2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全9件 (9件中 1-9件目)
1
夫が小学2年のとき登校中に見ていた映画のたてかん。水島道太郎の丹下佐善3部作50数年後の今年になってフィルムセンターで観ることができたと喜んでいます。長い間忘れずに待って観ることができてしかもやはり良い映画だったそうです。
2008.01.30
コメント(0)
「めくるたび」という」タイトルの写真集「あなたに見せたい風景があります」というザブタイトル。丸田祥三 小学館 2006年7月発行表紙は龍ヶ崎市に残る赤レンガの洋館である。本の中にはもう一枚の同じ場所での写真があった。写真家は「私にとって一番印象的な作品です」と書いている。「もう屋根も崩れてなくなり、不思議なことに空や森とも交わってしまっているようでした」なぜだか、人を癒す力があると・・・ ああ、あの諸岡邸の赤レンガの門と塀もお見せしたかった。見知らぬ方ではありながら。あの門と塀も本当に不思議な力で観る人を引き込むのだから。 あの赤レンガの門塀があった旧市内の町の中に、高い木々の緑を背景にした広場にあの門塀を残せたら思う。 そう。 風景に溶け込むように町の人々の記憶に寄り添うようにあの佇まいを町に残せたらどんなに嬉しいことだろう? 「歴史的建造物を残そう」とこれからのまちづくり方針として明記されてありながら、具体的な問題になると一歩も進まない。 「様々なる意見」によって、赤レンガの門塀はさまよっている。地域遺産としての何か、を残すには 「残す必要がない」 「残せない」という様々な意見をかいくぐり 「残すべきなのだ」 という意見を市民の声にしていかなければならないからいろいろなことを試み努力してきたが今年も努力したい。
2008.01.28
コメント(0)
この頃忙しくてブログが書けないのだけれど変なコメントやTBや掲示板の書き込みを朝か夜に5件くらいずつ削除する日々。いったい何だろう?と考え、ふと思いついた。ブログのタイトル「乱れる」が最後になったまま。これが原因だとすると、今回のブログのタイトルでおさまるかしら?
2008.01.24
コメント(0)
成瀬巳喜男の「乱れる」と「流れる」を見直してみたが、「乱れる」は「1回の映画体験」を大事にすべき作品だった。それに比べて「流れる」は、3度見ることになったが、その度に、発見があり、感動も深くなる。 その違いは、どちらが傑作か?ということでもないと思われる。「流れる」が様々な人々と出来事の織りなす映画だとすれば「乱れる」はストーリーが勢いよくラストに向かって突き進む映画である。「乱れる」のラストは、義弟の死体が運ばれていくのを高峰秀子が必死で追うが力つきたかのように、突然立ち止まる。担架は坂道にかかっても速度を落とさずに、知らぬどこかへと運ばれて行く。そのラストがあまりに衝撃的であった。だが、もし姉が追いついたらどうなるだろう?弟の名前を呼んで泣き崩れるのだろうか。今回は冷静にそんなことを考える。成瀬監督と高峰秀子の二人は他のたくさんの映画で、「ここは要らないね」と台本をどんどん削っていったという。「乱れる」は、その主演女優の夫の脚本だから、そうもいかなかったのだろうか。言葉が観念的というかステレオタイプで気になってしまう。 それは仕方がないとして、個人商店を経営する夫が自殺して中北千枝子が「スーパーがうちの人を殺したのよ」と夫の亡骸のそばで号泣するという信じがたいシーンがあった。中北千枝子が泣くなんて?成瀬映画でこんな泣き方があるなんて? ラストで高峰秀子を止まらせたのは映画の冒頭の中北千枝子慟哭シーンに似せてしまうことは避けたいという成瀬監督の「抵抗」ではなかったのだろうか?映画の始まり頃の何かぎくしゃくした、運びが電車のシーンあたりから俄かに成瀬監督らしい詩的で鋭利で抒情的な世界へと変貌していく。これは多くの人が指摘している。撮影の現場で、ラストは脚本通りに撮影されたのだろうか?その点を知りたいものです。エドワード ヤンは、「乱れる」ラストについて「これほどのさりげない優しさはあるだろうか?」と書く。メロドラマ的なシーンを回避したということならば、単に「さりげない優しさ」だったとは思われないのだが?
2008.01.15
コメント(0)
ビデオやDVDで、映画を選んで見られる時代である。映画館という環境で観ることがベストとしてもいつになったら観られるか分らないことがあまりに多い。 それで自宅でも大画面で観ることも可能なので惹かれた監督の映画を数か月、あるいは1年かけて見続ける、ということもできる。 京橋のフィルムセンターでは「監督の生誕100年記念」をよく企画するが、もしその監督にはまってしまったら、大変である。休日をやりくりし、計画を立てて観なければならない。 ある監督が好きになった時は、恋に落ちているようなものである。映画館、ビデオ、DVDと何が何でも観ないではいられない。だが、そうして夢中になって観ている時、何か後で冷静になっては気付かないことに気づくことがある。その時に書きとめておかないと、忘れてしまうようなこと。 映画の感想というよりも、私はただ映画の持つ魅力に浸りきっていたいと思う。浸りきって楽しんでいるときはブログに こういう映画を観た、とだけ書けばいいいのかな?とも思う。あるいは、簡単な言葉で気になったことを書くだけで。
2008.01.15
コメント(0)
「流れる」は、衣装(着物)が能弁だった。着物の着方に詳しくはないのだけれど、観ていて楽しい。 凄い!と思ったのは、杉村春子が取り乱して芸者として通っている置き屋にやって来る姿。10歳年下の男性と同棲していたが、昨夜、その男性が荷物をまとめて郷里に帰ってしまった。見合い結婚するのだそうだ。若い男に捨てられて、我を忘れ、山田五十鈴の前に へたり込み、おまけに、五十鈴に喧嘩をうってしまう。 着物の様子が凄い。それだけで十分語っているが、首回りの崩れ方が、落ち着きなく光って彷徨う両目の表情に整合している。 後日、自分を取り戻した彼女は、いつもの杉村春子風リアリストになって謝罪に来るが、その様子も可笑しくて笑ってしまう。いろいろあって、観客は、その置屋の生活がすでにピリオドを打たれることを知らされている。朝の日差しが置き屋の板塀を照らしカメラは川へと移って行き、エンド。
2008.01.14
コメント(0)
k-hzさんコメントありがとう。コメント欄にも書いたのですが日記に転載したいと思いました。>ご存知かもしれませんが、植田正治さんは鳥取のひとで、写真美術館があるほか、よく代表作の鳥取砂丘で撮った作品を目にします。鳥取なんですね。最近、写真集を見て、大変惹かれました。「新世代写真術」フィルムアート社 p、210(2007年12月初版発行)にこんな文章がありますので、書いてみます。「生地の鳥取県を離れず、砂丘・地平線・空を背景として被写体をまるでオブジェのように配置した独特の演出写真は、「絶対非演出」のリアリズム写真とは対極をなすもの。 日本の写真史で異端でまた傍流であり続けた氏の写真は、とても現代的で新しい感覚に満ちている。地域性のなかで生きること、傍流であることを貫くことが世界につながることを教えてくれる。」1996年フランスより芸術文化勲章シュヴァリエ受賞、と年譜にあります。いつか鳥取の写真館を訪ねてみるつもりです。
2008.01.13
コメント(0)
この本は楽しい本です。どこか吉田健一の文体に似ているような所も・・・自分というものを強烈に持っていながら、しかもユーモラス。的確に、情熱的でありながら寛容。写真も好きですが、文章もいいんですね・・
2008.01.06
コメント(2)

はい、ポーズ! よく吠えて立派に番犬の役目を果たしていますがふだんは可愛い我が家の愛犬です。遅れましたが新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。健太郎
2008.01.04
コメント(2)
全9件 (9件中 1-9件目)
1

