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メールはこちらからようこそ、お越し下さました。やっとお盆が終わりました。そして、熱い毎日が続いております。過日、ジョギング中に熱中症?らしき症状に陥り、道路にへたり込んでしまいました。水分を充分に採っているつもりだったのが、少し甘かったのでしょう。だから、夏のジョギングは少し控えております。さて、この夏のシーズンは島はいつになく大変静かな日々を過ごしております。ただ、お盆期間中はお客様もぽちぽち来られ、「閑中忙あり」(かんちゅうぼうあり)といった所。お盆に来られたお客様で、誕生日を迎えられた方がいました。初日は会席料理、二泊目はバーベキューで楽しまれました。その時に出させていただいたのがこれ。バースデイケーキならぬ、バースデイうに・雲丹。大変、盛り上がっていたようです。さて、今週は週末の24時間TVの本番まで、多くのスタッフの方々が網地島に来られ、その準備に入るので、大変忙しい週になります。連凧あげのギネスに挑戦とか・・・人と自然との調和が求められるゲームですね。私にとって、ほぼ100%の経済活動をさせていただいてきたいままでの夏。朝から晩まで、お客様をおもてなしするための時間でありエネルギーです。今週が終われば、それも終わりを告げ、経済活動50%から30%へ、更に冬に近づけば10%を切る生活になってゆく。シーズンが終わって、好きなことができる季節がやって来る。別に、お客様をおもてなしすることが嫌いというわけではありませんよ。お客様の喜んでお帰りになるお顔を見れば、「この役目を選択できた幸せ感」を大いに感じられます。でも、元来怠け者の私です。刹那の「直観」に生きる私としては、義務感の余り無い生き方が好きなのかな。そう、よくお客様との会話で出る話、「選択の基準が損得ではなく、やりたいかやりたくないか、正しいか正しくないか、美しいか美しくないか、それで決めたいよね。」と言って、若い内は仕方がないところもあるけど、人生の仕上げの時に来たら、「損得」だけで行動したくはありませんよね。この生き方は、今生の幸せもさることながら、この肉体を捨てた後の幸せにターゲットを絞った生き方と言えましょう。よく言われますが、「将来の100万円と今の1万円」という言葉。世俗っぽい例えになっちゃうけど、許してね。やっぱり私も、この肉体を解き放った後の幸せを第一に考えたいな。とは言っても、この選択をした人にとって、肉体を背負った今の生き方に幸せは訪れないのかというと、決してそうではありませんね。そういう調和に道を選択し行動に移してくると、今生の生活がものすごく豊かに、そして意味あるものと変わってきます。結果として、今も幸せに満ち満ちてくるのです。これは、私の20年に及ぶ島での「調和に生きる」という選択をし行動しようと決意して生きた結果が歴然と築かれましたので間違いのないところ。それでは、今週末のイベントが成功裡に収まるよう、ペンション晴耕雨読としてやるべきことをこなしましょう。それが終われば・・・旅にでも行っちゃおうかな。
2012.08.22
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メールはこちらからようこそ、お越し下さました。一昨日、島民の知らない間に遊泳禁止の看板が取り付けられました。市当局との今までの話し合いの中で、遊泳禁止という言葉は一切ありませんでしたが・・・現在も海水浴を楽しんでいらっしゃる人はおりますが、宮城県警の「金華山」という密漁監視船が港に停泊している時、あまり浜から離れて泳いでいると、注意の呼びかけがあると聞いています。業務上、仕方のない処置だそうです。再三の注意はないとのこと。「水辺あたりで泳いでください」ということらしいです。そして、あくまでも「個人の責任」においてということですね。そのへんを、うまくやって楽しんでください。
2012.08.07
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メールはこちらからようこそ、お越し下さました。今や世界中が注目している?ロンドンオリンピック。我が家のTVにも、映っている時間が増えています。ペンションをやるようになってから、夏のオリンピックを見られるのは初めて。今までは、ペンションのハイシーズン中でしたからね。でも、今年はのんびりとカウチに引っくり返ってオリンピックを楽しんでいる家族を見ていると、「これもいいか~」なんて気持ちかな。勝負の世界には、いろいろなドラマが誕生します。金メダル候補だったのが、その力を発揮することができずに無念の涙。方や、下馬評にも上がっていない選手が、表彰台に上がったりと。私が30代後半の数年間、ある車のレースで日本一を目指していたこともあったけな。母子家庭状態の中、何とか子供たちに父親としての足跡を感じてほしかったから。(これも、大きな勘違いのエゴとこじつけ)実際、その栄誉に輝いたことも、記憶の隅っこにあります。若い時の、人と競って生きた日々。今思えば懐かしい。勝負は、時の運とも言われます。しかし、運も実力の内ではあります。「勝負は背負っているものの多い者が負ける」と言われます。背負う荷物が多ければ多いほど、重くなる。体が思うように動かなくなる。身も心も「自由」がなくなる。生き方もこれと一緒かな。「我」も重い荷物の一つです。「負けるが勝ち」「不生不滅、不垢不浄、不増不減」「ふしょうふーめつ、ふーくーふーじょう・・・」実は、「勝つ」とか「負ける」とかも無いのが宇宙の真理。ゴールをどこに設定するのかがその分かれ目。目先の勝ち負けか、あるいは今生の生の最終章に基準を置くか。更には、3次元の肉体を脱いだ後、次の生をどこにその表現の場を求めるか。そこで、どういう結果になろうとも、そこには「勝った」とか「負けた」とかの定義付けはありません。その中で、何を学んだかが成長の糧。人それぞれの美学が問われます。すでに、勝つとか負けるとかは死語となった私です。勿論、生の中で「勝ち」に生きる若い時の経験は貴重です。「勝ち」に拘って生き、その囚われを手放し、人は徐々にその熟成度を高めていく。そして、「勝つ」ことに拘ることの虚しさを知るのでしょう。競うことの愚かさを識(し)るのでしょうか。
2012.08.04
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