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2013年、繊研新聞社繊研賞で三越銀座と松屋の合同イベントGINZA RUNWAY(歩行者天国初の屋外ファッションショー)が表彰された懇親パーティーで友人のアパレルメーカー会長からH2Oリテイリング(阪急阪神百貨店)椙岡俊一CEOを紹介されました。「二人はきっとウマが合うと思うよ」と耳打ちされて。それから数日後椙岡さんから電話があり、早速二人だけで会食することに。そのことを友人に報告したら、「椙岡さんは我々取引先とはほとんど会食しない、接待ご飯には乗らない珍しい経営者だよ」と教えてくれました。そんな人からサシご飯に誘われたのでちょっと緊張して新橋の料理店に出かけました。故・椙岡俊一さん会食の冒頭、私はニューヨーク時代に一番印象に残っている百貨店マンは当時阪急百貨店紳士服部長に就任したばかりの松田英三郎さん(のちの阪急百貨店社長)だったと切り出しました。繊研新聞社特約ニューヨーク通信員をしていた関係で私はたくさん出張業界人と会いましたが、最も真面目な業界人は松田さんでした。「見ておくべき百貨店紳士服売り場を教えて欲しい」と言う松田さんに、「いま見るべき百貨店紳士服売り場はありません。それより小さなブティック視察を勧めます」と9つのショップをあげたら「明日もお時間いただけませんか。9店舗回ってなぜあなたが推薦したのか自分なりの考察を聞いてください」。翌日も会食することになりました。ところが、約束の時間が40分過ぎても松田さんはレストランに現れません。携帯電話のない時代ですから連絡は取れません、そのまま待ちました。小1時間経過、汗だくで現れた松田さんは「8店回ったところで時間がなくなり、タクシーが渋滞に巻き込まれて遅くなり申し訳ありません」と。電話もできずきっと大慌てだったでしょう。そして松田さんは自分なりの8店舗の感想を述べ、なかなか楽しい意見交換の会食となりました。そんなことを椙岡さんに話したところ「明日大阪で久しぶりに松田とランチするんですよ。私を社長に推薦したのは松田なんです」としばらく松田エピソードに花が咲きました。友人が言ったように、私たちはなぜかウマが合いました。それから数日後の朝、再び椙岡さんから「今日の午後は松屋にいますか。こっちはまだ大阪ですが、獺祭のいいやつ(あの頃なかなか入手できませんでした)が手に入ったのでもって行きます」と電話がありました。そして数時間後、椙岡さんは獺祭をぶら下げて松屋に。私は4階イッセイミヤケの4ブランド集合ショップを案内し、「国内ブランドでもやり方次第で外資ビッグブランドに負けない売上を上げられます。梅田阪急でやってみては」と説明しました。その年の11月政府から話があって松屋は私を新設の官民投資会社クールジャパン機構社長に出すことに合意、私は松屋を離れることになったのです。そして、H2Oリテイリングと中国資本が共同で建設する寧波阪急プロジェクトで椙岡さんと一緒に仕事をすることになりました。最初に椙岡さんとサシご飯したときも獺祭をくださったときも私は同業百貨店の幹部であり、まさか政府主導の投資ファンド社長に就任するなんて想像したこともありませんでした。椙岡さんも驚いたでしょうね。2021年春オープンした寧波阪急正面インフォメーションデスク1階にはエルメス、LVなどラグジュアリー勢揃い日本の百貨店が海外出店でなかなか成功しないのは、現地消費者にも人気の海外ラグジュアリーブランドが欠けているからです。いまの時代まず人気ある海外ブランドをズラリ揃えないことには集客は望めません。集客できてこそ日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものを販売するクールジャパン事業は実現します。投資開始の前、椙岡会長にはそんな話をしました。しかしながらラグジュアリーブランドを誘致したくても先方は簡単にいい返事はくれませんし、短時間で出店合意にサインするのは非常に難しい。ここはじっくりラグジュアリーブランドを攻めて、その上でクールジャパン拡散を図るべきと進言しました。1階にラグジュアリーブランドを1つ、2つ入れる程度ではダメです。そこで阪急百貨店でパリ、ミラノコレを視察してきた担当常務の武田肇さんが寧波阪急準備責任者に任命され、武田さんは現地開店準備室に駐在してラグジュアリーブランド側との交渉が始まりました。パリ、ミラノブランドの幹部は毎シーズン出張してくる武田さんのことはしっかり認知していますが、寧波は人口1千万人を超える上海、北京、広州、重慶、成都のような一級都市ではないので出店には慎重姿勢、簡単に正式契約にサインしません。建物は新築完了してもラグジュアリーブランドと合意できず、寧波阪急はなかなかオープンできません。日本の国会では野党議員から「オープンが遅すぎる」と批判の声が上がったようです。交渉に時間がかかって当初予定より3年ほど遅れ、2021年春にやっと寧波阪急はオープンしました。開店からビジネスは順調に推移、全館で年間予算の2倍、ラグジュアリーブランドが揃ったメインフロアはなんと予算比3倍の売上を計上、好調なスタートを切ることができました。が、ラグジュアリーブランド予算比3倍の報にまたも野党の一部が反発、「海外ブランドを集めてどこがクールジャパンなんだ!」と国会で攻撃されたと聞いております。中国をはじめアジア各国における商業施設の実態を知らない政治家ですから仕方ない。日本の百貨店がヨーロッパのラグジュアリーブランドを一斉導入できず海外店でこれまでどれだけ苦戦してきたかを知らない人たちに文句言われたくない、と私は申し上げたいですね。日本の生活文化を広めるためにはまず第一に館そのものに集客すること。日本の美味しい、優れものをいくら集めても、お客様が館に足を運ばなかったらなんの意味もありません。まずは集客、そのための必須条件は現地消費者にも人気絶大なラグジュアリーブランドを揃えること。集客さえあれば日本の生活文化を広めることはなんとかな流でしょう。上海や北京のような大都市でもない寧波には集客のためのラグジュアリーブランド導入がMUSTでした。デパ地下には系列のスーパーデパ地下の獺祭コーナー2015年椙岡さんは代表取締役会長を退任、2017年には相談役も退いて引退、いかなる団体や会社の役職に就くことなく2021年誤嚥性肺炎で亡くなりました。おそらく寧波阪急開店のことはご存知でも現地に足を運ばなかったと思います。私も2018年にクールジャパン機構社長を退任、寧波阪急のオープニングには参加していません。私は昨年末杭州セミナーの帰りに立ち寄って自分たちが投資した物件を見ることができました。いつまで年間予算以上の売上を寧波阪急が続けられるかは分かりませんが、ズラリ並んだラグジュアリーブランドショップにも、日本のキャラクターグッズや化粧品、食料品の展開にも安心しました。友人に勧められて親交が始まった同業百貨店経営者と、次に投資ファンド社長として共同出資して大型店を中国の地方都市に建てるなんて全く想像していませんでした。ウマが合ったので遠慮せずに中国進出の方向性を話すことがができて良かった、不思議なご縁です。wikipediaの椙岡俊一さんの項目にこんな表記があります。2000年3月初め、売上高の減少が3年続く厳しい局面で、松田英三郎社長から次期社長を指名された。松田によると、「変化に気がつく感性があり、百貨店の将来に対して夢を持っている人」という。前年6月に取締役から常務に昇格し、10月にうめだ本店長になったばかりだったが、5人抜きで椙岡の社長就任が決定した。百貨店は高質なニーズに対応する専門業態に移り、お客様全員に満足はあり得ないという持論を展開し、客層を絞り込んだ本店の売場改装も準備していた。経営改革を進めて、業界の勝ち組に名を連ねることを目指した。最初の2年間は抜本的な構造改革に着手し、2002年からは、いよいよ「今後のマーケットにどう向き合うか」という難題に取り込んだ。松田英三郎さんも椙岡俊一さんも同業大先輩ですが、ほんとにウマが合いました。武田肇さんも時々近況報告をLINEで送ってくれます。阪急百貨店の人々はグループ創業者の小林一三イズムの話になると妙に熱く語りますが、彼らの中に創業者の血が脈々と流れているんでしょう。いい会社です。
2024.09.01
中国から日本研修にやってきた27人との怒涛の1週間が終わり、今日は一息ついています。2月恒源祥本社にて。左:陳会長、右:齋藤孝浩さん昨年末杭州での中国アパレル経営者セミナーに参加した最大手ニットメーカー恒源祥の陳(リチャード・チン)会長から「あなたの話を社員にも聞かせたい」と社員研修の申し込みがあり、2月に2日間上海近郊の蘇州のホテルで社員研修をさせていただきました。その後陳会長から日本での研修の提案があり、6日間のプログラムを組みました。同社は国営企業時代も含めて歴史あるニットメーカー。欧米列強諸国の統治や日中戦争、国民党と共産党の対立混乱が続いたこともあり、中華人民共和国で100年続く企業は少ないと言われていますから、今年創業98年はレアな会社。グループ社員総数は4万人の巨大企業です。オリンピック中国選手団ユニホームやIOC(国際オリンピック委員会)幹部、聖火ランナーのウエアも提供しているオフィシャルサプライヤーでもあります。佐藤繊維佐藤社長が工場を案内しながらレクチャー佐藤繊維直営セレクトショップでお買い物も陳会長はパリオリンピック視察から上海に戻ってすぐ日本に。研修初日は山形県寒河江市の佐藤繊維工場見学。紡績からニット製造、自社ブランド販売まで行っている珍しい一貫工場です。佐藤正樹社長から差別化商品をどのように創作しているか、工場を見学しながらレクチャーを受けました。まるで織物のようなウールジャケットや家庭用洗濯機で丸洗いできるセーターに研修団は驚いていました。東京に入った翌日、午前中は私の講義。2月にマーチャンダイジングの研修を終えていますから、今回は東京で注目すべき小売店とビジネス形態を説明。午後は渋谷パルコの売り場を歩いたのち、同社元常務泉水隆さんから渋谷店改築時のブランド導入の考え方について具体的な説明がありました。渋谷パルコ2階beautiful people3日目はニットデザイナー村松啓市さんから、自身のブランドmuucを展開しながら彼が主宰する社会貢献プログラムAND WOOLの説明。この事業に陳会長は中国でも同じような社会貢献事業ができるのではないかと興味津々、さっそく村松さんに早い訪中を勧めました。村松啓市デザイナーからAND WOOLの説明新宿伊勢丹5階muucとAND WOOLポップアップその後スパイラル5階CALL(ミナペルホネン)を皮切りに、南青山ブティック街を視察。イッセイミヤケ8店舗、コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、ビューティフルピープル直営店のほか、編み物サークルも開く毛糸店ウォルナット東京にも足を伸ばしてリサーチ。ウォルナットではスタッフの丁寧な説明に耳を傾けていました。4日目はMAKUAKE視察後、EZUMIデザイナー江角泰敏さんのシーズンテーマ設定のプロセス講義とワークショップ。ロンドンのセントマーチン校で学んだ江角さんは学生時代に訓練されたテーマ設定のプロセス「Mind Map」を一緒にやってみましょうと面白い講義をしてくれました。江角泰敏デザイナーのワークショップ5日目は元部下だった堀田健一郎さんがヴィジュアルマーチャンダイジングの事例紹介、特に店頭とネットを繋げお客様とのタッチポイントをいかに魅力あるものにするかを話してもらいました。その後幹部だけ両国に移動して世界のトップブランドに特殊なニット糸を販売する丸安毛糸を訪問、岡崎博之社長らにオリジナル商品の説明をしていただきました。トップブランドが同社のニット糸を採用している理由に納得、陳会長から将来一緒に商品化したいと発言ありました。丸安毛糸ショールームにて中:丸安毛糸 岡崎社長、右:陳会長今回山形の工場見学にも都内ショップまわりも同行、私がお願いした講師のレクチャーにも付き合いました。陳会長とは東アジアファッションビジネス連携や企業経営の理念から、ものづくりに何が重要か、さらには新たな商品開発構想まで連日いろんな話をすることができました。昨年末私のセミナーを聞いてすぐアクション、2月社員研修と8月日本研修を実行するなど早い決断とすぐ行動する経営者ですから、帰国して日本素材での商品開発やデザイナーとのコラボ企画を進めるのではと期待しています。来月下旬には恒源祥創業98年記念イベントがあり、さっそく訪中を再び促されました。手ぶらでは行けないので、幹部に向けて中身のあるレクチャーの準備をしなければなりません。スピード感ある経営者と付き合うにはこちらもスピード感ある対応をしないと。中:陳会長、右:佐吉事業管理コンサル金代表昨年9月I.F.Iビジネススクール教え子である齋藤孝浩さんに佐吉事業管理コンサル金代表を紹介され、金さんが連れてきたアパレル経営者訪日研修団にセミナーをしたことから中国と私の関係が始まりました。12月杭州で経営者セミナー、2月恒源祥の幹部社員研修、4月佐吉コンサル主催訪日研修団の経営者たちにレクチャー、7月杭州で皆川明さんとのデザインセミナー、寧波の大手紳士服メーカーでの研修、そして今回の恒源祥日本研修と続きました。9月には上海で創業祭に参加予定、10月には三度目の訪日研修団セミナーがあり、11月も金さんから訪中を誘われています。たった1年で中国関係でこれだけいろんなことが起きました。中国経営者はとにかくやることがほんとにスピーディー、これは日本のファッション流通業界が学ぶべき点ではないでしょうか。セミナー終了後に「いいお話聞きました」と言うだけでは何も始まりませんから。
2024.08.25
昨年末と今年2月に続いて三度目の中国研修から戻りました。上海から杭州に入ってファッション企業幹部に丸1日、翌日ミナペルホネン皆川明さんの講演を聴いてから一緒に上海に移動。そして次の日は皆川さんと別れて上海の対岸にある寧波に。ここで中国最大手紳士服メーカーYOUNGOR(ヤンガー)創業者や経営幹部と会食、翌月曜日は午前と夕方の二部制で社員研修をさせてもらいました。ブランドDNA確立と継承が今回のテーマ最もDNAを継承しているブランド事例を説明過去2回の中国研修では主にマーチャンダイジングの基本的を中心に、ファッションをいかにロジカルに受け止め計画的に市場展開するか、言い換えれば「儲ける方法を共に考えましょう」でした。が、今回は直接的に儲ける話ではなく、ブランドビジネスの観念論、ブランドにとって重要な他社とは違うDNAをいかに作り上げことの重要性と、それを長く継承することの難しさが主題、果たして中国のビジネスマンに響くのかどうかちょっと心配でした。儲け話ではないのでしらけるのではないか、と。しかも2日目はデザイナーの皆川明さん、ご自身の展覧会で表明した「百年つづくブランド」を目指してどういう種まきをしているのか中国で話してくださいとお願いしたので、ミナペルホネンの成功体験でもなければ儲ける話でもありません。ところが意外や意外、会場の雰囲気からはセミナー参加者にはかなり響いたみたい、嬉しかったです。初日終盤の休憩時間中、ひとりの男性が通訳さん(同時通訳レベルで丁寧に解説してくださる方)に何やら長々と話していました。通訳さんに尋ねたら、いかに重要な話を聴いたか、自分はどれくらい感動したかを延々と感想を語ったとか。聴くうちに身体が熱くなり、将来が明るくなった気がする、と私も言われました。講演後参加者とのパーティーでも、ブランド経営者たちはやや興奮気味に感想を私に話してくれました。決して直接的な儲け話ではなかったのに。オリジナル素材を紹介しながら講演する皆川さん講演後皆川さんは多くの参加者から質問攻め地球環境を考え無駄なことはしない。余った生地はホームソーイング用に測り売り。織物工場が安心してものづくりできるよう何度も同じ技法の素材を発注するだけでなく、生産量と工場の空き具合を考えながら素材発注。アトリエのスタッフには刺繡にどれくらい時間とコストがかかったのかを報告させ、ものづくりのコスト意識を持たせる。生地の重量とコートの長さの両方のバランスからコートの最終デザインを決定する等々、ミナペルホネンのものづくりの姿勢を淡々と語る皆川さんの話、素晴らしかった。日本の一般アパレル経営者にも聴かせたいと思いました。私は「唯一無二」を連発、ブランドDNAは何もシャネルやクロエのようなデザイナー系ブランドに限ったことではなく一般アパレルメーカーにも必要なこと、それがないとブランドはお客様の信頼を徐々に失い、市場での存在感はどんどんなくなるという話をしました。米国GAPはどのタイミングから日本製デニムを使わなくなって低価格アジア製デニムに切り替えたか、それがどういう結果を招いたのかも詳しく話しました。一方、ユニクロは商品タグにわざわざ「カイハラデニム」を表記、それを使用している理由を消費者に訴求している。またユニクロはパリを代表するブランドと同じウールジャージーを起用していることも伝え、単純にコストカットしているわけではないと説明しました。ブランドDNAはデザイン、アイテム、色や柄の伝承などのではなく、ものづくりの精神性にあるとも説明、これが参加者のハートにそこそこ響いたようです。初日講演後参加者と記念撮影講演後、会場からすぐの場所で直営店舗を構えるブランド(経営者は集合写真で私の左)ショップを訪ねました。洋服をかけるハンガーの使い方に関して「どうして中国のブランドは服をこのように掛けるのが好きなんでしょう」と質問しました。トップスは普通にハンガー掛け、ボトムは長いフック(金具)をセットしてそれにハンガーを掛け、トップスの下にボトムがくるように並べる方法、個人的にはこの方法は反対、トップブランドの多くはこんな余計なことしていませんと説明。翌朝このショップを覗いたらハンガーラックにたくさんつけていた長いフックは全て撤収されていました。中国の人はアドバイスに納得したら即行動、そのスピード感はのんびり日本とは大違い。だから中国ではアドバイスのしがいがあります。全国オンライン参加もあったヤンガー者の社内研修寧波では日曜日にも関わらずヤンガー創業者や経営陣が出迎えてくれ、皆さんと楽しく会食しました。ちょうど今年は創業45年、私の講演午前の部と夕方の部の間に創業祭イベントが組み込まれていました。いまやグループ売上は2兆円の大企業、かつてアトリエサブの田中三郎さんら日本や欧米業界人が長く顧問としてアドバイスした会社だそうです。一代で2兆円規模に導いた創業者李如成さんのリーダーシップはさすが、「私の言うことは聞いてくれないので先生から話してもらいたい」と謙遜なさってましたが、でもどう見てもワンマン社長タイプ、彼の強烈なキャラクターが成長要因でしょう。ヤンガーでは午前の部でマーチャンダイジングの事例をお話しました。誰に、何を、どうのように、いくつ販売するのか仮説を立てて仕事しましょう。発注はギャンブルみたいなもの、リサーチを十分に行って思い切り大胆に発注すべき。ちまちました発注は機会ロスを生むだけ、しかも機内ロスの回数はカウントできない、コンピュータのデータにあがってこない。ファッションバイイングは一種のギャンブル、楽しまなきゃ。いつも日本で教えてきたことを会場150人、全国各地の営業所からオンライン参加も入れると300人の幹部が参加してくれました。午後の部は杭州セミナー同様「ブランドDNAの確立と継承」をテーマに講演。質疑応答にたっぷり時間をとって欲しい、私をヤンガーにつないでくれた中国コンサル企業からそう言われていたので話をコンパクトにまとめました。ところが、事前に聞いていた質疑応答はなくそのまま終演、ちょっと拍子抜けでした。オーナー社長の前で社員は下手な質問できないだろうと幹部が忖度して切り上げたのか、それともブランドDNAなんて観念論は最大手企業幹部には面白くなかったのかは不明です。杭州セミナー、寧波のヤンガー社員研修の結果はそのうち2つのプログラムを企画した佐吉事業コンサルティング社の金時光さんから連絡が来るでしょう。儲ける話でない中国でのセミナーが実際参加者にどのように受け止められたのか、本音の意見を知りたいです。
2024.07.27
大学を卒業して就職せずすぐに渡米、ずっとフリーランスのライターとしてニューヨークのデザイナー周辺を取材してきた私は日本の役所や役人とは全く無縁、仕事で顔を合わすことはありませんでした。米国商務省の「BUY AMERICAN」(米国製品を世界に売り込む事業)のお手伝いをしていた関係で米国商務省繊維部門マネージャーと数回面談したことはありましたが。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立に奔走、その事務局責任者になった直後に当時婦人服専門店チェーン最大手鈴屋の鈴木義雄社長の紹介でCFD事務局を訪ねてきた通商産業省繊維製品課渡辺光男課長(みつおの字が間違っているかもしれません)が初めて出会った中央官庁官僚。課長の要請でファッション関係の検討委員会に参加、そこから繊維製品課長やその上司である生活産業局長と面談するようになりました。ファッション繊維業界各団体の責任者らが名を連ねる検討委員会に初参加したとき、弱冠32歳でなおかつ帰国したばかりで日本の業界事情をよく知らない私が発言を許されたのは会議の最後の最後。それまでほかの委員の面白くもなんともない発言に疑問を感じながら、私は2時間じっと我慢して拝聴するしかありません。会議後渡辺課長に直談判、「発言の順番は年齢順なのでしょうか」と。委員会の構成メンバーに30代はおろか40代も見当たらず、ほとんどが50代後半か60代の協会理事長や組合長さんばかり、若輩者は最後の最後というのがどうにも我慢できません。座長が指名する順番ではなく、年齢に関係なく挙手制にしてもらえませんか、と生意気なことを申し上げました。そして次回からは挙手制、私にも早く順番が回ってくるようになりました。その次の次の課長が林康夫さん、のちに中小企業庁長官やJETRO理事長をされた方です。林課長はよくCFD事務局に足を運び、真摯に意見を聞いてくれました。CFDは役所の認可団体でもないみなし法人でしたが、どういうわけか何度も面談、「局長がデザイナー側の声をヒアリングする機会を設けましょう」と岡松壮三郎局長(のちの通商産業審議官、タフネゴシエイターとして日米構造協議で米国側と渡り合ったことで有名)とデザイナーの意見交換会までセットしてくれました。以来いまも年賀状のやり取りをさせてもらっています。林康夫さんCFDとほぼ同時期に東京商工会議所主導で設立された東京ファッション協会事務局メンバーから「通産省課長がわざわざ訪ねていくなんて考えられない。我々は役所に出向く、あんたたちは特別扱いなんだよ」とよくからかわれたものです。この頃繊維製品課は直近の「繊維ビジョン」(わが国繊維産業の方向性を策定した白書のようなもの)に盛られた「ワールド・ファッション・フェア」という大型イベント開催と「ファッション・コミュニティー・センター」という発信拠点を全国に建設する事業の具体化を進めていました。このとき大型イベントや拠点建設よりも人材育成を最優先すべきと私は発言、その流れでCFD事務局でボランティアの塾「月曜会」をスタートすることになったのです。月曜会の様子を見に来てくれた同課員らに当時区役所移転を計画していた墨田区商工部長を紹介され、私は「立派な仏壇を建設するよりもどんな仏様をそこに入れるかが重要でしょ、人材育成を柱にした施設を墨田区につくりませんか」と進言。そして墨田区にファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長だった松尾武幸さんを座長に議論開始、まとまったところで松屋の山中会長に理事長をお願いしてさらに議論を重ねました。言い出した自分が座長にならなかったのは、年齢が若過ぎるから。年功序列社会で若輩が座長では角が立つ、ここは恩師でもある松尾さんにお願いすれば丸く収まると墨田区部長に推薦しました。松尾さんとコルクルーム代表安達市三さんと三人で頻繁に集まり、カリキュラムの構想を練りました。しかし、不思議なことに墨田区戦略会議は解散、議論は通産省繊維製品課に移されて議論再開。このとき墨田区戦略会議メンバーで委員継続を頼まれたのは私一人、区役所レベルの案を国は採用しないという意思表示なんだろうと委員一同受け止めました。そこで、林課長の次の繊維製品課長に面会を申し込み、墨田区が考えた理事長案は却下しないで欲しい、でなければ自分は委員を引き受けないと長時間交渉、山中さんは理事長含みで委員になりました。理事長就任の際「俺のハシゴを外すなよ」と言われ、山中理事長が亡くなるまで私はフルに新設IFIビジネススクールで指導に当たりました。IFIビジネススクール夜間コース終了式、前列中央が山中理事長その後しばらくの間私は役所と完全に無縁に。民間企業2社を掛け持ちで超多忙、ビジネススクールの指導も難しくなり、誰が繊維製品課長や生活産業局長に就任したのか全く興味ありませんでした。それから4年後、ビジネススクール立ち上げでお世話になった業界人から社内中堅幹部研修の講師を頼まれ、そこでもう一人の講師だった繊維課(それまでの繊維製品課)山本健介課長と名刺交換、気がつけば山本さんに乗せられて中小繊維事業者自立支援事業の面接官や内閣官房のコンテンツ事業戦略会議(のちのクールジャパン事業)委員に。山本さんの「お手間取れせませんから」は真っ赤なウソ、目が痛くなるほど大量の申請書類を読むことになり、長時間事業者の面接に立ち会い、最後はコンテンツ会議で4年も委員をすることになりました。これがのちに官民投資ファンド株式会社クールジャパン機構に繋がります。ちょうどコンテンツ戦略会議の議論に加わった頃、繊維課長に宗像直子さんが就任、さっそく会食に誘われました。内閣官房コンテンツ戦略会議でどんな議論をしているのか、そして繊維課に期待することは何かのヒアリング。このとき数多い繊維関連の協会、団体の集約とCFDが担ってきた東京コレクションへの支援の話をしました。宗像さんはすぐに東京コレクションへの支援と新しい受け皿の設立に奔走、日本ファッションウイーク推進機構(馬場彰理事長・オンワード樫山会長)がスタート。この時点で私はCFDに代わる新たなファッションウイークには全くノータッチ、完全な部外者でした。宗像直子さん私がCFDで10年、後任議長久田直子さんの下でも10年CFD自主運営東京コレクションは続きましたが、資金的にそろそろ国の補助や大手企業の援助がなければコレクション運営は継続できそうにない状況でした。宗像さんの尽力で新たな組織が2005年に生まれ、東京コレクションは官民事業のファッションウイーク推進機構が主催者として運営するようになったのです。宗像さんのアパレルやテキスタイル業界への根回しがあったからこそ今日のRakuten Fashion Week Tokyoがあります。現在はRakuten Fashion Week Tokyoに FETICO@Rakuten Fashion Week Tokyo国が主導する事業ですから特定団体や特定のデザイナーだけを支援するわけにはいきません。CFD側からは会員デザイナーを優遇して欲しいという要望がありましたが、国の予算(当初3年間は国から補助金が出る約束)である以上CFD会員デザイナーだけ支援するわけにはいかない。結構ゴタゴタしました。ファッションウイーク推進機構実行委員長だったTSI会長三宅正彦さんから頼まれ、私は2006年10月第3回からコレクション担当理事を引き受け、再び東京コレクションに協力することになったのです。デザイナー有志と共に1985年に立ち上げた東京コレクション、これを新組織で大手アパレルの会長たちが一生懸命世話している様を見て自分が部外者のままでは申し訳ない、それが三宅さんの要請を引き受けた理由です。当然報酬ゼロ、推進機構会費は自腹、こうして18年間ファッションウイークをお手伝いし、若手デザイナー育成に力を注いできました。2011年私が松屋に復帰した直後に東北大震災、原発事故で電力不足、銀座の街は夜真っ暗に。このとき銀座の競合店三越銀座と共に銀座を元気にするファッションイベントを仕掛け、両店共同の銀座ファッションウイーク、そして歩行者天国での屋外ファッションイベントGINZA RUNWAYを企画。でも初の歩行者天国でのファッションショーは警視庁からなかなか許可が下りません。このとき警視庁に何度も掛け合ってくれ、最後は経済産業大臣の協力を引き出してくれたのが経産省に新設された生活文化創造産業課(クールジャパン)の渡辺哲也課長。松屋の販促課長と共に渡辺さんは警視庁に出向き、六法全書を見せながら「どこに歩行者天国でイベントをやってはいけないと書いてあるんですか」と交渉してくれ、それでも許可が下りないとなると経産大臣に相談して警視庁の許可を取り付けてくれました。渡辺哲也さん震災から1年後の2012年3月渡辺課長と課員たちの協力で歩行者天国初のファッションショーを開催。私は課長の計らいで経産大臣に会い「被災地のちびっ子と一緒に大臣もモデルとして参加しませんか」と申し上げ、フィナーレに東北被災地のちびっ子と大臣が手を繋いでランウェイを歩くショーが実現。その日の夕方全テレビ局がニュースで取り上げ、翌日全ての全国紙とジャパンタイムズが写真付きで1面掲載、大きな話題になりました。私自身もたくさん取材され、このことがのちの官民ファンド社長就任に関係します。歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYコンテンツ事業戦略会議の一員として4年間議論した政策は民主党政権下でも議論が継続され、自民党に政権交代した2013年国会でクールジャパン戦略を推進するため官民ファンド設立が可決されました。そのときは委員でもなんでもないので国会で新会社設立が決定とは全く知りませんでした。そして8月米国西海岸市場視察に出かけたちょうどその日、経産省商務情報政策局富田健介局長らが松屋の秋田正樹社長を訪ね、新設するクールジャパン機構社長に私を指名したいとびっくり仰天の話があったのです。富田局長は私をお役所の委員に引き摺り込んだ山本健介さんの同期、何人かの社長候補者に断られたのかもしれません、私は最後の頼みの綱だったのでしょう。松屋に復帰して楽しく仕事をしている上に投資の世界には全く興味なく、正直「なんで俺なの」でした。秋田社長は総理大臣の安倍さんとは祖父、父と三代続きの深い関係、秋田社長に頼みやすかったのかな。帰国して秋田社長と相談、会社として正式に引き受けることになりました。クールジャパン機構開所式のミナペルホネン2013年11月に発足したクールジャパン機構(正式には株式会社海外需要開拓支援機構)には経産省と財務省からそれぞれ数名出向、社長の私を補佐してくれました。5年間社長を務めましたが、任期の最後に経産省から出向してきた若い役人がユニークな熱血漢でした。ある事件があってその解決を先輩から引き継いだ新任はある日突然坊主頭で出社、どうしたのと訊ねたら「先方に誠意を見せるため頭丸めて交渉に行きました」。着任する前の事件、彼に責任はありませんが、自らの判断で坊主頭になって当事者を訪ねたのです。なかなかできることではありません。私が正式に社長退任を発表した夜、私は彼だけ連れて食事に出かけました。部下を坊主頭にさせてしまった上司として最後に美味しいものをご馳走せねばと思ったから。赤坂の寿司店から西麻布の居酒屋をハシゴ、たまたま2軒目に居合わせた前ヨウジヤマモト社長大塚昌平さんらと一緒にかなり盃が進みました。その佐伯徳彦さんは西海岸での勤務も経験し、今回の人事異動でなんとクールジャパン戦略及びファッション政策を所管する課長に就任。この熱血漢には課長在任中にクールジャパン関連事業が世界市場でしっかり旗を立てられるよう頑張って欲しいです。佐伯徳彦さんフリーランスで役所や役人には無縁だった私でしたが、気がつけば熱い官僚たちと共にファッションでもクールジャパンでも仕事する立場になっていました。クリエーションが重要な柔らか産業に従事しているのに不思議なもんです。
2024.07.09
明日7月7日は東京都知事選挙、今日お昼には銀座交差点で最有力の現職知事が街頭演説に。このあとこの場所に何人の候補者が最終日演説にくるのでしょうか。もう期日前投票を済ませたので私は演説を聞く予定はありませんが....。銀座通りと晴海通り交差点で正午頃撮影先日、数十年ぶりに井の頭線浜田山駅で下車、上京時に初めて住んだ駅周辺を歩きました。オフクロが下宿の大家さんにご挨拶しなければと一緒に上京、浜田山駅で下車した瞬間「桑名とあんまり変わらん景色やな」と。当時駅前には広いキャベツ畑があり、商店街は小さくとても大都会とは思えないのどかな景色でした。ここに支店があった第一勧業銀行の場所にはみずほ銀行がいまもありましたが、駅の真ん前にあった西友ストアは移転、そのほか駅の周辺にあった果物屋も書店も蕎麦屋も消えて懐かしさはゼロ、都会の住宅街ってこうもガラリ変わるもんですね。以前にも触れましたが、オフクロと一緒に浜田山駅に降りた日ショックなことがありました。オフクロを東京駅まで送り、改札を出ないまま中央線に乗って新宿まで戻り、京王線改札を通過しようとした瞬間京王電鉄駅員に止められました。切符を持っていなかったから。井の頭線明大前で乗り換えて京王線新宿駅改札を通過するとき、浜田山から新宿までの切符を改札で渡してそのまま中央線に乗り、東京駅改札を出ないでUターンしたので手元に切符はありません。中央線で東京駅まで行き、オフクロと別れてそのまま中央線で新宿駅まで来たので決して無賃乗車をしようと思ってはいないと状況説明したのですが、三重県の方言がうまく駅員に通じず、私は無賃乗車を疑われました。関西弁に伊勢言葉が混じった言葉が東京人には通じない、俺は田舎もんなんだ、とショックでした。以来、井の頭線明大前駅から京王線をつかって新宿駅で中央線など国鉄(現在のJR)に乗り換えるたび、どうしても緊張してしまい、都内で一番嫌いな駅は新宿、それはいまも変わりません。そんな思い出を振り返りつつ浜田山駅周辺を歩きました。なぜ浜田山が最初の居場所だったのか。それは同じ明治大学4年生だった従兄が浜田山の果物店に下宿していたので、私のために浜田山の書店を下宿先に選んでくれたから。浜田山から明治大学和泉校舎の明大前駅までは井の頭線で駅3つ、通学には便利、近くにいれば安心と選んでくれました。下宿のお隣の部屋は東京大学法学部の4年生、東京のことや学生生活などいろいろ教えてくれました。当時わが明治大学の授業料は年8万円、私立大学の中では安い方でした。ところが大学側が授業料を値上げすると噂があったようで、値上げ反対をとなえる一部の学生と学外の過激派が校舎にバリケードをつくってキャンパスを封鎖、私たちは入学して1カ月後に校舎に入れなくなりました。いまなら授業再開はネットで連絡できるでしょうが、当時は校門まで行って確かめるしか方法はなく、何度出かけてもずっと校門は封鎖、授業は年度末まで再開されませんでした。高校時代ほとんど勉強したことがなかったので、大学に入ったら真面目に経営学を勉強しようと上京しました。しかし1カ月後に学校封鎖で休講、「授業料返せ!」という思いのまま1年が過ぎました。オヤジに命じられて夜間はパターンメーキングの学校へ行けと言われて西新宿のオヤジが戦前学び、教えた紳士服専門学校に通い、夏休みにはパターンメーキングの個人教授から学び、大学での授業がない中でそれなりの学生生活でしたが。先日、ネットニュースで東京大学の学生が授業料値上げに反対して国会議員に訴えたと知りました。私たちの時代ならいきなりバリケードが立って学校封鎖、いまの学生さんは大人しく平和的でいいですね。日本は欧米の奨学金制度と違って本人が社会人になってから返済する仕組み、授業料が上がれば将来の返済負担額が増えますから反対も当然です。奨学金返済を返済ゼロに改革できないものでしょうか。もっと企業からの寄付を増やし、寄付は税務控除して利用者の負担をなくせばいいのにと思います。ネットで大学の授業料推移を調べたら、国立大学も私立大学も授業料はとんでもなく高くなっていたのでびっくり。私の場合、前述したように入学時点での授業料は8万円、卒業してから後輩たちは年20万円になり、現在は96万円です。安いはずだった国立大学、現在は一律ではなくそれぞれの大学で授業料を決めているようですが、当時3万円だったものが現在東京大学が約53万円、これをさらに10万円値上げするんですね。このところの円安物価上昇で授業料値上げは仕方ないにしても、いきなり10万円アップには文句も言いたくなるでしょう。米国の大学はものすごく高い。高校野球で活躍した花巻東の佐々木麟太郎くんが入学する名門スタンフォード大学の授業料は4年間で合計5千万円(円安で余計高くなってしまう)、年間1千万円以上ととんでもない額ですが、佐々木くんのように奨学金の恩恵を受けるとほぼ無償になります。日本の大学も授業料の値上げは仕方ないんでしょうが、同時に学生たちの負担を限りなくゼロにする奨学金制度の導入をマジに検討すべきではないでしょうか。でないと裕福な家庭でない限り大学進学できなくなるか、卒業後返済難民が増えてしまいます。日銀総裁が国債の引き受けを減らす記者会見をしたらまたもや外国為替相場は円安傾向に。しかも米国中央銀行IRSは当分金利を据え置く方向、この先も円安傾向は続くんでしょう。円安が続けば食糧もエネルギー資源も輸入に頼る日本の物価はさらに上昇、賃金アップをいくら政府が奨励してもこの物価高では実質賃金はマイナス、一般生活者の暮らしは一向に上向きになりません。そこへ大学授業料の大幅値上げとくれば、文句の1つも言わないと学生は気がすまない。我々の学生時代みたいに暴動や学校封鎖が起きないだけマシ、学生の気持ちはよくわかります。物価上昇、学費値上げ、奨学金制度が改善されないとただでさえ教育レベルが下がっている日本の将来はさらに危うくなります。日本の電機産業は今後外貨を稼げなくなる、その仮説のもと小泉政権下で議論が始まったクールジャパン戦略。そして自分がその事業関連の実務者になった2013年から、電機産業の次は自動車産業も危ういと申し上げてきました。その自動車産業、最近検査データの誤魔化しやデータ改竄の隠蔽、幹部への忖度がいろいろ露呈、本当に自動車産業は大丈夫なのかと心配です。さらに、自動車製造の新興国である中国が電気自動車を普及させ、いまや欧米各国政府が中国EV車に多額の関税をかけようとしています。明らかに欧米にとっても日本にとっても中国EV車は脅威になりました。中国は成長が期待できる分野に国の資金を集中、学問の世界でも政府がテコ入れする重点大学には手厚い支援を続けています。有能な人材を育て、成長の可能性生ある分野を支援し、国際競争力を強化する。我々が中国で多数目撃する中国製EV車は中国政府の国策の成果物そのもの、欧米の中国EV車に対する関税率引き上げは危機感の表れです。電機に代わる外貨の稼げる産業の育成をと始まったクールジャパン戦略の会議、重厚長大型産業から軽薄短小と言われた分野へのシフトが会議のひとつの柱でした。その柱を具体化するため、本当に成長が期待される分野での人材育成、資金投入が計画されましたが、果たして実際に計画は具体化されたのでしょうか。議論を重ねて一瞬動き出す気配はありましたが、クールジャパン戦略事業なるものが本気で強化され、人材育成プログラムを改善して期待した分野が世界市場で大暴れしたでしょうか。まだ不十分、これから本腰入れて集中的にバックアップしなければならないのではと思います。そのためには軽薄短小の扱いを受けてきた分野の教育制度の抜本的改革、特に教員資格のない実務者の教授抜擢、欧米並みの実践教育とインターン制度の導入、多くの若者が経済的負担のない状態で学べる奨学金の見直しが必要でしょう。明日の都知事選挙はどなたが当選するのかわかりませんが、当選者には物価の高い東京の大学で学ぶ地方出身者の経済的負担を少しでも軽くする支援策を本気で進めて欲しいものです。
2024.07.06
最近百貨店など商業施設でアパレルメーカーやブランド企業の幹部や営業・販促担当をとんと見かけなくなりました。本社のパソコンで在庫の状況や売上を把握できるから売り場を歩いて目視しなくてもよくなったからか、それとも以前より社内会議が増えたからか、理由はわかりませんが彼らと遭遇する場面はほとんどなくなりました。昔は大手アパレル取締役営業本部長クラスが数人の部下を連れて売り場を歩く姿をよく見かけたものですが。かつて経営トップの中には本社にスタッフの姿がないと「どこ行ったんだ」と不安で怒鳴る人は少なくなかったんですが、私は逆に自分のデスクに座っている社員を見ると不安になり、「時間があったら売り場に行けっ!」とよく言ったものです。加えて、「売り場で売上だけ販売スタッフに聞くのはダメ」「どんなお客様に、どのような商品が売れているのか、どういう買い方をなさるお客様が多いのかを聞いてこい」とうるさく言いました。早くも春夏物セールがはじまり週末はどこも賑わっています洋服ブランドをお求めになるお客様には、トップスとボトムを組み合わせて購入なさる方もいれば、色違いの同じデザインのものを複数枚お求めになる方や、トップスであれボトムであれ1枚だけ購入される方など十人十色、どういう買い方をなさるお客様が増えているのかを知っているのは店頭スタッフですから売り場で彼らにヒアリングするよう本社スタッフに求めました。商業施設の側の本部社員や幹部も同じ。売り場を歩いていると頻繁に顔を合わす経営者もいれば、売り場で一度も見かけたことのない経営者もいます。後者のような会社を私は信用していません。長く懇意に付き合ってくださった「百貨店経営の神様」山中鏆社長(I.F.I.ビジネススクール初代理事長兼学長)は開店時間直後の百貨店売り場を歩くため秘書に午前中アポを入れないよう命じていましたし、売り場を歩くためにゴム底シューズを履いていました。売り場歩きを大事にした山中さん山中さんは売り場でベンダーの販売スタッフや百貨店売り場担当にいくつか質問したり気がついたことをアドバイスしてその場を立ち去ると、壁や柱の陰に隠れている責任者が社長がその場でどんな発言をしたのか販売スタッフらに聞く。その行動がわかっているから、「販売スタッフにあれこれ言っておくと柱の陰にいた部課長に伝わるんだよ」、山中さんは笑いながらおっしゃってました。さすが「神様」、よく売り場を歩きました。いまや世界的に有名なラグジュアリーブランドのオーナー経営者、来日するとき売り場をよく歩くのでシューズは自社グループブランド革底靴ではなく、歩きやすいゴム底と聞いています。この経営者が売り場で指摘した点を次回来日するまでに修正、改装していないとジャパン社トップの首が飛ぶという噂があるくらい売り場を重要視している経営者なのでしょう。数年前の夕方、山中さんの出身百貨店である新宿伊勢丹の視察に行くと、当時のO社長からたびたび呼び止められ、ときには「お買い上げありがとうございます」と背後から声をかけられましたが、百貨店経営者は開店時間直後か混雑する夕方のいずれかは絶対に基幹店売り場を歩くべき、売り場で経営者を見かけない百貨店はろくでもない。私はいまもそう信じています。ニューヨーク時代に米国式マーチャンダイジングの極意を習得しようと連日売り場を歩いた私、ブルーミングデールズやサックスフィフスアベニューなどで頻繁に遭遇する日本人がいました。あの頃伊勢丹現地オフィスのコーディネイターをしていたS女史と、海外ブランドをどの百貨店よりも多く輸入していた西武百貨店のK駐在員、このお二人とは何度も売り場で顔を合わせました。Sさんはニューヨークをたたんで帰国するという噂が日本に流れてきたので、山中理事長とI.F.I.ビジネススクールの講師要請しようと帰国を促したことがあります。結果的に私と同じ職場で数年間働き、彼女は再びニューヨークに戻りました。西武百貨店Kさんは帰国後ラルフローレンやトミーフィルフィガーの日本法人社長を務めた人、残念ながら早く亡くなりました。この二人とニューヨークの売り場でよく遭遇したことは懐かしい思い出であり、私の青春時代の象徴的シーンです。私は10年間ブランド企業の経営者として本社の部下たちを連れてよく売り場を歩き、売り場における定数定量の問題点やマネキンの洋服の飾り方改善を口酸っぱく言い続けました。みんなかなりの年少で肉体的には私より相当勝っているはずなのに、連れて歩くと必ず私より歩くのは遅いし先にバテるんです。売り場を頻繁に歩いていない証明です。でも、一生懸命何かを吸収しようとハーハー言いながら私に付き合ってくれたものです。VPのお手本として感心するブランド(上)コムデギャルソン (下)マックスマーラしかしながら、近年売り場でアパレル本社の人間を見かけなくなりました。だからでしょうか、多くのブランドショップのVP、VMDは無茶苦茶、お客様に魅力的な飾り方をして足を止めるべきなのにこんなに汚いマネキンなら飾らない方がマシじゃないかと言いたくなる場面が増えました。はっきり言って売り場はどこも荒れていますね。ビジネススクールはじめ各種教育機関の授業でも、個別企業の社内MD研修でも、これまで売り場視察の具体的方法やマーチャンダイジングの基本、VMDの重要性を多くの人に伝授してきましたが、残念ながら近年売り場は乱れに乱れています。ファッションビジネスの中心が店頭販売からオンラインに移行しているからでしょうか。だからいま一度業界の責任者に申し上げたい。自ら売り場を歩いて、自社がどんなに酷い売り場運営をしているのか、ご自分の目で確かめてみては、と。もっと売り場を歩きましょうよ。
2024.06.29
「小売の神様」とも称されたミッキー・ドレクスラーさんがGAPグループ社長時代のこと。私は百貨店の若手社員を「バイヤーゼミ」で毎週教え、彼らを引率して毎年秋にはニューヨーク研修をしておりました。1990年代の何年だったかは忘れましたが、マンハッタン西57丁目にあった売り場面積100坪ほどのGAP店の開店時間前に開けてもらって店長にレクチャーをお願いしたことがあります。店長のレクチャーがあまりに素晴らしかったので、私は本社の大幹部に「優秀な店長でした」とお礼のメールを送ったところ、その直後に若い女性店長はサンフランシスコ本社に抜擢異動したと現地の友人から聞きました。当時のGAPは商品もVMDもプロモーションも素敵でしたが、マネジメントの行動も実にスピーディー、さすがリーディングカンパニーと感心したものです。なぜ米国のGAPグループ大幹部に知り合いがいたかといえば、GAPが数寄屋橋阪急に日本1号店をオープンした当時日本企業との間で商標権侵害の裁判係争中、私はGAP側の弁護士に頼まれて米国GAPを擁護する証人になっていたからです。渋谷公園通りに日本初の路面直営店をオープンしたとき、その大幹部が来日、私はディナーを共にしたことがあったのです。あの頃のGAPにはものすごく勢いがありましたし、特に上級ブランドBANANA REPUBLICはカタログもウインドーもカッコよく、業界トレンドカラーの主流を意図的に外してわが道を行く商品企画の姿勢は脱帽ものでした。なのでニューヨーク研修時には必ずGAPとBANANA REPUBLIC、低価格ブランドのOLD NAVYの店舗まで視察、百貨店大改装の参考にさせてもらいました。業界全体のトレンドカラーのメインがグレー、差し色がレッドだったシーズン、ニューヨークの百貨店やファッションストア、ブランド直営店の店頭やウインドーはどこも濃淡グレーに差し色レッドをズラリ並べたのに対して、BANANA REPUBLICはカーキを前面に打ち出し、ウインドー、カタログ、雑誌広告、バス停留所パネルやバス車体の宣伝もすべてカーキ、これは圧巻でした。恐らくあのシーズンあたりがGAPグループが最も光り輝いていた時代ではないでしょうか。ストア視察時には商品や陳列だけでなくグループ各店舗の什器、試着室、承りカウンター、ショップ外壁デザインまでしっかり見させてもらい、米国高級百貨店よりもヒントがいっぱいでした。しかし、ドレクスラー社長が退任してから徐々にグループの空気は変化しました。商品の素材はクオリティーが悪くなり(かつて日本製デニムを大量に起用していたのに安価な中国製にシフト、日本製デニムは使わなくなりました)、VMDはだんだん雑になり、シーズンの早い時期からセールを大々的にアピール、消費者の価格への信頼は薄れ、郊外のショッピングモールの店舗は規模縮小や撤退続き、カーキを堂々と打ち出していた頃と同じ会社とは思えない様相になりました。米国で強化している低価格ゾーンOLD NAVYは早々と日本市場から撤退、渋谷、原宿、銀座にあったGAPの大型路面店は次々退店してしまい、シーズンを追うごとにGAPグループの日本市場での存在感は薄くなりました。日本でも米国でも、毎シーズン早いタイミングで値引告知ボードを店頭入口に掲げているのは正直言って情けないと思います。今日、定番チノパンが欲しくて久しぶりにBANANA REPUBLICで買い物しました。本来お客様で賑わうはずの週末、広い店舗に買い物客はごく少数、販売スタッフの数も少なく、いくつもあるフィッティングルームは空きだらけ、なんとも痛々しい光景でした。かつてはチノパンであれデニムであれ展開している全サイズをピシッと棚に陳列していましたが、サイズ28が1本、サイズ29が0本、サイズ30が2本、サイズ31は0本、サイズ32は3本、サイズ33が1本とチグハグな品出し。店頭になかったサイズを言ったらスタッフがストックから出してくれましたが、少ない販売スタッフで回しているのであれば、在庫のあるサイズは全出し整理陳列すべきでしょう。こういう細かな点が全盛期とは違います。ただし販売スタッフは親切でしたが。米国出張するたびにいろいろ学ばせてもらった私にとって「先生」のような企業が、目に見えて衰退傾向にあり、しかもやるべき仕事が店頭にちゃんと伝わっていない、なんとも寂しい限りです。人影の少ない週末の店頭、品出しのなんとも情けない状況を見て思いました。この調子のままならば、日本を早期撤退したOLD NAVYのようにBANANA REPUBLICも近未来日本市場から消えてしまうのではないか、と。大学卒業して渡米し、アメリカ生活をはじめて最初に購入した思い出の服はGAPです。ホリゾンタルストライプのポロシャツ2枚とコーデュロイパンツ1本、3点で50ドルに満たない金額だったので感動したことを覚えています。日本上陸時に商標裁判の証人として支援した会社でもあり、米国出張時はお手本としてたくさんヒントをもらったグループでもあります。マーチャンダイジングとものづくりの基本に立ち返り、往時の店頭管理をもう一度思い出し、当たり前のことを当たり前にする企業に戻って欲しいです。
2024.06.22
私の生まれ故郷は三重県最北の桑名、歌川広重の東海道五十三次に描かれた歴史ある港町です。江戸時代東海道は参勤交代やお伊勢参りで利用される日本の大動脈でしたが、江戸から41番目の宮(名古屋市の熱田)と42番目の桑名の間だけは船に乗って渡るしか方法はありませんでした。伊勢湾にそそぐ木曽川、長良川、揖斐川の大きな三川で遮断されていたので静岡の大井川のようにはいきません。歌川広重が描いた桑名宿想像するに、雨が降ったり強風が吹いたら名古屋と桑名間の船は運行できず、桑名港で足止めくらった旅人たちは地元でとれる蛤を焼いてもらって恐らく船が出るまでチビチビやっていたのでしょう。「その手はくわなの焼き蛤」というフレーズはきっと東西からの旅人が広めたと思われます。江戸初期は関西方面の反幕分子への備えもあって徳川四天王の一人本多忠勝が初代桑名藩主に任命されました。桑名と陸路を結ぶ彦根の初代藩主は同じ四天王の井伊直政(人事異動の多かった中で井伊家は幕末までずっと彦根藩主)ですから、幕府は豊臣方の残党を非常に気にしていたのでしょう。桑名藩主はその後本多家から松平家に引き継がれ、幕末の藩主松平定敬(さだあき。最後の京都所司代)が実兄松平容保(かたもり。京都守護職)と共に薩長の官軍に抵抗、両藩の武士は新撰組土方歳三と共にに函館五稜郭で最後まで戦いました。悪く言えば、時代の流れを読めなかった殿様のおかげで多数の藩士が命を落としました。学生時代、私は地元選出の衆議院議員木村俊夫さん(佐藤栄作内閣で官房長官、田中角栄内閣で外務大臣を務めた政治家)と対談したことがあります。そのとき木村さんから「太田くん、明治以降桑名の人間は政府に登用されたことはないんだよ」と教わりました。木村さんは運輸省官僚時代の上司が長州の佐藤栄作さんだった関係で佐藤さんに閣僚重用されましたが、それまでは会津藩、桑名藩出身者は中央政府で冷遇されていたようです。養老町にある平田靫負像私は小学6年生の文集「最も尊敬する人」で、江戸中期の薩摩藩家老だった平田靫負(ゆきえ)の名をあげました。宝暦3年(1753年)幕府の命令で薩摩藩は木曽三川の治水工事を無理やり担当させられ、平田靫負はその普請奉行として現場を指揮、難工事で莫大な費用がかかり、多数の死者が出たことの責任をとって工事完成時点で切腹した(病死説もありますが)と郷土史で習いました。多額の工事費のために薩摩の人々は苦しい思いをした、平田は藩主に切腹をもって詫びたかったと教わりました。だから私にとって尊敬できる人は平田靱負なのです。いまも桑名には宝暦の治水工事で命を落とした薩摩義士を祀る海蔵寺があり、平田靫負の像もここにあります。近隣の養老町にも平田の像があり、私たちは学校の社会見学で訪れたことがあります。桑名の住人は江戸時代から今日まで宝暦の治水工事をしてくれた薩摩藩の恩を忘れていませんが、不幸にも幕末に藩主が京都所司代だったこともあって桑名藩士は戊辰戦争の最後の最後まで薩長軍と戦うことになってしまったのです。昭和13年に建立された治水神社さて、私の母校桑名市立光風中学校のすぐ裏には桑名市庁舎があります。現市長はわが桑名高校の後輩である伊藤徳宇(なるたか)さん。現在は桑名市民でもないのに、私は東京でも桑名でもたまに伊藤さんと会食することがあります。なぜなら不思議なご縁があるからです。桑名市長伊藤徳宇さん伊藤さんは桑名高校を卒業して早稲田大学政経学部に進学、フジテレビに就職。テレビ局では番組編成や報道部門ではなく営業部門に配属されましたが、5年後故郷に貢献したいと上司に辞表を出し、生まれ故郷にUターンしました。2006年に桑名市議会議員選挙立候補、初陣ながら当選して市議会議員を務めます。が、市議会議員の権限に限界を感じた伊藤青年は市議会議員を辞め2008年の桑名市長選挙に立候補。現職水谷元市長(1996年から2012年まで市長を務める)の壁は厚く、伊藤さんは選挙に破れて職を失いました。落選後は名古屋の生命保険会社に一時的に勤務したのち2010年再び桑名市議会議員に復帰、そして2012年再び現職水谷市長に挑戦、今度は見事に当選を果たしました。ちなみに17年間桑名市長の座にあった水谷元さんは桑名高校で私の2年後輩、しかも彼の義兄は私の祖母方の親戚であり、私の弟の結婚式では媒酌人をお願いした関係です。ずいぶん前に故郷を離れた私は、水谷元さんが長く市長であったことも、フジテレビを退職した伊藤さんがベテラン市長に勝ったことも知りませんでした。しかしながら、不思議なご縁があるのです。私の幼稚園時代からの友人中澤康哉くんは地元桑名信用金庫理事長であり、最近まで桑名商工会議所会頭でした。私がクールジャパン機構社長に就任した直後、中澤くんから「今度市長と一緒に東京に行くので紹介したい」と連絡がありました。中澤くんが連れてきた市長は30代、わが故郷にもこんなに若い市長が登場したのかと驚きました。が、もっと驚いたのは、伊藤さんが辞表を出したフジテレビの上司はなんと私のパートナーであるクールジャパン機構飯島一暢会長(サンケイビル社長)、これにはもっとびっくりでした。松屋銀座内のカフェで面談して別れてすぐ、ちょうど買い物にいらっしゃった飯島さんに松屋1階で遭遇、「さっきまで桑名の伊藤市長とお茶してました」と言うと、「伊藤はやっと市長になれたんですか、良かった。落選して職を失って奥さんは苦労したんですよ」。飯島さんは元部下が市長選に落選したことはご存知でも当選したことはご存知なかった。次回上京の際は3人で会食しましょうとなりました。ここから故郷の市長との交流が始まったのです。桑名には全国的に有名なすき焼きの「柿安」(デパ地下の柿安ダイニングで知名度高い)、蛤料亭の「日の出」もあり、うどん屋「歌行燈」は近隣県からのお客様でいつも賑わっています。最近は地元のタケノコが名産品だそうですが、桑名は肉も魚も格別美味しい場所。長島温泉(織田信長が一向宗徒を制圧するため島ごと焼き払ったことで有名な長島にある一大レジャーランド)もあれば、大型アウトレットパークもあります。しかし観光地としての魅力にいまひとつ欠けるのです。伊藤市長は桑名の魅力をもっと外に向けて発信したい、近年急増するインバウンド客も取り込みたい、とクールジャパン事業に携わる私を市のアドバイザーにしてセミナーを開催しました。年に一度は関東圏に住む桑名ゆかりの人間を集めた懇親会を都内で開いています。毎月市役所からは市民便りのような冊子が届き、めったに故郷に帰らない私たちに桑名情報を届けてくれます。故郷を離れて半世紀、でもこの冊子のおかげで故郷は身近な存在となりました。ZUMAドバイ店数年前帰省したとき、伊藤さんから紹介したい人物がいると出産のため帰国中のアラブ首長国連邦ドバイの高級レストランZUMA(ズーマ)の日本酒ソムリエと会食しました。ZUMAはロンドン在住の日本大好き英国人がロンドンでおしゃれな居酒屋を開業、香港、シンガポール、ニューヨークなどにも支店がある有名店。ロンドン1号店開業直後私は英国人オーナーと会い、当時社長をしていたアパレル企業の服を受付係のユニフォーム用に数セットプレゼントしたことがありました。また、クールジャパン機構の出資先候補のリサーチのためドバイ店を訪ねたこともあり、私には馴染のお店なのです。ドバイZUMAで働く女性ソムリエは市長の実家のご近所なので紹介されました。女性ソムリエは「飲んでいただきたい日本酒があります」と私たちにZUMAオリジナル日本酒をプレゼン。なんとそのオリジナル酒は和歌山県九重雑賀のもの。九重雑賀はお酢で有名な会社、上質なお酢を生産するために自社の田んぼで有機米を栽培、それから純米酒をつくって酒粕を活用してお酢をつくる一貫生産の超真面目な会社、私も醸造現場を視察したことがあります。彼女は九重雑賀のものづくりにこだわる姿勢に惚れ込み、ZUMAオリジナル純米酒を委託したと聞きました。赤酢が美味い九重雑賀HPより開業時にユニフォームをプレゼントしたお店、そのドバイ支店のソムリエが同郷、しかもプレゼンされた純米酒は前職クールジャパン機構時代に工場見学したお酢メーカー醸造と何から何までつながっていたのです。不思議なご縁の市長からこれまた不思議なご縁をいただきました。世間は狭いと言いますが、ほんとに狭いなあと思います。私の仕事のパートナーに辞表を出して故郷にÙターンした若者、すでに市長3期目ですが47歳とまだまだ若い。この先県知事なり国会議員に打って出る日が来るのか来ないのか私にはわかりませんが、伊藤さんにはわが故郷の発展にもっと尽力して欲しいと願っています。できれば広重の東海道五十三次にあるように港のそばにお城を再建したら観光客を取り込めるのに....。
2024.06.08
数日前I.F.I.ビジネススクールの教え子で「ユニクロ対ZARA」の著者齊藤孝浩さんと会食、テキスタイルデザイナー須藤玲子さんが出演したテレビ東京の番組「新美の巨人たち」のDVDを託しました。齋藤さんは中国アパレル関係者にセミナーのため杭州に出張予定があり、セミナー主催者の佐吉事業コンサルティング代表金時光(アーロン・ジン)さんに手渡ししてもらうためです。今年3月金さんが来日した際、私は六本木AXIS地下にあるショップNUNOを案内、須藤さんが創作したテキスタイルの数々を見せながら、前職クールジャパン機構のオフィス応接室のカーテンやクッションなどをなぜ須藤さんデザインにしたのかを説明しました。そして、この秋に金さんチームが予定している中国アパレル経営者たちの訪日研修ツアー第2弾ではぜひ須藤さんのレクチャーをお願いしようとなりました。その事前資料として須藤さん出演のテレビ番組DVDを届けました。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での「須藤玲子:NUNOの布づくり」展中国アパレル経営者は売上至上主義者だけではありません。もっと魅力的な商品を作りたいという人もいれば、上質な素材を日本から調達したいと考える経営者もいます。私がよくセミナーでお話する「ブランドDNA」に真剣に耳を傾け、自分たちの仕事に何が欠けているかを自問自答する経営者は少なくありません。そういう経営者にテキスタイルの差別化、特徴ある独自のテキスタイルをつくることの大切さを説いてきました。単純にNUNOのテキスタイルを起用しましょうとは言いません、日本には優れたテキスタイルのプロがたくさん存在することを中国の関係者に伝えたいのです。金さんチームが企画した4月の訪日研修ツアーでは、独特の世界観のテキスタイルを多く開発してきたミナペルホネン皆川明さんに講演してもらいました。皆川さんがどういう思いで日本のテキスタイルメーカーや布づくりの職人さんたちと仕事をしてきたのか、どういうプロセスでテキスタイルを作り上げているのかを話してもらいましたが、参加した経営者たちは皆川さんの話に共感、通常のセミナーよりたくさん質問がありました。その夜品川の居酒屋で参加者たちと会食したときも、彼らは皆川さんの講演のことを興奮気味に話してくれました。4月の訪日研修ツアーで好評だった皆川明さんの講演コロナウイルス以前も私はこうした中国業界関係者向けセミナーを何度もさせてもらいましたが、このときも彼らが日本のテキスタイルに関心が高いことを実感しました。あるツアーでは、本郷のセミナー会場から団体バスで銀座方面に移動する途中、婦人服アパレル女性経営者に「どこに行けば日本のテキスタイルサプライヤーの情報を得られるのでしょうか」と質問されました。ちょうど有楽町国際フォーラム前を通過するとき「現在こちらでプレミアムテキスタイル展を開催している。入場パスを差し上げますから、時間あればこれを持って視察してください」と私のパスを渡したこともありました。国際フォーラムでのプレミアムテキスタイル展上海のテキスタイル見本市には毎シーズン日本のメーカーがブースを出してはいますが、婦人服アパレルが集積する杭州や広州のメーカー関係者には情報が行き届いていないのかもしれません。聞くところによれば見本市では現地アパレルメーカーよりテキスタイルメーカーにサンプル生地の注文を受けることが少なくないようですから、日本のテキスタイル情報をアパレルブランド関係者に訴求する仕組みを考えた方がいいかもしれません。昨晩、金さんからWeChatメッセージが入りました。杭州に入ったばかりの齋藤さんと同行者の金田有弘さん(同じくI.F.I.受講者の元ワールド)と会食する写真が添付されていました。今日から2日間、二人は中国アパレル業界人に現地セミナーをします。昨年12月杭州でのセミナー齋藤さん経由で佐吉事業コンサルティング主催訪日研修団にセミナーをしたのが昨年9月。このとき金さんから中国での講演を依頼され、12月杭州を初めて訪問しました。ここで中国アパレル経営者から社内研修を頼まれ、上海と広州でそれぞれ研修したのが2月。さらに4月には訪日研修ツアー参加の経営者に再びセミナーを。来月には再び杭州に出張、今度はマーチャンダイジングではなくブランドビジネスの問題点と解決策を講演することになっています。加えて、佐吉事業コンサルティングからはさらに2つ日本における研修プログラムの組み立てを頼まれています。1つは2月に社内研修をしたばかりの大手アパレルの日本研修、いまひとつは今年の訪日経営者研修ツアー第2弾です。前者が8月お盆明け、後者は9月中旬開催予定。大手アパレル社員研修では、上海から東京経由でそのまま地方都市入り、産地の繊維メーカーの見学から始めます。他社とは違うものづくりをどうのように進めているのか、糸から製品までの一貫工場でなぜ自社ブランド事業を推進しているのか、やり手社長からものづくりの過程を見せてもらいながら教わるプログラム。工場見学後東京に移動、翌日はユニークな活動をしているデザイナーや若者文化を牽引してきた企業元幹部ら数名の講師にレクチャーをお願いしました。最後に日本研修の総括を私自身が担当します。経営者研修第2弾では前述須藤玲子さんの講演とNUNO店舗視察をはじめ、かつて対談したことあるデザイナーや店頭展開の創意工夫を奨励するプロの事例研究、ブランドショップの視察などを計画。現在金さんらに代わって交渉しています。2月上海でのセミナーかつて日本で量販店がまだ整備されていなかった時代、多くのスーパーマーケット経営者は米国流通業に詳しい大学教授らに連れられ米国市場を歩き、米国企業からマーチャンダイジングやサプライチェーンマネジメントを学び、自分たちの小さな店を大きな量販店チェーンに伸ばした例がいくつもあります。日本のGMSもコンビニも元々は米国研修で学んだ当時の若き経営者らのやる気が実を結んだものでしょうが、日本流通業界の黎明期の意欲と同じものを現在の中国アパレル経営者に感じます。いま中国のアパレル業界人の勉強熱心な姿勢を目の当たりすると、流通業の先駆者たちのイメージがダブるのです。昨年9月以降、中国でも日本でも中国業界関係者に向けたマーチャンダイジングやブランド戦略の研修がコンスタントに続いています。現時点でパリコレで世界のファッショントレンドを左右しそうな中国デザイナーはまだ登場していませんが、近未来はきっと70年代のケンゾーやイッセイミヤケ、80年代のコムデギャルソンやヨウジヤマモトのようなブランドが中国から登場するはずと信じレクチャーしています。ニューヨーク出張のたび私はパーソンズデザイン学校で何回も特別講義をしましたが、クラスの大半は中国、台湾、韓国などアジア系学生でした。だからでしょう、20世紀末から今日までアナスイにはじまり、ヴィヴィアンタム、デレックラム、フィリップリム、アレキサンダーワン、ジェイソンウーなど中国系デザイナーがニューヨークコレクションで大活躍。ロンドンのセントマーチンはじめヨーロッパのファッションスクールもパーソンズ同様留学生の多くはアジア系です。彼らをサポートする、クリエーションを受け止めることができる経営者や投資家が増えたら、中国人スターデザイナーがパリコレで脚光を浴びることはありえる話でしょう。日本で活躍する中国人デザイナーブランドVIVIANO6,7年前広州で齋藤さんのセミナーに参加していた経営者のひとりは、現在急成長中企業として注目されているSHEINの創業者。売上規模を誇るSHEINのような大企業の誕生も重要でしょうが、世界からクリエーションで一目置かれる中国ブランドの誕生も重要なことだと思います。それに向けてやる気のある現地経営者にはものづくりとクリエーションの探究をしつこく説きたいです。
2024.06.01
シャープがテレビ向けの液晶パネル工場「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」(堺市)の生産を停止することが14日、わかった。同社の液晶事業は市況の低迷によって赤字が続いており、中国勢との競争が厳しいテレビ向けの大型パネルの生産をやめることで、収益を改善する狙いがある。同日午後に開く会見で発表する。SDPは国内でテレビ用の液晶パネルを生産する唯一の工場で、稼働を停止すると国内生産はゼロになる。(産経新聞から抜粋)数日前のショッキングなニュース、ついにこの日が来てしまいました。小泉政権後半の2004年、ひょんなことから内閣府の知的財産本部におかれたコンテンツ専門調査会、日本ブランドワーキンググループの専門委員になったとき、担当役人から「近い将来日本は電気製品で外貨を稼げなくなる」と説明がありました。当時はシャープ亀山工場で生産された液晶テレビAQUOS亀山モデルがトップブランドとして全盛期、近未来日本の電気製品は競争力がなくなると聞いても、そんなバカなと正直ピンと来ませんでした。三重県亀山工場では需要を満たすことができないとシャープは堺市にも大きな液晶工場を建設、AQUOS増産にチャレンジしました。しかしながらAQUOSは急速にブランド力を失っていき、気がついたら会社ごと台湾メーカーに買収されました。一世を風靡した亀山ブランドは工場閉鎖とともに消滅、最後の液晶パネル製造拠点だった堺工場もついに閉鎖が決定、日本から液晶パネルの製造が消えることに。内閣府担当役員の見立て通りになりました。シャープ液晶テレビの地盤沈下が始まった頃から世界の主要ホテルの部屋にある大型テレビはサムソン、L Gの韓国勢が主役になり、ビックカメラなど家電店のテレビ売り場にはハイセンスなど中国メーカーの超大型テレビが並ぶようになりました。日本の多くの電機メーカーが手掛けていた携帯電話もスマホ時代になると一気に市場競争力を失い、日本ブランドの存在感はないに等しい様相に。ノートブックPCもしかり、N社、F社、T社、SH社の陰はどんどん薄くなり、S社はPC事業部をさっさと身売りしました。ウォークマンが世界で大流行、世界中で若者が日本製大型ラジカセを肩に乗せて歩くことが街のトレンドだった時代もありました。ビデオカセットもテレビ受像機も日本製は高品質として重宝された時代もありました。しかしデジタル社会になると日本のエレクトロニクスは主役の座から滑り落ち、事業縮小や事業部門の売却、会社ごと身売りや上場廃止と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は儚く短い夢で終わりました。早くから日本製エレクトロニクスの衰退を予測していた役所や知識人は、ハードウエアに代わる日本製商品としてソフトウエア産業に着目、ジャパンコンテンツを世界に広めるために知的財産本部にコンテンツ戦略会議を設置して議論を開始したのです。今日久しぶりにその知的財産本部コンテンツ専門調査会の古い議事録をネット検索、いま一度当時の委員会のやりとりを読み返しました。委員会は2003年にスタート、最初はマンガ、アニメ、ゲームソフトや映画などコンテンツ分野で議論が始まり、途中からファッション、食と地域ブランドが議論の対象に加えられ、私も2004年から参加させてもらいました。パリ恒例のJAPAN EXPO当時の議事録にはまだ「クールジャパン」の文字はありません。すべてが「コンテンツ」ひとくくりに扱われ、それぞれの分野の専門家が自分たちの領域の課題や将来性を論じていました。このときファッションの世界のみならず、最も重要なのは人材育成ではないか、そのための教育制度を是正すべきと議事録に自分の発言が記載されていました。思い返せばあの頃そんなこと言ってたなあ。マンガ、アニメ、ファッション、食の領域では長らく大学設置が認められず、それぞれ専門学校で教育するしか道はありませんでした。音楽の世界でも、クラシック音楽は芸術大学や音楽大学で教育されてはいましたが、ロックンロールやジャズとなると専門学校任せ、ロックシンガーやドラマーを目指す若者は大学の選択肢はなく専門学校に通うしか道はありませんでした。政府内での様々な議論の末、制度改革が進んでいまではファッションデザインやマーチャンダイジングを学べる4年制専門職大学が認可され、かつて専門学校法人が運営してきた女子大学から「女子」の文字が消えて男子学生も進学できるようになりました。個人的な意見ですが、東京芸術大学に映画監督を養成する学科が生まれたから日本映画は輸入洋画以上の興行収入を得られるようになったと思います。それ以前は洋画が圧倒的に強く、日本映画ではしっかり収益あげられず「邦画暗黒の時代」が長かった。言い換えれば、東京芸術大学に映画部門が設置されどんどん人材が輩出されて日本映画全体がレベルアップ、海外有名映画賞を受賞するまたはノミネートされる映画監督や俳優が増え、邦画は洋画に伍して稼げるようになりました。私が専門委員として参加した会議は小泉政権から第一次安倍内閣、福田内閣。麻生内閣とおよそ4年間続き、麻生内閣のときに最終的提言がまとまりました。でも当時の議事録に「クールジャパン」の文字はまだ登場しません。提言がまとまって私たち専門委員はお役御免、政権交代した民主党時代に新たな委員たちによってさらに議論が深まったらしく、やっと「クールジャパン」という文字が登場したようです。私は民主党政権下でどんな議論があったのか詳しく知りませんし、コンテンツがいつの間にクールジャパンという名称になったのもわかりません。そして再び政権交代で第2次安倍政権になってすぐの2013年春、国としてクールジャパン事業を推進するために官民投資ファンド「海外需要開拓支援機構(通称クールジャパン機構)」設立の法案が自民、公明党と野党だった民主党の賛成多数で成立。もう専門委員ではなかったので他人事のようにこのニュースを聞いていました。友人だった元伊勢丹の藤巻幸夫さんは所属政党みんなの党が法案反対だったので国会採決時は欠席したとは聞いていましたが。クアラルンプールの商業施設にてそして2013年8月米国西海岸視察旅行中、私をクールジャパン機構社長にという申し入れがわが社長に届きました。かつてコンテンツ専門調査会の委員として議論には参画しましたが、まさか自分が仕事としてクールジャパン政策の推進に関わるなんて考えもしませんでした。まさに青天の霹靂。会社として政府の要請を受けることになり、私は2013年11月設立のクールジャパン機構初代社長に就任しました。日本のカッコいい、美味しいを海外市場に売り込む、そしてしっかり日本側が儲ける仕組みづくりをサポートするのがクールジャパン政策、食で言うなら日本茶、日本酒、和食に限らず日本企業が手間暇かけて作るコーヒーや紅茶も、ワインやウイスキーも、日本のシェフが創作するイタリアンやフレンチだっていい、純日本である必要はないと私は解釈しました。アニメ、マンガも米国エージェントやアジア諸国の海賊版制作者が儲けるのではなく、日本の制作者が世界に売り込んでキチンと稼ぐ、決して中途半端な値引きはしない、そして制作現場で働く人々に利益を還元する(いまも制作現場はブラック企業状態)のが本当のクールジャパン事業と考えました。だから啓蒙セミナーなどで何度も「おまけしないニッポン」「かっこいい日本商品の普及」を訴えました。クールジャパン機構発足式(2013年11月)官民投資ファンドですから各政党、マスコミ、一般人からもいろんな矢が飛んできました。ラーメンの一風堂のフランス進出に出資したときはクレーム電話で「ラーメンが和食か!」「社長は豚骨ラーメンが好きなのか!」と怒鳴られました。遣隋使の時代から日本との繋がりが深い中国寧波市に建設する阪急百貨店の大型商業施設に投資したときは野党議員から「ハコモノに投資するのか!」、開店時には「欧米ラグジュアリーブランドをたくさん導入してどこがクールジャパンか!」と非難されました。地元富裕層の集客のためにはどうしてもラグジュアリーブランドをずらり並べてショッピングモールの格を印象づける必要があります。多くの日系百貨店が中国で失敗する要因はラグジュアリーブランドの集積ができず、館全体の格が低いこと。 富裕層をたくさん集め、その上で日本の美味しい、カッコいいを訴求していく、これしかクールジャパン普及の方法はありません。クールジャパン機構が出資した寧波市のショッピングモールこのところ日系百貨店の中国市場からの撤退ニュースが続き、私自身は中国商業施設を歩く機会が増えました。そこで思うことは、いまこそクールジャパン事業を本格的に後押しして世界に販路を求めないと日本は埋没してしまう、世界市場は広く日本の生活文化や美意識をもっと世界に広めるべき、と。役所の見立て通り電気製品はダメになりました。次はEV車で中国より遅れをとる自動車産業かもしれません。日本は製品を売るのではなく日本のソフト、文化、精神性を売ることにもっと心血注ぐべきでしょう。でないと近い将来世界市場で日本の存在感はさらになくなります。シャープ堺工場閉鎖のニュースでそんなことを思った次第。
2024.05.19
1年に2回開催されるJFWプレミアムテキスタイルジャパン展がいつもの有楽町国際フォーラムで今週開催されました。エントランスを入ってすぐ元経済産業省繊維課長だったKさんと久しぶりに再会、しばし中国業界のことなどお話ししました。Kさんはこれまで4回もパリ駐在を経験、役人人生の半分以上はパリという珍しいお役人、頭が柔らかい人です。私がクールジャパン政策を推進していたときはJETROパリ所長、投資先のファッションブランド45Rのパリショップ開店時に奥様ともども来てくださったことを思い出します。現在はJETRO本部の大幹部、その国際経験を活かして日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものをもっとたくさん世界各国に売り込んで欲しいですね。会場でKさんや業界関係者に中国事情をお話ししたのは、日本素材はこれからいったい誰に売るのかをマーケティングし直す時期が来たのではないかと伝えるためでした。プレミアムテキスタイル展の回数を重ねるうちに業界事情は大きく変化、市場環境も変わりました。そろそろどういうバイヤーを戦略ターゲットに売り込む素材見本市にするべきなのか再検討する時期に来ていると思うからです。長い間、ファッションデザインの世界ではパリコレや同時期開催の見本市参加がブランド側の大きな目標でした。テキスタイルの世界ではプルミエールヴィジョン展あるいはインターストッフ展への参加が世界への扉だったでしょう。こうした日本のヨーロッパ重視の構図はいまも変わらないのでしょうが、私たちは中国市場の規模の大きさやファッション事業化に目覚めた中国新興アパレルの成長力、そして彼らのものづくりにおける上昇志向つまりもっといいものを作って世界市場に攻めたいという思いを注視すべきではないでしょうか。消費市場でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークのラグジュアリーブランド直営店やハイエンド百貨店で大量のブランド商品を購入しているのはアジア系ツーリスト、彼らの購買力は現地消費者以上にすごいものがあります。日本でもコロナ禍が終わって復活したインバウンド消費が国内景気に大いに貢献し、都心部の消費回復は彼らの存在が大きいと言えます。この数か月の動向を見るとアジア系はなにも中国本土からの旅行者のみならず、香港、台湾、韓国からの旅行者の消費パワーは大きい。でも、依然日本は欧米偏重のまま、アジアを低く見ていますよね。果たして今後もこれでいいのでしょうか。(以上4枚、プレミアムテキスタイルジャパン展)中国の業界事情も変わりつつあります。この数か月交流してきた中国アパレルメーカーの経営者たちの中には、もっと上質な素材を起用して付加価値性の高い商品を開発、将来的には欧米市場や日本にも販路を広げたいと考える経営者は少なくありません。また、私がセミナーでよく口にする「ブランドDNA」を真剣に受け止め、その糸口を見つけたいと何度も質問する経営者が何人もいます。彼らは安いものをたくさん作ってただ売上を狙うだけの経営者タイプではありません。もっと魅力的な商品を開発して将来世界に打って出たいと考える中国アパレルの経営者たち、実は案外日本素材の素晴らしさをきちんと認知していません。もし彼らが日本国内の素材見本市に参加するテキスタイルやニットメーカーの製品に触れたら理解は早いでしょうし、どこに行けばそういうものを手にすることができるのか情報提供すれば喜ぶのではないでしょうか。昨年後半から再び中国業界首脳の訪日研修団が急増していますが、彼らに日本製素材の情報を伝えたら、訪日スケジュールを素材見本市に合わせて組むことだって可能でしょう。(広州発祥の婦人服ブランドは海外進出を積極的に推進)欧米のラグジュアリーブランドは日本製素材をたくさん使っています。ヨーロッパの素材見本市で依頼のあったサンプル生地をたくさん渡す(中にはサンプル収集だけで注文に至らない例はたくさんあるでしょうが)のも悪くはありませんが、ものづくりに前向きな中国アパレルの経営者や企画責任者を日本の素材展にどうしたら迎えることができるのか、具体的アクションを起こすべき時期が来ているのではと思います。このところ中国人ビジネスマン相手に東京で、中国でセミナーを続け、彼らと意見交換する機会が増えたので、そろそろ日本は欧米偏重からアジア強化にシフトすべきタイミングでは、と考えるようになりました。人口多いからマーケット規模は相当大きく、経営者は結構真面目で研究熱心な人が多いんです。セミナーだって質問は量も質も日本企業の比ではありません。いかがでしょう、中国市場に日本素材を思い切り売り込んでは....。
2024.05.11
昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
日本ファッションウイーク推進機構で3月開催されたRakuten Fashion Week Tokyoを総括する実行委員会が行われました。各委員が今シーズンの運営についてどのように感じたか、今後に向けて改善すべき点は何かを論じ合うミーティングでした。SOSHIOTSUKIコロナウイルスの3年間はショー形式で発表しにくい状況でしたが、2024年秋冬シーズンはショー形式で発表したブランドが増え、見応えのあるコレクションも多かったというのが大方の意見。もちろん反省点、今後に向けて検討すべき点はいくつか出ましたが、これらを受けて事務局は参加ブランド関係者と共にいろんなことにチャレンジしてしてくれると思います。委員の感想でもあり、私自身も気になっていたのは、開演時間の遅れ。開演まで40分も待たされる欧米コレクションと違って、東京は日本人気質なのか大幅な遅れはこれまであまりなかったと思います。が、今シーズンは大幅に遅れて(あるいは意図的に遅らせてか)開演するコレクションが少なくありませんでした。過密スケジュールでモデルのヘアメイクに時間がかかることも遅れの原因かもしれませんが、観客入場も開演時間ギリギリのショーが多かった。私が東京コレクションの運営責任者を務めていた頃、大幅にショーが遅れるとメディア関係者からきついクレームが寄せられたものです。事務局もなるべく開演時間を遅らせずに開演してほしいとブランド側に協力をお願いしたものです。近年は遅れるのが当たり前、時間通り始めないのが普通になってきたのではとちょっと心配。ブランドやそのプレス担当者、演出家にはなるべくオンタイムで開演してほしいですね。私が百貨店にいた頃、ニューヨークコレクションで人気のマークジェイコブスが1時間ほど開演が遅れ、主要メディアに批判記事を書かれたことがありました。翌シーズン、マークジェイコブスはなんと招待状にある開演時間オンタイムでショーをオープン、のんびり会場にやってきた多くの主要プレスやバイヤーはショーを観ることができなかったという事件がありました。オンタイムでやろうと思えばできないことはないという事例ですが、ショーに関わるみんながその気になればオンターム開演は実現可能です。開演予定時間通りとは言いませんが、ぜひ東京だけは大幅遅れだけは是正してもらいたいです。観客の入場整理についても再考すべきかもしれません。東京コレクションを始めた頃は"PRESS"と"BUYER"そして”STANDING"と当時のパリコレに習って入場を整理、雑誌編集長クラス、新聞編集委員クラスの主要プレス関係者がずっと行列で並ぶということはほとんどありませんでした。が、このところベテラン記者やメディアの役職者が行列で放置されたままという光景をよく見かけます。招待状の封筒につけた色別シールで分類、そのシールの色分けの意味が観客にはよくわからず、主要エディターも新人スタイリストもブランドのインフルエンサーも皆同じく長時間行列に並ぶというのは改善できないものかと思います。かつての入場者分類のように分けて、優先的に場内に案内して着席してもらういわばVIP扱いというのがあってもいいかもしれません。JUN ASHIDA数十年もファッションショーを続けてきたジュンアシダなどは1日3回大勢のお客様を招待しているにも関わらず、毎回会場入口が混雑することなくスムーズに入場整理されています。受付でカテゴリーごとにお客様をわけ、案内係がしっかり個別対応しているので混乱はまずありません。各国大使館関係者の出席も多く失礼があってはならないという配慮もあるでしょうが、毎回伺うたびにスムーズな会場案内に感心させられます。他のブランドにもあの方法を研究してほしいです。コレクションを観る側は人間ですから、なかなか入場できなかったり、長く待たされてよく見えない席に案内されたりすると主要メディアの関係者は内心穏やかではありません。本来ファッションショーは気分よく観ていただくもの、開演前から内心ムカムカ状態ではせっかくのコレクションがブランド側の意図通り伝わらず、結局それがブランドにば悪影響になることも。特にベテランのエディターさんはイライラさせないケアをショー会場ではすべきかな、と。一度ブランド側の担当やプレス会社スタッフ集めて、エントランスのケアや時間厳守について講習会をしてはどうでしょう。私も1970年代からたくさんのファッションショーを拝見してきました。入場の際に日本人に対する人種差別じゃないかと頭に来たこともあれば、プレス担当の横柄な態度にブチ切れてイヤイヤ取材したことも少なくありません。しかし、そんな入場対応で気分悪くてもショーはショー、感情移入してはいけないとコレクション評では絶賛したブランドも中にはありました。が、やっぱり人間ですから、穏やかな気分でファッションショーは観たいですね。
2024.04.23
あれは2010年のことでした。中国市場への進出をどう進めるかを考えていた私たちは、将来駐在オフィスを開設することも視野に入れ上海と北京の商業施設を回りました。北京の中心部にあった現地有力セレクトショップで手にしたジャパンブランドのアイコンTシャツ、現地価格を日本円換算すると15,000円でした。日本国内では5,700円の商品、「随分高いマークアップをとるんだなあ」とこのとき思いました。セレクト店内を歩いていると、見慣れた服をマネキンが着ている。なんと私たちの会社が作っている商品、中国の小売店にはまだ卸していなかったのでうまくできた偽物か、と。しかし、商品タグは我が社のもの、すぐ日本に電話してブランド責任者に説明を求めました。なんと米国の婦人服見本市に出品した際にこのセレクトショップから注文もらったので出荷。視察に同行した部下たちも私も中国の小売店に出荷していたとは知りませんでした。ブランド責任者に商品番号を伝え日本国内価格を報告してもらうと、日本で22,000円の加工物プルオーバーが中国ではなんと円換算61,000円、いくらなんでもこれは高すぎます。中国では消費税が内税(当時は価格の30%が加算されると聞きました)、それでも日本の小売価格のおよそ2.6〜2.7倍は現地小売店がマージンを取りすぎではないでしょうか。写真は3枚ともビッグブランドの中国ショップ1970年代パリのルイヴィトンやエルメスなど現地ラグジュアリーブランドに日本の並行輸入業者が列を作ってバッグ類を免税でたくさん購入していた時代がありました。輸入業者本人のみならず、現地で集めたアルバイトも動員、大量に免税購入して日本市場で転売したのでブランド側が日本パスポートの免税は一人当たりバッグ1個、財布1個と制限したことも。あの頃は内外価格差が大きく、現地で商品を店頭で買って日本で販売しても十分儲かったから転売はあとをたちませんでした。ところが、ブランド側が順次ジャパン社を設立して日本市場における小売価格をコントロールして内外価格差を抑制し始めると、それまで大儲けしていた並行輸入業社は従来のように高額で販売できなくなり、パリから「転売ヤー」は姿を消しました。あの頃は、JALパック団体旅行に参加する田舎のオヤジさんたちもパリのラグジュアリーブランド直営店で家族から頼まれたバッグ類を購入していました。まだクレジットカードが普及していなかったので、シャツの前ボタンを外して肌身に付けた防犯用腹巻からトラベラーズチェックや現金を取り出す光景を見かけたものです。ラグジュアリーブランドショップでシャツのボタンを外して腹巻から現金を取り出す、現地ショップ販売員にはかなり滑稽だったでしょう。オヤジさんたちが現金を取り出す間しらけた目線で支払いを待つ販売員の表情、シュールでしたよね。インバウンドが急増し、日本の消費経済に大きく貢献してくれる訪日外国人は流通業界にもブランドビジネスにもありがたい存在なのですが、中には中国と日本との内外価格差を利用して儲けようとする転売ヤーとそのアルバイトが売り場を連日奔走、大量に購入して中国で販売しています。内外価格差が大きければ、店頭で小売価格で購入しても十分儲かります。日本で50,000円の商品が2.5倍ならば中国では円換算125,000円、差益は75,000円とれます。一生懸命ものづくりしているブランド側は50,000円の小売価格から取引先の百貨店などのマージンと製造原価を差し引いたらせいぜい25,000円の粗利でしょうが、転売ヤーとそのアルバイトは50,000円で購入した商品を中国で仮に正規品小売価格よりも安い100,000円で販売しても差益は50,000円です。開店時間前から行列に並ぶ人たちが粗利50,000円、ものづくりしている人たちは粗利25,000円、ちょっとおかしくないでしょうか。転売ヤーが自国での販売で儲かる商品を集めるべく奔走しているのは、内外価格差が大きいからです。ジャパン社が設立される以前のラグジュアリーブランドがそうでした。だから、そろそろ抜本的に内外価格差を抑えて転売ヤーがものづくりする側よりも儲かる仕組みを改善すべき時期が着ているのではないでしょうか。いつまでも転売ヤーがわがもの顔で大きな差益を得ているおかしな構図を改めるべきだと思います。なぜそう思うかと言えば、今日某百貨店のジャパンブランドショップの前とその周辺に転売ヤーらしき人々の長い行列を目撃したからです。私も愛用しているこのブランド、某百貨店への商品デリバリーは毎週木曜日と聞いています。今日は金曜日なのに行列、我々一般消費者はショップに入って商品を手にすることもできません。転売ヤーのアルバイト要員が多すぎて長年のブランド顧客がショップに入れない、こんなことがずっと続いていることは異常です。ラグジュアリーブランドがジャパン社を設立して小売価格を自らコントロールしたように、日本のブランド(何もファッション商品に限らず家電製品も同じです)も転売ヤーが日本の売り場を走り回って利益を上げている構図に終止符を打つでき時期ではないでしょうか。コツコツものづくりする側よりも行列に並んで転売する側が利益が多いなんてどう考えてもおかしい!自らのブランド価値を守るためにも、国内顧客がごく普通にショッピングできるようにするためにも、海外市場のビジネス戦略やヨーロッパブランドの取り組みをもっと勉強してほしいですね。
2024.04.12
3月10日の週は東京コレクション(正式名称RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO)でした。あいにくその直前の中国出張が、上海、蘇州、広州3都市それぞれでセミナー開催と少々ハードだったからか、私は体調を崩して連日薬で高熱を抑えながらファッションショーを視察。東コレ終了時にやっと熱が下がって普通に動けるようになりました。そこへ2月末の中国出張をアレンジしてくれた佐吉マネジメントコンサルティングの金 時光(アーロン・ジン)さんが来日、彼に日本の仲間たちを紹介し、今後の事業計画を議論するなどこれまた忙しい1週間を過ごしました。金さんは再び4月に企画している中国アパレル企業経営者たちの東京研修ツアー準備のため、研修旅行期間中に講演を依頼している日本の業界人数名と打ち合わせをしていきました。3月25日ブタ小屋での記念撮影上の写真は金さん最後の東京の夜、新宿歌舞伎町の裏通り「思い出の抜け道」(ゴールデン街のような通りが他にあるとは知りませんでした)にある居酒屋「ブタ小屋」での記念撮影。写真中央が金さん、右側がIFIビジネススクール教え子の齋藤孝浩さん(「ユニクロ vs ZARA」などの著者)。金さんは齋藤さんの著書を中国語に翻訳出版、人口の多さもあって日本の数倍も中国では売れているそうです。昨年9月、齋藤さんから突然連絡をもらい、私は金さんが昨秋企画した中国業界人の東京研修ツアーでセミナーを担当、このとき初めて金さんを紹介されました。翌10月には広州に拠点を置く製造小売業ゴエリア(ブログ前項で紹介)の来日社員研修でもセミナーを頼まれ、さらに12月には齋藤さんと一緒に杭州と寧波に出張、現地で売り場視察や経営者研修をさせていただきました。この現地経営者研修は9月の東京でのセミナーを企画した金さんが突然思いついたプランでした。2月蘇州での中国最大ニットメーカーの社員研修そして、12月杭州での経営者研修開催中に金さんは参加した経営者に働きかけ、齋藤さんと私をセットで招聘して2月に個別企業の社員研修をお膳立てしてくれました。上海では近郊のアパレル事業者たちを集めた無料セミナー(4月の東京研修ツアーをPRするためのプログラム)、続いて蘇州と広州ではそれぞれ現地有力企業向けのセミナーや幹部ミーティングがありました。以前にも触れましたが、金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に新卒就職、そこで「トヨタかんばん方式」に触れ、この合理的なマネジメントを中国にもっと広めたいと28歳で独立、サプライチェーンマネジメントを中国企業に指導するコンサル会社を立ち上げました。クライアントの中には世界有数の監視カメラメーカーや中国空軍の戦闘機製造に関わるメーカーもいるそうです。つまり金さんの本業はファッション流通業ではありません。IFIビジネススクールに通っていた齋藤さんは当時総合商社トーメンの若手社員。のちにトーメンは豊田通商に吸収合併され、米国西海岸駐在から帰国した齋藤さんは独立して自身のコンサルティング会社を立ち上げました。旧トーメン出身でサプライチェーンなどを指導する齋藤さんと、豊田通商現地法人から独立してコンサル会社を立ち上げた金さんには恐らく何か接点があったのでしょう、金さんは齋藤さんの知見を中国ファッション業界にも広めようと各種セミナーや中国語版の出版などを手掛けてきたのです。金さんのファッション業界におけるパートナーとして元アリババ研修部門幹部の游 五洋さん(通称シージャンさん)がいます。シージャンさんは浙江省や広東省のアパレルメーカーや小売事業者の間で指導者的な存在、中国企業にマーケット動向やマネジメントを教えている方です。昨年9月の東京研修ツアー同様、今月の研修ツアーにもシージャンさんがまとめ役として同行し、講演者の話を最後にまとめる「塾長」のような役割をなさいます。右:金さんのパートナー游 五洋さん(通称シージャンさん)今回の東京研修ツアーにも上海、杭州、広州などのアパレル企業経営者や幹部が30余名参加し、日本のファッションデザイナー、ファッション専門学校代表、ビジュアルマーチャンダイジングのプロ、ショッピングセンター開発プランナー、コンビニ経営の経験者などいろんな人が講演、私も2つのタイトルでセミナーを依頼されています。講演のあとは売り場を案内しながら注目すべき視察ポイントを解説することにもなっています。右:金 時光(アーロン・ジン)さん金さんは36歳、私よりかなり若くバイタリティーもあります。お酒が入ると、いかに中国を良くしたいのか、何を日本から学ぶべきなのか、彼は熱く熱く語り始めます。しかも体力あるから飲み会はエンドレス、我々は彼のペースに完全に引き込まれます。彼を見ていると、32歳で東京コレクションの責任者を引き受けファッション流通業界のお偉いさんたちにストレートな意見を吐いて煙たがられた当時の自分を思い出します。若造の意見に真摯に耳を傾けてくれたお偉いさんは少数派、ほとんどは「このガキ、何言ってるんだ」と見下した冷たい目線ばかりでした。相容れない産業界の先輩たちを早く識別するため32歳でネクタイ着用を止めた私ですが、金さんはノータイどころかいつもTシャツ姿でどんな席にも出かけます。きっと中国にも「このガキ、何言ってるだ」と金さんのストレートな意見に耳を傾けない年長者は少なくないでしょうね。まるで自分の若い頃を見ているような感覚、しかも「中国をもっと良くしたい」という若者の熱い思いに刺激されて私も自然と元気が出てくるのです。もうすぐ金さん旋風の再到来です。
2024.04.06
3月11日にアップしたブログで触れましたが、広州市に拠点を置く製造小売ブランドGOELIA(ゴエリア)は今年で創業29年、広州出張初日がちょうど創業祭当日だったので私もそのイベントに参加、社員たちの盛り上がりは半端なかったです。ゴエリア本社の中庭でのミニコンサートゴエリア創業者ゴードン・ウーさんと初めて会ったのは昨年10月、東京でセミナーを頼まれたときでした。ウーさんは社員を連れて頻繁に来日しますが、このときは同行する本社幹部や各部門の責任者を相手にアパレル産業の課題、ブランドビジネスの難しさをレクチャー。下の集合写真はセミナー会場だった西新宿住友ビルで撮影したものです。それから2カ月後の昨年12月、杭州市で私たちのセミナーが開催されたときもウーさんは幹部社員を連れて参加してくれました。このときに広州本社での社員向けセミナーを依頼され、2月に広州を訪問しました。初日は本社見学と創業祭参加、2日目は市内の直営店を4店ほど視察してショップ運営についてアドバイス、3日目は幹部20名ほどとの意見交換、そのあと150人の社員にマーチャンダイジングの基本を講演しました。2月後半の広州訪問の寸前もウー社長は数名の社員を連れて来日、このときも銀座で会食しました。東京で珍しく積雪があった夜です。このとき私は皆川明さんのミナペルホネン南青山スパイラルCALLの視察を勧めました。路面でもないビルの5階にあるお店、普通に考えたら客足は見込めない場所なのにCALLはいつも賑わっている、ネット社会では情報発信力さえあれば裏通りでもビルの上層階でも集客することができることを実証する店舗、と説明しました。雪の翌日、ウーさんらはすぐCALLを視察したそうです。そしてまた3月、ウーさんは社員を多数連れて来日、私たちも会食に招待されました。芝公園のお豆腐レストランに入った瞬間、ちょっとびっくり。今回の同行社員は写真のように大半が若い女性でした。彼女たちはネットのインフルエンサーのような存在、それぞれがたくさんのファンを抱え、ネットでゴエリアの商品を紹介して個別に注文をとる、簡単に言えば実店舗でなくネット画面で商品を売る販売員なのです。今回の東京出張は成績上位者のご褒美旅行、日本文化に触れ、早咲きの桜並木を見物、都心でそれぞれ買い物を楽しみ、夕食はみんなで日本食を味わう。こんな機会をくれるんですから、ウーさんは彼女たちにとってありがたい経営者です。お豆腐レストランでの記念撮影写真上下ともミナペルホネンCALLそして、皆川明さんにお願いしてスパイラル開館前に5階ショップをあけてもらい、ウーさんたちは皆川さんから直接お店のコンセプトなどを伺うことができました。ゴエリアが創業29年ならミナペルホネンも同じ創業29年、ウーさんと皆川さんは話が弾んで予定よりも長く面談。ウーさんたちはきっとたくさんの刺激を持ち帰ったことでしょう。ファッションブランドの経営者のとき、私も現場の販売スタッフの人材育成や処遇改善には特に力を入れ取り組みました。販売最前線は貴重な戦力、なのにファッション業界の慣例として販売員のケアは十分ではありません。これはおかしい、なんとか改革しようといろんな手を打ったものです。ウーさんは我々よりももっと販売員をケアしています。店頭の販売スタッフやネットショッピングの販売スタッフに海外視察のチャンスを与え、彼らを刺激する。会食時に若い女性たちは異口同音「ずっとこの会社で働きたい」とコメントしていましたが、本社の社員のみならず販売部門のスタッフにもチャンスを与える経営者、社員から愛されますよね。社員に海外視察で刺激を与える、経費のことを考えると簡単ではありません。が、ゴエリアは何度も東京視察にやってきます。こういう会社の経営者、高く評価したいです。
2024.03.30
初日上海での講演を終えると上海西方の蘇州市のホテルに移動、そこで最大手ニットメーカー「恒源祥」の新年祝賀会に参加しました。翌日は終日セミナーで私が、その翌日は今回も同行した齋藤孝浩さんが担当、丸2日間の長い研修でした。研修会場のHENGLI HOTELロビーかつては手芸用の毛糸を販売していた1927年創業の歴史ある会社、中国政府の解放政策によって民営化され元国営大企業です。フランチャイズ含め中国全土に約6000店の販売網、どんな家庭にも1枚はクローゼットに入っている有名ブランドと教えてもらいました。系列ニット工場や染色工場もたくさん傘下に有しているのでしょう、セミナー参加者は上海本社の社員のみならず、フランチャイズ店や系列工場の経営者も。新年早々こうした社内セミナーを開催とは、人材育成に力を入れている経営者です。私の講演タイトルは「マーチャンダイジングの基本」。顧客分類、商品分類、定数定量管理など長年日本の学校や社内MDスクールで教えてきた「誰に、何を、いくつ売るのか仮説を立てる」をお話しました。上の写真は、常日頃国内の研修で最初の講義で話している「マーチャンダイジングの語源であるマーチャンダイズ(=商品)を掌握するのが最も重要」と投影画像のMERCHANDISINGを指差しながら説明するシーンです。昨年12月杭州セミナーでお世話になった同時通訳の張さんが今回もサポートしてくれ、丁寧に翻訳してくれたようなので助かりました。張さんには国内のMDスクールで受講生に配布しているテキスト全編を事前に送ってあり、私が何を言おうとしているのか十分把握していました。海外セミナーはなんと言っても通訳さんの出来次第、日本語も上手な通訳さんでありがたいです。最後に「意図のある発注方法」と「全員が共有する販売計画」を説明して約6時間の講義は終了。するとリチャード・チン社長から受講者に提案がありました。1テーブルごとに全員で討論して質問を1つに絞り、私が評価する良い質問をした3つのグループには全員にご褒美を提供する、と。15分ほどの短い時間ですがテーブルごとに真剣に議論、各テーブルから1つずつ質問があがりました。顧客年齢が年々高くなるのに対してブランド側はどう対処すべきか。思い切って一気に若返りを目指すべきなのか、それとも現状を維持しながらゆっくり軌道修正すべきなのか。私が奨励するメリハリある発注をしたら売れ残りが出るリスクはないのか。フランチャイズ店(ブランド直営店よりフランチャイズ契約で販売してもらっている店舗の方が多い)の販売員人材に関する問題など、みなさん具体的な質問でした。私が良い質問だなと感心した3つのグループを社長に伝えましたが、果たしてどんなご褒美なのかちょっと気になります。日本視察研修という案も出ていましたから、実現したら素敵です。最後の最後にサプライヤーなのでしょう、家庭用洗濯機で洗えるカシミヤの特許を持つニット工場の若い社長さんから「自分たちが作ったカシミヤセーターを着てほしい」とプレゼントの申し出を受けました。齋藤さんはブラック、私はチャコールグレー、共にクルーネックをお願いしましたからもうすぐ日本に届くと思います。本社所在地は上海ですが蘇州は創業者が生まれた場所、目の前には景勝地でも有名な太湖がある高級ホテルで新年会も含めて3日間の合宿とはかなりの出費でしょう。そこに日本人講師を2人も招聘して研修するんですから素晴らしい試みです。3年後は記念すべき創業100年、ぜひまた来てみたいです。
2024.03.08
I.F.I.ビジネススクールの教え子齋藤孝浩さんの紹介で昨年9月に知り合った中国人コンサルティング金时光(Aaron Jin)さんが企画する2回目の中国研修の旅から戻りました。前回は杭州、寧波で5泊でしたが今回は上海、蘇州、そして飛行機で南に移動して広州で6泊、3都市でセミナーをしてきました。初日の日曜日、上海に到着してすぐ1927年創業の老舗ニットメーカー恒源祥(Heng Yuan Xiang)を訪問、日曜日にもかかわらず社員食堂の奥にある個室で社長ご夫妻らと夕食を共にしました。この会社は元は国営企業、中国のどの家庭にも1枚はセーターがあるはずと言われる最大手、中国オリンピック委員会公式サプライヤーとして選手や役員にユニホームなどを提供しています。Richard Chen社長(左)、齋藤孝浩さん(右)と記念撮影翌月曜日は上海とその周辺のアパレル関係者に向けたセミナー、金さんとパートナーが主催する無料イベントでした。午前中は私、午後は齋藤さんが担当。会場は上海郊外の幕張メッセのようなエリア、カシミヤやウールなど高級ニット糸を世界のトップブランドに供給する会社CONSINEEのショールームでした。ところが、春節休暇で2週間ビルは完全閉館していたので休暇明け初日4階吹き抜けショールームは暖房がなかなか行き渡らず、セミナー参加者はコートを着たまま、私はコートを脱いで講演しました。すると会場を提供してくれたニット糸メーカーの社長さんが自社カシミアマフラーを提供してくれ、さらに参加者のアパレルメーカー女性社長がわざわざダウンジャケットを会社から取り寄せてプレゼントしてくださいました。皆さん親切です。寒い会場でスピーチ開始カシミアマフラーの差し入れがありました寒いのでプレゼントされたダウンジャケット上海セミナーのタイトルは「アパレル産業の課題」上海のセミナーでは、景気が鈍化するとすぐに「原価を下げろ」と言う経営者がいるけれど、それは本当に正しいのだろうか。命令を受け現場スタッフは安い素材の調達に走るが、素材レベルを下げると商品のクオリティーは目に見えて下がる、素材のクオリティーを下げてはならない、素材以外の別のところでコストダウンを図れないか、と事例を出して説明。ミッキー・ドレクスラー氏がGAPグループに参加した当初、彼が指揮してGAPの商品が明らかに良くなってブランドイメージが上がった話、彼が創業者と対立して退任したあとGAPは日本製デニムを使用しなくなり徐々に商品に魅力がなくなったことなどを解説しました。一方、ドレクスラー氏が移籍したJ・クルーは俄然商品のレベルが上がり、日本製デニムを使用していたし復活したリーバイスもユニクロも日本製デニムを使っていると説明。さらに、日本の繊維産地でたびたびユニクロの素材を生産している場面に直面した経験と、ユニクロが良質素材を大量発注することでいかに原価を抑えているかをお話ししました。休憩時間、なんと参加者の上海ユニクロ本部で働く方が「私たちが知らないユニクロのお話が聞けて勉強になりました」、と声をかけてくれました。そうですよね、私たちは北陸産地でも尾州産地でも、そして特殊技術の撚糸工場でもユニクロが素材を調達しているのをこの目で見ていますから、海外のユニクロで働く従業員よりもユニクロのものづくりに詳しいかもしれません。在庫を減らすためには精度の高い発注業務が必要、そしてプロパー(正価販売)消化率をアップするためにアパレル企業は何をすべきか、さらにブランドのDNAを守り続けることがいかに重要なのかを具体的に事例をあげてお話ししました。大量在庫と低いプロパー消化率で消滅していった大手アパレル企業の事例、ブランドDNAを守らないデザイナーが自分の個性を発揮したがって結局ブランドそのものが廃止に至った事例、デザイナーが交代しようとブランドDNAを守り続けブランドを発展させてきたブランドの話も。私が担当する午前の部のあと受講者らとランチ、そのあと齋藤さんの部が始まると私はひと足先に車で蘇州のホテルに移動、前日会食したChen社長の会社の新年会に参加しました。恒源祥の新年会で人事部の責任者から「パンデミックの前に東京であなたの講演を聞きました」とその時の写真を見せてもらいました。2018、19年当時私は頻繁に中国の訪日視察団にセミナーを頼まれていましたが、彼女と同僚も私の講演を東京で聞いてくれたようです。そのときどんなテーマだったのかはもう忘れましたが、こうやって過去に東京で講演を聞いてくれた人と異国の地で再会できるというのは嬉しいですね。数年前に東京のセミナーで人事部責任者と撮影この新年会でちょっと日本では考えられないシーンがありました。会場には幹部社員と共に大株主、外部サプライヤー、業界団体責任者らが招かれていました。日本であれば会社の代表取締役からまず主催者挨拶や乾杯音頭があると思いますが、前身は国営企業だったからなのか新年会挨拶はこの会社に席のある「中国共産党」の女性一人のみでした。労働組合なのかと質問したら、そうではありません。大企業には中国共産党の人間が派遣されているのだそうです。党から派遣されている女性、参加者と同じくお酒も飲みますし我々と個々に乾杯もしてくれます。ごく普通のキャリア女性のようですが、経営陣でもない、労働組合でもない、私たち日本人ビジネスマンには正しく理解できない不思議な存在でした。政治体制も生活様式も日本と違いますからいろんな?マークを経験できて楽しかったです。
2024.03.05
先日、かつて同じ職場で働いた仲間で私が指導する社内研修の教え子、現在は諏訪湖の近くで会社を経営する小畑啓くんから会食のお誘いがありました。なんでも彼の叔父さんがイタリアの由緒あるワイン醸造村「カステッロ・ディ・ルッツァーノ」でワインをつくっていて、それを日本で輸入販売している人を紹介したいとのことでした。待ち合わせ場所は南青山4丁目にあるテーラーDrapper Hope、この店の代表でもある中野洋平さんを訪ねました。中野さんは神奈川県のサッカー高校としても有名な桐光学園の背番号10だったとか。製薬会社勤務を経て突然テーラーを起業したのは、サッカーで鍛えた身体にドンピシャサイズの既製服がなく、オーダーメイドは値段が高過ぎる、もっとリーズナブルなオーダー服をつくりたいという理由から。ファッションの世界での経験はゼロだった人がテーラーを開業とは驚きです。中野さんはご縁があって小畑くんの叔父さんがイタリアワインの販売も手がけることになりました。中野洋平さん(右)と小畑啓さん(中)とビストロで記念撮影南青山のテーラーから西麻布のビストロ「帝国食堂」に移動、美味しい料理と中野さんが持ち込んだワインをたっぷりいただきました。バランスの取れた私好みの白ワイン、早速知り合いのソムリエやレストラン事業者を紹介することに。ワインのことはこちらをのぞいてみてください。ほんとに美味しいです。www.castelloluzzano.itここでの本題はこのワインではありません。小畑くんのご両親のことです。2009年5月、当時私が社長をしていたアパレル企業の株主総会の夜、私は部長以上の幹部およそ20人を銀座7丁目のおでん屋「力」(りき)の2階座敷に集めました。そこそこお酒が入ったところで、「来年社長を退任するぞ」と宣言。業務革新が終わったら雇われマダムを退いて生え抜き社員にバトンタッチするつもりでした。社長就任当初、会議で「定数定量」と私が言えば下を向いてクスクス笑っていた社員たち、マーチャンダイジングの基礎を教え続けたら若手社員でさえ定数定量を意識して仕事をするようになりました。つまり私の役目はそろそろ終わりと思っていました。銀座おでん屋・力でも幹部たちは「冗談でしょ」と知らんぷりでした。が、翌年5月の株主総会の夜は同じ銀座の力で社長退任慰労会でした。前年の宣言通り私は社長退任し、生え抜き社員を後継に指名、総会で正式承認されて肩の荷が下りた楽しい宴席でした。いつも大人数でおしかける私たちをケアしてくれたのが小畑くんの母上。残念ながら数年前に急逝されたと先日聞きました。太平洋戦争の米軍空襲で東京は焦土と化したけれど、銀座はほんの一画だけ焼けずに建物が残りました。その燃えなかった古い1軒家を借りておでん屋をやっていたのが小畑くんの父上、小畑豊さんと奥様。関東風の濃い味ではなく、小畑さんのつくるおでんは昆布の出汁がきいた関西風の優しい味、関西圏生まれの私にはぴったりの味でした。だからことあるごとに利用させてもらいました。小畑豊さんのご先祖が慶應義塾の塾長だった小泉信三さんと関係が深かったことで、小畑さんは幼稚舎からの慶應ボーイ。ところが慶應義塾大学を中退して大阪の有名な料理人「㐂川」店主の上野修三さんに弟子入り、料理の道に転じました。㐂川育ちですから関西風の出汁だったのです。ちなみに啓くんはその頃大阪で生まれ、ご両親の転居で東京育ち、そして大学は私の後輩にあたります。力の小畑ご夫妻1995年、大親友の急逝に直面して私は本当にやりたい仕事をやろうと東京ファッションデザイナー協議会議長を退任。当時松屋社長だった古屋勝彦さんに誘われて百貨店に移籍、社員たちにマーチャンダイジングを教え始めました。外部の人間がそれなりの立場で老舗百貨店の組織に入って業務革新をやろうというのですから、社内にいろんな抵抗や軋轢が生まれます。このとき幹部社員たちとの飲み会に私を何度も誘って融和の機会を与えてくれたのが創業家一族の専務取締役古屋浩吉さんでした。古屋さんには銀座、浅草のお店を何軒も連れていってもらいましたが、そのうちの1軒が銀座の力。古屋浩吉さんはその後松屋社長に就任した後相談役のまま2018年に亡くなりましたが、私はいまも古屋さんに連れていってもらった焼き鳥屋、蕎麦屋、カウンターバーなどに通っています。実は力の小畑豊さんと古屋専務は慶応の同期、いわゆる竹馬の友。啓くんが松屋に就職したのもおそらく古屋専務の勧めがあったからでしょう。私は若手社員が力のご夫婦の息子だと最初は知りませんでしたが、力にお邪魔するたび小畑くんの母上は「うちの息子、ちゃんと仕事していますか?」と声をかけ、啓くんが退社して奥さんの実家の家業を継承するため諏訪に移住したら「ちっとも東京に帰って来ないんですよ」と漏らしていました。寡黙な料理人の父上、客あしらいのうまい明るい母上でした。先日中野さん、小畑くんとの雑談の中で面白いつながりがわかりました。イタリアでワインをつくっている叔父さんの奥様の旧姓を聞いてびっくり、神戸の灘地区で有名な珍しいファミリーネームでした。数年前、かつて古屋浩吉さんに連れて行ってもらった銀座のカウンターだけの小さなバーでのこと、松屋の歴代幹部をよくご存知のママさんと会話する中でお互い会社名を「М社」と言っていたら、隣席の男性客が「すみません。М社は銀座交差点に近い方ですか、それとも遠い方ですか。私のいとこが遠い方のМ社の....」と名刺交換。某大手食品メーカー役員Hさんでした。このHという姓名にピンときました。私をスカウトしてくれた古屋勝彦社長の奥様の母上の旧姓がHです。非常に珍しい姓名なので何代か遡れば小畑くんの叔母さんとは何か関係があるのかもしれません。叔母さんの父親は大手総合商社の元幹部、海外駐在も長く叔母さんは海外で育ったそうですから、きっと灘の富裕層でしょう。小畑くんの父上が慶應で仲良しだったのが古屋浩吉さん、母方の叔母さんの旧姓Hは古屋勝彦夫人の母上の旧姓と同じ、小畑くんによれば彼のご両親も古屋浩吉さんも恐らくご存知なかっただろう、と。ちなみにM社前社長は古屋勝彦夫人の弟である秋田正紀さん(現会長)、現社長の古屋毅彦さんは勝彦夫妻の長男です。さらに、小畑くんと仲良しの格闘家が所属する団体の会長はいろんな大臣を歴任した元代議士の深谷隆司さん、その甥っ子と結婚したのが古屋浩吉さんの次女です。また、小畑豊さんの料理の師匠上野修三さんの共著「酒肴 日本料理」(小畑豊さんが大事にしていた本)のパートナーはテレビでもおなじみ道場六三郎さん、道場さんの孫は私の息子たちの有機栽培農場で働いています。いろんなつながりがあるんです。たまたま元教え子の叔父さんが手がけるイタリアワインを飲むために集まったのですが、いろんな話をするうちに小畑家の「ファミリーヒストリー」(NHK番組)みたいになりました。不思議なつながり、世間はほんと狭いです。
2024.02.23
私がニューヨークで取材活動をしていた頃、米国人気デザイナーブランド御三家はカルバンクライン、ラルフローレン、ペリーエリス(86年急逝。代わって自らのブランドを立ち上げたダナキャランがそのポジションに)でした。ネイビーブルー、チョコレートブラウン、バーガンディーなどシックな色調とミニマリズムを絵に描いたようなシンプルなデザインで、カルバンクラインは社会で成功するキャリアウーマンに絶対的に支持されるブランドでした。話題にもなったブルース・ウエバー撮影の広告そのコレクションもさることながら、カルバンクラインはデザイナージーンズでも、アンダーウエアでも大成功、フレグランスやセカンドラインのCKカルバンクラインのビジネスも軌道に乗せました。しかしながらコレクションブランドは数年前に販売中止、アンダーウエアなど一部ライセンスブランドだけが市場に残る形になってしまいました。寂しいことに、現在もデザイナーブランド市場で存在感を保っている御三家ブランドはラルフローレンのみです。私はニューヨーク在住時代から今日までずっとカルバンクラインの白無地クルーネックTシャツ(ライセンス商品)を愛用してきました。帰国して米国出張するたび、ブルーミングデールズ百貨店地下メンズウエア売り場で3枚入りパックを2,3個購入、出張に持参した古いTシャツはホテルのごみ箱に捨てて帰る、そんなパターンを四半世紀以上続けました。ところが新型コロナウイルスで出張不可、愛用するカルバンクラインTシャツを現地で新旧入れ替えることができず、仕方なしに日本でネット通販してみようと検索したら、入手できるのはVネックのみ、クルーネックは入手できません。大きなロゴの入ったデザインものクルーネックはありますが、長年愛用してきた白無地クルーネックは販売していないのです。お気に入りの白無地クルーネックTシャツ日本では夏のクールビズ対応でネクタイをせずにシャツの第一ボタンを外すビジネスマンが増えたからでしょうか、クルーネックは過去の遺物となり、Vネックだけの販売になってしまいました。白無地クルーネックを探すのはたぶんほんの一握り、私のようなおかしな消費者だけでしょう。個人的にTシャツには思い入れがあります。何度洗濯してもリブがピシッと元気なTシャツは好きでありません。日本製のTシャツには案外この手のしっかり品質が多い。何度も洗ううちにクルーネックのリブが弛んでちょっとヨレヨレになる感じ、あれが私のイメージする本来のTシャツ、カルバンクラインの白無地クルーネックはまさしくヨレヨレになるんです。だからずっとTシャツだけはカルバンクラインにこだわってきました。ほかのブランドに白無地クルーネックで微妙にヨレヨレになるものがあれば、別にカルバンクラインでなくてもいいんです。Vネックは嫌い、大きなロゴ入りも嫌い、仕方なく米国ネットブランドEVERLANEで白無地クルーネックTシャツを購入しました。が、リブの感じもボディーの素材もしっかりしていて私好みではありません。言い換えれば、その質感が長年愛用してきたカルバンクラインより良過ぎてヨレヨレになりそうもありません。個人的に大きな柄入りクルーネックは要りませんそんな話を数日前Facebookにあげたところ、たまたまビジネススクールの元教え子で元部下がニューヨーク出張中だったので、ブルーミングデールズで例の3枚入りを2パック買ってきてくれました。手に取ったらまさしく30年余着続けてきた触感、本当にありがたいです。数年前までカルバンクライン白無地クルーネック3枚入りパックは30ドルほど、当時の為替レートでは1枚1200円程度でしたが、原料高騰と為替変動で1枚2300円になってしまいました。ほかのブランドでは得られない満足感ですから、決して高いとは思いません。値段のことより、ファッションブランドの関係者にお願いしたいのは、改良に改良を重ねてブランドの顔になった「安心の定番商品」はずっと作り続けてもらえないか、です。色を加え、ロゴ入りデザインを増やし、襟の形も変え、フィット感と素材などにも変化をつけたい生産者側のお気持ちはわかりますが、消費者が信頼する永遠の定番商品があってもいいのではないでしょうか。クルーネックのごく普通の白無地Tシャツ、ロングセラー商品として永遠の定番扱いにしてもらいたいですよね。考えてみれば、春先にラルフローレンのお店に行けば必ずチノパンがあり、夏には無地ポロシャツが多色ずらり、秋になればチェックのネルシャツが並びます。毎年すべて同じ色、同じ柄、同じ素材、同じ寸法ではなく、色に微妙な変化もあれば、サイズに数ミリの違いはあります。が、それでも消費者からすれば必ず店頭に登場する定番アイテムがの安心感があります。もちろん変化がないとマンネリに感じる人も中にはいるでしょうが、この安心感があるからこそラルフローレンは半世紀以上も米国を代表するブランドとして長く続けてこれたのではないでしょうか。これもブルース・ウエバーによる広告デザイナー系ブランドにとってシーズンごとに新しい何かを提案するのは重要なことですが、同時に顧客に長く愛される定番商品を微妙な修正を感じさせずに維持することもブランドビジネスには重要なことだと思います。元シャネル日本法人社長だったリシャール・コラスさんから聞いたことがあります。シャネルの永遠のヒット香水「シャネル5番」(発売から100年以上経過)、時代の流れに沿って少しずつボトルデザインを変化させているけれど、恐らく多くのお客様はその変化に気がついていない、と。フレグランスの世界でシャネル5番は特別な存在ですが、大きなモデルチェンジをせずに来たから保てたポジションと言えるのではないでしょうか。たかがTシャツ1枚のことなんですが、ブランドビジネスにとって重要なこと。どこにでもありそうな白無地クルーネックTシャツ、カルバンクライン社がシャネル5番のように注意深くケアして永遠の定番にポジショニングしていたら、創業デザイナーがまだ存命なのにコレクション市場からこんなに早く消えるようなことはなかったのではと私は思います。ど定番のTシャツ、ライセンス商品であっても大事に継続して欲しいです。
2024.02.10
昔から、これと決めたブランドとはかなり長く付き合い、同じブランドのものをずっと買い続けてきました。アンダーウエア(カルバンクライン)や靴下(ラルフローレン)からカーディガン(プレイまたはオム・コムデギャルソン)、コート(ジルサンダー)、カジュアルパンツ(バナナリパブリック)、バッグ(プラダのナイロン製)、靴(トッズ)、四半世紀ほぼ同じブランドで通してきました。セットアップとシャツは1980年代から長らくコムデギャルソン・オムを愛用してきましたが、ブランド側のシルエット変更(丸くゆったりだったのがタイトフィットになった)があってからギブアップせざるを得なくなり、セットアップとシャツは自分用のものを特別に誂えるようになりました。だから、自分の服を新しく買うためにブラブラ紳士服売り場を歩くなんてことはほとんどありません。売り場に行くときはマイブランドの売り場に行って必要なアイテムを買ってすぐ帰ります。マーケティングのためレディース関連の売り場は頻繁に歩きますが、正直言ってメンズ売り場をウインドーショッピングすることははほとんどありませんでした。4半世紀以上浮気することなく靴はずっとトッズでしたが、adidasスニーカーを履くようになってその快適さにいまごろ目覚め、スニーカーと調和が取れる服を探す必要に迫られ、最近はまめにメンズ売り場を回るようになりました。スニーカーもadidas以外のブランドにもチャレンジしてみようと手を広げ、初めてNIKEをネットで購入。一消費者の目線でメンズ売り場を歩いて気がついたこと、「値段が随分上がってるなあ」です。先月某百貨店メンズ館で気になったジャパンブランドのシャツ、お値段が58,000円の表記に「高いっ」と思いましたが、よく見るとこれはピンク色値札、つまり秋冬セール価格。プロパー価格を見てさらにびっくり仰天、なんと繊細な細番手素材でもないのに97,000円でした。複数の素材を縫い合わせているデザインですが、数年前ならこの種のシャツは50,000円未満だったはず、それがプロパー価格97,000円とはあまりに高すぎます。セールでも私には高すぎる、試着する気力もなくなり売り場を離れました。ジャパンブランドがこんなに高騰してるのであれば、円安の影響を受ける海外人気ブランドのシャツはどうなっているんだろうと某イタリアブランドのネット通販サイトを調べると「フリンジ付きプリントコットンシャツ」がなんと638,000円。正直、こんな値段のシャツを誰が買うんだろう、です。私には値段と価値のバランスが異常としか言いようがありません。円安の影響もあるんでしょうが、この価格をつけて日本市場で売り出すジャパン社の勇気(あるいは自惚れ)、すごいですねえ。考えてみれば、海外ラグジュアリーブランドのキャンバスバッグでさえ円安影響を受けて昨年からとんでもない価格に設定されています。レザーじゃなくブランドロゴが入ったキャンバスバッグがほぼ50万円。顔見知りのイタリアブランドの販売スタッフがこんなことを漏らしていました。「キャンバスですよ◯◯さん(フランスのブランド名)、このお値段で販売していいんだろうかと正直思います。でも、うちもそこまで高くはありませんが、もうエントランス価格とは言えないお値段なんですよ」、と。しかしながら、とんでもない価格になろうが海外ラグジュアリーブランドは順調に売上を伸ばしています。コロナ禍で減少していたインバウンドの売上はほぼコロナ以前に戻り、インバウンド客の旺盛な消費もあって価格高騰は特に問題視されていません。果たしてこの上り調子はしばらく続くのでしょうか。海外ラグジュアリーブランドの小型バッグ、若い消費者のために20万円を切るエントランス商品を用意していた数年前が懐かしいですね。中国景気が悪いと言われていますが、中国からの若年層インバウンドは有名ブランドの大きなショッパーを抱えて歩いています。今日も銀座の歩行者天国の主役は完全に中国系の若いお客様、本格的な春節(今年は2月10日)バカンスはこれからですから、中国は報道の通り本当に不景気なのかどうか今日の銀座を見ると疑問に思います。日本ではこの1年生活必需品が相当高騰していますが、ファッション商品の価格の上昇はそれ以上に値上がり、ジャパンブランドであれ外資ブランドであれちょっと異常レベルではないでしょうか。2020年新型コロナウイルス騒動の前のほぼ2倍になった商品は少なくありませんから。「売れてるからいいんじゃないの」と言われそうですが、本当にこの状態でいいのかどうか。ここは、価格高騰についてこれない消費者にはユニクロもGUも無印良品もあると理解すべきなんでしょうかね。私、最近履きやすいスニーカーに目覚めて結果的には良かったのかもしれません。普通のadidasならトッズの値段で5足以上買えますから。(写真は全て2023年12月中国杭州、寧波で撮影)
2024.02.03
円安の影響はかなりあるのでしょう、物価の上昇が止まりません。春物商品が並び始めた売り場を歩いて感じるのは「随分高くなったなあ」。コロナ禍以前インポートブランドのナイロン地やキャンバス地小型バッグは20万円程度、若年層にはちょっと背伸びすれば手が届くエントランス価格でした。が、いまやエントランスは30万円、ブランドロゴが入ったキャンバストートはちょっと信じられない高価格になりました。 スーパーマーケットでもこの1年間食料品値上げラッシュ、誰もが物価高を実感する世の中。数年前までデフレ脱却は経済政策のキーワードでしたが、今度は一転してインフレ抑制が重要なテーマに。政府は企業側に賃上げを呼びかけ、経済団体はこれにある程度応じる構え、労働組合は今春闘は強気な姿勢。果たして物価上昇を上回る賃上げは実現するのでしょうか。 何度もSNSやこのブログで指摘してきましたが、日本のアニメ漫画は世界で高く評価されているものの、儲けは日本側に入らず海外勢が儲けるだけ、いつまでたっても制作現場は低賃金と不当な残業で「ブラック」です。日本側がしっかり権利主張して儲けを取り戻し、制作現場の処遇改善を進めてブラック企業からの脱却を実現して初めて「クールジャパン」と言えるのであって、海外勢を儲けさせるだけではいくらコンテンツが高付加価値でもクールじゃないです。 C F D(東京ファッションデザイナー協議会)の事務局を預かってファッション流通業界にいろんな提言をしているとき、デザインの盗用問題と共に販売員の処遇改善の呼びかけには力を入れました。ちょうど「夜霧のハウスマヌカン」というファッションブランドの販売員の日常を皮肉った歌がヒット、これにはものすごい抵抗がありました。真面目に働く販売員がいっぱいいるのに彼らをからかう歌、業界人の一人として腹がたちましたが、同時にその原因は業界側にもあると思いました。 このブログを書き始めた頃、ある大手アパレル企業で息子が働いているという女性から突然メールを頂戴しました。都内有名私立大学を卒業して大手企業に就職、これでやっと親の仕送りを終えることができると思ったら、社会人1年生の息子から仕送り継続を頼まれたとか。息子に状況確認したら、最初は店頭で販売職からスタート、試着販売のため会社から支給されるユニホーム用以外に自社商品を購入せねばならず、給料から天引きされると毎月手取りはほとんどゼロ。試着販売の服を買わせて社員の手取りがほとんどないなんてブラック企業ではないでしょうか、そんな内容のメールでした。 私は「そうですね」と同意するしかありませんでした。これが、私の関係する企業に対するご批判であれば、しっかり反論しました。なぜなら、われわれは試着販売の服を社員に負担させないようルールを改善、総合職と販売職の給与格差の是正に取り組んでいましたから。他社のことは内情をよく知らずに説明できませんので、曖昧な返信を差し上げたと記憶しています。おそらくファッション企業で子供が働く親御さん、同じ思いの方はいまも多いのではないでしょうか 一般的にファッション流通企業では総合職と販売職をわけ、処遇の差も明確に提示して新卒採用します。入社時から両者の給与格差は明白なのでしょうが、どうして総合職の方が初任給は多いのでしょうか。総合職と販売職を分けることさえ私は意味があるとは思えないのです。 自分が責任者のとき、総合職採用も1年程度は全員が店頭での販売業務(これが嫌ならどうぞ他社を受験してくださいという姿勢)、また本社M Dや販促担当などは販売経験のある社員をどんどん抜擢する仕組みに改善しました。だから総合職と販売職の給与をわける意味がありません。財源が必要なので時間はかかりましたが、給与体系一本化に向けてみんなで努力したものです。(その後のことはわかりません) 販売員にはよく言いました。「自動販売機でも販売はできる」と。ファッション販売のプロとなって発注に責任を持ち、マーチャンダイジングの知識を持って仕事してくださいとも言いました。店長に発注権を渡したのも、マーチャンダイジングをゼミ形式で丁寧に教えたのも、販売の仕事を変えたかったから。精度の高い発注ができて店頭で良いチームを作れる店長はプロ、それなりに処遇するのは企業として当然と幹部たちには言い続けました。だから他の会社に比べると販売職の研修は充実、素晴らしい発注をさらりとやってのける店長が増え、高いプロパー消化率を維持できました。 百貨店に復帰してお取引先の店長さんにマーチャンダイジング講座を開いたとき、あるファッションブランドの店長さんからこんなことを言われました。「◯◯◯(私が所属した会社)のショップはどこか違うと感じていましたが、講座に参加してその理由がわかりました」、と。「どこか違う」と感じていた競合ブランド店長さんがいたと知ってものすごく嬉しかったですね。 そもそも総合職って何なんでしょう。近年は売り場をほとんど回らず、デスクのパソコンをパチパチしてるのか会議ばかりしてる人が増えたと感じます。アパレルメーカーの営業担当と売り場で出会う機会は極端に減りました。幹部の大半が営業部門の総合職という企業はいまも多いでしょうが、それでは時代が読めず世界のブランドと戦えないのではないでしょうか。改めて思うのです、総合職と販売職をわけて採用すること自体そろそろ再考してみては、と。でないとずっと本社や営業所のデスクにいて売り場に関心持たない社員が増えるのではないでしょうか。加えて、人口減少の中、社員の定年延長も真剣に考える時期ではと思います。ミナペルホネンが高齢者を新たに販売員採用して話題になりましたが、経験豊富な販売員は相当な戦力になるはずです。欧米のようにキャリアの長い販売員が売り場にいるとショップ全体に安心感が生まれると思います。ミナペルホネンに続く会社が現れるといいんですが。
2024.01.29
能登半島の余震、なかなかおさまりません。連日テレビ画面上部に地震速報のテロップが現れるたび、東京で揺れは感じませんがドキッとします。地元中学生の集団疎開、勉強できる環境を求めて参加した生徒もいれば、地元から離れたくないと避難所に残った生徒もいて、中学生社会の分断に心が痛みます。震災後自分たちは何ができるのか、やれることをやってみようと動いたことが過去二度あります。1995年の阪神淡路大震災、東京ファッションデザイナー協議会議長としての最後の仕事は有料チャリティーファッションショーを企画して収益と募金を被災地に贈ることでした。デザイナーの皆さんはそれぞれの個性を表現しにくいジョイントショーは大嫌い、でも今回だけは黙って参加してくださいと呼びかけてどうにか実現しました。東日本大震災直後救済イベントのビジュアル2011年百貨店に復帰した直後の東日本大震災、被災地のためにみんなで被災地救済チャリティーを企画、地震の1カ月後に全館あげての救済イベントを実施しました。正面ウインドーに貼った全社員の被災地に向けた多数のメッセージカードを写メしながら涙を流すお客様、東北の食材を買い物カゴに入れながら「被災地のためになるのよね」と涙を浮かべながらお買い物されるお客様には心打たれました。このときルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさん、靴デザインのクリスチャン・ルブタンさん、日本では山本耀司さんなど世界各国デザイナーがチャリティーオークションに協力してくれました。イベントのことをネットで知った南相馬の避難所暮らしの女性から感謝のメッセージをいただき、社員からは「この会社で働いていることを誇りに思います」と泣けてくるメールをもらい、私も感動させてもらいました。「百貨店にはまだやれることがある」とチャリティーイベントの模様を長年のライバル店幹部に伝え、一緒にファッションイベントを始めたのも大震災直後の救済チャリティーがきっかけでした。GINZA FASHION WEEKのウインドー能登半島の惨状を見るにつけ、ファッション流通業界は何ができるんだろうと考えさせられます。被災地には世界に誇る繊維産業がありますし、ハイレベルな衣食住関連商品を長年作ってきた工房や工場も多数。生地を織れなくなった繊維会社、醸造が困難になった蔵元、津波で魚市場や水産加工所が被害にあって魚介類を全国に送れなくなった漁業組合、彼らのため我々にできることは何なのか、みんなで考えたいですね。 * * * * * 昨年12月の杭州でのセミナーさて、12月杭州で中国ファッション業界の経営者たちに向けてセミナーをやらせてもらいましたが、それがご縁で2月下旬に上海と広州を訪問することになりました。2月中旬はお正月にあたる春節、中国企業のほとんどはお休みになり、多くの中国人は旅行に出ます。なのでセミナー時に投影するテキストを早めに制作して春節前に現地通訳さんに翻訳してもらわねばなりません。ここ数日はその資料作りに没頭、やっと完成したのでセミナー主催者にメール送信しました。今回は普段日本で指導している「マーチャンダイジングの基礎」を中心に講演します。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか仮説を立て、販売計画をみんなで話し合って能動的販売を心がけましょうというストーリー。前回杭州でお世話になった素晴らしい通訳さんが再度手伝ってくださると伺ってますので、前回以上に私の意図を理解して訳してくれるはず。海外セミナーは通訳さんの出来不出来で成果は決まりますから心強いです。先日お会いしたテキスタイル業界の重鎮と中国ファッション企業の経営者たちのことが話題になりました。プレミアムテキスタイル展ベストニットセレクション展これまで日本でもたくさんセミナーや社内研修を引き受けてきましたが、概して日本では最後の質疑応答は形式的、経営者は「いいお話を伺いました」とは言ってくれますが次のアクションはほとんど何もありません。一方の中国は質疑応答は司会者が止めなければ延々と続き、その場にいた経営者は「もっと教えてもらえませんか」、「今度はわが社の社員に研修してくれませんか」と積極的。このリアクションの差はなんでしょう、という話になりました。創業10年足らずの新興ベンチャー企業数社がしのぎを削って電気自動車を一気に普及させた中国に対し、日本では電気自動車の普及は大幅に遅れている。経営者の改善しようとする情熱、探求心あるいは時代を読む力の違いでしょうか。先月杭州での講演と同じ話をもしも日本でやったとしても、中国のようにその続きを講演依頼する会社は恐らく現れないでしょう。来月の中国出張ではバージョンアップした次のレベルの話をせねばと、前回以上に一生懸命テキストを作りました。仮に来月の講義が及第点ならばそのまた次の要請が来るでしょうし、彼らの胸に刺さらなければ次の話は全くないと思います。言い方を換えれば、中国は「いいお話を伺いました」で終わる社会ではなく、ビジネス講演でさえ真剣勝負、スピーチする側には緊迫感がつきものなんでしょう。大学卒業後渡米してから私は組織人でなく一匹オオカミとして仕事をしてきたので、案外中国社会とは肌が合うかもしれません。振り返ってみれば、これまで日本では「空約束」を何度も経験しました。お会いするたび「今度ぜひお話を伺いたい」や「今度ぜひ一献」と言ってくださる企業や組織の幹部は多いんですが、その大半は実現しないまま。もちろん中にはそういう挨拶を交わした翌日すぐ連絡があって研修の依頼や会食アポが入ったケースはありましたが、あいさつ代わりに言っただけというケースはかなり多かった。帰国してデザイナー協議会を始めた頃は私も若かったので、そのお誘い言葉は単なる社交辞令、その気はさらさらないとは知りませんでした。大人たちの空約束や、こちらがあまりに若過ぎてアポのお偉いさんがしらけた顔をするケースが頻繁だったので、私はあえてネクタイの着用を止め年中ノータイスタイルになりました。若造がノータイで面会の場に現れるとムッとした表情になるお偉いさんたち、彼らにあれこれ説明したり協力要請するのは時間の無駄、こういう人ならさっさと面談を切り上げたものです。当時は若かったので相手にされないのも無理ありませんが、ベテランになってからも空約束や社交辞令は続きましたから日本のビジネス界の習慣なんでしょう。ポリエステルメーカーの工場前述のテキスタイル業界の重鎮に申し上げました。中国にはもっと日本の素材を起用して上質なファッション商品を作ってみたいと考える経営者もいます。彼らに日本素材の起用を促す具体的な仕掛けを業界全体で考えるべき時期に来ている。市場規模を考えても、日本企業の将来性を考えても、やる気のある中国企業に本気で売り込む体制作りに早く取り組むべき、と。セミナーのあとのリアクションのスピードを見ればやる気のある中国企業と向き合う方がテキスタイルメーカーにはプラスです。能登地震被災地は世界にその技術を誇る合繊生産拠点も含まれます。被災地支援のためにも、海外バイヤー招聘予算を持っている公的機関、テキスタイル展やニット展示会の運営関係者には、リアクションのスピードが速く市場規模の大きな国への訴求策を具体的に考えて欲しいです。
2024.01.20
前項「社員のお母さん」が1970年に自宅で起業したのは30歳になるかならないか、会社経営を学校で学んだわけでもないし、当時はまだ男性社会で苦労も多かったはず。しかも創業の翌年早くも三宅一生さんはニューヨークでデビュー、73年にはパリコレ進出、きっと資金繰りも大変だったでしょう。出産前の大きなお腹を抱えて資金調達に関西出張した話を小室さんから伺いました。いつの時代もいかなるジャンルでも先駆者はお手本がないので苦労の連続です。小室知子さん(ソルトンセサミお仲間のブログから引用)ソルトンセサミのお仲間と。右から2番目が小室さん。CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立してちょうど1年経過した頃、私がニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOLF DESIGN)夜間バイヤー養成プログラムで学んだことを日本の若者にも伝えようと、個人的な勉強会「月曜会」を開講しました。ここで一番伝えたかったことは、「売り場を歩いて時代の変化に敏感になる」でした。パーソンズで「敵情視察」(2つの店を調べて比較分析、改善点を考える訓練)の宿題が一番きつかったし、同時に人生で最も役に立った講義、これを日本でも教えようと私塾を始めたのです。月曜会の授業料は無料、週一度講義があり、宿題もたっぷり出す。外部講師への謝金は私が業界セミナーで得た講演料でカバー、会場はCFD会議室を使用するので無料。受講生は一般公募、その告知は夏休み期間中に繊研新聞に記事掲載してもらいました。普通に募集すれば職場や学校で記事が目に留まることもあるでしょうが、夏休みならば自宅購読していないと気がつきません。せめて専門紙の1つくらいは自宅で読んでいるやる気のある若者を集めたかったので、あえて夏休みに募集しました。選抜レポートで応募者の中から参加者を決めましたが、正直に言えば毎回1枠だけ例外がありました。CFDの運営で何かと私の力になってくれる小室知子さんの推薦枠、小室さんが指名したイッセイグループの若者が毎回1人参加していました。当時主にショップデザインを担当していた吉岡徳仁さん、滝沢直己さんのイッセイミヤケで雑貨デザインを担当した小此木達也さん、独立後バッグブランドMagnu(マヌー)を手掛けた伊藤卓哉さん、彼らは特別枠での参加でした。吉岡徳仁さんはユニークな存在でした。宿題とは別に毎回全受講生には感想文を提出してもらうんですが、彼だけは毎回文章の代わりに詩を書いてきました。外部講師の話に対して自分なりに感じたことを詩に書く、それがなかなかマトを得ていて説得力あるものでした。昨秋の毎日ファッション大賞授賞式で彼とは久しぶりに会いましたが(同賞トロフィーは吉岡さんデザイン)、「太田さんの顔を見たら月曜会を思い出しました。楽しかったですよね」、と。彼の詩に「楽しい」の文字は見たことなかったですが、懐かしそうに声をかけてくれて嬉しかったです。もうひとりバオバオイッセイミヤケのバッグを考案した松村光さんも参加者でした。彼はすでに三宅デザイン事務所に在籍して小室さんの推薦だったのか、それともまだ武蔵野美術大学大学院生で自主応募だったのか忘れましたが、彼も月曜会の塾生でした。デザイナーのほかにも素材メーカーや小売店勤務、ショーのプロデュース会社やデザイナーアパレルで中核メンバーとして活躍している教え子もいます。CFD事務局で開催する無料の私塾、会員企業の従業員が参加してもいいんですが、CFDのほかの会員企業は興味がなかったようで頼まれることはありませんでした。また、私たちが設立に奔走したIFIビジネススクール(1994年秋開講)の夜間プロフェッショナルコースにも、イッセイグループ社員(エイネット含む)が毎回参加していました。こちらは授業料有料、参加のための審査はありません。小室さんはこういう場で若い社員が刺激を受け、他社の人たちと交流して視野を広げることが重要とお考えだったのでしょう。ビジネススクールに毎回若手社員を送ってきたブランド企業はイッセイミヤケグループだけでした。山中IFI理事長(中央)の背後にイッセイグループ社員主だったファッションブランドは年2回はコレクション発表(メンズ、レディース両方を展開するブランドは年4回)があり、コレクション発表直前と展示会準備で企画部門も営業部門も残業が当たり前、中にはタイムカードなしのサービス残業をさせるブラック企業も少なくありません。だから従業員は自己啓発の機会が少ない。これでは視野の広い人材、人脈ネットワークのある人材はなかなか育ちません。サービス残業はもってのほか、ブランド企業幹部は残業をやめさせ、社員を時間通りに解放して自己啓発や他社との交流の時間を与えるべきだと思います。せっかくファッション流通業界の人材育成のためにビジネススクールを作っても(設立に奔走していた私は当時CFD議長)、ファッションブランド企業からの受講生はほとんどなく、イッセイグループの社員たちだけが参加者でした。世界的に知名度の高いブランド企業の創業者が若い従業員を私設勉強会やビジネススクールに送り込んで経験を積ませる、ブランド企業の幹部にはぜひ考えて欲しいことです。本来、企業はヒト、モノ、カネの順。近年はカネ、モノ、ヒトの順と考える経営者は決して少なくないように感じますし、クリエーションが重要なブランド企業はまず最初にモノありきかもしれません。が、いくらアトリエのクリエーションが秀逸でも、ヒトを育てないことには企業の発展はありません。小室さんはグループのお母さんとして多くの子供たちにチャンスを与えてきました。加えて、自宅に若い社員たちを呼んでは社員たちの忌憚のない意見をよく聞いていましたし、グループから独立した社員たちが開く展示会には頻繁に足を運んで励まし、応援のために個人発注もされていました。もちろんグループの発展には歴史に名を残すカリスマデザイナーの存在が大きかったし、ほかに優れたテキスタイルデザイナーや熟練パタンナーの存在もありましたが、人材育成に熱心だった創業マネージャーの存在も大きかったと思います。グループ卒業生がファッション業界でたくさん活躍しているのも、ヒトに学ぶチャンスを与えてきたからではないでしょうか。
2024.01.14
能登半島地震の被害者の皆様の労苦をニュースで見るたび心が痛みます。いまも強い余震が続き、断水に停電、道路は遮断されて救援物資は届かず、かなり厳しい状況に変わりありません。1日も早い復旧をお祈りします。年明け早々写真家篠山紀信さんの訃報が届きました。そして、篠山紀信さんの名前を聞くと反射的に思い出す方がいます。三宅一生さん(1938年ー2022年)の創業パートナー小室知子さん。このブログ「交友録40」でも少し触れましたが、私が尊敬するファッション業界人のお一人。イッセイミヤケグループの「落穂拾い」を自認、グループの扇の要であり、社員たちにはお母さんのような存在です。(右)小室知子さん(中)資生堂池田守男さん 1997年撮影まだ米国まで直行便が飛んでいなかった時代、小室さんはメーキャップアーチストを目指して米国西海岸に留学するはずでした。ところがいまで言う留学詐欺に引っ掛かり、現地入りするも目指す学校には入学できなかったそうです。せっかく米国に渡ったのだから1年くらいは住んでみようと遊学を決め、帰国して講談社の女性誌編集長と出会ってファッションページを担当する仕事に。その頃多摩美術大学を卒業してフリーランスだったパリ留学前の三宅一生さんと出会います。帰国後小室さんが関わった女性誌表紙アンアン、ノンノが発行されていなかった頃の女性誌は巻頭カラーの数ページをファッションにあてていました。婦人服メーカーや小売店、ファッションデザイナーの作品を紹介する巻頭ページに大学を卒業したばかりの三宅さんに声をかけましたが、個人で服を作っている青年にはサンプルを制作する十分な資金がありません。企業やすでに活躍しているデザイナーから撮影用サンプルを無償提供されるのが当たり前だった時代、「制作費はどうなるんですか」の三宅さんの質問にはハッとしたそうです。このやりとりで小室さんにははっきり記憶に残るデザイナーとなりました。その後、三宅さんは鯨岡阿美子さんらに勧められてパリのオートクチュール協会が主宰するモード学校に留学、オートクチュールメゾンのジバンシイやギラロッシュでアシスタントとして働きます。1968年三宅さんはパリ五月革命に遭遇して「特権階級のためのオートクチュールでなく、一般市民のための既製服を作ろう」と時代の変化を感じてニューヨークに移り、米国トップデザイナーのジェフリービーンで既製服作りを体験して帰国しました。一方の小室さんは雑誌の世界からスタイリストとして広告業界に身を置きます。天才CM作家としていまでも語られる杉山登志さん(1936年〜1973年。「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません」という遺書を残して自殺)や、カメラマンの横須賀功光さん(1937年ー2003年)と組んで資生堂などのTVコマーシャルや広告写真撮影に携わっていました。ちなみに「貼っても貼ってもすぐ盗まれるポスター」第1号は前田美波里がモデルとなった資生堂のポスター(写真下)、そのスチールは横須賀さん、映像は杉山さん、スタイリストは小室さんでした。前田美波里を起用した資生堂ポスター(撮影:横須賀功光)そして、湘南海岸で運命の再会。湘南に遊びに行った小室さんは、あの青年デザイナーとバッタリ遭遇します。いずれ日本でデザイン会社を作りたいと三宅さんから抱負を聞いた小室さんは、仕事仲間だったカメラマンたちに出資協力を呼びかけ、下落合の自宅マンションを登記所在地に1970年株式会社三宅デザイン事務所を設立します。このとき小室さんは弱冠30歳寸前、新進気鋭の写真家だった横須賀功光さんや篠山紀信さんよりも若い女性、思い切った決断でした。もうひとつエピソードを。杉山登志さんと共に旭化成のCM撮影地で小室さんは宣伝部の女性社員から「どうやったらスタイリストになれますか?」と声をかけられます。それから数年後小室さんが彼女の姿を再び見かけたのは、最初に三宅デザイン事務所がオフィスを構えた赤坂の小さなマンションでした。なんと上層階であのときの女性は一足早くファッションブランドを立ち上げていたのです。誰だかもうおわかりですよね。世界の次世代デザイナーたちに多大な影響を与えたジャパンブランド2つは偶然にも同じマンションにオフィスがありました。1970年に創業、翌年にはニューヨークでコレクション発表、1973年にはパリコレに参加してイッセイミヤケの名前はあっという間に世界で知られるようになりました。三宅デザイン事務所には多くのデザイナーやパタンナー、テキスタイルデザイナーが集まり、巣立って行きましたが、グループを卒業した後も小室さんはずっと目をかけていました。なので退職して時間が経過しても卒業生たちにはお母さんのままでした。1985年東京ファッションデザイナー協議会が発足、このとき事務所探しはじめいろんな相談に乗ってくれたのが小室さんでした。協議会事務局を預かる私のところにはたくさんのデザイナーやアパレル企業幹部が契約解消や新ブランド立ち上げの相談にやってきました。このとき私が「これをテキストと思って読んでください」と渡していたのが、三宅デザイン事務所創業15年の85年に旺文社から出版された「一生たち」、小室さんの思いが詰まった本でした。旺文社「一生たち」この本は三宅さんのクリエーションではなく、デザイン事務所で働く全員のインタビューが収録され、いろんな立場の人がそれぞれ役割を担っていることがよくわかる解説書、言い換えればデザイン会社の企業秘密を公開したような内容でした。デザイナー個人の才能だけではブランドビジネスは成立しない、チームとしての組織力が成功には不可欠と教えてくれるバイブル、だから私は訪ねてくる若いデザイナーたちにこれを配りました。1985年当時はバブル時代のど真ん中、簡単にブランドビジネスできると勘違いしていた若者や企業が多く、業界全体が浮き足立っていましたから。協議会の運営方針やメディア対応などで三宅さんと私が意見衝突すると、三宅さんのパートナーである小室さんは私の主張を入れてよく三宅さんを説得してくれました。時には副社長辞任を申し出て部外者の私をかばってくれました。デザイナー企業では創業デザイナーのイエスマン幹部がほとんどでしたが、小室さんのおかげで三宅さんとは衝突してもすぐ和解できました。だから私は長きにわたり年長の三宅さんと遠慮なく話せる関係でいられたのです。三宅さんと小室さんは、天才ミュージシャンとバックステージの敏腕マネージャーのような関係だったと思います。「三宅の夢を実現するために私たちは働いています」、このフレーズを何度も聞きましたが、小室さんは黒子に徹してご自身はほとんど表には出てきません。だからマスコミ関係者はイッセイグループにおける小室さんの役割、存在価値をほとんど知らなかったのではないでしょうか。すでに三宅さんはこの世になく、創業当時からブランドが世界で認知されるまでのプロセスは小室さんしかわかりません。ファッション業界全体のためにも、黎明期のデザイナービジネスの扇の要がお元気なうちにどなたかインタビューして1冊にまとめてくれないでしょうか。大切な秘話がいっぱい出てくると思いますが....。
2024.01.06
今日は地下鉄銀座線も日本橋、銀座の通りも百貨店の地上階もアジア系外国人でいっぱい、耳に入ってくる言葉は日本語ではありません。人気ラグジュアリーブランドの路面店やインショップではインバウンド客の行列が当たり前、ものすごい購買欲です。インバウンド客にとっては円安天国、買い物しても高級レストランで食事してもいまは値段の安さを実感するでしょう。かつて1ドル80円台の時代、私たちはニューヨークでもパリでも強い日本円の恩恵を受けましたが、いまはその逆です。シャネル路面店の行列インショップのシャネルにも行列ルイヴィトンもラグジュアリーはインバウンド人気ロンドンのハロッズはロシア系と中東系のお金持ちが多く、売り場ではほとんど英会話は耳に入ってこなかったことがありました。ニューヨークのサックスでは巻き舌スパニッシュアクセントの日焼けした奥様たちが高級婦人靴売り場のソファに腰を下ろし、クリスチャンルブタンやロジェヴィヴィエの靴箱をどんどん積み上げていく光景を何度も目撃しました。パリのギャラリーラファイエットは中国人観光客の団体さんがブランドショップの前で行列、ここは本当にフランスなのかという空気でした。なので東京の中心部で日本語以上に外国の言葉が耳に入ってくるのはごく普通の光景と言うべきでしょう。恐らく世界の主要都市の中心部にある商業施設は売上の半分あるいはそれ以上がインバウンド客ではないでしょうか。地元のお客様であろうがインバウンド客であろうが、お客様であることに変わりありません。都心部でインバウンドが増えたらいけないという考え方はどうなんでしょう、私はもっと増えてもいい、この先もっと増えると思っています。もちろん昔からの常連のお客様を大切にケアするのは当然ですが。銀座4丁目松屋通りの元ランバン路面店のあった場所に面白いポップアップがありました。オニツカタイガーと鉄腕アトムの期間限定コラボショップです。聞けば2週間前に立ち上がり、6週間ほど営業だそうです。手塚治虫さんの鉄腕アトムとほぼ同じ時代にオニツカタイガーは誕生、期間限定にしないで積極的に世界市場に送り込めば良いのにと思いました。このイベント用のショッパー「私の台湾の友人が熱烈な鉄腕アトムファンなんです」、販売スタッフとそんな会話しながらTシャツを購入しました。律儀に毎年春節にギフトを台湾から贈ってくださるので、今年はいいお返しができました。まだ1日残っておりますが、今日私は仕事納め。皆様1年間お世話になりました。コロナウイルスで海外出張ままならず3年間じっと我慢しましたが、今年は10月に台湾の台北、12月に中国の杭州と寧波に出張することができました。招聘してくださった台湾及び中国の皆様、ありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いします。
2023.12.30
昨日目にとまったニュース。今年中国は日本を抜いて自動車輸出国ナンバーワンに躍り出た話、ショッキングです。いずれはそうなるだろうと予想していましたが、もうその時が来てしまいました。しかも輸出は日本が遅れているEV車(電気自動車)、簡単に言えばモーターで走る大型電気製品なんです。中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、一般ガソリン車の青色プレートとは区別されているので誰でも判別できます。今回お邪魔した浙江省の杭州市と寧波市の中心部ではEV車比率が40%くらいに達するのではないかというくらい頻繁にEV車を見かけました。そんな光景は想像していなかったので驚きました。ネット検索してみたら、各国のEV車比率は以下です。日本がこの分野でいかに遅れているかよくわかります。 ノルウェー 88% スウェーデン 54% デンマーク 39% オランダ 35% 中国 29% ドイツ 31% イギリス 23% フランス 21% イタリア 9% アメリカ 7.7% 日本 3%2022年世界のEV車総販売台数は1020万台(前年より60%増)、前年までに販売されたものと合わせると世界中で約2600万台が走っていることになります。そのうち中国の昨年度EV車販売台数は590万台ですから世界全体の約60%を占め、既存のものと合わせると中国製は約1380万台、世界のEV車のなんと2台に1台は中国生産。日本は昨年経ったの10.2万台ですから世界のEV車シェア1%、かなり遅れをとっているのは明らかです。上の2枚の写真は杭州市中心街のショッピングモールにショップを構える通信機器大手メーカーHUAWEI、スマートホンと一緒にEV車を販売していました。同社は昨年から電気自動車の販売を開始しています。私は米国アップルや英国ダイソンが自動車専業メーカーよりもカッコいいEV車を近未来発売すると期待していましたが、HUAWEIはすでにEV車販売に着手、中国はやることが早いです。10年前に北京出張したとき、黄砂の影響もあってかものすごい空気汚染にびっくりしました。高度経済成長の中国では環境問題にあまり関心がないのかなと思いましたが、どうやら私の間違いでした。一部の中国人は環境問題への関心高く、ガソリン車から電気自動車に切り替えているんです。そして気がつけば中国製EV車は輸出の重要品目、ついに今年日本を抜いて自動車輸出ナンバーワンの国になりました。Li Auto社「理想L7」NIO社「es8」杭州市の中心街では電気自動車のショールームが目につきました。写真のLi AutoとNIOに加えXpengが急成長3企業と言われているようですが、いずれも創業してまだ10年足らずの新興企業、既存の自動車メーカーではありません。急成長中の会社ですから資金面はまだ盤石ではないでしょうが、彼らは国内市場のみならず世界市場に打って出ている。こういう新興企業の台頭で中国は日本車の輸出台数を上回る、すごいことだと思います。小泉純一郎政権後半、私たちは政府のコンテンツ戦略会議に招集され、そこで担当官から「電気ではもう外貨を稼げなくなる」と衝撃的な説明を受けました。まだシャープの亀山工場製の薄型液晶テレビが世界中で人気だった頃、信じがたい説明でした。その議論から6年後に国の方針としてクールジャパン政策が打ち出され、それまで政府に軽視されてきた柔らかジャンルの産業を強化されることになり、私自身もその政策のお手伝いをしました。担当官の発言通り日本製電気製品のポジションは著しく低下してシャープはすでに台湾企業に買収され、日本の国際競争力は著しく下がりました。そして、今度は自動車輸出まで中国に追い抜かれてしまいました。日本の自動車産業、電気と同じ道を辿らなければ良いんですが....。
2023.12.27
今回杭州セミナーを企画してくれた金さん(英語表記Aaron Jin)の名刺をもう一度よーく見たら、会社名は「佐吉企业管理咨询(上海)有限公司」とありました。創業者の豊田佐吉氏金さんは大学卒業後豊田通商上海支店に就職、28歳のときに独立。社名「佐吉」はトヨタグループ創業者の豊田佐吉に由来しているのかもしれないと思って金さんにメールで問い合わせたところ、やはりそうでした。豊田佐吉の名前を知っている中国人がどれくらいいるのかわかりませんが、金さんは佐吉翁に敬意を込めてその名前を社名に引用したかったのでしょう。我々が大学で経営学をかじった頃はまだ米国自動車フォードのヘンリー・フォードが生み出した「フォード生産管理方式」が製造業経営のお手本でした。少品種大量生産こそが近代経営の成功事例、と。しかし、必要な物を必要な時に必要な量だけ作るトヨタ自動車の「トヨタかんばん方式」が効率的経営と評価されるようになり、20世紀の末にはフォード生産管理方式は主役の座から滑り落ちます。金さんは豊田通商在籍中にトヨタかんばん方式を先輩たちから、あるいは書物から学んだのでしょう。独立してサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を上海で立ち上げていろんな分野の生産ライン改善を契約企業にアドバイスしてきました。「良い工場は美しい。汚い工場はダメです」、金さんの言葉は繊維工場にも当てはまることです。大野耐一副社長商品の生産に関する合理的な考え方はグループ創業者の佐吉翁から子息でトヨタ自動車を起こした豊田喜一郎氏に受け継がれ、そしてのちに副社長の大野耐一氏によって体系化されたと言われ、大野副社長はその功績により日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りを果たしています。先日金さんと会食した際にこの大野耐一副社長の話で随分盛り上がりました。それは私のオヤジから聞いたエピソードでした。オヤジは激戦のインパール作戦から帰還すると最初は名古屋の松坂屋百貨店紳士服部に就職、高級注文紳士服のパタンメーカーとして勤務しました。私が生まれた年にオヤジは独立して名古屋市の隣の三重県桑名市でテーラーを開業しました。ところが松坂屋のお客様の中にはオヤジがカッティングした洋服でなければ満足できないという方が何人もいて、テーラーを経営しつつ松坂屋の納入業者にもなりました。常連のお客様が友人を紹介してくださるうちにいつの間にか桑名市のテーラーながらお客様のほとんどが愛知県の大手企業幹部やお医者様など富裕層に広がりました。その中のお一人が当時トヨタ自動車副社長だった大野さんでした。洋服が完成するとオヤジは愛知県刈谷市のご自宅に洋服を納品しに行きますが、大野さんからは「太田さん、我が家にトヨタ以外の車でやってくるのは君だけだよ」と笑われたそうです。オヤジの車はずっと日産でしたから。ご自宅にお邪魔して出来上がった洋服のフィッティングを確認すると、大野さんはいつもお土産をくださいました。いまでも覚えているオヤジのセリフ、「トヨタの副社長さんは食べてるバナナもものが違うわ」。納品から戻ったオヤジから手渡される大野家のバナナを手に取ると、確かにバナナは重く大きく立派、甘さもたっぷりでした。大野耐一氏講演の様子オヤジにいつも洋服を注文してくださる大野副社長が果たしてトヨタかんばん方式を世に広めた大野耐一氏かどうか私には正確なことはわかりませんが、1960年代後半にトヨタ自動車工業(まだトヨタ自動車販売と分かれていた)副社長で刈谷市在住の大野さんは多分この方ではないかと思います。だからネットや書籍で大野さんの写真を見るたび、このスーツは我が家で作ったものに違いないと勝手に思っています。トヨタかんばん方式を世に広めた功労者であろう方の洋服を作っていたテーラーの倅が、その考え方に触れてサプライチェーンマネジメントのコンサル会社を中国で立ち上げた中国人の若者に招聘され、中国の経営者たちにトヨタ車の写真を何枚も見せながらものづくりの最重要ポイント、ブランディングの難しさやブランドDNAの継承を講義する。なんとも不思議な筋書きじゃないか、と金さんたちと盛り上がりました。経営学のバイブルだったフォード生産管理方式が時代の変化と共に徐々に評価されなくなったように、トヨタかんばん方式がいつまでもサプライチェーンマネジメントのバイブルであり続けるとは思えません。生産管理システムそのものはまだ当分通用するかもしれませんが、自動車というマーチャンダイズ(=商品)のマーチャンダイジングやブランディング戦略の点ではヨーロッパの自動車メーカーと比べて優位性があるとは思えませんよね。また、今回の中国出張でEV車開発では日本は中国メーカーよりもかなり遅れていると実感しました。トヨタかんばん方式の考え方は素晴らしいんでしょうが、この先日本の自動車メーカーはどうなるんだろう、ちょっと不安になりました。中国語版「大野耐一的現場管理」
2023.12.23
月曜日夕刻上海浦東空港から車で杭州に入り、火曜日と水曜日は終日セミナーでした。木曜日は主催者の計らいで杭州の観光地「西湖」湖畔でのんびり。そして金曜日は車で寧波に移動、阪急百貨店の視察、大手アパレルの1つであるYOUNGOR(ヤンガー)本社を訪ねました。まるで政府機関のような本社ビル企画や営業のワンフロア私の右側白いニットの女性が社長出迎えてくれた女性はモンクレールのキルティングジャケットを着ていました。モンクレールは中国でも人気があるとおしゃべりした女性がなんと社長でした。彼女は20余年前に新卒採用され、まず本社の中にある縫製工場で働き、その後直営店で販売を経験、本社に異動になってブランドのマネージメントなどいろんな現場を歩いてきた叩き上げ社員、創業一族の縁故関係ではありませんでした。ヤンガーグループは不動産業などいろんなジャンルに進出、現在アパレルの売上比率はかなり低くなったとは言えまだ円換算で約2700億円売上の大企業、叩き上げのしかも女性社員を経営トップに抜擢した親会社の幹部は素晴らしい。新興企業によくある、海外の有名大学に留学してMBAを修得後帰国する優等生をヘッドハンティング経由でスカウトではありません。経営者として然るべき業績を期待したいです。本社ビルの中にある広い縫製工場基幹ブランド「ヤンガー」のショールーム上級ブランド「メイヤー」はロロピアーナなど高級素材使用米国ブランドも扱うヤンガーは一貫生産を大事にしています。全部の素材ではないにしても、綿花や麻を自家栽培、それを紡績して布を製造、自家工場でアパエル製品に仕上げています。そのためいろんな品質検査機関も社内なので本社には白衣を着た技術者がたくさん働いています。内製化することで品質への安心は得られるでしょうが、人件費を含めそれなりに経費は増え、売上の割に支出の多い企業体質かもしれません。工場の流れを見える化しているので現時点で生産ラインのどのポイントが渋滞しているかは誰にもわかります。また、全国約2000の店頭と本社を結んで瞬時に会社全体の売上合計が表示されます。ネット通信とコンピュータを駆使して数値管理は徹底していますが、生産ラインの改善、商品のクリエーションにはもっと手を加えてもいいのでは、と正直思いました。本社内には立派なホテルがあり、そこで夕食をご馳走になりました。せっかく工場を案内してもらったのでマーチャンダイジングの基本を備え付けのクローゼットのハンガーラックを使いながら説明。社長とマーケティングディレクター(こちらは外資ブランドから転職したばかりの女性)は定数定量管理の考え方を聴いてくれました。杭州セミナーに参加してくださったアパレルメーカーやSPA企業幹部はヤンガーの女性社長とほぼ同世代、日本に比べると概して経営陣は若く熱心、問題意識もお持ちです。だからまだまだ伸び代があるように感じました。
2023.12.22
齋藤孝浩さんの紹介で、今年9月に訪日中国人アパレル関係者に「クリエーションとビジネスの関係」と題する講演をしました。コロナウイルス前後の日本の消費変容、デザイナー解任劇多発の問題点、ブランドDNA継承の重要性などを話しました。このとき訪日ツアーを企画した金さん(英語ではAaron Jinさん)から、今度は中国に出張してファッション業界に向けてセミナーをやってもらえないかと頼まれ、今回の師弟研修旅行が実現しました。初日夕刻、上海浦東空港で我々を出迎えてくれた金さんと杭州市中心街のレストランで打ち合わせがてら食事をしていたら「これまで食べた中で印象に残る中華料理はありますか」と質問され、私は初めて香港出張したときに潮州料理店で食べた上海蟹味噌を麺とあえたカルボナーラのようなヌードルと答えました。初日のセミナー翌日、セミナー第1部が終わって昼休み、会場すぐ隣の杭州料理店で数人のアパレルメーカー経営者らとランチをしましたが、なんと上海蟹がドーンと大皿に並んで登場したのです。前夜の私の発言を受けてすぐ上海蟹の元締めに連絡して特別に用意してもらった、と。金さんは「私たちの本業はサプライチェーンマネジメントのコンサルタントですから、何事もスピーディーに動きます」と笑っていました。気遣いには感謝しつつも、決して安価なものではなく、前夜余計なこと言わなきゃ良かったと反省でした。が、なんと翌日ランチも上海蟹は登場しました。初日の講師は私、2日目の齋藤孝浩さんの講演が終わって3日目、杭州市郊外のセミナー会場近くのホテルから何故か観光客に人気がある西湖の「西湖山荘」に引っ越しました。ここはたくさんの木々に囲まれ、鳥のさえずりが聞こえる優雅なリゾートホテル、のんびりするには最高です。西湖の周辺に移動と聞いて我々は湖畔のショッピングセンターでお店を見て回るつもりでしたが、チェックイン手続きを終えると金さんは湖畔の緑地に連れ出し、「仕事ばかりではつまらない。1日くらいはのんびりしてください」と遊覧船にも乗せてくれました。息子のような若者がこの気遣いでした。格式ある西湖山荘の正面入口で西湖の緑地を散歩火が沈む頃の緑地は観光客でいっぱい日没後は売り場歩きそれぞれ終日セミナーを担当したので金さんなりの慰労の意味だったのでしょう。が、中国に来たからには売り場をたくさん見て回らなきゃと我々はショッピングモール視察を持ちかけ、やっと日が暮れてから中心街のモールや路面店を視察できました。せっかちな我々は湖畔の散歩よりも売り場視察の方がお似合いだと思いますが、この日は金さんの計らいでのんびりと過ごすことができました。会食中、金さんは私に「私は中国をもっと良くしたいと思って28歳で会社を立ち上げました」、と熱く語ってくれました。その目は真剣そのもの。そして、彼はいつもプロジェクトの背後にいて、一般的なセミナー主催者挨拶のような場面は作らず表には出てきません。記念写真も我々講師ツーショットや通訳さんとの撮影は何枚もありますが、金さんとの写真は今回私の手元に1枚もないことに帰国して気がつきました。私のPCには9月セミナー後に西新宿のレストラン前で撮影したものがたった1枚あるだけです。起業して8年の36歳、契約している大手精密機器などにサプライチェーンマネジメントをアドバイスしている人物とは思えない若者、東京コレクションを始めた頃の生意気な私をちょっと彷彿させます。私の左が金さん、右が齋藤さん金さんは「せっかく中国に来ていただくんですから、企業トップが出てこないような会社の参加申し込みは受けません」と強気でこのセミナー企画を業界に訴求したと聞きます。そして会場では各地から集まった経営者らと話をしながら、今度は我々2人による個別社内研修を勧め、上海に拠点を置く老舗大手ニットメーカーと広州に拠点を置く成長著しい新興製造小売業と話をまとめたのです。西湖の休養の翌々日、ちょうど私のフライトが成田空港に到着したタイミングで金さんから連絡が入り、春節後の2月下旬の個別社内研修の日程が決まりました。行動力とそのスピード、半端ないです。こういう熱い青年実業家が中国急成長の原動力なんでしょうね。これまで私は国内でたくさん講演させてもらいました。日本の経営者はセミナー後に「良いお話を伺いました」と声をかけてくれますが、セミナーで指摘した問題点を解決に向けてすぐアクションというのは見たことがありません。ここが中国との大きな違いでしょうか。9月に訪日団に講演した後すでに東京で中国SPA企業の研修が1つあり、そして今回の杭州があり、来年2月には個別企業の社内研修が組み込まれました。短期間にどんどんセミナーが企画されていく、「中国をもっと良くしたい」と熱く語る金さんならではなんでしょう。彼に刺激され、これから中国講演出張や訪日団セミナーが一気に増えそうです。
2023.12.19
2021年春の寧波阪急開業時開業時のロジェヴィヴィエの様子前職の官民投資ファンドで浙江省寧波市の未開発地に新しく阪急百貨店のショッピングセンターを建設するプロジェクトに投資する話があり、2014年に建設予定地を訪問しました。当時はまだ周囲にほとんどビルはなく広大なサラ地、地下に完成予定の地下鉄2線の駅も姿かたちもありませんでした。寧波は聖徳太子の時代に小野妹子ら遣隋使が辿り着いた港町、その後も日本から遣唐使が何度も寄港、ここから千キロも離れた長安(現在の西安)に歩いて挨拶に行ったそうです。唐招提寺を建立した中国のお坊さん鑑真はこの港から日本に渡りました。なので日本とはとても縁のある古い都市、しかも上海、シンガポールに次ぐ主要港をいまも有する経済拠点でもあります。市内を走るポルシェの台数は当時上海や北京以上だったので、高いポテンシャルをここで予感しました。寧波阪急百貨店我々の投資も決まって着工、建物そのものは予定通り完成しました。しかし、出店交渉していたヨーロッパの有力ラグジュアリーブランドから正式な回答がなかなか得られず延期に次ぐ延期、結局構想よりも3年ほど大幅に遅れて開業(このとき私はすでに社長を退任)しました。野党議員の一部から開業の遅れを国会の委員会でさんざん批判されたと聞いています。そして開業時はコロナウイルスの真っ最中、どうなるのか心配した阪急寧波店はオープン直後から絶好調、初年度と比べて予算比の倍以上を記録しました。ところが、ラグジュアリーブランドの売上が素晴らしいと伝わってまたもや野党議員の一部から「どこがクールジャパンなんだ」とご批判。おっしゃることは分からないでもないんですが、知名度抜群の有名ブランドをある程度揃えなければ館全体の集客は望めません。まずは集客ありき、そして常連さんを増やし日本の美味しいやカッコイイをゆっくり浸透させていく、これが当初から考えた日本の生活文化を広めるビジネス策でした。現地で知名度のない日本企業が店を構え立って現地の一般住民は見向きもしないでしょうから、我々の考えは絶対に間違っていません。1階の裏口で記念撮影1階ヨウジヤマモト中国で人気の無印良品は大きな売り場デパ地下にはサントリー山崎はじめ日本のウイスキー獺祭、梵など日本の吟醸酒もズラリ揃っているスタジオジブリのキャラクターグッズ店スーパーマリオ人形がセットされた任天堂コーナーデパ地下は系列のスーパーイズミヤ投資には関わりましたが、完成した百貨店を見るのは今回が初めて。噂では初年度は想定したよりも2倍の売上を記録したので社員に臨時ボーナスが支給されたとか、良かったです。我々が訪問したのは平日の午前中だったからか館内は思ったより静かでしたが、デパ地下はそれなりに賑わっていました。デパ地下は現地ですでに実績のあったスーパーイズミヤ(現在は阪急グループの系列企業)が日本の食品などをたくさん扱っていました。日本の百貨店らしくお客様サービスも開店が遅れて批判、開店したらまた批判の先生方、視察ツアーを組んで一度は中国の主要百貨店やショッピングセンターにお出かけください。ラグジュアリーブランドをしっかり導入できないと集客はままならないことを肌でお感じいただけるでしょうし、日本の化粧品、ファッション、雑貨や玩具、そして日本食材や料理はまだまだ伸ばせるポテンシャルがあることがお分かりいただけるでしょう。開業前に心配した点、やはり売り場では少々気になりました。もしもまだ私が投資側のトップのままなら課題の改善を阪急百貨店にお願いしていたでしょうね。課題はどこかはここでは言いませんが、とにかく早い出資の回収を期待です。
2023.12.17
I.F.I.ビジネススクールで1994年から実験的に始めた夜間プロフェショナルコース、主にファッション流通業界で働く若者に向けた6ヶ月間毎週夕方開講のプログラムでした。2000年まで私はコースディレクターを務め、自分自身が講義するときもあれば外部講師にお願いして講義には立ち会うこともあり、指導した受講生は数百人います。その中の一人が当時大手総合商社勤務の齋藤孝浩さん。その後会社を辞めて自分のマーケティング会社を立ち上げ、「ユニクロvsZARA」や「アパレル・サバイバル」などの著書もある人です。今年9月齋藤さんから頼まれて訪日ビジネス研修の中国経営者たちに3時間ほどレクチャーをさせてもらいました。このときツアーの主催者だった中国コンサル会社を経営するKさんから求められ、5日間浙江省の杭州と寧波に出張してセミナーやアパレル会社訪問をしてきました。杭州は主に婦人服アパレル、寧波は紳士服アパレルメーカーが多い都市、今回は杭州市の郊外のアパレルメーカーのショップやショールームが集積する「E FASHION TOWN」と表記があった一画のファッションメーカー本社でアパレルメーカーやSPA企業の幹部ら約80名に齋藤孝浩さんと共に講演しました。杭州市がファッションメーカーを集積したエリア(写真上2枚)教え子でもある齋藤孝浩さんと会場の模様自動車を例にブランディングを語る私齋藤孝浩さんの講義杭州市は人口およそ1300万人の歴史ある都市。かつて浙江省から多くの中国人が海外に進出、華僑と呼ばれるようになりました。この都市の代表的な企業はネット販売最大手のアリババです。中心街の一つは観光地である西湖のそばにありますが、ルイヴィトン、グッチ、アディダス、ナイキ、アップルなどが大型店を構えています。世界の大都市の中心街と変わらぬ顔ぶれ、いまやどの国に行っても都会の中心街の表情はみな同じですね。そんな中で私が一番びっくりしたのは、女性副社長が政治的にカナダで逮捕されて一躍日本でも有名になった電気のHUWWEI(ハーウェイ)の店舗です。なんとスマホと共にここで電気自動車を販売しているではありませんか。ダイソンやアップルがどんな電気自動車を発表するのか楽しみにしていましたが、すでにハーウェイは昨年からEV車を販売。自動車事情に疎いので私は知りませんでした。いよいよ自動車メーカー以外のジャンルからEV車をつくる会社が出てくる世の中です。ショッピングモールの路面HUAWEI店スマホの横にはHUAWEIが製造販売するEV車中国ではEV車のナンバープレートは薄い緑色、道路を走っている自動車のおよそ4割(実際にはもう少し少ないかもしれませんが)はEV用ナンバープレートでしたからかなり進んでいます。自動車メーカーのみならず電気メーカーまでもがもうEV車を手掛け始めたのですから、この分野では日本企業よりも地球環境のことを考えていると言えます。中国ドライバーの運転は荒っぽいけれど自動車産業はサステイナブルです。繁華街では巨大なスクリーが目立つルイヴィトンなどラグジュアリー店がズラリモールの1階内側上海、北京、深圳、広州、重慶の中国GDP五大都市でもない杭州(2021年データでは8位)でも中心街は世界のラグジュアリーブランドがメガストアを独占、しかもどの店舗も競うように明るい照明をつけて華やかでした。中国人がどれくらいクリスマスに関心があるのかしれませんが、夜間も中心街は賑やか、景気低迷のニュースは本当なんだろうかと思いました。5日間の浙江省出張の詳細はこれから順次まとめます。
2023.12.17
新型コロナウイルスで訪日観光客の姿は少なかった過去3年、全国の繁華街にはいつもの師走の賑わいはありませんでした。が、やっとコロナ規制がなくなり、海外から観光客が戻ってきて紅葉の行楽地や繁華街は外国人でいっぱい。先日訪れた広島市も外国人観光客が目立ちましたし、ニュースによれば京都はオーバーツーリズム、地元住民が迷惑しているとか。外国人が激減すれば困るし、増えすぎても困る、悩ましい状況が続きます。ここ東京銀座も外国からの買い物客で相当賑わっています。肌感覚ではコロナウイルス直前と比べて現在の方がインバウンドはかなり増えているのではないでしょうか。コロナ禍前のいつものクリスマスが戻った銀座、しかも急に寒さがやってきて生活者の冬支度は本気モードになり、ここからクリスマスイブまでレストランもお店も今年はかなり期待できそうです。かつては銀行、キャラクターグッズ店、銀行、薬局があった銀座2丁目交差点の角、現在はルイヴィトン、シャネル、カルティエ、ブルガリの大型店が並び、日本で一番ラグジュアリーなコーナーになりました。4店舗ともリッチな会社ですからクリスマス装飾に工夫を凝らし、ここを通る人々の多くは写真撮影のために足を止めます。特に夜はイルミネーションが綺麗でテンション上がります。ルイヴィトンシャネルカルティエブルガリ今年も松屋銀座は青森の女流ねぶた師北村麻子さんとのコラボレーション。日本の伝統美と西洋のクリスマスモードが不思議とマッチして面白い空気を醸し出しています。松屋銀座正面ウインドー1階エントランスのサンタさん地下1階地下小型ウインドー吹き抜け空間に吊るされたサンタさん北村さんのねぶた作品の展示は今年で3回目。松屋の吹き抜けやウインドーの色鮮やかなねぶたを撮影するお客様の姿が今年も目立ちます。
2023.12.05
投資ファンドを退任する頃、お世話になっている方から頼まれて日本での視察研修にやってきた中国ファッション流通業界の経営者たちに講演をしました。するとどういう経路でその講演のことが中国業界に広まったのか、次から次へと訪日中国視察団向けセミナーの依頼が増え、さらには個別の企業の社員研修も依頼されて毎月中国ビジネスマン向け講演レジュメを作成していました。2020年新型コロナウイルスの影響で訪日自体が不可となり、中国人対象の研修依頼はなくなりました。が、この秋口に中国の渡航規制が緩和され、再び訪日研修ツアーが増え、私のところにもいろんなルートから講演打診が届くようになりました。9月中旬ファッション系経営者グループに「クリエーションとビジネスの関係」を講演させていただきました。9月の講演昨今のデザイナー退任劇の急増から、ブランドDNAの継承がいかに難しいか各国の失敗事例をあげながら解説。参加者の中には世界的に有名なネット通販会社で研修を担ってきた幹部がいて、セミナー後にその方のSNSにアップする動画収録もありました。このインフルエンサーのSNSの影響なのか、伸び盛りの製造小売業の社員研修団に対するレクチャーを頼まれ、さらには中国に出張して業界関係者に終日研修する話まで持ち上がり、このところ中国向けに何パターンかのレジュメ制作に追われています。セミナー後インフルエンサーSNSのためインタビュー収録先日講演した製造小売業の研修団は創業者、幹部、店頭指導の専門職ら約20名が5日間日本の工場や売り場を回り、VMD研修を受けるプログラムでした。創業社長が多数の幹部を連れて海外研修する、素晴らしい企画だと思います。私が所属した百貨店も積極的に社員海外研修を毎年実施、社員たちは現地でいろんな刺激を得て自分の仕事に活かしていました。生きたお金の遣い方です。私の講義に参加してくれた中国人には、米国を代表する製造小売ブランドG社が1980年代前半どん底からどのように立ち直ったのか、そして急成長時はどんなに素晴らしいマーチャンダイジングを我々に見せてくれたのか、続けて創業家と経営者の確執から始まった下降線の経緯を説明。製造小売業のものづくり姿勢はどうあるべきなのか私見をお伝えしました。特に素材クオリティーに対する考え方がブランドの方向性に大きく影響する、と。また、この中国企業は新興成長企業なので、これからものづくりで考えなければならないことはブランド十八番(おはこ)をどう作るのか、さらにブランドDNA、アイデンティティーの重要性を説きました。皆さん熱心に聴いてくださって質疑応答は長く、時間を大幅延長して講演は終わりました。来月私が中国に出張して現地セミナーに登壇することをご存知で、創業者は幹部を連れて参加するとおっしゃってました。ありがたいことです。企業研修後の記念撮影(社名はぼかしました)最近はクリエーションとビジネスのあるべき関係をよく話します。例にするのがオランダの画家ヴィンセント・フォン・ゴッホと画商だったテオ・フォン・ゴッホの関係。ゴッホは生涯たった1枚の絵しか売れませんでしたが、実弟テオは兄の才能を信じて支援を続け、テオ家には大量のゴッホ作品が蓄積、それがのちにゴッホの価値を高めました。画商はデザインマネジメントを担う人間、クリエーションを受け止める力量がなければなりません。売れる、売れないだけを論じていてはクリエーションの価値は見えてきませんから。ブランドDNA継承の重要性もよく話します。外部から招聘した人気デザイナーが名門ブランド企業のディレクションを滅茶苦茶にしてしまった事例、その果てにブランドそのものが市場から消滅してしまった最悪の事例、逆に経営陣とクリエイターが事前に方向性を十分話し合って成功した好事例や創業者のクリエーションを後継デザイナーたちがいかにして守ってきたかも写真を紹介しながらお話しします。写真を見せれば言語が違っても誰もが理解してくれます。さらに、ファッション以外の分野でも日本製品には「顔がない」という事例を写真を紹介しながら説明します。これも言語が違ってもこちらが何を言いたいのか 写真から簡単に理解してもらえます。ブランディングについては自動車やパソコン、日本酒を例にします。日本酒では海外のワインに比べてどうして価格が安いのか、どうして日本酒ボトルは貧弱なのか、どうしてヨーロッパのシャトーのように宿泊や食事ができないのか、ブランドとは中身だけではなく外見もサービスも含めた文化を売るもの、と説明します。もう一点、日本のアニメは世界で高く評価されてはいますが、日本のアニメで実際に儲けたのは誰でしょうか、どうして日本のアニメ制作現場はブラックのままなのでしょうか、儲けているのはコンテンツ開発した日本の会社ではありませんという話、外国人ビジネスマンには理解してもらえる事例です。これまでずっと教えてきたマーチャンダイジングの基本、誰に、何を、どのように、いくつ売るのか仮説を立てましょうという話、これは世界共通ネタですから皆さんうなずいてくれます。マーチャンダイジングは長年教え続けてきたこと、いろんな例を引っ張り出しながら講演しています。来月中国で開催されるセミナーは、丸1日3部構成でクリエーションとビジネスの関係についてお話する予定。参加者の中にはこれまで私の講演を来日時に聴いたことある方やその同僚、部下もいるでしょうから、同じ内容、同じ事例で話しては新鮮味がありません。レジュメを何度も何度も書き直しながら、皆さんに新鮮に感じていただけるよう準備しております。
2023.11.12
いまから10年以上前、東北大震災の前後のことだったと思います。部下Nくんが「会ってやって欲しい人がいます」と銀座のレストランに2人の若者を連れてきました。大学卒業後単身バングラデッシュに渡って「最貧国の人々を救いたい」と現地でバッグのサンプルをいっぱい作って帰国、25歳でマザーハウスを起業した山口絵理子さんと、彼女のゼミの先輩で大手ゴールドマンサックスを退職して助っ人になった副社長の山崎大祐さん。Nくんによれば、山口さんはTBS「情熱大陸」をはじめメディアでスポットを浴びる話題の人ということでした。人口が多く貧しいバングラディッシュでコストカットのためにアパレル製品を生産する話はよく聞きますが、貧しい国の人たちに仕事を与えて助けたい、途上国から世界に通用するブランドを作りたいなんてセリフ、このとき私は初めて聞きました。慶應義塾大学のあの竹中平蔵ゼミ出身、山崎さんのように外資系金融機関に就職するのは想像できますが、ものづくり経験が全くないど素人が技術的にはまだ未熟で貧しい途上国でバッグの製造を始めるなんて無茶な話、私にはちょっと想像できません。凄いこと発想する若者がいるもんだと驚きました。山口さんはファッションの専門家に自分たちが作った洋服サンプルを見せ、感想を聞きたかったのでしょう。バングラデッシュのバッグの次は同じく途上国ネパールで洋服を作って貧しい人々に仕事を提供したい、気持ちはわかりますがサンプルを見る限り時期尚早でした。「洋服はバッグよりも在庫になりやすいからリスキー。いまはやるべきじゃないよ」と助言しました。ネパールならまずストールの生産だけに絞ってみてはとアドバイス、洋服の生産はこの段階では諦めてネパール産ストールがマザーハウス店頭に並びました。山口絵理子さんこのとき以来、私の教え子でもないのに山口さんからは時々メールが着てアドバイスを求められます。そして4年ほど前、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を教えてもらえないかと頼まれました。これまで企業研修では顧客分類、商品分類、定数定量管理、発注の心得、販売計画など10数コマを宿題を与えながら数か月かけて教えてきましたが、カリキュラムを短縮してコンパクトな内容で社員教育を引き受けました。カリキュラム短縮には理由があります。私の元部下でかつてマーチャンダイジングの基本を教えたHくんが外資ブランドを経て独立、VMD指導の会社を立ち上げマザーハウスを手伝っていたからです。Hくんが教えているのであれば重複しそうな部分はカット、私がテクニカルなことまで教える必要がありません。こうして関西地方や海外拠点スタッフのリモート参加を含め、マザーハウスの主要メンバーにマーチャンダイジングの基本を伝授しました。何と言っても定数定量の概念をショップスタッフにも本社スタッフにも植え付ける、これに重点を置きましたが、やる気満々の社員たちは飲み込みが早く教えがいがありました。その成果は店頭を見ればわかりますし、細かいことはHくんがついているので大丈夫です。松屋通り沿いの銀座3丁目店昭和通りを渡った角にある東銀座店そして今日たまたま通りかかった2つの店舗を覗いて安心しました。Hくんが何度も定数定量を守るようスタッフを指導したのでしょう、商品は見やすい展開になっていました。店舗数は増え、海外出店も始まり、ビジネスは軌道に乗ってマザーハウスは次のステージに行こうとしています。そこで再びアドバイスをしました。これまでは途上国での生産にこだわってきたマザーハウスですが、この先そのことが「売り」ではブランドとしての市場ポジショニングは確立できない。途上国生産そのものは続けつつ、もはやそれだけが「売り」ではブランドの成長は見込めない。そろそろマザーハウスの十八番(おはこ)、ブランドの世界観をしっかり打ち出すべき時が来ている、と。言い方を変えれば、経営者でなくクリエイター山口絵理子の世界観を商品ではっきり表現する、製造拠点のストーリーではなく商品そのものの魅力で勝負する、これが次のステージではないでしょうかと言いました。そして、彼女なりの答えのひとつが洋服をしっかり作ろう、でした。「太田さんには叱られそうですが、洋服を作りました」と連絡が入り、初めてのファッションショーにお邪魔しました。修正したらいい点はいくつもあるでしょうが、山口さんは洋服づくりをずっと我慢してきたのです、思う存分やればいいと思います。もちろん在庫量には配慮しながら。初めてショーで見せた2023年秋冬コレクション同メンズウエア以前、山口さんに技術力のある某生地メーカーを勧めました。来月バングラデッシュの工場長が来日するのを機に、その本社工場を見学できるよう先方にお願いしているところです。途上国の縫製工場はここ数年技術はかなり向上していますから、生地のバリエーションが増えればもっと面白い商品が作れると期待しています。日本の素材テクノロジーと職人気質をリンクさせたら、現地の技術者は刺激を受けてさらに商品はレベルアップするでしょうね。成長を期待したいです。
2023.11.11
日本ファッションウイーク推進機構の実行委員をお願いしているユナイテッドアローズ取締役常務執行役員の田中和安さんに誘っていただき、彼らの文化服装学院時代の恩師曽根美知江先生ご自宅での宴会にお邪魔しました。曽根先生はすでに退職、私は約30年ぶりにお会いしましたが、現役時代と全く変わらず昔のまんま、びっくりするくらいお元気でした。曽根先生は1960年代パリオートクチュール協会が主宰する学校に留学、帰国後はずっと文化服装学院でパリ仕込みの立体裁断やマーチャンダイジングを指導されていました。パリ留学時代、隣のクラスには三宅一生さんら数名の日本の若者が学んでいたそうです。また、この頃パリでは文化服装学院OBの高田賢三さんがデザインを現地メゾンや企画会社に売り込み、写真家の吉田大朋さんがファッション雑誌ELLEの専属フォトグラファーとして活躍していました。曽根美知江先生を囲んで記念撮影私と曽根先生のご縁は東京コレクションの責任者をしていた1990年代前半に始まります。当時ファッションデザイナーとアパレル企業の協業ブランドがどんどん生まれてはどんどん消滅していました。せっかく専門学校や美大が才能ある若者を世に出しても、企業がデザイナーたちをうまく活かせない。日本にプロのマーチャンダイザーやバイヤーを育てるポストグラデュエートの教育機関があれば欧米のように協業ブランドは長続きするかもしれない、とIFIビジネススクールの立ち上げに向けて私は奔走していました。ところが、文化服装学院の大沼淳理事長から、「新しく産業界が学校を作る必要があるのか。現在の専門学校に対して業界はもっと支援して欲しい。教育は自分たちに任せてくれないか」と言われました。我々の構想は既存のファッション専門学校とは敵対しない人材育成機関、高校生新卒者は採用せず企業で働く若者たちにより専門性の高い実践的カルキュラムで指導しようというもの、決して既存の専門学校を否定するものではありません。ビジネススクール設立首謀者の一人だった私は文化服装学院に協力的な姿勢を見せないと誤解されるかもしれないと考え、文化服装学院ビジネス学科系の流通専攻課程3年生(担当は林泉先生)と曽根先生が指導なさっていたマーチャンダイジング科3年生を別のカリキュラムで毎週1回教えることになったのです。専門学校に敵対する人材育成機関を作るのではない、と専門学校界のリーダーだった大沼理事長にわかったもらうためにはこれしかありませんでした。毎週1回別々のカリキュラムを考え、その準備をし、学生には宿題を与え、成績評価もしなければなりません。しかも本業である東京ファッションデザイナー協議会議長の仕事も、IFIビジネススクールの準備もありましたから、週2回の文化服装学院通いはめちゃくちゃ大変でした。そもそも文化服装学院とのご縁はニューヨークから帰国した1985年、先生たちの勉強会「火曜会」でパーソンズ流の実践教育の事例を紹介したときから始まりました。総勢200人くらいの先生たちに、ニューヨークのパーソンズ(PARSONS SCHOOL OF DESIGN)のバイヤー講座で私はどのように教わったのか、それが自分にどれほど役に立ったのかをお話しました。大沼理事長の相澤秘書からの要請だったと思います。以来、流通専攻課程3年生を指導するようになり、そのクラスから多くの若者を自分が所属する企業にスカウトして部下にしました。曽根邸前庭でバーベキュー幹事役のUA田中和安さん(右端)あいにく母上ご逝去で今回は参加できなかった佐藤繊維の佐藤正樹社長(現在文化服装学院同窓会長)はじめ、数ヶ月前の文化創立100周年記念イベントで素晴らしい祝辞をされたTSIホールディングス下地毅社長、前述ユナイテッドアローズ田中常務など、曽根先生の教え子の中には現在の日本のファッション業界を牽引している人が少なくありません。何年も前に卒業した彼らがいつまでも曽根先生のご恩を忘れず定期的に集まる、なんとも微笑ましい光景でした。私は卒業生ではありませんが、皆さんのご厚意で参加させていただき、楽しい時間を過ごすことができました。考えてみれば私も文化服装学院など専門学校や一般的大学、IFIビジネススクールで、あるいは所属企業でたくさんの若者にマーケティングやマーチャンダイジングを教えてきました。その数は数千人にのぼると思います。受講生と頻繁に深夜まで酒を酌み交わして議論しましたし、IFIビジネススクールの教え子たちは今年も誕生日を祝ってくれました。若者を教えた側の人間にとって、教え子たちが集って意見交換する瞬間は至福のとき。教え子との懇談、もっと大事にしたいですね。
2023.10.31
初めて台湾を訪問したのは1989年、台湾から世界に輸出する繊維製品のクオータ管理をしていた「中華民国紡績業拓展会」(通称TTF)に講演を依頼されての訪台でした。桃園国際空港に到着するや背広姿の男性群に囲まれ、パスポートを手渡すと入国審査と税関はフリーパス、そのままあっという間にハイヤーに乗せられました。あとでビザ(当時はまだビザが必要)をよく見たら「国賓」のスタンプ、フリーパスの理由がわかりました。降ろされたのは老舗中華料理店、大きな円形テーブルには台湾繊維業界の幹部がズラリ着席。中にはその日の朝に中国本土から戻ったばかりのニットメーカー社長も。「メインランドと自由に往来できるんですか」と質問したら、「対立しているのは政治の世界、経済界は普通に交流している」と聞いてびっくりでした。その中に紅一点、中興百貨店(サンライズデパート)の女性オーナーだったバオさん、エルメスのケリーにジャンポールゴルティエのジャケットが板についた素敵な方でした。ランチが始まり、最初に出てきた大皿はこれまで見たことがない形状の肉、聞けば食べたことがない食用カエル。しかも取り分けられた小皿の肉にはかすかに血、正直ビビりました。台湾で最初に口にしたのが食用カエル、生涯忘れられない1皿です。このあと中興百貨店を案内され、当時日本の百貨店でも珍しかったヨーロッパのラグジュアリーブランド直輸入ショップ、そして別のフロアに台湾デザイナー売り場もありました。バオ社長は「私たちが応援しなければ台湾のデザイナ-は育たない。たとえ儲からなくてもやらなければならない」、使命感に満ちた発言に感動したものです。あれから台湾の百貨店を手助けする日本の百貨店マンとして、台湾で多店舗展開する日本ブランドの経営者として、クールジャパン政策を推進したい投資ファンドとして何度も台湾を訪問しましたが、初めて訪台したときが一番印象深いです。血のついた食用カエルもバオさんの言葉も。2019年台北ファッションウイーク(中央女性がチェン文化部長)さて、4年前にも台北ファッションウイーク(写真上)に招聘されました。そのオープニングセレモニーは着席ディナー形式、お隣はソルボンヌ大学卒業のチェン文化部長(部長は日本の大臣にあたる)。これまで自分たちが日本の若手デザイナー支援プログラムをどれだけ試みたかを説明、台湾でも若手インキュベーションが重要ではありませんかと話したら、文化部次長(事務次官)に話してくれませんか、と。翌々日文化部を訪ねて文化部次長とミーティング、日本とのファッション文化交流促進を話し合いました。このあと新型コロナウイルス、両国の交流促進はしばらくお預けとなりました。が、コロナが収束して今年再び文化交流の話を再開することに。台湾ファッション業界でも活躍する台湾イトキン多田社長を通じて話し合いが始まり、今回台北ファッションウイークに招かれました。4年前ファッションウイークの現場運営は台湾ELLEが担当でしたが、今回は台湾VOGUEが仕切り。リュウ発行人からは人事異動で交代したばかりの文化部次長ワンさんとの個別会談も依頼されました。眼鏡の男性が台湾VOGUE発行人、右は多田夫妻台湾VOGUEリュウ発行人と台湾イトキン多田社長のアレンジで今回多くの方々と意見交換する機会をいただきました。文化部次長をはじめ、台湾ファッション業界にたくさんの人材を輩出する大学の学院長、テキスタイル業界の重鎮、台湾在住ファッション流通業界日本人会の代表、いまや台湾百貨店業界をリードする存在となった新光三越の方、デザイナーの海外売り込みをサポートするTTF幹部ら皆さん親切、日本のファッション業界のこれまでの歩みや私が感じた台湾デザイナーの課題などに耳を傾けてくださいました。文化部ワン次長と記念撮影ホテルロビーのライブラリーで話し合い日本と違って台湾は進んでるなあと思ったことがいくつもあります。文化部次長との会談はファッションウイーク公式会場近くの誠品書店が経営するEslite Hotelと聞いてはいましたが、なんとホテル内会議室ではなくロビーのライブラリーの長いテーブル、誰からも見られるオープンスペースでの会談。そこへ現れたワン次長はダボっとしたストライプ入りジャージーパンツにスニーカー。会談のあとはホテル内ラウンジで日本のメディア関係者に私との会談の一部を発表でしたが、日本の文化庁の官僚トップがこんなスタイルで国際交流の話し合いや記者懇談の場に現れる日は来るんでしょうか。台湾市場再構築のヨウジヤマモトは8月にこちらを開店ショップ運営でも感動がありました。かつてアパレル時代に台湾のパートナーだった会社に社員教育でマーチャンダイジングの基本やVMDの考え方を伝授しましたが、彼らはさらに店舗を増やし、美しく店頭を維持していました。彼らには何度も「定数定量」の重要性を話しましたが、本部に模擬店舗を構えていまも訓練している。伝授したことを台湾でしっかり守っていてくれる、こんなにうれしいことはありません。ブランド多数揃えるSOGOのすぐ隣に新施設が数日前にオープンその新商業施設にA BATHING APEが出店新しい商業施設がどんどんオープン、ラグジュアリーブランドの大型店はさらに増え、台湾の経済力を実感しました。ブランドを多数揃えたビルの近くに新しい商業施設ができてブランドショップが開店、数年後にまたその横に新しいビルが誕生して綺麗なブランドショップが多数入居、まるでオセロゲームのような様相です。半導体はじめ台湾の景気はものすごく良くて一般消費者の購買力は半端ないんでしょう。物価上昇と円安の我が国からすれば羨ましい限り。こんなに元気な国ですから、日本に来てショッピングする台湾人はもっと増えるのではないか、と期待してしまいます。5泊6日の短い滞在でしたが、台湾から学ぶ点はいくつもありました。日本からとても近い国、コロナも終わったのでこれからは頻繁に出かけたいです。
2023.10.21
1994年秋まだCFD議長だった頃、全日制の本格的なクラスを開講する前に試験的に社会人向け夜間プログラムをやってみようとIFIビジネススクールで「プロフェッショナルコース」を始めました。全日制「マスターコース」がスタートしたのは1998年4月、それまでの3年半夜間プロフェッショナルコースのディレクターとしてお手伝いしました。最後は月曜日から木曜日まで毎夜違ったカリキュラムを4つ、ほぼ連日両国国技館前の仮校舎に通ったものです。そのプロフェッショナルコースの受講生の中に総合商社繊維事業部門で働くSくんがいました。IFIビジネススクールで半年間学んだあと米国西海岸の駐在オフィスに転勤、帰国してまもなく会社から独立して自分のオフィスを構えました。マーケティング会社を運営し、ビジネス書としてはベストセラーの部類に入る本も何冊か上梓、メディア露出の多い人です。久しぶりにそのSくんから連絡がありました。なんでも彼が懇意にしている中国のビジネスマンたちが来日してファッション流通業の視察と研修をする、そこで講演してくれないかとのことでした。コロナウイルス直前まで、私は来日する中国ビジネスマン(女性も大勢)たちにブランドビジネスやマーチャンダイジングの話をよくさせていただきましたが、コロナウイルスで渡航禁止、この3年間は機会がありませんでした。なので3年半ぶりの訪日団向けセミナー、しかもほとんどは伸び盛りの会社経営者と聞いて「クリエーションvsビジネス」を題材に約3時間半お話しました。私は彼らにブランドDNA継承の重要性をわかってもらおうと継承成功事例と失敗事例の要因を説明しました。受講者の多くは経営者ですから、もし外部からデザイナーをスカウトする場合、まず今後のブランドの方向性をデザイナーとマネジメント側は十分話し合うべき、そこを曖昧なまま新任デザイナーが自由奔放にクリエーションするとブランドが守ってきた世界観は崩れ、大切なお客様が離れていってしまい、結局デザイナー解任という不幸なストーリーになりかねない、と。利害の異なる両者の話し合いが十分だったのか疑問に感じる事例として取り上げたのは、サンローランとカルバンクライン。エディ・スリマンのサンローランとそれ以前のサンローラン、ラフ・シモンズのカルバンクラインとカルバン自身が作り上げたカルバンクラインの写真を見せながら疑問に思うことを説明。一方DNAがきっちり継承されている成功例として、ココ・シャネル、カール・ラガーフェルド、そして現在のヴィルジニー・ヴィアール3代に渡るシャネルを紹介しました。3人のシャネル、どれもシャネルと誰もが判別できるデザインでしたが、ブランドDNAの継承がいかに重要かわかってもらえたと思います。研修ツアーに同行する日本在住のビジネスマンから後日メールが来ました。私の講演のあと各地を視察しながら受講者たちはブランドDNAのことをずっと話し合っています、と。私の話は彼らにとって大きな問題提起だったようです。こういうストレートな反応、講演した側には嬉しいです。さらに、このビジネスマンから、近々来日する予定の中国企業の幹部にも講演してもらえないかと依頼があり、加えて中国側でこのツアーの世話役だった実業家からはSくんと一緒に中国で講演をしてもらえないかと打診がありました。かつての教え子と一緒にビジネス講習のために海外出張するなんて、IFIビジネススクールで教えていた頃には想像だにしませんでした。実現したらありがたいですね。というわけで、ここ数日は中国ファッション流通業者の方々に次回東京で、そして中国で、それぞれお話する内容をあれこれ考え、2つのパワポ資料を作成しました。特にファッション業界以外の事例をひも解くうちに「どうして日本企業のつくる製品には顔がないんだろう」と改めて疑問に感じ、このままだと電機が世界市場で減速したように近未来日本の自動車も世界で売れなくなると思わずにいられません。ひとつ例をあげるならば、MINIにはちゃんと顔があります。目の前を通過した瞬間、その車のロゴを見なくても車に全く興味のない私にだって一目瞭然MINIだと判別できます。しかし、ダイハツ、スズキ、三菱自動車など日本の軽自動車はどうでしょう。フロントについている会社マーク、後方についているブランドロゴを見なければ、よほど自動車に詳しい人でないと車種や社名は判別できません。セダンも同じ、メルセデスやBMWはロゴを見なくても通過した瞬間なんとなくどっちの車かわかりますが、日本のセダンは一般人にはわかりにくいでしょう。つまりマーチャンダイズに顔がありません。顔のないマーチャンダイズと中途半端な顧客分類でも、印象的なCMを流せばなんとかなるだろういう旧式戦略ではもう世界市場で通用しない世の中になっている。服であろうが、バッグや靴であろうが、自動車や電機製品であろうが、顔のないマーチャンダイズでは勝負できないという話を中国業界人にしようと考えています。コロナウイルス前もそうでしたが、中国ビジネス研修団は真剣に質問してくれます。疑問を感じた点はとことん質問してくれますから講演のやりがいがあります。Sくんはすでに何回も現地セミナーをした経験があるそうですが私は初心者マーク、刺激的な話をわかりやすく伝えたいです。
2023.10.07
東北大震災の翌年3月、三越銀座店と松屋が力を合わせ銀座歩行者天国で「ジャパンデニム」をテーマに青空ファッションショーを開いたとき、開催許可が警視庁からなかなか下りず準備の時間はなく、大手広告代理店に協力をお願いする間もありませんでした。百貨店2社で協賛金を集め、十分な予算がないままどうにか全長100メートルのランウェイでショーを決行。代理店抜きなのでイベント申請も、銀座中央通りの警備も、VIPのご案内係も大規模イベント経験がない社員が担当しました。歩行者天国でのファッションショーしかも当日はあいにく朝から雨、座席をタオルで何度も拭き、雨カッパや傘の用意、想定外の大人数の観客整理に社員はてんてこ舞い。フィナーレの瞬間頭上に太陽が現れたのが救いでした。イベント終了後営業本部長が「次回から代理店に頼みましょうよ」、さすがにみんな疲れましたから。代理店にお願いしていたら両社の社員がへとへとになることはなかったでしょう。東京オリンピックに絡んで元電通幹部やADK現職経営陣、さらに賄賂を贈ったとされるカドカワやアオキの経営者まで逮捕され、大きな社会問題になっています。裁判でこの五輪スキャンダルは最終的にどう収束するのか、また関係した大手広告代理店はいつになったらこれまで通りコンペに入札参加できるのか、私の仲間にも代理店関係者が少なくないので関心があります。事件のあと代理店のことをSNSで痛烈に批判する人はたくさんいますが、私のまわりにいた代理店関係者は一生懸命サポートしてくれた誠意ある人が多かったので、ボロクソ書き込みを読むたび反論コメントを書きたくなります。ファッションというソフトなジャンルだから代理店でも優しいスタッフが助けてくれたのかもしれませんが。私の背景が300坪の特設テント現場の責任者として東京コレクションを始めた1985年、主催団体の東京ファッションデザイナー協議会は単なる「みなし法人」、社団法人や協同組合ではありませんでした。さらに自主運営をうたって組織化されたので協賛金の類いは一切なく、運営経費はすべて参加ブランドが負担。つまり十分な資金がないので、現場を取り仕切ってくれるプロデュース会社や代理店に仕事を頼む経済的ゆとりはありませんでした。その上責任者の私はのど素人、それまではショーを取材して原稿を書いていた人間、何が会場設備として必要なのか、運営自体に何が必要なのか全くの無知でした。300坪の大型テントを建てたらそこにはコンセントがついていて、場内で使用する一般電気機器くらいはコンセントに差し込めば利用できると思っていましたが、テントに電源を引いてこないと場内非常灯すら使えません。作業員の昼、夕、夜食の弁当手配も事務局が手配すべきとはショーが始まったあとに知ったので、舞台美術の現場責任者が気を利かせて弁当の手配をしていました。仮設ショー会場ですから仮設トイレや水道も用意しなくてはならないし、作業員、モデル、演出関係者、観客の人数が半端ないので仮設トイレを大量に設置しないとパンクする、そんなことにも気が回らない私ですから、イベントを熟知する代理店にお願いすれば万事スムーズだったでしょう。補助金、協賛金があればそうしたはずです。第1回東京コレクション、300坪の別注色テントの製作と建設に提示した私の予算は440万円。当時普通のテント業者にこの大きさのテントを頼めばおよそ1000万円が相場、それを半額以下で請け負ってくれる会社を探して「将来私と付き合ったおかげで元がとれたという状況が来るよう努力しますから」と頭を下げました。ところが、建設初日からあいにくの雨、鉄パイプは滑るので作業は難航、予定よりも組み立てに時間がかかります。作業するトビの人数を数え、作業日数をかけたらそれだけで予算オーバーする、ど素人の私でもそれくらいはわかりました。傘をさしながら「この雨で赤字ですよね」と業者のSさんに訊いたら「はい、赤字です」、でも予算をプラスする余裕はありませんでした。テント完成時に「これでトビに酒でも飲ませてやって」となんとかひねり出した20万円を手渡ししました。実はこの数シーズン後には若いトビが鉄パイプから落下して打ちどころが悪く亡くなる事故がありました。このときも少し多めの香典を包むのが精一杯でした。舞台美術もしかり。300坪の床をさら地から組み上げ、その上にステージを作り、多目的ホールのようにイベントができる状態に仕上げてもらう予算は850万円、こちらも相場の半分でした。夜のテントはかなり冷え込むので仮設トイレとパンチカーペットを追加で敷いてもらいました。夜中の作業中に電卓をたたいて支払えるギリギリの予算を提示したのが深夜1時頃、約250坪のパンチカーペットは朝の9時には会場に届きました。私には想像できない機動力でした。コレクションが全て終わり、特設テントを撤収したあと責任者Oさんに「後学のために実際の見積もりを出してもらえませんか」とお願いしたら、「びっくりしますよ」と言われました。それでも本当の相場を知りたかったのでお願いしたら、出血大サービスで1700万円の明細が届きました。もちろん支払ったのは当初提示した850万円プラス追加してもらった仮設トイレ、パンチカーペット代のみ。テント業者同様手持ち資金はありませんから出世払いを約束するしかありませんでした。テントの設置場所はNHKのすぐ横、さっそくNHKから大河ドラマイベント用の大型テントの注文が入りました。また3000人は収容できる超大型ライブハウス「汐留PIT」(いろんなミュージシャンがライブ開催)の数億円の注文も入り、テント及び舞台美術業者はすぐに元がとれました。東コレはNHKニュースで取り上げられ、大型テントが何度も放送されたおかげで、業者に対して肩身の狭かった私は救われました。10年間東京コレクションの運営に携わりましたが、会場整理のバイト手配も、作業員の弁当手配も、私が調理する150人前の夜食材料費も、会場設営業者への支払いもすべて協議会事務局マター、プロデュース会社や代理店を通したことは一度もありません。もしも補助金、協賛金収入があって資金に余裕があれば、事故や破損のリスクのことを考え外部のプロに委託したでしょう。その方が絶対安心ですから。自主運営の東コレは数人の事務局スタッフでどうにか回せましたが、これ以外のイベントは代理店に入ってもらいました。若手支援策としてはじめた私たちの自主企画「東京コレクションANNEX」、これは外部スポンサーを集めて実施したプログラムでしたが、お願いした博報堂が社内のトヨタ担当チームと連携し、トヨタの協賛だけでなく当時CMに出演していた作家の村上龍さんを口説き、キューバのバンド共々村上さん自身も参加してくれました。資金集めも村上龍さんの参加も我々だけではとても実現しない、さすが大手代理店と思いました。このとき村上さんを連れてきた博報堂トヨタ担当の方とはいまも年賀状のやり取りがあります。東京国際モードフェスティバルのポスター東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、デザイナー協議会の4団体がパリ市とフランスオートクチュール協会の依頼を受けて開催した「東京国際モードフェスティバル」は電通が身を粉にして動いてくれました。昭和天皇のご容体が悪く一度延期する場面もあり、延期による出費超過がわかっていても電通の責任者らが献身的に動いてくれ、どうにか実現しました。結果的に採算割れになってしまいましたが、このとき電通のK常務は延期の相談をしたとき腹が座っていました。サラリーマン体質の人では延期の根回しはできなかったでしょう。京都、大阪、神戸の京阪神3県、3都市、3商工会議所とトータルファッション協会の10組織が合同で主催した「ワールド・ファッション・フェア89」への協力を大阪、京都の商工会議所の両会頭に頼まれたときは、3都市で企画する数々のイベントを大きく2つに分割、電通と博報堂にそれぞれ制作と協賛金集めをお願いし、両社には競争しつつ協力してもらってはと実行委員長に提案しました。公的機関が絡んでいるので一般的なテレビ番組制作による協賛金集めができないというハンデがあり、両社とも儲けはほとんどありませんでした。このときの両社スタッフの頑張りも忘れられません。Rakuten Fashion Week Tokyoメイン会場渋谷ヒカリエデザイナー協議会が20年間運営した東京コレクションは経産省主導で発足した日本ファッションウイーク推進機構に移管されました。最初の3年間は国の補助金がありましたが、これですべて賄えるわけではありません。数シーズンは電通が赤字覚悟で参画してくれました。このとき東コレというコンテンツで協賛を多数集められるかどうか電通社内で検討、協賛集めは難しいかもしれないと最初は積極的姿勢ではなかったと聞いています。が、電通の経営幹部はそれでもサポートを約束、まとまった資金をギャランティーしてくれました。もしも最初に電通の協力がなかったら現在の東コレは成立していなかったかもしれません。私たちは東京コレクション以外のイベントは代理店にあれこれお願いし、その資金力、ネットワーク、フットワークを実感しました。代理店幹部やスタッフもよく働いてくれたので、大手代理店批判が出るたび違和感を感じます。東京五輪の裏側で何があったのか知りませんが、ファッションイベントに力を貸してくれた人々の多くはナイスガイでした。
2023.08.27
今年もマーチャンダイジングの基本を教える「MDゼミ」がスタート。昨日は第4回目「マーチャンダイジングとは」を講義、「顧客分類→商品分類→展開分類→定数定量管理」の順番を守って仮説を立てることの重要性を説明しました。百貨店社員に向けて研修するときニューヨーク五番街にあるBERGDORF GOODMAN(バーグドルフグッドマン)がいかにして再生し、たった1店舗しかないデパートでありながら世界のベンダーから尊敬される存在になったのかをまず詳しく話すことにしています。DVD「ニューヨーク バーグドルフ 魔法のデパート」五番街で最も地価の高いコーナーは57丁目。現在その東側の北角には大型ルイヴィトン、南角にはずっと変わらずティファニー本店(オードリーヘップバーンの映画「ティファニーで朝食を」の舞台)、西側の南角にはブルガリが1階テナントに入るビル、そして北角にあるのがバーグドルフです。かつてティファニーを取り囲む形のビルで営業していたのが高級百貨店BONWIT TELLER(ボンウィットテラー。現在ここは建て替えられ、五番街側にトランプタワー、東57丁目通り側にナイキタウン)でした。カーター政権下景気後退で舵取りが難しい時代、ボンウィットテラーは商品分類はチグハグで売り場に魅力がなくなり、顧客はどんどん高齢化、ただ古臭い老舗店という印象でした。そしてチャプターイレブンを申請し事実上倒産しました。目の前のバーグドルフもボンウィット同様顧客の高齢化は顕著で古臭いイメージは拭えず、このままであれば近未来ボンウィットのように消滅するかもしれないと我々は見ていました。このとき郊外にあった支店を売却して資金を作り、2年半ほどかけて全館リニューアルに着手しました。当時百貨店の商品分類は、回転率の高い雑貨や化粧品は1階、ファッションは2階から上で展開が常識でしたが、新生バーグドルフは1階の中央部にジャンポールゴルティエ、イッセイミヤケの小型ショップを設置したのです。パリコレ赤マル人気上昇中ブランドとは言え売り場効率を考えればバッグやアクセサリー売り場が王道でしょうが、バーグドルフは「ファッション強化」のメッセージを放ったのです。Ira Neimark(アイラ・ニーマーク会長)Dawn Mello(ドーン・メロー社長)ストアイメージを劇的に変える大リニューアル、その後の発展には二人の功労者がいます。ファッションのプロとして指揮したドーン・メロー社長(のちにどん底だったグッチの再建を手がけて再びバーグドルフに復帰した方)と彼女をうまく機能させた経営者アイラ・ニーマーク会長(倒産したボンウィットテラーの下働きから業界キャリアをスタートした方)です。ニーマーク会長のリーダーシップとメロー社長らバイイング部門の目利き力がなければジャンポールドルティエ、イッセイミヤケの1階ショップ展開は実現しなかったでしょう。しかし、この大きな賭けは世界のデザイナーやハイエンドブランドの関係者の心に響きました。あの頃ニューヨークファッションで人気絶大だったペリー・エリスは私にこう話してくれました。サックスフィフスアベニュー(五番街49丁目に本店がある高級百貨店)は多店舗なので発注量はかなり多いけれど、別注企画を引き受けるならバーグドルフ。なぜならバーグドルフはスペシャルなストアだから、と。人気デザイナーが多店舗のサックスよりもたった1店舗のバーグドルフへの思い入れの方が強い、これこそ小売店の「品格」なのでしょう。ティファニー側から見たバーグドルフグッドマン3階インターナショナルデザイナーフロアボンウィットテラーは小手先のブランド入れ替えを続けて売り場はどんどん陳腐化、最後は倒産しました。抜本的な改革に着手しなかった経営幹部の責任は大きい。一方、同じような古臭さがあったバーグドルフは社運を賭けた全館リニューアルが功を奏して生き残り、世界のブランド企業から尊敬される存在になりました。高齢の顧客が販売員に「昔のバーグドルフはこんな店じゃなかった」と食ってかかるシーンに遭遇したことありますが、だからこそバーグドルフは「魔法のデパート」としてその存在感を高めたと言えます。経営陣の危機意識の差です。流通業にもナンバーワンかそれともオンリーワンかという議論はよくありますが、バーグドルフはまさしくオンリーワンの存在感を消費者にも世界のベンダーにも示しました。当時ニューヨークに住んでいた私は劇的に変わるプロセスを間近で見ていたので、その後もずっとバーグドルフを教科書のつもりで視察、ニューヨーク研修旅行では参加する部下たちにバーグドルフだけは滞在中何度も足を運んで細かく調べるよう指示してきました。今年のMDゼミでも、バーグドルフの再生の経緯を冒頭に触れ、マーチャンダイジングの基本中の基本をしっかり守りましょうと毎週受講生に伝えています。彼らもゼミが完了したらバーグドルフ視察に行けるといいですね。
2023.08.25
私たちよりちょっと年長の世代には高校、大学時代にVANでおしゃれを学んだアイビー族がたくさんいます。先輩たちほど私たちはアイビールックやアメリカントラディショナルに熱烈ではありませんが、ニューヨーク視察で気になるショップはどういうわけかトラディショナル、プレッピー系が多かったです。マジソン街のラルフローレンメンズ旗艦店マーチャンダイジングの新解釈としてカッコいいなあといつも思っていたのはソーホーのウエストブロードウェイにあった「ポロスポーツ」。長めのハンガーラックにラルフローレン・パープルレーベル(ほぼ手縫い)、同ブラックレーベル、ポロスポーツ、R R L、セカンドラインのラルフ、さらにはリーバイスやリーのヴィンテージをごちゃ混ぜに並べ、それぞれのラックが一つの世界観を発し、ラルフローレンの全ブランドをあたかも因数分解したような印象でした。当時は簡単そうでなかなかできない構成、さすがでした。(写真たくさん撮影したはずなのに、なぜか手元に1枚もありません)マジソンアベニュー東72丁目ラルフローレン本店は品格があっていかにもトップブランドのラグジュアリー旗艦店、デザイナーのセンスの良さがストレートに伝わるいい店です。が、私はソーホーのポロスポーツでたくさんビジネスヒントをもらいました。2枚ともRUGBY(ラグビー)ラルフローレンでもう一つお気に入りだったのは、ユニバシティープレイスの「ラグビー」。学生たちも多く行き来するグリニッチヴィレッジ地区に安価なラルフローレン・テーストのカジュアルショップ。狭くていつもごちゃごちゃしててお客さんが多く、「何か買わなきゃ」って気持ちにさせる不思議なお店でした。しばらく日本での展開がなかったので日本人観光客をしょっちゅう見かけました。もうラグビーは廃止されてしまったので覚えている人は少ないかもしれません。結構売れてたのになあ、経営方針の変更でもあったのでしょうか。もう一つ気になったお店はトライベッカにあったJ・クルーの特別バージョン「リカーショップ」。ホコリが被っているような古いリカーショップ(酒屋)を居抜きで引き取り、そこにジーンズカジュアルをドーンと並べた、J・クルーにしてはお値段そこそこのジーンズショップです。昔のリカーショップにはちょっとしたバーカウンターがあり、お客さんはそこで一杯やれました。そのバーカウンターもお酒を並べる棚もそのまんま、ヴィンテージっぽい加工ジーンズが無造作に積んでありました。古着屋のような雰囲気あるお店でしたね。2枚ともLIQOUR SHOP(リカーショップ)東北大震災の1年後、私たちが銀座中央通り歩行者天国で「ジャパンデニム」のファッションショーを開催したとき、テレビ局は全局夕方のニュースで報道してくれましたが、NHKだけはニューヨーク支局の現地取材映像をプラスしてオンエアー。その映像は、このリカーショップ販売員がジーンズを紹介しながら「日本のデニムは最高」とコメントしてくれました。残念ながらJ・クルーは2020年新型コロナウイルス感染の影響で会社更生法を申請、どうやらその前後にこのショップは消滅したはず。いまニューヨーク視察に出かけたら、バーグドルフグッドマンなどハイエンドな店は別として、見なければならないたくさんヒントくれそうなお店はどこなんでしょう。久しくニューヨーク行ってない、行きたい。
2023.08.22
今日これから本年度МDゼミ(マーチャンダイジング・ゼミナール)を開講します。1995年当時の社長に誘われて移籍してこのゼミを開きましたから、もう随分多くの社員が受講してくれたことになります。ここ数年教えていることは、マーチャンダイジングに奇策はない、基本に忠実に仕事しましょう、マーチャンダイジングの原理原則を守りましょう。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか、しっかり計画を立てて取り組む。簡単なことなんですが、これがなかなか守られない、そんなこと気にしたことがない小売店が世の中にはたくさんあります。他店はともかく自分たちは基本をちゃんと守りましょう、と教えてきました。マーチャンダイジングの基本とは別に必ず話すことがあります。企業は規模ではないということ。たくさん店舗を持っていなくても、世界のブランドとは普通に交渉できる、世界的ブランドは規模で判断するわけではなく、どういうビジネスをするつもりなのかその戦略と熱意を見てるから、と。若手社員に自信をもって世界と交渉してほしいので、毎回いくつか事例を出しながら説明することにしています。私が移籍した当時、インターナショナルブランドのオリジナルコレクションの扱いはゼロでした。当時あったものは、名前は欧米の有名ブランドでも日本のメーカーが提携して作ったライセンス商品(本物とは質もデザインも大きく違っていました)、あるいはオリジナルコレクションではなくセカンドライン(素材や縫製の質も価格もオリジナルより低いディフュージョンライン)だけでした。完璧に世界的ブランドのオリジナル商品はゼロ、でした。ルイヴィトンから始まった大改装だから、一気にお店を改装し、世界に感たるブランドのオリジナルコレクションをドーンと導入しようと経営幹部を説得、海外ブランド企業との交渉が始まりました。まず最初に交渉したブランドはルイヴィトン、日本で最も品揃えのいい大型店を一緒につくりませんか、と提案。本国の社長に打診したところすぐ来日してくれ、その数日後にはパリから店舗設計チームが模型をもって来日、仕事のスピード感に驚かされました。数か月後には大型店が完成、そのオープニングが読売ジャイアンツの優勝祝賀パレードと日にちが重なって銀座メインストリートは大混乱、危険なのでお客様には店内の階段に並んでいただき、行列最後のお客様をご案内できたのはなんと閉店時間直前でした。ルイヴィトンに続いて順次海外ブランドを導入、フェンディ、ディオール、セリーヌのほか、ドリスヴァンノッテン、マルタンマルジェラ、マルニ(3つともその後に退店)にも入ってもらいました。そのあとも改装は続き、サンローラン、バレンシアガ、クロエ、ステラマッカートニー、モンクレール、プラダ、ミュウミュウ、クリスチャンルブタン、ジミーチュウ、ロジェヴィヴィエ、ジルサンダー、マロノブラニクなどを展開、近年ではロエベ、グッチ、ジバンシーもショップができました。クリスチャンルブタン日本初のショップ親会社トッズの本社工場まで行って交渉したロジェヴィヴィエルイヴィトン開店時に導入したディオール長くフェンディは旗艦店でした1階と2階にショップがあるセリーヌプラダとミュウミュウは同時に導入モンクレールにも広いスペースアンダーソンになって人気上昇中のロエベ各国で復活基調のジルサンダー試着室内がかわいいステラマッカートニーステラもかつてデザイナーを務めたクロエ20世紀最後の年までオリジナルインポート商品はゼロだったなんて最近入社した若手社員はそんなこと知らないでしょうね。振り返れば、よくここまで集めたものだと思います。キミたちの先輩たちは外資企業との交渉頑張りました、とゼミ初日で説明します。
2023.08.03
東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)責任者として10年、CFDから東コレ運営を引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構のコレクション担当理事として17年、合わせて27年も私は東コレに関わってきました。さらにアパレル企業の経営者として10年。これまで多くのファッションデザイナーと接してきましたが、「もっと売れるものを作って」とデザイナーに言ったことはありません。ファッションビジネス人としての信条だからです。シャネルは外部デザイナーとブランド協業のお手本バイヤーやマーチャンダイザー育成の勉強会ではよく受講生に話します。「せっかく作ったんだから販売が容易でないものもチャレンジすべき」、と。ブランドのファッションショー、次シーズンの売上はかなり行けそうと自信あるコレクションもあれば、売れないかもしれないと不安になるコレクションもあります。前者では、前年実績など気にせず行けると思う極限まで発注予算を上げて販売してみよう。後者では、前年以上は無理かもしれないけれど、ビジネスチームの力でなんとか前年並みは頑張ってみよう、決して「売れない」と諦めてはならない、販売スタッフやマーチャンダイザーにはよく言いました。パリコレのランウェイや展示会で商品を見ながら「前年比120%は行けそう」という好コレクションもあれば、「前年比80%は覚悟しなければならないかな」と悲観的なものもありました。発注時に前年比80%想定の発注をすれば実際には80%にも届かない、発注にメリハリをはっきり付けて例年以上に綿密な販売計画を立て、チーム全員で前年並みは頑張ろうとハッパをかけました。クロエも最近デザイナー短期交代が続くかつてパリコレや東コレでは、ショーに登場する服はぶっ飛んでておもしろいのに展示会に行くとその大半はボツ、生産する予定もないのにマネキンやハンガーラックに掛けて見せているというケースがたくさんありました。販売予定がない服を平気で掲載し、「参考商品」と表記するファッション雑誌も日本ではよく見かけたものです。これって極端な言い方すれば詐欺行為、あってはならないと言い続けてきました。その点、私がニューヨークに住んでいた頃の米国ファッション雑誌はしっかりしていました。「参考商品」なるものの掲載はしないどころか、雑誌の巻末に編集ページで取り上げたものは全米のどの小売店で販売予定か一覧表記してありました。つまりショーで見せるだけの服は読者に紹介しない編集方針が徹底されていたのです。バーニーズニューヨークの幹部と一緒に買い付けに来日したとき、ショーに登場した服はクリエイティブでおもしろいけれど展示会場では普通の服がズラリ並ぶ光景を何度も見ました。そんなブランドには「なんのためにファッションショーをしているんだろう」と大いに疑問を感じたものです。あの頃東京は時代錯誤のままでしたから、CFDを設立したときからずっと「ショーで見せたら売る、ボツにはしないで」、「参考商品は展示会で見せない、貸し出しをしない」と唱えてきました。フィービー・ファイロはセリーヌの価値を高めたデザイナーがつくるコレクションは、仮に100枚生産してほぼ完売が予測できるものもあれば、100枚作ったら10枚も売れないだろうというものも中にはあります。売れそうにないからとボツにしていてはチャレンジングな服の本当の評価はわかりませんから、100枚は難しくても2、30枚くらいは生産してお客様に訴求すべきでしょう。それでもプロパー消化率75%目標と現場には要求し続けました。せっかく生地屋さん、工場さん、パタンナーも含めてみんなで一生懸命作ってショーで実験服を見せるのです、簡単に量産ボツにしないでお客様の反応を見るべき、その代わりブランド全体で高いプロパー消化率ならそれでいいじゃないかと何度も繰り返し言い続け、結果的に難しそうなコレクションピースを生産しつつプロパー消化率70%以上(現場には常に目標75%消化を要求)を維持できました。この75%目標の話をアパレル企業の経営者たちとの宴席で話したら、「滅茶苦茶な数字を言うんだね」と笑われましたが、これは架空の話ではなく実際に達成してきた事実なのです。コムデギャルソン青山店バーニーズニューヨークの買い付けで初めてコムデギャルソンと出会ったときから、難しい服でもボツにはしない姿勢に共感してきました。80年代初めボロルックと揶揄された穴あきセーターやナイフで切り刻んだ服も、コムデギャルソンはボツにすることなくちゃんと市場に供給していました。その「見せたら売ってみる」強い意志、ブランドビジネスでは非常に重要なことだと思います。ニューヨーク時代、デザイナーとマーチャンダイザーはイコールパートナーと教わりました。どっちがポジション的に偉いかではなく、デザイナーはクリエーションに責任を持ち、マーチャンダイザー(あるいはブランド責任者)はビジネスに責任を持つ。ビジネス側はクリエーションに口を出さない、デザイナーは枚数配分や営業政策に口を出すべきではない。だからビジネス側は「もっと売れるものを作って」と言ってはならない、クリエーションを受け止めてそれをどう売るか考案するのはビジネス側の責任範疇です。ラフ・シモンズのディオール退任は早かったエディ・スリマンのサンローランも短命アレキサンダー・ワンのバレンシアガも短命最近海外有名ブランドのデザイナー交代劇が頻発、しかも在任期間があまりに短い解任が増えたように思います。コロナによる消費減速、原材料の高騰、過熱したショー演出の経費増などが関係しているかもしれませんが、一番の問題はデザイナー就任時の両者の話し合いが十分になされていないのが原因ではないでしょうか。クリエーションにビジネス側が口出しすれば、デザイナーはやる気を失います。売れる売れないはマネジメントの責任、デザイナーのせいにしてはならないでしょう。このところのデザイナー交代劇、概してビジネス側が勘違いしているのではと思えてなりません。デザイナーを外部からわざわざ招聘したら、デザイナーのクリエーションを信じた上でブランドはどういう路線で行くのか、主にどういう顧客ターゲットを狙うのか、どういう販路を強化するのかを十分話し合い、長くプロジェクトが続くようお互い努力すできでしょう。そうすれば2年足らずの短期間で解任なんてニュースは増えないはずですが。ロエベはレアケース人気が衰えないジョナサン・アンダーソンのロエベ、もうすぐ提携10年目になります。若手の外部デザイナーと老舗ブランドの協業では関係が長く続いている、いまとなってはレアケースです。既存の顧客だけに頼らずいろんな試み(例えばスタジオジブリとのコラボ)をして新規客の開拓をしていますが、デザイナーの挑戦をビジネス側がちゃんと受け止めている様子が目に浮かびます。こういうデザイナーとマネジメントの良好な関係がもっと増えるといいですね。
2023.07.29
古いパソコンの保存画像を整理していたら、10年前パリコレ出張したときにプランタン百貨店で撮影したCHLOÉ(クロエ)プロモーションの写真が出てきました。クロエは創業者ギャビー・アギョン(1921~2014年)から何人もクリエイティブディレクターが交代していますが、その割に世界観は大きく変わっていない珍しいブランドだな、と改めて思います。2013年春プランタン百貨店でのプロモーションそもそもクロエの服を私が初めて目にしたのは1974年、当時世界各国で活発なウール振興事業を展開していた国際羊毛事務局(ウールマーク)の業界人向けセミナーでした。このときパリで人気急上昇中と紹介されたカール・ラガーフェルドのクロエとケンゾー(高田賢三さん)の新作を初めて見せてもらい、大学生だった私は感動したことを覚えています。ブランド中興の祖であるカール・ラガーフェルド以外にこれまでどういうデザイナーがクロエに関わってきたのか、ネット検索をしてみました。1963年にカールがクリエイティブディレクターに就任して以来今日まで随分多くのデザイナーが関わってきたんですね。しかも、カール以外はほとんどが短期間務めて退任して(もしくは解任させられて)います。クロエ時代のカール・ラガーフェルド(クロエHPより)1952年 創業1963年 カール・ラガーフェルド1988年 マルティーヌ・シットボン1992年 カール・ラガーフェルド復帰1998年 ステラ・マッカートニー2002年 フィービー・ファイロ2008年 パウロ・メリム・アンダーソン2009年 ハンナ・マックギボン2011年 クレア・ワイト・ケラー2017年 ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ2020年 ガブリエラ・ハースト2012年秋パリで開催されたクロエ回顧展そして、2020年からディレクターを務めるガブリエラ・ハーストの退任が先日発表されたばかり、またもや短命です。9月のパリコレ2024年春夏シーズンが彼女のクロエ最後のコレクションとなりますが、どうしてカール以外のデザイナーはみんなこうも短命なんでしょう。しかしながら、こんなにコロコロ交代しているのにクロエのフェミニンなブランド世界観はほとんど変わらず、歴代デザイナーによって引き継がれていますから、なんとも不思議なブランドと言えます。近年の人気ブランドの継承劇を見ていると、後継指名されたデザイナーは自分のカラーを打ち出すこととブランドDNAを守ることの狭間で揺れているケースが多いように感じます。ブランドによってはDNAは全否定、イメージチェンジを狙って既存のお客様から見放され、新規顧客を獲得する前にブランドを追われてしまうデザイナーは少なくありません。デザイナー交代ブランドを見るとき、いつも思うことがあります。既存ブランドを引き継ぐのであれば、後継デザイナーはブランドのこれまでの軌跡をしっかり検証し、ブランドDNAは最低限継承した上でクリエーションすべきではないか、と。それを無視して自分のキャラクターを前面に押し出したいのであれば、既存ブランドを継承せず、自らのブランドで自由にクリエーションすればいいのではないでしょうか。2013年春夏CHLOEコレクションかつてブランド継承劇を当事者として目の当たりにしたとき、私は後継デザイナーに「ブランド世界観の中であなたの信じるデザインをしてください。売れる売れないは考えなくていい、それはマーチャンダイジングを担う我々が考えることですから」と最初に話ししました。先駆者が築いたブランドDNAを守ることを前提に自分が信じるクリエーションをして欲しい、ショーで発表したものは必ず作って販売、売るのが難しそうなものでも絶対に生産中止にはしない、と約束しました。私はこれまで多くのデザイナーといろんなプロジェクトに関わり、若手たちにたくさんアドバイスもしてきましたが、「もっといい服を作って」と言うことはあっても、「もっと売れる服を作って」と言ったことはありません。ブランドビジネスではものづくりチームが納得いくクリエーションをすればいいし、ビジネスサイドがクリエーションに口を出すべきではない。しかしどの商品をどれだけ生産するかの判断はマーチャンダイザーの領域、デザイナーは口を挟むべきではないと私は考えます。販売スタッフにもよく言いました。「せっかく作ったのだから、売るのは難しいと簡単に諦めないでほしい。試着室にご案内してお客様の判断を伺ってみよう。結果的に売れなくても売る努力だけはしようよ」と呼びかけました。同時に高いプロパー消化率を勝ち取る発注術を指導、難しい商品をボツにしないでブランド全体の消化率を上げることは可能と伝えました。抜擢されたデザイナーとマネジメント側がブランドDNAをどうするのか最初に十分話し合い、合意してコレクション制作がスタートすれば解任トラブルは少なくなるでしょうし、カールとクロエやシャネル、フェンディのように蜜月関係は長く続くと思います。が、デザイナーとブランドのマネジメントとの不幸な別れが多いのは、最初にきちんと協議していないからではないでしょうか。このところ世界で名の通った欧米ブランドのデザイナー退任ニュースが次々発表されます。5年にも満たない、まるでお役所の人事異動のような交代続き、それぞれ事情はあるでしょうがあまりに早すぎます。ブランド側はしっかり話し合ってデザイナーがロングスパンでクリエーションできる環境を整え、デザイナー側はブランドDNAを受け止めてブレないコレクションを制作してほしいですね。
2023.07.15
銀座4丁目晴海通りにあるGAPフラッグシップ閉店のニュースには驚きました。これで東京都内には大型店がなくなります。これは日本市場撤退シグナルなのでしょうか。すでに低価格ブランドのオールドネイビーは日本撤退し、GAPとバナナリパブリックはこの先どうなるのか心配です。閉鎖が決まった銀座店大学卒業してすぐニューヨークに渡り、最初に私が買った服はポロシャツ2枚と綿パン1本、五番街西34丁目エンパイアステートビルの隣接ビル1階にあった小さなthe gapでした。値段は3点で50ドル程度、あの頃のthe gapはまだ100%オリジナル製造小売業態ではなく、リーバイスが品揃えの半分、ラングラー、リーなど他ブランドが約4分の1,残りが自社オリジナル商品、日本のカジュアル専門店となんら変わりないジーンズショップでした。日本に帰国して再びニューヨークを訪れた1989年、在住時代に見慣れたGAPは大変身を遂げ、お店の多くは大型化して店頭の品揃えは見応えあり、自社オリジナル商品は増え、ほんの一部にリーバイスという商品構成でした。翌年リーバイスとの取引を打ち切り、全商品自社オリジナルの製造小売業を標榜することになりますが、ニットやシャツなどの企画も充実していました。最初のロゴはthe gapでした出張から戻った私は、ニューヨーク三越駐在員だった友人の山縣憲一さんに「GAPがすごいことになっている」と興奮気味に話したら、山縣さんはそっけなく「ウソだろ」。そうですよね、GAPがカッコいいなんてそれ以前に米国駐在経験のある人なら想像つかないでしょうから。ジーンズにしてもチノパンにしても色展開やシルエット別展開、そしてサイズ展開とも豊富でしたが、一番感心したのはニットの企画でした。3色のコットン糸を使って3色のカラーブロック柄、2色ブロック柄、そして無地展開のプルオーバー、襟の形もクルーネック、Vネックがあり、レジの横にはこの3色を使ったソックスが並ぶ。色を絞ってニット糸の発注ロットをまとめ、3色をいろんな掛け合わせやデザイン、アイテムで使うので店頭はごちゃごちゃしない。VMD面でも整理整頓分類がしやすく、その分商品が綺麗に見えました。在住時代のthe gapでは見たことがなかった構図でした。2000年前後に私たちが百貨店の大規模リニューアルを進めていたとき、百貨店の経営層から若いバイヤーまでを連れて米国視察に頻繁に出かけました。このときGAPやバナナリパブリックのVMDや定数定量管理のみならず、広めの試着室や承りカウンター、通路の取り方までお手本にさせてもらいました。あの頃のバナナリパブリックの「トレンドをあえて外す」商品企画とプロモーションのワザには「すごいなあ」としびれました。キーカラーはグレー、差し色はレッド、グレーの濃淡でいろんな表情をお客様に提案する、これが当時のトレンドでした。が、トレンドに沿ってウインドーをグレーで飾る他店と違い、「カーキ」をキャッチコピーとして前面に打ち出し、カーキ、オリーブ、ダークブランのチノパンとニット商品をウインドーにも通販カタログの表紙にも起用したのです。このときのバナナリパブリックには勢いがありましたし、素材面でも質感のある日本製を多用していました。どん底だったGAPグループを外部からきて立て直した製造小売業のカリスマ経営者ミッキー・ドレクスラーCEOが退任して競合のJ・クルーに移籍すると、グループ全体が商品自体のことよりも価格主義、コスト削減に走り出しました。日本製素材は器用されなくなり、商品クオリティーはガクンと下がり、お手本にしてきた店頭のVMDや定数定量管理もずさんになってしまい、ついには同行出張者に「もう見なくていいよ」と視察対象リストから外したくらいです。発祥の地サンフランシスコの旗艦店かつてドレクスラーCEOがGAPに引き抜かれたとき、商品クオリティーがあまりに悪かったので社員に向かって「キミたちは自社商品を買いますか?」と質問、「自分たちが買いたくなるような商品を作ろう」と呼びかけ業務革新したと聞いています。が、カリスマ経営者が退場したあと、商品の魅力は大幅レベルダウン、結局再び視察のお手本にしたくなる小売店リストに戻ることはありませんでした。GAPが日本上陸した90年代半ば、日本ではGAPの商標は日本の某企業がすでに取得済み、GAPとの間で裁判になりました。この裁判で米国GAP側の証人として私は弁護士さんからサポートを頼まれ、某企業が商標登録した頃GAPがどの程度日本で知名度があったのか、またニューヨークから米国事情を業界紙に書いていた私がどの時点でどのような記事を書いたのかを記事コピーを提出してGAPを擁護しました。来日した創業一族のロバート・フィッシャー氏からお礼のディナーに呼ばれ、また米国視察の折にはニューヨークのお店を開店時間前に見学させてもらったこともあります。米国出張するたび何がしらかのヒントをくれたお手本、しかも商標裁判でサポートした思い入れのある会社がどんどん劣化し、ついにはフラッグシップ店を閉じるところまで来てしまいました。残念です。
2023.06.26
前述したIFIビジネススクールは1994年試験的な夜間プレスクールを開講、その後夜間プログラムを増やして98年には全日制2年間マスターコースがオープンしました。知識やノウハウを提供するのでなく、山中鏆理事長の言葉を借りるなら「実学で問題解決能力を身につけさせる」、これが建学精神でした。DCブランドブーム時代に人気があったアトリエサブの田中三郎社長から「息子を海外のどの学校に留学させたらいいだろう」と相談されたとき、数ヶ月後にビジネススクール全日制コースが始まるとIFI入学を勧め、また大学出たらファッションの道に進みたいと言い出した私の甥にもIFIを勧めました。実学で鍛える学校、なにも海外に行かなくても日本で教育できると信じていましたから。1986年私塾「月曜会」を始めたとき、自分なりの実践教育を日本でやってみようと考えました。そのベースとなったのは、私自身がかつて受講したパーソンズ(Parsons School of Design)夜間プログラムのバイヤー研修。売り場に並ぶ商品そのもの、品揃え、陳列方法が教材、毎回出される宿題は自ら売り場に行って考えなければならないものばかり、特に「敵情視察」はキツい、でも最も役に立った授業でした。業界の中心地7番街西40丁目角のParsons校舎1994年2月、IFIに委託されてニューヨークに出張、パーソンズの関係者にヒアリングして同校の実践教育をレポートしました。このときその教育方針を詳しく教えてくれたのは、名物学部長だったフランク・リゾーさん(交友録32で紹介)、マーケティング担当だったディーン・ステイドルさん、デザインの歴史を指導するジューン・ウィアーさん、多くの米国デザイナーを育て「ゴッドハンド(神の手)」と称されたパタンメーキングの名手ツヤコ・ナミキ先生でした。中央:ジューン・ウィアーさん、右:ディーン・ステイドルさん私がニューヨークコレクションの取材を開始した70年代後半、ジューン・ウィアーさんは専門媒体WWD紙の編集長でした。パリ五月革命に遭遇して「オートクチュールに未来はない」と渡米を決断した若き三宅一生さんが最初にポートフォリオを見せに行ったのがウィアー編集長。彼女は三宅さんのポートフォリオを見るなり当時人気デザイナーだったジェフリー・ビーン氏に電話をかけ、「ジェフリー、いま私の目の前にあなたにぴったりの若者がいるの。そちらに行かせるから会ってあげて」。こうして三宅さんはジェフリービーン社でアシスタントデザイナーを務め、のちに日本に帰国しました。「あの日のことはいまもよく覚えているわ。イッセイのポートフォリオを見た瞬間、ジェフリーに紹介しなきゃと思ったの」。上の写真撮影のときにウィアーさんから直接伺った話です。彼女はWWD編集長の後ニューヨークタイムズ紙日曜版エディターになり、退職してパーソンズで教鞭をとり、大手流通企業の社員研修でもファッションデザインと時代との関係を教えていました。ジューン・ウィアーさん概して、ファッションショーの最前列に陣取る主要媒体のベテランエディターや編集長は眉間にシワを寄せ、眼光鋭く登場する新作をチェック、きつーい性格なんだろうなという女性が少なくありませんでした。が、彼女は珍しく温和で人当たりの優しい方、多くのデザイナーに愛されました。この人の存在を日本に伝えたいと思った私は原宿クエストビルが主催するフォーラムの特別講師に彼女を招聘、企業研修用の貴重な写真とともにモードの変遷を解説してもらいました。ツヤコ・ナミキさんは以前このブログで触れた原口理恵基金「ミモザ賞」の受賞者のお一人。ペリーエリスのアシスタントデザイナーだったアイザック・ミズラヒ氏が独立して自分のブランドをスタートするとき、パーソンズの恩師だった並木先生にパタンメーキングをお願いし、学校で指導しながらアイザック社のチーフパタンナー兼務でした。ゴッドハンドの並木ツヤ子さん以下はミモザ賞10周年記念本に寄せられた教え子デザイナーたちのコメント。「花には太陽があるように、我々には並木ツヤ子がいる。彼女は太陽のように力強く、何も言わず、キラキラ輝きながら、至極当然のように創造を可能にする。」 (アイザック・ミズラヒさん)「誰しも生きる上で、アドバイザーや教師、すなわち自分を親身になって支え、励ましてくれる人を求めるものです。生徒が自分の創造性を模索する途上で経験する色々なこと(良いことも悪いことも)を常に温かく見守り、理解を示してくださる師、それが並木さんでした。先生はいつも公私両面で私を支えてくださいました。彼女はまさに時間や年齢を超えた存在です。」 (ダナ・キャランさん)「並木ツヤコ子さんは私にとって奇跡のような存在です。先生、アドバイザー、セラピスト、何でも話せる母親、魔術師、友人としての側面をすべて兼ね備えているからです。こうした面を持つ並木さんはこの地球に存在する最高の人間であり、私は常に敬愛申し上げております。」 (ジェフリー・バンクスさん)3デザイナーのコメントからも並木さんがいかに慕われていたかわかるでしょう。会食している間は失礼ながらごく普通の優しいおばさん、しかし話題がこと人材育成になると急に目がキリッと鋭くなって別人の表情に豹変、並木さんは根っからの教育者でした。パーソンズ退官後帰国され、目白ファッション&アートカレッジ(小嶋校長がパーソンズ出身)で指導されていました。恐らくもう引退されていると思いますが。パーソンズ流実学を最もわかりやすく解説してくれたのがディーン・ステイドルさん。私がニューヨークで取材活動をしていた頃ファッションショー会場でよく見かけたマーケティング専門家です。彼の授業の教材はニューヨークタイムズ紙の記事、いわゆる教科書の類いではありません。例えばパリコレの記事を読んで、書いたエディターの意見を自分自身はどう思うのか学生に発表させます。インターン研修でデザイナーブランドに配属されると、学生は売り場に行ってブランドの想定ターゲット、コレクションの特徴、市場競争力を考察、アシスタントデザイナーになったつもりでデザインします。そのためのマーケティングの目をステイドル先生は鍛えますが、ここにはアカデミックな「マーケテイング論」や「マネジメント論」は存在しません。学生から慕われていたステイドル先生90年代前半からニューヨーク出張のたびステイドルさんの講座で私は特別講義を担当しました。「もっと米国以外のブランドにも目を向けるべき」と発言したら、米国有力ブランドからの誘いを振り切ってヨーロッパに渡った学生が数人いて、「あなたの影響で優秀学生はヨーロッパに行ってしまったよ」と言われました。年間最優秀学生の一人は「どうしても日本で働きたい」と熱望、卒業後私は彼女の来日を根回ししたこともありました。特別講義の最後に私は必ずこのセリフを言いました。「いま私が教えたことは、かつて私がこの教室で教えてもらったことです」と。パーソンズの夜間プログラムで売り場の見方を鍛えられた日本人が後年同じ教室で学生にそれを伝授する、一種の高揚感がありました。出張のたびステイドルさんとはよく意見交換しましたが、ある日彼から1つ頼み事をされました。ウィスコンシン大学時代に学生寮のルームメイトだった日本人を探して欲しい、と。自宅が火事で学生時代のものは全て消失、記憶にあるのはルームメイトのニックネーム「ベン」、彼の実家は「ティーカンパニー」、「エンペラー(天皇陛下)と交流があるようだ」の3点でした。帰国して3つのヒントをもとに日本茶専門紙などに当たってもらいましたが、ベンはなかなか発見できません。ところが読売新聞社の生活家庭部の若い記者さんが「ひょっとしたら」と有力候補を教えてくれたのです。記者さんからもらった番号に電話して、奥様に「ご主人は若い頃ウィスコンシン大学に留学されていましたか」と訊ねたら、まさにステイドルさんのルームメイトでした。有名な日本茶会社の経営者、天皇陛下(現在の上皇様)のご学友、ファーストネームはBで始まる名前なのでニックネームは「ベン」。ステイドルさんは30余年ぶりにベンさんと日本で再会できました。しかもベンさんは私を松屋にスカウトしてくれた古屋勝彦社長をよく知る先輩、なんとも不思議なご縁でした。私流の実学はパーソンズの先生方との交流でヒントをたくさんもらい、何度も教え方に改善を加えて作ってきたものですが、一番見習ったことは、学生に対する厳しい姿勢と同時に優しい目線でした。人を育てるコツはなんといっても愛情ですから。
2023.06.06
このハッピーな表情の写真は、私の誕生日を祝福するために集まってくれた久々の同窓会で元教え子が撮影してくれたものです。今日はそこに至るまでの話を。1985年5月ニューヨークのファッションウイーク終了直後、繊研新聞社主催ニューヨークセミナーのために通常の短期帰国した私は、ファッションデザイナーの団体を組織化することになり、結局そのままずっと東京に滞在して設立準備。復路の航空券は期限切れ、再びニューヨークに行けたのは4年後の1989年でした。85年7月CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が正式に発足、11月に初の東京コレクションを開催。その直後、通商産業省(現在の経済産業省)生活産業局繊維製品課の課長以下数人がCFDオフィスに。FCC(ファッションコミュニティーセンター)とWFF(ワールドファッションフェア)構想の具体化のための検討委員会に委員として参加するよう求められました。ハコモノと大型イベントに全く興味はなくお断りしましたが、いろんな方に説得されて最終的には引き受けることに。弱冠32歳でした。検討委員会に参加すると、30代はおろか40代の委員さえいない完全なアウェイ、発言の順番は年齢からか最後の最後でした。業界ベテラン識者たちの非現実的な意見を長々聞いていた私は我慢ならず、委員会終了後渡辺光男課長に「年功序列で発言の順番が回ってくるなら時間の無駄、次からは挙手で発言させてください。でなければ委員を辞めます」と申し上げました。全国各地にFCCという名のハコモノを建設して情報発信しようという構想自体に無理があり(結局は建設されたものの情報発信拠点として機能している例は皆無、ほとんどは赤字)、どう考えても無駄なこと。それよりもファッション流通業界は人材育成をもっと強化すべき、仏壇つくる話よりも中に入れる仏様の話を優先すべきじゃないでしょうか、と。このとき若手官僚が「いったい誰が人材育成できるんですか」と質問、「やる気のある人が学びたい若者を集めてやればいいじゃないですか。なんなら私がやってみましょうか」という話になり、CFDオフィスで毎週1回月曜日夜に開講する受講料無料の「月曜会」を始めました。定員は会議室におさまる25人、新聞告知で募集しました。1986年秋のことです。ちなみに月曜会の参加者は、インテリアやプロダクトデザインで活躍している吉岡徳仁くん、バオバオイッセイミヤケを大ヒットさせた松村光くん、ワールドのアンタイトル企画にも携わったオブジェスタンダール森健くん、ショープロデュースのドラムカンを起こした田村幸司くん、ほかにも小売店、テキスタイル、アパレルメーカー若手社員や業界を目指す学生たちでした。開講して4年目、墨田区役所職員が月曜会を見学、ファッションビジネスの人材育成機関を墨田区役所移転後の敷地(両国)に建てるFCCに作って欲しいと頼まれました。区役所の方々にも「ハコモノよりも中身が重要」と言ったからです。こうして墨田区役所でファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長松尾武幸さんに座長をお願いし、コルクルーム安達市三さん、オンワード樫山廣内武さん、ジュンコシマダ岡田茂樹さん、京都服飾文化研究財団キュレーター深井晃子さんらで議論を開始、構想がほぼまとまった時点で松屋の社長を退任したばかりの山中鏆会長(このあと東武百貨店社長に就任)を迎えました。夜間プログラム初回の講師は山中理事長その後人材育成機関の構想は紆余曲折あって墨田区役所の手を離れて通商産業省マターとなり、最終的には財団法人の形でファッション産業人材育成機構(通称IFI)が発足。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐して産官協同50億円規模の財団法人としてスタート、山中さんは理事長兼学長でした。1994年9月にはみんなで議論したカリキュラムや指導方法をテストしてみようとアパレルマーチャンダイジングとリテールマーチャンダイジングの2クラスの夜間プレスクール(6カ月間週1回)を開講、前者は岡田茂樹さんが、後者は私が主任講師としてそれぞれのクラスを半年間運営しました。翌95年からは「デザインの知識」や「商品知識」などマーチャンダイジング以外のクラスを増やし、私は夜間プログラム全体の責任者として4つのクラスを統括することに。このとき私はCFD議長を退任して松屋の東京生活研究所専務所長でしたが、山中理事長と松屋の古屋勝彦社長の合意で兼務となり、ほぼ毎日銀座の松屋と両国国技館前のプレハブ仮教室を行き来しました。当時の授業風景念願の全日制クラスが始まったのは1998年。朝から夕方まで講義があり、一般学生は2年間、出捐企業からの派遣生は1年間学びました。私は月曜日から木曜日までの夜間プログラムに加え、全日制でも2つの講座の授業を担当、多くの若者を教えました。授業が終わると両国駅前のちゃんこ料理店や寿司屋で深夜まで付き合い、夜間クラスと全日制を合わせるとのべ数百人の若者と濃密な交流をしました。ところが、2000年に百貨店とアパレル企業の2社兼務になってしまい、しかも両社とも大きな業務改革を予定していたので学校での指導は時間的にも肉体的にも難しく、IFIビジネススクールからは完全に手を引くことに。IFIビジネススクール全日制1期生たちに祝福されてそのIFIビジネススクール全日制1期生の有志が久しぶりに集まり、私の誕生日を祝ってくれました。彼らの入学は1998年4月、一般学生の卒業は2000年3月ですから、ほぼ4半世紀ぶりの再会という人もいました。飲み放題のイタリアンレストランなのに4時間半もワイワイガヤガヤ、時には真面目に今後のファッションビジネスや海外展開戦略の話なども飛び出しました。こうした教え子たちとの飲み会は本当にハッピー、こういうのを「教師冥利につきる」と言うのでしょうね。売り場の生きた教材を使って教える実学、これまでIFIビジネススクール以外にも専門学校や所属企業でも週1回ペースで指導してきました。85年に帰国してこれまで合計すれば数千人にマーチャンダイジングや売り場の見方を伝えてきましたから、ファッション流通業界にはたくさんの教え子がいます。彼らにはもっともっと活躍して欲しいです。
2023.06.03
バレエシューズの名門Repetto(レペット)ジャンマルク・ゴシェ社長の訃報を知らせてくれたのは、元八木通商の馬場宗俊さんでした。今日は長い付き合いの馬場さんとのつながりを。私がニューヨークに渡った1977年春、一人の新人ファッションデザイナーがセブンスアベニュー(多くのショールームが集まる地区、ファッションアベニューとも呼ばれる)でデビューしました。以前この交友録で触れたペリー・エリスです。前列中央がペリー・エリス本人Perry Ellisのコレクション八木通商は当時阪急百貨店のためにニューヨークのデザイナーブランドとの提携を探っていて、どのデザイナーに期待できるか意見を求められました。私はデビューして間がないペリー・エリスの将来性に賭けるべきでは、とニューヨーク出張中の八木雄三さん(現社長)に推薦しました。「本当に伸びると思う?」と何度も念を押されたので、「絶対に伸びます」と答え、「ペリーのところにはすでに6社の日本企業からオファーがあり、サブライセンシー(商品製造するアパレル企業)が見つかるまで契約できないなんてことでは遅すぎます」と言いました。東48丁目の寿司屋初花でのこんなやりとりがあって八木さんは決断、サブライセンシーが決まる前にペリーと契約を結びました。その2年後にはもうカルバンクライン、ラルフローレンと並ぶ「ビッグ3」にペリーエリスブランドは成長していましたから(ダナキャランブランドはまだ登場していない)、「絶対に伸びます」と断言した私は間違っていませんでした。馬場宗俊さん提携後八木通商本社サイドでペリーエリスブランド担当として現れたのが馬場宗俊さんでした。長く経理部門にいた馬場さん、商社マンには珍しく海外駐在経験ゼロでした。担当したペリーエリスはシーズンごとに急成長を続け、国内市場では阪急百貨店のPBながら他の百貨店からでも展開。婦人服製造を担当したレナウンは米国側と同じ生地をヨーロッパから輸入して本気のものづくり、しかもペリーエリスとジーンズ最大手リーバイスがタグを組んだペリーエリスアメリカ(のちにグッチを牽引したトム・フォードはここにいた)には日本製テキスタイルを売り込む。担当だった馬場さんはものすごく忙しかったと思います。私が帰国してCFDで東京コレクションの運営を始めた頃、馬場さんはペリーエリス事業を離れ、英国の新興ブランド「マルベリー」の担当になり、六本木から西麻布に抜ける星条旗通りに路面店をオープンしました。ちょうどこのころ松屋社長だった山中さんから創業120周年記念の改装計画を伺い、私は百貨店経営の神様にリニューアルにおいて百貨店がやるべきことを申し上げました。売上をとるために海外有力ブランド導入も悪くはないけれど、同時にまだ一般消費者の間では無名のブランドを導入して売り場で育てる覚悟を持たないといけないのでは、と。山中さんは「そんなブランド、どこにあるんだ!」。私は「あくまで例えばの一例ですよ」と前置きしてマルベリーの名をあげました。まだ世間ではほとんど知られていないブランド、毎シーズンコンセプトにブレはない、インポート商品のデリバリーに不安はなさそう、この3つの必要条件を満たしているブランドだからと例に出しました。翌日、年末の忙しい時期にもかかわらず山中さんは星条旗通りのショップに現れ、「太田くんが行けというから来たんだよ」と馬場さんにおっしゃったそうです。馬場さんからすぐに電話があり、「山中さんが突然いらっしゃったのでびっくりしました」。翌日には山中さんからも電話があり、「マルベリーに行ってきたよ。キミが言う意味がよくわかった」、神様はとにかく行動がスピーディーでしたが、馬場さんはじめ現場にいたスタッフたちは何が起こるのか心配だったかもしれません。コートの織りネームそして翌年、当時まだ無名だったマルベリーのショップが松屋銀座1階に誕生したのです。ほぼ同時期に英国の創業者ロジャー・ソール氏は馬場さんを引き抜いて八木通商から独立、星条旗通りから南青山5丁目スパイラルビルの裏にショップを移転、新たな日本のパートナーを探し始めました。このとき出資者として登場したのが、元松屋ファッションコーディネーター西山栄子さんのご主人でテキスタイルコンバーターの社長だった奥井新一さんでした。マルベリーの新店舗兼オフィスはCFDの事務所から徒歩5分、よく馬場さんを訪ねました。話はちょっとそれますが、英国王室アン王女が来日してマルベリーショップを視察の際、青山通りからショップまでの数十メートルに赤い絨毯、さすがに特別なおもてなしでした。その後馬場さんはマルベリージャパンを離れてフリーのコンサルタントになって伊藤忠商事の海外ブランド事業部を手伝っていたとき、ハンティングワールドを担当していた細見研介さん(現ファミリーマート社長)を紹介されました。このとき私も転職して百貨店で売り場改装に携わっていたので、ハンティングワールドの展開オファーを受け入れました。次に馬場さんがサポートを始めたブランドがイタリアのカジュアル系バッグ「マンダリナダック」。このとき紹介されたのが有力コンサル会社からマンダリナ幹部に転じたマルコ・ビッザーリさん、のちにステラマッカートニー、ボッテガヴェネタのCEOを経て現在グッチ本社のCEOです。マンダリナ時代からユーモアがあって鋭い洞察力、ほかの幹部とはちょっと違った存在でした。振り返ってみれば、顔の広い馬場さんからは内外のたくさんの業界関係者を紹介されました。レペットのゴシュさん、マルベリー創業者のソールさんや現グッチCEOのビッザーリさん、伊藤忠商事の細見さん以外にも、三喜商事社長の堀田康彦さん、サンモトヤマ茂登山長市郎さん親子、この交友録64で触れた元神戸大丸の宝永広重さん、ミントデザインズの勝井さんら、ほかにも大手アパレルの取締役たち、若手テキスタイルプランナー、ジャッキー・チェンが日本のお母さんと慕った小料理屋の女将やジャッキーの国際弁護士までいろんな方を紹介されました。また、私の元部下たちの中には馬場さんに仕事を斡旋してもらったり、ものづくりのネットワークを教えてもらったりとお世話になった者も少なくありません。私にとってはありがたい仲間です。
2023.05.30
連日売り場視察を終えて集合古い写真を整理していたら1995年10月ニューヨーク研修時に撮影したものが出てきました。場所はセントラルパークに面した西59丁目と6番街角にあったサンモリッツホテルのスイートルーム(人事部が研修事務局部屋としてキープ)、椅子に座って若手バイヤーに向けて何か説明しているのが私です。日中は休みなく売り場を歩き回って夕方この部屋に集合、それぞれ視察した小売店の良い点悪い点を若手社員が発表します。コメントに対して私が意見を述べる現地研修、参加者は1日2万歩ほど歩くので恐らく疲れと時差でかなり眠かったはずです。が、みんな真剣でした。私が引率するニューヨーク研修の第1回目、なんと8泊10日、同じマンハッタンに滞在という非常に贅沢で中身の濃いツアーでした。せっかくニューヨークに来たんだから、夜はブロードウェイに行くもよし、ヤンキース野球観戦もよし、いろんな体験をすべきというおおらかな研修でもありました。みんなで徹底的に歩いてニューヨークの売り場に学び、日々のマーチャンダイジング、あるいはのちの店舗リニューアルに役立てたいという狙いでした。夕方のミーティングの後ディナーや劇場に出かけ、事務局部屋に戻って深夜3時頃まで酒盛りしながら意見交換、歓談がなかなか終わらないのでこの部屋で寝る人事部スタッフは連日寝不足、大量のドリンクや氷の買い出しも引き受け、最終日はクタクタで気の毒でした。生きた教材として何度も通ったBERGDORF GOODMAN参加者には最低でも滞在中2回はバーグドルフグッドマン視察に行くよう勧めました。ホテルからワンブロック徒歩5分、参加者は徹底分析するため何度もバーグドルフに通いました。古くて商品に新鮮味のなかった老舗百貨店が支店を売却して資金を作って大改装、世界の主要デザイナーやブランド企業から「最も取引したい小売店」に変身したのですから、バーグドルフは最高の生きた教材でした。「将来バーグドルフのような大改革できたらいいね」、毎回ニューヨーク研修でみんなに言い続けました。「若手だけでなく中間管理職、幹部もニューヨークに連れて行ってくれないか」と社長に言われ、若手が8泊10日で回った同じコースを多忙な部課長たちは4泊6日のハードスケジュール、とにかくみんなで同じ店舗を回って情報共有、若手から経営トップまでが同じベクトルで大改装プランを立てました。そして6年後の2001年、1980年代初頭にバーグドルフグッドマンが敢行したような大規模リニューアルが実現、お店のイメージは大きく変わりました。まさしく人材育成の賜物でした。海外研修も含め人材育成を重要課題として取り組んできた歴代経営者でなければ、人材育成は簡単に経費カットされていたでしょう。人材あっての企業、人材育成と真剣に取り組まない企業に明日はないと言っても過言ではありません。「先輩の背中を見てノウハウ盗め」なんていい加減なO.J.T.(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)はそろそろやめないと....。
2023.05.16
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