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9月2日から7日までJFW(日本ファッションウイーク推進機構)主催の2025年春夏東京コレクション(正式名称はRakuten Fashion Week Tokyo)が開催されました。4日だけ京都出張があって視察することができませんでしたが、1日平均11000歩以上を歩いて会場感を移動、今朝一番整骨院で高周波治療をしてきました。今シーズンは例年よりショーの本数そのものは少なかったけれど、いつもより海外からの取材陣は多く、なかなか見応えのあるコレクションをいくつか見ることができました。公式スケジュールにある全てのランウェイショーを見たわけではありませんが、個人的に気になるコレクションをここにアップします。SUPPORT SURFACE(研壁宣男デザイナー)FETICO(舟山瑛美デザイナー)ミューラル(村松祐輔・関口愛弓デザイナー)ピリングス(村上亮太デザイナー)シンヤコヅカ(小塚信哉デザイナー)テルマ(中島輝道デザイナー)ヴィルドホワイレン(ループ志村デザイナー)写真は全て自分のスマホで撮影したもの、プロのカメラマンと違って写真の出来は良くありません。撮影しやすい前方のシートをくださったブランド関係者には感謝申し上げます。各コレクションの全ての写真、映像は、以下の公式サイトにアクセスしてご覧ください。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/CFD(東京ファッションデザイナー協議会)から東京コレクションの主催がJFWに移管された2005年を1とするならば、直近の媒体換算(メディア記事と写真掲載を広告費に換算した場合の数字)200、ネット報道が増えたおかげで海外からのアクセスが急増、とんでもない数字になっています。つまり東京でコレクション発表しても、海外バイヤーやプレス関係者がJFW公式サイトやネット報道をよくチェックしてくれるので海外コレクションに参加した場合とあまり変わらない効果があると言っても過言ではありません。我々がCFD東京コレクションを開始した1985年当時ネットはなく、コレクション報道は新聞雑誌しかありませんでしたから、本当に便利になりました。次回2025年秋冬東京コレクションは来年3月10日開幕の予定です。
2024.09.09
前職官民ファンド社長に就任したとき、たくさんのメディアの取材を受けました。このとき所管官庁の経済産業省記者クラブ関係の記者さんたちよりも取材が多かったのは、それまで勤務していた松屋の広報を通じてのインタビュー。当時広報課長だった矢吹直子さん(現部長)の人脈で新聞の「顔」欄や会社発足当日のテレビニュースなど取材は目一杯でした。会社設立の準備に関わったお役人が「矢吹さんを広報担当にスカウトできませんか」と言うくらい彼女のネットワークで大きく取り上げてもらいましたが、松屋にとっても貴重な戦力、「スカウトは絶対にできない」とお役人には諦めてもらいました。ちょうどその頃、矢吹ネットワークで「マスコミ女子会」なるものが始まりました。新聞記者やブランド広報担当者など数人の女性たちと私が一緒にテーブルを囲む会。昨日久しぶりにその女子会が開催されました。幹事役の矢吹さんは夏風邪で直前キャンセル、もう一人の新聞記者は出張先から遅れて駆けつけるはずでしたが、夕刻神奈川県で発生した地震で新幹線がストップ、結局2時間も新幹線に閉じ込められて欠席となりました。須藤玲子さん松屋銀座8階NUNO今回初めてゲストに招いたのはテキスタイルデザイナー須藤玲子さん。松屋銀座7階「布」ショップでも長年お世話になっており、私にとっては毎日ファッション大賞選考委員会の仲間、今秋中国から来るアパレル経営者研修団に向けてセミナーをお願いしている方でもあります。会食の冒頭、須藤さんに「太田さん、素敵なシャツですね」と数年前に買って着古した綿シャツをほめていただきました。松屋5階に売り場がある「Re:made in tokyo japan」、縫製工場出身の若者たちが良質素材を使って他社より安く日本製アパレル商品を提供しようと立ち上げたファクトリー系ブランドです。たまたま以前私が社長をしていた会社の優秀なショップ店長だった女性が子育てを終えて社会復帰した会社がここなので目をかけています。私はスーツに合わせるシャツだけは全て個人的オーダーメイドですが、カジュアルシャツはこの日本製をうたうブランドのものを愛用しています。昨日の濃紺シャツはもう3年ほど経過しているので生地は少しくたびれ、色落ちしていますが、シャツの素材の良さを見抜くとはさすが専門家。テキスタイルデザインの第一人者からほめられたぞと元部下に報告せねば。女子会で話がはずむうち、須藤さんが意外な会社の名前をあげました。スポーツウエアのゴールドウィンには格別の思いがある、と。前職投資ファンドが出資している山形県の「スパイバー」を早くから取り上げ商品化している企業がゴールドウィンですが、須藤さんの思いの原点はなんと1964年東京オリンピック女子バレーボール金メダルの「東洋の魔女」(二チボー貝塚バレーボール部)。須藤さんは東洋の魔女に憧れ、中学生時代部活にバレーボール部を選んだとか。その東洋の魔女たちがオリンピックで着用していたのがゴールドウィン製造のユニホームでした。1964年東京オリンピック女子バレーボール決勝戦表彰式の東洋の魔女たち東洋の魔女の必殺技は回転レシーブ、相手からの強烈な攻撃をコートの上を転がりながら受け止めるんですが、化学繊維のユニホームだとコートとの摩擦で熱くなるためわざわざコットンを使用していたそうです。彼女たちが所属する会社ニチボー(現ユニチカ)は紡績会社、回転レシーブしても摩擦に耐えうる丈夫なコットン糸を製造するのはお手のものだったかもしれません。テキスタイルデザインの第一人者から東洋の魔女とゴールドウィンへの熱き思いを聞くとはちょっと意外でした。投資ファンドにはいろんな方が相談にいらっしゃいます。海外ビジネス展開を計画する日本企業もあれば、日本の生活文化産業やコンテンツ産業を自国で展開したいという海外の方もいらっしゃいます。お客様をお迎えする接客スペースだけは日本の優れものを並べようと、ロールカーテンやソファクッションなどは須藤さんデザインの意匠性のあるものでした。ニューヨークの近代美術館に永久保存されているテキスタイルデザイナーがデザインした布をさり気なく見せる、クールジャパン戦略を標榜する会社としてこれくらいは訴求せねばという思いでした。須藤玲子さんは桐生市を世界的なテキスタイル産地として広めた新井淳一さんの流れをくむデザイナー。1980年代初頭、世界の多くのファッションブランドが新井さんがつくるテキスタイルに関心を持ち、桐生をはじめ新潟の亀田、兵庫の西脇、愛知の一宮などを訪れて俄かに日本製生地ブームが起こりました。そして1984年、六本木AXIS地下にNUNOショップがオープン、ここに行けば全国の伝統的繊維産地の技術を組み合わせた独創的なテキスタイルをたくさん見れるようになりました。先駆者として道を拓かねばならなかった新井さんを表現するなら「動の人」、ちょっと余計なことを発言してファッションデザイナーたちとひと悶着あったとも聞いていますが、須藤さんは周囲の職人さんたちをうまくつなぎ合わせる「静の人」、ご自身のちょっとしたアイディアを彼らに伝え、これまでの技術を活かしながらありそうでなかったものを生み出すクリエイター。彼女が生み出すテキスタイルにはその優しい人柄がよく表れています。須藤玲子:Making NUNO Textile@丸亀市猪熊弦一郎美術館須藤さんは国内外でテキスタイル展覧会に参加していますが、私も昨年は金沢市の「ポケモンX工芸展ー美とわざの大発見ー」と丸亀市「須藤玲子:Making NUNO Textile」を見るために出かけました。特に後者の展覧会はものづくりのプロセスがよくわかり、見学者を感動させる内容でした。丸亀のあと今年は水戸芸術館現代ギャラリーでも開催されたので、彼女のデザインとものづくりを体感なさった方は大勢いるでしょう。私は昨秋から中国ファッションビジネスの経営者たちに何度もセミナーをさせてもらっています。今秋には別の経営者研修団が来日しますが、彼らに日本のテキスタイルデザインの話を聞いてもらおうと須藤さんに講師をお願いしました。日本の布づくりは歴史ある伝統産業ですが、それをベースにいかに現代的なテキスタイルを生み出すか、ファッションデザインにおいてテキスタイルがいかに重要かを中国の経営者たちに伝え、中国製テキスタイルのアップグレードに役立ててもらうのが狙いです。先日杭州でミナペルホネン皆川明さんのものづくり話に感動した中国の人々、皆川さんと須藤さんはどこか似た世界観がありますから、きっと喜んでくれるのではないでしょうか。いまから楽しみです。
2024.08.10
中国の上海、蘇州、広州各都市でそれぞれセミナーや研修をして帰国、休む暇なくすぐに東京コレクションが始まりました。中国出張の疲れからか珍しく発熱、前夜祭イベントは急きょ欠席、翌日からは熱と咳、鼻水に悩まされながらどうにかショーを視察しました。周囲の客席の方々に風邪をうつしてはいけないので客席では無口、熱が高いときは無理せずショーを欠席、今シーズンは最悪のコンディションでした。それでもそれなりの本数ショーを拝見、写真撮影できる席ではたくさん写真を撮ることができました。その中から自分なりに評価したいなと思った5つのコレクションをここにアップします。5つに共通するのは、あれもこれも見せようとする欲張りコレクションではなく、ひとつのディレクションを徹底して突き進む姿勢と服自体の完成度。あくまでも個人的な見解、メディアの方々とは視点が違うかもしれません。HIDESIGN(ハイドサイン) このようにオープニングからモデルが多数ステージに登場、迫力あるワークウエアでした。HARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ) まだデビューして数年しか経過していないのに貫禄すら感じました。FETICO(フェティコ) デビューからずっとブレないディレクションが素晴らしい。MURRAL(ミューラル) 予想以上に見応えのあるコレクション、ショーを見ることができて良かった。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス) いつも細かいところまで目がいき届いた安心して見ていられるコレクション、今回もさすがでした。そして、RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO公式スケジュールの翌日夕方に立教大学キャンパスで開催されたKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、写真下)も面白いコレクションでした。バッグ代わりにランドセルを持った無表情なモデルがちょっとシュールで可笑しかった。ほかにも気になるコレクションはいくつもありましたが、残念ながら撮影しにくい客席での撮影は諦めました。誰でも客席でビデオや写真をスマホ撮影できる時代ですから、やっぱりコレクションはランウェイに近いポジションで拝見できればありがたいですね。
2024.03.27
現在2024年秋冬ニューヨーク・ファッションウイークが開催中ですが、東京コレクション(正式名称Rakuten Fashion Week TOKYO)のスケジュールが昨日発表されました。詳細はこちらを。招待状などお問合せは各ブランドの広報または営業担当に直接お願いします。https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/sp/index/月日時間ブランド会場3月10日17:00M A S U 渋谷ヒカリエ ホール A3月11日12:00HIDESIGN渋谷ヒカリエ ホール A 13:00pays des fées渋谷ヒカリエ ホール B 14:0008sircus オンライン配信 15:00IRENISAオンライン配信 16:30Chika Kisada招待状をご覧ください 18:00KAMIYA招待状をご覧ください 19:00SHINYAKOZUKA 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30TANAKA招待状をご覧ください3月12日12:00FAF 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30HOLO MARKETオンライン配信 15:00HOUGA表参道ヒルズ スペース オー 17:30HARUNOBUMURATA招待状をご覧ください 19:00Kota Gushiken 渋谷ヒカリエ ホール A 20:30VIVIANO招待状をご覧ください3月13日12:00tanakadaisuke 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30YOHEI OHNO招待状をご覧ください 15:00JOTARO SAITO表参道ヒルズ スペース オー 16:00MIKAGE SHIN招待状をご覧ください 17:30FETICO招待状をご覧ください 19:00KANAKO SAKAI渋谷ヒカリエ ホール A 20:30WILDFRÄULEIN招待状をご覧ください3月14日12:00PHOTOCOPIEU 渋谷ヒカリエ ホール A 13:30WIZZARDオンライン配信 16:00TAE ASHIDA招待状をご覧ください 17:00AKIKOAOKI招待状をご覧ください 18:00MURRAL招待状をご覧ください 19:00Queen&Jack渋谷ヒカリエ ホール A 20:30MIKIO SAKABE招待状をご覧ください3月15日11:00mister it. 渋谷ヒカリエ ホール A 12:00HEōS渋谷ヒカリエ ホール B 15:00meagratia表参道ヒルズ スペース オー 17:30support surface渋谷ヒカリエ ホール A 19:00Marimekko (by R)招待状をご覧ください 20:00HYKEオンライン配信 21:00mintdesignsオンライン配信3月16日12:00HAENGNAE 渋谷ヒカリエ ホール A 13:00Global Fashion Collective 1 渋谷ヒカリエ ホール B 14:30CHONOオンライン配信 16:30DRESSEDUNDRESSEDオンライン配信 18:00Global Fashion Collective 2渋谷ヒカリエ ホール B 19:00SOSHIOTSUKI (TFA)渋谷ヒカリエ ホール AHARUNOBUMURATA 2024春夏コレクションよりSHINYAKOZUKA 2024春夏コレクションより
2024.02.16
来週中国アパレル事業者へのセミナーのため浙江省杭州に出かけます。上海の左側、人口1030万人です。主催者の配慮で近郊の寧波(760万人)にも立ち寄ります。寧波には前職投資ファンドで莫大な投資を行った阪急百貨店があり、開店以来絶好調なのでその様子も見てきます。現地では恐らく売り場を歩き回るでしょうから、いつも履いているトッズの革靴はやめて楽なスニーカーにしようと考えています。近年ラグジュアリー系ブランドもたくさんスニーカーを販売強化していますし、スポーツ系ブランドは消費者の生活シーンごとにいろんなタイプのスニーカーを出しています。革靴はトッズと決めている(個人的に履いて楽なのがその要因)私ですが、スニーカーもアディダスと決めています。短期間で急成長したナイキも、大谷翔平選手がCM出演して注目されているニューバランスも、技術的には素晴らしい日本のオニツカタイガーもありますが、どうしても私はアディダスなのです。思春期にサッカーに夢中だった私の愛読書はサッカーマガジン、自分のスーパースターはバイエルミュンヘンのゲルト・ミュラー選手、そしてあこがれのサッカーシューズはアディダスでした。でも、アディダスはほかのメーカーよりもやや高価、ガキの小遣いではとても手が届かない代物でした。なので私にとってアディダスは特別な憧れブランドなのです。今日オフィスの近くのアディダス直営店で杭州出張用のスニーカーを買いました。手元にある黒地に白い3本線のものと同じ形のライトグレーにしました。ABCマートにでも行ってほかのブランドを見ればもっとカッコイイあるいは履き心地いいスニーカーはあるのでしょうが、私は頑固にマイブランドのアディダス。バカじゃないかと言われそうですが....。昔から私はこれと決めたブランドを長く使い続けてきました。アンダーウエア、Tシャツのカルバンクラインもそうです。ブランドが生まれたときからずっと一途にカルバンクラインのアンダーウエア、米国写真家ブルース・ウエバーが撮影した広告写真(写真下)はあまりに有名です。ブルース・ウエバー撮影の広告カルバンクライン定番だったクルーネックTシャツおよそ30年間、米国出張のたび郊外のブルーミングデールズ百貨店やアウトレットモールでカルバンクラインを大量に買い、持参した古い下着を現地ホテルで捨ててきました。ところがコロナウイルスで米国出張がなくなり、近年カルバンクラインのTシャツはVネックばかり、私のお気に入り無地ロゴなしクルーネックは入手困難に。ド定番なのにどうしてクルーネックがないのか、そして広告写真にあるアンダーウエアがないのか、私には理由がわかりません。ネット通販で探してみたものの、通販サイトにあるTシャツはロゴ入りやVネックばかり、アンダーウエアもトランクス型がほとんど、これではあきらめるしかありません。そこで、先日ネットアパレルのEVERLANEの無地クルーネックを購入しました。長年愛用してきたカルバンクラインのような肌触りで安心、ついにマイブランドとはお別れすることになりました。今日購入したアディダスシューズのトッズもこれまで海外出張中のたび毎回2、3足購入するうちトータルで100足以上になりました。トッズ傘下のロジェヴィヴィエ導入交渉のとき、パリ展示会でお会いしたトッズのオーナー会長に「日本でトッズの一番のお客さんは私です」と言ったほど、私はずっとトッズを履いてきました。が、最近アディダスを履き始めたら心が揺れ動きました。スニーカーは本当に楽、頑張って革靴を履く必要があるんだろうかと思うようになったのです。最近はトッズとアディダスのスニーカーを履き分けていますが、たぶん近未来靴は全部アディダスのスニーカーになるんだろうな、と。ソックスもマイブランドはナイガイ製造のポロ・ラルフローレンでしたが、最近はお気に入りのデザインが少なく、ポロ以外のソックスも買うようになりました。ずっと同じブランドを愛用したいんですが、ソックスもアンダーウエアもブランド側の方向性で同じものを買えなくなりました。ブランド側はいつもと同じ顧客を相手にしていては成長はないのかもしれませんが、顧客に安心感を提供するのが本来のブランドの姿勢ではないでしょうか。トレンドが変わろうが人気が低迷しようが、同じブランドを長く愛用できるのがマイブランド。楽なのでスニーカーを履く頻度はこれから高くなりそうですが、しばらく私のマイブランドはアディダスのままでしょうね。
2023.12.10
香川県丸亀市猪熊弦一郎美術館で開催されているテキスタイルデザイナー須藤玲子さん「nunoの布づくり」展覧会を拝見しました。須藤さんとは毎日ファッション大賞の関係で年に数回しかお目にかかりませんが、改めて彼女のものづくりの発想、クリエーションの源泉がよくわかる素晴らしい展覧会でした。また、ものづくり現場の映像から、須藤さんらを陰で支える各地の繊維産地の職人さんたちの根気強い姿勢と、どうやって丁寧に布を生産しているのかもよく理解できました。布づくりに関わる全ての人のテキスタイルへの愛情に触れ、一人の消費者としてもうちょっと大切に服を着なければならない、と。ファッションビジネスに携わる全ての人に見て欲しい展覧会、12月10日まで。高松空港から丸亀駅までバス運行、美術館は丸亀駅のすぐ前にあります。追加情報ですが、県庁所在地の高松市はシャッター街が増える全国地方都市の中で例外的に地元商店街がとても元気、第三セクターによる地方都市整備のモデルケースになっています。その商店街の名称も「丸亀町商店街」と言いますが、ルイヴィトンやティファニーもあれば、センスのいい地元セレクトショップや美味しい飲食店が多数あります。
2023.11.28
コロナウイルス騒動が一段落し、3年続いた入場規制もなくなり通常開催された文化服装学院の文化祭に昨日お邪魔しました。恒例のファッションショーは例年よりもステージが低くて大変見やすく、IT技術革新もあって映像、照明や音響など演出面はものすごい進歩、プロ顔負けの中身の濃いファッションショーでした。協賛企業の素材や資材提供もあり、学生たちのものづくりは数年前に比べるとかなり進化、パワフルで見応えのある作品は少なくありません。「最近の若者はこんなものを作りたいのか」、そんな思いでショーを拝見しましたが、今年は特に手の込んだ楽しい作品が例年より多かったのではないでしょうか。個人的に最も評価したのは下の写真(右)の赤いドレス。ひとつずつ丁寧に花を成形しそれらをつなげてドレスに仕上げた作品、プロの技術者が揃うアトリエでもそう簡単にこのレベルはできるものではありません。先生がたのお手伝い抜きで学生たちの力だけで完成させたのであれば「あっぱれ!」です。会場で学校関係者がおっしゃっていました。日本全体の人口減少で先々ファッション専門学校を志望する若者は減少することが予想されるのでファッション業界に夢がないことには、と。夢や希望がなければ若者たちはほかのジャンルに進みます。ファッション業界全体にエネルギーが満ちていないと若者は集まってきませんから、当然ファッション系専門学校の募集に影響が出ます。学校が満足な教育を維持できるかどうかは産業界の肩にかかっています。今回の学生コレクション、(誰がどういう場面で着るかどうかはちょっとおいておいて)いま現在自分たちが作ってみたかったものを思い切り作ってみましたという力作が例年よりも多かった。言い換えれば妥協がなかった、これが素晴らしいと私は思います。今後も専門学校が人を集め、いい教育を続けるためには産業界そのものに魅力がないといけませんが、こういう文化祭のようなイベントにもっと協力し、学生クリエーションの具体化を支えてあげるのも産業界の使命ではないでしょうか。
2023.11.04
ただでさえ暑い京都、炎天下屋外に設置されたプレゼン会場で「建築学生ワークショップ2023仁和寺」が開催されました。あまりの暑さにシャツを袖捲りしたら腕が日焼けして真っ赤になり、意識的に飲んだミネラルウォーターはボトル4本、なんとか熱中症にならず参加できました。仁和寺の正門宇多天皇が退位したのち門跡になったことから長く天皇家との結びつきが強く、寺院としては別格の仁和寺。こんな聖地のような場所で学生たちは合宿し、自分たちが創作したフォリーを境内に建てられる、普通に考えたら無理な話でしょう。が、建築学生ワークショップはこれまで伊勢神宮、出雲大社、明治神宮、延暦寺、東大寺、厳島神社などで開催してきたので仁和寺も支援してくださったようです。正門をくぐってまず現れたのが多数の風船を浮かせたフォリー、風にそよいでまるで龍が暴れているようでユニークでした。150個の風船を浮かせたタイトル「こゆるり」(第3位)境内五重塔の前にセットしたフォリーは通行者が中を通過する際に踏む床が振動を与えて木と木がぶつかり木琴のような音が出る仕掛け。音を発するフォリー、発想自体は面白かった。こちらが2位の優秀賞です。床を踏むと音が出るタイトル「さとる」(第2位)そして、最優秀賞に選ばれたのは、中間発表時点で得点ゼロの最下位からの大逆転、見事です。ポリエステル綿を自分たちで絞りながら縄状にして木に巻きつけたフォリー、建築資材として綿の起用は新鮮。仁和寺固有の御室桜(背丈が低く、300年ほど長い寿命だそうです)が群生する場所の前に設置した点も講評者の皆さんに響いたようです。ちなみに昨年の厳島神社で最優秀賞だったのは蝋で組み立てたフォリーでしたが、建築資材として当たり前のものではない点が2年連続評価されたと思います。綿を使っタイトル「わ」が最優秀賞仁和寺という開催地のことを調べてどういうタイトル(テーマ)をつけるのか、そのタイトルに相応しい場所は敷地内のどこなのか、どういう資材(費用の上限あり)を使って、組み合わせて、どんなデザインのフォリーを創作するのか、大学対抗ではなく無作為に編成されたチームで作業します。コンセプトが決まったら小さな模型を作り、中間審査があり、専門家の先生方からもらったアドバイスをもとに変更箇所を議論し、現場で合宿してフォリーを組み立てます。多くのチームは現地入りしてから変更に変更を重ね、時間が足りずほぼ徹夜。発表時点ではもうぶっ倒れそうな状態。実際、最優秀賞のチームは6人のうち4人がステージに、2人は体調不良でダウンでした。最優秀賞チームは6人でした10組の参加学生、専門家として制作サポートした京都の建築関連企業の皆さん、そしてなによりこのイベントを主催運営したAAFの学生の皆さん、ご苦労様でした。例年のことながら皆さんの熱意には感動します。このワークショップを体験した若者の中から将来プリツカー賞を受賞するような世界的建築家が出てきて欲しいです。講評者は自分が選ぶ3チームにのみ加点(私は50点、30点、20点としました)、その合計点で順位が決まる仕組みですが、私が選んだ3チームは1つも表彰されませんでした。建築のプロの方々とは審査の視点が違うからでしょうね。某大学教授も点数つけたチームは全部外れたと聞いてちょっと安心しました。最後の全体講評で建築の専門家数人がおっしゃっていましたが、表彰されなかった7チームと受賞3チームとの差はほとんどありません。大切なのは、チーム編成されてからプレゼンまでどれだけ濃密な時間を過ごしたか、そしてこの経験を将来に繋げることでしょう。以下に他の7チームのフォリーをアップします。皆さんならどれをイチオシにしますか。建築学生ワークショップは主催者AAF(NPO法人アートアンドアーキテクトフェスタ)の運営も学生さんたち、フォリー創作も学生さん、それを建築家の平沼孝啓さんや全国の大学の先生方らが背後でバックアップし、フォリー設置は専門家が各チーム数人協力しています。来年は今年同様京都のお寺さん、醍醐寺開催です。来年は涼しいといいんですが。多数の関係者がフォリーを見て回るイベント(五重塔の前)
2023.09.18
毎日新聞社が主催する「毎日ファッション大賞」本年度各部門受賞者が発表されました。まずは受賞された皆様とその背後で支えていらっしゃる皆様、おめでとうございます。今年も委員の一人(18回目)として選考会に参加させていただきました。すんなり決まった部門もあれば、決選投票をやり直すほど激戦の部門もあり、改めて個人の受け止め方が異なるクリエーションを人が評価する難しさを実感しました。が、選考委員としてこの結果には満足しております。各部門の受賞者は次の通り。(敬称略)ファッション大賞:黒河内真衣子 Mame Kurogouchiデザイナー新人賞・資生堂奨励賞:川崎和也 Synflux代表取締役CEO スペキュラティヴ・ファッションデザイナー鯨岡阿美子賞:栗野宏文 ユナイテッドアローズ上級顧問話題賞:グランドセイコー話題賞:のん 俳優・アーティスト特別賞:文化学園 Mame Kurogouchi 2023 AWコレクション詳しくは以下のサイトをご覧ください。https://macs.mainichi.co.jp/fashion/win41/index.html
2023.09.12
数ヶ月前、新型コロナウイルスの影響で休止状態だった訪日中国業界人に向けたセミナーをさせてもらいました。コロナ前はかなりの数を受け持ちましたが、中国人セミナーは久しぶりでした。このときもう一人ゲストスピーカーがいました。中国人デザイナーのヴィヴィアーノ・スーさん(ブランド名はVIVIANO)です。メディアに出ている彼のプロフィールでは、中国出身米国育ち、2008年来日、文化ファッション大学院大学を修了して2015年ブランド設立とあります。が、中国のどの地方で生まれ、米国のどこで育ち、なぜニューヨークのパーソンズデザイン学校でなく日本の専門教育機関を選んだのか、詳しいことは書いてありません。中国人セミナーではこれまでのコレクション写真を紹介しながら通訳なしで話していたので、中国語がわからない私には何を話しているのかさっぱり。しかし、自分のクリエーションを熱っぽく語る姿は印象的でした。ヴィヴィアーノの特徴の一つはそのパンチのきいた色彩。日本人デザイナーはここまでヴィヴィッドな色はほとんど使いませんから、鮮やかな色彩は目を惹きます。レッドカーペットを歩くエレガントなイブニングガウンでありながら、どこかカジュアル感をプラスしてコンテンポラリーに仕上げています。残念ながら、ハリウッドやブロードウェイのようなハレの場がほとんどない日本、東京よりもニューヨークコレクションで発表したらもっとメディアに取り上げられるかも、と思います。中国の強い色彩、米国の華やかなパーティー感覚、日本のカジュアル感がミックスされたコレクション、なかなかの迫力でした。ヴィヴィアーノをまとった若いファンたち、カッコ良かった点も印象に残りました。
2023.09.10
欧米の主要都市とは違って、東京のファッションリーダーはずっと若者。団塊世代のみゆき族に始まり、DCブーム、カラス族、渋谷や裏原宿のストリートカジュアルも、東京ファッションを牽引してきたのは常に若者でした。だから東京コレクションでも、音量を最大限に上げてロックをガンガン、日常性の高い服を着たモデルが足早に歩くショーはこれまでたくさんありました。生活にゆとりのある大人が主役のパリ、ミラノ、ニューヨークとの大きな違いでしょう。でも、シックな大人服をつくるデザイナーが日本にいないわけではありませんし、そのニーズは市場にあります。さりげないデザインの服、静かな音楽、ゆっくり歩くモデル、時にはそんなショーも心地よいし、その場にいるとホッとします。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス、研壁宣男さん)もそのひとつ、モデルが目の前を通過したあと背中に流れる優しい余韻には毎回癒されます。まだCFD議長だったころ、ある大手新聞社のファッションイベントにロメオジリとイッセイミヤケのジョイントショーを提案したことがありました。トレンドには関係ない、言い方変えればトレンドを超越したクリエーション、しかも個性は対照的、この2ブランドを読者に見せてはどうでしょう、と。あのころのロメオジリはポスト3G(アルマーニ、ヴェルサーチ、フェレ)の一人としてミラノコレクションでも光り輝いていました。光沢のありシルク、なんとも不思議な色彩、中世の貴族を彷彿させるシルエットは独特の世界観でした。そのロメオ・ジリさんに師事し、ミラノの名店10コルソコモでデザイナーとして活躍したあと帰国してブランドを立ち上げた研壁さん、東京コレクションでは特別な存在だと思います。バイタリティー溢れるストリートカジュアルもいいけれど、こういう丁寧な仕事にも注目したいですね。
2023.09.09
昨年「JFWネクストブランドアワード」に選ばれてデビューショーを開いたFETICO(フェティコ、舟山瑛美さん)の3シーズン目。女性の造形美をストレートに強調する思い切りの良さ、デビューからブレずに徹底して女性の身体をあらわにする姿勢、とても3シーズン目の新人デザイナーとは思えない貫禄さえ感じさせます。ショーを見ながら、ふとパリのシャンタル・トーマスを思い出しました。1970年代初頭、パリコレがオートクチュールからプレタポルテに代わろうとしていた時代、ケンゾー、ドロテビスらと共にプレタポルテで一世を風靡した女性デザイナー、アンダーウエアとアウターウエアの古典的境界線を飛び越えたデザインで人気がありました。あのシャンタルの官能美を彷彿させる凄みをフェティコにも感じました。自らの信じる道を真っ直ぐ突き進む姿勢、拍手を贈りたいです。東京都とJFWが合同開催する「東京ファッションアワード」(パリでの合同展示会支援)にも選ばれ、果たしてパリで海外バイヤーたちからどのような評価を得ることができるのか。パリでの厳しい目を経験し、さらなる大化けを期待したいデザイナーの一人です。
2023.09.05
8月28日月曜日から始まった2024年春夏東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)、今年の8月は最高気温30度以下が一度もない記録的暑さ、会場移動で1日平均12,000歩、さすがに水分補強に気をつけないと危険です。昨日までの5日間暑い中をよく歩いたのでふくらはぎはパンパン、今朝近所の整骨院で高周波治療を受けてきました。今日が正式日程の最終日、あと1日ぶっ倒れないよう気をつけなければ。今シーズンはここまで3ブランドが屋外でのファッションショー、雨が降らなくて良かったです。数字上では猛暑続きですが、屋外の心地良さを感じながら見るファッションショーは気分がいいです。国立博物館法隆寺宝物館の池のまわりで開催したのはHARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ、村田晴信さん)。ジルサンダーで修行した若者、今回が3回目ですがシーズンごとに進化していますね。前回のミニマルなコレクションを見て個人的にはイチオシの若手デザイナーですが、春夏シーズンということもあって今回はそれに軽さが加わり、ご自身の世界観が広がりました。この軽さ、次回秋冬でも見せて欲しいです。(以上3枚ともハルノブムラタ)千駄ヶ谷の東京都体育館エントランスの広場で開催したのがSHINYAKOZUKA(シンヤコヅカ、小塚信哉さん)。ブランドプロフィールに「絵に描いたような情景をコンセプトに」とありますが、月明かりの下を遠くから歩いてくるモデルたちがなんとも叙情的でした。観客の多くはこのショーのことをしばらく忘れることはないでしょう。言い過ぎかもしれませんが、東コレにまた一人新しい主役が登場ですね。服も演出もヴィジュアルアートも隅々まで気を遣ってこのショーを作り上げたことが十分伝わりました。年に一度のスーパーブルームーンがこの二日後だったので惜しかったです。(以上3枚シンヤコヅカ)そして昨日は竹橋の毎日新聞東京本社があるパレスサイドビル屋上で開催したmeanswhile(ミーンズワイル、藤崎尚大さん)。「日常着である以上、服は衣装ではなく道具である」をコンセプトに、アウトドアやワークウエアの要素を取り入れたカジュアルを提案するデザイナーの姿勢が屋外の空気によく似合っていました。クリエーションだ、アートだではなく、あえて「道具」と割り切っていますが、かっこいいアイテムがいくつかあって個人的には欲しいものが数点ありました。日常のクリエーション、私は好きです。(以上3枚ミーンズワイル)お天気が良ければ、屋外ショーはなんとも気持ちいいもんですね。3つとも雨降らず、暑すぎることもなく好印象コレクションでした。
2023.09.02
(前項からのつづき)1985年3月初めて西麻布の割烹店でご馳走になってから、三宅一生さんとは何度も会食しました。数人でのディナーもありました。そのほとんどはマスコミ関係者との懇親会。感情の激しい天才肌クリエイター、マスコミに創作意図が伝わらない、あるいは誤解されて批評されると直接ジャーナリストに電話して怒りをぶちまけることもありましたから、よく仲介役を引き受けました。信頼していた三宅デザイン事務所副社長の小室知子さんには「俺はおたくのプレスみたいや」とぼやいたものです。ジャーナリストとの懇談会、右端横顔が私二人だけで出かけることはもっと多かった。メディアに頻繁に登場する世界的デザイナー、しかもサントリーのTVコマーシャルにも出演したので顔は売れている、どこに行っても三宅さんは目立ちます。知らない人から飲食店で声をかけられたり握手を求められたりするたび、その直後に表情が曇りました。有名人扱されることがとっても嫌いでしたから。ファッション業界人がたくさんいる青山、麻布、六本木の飲食店ではすぐに誰かと遭遇するので、私たちは港区以外のお店を利用するようになりました。当時はファッション業界人をあまり見かけなかった日本橋人形町、神楽坂、荒木町、港区でもサラリーマンの街新橋にもよく出かけ、青山界隈で利用したのは青山通りにあったブラッセリーDだけ。ここは支配人が三宅さんのケアが格別だったので。三宅さんはいかにも政財界人が利用しそうな料亭風やハイソなレストランが大嫌い、庶民的な雰囲気のお店の隅っこのテーブル、カウンターの端っこが好きでした。パリでも有名シェフの星付きレストランではなく、いつも家庭的な料理を出してくれるビストロやカジュアルなブラッセリー。あまりお酒を飲まないグルメ、好みはいたって庶民的、そういう人柄でした。パリコレやニューヨークのファッションウイークでは、多くのファッションエディター、バイヤーはその日にコレクション発表を予定している有力デザイナーの服を着てショーに出かける、あるいは有力デザイナーが2人の場合は一度着替えに戻ってショー会場に行くくらい気をつかいます。デザイナーの気持ちを考えれば、自分たちのブランドを着用して会場に来てくれたら嬉しいに決まっていますから。ましてデザイナーとディナーするならもっと気をつかいます。が、どんなデザイナーさんと食事するときも、申し訳ないんですが私はいつも愛用している服を着て出かけます。当時の私は1年365日コムデギャルソン(オムとプリュス)、舐めない媚びないが生き方モットーですから、相手のデザイナーさんの服を着て食事することはありません。何度も飲食を共にした三宅さんは毎回コムデギャルソンの私にきっとおもしろくなかったと思います。そんな私も一度だけ気をつかったことがあります。突然電話をもらい、「倉本聰さんのステージを観に行きませんか」と誘われた日、私はたまたまプリュス(メンズのコレクションライン)の目立つ服を着ていました。さすがにこのまま劇場に行ったら気分悪くなるだろう、でもオフィスから徒歩3分のイッセイミヤケ直営店で購入すればバレるに決まっている。そこで部下に「イッセイミヤケ店で俺が着てもおかしくないようなカーディガンを買ってきてくれないか」と頼みました。部下が買ってきてくれたカーディガンは前から見れば黒無地、背中には白い横線が2本入ったプレーンなものでした。私はこれを着て劇場に出かけ、観劇の後一緒に食事に行きました。しかし、三宅さんは気がつかなかったのか、カーディガンのコメントはなかったです。あれは1998年のことだったでしょうか、二人で食後の一杯をしていたら突然「僕はイッセイミヤケのデザイナーを辞めて別の仕事をやろうと思っているんです」。びっくりしました。さらに「あとは滝沢(直己)にやってもらいます」、これにもまたびっくり。毛利巨男さんが去ったあとのイッセイミヤケを支えたのが小野塚秋良さん、その次の世代はプリーツ開発で貢献した滝沢直己さん、この時点で後継指名されるのは別会社でズッカを手掛けている小野塚さんだと思っていました。バトンを渡された滝沢直己さん飲んでいるテーブル席の周辺にもしマスコミ関係者がいたら「三宅一生、退任」とすぐにスクープされそうな重要な話。それだけ外部の私を信頼してくれた証かもしれませんが、とにかくびっくり仰天でした。前述ジャーナルドゥテキスタイル紙のランキングでもまだ上位にいる人気も実力もあるデザイナーが、自分から退任して後継者にバトンたちするなんて前代未聞。オーナーデザイナーの交代劇は、人気が急落してブランドのブラッシュアップが必要と判断された場合、もしくはご本人の急逝による交代はありますが、現役バリバリのままバトンタッチなんて聞いたことありません。パリコレ参加のトップデザイナーは、6カ月ごとコンスタントに世界的ヒット曲を出さなければならないミュージシャンのようは存在。デビューして25年、婦人服だけでも50回はコレクション発表をしてきたデザイナーには、6カ月ごとのハイペースではなくもっとじっくり腰を落ち着けて創作活動をしたいと思うところがあったのでしょう。自身が立ち上げたイッセイミヤケはバトンタッチするもののクリエーション活動そのものは生涯ずっと続ける、すなわちデザイナー引退ではないという気持ちでだったでしょう。ところが、パリコレ開催期間に現地でデザイナー交代を発表したら、日本の新聞社が「引退」と記事にしました。事前にプレスリリースを受け取っていた私でさえ、きっと誤解するメディアが現れるぞと心配する書き方でしたから。案の定、引退報道が出て現地でも日本でも大騒ぎになりました。過去に同じような交代劇の事例があるならば、コレクションブランドのデザイナー交代であってもデザイナーとしての引退ではないと想像つきますが、そんな事例はこれまでないんですから引退スクープは仕方がなかった。三宅さんは還暦を機に滝沢さんに基幹ブランドをバトンバトンタッチ、その後も精力的にA-POCや1325.イッセイミヤケのデザインを続け、我が子のようにプリーツプリーズの企画監修を行い、これとは別に東京ミッドタウンに作った21_21デザインサイトの企画に従事、クリエイターとして多忙な日々を過ごしました。DNAを感じさせる現在のイッセイミヤケ三宅さんからバトンを受けた滝沢さんのあと、藤原大さん、宮前義之さんとデザイナー交代は続き、現在5代目の近藤悟史さんがパリコレで発表しています。5代目になると創業デザイナーの臭いは薄くなるものですが、DNAがしっかりしているので現在のところブレはないように感じます。
2023.08.19
(前項からのつづき)長い間私たち流通業界関係者が現時点のブランドポジションを調べる上で目安としてきたのが、フランスの業界新聞「ジャーナル・ドゥ・テキスタイル」です。ミラノ、パリコレが終了後、各国の主要バイヤーとジャーナリストにそのシーズンのコレクションの評価を投票してもらい、半年後のパリコレ会期中に紙面で投票結果の詳細を発表します。年2回あり、カテゴリーはバイヤー選出部門とジャーナリスト選出部門に分かれています。参考にしてきたジャーナルドゥテキスタイル紙バイヤー部門は、自店が独占販売していたり特別プロジェクトで関わっているブランドに投票しがち、ちょっと偏っています。たとえば、サンジェルマンにあったオンワード樫山フランス法人セレクトショップのバスストップは、いかなるシーズンも自社が発掘して育てたジャンポールゴルティエの名を第1位に推挙します。伊勢丹パリオフィスは当時ライセンス提携していたカールラガーフェルド(シャネル、フェンディではなくカール自身のブランド)を上位に。どの小売店がどのブランドに投票したのか細かく実名掲載されるので、業界通なら投票者の贔屓目も頭に入れて結果を受け止めます。一方のジャーナリスト部門は、インターナショナルヘラルドトリビューン、ルモンド、フィガロや名だたるフランス雑誌の記者が投票、バイヤー部門よりも信ぴょう性が高く、ブランド人気のバロメーターとして参考になります。概してバイヤー部門はクリエーションだけでなくビジネスとしてどうなのかも加味しての判断、ジャーナリスト部門は斬新さに投票のウェイトがおかれているように感じます。私も百貨店としてブランド導入を検討する際、このブランドランキングのジャーナリスト部門の結果をバロメーターとして活用させてもらいました。このランキングが誕生した頃、パリコレではケンゾー、クロエ(カールラガーフェルドがデザイン)、イヴサンローランがしのぎを削っていました。その後は彗星のごとく現れたジャンポールゴルティエがほとんどのシーズン第1位を独占。日本のビッグスリーが上位を占拠した時期があり、その次はマルタンマルジェラやドリスヴァンノッテンらアントワープ勢のランキングが上昇、ロンドン育ちのジョンガリアーノ、アレキサンダーマックイーンが手掛けるブランドが脚光を浴び、さらにプラダ、トムフォードのグッチなどミラノブランドがパリ以上の評価を受けるなど、時代と共にコロコロ主役は変わりました。1998年パリコレ出張のあと百貨店の大きなリニューアルを計画するきっかけとなったのは、このフランス業界紙ランキング表でした。この時点で上位20傑に入っているブランドのうち、新宿伊勢丹が13ブランド、池袋東武百貨店が7ブランド導入しているのに対し、銀座のわが社が導入していたのは1つだけ、しかもそれは日本のイッセイミャケでした。世界のジャーナリストが評価している旬のファッションブランドのトップ20のうち、インポートはゼロ、日本のビッグスリーは1つ、ランキング表と都内百貨店の導入実績を調べて愕然としました。売れる売れないのものさしだけでは百貨店の存在価値はない、銀座のワンブロックを占有する百貨店ならば、世界が認めるブランドをある程度揃えるべきでしょう。当時の社長に訴え、大きな改装とブランドの入れ替えを計画、一気にランキング上位ブランドを導入できました。ルイヴィトン、ディオール、セリーヌやヨウジヤマモトを導入したのはこのときでした。ところで、1970年代前半イッセイミヤケがパリコレに登場して以来、三宅一生さんは多くのクリエイターに影響を与え、世界のメディアや小売店に高く評価され続けました。このランキング表に初めて名前が記載されてからイッセイミヤケのデザイナー交代までランキング外になったことはないのではないでしょうか。初めて記載されたデザイナーが現役の間はずっと高く評価され続けた例、ほかにいないかもしれません。多くは全盛期とは比べものにならないくらいランキングが落ちてからのバトンタッチ、もしくは創業者の逝去でデザイナー交代が普通です。人気上位ポジションをずっと維持し続けるのは難しい、それが時代と共存するファッション界の宿命だと思います。絶賛された1992年春夏作品は本の表紙にこのランキング表でもう一点触れておきたいのは、ヨウジヤマモト、コムデギャルソン、イッセイミヤケの日本ビッグスリーはそれぞれ1回ずつフランスの人気者ジャンポールゴルティエを抑えてランキング1位になっていること。私の記憶違いでなかったら。そして、イッセイミヤケが第1位になったシーズンは、ウイリアムフォーサイスのダンスチームがモデルとしてパリコレに登場、ステージいっぱいにいろんな種類のプリーツ服を着たダンサーたちが笑顔で踊りまくった1992年春夏ショーでした。ダンサーが跳ねるたびにビョンビョン上下に動くプリーツの重ね着の美しさと楽しさ、いまもはっきり記憶に残るパリのベストコレクションだと思います。パリコレ初参加が1973年ですから、第1位になるまでおよそ20年。デビュー直後からその考え方やデザインが高く評価され、常に人気上位20傑を維持し、後年に再び評価をあげてトップになる。音楽や映画の世界でもなかなかできることではありません。よく意見交換しましたその2年ほど前、三宅さんを誘って小さなカウンターバーに行きました。イッセイミヤケが高圧高熱で加工したプリーツのコレクションに力を入れ始めて数シーズン経過、一部のメディアの間でプリーツ加工物に「ちょっと飽きたね」という声が陰で出始め、友人として耳には入れておこうと誘いました。お酒がまわってそろそろしゃべってもいいかなというタイミング、ここで三宅さんがハンカチを折り曲げながら「ここがプリーツでうまく表現できなかったので次は絶対に成功させたいんです」、と。業界の陰の声を伝えようとした瞬間、逆にプリーツにはまだやれることがあるとハンカチで説明し始める三宅さん、ものづくりのものすごい執念を感じました。ブレずにとことん突き詰めるクリエイターの姿勢に余計なことを言ってはいけない、と私は黙って帰りました。その数シーズン後のことです、着る人の動きによってビョンビョン上下に動くシワ加工商品も、インダストリアルデザインとして面白い新ブランド「プリーツプリーツ・イッセイミヤケ」も、縦にも横にも伸びるストレッチプリーツの「ミー・イッセイミヤケ」も発表されたのは。前項で触れたバルセロナオリンピックのリトアニア選手団ユニホームもプリーツでした。元々私たちの中にあったイッセイミヤケは意匠性の高いテキスタイル、ナチュラルカラー系、ゆったりオーバーサイズ、一枚の布がイメージでしたが、いつの間にか「プリーツ=イッセイミヤケ」になりました。パリのポンピドゥーセンターが「ビッグバン 20世紀アートの破壊と創造展」(20世紀の建築、インテリア、家具、アートなどを総括する展覧会)を2005年に開催したとき、ファッション分野で展示されたのはシャネルでもディオールでもサンローランでもなく、なんとプリーツプリーズのみでした。同展の学芸員は歴代クチュリエではなく、デザイナー服を一般大衆に解放した日本人クリエイターの工業製品的作品をあえて選択したのです。学芸員の見識も素晴らしい、その気にさせた三宅さんの衣服への情熱、考え方もまた素晴らしい。私は若いデザイナーさんによく言います、「あなたの十八番(おはこ)を作ってください」と。ブレることなくとことん追求するクリエイターの執念、それがブランドDNAとして後継者に受け継がれていく。大デザイナーから教わったことです。若手デザイナーにテキストとして薦めてきた本
2023.08.17
(前項からのつづき)あれは1988年秋、代々木上原のおでん屋のカウンターだったと思います。三宅一生さんと二人で食事をしていたら突然相談されました。総合スーパーのダイエーがプロ野球南海ホークスを買収、新しい球団(福岡ダイエーホークス)を立ち上げるので中内功さんからユニホームデザインを頼まれている。しかし恩のある堤清二さん(西武セゾングループ代表)の手前受けるべきかどうか迷っている。どう思いますか、と。西武ライオンズのオーナーは西武鉄道の堤義明さん、セゾンの堤清二さんとの兄弟仲はよくなさそうなので引き受けてはどうでしょう、と答えました。その心配よりも野球のことよく知っていますか、試合中にユニホームが窮屈で選手がエラーしたなんてことになったらマズイです、とも言いました。翌日東京コレクションの施工事業者で東京ドームの指定業者でもあるシミズ舞台工芸に連絡、たまたま近日中に開催される予定だった日米野球のチケットを2枚手配してもらいました。日本のプロ野球全球団と米国メジャーリーグのほとんどの球団ユニホームを一堂に見ることができ、ユニホームデザインの参考になればと思ったからです。三宅デザイン事務所小室知子副社長に「日米野球のチケットを取り寄せたのでどうぞ」と電話を入れました。小室さんは「お願いだから東京ドームに連れていってよ」。チケットは用意しましたが、日曜日に仕事の延長のようにデザイナーさんと行動を共にするつもりはありません。しかし、日頃何かとお世話になっている小室さんに頼まれると断れず、私は三宅さんと一緒に日米野球の観戦に出かけることに。その前日私は別の会食があって強度の二日酔い、胃はムカムカ身体はだるく最悪のコンディション。そんなこと知らない気遣いの三宅さんはドリンクやデッカいドームアイス最中を注文。お気持ちはありがたいけれど二日酔いの身にはこたえました。このとき日米どのチームのユニホームがかっこいいかという話になり、シンプルでスッキリしたニューヨークヤンキースが一番いいねと意見は一致しました。東京ドームでニューヨークヤンキースのピンストライプが一番かっこいいと盛り上がったんですが、完成した福岡ダイエーホークスのユニホームはヤンキースとは対極のユーモアあるデザイン、当時のプロ野球には珍しくコミカルなものでした。三宅デザイン事務所のデザイナーの間でコンペ、その中から三宅さんが選んだデザインに手を加えたものだったと記憶しています。特にホークス(鷹)の目を可愛くあしらったヘルメットが印象的でしたが、世間ではこれが賛否両論、中には批判的メディアもありました。賛否両論だった福岡ダイエーホークスのユニホーム特にコミカルだったヘルメット余談があります。堤義明さんがオーナーの西武ライオンズは堤清二さんとは直接関係ないので請け負っても大丈夫と私は思っていました。が、堤清二さんの西武セゾングループは総合スーパーの西友ストアを傘下に持ち、ダイエーと西友ストアは売上でしのぎを削り、商人の中内さんと文化人の堤さんは肌が合わない。盟友がライバルの球団ユニホームをデザインするなんて堤清二さんには面白くなかった、と後日西武セゾングループ幹部から伺いました。私の大きな勘違いでした。ユニホームといえばほかにも思い出があります。某大手金融機関のユニホームコンペです。1995年東京ファッションデザイナー協議会を退任して百貨店に移籍してすぐ、全国の窓口業務の女性ユニホームを新調するコンペがあると情報が入りました。どうやら我が社はコンペに出遅れたらしく、芦田淳さんや稲葉賀恵さんにデザイン委託して参加した百貨店もあり、三宅一生さんに頼んでもらえないかと幹部から相談がありました。選にもれるかもしれないコンペ参戦を世界で活躍するデザイナーにお願いするのは失礼でしょう。でも、聞くだけは聞いてみようと三宅さんに相談しました。毎日着用するユニホーム、プリーツプリーズではどうでしょうと提案したら、三宅さんはそれは面白いかもしれない、やってみましょうと快諾してくれました。10年間デザイナー組織の運営ご苦労様という意味もありました。私は出来上がったサンプルを持って実際に着用する女性スタッフが審査員を務めるコンペ会場に。いろんな組み合わせが可能、シワにもならず、自宅洗濯機で簡単に洗えてすぐ乾く、デザインはシンプルでも特徴がはっきりしている点を丁寧に説明しました。審査員の女性たちは興味ありそうな表情、私はそれなりの手応えを感じました。ところが、最終的にコンペを勝ち取ったのはどのデザイナー作でもなく、応募の中で最も平凡なデザイン、ユニホーム専業メーカーの既製品カタログに載っていそうな代物でした。こんな平凡な服が選ばれるなら何もコンペをしなくてもいいのに、釈然としませんでした。後日談として、コンペの評価基準はどうやらデザインではなく別の事情があったのではないか、コンペに敗れたほかの百貨店の間でもそんな噂がありました。もうひとつユニホームで思い出すのは、1992年バルセロナ夏季オリンピックでソ連から独立したばかりのリトアニア選手団のために三宅さんが無償でデザインしたユニホーム。1991年9月ソ連からようやく独立できたリトアニア共和国は翌92年2月のアルベールビル冬季オリンピックで国名リトアニアとして開会式に参加。入場行進はたった数名、ユニホームを制作する時間も資金もなく個人バラバラの装いでした。このとき全米に実況中継していたNBCテレビはCMを入れリトアニア選手団の行進シーンはカット、やっとソ連から独立できたリトアニア人念願の国名プラカードはオンエアーされませんでした。祖国名がオンエアーされず悔しい思いをしたリトアニア人の在米医師でイッセイミヤケメンのお客様は、この開会式のあと三宅さんに手紙を送りました。世界的クリエイターがリトアニア選手団のユニホームをデザインしてくれたら、次のバルセロナ夏季オリンピックで入場行進がカットされることはない、協力してもらえないだろうか、と。手紙を受け取った三宅さんはさっそく石津謙介さんに相談、石津さんの働きかけもあってミズノが制作納品することで話はまとまり、たった数ヶ月の準備期間でプリーツ加工した面白いユニホームが完成。もちろん実況中継でリトアニアの行進はカットされることはなく、その斬新なユニホームは大きな話題となりました。リトアニア選手団ユニホーム(故・石津謙介先生サイトより)問題はここからです。ニューヨークタイムズ紙東京特派員から東京ファッションデザイナー協議会に電話取材が入りました。「三宅一生氏がデザインしたリトアニア選手団のユニホームはかなり話題になっているが、日本選手団のユニホームは話題になっていない。これについてあなたの見解は」、「あなた自身は日本選手団ユニホームをどう評価するのか」、「どうして三宅一生氏は日本ではなくリトアニアに協力するのか」。私にそれを訊きますか、と逆に質問したくなる質問の連続でした。大相撲のハワイ出身大関小錦に外国人力士への差別問題をコメントさせて報道した記者(この記事で小錦さんは窮地に陥ったことがある)、質問はかなり執拗、私になんとか問題発言をさせニュースにする意図が見え見えでした。この記者が誘導質問を並べて私に言わせたかったことは想像つきます。当時の私はどのデザイナーとも等距離でいなければならない立場。このとき日本選手団のユニホームデザインを委託されたのは別の有名デザイナー、しかもデザイナー協議会メンバーでもあります。協議会を預かる私がこの記者の誘導質問に引っかか流わけにはいきません。正直なところ、あのプリーツユニホームは技術的にも視覚的にもオリンピック開会式の歴史に残るデザインの1つだったと思います。いまだったら取材に答えられるんですが....。
2023.08.15
(前項からのつづき)7月にC F Dが発足、11月には第1回東京コレクションを開催せねばならないのに会場予約はできず、特設テントを建てるしかないと用地の確保に走りました。最初に目をつけたのが北青山の絵画館周りの空き地。安く借りるためには誰もが知っている代表幹事と一緒に頼みに行くしかない。三宅一生さんに同行をお願いしました。三宅一生さんと(2010年撮影)三宅さん効果もあって施工期間を含む3週間の敷地利用は納得してもらいましたが、資金のないデザイナー組織には借地料があまりに高すぎました。最終的にここは断念しました。次に代々木体育館(正式名称は国立代々木競技場)を訪問しました。短パン履いたいかにも体育会といった担当者は「うちはスポーツ競技に施設を貸すところ、ファッションなんて無理だよ」。それでも日参して説得、敷地の隅っこにある競技者送迎バス専用駐車場の使用許可をどうにかもらうことができました。国の所有地だから借地料は破格の安さ、私たちでも払える金額でした。テント業者、会場設営業者も決まり、渋谷区役所に建築申請と保健所にも報告しなければなりません。通常大きなイベントには電通や博報堂など顔の利く大手代理店を頼りますが、出来立てホヤホヤの小さな組織がスポンサーなしの自主運営、代理店にお願いする資金はどこにもありません。すべて事務局マター、つまりど素人の私がやらねばなりません。そこで、三宅さんとは親密な関係にあったパルコの増田通二社長に協力要請をしてもらい、渋谷区建築課への根回しは過去にイッセイミヤケとのイベントにも関わったパルコのベテラン社員大成正樹さんに助けてもらいました。ファッション史に残るイベント@渋谷パルコ敷地を借りるにあたって代々木体育館側からは「邪魔であろうが敷地内の桜の枝は絶対折らないように」とクギを刺され、桜の木がない空き地を測量してギリギリの大きさの大型テントを注文しました。ところが、建設中にどういうわけか桜の枝が折れているではありませんか。業者は、故意に折ったのではなく作業中に折れてしまったと説明するので、私は「のこぎりで折れた枝を切り落とし、切り口には泥を塗ろう」と指示。会場設営の責任者から「電源はどうしますか」と聞かれたので、「コンセントに差し込むんじゃダメなの」と返したら、「そのコンセントにどこから電気を引いてくるんですか」。仮設のテントですから、会場内の電気も音響照明のための電気も東京電力から電線がきていないので大型電源車を手配することに。これまでファッションショーはプレス席に座る側にいたど素人がプロデューサー、万事がこんな調子で施工責任者に教わりながらどうにか第1回東京コレクションは開催できました。夜中の作業中あまりに冷たい風が床から入ってくるので慌てて300坪分のパンチカーペットを発注、また渋谷公演通りを上りきった角の公衆トイレでは足りないので仮設トイレも開幕直前に発注、さらには前述したショー音楽の騒音クレーム、観客超過で床が抜けるなど想定外のことが頻発しましたが、なんとか2週間の東コレは無事終了しました。大型テントを撤収し敷地の補修をした直後、代々木体育館の課長から電話がありました。「桜の枝を切りましたね」、バレていました。「折れてしまったので私が切り落とせと命じました。すみません」と正直に話したら、後日事務所に来るよう言われました。罰金は覚悟、代表幹事と一緒に詫びるしかない、三宅さんに同行をお願いしました。当日段ボールに自社の靴下、ハンカチ、ネクタイなどをたくさん入れて三宅さんが現れ、一緒に頭を下げてくれたのです。挨拶そこそこにまずお詫びをしました。すると、課長さんが「テントの邪魔になるなら桜の木を切りましょう」と発言。桜の枝を切ってはいけなかったはずが、「木を切りましょう」、これにはびっくり。課長は「(1964年の)東京オリンピック以降20年間スポーツイベントやコンサートに施設を貸してきましたが、責任者自ら大勢の作業員にご飯を作ってあげているのを初めて見ました」、と。ありがたいお言葉でした。こうして競技者送迎バス専用駐車場の桜の木は全部撤去、第2回東コレまでに敷地は綺麗に舗装され、しかも私たちの大型テントの基礎を地下に埋め込んでくださったのです。すべて工事費は体育館側が負担、当方の出費はゼロ、過分なご褒美でした。料理が趣味とは言え、こうなると作業員へのご飯提供を止めるわけにはいきません。コレクションの特設テントを建てるたびに毎日150人分の温かい食事、最終日のテント解体時は300人分のカレーライスを用意。ブロックを積んだ臨時の釜戸は社員食堂のような形になり、東急ハンズで購入していた炭はいつの間にかプロパンガスに、事務局には大きな鍋や調理道具が増えました。この現場に三宅さんも毎シーズン顔を出し、作業員たちと一緒になって紙コップと紙皿で食事をしてくれました。そんなことはおそらく参加デザイナー、マスコミ関係者は知らないことです。舞台施工の作業員の間で一緒に現場メシを食べる三宅さん人気はうなぎのぼり、イッセイミヤケの会場施工には格別の思い入れが見て取れました。TIME誌の表紙にもなった三宅一生さん1986年3月パリコレ時、現地で会食した三宅さんから「今度はテントにちょっと手を加えさせてもらうそうです」。私は「テントが壊れないのであればいかようにでも」と返しました。どうやらショー演出の三宅デザイン事務所毛利臣男さんが施工業者に直接交渉していたようです。楽屋裏側のテント両サイドをゆっくりクレーン車で巻き上げる演出プラン、テントの稲垣興業と舞台美術のシミズ舞台工芸は私に確認する前に実現に向けて準備に取り掛かりました。そしてショー前日夕方リハーサル、事件は起きました。桜の木を伐採して使いやすくしてくれた敷地はまだアスファルトが若干柔らかく、クレーン車の重量で地面にへこみが残る心配がありました。大型テント設置には10トンクレーン車ですが、テントを徐々に巻き上げるとなると風圧もあるのでクレーン車は20トン、ビル工事の様相です。テント両サイドにわざわざ取り付けたジッパーを外し、ゆっくりテント地を巻き上げるテストをしているところに三宅さんが現れました。私のポケットの中には足りない施工費用の明細メモがあり、これを手渡ししようとした瞬間、「こんなことやっていいんですか」。代表幹事である自分のショーで特別なことをやってはいけないというご意見でした。クレーン車の横で「やってはいけない」三宅さん、「やりたいです」毛利さん、「やってもいいんじゃない」私、意見は分かれテスト作業は中断、会話が段々エスカレートして作業員や事務局スタッフが不安そう表情なので仮設事務局のプレハブに移動して3人で話し合いました。代表幹事だけが好き勝手しているように映ることは賛成できない、三宅さんの気遣いは理解できます。毛利さんは演出家として断固やりたい、やらせてくれという気持ちもわかります。私はテントをぶっ壊さない限り大丈夫、面白い使い方をすれば別のブランドの刺激になるでしょうと続行を勧め、意見は平行線のままでした。結局1時間ほど話し合って決裂、毛利さんはドアを強くたたきつけてプレハブを出ていきました。毛利臣男さんも昨秋に逝去翌日の本番は毛利さんの意志通りに決行でした。楽屋と客席を分断している大きなサイドパネル2枚がシーンごとに徐々に開きます。モデルがランウェイから楽屋に戻るたび着ていた服を出入口から屋外に出し、最後に楽屋スペースは空っぽ。次の瞬間大きな無地の幕が床に落ちるとその奥にあるテントがゆっくり巻き上げられ、外部から照明が会場内に差し込みます。テントの外はまるで砂漠のように見える薄い大きな布が風にそよぎ、その場面でモデルが無地のドレスを身にまとって登場。偶然なのでしょうがテントの外にはお月様、なんとも幻想的なシーンに観客は大きな拍手でした。これまで見た数千本のファッションショーの中で最もドラマティックな演出、感動的でした。演出台から楽屋に指示を出していた毛利さんの目には涙、あまりにうまくことが運んだので自分自身感動されたのではないでしょうか。このショーの後、あのプレハブでの口論が原因なのかどうかはわかりませんが、毛利さんは三宅デザイン事務所から独立、二度とイッセイミヤケの演出をすることはありませんでした。正直、もう一度毛利さん演出のイッセイミヤケショーを見たかったです。しかし残念ながら三宅さん逝去の2ヶ月後、そのあとを追うように毛利さんも亡くなりました。
2023.08.13
(前項からのつづき)20年ほど前渋谷の居酒屋で部下たちと懇親会のあと、ちょっと風変わりなおばちゃん占い師を西武渋谷店の横で部下が発見、私は手相を見てもらうことになりました。「早いうちから親元を離れる運命です」、そりゃそうですよ、遠いニューヨークで8年、東京生活は20年余ですから。「お金が入ってきても貯まりませんね」、その通り、預金残高はずっとゼロに近いです。そして最後に「寅がいつもあなたの行くてに現れます」、そういえばあの方は寅年だ、部下たちは大笑いでした。考えてみれば寅の方とは不思議なご縁です。1975年大学生のファッションマーケティング集団を主宰していた私は、テキスタイルのユニチカ大阪本社でのマーケティング調査会議の帰途京都国立近代美術館で開催中だった「現代衣服の源流展」を見学しました。これはニューヨークのメトロポリタン美術館で1974年春まで開催された「INVENTIVE CLOTHES 1909-1939」をほぼそのまま持ち込んだファッション展覧会、京都商工会議所の副会頭に就任したばかりのワコール塚本幸一社長の肝いりで開催されました。現代衣服の源流展ポスター会場内にはパリオートクチュール黄金期1920〜30年代のポール・ポワレ、キャロ姉妹、マドレーヌ・ヴィオネ、ココ・シャレル、エルザ・スキャパレリの古いコスチュームがズラリ。正直言って最初の印象はどれも素材は劣化してて古臭い服ばかり、防虫剤の臭いがしそうでした。マドレーヌ・ヴィオネの展示ルームのマネキンに接近してドレスをよく見ると、ステッチはところどころ歪んでる。ステッチが歪んでるなんて高価なオートクチュールなのかと思いながらその部屋を出ようとした瞬間、なぜかヴィオネの服が私を呼ぶんです。もう一度そのドレスのところに近づくとやはりステッチは歪み、素材は劣化、感動はありません。が、再び部屋を出るとき振り返ると、マネキンはまるで美しい彫刻の女神像のような神々しさなのです。接近して見れば歪んだステッチ、部屋の出口から眺めれば彫刻のように美しい、この落差に何か大切なことがあるのかもしれないと思いました。人間が作るからステッチは歪んでいる、デザイナーや職人たちが一生懸命創作するから不思議なオーラを発する、よしファッションを男子一生の仕事にしてみようと決断した瞬間でした。家業は大きなテーラー、オヤジからはロンドンのサビルロゥで修行して来いと言われ、英会話とパタンメーキングを勉強していたものの、服が自分の一生の仕事になることに少し疑問を感じていました。学生ながらマーケティングで多くの原稿をメディアに書いていたので、マーケティングのことは頭にあってもファッションにどっぷり入り込めない自分がいました。しかし、古いヴィオネのドレスに出会って、自分はファッションを一生の仕事にしようと決めました。そしてC F D設立4年後の1989年、京都商工会議所会頭だった塚本さんとお会いしたときにあの展覧会で感動したことをお話したところ、「あれは三宅一生さんがメトロポリタンで感動して私に京都でやれやれと何度も言ってきたから引き受けることになったんだよ」、と。私の人生のターニングポイントとなった現代衣服の源流展は、三宅さんが塚本さんに執拗に働きかけて実現したものだったのです。14年間もそうとは知らず、塚本さんから伺って「へぇー」でした。男子一生の仕事としてファッションを選んだ私ですが、オヤジが希望するロンドンでもモードの都パリでもなく、マーチャンダイジング習得のためニューヨークに移住しようと考えました。そこで大学卒業の半年前実際に住める都市なのかどうか事前調査のためニューヨークに出かけました。建国200年祭で沸く1976年のことです。帰国していろんなメディアにニューヨークで見たこと、感じたことを寄稿し、その原稿料で渡航費用を穴埋めしましたが、寄稿メディアの1つが月刊メンズファッション雑誌「dansen(男子専科)」でした。1976年12月号dansen表紙あれから30余年後の2010年、元新聞記者Tさんが面白いものを見つけたと言ってわざわざ雑誌コピーを送ってくれました。それは1976年ニューヨークから戻ってdansenに書いた私の記事、その背中合わせのページは巻頭デザイナーインタビュー最終ページ、デザイナーは表紙にもなっている三宅一生さんでした。発行された1976年当時は全く意識していなかった名前、表紙が誰だったのか全く覚えていません。学生時代にたまたま書いた記事の表てのページが三宅さんのインタビュー記事、ここでも不思議なご縁を感じました。ところで、C F D設立構想が突然持ち上がった1985年4月、多くのデザイナー関係者やマスコミ人の間でつまらない噂が広がりました。「三宅一生がニューヨークから変な男を連れてきた」。ご自身はパリコレ参加組で東京にデザイナー組織を作る話にこれまで耳を傾けたことがなかった、その人が突然デザイナー組織を作ろうと言い出し、その責任者に仲良しの海外居住の若造を据えようとしている、おかしいじゃないか、と。一部のベテランデザイナーや編集者の間で反発はかなりのもの、私自身も実際に「あんたは三宅一生の犬だろ」とストレートに言われたこともありました。しかし、私は三宅さんの仲間でも犬でもありません。初めて会話をしたのが3月パリコレに出かける寸前、知り合ってまだ1ヶ月ほどですから友達とは言えません。しかもニューヨークのバイヤー講座で「ファッションはビジネスと言う名のゲーム」とマーチャンダイジングを叩き込まれた私には、展覧会で作品を展示して服はアートと提案してきたようなタイプのクリエイター(私にはそう見えました)は自分の関心外、ずっと距離を置いてきました。それを仲間だ、犬だと言われてもなあ、でしたね。正式発足するまで恐らく三宅さんの耳にも嫌な噂はいくつか入っていたことでしょう。が、三宅さんはなんの得にもならないのにじっと我慢し、みんなに私のことを理解してもらえるよう丁寧に説明していました。正式な設立総会があった際も、「事務局長には任期の2年を任せます」という参加者の発言に対し「悪いことをしない限り太田さんには一生やってもらいますから」とカバーしてくれました。さらに、「一緒に若いデザイナーの意見をもっと聴きましょうよ」と若手デザイナーたちを会食に招いて意見を聴いてくれましたが、そのとき流れた噂が「三宅と太田は若手をオルグ化している」、これには二人で笑いました。CFDが東京コレクション運営を20年、そして日本ファッションウイーク推進機構にバトンタッチされて18年どうにか継続できているのは、発足時に三宅さんが私欲を捨て苦手な団体行動を我慢してくれたからだと思います。
2023.08.12
(前項からのつづき)CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が設立総会、記者会見、設立記念パーティーを日比谷プレスセンターで開催したのが1985年7月8日、翌日から私の仕事は11月開催の自主運営による東京コレクションの会場探し、そしてショーのスケジュール調整でした。都内の主だった多目的ホールを当たりましたが、4カ月先の会場はほぼ予約済みで空きがなかったので仕方なく大きな特設テントを建てることに。コムデギャルソンが使っていた大型テントが白、先の読売新聞東京プレタポルテコレクションが黒だったので、別注色でライトグレーをお願いしました。場所は渋谷公園通りを上った国立代々木競技場(代々木体育館)バス駐車場です。テントの製造設営はファッションショーに初めて携わる千葉県富里町の稲垣興業、大手専業メーカーではありません。敷地内の高低差が1.5メートル以上もあって水平の床を設営するのに苦労した会場設営はシミズ舞台工芸(現シミズオクト)、主にスポーツイベントや野外コンサートなどを手掛ける会社でした。しかも設営を開始すると連日雨天、危険な組み立て作業は遅れ気味、これをカバーするために作業員を増やして作業は連日ほぼ徹夜、潤沢ではない予算を管理する私は夜中に電卓をたたきながら業者責任者と追加設備の発注をしました。会場設営よりも難儀だったのはショーのスケジュール調整。初日トップバッターをやりたい、日があるうちは気分が出ないので夜遅くにしたい、○○さんと同じ日はイヤ、仏滅はやめてくれ、ブランドの要望を聞いていたらスケジュールはいつまでたってもまとまりません。一番苦労したのが最終日のラストショー、いわゆる「トリ」は誰も受けてくれません。NHK紅白歌合戦じゃあるまいしと思うのですが、全ブランドが「トリだけは絶対イヤ」。結局、三宅一生さんにどうにか受けてもらいました。11月第一月曜日に第1回CFD東コレは始まりました。トップバッターのヨウジヤマモトの音量は地面が揺れるほど大きく、近隣住民から怒鳴られ、渋谷区の騒音測定車が出動する始末。慌てて菓子折りを持って私は近隣住民に謝りに出かけ、騒音測定車のケアもするはめに。そんなさなか、初めてのシーズンなんだから最終日に打ち上げをやろうと三宅さんから提案がありました。連日午前4時まで設営に立ち会って睡眠不足でフラフラ、予期せぬ出来事に追加費用がかかるので金策、そこに騒音クレームの対応、そのうえ打ち上げパーティーの準備をやれと言うのか、私はブチ切れました。最終日前日夕方、特設テント会場に突然三宅さんが登場、「このあとお茶しませんか」と誘われました。二人で車に乗ってお茶をしに出かけましたが、着いた店はなぜか赤坂のすき焼き店、席に通されてすぐ私はこう切り出しました。こんな店で私は温かいご飯を食べてるわけにはいきません。(特設テント脇の狭い)事務局テントの石油ストーブで私は作業員たちに温かい豚汁を作っています。彼らは明日のイッセイミヤケのステージ施工で徹夜になるでしょう。施工予算がたっぷりあれば話は別ですが、御社の予算は十分でありません。ならばせめて作業員に弁当と温かい豚汁を夜食として差し入れてやりたい。ここであなたと美味しいものを食べてる時間はないんです、ときつい語調で言いました。すると三宅さんはお店のピンク電話で事務所に電話をかけ始めました。どうやら作業員に差し入れをするよう指示、「皆さんトンカチ持って作業しているから、果物なら(片手で食べられる)バナナ、ご飯ならおにぎりかお寿司を」と断片的に聞こえてきました。細かい指示はいかにも三宅さんらしいです。会食中も私は一方的にしゃべり続けました。「ファッションデザイナーの世界は決して華やかだけじゃない。真面目にコツコツものづくりする世界なんだと世間に伝えたい、そう思ってCFDを引き受けたんです。産地の職人や会場施工業者の作業員にも温かい目を向ける、そんなところからいい噂は世間に広がっていきます。そういうことがファッション界には大事って私は思います」。機関銃のようにしゃべりまくり、食事後三宅さんと私は特設テントに向かいました。小さな事務局テントには三宅デザイン事務所から大量の差し入れがすでに届いていました。あの電話でアシスタントの方がすぐ手配してくださったのです。そして、三宅さんが帰宅したあと作業員の一人が私に「あの人、誰ですか」、「三宅一生さんだよ」と答えると、「あの人毎晩作業を覗きにここにきていました」。三宅さんは東コレの運営が心配で毎晩現場をこっそり覗いていた、私はそんなこと全然知りませんでした。三宅さんの優しい一面を表すエピソードです。翌日ショー本番の昼下がり、特設テント会場に現れた三宅さんは立ち話をしていたイッセイミヤケ多田裕社長と私の目の前を通り過ぎ、まず会場施工のシミズ舞台工芸の現場監督Oさんに挨拶、そのあと私たちが立っている場所に。昨日の話がきいたかな、と思いました。最終回イッセイミヤケのショーが始まると、西麻布の料理店「さぶ」での面会から8カ月の怒涛の日々をあれこれ思い出して私は涙が止まりません。横の席に座るシミズ舞台工芸Oさんと連日の雨天で儲けが吹っ飛んだテント屋のS専務ももらい泣き。フィナーレでステージに現れた三宅さんは大泣きしている私たちが目に入ってグッときたらしく、すぐ楽屋に引っ込んでしまいました。ショーが終わると、三宅さんが作業員たちの紙コップにシャンパンを注いで回り、「みんなで記念撮影をしましょう」。特設テントの前には最終日のために作らせた協力施工業者の一覧を掲示した大きなパネルがあり、作業員は片手にトンカチ、もう一方にシャンパン入り紙コップをもって三宅さんと一緒に写真におさまりました。翌シーズンからは最終日テント解体する約300人の作業員にふるまった私のカレーライスを作業員が食べながら、ここに三宅一生さんも加わって写真撮影するのが恒例行事となりました。記念撮影のあと、開催するかか否かで三宅さんともめたCFD初コレクションの打ち上げパーティー会場へ。ショーの運営で問題を起こした参加ブランドのプレス担当数人に準備や受付業務を担当してもらいました。そこで三宅デザイン事務所創業者の小室知子さんが私に関西弁でこんな発言を。右から小室知子さん、資生堂元社長池田守男さん、私「昨日、三宅に説教したそうやね。三宅も随分偉くなって私たちには言えんこともあります。これからも間違ってるときは間違ってるとはっきり言ってやって」。うっすら涙を浮かべながら声をかけられ、私は帰国して良かったと初めて思いました。でなければニューヨークにはまだアパートを維持していたので米国に戻っていたかもしれません。日本に呼び戻した責任を感じていたのか、若造が発する耳の痛い話を三宅さんはよく聞いてくれました。気性の激しいクリエイターですから衝突する場面は少なくなく、一カ月以上全く口をきかない、あるいはかかってきた電話には出ないことはたびたび。そういう場合は熱い文言の手紙や仲直りディナーをセットしてくれました。また、両者がぶつかると裏でなにかとフォローしてくれたのが小室副社長、彼女のおかげで決裂を回避できたことは何度もありました。いまとなってはいい思い出です。
2023.08.10
今日8月5日は三宅一生さん1年目の命日。昨年訃報が伝わってすぐメディアの方々から追悼コメントや寄稿を求められましたが、すべてお断りしました。気持ちの整理がつかなかったから。いろんな出来事がありました。二人でよく食事に行きました。よく議論しました。よく相談もされました。よくケンカもしました。ほぼ毎日のように長めの電話をもらいました。いろんなことがありすぎて、訃報を聞いたときは頭が真っ白、思考停止状態でした。1年経過したので、そろそろ三宅さんのことを書いてみようと思います。初めて会った頃の三宅さんあれは1985年3月初めのことでした。ニューヨークで取材活動をしていた私は一時帰国。パリコレ取材をするのに、ニューヨーク~東京~パリ~ニューヨークとぐるり回るフライトは特別料金で安かったから東京に入りました。帰国して翌日だったか、三宅一生さんから食事のお誘い電話をもらい、西麻布の和食店「さぶ」に出かけました。サシで会うのは初めて、同行者がいなかったので私は遠慮なく正直に自分の意見を述べました。どんなに偉い政治家や経営者でも同行者なしの面談なら遠慮せず自分の意見を言うことにしていますが、この日も世界的デザイナーには遠慮なしでした。パリコレ発表直前の精神的にも落ち着かないタイミングだったでしょうが、三宅さんは帰国した若造のために時間をとってくれ、私のストレートな発言に耳を傾けてくれました。このとき私は、当時発売されたばかりの一眼レフ「キャノンAE-1」を引き合いに出しました。このカメラ、プロカメラマンでなくても使えるモータードライブ付き、操作はすくぶる簡単な仕様。プロのカメラマンがパリコレ取材などで使用しているニコンのモータードライブ付きと比べて重量はかなり軽く、シャッターを押すだけで連続してピントの合った写真の撮影ができます。しかも値段はニコンの半分程度、デザインはなかなかカッコいい。近未来パリコレでもキャノンのカメラを使うカメラマンが増え、キャノンはニコンを凌駕する日が必ず来ると予測していました。キャノンAE-1は、操作簡単で性能がいい、カッコもいい、値段は安い、ファッション商品だって同じではないですか。デザインが素敵で機能的、素材がいい割に安かったらお客様の支持を得られると思います、と申し上げました。これに対して、三宅さんは「僕たちのつくる服とカメラと同じと言うんですか」とおっしゃったので、服もカメラも生活消費財に変わりありませんからと主張しました。数日後今度はパリコレの特設大型テントの前でばったり、「今晩ディナー後に一杯付き合いませんか」と言われた私はディナーを済ませてから三宅さんが宿泊するホテルに向かいました。そのバーラウンジで、翌月読売新聞社が主催するファッションウイークが東京であるので、ニューヨークには戻らず観てくださいと言われました。日本人デザイナーが初めて一堂に会する大きなイベントと聞いて私は興味を持ちましたが、私の安いフライトチケットはパリから東京には戻れません。一旦ニューヨークに戻り、4月中旬改めて読売コレクション視察のため東京に。読売新聞社創刊110周年記念イベントのファッションウイーク、現在東京都庁が建つ空き地(当時はまだ広いさら地)に大型特設テント2基を建て、近隣の文化服装学院遠藤記念館も指定会場にして2週間行われました。開催前日の夕方、特設テントでオープニングパーティーがあり、三宅さんに呼び出された私はのこのこ出かけました。会場に入ってコムデギャルソンの川久保玲さんと立ち話をしていたところ、三宅さんが現れ、「二人は知り合いなの?」、そして「このあと一緒に食事しませんか」となりました。そのあとイベント参加デザイナーが全員ステージにあがって記念撮影とセレモニー、そのあと私たちは会場の真ん前にあるセンチュリーハイアットホテルの中華料理店に向かいました。三宅さん、川久保さんと3人での会食と思っていたら、ステージ上で三宅さんが山本耀司さんにも声をかけ、さらに山本さんのパートナー林五一さん(ワイズ専務)も加わり5人で会食したのです。その席で、パリやニューヨークのように東京にもファッションデザイナーの組織を作り、短期集中型のファッションウイークを大手新聞社の手を借りず自主運営した方がいいだろうという話になりました。さらに、こうして3人のデザイナーが初めて会食しているんだから、組織の真ん中にニュートラルな人がいてくれたら実現する、あなたが帰国して運営責任者になってはどうかと突然振られました。私はマーチャンダイジングのプロになりたくて渡米したんです、帰国してデザイナー組織の運営なんて全く興味ありません、丁重にお断りしてニューヨークに戻りました。それから連日東京の三宅さんから電話をもらい、説得が続きました。最後に「私は蛇ににらまれたカエルみたいですね」と言ったら、三宅さんは「そうです、あなたはカエルです」。「世界で認められているあなたたちが無名の若造の意見を聞くんですか」と返したら、「はい、聞きますから」、もう何も言えなくなりました。4月後半から5月初旬にかけて開催されたニューヨークのコレクション取材を済ませ、ゴールデンウイークの5月5日私は再び東京へ。帰国してすぐ関係者に挨拶回り、ファッションデザイナーの任意団体「東京ファッションデザイナー協議会」の骨子がまとまったのが5月末、それから一斉に多くのデザイナーに参加を呼びかけ、協議会が正式発足したのが7月8日。予期せぬ話が実現するまで、実にスピーディーな誕生劇でした。私はまさかこんなことになるとは思ってもいなかったのでJALフライト復路のチケットは無効になってしまい、次にニューヨークに行けたのがなんと4年後でした。3月初旬西麻布で初めて会食したとき、三宅さんには協議会設立構想なんて全くなかったでしょうし、私を日本に呼び戻してその責任者に据えようと考えたこともなかったはずです。パリコレ会場前でばったり遭遇したのも、読売コレクション前夜祭後の5人のディナーも全く偶発的出来事でした。しかしながら、どういうわけか初会食から4カ月後には協議会が正式発足、その秋には早くも自主運営の東京コレクションが開催されました。田中一光さんデザインのロゴ三宅さんがいつも私に言っていたことがあります。「僕たち(おそらく川久保さん、山本さんのこと)のことは放っておいていいんです。太田さん、次世代の若いデザイナーたちに道を拓いてやってください」、と。なので協議会設立後、若手デザイナーの意見をヒアリングする会食を一緒に何度もやりましたし、そのことを「三宅と太田は若手をオルグ化している」と陰口を言う業界関係者もいました。三宅さんはそんなケチな人ではありません。世界への道がなかったところを手探りで自ら世界への道を拓いた人だからこそ、無駄な苦労はしないですむよう若手をサポートしてやってくれと私に何度も念押ししたのです。先日、東京コレクションを東京ファッションデザイナー協議会から引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構の記者会見でも私は記者の方々にこのように申し上げました。「私たちが若手支援策でサポートしてきたデザイナーがいまや次の世代のデザイナーの支援を決める選考会の委員を務めています。こういう構図が生まれていることに、あの世の三宅一生氏はきっと喜んでいるはずです。三宅氏はいつも私にインキュベーションを託していましたから」世界においてクリエイターとしての存在感は別格でしょうが、次世代の育成を願って東京のデザイナー社会をリードした功績も私は声を大にしてみなさんに伝えたいです。合掌。
2023.08.05
昨日、西新宿の学校法人文化学園創立100周年記念式典にお邪魔しました。まだ世の中和装が衣生活の主流だった100年前、洋装を教える学校を設立するとはものすごいリスクだったでしょう。しかも創立直後に関東大震災、戦争では校舎が焼失、順調に発展したわけではなかったようです。が、100年の間に世界のファッション界をリードする高田賢三さん、山本耀司さんはじめ多くのファッションデザイナーやパタンナー、スタイリスト、ビジネスパーソンを輩出、配付された資料を拝見して改めてこれまで文化学園に関わった先生方のご尽力を再認識させられました。フィナーレに登場した山本耀司さんこの記念すべき日、じつはパリでは来春夏メンズコレクション開催中、パリメンズ参加デザイナーで文化出身者は昨日の式典には参加できませんでした。山本耀司さんの姿がなかったのでvogue.comを検索したら、ショーフィナーレに登場した耀司さんの写真がありました。ほかにも文化服装学院出身で現在パリ出張中のデザイナーや業界関係者はたくさんいたでしょう。メンズコレの前後にスケジュールを移して記念式典は開催できなかったのかとも思います。式典メニューのひとつは卒業生コシノジュンコさんのトークショー(写真上)、聞き手は雑誌装苑編集長の児島幹規さんでした。どうしてジュンコさんがファッションの道を選んで岸和田から上京したのか、恩師小池千枝先生や生涯の友高田賢三さんとの出会い、装苑賞を史上最年少で受賞したときの話など興味深く拝聴しました。でも、この場に3年前コロナで亡くなった高田賢三さんがいたらなあ、パリ出張中の山本耀司さんがいたらなあ、と思ったのは私だけではないでしょう。私は高田賢三さんに一度伺ったことがあります。「これまでこの人にはかなわないと思ったデザイナーはいましたか?」と。賢三さんは即答で「ジュンコです。文化に入ってこの人にはかなわないと思いました」。同時代パリでしのぎを削ったイヴ・サンローランでもカール・ラガーフェルドでもソニア・リキエルでもなく、親友ジュンコさんだけだそうです。装苑賞史上最年少受賞記録はいまも破られていないジュンコさん、とんでもなくパワフルな存在だったのでしょう。ジュンコさん、賢三さん、ニコル松田光弘さんやピンクハウス金子功さんらはパリのオートクチュール協会が運営する学校でサンローラン、ラガーフェルドとクラスメイトだった小池千枝先生と出会ったことが幸運だったし、立体裁断の技術指導もさることながら先生が話してくれるパリ情報が彼らを大いに刺激したと昨日もジュンコさんがおっしゃってました。これこそ実学なんでしょうね。左)児島幹規さん 右)コシノジュンコさん歴代卒業制作のファッションショーも見ごたえありました。過去の学生の作品をストックするのは大変な労力。卒業後活躍して世界的なデザイナーになる人も過去にいたわけですから、学校が彼らの作品を保管する意味は大きいし、たまにこうして再公開するのも後進には刺激になっていいでしょう。なんたって100年ですから、卒業作品も充実、素晴らしい。少子化の中、これから学生集めも簡単ではないでしょうが、次の100年目指してカリキュラムを随時進化させ、世界のファッション界をグイグイ引っ張っていくようなデザイナーや新しい発想の経営者をたくさん送り出して欲しいです。2枚とも歴代卒業制作作品のショー
2023.06.24
この写真は昨年秋に開催された2022年度「毎日ファッション大賞」授賞式での受賞者記念撮影。アメリカには現役デザイナーを表彰するCFDA(米国ファッションデザイナー協議会)賞があり、日本にはかつてFEC(日本ファッションエディターズクラブ)賞がありましたが、現在は1983年以来40年続く毎日ファッション大賞が唯一のデザイナー対象の賞になってしまいました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立、東京コレクションを始めた翌86年にCFDは毎日ファッション大賞特別賞に選ばれ、事務局長だった私が表彰状を受け取りにステージに上がりました。この年の大賞が山本耀司さん、新人賞が山本さんの会社から独立してブランドA.Tを立ち上げた田山淳朗さん、企画賞には堤清二さんと西武セゾングループが選ばれました。ステージに上がった堤さんが、西武百貨店のファッションとの取り組みはパリ在住の実妹堤邦子さんと三宅一生さんのお陰ですと発言されたのがとても印象的でした。多くの百貨店がライセンス事業(ブランドと提携して日本生産の商品を販売)がほとんどだった時代、西武百貨店はヨーロッパの主要ブランドをたくさん直輸入して売り場で育てた要因は邦子さんのヨーロッパネットワークだった、とこのとき初めて納得したことを覚えています。同賞開始から選考委員長をしていたのが元毎日新聞政治部記者だった鯨岡阿美子さん。1988年2月その鯨岡さんが急逝(享年65歳)。亡くなる直前、選考委員会を改革したいけれどご自分は退任する、「あとはよろしくね」と直接言われました。デザイナー組織の事務局を預かる人間としてはニュートラルな立場でいたい、デザイナーの誰が今年は良いかなんて話し合う場には出たくありません。が、親友だった毎日新聞編集委員市倉浩二郎(=当時)に「クジラさんの遺言だと思って引け受けろ」と説得され、私は1988年度から7年間選考委員を務めさせていただきました。また、市倉編集委員と共に鯨岡阿美子賞を新設するため発起人となり、業界関係者に運営費用の寄付をお願いしました。1995年4月CFD議長を退任して一般企業に移籍、受賞デザイナーや企業団体と自分が所属企業する企業との利害関係を勘ぐられたくないので1995年同賞の選考委員を辞任しました。クリエイターの創造性を顕彰するような賞は誰の目にも公平に運営されるべき、ファッション流通業に転職した私は遠慮した方がファッション大賞のためにも良いと考え退場しました。だから、1995年から2012年までの17年間、私は選考委員でも推薦委員でもなく、毎日ファッション大賞とは無縁、17年間各部門の受賞者の顔ぶれに私は全く責任がありません。しかし、ファッション流通業から距離を置くことになった2013年、再び事務局に声をかけられて選考委員に復帰しました。なのでこの10年間各部門受賞者の人選には責任があります。たとえ自分が推薦した人や企業、団体が最終選考に漏れようが、委員の一人ですから結果に文句は言えません。同賞の選考委員に復帰した2013年委員の皆さんと選んだ大賞は、アンダーカバーの高橋盾さん(2度目の受賞)でした。続く2014年が当時イッセイミヤケを担っていた宮前義之さん、15年はサカイ阿部千登勢さん(2度目)、16年はファセッタズム落合宏理さん、17年はハイク吉原秀明さんと大出由紀子さん、2018年はトーガ古田泰子さん(2度目)、2019年はアンリアレイジ森永邦彦さん、20年はビューティフルピープル熊切秀典さん、21年はトモコイズミ小泉智貴、そして昨年がケンゾーのNIGOさん(上の写真前列中央)でした。それぞれ時代の空気を反映している方々ではないでしょうか。昨年度大賞受賞のNIGOさん第40回授賞式で配布されたプログラムどの賞も重要ですが、自分が設立に関わったので鯨岡阿美子賞には特別の思いがあります。クジラさんのように次世代の人材を育てたメンター、技術や地方のものづくりの発展に尽力してきた縁の下の力持ちを見つけて社会に「こんな素敵な方がファッション業界にはいるんですよ」と紹介したい、と毎年アンテナ拡げて人選してきました。選考委員に復帰した2013年、長年パリコレのランウェイで写真撮影し、時には欧米有力メディアのカメラマンの圧力に立ち向かって日本人カメラマンの地位向上に踏ん張った大石一男さん、そしてその年パリコレから帰国して突然急逝した映像取材インファスの故・山室一幸さん(亡くなった時はWWDジャパン編集長)のお二人が受賞、パリコレ現場の凄まじい陣地取りを知る者としては感慨深いものがありました。また、クジラさんとは長く親交があった原由美子さんはかつて私が選考委員になったときからずっと選考委員を務めてましたが、2013年で委員を退任され、翌14年に受賞が決まりました。クジラさんも旧知の原さんが受賞したのできっと喜んでいるはず、委員退任の翌年の受賞も強烈に記憶に残る1つです。プログラム 1983年度第1回と1984年第2回受賞者の欄久しぶりに昨年の授賞式プログラムを開いてじっくり読みました。過去40年間ファッションの世界で起きたことがあれこれ走馬灯のようにぐるぐる....、まさに日本のファッション業界の歴史が凝縮されています。「こんな方もいたなあ」もあれば、「この年に受賞していたのか」と意外に感じた受賞者もいます。「面白い企業を表彰したんだなあ」もあります。新人賞を受賞したあと数年後に大賞を贈られたデザイナーもいれば、新人賞受賞のあと残念ながら伸びずに市場から早く消えてしまったブランドもあります。すでに亡くなられた受賞者も少なくありません。授賞式プログラムを眺めながら、近年デビューした若いデザイナーやエディターは全く知らない世界なんだろうな、と。40年間の受賞者とその活躍ぶり、なんとか次世代にも伝えたいです。本当は1冊の本にまとめてもらえると良いんですが。東京コレクションが終わってそろそろミラノではメンズ来春夏コレクションが発表されるタイミング、今年も毎日ファッション大賞の議論が始まる季節になりました。過去何度も選考の議論に加わってきましたが、毎回クリエーションで人を評価するのは本当に難しいと思います。自分とは全く違う意見の選考委員の方々の発言に感化され、自分の推薦をおろしたこともこれまで度々ありました。今年はどういう人、企業に決まるのか、業界人の一人として発表が待ち遠しいです。
2023.06.13
クールジャパンの海外事業展開に関わったとき、メディアやコンテンツビジネス関係者に度々申し上げたことがあります。「日本のコンテンツでいったい誰が儲けたのでしょうか」、と。日本のアニメは素晴らしいと言われ続けてきました。が、日本コンテンツで儲けてきたのは日本企業ではないと言っても過言ではありません。世界でもてはやされる日本コンテンツの経済効果は、海賊版をジャンジャン作って販売してきた中国人と日本アニメを安く手に入れて世界市場に普及させたハリウッドのユダヤ人にもたらされ、日本のアニメ制作現場は「ブラック」のままなのです。つまり世界で人気はあっても儲け損なってるから概して現場スタッフの賃金は低いんです。そんな中でおそらく日本側がしっかり収益をあげている稀有な事例はポケモン(ポケットモンスター)ではないでしょうか。ポケモンGOもアニメそのものも玩具も世界で大人気、ピカチュウは世界で最も知名度の高い日本キャラクターであり、しかも日本側はしっかり収益をあげています。海外でも知名度の高い某キャラクターを海外市場で展開する日本のコンテンツ企業の役員に聞いたら、「海外は赤字」とか。海外小売店の玩具売り場でよく見かけるんですが、現地小売店、エージェントや代理店はしっかり儲ける一方日本のコンテンツホルダーは赤字。ちょっと情けないです。さて、世界でも大人気ポケモンに日本の工芸作家やクリエイター20人が多種多様な素材、技法でポケモンに挑んだ作品を展示する展覧会「ポケモン x 工芸」が金沢市の国立工芸館で開催中です。ファッションの世界からはテキスタイルデザイナー須藤玲子さんがニードルレースでチャレンジ、900本の黄色いピカチュウ模様のレースで構成される「ピカチュウの森」を展示されています。須藤さんとは近々お会いすることになっているので、その前にしっかり見ておかないといけないと思って視察してきました。同展覧会を紹介するテレビ番組で須藤さんが1つだけ黄色ではないピカチュウがあると解説されたので、ほとんどの観客は須藤さんのイタズラ箇所を注意深く探していました。中には係員に「どのあたりにいるんですか」と質問し、係員から「探してみてください」と言われる光景も。でも、聞きたくなる観客の気持ち、よくわかりますね。私も聞いてしまった一人です。須藤玲子さんの「ピカチュウの森」1つだけオレンジ色のピースがあります様々な工芸ジャンルの作家たち、人間国宝のベテランもいればピカピカの若手も参加、20世紀末に登場した日本を代表するキャラクターを自らの専門領域でそれぞれが特徴的な作品を創作、ユニークな展示をしています。個人的には、信楽焼の怪獣のような大きな作品(桝本佳子さん)に日本固有の伝統美と現代デザインとの融合を強く感じました。[ガラス]池本一三さん作[陶磁]桝本佳子さん作[陶磁]植葉香澄さん作[金工]吉田泰一郎さん作[陶磁]林茂樹さん作[金工]坪島悠貴さん作展覧会に寄せて株式会社ポケモンからはこんなコメントが。ポケモンと工芸が出会うと何が起こるだろうーーそんな期待に胸をワクワクさせながら東京国立近代美術館工芸館(現・国立工芸館)を訪ねたのは、2019年秋のことでした。日本の工芸は、何世代にもわたって受け継がれた美意識や技を今に伝えると共に、時代性や作家の探究心によって「進化」しています。ポケモンというテーマをぶつけることで、作家の心に火をつけたいという思いと、アートとのかけ算による豊かなポケモン体験を、多くの方に楽しんでいただきたいという思いがそこにはありました。(中略)20名のアーティストがポケモンにどのように向き合い、どのような美とわざをしかけてきたのか、ぜひ見て、感じてください。展覧会は来月11日(日曜日)まで開催。まだご覧になっていない方、近隣の「金沢21世紀美術館」とこちらの「国立工芸館」を同時にぐるっと回ってはいかがでしょう。とにかくおすすめです。
2023.05.26
昨秋10月に亡くなったファッションデザイナー花井幸子さんのオフィスから、花井さんが描いた素敵なイラスト入りハンカチが先日届きました。律儀にもお別れの会参列の返礼でした。長沢節さん主宰セツモードセミナーを卒業してアドセンター(かつて写真家立木義浩さん、ファッションデザイナー金子功さんらが所属)に就職したくらいですから、花井さんの描く繊細なイラストはプロのイラストレーターと遜色ないレベル、おそらくセツモードセミナー出身ファッションデザイナーの中で腕前はトップクラスでしょう。ニューヨークに本部があるファッション業界で働くキャリアウーマン団体ザ・ファッション・グループの日本支部(のちに社団法人化)を設立した鯨岡阿美子さんが1988年急逝した後、ファッション業界黎明期の大先輩の名前を残すべく、私は発起人として毎日ファッション大賞の中に鯨岡阿美子賞を設けるため基金集めに奔走しました。このとき真っ先に多額の寄付を送ってくださったのが花井幸子さん、そのきっぷの良さにびっくりしたことを覚えています。実は、花井さんとはちょっとした事件がありました。私がニューヨークで取材活動をしていた1980年代、特約通信員契約していた繊研新聞にストレートなコレクション批評を書いては繊研の編集部や営業部にクレームが届くことがありました。米国トップデザイナーであろうが米国市場に進出する日本ブランドであろうが、「良いものは良い、悪いものは悪い」と正直に書いていたので、記事が取材相手の逆鱗に触れて騒ぎになったことが度々あったのです。その中の1つが「ユキコハナイニューヨーク」のデビューコレクション、1981年に始まった現地アパレルのラッセルテーラー社とのライセンス提携ブランドでした。米国にも、デザイナーのクリエーションをうまく活かしながらブランド事業を伸ばす事例もあれば、あまりにマーチャンダイザーや経営者が素材価格や工賃を抑制するあまりデザイナーのクリエーションを押しつぶしてしまう事例もあります。概して前者は個性と質感のある取材したいコレクション、後者は何の変哲もない普通のメーカーブランドのようなスルーしていいかもコレクション。ユキコハナイニューヨークのデビューコレクション、花井幸子さんらしい上質な素材のフェミニンラインを期待していましたが、ステージに登場したものはいかにも米国アパレルメーカーがライセンス事業で作ったキャリア服、デザイナーの個性が押しつぶされた内容でした。テキスタイルやパターンの一体どこに花井さんの華やかさがあるんだ、ラッセルテーラーの別部門と変わらない服では意味ないじゃないか、そう思って少々きつい論調で記事を書きました。すぐリアクションがありました。詳しくは知りませんが、花井さんのご主人で株式会社花井の花井喜俊社長から繊研新聞の松尾武幸編集局長にクレームが入ったそうです。次シーズン、私はラッセルテーラー社の広報担当に招待状申請をせず、ショーをスルーしました。3シーズン目発表直前、松尾編集局長から「花井幸子さんのショー、今度は取材してくれ」と電話がありました。ラッセルテーラーのショールームで開かれたショー、米国バイヤーやエディターはショー途中にどんどん退席、中には低いランウェイを横切って退出する失礼な人もいてデザイナーにはとても気の毒な光景でした。私はどう書いていいのか分からず、編集部に写真だけ送ってコメントは控えました。それから数日後、東京都内での繊研ニューヨークセミナーの観客席に花井幸子さんご本人の姿がありました。花井さんのようなベテランデザイナーがこういうコレクション解説セミナーに参加されるのは珍しいこと、きっと私に何かおっしゃりたいことがあるんだなと覚悟し、終了後花井さんにこう切り出しました。ヨーロッパのテキスタイル見本市で花井さんが気に入った素材をピックアップすると、ラッセルテーラー社のマーチャンダイザーは横から「ユキコ、それは1ヤード15ドルでしょ、あなたのブランドは1ヤード10ドル以下にしてください」と言っているはず。あなたは手にした素材を諦め、安めの素材で我慢していますよね、と。「その通りなの。あなた、ファッションショーを見てそんなことまでわかるの」とおっしゃったので、「私はプロのつもり、それくらいはわかります。マーチャンダイザーの言うことをそのまま聞いていたら花井さんの良さは消えてしまいます。抵抗してください。ユキコハナイらしいものが作れそうにないなら、別の会社とブランドやった方がいいですよ」と申し上げました。当時私は20代後半の若造ライター、年長の有名デザイナーにすればきっと腹が立ったはず、嫌われても仕方ない場面でした。しかし、この数年後に帰国して東京ファッションデザイナー協議会設立に奔走しているとき、六本木のオフィスを訪ねた私の経過説明と呼びかけに細かいことは何も言わず、花井さんはすぐ協議会の設立趣旨に賛同してくれました。ユキコハナイのコレクションは写真のように華やかでフェミニンだけど、花井さん自身の性格は随分男っぽいとこのとき思いました。そんな経緯があっての鯨岡阿美子賞の私からの呼びかけでしたが、花井さんはすぐ過分な協力をしてくれました。なかなか真似のできることではありません。アパレル産業界の要職にあったご主人の花井喜俊さんは2004年に亡くなり、会社経営はご子息の喜幸さんが引き継いでいます。ご子息、アトリエのお弟子さんたちがユキコハナイのブランド世界観を守り、その名を長く後世に伝えて欲しいです。(写真は全て株式会社花井のサイトより)
2023.04.27
リトゥンアフターワーズのデザイナー山縣良和さんが2008年に開講した「ここのがっこう」、一言で表すならファッション表現の寺子屋。既存のデザイン専門学校に比べると歴史はかなり浅いけれど、ここで学んだ若者は欧州のITS、 イエール国際モードフェスティバルやLVMHプライズなどデザインコンペティションでファイナリストに数多くノミネートされ、国内でもすでに毎日ファッション大賞新人賞の受賞者が複数出ています。ここのがっこう修了制作展は織物産地でもある山梨県富士吉田市内数カ所の施設で展示され、私たち視察者はそれぞれの目線で採点して歩き、後日成績発表されます。あいにくの雨での市内移動でしたが、昨年に続いて今年も私は視察採点に参加してきました。一般的なデザイン専門学校の卒業ファッションショーのような華やかさはありませんが、富士吉田市内8ヶ所での展示はその場で受講生に制作意図を質問できるのでショーとは違う楽しさがあります。生活者がそのまま着て街を歩けるような服はほとんどなく、物性に難のある産業資材使用もあれば、袖が通りそうもないデザイン、どう着るのかは制作者にしかわからない複雑フォルムもありました。が、ここから「着る服」に向けて手を加えていけば面白いだろうなという作品は何点もありました。ここのがっこうは現実的な「着る服」デザイン教育ではなく、ファッション表現を学ぶ寺子屋ですから、こうした創作物の展示、空間演出で良いのでしょう。受講生たちの多くは空き家になっているオンボロ民家や廃墟同然の施設がお気に入り、中にはカビ臭い空間に展示、あるいはボロボロの畳の上に「昭和な空間」を作ってみたりと、かなりシュールな空間演出が多かった。この中から近い将来東京コレクションを牽引してくれる若手デザイナーが何人も出てくれたらなあ、と期待しながら全ての展示を拝見しました。受講生の皆さん、彼らをサポートしてきたスタッフの皆さん、ご苦労様、楽しかったです。ファッションの世界を目指す他校の若者たちにはぜひ覗いて欲しいな。--COCONOGACCO exhibition 2023--開催期間 2023年4月23日(日曜日)まで会場時間 11:00から17:00まで (最終日のみ16:00)メイン会場 山梨県富士吉田市富士見1-1-5 FUJIHIMURO 富士急「下吉田」駅のすぐ近く問い合わせ contact@coconogacco.com
2023.04.15
ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ、そして東京と続いた2023年秋冬コレクション、一段落です。近年メディアが記事をアップする前にショー視察した業界関係者が写真付きでコレクションをアップ、ショーの日の深夜にはたくさんのSNSを読むことができる一方、ファッション媒体の記事はどうしても翌日以降になってしまいます。そのスピード感の違いから、SNS読者を多数持つインフルエンサーが主要メディアより影響を及ぼす例も今後はもっと増えるでしょう。個人のSNSは自ら感じたことをストレートに書く主観的レポート、SNSフォロアーから客観性を求められることはないのでおかしなサジ加減はなくてわかりやすい。メディアはなるべく公平な客観報道を目指しますから、個人のSNSよりはどうしても優しい表現になります。本当は批判したくても色々配慮してもどかしい記述も中にはあったりしますから、概して個人のSNSの方が小気味良いと感じることがあります。私がニューヨークで取材活動をしていた頃はまだインターネットが存在せず、ショーを観て慌てて記事を書く必要はありませんでした。が、ショーが終わるとすぐ記事を書いて、7番街(通称ファッションアベニュー)にオフィスを構える日系企業でファックスをお借りして東京に送稿しました。現地のニューヨークタイムズやWWDのコレクション記事は翌日の紙面、その前に送ることで自分なりの批評を伝えたかったからです。素晴らしいコレクションに触れると、日本に伝えたくて自然と行数は増えました。有名デザイナーでもつまらないコレクションなら行数は短く、時には批評はあえて書かずに写真だけ掲載することもありました。私が取材活動をしていた時代はアメリカンスポーツウエアが右肩上がり、カルバンクライン、ラルフローレン、ダナキャランらのアンクラインやペリーエリスが市場を牽引し、オートクチュールのようなエレガントなドレスをつくるデザイナーに新鮮味はありませんでした。ラルフローレンがサンタフェスタイルや伝統的プレッピースタイル、植民地時代のインドを彷彿させるコレクションを打ち出す。カルバンクラインはパリを代表するブランドから広報ディレクターを引き抜き、素材も縫製仕様も上質なものにバージョンアップしたシックなスポーツウエアに路線変更して話題になる。新星ペリーエリスはトレンドセッターそのもの、毎シーズン記事の行数は増えました。(2枚とも当時のペリーエリスコレクション)1980年代前半のこと、あるベテランデザイナーとライセンス契約していた日本の大手アパレルメーカーの社長から「ベテランデザイナーのこともちゃんと書け」と合同展示会の会場で怒鳴られたことがありました。上から目線の失礼な言い方でびっくりしましたが、「ニュース性があれば書きますよ」と返しました。時代を牽引するクリエーションがあったり、素晴らしい映画を観たときのような感動があれば、ショーの臨場感を読者に伝えようと行数は長くなり、掲載写真の枚数も増えます。客観報道のスタンスは意識していても、人間ですから、魅力的コレクションを観たらテンションは高くなります。また、いくらトップブランドであろうとも良くないコレクションは良くないとはっきり書くべきと思って取材をしていました。だから私の記事のクレームがたびたび繊研新聞社に届き、編集局長らはクレームを突っぱねてくれました。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立したのでコレクション記事を書く仕事から離れましたが、その頃からずっと気になっていることがあります。日本のデザイナーあるいはファッション系企業は記事に細かく注文を付けたがる点です。ちょっとでも批判めいたことを書くと広報担当は書いた記者を呼び出して文句を言う、あるいは「ご理解いただいていないようなので」と趣旨を説明する。デザイナーご本人が出てきて不満をストレートに言う場面も日本では多すぎます。CFDが東京コレクションを主催していた時代、デザイナーとジャーナリストの記事トラブルの仲介は少なくありませんでした。記者やフリージャーナリストのコレクション評が納得できず、メディアに対してのみならずCFDの私にもよくグチが入りました。時には両者の仲介ご飯に立ち会うことも、批判的な記事を書いたジャーナリストに次シーズンから招待状を送らないというケースの仲裁にも当たりました。ニューヨークで批判的な記事にいちいち抗議する、もしくは次から招待状を送らないなんてケースに直面することはなかったので、CFDを始めた頃は日本のデザイナーとジャーナリストの関係は歪だなあと思いました。いまその状況はどうなのかと言えば、ネガティブな記事を書くとブランド広報からクレームが届く、あるいは呼び出されるケースはいまも続いています。インタビュー記事であれば掲載前に原稿チェックを要求するケースもファッション流通業界では少なくありません。事前チェックなんて本当に失礼な話なんですが。SNSが発達したためか、欧米主要メディアのコレクション記事も最近はかなりトーンダウンしたように感じます。以前のように名物ファッション記者が強い論調でコレクションをバッサリ切るなんてことは少なくなりました。ジャーナリストとデザイナーが真剣勝負するのがコレクションだったはず、時には有力ブランドであっても内容が良くなければきっちり批判する記事も読みたいものです。
2023.03.27
3月13日から18日まで開催された東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)、ファッションショー形式もあればデジタル映像配信形式もありました。週末、ショーに行けなかったブランドと映像配信ブランドの全てをJFW(日本ファッションウイーク推進機構)公式で拝見しました。公式サイトは以下https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/久しぶりのショー発表なので行きたかったんですが、あいにく研修時間と重なってしまってショーを観れなかったAKIKOAOKI(アキコアオキ、青木明子さん)。デビュー直後に比べてカドがとれて商品として店頭展開しやすくなりました。(以上2点ともAKIKOAOKI)かつて台湾のセレクトショップに繋いだことがあるmintdesigns(ミントデザインズ、勝井北斗さん&八木奈央さん)、今回はデジタル配信でした。微妙な淡い色調とユニークな柄模様をコンスタントに観せてくれますが、コントラストのはっきりしたモノトーン系も今シーズンは気になりました。(2点ともmintdesigns)今シーズンもデジタル配信だったHYKE(ハイク、吉原英明さん&大出由紀子さん)、個人的には洗練されたブランド世界観、好きだなあ。もっと海外市場に発信強化してほしいブランドの1つ、いつかまたファッションショーで拝見したいです。(2点ともHYKE)パリコレなど世界の主要コレクションでも新型コロナウイルスの影響を受け、ここ3年間観客を入れてのショー発表は少なくなりましたが、今シーズンは再びショー形式のブランドが多くなり、観客席も増やしてランウェイに華やかさが戻ってきました。ファッションショーは19世紀末から100年以上続く新作の発表形式ですが、デザイナー個々のクリエーションを紹介するには規模はともかくやっぱりこの形式が一番なんでしょうね。次回2024年春夏東京コレクションは8月28日から1週間開催予定。<この欄の写真は全てJFW公式サイトから>
2023.03.24
今シーズン、ミラノではドルチェ&ガッバーナとのコラボイベントとして、パリでは東京都の若手デザイナー支援策(Fashion Prize of Tokyo)のサポートでコレクションを現地発表したTOMO KOIZUMI(小泉智貴さん)、東コレでも新作プレゼンをしました。我が道を行く姿勢に変わりなし。一般人がどこでどういうオケージョンで着る服なのかと問われたら、なんとも答えようがありません。でも、その色彩、服の持つオーラはただただパワフル。売れる売れない、着れる着れないといった従来からの尺度を超越したファッションデザインです。将来アカデミー賞のレッドカーペットやMETガラ、ハリウッドやブロードウェイのミュージカルで彼のデザインした服が話題になることを期待しています。
2023.03.21
ジャンポールゴルティエがパリコレで人気絶頂だった頃、ゴルティエのショー会場に入った瞬間異様な光景に「なにこれ」。幅の広くて長いステージの頭上には照明機材のトラスの下に大きな白無地の布が張ってあったのです。観客を驚かせる特別な演出に使う小道具かと思いましたが、布には何の仕掛けもなく、一度も揺れることもなく、演出小道具ではありませんでした。後日、ランウェイ写真をカラー掲載した新聞や雑誌を見て、布の意味が理解できました。強めの照明が布フィルターを通してモデルや服に優しく当たったので、掲載された写真はどのメディアも明るく、美しく、柔らかでした。あの時代カメラマンはランウェイに沿ってズラリ並んでフラッシュを使って撮影、現在のように長い望遠レンズでノーフラッシュではありません。ゴルティエのステージは布フィルターを通した優しい光だったので服の微妙な色合いは鮮明、写真は別格の美しさでした。今シーズン、「ここに二瓶さんがいてくれたら」と思うショーがいくつかありました。1993年度毎日ファッション大賞鯨岡阿美子賞を受賞した二瓶マサオさんは日本を代表する照明デザイナー。イッセイミヤケ、ヨウジヤマモト、コムデギャルソンのパリコレを担当、個性の強いデザイナー三人三様の照明を毎回デザインするのは大変なプレッシャーだったでしょう。二瓶さんの照明はまるで演劇のようにストーリー性がありながらモデルが歩くステージに均等に光が当たり、光量が弱い場所もあれば明るい場所もあるなんてステージはありませんでした。ステージを長く、あるいは広く設営すれば、トラスに吊る照明機材の台数は増えます。当然機材のリース代金も増えます。モデルが歩く場所に万遍なく光を当てるなら、大きなステージのショーでは機材費はかなりかさみます。機材費はかけられない、でもステージは長くあるいは広く取りたい演出となれば、ステージには光のムラが生じて結果的にカメラマン泣かせになります。撮影許可のあるカメラマンだけが会場で撮影できた時代は終わり、いまは観客の誰もがスマホでショーの写真やビデオを撮影、SNSを通じて広く拡散する時代です。ゆえに以前にも増してステージの照明は重要です。いい写真が撮れる照明であれば、プロのカメラマンでなくてもそれなりの写真をSNSにアップできます。時には実際の服以上に魅力的に見える写真をアップすることも可能です。しかし、ショーでいい写真が撮れなければSNS効果は期待できません。ステージに万遍なく光の当たらない、あるいは演出上ステージを暗くて服がはっきり見えないというのはネット時代のファッションショーとしてどうなんでしょう。せっかくお金をかけてショー発表するのであれば、カメラマン席のプロも観客席のスマホ撮影者も綺麗な写真を撮れるような照明プランにすべきではないでしょうか。今シーズンは照明デザインが非常に気になりました。今回Rakuten Fashion WeekのラストショーはKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、吉田圭佑さん)でした。会場は渋谷駅前の工事現場の地下、まだ満足に電気が供給されていない空間でしたが、ステージのモデルにはちゃんと照明が当たり、私のスマホでも難なく撮影できました。吉田さんは2015年に会社を設立してブランドを開始した若手、シーズンを重ねるたびに伸びているデザイナーと感じさせてくれる一人ですが、シーズンのラストを飾る力作を見せてくれました。個人的にこういうコレクション、好きだなあ。写真は全てKEISUKEYOSHIDA
2023.03.21
長い間デザイナーコレクションを取材、視察してきました。これまでに見せてもらったファッションショーの総数はおそらく数千本。その中で、感動のあまりショーのあとしばらく席を立てなかったもの、背筋がゾクゾクしたり涙が出そうになったもの、静かな感動の余韻に浸っていたいと思ったものもあります。照明がが暗過ぎて肝心の服がよく見えなかったものや、服があまりにひどくてもう二度と見ることはないと怒りが込み上げて帰ったものもありました。感動したファッションショーの中にも、ストレートに服そのものが圧巻だったものもあれば、その演出方法や照明と音楽に感動したショーもあります。素晴らしい映画を観賞したときと同じような感動が味わえるのがファッションショーだと思います。ラルフローレンが初めてサンタフェスタイルを発表したシーズン、映画「炎のランナー」に触発され1920年代風コレクションを見せたペリーエリス、暗いクラブで蛍光色のド派手なコレクションを見せたスティーブンスプラウス、かつてのオートクチュールのような音楽なし番号札を持ったモデルが歩くボディコンのアライア、クロードモンタナの構築的ライン、クラシックな普通のトレンチコートなのにモデルが面白い着方をして現れたジャンポールゴルティエ、アールデコ時代を彷彿させたニットの女王ソニアリキエルを初めて見たときも興奮しました。もちろん日本人デザイナーのコレクションでジーンときたものもたくさんあります。穴だらけのパンクスタイルから脱した直後のクラシックなコムデギャルソン、フィナーレに仮設大型テントが開いてモデルがまるで砂漠の中を歩く宇宙人のようにステージに現れたイッセイミヤケ、毎回黒い服を続けるヨウジヤマモトが日本の伝統的紋様と色彩でジャポニズムを再現したコレクションなど、いまも鮮明に記憶に残るショーが数本あります。コムデギャルソンオムプリュスとヨウジヤマモトプールオムのジョイントショー「6・1 The Men」もカッコ良かったです。そして昨日のタカヒロミヤシタザソロイスト(宮下貴裕さん)、ファッションショーで久しぶりに静かな感動をもらいました。概してデザイナーは創作のプロセスでいろんなアイディアが湧き出て、あれこれショーで見せたがる人が少なくありませんが、スッキリとアイディアを集約して1つの世界観がストレートに伝わってきたコレクションでした。中性的な表情の男性モデルたちの着る服はメンズなんですがレディースのようでもあり、抑揚のない不思議な世界観、魅力的でした。服そのもののデザイン、コーディネートのバランス、モデルの歩くスピード、心地良い音楽と照明、静かなんですがすごいショーを見せてもらったような感動がありました。かつてナンバーナインを手がけたデザイナーさんだそうですから、元々実力がある方なのでしょう。クールなコレクションは私の記憶に残る1本になりました。写真は全てTAKAHIROMIYASHITA TheSoloist.
2023.03.18
(以下写真は全てSUPPORT SURFACE)ファッションデザイナーに関わって長い私ですが、これまでデザイナーやパタンナーに「もっと売れるものをつくって欲しい」と言ったことはありません。「あなたの信じるものをつくってください」と接してきました。デザイナーたちが考案したコレクションをどう売るのか、マーチャンダイジングは我々ビジネスマンの仕事ですが、クリエーションには口を挟まないというスタンスで仕事をしてきました。コレクションを発表したあと注文が入ったものはたとえ枚数が少なくても生産する。逆に、ショーで見せるだけで生産販売するつもりのないものはショーで見せないでくださいと言ってきました。日本のファッション雑誌によくあった「参考商品」、私にはあり得ない表記でした。生産するつもりのないサンプルを平気で貸し出す神経が私には理解できませんし、販売予定がないとはじめから分かっていてもサンプルを掲載するメディア側の姿勢も理解できません。ファッションビジネスは何もたくさん売ることだけが目標とは思っていませんし、たくさん売る会社が偉いとも思いません。少ししか売れない、少ししか売らないコレクションがあっても良いと思います。消費者に売るつもりのない服をショーで見せる、売らない服なのに雑誌で読者に紹介する、言い換えれば「フェイク」もっと強く言えば「サギ」、これだけはやめてくださいと言い続けてきました。展示会では販売スタッフに「売れるか、売れないかではなく、せっかくつくったんだから売ってみようよ」とよく言います。「お客様をなんとか試着室までご案内しようよ。それでお客様の反応が悪かったら、そこで諦めよう」、これが私が販売スタッフに奨励してきた販売の心構えです。また、デザイナーやパタンナーが徹夜までして完成させたコレクションなんだから、プロパー消化率が50%なんて惨めな数字では情けない。せめてお客様の4人に3人はプロパー価格で買っていただけるようメリハリのある発注を求めました。4人に3人、つまり目標プロパー消化率75%(腹の中では70%で及第点と考えての数字でした)。親しいアパレルメーカーの経営者たちは「75%は無茶苦茶だよ」と笑いましたが、無茶ではありません。実際には70%以上の数値をコンスタントに叩き出しました。販売が難しそうな服もちゃんとつくっての70%、まずまずの数字ではないでしょうか。たとえ売りにくい服であろうが、特定のお客様しか買ってくれそうにない服だろうが、デザイナーのクリエーションを尊重、彼らが創作したものをそのまま販売を試み、マーチャンダイジングの知恵と工夫で消化率を上げるのがプロの仕事だと信じてやってきました。だから「もっと売れるものをつくって欲しい」なんてセリフは言いません、言ってはいけないのです。マーチャンダイジングの講義でよく受講生たちに言います。コレクションを見て「これじゃ前年8掛けしか売れないな」というシーズンであっても絶対に諦めるな、自分たちの腕で前年トントンは目標にしてみようよ、と。反対に「これなら前年を軽く上回れそう」というシーズンなら、大幅アップを狙って営業と発注枠の増加を交渉、可能な限り高い目標を掲げてください、と。毎回コンスタントにコレクションが良いとは限りません。楽なときもあれば難しいときもあるのがファッションビジネス、そう教えてきました。デザイナーのクリエーションは尊重する、しかしマーチャンダイジングの領域にはデザイナーに口出しさせない、これが私の仕事の流儀です。今日のSUPPORT SURFACE(サポートサーフェス 研壁宣男さん)のコレクション、細かいところに技術の詰まった丁寧なものづくり、いつもながらモデルさんの後ろ姿が凛として美しく、見ていて心地良い内容でした。私がバイヤーなら写真のパンツに入れ込みます。マーチャンダイジングの目線で言えば「前年比120%を目標に前向きな発注をしてみようよ」でした。
2023.03.17
数シーズン前に東京コレクションでデビューしたPOSTELEGANT(ポステレガント)中田優也さん、昨年初めてショーを開いたHARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ)村田晴信さん、そして今シーズンのトップバッターだったIRENISA(イレニサ)小林祐さんと安倍悠治の2人組。良質素材をたっぷり使ってシックな服をつくる若手デザイナーが近年増えてきたように感じます。現在のJFW東京コレクション(正式名称RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO)をお手伝いし始めた頃、東京と言えばストリート系あるいはアスレチックマインドの元気なカジュアルをつくる若手が多かった。いまもその傾向に変わりはありませんし、それが欧米コレクションとは異なる東京らしい特色でしょう。が、良質素材でシックな大人っぽいエレガンスを追う若手のことも非常に気になります。上の写真3枚は本日コレククション発表したHARUNOBUMURATA。前シーズン素晴らしいコレクションだったので、今シーズンその進化をかなり期待していましたが、すぐ目の前をモデルが歩く形式のショーだったので素材の質感がしっかり伝わり、感動しました。下の3枚は昨日のIRENISA。ショーのあと素材提供している尾州の毛織物メーカーNさんに聞いたところ、上質なカシミアダブルフェイスも使っているそうですが、着分それなりのお値段がします。デビューして間もない知名度があるわけではない新進ブランドがそれなりの高価格で販売するとなると売るのは簡単ではないしょう。が、なんとかメディアやインフルエンサーの力を借りて知名度を上げ、ビジネスを軌道に乗せて欲しいです。東京らしいストリート系カジュアルも、アニメにインスピレーションを得たロリータ系の服も東京らしくて良いでしょうが、日本の素材開発力、パターンメーキングの匠、丁寧な縫製など、優れた職人技を利用してTHE ROWやJIL SANDERに負けないMADE IN JAPANコレクションも作って欲しいです。
2023.03.15
コロナウイルス感染で2020年10月に亡くなったデザイナー高田賢三さんのプレス担当やビジネスパートナーとして公私共に賢三さんを長く支えてきた鈴木三月さんが、今月「高田賢三さんと私」を出版されると聞いて早速Amazonに予約を入れました。世界的デザイナーの成功、挫折、葛藤を至近距離でずっと見てきた鈴木さんだからこそ書ける、私たちが知らないケンゾーストーリーがいっぱい盛り込まれているでしょう。ファッションビジネスに関わっている多くの方々や、これからその世界を目指そうとする学生さんたちにもぜひ読んでもらいたいです。時事通信社から2月21日に発売予定。
2023.02.08
昨日、南青山スパイラルホールで開催された目白ファッション&アートカレッジのファッションショー(=写真)にお邪魔しました。コロナウイルス感染の影響で一般公開するのは実に3年ぶりだそうですが、自分たちで作り上げるファッションショーを経験することなく卒業した若者も3年の間にはいたことでしょう。(学生ショーのフィナーレ)与えられたテーマに沿ってデザインを考案し、時には放課後夜遅くまで残って作品制作に没頭、みんなでショーを作り上げる過程で生まれるチームワークはファッション系教育現場では大変重要なこと。苦労してみんなの力でショーを披露した後の達成感、恐らくファッション専門学校を卒業した人たちには生涯忘れられない思い出になっているはずです。また、指導する先生たちにとっても、一連の作業プロセスでどんどん伸びていく教え子たちを見ることは先生冥利を実感する瞬間です。コロナウイルスで中止あるいは大幅縮小を余儀なくされ、どの専門学校の先生方にも辛い3年間だったと推察します。プロの現場でも、ファッションショーに向けて組織の全部署が一斉に始動し、ショーが終了するまでの苦労とその過程で生まれるチームワーク(もちろんプロセスでチーム崩壊するケースもあります)は学生ファッションショーと同じ。ショー制作には莫大な経費がかかります。単純に経費管理の視点で言えば無駄かもしれない出費。でも、組織一丸となってコレクションとショーを作り上げるプロセスにはお金で買えないものがいっぱいあります。パリ、ミラノでメンズコレクションが終わり、もうすぐ2023年秋冬ウイメンズコレクションがニューヨークから始まります。コロナウイルス拡散時期は多くのメゾンがデジタル配信でしたが、今シーズンからは従来通りプレスやバイヤーを招いて普通にショーを披露するメゾンが大半でしょう。空白の3年間を経ていつもの活気が業界に戻ってきます。幸い消費市場ではコロナ以前の売上を記録するブランドが増えてきました。世界のファッションウイークから新しいアイディアや新人デザイナーが登場すれば、市場での消費熱はもっと高まるでしょう。今週9日スタートのニューヨークから来月7日終了のパリコレまで、目が離せません。東京コレクション(Rakuten Fashion Week TOKYO)は来月13日(月曜日)から18日(土曜日)まで渋谷ヒカリエなどで開催されます。
2023.02.05
あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
今夏、大きな病院の上層階にある介護施設でお世話になっていた母がコロナウイルスで亡くなりました。院内クラスター感染だったのでしょう。享年95歳、長生きしてくれました。母には感謝しかありません。母が亡くなったので個人的に2022は特別な年ですが、英国の国王として長年君臨してきたエリザベス2世、ソビエト連邦を葬り去ったゴルバチョフ書記長、遊説中に暗殺された安倍晋三元首相と忘れられない年になりました。そして、今年はファッションデザイナーの訃報も続きました。西田武生さん、1922年富山県高岡市生まれ。美空ひばりさんや黒柳徹子さんなど芸能人の舞台衣装もたくさん手がけられた長老です。徴兵から復帰するまでファッションとは無縁の仕事。戦後、地元百貨店の大和に就職してからファッションの世界へ。1962年からデザイナーとして活躍されました。享年100歳。三宅一生さん、1938年広島市生まれ。多摩美術大学でグラフィックを学びつつファッションデザインを始める。卒業後パリオートクチュールメゾンで修行中「五月革命」を目撃、特権階級に向けたオートクチュールから一般市民に向けた既製服の時代が来ると感じてニューヨークに渡る。帰国して1970年三宅デザイン事務所を立ち上げた。その後の活躍は皆さんご存知でしょう。享年84歳。森英恵さん、1926年島根県鹿足郡生まれ。東京女子大学在学中に知り合ったご主人の実家は尾州の繊維会社。ご主人の理解もあってドレスメーカー女学院に通い、1951年新宿東口前にブティック「ひよしや」を開業。1965年ニューヨークコレクション進出、1977年には日本人初のパリオートクチュール協会正会員に。享年96歳。花井幸子さん、1937年東京都青梅市生まれ。1959年長沢節さんのセツ・モードセミナーを卒業後広告制作会社のアドセンターに就職。1968年銀座にマダム花井開店、ファッションデザイナーとして活躍。テレビ司会者芳村真理さんの衣裳を多数手掛けたことでも有名。(社)ザ・ファッショングループ会長も務めた。享年84歳。そして、昨日12月30日「パンクの女王」英国ヴィヴィアン・ウエストウッドさんの訃報が飛び込んできました。パートナーのマルコム・マクラーレンさんと共にロンドンからパンクファッションを世界に広め、パリコレでは特異な存在でした。享年81歳。謹んで皆様のご冥福をお祈りします。<写真は全てネットから引用しています>
2022.12.31
あれは1997年頃だったか。マンハッタンSOHO地区ウエストブロードウェイのポロスポーツ路面店で店頭展開の素晴らしさに衝撃を受けたのは。店名は「ポロスポーツ」、なのにこの店の中にはラルフローレンの最上級ブランド「パープルレーベル」から、その次のランクの「ブラックレーベル」、ブリッジラインの「ラルフ」(メンズならポロ・バイ・ラルフローレン)、ポロスポーツ、そして「ダブルアール」、さらにデニム専業メーカー「リーバイス」や「リー」のヴィンテージものも並べ、ハンガーラックにはこうしたブランドごとの展開ではなく、ラックごとにストーリー性を持たせたブランドミックスでした。しかも、メンズ、レディース両方をこうした見せ方にしていました。「凄いことやるなあ」、あのときは鳥肌立ちました。ブランド企業の大型路面店で複数ブランドを導入してブランドごとに店内エリアや什器を分けて陳列しているケースはほかでも見たことあります。が、どのラックも複数ブランドのミックス、ラックごとにそれぞれストーリーが違う展開なんて見たことありません。デザイナーが自社ブランドを因数分解して、しかも他社のヴィンテージを加えてまるでセレクトショップの趣でお客様に楽しさを提供している、いまもそんなブランド企業はありません。初めてこの展開方法をポロスポーツ店で見たときの衝撃、さすが世界有数のファッションディレクターのやることだと感動、興奮しました。写真は、昨日松屋銀座5階にオープンしたメンズ、レディース併設「ポロ・ラルフローレン」ショップ。これまでどの百貨店もメンズはメンズフロアで、レディースはレディースフロアで別々に展開してきました。が、今回は同じショップ空間の中にメンズ、レディース併設。米国では全ブランドをミックスコーディネート展開してきたラルフローレン、それに比べたら驚くほどのことではありませんが、それでも併設インショップは一歩前進です。果たしてこの試み、お客様にどのように映るのか。歓迎されるといいんですが。
2022.11.12
東京メトロ銀座線銀座駅松屋側改札口を出てすぐ左手、最初の地下ウインドー前を通り過ぎる瞬間、ちょっと違和感を感じて振り返ってよく見ると、ブランド名"balenciaga"の上部はあの見慣れた3本線のロゴマーク。悪戯っぽくて、でもどういうわけかおさまりよく調和していますよね。こういう遊び心あるデザイン、好きだなあ。去年のグッチとのコラボ(写真下)はまだ記憶に新しいけれど、今年バレンシアガのコラボ相手はアディダスです。グッチは同じ企業グループだったので意外性はそれほどなかったが、今年は意外性があるのに妙にロゴマークとブランド表記のバランスが良い。何年も前からこのデザインと言われても不思議に思わないかも。来週末からは中東カタールでワールドカップ2022が開幕するタイミング。名だたるサッカー選手が3本線のスパイクを履いて活躍するでしょうから連日私たちは動画で3本線スパイクを目にします。この時期だから一層目立つ、このコラボもヒットすると良いですね。不運にも日本代表チームはアディダスのドイツ、クリストバル・バレンシアガ出身国のスペインと同じ予選グループに入ってしまいました。今大会での予選突破はかなり難しいかもしれませんが、奇跡がないとは限らないのがワールドカップ、僅かながらでも日本の突破を期待。
2022.11.10
約束の時間まで少し余裕があったので、久しぶりにブランドショップのウインドーをゆっくり見て歩来ました。クリスマス商戦突入寸前の静けさと思っていたら、平日の夕刻なのに結構ショッピングする人を見かけました。中国人観光客はまだほとんど来日していないようですが、彼らに代わって在日中国人の転売バイヤーが買い漁る姿を見かけます。中国人に超人気のバッグブランドのショッパーを10個ほど、重いからか歩道に置いて迎えの車を待つ若い中国人バイヤーが飛び切り目立っていました。コムデギャルソンのドーバーストリートマーケットは10周年オニツカタイガーも銀座中央通りに銀座4丁目の顔、和光のウインドーエルメス共々銀座に自社物件をもつシャネル銀座のこの場所に店を構えて長いフェラガモGINZA SIX敷地の一部はLVMHグループ所有数日以内に銀座中が一斉にクリスマス飾りになって通りは眩しくなります。ラグジュアリーな外資ブランドと在日中国人バイヤーに支えられるジャパンブランドはコロナ禍がウソのような復活を見せており、今年のクリスマス商戦は過去2年と違ってかなり期待できそうです。
2022.11.03
9月上旬に東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)が終わった直後から都内あちらこちらで行われているデザイナーブランドの2023年春夏物展示会にお邪魔しています。今日はアンリアレイジ森永邦彦さんの新作を見てきました。森永さんはメタバースコレクションを早く取り組んだデザイナーですが、その一方でメチャクチャ手の込んだパッチワークのモノづくりもしています。服を裏返してよく見ると、いかに丁寧に職人さんが小さな布切れを縫い合わせているかがわかります。森永邦彦さんが「毎日ファッション大賞」を受賞した翌年2020年に同賞を受賞したのがビューティフルピープル熊切秀典さん。彼が独立するまで所属したデザイナー企業で私の実弟にどのように服づくりを教わったかで話が盛り上がりました。同じ白いブロードクロス、同じパターン、別熱のシャツ工場で縫製された4枚のシャツがどう違うか弟にレポート提出を求められた話、面白かったです。いまも「自分はパタンナーのつもり」と言う熊切さん、服を上からも反対に下からも着られる「サイドC」というコンセプトはますます磨きがかかっていました。10月のパリコレで春物物の受注は生産タイミング的には遅いので、サンプルには早くも秋冬素材のもの(写真下)を入れて海外バイヤーに見せたそうです。本当はメンズパリコレの6月後半に婦人服でショーをやりたい、と。気持ちわかります。(話が弾んで写真は1枚だけ撮影しました)CFD議長時代から今日まで、最も足を運んできた展示会は皆川明さんのミナペルホネンです。いつお邪魔しても独特のほんわかな空気が流れてて癒されます。今回はいつもの代官山の会場ではなく、ベルコモンズがあった場所にできたホテルが会場でした。世の中のトレンドがどう変わろうが見向きもせずわが道を突き進み、同じ機屋さんにずっと仕事を出し続けるモノづくりの姿勢、ほんとに立派です。今回も会場には機屋の職人さんの姿がありましたが、こういう構図っていいですね。皆川明さんも2006年毎日ファッション大賞を受賞しています。長かった新型コロナウイルス規制が緩和され、やっとインバウンド客が戻ってきました。都心部では来日外国人の姿をコンスタントに見かけるようになり、2023年春夏シーズンは過去2年半とは違ったビジネス環境になっているはず。日本のクリエーションが国内のお客様のみならずインバウンド客にも評価されることを願っています。みなさん、頑張ってください。
2022.10.29
デザイナーのヨーガン・レールさんが石垣島での交通事故で亡くなってもう8年、会社ヨーガンレールはビギグループから独立し、ヨーガンさんの意志を継いだスタッフたちがそのナチュラル路線を守っています。今日は久しぶりに江東区清澄の本社での展示会にお邪魔しました。このオフィスはずっと社員の福利厚生策として社員食堂でベジタリアンランチを提供し続けていますが、展示会期間中は我々訪問客もご馳走していただけます。ヘルシーで美味しいランチをいただき、新作を拝見してきました。個人的には晩年ヨーガンご本人が力を入れていた「ババグーリ」(以下の写真すべて)にもっと伸びる可能性を感じました。あくまで会社側にビジネスを拡大する気があればの話ですが。服だけでなくリビング雑貨のバリエーションもあって、ヨーガンが確立したかったババグーリ独自の世界観が理解しやすいですよね。できれば衣食住をトータルに訴求する実験、ポップアップや他ブランドとのコラボを仕掛けてもらいたいし、このブランドにはあまり価格のことなんぞ考えずに上質素材をどんどん使って日本のちょっと贅沢で素朴な暮らしの提案をして欲しいですね。スタッフの方々には「こんなことやったらどう」と余計なことをアドバイスしてきました。
2022.10.04
今月17日、日本衣料管理協会50周年記念行事のひとつとして同協会中国支部が開催するセミナーで講演させていただきました。会場の児島市民交流センターに入る前、幹事役の吉村恒夫さん(元ビッグジョン)の案内で畳縁専業メーカーの高田織物とデニムのキャピタルを訪問しました。高田織物は明治25年(1892年)創業の老舗メーカー。畳のある暮らしがどんどん減っていく中で畳縁(タタミヘリ)を専門に織っている会社なんですが、その織物を畳に合わせるだけでなくバッグやリビング雑貨などいろんな用途に活用しています。訪問した土曜日の午前中、本社敷地内ショップには多くの買い物客がいらっしゃいました。畳の生活自体は減少傾向でも、畳縁の新たな展開で元気な会社、素晴らしいです。一方のキャピタル(KAPITAL)は昭和60年(1985年)創業の比較的新しい会社。ジーンズ発祥の地アメリカでもいまこんな空気感のこだわりジーンズショップは少ないのではないでしょうか。ジーンズマニアには欲しいものがいっぱい見つかるショップでしょうね。商品それぞれにひとひねりありましたが、中でもこの深緑藍染デニムが私には魅力的でした。カイハラのデニム工場見学のとき、染料プールから綿糸を出したときの深緑色(時間の経過とともに藍色に変色する)がなんとも印象的でしたが、それをふと思い出しました。いい色していますよね。児島地区のある倉敷市はもともと繊維産業で栄えたエリア。学生服やユニホーム、そしてジーンズの製造産地であり、ジーンズショップが建ち並ぶジーンズストリートもあります。ゆっくり街を歩くといろんな発見がありそうです。
2022.09.29
9月20日、大手町三井ホールにて第40回毎日ファッション大賞の授賞式が行われました。本年度各部門の受賞者は次の通り、皆さんおめでとうございます。<敬称略>毎日ファッション大賞 NIGO® (KENZO)新人賞・資生堂奨励賞 田中文江(FUMIE -TANAKA)鯨岡阿美子賞 北村道子話題賞 デニム de ミライ 〜Denim Project〜話題賞 松任谷由美(ユーミン)今年も選考委員をさせていただきました。控室で他の選考委員の方から、私がずっと選考委員を務めているので過去の受賞者に詳しいと言われましたが、40年の歴史の半分以下ですと答えたら大変驚いていらっしゃいました。私は第6回の1988年から第12回の1994年までの7年間選考委員でした。設立時の選考委員長だった鯨岡阿美子さんが急逝する半年前「あとは頼んだわよ」と言われ、担当編集委員だった市倉浩二郎さんから「クジラさんの遺言と思ってやれよ」説得され引き受けました。1995年4月にCFD議長を退任、一般企業に転職したので賞の公平性のために選考委員を辞任しました。そして、第31回の2013年に再び選考委員に復帰。なので毎日ファッション大賞40年の歴史の中で合計16年間お手伝いしてきました。自分が委員として選考委員会の議論に加わった年は、自分が推した人や企業が受賞できなくても結果に対しては連帯責任ありと思っています。選考委員会で他の委員の方々のご意見を伺いながら、自分の推薦を下したことはこれまで度々ありましたが、毎回委員会は勉強になります。今年も納得の結果です。詳細は毎日ファッション大賞のサイトをご覧ください。https://macs.mainichi.co.jp/fashion/win40/index.html
2022.09.23
英国エリザベス女王のご遺体がバッキンガム宮殿を出るときの隊列シーン、厳かで素晴らしかったですね。沿道に集まった一般市民、忘れがたき光景を目に焼き付けたでしょう。女王陛下の戴冠式は1953年に行われました。このとき頭上のティアラから、服、バッグは英国製でしたが、どういうわけか靴だけはフランス製、フランス人靴デザイナーのRoger Vivier(ロジェ・ヴィヴィエ 1907年〜1998年)のものだったそうです。なぜ靴だけフランス人デザイナーのものが選ばれたのかはわかりません。出棺のニュース映像を観ながら、そのことを思い出しました。
2022.09.15
今シーズンの東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)はなかなか見応えがあったのではないでしょうか。CFD設立以来ずっと新人若手のインキュベーションを掲げて来ましたが、伸びそうな新人デザイナーが複数同時に登場すると嬉しいですよね。今回は久しぶりにそんなシーズンでした。今日は記憶に残るベストコレクションの話。(実際のショー写真がないのは残念)私はこれまでいろんな立場でデザイナーのコレクションに関わってきました。取材する側に始まり、小売店側、発表するブランド側、CFDやJFWのようなコレクション主催者側もありました。長く業界で働いているのでかなりの本数のコレクションを観てきましたが、ショーの演出やコレクションそのものの完成度に感動して終了後に席をすぐ立てなかったショー、感動のあまり背中ゾクゾク涙が出そうになったショーは何度も経験あります。 ニューヨークで取材活動をしていたとき、これまで見たことあるようなないような不思議なノスタルジックなコレクション、決してニューファッションではないのに鳥肌が立ったことがあります。1980年代初頭だったでしょうか、ラルフローレンが初めてサンタフェスタイルをズラリ並べたコレクションを披露したのは。アメリカンインディアンの生活文化をモチーフにしてはいますが、インディアンが実際にこんな格好をしていたとは考えられないスタイリングでした。個人的にアメトラの世界はあまり好きではなかったのに、このときのラルフローレンのショーは感動してすぐ席を立てなかったことを覚えています。さらにその翌々年だったでしょうか、モロにアメトラの1930年代プレッピースタイルでまとめたコレクションも、まるで古き良き時代の映画を観ているような感動がありました。サンタフェもプレッピーも新しいスタイルではないんですが、ラルフローレンがプロデュースする世界観は魅力的でした。(Ralph Lauren)シーズンを重ねるたびに人気は急上昇、デビューしてあっと言う間にカルバンクライン、ラルフローレンと並ぶニューヨークデザイナーのビッグ3になったペリーエリス、映画「炎のランナー」をデザインリソースにした1981年秋冬はアイリッシュツイードをフルに使った圧巻のコレクションでした。フィナーレ時には背中に電気が走りました。このとき私はランウェイで撮影していましたが、感動のあまりモータードライブのシャッターは押しっぱなし、物凄い枚数の写真を撮ってしまいました。これ以外のシーズンでも魅力的なコレクションを次々発表、ついつい原稿が長くなってしまうデザイナーでした。(Stephen Sprouse)まるでロックンロールのライブハウスにいるような雰囲気の中、派手なオレンジやピンクのネオンカラーの服を着たモデルが現れたスティーブンスプラウスの1984年秋冬コレクション、これも忘れがたいショーのひとつ。マーク・ジェイコブス時代ルイヴィトンの落書きペイントのバッグで知っている方も多いでしょうが、スプラウスはほんの3年ほどコレクション制作をしていたファッションデザイナーです。マークがルイヴィトンで起用したことで業界人の多くがその存在を思い出しました。いまも記憶に残るデザイナー、非常にインパクトあるコレクションでした。1983年3月、繊研新聞ファッション担当記者の織田晃さんにお願いして初めてパリコレに出かけました。ちょうどコムデギャルソンがボロルックで世界を驚かせ、欧米ジャーナリズムで賛否両論真っ二つに評価が分かれた後のシーズン、足速に大股でステージを歩くモデルたちはポルカドットにボックスプリーツのスカート、穴はどこにも開いていないし、袖はちゃんと両袖ついてました。パリコレデビュー時に服を解体して新しい服の概念を見せつけたコムデギャルソン、解体した後だからこその成熟した美しさと言うのでしょうか、その夜は興奮して眠れませんでした。感動のあまり川久保さんに手紙を書いて現地ショールームで手渡ししたくらいです。同じ1983年秋冬シーズン、イッセイミヤケのボディーワークスがパリコレステージでも披露され、「こういう服もありなんだ。美しいなあ」と素直に感動しました。織物や編み物だけが服じゃない、原材料が金属だってシリコンだって服に使えるということを初めて知った「目から鱗」ショーでした。のちにイッセイミヤケは和紙、工業用ポリエステル、ペットボトル再生繊維など新素材を次々と服に登用しますが、このとき三宅一生さんのモノづくりの哲学に触れた喜びのようなものを感じました。二度目のパリコレは1985年秋冬、初めて観たアライアが強烈な印象。ショーにつきものの音楽はない、モデルはかつてのオートクチュール時代のように番号札を持ってステージを歩く、しかもその表情に笑みはない、一見つまらないクラシックな演出でした。しかしながら、アライア特有のボディコンシャスなニットはなんとも言えぬ魅力がありました。自分たちはショーの音楽、照明、舞台美術、意表を突くメイクなどトータルでコレクションを評価しがちですが、アライアはまさに服だけの一本勝負、その潔さに感服でした。この1985年3月のパリコレから数ヶ月後、CFDが設立され、私は東京コレクションを運営する側になってしまいました。当初はコムデギャルソン、ヨウジヤマモト、イッセイミヤケはパリコレのあと東京コレクションでもショーを開催、代々木競技場の特設テント前には長蛇の列でした。この頃が東京コレクションは最も華やかでしたね。毛利臣男さんこの中で最も印象に残っているショーは、なんと言っても三宅一生さんの片腕だった毛利臣男さん演出のイッセイミヤケ1986年秋冬です。1985年秋、初めてCFD主催東京コレクションの後、毛利さんはテントと舞台美術業者に次シーズンの演出のために大型テントを改良できないか直接相談していました。毛利さんの構想は、ステージ左右のサイドパネルがショーの最中徐々に開いていき、最後にパネルが全開したところで背後に現れる大きな布が一瞬にして消え、その後にテントが緞帳のようにまくれ上がってテントの外からモデルが中に入ってくる。とんでもなく手間もお金もかかる演出プランでした。テントを組み立てるのに10トンのクレーン車2台必要ですが、一旦張ったテントの一面をめくり上げるには風の抵抗もあって大きな建設用20トンクレーン車が必要です。しかもテントそのものはジッパーをつけ、本番前にはジッパーを開けなくてはなりません。この構想を現場責任者から聞いたとき、断るべきか、受けるべきか、責任者として悩みました。業者は物理的には可能と言う、面白いから許可しようと決断しました。ただし、雨天の場合はバックステージが濡れるので被害を弁償という条件でした。ところが、ショー前夜のテント開け閉めのリハーサル中、会場視察にきた三宅さんが「太田さん、こんなことをして良いんですか」。三宅さんはCFD代表幹事、公平にCFDを運営すべき立場なので自社だけが特別なことをやってはいけない、「中止」と言い出しました。毛利さんは「絶対にやりたい」と言いますし、私は「やっても良いけど経費は全額負担してください」と意見は分かれました。テント脇の事務局プレハブで三人が「やってはいけない」、「やりたい」、「やったらいいじゃない」と大声で議論、現場スタッフは作業を中止して結論を待っていました。最終的に毛利さんの演出プランは決行に。観客席でショーを観ていると、サイドパネルが徐々に開き(楽屋は着用済みの服を全部屋外に出して空間を作る大作業)、パネル全開のあとに大きな布が天井から落ち、次の瞬間テントがゆっくりと緞帳のように上がり、その外には風にそよぐ巨大な布がまるで砂漠のように波打ち、やがて同じ布のドレスを纏ったモデルたちが屋外からテントの中に歩いてきました。まるで映画「E.T」のワンシーンのような幻想的なシーン。しかも偶然ですが、開いたテントの先にはくっきり黄色いお月様、あたかもオペラかミュージカルを観ているような感動を観客は味わったはず。私にとっても、人生で最も印象に残るコレクション演出でした。毛利臣男さんは自分が演出したショーの美しさに演出席で涙を流していました。写真をここでご紹介できないのがほんとに残念。しかし、毛利さんが東京コレクションの演出をしたのはこれが最後でした。事務局プレハブで大声を張り上げて議論したとき、私にもっと調整能力があったらこんな結果にはなっていなかったかもしれない、と責任を感じます。毛利さんはその後歌舞伎の3代目市川猿之助さんとのお仕事などで活躍、文化服装学院などで後進の指導にも当たられたと聞いています。もう一度、毛利さん演出の面白いファッションショーが見てみたい。<追記>2022年10月9日毛利臣男さんが亡くなったそうです。残念です。もう再び毛利演出のショーは見られません。ご冥福をお祈りします。
2022.09.08
1964年海外旅行が自由化されると、高田賢三さんはのちにニコルを創業する松田光弘さんと一緒にパリに旅行します。二人は文化服装学院「花の9期生」同窓生、二人が働いていた婦人服専門店チェーン「三愛」に長期休暇を申請、運賃の安い船で南仏マルセーユに辿り着いたそうです。そして、パリ2区ギャラリーヴィヴィエンヌに小さなブティックをオープンします。場所は確保したものの潤沢な資金があるわけではありませんから、学生時代ペンキ屋でアルバイトした経験を活かして大好きなアンリ・ルソーのジャングルの絵をブティックの壁面に描き、「ジャングル・ジャップ」とショップ名をつけました。写真は開店準備に向けてルソーの絵を描いている賢三さん、2枚目がルソーの原画「夢」(ニューヨーク近代美術館蔵)です。このときの賢三さん、本当にハッピーな表情してますよね。2008年日本人のブラジル移民100年を記念する「サンパウロ・ファッションウイーク」セミナーで賢三さんのスピーチから、店名ジャングルジャップの由来、その後中南米の日系移民から「ジャップ」は差別用語と指摘されてショップ名を「ケンゾー」にしたことを知りました。セミナーで日系ブラジル人に「申し訳ありませんでした」と改めて詫びている姿が印象的でした。サンパウロでは5日間連日ディナーをご一緒してたくさんの話をしました。その後も帰国されるたびにお会いしてお話しする機会がありました。母校文化服装学院に「実践・高田賢三講座」を作って学生たちが仮想アシスタントとなってデザインするプログラムをセットし、学生や若い日本のデザイナーたちがチャレンジする高田賢三の世界を展覧会形式で見せる構想を提案、文化学園の大沼淳理事長に私が説明に伺ったこともありました。しかし、まさかの新型コロナウイルス感染で2020年賢三さんは急逝、直後には大沼さんも亡くなりました。構想を実現できず、私はモヤモヤをずっと抱えたままです。(2013年@大石一男さん鯨岡阿美子賞受賞記念パーティー)(2016年@セブン&アイとの提携レセプション)(2017年@FEC賞授賞式)(2018年@葉山文化園)(2019年@長年の広報担当鈴木三月さんのパーティー)(逝去後に配信されたもの)
2022.09.07
Rakuten Fashion Week Tokyo(東京コレクション)には「by R」というRakutenがショー経費を全面支援する「招待枠」があります。主催者の日本ファッションウイーク推進機構が人選するのではなく、Rakutenが独自の視点でブランドを選んでいます。今シーズンはyoshiokubo(ヨシオクボ)と写真のANREALAGE(アンリアレイジ)の2つ。アンリアレイジ(森永邦彦デザイナー)はブランド設立20周年アニバーサリー。デジタル映像を効果的に使って迫力ある演出、数シーズン前のデジタル配信でしか観れなかったコレクションが東京のステージに登場しました。おそらく多くの観客がその演出と旧コレクションにも感動したのではないでしょうか。やっぱりリアルのファッションショーは良いな、と思った瞬間でした。***BLOG太田伸之の交友録は以下からご覧ください。https://ameblo.jp/nobuyuki-friends/entry-12755892727.htmlまたはhttps://plaza.rakuten.co.jp/md03inc/diary/202209020000/
2022.09.04
新しいクリエイターが次々登場すると、コレクション取材する側は元気になります。記事の行数はおのずと長くなり、スラスラと書ける、そんな経験ニューヨーク時代の私にもありました。ペリーエリス、シャマスク、ゾラン、ノーマカマリ、スティーブンスプラウス、そしてアンクラインから独立したダナキャラン、それぞれ個性的で勢いがあり、原稿書きやすかったです。今シーズンの東京コレクションも新しい才能に出会う喜びを感じますね。昨日初めて見せてもらったワタルトミナガ(富永航デザイナー)、日本で学び、ヨーロッパでも学び、帰国してデビューした若者、カラフルで元気いっぱいのコレクション、将来の大化けを期待しています。詳しくは、https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/detail/wataru-tominaga/***BLOG太田伸之の交友録は以下からご覧ください。https://ameblo.jp/nobuyuki-friends/entry-12755892727.htmlまたはhttps://plaza.rakuten.co.jp/md03inc/diary/202209020000/
2022.09.03
東京コレクション(2)2005年10月から始まった日本ファッションウイーク推進機構が主催する東京コレクション、最初は経済産業省の全面的支援があり、その後ニューヨークコレクションを運営する代理店IMGが協力してくれ冠スポンサーがついて「メルセデスベンツ・ファッションウイーク」、次に「アマゾン・ファッションウイーク」となり、2019年からは「楽天ファッションウイーク」。スポーツマインドの日常的なコレクションから特定のお客様しか袖を通しそうにない超個性的コレクションまでありますが、「次世代デザイナーがどんどん登場するなあ」が今シーズンの率直な感想です。現在の東京コレクションを理事の一人としてお手伝いし始めたのが2006年秋から、新人若手デザイナーのインキュベーション強化をずっと提案してきましたが、これまで多くの若手がここでデビューしました。かつては巨額経費をかけてパリコレに参加しなければ世界に発信できませんでしたが、ネット・デジタル社会の到来で東京に居ながらにして世界に発信できます。媒体費効果換算でもRakuten Fashion Week Tokyoは初期の東京コレクションとは比べものにならない換算金額が報告されています。これはSNS含めネットメディアのおかげです。詳しくは以下のオフィシャルサイトをご覧ください。 https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/ペイデフェ (朝藤りむデザイナー)リコール (土居哲也デザイナー)ホウガ (石田萌デザイナー)ベイシックス (森川マサノリデザイナー)ベースマーク (金木志穂デザイナー)ゲンザイ (永戸鉄也デザイナー)エムエーエスユー (後藤慎平デザイナー)
2022.09.02
2023年春夏東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)が8月29日から渋谷ヒカリエホールなどで始まりました。コロナの影響でまだフルに観客を入れることはできませんが、それでもファッションショーを開くブランドが増えました。土曜日まで新規感染者ゼロのままであって欲しいです。初日ショーにお邪魔したブランドは4つ、それぞれ個性が異なり見応えありました。特に初めてコレクションを見た新人舟山瑛美さん、新たな才能と出会った喜びを感じました。FETICO 舟山瑛美さんkeiichirosense 由利佳一郎さんEZUMi 江角泰俊さんyoshiokubo 久保嘉男さんyoshiokuboフィナーレ
2022.08.30
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