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ギィヨンの05VRショームドメジエール。比較的地味な村名や1級銘柄ばかり4本集めた、みちのくさんの05VT福箱で購入したうちの一本です。それにしても、あらためてじっくり眺めると、なんともセンスの悪いラベルですねぇ。最近は作られてない、またはインポートされてないんですかね。とんと目にしません。というか、そもそもギュイヨン自体が以前ほど騒がれませんが‥。ラベルのセンスは悪いが、味はなかなかのものです。赤と黒の中間ぐらいの果実といかにもVRらしいスパイシーで華やかな香り。飲んでみると、果実味豊かで、酸もしっかり。香味の奥底に、私がこの生産者に時折感じる、どことなく「クサイ」ニュアンスがありますが、豊かな果実味や他の要素にマスキングされて、少なくとも初日は気になりませんでした。小瓶に移した二日目は、このクサいニュアンスが前面に出てきて、やや飲みずらさを感じました。ただ、それも飲み進むうちに気にならなくなってきました。熟成したアルヌーなどでもよく感じるんですが、何が原因なんでしょうね?★楽天でギュイヨンを検索★
2012年01月31日
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先日購入したヴェルリィ・デ・ラ・マルヌのグラスのデビューに併せて、セラーにあった熟成ボトルを開けてみました。ルイ・ラトゥールのコルトンといえば、シャトーコルトングランセと今回のラ・ヴィーニュ・オー・サン、それに無銘のコルトンもありますね。いずれも98年や01年などが非常に安い値段で出回っています。このボトルも5k以下で購入したものです。リリースしたてのボトルを寺田倉庫に預ければ、1本あたり年間600円。10年で6000円のコストがかかります。そう考えると、14年熟成グランクリュモノが5kというのは考えてみれば、スゴイことだと思います。で、このボトル、肝心な香味はといえば、まあ値段なりというところでしょうか。透明感のある色調で、全般にオレンジがかっています。香りが寡黙なのが残念ですが、じっと待っていると、黒より赤に近いリキュール状の果実、紅茶、枯葉、少しばかり皮革系ニュアンスなどが感じられるようになります。味わいは綺麗に熟成していて黒糖的な甘みがあり、クリーンな印象です。よく言えば、エレガントで中庸を得た、悪く言えばインパクトに欠ける味わい。香りも味も控えめで優しい感じです。せめて香りか味かどちらかだけでも熟成古酒の醍醐味を感じさせてくれれば、満足度も全然違ったと思うのですが、まあこの年代になると、ボトル差の要素も結構あるでしょうね。98年は結婚した年ということで、それほど高額でもないので、いすれコルトングランセも飲んでみようと思います。新しいグラスの印象についても報告したいところですが、今回のボトルは香りの出方がイマイチだったので、もう数本飲んでからにしたいと思います。
2012年01月30日
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96-99ルソー・シャンベルタンシャトードラトゥール・クロヴジョVV・オマージュ・ア・ジャン・モラン(スペシャルキュベのようですね。)DRC・ロマネコンティ95-98デュガピ・シャンベルタンFミュニエ・ミュジニーフェブレ・クロドベーズフェブレ・ミュジニー95-97メオ・リシューブルポンソ・ロッシュWフェーブル・シャブリ・レクロ94-97ルーミエ・ミュジニールーミエ・ボンヌマールドルーアンラローズ・ミュジニーシャトードラトゥール・クロヴジョVVデュガピ・マジシャンデュジャック・シャンベルタンデュジャック・RSV以下略。ルロワなどはまだのようですね。ブルゴーニュを代表するトップキュベばかりが並んでいますが、おおむね09並かそれ以上の点数がついています。問題は中位~ボトムラインの銘柄やもう少し下のランクの生産者の出来が気になりますね。いずれにしても生産量はかなり少ないようなので、値段の高騰と奪い合いは必死、じゃなかった必至と思われます。私は、といえば、09年で「買い疲れ」してしまった感があるので、今はあまり積極的に参戦する気になりませんが、市場に出てくるとまたエキサイトしてしまうかもしれません(笑)
2012年01月28日
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週末、東急の試飲に行った際、「なにかいいブルゴーニュグラスありませんかねぇ?」という私のつぶやきに対して、F巻さんがオススメしてくれたのがこれ、「ヴェルリィ・デ・ラ・マルヌ」のグラスです。名前のとおり、フランス・シャンパーニュ地方のグラスメーカーですね。【14時間限定!只今エントリーでポイント3倍!】(~1月27日23:59迄)フィリップ・ジャムスグラ...価格:3,601円(税込、送料別)名前に「ブラン」とついていますが、白よりは赤のほうが実力を発揮しそうに思われます。大きさはかなりのもの。ハンドメイドで薄いです。軽さからしてカリクリスタルと思われますが、値段はロブマイヤーの3分の1以下とリーズナブルです。腰高でグラス最上部がキュッとすぼまっている形状は独特ですね。大きくて重心が高いので、取り扱いに気を使いそうですが、香りをよく溜め込んでくれそうで、期待大です。1脚から販売OK!フランス製ハンドメイド「レビュー記入でポイント500ポイントプレゼント」赤ワ...価格:3,780円(税込、送料別)↑こちらがメーカーいわく、赤ワイン用のグラスだそうです。ボルドー向けでしょうね。【14時間限定!只今エントリーでポイント3倍!】(~1月27日23:59迄)フィリップ・ジャムスシャ...価格:2,709円(税込、送料別)1脚から販売OK!フランス製ハンドメイドシャンパングラス ラ・マルヌ インテグラル価格:2,363円(税込、送料別)エレガントなグラス!お客様の贈る「想い」をお届けするギフトショップ:CONCENT (コンセント)...価格:7,823円(税込、送料別)↑さすがお膝元だけあって、シャンパーニュグラスは充実していますね。ユニークな形のフルートグラスにも興味ありますが、まあ一番上のタイプが一番無難でしょうね。近いうちにシャンパーニュグラスとボルドータイプも買ってみようかと。使った印象については、後日アップします。
2012年01月27日
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自宅から近いわりになかなか行く機会がないのが東急本店の試飲。電車に乗っている時間は短いのですが、三茶と渋谷それぞれの駅からの歩きを入れると結局片道30分ぐらいかかってしまいます。試飲は朝イチからやっているわけではないし、土曜の日中に往復1H、試飲に1Hで結局2時間はかかってしまうのは、ジャリン子二人の父親としては行きずらいわけです。そんなわけで、久しぶりに行った試飲でしたが、常連の方をはじめとして、相変わらず盛況のご様子で何よりでした。ムルソー09(コシュ・デュリ)リンゴ、グレープフルーツ、白桃、バニラ、ナッツ。煌びやかな酸と外向的な果実味。さすがの仕上がりです。実勢価格を考えると微妙ですが。ポマール・ヴォーミュリアン09(コシュ・デュリ)まだ初期的でフローラルです。カシスやブラックチェリー、紅茶、スミレ、ミネラル。トラディショナルな仕上がりで、タンニンは豊富で溶け込むには少し時間がかかりそうですが、今でもそれなりに美味しく飲める。ニュイサンジョルジュ・シェーニョ09(アンリ・グージョ)香りは還元的。飲んでみると凝縮感はほどほどながら、状態よくミネラル感スゴイ。バランス良好。いいワインです。ヴォーヌロマネ・レ・スショ09(ユドロ・ノエラ)香りがややダルな感じですが、飲んでみると含み香豊かで外向的、抗しがたい美味しさがあります。パーカーさんなどがよく使う"seductive"というやつでしょうか。一杯あたりは少量でも、4杯飲むとさすがに酔いますね。ユドロノエラがおいしかったので、グラスで出ていたリシュブールも注文したくなりましたが、なんとか思いとどまって、酔い覚ましに自宅まで歩いて帰りました。
2012年01月26日
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正月に福袋を買ったので、今月は金欠だったのですが‥ジャドとミシェルグロの記念のボトルがどうしても気になって、結局購入してしまいました。右はジャドの150周年記念ボーヌ・プルミエクリュ。ジャドが所有するボーヌの各畑17種をブレンドしたものだそうです。値段的にもまあ穏当でしょうか。オシャレな化粧箱に入っているので、贈答用などにも悪くないですね。左はミシェルグロの150周年ラベルのクロ・デ・レア。グロ家が「クロ・デ・レア」の畑を取得してから150周年にあたるため、記念の復刻ラベルでリリースされたものだそうです。記念云々以前に09のクロデレアならまあ買っておいても損はなかろうと思って購入しました。いずれもそのうち寺田倉庫に持っていこうと思っています。★楽天でMグロの記念ラベル09クロデレアを検索★★楽天でジャドの150周年ボーヌプルミエクリュを検索★
2012年01月25日
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マル源さんでグリューワイン(ホットワイン)が売られていたので、購入してみました。残りのワインを使って自宅で作ってもいいのですが、スパイス類とか買い揃えるの面倒でしたので‥。お味については、甘い中にも、スパイスのフレーバーがかなりキツくエグみを感じます。特に初日はそれが顕著。暖めるとそれがさらに目立つので、結局室温で飲みましたが、三分の一ぐらい飲んだところでギブアップ。こりゃダメだなと思ってほうっておくこと数日、昨日飲んでみたところ、初日のキツさが影を潜めて、なめらかな味わいに変化していて驚きました。これなら、飲み足りない晩の寝酒代わりによさそうです。暖めずにデザートワインとしてもいいですね。★楽天でホットワインを探す★
2012年01月24日
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木曜日に行ったのは、三田(赤羽橋)のminobiさん。11月のワイン会で大遅刻したリベンジとばかりチョイスしました。電話予約の際、特になにも言わなかったのですが、席に着くやいなや、店の方が「11月にワイン会でおいでになりましたよね?」「えー?よく覚えてらっしゃいましたねぇ!」「たしか、かなり遅れて来られたかと‥」おっと、そこですか。料理は前菜とメイン(肉・魚のどちらか)を選ぶコース。私が選んだのはカリフラワーとエビ、ウニのゼリー寄せ(←名前いい加減です)とうずらとフォアグラのパイ包み。デザートはとらずに代わりにチーズの盛り合わせを注文しました。4k台ながらボリュームもあり、十分満足でした。ワインはオリヴィエ・ジュアンの05MSDリュシュット。05年らしくマッシブで構造がしっかりしています。果実味は力任せに走らず、透明感があるのがいいです。タンニンは溶け込んできていますが、まだ少し目立ちますね。悪くはないのですが、果実味に愛想がないというか、旨みや甘みが前面に出てこず、そっけないのがどうも‥。まだ少し早かったということなんでしょうね。★楽天でオリヴィエ・ジュアンを検索。★
2012年01月21日
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先週は職場仲間との少人数の新年会が2件ありました。職場や仕事関係の飲み会というと憂鬱さが先に立つこともありますが、今回は気心の知れた親しい人たちとの会だったので気分的には楽でした。また、参加者が洋食好き&ワイン好き(といって、特にマニアというわけではない)だったので、私が幹事役を買って出て、それぞれ一本ずつ自宅のセラーからワインを差し入れました。火曜日に行ったのは、最近定番になりつつある新橋の「ピアット・デル・ベオーニ」。持参したのは長いことセラーに寝かされていた「ブランカイア・イル・ブルー」の01年。かなり前にマル源さんで3ビンテージ垂直セットで購入したものです。10年経っていますが、思ったほど熟成は進んでないですね。まだまだ上り坂といったところ。黒系果実やスパイス、木質、黒土、それにうっすらとスーボワのまざる香り。味わいは目が詰まった果実味を支える酸とタンニンのバランスがとれていて、十分なコクとまろやかさを両立させています。ブランカイア、最近あまり話題に上ることがありませんね。下のクラスのトレやキャンティクラシコで十分美味しいので、CP的にどうかという問題はありますが、改めて飲んでみて悪くない銘柄だと思いました。★楽天でブランカイアを検索。★飲み足りなかったので、グラスワインでランゲ・ネッビオーロを飲みましたが、こちらはどうも薬品臭くて今ひとつでした。
2012年01月21日
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こちらは奥の部屋の熱帯魚水槽。丸モノ金魚から宗旨変えをして、今はグッピーとカーディナルテトラを飼っています。カーディナルテトラは最初のころほど群れなくなりましたが、それぞれの個体がだいぶ大きくなった気がします。それにしても、こんなに鮮やかな色調では、自然界では目だってしかたないと思うのですが‥。グッピーの稚魚。10匹ぐらいいるでしょうか。とりあえず無事育っています。体の模様がだいぶはっきりしてきました。新しい生命が育まれるのを見ていると、こちらまで癒されます。今まで毎週のように☆になっていた、ミナミヌマエビも熱帯魚たちと一緒にした途端、なぜか落ちなくなりました。有機物がエサになっているのか、バクテリアが増えて水質が安定してきたのか‥。不思議なものです。そんなわけで、こちらの水槽は我が家にしては珍しいほど順風満帆です。まぁ、ビギナーズラックなのかもしれませんけどね。。
2012年01月20日
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我が家の金魚たちもずいぶんと顔ぶれが変わりました。今、一番長く我が家にいるのが、こちらのコメット。チャームさんで2年前にコメット朱文金2匹セットを2セット購入したのですが、すでに3匹は☆になり、今残っているのはこの1匹だけです。体形もよく、お気に入りの一匹です。このまま細く長く生きてもらえればと思っています。前の写真下側に写っている和金とこの写真の3匹の計4匹が一昨年の金魚掬いで採ってきた金魚たち。我が家に来て1年4ヶ月。昨年の冬は小金水槽でヒーターなしで頑張ってもらいました。エサを控えめにしているため、あまり大きくなっていませんが、左下の小金など、なかなか体形のよいものもいます。昨年の金魚掬いの金魚たちは、残念ながら到着早々白点病の蔓延で全滅してしまいました。それで小金水槽が空になってしまったので、チャームさんで新たに「主文金・コメットセット」を購入しました。計算違いだったのは、到着した金魚2匹があまりに巨大だったこと。この朱文金は、到着時点で全長10センチ近くありました。小金水槽には入りきらないので、結局玄関の60センチ水槽で飼っています。片目だけがボタン目。模様もそれほど綺麗なわけではありませんが、悠々と泳ぐ姿はなかなか見ごたえがあります。こちらがセットの片割れのコメット。最初の写真のコメットとは別モノです。(模様が違いますよね)こちらもデカイですが、エサを控えめにしているためか、到着時に比べて、痩せた感じがします。大きさでいうと、一番大きいのが朱文金、次がこのコメット、三番目が一番上のコメット、だいぶ離されて、金魚掬いの和金4匹という順です。今年は、あまり余計なことはせずに、とりあえずこの7匹が無事に年末を迎えられることを目標に世話をしたいと思います。
2012年01月19日
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今まで開けた02アルヌーの印象は‥04.12 レ・ショーム →還元的。2~3日目に開いてくる感じ。06.2 レ・ショーム →果実味が前面に出てきて飲みやすい。06.10 レ・ショーム →動物的なクサイニュアンスが出てきた。08.3 エシェゾー →同上。あまり印象よくない。08.12 エシェゾー →同上。09.11 エシェゾー →傾向は同じながら、熟成香が前面に出てきて飲みやすく。ということで、どうも熟成とともに、「クサイ」ニュアンスが出てしまうのが残念なんですよね。ごく初期のころはみずみずしい果実のおかげでマスキングされていたものが、数年後から不快な香りが前面に出てくるようになって、ようやく09年あたりから熟成香がそれを上回るようになったというところでしょうか。そんな流れで開けた、今回のスショですが‥。カシスやダークチェリーなど赤と黒の中間位の果実、ダージリン、スパイス、皮革、毛皮、焦げ臭。よく熟成していますが、やはりこのボトルも陶然とするような香りというよりは、ややノイジーな動物的ニュアンスが垣間見えます。味わいはミディアムボディからフルボディといったところで、酸がしっかりしており、タンニンはよく溶け込んでいます。果実味はドロンとした感じで、下草系の熟成香が含み香に感じられます。飲み進めるうちに「クサイ」ニュアンスは影を潜めてよい感じになってきましたが、10年の熟成を経て付加価値が加わっているかというと、せいぜい水平移動という感じで、長熟といわれる生産者に比べると物足りなさを感じるのも事実です。やはりアルヌーは早めに飲んだ方が幸せな生産なのか、それとも02年のアルヌーがたまたまこういうワインなのか、あるいは私の保存や流通過程で問題でもあったのか‥。購入先や保存には相当気を使っていたので、コンディションに問題があったとは考えずらいですけど。ちなみに、WA誌のこの銘柄の飲み頃予想とポイントは、2007-2017年(94点)、Burghound.comは、2012+(92点)。アラン・メドウ氏の予想の方が私自身の個人的な印象に近いですね。
2012年01月18日
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上の子のビンテージの02年。ブルゴーニュ全般にわたってかなり幅広く買いましたが、中でもドーヴィサ、アルヌー、パリゾ、ルーミエ、ジョルジュ・ミュニュレ、アルマン・ルソーについては、まとめて何本かずつ購入しました。当初の思惑としては、毎年誕生日などの記念日をターゲットに、まずはドーヴィサ、アルヌー、パリゾ、そのあとジョルジュミュレやルーミエ、ルソーにバトンタッチ、20歳近くになったらあとはボルドー中心かな、となんとなく思い描いていました。では、実際にどんなワインを飲んだか、記録を紐解いてみると‥1歳‥オーパスワン2歳‥記録漏れ3歳‥シャブリ・レ・クロ02(ドーヴィサ)4歳‥義母葬儀のため飲まず5歳‥ジュブレイシャンベルタン・ペリエール2002(フィリップ・パカレ)6歳‥ルバイヤート・メルロ2002塩尻収穫7歳‥クロ・ヴージョ・ミュジニー2002(グロ・フレール・エ・スール)8歳‥パッソピシャーロ20029歳‥シャブリ・グランクリュ・レクロ02(ドーヴィサ)‥とまあ、当初の思惑とはかなりかけ離れたラインアップになっているではありませんか(笑)。理由としては、~これと思った銘柄が寺田に預けっぱなしだった。~開けてしまうにはあまりに早くもったいなかった。~バースデーケーキがメインイベントとなって、ワインをゆっくり飲むヒマがなかった。といったところでしょうか。そんなわけで、誕生日にあわせて記念のワインを開ける醍醐味は、むしろ10歳を超えたこれからかな、なんて思ったりもするのですが、現実には手持ちの02ビンテージは、子供の記念日にとどまらず、持ち寄りワイン会などでたびたび開けています。特にアルヌーについては、比較的早くから開けてしまって、リリース時に購入したものとしては、今回のスショとあと一本テラダ倉庫に残すのみになりました。(つづく)
2012年01月17日
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いい線ついてきますね~。値段的には、DRC1本で元がとれています。(ちなみにファインズさんの正規モノ08年)クロ・フランタンのリシュブールは自分から進んで買う銘柄とは言いずらいものの、オマケとしてついてくるのなら何の文句もありません。VTも06だしね。ルイ・ラトゥールの01シャンベルタンも渋くて良いチョイスだと思います。実売ベースで購入価格の倍近く。客にとっては非常にお得感があって、店側にとっても、ある意味在庫整理になる。福袋はこうでなくては、と納得させられる内容だと思います。
2012年01月15日
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■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)さて、これまでの調査で~我が家の先祖は、彦根藩の下級藩士だった。~といっても、最初から彦根藩に仕えていたわけではなく、享保年間までは「森」という姓で、京都町奉行所勤めだった。それが何らかの理由で職を辞し、4年の浪人の後、彦根藩召抱えになり、苗字も変えたらしい。なぜ苗字を変えたかは不明。~彦根藩では、「十右衛門」または「重右エ門」という通名を代々世襲していた。仕事は藩主の家族の身の回りの世話や、藩校の先生などをしていたらしい。ということが判りました。親戚の家に行った際、そんな話を披露したら、面白がって聞いてくれて、後日、本家筋の従兄弟の有志が編纂したという、曽祖父やその前後の代の記録を記したメモのコピーを送ってくれました。読んでみると、「代々嵯峨源氏の嫡流」(→もともとは森姓だったということが今回判明)とか「彦根藩では代々勘定奉行をつとめた」(→そんな偉い身分ではありませんでした)とか、明らかに「それは違うだろ~」と突っ込みたくなる記述もあるのですが、まあご先祖の歴史というものは誰しも美化したくなるものなのでしょう。興味深いのは、そのメモには、私が訪れた際には、時間の関係で見せてもらえなかった寺の「過去帳」の記録からの情報多くが含まれていたことです。ということで、新たに入手したメモと、私がそれまで調べた記録とをもとにざっと、近世のご先祖の足取りをまとめてみました。まるで映画「北の零年」の世界です。■曽祖父の父(高祖父と呼ぶようです)名は重右エ門。メモには勘定奉行を世襲していたと書かれていますが、これはおそらく誇張で、勘定方にでも勤めていたのでしょう。自宅は現在市役所前の大通りになっている所にあったそうで、石高は90石。この当時の彦根藩の藩主はといえば、桜田門外の変で殺害されたかの井伊大老。まあ、私のご先祖が実際に井伊大老に会ったことがあるかどうかはわかりませんが、歴史上の人物と身近なところにいたと思うと不思議な感じがします。桜田門外の変が起こったのが、重右エ門41歳のとき。当人は明治5年に53歳の若さで亡くなっていますが、晩年は歴史の大きなうねりの中でさぞ苦労したであろうと想像できます。■曾祖父の兄上記重右エ門の長男で名は機平。嘉永元年(1848年)出生。16歳の時、初陣で蛤御門の変に参加したものの、幕軍に利なく、槍一本を担いで逃げ帰ってきたというエピソードがメモに書かれています。しかし彦根藩はこの時官軍に組したはずなので、史実と異なっていますね。まあ初陣で散々な思いをしたことは事実なんでしょう。明治4年、廃藩置県が実施され、禄を離れた彦根藩士たちは集団に北海道(釧路)に移住しました。機平も、父の死後(明治5年)、屋敷を担保にお寺(私が前回訪れた円常寺のこと)に50円の借金をして、嫁と弟=私の曽祖父を連れて北海道に渡ったそうです。当時、機平は25才、弟の篤三郎10才。「漢学に秀れ、小学校で教鞭をとっていた」そうですが、妻が子供を残すことなく32歳の若さで亡くなると、家禄を弟である私の曽祖父に譲って、大正2年62歳でなくなったそうです。■曽祖父名を篤三郎といいます。重右エ門の末子三男として出生(次男は3歳で死亡)。姉たちの中には器量良しが多かったそうで、そのうちの一人が家老の下に嫁ぎ(幕末から明治にかけてですと、もはや身分の差などはあまり問題にならなかったのでしょうか?)、その血筋からは後のどこそこの社長を輩出している、なんていう自慢話がメモに書かれていました。曽祖父自身の生い立ちは明らかでありませんが、成人して炭鉱技師としての技術を習得し、網走刑務所(本当ですかねぇ?)で囚人を引率して炭鉱の開発にあたっていたと書かれています。道内では「常盤炭鉱」の開発にあたったり、北九州の「筑豊炭田」の開発に出向いたこともあったようですが、九州での仕事は結局うまくいかず、また北海道に戻ってきたのだとか。この時代に北海道と九州を往復するというのも大変だったんでしょうね。夫人(というか、私の曾祖母のわけですが‥)の名は「さだ」。慶応3年、岐阜藩の足軽金森家の長女として出生。金森家は維新後、夕張で呉服店を営んでいたとのことですので、あちらで見合いでもしたのでしょうか。16歳で曽祖父のもとに嫁ぎ、私の祖父を含む12人の子供を設けました。曽祖父は、炭鉱技師としてはそれなりに成功したらしく生前はわりと良い暮らしをしていたようですが、大正3年に58歳の若さで亡くなった後、曾祖母は幼子を抱えて困窮したそうです。■祖父のことどうも我が家の家系は短命の血筋らしく、私の祖父も私が4歳の時に亡くなったので、祖父に関する記憶はほとんどありません。生まれは北海道の留萌郡。祖母も同じ北海道の札幌「南37条西」の生まれだそうですが、出自はわかりません。前述のとおり、曾祖父が早くに亡くなったため、若いころは、家庭が困窮して苦学だったようです。戦前は建築士として「浅野炭鉱」ゆかりの「浅野建設」という会社で働いていたとのことで、私の父親も「雨竜町」というところにあった会社の社宅で生まれたそうです。(もっとも、父からも祖母からも、生前、北海道時代の話を一度も聞いたことはありませんが‥。)戦後、都内(永福町)に移住。浅草の「雷門」の再建や新宿のミラノ座だかスカラ座だか(忘れました)の設計に携わったとかで、私が幼い頃はサンプルでもらったと思しき映画館のイスがベランダに置いてあって、よくそのイスで遊んだものでした。所属していた建設会社では重役まで昇進したようですが、どこぞと合併でもしたのか、あるいは倒産したのか、今となってはネットで探してもその会社の名前すら見つけることはできません。享保の時代の先祖のことまで調べたことを思えば、祖父や祖母のことをもっと詳しく調べるのはたやすいことですが、この時代の話になるとさすがに生々しすぎるというか、触れてはいけない部分もあるようで、気が引けてしまいます。(たとえば祖母は、自分の子どもの頃ことについては全く私たちに話しませんでした。)まあ、それらは私の子供の代にでも任せることにします。ちなみに、本家の方々とは現在は全くつきあいはありませんが、東京で建築関係の仕事をしている人もいるのだとか。ワイン好きで、このブログを読んでくれたりしてないですかねぇ?さすがにそれはないか‥。そんなわけで、祖父や父が生まれた場所まで特定できたことは収穫でした。(というか、この年になるまでそれすら知らなかった。)北海道出身の友人などは、「留萌って何もないところですよ~」と言いますが、次は、留萌をぜひ訪れてみたいと思い始めている私です。**********************ここまでが5年前に書いた内容です。このタイミングで改めて掲載したのは、正月らしいネタということに加えて、そろそろまた彦根に墓参りに行こうかなと思い始めているからです。その後、「ひこにゃん」がブレークしたrして、以前私が訪れたときとはだいぶ変わっているんでしょうね。新しいネタがあれば、パート5としてアップしようと思っています。文中に書いたとおり、北海道にも機会があれば行ってみたいですね。So far, from my research, I have learned that:My ancestors were lower-ranking samurai retainers of the Hikone Domain.However, they were not originally serving Hikone Domain; until the Kyōhō era (early 18th century), they bore the surname “Mori” and worked for the Kyoto Machibugyō (Kyoto City Magistrate’s Office). For some reason, they resigned from that post, wandered as ronin (masterless samurai) for four years, then were taken in by Hikone Domain and changed their surname. Why they changed their surname remains unknown.In Hikone Domain, they inherited the common names “Jūemon” or “Shigeemon” through generations. Their duties apparently included serving the domain lord’s family and working as teachers at the domain school.When I shared these findings with relatives, they found it interesting and later sent me a copy of a memo compiled by some cousins from the main family line. The memo included records about my great-grandfather and his surrounding generations.Reading through it, there were some clearly exaggerated or inaccurate claims, like “descendants of the main line of the Saga Genji clan” (which now fits with the earlier Mori surname revelation), or “served as senior accountants of the Hikone Domain” (which was not true in our case). But I suppose everyone tends to romanticize their ancestors’ history.What interested me most was that this memo contained a lot of information from the temple’s “Kakichō” (family death register), which I couldn’t see when I visited due to time constraints.Using this newly obtained memo along with my previous research, I roughly summarized my ancestors’ footprints in the early modern period. It feels like a scene from the movie Kita no Zeronen.My great-grandfather’s father (called great-great-grandfather)His name was Shigeemon. Although the memo says he inherited the post of domain accountant, this is likely an exaggeration; he probably just worked in accounting. Their home was where the main street in front of the city hall now runs. Their stipend was 90 koku.At that time, the lord of Hikone was Ii Naosuke, famously assassinated in the Sakuradamon Incident. Whether my ancestor ever met Ii Naosuke or not is unknown, but it feels strange to think they lived close to such a historical figure. The Sakuradamon Incident occurred when Shigeemon was 41. He died young at age 53 in Meiji 5 (1872), and I imagine he endured much hardship during those turbulent times.My great-grandfather’s elder brotherHis name was Kihei, born in Kaei 1 (1848). At 16, he participated in his first battle during the Hamaguri Gate Incident, carrying only a spear and retreating due to defeat. The memo states Hikone sided with the shogunate then, which contradicts historical fact (Hikone was on the imperial side), but presumably his rough first battle experience was real.In Meiji 4 (1871), after the abolition of domains, many Hikone samurai moved to Hokkaido (Kushiro area) as a group. Kihei also moved there after their father’s death (Meiji 5), borrowing 50 yen from the temple (Enjōji—the temple I visited) by mortgaging their residence, bringing along his wife and younger brother, my great-grandfather. Kihei was 25 and my great-grandfather Atsuzaburō was 10 then.Kihei was talented in Chinese classics and taught elementary school but tragically, his wife died at 32 without leaving children. He handed over the family stipend to my great-grandfather and died at 62 in Taishō 2 (1913).My great-grandfatherNamed Atsuzaburō, he was the youngest son of Shigeemon (the third son). One of his sisters married a high-ranking retainer, and her descendants include company presidents, according to the memo. Details of Atsuzaburō’s childhood are unclear.As an adult, he trained as a coal mining engineer and worked leading prisoners at Abashiri Prison to develop coal mines. He contributed to the development of the Tokiwa coal mine in Hokkaido and was also dispatched to work on the Chikuho coalfields in northern Kyushu. However, his work in Kyushu was unsuccessful and he returned to Hokkaido. Traveling between Hokkaido and Kyushu in those days must have been very difficult.His wife (my great-grandmother) was named Sada, born in Keiō 3 (1867), eldest daughter of the Kanamori family, foot soldiers from Gifu Domain. The Kanamori family ran a kimono shop in Yūbari after the Meiji Restoration, so perhaps they met through an arranged marriage there. She married Atsuzaburō at 16 and had 12 children including my grandfather. Atsuzaburō was fairly successful as a mining engineer and lived comfortably before dying young at 58 in Taishō 3 (1914). His widow struggled to raise their young children.About my grandfatherApparently, short lifespans run in the family. My grandfather died when I was four, so I have little memory of him. He was born in Rumoi District, Hokkaido. My grandmother was also from southern Sapporo, but I don’t know her origins.Because my great-grandfather died early, the family was poor in my grandfather’s youth. Before the war, he worked as an architect for a construction company connected to Asano Coal Mines, called Asano Kensetsu. My father was born in company housing in Uryū Town, Hokkaido. Neither my father nor grandmother ever told me stories about their Hokkaido days.After the war, the family moved to Eifukucho, Tokyo. My grandfather helped design projects such as the reconstruction of Asakusa’s Kaminarimon gate and theaters like the Milanoza or Scala Theater in Shinjuku (I forget which). As a child, I often played on movie theater chairs that he had brought home to our balcony as samples.He apparently rose to an executive position at his construction firm, but whether the company merged or went bankrupt, I cannot find any trace of it now.While tracing ancestors back to the Kyōhō era was challenging but possible, investigating my grandparents’ generation feels more sensitive and difficult, perhaps because the memories are still raw. For example, my grandmother never spoke about her childhood.For now, I will leave those stories for future generations.Currently, we have no contact with the main family line, but I heard some relatives in Tokyo work in architecture. I wonder if they read this blog and share my wine interests. Probably not.In any case, I’m glad to have identified where my grandfather and father were born, something I didn’t even know until recently. Friends from Hokkaido often say “Rumoi is a place with nothing much to do,” but I’m starting to want to visit Rumoi myself someday.End of Part 4This was originally written five years ago, but I’m sharing it now partly as a New Year’s story, and partly because I’m thinking of visiting my ancestors’ graves in Hikone again soon. Since the rise of “Hikonyan,” the town has probably changed a lot since my last visit. If I find new material, I plan to post a Part 5. And as mentioned, I’d also like to visit Hokkaido someday.
2012年01月12日
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最近のオ・ボン・クリマはラインアップが複雑化して、何がどうなのかさっぱりわかりません。このボトルは2Kという投売りのような価格で購入したものですが、もともとのプライスもそれほど高くないようですね。ボトムラインのピノなんでしょうか?昔はよく「サンタマリア・バレー」を飲んでいたものですが。もっとも、個人的にはカレラと違ってABCは下のラインの方が充実しているように思っています。で、このABC、2kで購入したことを思えば◎のパフォーマンスでした。赤と黒の中間位の果実に、ハーブ、スパイス、それにゴムっぽい香り。飲んでみるとパンと張った豊かな果実味があって、目鼻立ちのクッキリした味わいです。以前飲んだ02のイザベルやノックスアレキサンダーなどは、果実が弱かったのか、相対的にオークや焦げ臭ばかりが目だったものですが、こちらはシンプルなものの、しっかりと果実感が前面に出ているのがいいですね。翌日は、初日よりさらに開いて美味しくなりました。日常用にまた買い足したいですね。【年末セール】オーボンクリマ サンタ バーバラ ピノノワール[2009] Au Bon Climat Pinot Noir ...価格:2,079円(税込、送料別)16日までだそうです。
2012年01月12日
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正月休みが終わっても8日から10日まで3連休があるので、世間的にはまだ休みムードが漂っていましたが、私自身はこの3連休中多忙でした。8日は義母の7回忌、10日は従妹の3回忌。従妹の3回忌は神戸で行われたので、新幹線で日帰り。しかも、夏に腰の骨を折って療養中だった母親を連れて行かねばならないため、前日に烏山の実家に泊まることにしました。(ちなみに母親は、そのまま親戚の家に数日泊まりました。)というわけで、久しぶりに実家の母親と弟と鍋を囲んでの夕食となりまして、あわせたのが、近所のスーパーで買ったこのワインです。鍋と相性云々よりも単に安かったので購入したものです。抜栓しようとすると、コルクがボロボロに乾いていて、途中で折れてしまい、抜くのに難儀しました。おそらく、温度管理もされていない中、ずっと立てっぱなしだったんでしょうね。最近のブルの中では比較的淡めの色調。香りは赤系果実や紅茶、ハーブなどに交じって、下草系の熟成香が出始めています。スーパー店内の高めの温度下にあって、やや熟成が進んでいる感じですが、香り自体は心地よいのでオッケーです。飲んでみると、酸が効いており、中庸を得たミディアムボディの酒質。ブルを飲みなれない人は酸っぱいと言うかもしれませんが、個人的にはスイートスポットの範囲内です。ただ、このボトル、惜しむらくは、味わいの中にほんのわずかブショネ系のニュアンスが感じられるのです。香りからは感じられなかったんですけどねぇ。飲めないようなレベルではないし、母や弟がおいしいおいしいと飲んでいるところに水をさすのも何なので、何も言わずに飲み続けました。それさえなければ、2K台半ばで、この味わいは立派なものじゃないでしょうか。ブル好きの日常飲み用にもよい候補になると思います。★楽天でグロフレールのオーコートドニュイを検索。★
2012年01月12日
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三連休は土曜と月曜日に法事があったりして、多忙な三日間でしたが、その合間の日曜日の午前中に、寺田倉庫の横浜都築・新石川のロッカーに行ってきました。目的は、前回余らせてしまっていた上段部分への収納。テラダ標準の12本入りダンボールを入れると、10箱入ったところで、上段に微妙なスペースが残ります。ボトルを裸で並べてもいいのですが、地震時のことなども考えて、6箱入りのダンボールで収納することにしました。上段部分に6本入りダンボール×4箱入りました。そのほか、下段の隙間に3本入りダンボール×1、上段の隙間に2本入りダンボール×1入ったので、合計で29本。下段とあわせれば、12ケースと5本入りました。写真のように、もう少し空きスペースがありますので、ここにボトルをプチプチでくるんで入れたりすれば、なんとか13ケース収容できそうですね。この日入れたのは、スピネッタの03バルバレスコ×2フーリエの村名ジュブレ09ラルロNSG09ミュニュレジブールの09エシェゾープスドールの09ヴォルネイカイユレプスドール・シャンボール・シャルムグロフィエのアムルーズユドロバイエ09レクラルーミエ08コルシャル×2デ・クロワのコルシャル0709ビンテージの購入もほぼ落ち着きました。欲をいえば、まだ欲しい銘柄はあるのですが、キリがないですからねぇ。あとは大どころでルソーぐらいかな‥。
2012年01月09日
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前のエントリーで、代々彦根藩の下級藩士だったと聞かされていた私の先祖が、もともとは「森」という今とは異なった姓で、享保年間まで京都町奉行所の配下だったことがわかった、と書きました。これはわたし的には相当驚愕の事実でした。というのも、生まれてこの方、世の中に多くいる渡辺姓の方の多くは先祖をたどっていけばどこかでつながっているとばかり思っていましたし、家紋も渡辺姓によくある「三ツ星一文字」でしたから。そういうわけで、今度は「森」姓を名乗っていた京都町奉行所時代の情報をなんとか得られないかと、いろいろ調べてみました。ネットで検索しているうちに(こういうときネットってつくづく便利ですねぇ。)まさにドンピシャと思われる史料を発見。『京都武鑑』という、江戸時代の京都の幕府役人の人名録があるそうなのです。さっそく「京都市歴史史料館」に電話してみました。ところが残念ながら、この『京都武鑑』には享保年間のものは掲載されていないとのこと。私の先祖が京都町奉行所を辞したのは、享保7年(1722年)、京都武鑑に掲載されているのは、宝暦9年(1759年)以降ということで、30年ちょっとの開きがあります。300年以上前のことを調べていると、30年程度の差なんて誤差の範囲に感じてしまうのですが、現実にはそうもいきません。う~ん、残念。‥と思ったら、史料館の担当の方が、『翁草』という随筆に、享保年間のころの町奉行所の人名名簿のようなものが載っている箇所がありますよ、と教えてくれました。『翁草』というのは、神沢杜口という当時の京都町奉行所の与力の人が綴った随筆集。かの森鴎外の「高瀬舟」の原話もこの作品の中の一話からだそうです。当時現職の京都町奉行所与力が書いた随筆ということで、今度こそ、と思いましたが、よくよく著者の神沢杜口の生没年を調べてみると、1710~1795年ということで、私のご先祖が職を辞した1722年当時、杜口はまだ12歳に過ぎなかったことになります。う~む、これも、かすってはいるのですが、望み薄でしょう。他にも何かないかと探したのですが、該当しそうな史料はありそうでないものです。とりあえず、アクションを起こしてみよう、ということで、~『京都御役所向大概覚書』~『日本都市生活史料一巻』の中の『京都覚書』『古久保日記』という2冊を調べに、国会図書館に行ってみました。この辺のくだりは長くなってしまうので割愛しますが、結論からいうと、これらの史料は当時の生活様式を知るのに大変面白く、時間さえあればじっくり読み込んでみたいと思わせるものでしたが、残念ながら、私の探しているご先祖情報は見当たりませんでした。ところで、享保といえば、「享保の改革」ですよね。私もネットを検索しているうちに、こちらのネタが面白くなって、本筋を離れて、享保の改革の記事ばかり読んでいたら、たまたまそこで「これだ!」というような、重要な記述を発見しました。というのも、改革の一環として、「それまで京都町奉行所の管轄だった、摂津、河内、和泉、播磨の裁判の管轄が大阪町奉行所に移管された」そうなのです。しかもそれが行なわれたのが享保7年。すなわち私のご先祖が離職した年とぴったり一致するのです。そうなると、私のご先祖は、何らかの失態を犯して京都町奉行所をクビになったというより、この改革でリストラされたという可能性の方が高い気がしてきます。今で言うところの、「レイオフ」のような形となって、4年後に彦根藩で空きが出て、そちらで召抱えられた、と。まあ、この辺はもはや推測の域をでないのですが‥。ここまできて、どうやらこれ以上ルーツをたどるのは難しそうだなあ、と感じはじめています。仮になにかしら古文書の類でご先祖の名前を見つけられたとしても、本来の私の目的である『ご先祖の墓参りをする』という観点からすれば、苗字がまだ『森』だった頃、すなわち享保年間以前のご先祖の墓所の所在を知るのはほとんど不可能でしょう。もはや無縁仏となって、墓標もなくなっているかもしれません。いや、そもそも私の先祖が傍流であれば、本家筋が今も墓を守ってくれているかもしれません。それでも、つい先日まで、曽祖父のことすら知らなかったことを思えば大きな前進だと思いますし、ごくごく平凡な一庶民に過ぎなかった我が家の先祖のことをここまで把握できたというのは大きな収穫でした。最後は近世編です。■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)In my previous entry, I wrote that my ancestors, who were said to have been lower-ranking retainers of the Hikone domain for generations, originally bore the surname "Mori" and served under the Kyoto Machibugyō until the Kyōhō era.This was quite a shocking discovery for me. Having grown up thinking that many people with the Watanabe surname would be connected somewhere along the line, and given that our family crest was the “Mitsuboshi Ichimonji” (three stars in a row), commonly seen among Watanabe families, this was surprising.So, I tried to find information on the period when my ancestors used the surname “Mori” while working at the Kyoto Machibugyō. The internet was a great help, and I found a potentially perfect source called the Kyoto Bukan — a directory of Edo period Kyoto government officials.I called the Kyoto City Historical Archives right away, but unfortunately, they told me that the Kyoto Bukan does not cover the Kyōhō era. My ancestor left the Kyoto Machibugyō in Kyōhō 7 (1722), but the directory starts from Hōreki 9 (1759), about 30 years later. Although 30 years seems a small gap when looking over 300 years, it’s a significant limitation in reality.Just as I was feeling disappointed, the staff at the archives told me about a collection of essays called Okina-gusa, written by a Kyoto Machibugyō yoriki (assistant official) named Kanazawa Dokoku. This work apparently contains a kind of roster of names from the Machibugyō around the Kyōhō period.Okina-gusa is famous partly because one of its stories inspired Mori Ōgai’s “Takasebune.” Since it was written by an official at the time, I was hopeful. However, when I checked Kanazawa Dokoku’s lifespan—1710 to 1795—I realized that he was only 12 years old when my ancestor left the post in 1722. So this source is close but likely not very useful.I looked for other sources but couldn’t find anything conclusive. Nonetheless, I decided to take some action by visiting the National Diet Library to examine two books: Kyoto Goyakusho Mukai Taigai Oboegaki and Nihon Toshi Seikatsu Shiryo Volume 1, which include Kyoto Oboegaki and Furukubo Nikki.Since this part is long, I’ll skip the details, but in summary, these materials gave interesting insights into the lifestyles of the time and seem worth reading thoroughly if time permits. However, sadly, I found no information on my ancestors.By the way, speaking of the Kyōhō era, there was the “Kyōhō Reforms.” While browsing the internet, I got sidetracked reading about these reforms. Then I discovered an important detail:As part of the reforms, jurisdiction over trials in Settsu, Kawachi, Izumi, and Harima provinces, previously under the Kyoto Machibugyō, was transferred to the Osaka Machibugyō—and this happened precisely in Kyōhō 7, the same year my ancestor left office.This suggests that rather than being dismissed due to misconduct, my ancestor was likely laid off due to these reforms. Then, four years later, a vacancy opened in the Hikone domain, where he was subsequently hired. In modern terms, it might be described as a “layoff.”Of course, this is speculation.At this point, I feel it’s becoming difficult to trace the roots any further. Even if I found my ancestor’s name in ancient documents, from the perspective of my original goal—to visit my ancestors’ graves—it would be nearly impossible to locate the burial sites of those who used the surname “Mori” before the Kyōhō era. Their graves may have become unmarked, or they may be considered muenbotoke (graves without descendants). Or if my ancestors were a branch family, the main family might still be maintaining the graves.Still, compared to just recently not knowing even about my great-grandfather, I think I’ve made significant progress. Being able to understand this much about my humble ancestors is a great achievement.Next will be the Early Modern period installment.
2012年01月09日
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またまた古新聞になってしまいましたが、正月休みの最後に、自宅で何かワインを開けようと思ってセラーから引っ張り出したのが写真(上)のボトルです。ポンソの97ロッシュ。しかし、いざキャップシールを剥ごうとして、迷いが生じました。年が明けて初めて自宅で開けるボトルです。しかも正月休み最後のワイン。ラベルとにらめっこすること数分、外れたときのショックの大きさを考えて、結局下のボトルに変更することにしました。(笑) 02のラベイユは一年ほど前にヒグチワインさんで2本購入したもの。インポーターはJSRトレーディング。1本目は到着早々開けてみましたが、率直に言ってイマイチなボトルでした。とはいえ大ハズレというほどでもなかったので、しばらく休ませたこちらはもう少しマシな香味を楽しめるのではないかと。まあポンソの場合、完璧なアタリボトルを引くのは、おみくじで「大吉」をひくようなものだと思ってますので、さして期待するわけでもなく抜栓してみました。で、結局どうだったかといえば‥。予想どおりというか、アタリともハズレともいいずらい微妙なボトルでした(笑)。香りに毛皮や生臭い要素が混じっていて、素直にすばらしい香りといえないのが残念。しかし口に含んでみると、味わいは旨みと乳酸チックなフレーバーがたっぷりで、ポンソらしいものです。二日に分けて飲むつもりでしたが、なんのかんので一日でほぼ飲み切ってしまいました。昨年欧州より購入したボトルたちも春には届きます。今年もまたポンソとの格闘は続きそうです。
2012年01月08日
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ooiotaroさんがブログで何度か書かれている「常夜鍋」。http://ameblo.jp/ooisotaro/entry-10395568348.html我が家も見よう見まねで作ったのですが‥。ほうれん草がしなしなになってしまいました。煮込みすぎですね。でも、おいしかったですよ。子供たちにも好評でした。こういうときに合わせるワインは国産がいいのでしょうけど、のみ山さんの洋風おせちも少し残っていたので、泡モノにしました。ルイ・ロデレール・ブリュット・プルミエ。かわばたさんで3K台で売られているのを見つけて2本購入したのですが、さっそく追加購入決定です。細かく豊かな泡立ち。白桃やグレープフルーツ、カリン、クロワッサン、白い花などの豊かな香り。口にふくむとクリーミーで、適度なコクがありながら、柑橘っぽい酸もあって、そのバランスが秀逸。NVモノではこのルイ・ロデレールとポルロジェが一番好きです。#と思ったら、売り切れていました。前日時点で7本残っていたんですけどねぇ。みな考えることは同じということですかね。
2012年01月08日
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お参りをすませてお寺を辞し、せっかくだからひととおり観光を、ということで、彦根城の天守閣に上り、庭園を見学しました。そのあとは「彦根城博物館」へ。井伊家ゆかりの宝物類がいろいろと展示されている中、当時の城下町のありさまとか、庶民の暮らしぶりとか、ご先祖に関連したものはないかと見て回りましたが、あいにくそのようなものはなく、さあて帰るかと、館内の土産屋に立ち寄ったところ、ある書籍が目に入りました。「彦根藩井伊家文書 侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」。http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/book/02.html彦根藩士の履歴や仕事、賞罰などを石高順に一覧にしたものだそうです。ひょっとして、これなら載っているかも、と思い、その場で全9巻すべての目次に目を通してみましたが、私と同じ渡辺姓では、「弥五右衛門家」と「九郎左衛門家」の2家しかありませんでした。#後で知りましたが、この九郎左衛門は、大久保大和と名乗って自首してきた新撰組の近藤勇を偽名だと看破したことで歴史に名を残しています。結局、博物館ではなにもわからずじまいで、帰京して数日後に、、再度、彦根城博物館のサイトで、「侍中由緒帳」を検索してみると、「1~9巻刊行中、『以下継続刊行予定』」と書いてあるではないですか。侍中由緒帳は、80巻ある古文書のうち、32巻までを現代語訳したものです。したがって、33巻以降現代語訳が出てくれば、そこにご先祖に関する情報もそこに載っているやもしれません。ということで、さっそく、博物館に電話してみました。「あのう、ちょっとお尋ねしたいんですが、『侍中由緒帳』の続刊はいつ出るんでしょうか?」「少々お待ちください。」(待つこと数分‥)「お待たせしました。出る予定はないそうです。」「はぁ、そうですか‥。」それでも、ダメもとで、一応自分の先祖が彦根藩の下級藩士らしいこと、墓誌には1700年代以前の記載がなく、もともとの出自を調べられないかと思っていることなどを説明したら、電話口に学芸員の方が出てきてくれて、調べてみましょう、ということになりました。その場では「今日中ぐらいにはお返事できるかも‥。」ということでしたが、折り返しの電話はなんと10分後ぐらいにかかってきました。速ッ!「『渡邉十右衛門家』は侍中由緒帳の48巻に載っていました。」「もともとは京都町奉行の配下だったようです。」「え?京都町奉行?」「享保7年にそちらの職を辞して、4年間浪人し、享保11年に彦根藩に召抱えられたとあります。」「‥それはなぜでしょうか?」「そこまでは書いてありません。」「どういう仕事をしていたんですか?」「初代の十右衛門さんは、藩主の妻子の賄いや身の回りの世話をしていたようです。その後も代々、藩主の家族のお世話をしたり、藩校の先生をしていた人もいますね。」「それと、今の姓は彦根藩に来てからのもののようです。」「??」「京都町奉行所にいたころは、『森』という姓だったようです。」「そういうことって、あるんですか?どこぞの○○家から嫁でももらったんでしょうか?」「そこまで書いていないので、わかりませんねぇ。」う~む、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものです。我がご先祖の十右衛門さまは、もともとは京都町奉行所の配下で、そこをなんらかの理由でクビになったか辞職した。その後4年間浪人し、享保11年に、これまたなんらかの理由で、彦根藩に召抱えられた。しかも、当時の苗字は、今の姓ではなく、森だった。そして、彦根藩に召抱えられて、これまたなんらかの理由で姓を変えた。こうして苗字を変えたということは、おそらく森家では長男ではなかったのでしょうね。石高は聞きませんでしたが、32巻に掲載されいてる家が110~150石程度であることを思うと、48巻のわがご先祖は、きっと数十石だったのでしょう。そういえば映画「たそがれ清兵衛」の主人公の石高が50石でした。そんな生活だったのでしょうね。それにしても、彦根藩って、スゴイ!と思ったのは、家老や殿様といった偉い方でなく、私のご先祖のような下々の藩士についても、出自をここまで追いかけられることです。調べてくれた学芸員の方は、「こちらにいらっしゃることがあったら、史料をお見せして説明できるようにしておきます。」と言ってくれたのですが、その後は行く機会がないまま5年が過ぎてしまいました。(この項、さらに続きます。)#なお、その後続刊の予定がないと言われた「侍中由緒帳」ですが、久しぶりにHPを見たら、09年よりまた続刊が刊行されて、現在11巻まで出ているようです。これももしかしたら「ひこにゃん」効果なんでしょうか?■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)******************************After paying my respects at the temple, I decided to take advantage of the opportunity to do some sightseeing. I climbed up to the main keep of Hikone Castle and toured the garden.Afterward, I visited the Hikone Castle Museum. While various treasures related to the Ii family were on display, I looked around hoping to find something connected to my ancestors or their daily lives in the castle town. Unfortunately, I found nothing relevant. Just as I was about to leave, I stopped by the museum gift shop and noticed a book that caught my eye.“Hikone Domain Ii Family Documents: Samurai Lineage Register (Samurai-jū Yuisho-chō)”http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/book/02.htmlThis is a list arranged by rice stipend (kokudaka), detailing the records, duties, and rewards or punishments of samurai serving the Hikone domain. Hoping my family might be listed, I browsed the indexes of all nine published volumes on the spot, but among those with the surname Watanabe, only two branches appeared: the "Yagōemon family" and the "Kurōzaemon family."I later learned that this Kurōzaemon was historically notable for having identified Kondō Isami of the Shinsengumi, who had turned himself in under the alias Okubo Yamato.In the end, I couldn’t find any new information at the museum. A few days after returning to Tokyo, I searched the Hikone Castle Museum website again for the “Samurai Lineage Register” and noticed it stated, “Volumes 1 to 9 published; further volumes forthcoming.”The register consists of 80 volumes of old documents, and so far the first 32 have been translated into modern Japanese. Therefore, if the translations of volumes after 32 are published, information about my ancestors might appear there. With this hope, I called the museum.“Hello, may I ask when the next volumes of the Samurai Lineage Register will be published?”“Please hold for a moment.”(A few minutes later...)“Thank you for waiting. There are currently no plans to publish more volumes.”“I see… thank you.”Still, hoping for some help, I explained that my ancestors were apparently low-ranking samurai of the Hikone domain, that the tombstone had no records from before the 1700s, and that I was hoping to research their origins. A curator came on the phone and kindly said they would try to look into it.They said, “We might be able to get back to you by the end of today.”To my surprise, the call came back about 10 minutes later — very fast!They told me, “The ‘Watanabe Jūemon family’ appears in volume 48 of the Samurai Lineage Register.”“It seems they were originally under the Kyoto Machibugyō (town magistrate).”“Wait, Kyoto Machibugyō?”“Yes. It says they resigned from that post in the 7th year of Kyōhō (1722), were masterless samurai (ronin) for four years, and were recruited by the Hikone domain in the 11th year of Kyōhō (1726).”“Why did they resign?”“That is not written.”“What kind of work did they do?”“The first Jūemon appears to have been responsible for the care and household affairs of the lord’s wife and children. Later generations also served the lord’s family and some worked as teachers at the domain school.”“And it seems the family name was changed when they joined the Hikone domain.”“Huh?”“They used the surname ‘Mori’ while serving the Kyoto Machibugyō.”“Is that common? Maybe they married into another family?”“That is not documented.”Indeed, truth is often stranger than fiction.My ancestor Jūemon had been a retainer under the Kyoto Machibugyō, but for some unknown reason left or was dismissed. After four years as a ronin, he was recruited by the Hikone domain, where his family name changed from Mori to Watanabe — possibly because he was not the eldest son of the Mori family.I didn’t ask about their stipend, but given that the families listed in volume 32 had stipends between 110 and 150 koku, it’s likely my ancestors had only a few dozen koku. Incidentally, the protagonist of the movie “Tasogare Seibei” had a stipend of 50 koku, which might be similar to theirs.What impressed me about the Hikone domain was how well they tracked even lower-ranking samurai like my ancestors. The curator kindly offered to show me the original documents next time I visit. Unfortunately, five years have passed without another opportunity to go.(This story continues.)By the way, although I was told there were no plans to continue publishing the Samurai Lineage Register, when I checked the website recently, I found that since 2009 new volumes have been published, and now up to volume 11 are available. Perhaps this is due to the popularity of “Hikonyan,” the Hikone castle mascot.
2012年01月07日
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2006年に前初めて先祖の墓参りをしたときのことを昔のブログ(FC2の方)に書いたことがあります。今回、自分自身の備忘録の意味もあって、再度こちらに掲載することにしました。なお、この記事は2006年の5月のものです。当時は「ひこにゃん」もまだ世に出ておらず、一部の城郭マニアや歴史マニア以外から彦根市が世間の注目を浴びることはあまりありませんでした。今の彦根市はかなり様相が違っているのだろうと思います。*******************知っている人は知っていると思いますが、我が家の姓は「渡辺」です。「ワタナベさんのナベの字は正式には、下が口(邉)ですか、それとも方(邊)ですか?」とよく聞かれますが、実のところ、当人は全くこだわっていなくて、「当用漢字の『辺』でいいですよ。」と答えています。ちなみに本当はどちらなのかというと、戸籍上は「邉」になっているので、そちらが正しいはずなのですが、祖父や父が入っている多磨霊園の墓には「邊」と記されています。この墓を造った祖父がなんらかの事情があってそうしたのか、それとも私同様、あまり気に留めていなかったのか、今となっては知る由もありません。私どもの家は、祖父の代に北海道から東京に出てきました。では、曽祖父の墓はどこにあるかというと、彦根市にあることは聞いていました(先祖はもともと彦根藩の下級藩士だったそうです‥)が、そうそう彦根を訪れる機会もなく、唯一墓を訪れたことのある祖母も亡くなって久しく、本家筋の遠い親戚とは全くつきあいもありません。そうなるとお寺の詳しい所在すら定かでなくなり、墓がどうなっているのかを知る由もありませんでした。亡き父がこの手のご先祖ネタに全く興味がなかった、というのが世代間の情報の断絶の大きな原因だったりするのですが、わたし的には、生まれて40年余、曽祖父やご先祖の墓参をしたことすらない、ということが気になっていましたし、渡辺のナベの字のゆかりについても知りたいと思っていました。それで、たまたま週末に名古屋に出張した際に、土曜日の昼の空き時間を利用して、ぜひ彦根に行ってご先祖の墓参りをしようと思い立ったわけです。ところが、まずお寺を探すのが難儀でした。祖母はよく「井伊家の菩提寺」と言っていたらしいので、それをたよりにインターネットで検索してみると、「龍譚寺」とと「清涼寺」というお寺が見つかりました。しかし、どちらの寺に電話して聞いても、該当するような墓はありません。そもそもごくごく下級の藩士に過ぎなかった私の先祖が、そんな大層なお寺に埋葬されているというのが変な話で、どこかで誇張されて伝わったのでしょう。彦根には4000を数えるお寺があるとかで、寺が判らないのではお手上げです。こりゃいきなり頓挫かな、と思っていたら、捨てる神あれば拾う神あり、で、親戚の叔母が、古い手紙の中から、だいぶ前に「園常寺」という寺で法要が行なわれたことを調べ上げてくれました。早速そちらのお寺に電話してみると、たしかに、祖父の兄、およびその子供たちの名前で登録されているとのこと。これでようやくお寺が特定されました。彦根に行くには、新幹線で「米原」で下車して、そこからひと駅。名古屋からだと約1時間の行程です。時間的には大したことありませんが、新幹線の往復と寺までのタクシー代で約10000円の出費と相成りました。初めて訪れた先祖の地は、よく言えば静かで落ち着いた、悪く言えば活気のない街でした。(前述のとおり、当時はまだ「ひこにゃん」は生まれていませんでした。)街の中央に彦根城があり、一部にはタイムスリップしたかのような古い町並みもあったりして、風情があるのですが、東京の喧騒に慣れた身には、あまりにもうら寂しく感じます。お墓がある「円常寺」というお寺は、「二代目君主のご母堂の菩提寺」だそうです。それで我が家には「伊井家の菩提寺」だと伝わっていたんですね。本尊は快慶作の阿弥陀如来で、立派な庭もあり、なかなか由緒のありそうなお寺でした。墓地に埋葬されているうち、9割は彦根藩の侍だそうですが、彦根藩が幕閣側だったことから、維新後はみな全国に散り散りになってしまったとのこと。私どもの先祖(曽祖父の父親)も明治維新の後、北海道に渡り、本家は今も札幌に住んでいるそうです。もっとも、その息子が東京在住ということで、年に1度ぐらいは必ず墓参に来ており、お墓も荒れ果てているようなこともなく、手入れが行き届いて綺麗なものでした。先祖の墓のナベの字はやはり「下が口(邉)」の方でした。墓誌を確認してみると、曽祖父はもとより、8~9代ぐらい前のご先祖まで、このお墓に埋葬されていることがわかりました。一番最初に記載されいてるご先祖は俗名を「十右衛門」といって、寛保元年(1741年)に亡くなっています。その後も十右衛門または重右衛門という同じ俗名が複数いるところを見ると、当主が通名として十右衛門を名乗っていたのでしょう。生まれて初めて、曽祖父のみならず、先祖代々の墓の前で手をあわせることができたことに少なからず感動を覚えたものです。ところで、このお墓に埋葬されているのは、寛保元年に亡くなった十右衛門さんだということはわかりましたが、そうすると、それ以前のご先祖はどこに埋葬されているのでしょうか?どこか別のところにお墓があるのか、それとも、墓誌に記載されていないだけで、この墓地内に埋葬されているのか、あるいは今となってはもはやわからないのか‥。もともと曽祖父の墓参りが主目的だった彦根訪問でしたが、ここにきて私は、この古のご先祖のことが気になって仕方なくなりました。(この項つづきます。)■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)******************************My family name is "Watanabe."People often ask me, "Is the 'Nabe' (鍋) character in Watanabe officially written with the 'mouth' radical at the bottom (邉), or the 'square' radical (邊)?" But honestly, I don’t care much about it and usually answer, "The common character '辺' (the simplified form) is fine."By the way, the "correct" character should be the one on my family register, which is "邉" (with the mouth radical). However, on the grave in Tama Cemetery where my grandfather and father are buried, it is written as "邊" (with the square radical).Whether my grandfather, who had the grave made, used this character for some particular reason or simply didn't care, like me, I have no way of knowing now.Our family moved from Hokkaido to Tokyo during my grandfather’s generation.I had heard that my great-grandfather’s grave was located in Hikone City (our ancestors were originally low-ranking samurai serving the Hikone domain), but I had never had a chance to visit Hikone. Also, my grandmother, who once visited the grave, passed away long ago, and we have no contact with distant relatives from the main family branch.Because of that, even the exact location of the temple was unclear, so I had no way of knowing the current status of the grave. A big reason for this gap in knowledge between generations was that my late father had no interest whatsoever in ancestor-related matters.But for me, having lived over 40 years without ever visiting the graves of my great-grandfather or earlier ancestors felt unsettling, and I wanted to learn more about the origin of the "Nabe" character in Watanabe.So, when I happened to be on a business trip to Nagoya on a weekend, I decided to take advantage of some free time on Saturday afternoon and visit Hikone to pay my respects to my ancestors.However, the first challenge was finding the temple. My grandmother often said it was "the family temple of the Ii clan," so I searched online with that clue and found two temples: Ryutan-ji and Seiryo-ji. But when I called both temples, neither had any graves matching my family. It was strange to think that a humble low-ranking samurai like my ancestor would be buried at such a prestigious temple. This must have been some exaggerated story passed down.Hikone reportedly has over 4,000 temples, so without knowing the exact temple, I was at a loss and feared my plan would fail immediately.But just when all seemed lost, a relative aunt dug through some old letters and discovered that a memorial service had been held long ago at a temple called Enjo-ji. I called the temple right away, and they confirmed that my grandfather’s older brother and his children are registered there. At last, the temple was identified.To get to Hikone, I took the Shinkansen and got off at Maibara Station, then took one more train station. From Nagoya, it’s about an hour trip. It’s not a long trip time-wise, but the round-trip Shinkansen fare plus taxi to the temple cost about 10,000 yen.Visiting the ancestral land for the first time, the town was quiet and calm if you want to put it kindly, but lifeless and dull if you don’t. (At that time, the popular mascot "Hikonyan" had not yet been created.)Hikone Castle stands in the center of town, and there are some old streets that feel like stepping back in time, which lends a certain charm. But for someone used to the bustle of Tokyo, it felt eerily quiet.The Enjo-ji temple, where the grave is located, is said to be the family temple of the mother of the second lord of the Ii family. That explains why my family called it "the family temple of the Ii clan."The main image is an Amida Buddha statue made by the famous sculptor Kaikei. The temple also has a splendid garden and appears to have a long and distinguished history.About 90% of those buried in the graveyard were samurai of the Hikone domain, but since the domain sided with the Tokugawa shogunate, after the Meiji Restoration, they were scattered all over Japan.Our ancestors (the father of my great-grandfather) also moved to Hokkaido after the Meiji Restoration. The main family branch still lives in Sapporo. One of the descendants now lives in Tokyo and visits the grave at least once a year, so the grave is well maintained and in good condition.The "Nabe" character on the ancestor’s grave is indeed "邉" (with the mouth radical).Checking the tombstone records, I found that not only my great-grandfather but also ancestors from about 8 or 9 generations ago are buried there. The earliest ancestor listed had the common name "Jūemon" and died in Kanpō 1 (1741).Since several ancestors used the same common names "Jūemon" or "Shigemon," it seems the family head traditionally took the name "Jūemon."I was deeply moved to be able to finally pay my respects not only to my great-grandfather but also to generations of ancestors.By the way, although the earliest ancestor in the tombstone is Jūemon who died in 1741, where are the graves of ancestors before him?Are they buried somewhere else, or are they buried here but not recorded on the tombstone? Or is it impossible to know now?Originally, my trip to Hikone was mainly to visit my great-grandfather’s grave, but now I find myself curious about these ancient ancestors as well.(To be continued.)
2012年01月07日
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なんだか時間軸が滅茶苦茶になっていますが、2日に西新井大師に初詣に行った後、カミサンの実家で夕食をご馳走になりました。その際、出していただいたのがこのアルベール・ビショーのジュヴレ・シャンベルタン ・キュヴェ・ジェネラル・ルグラン 06年です。元旦に飲んだモエシャンのロゼは大晦日に開けたものの残りだったので、このボトルが12年の初ワインということになります。アルベール・ビショーといえば、フランスの大手酒商。ロン・デパキのシャブリ、それからクロ・フランタンのジュブレシャンベルタンなどが有名ですが、このキュベ・ジェネラル・ルグランというのは、私も初体験です。輸入元はメルシャン。浅めのワイングラスだったので、あまり香りはとれませんでしたが、赤い果実や紅茶、枯葉、それにジュブレらしい赤錆っぽいニュアンスが感じられます。色調は比較的淡め。しかし飲んでみると薄いということは全くなく、口の中で思いのほか表情が豊かなのが嬉しい。酸も豊かで構成はしっかりしていますが、飲み進むにしたがって、だんだんと後味に残る乾いたタンニンが気になるようになってきました。とはいえ、総じてこれは悪くないワインでした。探し求めるようなレベルかといわれればやや苦しいですが、こうして日常の食卓で供されるワインとしては十分期待値以上の香味でしたし、とりたてて愛好家というわけでないカミサンの実家で私のためにこのようなワインを用意してくれていた、ということに改めて感謝したい気持ちになりました。
2012年01月05日
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…といわけで、つかの間の正月休みも終了。5日から仕事です。今年の正月休みは、ほぼ例年通りの行事をこなしましたが、いくつか特別なこともしました。まず一つ目は、友人夫妻から誘われて十四年ぶりにテニスをしたこと。久しぶりということで、とにかく怪我をしないように心がけました。1時間もすると体が温まってきて、だいぶ動けるようになりましたが、最初のうちは、少しでも瞬発力を使う動作をすると肉離れをおこしてしまいそうな不安がありましたね。技量に関しては、ボレーの勘がすっかり鈍っていましたが、まあこれは仕方ないでしょうね。それと、もう若いころのような力任せのサービスは打てないな、と思いました。もうひとつは、自分にしては珍しく、ジョギングを続けられたことです。テニスをした30日と、カミサンの実家に挨拶に行った1月2日は休みましたが、それ以外はなんとか毎日6キロ走ることができました。2~3年前には1キロも走れなかったことを思えば、まあ自分なりにがんばっているかな、と。今年は「休みの日は必ず5キロ以上」走ることを年間を通じて続けたいと思います。以下は自分の備忘録です。。29日午前中ジョギング。午後はカミサンが美容院に行っている間、留守番がてら子どもと一緒に出かけたり。あとは一部残っていた年賀状の作成とホームページ(S'sWineアーカイブの方)をまとめて更新。30日。用賀で14年ぶりのテニス。往復は新しく買った自転車で。久しぶりにみちのくさんで福箱購入。買ったのは、グロフィエのアムルーズとプスドールのシャルムの09シャンボール2本組。31日午前中ジョギング。午後は買い物に行ったり、のみ山さんにお節をもらいに行ったり…。夕刻早めの時間から、のみ山さんの洋風おせちを肴にモエ・エ・シャンドン・ロゼとプロデュットーリ・デル・バルバレスコ・オヴェッロ01の残りを飲みながら年を越す。元旦午前中ジョギング。そのあと墓参りと私の実家への新年挨拶。うきうきさんの福袋購入。2日実家からの預かり物を引き取るために、午前中チャリで弟と待ち合わせ。午後からカミサンの実家への挨拶と墓参り、西新井大師へ初詣。3日午前中ジョギング。午後、地元の八幡神社へ参拝。その後、子どもがケーキを食べたいというので、地元のイタリアントマトへ。夜はお節の残りを肴にポンソの02ラベイユ。グダグダとひとりで一本飲んでしまい、12時前にダウン。4日前の日の酒がきいたのか、10時半まで起きられず。午後イチでジョギング。帰宅後、近所に新しくできたマッサージに行って、ひたすらリラックス。一日が短かった‥。
2012年01月04日
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ttp://photozou.jp/photo/show/402469/115577129">ええと、年をまたいでしまいましたが、これは30日から大晦日にかけて飲んだボトル、名高い協同組合によるバルバレスコです。ここのノーマルキュベはそれこそ安旨バローロ/バルバレスコの筆頭に挙げられる銘柄ですが、単一畑モノも相当イイらしいという話を聞いて、2本ほど買ってみました。グラスに注ぐと濃いガーネットながら、エッジにはオレンジが見えます。香りは寡黙ながら、プルーンやカシス、ブラックチェリー、タバコ、ウーロン茶などのニュアンスがほんのりと。口に含むと、透明感があって柔らかな中にも芯のある果実味が感じられます。タンニンは攻撃的ではありませんが、やや重々しく感じられます。まだ飲み頃には少し早そうですね。もう一本同時に購入したボトルは数年寝かせてみようと思います。それにしても、このバルバレスコ、香味自体は、好みのど真ん中なんですけど、日頃12.5~13%のアルコール度に慣れているせいか、14%の度数は、日常飲みにはヘビーに感じてしまいます。この辺が、イタリアものにもう一歩ドップリ踏み込めない理由なんだよなぁ。まあ、慣れの問題なのかもしれませんけど。
2012年01月04日
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正月の我が家のスケジュールは毎年ほぼ同じです。元旦は私の実家への新年の挨拶と墓参りで一日が終わり、翌二日はカミサンの実家への新年の挨拶、墓参り、それに近所の西新井大師への初詣。というわけで、今年も西新井大師に行ってきましたよ。西新井大師に着いたのは16時前ぐらいだったでしょうか。午後から風が強くなってきたので、防寒装備を厳重にしていったのですが、それでもかなり寒かった‥。参拝待ちの列の長さはここ数年で最長。ただし順調に流れていたので、待ち時間はそれほどでもありませんでした。私たちは参拝のあと、正門前の吉田屋の草餅を、子どもたちはいつものようにフランクフルトとバナナチョコを買って帰りました。今年はよい年にしたいですね。
2012年01月04日
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先日熱帯魚水槽の水替えをしていたときのこと。ふと水槽の底の方を見ると‥ん??んん?稚魚、、ですよね?いつのまに生まれたんだろう??そういえば、こんな感じのお腹の大きい個体が何匹かいたので、そのうち二世誕生もあるかとは思っていましたが、こんなにすぐに生まれるとは‥。ちなみに、グッピーは卵ではなく、いきなり稚魚を生みます。水槽の中を目を凝らして調べてみると、7~8匹はいるようです。拡大してみると、こんな感じです。カワイイですね~。本来、グッピーの稚魚は、生まれそうになったら、親魚を専用のケースや別水槽に移しておくのがセオリーだそうです。というのも、生まれた稚魚をそのまま同じ水槽で飼っていると、他の魚が捕食してしまうからです。とはいえ、今回は、すでに数日この水槽で生活しているようだし、60センチ水槽の中には水草など隠れる場所もそこそこあるので、特別なことはせずに、このまま様子を見てみようと思います。
2012年01月02日
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我が家の正月のスケジュールはおおむね決まっています。元旦は私の実家への挨拶と墓参、2日はカミサンの実家への挨拶と墓参、初詣。3日は仕事(ただし今年は3日の出社については免れました)。豪勢なお節を用意しても、元日と2日は自宅で夕食をとらないので、いつも余らせてしまいます。なので今年は、数日に亘って帰宅後につまめるような、それこそワインの肴になるようなお節はないかなと探していたところ、たまたま「のみ山」さんの洋風お節をツイッターで知って、早速注文してみました。のみ山さんには最近うかがっていませんでしたが、我が家からは自転車で10分弱の距離です。大晦日の夕刻に引き取りに行きました。気になる中身は…人参のムース、雲丹とオマールのコンソメジュレスモークサーモンとサワークリーム、ディルのディップを詰めたトマト蛸とセミドライトマト、セロリのマリネ自家製オリーブドライイチジクハムとパセリのゼリー寄せ沢庵のスモーク天使の海老のつや煮帆立貝柱の軽いスモークブランダート(鱈とジャガイモ)を詰めた赤ピーマンフォアグラのテリーヌ、アプリコットのジュレ市田柿のコンポート砂肝のコンフィ鴨ロース沖縄ロイヤルポークのリエットさっそく大晦日からいただいていますが、このお節、ワインの肴としては最強ですね。人気ワインバーのいろいろなノウハウがつぎ込まれている感じです。モエ・エ・シャンドンのロゼによくあっていました。※挨拶周りからの帰宅後で、テーブル周りが散らかっていて見苦しいですが‥(^^;唯一の欠点は、小学生のウチの子どもにはイマイチ受けがよくないということですが、まぁ、それは通常のお節でも同様ですからね。正月といわず、ホームパーティの折などにこれがあればと思ってしまいます。
2012年01月01日
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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。昨年は本当に大変な一年でしたが、なんとかこうして新年を迎えることができました。今年は公私ともに充実した良い年にしたいと切に願っています。新年の抱負などはまた改めて‥。
2012年01月01日
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