島民譚集」(平凡社) 10 アンデルセン「童話集」(岩波文庫) 11 R・バルト「エッフェル塔」(審美社) 12 「食道楽」(五月書房) 13 寺山修司「一握の砂補遺」 14 宮武骸骨「滑稽新聞」(筑摩書房) 15 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(河出書房新社) 16 シェイクスピア「フォルスタッフ」(白水社) 17 マクルーハン「グーテンベルグの銀河系」(みすず書房) 18 室町京之介「香具師口上集」(創拓社) 19 ガルシア・マルケス「族長の秋」(集英社) 20 宮本常一「忘れられた日本人」(岩波文庫) 21 シャイラー「ベルリン日記」(筑摩書房) 22 シムノン「メグレ警視シリーズ」(河出書房新社) 23 子母澤寛「遊侠奇談」(桃源社) 24 平岩米吉「犬の生態」(築地書房) 25 ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」(角川文庫) 26 野崎万理他「上方はなし」(三一書房) 27 モリエール「守銭奴」(岩波文庫) 28 丸山薫「帆・ランプ・鷗」(中公文庫) 29 吉田健一「私の古生物誌」(ちくま文庫) 30 辻まこと「虫類図鑑」(みすず書房) 31 コナン・ドイル「名前の研究」(新潮文庫) 32 曾良「随行日記」(小川書房) 33 セルバンテス「ドン・キホーテ」(岩波文庫) 34 三田村鳶魚「大衆文藝評判記」(中公文庫) 35 フロベール「ブヴァールとペキシュ」(岩波文庫) 36 佐藤春夫「殉情詩集」(筑摩書房) 37 滝田ゆう「寺島町奇譚」(ちくま文庫) 38 岡本一平「へぼ胡瓜」(旺文社文庫) 39 ワイルド「ドリアン・グレイの画像」(岩波文庫) 40 フロイト「夢判断」(新潮文庫) 41 和田誠「倫敦巴里」(話の特集編集室) 42 森銑三「佐藤信淵」(中央公論社) 43 魯迅「雑文集」(龍渓書舎) 44 坪内稔典「おまけの名作」(いんてる社) 45 ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」(鹿島出版会) 46 石川恒太郎「日本浪人史」(西田書店) 47 篠田一士「世界文学「食」紀行」(朝日新聞社) 48 橋本万平「狛犬を探して」(私家本) 49 アメリ―「自らに手をくだし」(法政大学出版局) 50 玉林晴朗「文身百姿」(文川堂書房) 51 ピセツキー「モードのイタリア史」(平凡社) 52 大佛次郎「パナマ事件」(朝日文庫) 53 岡本誠之「鋏」(法政大学出版局) 54 ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(法政大学出版局) 55 ベンヤミン「ドイツの人々」(晶文社) 56 名和弓雄「拷問刑罰史」(雄山閣) 57 カフカ「変身」(新潮文庫) 58 中瀬喜陽「熊野中辺路・詩歌」(熊野中辺路刊行会) 59 森銑三「明治東京逸聞史」(平凡社) 60 今官一「隅田川のMISSISSIPPI」(津軽書房) 61 カネッティ「マラケシュの声」(法政大学出版局) 62 ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(岩波文庫) 63 ゴーゴリ「鼻」(岩波文庫) 64 矢野目源一訳「ヴィヨン詩抄」(椎の木社) 65 槇有恒「山行」(五月書房) 66 尾佐竹猛「賭博と掏摸の研究」(總葉社) 67 大石真人「全国いで湯ガイド」(山と渓谷社) 68 岡本綺堂「半七捕物帖」(光文社文庫) 69 シェイクスピア「ヴェニスの商人」(新潮文庫) 70 小林太市郎「芸術の理解のために」(淡交社) 71 ジョフィン・テイ「時の娘」(ハヤカワ文庫) 72 チャンドラー「大いなる眠り」(創元推理文庫) 73 柳田國男「還らざりし人」(ちくま文庫) 74 北原白秋「日野国」(菊竹金文堂) 75 カフカ「城」(新潮文庫) 76 牧野信一「ゼーロン」(岩波文庫) 77 神西清「みいらヲカナシム歌」(文治堂書店) 78 レ二・リーフェンシュタール「回想」(文藝春秋) 79 チェーホフ「犬を連れた奥さん」(岩波文庫) 80 シュニッツラー「死人に口なし」(岩波文庫) 81 横光利一「名月」(河出書房新社) 82 南波松太郎「日和山」(法政大学出版局) 83 村井弦斎「食道楽」(柴田書房) 84 平塚武二「太陽よりも月よりも」(童心社) 85 西山松之助「しぶらの里」(吉川弘文館) 86 カネッティ「群衆と権力」(法政大学出版局) 87 橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社) 88 エイメ「壁抜け男」(早川書房) 89 幸田文「父―その死」(新潮文庫) 90 石井研堂編「異国漂流奇譚集」(新人物往来社) 91 マリオ・プラーツ「記憶の女神ムネモシュネ」(美術出版社) 92 穂積勝次郎「姫路藩の人物像」(私家本) 93 内田百閒「東京日記」(岩波文庫) 94 レニエ「ヴェニス物語」(弘文堂) 95 木下杢太郎「食後の唄」(中公文庫) 96 伊藤整「雪明りの路」(新潮社) 97 樋口一葉「恋歌」(筑摩書房) 98 寒川鼠骨「鼠骨集」(改造社) 99 三好達治「郷愁」(岩波文庫) 100 辻まこと「山で一泊」(創文社)あとがきにかえて いかがでしょう、気になる本はありましたでしょうか?まあ、これでは味もそっけもないので、一番最後、100冊目の辻まこと「山で一泊」をちょっと紹介しますね。 辻まことという人は辻潤という餓死したアナーキストの息子ですが、お母さんが甘粕事件で大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝ですね。辻まこと自身も1970年代だったと思いますが、60数歳で自ら命を絶った人です。虫とか山とか、独特のエッセイ、絵画作品を残しています。 辻まことの作品を収めた書籍としては、みすず書房の「辻まことの世界 正 続」、「辻まこと全集 全6巻」とか、ちくま文庫の「虫類図譜」とか、平凡社ライブラリーの「辻まことセレクション1・2」とか、今では色々出ていますが、池内さんが取り上げているのは創文社の「山からの絵本」だと思います。 で、書評ですが、蒼穹 辻まこと「山で一泊」と題されていて、こんなふうに書きだされています。 静かな雨に閉ざされた夜のテントに一人いるとしよう。「実際にいま私はそうなんです・・・・めったにない貴重な時間です。」 私たちはみな生まれてこのかた「おまえは人間だ、人間だ」といわれ続けてきた。たまにそういう強制的な「契約意識」から解き放たれてみてもいい。人間の権利、義務、家庭、仕事、エトセトラ。人間、人間といい続けるほど、これは上等な生きものだろうか。「君がもしいま稜線の手頃な岩に腰をおろして、ハイマツの上を吹きぬけてくる風に吹かれているとする」 あるいは倒木にもたれて、木々の間をすぎる風の音を聴いているとしよう。そんあとき、どんな感じがするものか。サワサワと鳴る囁きにのせて。彼らの経験してきた旅の話が聴こえてこないか。谷間の陽かげに湧く小さな泉の話。そのそばの苔の香り。しばらく運んだ渡り鳥の群れのこと。話を聴くばかりでなく、ときには頼んで風に心を乗せてもらえないか。 まあ、こんな感じです。辻まことが、どこかに出てきているのか、まだなのか。まあ、よくわかりませんが、続けて写すと名前が出てきます。 辻まことはこの本の中で、福島と栃木の県境の帝釈山地で出くわしたヤマノヒトのことを書いている。世間との交渉を一切絶って山中に消えた男。その眼は茫漠としていたが異常な気配はまったくなかった。寂しい悲しみを思わせる表情があったという。ひとことも口をきかない。声だと思ったのは、小石に皮を張った古風な鹿笛であることが、あとでわかった。 もはや言葉を忘れ、気もふれてーと人はいうだろうが、はたしてそうか。計画と用意と忍耐がなければ、長い雪の中の生活を過ごしていけるわけがない。経験を推考する言葉がなくて、どうして厳しい環境を克服できるだろう。人は正気を失うと狂気とだというが、正気でも狂気でもない世界があるのではないだろうか。「文化動物」として馴育される秩序をはなれた精神状態。混乱でも混沌でもない、まるきり別の意識でもって環境に適応する。というよりも、環境の意味を変えていく、そういう精神世界があるような気がする。 と、まあ、やっぱり、辻まことがどこにいるのかわからないまま、もう少し続いて、結論はこうでした。 私は夢見ている。おだやかな晴れた朝だ。なんとなく運のいい山旅のような気がする。水筒にみずをつめ、地図をたしかめたのち歩きだす。「左うぐいす右うぐいす」、そんな草野心平を辻まことも引いている。混成林の緑の底でうごめいていると、まるで全身を緑色で染められたような気持がする。 昼すぎ、山頂。「ちょっと下った岩の上から日本海が見晴らせる。潮風が涼しい。食事にする」(P212) ね、見事なものでしょ。 まあ、こういう書評というよりもエッセイが100冊分載っていて、この本と合わせて101冊なのでしょうね。この本自体、手に入るかどうか、むずかしいかもしれませんが、いかがでしょう。 今回、目次を写しながら、一番驚いたのはこのかたですね。橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社)。すぐにお気づきの方はえらいですね。谷根千の森まゆみさんの最初のペンネームなんだそうですね。池内訳の「カフカ全集」も、読まなきゃと思うばかり滞っていますが、ここでまたしても、「読まなきゃ本」が増えてしまいました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.13
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イーサン・コーエン「ドライブアウェイ・ドールズ」シネリーブル神戸 なんとなく、なにをどうしたいということが思い浮かばない一日でしたが、家にずっといるのもなあ・・・ というのでやって来たシネリーブル神戸です。暗そうな邦画はやめて選んだのがこの作品です。イーサン・コーエン監督の「ドライブアウェイ・ドールズ」でした。 イーサン・コーエンという人は知りませんでしたし、「ドライブアウェイってなんだ?」 でしたが、女性二人のロード・ムービー ということなのでテルマとルーズの現代版かな? とか思って見ましたが、まあ、のけぞりそうでした(笑)。 しょっぱなから、女性同士の、まあ、ラブシーンで、その後も繰り返し、似たようなシーンが出てきますが、なんというか、寝てしまいそう・・・ で困りました(笑)。 ドライブアウェイというのは、自動車の配送という仕事の名前で、スーキーという、マッチョで、お仕事がK官という恋人と別れて、やけくそ気味のジェイミーというオネーサンが、ちょうどそっちの方のおばあさんの家に行きたがっていた、ウブな文学少女崩れのマリアンと二人連れで自動車を運ぶ旅をするというわけですが、その自動車のトランクに積まれていた荷物が問題でした(笑)。 まあ、お笑い映画なのですが、アメリカの人とか、こういうのを笑うのか?! というのがボクの率直な感想で、ちょと雑な作品でしたね。 まあ、文学少女が読んでいるヘンリー・ジェイムスの意味もわからないわけですから、眠くなっても仕方ありませんね(笑)。 何故か最後のオチでマット・デイモンが出てきたりして、ちょっと驚かせるのですが、久しぶりに、中途半端な、ドタバタ、お笑いポルノ映画を見た印象ですが、主役のお二人はなかなか美人で、とりあえず拍手!ですね。 ヤレヤレ、トホホでした。監督 イーサン・コーエン脚本 イーサン・コーエン トリシア・クック撮影 アリ・ウェグナー美術 ヨン・オク・リー衣装 ペギー・シュニツァー編集 トリシア・クック音楽 カーター・バーウェルキャストマーガレット・クアリー(ジェイミー)ジェラルディン・ビスワナサン(マリアン)ビーニー・フェルドスタイン(スーキー:ジェイミーの彼女)ジョーイ・スロトニック(追っかけてくるギャング)C・J・ウィルソン(追っかけてくるギャング)ボスコールマン・ドミンゴ(ギャングのチーフ)ペドロ・パスカル(何のコレクター)ビル・キャンプ(配送の依頼人)マット・デイモン(ゲイリー・チャネル上院議員)マイリー・サイラス2024年・85分・PG12・アメリカ原題「Drive-Away Dolls」2024・06・11・no076・シネリーブル神戸no249
2024.06.12
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「今年も咲いてくれました!」 ベランダだより 2024年6月9日(日)ベランダあたり 毎年、それも、一年に何度か咲いてくれることもあるサボテンの、我が家ではタンゲ丸くんとか花盛丸くんとか、まあ、正しい名前は知りませんが(笑)、勝手に呼んでいる花が、今年も咲きました。 今年は二輪の花です。お隣ではカラーの花もいろ好き始めています。松山のサカナクンのカヨちゃんおかみからの、数年前の贈り物だったのですが、無事に生き延びて、毎年、こうして花を咲かせてくれるのがうれしいですね(笑)。 ああ、タンゲ丸くんの全景を忘れるところでした(笑)。 まあ、こんな感じですね。2024年の6月9日日曜日の朝のベランダでした。にほんブログ村
2024.06.11
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立花隆「思索紀行 上」(ちくま文庫) 元町の古本屋さんの棚で、この本を見つけたときに、著者でである立花隆という希代のジャーナリストが2021年、80歳で亡くなったことをふと思い出しました。角栄とか、日本共産党とか、まあ、あんまり興味を感じなかったのですが、それ以後のサル学とか宇宙とか、いろいろ思い浮かんできて、手に取ってパラパラしながら、あれ? これ、読んでないな。 で、買ってしまいました(笑)。 買い込んだのは立花隆「思索紀行 上・下」(ちくま文庫)で、今回の案内は上巻です。2020年にちくま文庫になった本ですが、元々は2004年に書籍情報社というところから出されていた本のようです。で、中の記事はというと、下の目次の後ろに書き添えたとおり、かなり古いわけですが、ボクには今でも十分面白かったですね。 目次序論 世界の認識は「旅」から始まる(2004)1 無人島生活六日間(1982・週刊文春)2 モンゴル「皆既日食」体験(1997・SINRA)3「ガルガンチュア風」暴飲暴食の旅(1984・文芸春秋)4 フランスの岩盤深きところより(1987・太陽)5 ヨーロッパチーズの旅(1986・月刊専門料理別冊)6 神のための音楽(1984・FMファン)7 神の王国イグアス紀行(1987・文芸春秋)8 ヨーロッパ反核無銭旅行(1996・書籍情報社インタビュー) 本の作り方については、序論の終わりにご本人がこんなふうにまとめていらっしゃいます。 これは相当に変な作りの本である。何しろ、あちこちが未完だらけなのである。それでもそれでよしとする理由があってそうしたということは、先に述べたとおりである。 本人はこれをまとめるにあたって、楽しみながらまとめたので、読者諸氏におかれても楽しんでいただければ幸いである。質量ともに楽しむに足るだけのいろんな材料をとにかく詰め込みに詰め込んだ、幕の内弁当のような作りになっているので、たいていの人に楽しんでもらえるはずと思っている。(幕の内弁当と同じで、残らず食べくださっても、もちろんけっこうだが、気にいったところだけつまみ食いしていただいても、もちろんよい)。(P110~P111) 要するに、雑誌等の記事として発表はされたけれども、書籍化できていなかった「旅の記録」、ルポルタージュを、2004年に書籍化したという本らしいですね。 彼は「旅」について序論の始めころにこんなふうにいっています。 まず、 日常性に支配された、パターン化された行動(ルーチン)の繰り返しからは、新しいものは何も生まれてこない。知性も感性も眠りこむばかりだろうし、意欲ある行動も生まれてこない。人間の脳は、知情意のすべてにわたって、ルーチン化されたものはいっさい意意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。そして、そのようにして処理したものは、記憶もされないようになっている。意識の上にのぼり記憶されるのは、ノヴェルティ(新奇さ)の要素があるだけのものなのである。(P42) で、 旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべての刺激がノヴェルティの要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。旅では経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と後では、その人は同じ人ではありえない。(P42) と、まあ、結論して、もう一言付け加えます。 旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の小さな旅の、あるいは「大きな旅の無数の小さな構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってもよい。(P43) ボクは、生まれて初めての入院という体験をしながらこの本を読んでいたのですが、まあ、こういう記述に文句なしにうなずきながら眠れない夜を過ごしたのでした。 消灯時間は、午後9時だったのですが、枕許の灯りについてはお小言なしで、その上、ひっきりなしに呻いていらっしゃる同室の意識不明の方々のお世話で、繰り返しやって来られる夜勤の看護師さんたちの元気な行動をカーテン越しに伺いながら、初体験の「ノヴェルティ」に興奮しながらの夜を徹しての読書でした。ベッドに寝ころんでいただけですから、旅をしたのかどうかはともかく、まあ、ウトウトして目覚めると、昨日までの日常の風景とは違うところに寝そべっていたことは間違いないですね。 というわけで、この上巻で、おもしろかったのは、もちろん、「無人島生活六日間」でしたね。皆さんも、病院のベッドとかでいかがですか(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.10
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ラジ・リ「バティモン5」シネリーブル神戸 今日は69歳最後の日です。午前中、退院後初めての通院で「快癒」と診断されて、すっかり元気になって出かけたシネリーブルでしたが、それで?それで? と畳みかけられるように見終えて、すっかり元気を失った作品でした(笑)。これが現実なのですね。 見たのは、数年前に見た「レ・ミゼラブル」で、フランスにおける貧困の、移民や難民の、実相を描いていて度肝を抜かれた、自身もアフリカ生まれのフランスの監督ラジ・リの最新作「バティモン5」でした。 副題に「望まれざる者」とついていますが、原題は「Batiment 5」、フランスにやって来た「移民」たちが、長年住んできた高層の「老朽アパート」が立ち並び、塀には「落書き」が書き散らされ、子供たちが「深夜徘徊」し、店をもてない「違法営業」が横行するパリのスラム地区の通称のようです。 この「バティモン5」の再開発をめぐり、クリスマスの夜におこった出来事が映画の事件でした。 見終えて、ナチスのホロコーストで、ユダヤ人輸送の責任者だったアイヒマンという人物が裁判で語ったと言われている「命令に従っただけです。」 という言葉を思い出しました。 この映画でも、市政の懸案事項である、「バティモン5」再開発計画を実行に移す市長がいて、市長の立ち退き強制執行の命令書を住民に届ける市役所員がいて、市役所員の安全を確保する武装警察官が出てきます。公的な、だから、普通、正しいと思い込んでしまう命令があり、命令に従って行動する公務員や警官がいて、スラム街撤去計画は実行され、裕福でのんきな市民は楽しいクリスマスの夜を過ごしています。 映画は、市長のスタンドプレイだか人気取りだかによる強制退去命令によって、そこで暮らす人々が生活そのものを奪われた「バティモン5」で暮らす二人の若い男女の行動がクライマックスでしたが、その一人であるブラズは、心情的にはボクも強い共感を感じましたが、怒りのあまり「テロ」への誘惑に取りつかれ、クリスマスを祝う市長宅の焼き討ちを実行しはじめますが、「テロ」を否定するもう一人、アビーはブラズの凶行をすんでのところで押しとどめながらも、「個」としてなすすべのない現実の闇の中を立ち去っていくのでした。 この、なんともいえないなすすべのないラストに、この若い監督の足掻きのようなものを実感しました。 人間の社会というのは、その社会を構成する「普通」の構成員、所謂、市民ですが、その市民による共同的な思い込みによってなりたっているわけで、「国家」とか、「地方公共団体」とかの制度であれ、「法」や、「規則」であれ、あるいは「自由」とか「平等」とかのスローガンであれ、「市長」とか、「警察官」とか、「市民」とかいう、職掌や身分(?)も、作中での「クリスマス」をめぐるアビーの発言が如実に語っていますが、みんな思い込みで成り立っているのだ! と思います。市長として、自分の亭主が何をしたかなんて、市長の奥さんにさえわからない。わからせるためには、まあ、市長の家に火でもつけるしかないという考えも浮かぶわけですが、それでは解決にならないわけです。 まあ、そういう、のんきな人たちによる思い込みから消し去られた「現実」が、いかに苛酷であるかを、ここまでまっすぐに突き付けようと足掻いているかの作品には、そうそう、出逢えるものではないのではないでしょうか。 「貧困」、「移民」という現代フランス社会、あるいは世界中の社会の実態を直視しようとする意志に満ちた監督の足掻きとためらいに拍手!でした。 まあ、理由を考えだすと、あれこれ長くなりそうなのですが、この作品に対して極東の島国の映画配給業者が「望まれざる者」と副題を付け、「不都合な真実」とチラシで謳っているのですが、見終えたボクは、なんか、引っかかったんですね。うまくいえませんが、この作品を、そういう第三者的視点で見ることって、極東の島国の住人には可能なんでしょうかね?監督 ラジ・リ製作 トゥフィク・アヤディ クリストフ・バラル脚本 ラジ・リ ジョルダーノ・ジェデルリーニ撮影 ジュリアン・プパール編集 フローラ・ボルピエール音楽 ピンク・ノイズキャストアンタ・ディアウ(アビー:アフリカ系移民)アリストート・ルインドゥラ(ブラズ:アフリカ系移民)アレクシス・マネンティ(ピエール・フォルジュ:新任市長・小児科医)オレリア・プティ(ナタリー・フォルジュ:市長の妻)スティーブ・ティアンチュー(ロジェ・ロシュ:副市長)ジャンヌ・バリバール(アニエス・ミアス:政党幹部)2023年・105分・G・フランス・ベルギー合作原題「Batiment 5」2024・06・04・no075・シネリーブル神戸no248追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.09
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ジョージ・ミラー「マッドマックス フュリオサ」109ハットno44 なんか、パーッと面白い映画! を見たいなと思って、2カ月ぶりにやって来た109ハットです。見たのはジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」の最新版「フュリオサ」でした。原題が「Furiosa A Mad Max Saga」となっていて、こっちの方が、初めて、まあ、メル・ギブソンのマッドマックスは、はるか昔に見たことがあるような気はしますが、ほぼ、初めてこのシリーズを見るボクには、映画の外枠というかがわかりやすいと思いましたが、まあ、こだわるほどのことではありませんね(笑)。 で、見終えてですが、ナルホド、人気が出るはずやなあ! と、ズット引っ張り続けるかの展開には納得したものの、少々草臥れました。 多分、これまでのシリーズで、すでに登場しているのであろうフュリオサという女性の、少女の頃に人さらいにあった始まりからの成長譚だったわけですが、とどのつまりのディメンタスとの対決と最終決着のあたりは、ちょっとめんどくさかったですネ(笑)。 でも、フュリオサという、この主人公は、なかなかよかったわい! とか思いだしながら帰り道に、劇場前のポスターを見ると、上の写真ですが、なんだか猿の惑星みたいな様子で映っていて、えっ?こんな顔やったか? と驚いてしまいました(笑)。 1980年代くらいだったと思いますが、はじめの頃の、このシリーズを見た記憶では、まあ、確たる根拠があるわけではありませんが、オーストラリア映画! という印象が強かったのですが、今回も似たような印象を受けました。まあ、この映画が、実際のオーストラリアの風景を撮っているのかどうか、定かではありませんが、要するに、背景の自然がいいんですよね。砂漠とか荒野の感じが、アメリカ大陸の感じでもないし、中国の砂漠とかでもない感じでよかったですね(笑)。 とか、何とかいってますが、前作の「怒りのデス・ロード」とか、どこかでやっていたら、ちょっと見てみたいなと思ったわけで、やっぱり、初体験、面白かったんでしょうね(笑)。 なにはともあれ、フュリオサ役のアニヤ・テイラー=ジョイ、アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)に拍手!でした。監督 ジョージ・ミラー製作 ジョージ・ミラー ダグ・ミッチェル脚本 ジョージ・ミラー ニック・ラザウリス撮影 サイモン・ダガン美術 コリン・ギブソン衣装 ジェニー・ビーバン編集 エリオット・ナップマン マーガレット・シクセル音楽 トム・ホルケンボルフ視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソンキャストアニヤ・テイラー=ジョイ(フュリオサ)アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)クリス・ヘムズワース(ディメンタス)トム・バーク(警護隊長ジャック)チャーリー・フレイザー(メリー・ジャバサ)ラッキー・ヒューム(リズデール・ペル/イモータン・ジョー)ジョン・ハワード(人食い男爵)リー・ペリー(武器将軍))アンガス・サンプソン(オーガニック・メカニック)2024年・148分・PG12・アメリカ原題「Furiosa A Mad Max Saga」2024・06・08・no076・109ハットno44追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.08
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「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、古稀だそうです!」 ベランダだより 2024年6月5日(水) 6月5日は、徘徊老人の誕生日でした。70歳、古稀なのだそうです。 年明け早々、半年後の運転免許の書き換えに対して、「高齢者講習」とかが必要だという通知はがきを受け取って、「そういう年齢か?!」 と、なんとなくな覚悟のようなものの必要を突き付けられたのですが、気持ちの上ではガキ化! とでもいうべき、ここのところ得意の退行が進行するばかりで、集まりで交わされるあたりまえの発言に我慢がならないとでもいう、わけのわらない憤激のまま、40代からお付き合いさせていただいていた本を読む会を挨拶一つせず脱会したりで、永年仲良くしていただいたメンバーの皆さん、世間の皆さんに対して無礼千万、意味不明の行動を、あちらこちらで繰り返す醜態の半年で、なにはともあれ、勝手、気まま、まことに申し訳ありませんでした。 と、お詫び申し上げます。 ようやく、年齢相応の反省の気分ですが、まあ、後の祭りですね。 で、とどのつまりは、トラキチ君にいわれましたが、今更! の虫垂炎手術で、人生初の病気入院、全身麻酔体験でしたが軽い病状にホッとしたものの、まあ、何事でもそうなのですが、初めてというのはなかなかな体験でしたが、まあ、そういう次第で60代を終えました。 で、誕生日、当日の6月5日ですが、朝から宅配のピンポンが鳴って、まず届いたのが愛媛の石鎚酒造の銘酒「石鎚」のセットでした。ゆかいな仲間、サカナクン、贔屓の酒屋さんですね。おいしいんですよね、これ。 しばらくして、また、ピンポンで、箱一杯のビールセットでした。世界中のビールの箱詰めです。トラキチクンからのプレゼントです。テーブルに広げて大喜びです。イヤハヤ、ありがとうの一言ですが、とても、封を切る勇気はありません(笑)。 夕食をチッチキ夫人と二人でとりながら、ためらっていると、「どうして、飲まないの?」「だって、飲んだらなくなるし、勿体ないじゃん。」「今日は、焼き肉よ。飲みなさいよ。」「うん、じゃあ、一つだけ。」 ドイツのビールだそうです。ピルスナー、どうのこうのと書いてあります。まあ、どっちにしてもグラスに氷をいっぱいにしてオンザ・ロックで飲むビール ですから、味も何にもあったもんじゃないわけですが、しみる味でしたね(笑)。 で、チッチキ夫人がとり出したのが、最初の写真の徘徊用の帽子です。頭に逢う大きさを探すのに苦労したと思いますが、ありがとう!でした。 フェイスブックとかで、沢山のお祝いの言葉をいただき、ちょっと感激でした。本当にありがとうございます。 まあ、これからは、あんまり人さまに迷惑をかけないことを肝に銘じて、ヨタヨタ徘徊暮らしを続けようと思っています。このブログも、ほとんど生きがいのようになっていて、恥ずかしいのですが、1000冊の読書案内、1000本の映画鑑賞を目標にして毎日更新していくつもりです。どうぞ、よろしくね(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)とらきち
2024.06.07
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「団地はアジサイ!」 徘徊日記 2024年6月6日(木)団地あたり 三泊のお泊りの病院から帰ってきて、まあ、それでも、フラフラ、ヨタヨタ、団地を歩いていると、団地はアジサイの季節! でした。夏ですね。 どこの棟の前の庭もアジサイです。みんなおんなじかと思っていましたが、どうも違うようです。咲き方が違いますね。キッと名前も違うのでしょうね。 花言葉とか調べてみると、こちらもいろいろあるようですね。「家族」「団らん」 とかは、まあ、想像がつきますが、「移り気」「冷淡」「辛抱強さ」「高慢」「七変化」「高嶺の花」「You are cold」 ですからね。笑っちゃいました。 もっとも、こういう赤い色系の花は「強い愛情」「元気な女性」 とかだそうで、まあ、一安心ですね(笑)。 こういうのはガクアジサイとかいうのでしょうかね。ちょっとちがった風情でいいですね。 呼び名もいろいろあるようですが、正岡子規にこんな句もありましたね。紫陽花やきのふのの誠けふの嘘紫陽花や赤に化けたる雨上がり 紫陽花をあじさいと読むのが、まあ、なんといってもかっこいいですね(笑)。 ああ、これば、バラですね。ついでです(笑)。ついでついでに調べると、ピンクのバラの花ことばは「感謝」とか、「幸福」とか だそうです。漢字も薔薇ですしね。紫陽花が、ちょっと、かわいそうですね(笑)。にほんブログ村
2024.06.06
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佐藤真「まひるのほし」シネリーブル神戸 前日、同じ佐藤真監督のサイードを見たのですが、病み上がりの徘徊老人、いてもたってもいられなくて、今日もシネリーブル神戸にやって来ました。今日は付き添いなしで一人です。 見たのは、もちろん、「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の2本め、佐藤真監督、1999年の作品、「まひるのほし」です。 この写真が西宮のすずかけ作業所に通いながらゴシゴシ絵を描くシュウちゃん。 彼の、夢中になってクレパスとかを使っている顔に、フッと浮かぶあどけなさが見ているボクの心を揺さぶるように、激しくうちます。 最初のチラシの正面写真が、神奈川の絵(かい)という工房にやって来る「ボクは女の人が好きだ 。女性が好きだ。 女子高生。 女子学生。 女子短大生。 女子大生が好きだ。シゲちゃんと呼んでほしい。」 と叫び、延々とカードを書き続けるのがシゲちゃんです。 写真はありませんが、結構、お年のおじさんで、「なさけない、ああ、なさけない、いや、ありがとう。なさけない。」 と呟き続けながら信楽で穴だらけの焼き物を焼いていたのがヨシヒコさん。 他にも、個性あふれる筆遣いの人たちは出てくるのですが、名前で記憶できた、この三人の方のインパクトは格別でした。 上のチラシの写真ですが、江の島の海岸の水際で、ここでもやっぱり「シゲちゃんとよんで!」 と、沖のウインド・サーファーの女性たちに向かって叫んでいるシゲちゃんの後ろ姿を捉えるカメラの、まあ、視線に深いとか浅いとかあるのかどうかはともかく、深い、心のこもった視線に、監督佐藤真の「愛」が込められていると強く感じたたラストですが、そこに流れて来た井上陽水の歌がこんなにも哀切だったことに気付かされたのもオドロキの大発見でした。 スクリーンの映し出されるすべての人に拍手! そんな、思いで見終えました。映画から25年、映画を撮った佐藤真はすでにこの世の人でありませんが、きにかかるのは、映画に出てこられた、みなさん、お元気にしていらしゃるのでしょうか? ということで、この作品は、そういう映画だったと思いました。 芸術表現人の根底に迫るとチラシは謳っていますが、普通の人間が普通に生きている姿を、人間をそのまま撮りたい監督やカメラマンが、深く、あたたかい眼差しで、静かに見つめ続けている。 そういう映画だと思いました。まさに、ドキュメンタリーの傑作ですね。拍手!監督 佐藤真製作 山上徹二郎 庄幸司郎撮影監督 田島征三撮影 大津幸四郎録音 久保田幸雄録音応援 菊池信之助監督 飯塚聡挿入歌 井上陽水キャスト舛次崇(しゅうじたかし:しゅうちゃん)西尾繁(にししげる:しげちゃん)伊藤喜彦(いとうよしひこ:よしひこさん)竹村幸恵富塚純光川村紀子松本孝夫1999年・93分・日本2024・06・02・no074・シネリーブル神戸no247追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.05
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養老孟司×名越康文「二ホンという病」(日刊現代・講談社) 市民図書館の新刊の棚にありました。養老孟司と名越康文、元解剖学者と精神科医、まあ、お二人ともお医者さんですね、だから、まあ、「二ホンという病」ということになったんだろうと思います(笑)。名越という方の文章を読むのは、初めてですが、養老孟司は「バカの壁」(新潮新書)でバカ受けする、はるか以前からのファンです。 ボクにとっては、おしゃることが、まあ、最近、そういう方は減ってしまいましたが、その数少ない、信用できる方のお一人ですね。 というわけで、借り出してきて、なんだか、すらすら読み終えて、やっぱり、ありましたね。養老 僕はなんだか、日本の原題を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。 中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしてましたね。 中略名越 そうか、叙勲も何もないんだ。異様ですね。養老 そんなことより、戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。 中略 別にほめなくてもいいけど、どう位置付けるかでしょうね。個人の自立って話だけど、中村さんなんかは典型的にそうですけど、今度はそれをどう評価するかっていう問題があって、何の物差しも持っていないですよ。ポカンっていう感じですよね。 まあ、二ホンという社会の「病」の話ですから、ここからは、いや、ここまでも、思想抜きのアホ政治、いつの頃からの流行か忘れましたが「リアル・ポリティクス」とかいう言葉が作り出した「現実」の「病」の指摘ですね。問題は思想抜きってどういうこと? ですが、そこは、この対談だけ読んでも、多分すぐにはわかりませんね。要するに普遍的に判断する基本がないってことですが、そこを考え始める本かもですね。 日刊ゲンダイという夕刊紙の連載対談ということもあって、コロナとかウクライナとか、話題は多岐に広がっていますが、こういう発言がポロリと出てくるとホッとしますね。 で、もう1か所、最後のコラムでこんなことをおっしゃっていて、笑いました。 日本の喫煙所はね、絶対にたばこを吸わない人考えたんですよ。あんな閉鎖的なところで吸ってもちっともおいしくない。東京に出ているときにね、たばこのことを考えるとすぐに家に帰りたくなりますよ。家では好きな時に吸えますからね。そう言えば、「丸」が生きていた時、あいつの前で吸っていても大目に見てくれていましたね(笑)。(「コラム②タバコと価値観」P204 ) 世の中に、ちょっと、イラっとすることがあるけど、まあ、木から落ちてくる虫や、道端の花の世界に取り合っている方がいいや! とか、どうせ、おれは喫煙者だし・・・ というタイプの人向けの本ですね。でも、考え始める気があるなら、ヒントは山盛りです。さすがですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.04
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佐藤真「エドワード・サイード OUT OF PLACE」シネリーブル神戸 2024年の5月の下旬から、ちょっとした病院通いと入院があって、月末に何とかして病院からのトンズラを考えたときには、さすがに、「これを見るのは、やっぱり無理やろうな・・・」 とか思っていたのですが、出てきて映画館のスケジュールを見て、「行くしかない!」 と、まあ、大げさですが決心して出かけた映画です。「多分、これは、見て、ソンはないと思うよ!」 そんなふうに声をかけると、まあ、安静を指示された同居人が、退院早々、三宮くんだりまで映画を見に行こうとしてることに対する心配もあったのでしょう、本当なら、ここのところ哀れな結末が続いているだめトラ(笑)の応援でテレビにかじりつくつもりだったのを変更してのお付き合いで、同伴鑑賞と相成りました。 見たのは「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の1本、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」でした。 久しぶりに見てよかった! あれこれ、いうのが気が引けるほど堪能しました(笑)。「どう、よかった?」「うん、よかった。サイードいう人、当たり前のこというてた人やて、ようわかった。」「本人、写真と子供の時のビデオでしか出てけえへんのにな。」「エンド・ロールに重信メイいう名前があった。」「うん、レバノンに居ってんやろ。」「サイードって、平凡社ライブラリーの『オリエンタリズム』の人やんな。」「うん。元々は比較文学。2003年に亡くなったんやけど、白血病、そのころにはパレスチナについての発言がいっぱいや。みすずから出てたやろ。最後は『晩年のスタイル』、大江がマネして、自分の小説に題もろたやつ。それ以外にも何冊か、帰ったらあるはずやで。映画でわかるけど、生き方がエエねんな。」「本はむずい?」「うん、どれもこれも読みかけみたいな感じやな。やっぱり読み直さなあかんなっておもた。」「また、読まなあかん本ばっかり増えるねえ。」「バレンボイム、よかったな。最後に出てきて、静かなシューベルトやったなあ。なんか、聴いてて涙がとまらへんかった。」「ピアノの横の誰も座ってない赤いイスとか、コロンビア大学の空っぽの部屋の机とかよかったなあ。」「パレスチナって、きれいなとこやったなあ。」「結局、サイードいう人もそうやけど、帰って行かれへん人ばっかり出てて、その人らの様子が、怒る人も、哀しむ人も、ヨーロッパのどこかからパレスチナに来て笑って暮らしてる人も、何で、こうなったのかわらへんいうてはったパレスチナから追い出された人も、他の宗教の人らとも仲よう暮らしてたのにいうてはった人も、みんな、どっか哀しい。」「うん、佐藤真いう人の考え方いうか、人柄いうか。賢い監督やなあって思ったなあ。」 エドワード・サイード、彼の家族、ダニエル・バレンボイム、出てきた人みんな、そして佐藤真と、撮影スタッフ、みなさんに拍手!でした。 帰ってきて、この作品を撮った監督の佐藤真が、この映画の2年後に自ら命を絶っていることを知って、言葉を失いました。彼も、もう、帰ってこれない場所に行ってしまっていたのですね。 ここ、二日、チッチキ夫人はバレンボイムのモーツァルトのCDをラジカセで聴いているようです。ボクは、部屋のどこにあるかわからないサイードの著作を探して、大わらわです。監督 佐藤真企画・制作 山上徹二郎撮影 大津幸四郎 栗原朗 佐藤真編集 秦岳志助監督 ナジーブ・エルカシュ 屋山久美子 石田優子ナレーション 宝亀克寿テキスト朗読 山川建夫キャストマリアム・サイードナジュラ・サイードワディー・サイードノーム・チョムスキーダニエル・バレンボイム2005年・137分・日本2024・06・01・no073・シネリーブル神戸no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.03
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吉本隆明「ちひさな群への挨拶」「吉本隆明代表詩選」(思潮社)より 三泊した病室で天井をボンヤリ見ながら、周りから聞こえてくるうめき声やしわぶき、ときどき響き渡るモニターの発信音を聞きながら、何故か、50年ほど昔の下宿暮らしの頃に、天井に貼っていた詩の文句が浮かんできて、スマホを取り出してググってみると、結構、出てくるもので、しばらく、自分が今いる境遇を忘れて読みふけっていると時間もいつの間にかたっていて、少しうとうとできるという体験をしました。 自宅に帰ってきて、もう一度、今度はそれぞれの詩集とかで読み直しながら、2024年の5月の月末の備忘録のような気持ちで、思い出した詩を写しておくことにします。 とりあえず、一つ目は吉本隆明の「ちひさな群への挨拶」です。 ちひさな群への挨拶 吉本隆明あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ冬は背中からぼくをこごえさせるから冬の真むかうへでてゆくためにぼくはちひさな微温をたちきるをはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれるぼくが街路へほうりだされたために地球の脳髄は弛緩してしまふぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために冬は女たちを遠ざけるぼくは何処までゆかうとも第四級の風てん病院をでられないちひさなやさしい群よ昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげるそうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにするこわれやすい神経をもつたぼくの仲間よフロストの皮膜のしたで睡れそのあひだにぼくは立去ろうぼくたちの味方は破れ戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだからちひさなやさしい群よ苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるときぼくは何をしたらうぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから記憶という記憶はうつちやらなくてはいけないみんなのやさしさといっしょにぼくはでてゆく冬の圧力の真むかうへひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だからひとりつきりで抗争できないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だからぼくはでてゆくすべての時刻がむかうかわに加担してもぼくたちがしはらつたものをずつと以前のぶんまでとりかへすためにすでにいらなくなつたものはそれを思いしらせるためにちひさなやさしい群よみんなは思い出のひとつひとつだぼくはでてゆく嫌悪のひとつひとつに出遇ふためにぼくはでてゆく無数の敵のどまん中へぼくは疲れてゐるがぼくの瞋りは無尽蔵だぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられるぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられるぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれるもたれあうことをきらった反抗がたふれるぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐるぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえすだから ちひさなやさしい群よみんなのひとつひとつの貌よさやうなら 今回、書き写すために参照したのは思潮社の「吉本隆明代表詩選」というアンソロジー詩集ですが、その中に、10年ほど前に亡くなった詩人、辻井喬さん、実業家としての名は堤清二で、西武百貨店の重役だった人ですが、彼のこんな言葉がのっています。 吉本隆明の作品を考える場合、「詩」という言葉でどこまで含めたらいいかという問題にぶつかります。というのは、たとえば「マチウ書試論」は感性に訴える思想の運動を記した詩作品だと思うからです。しかし、不本意ながら慣習に従うなら「転位のための十篇」のなかの「ちひさな群への挨拶」でしょう。辻井喬 ボクが記憶していたのはひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから という2行でしたが、1974年に二十歳だった青年は何を考えていたのでしょうね。でも、まあ、そういう時代が50年前にあったことは事実で、そういう感受性というのは、どこかに眠っているのかもしれませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.02
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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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