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運転免許証ようやく更新、ただし普通免許は取り消してもらう 疲れきって文章をつづる力がない。ともかく、今後は自動二輪免許のみで、買い物などを続けるのみ。ただし、視力検査は不合格一歩手前で、危なかった。我れ、高齢者にして来月誕生日で72になる。ゴールド免許ではあるが、年齢による資格年数の減少措置があり、実に若い人のブルー免許と同じ3年である。現在の買い物の足、ホンダPCX150なお、バイク人生恐らく最後の買い替えとなるスクーターは、ホンダDio(ディオ)110を予定して、記念に新車購入を決定している。無論110とは排気量である。頸椎ヘルニアで衰えた身に、スクーターはありがたい存在。今後近場の買い物はディオ、ドラム・レッスンはPCX150の予定。ホンダDio(ディオ)110 主要諸元全長×全幅×全高(mm) 1870×685×1100シート高(mm) 760車重(kg) 96最高出力(kW, ps/rpm) 6.4, 8.7/7500最大トルク(N・m, kg・m/rpm) 9.0, 0.92/5750☆備考・単位換算目安1kW=1.3596ps, 1 N・m=0.1kg・m例示 6.4kW=6.4×1.3596=8.7ps 9.0N・m=9.0÷9.8=0.92kg・m kW⇒psの1.3596の語呂暗記法1 . 3 5 9 6 は「い・ざ・ご・く・ろー」とこじつける。N・m⇒kg・mについて。高校物理学で学ぶ運動方程式のF=maにおいて、FはN(ニュートン)、mはm(kg)、aはa(m/s2乗)。ここで質量mにかかる重力加速度aは、a=g=9.8m/s2乗で、F(N)をm(kg)に換算するには、F=maの式を変形して、m(kg)=F(N)/a(m/s2乗)で求められる。なお、ネットのページによっては、9.8で割るのを9.8≒10として10で割っても近似値が得られると記すものもある。改めて、9.0N=9.0÷9.8=0.92kg。よって9.0N・m=0.92kg・m。
2024.11.25
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東映動画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』劇中挿入歌「行こうよみんなのうた」楽譜掲載 2024/03/08開始亡くなった三つ上の兄を思い出すことがかなりたくさんあるのだが、その一つに『音楽』がある。私が小学低学年の頃、これはまず初めに父のハーモニカが私を感化した。母とのいさかいが少なからずあり、母を懐かしく思い出そうとすると、勢い父の悪口の羅列ともなる。だがこの年へ来て、私の趣味あるいは少しうぬぼれて特技となると、俄然父のハーモニカがごく自然に思い出されるようになった。楽器の管理、寿命を考えると多分良くないことなのだろうが、父は風呂に浸かりながらハーモニカを吹いて聴かせてくれた。そう、父や母と一緒に風呂に入るのが、しばらくの習慣だった。また、兄と一緒に入ったこともある。兄弟一緒のお風呂。撮影はカメラを愛用していた父。ハーモニカを吹くのは身体中一通り洗って、湯船に浸かった時で、これものぼせる原因になるが、その時により、カラスの行水ではなかった。もちろん初めの頃は父が吹くハーモニカに聴き入ったのだが、不思議なもので、そのうち、小学中学年から高学年になる頃には、ハーモニカは私のものになっていた。人の吹いたハーモニカを汚いと思うのが普通なのかも知れないが、なぜか抵抗はなく、晴れて自分の所有物になったといううれしさもあり、今度は私が長風呂してハーモニカに興ずることとなった。ハーモニカは今でも趣味の一つ。上二枚は複音ハーモニカ、三枚目が半音ハーモニカ。この頃ハーモニカは学校の音楽の授業でも扱うことがあり、私は「誰でも出来る楽器」と勝手に考えていた。のちに、不得意またはほとんど出来ない人がいることを知ったが、未だに簡単な楽器との印象はぬぐえない。いっときはハーモニカを想う存分吹くために風呂に入るも同然というほど、ハーモニカが楽しみで仕方ないほどだったが、70代に入った今は、湯船に浸かることさえ億劫な時があり、シャワーで済ますことが多くなっている。本題からそれるので、委曲を尽くすことへのこだわりは捨てて、急いで書いてみる。音楽への興味をもたらしてくれたのは、今は亡き三つ上の兄である。兄は中学、高校と、これらの時期に、「行進曲」、「山岳歌曲」などに広く興味を持ち、普通のレコードは高かったのか、朝日ソノラマというメーカーが盛んに出していたソノシートという薄いプラ板のような材質のレコード盤を買って次第に増やしていった。記憶に間違いなければ、ソノシートは近所の書店に置いてあり、それもEPのシングルレコードとは異なり、どちらかというと、直径30cmのLPレコードに近い収録内容で、レコード盤そのものはコンパクトに収まっていたが、収録曲数が断然多く、それも本のようにまとまった書籍風のものに、何枚か、つまり複数枚のレコードが一冊の中にまとめられていて、行進曲つまりマーチならば、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザやタイケ、ワーグナーなどの有名なマーチが見事にそろっていて、レコード・プレーヤーで聴けるから、何曲も聴いて存分に味わうことが出来た。光文社の月刊誌『少年』組み立て付録のレコードプレーヤーとソノシート。本物のプレーヤーで聴けたので楽しめた。のちの中学の吹奏楽部のマーチを聴くより早く、既に当時の有名な曲はソノシートで覚えていた。兄の音楽への関心度の高さは見事というほかなく、唱歌・外国歌曲・童謡・軍歌・懐メロ流行歌など、ジャンル分けの必要が不要と言えるほどだった。ポップスしか聴かないという狭さではなかった。メロディーが良いと感じたら、ジャンルを問わず片っ端から聴き入るようになっていったので、同じくハーモニカで曲を吹く趣味を持っていた私も、見事に感化された。兄の音楽への関心度で未だに驚異と感ずるのは、「日本民謡」にも強い興味を持ち、やはりソノシートで日本民謡集を買って興じていたことだ。中でも兄は「小諸馬子唄」をいたく気に入り、今や追憶と共に、私の好きな日本民謡となっている。分けても兄が凄いと思ったのは、劇場映画の有名な曲に敏感に反応したことだった。もっとも、当時は映画会社も作劇以外に主題歌に力を入れていたと思われるので、音楽への興味ひとかたならぬ者は、等しく興味をひかれたのかも知れない。中でも、当時『動画』、『漫画映画』と呼んで親しんだ「東映動画」の長編漫画映画は格別で、長編漫画一作ごとにほぼ必ずと言えるほど、印象に残る曲を随所に流して、私たちもごく自然に、主題歌や挿入歌を印象強く受け止めるようになっていた。早くも記憶がいいかげんなのだが、東映漫画映画公開年から、ある程度類推するしか方法がなく、そのようにつづってみる。御殿場に引っ越したのが昭和35年(1960)の夏休み中。父が自衛官だったのが理由だが、この御殿場市は、それまで住んだ富士宮市よりあかぬけているとはとても思えず、さらに僻遠の地に移るのかと思った。ところがカルチャー・ショックは引っ越し早々の夏休み中に訪れた。富士宮市の大宮小学校では、女子は普通の水着なのだが、何んと男子は局所のみ隠すといういわゆる越中ふんどしの水着をつけるというひどさで、胴回りなどはヒモと言うべきなほど細いヒモだけであり、今婦人が穿(は)いているティーバックよりもさらに過激なスタイルの水着だった。学校の方針に曰くの理由が実に面妖で、「貧しい家の子が海水パンツをはけなくて困る」からというのだそうな。では女子で貧しい家庭の子はどうなのか。実にくだらない規則があるひどい学校だった。さて、御殿場市に引っ越して早々にプール使用可能との情報がもたらされ、驚いたことに、母が既に海水パンツを買ってくれてあった。早速学校が備えているプールに行くと、実にカラフル ! 男女共に目の保養になるほど、様々な水着が目を射る。御殿場小は教育方針が充実していて、小学六年間に続くすぐ隣の御殿場中学での学習にスムーズにつながる高い指導内容だった。中でも感激さえしたのが『映画教室』と称する映画鑑賞の時間を設けたことだった。大きく二種類あって、業者の方々が映写機材共々、鑑賞に堪(た)える内外の劇映画を用意してあって、公会堂と呼んだ講堂で上映が行なわれた形のものが一つ。もう一つは、既に公開年を過ぎたかつての劇場映画を、学校貸し切りで街の映画館で上映して鑑賞させてくれたことで、何日か前から予定が知らされていて、その日は全日授業無しとまで行かなくとも、午前のみあるいは午後のみ映画に費やして生徒にいっときの娯楽を楽しませてくれた。映画館まで教師引率で徒歩で出かけて行った。多分その中には、公開時に映画鑑賞出来る時もあったかも知れない。私が転校して初めて見た漫画映画は昭和34年(1959)公開だった「少年猿飛佐助」で、これは御殿場小・御殿場中学共に同日か一両日のうちにたて続けに上映した。思えば娯楽に飢えてもいたかも知れない。「♪ 力よ力 雲に乗って来い 山の仲間は猿・熊・小鹿 オー 胸に友情瞳に正義 やるぞ負けずについて来い 僕は少年猿飛佐助 オー」の主題歌一番が、タイトルと共に流れたから、もう初めから大感激だった。なお断わっておくが、昨今のストーリー重視が当たり前となったアニメにしか感ずることが出来ない者どもは、このかつての東映動画は見ないほうが良い。昭和30年代の勧善懲悪の物語に意外性を求めるのは筋違いだ。さて。映画鑑賞の興奮を余韻としてみなぎらせたまま帰宅となる。同じく本作品を見ていた兄が改めて作品について語ってくれたような気がする。話術に長けた兄の話は、また一味違う感動を再燃させてくれた。第一、忍術使いの猿飛佐助の名を知らしめてくれたのはほかならぬ兄だった。兄はこれもまた父の自衛隊勤務のために、実に遠方の地、北海道は釧路近くの辺ぴな土地、別保(べっぽ)に引っ越すその時も時、大好きだった祖父の足に両手でがっしりと抱きついたまま、上野駅のその場から動こうとせず、遂に根負けした両親が幼い私だけ連れて汽車に乗るという一大事があったほどだった。兄とは数年後、富士宮市の自宅で再会となるが、懐かしい思い出だ。この祖父が大日本雄辯会講談社(現・講談社)が無償で発行した講談本所収の話に通ずる様々な物語を、幼い兄にほぼ毎晩聞かせてくれた。さよう、かつての年寄りはオートバイになんぞ乗らない、というよりそんなもの存在しなかった。真田十勇士を列挙出来たのは当たり前で、祖父は講談に名高い英雄豪傑、妖怪変化の物語を幼子に語り惹き付けることが楽々出来たのだ。そんな祖父の感化よろしきを得てか、兄は古往今来の古典に明るかった。話術も見事だった。例えば私の小中学時代に忍者漫画がはやった時期があるが、兄は「忍術というのは、今はやりの忍者が苦行の果てに体得した現実的な技ばかりではない」と話し始めた。週刊誌で少年サンデーが人気があり、その中に掲載の「伊賀の影丸」という忍者漫画がヒットしていたが、兄は影丸のかぶる頭巾の不自然さを早くから指摘していた。影丸の頭巾の横からとがった妙なものが突き出ているとの指摘で、これはその通りである。ただしそんなことを言い出したら、漫画史上に名高い「鉄腕アトム」の頭のとがった髪の毛も、極めて不自然に見えるから、これをむきになって非難したら名作漫画がそうでなくなるおそれもある。兄の頭の中にあったのは、かつて子供らの心をとらえ続けた『忍術使い』であり、その術は『忍術』であり、忍法ではなかった。三すくみの原理も巧みに取り入れた『忍術児雷也』を知る世代の人ならば、全面賛成は出来なくても、言わんとするところがわかって下さると思う。兄たちを興じさせた忍術とは、言わば『妖術』であり、難行・苦行を乗り越えるところは同様なれども、免許皆伝の暁には、九字を切るだけで炎を呼び、嵐を呼び、逆巻く波を起こして、見る者を熱狂させた。話はやはり長くなったが、「少年猿飛佐助」が使ったのは紛れもなき妖術だった。だから迫力があってわくわくしたのだ。手裏剣をピシピシなどと投げてなぞいない。「えいっ ! 」との気合いもろとも様々な天変地異を起こして、敵味方共に妖術合戦を繰り広げた。これでは「少年猿飛佐助」の話になってしまう。何しろ楽譜などは基本も何もわかっていない身でテキトーに書くものだから、「少年猿飛佐助」も出来ればいずれ楽譜にしてみたいと思い続けているが、完成譜面の整然さは、望むべくもない。とにかく、数多くの歌謡曲などの楽譜がフリー素材としては存在しない事実がある以上、多少の見づらさは無視してでも、曲がりなりにも『音階』を目で見られる楽譜という形にしたい一心で掲載するものである。この機会にひとこと書いておく。楽譜を金をとって提供するなぞといういやしい商売なぞするな !さて、昭和37年(1962)公開の東映長編漫画映画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』の劇中挿入歌『行こうよみんなのうた』のただしかなりテキトーな楽譜を掲載してみたい。なお、今回は今までの楽譜作成練習結果を、その都度チェックしてくれていた「ユコタン」こと相棒の夕子殿の、昨今の仕事多忙に配慮して、完成後ごく大ざっぱに確認してもらうにとどめた。これまでの楽譜は、彼女が入念に確認してくれて、現に私の音階の明らかな間違いをも見つけて訂正してくれたこともあったので、安心していられたが、こちらはあくまで趣味なので、今回は「音階」のみに絞ってみていただいた。本作品の「行こうよみんなのうた」は、動画作品中で流れる歌、さらにはかつて販売されたCD全集『東映動画アンソロジー』に収録されたデニー白川氏の歌それぞれに、歌い方の異同があるのだが、ここは思い切ってDVDに流れる『行こうよみんなのうたII』に絞って楽譜作成してみた。蛇足的な話の最後として、この『行こうよみんなのうた』も、私自身、教師引率で街の映画館で見た印象が強烈で「東映動画はいい歌を作るなあ」と、これも興奮さめやらぬ鑑賞後の思いのまま帰宅したところ、三つ上の兄が「シンドバッド良かったなあ。日本の娯楽のいいところはな、我が国の神話、説話はもちろんのこと、世界中の名作を惜しげもなく作品として作ることだ」と言った。兄はその思想既にある意味『保守』であり、それでいて、巷間「名作」と言われる映像作品などは、国家主義――資本主義・共産主義を問わず、いいものを「いい」と認めるにやぶさかでない柔軟さがあった。弟ながら、憧れ、尊敬するのも当然と思うゆえんである。そして、こういう優れた考えを持つ者ほど、天はその生命を早くに絶ってしまうものだとさえ思える。兄はとどめというべきことを言った。「今度も映画の中に流れるシンドバッドの歌がいいなぁ」。こう言って、実に一回見ただけの漫画映画の劇中挿入歌を、ワンコーラス歌いきって聞かせてくれた。それが『行こうよみんなのうたII』だった。いよいよ最後に。我が国音楽界の重鎮と言える音楽家の湯川れい子さんは、当時歌唱のデニー白川氏を評して「ナット・キング・コールそっくりのハスキーな優しい声で、非常に人気があった。言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、慎み深かった」とおっしゃっていた(ウィキペディアから抜粋)。「行こうよみんなのうたI 」この海の底には 神秘があるんだその波の下には あこがれがある行こうよみんな 行こうよみんな月の光の中に 星の影の中に魔の海の幽霊船に現われたたくさんの亡霊に向かって、シンバッドは静かにギターを奏でて「行こうよみんなのうた」を聴かせる。すると、これが霊たちへの鎮魂歌となり、一つまた一つと消えて、とうとう海は明るさを取り戻す。名場面である。「行こうよみんなのうた II 」あの空の下には 幸せがいっぱいあの雲の果てには 希望がいっぱい行こうよみんな 行こうよみんなあの空の下まで あの雲の果てまで『行こうよみんなのうた』作詞 米山正夫氏 作曲 冨田勲氏 歌唱 デニー白川氏〇補足〇この『行こうよみんなのうた』は、劇場公開版と言うべきか少なくともDVDでは、途中から見事な女声スキャットが流れて、歌の品格を高める工夫がなされている。具体的にいうなら、『行こうよみんなのうたII』の「♪希望がいっぱーい」の「望」のところからハッキリと女声コーラスのスキャットが流れて、歌の完成度を高めている。
2024.03.13
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本日は陸軍記念日 2024/03/10開始以下、ウィキペディアから抜粋。★戦前日本では、3月10日であった。これは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。これに対して同じ日露戦争の日本海海戦で帝国海軍が勝利した5月27日が海軍記念日と定められていた。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。★以上抜粋。また、日露戦争の陸戦では、当時世界最強といわれたロシアのコサック騎兵団を破った功績でも名高い秋山好古(あきやま・よしふる)氏がいる。日本海海戦の立役者でもある秋山真之(あきやま・さねゆき)氏の実兄である。秋山好古氏についてもウィキペディアから抜粋する。★青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」との価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなく、むしろ殊更に美醜を気にする考え方を嫌っていたといわれている。★以上抜粋思想的に難があるとの説も存在するが、日露戦争のことや、何より陸海軍とも我が国の救世主とも言える愛媛県松山市の偉大な二人の兄弟の幼少期を含む詳述では見事で、文章も平明で読みやすい司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」。本ブログテーマの奉天会戦を描いた第五巻。秋山兄弟を知るには絶好の一書と思われる。
2024.03.10
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『兄による数学指導』の想い出 2024/01/24開始2003.12.23お兄ちゃんやーい。 加筆訂正再録カテゴリ:数学・数式12月23日 火曜日 天長節あえて固い内容にしてみる。勉強の話である。私は友人を一人も持たぬ者である。むしろまだ世の中のことが何が何だかわからぬ小学校低学年から高学年までのうちは、言いたい放題したい放題をして、友の如き者、更には気楽に話せる特定の女子が常にいたが、中学以来、思想一変したのが原因か、ごく気楽に付き合える友人が一人もいなくなった。休日突如訪ねて来る級友なぞ誰もいない。これより以後、女子と気楽に話すことも出来なくなっていた。横道にそれるが、中一初めの頃、気軽に話しかけてくれる女子が一人いたのに、なにゆえか、休み時間などに、彼女とおしゃべりを楽しもうという気が起こらず、気がついたら彼女でさえ、ほかに親しく雑談などが出来る級友を得て、私は孤立が始まった。記憶が正しければ、彼女は小6の時、同じクラスで、変に飾ったりしないが男女両方から好かれる好印象の生徒だった。私には既に『女性崇拝の念』が根本にあり、この傾向は長じて好色に著しく傾いてゆく。なお、私の思想一変とは、中学入学初めの朝礼の時に訪れた。既に人気投票によって選ばれた学級委員が、教師と隣り合って、ずらり各組勢ぞろいした。日射病ではなく、はっきり目の前が真っ暗になり、同時に後頭部を殴られた感覚を味わった。もちろん痛撃を受けたのではないが、激烈な劣等意識が後頭部を襲った。この場面を錯覚したのが、私の思想一変だった。人は五歳にして既にその人であるとは、幼児教育の創始者、フレーベル(ドイツ)の名言だが、私は性格こそつまらぬマイナスタイプの少年だったが、居並ぶ委員を見て、「この連中は要するに学業成績の優秀さを認められた生徒たちだ」と勘違いしたのだ。己れに出来そうなことはただ一つ。学科の勉強を根気・能力の続く限りやることだった。「そうしたら、次の学級委員選挙では、何かの役職に当選するかも知れぬ」と勝手に思い込んだ。もとより人気投票と知っていたはずだが、今一つの可能性にかけたのである。無論、三年間ほとんど無役だった。これ又鮮明に記憶している。中一初めての学科の勉強を教わった日の夜、勉強しようと思った。ところが何をどうしていいか、全く見当がつかない。その日の授業を振り返ってみた。担任の先生が社会科担当で、軽い気持ちで始めたのか、「地図記号の見方」から始めたことを思い出した。社会科のノートを開くと、確かに書き写してある。発電所・港・桑畑・果樹園などいろいろ書いてある。とりあえずこれを覚えこむことから始めた。数学は本格の内容には入らなかったようだ。三つ上の兄は既に沼津東高一年生であるが、やはり新入生である。中学数学の本格授業が始まった。こちらはまず何から始めたかは全く記憶にない。正の数・負の数あたりが初め近くに位置しただろうか。そして、以前も書いた通り、「文字式」が最初の巨大な壁となった。たとえば「一の位がa、十の位がbの数字を文字式で表わせ」というものがどうしてもわからない。アルファベットを数字に例えることが出来なかった。兄も高校の課程に入って忙しそうである。両親は狭い自衛隊官舎の三間つまり部屋数が三つしかない部屋の二間を兄弟二人に与えてくれた。ただし、からかみ一枚隔ててすぐ、兄弟二人の机が、くっつかんばかりに横並びにしてある。兄を頼むのは簡単なようで実は恐ろしかった。思い切って文字式のことを手ほどきしてもらおうと思って問うたら、「そんなの自分で考えろ!!」という叱責が返って来た。ややあって、一度ピシャリと閉めたからかみが開いて、「どう、見せてみろ」と相変わらず恐い口調だが、兄が個人教授に乗り出してくれる顔をしていた。ただし、叱られながらである。「お前な、中学以降の数学は、算数じゃないということをまず肝に銘じておけ ! ! 小学校では答えを出すための計算ばかりやって来ただろ・・・。何だ、返事ぐらい出来ないのか ! ? 」「うん」「うん、じゃない。はい、だ」「はい」「声が小さい ! ! やり直せ」「ハイッ ! ! 」まるで軍隊である。だが私は挙止整った軍人の動作が実は好きだったので、覚悟を決めて、上官から訓示を受ける部下のつもりになって、従うこととした。「お前な、小学校でやった文章問題のこと、思い出してみろ。あの時、式を作ってだんだんそれを解いて行ったよな」「ハイッ」「その式を書いたところで、それから先一歩も進めないところを想像できるか ? 」はっきり言ってよくわからない。兄は察したらしく、「例えば、一の位が5で、十の位が2の数はいくつかという問題があったとするな」「ハイッ」「お前、はいはいって、声だけはたくましいけど、ちゃんとわかってるのか ? 」「だって、お兄ちゃんが『はいっ』と大きな返事しろって言ったから・・・」「バカヤロ ! ! ま、いい。いいか、教えてくれる人に対して、ふてくさったような態度とったら、金輪際教えないからな。教わる者の態度だけは守れよ」「わかってるよ」「やめた」「あ、お兄ちゃん、言い方間違ったら謝るからさ、俺ここがわからないと、先へ全然進めないんだから・・・」「じゃあ、今の返事言いなおしてみろ」「言いなおすって ? 」「バカか、お前。わかってるよって今言ったろ ! ! そういうのは返事とは言わない。口ごたえというんだ」ようやく私も察して、「あ、わかりました。言いなおします。ハイッ ! ! 」「よおし。じゃ、続き行くぞ。今の問題の答え言えるか ? 」「ええーと・・・25」「小学校ならそれでいい。だけどダメだ。文字式の世界で言うと、それは単に2と5を並べてにーごーと言ったに過ぎない」「・・・」(わかってない)「じゃあ聞くけど2と5はどっちが大きい ? 」「5」「バカ ! ! 25の場合を言ってるんだ。25の2はただの2か ? 」おつむの回転甚だしくのろく、しばし考えるが、ようやく、「あっ、25は20と5だから2のほうが大きいや」「そうだろ。つまりこれは20+5なんだ。もっと進めるとな、20はいきなり20じゃない。2を十倍したものだ。だから2×10だ。それを5と足すんだ。だから全部で、2×10+5だ。どうだ、全然計算なんかしてないだろ」「うん、じゃなかった、ハイッ ! ! 」「よし。じゃあな、一の位がaで十の位がbの数字だったら、どう表わす ? 」既にへとへとである。予想はしていたが、いきなりアルファベットが来たからである。「ちょっと待って。考えるから・・・」「言葉遣い改めろ ! ! 」「あ、しばし待って下さい。ただいま急いで考えますので」本当にまるで軍隊である。ちょっと照れくさいが、私より数段優秀な兄に憧れてもいたので、叱られても、反感を覚えるどころか、軍隊調で行けば必ず助けてくれる兄ということも知っていたから、懸命に言葉に気をつけ、且つこの難題に挑んでもいた。「えーと、b×10+a」「ようし、わかって来たな、と、言いたいところだが、お前は文字式の決まりを怠ってる。よく考えろ ! ! 」「ハイッ ! ! 」ここまで来てようやく気がついた。答えた。「10b+a」「よし。もう一度言うぞ。その正解よくみてみろ。計算してるか ? まるで式そのものだろ ? 」「ハイッ」「お前、返事は良くなったけど、何かほかの言葉しゃべってみろ」「ハイッ、その通りです ! ! 」実はこのあたりから、突如脳中に何やらはじけるものがあり、以後、方程式のむつかしい文章題でつまずくまでは、文字式問題がスラスラ解けるようになった。だが兄は私を操縦することも巧みである。「なあ、ひろ(私の呼び名。厚和と書いてひろかずと読む。そんなこた、どうでもいいか)、腹減ったな」「うん」。ここからは軍隊式でなくとも良い。だが私は空腹ではない。要するに兄が即席ラーメンを作ってくれと、言っているも同然なのである。「サッポロ一番でいい ? 」、「おお、いいな」。現に母がサッポロ一番の即席ラーメン(味噌・塩・しょうゆ)味三種類を常備してくれていた。好みは人それぞれだろうが、このサンヨー食品のサッポロ一番は今なお台所に用意してあり、私たちはサッポロ一番が文字通り一番おいしいと認めていた。さて私は、返礼の意味もあるから、かいがいしく働く。湯の量など、兄の好みも既に知っているから、取っ手のついたナベで、手際よく作ると、盆にナベ敷を乗せて、そこにラーメンのナベを乗せ、すぐに兄のところへ持っていく。直接ナベで食べると、スープを飲むのにヤケドしそうになるから、大きなスプーンも忘れず用意する。「おお、サンキュー。いつも悪いな」と言って、ハフハフ言いながら兄はおいしそうに食べ始める。なお、これも忘れぬうちに書いておくが、兄弟二人の学習時間中、毎晩工夫して夜食を用意してくれたのは母だった。この工夫はかなり手間をかけていて、即席ラーメンではない様々なおやつを二人に提供してくれた。何らかの原因で、私が兄の夜食を作ることもあったが、恐らくいつもの夜食のほかに、遅い時刻に兄一人が食欲を感じることがあったものと察しられる。中高の都合六年間、ほぼ欠かさず作ってくれた。この時代、『主婦』といえば、今でいう専業主婦をさした。外へ仕事に出る婦人は「兼業主婦」と呼んで、一段低いものとして見下していた。ただし、我が母は、いざという時のために女も働けるようにすべしと心得ていて、パートがあれば比較的近所のオフィスに赴いて仕事をし、パートがない時は、夜、ほとんど常に内職仕事をしていた。何回も書いたが、この兄の存在がなかったら、つまり兄が凡庸な頭脳で、スポーツにうつつをぬかすばかりの俗物だったら、今の私は存在せず、せいぜい御殿場南高程度で終わり、人生が大きく変わっていたのである。月刊誌「少年」の面白さを私に伝えてくれたのも、ゴジラの凄さを伝えてくれたのも、ほとんど、語り口巧みな兄である。その兄も、私が何とか教授業で糊口するようになると、私を対等に扱ってくれるようになった。かつての恐さがうそのようであるこの昭和50年代当時、私は兄より先にあの世に行きたいと願っていた。兄は大学理科系を目指していながら、歴史物語や我が国古典の妙を語り、興じさせてくれるのだ。この兄が先に逝ったとしたら、今度こそ凄まじい神経の病が再発して、私はダメになるに違いないと確信していた。身内自慢で終わったようにみえるが、私の気持ちとしては「お兄ちゃん、大好きだよー」という本心を吐露したつもりである。持論として私は可能ならば、数学・物理学・化学を戦力として国立大学理科系学部を目指すべしと考える。私が押しの強い危ない男と見かけだけ親密になってのち、この男の本性の恐ろしさに気づいた時、私を一喝し「いいか、ある年齢になったら、男が男にほれては危険だ。それは任侠の世界につながるようなものだからだ。そんなヒマがあったら、女にほれろ ! ! 女にほれてうまく行くと、所帯がもてる、子供に恵まれる。所帯を持てなくても、交際相手がいる生活が格段に楽しいものになる。女にはとことんほれろ」と、諭してくれたのも兄である。こののち、例の「もちや」(富士宮市あさぎり高原)が縁で一人の女と付き合うこととなる。残念ながら、兄は昭和63年(1988)暮れの会社の健康診断で、白血病が見つかり、およそ七年の闘病ののち、急性転化して世を去った。そして私は神経症が再発し、食べ物がのどを通らなくなって衰弱、入院加療で当時の処方薬に効き目があり、何んとか回復したが、この内服薬の離脱症状でせん妄という精神症状を起こし、閉鎖病棟の精神病院に入院することとなった。兄、もしも先に逝くことあらば、私は無事では済まぬだろうとの予測は当たった。目下はずいぶん軽くなった薬の常用で普通の生活を出来るまでになってはいる(富士市内の精神病院通院中)。だが、尊敬、憧憬の兄は既に平成七年、1995年に旅立って、兄のいない生活のむなしさだけは常に感じている。「いいヤツほど先に逝く」と、戦時中の将兵が言ったそうだが、私にとって兄がそのいいヤツに当てはまる。生業(なりわい)がなければ人は自活してはいけないが、私の場合、自惚れに思われるかも知れないが、中高時代に学科の学習をある程度習得したことが、のちの身入り(みいり)のある程度の良さにもつながった。逆に高校時代など、好きなドラムを何が何んでもやろうとしていたら、今の生活は存在しなかったことは間違いない。今、2019年2月から始めたドラムの進展がはかばかしくない。つまりドラムという楽器も、道は遠いということだ。ただし、このドラム・レッスンは講師の先生の人柄にも助けられて、何んとか続いている。★追記事項★高3のある時、自身も進路を確保すべき重大な時期にあってなお、察しの悪い私のために、学習時間を割いて解いてくれた大学入試問題。この解説は等比級数の初項と公比だけが書いてあるが、無限級数問題でこの二つが明らかになれば解答出来たも同然。のちに学習塾をやった時、ほぼ同じとみてよい類題を確認して、当時の兄が正しかったことを確かめた。
2024.02.29
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奉祝 ! ! 天長節(天皇誕生日) 皇紀 2684年(2024) 2月23日 今上(きんじょう)陛下のお誕生日を心からお祝い申し上げます。
2024.02.23
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特撮に感化されたリケ女(りけじょ)の名推理 2024/02/14開始村松「こ、こんにちは」夕子「何よ、どもったりして」村松「ケータイも固定電話と同じで放置に近いから、今回は偶然近くにいて良かったって思って」夕子「あ、なるほど。ね、無理強いはしないけど、良かったら来ない ? 」村松「喜んでお伺いします。ではスクーターで」・・・・・時間経過・・・・・夕子「今年二回目ね、いらっしゃい」村松「あ、ああ・・・おじゃまします」夕子「こないだはほんっと、物足りなかったもん」村松「あんまりあっさりしてたから、電話ってことにしたしね」夕子「ほうらまた、ウソが始まった」村松「俺、こないだは電話で済ましたかなぁなんて思ってたからね。困ったおつむだよ」夕子「あ、そうそう。最近のブログ、長編で良かったよ(「太平洋の翼」)。あなた、操演がわからないなんて言っときながら、とうとうそれもていねいな解説付きで掲載したもんね」村松「一番っていうか、唯一きけるのがお前なんで、意見訊きたいって思って」夕子「あたしは劇中からよく見つけたって感心したもの。ドッグファイトシーン相当観察したよね」村松「ほぼ半月かかったからね。じゃあ夕子の意見はオッケーってこと ? 」夕子「ええ。特撮全史の解説にも全く同じ写真があったしね」村松「そうか。それで調子に乗りついでと言っては何んだけど」夕子「まさか・・・あたしに ? 」村松「あの映画のヘルダイブ・シーンは、いわゆる編隊からの離脱姿勢にはなってないような・・・」夕子「言ったわね」村松「いや、仮にも昔から世話になってる天下の東宝を非難するつもりなんてないよ。だいいち、今回アップしたヘルダイブだって、正確さには自信はないしね。でも、頭のいい夕子にズバリきいてみようと思ったんだけど、あ、あの下手なイラスト持って来たんで」夕子「謙そんして、けっこう良く描けてるじゃない」村松「かたじけない。それでききたいのは・・・ま、まさか夕子」夕子「言っとくけどね、あなたが掲載したブログがヒントなのよ」村松「またか・・・。やっぱりお前はリケ女(りけじょ)だ。応用できるんだなぁ・・・」夕子「あたしの考え方の基本は、言わば思考の回転。あなたのブログ読んでから、飛行機の吊り方のパターンを考えてみたの。どうしたの ? 」村松「なるほどと思って感心したんだよ」夕子「あなたの言わんとするところ、わかった気がする。ただし勘違いでなければね」村松「きかせて」夕子「このイラストの構図で離脱機がダイブすると、あなたが――多分だけど、初めに想像した通りの画面になるよね。どお ? 的が外れてない ? 」村松「全くその通り。何んだか昔、興味なかった夕子を感化しようとした頃を思い出した」夕子「あなたが技術的な話をしてくれたから、その仕組みに興味が出たのよ」村松「本当に意気投合出来る相手は、一生涯に現われるかどうかって感じだけど・・・夕子は俺たち所帯こそないけど、こういう形もいいんじゃないかって」夕子「あたしの株上がったのね」村松「だって、人の話に興味は向けても、それ以上のことに心を向ける相手なんて、まずいないだろ。夕子は未だに奇跡に思える」夕子「ありがとう。それでね、このイラスト、スキャンさせてくれる ? 」村松「ああ、いよいよだね」・・・・・夕子「さてと。あなた、一機ずつ飛行機を描いてるのは、図を簡略化するため ? 」村松「うん。その通り。あ、そうか、一機しかないのに編隊機じゃあおかしいよね。あとでフォトショップで、字幕をつけとくよ。なーんちゃって、ブログ掲載の時は俺の自宅だから、いつもの合理化で、今アップしてるような図になってるんだね。あ、もちろん夕子はそんなタイムラグなんか気にしないでいいから」夕子「上が編隊機で下が離脱機だから、ピアノ線はえーと・・・」・・・・・夕子「ほら。ね。あなたが描いた操演との違いを考えると、編隊機の吊り方かな。ハッキリ言って、編隊機と離脱機の吊り方自体は同じと思ったの」村松「ああ、なるほど。じゃあ編隊機は基本、姿勢を変えずに固定ってことか」夕子「ええ。もちろん全機が翼をバンクさせて急降下ってことも可能だけど、離脱機を何機か決めたんじゃないかって」村松「スゴい。もう解決だな。正直もっと考えるのかって思ってた」夕子「調子が狂った ? でさ、話をエスカレートさせて悪いんだけど」村松「いや、かまわないよ。ナニ ? 」夕子「あなた、まだUFO模型、完成してないでしょ」村松「うん。模型で一番苦手なのが曲がっているところ。つまり曲面。それさえ出来れば、先に進めると思うけど」夕子「あたしが言おうと思ってたのは、UFOの、というより円盤型飛翔体のメカニズムとか可能性」村松「夕子は円盤型飛翔体の存在可能性から、反重力肯定派だものね」夕子「あなたの篤志(とくし)的な性質の尊さを否定するつもりはさらさらないのよ。あたし、この機会にあなたの奉仕の精神を称えておくけどね、まずシングル・マザーの家庭や家計で苦労している人々への支援として毎月一万円を寄付してるでしょ」村松「まあ、無理だったらとっくにやってないけどね」夕子「それにウィキペディアに毎月一定額の寄付もしている。ホントはまだあるけど、遠慮しておくわ」村松「いや、かまわない。『チェンジオルグ』という怪しい組織。退会手続き困難にしてあって、クレジットカード更新するしか方法がないけど」夕子「まあいいやなんでしょ。お人よしなのよね。あなた、学歴や学術知識のことで誤解されることもあるけど、本当は気持ちが優しいのよね」夕子「話を戻すけど、私たち人類が今手にしている交通手段は、陸海空に見事に分かれて、それぞれ発達、進歩しているわ。でもね、当たり前のことだけど、車で海にダイブしたら事故になるよね。航空機は飛ぶ機能に支障をきたしたら、墜落するおそれがある。船舶も水に浮いて進むものは、何かの事故で浸水したら沈んで、たちまち溺水地獄よね。わたしは今の交通手段は、技術進歩のあるレベルにとどまってるだけって思うの」村松「スゴい ! 夕子が科学的なことしゃべると、一気に段落が進むよ。今の話で連想したことなんだけど、俺がいっとき趣味でやってたロケットさ・・」夕子「いい話が出たわね。そうそれよ。今の科学を見下すつもりじゃないけど、ロケットの推進原理って、ある意味、車などのレシプロ・エンジンより単純ってムードがあるよね。もちろん、実際は極めて複雑で、ロケット打ち上げが成功か失敗かで今でもニュースになるほどだからね。まさか車やバイクで発進成功なんて聞かないものね」村松「スゴい ! 」夕子「あ、ごめんなさい。本論に入るね。要は今の乗り物は基本、燃料の爆発による推進力ってこと。このまま行こうとする限り、交通機関の発達は期待出来ない。でも、『反重力』を科学的に否定したなんて公言してるくらいだから、人類も余り発達に望みは持てないよ」村松「同感。ネット見ても、円盤型飛翔体の飛行原理を否定して、さらに円盤型飛翔体そのものの存在をも否定したい奴らでいっぱいって感じ」夕子「どうしても否定するのなら、アメリカ国防総省が認めた空中現象の正体を見事に否定してもらいたいわ。まあ否定に徹底する人の脳みそは、とにかく全面否定に凝り固まってるから、相手になるだけ疲れるだけだから、あたしは無関心を装うけど」村松「そうだよね。ジェット機やロケットだと、噴射ガスの高温部が写真に写るけど、円盤型飛翔体は熱を出さずに飛行してるよね」夕子「それにね、熱源の有無ばかり言うのも変なのよ。もし空中現象が光線、ビームを発射するとしたら、その光線は多分熱を出すかも知れないでしょ。もちろん・・・・・ごめんなさい、ここで熱くなっても意味ないよね。それより、わたしはUFOって呼び方、好きじゃないわ。出だしの未確認っていうの、そろそろ確認済みなんじゃないかって思えて」村松「それ同感。俺、この会話で余りUFOって言いたくないな。元々は空飛ぶ円盤って言ったし、英語でもフライング・ソーサ―って」夕子「そうよね。でね、結論急ぐとね、この円盤型飛翔体は、燃料噴射無しで、しかも自在に飛行するでしょ。これは交通機関、あえて横文字使うと、『vehicle(ビークル)』の技術は今のところ人類は陸海空に分けた使い方に限定されてるけど、円盤型飛翔体が造れるようになったら、車のような車輪は要らなくなるし、飛行機の翼も不要になるし、水に浮くという船舶の浮力の考慮も要らなくなるのね」村松「凄い交通革命だよね」夕子「そう思うよ。ただ不便なものをあえて趣味性で残すこともあると思うし、円盤型飛翔体の欠点を指摘するなら、常に浮いていなければならないことかも知れないわね」村松「以前、夕子に飛行機の浮く原理を教わったこと思い出した」夕子「ごめん。わたしの知識なんてほんの一かけらだけ。偉そうなこと言えないわ」村松「でも、例えばクマンバチが飛べる原理なんかも、ようやく解明出来たのはごく最近だっていうし、原理の一部か基本を知るだけでスゴいと思うよ。第一、海外旅行へは何度も出かけるけど、旅客機の飛行原理は知らないってヤツがおおぜいいるよ。まあ、知らずとも旅行は出来るって言い返されればそれきりだけどね」夕子「ああ、それあったね。わたしは好奇心が強いのでしょうけど、一通り知りたいって思いが全くないと、進歩も発達もないと思うけどね」村松「夕子が大変だろうから今回は差し控えるけど、ホントはごく簡単にでも講義して欲しかったけどね」夕子「ごく乱暴に定義するとね、今の航空機の飛行原理、手段は、プロペラの回転で起こる風を利用するか、ロケットのように、燃料を狭い半密閉室内で爆発させて、その時の反作用で飛ぶものとに分かれるの。プロペラも噴射ガスも、重力という未だ解明されない力にどれだけ逆らえるかで、機体を浮かせているの」村松「なるほど。でも俺は『揚力』というものを余り理解出来てない。あのさ、よくものの本の解説に載っているのって、飛行機の翼の断面図があってさ、その翼の形が上側と下側にカーブの差を見せて、それで風の流れの速さにも差が出来て、その分揚力を生むっていうようになってるけど、小さい頃よく飛ばしたグライダーなんか、別に翼の上と下で形を変えてなんかなかったように記憶してるけど、これどこか間違いかな・・」夕子「飛行機の翼の形で説明している文献のことは、思い切って余り意識しないでいいと思う。これは飛行機械である飛行機の主翼の形を工夫することで、揚力を効率良く発生させるためと考えればいいの。で、あなたが言ったグライダーだけど、主翼はただの平らな板でもいいのよ。これウィキペディア見るとわかるけど、これもかなり乱暴に言うと、飛行機の飛ぶ原理は完全には解明されていないと思っていても、間違いじゃないの。大学入試で物理を選択して合格したあなたに対して失礼な言い方だったら、ごめんなさい。多分だけど・・・あなたが力学で使った『抗力』というのは、うるさく言うと『垂直抗力』なのよ」村松「平面上に、いや正しくは水平面上にか、水平面上に置かれた物体に働く力について、最初に学習したんだろうけど、力がどこにどれだけ働くかなんて基本から学ぶことをしなかったし、高校の物理では問題を解くための力を矢印で書き込むことばかりやってたからな」夕子「でも大学を目指す高校生としては正しい姿勢だと思うよ。それで横道にそれるけど、その時もお兄さんの指導が見事だったって聞いたけど」村松「うん。まず俺一人じゃ、何も出来なかった。兄は一つの物体に働く力を水平と垂直方向に分けて、すべて書き込めって教えてくれた」夕子「ろくな学習もしないで、テキトーに文系大学に流れていく生徒が多いからね(文系の方々ごめんなさい)。こないだどこかのサイトで聞いたんだけど、国立大理系行く人は、大学進学者のうちのほんの一握りだって」村松「まあ、データとしてはそうだろうけどね、でも俺に言わせれば、夕子のように英語などの文系科目必修のせいで、国立理系断念せざるを得なかった優秀な人がいる、現に俺の眼前に存在してるのも事実」夕子「やだ、照れるわよ」村松「夕子は企業にまさしく大いに貢献した。心臓が文字通り止まるほどのめにあっておきながら、たいしたもんだよ」夕子「いやだ・・・恥ずかしい・・」村松「恥ずかしい行為も抜群に好きだしね」夕子「こら、お下劣でオチってこと・・・」沼津市の自宅近くで数年前の夕子56歳
2024.02.21
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若大将とすみちゃん(澄子) in 「太平洋の翼」2024/01/29開始既に2019年暮れごろにはスカパー放映の「太平洋の翼」のめぼしいと判断したシーンをデジカメ撮影していたが、意余りて筆進まずの歯がゆさを自ら感じて年月ばかり過ごしてしまった。東宝怪獣映画への大いなる興味は、予期せぬ新たな娯楽として『若大将』シリーズへの関心と、昭和36年(1961)作品「世界大戦争」で目を見張る思いで見た女優・星由里子(ほし・ゆりこ)さんへの憧れを再燃させることとなった。故・竹内博氏が「本作品の彼女の美しさは絶世であった」と書いたほど、田村冴子(たむら・さえこ)役の彼女は、その美しさを際立たせた着物姿も抜群に似合っていて、己れの住まう半径何キロ以内には望むべくもない希少な美人にすっかり心を奪われていた。終生、結婚には縁のない私の負け惜しみに思われても仕方ないが、一般庶民の多くは、男女ともに、かなり妥協の末に、お互いを『二人と存在せぬ理想の人』とは到底思えぬ相手と所帯をもって家族を営んでいる。ごくまれに双方共にかなり整った夫婦ものを見かけることはあるが、これとて、美男美女というほどではない。いずれも主役を演ずるに値せぬ容姿容貌だからだ。それゆえかどうか、わからないが、映画に主演する男女は、まあ間違いなく水準以上のカップルである。漫画、アニメなどにさえない若者役の設定で登場する者も同じで、高橋留美子さんの大ヒット作『めぞん一刻』でも、うだつの上がらぬ五代裕作なぞ、明らかに長身でハンサムに描かれている。だからラブストーリーというものは、ファンタジーである。現実には存在せず、ひたすら夢物語として見果てぬ創作に尽きる。さて。ところが、私の女優評価は礼賛には終始しない。偉そうに書くつもりはない。我が家では星由里子さんを礼賛するのは当時小学五、六年生だった私くらいで、しかも女優を綺麗だなどと口に出そうものなら、兄が妙に潔癖症というのか、「ブスは黙ってろ」と仮にも男の私にこの言葉をぶつけたことがあったから、まず言い出せなかった。そこへ来て、のちに再婚した花登筺(はなと・こばこ)氏と死別した時の喪服姿に、私自身違和感を覚えていたところ、母が「なに、この人 ! ずいぶん器量が落ちたねえ」とズバッと言ってのけた。私もそう思っていたのだ。若大将シリーズの頃は並外れた美形と映る見事な美人女優だったのに、死別後まもなく見た時は、老けたというより、顔の造作(ぞうさく)にかなりの変化が起こったように見えて、残念であった。しかしその星由里子さんも、70代半ばほどで病没なさり、まさしく『美人薄命』『佳人薄命』の通りになったと感慨深い思いである。星由里子さんがハリウッド女優などに優るとも劣らぬ美しさで魅力を放っていたことがあるのは、まぎれもない事実である。今にして思えば私は理論武装が苦手な人間で、主義主張はむしろ人一倍あるのに、己れの説を声に出して相手に伝えることがダメだった。大学の時も普通免許に関心がない私に兄が言った。「二十歳(はたち)にもなって車の免許一つ持ってないのはみっともないぞ」と。そして私は渋々教習所に通い出したが、ここで取得する見込みもその気もない未公認のところで、文字通り三日坊主に終わった。のちに、私が自動二輪免許と普通免許を共に取得した頃、私のオートバイを見て兄は「何が楽しいのか全くわからぬ、興味なし」と言った。この時私は口答えこそしなかったものの、兄にかげりを感じた。一応持ってて乗らないのならともかく、二輪免許そのものを持たない者に批判の資格なしと思ったのだ。あえて反論するなら「車の免許が社会人の常識でバイクはどうでもいいというのなら、必要なければ車も要らないのではないか」。これものちに、自動二輪免許を所持する人にある程度共通の特徴を知ってなるほどと思ったことがある。称える意味もあるので実名を出すが、元AKB48メンバーで、現在バイク女子としても活躍中の平嶋夏海(ひらじま・なつみ)さんは、お父様が現役のライダーであり、彼女がモトグッチの大型オートバイを購入し実家へ帰った時も、娘さんに誘われるまま、近くをこのオートバイで走って来て、親子で話に花を咲かせたと思われる動画があった。要するに『血』なのかと察するばかりだ。では私はどうかというと、父が若い頃、所帯を持ちながらも敗戦処置による『公職追放』で、思うに任せぬ就職事情下、複数の職業に就いて苦労した中で、のちの出光興産のガソリンスタンドに勤めた時期があり、この時オートバイの後部に石油缶などを積んで、当時はほとんど未舗装だった国道一号線を走った経験を持つ。私は父の遺伝子を継いだと思われる。新明和興業(現・新明和工業)がかつて販売したポインターエース(250cc)またも脱線してしまった。さて、ここで東宝昭和38年作品『太平洋の翼』に目を向けてみる。折しも若大将シリーズが軒並みヒットし続けていたが、私自身は昭和40年当時、中学一年生で、映画のラブロマンスもほとんどピンと来ない体質にとどまって、このシリーズものも、怪獣映画との併映作品としてたまたま見たにとどまる。しかし、私はこれとは別にフジテレビ系列で毎週放映の30分番組『勝ち抜きエレキ合戦』に夢中になっていて、特に趣味として今に続くドラムのリズム、ビートの妙に魅せられ始めていた。昭和40年は、キングギドラ二回目の登場となる『怪獣大戦争』を見に御殿場駅近くの映画館へ徒歩で出かけたが、この時併映の若大将シリーズが『エレキの若大将』で、この頃既に軽音楽の楽器をドラムのみに絞っていたかどうかは覚えていないが、沼津東高にかよっていた兄に加山雄三氏の『君といつまでも』、『夜空の星』収録のシングル・レコードを帰りがけに買って来てくれるよう頼んでいて、帰宅した兄からレコードを受け取ってうれしかった記憶がある。私が特に聴きたかったのは『夜空の星』であり、ドラムのリズムをまねて、両手の人差し指などで机をたたいて興じていた。映画『太平洋の翼』は昭和38年に公開済みだったが、見たい映画をすべて見せてはもらえない家庭環境であり、しつけだったので、当時兄が購読していた中一コース(学研)のグラビアページに鮮明に掲載された戦艦大和の巨大模型にくぎ付けになった記憶だけは今なお鮮明である。「東宝が新しく公開する戦争特撮映画のために、こんな巨大な戦艦大和を造ったのだ ! 」、グラビア写真を見て一目でここまで察せられた。この巨大模型、東宝では『太平洋の翼』のほか、昭和56年(1981)『連合艦隊』でも本格的な模型が造られている。スケールは関係書を調べる限りでは、『太平洋の翼』では縮尺15分の1、『連合艦隊』では20分の1の模型が造られていて、これを単純に割り算して、前者が17.5メートル、後者が13メートルである。『太平洋の翼』では、東宝が誇った特撮大プールに浮かべたばかりでなく、富士五湖の一つの山中湖にも浮かべて、さらにヘリコプターで空中撮影されてもいる。ただ、関係書の記述にも疑問が残る。書物により、『太平洋の翼』の大和は13メートルと書かれている。実物の大和の263メートルを基にすると、13メートル模型は縮尺20分の1となり、計算が合わない。これ以上マニアの一人としての検索には限界があり、新旧の戦艦大和模型の縮尺、サイズの正否を決するのは無理だ。さて、ここで記憶を改めてさぐってみる。私が初めて『太平洋の翼』を見たのはいつごろ、どこであるいは何んの手段でかということだ。確かに後年テレビ放映で見たかも知れないし、さらにのちにはスカパー放送の作品を複数回録画もしている。なお、蛇足だが私は録画した映像からDVDにダビングする時、以前はハイビジョン画質を選んでいたが、これはハッキリ言ってパナソニックの不親切に迷惑をこうむった。パソコン内蔵のプレーヤーで再生しようとしても、ハイビジョン画質でダビングしたものは再生不可能とわかった(パソコンは富士通のデスクトップパソコン、内蔵ディスクプレーヤーはCorel WinDVD)。これこそは経験的に学んだことであり、ソニーなど他社の機器との互換性に難があるのならまだしも、パナソニックが何年か扱っていた富士通のパソコン゛でも、そのような不都合が出たのは確かだ。なお、今はこの二社は契約をやめている。聞くところではパソコンの売れ行きが不調のようだ。恐らくより簡便なスマートフォンなどに多くが利用機会を移しているのだろう。私はかつて日本語ワープロにとことん慣れ親しんだ。そしてこれはパソコンに駆逐された。そして今そのパソコンが安価で使えるスマホなどに駆逐されつつある。あえて自慢めいたことを書くが、私は年来の文章趣味人間であり、それはよく言われた「読書習慣」ではなく、ひたすら書くことを趣味として続けた結果、脳中の思いを文章で記録し残す形でまとまった。しまった。また脱線した。もはやテーマはまとまりを著しく欠いてしまったが、急ぎ『太平洋の翼』に戻る。まず一つ言えるのは、これよりさらにおよそ三年前の昭和35年『太平洋の嵐』は映画館で見ている。味方の命(めい)による雷撃処分で空母飛龍沈没後の海中の山口多聞(やまぐち・たもん)少将と加来止男(かく・とめお)大佐との会話シーンに何やら不思議な感覚だった記憶がある。海中に没した空母飛龍の発令所と思しき場所の柱に自らを縛りつけた二人の亡霊が、前途への憂いを語り合うシーンだ。昭和38年の『太平洋の翼』ならばさらに見ていても何らおかしくないはずだ。ただ、戦争特撮映画は個人としてすべて興味を持ったわけではなく、たとえば昭和40年『太平洋奇跡の作戦・キスカ』は、恐らくモノクロ作品だったことが理由かも知れず、結果これは映画館では見ていない。『太平洋の翼』を映画館で見たかどうかは結局わからなかった。どこかでテレビ放映されたのを見たことにしてもよいが、なにゆえかひっかかる。昭和43年『連合艦隊司令長官・山本五十六』は、これは確かに父と車で沼津まで出かけて見た記憶がある。さらに昭和44年の『日本海大海戦』は一人で出かけて見ている。これは艦船しか出ない特撮映画と知って、ともかく見ようとの決意があり、多分映画館で見たのは私だけだった。高校二年の夏だった。旗艦・三笠の雄姿も脳裏に焼き付き、久しぶりに戦争特撮映画を堪能出来た満足感があった。しかし私の世代でも、我が国の対外戦争には興味がない高校生が多かった。ついでに書くと、同じ高校時代に見た「トラ・トラ・トラ ! 」も全く同じで、そのすぐ前に「シェーン」は軽く提案しただけなのに、全員で見たのだが、「トラ・トラ・トラ ! 」には全く興味を示さなかった。さていよいよ、昭和38年『太平洋の翼』に入るが、ここに掲載したかったのは、同時期に大ヒットを飛ばしていた若大将シリーズのことにもかこつけて書きたかったからだ。若大将・田沼雄一と澄子(すみちゃん)のことをどうしても連想するのは当然のことと言える。若大将が海軍士官ならば、すみちゃんは、束の間大東亜戦争時にタイムスリップした日本美人の典型で当然で、二人が会話を交わしながら基地の近くを歩くシーンは全く決まっていた。「よお ! ご両人っ ! 」と大向こうから声がかかりそうな名場面である。内地帰還の命を受けて、フィリピンから輸送機で飛行途中、滝海軍大尉(だいい)は、敵機の攻撃により、数名の部下を失い、さらに燃料切れのおそれ大なるにより、投棄出来るものを極力機外へ投棄と命じた。その中に玉井兵曹の遺体もあったが、機は何んとか危地を脱して、滝は内地に帰還した。ほどなく玉井の姉を名乗る婦人が訪れて、彼女・玉井美也子(たまい・みやこ)は、戦死の報は知らされていたが、今少し詳しく話して欲しいと告げ、滝は己れが行動した通りのことを語る。美也子は絶句し、両目に涙があふれかかるが、そのままひとことも告げずに、その場を立ち去った。以上が言わばもう一度描かれる美男美女二人のシーンの伏線である。星由里子さん演ずる美也子が、このまま二度と現われないはずがない。滝たち紫電改搭乗の精鋭パイロットたちが米艦載機相手に大活躍したあと、基地近くの静かなたたずまいの城址公園をゆっくり歩く滝と美也子の姿。いや、これは城址どころか松山城そのものなのだろうか。知識がなくロケ地情報も見つからなかったので残念だが、二人の背景の石垣は見事な巨大さで、石垣だけが残るいかにも城郭を失った城跡には見えない。ゆっくり歩を進めながら、穏やかに美也子が話し始める。美也子「先日は失礼いたしました。お呼びだてしたりして、申し訳ないと思ったんですけれど、お詫びをしないではいられなかったものですから。女の私(わたくし)にも弟の遺体をお捨てになったことがやっとわかるような気がして来たんです」滝「いや、わからないほうがいい」美也子「え ? 」滝「いつまでも僕を憎んでいてくれたほうがいいんです。僕を許そうとして、あなたの戦争への憎しみまでがぼけるのが困るんです。心の優しい女なら、僕を憎まないのはウソです。しかし僕は憎まれても戦う。憎まれれば憎まれるほど、戦う勇気が湧いて来るんです。美しい日本の風土の中に優しい日本の女の心が生きている。僕はそう信じて戦いたいんだ。その美しいものを守るためにも戦いたいんだ。僕を許してはいけない。憎んでください」美也子(かぶりを振る。そして滝を見つめる)「・・・」滝(さすがに照れたような顔つき。そりゃ、こんな美人に見つめられたら・・・)「・・・」美也子「死なないで・・・死なないでください ! 」そう言うと彼女は走り去ろうとするが、その挙止は映像では見せない。美女を慮(おもんぱか)ったかどうかは知らないが、少なくとも演出上の効果を期したのか。今度も別の意味で美也子は泣き出しそうになっていたのではないか。滝は照れたように伏せていた顔を上げて、美也子の姿を(多分)追おうとするが、これが本作品上の二人の最後の待ち合わせの場面となる。滝の言葉もまあ我々普通のまたはそれ以下の顔の造作レベルの者たちが言葉にはとても出来ないキザな文句だが、美男美女の会話ではかなりかっこよく聞こえる。私なんぞ最後は思わず「すみちゃん ! 」と軽く叫びたいもんだと思いもしたが、現実には星由里子さんはまこと、今昔に共通する結婚を選んでいる。昨今の女子アナなぞも、プロスポーツ選手と結婚する女(ひと)、医師と結婚する女(ひと)、実業家と結婚する女(ひと)だらけで、ほんっと、その通りだと認めるにやぶさかでなくなりますね。しかも縁に恵まれずに離婚したとしても、もう次のチャンスが必ず待っている。要するに高収入の男と結婚するに決まっているということ。間違っても、保育士と結婚した音無響子さんのようなことはしません。『めぞん一刻』は創作世界にしかあり得ないファンタジーです。姿の良いセクシー女優さんがさえない男に本気で迫ってくれるAVと同じ世界です。ついでに書いとくがほんっと、セクシー女優さんたちの美人度・美形度・清楚さ・上品さ、さらに少なからぬ女優さんたちの知力の高さ、例えば学歴は大卒が珍しくない昨今である。話を戻して最近近くの例で言うと、テレ東一番の美人アナウンサーと称えられた角谷暁子(かどや・あきこ)さん。少なくも私は彼女を初めて画像などで見た時、その美しさとさらに美しいうえに可愛いと思わせるルックスに圧倒されました。お相手はただ医師というのではなく、開業医として医療法人経営に敏腕をふるう勝ち組中の勝ち組男。角谷さんの人生選択は当然と言えるほど正しい。またも変なムードに引っ張っちまった。いや言葉遣いが乱れた。軌道修正、ヨーソロー!そう言えば、映画も前半部を過ぎ、佳境にさしかかる頃、味方の戦死などでいら立っていた滝が突然離陸出撃せんとして、上空であっけなく敵機につかまり、あわやという時、味方機の敵機撃墜に救われるシーンがある。滝は「ありがとう、誰だ、名乗れ」と命令口調だが、横に並んだ味方紫電改の窓から千田司令が「バカ者 ! 」と怒鳴り𠮟りつけながらも、滝を誘導して助けるシーンに胸がすく。世界のミフネと呼ばれた御大・三船敏郎氏に加山雄三氏との組み合わせもぴったりに映る。千田司令は言うまでもなくモデルとなったのが、これも大東亜戦争をおおよそ知る人には周知の源田実(げんだ・みのる)氏である(なお旧字体表示では源田實氏)。東宝戦争映画は、実在の人物をモデルとして、劇中には造語による名前を使うことが目立つ。もちろん、連合艦隊司令長官・山本五十六氏などは実名のままであるし、その他にもいくつもある。創作された名前から実名をさがすのもまた一つ勉強になる。この二大スター俳優共演のシーンから千田司令のセリフを抜いてみる。千田司令「列機を操縦する方法を教えてやる。血気にはやって独断専行、勝手な行動をとる奴は、容赦なくぶっ放す。こうやるんだ。わかったか」叱られた滝もニッコリして「はい」と返す。千田司令「帰れ。松山基地よーそろー」またこの映画では制作スタッフ曰く、『ヘルダイブ』と称されたかなりハイレベルな操演が使われていて、東宝特技陣の自信のほどがうかがえる。と書きつつも、私はヘルダイブなる操演方法がよくわからず、劇中の飛行シーンからあえて推測してみたが、正しいという確信も何もない。ただ素人考えながらも、編隊機と離脱機を同一画面に一気にとらえた見事なシーンがあるので、正確との自信がないままだが検討してみる。★ヘルダイブの操演★飛行機の編隊を見せるだけなら複数の模型をピアノ線で吊って撮影すればいいが、編隊機はそのままの姿勢にしておいて、ダイブする飛行機を一機また一機と編隊から離脱するように見せるには、操演用のクレーンを少なくも二つ用意しなければならない。「東宝特撮映画全史」より、映画「太平洋の翼」のヘルダイブ操演と思(おぼ)しき画像。編隊機は右から左へと進む。編隊機用のメインのクレーンがまず一つ必要だが、ダイブする飛行機用のクレーンを、メインのクレーンの先端部に取り付けて、先端部を円の中心にして、ここに吊るした模型を一機ずつ動かして、編隊から離脱してゆくように見せる。離脱機は主翼を大きくバンクさせて視覚効果をたっぷり見せるために、飛行機を水平に吊るやり方ではなく、編隊機と同じく、模型を例えば図のように吊って、カメラも横にして撮影する。ここで主翼を吊ったピアノ線を回転させると、カメラのファインダーには、翼を左右方向にバンクさせるように見える。ヘルダイブ操演シーンを映画の画面から90度回転して再現した画像。実際の撮影ではこのように吊ったと思われる。文献画像などを参考に、下手ながら手描きでヘルダイブ操演のピアノ線の吊り方などを推測して描いたイラスト。カメラはこちら側から、機械を横に、この場合は左に90度傾けて撮影と思われる。とりあえず、私が実際に鑑賞した『太平洋の翼』DVDから「ヘルダイブ操演」と思(おぼ)しきシーンを例示してみたが、この方法は様々に技術進歩して、複数の方法が確立されていったとも察しられる。かつて特撮映画の特殊技術は言わばトップシークレットで、必ず公表、周知されないものだった。私たち特撮ファンもそれで当然と承知していた。この流れに革命的とも言える変化をもたらしたのが竹内博氏、池田憲章氏(お二方ともに故人)である。特に竹内博氏は円谷英二特技監督の偉業をたたえ伝え、池田憲章氏は東宝特撮の技術面を関係書を通して、巨細に述べて下さった。どちらかというと、怪獣映画に傾くきらいのある竹内博氏に比べて、池田憲章氏は、戦争特撮映画に言い及ぶこと少なからず、東宝特撮、円谷特撮の奥深さに迫ることが出来て楽しかった。CGがあれば特撮なんぞ何んでもござれと、まるでかつての特技陣苦心の特殊技術を時代もの、時代の遺物扱いする者がいるようだが、結果の巧拙にしか興味の持てぬバカ者と言えよう。この者にどんな性質、特徴があるか、わざわざ調べたはずもないから憶測しか出来ないが、まあ結果主義、実利主義であろう。明らかな特撮画面を見て、極めてリアルに仕上がっていたら是とするのだろう。ただ、私見を述べるなら、初めて「スターウォーズ」を見た時、冒頭の巨大宇宙船の、いつ果てるとも知れぬ船体が長く続き、ようやく最後尾が現われた時は確かに見事だと感心したが、戦闘シーンで、数々の戦闘機がヒラリヒラリと身をかわして、光線などを発射するシーンは、見続けるうちに「何か平面的だ」と思えて来た。同じことを、後年『東宝戦争映画編 特撮映画大全集』の編者が書いていた。CGばかりの特撮シーンは平面的な質感を残さざるを得ず、アニメっぽくなる。いっぽうミニチュアには立体感がある。もっとも昨今はアニメばかり見て、観察眼が初めから無い者がいる。私はディズニーが描いた動きのしなやかなフルアニメを知っており、鉄腕アトム以降、粗製乱造されたテレビアニメのぎごちない動きに辟易して、中学二年くらいには、アニメを一切見なくなったものであるので、テレビアニメのリミテッドアニメに体質が合わない。かつて日本の東宝の特撮をはるかにしのぐと言われたレイ・ハリーハウゼンの特撮も、迫力を感じたのは最初だけで、ここに現われる恐竜や怪獣ことごとくが、モデルアニメーションの限界から逃れられぬ『ぎごちなさ』で画面いっぱいにガクガクして動いているから、遂に目障りに映るようになった。どうやらアニメにどっぷり浸かった世代にはこれがわからず違和感を覚えぬようだ。一種の鈍感とみるしかないのか。またしても脱線した。もっともアニメ制作技術も長足の進歩を見せており、今やフルアニメ、リミテッドアニメという二大別は時代遅れとも承知せざるを得ない。かつてセルロイドに直接描いて彩色していたアニメ―トも、CG(コンピューター・グラフィックス)の発達により、パソコン上でデジタル彩色を行なうことで例えば直接着色することによる乾燥までの時間経過や色調補正などが省力化されている。いい加減横道にそれてばかりで、駄文羅列が著しくなっているので、またも軌道修正する。若大将コンビのシーンも良かったことに加え、本作品では戦艦大和の沖縄特攻とは無関係な松山の紫電改を絡めて、創作ながらも心に響く感動を呼ぶシーンも作られている。このあたり、徳川時代の史実に創作を巧みに加えた東映時代劇とダブる感じもある。松山基地の紫電改は十機余りの編隊を組んで戦艦大和を見送りに出かけるが、千田司令の命じた通り、定刻に達する頃、まず加山雄三氏演ずる滝大尉(だいい)が大和の武運長久を祈りますと機上からあいさつすると全機遠ざかって行ったが、このうちの安宅(あたか)大尉(だいい)・稲葉上飛曹・水野二飛曹・丹下一飛曹の四人が、編隊を離脱して行く。再び戦艦大和上空に飛来した四機の搭乗員が、対空無線により、官氏名を告げる。このシーンではそれまでのマーチ「敷島艦行進曲」に代わって、おなじみ「同期の桜」(メロディーのみ)が流れる。映画鑑賞をいくらしても、さすがに官氏名の正確な聞き取りはきついので、ハードディスクの字幕をオンにして何んとか書き取った。以下に記しておく。「大阪府南河内郡(みなみかわちぐん)道明寺町(どうみょうじちょう)出身、海軍大尉(だいい)・安宅信夫(あたか・のぶお)」(夏木陽介氏)。「福岡県宗像郡(むなかたごおり)玄海村(げんかいむら)出身、海軍上等飛行兵曹・稲葉喜平(いなば・きへい)」(西村晃《にしむら・こう》氏)。なお、西村氏は大東亜戦争中、本当に特攻隊員だった。「島根県那珂郡(なかぐん)弥栄村(いやさかむら)出身、海軍二等飛行兵曹・水野健一(みずの・けんいち)」(新野悟氏)。なお、正確な読み方がわからないので、漢字のお名前のみにしました。「千葉県夷隅郡(いずみぐん)長者町(ちょうじゃまち)出身、海軍一等飛行兵曹・丹下太郎(たんげ・たろう)」(渥美清氏)。終わります。―了―資料・参考文献等 「東宝特撮映画全史」、「東宝戦争映画編 特撮映画大全集」 東宝昭和38年作品「太平洋の翼」ビデオ(日本映画専門チャンネル放映版)星由里子さん(映画「太平洋の翼」公開の昭和38年1月の時、星由里子さんは弱冠19歳の若さでした)
2024.02.12
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痴女にあった話・訂正再録2023/02/27開始 2003.09.21痴女にあった話。カテゴリ:カテゴリー未分類山本夏彦コラム中毒と言われそうだが、私は確かに山本氏のコラムで、語いが突如豊富になった。山本氏自身は、「私のコラムの内容をそのままマネしたり、思想を私の物言いに似せて書こうとするのは、やめたほうがよい」という意味のことを述べていたし、私もその通りだと思う。ただし、山本氏は、「箴言(しんげん)や人の言葉であっても、それを消化し己れのものとしてしまえば、その言葉は既にその人の言葉も同然である」とも言っている。私が学んだのは、山本氏がコラムで再三使用した言葉で、私がそのまま使うことができそうだと思える自信がついたものばかりである。誰に判定してもらえるものでもないゆえ、独断のほか術(すべ)はないが、文章中にころがして違和感なく読めると判断したものは、少しずつだが使うようにし、さらにその語いを増やし、今日に至っている。私はハードカバーの単行本・文庫本合わせて山本コラム集を少なくも20冊は集めた。そして何度も読み返し、共感できたコラムは印をつけてある。使えそうな言葉はすぐにメモし、意味を確実にしたところで、徐々に使うようにしてきた。何しろ本嫌いの人間であったので、子どもの頃は無論のこと、大学時代もほとんど本を読まず、それでいて何も文章修行ができていないくせに、思ったことをつづるのだけは小学生の頃から好きだった。その記録の代表が小学三年ごろから作り続けた「大一プロブック」である。今読めば誤りはかなりある。日記もそうである。なぜか高一終わり近い昭和44年正月ごろからつけ始め、気が向くとつけるだらしないつけ方で、今日に至っている。楽天日記に書けぬほどのことが、たくさん書いてある。さて、山本コラムに学んだ表現によって、私はおそらく自己満足でなく、それ以前より少しは、いや、自分なりに見ても一挙に作文能力が増した。それは例えるならば、初めて改造を受けて、襲い来る敵たちをあっというまに退治した仮面ライダーが己れの力の倍増の程度をまだ実感できず、「これが俺の力か。俺はいったいどうなったんだ!?」という意味の驚きを独りごつ場面に似ている。またはもう一つ例示すると、少林寺拳法の余り強力とは思えぬ突き技をやめて、昭和60年代にやっていた「拳法」の突き技の型をようやく覚えて、改めてサンドバッグを突いた時、突きの威力に手首の力の増強が間に合わず、ガクンと手首を曲げてしまって痛い思いをした時もそうだった。「こんなに強力な格闘技があるのか ! ? 」と利き腕の左手首をさすりながら、思わず独り言をつぶやいた。ようやく拳立て(腕立て伏せならぬ拳立て伏せ)などで手首を鍛えなおしてからは、サンドバッグを突くたびに、「パンッ!!」と乾いた音が短く鋭く鳴り、我れながら酔いしれながら練習に夢中になったことがある。ちなみにこれが20代後半ごろから30代にかけての頃。再録の今、拳法どころか、普通の行動も思うに任せない。さて、その山本コラムに「痴漢人口は減らず」との一節がある。最近は触ってもいないのにとうとう犯罪者とされた気の毒な紳士たちが続出する妙な時代になったが、あるいは昔レモンちゃんとの愛称で親しまれた落合恵子の小説のせいか。また、昔から「女は痴漢を待っている」とも言われた。私はこれもかなり正鵠(せいこく)を射た言葉だと思っている。世の婦人たちの中には不愉快に思う人もいようが、そんなにいやなものか ?本日記サイトは、青少年に有害な内容ご法度と読んだ気がするが、もはや私共大人をしのぐ助・平女生徒が氾濫するご時世である。私の言いたいのは女が女のたしなみをかなぐり捨てると、結局本来男が蔵していた性への好奇心に近づき遂に追いつき、そして今や男を追い越して、男の敵ではなくなったということだ。男は思春期から既にその手の行為への好奇心が旺盛である。ここへ来て女もまた本来内に秘めていた本性をさらけ出し始めたようである。では男は元々どうだったか。自らの体験を白状して、昨今の若い女と比べると、ややわかると思ったので、ここに初めてみっともないことを書く。高一の時のことである。ただし日記をつける以前である。前日の日記に書いた通り、かなりそのほうへの好奇心はあった。進学校に学んだとはいえ、ガリ勉ではなかった。よくさぼった。ある時仮病をつかって不調を母に訴え、一日学校を休んだ。だが所詮仮病なので、まもなく外へ出たい欲求が出た。母に風邪の芯熱が治まったようだとうそをつき、バスで街の映画館へ行った。「白夜の陰獣」という見るからにいやらしそうなタイトルの洋画を選んで入ったのだ。『白夜の陰獣』とは、ロマノフ王朝時代の怪僧ラスプーチンの台頭から断末魔までをやや助平ったらしく描いた作品だが、平日の午前中ということもあって、館内はずいぶんすいていた。私は無造作に、あいている席の一つに座って、画面に見入った。ほどなくズボンの前がふくらみ始めた。映画のパンフレットで隠したが、がらがらの館内では意味もないことだった。なお、この頃まだ私は坊主頭のままで、その方面への色気は未発達というか、無頓着だった。しばらくすると、右隣に若い女が近寄り、がらがらにすいた館内なのに私のすぐ隣に座った。横目でちらと見るとやはり若く、しかもどちらかというと水準以上の顔だちだった。そのうち、私の右ひざに感触があった。隣の女が左手で私のひざを触り始めたのだ。私は「こういう時女ならとてもいやな気分なのか ? 」とずいぶん冷静だった。女の左手はしばらく私のひざとももをさすって往復していたが、やがてスーッとまっしぐらに股間に伸びてきた。「これが痴漢ならぬ痴女か」と、興奮しながらもばかに落ち着いて様子をみていた。ためしに一度右手で女の手をどけるとすぐサッと引っ込めた。が、すぐ再び一気に我が股間に伸ばして来る。「こりゃあ、やられるか映画館を出るしかないな」と、まだ冷静に迷っていたが、「待てよ。俺はこの先いつになったら実物の女とこのようないかがわしい行為が出来る機会が来るかわかったものではないな。こいつはまずまずの顔の造作でもあるし・・・」などと考えていると、遂に女は左手で私の一物を握り、おもむろにもみ始めた。これでギブアップである。ウソみたいだが、スクリーンでも、怪僧ラスプーチンが、王族の夫人をたぶらかして犯そうとするシーンの真っ最中である。我が一物はにわかに何倍かに膨張した。まずい ! ! と思ったその時、すばやい仕草で、女は私のチャックを一物をはさまぬようにおろし、どこに用意してあったか、ハンカチをかぶせた。そのせいか、一物の暴発へのあせりは消え去った。そして私は初め屈辱を覚えたのに、今や和漢のような思いになって、訪れそうな絶頂を待つ余裕が出て来た。ほどなくそれは訪れた。ここで高橋留美子氏の漫画の一場面を借りると、火山爆発のコマとなる。さすがにまだ高一のこととて、「今度は俺の番」などとは言い出せなかった。ただ、女・・・いや、実は正直不愉快ではなかった。『女』などと書いているが、男の悲しさか、既に未知の感覚を味わわせてくれたこの女の人に親しみさえ覚えていた。 現にしばらくすると、チョコボールのようなものが入った箱を差し出して一ついかがと言うような顔つきで微笑んだ。さすがにでもないが、私は手を振って断わった。また、少しはこの手のことに関しての警戒心はあった。このス・ケベ女、危ない世界の女かも知れぬと思ったからである。事実私の耳元に唇を寄せて「ねえ、あたしの部屋へ来ない?」とささやいた。家と言わず部屋と言った。「美人局(つつもたせ)のおそれあるぞ」とも思い、私はわざと不機嫌そうに黙っていた。しばらくすると女はすっと席を立って館外へ消えて行った。深田恭子さんが出たテレビドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」で、タッキーこと滝沢秀明氏扮する高校生が深田さん扮する唯(ゆい)と会話の時「チェリー」なる言葉を使うシーンがあったが、処女をバージン(virgin)と呼ぶのに対して男のはチェリーというのには驚いた。毛唐の国のスラングかどうか知らぬが、英和辞書を見るとわかる通り、処女はバージンと言うが、これは処女の女の意である。毛唐の国では男女を区別せず、また処女・童貞共に正確にはバージニティ(virginity)と言う。無論使用頻度は処・女が多いらしいが。こんな知ったかぶりどうでもよい。私はあの時、チェリーじゃない、童貞を少し失ったのか? 本当に性・行為を経験するのは、まだ数年後であるが、実はのちの経験より、この時の痴女に犯された ( ? ) 時のほうが、エキサイティングだった。
2024.02.12
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奉祝 ! 紀元節(建国記念の日)皇紀2684年(西暦2024年)
2024.02.11
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地上波より楽しめる『ユーチューブ・コント』 2024/01/04開始カップルものコントに新風吹き起こす『まつちゃんねる日記』! !既に時代に追いつかないのかも知れないが、ある時期からテレビ放送される「コメディ」の類いが、すこぶるつまらなくなった。世代が古いのかも知れないが、私は昭和27年(1952)生まれで、幼少期、少年期は無論のこと、青年期も昭和時代にどっぷり浸かって過ごした。ようやく世間に出て生業(なりわい)と呼べる仕事を安定的にこなすようになったのも昭和50年代、1970年代のことであり、自営業を新たな生業として始めたのが昭和61年、まもなく平成元年(1989)になった。仕事をルーティーンとして当たり前に続けるいっぽう、息抜きの娯楽もまた欠かせぬものだったが、私の世代は落語家、漫談家、漫才師などがいて、さらにコントで笑わせてくれるグループがいて、この人々のおかげで、いつも大いに笑い、楽しむことが出来た。この頃、「お笑い芸人」という言葉はなかったと記憶する。私は『コメディ、コント』などと呼んで何人かのお気に入りのコメディアンのかたがたの玄人芸を楽しんでいた。基本的にこれら玄人の人々の落語や漫談などには台本のようなものが存在して、放送作家と称するプロの人が執筆し、聞く人をドッとわかせるシナリオを用意していた。漫才師の人々は、その台本を暗誦しアレンジして、演じていたように思う。もちろん、売れっ子ともなると、ほぼ即興、アドリブを演じて、客を爆笑させる名人もいたが、漫談なら漫談のテーマが決まっていて、めまぐるしくコロコロ変わるようなことはなかつた。例えば漫才などが余り面白いとは思えなくなったのは、「漫才ブーム」の頃からだったか。コントなどに爆笑する人も多くいただろうが、それらを聞いても、スイッチが入らず、時には「ははあ、今の客の多くはここでドッと笑うのか」と、微苦笑する程度にまでシラケたものになり下がっていた。ある時期からは、お笑い芸人と呼ばれる者どもが、私生活の失敗談を明かしてみせて、一同笑い転げることがほとんどとなり、こちらはますます笑えなくなって、番組表を見なくなった。地上波テレビの主だった放送ジャンルも次第に決まった型が各局提供されるようになり、報道番組でさえ、現実の事件を伝えるのではなく、娯楽要素を盛り込んで、司会者までがゲラゲラ笑って番組を進める形式が主流となり、時に正義感を見せるフリだけして、なにゆえか人気者が目立つようになった。私はこいつらにそっぽを向くこととなる。駄文羅列の悪い習慣に陥りそうなので、ここで一気に現在のテレビ用途を書く。まずメーカーは昔からナショナル、つまりパナソニックである。品質の良し悪しは私の如き素人にはわからないし、機械によっては、酷使に耐える見事なものもあるし、さらにメーカーの相違による互換性の問題もあるので、異なるメーカーの製品を混在させることは必ずしない。例えば相棒のサイエンスレディ共々、パナソニックに統一しているので、録画ダビングDVDはプレゼントしてもされても、いずれも再生出来るので、面倒なことがない。なお、同じDVDでも市販品は原則どのメーカーのレコーダーでも再生出来るようだが、レコーダーは『チャプター機能』を自在に設定出来ることから、衛星放送番組で録画してチャプターを入れ、録画または移動したDVDをスキップして見る便利さを堪能出来る。ユーチューブなどでパナソニック製品をけなすものも見かけるが、余計なお世話だと断じておく。さらに自宅は縁により、パナホームで建てた。これも例の煙突式は何ら機能していないとの評判も見かけるが、これまた大きなお世話だ。それからこのごろ「費用対効果」なる新語を見聞きするが、どうせこれもハヤリ物は廃りものと言う類いになると怪しまれる。嫌いな言葉に「合目的的」などというものがあるが、「的」をどもったかと茶化したくもなる。機械製品、家電製品は当たりはずれさえ免れれば、価格に拘らずに選ぶを事とするものである。液晶テレビも、43型や38型が少なからず取り上げられるが、一度75Vや最低55Vに目が慣れてしまうと、それより小型は見る気がしなくなる。既に預金でやりくりする高齢人生であるが、買える時は価格に拘らずに買う主義だ。無論、節約の余儀無きを強いられる時もあり、現に昨2023年は、春先に55Vのテレビを買っただけであり、ほぼ一年間出費を控えて過ごした。さて。そんな液晶テレビばかりをそろえる時期が続いたが、それらに共通することとして、原則、地上波は報道以外は見ていない。殊にコントについては、昭和の終わりごろからのものは、面白くないから例え当代の人気者であっても、ほぼ見ていない。代わって、一階に二台、二階に二台あるテレビは、いずれにも「You Tube」を設定してあり、コント番組も「You Tube」限定の人気番組を登録などして、楽しませていただいている。「まつちゃんねる日記」驚異の美形、知性的典型的美人のりっちゃん。外見とは正反対の甘えん坊・寂しがりやのキャラクターは、作品中でも共感を誘って演技との境目はわからなくなる。即興ダジャレ造語の才人・せいや氏。なお、忘れないうちに書いておくが、目下登録して拝見している夫婦もの『まつちゃんねる日記』は、本文書き始めは確か16万人台の後半の登録者数だったが、またたくまに16.8万、16.9万と急上昇し、今や17.1万人に達して、なおも伸びている。いきなり書いてしまったが、見ていてゲラゲラ笑ってしまえば、これはすなわち「面白い」「傑作」だと言えるはずだ。へたな地上波コントより格段に面白い(2024年1月14日現在17.3万人。さらに1月15日現在17.4万人。激増がやまない凄さなので、1月23日現在で一旦おくが実に本日現在17.7万人)。もはや20万人は射程に入ったと確信出来る。このようなスタイルの娯楽コントはあるいはYou Tubeならではのものではないかとも思われる。既に複数の同様の番組が活躍なさっている。私も一時期、幾つかの番組を登録して拝見していたが、気まぐれの申し訳なさ、新作の通知に視聴が追い付かず、はずしたりした。ただ偉そうなことを言うなら、婦人が強気で(実は)男子とは距離をとったりするものが目立ち、古往今来、男が責め、女は避ける形が男女の付き合いの定番のようなので、女人にある種の「可愛らしさ」が味付けされていないと、何んだまた同じパターンかと飽きが来るのも正直なところ。「まつちゃんねる日記」は、こんなかねての固定観念を見事に打ち破り、とにかく大笑いさせてくれるヒット・コントである。まず、コントを演ずるカップルが驚きだ。「りっちゃん」と愛称で呼ばれるレディは二十歳(はたち)そこそこの小娘でこそないが、かなり整った美人なので、大人のレディに見える。コントの内容を知らないと、彼女・りっちゃんの性格を見た目だけで勝手に作り上げることは容易だ。およそ冗談が通じない、冷徹で心身ともに強い女と見えてしまう。お相手のせいや氏の絶妙な会話のやり取りが入ると、りっちゃんのイメージは大きく二つに分かれる。根本には真面目さ・優しさ・礼儀正しさがあるが、せいや氏を相手の論戦では見事な論拠を並べてひざ詰め談判を体現するから、そのいちいちが筋が通って、既にせいや氏は負けている。もう一つは、外見のイメージを見事に裏切る「可愛らしさ」だ。コメント欄も、うらやむ内容が多い。一見、冷静過ぎる印象の婦人が実は無類の恋しがりで、寂しがりで甘えん坊だったら、これは男にはある種のロマンであり、あり得ないファンタジーではないか。お二人はこのむつかしそうな設定を巧みにドラマ、コントとしてこなして、どの作品も共感と笑いを誘うからスゴい。お二人が若き夫婦であることも、ありきたりなカップル・コントには演じられない強い力ともなっている。りっちゃんは、理不尽な扱いに立腹してせいや氏に詰め寄りながらも、彼の話術にも引っ掛かり、憎めない妻を演じてみせる。仕掛けられたコントだろうとわかっていても、意外性はラストまで幾つか用意されて、文句なく楽しめる。
2024.01.23
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講談「四谷怪談」『お岩様誕生』その2 2023/03/07開始☆前回あらすじ☆年の瀬の寒い晩、ひょんなことから、おつなと伝助は結ばれます。それからちょうど二月(ふたつき)ばかりのちのこと。人間国宝・一龍斎貞水師匠、在りし日のお元気な近影その二 怪異の気配「金貸し夫婦の死」お話の舞台は神田の松田町。時は如月(きさらぎ)の末のある夜更け。家主(いえぬし)・甚兵衛(じんべえ)の家の前に立った二人の男女、と言いますと、たいそう色っぽく聞こえますけれども、男はというと、紺の法被(はっぴ)を着た中間(ちゅうげん。註/侍と小者⦅こもの⦆との間に位する武家の召使、中間男)(註/こもの。武家のちには町家で雑役に使った下男)(註/げなん。雑用のため雇われている男)。何んだか大きな風呂敷包みをしょいまして、そればかりじゃあない、手には何んとたくあんの2,3本、荒縄で結(ゆわ)えたやつをぶら下げており、こりゃあんまり二枚目の形じゃあございませんな。おこそ頭巾をま深(まぶか)にかぶった連れの女としばらく何かこう、ひそひそ話をしておりました。やがて雨戸をトン、トン、トン ! 「今晩は ! 」トン、トン、「今晩は、叔父さん、お休みでございますか、伝助でございますが・・」トントントントン、「叔父さん ! 」「あ、は、はい、どなた ? 何い、伝助え ! おお、今あけるから、ちょいと待ちねえな」ガタン、ガラガラ。くぐり戸をあけまして、顔を出した甚兵衛(じんべえ)、「おお、入んねえ、おい、何んだおい、たいそう大きな風呂敷(ふるしき)包みをしょって来たな。よ、横になって入(へえ)んなきゃダメだよ。ああ、よしよし、あとはな、おら、閉めとくから、ああ、さあさあさ、早く中へ入(へえ)ったら、包みおろしなよ」「へえ、どうも夜分遅く上がりまして相すみません」「何、叔父甥の仲じゃねえ、遠慮はいらねえやな。ばあさん ! 伝助が来たよ」「おや、よくおいでだね、この二、三日ね、あたしゃ何んだか知らないけど、腰がいたんでしょうがなくてね、寝ていてごめんよ・・」「そりゃ、いけません。どうぞあの、お休みなすってて。実は叔父さん、少々わけがあって、今夜、田宮様んとこ、出て来ちゃったんで」「そらおめえ、やなところに我慢しているには及ばねえけどさ、おらあな、おめえの親父とは兄弟(きょうでえ)だ。若(わけ)え時から江戸へ出て苦労した甲斐があって、今じゃあこの辺一帯の家(いえ)主になったが、知ってのとおり、子供はねえ。おめえを養子にして、地所をゆずるつもりでいるんだ。おお、帰(けえ)って来たのは幸いだ。ずっとな、この家(うち)にいねえな。ああ、だが何んだぜ。金の間違(まちげ)えをして出て来たんじゃあるめえな」「いえ、そんなことはしません」「おめえのこったからな、そんなこたねえと思うがな、それじゃ、へへっ、俺の若(わけ)え時とおんなじでこれか ? え、へへっ、女出入りだろ。おめえは男っぷりがいいからな、組内(うち)のお嬢さんにほれられたな。え、はは、顔赤くしてやがる。どうでえ、図星だろ。お、お嬢さんと言(い)やあよ、田宮様にも娘がいるが、あれには俺も驚いたよ。去年、堀ノ内行った帰(けえ)りにちょいと寄ったよ。そん時、台所へ出て来た女見て、おら、ぶるぶるっとふるえちゃった。化け物(もん)かと思ったら、それがおめえ田宮のお嬢さんだってえじゃねえか。ええ ? あれがおめえ、御家人の娘だからいいがの、町人の娘だったらおめえ、へたするってえと、見せ物に引っ張り出されちまうって代物だ、伝助、まさかあれじゃああるめえな」「それがその、あの・・あんまり親切にしてくれるもんですから」「何 ? 親切にしてくれるから・・・その親切がどうしたんだ」「去年の暮れのことなんです。恐っそろしい寒い晩で、どうしても寝られねえんです。すると旦那様が娘の部屋はあったかいから行って寝ろと、こうおっしゃるんです」「それみろ ! 年頃の娘んところへ親が安心して若(わけ)え男を寝かせるくれえだ。間違(まちげ)えのねえ代物だってことがわかってるからだよ」「ところが、その部屋に寝て真夜中に目え覚ますと、行燈の灯りが消えてまして、で、あのう、つい、その、あの・・・今晩は」「なあにが今晩はだよ。それでどうしたんだ」「・・・・・」「何い ! あの化け物・・・へえっ ! いい度胸だなおめえは。悪女の深情けってんだがな、ああいう女ってのは早く子供が出来るぞ。そうなっちゃあ大変だ。な、で、そうならねえうちにってんで、今夜逃げ出して来たんだな」「それがその、あのう、もうお腹、ふくれちゃ、ふくれちゃったんです。一緒に連れて逃げてくれって、こう言いまして」「冗談じゃねえぞおい、あんな化けもんなんかと道行きが出来るもんかい。いいか、何んと言われたって取り合うんじゃねえぞ」「それが、そういうわけには行かねえんです。実はあの、一緒に連れて来ました」「な、何んだ、連れて来た ! ? 表にいる。お、おい、なぜ早く言わねえんだよ、ホントにもう、出来ちまったことは仕方がねえやな、おら早く呼べ、早く呼べ」まもなく伝助に連れられまして入って来たおつな。「甚兵衛(じんべえ)や、どうぞお前のお骨折りで伝助と夫婦(めおと)にしておくれ」言いながら、おこそ頭巾をサッととった。その顔を行燈(あんどん)の灯りで見た甚兵衛、思わずブルブルっとふるえた。おばあさんはというと、頭からふとんをかぶって、念仏を唱えだしたって、何もそんなに悪く言うことはないんですが。「あ、いや今夜は遅うございますからな、万事はあすのことにしましょうな、あすのこと」その晩は二人で二階へ寝ます。翌日になりまして、四谷の田宮又左衛門のもとを訪れる。おつなの母親に会いまして、甚兵衛から委細を話した。母親の情の常として、二人の無事を聞いて涙を流して喜んで、「主人は不義をした憎い奴と口では言っていなさりますが、それは表向き、心の中では二人を決して憎いとは思っちゃおりませぬ。お前も迷惑ではあろうが、自分の子と思って世話を頼みます。それからね、何かにつけてお金が要りましょうから、」これを娘に渡して下さるようにと、十両。「へえ、確かにお届け申し上げます。あたしども年寄り夫婦がついておりますんでね、どうぞご安心下さいまして」もらいました金をふところに。松田町の家へ戻って来た甚兵衛、「お嬢様、親御のご慈悲、決して忘れちゃいけませんよ。伝助もそうだぞ。お嬢様見捨てるようなことがあったら、俺が承知しねえから、そのつもりでいろよ」こんこんと二人に言い聞かせ、ま、ほどなく甚兵衛が京橋五郎兵衛町(きょうばしごろべちょう)の裏長屋、借家をみつけまして、二人に所帯を持たせてやりました。おつなは伝助の世話女房、ま、うれしいその日その日を送っておりました。「なあ、おつな。おめえのお腹が大きくなったら、生れて来る子のためにもさ、親としてたくわえをしとかねえってえと、面目ねえや。どっか仕事があるかどうか、さがして来(く)らあ」霞ヶ関の松平安芸守(あきのかみ)、ま、我々が十二月になりますと、必ずやるあの赤穂義士伝。あの赤穂義士伝の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の御本家が、この芸州広島の城主・松平安芸守でございます。その安芸守様の足軽長屋で、飯炊きが一人欲しいという。これ幸いと、飯炊きに通うことになる。そりゃ、ま、飯炊きですから、もらうお給金は少ないけれども、いろいろ魅力がある。「伝助、お国から新しい米が届いたよ。前の米はまだ残ってら。虫がわくといけねえからさ、好きなだけ持ってけよ。余ったら長屋の連中に分けてやんなよ」「伝助、味噌にカビが生えねえうちにな、味噌おめえ持ってけってさ。かみさんにどんどん食わしてやれ。腹の大きい女だ、滋養つけといたほうがいいぞ」。ところがこの松平安芸守、俗に四月大名と申します。どういうわけかというと。四月に芸州広島から江戸へ出府をする。で、参勤交代が済みまして国元へ帰る。これもまた四月。ですから四月大名。四月大名、江戸表に入って来ると、連れて来る足軽、これはたくさんおります。男所帯ですから飯を炊くのが面倒。外で食うようなことをする。その費用がばく大、不経済というところから、町方から飯炊きを雇ったというのが、この家風なんでございます。お殿様が四月、国元へ帰ります。ところが足軽小頭(こがしら)・高田大八郎というのが一人だけ病気だといって江戸へ残った。一人だって家来がいりゃあ、飯炊きが必要です。相変わらず伝助がかよっていた。ちょうど五月の五日、端午(たんご)の節句の日暮れ時、あたふたと駆け込んで来たのが飯炊きの伝助。「伝助 ! 今頃来やがって飯炊きがつとまるか、間抜けめ。何してやがった ! ? 」「どうもすみません。実はこないだから申し上げていた通りで、今朝がたからおつなが産気づいたんです。お長屋の衆たのんで産湯沸かしてもらったり、お産婆さん呼びに行ってもらったり」「うるせえ ! おめえにガキが出来るからといって、日干しにされてたまるか。それで伝助、生まれて来たのは男か」「男じゃないんです」「ふーん。一姫二太郎と言ってな、最初の子は女がいいとしてる。女か ? 」「女でもないんです」「何んだこりゃあ。男でなくて女でなくて、何が生まれた」「生まれないんです、それが。騒ぎばっかりで。仕込んだときはあんなに楽だったんですけど、出て来る時は、あんなに骨が折れるって男だからわからないんです。それで心配して、お長屋の路地、行ったり来たり行ったり来たり、行った・・・」「わかったよ。男のくせにつべこべと言い訳するねえ、みっともねえ。伝助、怒鳴って悪かったよ。怒ったんじゃないんだ。立腹をしたんじゃないんだ。おまえが来るのが遅い空腹だ。腹が減っていらいらしてたんだ。いいか伝助、ひもじさと寒さと恋と比ぶれば、恥ずかしながらひもじさが先ってな。人間腹が減った時によ、小野小町(おののこまち)みてえないい女がすっ裸で目の前通ったって何んとも思いやしねえ。ころがって来たにぎり飯にすっと手が出ちまうんだ。おまえは来ない、空腹でいらいらしていて怒鳴ったんだ。怒鳴って悪かったよ。伝助、ひとっ風呂浴びて来るからよ。その間に飯のしたくしといてくれ。いいな」「へえ、かしこまりましてございます。あの、ちょっ、ちょっと」「何んだ」「旦那様、そのお召しものの、そこんところついてるの、ち、血じゃ、ありませんか ? 」 ―講談「四谷怪談」その二了―付録まこと勝手ながら「四谷怪談」に関連したお話を一つ。和製ホラーとして大ヒットを記録した作品『リング』シリーズ・『呪怨』などが有名ですが、何年か前、You Tube番組の一つ「オカルトエンタメ大学」で、ゲストとして登場した映画監督、脚本家、映画批評家として活躍する高橋洋(たかはし・ひろし)氏が複数回に分けた講義をしていらっしゃいました。私はこの監督さんなら、何か聞き甲斐のある話をしてくれそうだと思って、何回目かにホラー作品の作り方のコツを語ってくれたので、お気に入り登録しながらめぼしい箇所に絞ってじっくり聞きました。さすがJホラーつまりJapanese Horrorのヒットメーカーだけあり、才能のみならず、親しみやすい語り方も巧みだと感激しました。特に高橋監督が語った「四谷怪談」の話に驚きと喜びで聞き入ったのです。髙橋氏は、黒板に次々書かれる講義テーマに言い及び、コツを教えてくれます。そして『因縁話にはしない』というタイトルのところで、説得力ある講義をなさった。ここに意表をつく話題が上がったのです。書いたように「四谷怪談」の話題に移ったのでした。私如きでも「四谷怪談」が因縁話の代表の一話ということは察しがつきます。その因縁話を巧みに避けて制作すべしという話の中で、「四谷怪談」を例示したので、「え ? 因縁話の四谷怪談を賞賛するって何 ? 」と俄然興味が増し、必ず聞き取って参考にしようと構えました。髙橋洋(たかはし・ひろし)氏以下に髙橋洋(たかはし・ひろし)氏の講義をまとめてみます。★「四谷怪談」がいかに凄いかというと、因縁話をやっているからすごいんですよ。実はねほかの多くのものは形ばかりの因縁話になって古びちゃったんですけど、「四谷怪談」がキッチリ見せているのは、お岩(様)という存在が幽霊になる前をお話の半分くらいを使って見せるんですね。お岩(様)が恨みをのんで死んで化けるのは、真ん中ぐらいからですね。一人の人間が幽霊になっていく過程を見せているのがこわいんです。なぜこうなったかという因果が全部語られているんですけど、これは最強の表現ですね。なかなか今やるの、むずかしい・・、やってみたいんですけど、「四谷怪談」って歌舞伎とか舞台で最もこわいのは、まだ人間のお岩(様)がだまされたと気づいて、伊右衛門に文句を言いに行こうと鏡に向かって髪をすいていたら、ぼろぼろってはがれ落ちていって、醜く崩れていくっていうあのシーンが、今、人間が幽霊になる瞬間を見ているっていう、そんなものをとらえようとした文化って余りないなって、やっぱり日本の怪談ってすごいなって思う・・そうすると古くさいものだって否定はできないのが怪談であり因縁話なんですね。★以上抜粋。和製ホラーを次々ヒットさせた高橋洋氏をして、ここまで言わしむる「四谷怪談」は蓋(けだ)し名作であり、別格の凄さで時代を超越して、恐らく今後も語り継がれてゆくに違いないと思います。
2024.01.15
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「夜行列車にて」より「幽霊が経営する旅館」物語の矛盾点をつく 2023/01/11開始もちろん怪談は幾つかの趣味ジャンルのうちでも、かなりの興味を以て続けているものであり、見聞きして知っている怪談の知識量や趣味としての歴史の長さで言うと、最多、最長と言えるかも知れない。なお、私は世代的に雑誌『ムー』でこの趣味に入ったものではない。どこから興味を持ったかでいうと、『四谷怪談』を初めとする創作怪談に戦慄し、その独特の恐ろしさに魅了されたものだ。しかし、創作だから作り話で、現実性はないということにはならなかった。人の命は尊いものであり、それゆえ尊重せねばならないものだというのは、理屈抜きに納得した。幼い頃から夢中になった怪談映画や怪奇談は、実話か創作かにこだわるよりも先に、物語が見せる人の情の凄さが描かれていた。むしろ創作怪談を通して、亡霊の恐ろしさを身に染みて味わったと言えるかも知れない。さて、馬齢を重ねてふと気づくと、私のまわりの怪談は、実話を重視する傾向が強くなり、この手の話を披露する怪談師のかたがたなども、実話だと強調したうえで話を始めるのだが、『ムー』編集長・三上丈晴(みかみ・たけはる)氏によると、ほぼ創作ということらしい。私もそう思う。さらに今や発言や表現に気を遣うご時世らしく、怪談師のかたがたも、実話と断わっておきながら、「知り合いのTさんの経験したことなのですが」と始めるから、正直違和感をぬぐえない。殊に昨今は「コンプライアンス(compliance)」なるむつかしい英単語が多用され、テレビ画面に出るタレントなどはよく言葉にするようになったが、ごく乱暴に言って「規制」という意味だろうか。いやな言葉である。昨今、我が日本と日本人の国民性を賞賛するユーチューブ番組が増えて、日本人は「礼儀正しく、規律をよく守り、他人に親切で、慎ましい」などとプラス面ばかりを紹介するが、よほど民族性として偏屈でない限り、おおよそどの国の人々も、「良い人、悪いヤツ」が混在するとみる。ほんの数十年前まで、事件の被害者の本名・住所などを新聞・週刊誌に掲載するのは常識だったし、加害者についても名前・住所の周知は当たり前だった。無論ならず者は昔も今もいるから、報道に配慮は必要である。しかし多くの視聴者・読者は、例えば被害者の居所などを突き止めようとはしない。事件を知って被害者の死を悼み、また無事を知ってホッとすれば良いことである。現在に至る怪談ブームの先駆となったレジェンド・稲川淳二氏。またも脱線した。弱年の頃から読書よりも、自ら作文することが圧倒的に好きで、誤りも少なからずあったが、文章修行は読むよりも書くを事として、結果、思い上がりに映ろうとも、全く文章を書かない人よりも筆が立つと自他ともに思えるようになった。だからついつい前書きを書いてしまうが、本題からどんどん遠のいて、未だ未熟である。そろそろ本題に入る。以前楽天ブログに掲載した怪奇談の中でも、凄みがあると感じた一話、稲川淳二氏の『夜行列車にて』からまとめ直したもので、2016年2月11日アップロードの「夜行列車にて」より「幽霊が経営する旅館」再録に言及する。先に結論めいたことを書くと、「この怪談はある程度読み込むと、ズサンな筋運びなどから、容易に作り話と見破れる、あるいは怪しむことが出来る」ということだ。まず、あらすじを書いておく。オホーツク海の流氷をテーマとした番組の制作のため、稲川淳二氏ほか先発隊を含む複数名のスタッフのうちの二人が網走目指して夜行列車で向かう途中、同じ寝台車で知り合った若いレディたちの怪異体験を聞いて驚くというもので、彼女たちは、元々4人の旅行仲間だったが、過去のある時、残りの二人が北国(あるいは山陰)の旅館で、既に殺害された姉妹の亡霊に出くわして、友達の一人はショック死、何んとか助かった一人は、以後旅行趣味をやめてしまったという話だ。画像は本文とは関係ありません。うかつなことに、初め私もこの話に疑問を持たなかった。私は怪異談を頭ごなしには否定しない体質である。まず物語の内容にじっくり関心を向けて聞いたり読んだりする。この旅館にまつわる怪談も、出来る限り細大もらさぬよう聞き取って、さらに同じ箇所を聞き直し、ようやく文章にまとめる。稲川氏の怪異談のうちでも、一級の怖さと何やら胸にしみる情趣を覚えさせる内容だった。今回私はこの話の矛盾点を突くと称して掲載せんとしたが、だからといって私は物語の真偽を徹底して突き止めようとは考えていない。あくまで興味を持ち、特に怪談語りとして有名な稲川淳二氏の功績に敬意を表して臨んでいる。「こんなの幻覚さ」とバカにするのは容易なれども、そう簡単に言い切れる者は要するにバカ者である。テレビで言えば大嫌いな坂上忍、劇団ひとりなどの完全否定派の愚か者どもである。肯定・否定いずれも、目下の科学力では、理路整然と説くことは出来ない。否定派の根本には、「幽霊なぞ錯覚かウソ八百に決まってる」との実に愚かで冷酷でさえあるそれこそ根拠無しの思惑だけがある。「不思議だねえ」くらいの感想を持つことすら出来ないか、そのつもりもないかといっそ哀れでさえある。もし、こいつらに幽霊を何らかの物理装置でとりあえず見せる方法が見つかったら、それを幻覚とみなす考えに変わりはなくとも、目の当たりにした不気味な何かに対して、かなり取り乱すのではないかと思えて仕方ない。さてまたも脱線した。ここから改めて、怪談に対しての懐疑点、矛盾点の指摘にかかろうと思う。私が「待てよ、話の内容にずさんなところがある」と気づいたのは、キーワードめいた言葉で書くと『タクシー』である。疑問箇所を抜粋すると以下の如く。☆その旅館は、最寄の駅からタクシーでかなり走ったところにあるが、日本海に面した山の上に建っていた。☆まず冒頭のこの部分だ。駅までは列車を利用したようだが、旅館までは駅前でタクシーに乗ったとの記述である。物語の内容から結論を言うと、この旅館は廃業して年月が経っている。建物が解体されたかどうかは述べられていないが、ともかく廃業した旅館である。タクシー運転手は地元に詳しいはずで、駅から乗ろうとする段階で、この時既に運転手は廃屋ではないかとレディたちに告げていても当然だ。この描写がなく、あっけなく行きは無事タクシーで旅館に着いている。これは妙だと思えて当然。さて、旅行の物語はこの不思議な旅館に於いて進んでゆき、それでも一人が風呂から上がったあと、友達と交代して、町へ出かけている。この時も、旅館を出て坂を下った先にあるガソリンスタンドのところで『タクシー』を呼び、出かけている。もっとも、この時はガソリンスタンドからなので、引っかかることはなくても良い。さて、町で電話をかけたり本を買ったりしたレディが、ようやく旅館に戻るためタクシーに乗ろうとした時に初めて物語が滞りを見せる。怪談としてはここからエキサイティングになるわけだが、このあたりまで警戒しながら慎重に見聞きして来ると、何んとか「怪しさ」に気づき始める。さて、怪異談をいきなりドラマチックに盛り上げるラストへと進む。その箇所を抜粋する。★こうして京子、めぐみ二人とも交代でようやく入浴を済ますことになり、京子はめぐみと交代の時、「お風呂に入っておいでよ、さっぱりするから。その間に私町に出て、二人の家に連絡したり、雑誌とか買ってきてあげる」と告げて、旅館を出て、坂を下る途中のガソリンスタンドでタクシーを呼び、町に出た。日の長い夏のこととて、京子はついつい町で時間を過ごしてしまった。タクシーに乗り、旅館の名前と住所を告げると、タクシーの運転手は、怪訝な顔をした。告げられた付近に今、旅館はないはずだと言う。京子は再度場所を言い、運転手もそれではとタクシーをスタートさせた。走りながら運転手は、だいぶ前に確かに旅館が一軒あったと言ったが、閉館したと聞いたとも言った。★以上抜粋。(註 / ここでのレディ二人の名前は私が勝手に仮名で設定した。)疑問大いなるを抜いてみるなら、以上の箇所で「タクシー」について駅からの行きの時と、町で一通りの用事を済ませたレディが都合三たびタクシーを利用する時の運転手の様子が初めて妙だと思わせる描写となる。しかもラストのクライマックスに向かって、タクシー運転手までが怪異の体験者に加わり、一気に恐ろしさを感じさせるように思えるが、怪しむことが首尾よく出来てしまうと、ラストの展開は茶番にさえ見えて来る。ただ、既に書いた通り、私は昔も今も怪談が大好きなので、この「夜行列車」の物語に破綻がみえないようにする描写を考えてもみた。例えば。列車を降りて駅から旅館へ向かうレディたちは、タクシーではなく、旅館近くのガソリンスタンドまでの直近のバス停を確かめて、路線バスに乗ることにすれば、物語は怪しまれずに済んだかも知れない。なお、この「夜行列車にて」は、You Tubeで初めて聞いた頃、稲川氏の語った内容そのままと言えるほど、細大もらさず正確に聞き取ったある女性のページを無断コピーして、それから稲川氏の語る『一人称』を言わば三人称に書き換えて、私が短くまとめ直したものである。最近またこの物語が稲川氏によって語られる動画を見ることが出来るが、あえて批判的に言うなら、彼は「この話、あちこちで引用されているようですが、いかんせん、私の元々の話ではなく、少しずつかえられているんですよ」といかにもオリジナルは己れにありと強調気味だ。そうして改めて語るのだが、私が参考にさせていただいた女性の話の正確さがわかるというもの。繰り返しになるが、月刊誌『ムー』現編集長・三上丈晴氏によれば、『実話』と念押しするかのように語られる怪談師の話のすべてかほとんどは「創作」とのこと。私もそう思う。殊に彼ら彼女らによる怪談はほぼ毎日「実話」と称して語られるが、こんなに実話元ネタに恵まれているはずがない。さて、あとがきのようになるが、私は怪談が必ず実話なるべしとは思わない。巷間伝わっている実話怪談が、いくらかの脚色を施されているとしても、元の出来事などには、真実が存在しているものもあると言えるはずだ。実は創作がほとんどの物語だとしても、極端にみれば、怪談は人間同士の生活の中から現われて来るもので、人情とよく言うように、人と人との関わり合いの中から共感、嫉妬、確執、憎悪などの感情が起こり、さらに怨念、未練、妄執へと発展し、人はその生活の中で、気配を感じ、夢枕に立つ何者かを見て、いよいよ目覚めた状態でさえ、見えざるべき何かを見ることとなり、声も聞く。創作らしき怪談を無理に信じる必要もないが、あまたの怪談話の中にはあるいは実話が世代を経ても語りつがれるものもある。私が弱年の頃の実話怪談は数えるほどの何話かが有名になっていたが、その物語には地名・人名がほぼ必ず記されていた。乱暴なようだが、実話であることを強調したいのなら、実名を告げるべしと思う。せめて県名くらいは明かすべきではないか。
2024.01.13
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ただ一度のUFO目撃体験 2023/01/08開始もっと早くブログネタにして記録しておけば良かった。きっかけはほぼ一年ぶりに会ってくれたサイエンスレディこと、相棒の夕子殿の提案だった。これについて私には別に不安なことがあった。彼女と最後に会ったのがいつだったか忘れたのだった。私は2019年2月から正式にヤマハのドラム・レッスンを受け始めて我ながらよくぞ続いたと思えるほどで、テクニックが伸び悩むばかりなのにもかかわらず、ともかく昨年2023年も、師走12月最終日も、何んとかかよって、年越しのダメ出しをいただいて、帰った。「さすがに相棒の夕子とご無沙汰だな・・・」と改めて思った。相棒もここへ来てますます仕事が忙しいとは聞いていたので、去年はあえて連絡なぞしないで、電子メールだけで近況をごく形式的に知らせ合うにとどめた。やはり声を聞きたかった。私はスマートフォンでのショート・メールのやり方がわからず、さらにタッチ式の機器がどうしても合わないので、申し訳ないとは思ったが電話をかけてみた。夕子「あらぁ・・・。ほんっと、お見限りね。あたしのこと、忘れたまま、そちらの生活が楽しくなったのかなぁ。特にドラムなんか、もうほぼ5年だものね。ほんっとに、好きなんだってわかったわ」村松「例のバカ騒ぎが5類になって、いよいよ仕事が忙しいって聞いたから、雑談だけで長話なんかするのもどうかと思って・・・」夕子「あたしたちの話ってほとんど雑談でしょ。だから面白いんじゃない ! 」村松「なるほど。じゃあお前のところに行ってもいいのかな」夕子「当たり前でしょ。ナニ今更遠慮なんかしてるのよ」村松「そうか。あ、それでさ、俺がレッスンのことでお前に叱られたのいつだっけ ? 」夕子「ブログあるでしょ」村松「・・・」夕子「え ? 何 ? 冷たいって思ったの ? 違うわよ。あなたの記憶がどれだけズレてるかって」村松「え ! ? 」夕子「違うよ。ボケたなんて思ってないのよ」村松「あれ・・・。叱られたのが2021年で、グラストラッカーやZ250SLに乗ろうとしたのは2022年・・・。やっぱり去年は行き来なかったのかぁ」夕子「ねえ、かなり重いカワサキのバイク、納車延ばしてるの、どうなった」村松「年明け早々、決心して届けてもらったばかり」夕子「追い金なかったって聞いてちょっと不安だったんだけど・・」村松「あ、セルのかかりが悪い。これも初めて。ホント、運んできた軽トラが帰ったあと、え ! ? バッテリー上がりかよって、あせった」夕子「電池交換したほうが・・・。ま、も少し様子みてからでもいいかもね。あるいはセルスターターそのものにも・・・」村松「話があちこち飛んじゃった。ともかく去年は全く会ってなかったんだねえ。・・・記憶と言えば・・・」夕子「何んかあるの ? 」村松「これもいきなり話題コロコロ変えるんだけど、夕子、『豊島園』って知ってる ? 」夕子「ええ。こないだ閉園になったようだけど、あたし、学生時代に行ったし」村松「え ! ? 」夕子「前の・・・その、別れた人と・・・」村松「ああ、そうか。大学の時かぁ。いや、それなら話が早い。でさ、俺が行ったのは」夕子「話覚えてるよ。だって、それが刺激であたしも行ったんだもの」村松「夕子の時、花火大会あった ? 」夕子「うん。開催回数は変化したようだけど、平成何年かまであったらしいよ。あれ、とっても迫力あった。でも行けば必ずではなくて、決まってたみたいね」村松「でさ、話はここからなんだけど」夕子「ね、こわい話はダメよ」村松「いや大丈夫。ズバリUFO見たこと」夕子「UFOっ ! ? 」村松「うん。俺、このこと何でもっと早くブログにしなかったかって、今更ながら後悔っていうか、不思議でね」夕子「豊島園でUFO見たの ? どこから。まさかプールで」村松「そう。その日、間借りしてたお宅のおかげで便乗させてもらってさ、俺は金づち同然なんで、泳ぐ楽しみはなくて、流れるプールで歩いて散歩してたんだけど」夕子「うふ、面白いね。楽しめるよね。で、続き話して」村松「その日の夜、えーと7時台だったかな、何千発だかっていう花火大会があってさ、俺は水泳がダメなぶん、花火を目の前に見られる迫力に感激した」まるで火災かと見紛うような、大仕掛けで見せてくれた都会の花火。夕子「東京はあちこち、川なんかでもやる花火大会も有名だけど、豊島園のは素敵だったよね。でさ、UFOの続き」村松「あのさ、写真とか証拠なんて何もないから、再現画像で示すしかないし、それにただ一人の証人と言える兄も病死したから、あくまで話だけなんだけど」夕子「いいわよ。それでどんなふうに」村松「プールを話題にしたのもこの話の伏線なんだけど、夏は日が長いから、夕方でもまだ明るいんだよね。で、プールの中、散歩したあと、気が済んで上がってさ、海パンのままプールサイドに突っ立ってボーっとしてたら、かなり近くのビル街のところに、向かって右からゆっくり円盤状の形のものが見えたんで」夕子「うんうん。それで ? 」村松「ホントにゆっくり飛んでたんだけど、瞬間的にすぐ横にいた兄に知らせたんだ」夕子「へえー、冷静ね。それで」村松「俺一人の幻覚でおしまいでは残念だと思って『お兄ちゃん、あそこ見て』って指さして、そしたら兄も視線が止まって」夕子「ええ ! すごいドラマチック ! それで ? 」村松「『お兄ちゃん、あれ何に見える ? 』って」夕子「で ? 」村松「俺、我れながら意外と冷静で、兄が『円盤の形のものが見えるな』って言う答えを聞いたんだ。で、そうこうするうちに、視界の左端のビルの陰に隠れて、それきり見えなくなったまま。ビルの陰から再び姿を現わすことはなかった」もちろん合成などを使った再現画像です。でも、記憶の風景に近いと思います。夕子「形は ? 」村松「これ、いかにも作り話に聞こえるかも知れないけど、兄に形をきいてみたんだ。先入観与えないように、『どんな形 ? 』って」夕子「じゃあ、アダムスキー型なんて言葉つかわなかったのね」村松「うん。そしたら兄も詳しくて、アダムスキー型っぽいって答えたんだよ。ただね、そのあとその話でもちきりなんてことなくて、間借りしてるお宅の家族の人たちとみんなで、花火みたり何か食べたりして過ごしたんだ」夕子「案外あっさりしたものだったのね。何か目撃情報を検討したりしたとか」村松「うん。気球とか風船とか、あと、カイト、つまり凧とかもね。距離は100mくらいかな。至近距離でもないけど、遠くでもなかった」夕子「今の話からすると、じゃあ、あんまりあなたたち兄弟興奮気味になんてならなかったんだ」村松「うん。特に兄が『ああ確かに円盤がゆっくり動いてるな』ってぐらい。不思議な現象に出くわしても、案外淡々としてるんだよね」夕子「そうなのね」村松「親父が夢枕に立ったように感じた時も、あとで何も見えないことを確認してそれっきり」夕子「ああ、うっかり聞いちゃった。その手の話はこれ以上は厳禁だからね。さもないと」村松「当分か永久に」夕子「出禁 ! 」
2024.01.09
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「水戸黄門 実説」その三(最終回)将軍継承問題の皮肉 2023/02/02開始貞享(じょうきょう)元年(1684)の堀田正俊暗殺事件ののち、将軍・綱吉(つなよし)は、幕閣たちに不信感を抱(いだ)くようになり、老中たちを身辺から遠ざけ、代わりに柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)を初めとする側用人(そばようにん)を重用するようになった。「生類憐みの令」に代表される如く、綱吉は独裁色を強めるようになった。柳沢と言えば現代で言うイエスマンである。将軍継承について自らが第五代将軍となるのには、刺殺された堀田正俊、さらに後押しをした光圀の働きに負うところが充分にあった。しかしながら、さらなる将軍継承につき、次代将軍としては己れの血筋を継ぐ者をとの強い願望が綱吉にはあった。この継承に関して、下々(しもじも)ながら私が長く印象に残す言葉がある。我が家に祖母(明治30年、1897年生まれ)の頃から母(昭和2年、1927年生まれ)へと、語り継がれる如く、よく話の端(は)にのぼってその都度、言葉と意味を強く意識したものだ。曰く。『血は汚(きたな)い』である。大意は「身内には甘い」を自他共に嘲笑し、あるいは反省せんがために、折りに触れて発せられたなかなか痛烈な批判的文言と察する。ついでに連想する言葉がある。これも祖母がよく口にしたものだ。『所詮、犬畜生だからね』。これは子供ながら私にハッと気づかせてくれた言葉であり思想でもある。昨今定着したライフスタイルに早速異を唱えるようではあるが、祖母たちの時代、身内に不幸があれば当然ながら深く嘆き悲しんだ。しかし、飼い犬や猫が寿命、事故などで死んでも、必要以上に悲しまない。これが常識だった。今や、ペットロス症候群という言葉が既にあるように、犬猫の写真を額縁に入れ、遺影として飾り供え物などして、一家一同ごく普通とみなしているが、その家族に年寄りはまあいない。核家族を当然として、犬猫を家族の一員に加えてご満悦だが、現代の嫁は妻は、ペットを最重視しても、夫の母すなわち義母を同居させはしない。時々は幼い子供を老夫婦の住まいに連れて行って、身内の仲は首尾よく収まっていると言いたげだが、これはまやかしに思えて仕方がない。さてさらに、私が文章・コラムの師として尊敬おかない、故・山本夏彦氏のコラムにも印象深く残るものがあった。山本氏がお元気な頃、主宰していたインテリア雑誌『室内』の編集子女子社員の一人の家庭について書いたコラムなのだが無念なことに、所収した書籍を紛失したままで、タイトルがわからない。おおよそは記憶しているので、かいつまんでみたい。要するに「畜生には畜生の可愛がり方がある」との主旨で、女子社員さんが弱年のころ、祖母がいらっして、そのお宅では猫を飼っていたが、祖母は決して猫を抱いたり、膝に乗せたりはしなかった。そして「畜生には畜生の可愛がり方がある」が、その老婦人の口癖だったというような内容で、尋常な風潮だったと思われるいっぽう、恐らく当時も今も変わらぬある意味異常なペットブームを取り上げたものだった。さて、私の祖母も同様で、例えば人間より寿命が短い犬猫が死んでも、気味の悪過ぎる悲しがり方はしなかった。なお、祖母が壮年のころ、家族の中に犬または猫が飼われていて、犬は業者のトラックの下敷きになって大怪我に苦しんだあげく死んだ。のちに母から聞いたのだが、可哀そうに思った家族の誰かが頭を撫でようとしたら、既に苦痛の極にあったためか、楽になるまでの苦しみを苦しみぬいて、必死に耐えている犬にとって、頭なぞ撫でられても、むしろ苦痛が増すばかりと思ったか、いかにも煩わしそうに、撫でようとする手を払わんとしたので、息を引き取るまで、家族たちは見守るばかりだったと話した。超大型犬とも言われるグレートデン犬ジョイと兄。もはや両名ともこの世にない。この話をした時、母も「所詮、犬畜生だからね。家族の誰かが亡くなるのとは違って、ほどなく自然に明け暮れに任せるようになるものだよ」と言った。その母も、私たち兄弟が昭和42年から46年まで正味四年弱の短いあいだに飼ったグレートデン犬が突然死んだ時、目に涙をいっぱい浮かべてしばし愛犬の死に、悲しみを示したが、ほどなく日常生活に追われるようになった。閑話休題。徳川五代将軍綱吉は、己れが将軍になると早々に、後継ぎに執着するようになる。第六代さらに第七代にまで血をつなぎたいと切望の念を露わにした。綱吉は将軍に就任早々の延宝八年(1680)、息子・徳松を次期将軍候補として江戸城に招き入れた。これに対し光圀は苦言を呈した。「時期尚早である」と。光圀の言に綱吉は耳を貸さなかった。綱吉の思惑は以下の如くだった。息子・徳松を次期六代将軍にし、己れの血筋をつなぐこと。ところが、不幸なことに、延宝十年(1682)、息子の徳松はわずか五歳で夭折(ようせつ)した。このままでは、兄・綱重の遺児である綱豊が次期将軍の最有力候補になってしまう。そこで綱吉は一計を案じた。徳川御三家の紀州藩の嫡子(ちゃくし)・綱教(つなのり)を我が娘・鶴姫(つるひめ)の婿に迎え、将軍後継者とすることだった。そして、この二人に子が生まれれば、己れの孫を七代将軍にできる。自分のあとが、二代にまで血を継ぐ将軍となる。綱吉はそれを強く望んだ。だがそこに、又も光圀が立ちはだかる。貞享三年(1686)元日、年賀のために江戸城へやって来た大名らを前に、その場を仕切っていた光圀は、まず綱豊を上座(かみざ)にすえた。あっけにとられる綱吉と大名たちを尻目に、続いて光圀は綱教(つなのり)を下座(しもざ)にすえた。綱豊が綱教(つなのり)より上だと宣言したも同然、次期将軍は綱豊だと公然とアピールした。繰り返しになるが、その後光圀は家督継承の模範を示す。三男であったにもかかわらず、藩主となった光圀は、兄・頼重の子・綱條(つなえだ)を養子にし、家督を継がせた。綱條(つなえだ)は水戸藩第三代藩主となるのだ。さて、紀州・綱教(つなのり)を第六代候補とたのみにしていた綱吉だが、光圀の「綱豊、上座にすえる」の行動に出鼻をくじかれ、さらに娘・鶴姫が子を残さぬうちに死亡し、将軍後継問題は決着を迎えた。綱吉は自らの血を将軍家に残す望みを断たれ、仕方なく綱豊を養子に迎え入れた。のちの六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)である。初め綱吉を応援して将軍の座に就く大きな力ともなって、支えた光圀であり、綱吉も光圀に感謝していたはずだ。その二人がのちのち対立するようになるきっかけの一つが綱吉による『徳松』後継意思と、それに反対する光圀の反意反論であった。その根本には幕府を築いた家康以来の『嫡子継承』の習慣遵守の基本思想もあったかも知れない。なお、当初は綱吉も光圀に好意的だったことの証拠として、水戸の記録に「綱吉公、御家督のみぎりは、西山(せいざん)公をことのほか、ごねんごろに御座候(そうら)いしが・・・」が残っている。もちろん、登城し諫言(かんげん)した光圀の意を悟って、にわかに下問し『生類憐みの令』を綱吉が廃止させたという東映映画の物語は真っ赤なウソであり、彼は生涯このお触れを解いてなぞいなかった。もっとも、綱吉のこの禁令にも評価すべきところがあるというのが不肖のこの私の考えだ。今の世の中で「いろいろな肉のほかに、犬の肉も食べる」なぞと言うのは、それこそ動物虐待の犯罪となるのだが、綱吉はその先駆となって、戦国の蛮風を廃したとも言えよう。なお、支那(しな)つまりチャイナでは、未だに犬の肉を食べる習慣がある。ウィキペディアで「犬食文化」と検索すれば、写真入りで解説してある。さらには支那だけでなく、東南アジア、朝鮮などにも食習慣が残っている。まあ昔から余り肉が好きでない私に言わせると、スーパーなどでごく自然に鶏肉・豚肉・牛肉を買って調理して食べるを当然の食文化ととらえる人々のある種の無神経さに恐怖を覚えることがある。「ええーっ ! ? 牛肉おいしいじゃん。変わってるねー ! 」とあざけり顔さえ浮かべる女人の気が知れぬ。弱年のある時期まで肉が食べられなくて、吐き気をこらえながら訓練しある程度克服出来た経験で言うと、食用ガエル、まむし、ウサギの肉をも食べられるようになった私が、解剖実習でおなじみのカエルの肉を差し出したらすこぶる気味悪がる女人が少なからずいると思うが、人間なぞその程度のものだ。ろばた焼きの店で提供するところは必ずあるとも仄聞した。牛肉が好物ならば、カエルさらにまむしの肉も想像されるが良いとしかいう。戯れが過ぎた。晩年、隠居した光圀は、水戸領内の西山(せいざん)荘で、ライフワークであった『大日本史』の編さんに取り組んだ。しかし光圀の隠居は自ら望んだものではなかったとも言われている。綱吉が半ば強制的に光圀を水戸へ追いやったというのだ。後世の評価とは往々にして皮肉であり、我々庶民の見識なぞたかがしれている低さなのも不承せざるを得ないが、「戦国の蛮風を廃して、文治政治を広める」ことに注力せんとした徳川綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と揶揄(やゆ)され、その内面に迫るドラマにもならず、徳川光圀は「天下の副将軍」、「水戸の黄門様」として、古往今来の様々なジャンルの娯楽に描かれた。目下はテレビドラマが終了となり、現実にTBS(我が静岡県ではSBS)のゴールデン・アワーの定番としての役割がなくなって、平成・令和の新世代、殊に今の20代の人々は、ほぼ「知らない」という。私が訪問看護を受けている組織でも、看護師さんとは別に『作業療法士』さんという国家資格を持つ人の訪問も毎週一回受けているが、或る時、新人の実習との名目で、数名の療法士さんたちの訪問を迎えた。この時たまたま話題が「水戸黄門」に及び、誰もがみな知っているとばかり思っていたのが「甘かった」と気づかされた。二十歳(はたち)そこそこの若いレディことごとく「知らない」と言ったのだった。「ジブリ」や「鬼滅の刃」は常識と心得る世代が、水戸黄門を知らなくて当然の世が訪れた。昭和30年代の娯楽の王者として大活躍した、かつての東映も、昭和40年代からこれことごとく任侠路線へと転じてヤクザ映画を量産し、東映のドル箱スターとして銀幕に登場し、多くの映画ファンを熱狂させた数々の時代劇スターたちも、今や鬼籍に入って久しい。ただし、町井勲さんのようなギネス記録を数多く残し続ける現代の侍がいるのも事実である。時速数百キロのBB弾を真っ二つにし、抜刀・納刀の型もきれいにこなす人が、この日本に存在する現実もまた確かなこと。修心流居合術兵法を主宰する居合の達人だ。地上波しか見ない年配者が依然多いのも事実のようだが、私は4台のテレビ受像機すべてに「You Tube」設定をして、地上波は事件・事故報道以外、ほとんど見なくなって久しい。 ―了―
2024.01.07
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71歳高齢ライダーいよいよラストオートバイか 2024/01/06開始カワサキZ250 なお、画像は2015年式ですが、カラーなどが同じブラックなので、画像のみ掲載しました。単気筒バイクの再三のエンジン・ストールにややストレス気味であったが、昨2023年秋ごろ、2気筒バイク、カワサキZ250を思い切って購入した。たつき心細い現状ゆえ、中古であり、しかも初期型と思しき2013年式だが、ローダウン可能で、今年2024年1月5日(金)午後、またがりに出かけてみると、実に予想外の足着きの良さに驚いた。さらに170kgで「重い」とかなり不安だった車重も、感覚としては軽い。もちろん昨年2023年に束の間乗ったZ250SLの148kgよりは22kg、お米に換算して10kg二袋ぶん重いのも事実だが、車重の威圧感はむしろない。もちろん、転倒させたら怖いのかも知れないが、それでもかつて大型オートバイをやめるきっかけとなったトライアンフ・ストリートトリプルの189kgよりは19kg軽く、お米二袋さらに追加の重さではない。銀行駐輪場で立ちごけ後、自宅前で無念の記念撮影した、トライアンフ・ストリートトリプル。最後の大型バイク。675cc、最高出力106ps/11700rpm、最大トルク6.9kg・m/9200rpm。さらに単気筒バイクの中古でかなり不満だったメーターパネルの「燃料計無し」は、「燃料計有り」となって、さらに左右ウインカーの点灯もあるし、装備性はよくなったと感じる。ともかく「転倒」「立ちごけ」に注意すれば、エンストの心配がないぶん、走行における安心感は増す。もっとも、いよいよ250cc2気筒オートバイは、おそらくこれが最後になると予想される。カワサキZ250 主要諸元(スペックspecifications)水冷4ストロークDOHC4バルブ並列2気筒駆動 セルスターター最高出力 31ps(23kW)/11000rpm最大トルク 2.1kg・m(21N・m)/8500rpm車両重量 170kg全長・全高・全幅 2015mm×1025mm×750mmシート高 785mm(最新型は795mm。ローダウン可能で、推定760mm、両足かかと完全に着く。スズキ・バンバン200の770mmよりさらに低く感ずる。小生167cm、72~80kg)燃料供給方式 フューエルインジェクション燃料タンク容量 17リットルメーターパネル アナログ式タコメーター、燃料計、時計、左右ウインカー点滅変速 6速リターンヘルメットホルダー付き
2024.01.06
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門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし (妄想爺)2024年、世界は、我が日本は、いかなる運命に・・・ ! ?画像はYOU TUBEからお借りしました。今や懐かしきPPM、ピーターポール&マリーのお三方の名曲『Puff the magic dragon』が日本でも辰として親しめるので、遙か高校時代を思い出して掲載致しました。ついでに・・・キングギドラにも応援してもらいました。昨年末から実に「ゴジラ-1.0」が奇跡の大ヒットを記録し続けているのは、何よりうれしいこと。ただ、本2024年は台湾有事など、危惧すべき情勢下にもあり、皇国日本の命運また安穏ならざりしかとも心配は尽きません。
2024.01.01
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カワサキZ250SL走行レビューなど単気筒クォーターの動力性能と単発にありがちなエンストなど 2023/04/06開始結論を書くと、ほぼラスト・オートバイと決めたカワサキZ250SLは、かなり気に入っている。この感想は初めて遅咲きライダーとして、26歳の初夏に乗ったカワサキZ250FTとかなり似た感じだ。それにしても、人生本格スタートに出遅れた己れのせいか、20代からの日々が記憶にないと言えるほど、まさしく矢の如くに光陰は過ぎ行きたる心地だ。社会生活について抵抗力が貧弱なゆえかも知れないが、或る意味、仕事と共に謳歌出来たかも知れない20代の弱年の歳月をやや無為に過ごしたことが心残りだ。その虚ろさをかなり埋めてくれたのがオートバイである。普通免許は当然と言わぬばかりに所持しているくせに、バイクとなると全く興味を示さぬ者にある程度共通の否定的意見は「身体がむき出しで危険を伴う」とのことらしいが、オートバイを楽しむ我々からすると、「四輪に乗っていると、そんなに安全安心かい ? 」と逆に四輪過信の考えに疑問を向けたくなる。オートバイが好きなのは、危険を承知、否、危険云々を考えるより先に、操縦したい憧れの念が圧倒する。特に四輪で事故を起こす際、その損傷の様子は、車体の防御力を超える衝撃で、致命的損害を受けることも少なくない。早い話が、四輪の事故のほうが深刻な後遺症を残すのが事実だ。いきなり無関係そうなことを引き合いに出すが、充分防御など対策を身につけたつもりで行なう柔道などに、試合による身体深刻な障害が出ることも少なくない。この点、極真空手などの直接打撃の試合では、想像するほどの大けがはまあひんぱんには出ないか、ほぼ出ない。フルコンタクトだから相手を直接殴り蹴る。しかし互いに極度の緊張と真剣さゆえか、一撃が敗戦した者の人生を悲劇的なものにすることはほぼない。第一、一撃で勝負はなかなかつかない。経験せぬことにはわからない。私は見た目のオートバイの危険さとは裏腹な無事故・損傷軽微の事実に、この格闘技を重ねる。無論オートバイで事故死する人、大怪我をする人もいる。だが多くは、数十年間、違反も事故も経験し、なおかつ今も現役またはかつて現役で、元気なのだ。さて閑話休題。実は久しぶりの単気筒クォーターは、これまで乗って来たバイクと比べると、運転しにくいのではないかとの不安が大きかった。ところが4月5日水曜日午後やや遅く、「出来るだけ乗らねば」と己れを叱咤する心地でスタートしてみたら、何ゆえか乗りやすいと感ずるようになっていた。このような経験はめったにない。帰りの道中は調子に乗らずきちんと運転すべしと自らに言い聞かせる思いで帰路を走った。ABS( Anti-lock Brake System アンチロック・ブレーキ・システム)は装備していないので、前後輪ディスク・ブレーキの操作には注意せねばならないが、減速時はシフト・ダウンとブレーキを共に使い、それでも時々後輪ブレーキがロックしてタイヤが横滑りすることもあった。上三枚とも、恒例となった「すみやグッディ」さん駐車場での記念写真。変速形式は六段リターンだが、下道(したみち)と言われる一般道では、せいぜい四速で走り、制限速度を守ろうとすると、三速で足りる。三速で時速50kmを維持せんとすると三速でやや回し気味で走ってほぼ順法速度を保てる。四速で回すとすぐに60km/hに達する。私は高速道路利用の予定が全くないので、せいぜい県道、バイパス程度。高速道路はカワサキ・ゼファー750RSで富士―浜松間を走ったりしたのだが、もはや縁はない。さて、このカワサキのオートバイに行き着くまでの最近、2018年ごろにスズキ・バンバン200にしばらく乗ったが、発進加速の弱さを感じた。最高出力16psがパワー不足と結論づけた。希望するのは20psほど。その前にもうバイクは降りようかとも考えていたので、下取りを行なうことなく、バンバンは手放した。次に2022年の早い時期にこれもかねて気になっていたスズキの250ccバイク・グラストラッカーを頼んで納車。ところがシート高は充分満足出来る750mmという低シートだったのだが、シートの材質そのものが余りにもすべすべし過ぎていて、坐り心地に難がある。発進のたびに慣性力が働いて腰が安定しない。足着きは全く問題なしだが、乗車姿勢が不安でしかも最初に満タン法で測った燃費がリッター20kmとかなり悪い。乗る気が失せたまま時間が経ち、バッテリーが上がった。ただし最高出力19ps/7500rpmは悪くなかった。ところがコロナ騒ぎと共に数十年ぶりのバイク・ブームと言われ始めた。これも結論めいたことを言っておくと、ここ静岡県富士市の田舎では、ブームを実感することはまあない。新車の納車が遅れているくらいで、中古をさがせばかなり早くに手許に届く。現に車に乗るだけの人にはどこがブームかと、関心どころか知識すらなかった。私はもはや飛ばして走るなぞという年齢ではないし、その気も起きないので、とにかくある程度低速に力が出せるものに絞って、候補は新車だとホンダCB250R、中古でカワサキZ250SLだった。CB250Rはシート高が異常に高くて、ローダウン可能との情報を得て、候補に残したが、Z250SLは車格がずいぶん小柄で、車重148kgは扱えそうだと推測し、結果価格でも40万を切るこちらに決定、都合三台ほど俗に「引っ張る」ことが容易だとの店長氏の言葉に任せて、ほどなく到着との知らせをもらい、これより数日余りのちに納車。こちらも2cmほどのローダウンで、足着きはまずまず。発進も最高出力29ps/9700rpmで、実際走ってみて、加速性能に満足した。ただ・・・。これは単発の一種の宿命かも知れないが、250cc程度の排気量だと単発・単気筒では低回転でエンストつまりエンジン・ストール( engine stall)が出やすい。これはアクセルを吹かすことと、ストールするたびにクラッチを切ってセルを回すクセをつけることで解決させようと思っている。しかし、交通の流れが悠長な操作を許さない時は、常にエンジンを吹かし気味にして加減する必要がある。多分、2気筒になると、これはまず発生しないと推測するのだが。思いつきで書くので文章にまとまりを欠くが、最後に、乗車姿勢は当初の予想とやや異なり、ほぼネイキッドでありながら、やや前傾だ。なお、オートバイに日常的に乗る人には今更釈迦に説法みたいなものだが、このZ250SLのハンドルはバーハンドルつまり、左右のグリップをつなぐハンドルは、一本棒でつながっているタイプだ。これに対してスポーツ・バイクの主流となる『セパレート・ハンドル』つまりセパハンは、左右のグリップをつないだ一本棒ではなく、左側、クラッチ・レバー側と右側、ブレーキ・レバー側とは、離して取り付けてある。で、このZ250SLだが、バーハンドルながらも、乗車すると上体はやや前傾姿勢となる。そして乗り慣れるにつれて、上体は前傾を強いられると言えるほど、スポーティな姿勢になる。目下のところ、このオートバイの次を予想する気持ちはない。ともかく70代に入ったから、あとの人生はオマケの如きものと己れの星(運命)に感謝し、残りのバイク・ライフを楽しみたい。☆編集後記☆もしかすると私がビギナーの時こんな経験ばかりあったら、かなり神経質になり、ひいてオートバイそのものへの不信感が募ったかも知れないのだが、このカワサキZ250SLはエンジン・ストールが頻発する。低回転で特に信号停止の時や発進時によく止まる。ロー・一速でクラッチを切っていても、ギアをニュートラルにしていても、いずれでもストールが起きる。遠くさかのぼる四十有数年前、初めて乗ったカワサキZ250FTはこのトラブルが皆無だった。これについて、既にレッドバロンの工場の人に「単発はストールしやすいのです」とハッキリ教わったから、わけもわからず不安にかられていることでもない。カワサキZ250FT。小生家庭教師を始めてほぼ二年目の1979年(昭和54年)初夏、弱冠26歳。この年の最高傑作映画はクリストファー・リーヴ氏の『スーパーマン』。もちろんこのバイクで映画館へ行き、映画を充分味わった。ジョン・ウィリアムズ氏のテーマは名曲である。オートバイ自体、乗り慣れかかって来たばかりで、動力性能が気に入っているので、ひたすらアクセルを吹かし気味にすることで、不意のエンストをしのごうとしている。ところがである。バイクがノーマルで集合管というのは知っていたのだが、よく見ていなかったのは私に責めがある。余り好きにはなれないヨシムラの集合管だった。排気音に迫力があるのはいいのだが、とにかく音がでかくてうるさい。もはや排気音を楽しむ年ではないし、現にうるさくて周りの車に対して気が引ける。なお、スズキバンバンもストールがよく出た。ついでに言うと、ホンダのスクーターPCX150も、信号停止から発進の瞬間止まったことがあり、オートマのスクーターでも「バイクよお前もか」と思った。パソコンで検索すると、予想通りエンジン・ストールに困っている人々の話が数多く見られる。レッドバロンの工場の人の話の通り、単気筒はストールしやすいとも。さらにかつて乗ったカワサキZ250FTにストールが皆無だったことを裏付けるように「気筒数が増えるほど、それぞれのシリンダー内の爆発が他を補い合うので、ストール発生はぐんと減るかなくなる」との記述も見た。一番読んで不愉快、というより腹が立ったのは「・・・つーか、エンストってそんなに怖いですか。セル回せばすぐかかるのに。教習所ではエンストせんで済むように練習するので、エンストしにくいバイクを選ぶのは筋違い、そうは思いませんか」との答えがベストアンサーになっていたこの言い回し。いかにも知ったふうなこの輩がネット世界に多い。何様のつもりだ、一度おととい死んで来いと言ってやろう。ばあかめ。ただし。この回答が出る前の質問者の言っていることも、よくわからぬ見当はずれと感ずるものだった。曰く。「教習所のバイクで、125ccと400ccとでは、エンストしにくいのは、どちらでしょうか」暇に飽かせて推理するなら、125ccは小型限定、400ccは普通ということか。なお、その他の回答も似たり寄ったりだった。答えを知りたくてアップしたのだろうから、質問の主旨を問い返すなどしても良いのではないかとも思う。かくいう私はネットで質問する気は毛頭ない。YOU TUBE を聴きながらたまに音楽や歌についてのコメントで、曲を礼賛している知性高そうなコメントを見つけると、ワードに下書きしてから、誤字脱字等確認して、コメントしたかたに、共感する旨伝えるくらいにしている。ついでに。古い歌を古い世代とおぼしき人が「今の歌手には歌える人はいなかろう」との意味のコメントを寄せると、多分若い世代だろう、「あなたがご存じないだけで、今の歌手にも見事な人はいますよ」と反論していた。私はいっぺんに不愉快になり、以後この東映時代劇「紅孔雀」の主題歌は聴かない。己れの考えを否定されたと思うやいなや、若造は旧世代に牙をむくから、You Tubeの世界もイヤな気分に見舞われることも少なからず。名曲に浸っているのに、コメント同士ケンカするとは何事か ! ? バカどもがここにもいる。私もインターネットで知り合いになった人と、既に数名義絶しているので、偉そうなことは言えないが、ある期間、交流が続くと、どうしてもある種、不可抗力的な感情・思惑に行き違い、食い違いが生じ、本来なら必ずすべきでない相手の人の知性や知力を見下すコメントを送ってしまうことがある。私如き浅学非才の愚か者にそんな資格はないのだが、ここで誠に勝手千万ながら、「この人の知識不足を見過ごして今後も付き合えるか ? 」との自問が起こり、これに最も非常識な自答を以てコメントしてしまう結果、義絶となる。それで私はこのコメントというのを、交流の意志や継続の見込みのまずない人に絞って、レスポンスを書き込むことにしている。無論この場合、既にコメントを記した人にすこぶる共感出来ている場合に限る。そして、出来るだけコメントした人に共感する内容で返信文を書く。こうして恐らくお互いに好感を持ち続けられる内容にホッとするのだ。最も近いところでは、土居裕子さんの美声が見事な『ローレライ』に対するある人のコメントに共感し、文語文の歌詞にも親しみを感ずるとの考えに大いに賛同して、返信文を寄せた。果たして『畢竟(ひっきょう)』などというむつかしい言葉を的確に使うこのかたから、さらなる共感のコメントをいただいた。私はこの姿勢を続けようと思う。さらに最近、「70歳のライダー」とのタイトルでこれも精力的にブログ更新を続けている、既に70代に達してなお、マニュアル・バイクを乗りこなすかたにコメントしたところ、このかたもかなりインテリジェンスの豊かなかたで、しかもすこぶる低姿勢な、品位あるレスポンスをいただいた。それにしても上には上がある事実にも驚き、このかたに敬意を持っている。なお、Z250SLのストール対策は一応考えてはいるが、芳しからざる時は、思い切って、それこそ老骨に鞭打つ思いで、2気筒オートバイに再チャレンジしてみようかとも漠然と思っているきょうこの頃である。
2023.04.20
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ダビング・ラッシュ 2023/04/11開始時々、レコーダーのハード・ディスクの残量を回復させるために、既に録画した作品などをダビングしていますが、その時、ディスクの整理に、やや豪華なケースに収納する場合と、簡易的なケースに収納するディスクの峻別をします。多くは簡易なケースを使いますが、たまにややカッコいいケースに入れてみます。2つのケースの「スーパーマン」DVDは、右が市販品、左が自作品です。掲載していませんが、自作のジャケットは、裏にも解説文をつけたものをさしはさんであります。簡易なケースとの相違点は、ケースをDVDジャケットのようにカラー印刷した写真などで飾ることです。このジャケット作りはちょっとした趣味分野にもなっています。市販品なども参考にしますが、市販品にやや不満がある時は特にこの作業を行ないます。これは自分用に作った往年の東映時代劇「家光と彦左と一心太助」のジャケットこの自作DVDジャケット、もちろん違法なことはしていませんが、用途は自分のものとして保存するためと、人様にプレゼントするものとに分かれます。偉そうなことを少し書きますと、もはや70という年齢になると、いえ、もっと若い年齢の時から、私の商品購入の目的は、己れの使用目的のもののほかに、誰かほかの人に差し上げるものが少なからずありました。アマチュア特撮機関誌も例外ではなく、今でも機関誌如きに発行代金を設定するなぞは受け取る人に無礼だとの持論なのです。言わば拙い同人誌を読んでもらうと解釈し、当然無償配布していました。一回に十部発行するとして、宅配などでの発送完了までに自弁負担額は数万円かかっています。特に私のように、所帯を持たない独身者は、スイーツなどでも、自分が味わってもそれこそ味気ないと思うので、甘いもの好きな婦人のためにおごって差し上げるのが、喜びでもあります。ここには損得勘定は一切ありません。家計に余裕がなければ能わぬことでもありますが、たいした金額のものを買うのではないので、差し上げた人がある程度喜んでくれるのを楽しみとしています。もう一つの趣味(あるいは病気)のアダルト作品も、時々ジャケットを作ります。画像の女優さんは鈴木さとみさん。
2023.04.11
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2022年度浜松医大合格者上位高校掲載画像については何も私の手柄なぞではない。依然、進学校として名を馳せている沼津東高の現役生徒の皆さんの見事な実績に相違ない(難関克服の快挙ゆえ、浪人生のかたがいても、まだまだ若いに相違なく、現役と書かせていただきました)。ただ、私自身、かなうべくもないながら、沼東合格の高一からいずれ目指すなら国公立大の理科系と決めていた。三つ上の兄は既に浪人生活に入っていた。言うまでもなく兄弟共に沼津東高である。これは弟には幸いであった。学習の価値観がほぼ一致する。なお学習塾ユーチューブの経営者さんなどが、国公立大をほめて下さっていたのがあり、たいした度量の人だと思った。だが、「下位の大学を見下すなかれ」とこれまた見事な考えであるが、正直私は、私立文系を見下している。この価値観だけはウソはつけない。私はブログで「恨みぞ深き沼津東高」とのタイトルで、かつての空威張りばかりする上級生たちを呪う如き文章を書いたし、これは今でも後悔していない。沼東に良き思い出がないのは対人関係にあったし、同窓会にも全く出たことがないし、同期の人にも存在を忘れられていよう。無論かまわない。人との和なんぞどうでも良い。ただ、学習、受験に関してだけは、沼東にふさわしからぬことはしていない。兄も同様。兄は国立大医学部の初志こそ実現出来なかったが、最後の合格成績は、医学部以外は見事なものだった。後年白血病にかかり、受験勉強に明け暮れた青春の日々を悔やむことも言ったが、漫然と高校を卒業しただけの者どもよりも何倍も価値ある人生を送った。毎年の沼東の生徒の皆さんのご活躍を陰ながらお祝いし、喜びのおすそ分けを勝手ながらいただいているものである。
2023.04.10
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『オートバイ』誌、堂々創刊百年 ! !私は本誌を長く購読し続けているわけではないから、良き読者とは言えないかも知れないが、初めてのオートバイ、カワサキZ250FTは、あるいは本誌を買ってカタログページでさがしたのかも知れない。さらにもはやカビてしまっていると思うが、段ボール箱いっぱいに1979~1980年代の『オートバイ』誌をとってある。ヤマハとスズキが祝意を込めて誌面を飾っている。四大メーカーのバイクに、とりあえずすべて乗った者として、このページはいささかの感動を以て眺めた。特にスズキは、製品掲載への謝意をていねいにつづって、好感が増す。
2023.04.08
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好きこそものの上手なれとは行かなかった特撮造型 その二 2023/04/03開始機関誌筆力旺盛の頃(平成初年1990年代)77号。イラストによる表紙の最後。1990年80号。特撮ジオラマによる表紙開始。洋画「地球最後の日」のロケットを造型。81号。東宝昭和36年(1961)「モスラ」。モスラ模型はすべて自作。東京タワーはズバリ東京港区芝公園の東京タワー売店に電話注文して送っていただいたプラモデルを展望台付近でポッキリ折って造型。もう一つ購入して、これはほぼ完成形で現存。82号。余りにも有名な東宝昭和31年(1956)「空の大怪獣ラドン」。小誌造型中、最も熱が入りかつ、作業に困難を極めた記念すべき表紙造型(1991年)。なお、本誌記事には、地元の静岡県立吉原高校の文芸部女子にお願いして、読み切り小説を書いていただいた懐かしい想い出の記事も。当時吉原高校は女子高。本高校は今も優秀な生徒さんたちがいる。カメラアングルの都合上、この写真を表紙に使用。東宝映画「空の大怪獣ラドン」の実景に忠実に再現されたミニチュア・セットでの撮影スナップ。下の画像も同じく。当時の福岡県岩田屋デパートのミニチュア造型中の写真。窓枠はカッターで切り抜き、総数200枚を超えた。岩田屋デパートに繋がっていた西鉄ターミナルの造型開始風景。西鉄電車はブルートレインのプラモデルを使用。下の画像も同じく。83号。これまた世界的に有名な1933年(昭和8年)「キング・コング」を造型。作業疲れもあり、手抜きを考えねば本誌がまとめられぬとの焦りも出て来た。趣味を欲張るとそのツケは己れにということもすべて納得。84号。合成技術に長けた洋画の威力を思い知らされた一作「タランチュラの襲撃」(1955)。85号。邦画怪獣映画史上で最大の観客動員数を記録した東宝昭和37年(1962)「キングコング対ゴジラ」の造型。86号。「原子怪獣現わる」(1953)。87号。1992(平成4)。東宝昭和34年「宇宙大戦争」の月面のスピップ号。88号。東宝昭和29年(1954)「ゴジラ」より、大戸島山頂のゴジラ。
2023.04.04
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古希(70才)ライダー、オートバイ納車 2023/04/03開始シート高は偶然ローダウン可能だったので、施してもらい、785mmだったのが2cmほど下がりまずまずの足着きの良さとなる。シート高に神経質過ぎる私が言うので、これは信頼性ありと思う。ちなみに、70才の今、身長は167cm、靴をはいて169cmである。私が購入の目安にしているシート高は例えばスズキのバンバン200ccが770mmで、これも問題なし。今回のローダウンでシート高は765mmになったわけだ。さらに書くと、買い物などによく乗るスクーター、ホンダPCX150(画像二枚目奥の白いスクーター)のシート高が760mmだが、シート幅がややあり、両足は無理のないつま先立ち。Z250SLはシート周りがスリムなので、感覚としてはバンバン200ccとほぼ同じで、両足はこれも無理のない足着きで、かかとはやや浮く。
2023.04.03
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乃木坂5期生が東京芸大合格 ! !池田瑛紗(さん)2浪の末「学生の頃から恋焦がれ、何度も挑戦し続けた場所」グループとの両立誓う乃木坂46の5期生、池田瑛紗(いけだ・てれさ)が26日、ブログを更新。4月から東京藝術大学に進学することを報告した。 学生時代から東京芸大への進学を憧れていたという池田。乃木坂46の5期生オーディションに応募したのも浪人中のことだったという。そしてオーディションに合格した際は、進学を断念することも考えたことを明かし「この1年で私の周りがどれだけ素晴らしい方たちで溢れているか知ることが出来ました」「ここまで優しい応援を受けることができるなんて考えてもいませんでした。本当に皆さんありがとうございました。これからは沢山恩返しさせてください」と、友人やスタッフらへの感謝を記した。 そして「私は皆さんのことが大好きだし、乃木坂46のことが何よりも大切なんです。それを知って欲しくてこの1年間自分なりに頑張ってきました。その事が伝わっていたら嬉しいし、私の覚悟をこれからの私の姿からわかって欲しいです。今後は乃木坂46の活動と大学の生活を両立出来るよう頑張りたいと思っています。まだまだ皆さんと一緒に上を目指していきたいです。私が選んだ人生の選択が乃木坂46の可能性を広げることに繋がると信じて、前へ進んで行きたいと思います」と、ファンへ向けて意気込みを記した。(ネット記事を抜粋) ☆編集後記☆いい年して数年前に『乃木坂工事中』を見て気に入り、ほぼ毎週録画して見ていました(ローカルの静岡県富士市は深夜放送)。きっかけは美の象徴と言うべき白石麻衣さんをチラと見たことでした。 当時のキャプテンは秋元真夏さんでしたが(2019年秋)、深夜放送の『乃木坂工事中』は、メンバーのかたがたの怪奇体験談が企画されて、これは趣味でもあるので楽しく拝見しました。60代後半のじじいがこれほどまでアイドルグループの活躍を楽しんだのは多分最初で最後です。 昭和27年、1952年生まれとしてはやや変わり者なのか、ある種、愛国心の持ち主で、日本と帝国陸海軍を愛でていたので、グループ名にもなじめました。もちろん、私の場合は日露戦争で大変な思いをして旅順陥落せしめた乃木将軍のイメージが大きいものであります。「水師営の会見」も知っています。 さてところがある時を以て『乃木坂工事中』は放送しなくなりました。ローカルの欠点と思います。東京キー局はテレビ東京で放送しているとのこと、さらに今ではYou Tubeでも見られるらしいのですが、地上波が気軽に録画出来たので、これは残念ながら視聴していません。 そして今回、ネットのニュースで池田さんの大快挙を知って、物凄く驚きました次第です。やや私事っぽいことながら、私には親戚に東京芸大に学んでのち、デザイナーになった少し年上の気さくなお兄さんがいて、なおのこと、藝大には特別な感覚があります。 そのお兄さんは、子供の頃、お手本となる漫画を見ずに、「おそ松くん」などの似顔絵を描く才能があって、当時から驚いていましたが、このお宅の御主人は、プロの画家の先生でした。母方の親類は優秀な人がいたわけです。藝大は学力だけでは入れない国立大最高峰です。 池田瑛紗(いけだ・てれさ)さん、おめでとうございます。前途のご多幸をお祈りしています。
2023.03.27
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『かほの登山日記』の才色兼備の「かほ」さん、いよいよ本を出版 ! ! 2023/03/21開始待ちわびていました。およそ一年前、放送中に実現せよと祈るつもりで拝見したかほさんのライブ。配信中は天は意地が悪いのかと思う程、19万人台の後半に停滞し、その後ほどなく登録者数は軽々20万人に達し、突破し、今や二十数万人に楽々達する活躍ぶり。ただ、私は高山病が懸念されるキリマンジャロだけは、彼女のつらそうな姿を見るに忍びなく、未だに「吐き気と頭痛・・・」とのタイトルに怖気も出て、拝見していない。いっぽうで、三浦雄一郎さんのような鉄人、超人スキーヤー、登山家がいるが、それでも高山病はそれぞれの登山行動の中でまず必ず経験する症状かも知れない。今、かほさんの元気な姿を拝見できる新しい番組がアップされているので、ホッとしている。さて、タイトル通り、話を戻します。かほさんがこの2023年春に遂に本を出版するとの動画が上がり、「遂に待望の」と喜びました。単行本サイズのソフトカバーで、かほさんご自身の説明によると、ページをめくる時の読み手のことを考えて、写真ページなどを重視したとのこと、しかもカラー写真を漫画のように吹き出しとネームを入れて構成するという工夫まであり、まことに知性あふれるレディです。それから蛇足ながら、かほさんの食事風景、つまりものを食べる風景、これがまた見とれるほどきれいです。撮影を充分考えているとは思うものの、彼女自身も大切な栄養補給の一つ。それでも、実にきれいに食べていらっしゃいます。それから、私はあやうく見逃すところだったのですが、かほさんは、果たして温泉などの入浴シーンを放映しているのかと、やや疑問でしたが、穂高の西穂丸山に登った時の、下山後の入浴風景は、失礼ながら目の保養になりました。スタイルがかなり良さそうだと、失礼しました。別番組で恐れ入りますが、元AKB48の平嶋夏海さんが主宰する番組では、彼女自身好きだというサウナ場面が盛りだくさんで、これはどしどし放映すべしと思います。ではご本の発売を心待ちにしつつ、擱筆(かくひつ)致します。失礼致しました。せっかく撮った画像なので、一部掲載しました。出版の紹介が無論本来の目的です。
2023.03.22
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斐太高校吹奏楽部コンサート開催当日 ! ! 2023/03/19開始遂に斐太高校の吹奏楽部コンサート開催 !記念、祝意を込めて「白線流し」楽譜・歌詞を掲載致します。楽譜チョト汚れてしまい、ごめんなさい。
2023.03.19
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東宝特撮大プール、『ゴジラと共に去りぬ』2023/03/17開始東宝ゴジラシリーズ第28作(2004年)「ゴジラ FINAL WARS」の海上シーンで東宝大プールの歴史にも幕を降ろすこととなった(「週刊新潮」2004年9月23日号グラビア記事)。週刊新潮グラビアより、右側ページ。同じく左側ページ。同じく週刊新潮グラビアより、昭和35年(1960)「太平洋の嵐」撮影風景を主として掲載したもの。左上は昭和56年(1981)「連合艦隊」の撮影風景。同じくグラビアより。
2023.03.17
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斐太高校吹奏楽部のコンサート 2023/03/15開始本2023年3月19日開催 ! !卒業に伴う恒例行事としてかなり早くから定着して、今や多くに知れ渡るところとなった、岐阜県立斐太高校の「白線流し」。ドラム教室。一番手前が生徒用で先生のは更に奥だが、カメラが広角寄りのためか、先生のドラムセットは、小さ過ぎます。なお右の壁に斐太高校のコンサート広告が掲示されています。平成初年に放映されたフジテレビ系列のドラマはこの斐太高校をモデルに、当時の若者たちの人間模様を描いた秀作だった。主題歌は私も「優しいあの子」・「ロビンソン」など少しだけ知っているスピッツの面々だが、私はつい最近You Tubeで聴いた木村美保さんがかつて歌った同名の歌の旋律と歌詞が印象に残っている。次から次へとある程度気に入る曲は歌詞を書き取り、何回でも聴いて覚えるようにはしているが、この「白線流し」は、テレビドラマとは関係のない独自の歌というらしく、これだけ単体のようにひっそり聴き継がれる名曲として、ぜひさらに印象に残そうと、楽譜まで書いた。
2023.03.15
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「苦痛と興味の境目にて・・戦艦三笠造型』その前に 2023/02/20開始『好きこそものの上手なれ』という言葉があるが、これに当てはまらない下手(へた)もいる。もちろん私のことだが、それでも打ち込む気力のある趣味ともなれば、時には下手(へた)を承知で実行せねばならぬこともある。実に小学三年生の時にその名も『大一映』という何んとも古めかしい命名と共に創立した文字通りのアマチュア・ワンマンプロダクションが、事の発端となるとは、わずか小3の子供には想像さえつかないことだった。私のような『特撮趣味』人間には、想像もしない壁が立ちふさがっていた。世にプラモデル趣味の人も写真趣味の人も数多くいるが、この両方をそれもある程度の趣味の深さを以て臨んでいる者となると、いきなり激減する。プラモデル趣味の人の造型に関する厳しさは半端ではない。プラモデル趣味の人を場合により『モデラ―』とも言うらしいが、この人々にまあ共通していることは、造型の完成度のそれぞれに関して厳しいこと。特に制作に不可欠の接着から既に厳しい。ハッキリ書くが、私の経験上、接着作業からして、余り丁寧なやり方をしない。模型は完成品がそれらしく見えれば充分と心得ている。今「完成品」と書いたが私の趣味の場合、例えばプラモデルの接着はチューブをそのまま接着部分にいきなりつけて、接着剤を押し出す。塗り過ぎはいつものこと。余った接着剤が糸を引いて、模型の一部となることもしょっちゅう。さらに着色となると、・・・これは多分本格のモデラ―の人には噴飯ものだろうが、私は例えば戦艦大和のプラモでは、艦体側面などは初めから軍艦色に見えると判断して、改めてプラカラーなどを使うことをしない。それから下手なくせにマスキングテープをはるということもしない。一度は試したものの、テープの線で塗料を見事に制御なぞしてくれなかったので、以後ふるえる手で絵筆を使って塗るというありさまだ。早朝から自作特撮プールに水道のホースで注水し、昼過ぎにようやく満水に達して、被写体配置開始。タミヤの1/350戦艦大和は、恐ろしいほどの浮力で浮き過ぎており、窮余の一策として一旦大和を水面下に沈めて文字通り水浸しにして、水面下に台を置いて、大和の喫水線を調節した。平成初年の一コマで、この時は生活が規則正しい父がたっぷり手伝ってくれた。失って親のありがたみを知る一つでもある。上掲画像にある通り、船舶模型は、かなり細部の手抜きがある。ただし、趣味がある意味『特撮画面』の再現なので、模型のみではなく、被写体として写るものすべてを総括して鑑賞することが目的であり、そのために造型手段を考えることがかなりある。ここで思い切って憎まれ口を少し。模型趣味の人の中にはジオラマという情景制作をも実行する猛者(もさ)がいるが、私にとってジオラマとは、よく見られる鉄道模型の世界を主に指すと思える。どうやら私が常に完成品としているのは、主役となる模型をほぼ一番前に置き、もしもそれが軍艦ならば、海面それも疑似海面が不可欠となり、さらに本物の水を小型のプールに満たした疑似海面を用意する必要があり、海面なればたいていは青い塗料で着色して、海面らしさを出す。多分、この時点で既にいわゆるジオラマ趣味の人とはかなりか全く異なる作品世界を目指すこととなる。軍艦模型の続きを書くと、例えば戦艦大和の模型をプール水面に配置する。だが喫水線下まで全部そろったフルハル・モデルという、喫水線より上がグレーで喫水線下がレッドという模型は、すぐには使えない。模型であればまずかなりの浮力で水面に浮いてしまい、多分バランスが悪ければそのまま転覆するかも知れない。私が目指すのは、戦艦大和が洋上に浮かび、はるか奥には水平線が見え、その向こうには広い空が見えるという構図であり、さらに言うなら、完成品とは、完成画面であり、カメラなどによる撮影作業が必要で、制作して完成品を飾って鑑賞するというものではない。艦船を出来るだけリアルに見せるためには、撮影する時に、視点を多くは低い位置に決めて撮影する、いわゆるロー・アングルでとらえることが基本となる。余談だが、高所から見下ろすことを俯瞰(ふかん)と言うのに対して、低所から見上げることを表わす言葉を寡聞にして存ぜぬ。本当にこの言葉がないのだとしたら、こんなところにも言語・言葉の限界を覚えるものだ。(註/後日、国語辞書で「仰視」という言葉を知りました。「仰ぎ見る」の意です。今更ながら「少年老いやすく学成り難し」を痛感しました。)大一プロブック第91号表紙。1993年(平成5)完成発行。この頃模型造型とは別の、本誌記事執筆に余裕が出て来たので、ほんの一時期、季刊ペースで発行しました。アイドルとしては、田村英里子(たむら・えりこ)さんに夢中で、ファンクラブにも入っていたほど。いわゆる超有名なアイドル歌手たちには興味ありませんでした。田村英里子さんが主演してキラリ輝いていたNHKドラマ「私が愛したウルトラセブン」。田村英里子さんは、今や伝説とも言える『アンヌ』こと友里アンヌ隊員役の菱見ゆり子さんを演じました。なお菱見さんは元・菱見百合子さんとおっしゃっていて、さらに今は「ひし美ゆり子」さんと改名しているようです。このひし美ゆり子さんもかなり美形の女優さんでスタイルも見事で、東宝映画「ゴジラ対ガイガン」では、整形ではなく変身したのかと思うほどでした。東宝特撮映画の特撮シーンを評論家が語る時、必ずと言えるほど見かけるのが、「視点を低くしてとらえた画面の大なる効果」といった意味の礼賛の言葉だった。さて閑話休題。偉そうなことをつづったばかりであるが、そろそろ私のつたない特撮画像のことに話を移したいと思う。本ブログでもほんの数回取り扱った機関誌「大一プロブック」というものがあったが、原稿執筆者わずかに私独り。昔創ったアマチュア・プロダクションがワンマンなら、機関誌もほかのだれに頼む方法もなく、逆に誌面を複数の者たちの好き勝手にされるよりはと、孤独な作業を受け入れた。そして、この機関誌表紙を、ある時から特撮画面で飾ろうと決めた。これは大変な作業ではあったが、下手の横好きが、いわゆる虚仮の一念・・とまではいかなかったものの、それなりに完成した造型により、画面が特撮シーンにまずまず似たものに仕上がった。話が前後してしまったが、機関誌表紙造型のためだけで、ややつらい作業を自らに課すこととなったのだ。今回「戦艦三笠造型」と銘打ったが、前後の造型作品も掲載してみようと思う。とりあえず機関誌「大一プロブック」表紙変遷などを掲載してみる。昭和57年(1982)発行の復刊誌。ところが休刊が複数回あり、正しい号数を数え間違っていた。記事を全ページ書いたのはほぼ新書判サイズ、強いて言うならB5の半分のB6サイズで作っていた頃の小規模の本誌第67号が休刊号だった。さらに。さらに表紙だけで書きかけたままのものを含めると、68号まで作っていた。ただし、B5サイズの本格的本誌は、第65号を復刊第一号と銘打ったままにした。66号67号。デッサンが全く狂った大失敗の表紙画。イラストに限界を覚え始めた30代ごろ。1985年発行の68号。前号の大失敗が屈辱的だったのか、「キングコング対ゴジラ」のラスト近くの熱海城を巻き込む決闘シーンを描き、しかもキングコングはフレームから外している。69号。当時の交流相手の人の力作「大魔神復活」を記念したイラストだが、写真に顔を似せる技術の限界を意識し始めている。なお、「大魔神復活」は、今の世に公表しても、恐らく衝撃を与える大力作である。70号。元々『正義の味方』と呼ばれた少年向け活劇が大好きなので、見て気に入ったドラマはほぼすべてイラスト化した。しかしここでも似顔絵のテクニックに限界を認めざるを得なかった。私は中学時代、2Bによる画鉛筆デッサンで常に「5」の最高評価を得ていたのだが、ともかく画力の低下は著しかった。71号。恐らくスケッチの技術を回復したいとの念も強かったか、失敗したゴジラを含む複数の怪獣などを集めているが、衰えは己れが確かに知っていた。また、下手ながらも模型造型を表紙に取り入れたい思いが募りつつあった。72号。73号。自らドラマチックに傾くのも気味が悪いが、大特撮監督、特技監督・円谷英二氏を描いたのも、何やら因縁めいたものを覚える。このあともしばらくはイラストで表紙を作ったが、何より絵を描く楽しみを失いつつあり、半ば執念のように描いた覚えがある。予定を大幅に超えたので、ここで一旦閉じて後日続きを掲載の予定とする。―つづく―
2023.03.12
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本日は『陸軍記念日』なり。 2023/03/10開始私がブログに掲載済みの「関東軍の死闘」本文構成に大いなる助けとなった一書「帝国陸軍の最後」があるが、これの著者・伊藤正徳氏はこう書いている。「小学校の校長でも大学総長でも、およそ校長として牛島ほど似合う人はいないというほどの人柄であった。薩摩の産、自ら小西郷を以て任じたかどうかは知らないが、いかにもそれらしい風格があり、叱(しっ)せず、迫らず、悠然と構えたその自然の姿に対し、生意気の将校は不足を感じたが、大多数は尊敬の念を生じてその下(もと)で働くことを光栄に感じた」(『帝国陸軍の最後・特攻編』)。私の父、故・村松博(旧姓名・佐野博。陸軍士官学校第五十八期)も、生前の元気な頃、「牛島閣下は、晩年に近い一時期、陸士の校長をしていてな、実に人格高潔な雰囲気があった」と語っていた。またさらに父は、こうも言っていた。「陸軍、分けても陸士はリベラルな校風で、実に過ごしやすかった」。私は海軍ばかりが高く評価されるのに疑問を持っていたし、例えば「総員起こし」の号令のあと、即座に起床してきちんと畳んだ生徒の夜具を上級生がわざと崩して、やり直しを命ずるいわゆる「江田島地震」の有名シーンに、不愉快でシラケる思いを禁じ得なかったことを思い出した。牛島閣下は、沖縄防衛戦の総帥として、第32軍司令官となり、昭和20年6月、割腹自決を遂げられた。牛島満陸軍中将(戦死後、大将)牛島満閣下・辞世矢弾(やだま)尽き 天地(あめつち)染めて散るとても魂(たま)還り 魂還りつつ 皇国護らん
2023.03.10
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いよいよ最後のオートバイか ! ? カワサキZ250SL 2023/03/04開始一年ほど前、スズキ、グラストラッカーを最後のオートバイとしてブログ掲載したが、ある時期までのオートバイは、なぜかメーター類が不満で、特に燃料計のないのが不安だった。グラストラッカーも例にもれずで、さらにこの仕様のオートバイとしてはリッター約20kmと燃費が著しく悪い。積極的に乗ろうという気になれずにいたら、初夏の頃、バッテリーが上がって、これで全く乗る気が失せた。この頃、コロナなども原因となるバイクブームとなり、私の住まう静岡県富士市の田舎でも、特に新車バイクは納車までかなり待たされることとなっていた。私もホンダCB250Rに興味があったが、価格が50万円を超えて決心つきかねていた。「そろそろ最後のバイクとして、一台決めたい」と、中古車で台数がまずまずあるものをさがしていたところ、カワサキの250ccバイク、Z250SLに決まった。排ガス規制の都合でごく短期間に生産終了となった単気筒バイクだが、車重はややあるものの、車格が小柄でこれなら何とかなろうかと決心出来た。
2023.03.04
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皇紀2683年 2月23日 2023/02/22開始奉祝 ! ! 天長節陛下の前途のご多幸、ご長命をお祈り申し上げます。
2023.02.23
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自作カレンダーと久しぶりの似顔絵 2023/02/19開始著作権は無視しているので、良くないかもしれませんが、いい画像素材は自力での例えば作品画面の撮影などではむつかしいこともあります。必ず私用に徹してほかには一切使いません。さて、画像掲載した女優さんを向かって左からつづります。伊織羽音(うた)さん・根尾あかりさん・川北メイサさん・市来(いちき)まひろさん・櫻井菜々子さん・白木優子さん。次はアニメの似顔絵ですが、ズバリ色を塗るのに失敗しています。力が入ったのはデッサンのみ。上掲のラピュタだけは、背景をきれいにしたくて、ソフトに頼って背景色を合成しました。
2023.02.19
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今年の手作りカレンダーあこがれている女優さんのカレンダーを自作しています。2023/02/11開始昨年はゴジラジオラマのカレンダーと、ゴールデンレトリバーを中心としたカレンダーと、そして先生に差し上げるドラムカレンダーと、実に三つ作りました。使ったカレンダーは記念にとっておこうと思ったはずが、さがしても見つからず、改めて作り方をやや変えつつ、ほぼ同様のスタートとなりました。一年経つとノウハウを忘れかかる情けなさも覚えつつ、何んとか手順を思い出しました。今年見たAV作品で一番心ひかれたのは『川北メイサ』さん。言うも今更、本当に美しい女優さんなのですが、一目で「これは保存しよう ! 」と決めることはそう幾度もありません。ズバリ素敵な姿と、もう一つ、これが最重要と思いますが、出演作品を盛り上げる演技力が見事に備わった女(ひと)が一発保存を決めさせてくれます。川北メイサさんは、画像に見るすまし顔もきれいですが、作品中でややいたずらっぽく笑った表情が見事です。この表情はそう簡単には再現出来ないと察します。セリフは台本通りなのかわかりませんが、同じようなシリーズでも、女優さんにより、セリフが異なるので、私は川北メイサさんの表現力の巧みさと解釈しています。カレンダーは作り始めたばかりなので、急ぎ完成させたいと思います。手製カレンダーは二ヶ月ぶんをいっぺんに作るので、女優さんは全部で六人。川北メイサさんのような20代の美しい女優さんもいますが、いわゆる熟女さんもいらっしゃいます。完成したらまた掲載します。
2023.02.11
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奉祝・紀元節皇紀2683年2月11日
2023.02.11
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「水戸黄門・実説」その二 2023/01/06 開始下書き書き始めは実に2019年6月1日で、およそ三年半経っている。察するところ、当時のブログ作成意欲が今よりずっと優っていたのだろう。そして昔から大好きな「水戸黄門」の物語の真相を明文化したいとの一念も、かなり残っていたのだろう。下書きは頓挫して数年が過ぎた。筆力は体力の衰えと共にかなりひどくなった。それでも本企画は曲がりなりにも完成させたいとの念もあり、ともかく駄文羅列を恐れることなく、このまま書き続けたいと思う。徳川綱吉は、頭角をあらわしていた老中・堀田正俊(ほった・まさとし。のち大老)の働きによって、徳川第五代将軍となるが、その堀田を陰で支援した水戸徳川家第二代藩主・徳川光圀の功労も多大なものがあった。この立役者、堀田正俊が綱吉擁立に尽力する事実の前には、強大な権力を既に持っていた大老・酒井忠清(さかい・ただきよ)の存在がある。酒井忠清は「宮将軍を立てる」ことを主張していた。これに真っ向から挑み対立したのが当時の老中・堀田正俊である。「宮将軍」とは、少なくも鎌倉幕府にさかのぼる経緯があり、ひとことには語れないが、これは別名「皇族将軍」とも呼ばれるもので、極めて乱暴に定義すると、幕府に然るべき世継ぎ無き時に、朝廷から将軍を迎える案に基づくものであろうか。徳川第三代将軍・徳川家光(とくがわ・いえみつ)の子、家綱(いえつな。長男)が、第四代将軍となったが、延宝八年(1680)嫡子を残さぬまま病に倒れた。本来なら家綱の弟・綱重(つなしげ)が継ぐべきところ、綱重は死亡、その子、綱豊(つなとよ)は弱輩ゆえ、前記の通り、綱吉が五代将軍となった。そしてさらにそのあとには綱重の子、綱豊をと、光圀は考えていた。このことで連想される東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」(昭和34年、1959)は、これを美談仕立てにしたと察しられる。映画では、劇中エピソードの形で、まず水戸徳川家第三代藩主成立の話と、それゆえの光圀の実子・頼常(よりつね)の乱心騒ぎが語られるが、これは作り話である。さらに光圀の子・頼常について光圀の遺憾の念もあり、兄・頼重(よりしげ)の養子としたことも事実だが、遠方に追いやったが如き高松藩主・頼常を案じて、当地へ赴いて活躍というのは、全くあり得ぬ創作も創作。現に、頼常は高松藩の財政を立て直す功績を残したと記録がある。もう少し書いてみる。徳川光圀の藩主相続については、特別の逸話はない。ドラマチックな経緯もない。東映「水戸黄門 天下の副将軍」(昭和34年、1959)で語られる長兄・頼重(よりしげ)が妾腹の子ゆえ、光圀が藩主に推されたというのは、恐らく作り話だ。そもそも兄・頼重は光圀と同じく父・頼房(よりふさ)の侍女の子であり、兄弟とも同母だ。ただ、のちに長男・頼重をさしおいて、二代藩主となったことを想い、己れの子・頼常が兄・頼重の養子となったことは事実だ。だがこれにしても、強い意思によるものでなく、頼常13歳のとき、光圀に対面したが、光圀は親しみの様子を見せなかったという。ともかく事実は、兄・頼重の次男・綱條(つなえだ)が光圀の養子―養嫡子―となり、水戸藩三代目藩主となった。東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」は、これを美談仕立てに脚色したと察しられる。映画冒頭近く、光圀と将軍綱吉との会話があるが、これに至っては笑止。三代将軍家光の長男で第四代将軍となった家綱は実子が死産で、世継ぎがなかった。映画では家綱の弟・綱重(家光の三男)病弱のゆえを以て家光四男・綱吉が第五代将軍となったと語られ、これはおおむね史実だが、綱重、綱吉兄弟共に、互いを思いやって云々という筋立てにははてなとの念をぬぐえない。何より、綱吉を第五代に推挙したのが、堀田正俊案を支持した光圀だという史実がある。この頃、光圀は綱吉の良き相談相手でもあった。ただ、綱吉は、戦国時代の風(ふう)を残した武断政治を嫌い、学問をよくし、教養を身につけるを良しとする文治政治に切り替えんとしていた。この点、若い頃は無茶もやったという光圀は、根本に武断派の武士らしさを持っていた。そしてその光圀も、武断派にみられる蛮風を一掃せんとする綱吉の良き相談相手たり得るにふさわしい水戸藩主として、貫禄や気品も併せ備えるようになっていた。この「若い頃は振舞い横暴なる」というのは、ある年配から上の、それなりの身分も備われる立場になってからの人となりを描くのに、或る意味、人間的魅力を感じさせる性格的な武器として効果をもたらすと言えよう。先年亡くなった歌舞伎俳優の中村吉右衛門氏の当たり役ともなった「鬼平犯科帳」の火付盗賊改方長官・鬼平こと長谷川平蔵また然り。弱年より穏和な気風にして文武に長けたるという武士も少なからず存在したかも知れないが、娯楽時代劇ドラマのキャラクターとしては、余り魅力的には映らない。気は優しくて力持ち。強面(こわもて)だが普段はのんびりした態度を見せる正義の味方タイプが好まれるのだろう。鬼平も若い頃は、本所の銕(てつ)との異名でも知られていたという。そして光圀もまた、若い頃は『傾奇者(かぶきもの)』として品行方正とは正反対の傍若無人の素行が目立ったという。傾奇者とはすなわち歌舞伎者であり、異様な風体をして町を歩く不良者たちとの意。乱暴・狼藉(ろうぜき)を働き、普通に歩いている人を斬ることもあり、食については、犬を殺し、鍋にしてさえ食らうを日常としていた。綱吉は既に儒学、就中(なかんずく)朱子学をよくし、幕臣に講義するほどであった。かかる教義のもと、綱吉は武断的な戦国の風潮を一掃したく、文治政治を推進せんとしていた。この綱吉が殊に嫌うのが傾奇者であり、彼らが日常的に犬を食する習慣を蛮風として、この輩の跋扈(ばっこ)を苦々しく思っていた。時系列が前後するかも知れないが、ともかく話を前に進めるために、書いてみる。将軍・綱吉誕生に功労大なるものがあった堀田正俊だったが、まあ、この堀田は真っすぐ過ぎて、例え将軍であっても、信念と意図する見解を曲げることのない、融通のきかないところがあった。幕府の体制を、学問・法令を基準にした文治政治を軸に切り替えようと真剣に取り組む綱吉にとって、ズバリ意見する直情径行の堀田は、次第に疎ましい存在となりつつあった。この点は光圀に対しても同様の苦々しさを感じていた。「余の邪魔をしおる・・・」と綱吉は己れの考えに反発する者どもに諫言(かんげん)されるのを不快に思うようになった。ここに一大事が発生した。貞享(じょうきょう)元年、1684年に、綱吉擁立に功のあった大老・堀田正俊(ほった・まさとし)が、若年寄・稲葉正休(いなば・まさやす)に斬殺されるという大事件が起こった。稲葉にいかなる意趣があったかは、明確ではない。何しろ、堀田を刺した稲葉は、かけつけた老中数人にめった斬りにされて、その場で絶命している。堀田暗殺の原因は、稲葉もすぐに殺されたこともあり、迷宮入りとなっている。無論諸説あるが、いずれも憶測にとどまる。ここでは噂を述べてみる。京都、大坂が大洪水に見舞われ、大坂の淀川の治水事業を巡る工事、見積もりの件で、天和(てんな)三年(1683)に若年寄・稲葉正休が淀川の視察に訪れた際、豪商・河村瑞賢(かわむら・ずいけん)が案内役を務めたのだが、瑞賢の工事見積もりについて、稲葉は異を唱えた。元々工事費用は、稲葉案が採用されようとしていたところ、これに不審を覚えた堀田正俊は、瑞賢に問いただし、稲葉案の予算の半分で工事可能との意見を得、結果、稲葉正休は、治水事業の任から外されることとなる。そしてその翌年、貞享(じょうきょう)元年(1864)、江戸城中で堀田正俊刺殺事件が起きる。治水工事の役目を外された稲葉の恨みによる事件とも噂されたわけである。ところがこの堀田正俊刺殺事件に関して、さらに仮説がある。それこそズバリ綱吉が稲葉を刺客として放ち、その稲葉を老中たちに葬らせたというのだ。稲葉が刺客ならば、生かしてはおけず、堀田暗殺の道具として利用し、即座に稲葉をも殺させたというのである。生前、堀田は綱吉の『生類(しょうるい)憐みの令』に強く反対していた。稲葉を使って堀田を亡き者とし、稲葉を口封じにその場で始末したというのだ。この事件について、光圀も遺憾の意を示している。「稲葉が殿中で刃傷(にんじょう)に及んだとは言え、理由も聞かず、誅(ちゅう)するとは何事か ! 」と、ろくな詮議もなく、始末をしたことに異議を唱えた。そして、この事件を契機に、光圀と綱吉の関係にほころびが生じ始めた。綱吉は早速、行動に出た。堀田事件の翌年、貞享二年(1685)、それまで比較的漠然たる内容だった「生類憐みの令」に関して、つまり当初、「生き物を大切にせよ」とのゆるい定めだったが、次第にエスカレートしていった。綱吉が「生類憐みの令」を出した根底には、傾奇者(かぶきもの)たちが犬までも食らうなどの蛮風を排除せんとする考えがあったが、度を越したものになるにつれて、厳し過ぎる内容に非難が増した。綱吉を犬公方(いぬくぼう)とまで揶揄する風潮となるのにも、きっかけがある。僧・隆光(りゅうこう)の入れ知恵である。曰く。「子宝に恵まれないのは、前世で殺生をした報いです。戌年(いぬどし)の綱吉様は、特に犬を大事にしなさい」と綱吉に進言。法令はどんどん厳しくなってゆき、江戸市民の不満は増した。さて、ここに犬公方・綱吉を諌めようとして光圀が行なったと伝えられる事件が発生した。「犬の毛皮」事件だ。これも東映映画にも描かれていて、ここだけ見るといかにもと解釈できそうだが、結論を先に書くと、「でっち上げ」であり、講談から映画などにまで広く描かれて、さも史実のようにエピソード性がある。東映映画「水戸黄門」(昭和32年、1957)でも、光圀からの進物として、複数の犬の毛皮が綱吉のもとへ送りつけられる場面があるが、例え副将軍と称えられたとは言え、征夷大将軍たる綱吉に当てつけがましくそのような大それたことをしたわけがない。そもそも副将軍という役名が公に存在したのでもなく、これは光圀を権威づけるためにつけられた通称のようなものだ。講談「水戸黄門」に、30匹の犬を殺して皮をはいで、江戸城中へ送りつけたとあり、東映映画でも、同様の場面が描かれ、驚きながらも悔いた綱吉が即刻「生類憐みの令」を廃止せよと命じたとあるが、さすがにこれはあり得ぬと疑うことは容易だ。なお、やや蛇足に傾くが、光圀を『ご意見番』としてもてはやす傾向がある。だが、そもそも「ご意見番」という言葉自体、その本人に敬意を表した言葉ではない。久世善男(くぜ・よしお)氏に、『ミステーク日本語』という名著があるが、こういう見事な本がどれだけ読まれているのか、疑問である。ひところ、日本語を称える数々の本が書店の棚をにぎわすほどだったが、その日本語自体、本来の表記や意味を誤って使い、伝えられるうちに、誤用がまかり通ることとなっている。今取り上げた『ご意見番』また然り。久世善男氏によると、『ご意見番』とは「徳川三代将軍・家光に対する大久保彦左衛門のようなもの」とあり、「権力ある者に向かって、いいにくいことをずけずけ言上(ごんじょう)し、理非曲直を明らかにして、正義のありかたを忠告する、勇気ある側近のこと」である。これについても私見を先に述べるなら、一つ一つにこごとを言いつのっていては、進む話も滞り、何より野暮だとも言える。ただ、本来の意味の誤用がはびこるのはいいとは言えない。さて、閑話休題。今書いた「犬の毛皮」事件につき、改めて逸話を書いておくと。この事件は講談に書かれた創作であるが、その講談に書かれるに至ったゆえんらしき実話がある。徳川御三家老中たちが江戸城に集まったとき、光圀は阿部豊後守(あべぶんごのかみ)に言っている。曰く。「上様は、人間を愛するその気持ちで動物たちも愛せよ。しかし、あやまちある時は、人すらお仕置きを与える。いわんや動物に対してもをや」そして光圀はさらにこうも言っている。口語文と文語文を混ぜてつづるが。「いたずらな犬が、手前の屋敷に参り、悪事を致した場合は、こやつらを殺させるだろう」改めてここから文語文。「手前の屋敷へいたずら犬(いぬ)参り、悪事を致し候(そうろう)をば、申しつけ殺させ候(そうろう)」―つづく―
2023.02.04
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『セクシー女優さん礼賛及びAV作品礼賛』☆ピックアップ作品☆伊織羽音(いおり・うた)さんに見入る ! 演技か自然か ! ? セリフの軽妙さと飾り気のない所作が光る ! ! 2023/01/17開始異性の好みは人それぞれである。ゆえに私は己れの好みで書く。それにしても、AV作品はVHSテープ版で売り出された頃よりも格段に進歩した。何より女優さんが質・量ともに充実して目移りするばかり。殊に、いっとき我が世の春と言わぬほどに、視聴率を誇った地上波トレンディー・ドラマは姿を消し、活躍していたヒロインを今見ると、「ルックスの良いセクシー女優さんに劣るのではないか」と評価したくなるほど、たいした器量ではない。その一方で、気になる事実がある。車やバイクで走行すると、当然ながら赤信号で停止することも少なくない。この時、すぐ近くの歩行者専用信号で立ち止まって待つ女子高生の姿がよく目につく。自転車に乗っている娘さんもかなりいる。かつて己れが中高生の頃は、同じく中高生の女子を見ても、わざわざ品定めなぞしなかったし、チラと見ても「十人並みだ」と無造作に評価する程度だった。だが今この老いた年齢になると、容姿容貌ごく水準的な女子高生でさえ、「顔立ちが整ったいい娘(こ)だ」と好意的に見るようになった。不細工な己れに比して、見事に端正に生まれ育ったものと感心するのである。殊に紺色のブレザーの上着に同じく紺色のスカートまたは紺の上着にチェック柄のスカートと、上下で異なる色・デザインの制服に身を固めた娘さんが自転車をとめて信号待ちする姿は、かなり絵になっていると感激さえする。「眺めるぶんには罪にはならぬだろう」と、ついわき見しがちである。マスクをする娘さんもかなりいるが、私が気づいたのは例のウイルス騒ぎの前である。近頃は、女子高生が一人ではなく、黒の学生服の若い男子と連れ立って下校する姿も見かけるようになった。ここで妄想が独り歩きを始めそうになる。「高校生の年頃で既にカップルであれば、ただ一緒に下校してどこかでさよならしてそれぞれの自宅に帰るばかりでもあるまい。情交体験の年齢は中高生くらいから始まっても何ら不思議ではない」さよう。そうである。セクシー女優さんの中には中学で経験済みという例も珍しくない。相手の年齢が釣り合っていることが多いというだけのこと。そして、この世界の女優さんの中には、おとなも驚くほど、早く激しい経験を持つ人もいる。このことで言えるのは、女優さんたちの品性下劣ではなく、表に出さぬ一般の婦人たちも、人に隠れて何をしているかわからないということだ。私は所帯を持つ若い婦人がおめでたとわかると、無事の出産をよそながら願うくらいの気持ちはあるものの、全く別に「お励みになりましたねえ、奥様」と冷やかす気持ちにもなる。夫と起居を共にするだけで子供を授かるなどということは当然なく、恐らく新婚まもなくは、その行為に励んだことは想像に難くないからだ。世間は「おめでた」と言ってねぎらい、称えて、それきりだが、私は何回目にヒットしたのか、ともかくせっせと毎晩、またはひんぱんに共々嬉々として臨んだわけだとしか受け取れない。それでいて、この行為を積極的に楽しんでいるとは限らないともみている。子供が出来ると夫婦いずれも互いに対して冷めるともきく。行為に興奮することも少なく、子供が出来ればさらに冷めるというのでは、夫婦とは家庭とは何ぞやと首を傾げたくなるのだ。結婚し子を授かり、家族として暮らしていく婦人を見る時、その根本に好色がないものかと怪しむのが常だ。普段、すました顔をしてごく当たり前の世間話に興じているのを見るにつけ、本当は好きものに違いないとみる。現にこの私のような不細工でつまらぬ男にも、不倫体験がザっと二つある。相手の婦人は、例外なく「こういうことするの、好き ! 」と正直に言ったものだ。日常に刺激を与えるきっかけがあれば、およそ婦人の半数は不倫に気持ちを向けるようになる。この半数という数字は脳科学者の中野信子先生が複数の人の50%が不倫体質だという意味のことをおっしゃっていたからだ。ただし、初めにも書いたように、好みは人それぞれだから、誰でも相手に出来るわけではないことになる。だがここに己れの本性をごまかすレトリック(修辞法)が働くチャンスが出来る。「こんなこと、私は本来的に好きではない。興味もない」とすました顔で打ち消すふりが出来る。己れの好みに合う相手が現われれば、気持ちは欲望昂揚に向かおうが、「私はそんな女ではありませぬ」というフリが出来る。しかし本音は正反対。その本性を巧みに創作の世界に暴いて見せてくれるのが、AVであると私はみる。このビデオ世界に描かれる物語はファンタジーである。現実世界ではほとんどが犯罪となるものばかりだ。妙な引っ張り方になるが、だからこそ、この世界が存在する。これにも婦人は多く興味が薄く、専ら哀れな男たちのためのものと見られがちだが、人間の半数は願望が強いというならば、かなりの率になるはず。ともかく現実は、容姿容貌整える女優さんが急増して、しかもなかなかの演技を見せてくれる。もちろん玉石混交と言う通り、セリフ棒読み、一本調子のお粗末な女(ひと)もいるが、どちらかというと、その美しさ・麗しさでデビューした女優さんの大部分が演技も見事で、きれいな容姿容貌に自然なムードの演技が加わって、堪能させてくれる。ただし、オーバー演技というのも問題があり、我々がいかなる事態に至っても、必ずそこまではしないいわゆるオーバーなセリフ回しで演技してみせ、シラケさせるパターンも無きにしもあらず。演技演技と言うが、もともとこれは我々素人が普段使う言葉や会話の言葉が基準であり、その延長上に役者の演技というものがある。それは必ずしも劇的なものでもない。早くからユーチューバーとしても活躍していた岡田斗司夫氏が見事に指摘なさっていたが、役者のオーバー演技が鼻につく話だ。例えば宇宙戦艦ヤマトに敵ミサイルが刻々迫る時、乗員が「艦長、あと10秒でミサイル本艦に命中しますぅ ! ! 」と迫真のセリフ回しと言いたいが、こんな切羽詰まった時、金切り声で報告するヤツなんていないよということだ。生死がかかった場面であっても、任務遂行が軍務であるから、「あと10秒、あと5秒」はあり得ぬというわけだ。そんなことわめく間に、ミサイル回避に努めるのではないか。これに対して、AV作品で見せる上手な女優さんは、この『淡々とした』と『興奮気味に』との境目をなかなか自然に見せ聞かせてくれるから、かえってリアリティが出る。世の中、「死んでもこんな世界になんか入るものか ! 」と、顔に出すいわゆる堅気の仕事で衣食する婦人が少なからずいるのだろうが、「他人に見られぬ場所では何をやってるのかね」と揶揄したくなる真面目人間ぶりが怪しい。この業界の女(ひと)を見下したいなら、子供の一人も生んでいないはずだが、多分かなりの数の婦人が必ず子供を持っている。本来、好色で、若い一時期は始終体が欲していたからこその結果がこうなのだ。さてと。能書きタラタラ書いたところで、この世界については必ず意見の賛否がつきまとう。ゆえにこれくらいで措(お)く。AV礼賛・セクシー女優礼賛については、既に比較的近い過去、二つほど書き、掲載しているが、作品鑑賞はほぼ毎日で、それによる酷使のためか、レコーダーのダビング機能が壊れてそれきりとなり、目下のところハードディスクへの録画だけは使えるのでめぼしい作品は続々録画し、録画モードも最大の15倍速である。私は確かにAVをよく見るし、お気に入りの出演女優さんの人数もどんどん増えているが、申し訳ないこととして、DVD作品は余り買っていない。専門のチャンネルとして、三局一セットのものを契約して視聴しているから、それで鑑賞には不自由ない。レインボーチャンネル・パラダイステレビ・チェリーボムの三チャンネルだ。いずれの局にも長所があって、満足出来ている。さらに言うならば、スカパー放映の番組は、レコーダーのハードディスクに録画保存し、再生時に好きな箇所でチャプターが入れられるのが重宝である。これに対して、市販されている製品としてのDVDは、AV作品に限らず、例えば私の趣味の一つである特撮映画のDVD版でも、市販品はチャプターが既に作られていて、自分のお気に入りの場所には入ってないことも必ずある。今回鑑賞したAV作品から、いよいよ一部シーンのセリフなどを抜粋して再現してみる。言い訳になるが、抜粋と書いた通り、俳優さんが演技したセリフのすべてを書き取ってはいない。欠くべからざるセリフを拾った。ドラマ内容はほとんど再現に近くはなっていると思う。タイトルはこのAV番組世界では定着しているが、かなり長い。『伊織羽音 取引先との飲み会で終電を逃した僕は、後輩女子の誘惑に負けて、種付け社内不倫をしてしまった。』伊織羽音は女優さんの名前で、「いおり・うた」さんと読む。ドラマは、取引先の企業との商談が首尾よく成立し、本ドラマに登場する某社の課長は、所をかえての飲み会の席におり、姿の良い新人OLと隣り同士に坐り、向かい合わせの相手企業の人たちの盃を受けるとの場面から始まる。取引先のお偉いさんのような社員も気さくにもてなしてくれるが、一人が「さ、新人さんも」と、とっくりを向ける。実は伊織羽音さん演ずるOLはお酒が得意ではなく、それを既に知っている男子課長が、表向きは「盃をいただくにはまだ弱輩過ぎて」と彼女をさえぎるが、実はこのOLの「酒苦手」を助けている。タイトルにあるのだが、伊織羽音さんは女優さんの名前であると共に、ドラマ内の役名にもなっている。このAV作品の世界では、例えば若妻の名前が「未帆(みほ)さん」と呼ばれるのなら、それは通野(とおの)未帆さんという女優が演じていることが少なくない。例外として、白鳥すわんさんが義父に弄ばれる役を演ずる作品で、「すわんさん」では通りにくいと判断されたのか、別の役名がついていたということもある。課長は勧められるまま、大丈夫かというほど急ピッチに盃を干し、現に横にいた新人OLの伊織さんが「課長、大丈夫ですか」と心配そうにささやくが、課長は莞爾(かんじ)として彼女に応える。場面かわって、まず軽い機械音がガーッと響いて来る。私はこの作品と伊織さんの魅力に参ってしまったからか、このドラマの細かい描き方に共感を以て接することが多い。何んの音かと画面を見ていると、先刻の飲み会で痛飲した課長がベッドに横たわり、すぐ隣で、伊織さんがドライヤーを使っているのだとわかる。課長「あ・・・、こ、ここは・・・ ? 」OL「わたしの家です」課長「え ! な、何んで・・・ ? 」OL「課長のお住まい、かなり遠いみたいなんで、わたしの家のほうが近かったし・・」課長「い、いや、そうだとしても・・・」OL「それに、こんな遅い時間に帰られたら、身重の奥様のお体にさしつかえるかと思って・・・」課長「あ、いや、でも、これはさすがにマズいよ」OL「すみません。わたしの稚拙な判断で課長にも迷惑が・・」課長「あ、いや、そんな、じゃあ始発を待つ間だけ」OL「ハイ。ぜひゆっくり休んでいって下さい」新人OL、伊織さんは「あ ! 」と思い出したように後ろを振り返り、「あの、これ、よかったら、これ、弟が家(うち)に泊まりに来た時に、置いていったものなんですけど・・・どうぞ」と、洗濯済みの男もののパジャマを差し出す。課長「ああ、ありがとう」OL「あの、お先に浴びさせていただいたんですが、よかったら課長もシャワーどうぞ」課長「あ、ああ、どうしようかな。じゃあ、お言葉に甘えて」脱衣場の洗濯機の中に、OLのブラジャーをみつけて手にとり、みつめる。・・・・・課長「シャワーありがとう」OL「あ、課長、ここ坐って下さい」課長「ああ・・・うん」伊織、課長の肩をゆっくり揉み始める。気に入った女優さんへの思い入れが強いのか、伊織羽音(うた)さんの静かな語り口が品があって、とても感じがいい。それにセリフのひとことずつが知性を感じさせて、これも作品の質の高さを思わせる。このムードが、のちの絡みのシーンとのギャップを否応なく与えて、ドラマは下劣感が薄くなっている。伊織「きょうはお疲れ様でした」課長「え、いや、そ、そんなことしなくて大丈夫だよ」伊織「肩ぐらい揉ませて下さい。本来なら新人のわたしがたくさんお酒を飲まなきゃいけないのに、課長がかわりに飲んで下さって」課長「い、いや、お酒が得意でない伊織君に飲ませるようなわけにはいかないから」伊織「課長はホントにお優しいですね」伊織、後ろから顔を近づける。気づいた課長は即座に離れる。課長「いや、むしろ僕が伊織君にお礼しなきゃいけない・・・家にまで泊めてもらっちゃって・・・」課長、照れ笑いか、女心に響くとも思えぬ笑い声を出す。伊織、チャンスと見たか、意を決したか、責めに入る。伊織「じゃあ、わたしのお願い一つきいてくれますか ? 」課長「うん、もちろん。あ、でも何んか買ってとか、そういうのはちょっと・・・僕、ほら、おこづかい全然ないからさ」伊織「わたしの肩を揉んでくれますか・・・」課長「え ! そんなことでいいの」伊織「はい」課長、「ああ、じゃあ」と肩を揉み始める。伊織は、揉まれるたびにまるで敏感なところを触られたように、「ン ! 」と、切なげな吐息をもらし、上体を身悶えさせる。もっとも、巨乳の伊織羽音(うた)さんなれば、課長が揉む肩のすぐ下に、豊かな胸のふくらみが目立つ。巨乳しか勝たんと言うつもりはないが、ここでは確かに巨乳は優位だ。伊織羽音(うた)さんの声の演技が品がありながらも、危うい予感を与える。ここで蛇足であるが、私が30代の時、ほんのしばらく付き合った人妻は、身長150cm大と小柄だったが、胸は100cmあったと言っていた。ただし、私が巨乳に余り感じ入らぬのは、この人妻の張りのある胸のふくらみが、軽く揉んでみると、空気の抜けかかったボールのように柔らか過ぎた印象だったからだ。私は程よく空気が満たされた弾力のあるものを想像していた。伊織「課長、ここも」と、言いながら、課長の手を胸に誘導する。課長はすぐに手を引っ込める。伊織のおだやかだが鋭いひとことが迫力とある種の凄みを感じさせる。つまり。伊織「お願い、きいてくれるんですよね」反論出来るとすれば「胸を揉むようなことまでは出来ない」と突っぱねられるはずだが、この場のムードではそれは野暮というもの。伊織はやや甘えるように、しかしキツいともとれる口調である。課長「え ! いや、でも」と、これがやっと。伊織は、またも課長の手を胸に誘導、そして課長はすぐ手を引っ込める。野暮と思ったか、どぎまぎしながら謝るが、伊織はさらに手をとって胸に触れさせる。課長は手を引っ込めるタイミングを失い、そこに伊織のとどめの言葉が。伊織「わたし、課長のこと尊敬していて・・・。いつか、こんなふうになりたいなんて・・・」課長「いや、でもダメだよ伊織君」伊織はゆっくり体の向きを課長のほうに向けて、顔を近づける。若く美しい伊織の顔が、唇が近づく。伊織は半開きの唇を重ねる。このドラマの特徴の一つだと思うが、濃厚な口づけのカットが目立つ。そして伊織羽音(うた)さんの口づけが、実に見る者を興奮させ気分を昂まらせる。伊織「会社にも奥様にも秘密にしますから」改めて、二人、向かい合って濃厚な口づけを交わす。唇を重ねて、離し、また重ねるというシーンが見事だ。伊織羽音(うた)さんの形のよい横顔の彫りの深さが魅了する。ここからは、お決まりのpettingつまり主に男子による女体各所への愛撫が続き、やがて、かつて「C」と呼んだ情交に至って第一ラウンドとなる。ただ、この一連の行為のシーンで特徴的なのは、常に濃厚な口づけが交わされるところである。伊織羽音(うた)さんはネットの公表ページなどでは、身長159cmと、日本人女性としてはまあ標準に属するが、メリハリのあるきれいなスタイルのためか、大柄にも見える。これはほかの女優さんにも言えるが、ちょっと見ただけでは長身かどうかわからない女(ひと)が多い。伊織さんのデビュー時のうたい文句なのか、「付き合っている彼氏がいるから出演は一本だけ」と、早くもファンとなりそうな男たちを寂しがらせることが書かれていたが、既に複数の作品に出演している。だがここで己れの独断を書く。もし私が既に執筆経験あるシナリオライターのはしくれだったら、ただいまリリースされている作品群はほとんどなじめない。まあ、何んとか鑑賞できそうなのはというと、伊織さんが高校生とおぼしき制服姿で出演する作品があって、「お ! 」と期待させてくれそうだが、この女子高生は大人の男に一物をしつこく味わわされるシーンがあるようで、これで既に興ざめである。これも偏見だろうが私は情交シーンは一対一しか認められないほか、かつて尺八と呼ばれた行為のしつこいのは嫌いだ。秘め事と言う通り、ひそかに行ない燃え上がるからいいのであって、唇も胸も局所も男たちに弄ばれてもシラケるばかりだ。さらに伊織さんがせっかく出演するのに、凌辱の内容に傾き過ぎるのも残念だ。私が今回セリフまで聞き取って書いたのも、彼女のセリフ回しや表情、そして演出に好みがピタリ合ったからだ。発売されている作品や予約作品の中から、もう一本ぐらい見つけてみたいが、彼女の価値を今回作品のように引き出せる良質な新作にも期待したい。この第一ラウンドのシーンを初めとして、好感が持てるのは、本作品中、伊織さんは「イッちゃう、イキそう、イク ! 」との決まり文句を全く言わないことだ。伊織さんは自然としか聞こえない喘ぎ声と身悶えの動きの演技で、見る者の心を捕える見事さだ。さらに、今回の新人OLと課長の不倫ドラマのもう一つの優れた演出は、一回目の情交シーンに『男子の一物をくわえる尺八シーンが無いこと』である。私事ばかりだが、私が経験した時代、フェで始まる横文字そのものが知られておらず、この手のオーラル奉仕は「尺八」と呼んだし、これは主にプロの女性の必殺技の趣があった。今や、仄聞したところだと、若いカップルの情交では、日本人の六割がこれを行なうという。「そんなこた必要ないよ」と言いたい。可愛い彼女の姿や声だけで十分一物は怒張するものだ。さて、ドラマ続きをまとめてみる。課長が新人OLを愛撫して充分潤わせたところで、二人はもはや一刻も早く一つに合わさりたい思いでいっぱいである。ところが。課長「伊織君・・・アレ・・・ないんだけどね」伊織「このまま、して下さい ! 」課長「え ? でも、それは・・・」伊織「このままがいいんです」課長「伊織君、ホントに何んにもつけないで入れていいの」伊織「はい ! そのまま入れてほしいです」課長「じゃあ、ホントにそのまま入れちゃうよ」激しい絡みが続いてこの手の作品のお決まりのように、女性が下になっての姿勢でいよいよフィニッシュというとき。噴火寸前ということを課長が伝えると。伊織「中に出して下さい ! 」課長「え ! いや、それは」伊織「いいんです。わたし、課長の・・・中にいっぱい出して欲しい」第一ラウンド無事終わって、二人とも汗だくで心地よさそうな脱力感に身を委ねる。伊織がポツリ「きょう、ありがとうございました」と告げる。課長の夫婦仲を壊そうという悪意の思いはないというムードだが、確実に二人は不倫を浮気をした。このあと、課長がまず一人で風呂の湯船に浸かっていると、ほどなく全裸の伊織がタオルで前を隠しながら湯船に入る。ここでようやく尺八の激しいのが始まり、伊織は「このままお口に出して下さい ! 」と、激しく咥える。この尺八シーンは、もう一つある。早朝出社した二人は、自分たち以外に誰もいないオフィスで、第二ラウンドをあっさりやって、さらに日ならずして後日だろう、サッパリした私服の伊織は、課長の家に招待されて来る。恐らくマンションだろう。お腹の大きい妻が食事の支度の手をとめてニッコリして伊織を迎える。若く美しい新人OLの噂を夫から聞いていて、彼女の優秀さを称える。だが妻はこの夫の話を単なる仕事関連のこととして聞いていただろうか。再び食事の支度にかかる妻の胸中や如何に。伊織は大胆にも、隣同士テーブルについたその席を離れて課長の真向かいに身を沈め、ここでさらなる尺八に入る。まもなく課長は大噴火して果てる。食事の支度をしていた妻は、にわかに軽いめまいを起こして、ベッドに横になる。この時の夫つまり課長の心配そうな看病の様子を、伊織はやや冷めた目つきで見る。妻が眠りに落ちるや、伊織は課長を誘い始める。ためらう課長に顔を近づけた彼女の言葉が鋭い。伊織「このままだと、わたしたちのことがバレて、全部台無しになっちゃいますよ」もはや彼女のするがまま。別室のソファで第三ラウンドとなり、濃厚な行為のうちに終わる。再びダイニング。何んとか妻の体調は一眠りで良くなり、この時お腹の子が動いた様子。「ママがおいしいものを作ってあげますよ」と腹をさすって微笑む。伊織はまた鋭い視線を課長に向ける。こういう場面、なにゆえか私は独身の伊織に、哀愁を感じずにおれない。たとえ上司の心をつかんだとは言え、社会的には彼女は不利だ。ここに私は我が国の一夫一婦制の不完全さを感じてならない。それはさておき。伊織はさらに顔をぐっと近づけて。伊織「出したくなったら、いつでもここに出して下さいね」これで画面フェードアウトしてドラマは終わる。本ビデオ作品の一般的評価がどうなのかはわからないが、この年までAVを愛好おかなかった私が、珍しく細かいチャプターまで入れて、録画・再生した一作なのは確かだ。なお、蛇足だが、ダビング機能が一度全く壊れたレコーダー、これがなぜか数日後、機能回復して、ダビング・スタンバイとなっていた。またいつダメになるやも知れぬと、あきらめていた作品を急ぎ二本ダビングした。最後に今回の伊織羽音(うた)さん主演の作品は、セリフなどをA4コピー用紙五枚にびっしり下書きして、本文にまとめた。それにしても、ドラマに登場するような素敵なレディが、男をあっさり誘惑してくれるはずがない。伊織羽音(うた)さんの煽情的な、蠱惑的(こわくてき)な誘惑を見るにつけ、現実は厳しいと我れに返るのみなり。★言葉の泉★【煽情】劣情を刺激すること。【蠱惑(こわく)】人の心をひきつけて乱し、まどわすこと。【蠱惑的】(その姿・動作に)心をまどわされそうな、あやしい魅力をたたえているようす。
2023.01.28
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ロウバイ、安定した咲き方になる 2023/01/23開始花の少ない季節に咲く、うれしい花と、ネットに見事な表現で書かれていたので、借用致しました失礼をお許し下さい。真冬に鮮やかな黄色の花を咲かせるロウバイは、亡き母がなかなか咲いてくれないと残念がっていたことでも印象に残ります。2022年2月1日午後4時34分ごろ。2023年1月23日午前10時17分ごろ。2023年1月23日午前10時18分ごろ。今回は昨年掲載しなかった写真一枚と併せて、今年の二枚を加えて掲載します。
2023.01.23
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「水戸黄門・実説」その一 20190601開始弱年の頃から、講談そして映画・テレビに有名な「水戸黄門」の物語に親しんで来た。だが一方で、「水戸光圀の漫遊記なぞ、作り話に決まっている」とも承知していた。もちろんサンタクロースを架空と容易に認めるのとは異なり、水戸光圀は実在である。講釈師、見て来たようなウソを言い、とも仄聞したから、武芸達者な供の者二名従えたりとても、悪党退治の旅はあるまいと察するは当然。それでも例えば往年の名優、月形龍之介(つきがた・りゅうのすけ)氏の当たり役ともなった東映時代劇の「水戸黄門」シリーズ、さらに月形氏がのちに主演したTBSの昭和39年の「水戸黄門」も胸躍らせて見た。くどいかも知れぬが、同じTBSでものちのナショナル劇場ではなく、ブラザー・ミシン提供の30分ドラマだ。水戸光圀は実在なれど、水戸黄門ドラマは甚だしい脚色、否(いな)、創作の基に成り立つ言わば奇異な物語と承知で、ずっと見続けた。不思議なものだと思う。水戸光圀が実在でも、それは例えば「大日本史」編纂を成し遂げた水戸藩主、徳川光圀の史実などであり、同一人物が仮そめの百姓姿に身をやつして、日本中を漫遊して活躍するなぞ必ず有り得ぬと承知で、再び三たび見るのだ。さて、娯楽映画などにいくらか親しんで来たとは言え、「はて、史実、伝わる限りの水戸光圀の事実とはいかに」と、やや真剣に調べてみたい気持ちにはなる。これもあとどれほど生きるかわからぬ年齢となったからかも知れない。調べてみようとの意欲は少しは出て来るものの、これについて、初めからプロの作家や歴史家などの著作を頼ろうという気にはならない。一人の見解は、片寄りもあろうとの警戒心もあるが、バランスのよい複数の意見に恃(たの)もうとの判断に至った。もとより本を読むのが苦手という生来の欠点、欠陥ゆえでもある。これまた同じTBSと書きたいが、資料として頼ったのは、スカパーの『ヒストリーチャンネル』で放映の「ライバルたちの光芒──徳川光圀vs徳川綱吉」であり、これを主に恃みとした。かつて地上波のTBSで放映されたものかどうかも知らないが。高橋英樹氏が奉行として司会を務め、ゲストの二人の作家などが二派に分かれて、巧みに持論を展開して番組が進んでゆく痛快なドキュメンタリー形式といえようか。なお、水戸光圀の真相に迫ろうとは言っても、「水戸黄門」の物語は依然、我が心をつかんで離さない。ほかの例で言うなら、源義経の一の家来として忠義を尽くし、奥州は衣川の戦いに敗れる時も、「弁慶の立往生」の伝説を残した僧形の豪傑・武蔵坊弁慶についても然り。その存在すら怪しいと言われているが、歌舞伎十八番の「勧進帳」を見るたび、主従のきずなの強さに感情移入せずにはいられない。伝説めいていても、伝説を歴史とほぼ同断に見るのだ。敷衍するなら、我が日本史は天孫降臨にさかのぼる。私にとって高天原(たかまがはら)は存在する。殊に当たり役として見事な光圀像を私たちに植え付けてくれた月形龍之介氏の「水戸黄門」は、史実なぞでそうたやすく壊れたりするものではない。偉そうに真相に切り込む前に、一つ往年の東映名作映画の中から、心に残る場面を拾ってみる。映画は東映時代劇の水戸黄門シリーズ中、屈指の名編と称えられた昭和34年(1959)「水戸黄門 天下の副将軍」。冒頭近く、光圀、にわかの登城と報ぜられるあたりだ。「黄門光圀様、不意のご登城、上様お部屋に」との知らせに、老中・阿部豊後守(あべ・ぶんごのかみ)があわてて廊下へ出る。豊後守(ぶんごのかみ)「あいや水戸のご老公しばらく ! 」(演ずるは佐々木孝丸氏)光圀「おお、豊後殿か」豊後守「おそれながらご老公にはいずれへ ? 」光圀「久々に上様にお目どおり致そうと存じての」豊後守「上様ご対面については、たとえ御三家といえども我ら老中職をとおして行なうが常例。しかるに既に致仕隠居のご老公が勝手気まま・・」光圀「控えい ! 」豊後守「はっ ! ・・」光圀「致仕隠居はいたせども、従三位(じゅざんみ)黄門光圀じゃ。将軍に謁見かなわいで何んと致す。もし上様より非礼なりとおとがめをこうむらば、光圀、お手討にも甘んずる覚悟じゃ」ここで睨みをきかせたまま、きびすを返す時の月形龍之介氏の所作(しょさ)に威風がみなぎる。セリフばかりが演技ではないことを、無言のうちに見る者にも伝えて鋭い。さて、この年になっても相変わらず勉強不足で、しかも勉強嫌いと来るから是非もない。何んとかまとめようとは思うが、文章にまるで自信がない。ともかく、スカパー放映の「ライバルたちの光芒──徳川光圀vs徳川綱吉」を頼ってつづってみる。途中複数の家系図を要するので、本文と照らしながら掲載しようと思う。さらに繰り返しだが、脚色巧みなりと判断した東映時代劇の「水戸黄門」も、引用してみたい。その場合は出来る限り、月形龍之介氏ほかの往年の名優たちが出演する場面もビデオから撮って掲載したい。まず「ライバルたちの光芒──徳川光圀vs徳川綱吉」では、こんなシーンから始まる。なお、この番組名、以下、「ライバルたちの光芒」とだけ書くことにする。あるいは単にテレビ番組・番組などとも書くかもしれない。さらに私の文章は多く『常体』と言って、「~である」、「~だ」などと書くことが多く、いかにも偉そうにみえるかも知れないが、本文のテーマ上、「です」、「ます」はなじまないものと独断する。それで本番組始まりは、将軍綱吉の有名な「生類憐みの令」の紹介であり、ここに既に徳川光圀と徳川綱吉の信条・人気度・評価が大きく異なることを強調する。すなわち、光圀は、犬畜生を人より上におくとは何事かとの考えで、無論江戸庶民に強く支持されたのに対し、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」とあざけられ、将軍の威光まるで無しと早くも両者勝敗決したように始まる。ところが、ここにまだ光圀が綱吉を支持した事実が明かされて、しばらくは東映時代劇とダブるようにもみえる。すなわち、三代将軍家光(いえみつ)の子、長男・家綱(いえつな)が四代将軍であるが、家綱に子供があらば、それが第五代を継ぐところ、延宝(えんぽう)八年(1680)四代家綱は、嫡子(ちゃくし)を残さぬまま病に倒れた。継承順位の優位性からも、家綱の弟・綱重が継ぐべきところ、綱重は死亡、その子・綱豊(つなとよ)があったものの、未だ弱輩だった。この時、幕閣に力のあった大老・酒井忠清(さかい・ただきよ)が、宮将軍を立てようと主張する。これに異を唱えたのが老中・堀田正俊(ほった・まさとし。のち大老)で、家綱の弟・綱吉擁立に尽力する。そして、その堀田を陰で支持したのが、徳川光圀だった。綱吉を五代に立て、綱重の子、綱豊は弱輩ゆえ、綱吉のあとに将軍にすべしとの考えだった。かくして綱吉は徳川第五代将軍となった。ここにおいて、将軍綱吉誕生には、堀田が、ひいて光圀の功労が大きかったのは確かだ。将軍・綱吉は、光圀に恩義を感じ、さらに老中・堀田も重んじようとの考えでいたはずだ。だがいずれ光圀と綱吉は対立する。なぜか。この経緯、さらにこのあとの将軍継承についても、東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」(昭和34年、1959)は、あっけない娯楽映画的脚色を見せる。「実説」などと副題を掲げながら、なかなか本題に入れないのは、ひとえに私の不勉強ゆえだ。とにかく好きな映画であっても、落ち着いて鑑賞出来ない欠陥が昔からある。己れの愚かさをいかんともし難いが、映画のセリフを再現してみる。要するに月形黄門は、見せるし聞かせるのだ。月形龍之介氏が語れば、それが史実かと納得するくらい、威厳が漂う。では東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」から抜いてみる。本作では将軍・綱吉役は若山富三郎氏である。「座頭市」シリーズで一世を風びした勝新太郎氏の実兄だ。場面は先ほどの阿部豊後守との会話の次のシーンとなる。光圀「本来ならば五代将軍は、上様が兄君・綱重(つなしげ)様が、お継ぎなさるべきものでござりました。しかるに綱重様、ご病弱のゆえを以て、ご辞退遊ばされ、弟君すなわち上様をご推挙遊ばされました。上様もまた、兄君をお立てなされ、互いにゆずり合うご兄弟の情宜(じょうぎ)の美しさ、かの唐土(もろこし)の伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の故事をしのばせ、我ら等しく感じ入ったる次第(光圀、一礼する)。従って上様にお世継ぎなき今日(こんにち)、六代将軍を継ぐは、当然、綱重様ご嫡男・綱豊(つなとよ)様」綱吉「余もその心づもりをいたしおったが、何ぶん母君が紀州・綱教(つなのり)をと・・」光圀「上様の母君をおもわせらるるみ心、これまた我ら等しく感じ入るところ。さはさりながら、征夷大将軍の座は天下万民のためのもの。あくまでも私情は殺さねばなりませぬ(ん)。いわんや、紀州綱教殿は、温和(穏和)なご気質を利して、ご政道を我が手に専断せんとひしめく輩(やから)あるやに聞き及ぶこのとき・・」綱吉「隠居、綱吉恥ずかしく思うぞ。親子の情に、つい道を誤ろうと致した。隠居の言葉で目がさめた。過分に思うぞ。(・・・? )。綱豊(つなとよ)を余の世継ぎと定めよ」(一部セリフ不明)光圀「老人のきままなるふるまい、おとがめもなく、このありがたき御諚(ごじょう)、光圀、ただ・・・ただ・・・(深く低頭)」(註/御諚(ごじょう)とは、おことば、おおせの意)もうこのシーンの月形氏のセリフだけで納得しかかるから名優とは凄い。では、史実を探ってみるとどうなるか。―つづく― (不定期連載)
2023.01.13
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新年艶色回想「女高生バイク物語」告白編 2021/10/21開始2022年12月8日で古希70に達した。もちろん、こののち無事に71になれるかどうかはわからない。だが大げさに言うなら確実に死が近づいている。もはや恥も外聞も・・と言っては開き直り過ぎかもしれないが、やや吹っ切れた感じの今、十の年の差がある婦人との互いに若かりし頃のことを、書き直してみたいと思うようになった。2006年に女子高校生との交際の物語を不定期連載したが、二人の仲に関してはかなりおさえて書き、余り生々しい描写はカットし脚色した。ここに当時を再現し直してみる。当時わたしは26、相手の少女は実に17歳、高二女生徒である。誕生月に開きがあるので数か月だけ年の差は九つとなる。確かに付き合いのきっかけは、私が乗り始めたばかりの250ccオートバイだったし、少女も162.5cmの体格からすると決して小さくはない車格のオートバイに慣れることに熱心だった。カワサキZ250FT 主要諸元 全長×全幅×全高(mm)2020×760×1085 車重153kg シート高805mm 最高出力27ps/10000rpm 最大トルク2.1kg・m/8500rpm しかしオートバイ・車程度なら、運動神経よりも慣れで一通りの操作は可能になる。少女もほどなく車格・車重にも余り恐怖心や抵抗感を持たなくなっていた。私は異性の身体的特徴に関しての美的感覚が鈍く、少女を容姿容貌整える健康な高校生と軽く評価する程度だった。ところがこの鈍い感覚に変化が訪れ、時間と共に審美眼が研ぎ澄まされてゆくという、ある意味で欠点と言える性質があり、容姿端麗であれば、会うごとにそれを再認識し、そのうちにある種の想いが芽生え募って来ることが常だった。やがて慕情を覚えるようになった。年配になると十の年の差は余り感じなくなるが、既に二十代半ばを過ぎていても、少女の姿はどう見ても高校生に違いなく、姿だけでなく、話し方にも少女らしい清潔さが表われていた。社会人として働きたい思いから始めた家庭教師は、まあアルバイトには違いなかったが、私はいずれ個人学習塾を開業する予定だったので、これを生業(なりわい)と考えていた。そして指導依頼のほとんどが高校生の数学だった。少女と知り合う前から、彼女と同い年の女子高校生も指導していたから、やや妙な気持ちだった。ところが指導する相手との会話などに慣れると、年齢差を忘れて接するようになる。これが最大の難点だった。私には相手の立場になって思いやる余裕や思考力が欠けていたかも知れない。ずいぶんと世間知らずだった。家庭教師先の女生徒に欲望を覚え、オートバイに乗せようと誘うまでは首尾よく進んだものの、どこかに半ば回避する気持ちがあったかも知れぬことがあった。というのも、無謀を承知でモーテルにもついでに誘おうと予定を告げ、そのまま次の指導の時に断わられ、つまりクビになったこともあったのだ。今ではこれを下種(げす)野郎というのだろうが、現にこのような行為に及んだのだ。私の品性卑劣な経験談はまだまだあるが、本題からだいぶそれるので、このくらいで措(お)く。私はこの高校生の少女の人柄に救われていたと言える。初め、陸上部の活動をしながら、適当に休憩して私のとめた250ccバイクに近寄って熱心に見つめる姿に親近感を覚えたが、話しかけるムードではないと決めて、言葉少なに済ませようとしたところへ、声がかかった。私のオートバイに乗りたいのだと察したが、少女にも厚かましいとの遠慮があった。私は一人、女性ライダーが誕生するかも知れぬとの予感に、妙に関心が高まり、私のバイクだけが狙いとの彼女の下心を承知で、毎週日曜の昼間、彼女の下宿から後部シートに乗せて、富士市五貫島の富士川河川敷の見事によく出来た舗装路での個人教習を開始した。そして、少女の意外な性格のおおらかさに救われて、いつしか友達のようなやりとりをするまでになった。些細なことでケンカもするようになった。昭和55年(1980)も秋深まる頃、高3になっていた彼女と、またも些細なことでケンカをしてしまった。ただし、ケンカのきっかけは取るに足らぬことだったものの、そのあとに互いに気遣いし過ぎたことで、せっかく仲直りしかけるムードだったのに、ケンカはさらに気まずいものへと変化してしまった。病(やまい)膏肓(こうこう)に入(い)るという言葉があるが、私は修復不可能としか思えぬところまでこじらせたことを後悔し、優にやさしい少女の心を踏みにじったことへの償いの方法がわからず、ついに己れの指をナイフでいくらか切って、したたる血で謝罪の文句を毛筆で紙片にしたため、そのどす黒く変色することなぞ知るはずもないまま、彼女に届けようと、早朝バイクで下宿へと向かった。話は少女のいる二階の部屋の気配を下からうかがうところから始まる。いつもなら少女を迎えに行けば、バイクの排気音に気づいた彼女が窓をあけ莞爾(かんじ)としてあいさつしてくれて、やがて既に支度整った姿で降りて来て、タンデム・シートにまたがるところである。この朝は当然ながらそのような場面にはならない。私も早めにエンジンを切って、ヘルメットをかぶったまま、しばらく二階の様子をうかがっていたが、窓があく気配もなく、少女の姿も影形全く認められない。力なく引き返そうとしていた。エンジンをかけ、二気筒の排気音を聞きながら、他の人々に迷惑かとも思いつつ、未練で空ぶかしを数回してみた。それからもう一度ゆっくり二階の窓に視線を向けてみると、窓が開いており、カーテンに手をかけた少女が姿を見せていた。この朝のことは永く忘れられぬものとなった。少女はなぜか私が帰路に就いてしまうと恐れたと、のちにわかったのだが、その気持ちを裏付けるように、「先生、待って ! 待って下さい ! 」と大きく叫んだ。この時、ずるい考えながら、私は転瞬、(彼女はもはや怒ってはいない)と踏んだ。ただし、少女の寛容をうれしく思った。ややホッとして、バイクを少女の駐車スペースのほうへ向けると、自転車のとなりにとめた。少女が降りて来て、もう寒くなったから、部屋に入って暖まるようにと促してくれた。その言葉のいちいちがうれしく、不覚にも涙を流しそうになった。この時、私には初めて少女が年下ながら、何か気づかいしてくれる姉の如く、あるいは母親のようにさえ見えた。私は己れが幼いゆえかと思ったが、後年、先ごろ亡くなった名優・中村吉右衛門氏が主演する「鬼平犯科帳」で、かつて少女だった『おまさ』の思い出話をした時、「年は若くとも、女は時に姉であり、母親でもあったなぁ」と述懐するシーンで、なるほどと合点したことがある。ようやく私は少女の部屋に落ち着いたが、改めて(ここは高校生の女子が暮らす部屋なのだから、これは彼女を冒涜することになりはしまいか)と、罪悪感を覚えた。ほとんど無意識にテーブルに向かって腰をおろしてくつろぐ格好になっていた。すぐさま私は正座し、非礼を詫びようとしたが、少女が「足を崩して楽にして下さい」と気遣いしてくれた。この時になって少女を異性として意識し始めて、舌がもつれる心地で、言葉が出なかった。その様子を察したかのように、少女は私の向かいに腰をおろして、視線を向けた。この時心から感じ入ったことがある。『この女子高生の部屋は実にきれいに片付いている。しかも何やらいい香りが漂い、家具・調度品も必要不可欠のものに限ってあり、さらに台所もきれいだ。ついでに彼女の服装も品が良くて、センスもいい』少女は紅茶を淹れるからと告げて、湯を沸かしていた。彼女はテーブル越しにこちらへのしかかるような姿勢になった。「先生、なんで来てくれたんですか ? まさか、たまたま用事が出来たついでだなんて言わないでしょうね」その表情がイタズラっぽく見えた。私「夕子さん、もう一度聞くけど・・怒ってない ? 」彼女はまたもイタズラっぽく今度は「フフッ」と小さく笑った。夕子「うーん、どうかしら・・。先生はどう思う ? それとも怒ってみせたほうがいい ? 」また敬語が取れた。私は無口である。口下手でもある。返答に窮した。夕子はさらにのぞき込む姿勢になっていた。夕子「わざわざ日曜の朝早く来たから、私が喜んでると思ってるでしょ ? 」こんなにイタズラっぽく、しかも次第にこちらにのしかかるように話す彼女を見たのは初めてだ。言をいじるように正反対の内容を並べて、完全におとなの男を茶にしている。彼女ははす向かいの位置に移動した。夕子「先生、そっちへ行っていい ? 」何だかにわかに彼女がつやっぽく見えて来た。夕子「先生に甘えちゃおうかなぁ・・。もしイヤだったら、私を突き飛ばしてもいいですよ・・」言葉の最後が途切れそうな口調だった。はす向かいの位置から、こちらへ移った。もはや涼しさなぞ感じない。むしろ心臓の鼓動が早まっているのがわかる。一瞬、彼女が悲しげに顔をしかめたように見えた。村松「夕子さん、ひょっとして泣いて・・ ! 」「ううッ ! 」少女は私の胸に顔をうずめて一声短く発した。やがておえつをもらす声が聞こえて来た。思い付きの言葉は浮かばず、理性が吹き飛びそうな妙な衝動を覚え、覚えつつも、何やら心地よく感じた。それでも乏しい経験を思い出して、そっと彼女の背中に手を回し、その手に少しずつ力を入れた。土曜の晩に風呂に入ったのか、少女の髪の毛からリンスのようなかおりが漂って来た。私はつまらぬ質問をした。私「きのうお風呂に入ったの ? 」返事がなかった。彼女は顔をうずめてずっとこらえるように泣いている。私「ハハ・・。なんかリンスみたいないい香りがしたんでね」(バカかお前は。もっと気の利いたことを言え)と私の中なるもう一人の自分が命じたが、うまい文句が浮かばない。考えた。よしこれを言おうと決めた。私「見当はずれだったらごめんね。夕子さん、こんな広いところで、よくたった一人で暮らしているね。感心したよ・・」これがまあ良かったみたいだ。彼女はさらに声を上げて、私の胸に強く顔をうずめた。だが強く顔をうずめると共に、彼女は私の背中に回した両手にさらに力を入れた。私はこの場面にふさわしくない男だから、このまま硬直したように動けなかった。初め、良からぬ行動は必ず控えようとは思っていた。ところがにわかに覚えた心地よさが快感に変じつつあった。彼女を抱きしめる手の力はゆるめなかった。これもかなり快感をもたらした。要するに気持ちが良かった。彼女はなかなか泣きやまなかった。ここは追い討ちをかける言葉をささやくほうが良いかと、ようやく考える余裕が出て来た。私「夕子さん、可哀想に。アパートの部屋で、これまでずっと耐えて来たんだね。偉いなぁ・・。私なんかとてもマネ出来ない」私も次第に敬語が取れていた。彼女はさらに激しく泣き続けた。ようやく顔を上げた彼女を見て、ドキッとした。当たり前だが、今、彼女の顔は、私の顔とくっつきそうなほど、目の前にある。張り詰めた思いが一気にゆるんで、しばし泣いたからか、少女の涙にぬれた顔がまぶしかった。私はなにゆえか歯の浮くような言葉を継いだ。私「夕子さんのそんな麗しい顔、初めて見たよ」少女がようやくニコッと笑った。白く歯並びが良い。夕子「ごめんなさい。この部屋に越して来てからの二年ぶんくらい、思い出して、一ぺんに泣いちゃった・・」当然だが、まだ彼女の顔が私の目の前にある。何とか離さねばと思った。しかしそれは束の間で、彼女を抱擁する心地よさを振り切り難い衝動が起きつつあった。少女は時折ぐすんと涙をぬぐうような音を立てた。「先生があたしをねぎらったりするから、余計泣けちゃった・・。もう一度抱きしめさせて」少女の言葉は煽情的であり、現にまだ軽くしゃくり上げながら、わたしの背中にまわした手に力を入れ直した。当時のビデオカメラで、この場面を撮影したら、美少女と不細工男の全く絵にならぬラブシーンが出来上がっていたのは言うまでもない。映画館にでもかけたら、爆笑か怒号が起こったことは間違いない。しかし、私は何か少女の気持ちにこれまでとは違う変化を感じていた。妙に色気がある。戯れに言ってみた。私「夕子さん、こんなに顔を近づけたら、私も男だから、変な気を起こしかねないよ」夕子は意外なことを言った。夕子「どうぞ。私の唇、すぐ近くでしょ。こんなので良かったら、どうぞお好きに」村松「夕子さん、ダメだ ! そんなこと言われたら・・」この言葉を合図のように、彼女の唇がぐーっと迫って来た。半開きの中に、深紅の舌が見える。私のように白くよごれてはいない。整った顔全体から甘い香りが漂う。もはや偽りの紳士面もこれまで。唇を近づけたのは彼女だ。拒むのはむしろ無礼だ。勝手に理屈をつけるまもなく。美形の高校生との接吻の応酬。これは経験者にしかわからない快感だ。この最中に一度わたしが顔を離そうとした時。夕子「イヤ、もっと濃厚なの ! 」これまでの彼女の印象がこの時吹き飛んだ。変な表現だが、いい意味でこの娘は恥ずかしいことを楽しもうとしている。夕子「先生、Bまで行くの ? 」村松「あの、Cは控えるよ」夕子「あたし、恥ずかしい・・・ ! 」村松「Aからの距離があり過ぎるからね。夕子さん、恥ずかしい ? 」夕子「ええ、恥ずかしい。でも・・」村松「何 ? 」夕子「あの、イヤ、やっぱり言うの恥ずかしい・・でも、あの・・白状しますと・・・」村松「ハズレてたら、横っ面張ってかまわないから。もしかして、夕子さん、独りで処理していた ? で、夕子さんが独りで処理してたことと気持ちは似ていても、男のわたしの指だから、恥ずかしいってこと ? 」彼女は顔を赤くしてうなずいた。夕子「よく・・・わかるのですね」「そうですよ。私は好色なのです」とはさすがに言えなかった。村松「無理強いはしないよ。わたしには今のだけでも夢のようだから」夕子「先生、覚悟出来ました・・、恥ずかしいけど・・期待もあるから。あの、でも、夕べお風呂に入ったけど、あの・・舌での刺激はまだ恥ずかしいから・・」村松「承知しました。指でだけ」夕子「え ! ? 」村松「何かまだ・・」夕子「胸から先じゃないんですか・・・」村松「あ、そうか。なんだかムードがなくてごめんなさい」夕子「あの・・胸は飛ばしてもいいです」村松「・・・」夕子「どうかしましたか ? 」村松「夕子さん、スケベだね」夕子「・・ ! もういい ! 離れて ! 」村松「あ、ごめんなさい ! あの、うれしくて・・」夕子「んもお ! あたし、萎えちゃった」村松「ごめんなさい。離れます」夕子「なによお ! いちいち言うとおりにしないでよお。さあ、責めて」少女はわざと感情的になって声を荒げ、むしろ気分を昂揚させようとしている。「この娘(こ)、スケベだ ! 」と、さらに感激していた。村松「ゆ、夕子さん、す、凄い魅力 ! 」思わず言ったとたん、彼女の唇がわたしをとらえ、舌が絡んで来た。わたしは左手を彼女のトレーニングウェアのズボンにのばした。すかさず彼女の手がさえぎろうとした。村松「ん ? 」夕子「あの・・・恥ずかしいです・・」それ以上の手の動きをとめて、やめようかと言おうとした。その時。夕子「これ、Aより刺激があるんですよね、当然」村松「そうだよね、これは勝手な意見だけど、Aを重要視し過ぎると思ってたんだ」夕子「あ、そうなんですね。唇なんて、たいしたものでは・・・」村松「いや、あなたみたいな素敵な女の子と唇重ねるだけでも、たいしたものだけど、次に来るBがインパクト強すぎる行為がいろいろあるから、それに夕子さんが今言った通り、これによる感覚に慣れないうちは、羞恥や恐怖が優るのも当然だから・・・」夕子「ごめんなさい。これじゃ、ムードなくなりますよね」村松「あの、夕子さん、またビンタされても仕方ないけど、あの・・ホントに夕子さん、独りで」夕子「してました、独りで・・・」村松「あの、変なこときいて悪いけど、きっかけは ? 」夕子「自転車のサドルとか、あとシャワーで・・。それで、ベッドに入ってから、・・・。だから、その感じって、想像はつくんです」村松「ふうーん・・・」夕子「先生、どうしました ? もしかして、理屈ばっかり言って恥ずかしがってばかりで、シラケちゃいましたか・・・」村松「いえ、そんなことないですよ。ただ、夕子さんって、こんなムードで恥ずかしい話を出来る女(ひと)なんだって、感心したんです」夕子「ごめんなさい。さすがにホントに恥ずかしい気持ちが起きて来て」村松「ううん。かまわない。今回はこのへんにしておこう」夕子「ごめんなさい ! やっぱりイヤ ! あたしのこと責めてッ ! おとなしくします」村松「・・・・・」夕子「どうかしましたか ? 」村松「ごめん。・・・何んだか妙に落ち着いちゃって」夕子「すみません。あたしがごちゃごちゃ言ったから、先生のほうがイヤになったのですか ? 」ごめんと謝ろうとした刹那。村松「あ ! 」少女が唇を重ね、舌を激しく絡めて来た。夕子「先生、あたしとのキスばかりでつまらないですか ? 」村松「とんでもない ! とっても気持ちがいい」私は改めて少女のウエアのズボンに手をかけた。村松「夕子さん、ここ、いい ? 」夕子「あぁ、恥ずかし・・、・・・ああぁ、気持ちいぃ・・。もっと、もっと強くッ ! 」少女は激しく重ねた唇を次第に離していた。責められる快感に身を委ねているようだった。私は人差し指を少女の最も敏感な局部に入れて、往復を繰り返した。敏感な壁に傷をつけてはいけないと思うが、かなり潤っている。数学が抜群で、化学も優秀で、短距離走の選手で、さらに合唱部でも活発で、そしてたった今わたし自身が衝撃と共に目の当たりにしているのが、それまでの彼女のイメージを一気に崩すような、みだらさである。凄いギャップが、むしろわたしを喜ばせた。とりあえず指は一本から始めたが、既にかなり潤っていて、彼女も「もう一本」と要求したので、中指を加えて、さらに動きを激しくした。少女の切なげな吐息と喘ぎ声がわたしの気分を昂まらせた。村松「痛くない ? 」夕子「痛くない。気持ちいい ! あぁ」夕子「先生、もうすぐ達しそう ! あぁ・・ ! もうすぐよ。ああぁッ ! ! 」少女の腰がピクピクと数回波打った。・・・・・・・・・・わたしは、いかにも治まったかという心地だった。だが。少女は再び顔をゆがめ、さらに泣き出した。村松「夕子さん、やっぱりいきなり過ぎたよね。ごめんなさい」わたしは彼女から離れようとした。ところが。夕子「違うの。ごめんなさい。初めての感覚だったから、何んかわからないけど、泣けて来ちゃったの。先生、指もう一度入れて」わたしが一方的に凌辱し尽くしたばかりでもないと安心出来る応え方だったので、少女の寛容に感謝の念を覚えた。それにしても「もう一度入れて」はかなり刺激だった。わたしは座布団をあてがって、少女を促して仰向けにさせた。村松「夕子さん、下、取ってしまうよ」夕子「イヤ ! 恥ずかしいッ ! 」かまわず、ウエアのズボンごと、下半身から引き抜いた。肌があらわになる。村松「夕子さん、今のご気分は ? 」夕子「イヤ、いじわる・・。あ、何するの ! 」村松「もうぬれてるけど、これ以上よごさないようにさ」ティッシュ・ペーパーを見つけて、数枚重ねて、彼女の股間をふいた。夕子「あ、イヤっ ! ! きたないし、においが・・・」村松「君のここ、おいしそう ! 」夕子「ああッ ! 」核(さね)に舌を這わせて、テキトーに動かした。少女の喘ぎ声と吐息が、こちらをも昂ぶらせる。一度十分潤わせて達した割には、不快なにおいではなく、前夜に風呂で洗った時のいい香りの残臭(ざんしゅう)が混ざって、愛液となっていた。さらに驚くべき発見があった。きれいに毛を剃ってある。村松「夕子さん ! 凄い ! 」夕子「もおイヤ ! あたしのこと、完全に変態って思われたよね。ああ、いやいや」村松「おじさん、感激ッ ! ! 」夕子「からかわないで ! 」わたしは核(さね)から舌を離し、最も敏感なところへと指を入れた。ここから先ほどの往復運動の繰り返しだ。村松「ねえ夕子さん」夕子「なによ」村松「スポーツやってるから、こんなに手入れしたの ? 」夕子「それもあるけど、スッキリしておきたいの。もお、そんなにジロジロ見ないで」村松「夕子さん」夕子「なによ」村松「この、今入れてるとこからオシッコも出るの ? 」夕子「違います」村松「あ、そうなの ! 」夕子「なに興奮してるのよぉ ! 」村松「あのね、中学の時ね、えーと中三の時。席が近い女子が、『女は穴が三つある』って言ったの覚えてるけど、あの女子は正しかったんだって」夕子「んもお ! 早くして」わたしは指の往復を早くした。ずっと利発な『淑女』と思い込んでいた少女の現実を知って、むしろうれしくなっていたので、指の動きを速めるにつれて息遣いを荒くする少女の表情に、何んとも言えぬみだらな思いを募らせていた。「夕子さん、どお ? いい ? 」「うん・・、もうすぐよ。もうすぐなりそうよ」ひと声喘いだと思うまもなく、「ああっ」と身体を波打たせて、少女は恥じらうこともなく、下半身露出したスタイルのいい身体を畳に横たえた。達した直後の心地よい脱力感に浸っているようだった。・・・・・・・・・・夕子「イヤ、恥ずかしい」村松「はい、ズボンとパンティ。あと、その他」夕子「先生」村松「ん ? 」夕子「あたしのこと、失望、幻滅でしょ」村松「ハッキリ言わせてもらうけど、君は珍しい女(ひと)だと思う」夕子「わかります。実はこんなに乱れるなんてって、思いますよね」村松「あのね、さっきのさっきまで、こんなこと出来るなんて、夢にも思ってなかったの。それが君という美少女とこんなこと出来るなんて、とてもうれしい」夕子「ホント、ですか・・・」村松「ああ、ホントです。平均的な女性ってのは、もっと手間がかかって、ハッキリ言って面倒なんですよ。君みたいにストレートだと、いや、世の中、君みたいにストレートな女の人ばかりなら、もっと最短距離で交際出来るのになって思った」夕子「先生がこういうことの初めての男の人で良かった・・・」村松「精一杯のほめ言葉、ありがたいけど・・・もう少し顔立ちの整った大人だと、もっと良かったよね」夕子「先生、なぜそんな卑屈なこと言うのですか ! ? わたしのたった今の様子、見たんでしょ。そんなふうに言われたら、シラケちゃうわ」村松「ごめんなさい。夕子さんが余りに美人なんで、つい・・気後れして」夕子「もっと素直になって ! 」村松「は、はい。ありがとうございます。あの、一つお願いがあるのですが」夕子「はい」村松「そろそろわたしを名字なんかで呼んでもらえますか」夕子「いいんですか ! 」村松「はい」夕子「あの、村松、さん」村松「はい」夕子「うふっ、ちょっと照れるけど、あ、待ってて」少女は立ち上がって、机から何かを取り出した。夕子「村松さん、はい。焼き増しして整理しておいたの」村松「うお ! これ、いつの大会の ? 」夕子「あたしなんか予選だけ。でも、何か感想は ? 」村松「この写真、感激ッ ! 夕子さんのその、おへそが」夕子「あら、それだけ ? 」村松「よ、ようしもう言うぞ。君はもうじき受験して、で、合格して、新しいところへ巣立って行く人だ」夕子「合格出来ればね」村松「合格に決まってる。で、この際だから言うけど、君は私が今まで出会った中で、最高の美人だ。美女だ。スタイルもいいし性格も好きだし、頭もいいし」夕子「うれしいッ ! 何んか、ケンカして良かったって後味」村松「写真、宝物にするね。え ! ちょっと、夕子さんッ ! 」夕子「逃がさないわよ」村松「また変な気分になっちゃうよぉ・・・あの、やっぱり大学へ行ってから、もっとカッコいい人と・・」夕子「あら・・。あなたたった今・・・。わたしをどうしたの ? 言ってみなさいよ」村松「夕子さん・・何んか急に恐くなった・・・」夕子「そうよ。あなたは、とうとうわたしの身体の恥ずかしいところを責めたんですもの。いくらわたし自身がとても良かったからといって、こんなことするなんて。もう男女の仲になったも同然。・・・それとも最後の一線越えてないからとでも言うの ? 」村松「夕子さん・・・ホントに恐い。もしホントは傷ついたのだったら、改めてお詫びします」夕子「そんなことないわよ。ただ・・・ふふふ」村松「何んですか ? 」夕子「眠っていたわたしの本性を覚醒させたのよ。あたしのふしだらなとこ、ついに見たわね。恥ずかしかったわよ、ホントは。・・許さないわよ」村松「ご、ごめんなさい・・ ! 」夕子「いやねえ。おこってないの。じゃ、言い方かえるよ。逃げられないのよ。覚悟しなさい。・・・何からしたい ? 」村松「いえ、いささか反省、後悔し始めておりまして・・・」夕子「あきらめが悪いのね。わたしが何をするか、覚悟しながら待機してるのね」村松「夕子さん、ホントに傷ついて」夕子「いません ! 何んだかまだ身体が熱くて、どっちかというと、うれしいんだもの」村松「夕子さんは、いやらしいんだね」夕子「誰がそうさせたのッ ! ? 」村松「わっ ! だからやっぱりごめんなさい ! ! 」夕子「イヤよ ! もっと良くなりたいんだからぁ」少女は急に動きをとめて、うつむいた。本人もいきなりの体験が続いて、ふと我れに返るのか。「どうしたの」と問うてみた。夕子「あたし、しつこいですか ? 」村松「とんでもない。さっきも言ったように、こんなきれいな高校生とこんなに激しく出来て、まだ夢みたいな気分だよ」夕子「唇重ねますよ」実は昔も今も、この私もこれが好きだ。Cと言われる最後の一線を越える行為よりもある意味で、一番みだらな気持ちを起こし、その気持ちを昂ぶらせ続ける手段として、この、Aとかつて呼んだものが最も合っている。さらに女性の体臭についても、昔中学生の頃、体育の授業が終わり、教室一室を更衣室として与えられた女子たちが着替えをすっかり済ませたところへ私たち男子が入るやいなや「くせえ ! 女くせえ ! 」と何人かの男子が口々に言い放って、女子の体臭を見下すような態度をとったものだが、この時も私は「女子って、体全体からこんなにおいを出しているなんて、素晴らしいなあ」と正反対のことを思ったものだ。まあ、体育で汗をいっぱい流したあとだから、独特の臭気だったかも知れないが、普段、セーラー服姿の女子の近くに寄ると、化粧なぞほとんどか全くしていない女子の全身から、我々男子にはないいい香りが漂ったと記憶する。ゆえに、当時の私は女子に縁がない現実を思い知るいっぽうで、「女子の肌のにおいをかぎたいなあ」と思った。中三当時、クラスに一人私に関心を向けてくれていそうな女子がどういうわけかいて、確かにこちらへ秋波を送り、やや熱めの視線を流してくる女子の存在を時々認めていた。席が近い男子が「お前に気があるぞ ! 」と言ったことも一再ならずあったが、いかんせん、中三当時は身の程をわきまえずに、面食いなところがあった。この女子には既に小学四年ごろ、近所の同期の男子と既に経験を重ねているとのうわさがあり、気分をそそるものもあった。要するに色気があった。ただなぜか、持ち前の好色な性質を欲望のままに実行に移さんという気にはならなかった。当時のこの女子も、今にして、好意を抱いてくれていたかも知れないと思うと、惜しいことをなどと思いはするが、現にその気にならなかったのも事実だ。私の初の体験は大学二年の時、19になってしばらくした秋だった。己れの不細工や、どうやら異性には縁がないことを否応なく悟り出してもいたからか、相手は6つか7つ年上の人妻だった。この人妻は二件目の家庭教師宅の夫人だったが、私との年齢差が6,7歳との事実にも驚いたし、何より7歳ほどの年齢差を感じさせない美形だった。私はこの心優しい人妻に、手ほどきを受けることとなった。このようなことについて、私は自身の学歴を改めて誇りに思った。というより、本当に合格出来て良かったと思った。今や廃学となって、茨城県に移転した新しい『筑波大学』との名前のほうが認知度も高かろうが、その筑波大学の前身とも言える東京教育大学は、家庭教師のアルバイトに困ることがないどころか、毎日新しい依頼票が学務係により掲示されるという引く手あまたの好環境だった。私はこの大学に在籍していた。そして、家庭教師をする教育大生に対して、各家庭であたたかく迎えてくれた。殊に私にとって、この人妻は優に優しい女(ひと)だった。学生が好きだとも言っていた。今改めて考えると、私が長く住んだ東京都文京区は、教育熱心な地区だった。国立大に絞っても、まず天下一の東京大学があり、私がかよった東京教育大学があり、さらにそのすぐ近所に女子の最高学府として最高レベルのお茶の水女子大学があった。今住んでいる田舎の富士市では考えられないことだが、東京に住む人々にとって、最も目指すべき学校は、大学であったに違いない。多分学習塾への需要でも明らかと言える気がするが、ここ田舎では、高校合格が最大の目標であり、そのために各家庭は余裕があれば子供を中学三年間は塾に通わせることに熱心だが、高校から先はおまけみたいにとらえているように思える。首都東京に住む人たちは、少なからず大学を最終最大の目標学府とみているはずだ。ゆえにあるレベル以上とみた大学への家庭教師依頼は一日も途絶えたことがない。子を持つ婦人の価値観も田舎とは大違いで、学歴を重視する。それゆえかどうかは断定出来ないが、年齢的にはまだまだ若造の私たち大学生は、子を持つ母親から好意的に迎えられた。異性に縁がないと、そろそろ悟り始めていた私に優しい視線を向けてくれた家庭教師宅の人妻は、子供の前では先生と呼んだりしたが、さし向かいの雑談になると、名字で呼んだ。遂に確かめなかったので推測だが、生まれは敗戦間もない昭和20年ごろ。かなり早い結婚には事情があるが、ここでは細かくは書かない。すぐに出産したが、結局一人っ子である。とにかく私の目にはとてつもない美人と映った。上背(うわぜい)はさほどはなく、小柄なほうに見えたが、スタイルが良く、そのぶん全身も整っていた。私はその若さについて詮索しないように努めていたが、その代わり「どうしても七つの年の差には見えない。同世代に近く感じる」とよく言ったが、あとで親密になってから話題にすると、「とてもうれしかった」とポツリ答えたのが印象に残っている。横道にそれて長くなるのでここは措(お)くが、要するに男女の仲について、話せる女(ひと)に恵まれたと書きたかった。オートバイがたまらなく好きな女子高生・夕子は、またその方面について話のわかる女生徒でもあった。彼女は音楽にも興味と技術があり、特に早くから始めたピアノが巧みで、今ではエレクトーンに絞って骨休めに弾いているほどだ。その彼女が、お互いが激しく気分昂揚し、求め合ったあと、何んとなくもう一度と欲しているのに、私がいかにも一段落(いちだんらく)して治まったような休息をしている時、こんな話をしてくれた。夕子「あたしって、みかけによらずいやらしい娘だと思われても反論しないけど、でもね、山田耕筰の名曲『赤とんぼ』の中に『十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき・・・』って歌詞があるでしょ。さらに十五を数え年と仮定すると、つまり14 , 5でかつては嫁いだのよ。未成年に手を出すか出したがる男をゲスだなどと言うけど、あたしはかなり疑問ね」彼女の知識に驚き、さらに慧眼(けいがん)に敬意を持った私は問うた。村松「あの、ねえやってのは、お姉さんのことなの ? 」夕子「いいえ。子守り奉公に来ていた年上の女(ひと)だったらしいわよ。でも、14か15。これ、大ざっぱに中三から高一とみていいわよね」村松「ふうーむ・・・そうかぁ」夕子「何、感心して・・るの ? 」村松「あ、いや・・。君は凄いと思った」夕子「童謡にかこつけて、あたしのはしたなさを弁解したって思ったでしょ ? 」村松「その正反対だよ。そうか、姐やかぁ。中三か高一で・・・」夕子「でも誤解しないでね。あたしはたった今ではなくて、前から・・ ! 」少女はかなり狼狽したようで、「あッ ! 」と短く発したまま、うつむいて黙ってしまった。わたしは察したように言うのはこの寛容な少女を冒涜するように思えたので、問いただすような言葉は慎んだ。代わりに言った。村松「でもさあ、夕子さん、ついさっきから、ていねいな言葉がとれて、くだけた感じになったね。もちろん、いい意味だけど」夕子「ごめんなさい、生意気なことばかり言って・・・」村松「わたしは今朝のことは奇跡だと思ってるよ。第一こんな不細工な男に対して、君はホントに素敵だ」夕子「何んでそんな言い方するんですか ! ? 」村松「どうもすみません」夕子「村松さんは、わたしの心がわかってないんですね」村松「ごめんなさい。とにかく、君は素敵過ぎるから・・・」「わたしの心・・・」と少女は非難口調だったが、言わんとするところは悟れた。悟れたが、実はわかることはなかった。少女の優しさゆえと感謝するばかりだった。むかしも今も実は『男も女も面食い』、外見の良し悪しで異性を品定めするものと断じているからだ。少女は改めてやかんに湯を沸かして、紅茶を淹れてくれた。掲載画像資料 : 睦月影郎氏著書等
2023.01.01
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「少―しマニア」発、東宝特撮映画見て「アレ ? 」2022/03/05開始「モスラ対ゴジラ」今回は昭和39年、1964年4月公開の「モスラ対ゴジラ」。小生、小学6年生になったばかりだった。美空ひばりさんが歌った「柔」は、同名のテレビドラマの主題歌でもあり、このドラマは日曜日の夜8時から日本テレビ系列で放映されたと記憶するが、これは間違いかも知れない。なお、失礼ながら本題の文章は、ほとんど終わり段落近くなので、あとは冗長な駄文となります。長広舌の駄文を避けるには、最後から三段落目まで飛ばして下さい。「モスラ対ゴジラ」は、当然の如く、映画館で見た。ただし、この時のいわゆる「モスゴジ」と呼ばれるタイプのゴジラのぬいぐるみは余り好きではない。私は昭和37年の「キングコング対ゴジラ」に出た「キンゴジ」が好きである。初代ゴジラを除けば、歴代ゴジラの中で最も恐竜っぽい怪獣として大好きだった。また脱線する。大学へは何んとか復帰して、特撮の趣味もいろいろ実行したが、この時期に束の間知り合い、のちケンカ別れした特撮マニアに「モスゴジ派」がいて、キンゴジを「カエルづらでカッコ悪い」と言った。これがケンカの原因ではないが、私はこの年となった今、趣味を同じくする者たちとは仲間にならぬが良いと断言出来る。無論バイク然り。だいたい、マスツーリングとかいう、大ぜい徒党を組んで走るのも、大嫌い。イヤな奴が必ずいる。結論は人数の多寡に関わらず、同好の士は禁物ということだ。無論、例外はある。互いにバイク好きな交際相手の彼女を持つこと。これは男同士と異なり、ざっくり言って、こちらが下手(したて)に出るを事としている限り、良好に続けることが出来る。女人と意見が合わぬ時は、余程こちらに論破の自信無き限り、真っ向から論戦を挑むべからず。女人のほうが「超論理」で必ず強い。もっともフラれたらそれまで。女はナゾだ。私も一度はフラれた。そして今でもなぜか交際している。万一失恋してそれまでだとしても、女子ライダーが一人誕生に至ったことは良かったと言える。ひとことのろけておく。私がこの婦人との交際を続けた大きな理由の一つは、「おしゃべりが少ないこと」である。ユーチューブのある番組で、男を一日七千語とすると、婦人は二万語との大差と仄聞したが、この婦人はあるいは理系畑で来たからか、私より言葉数が少ない。やや長くなる時は、私が科学的解説を頼んだ時の、説明くらいで、いわゆる「まくしたてる」ことをしない。例外はどこそこにスイーツのおいしい店があったなどという時のみ。これは聞いていて楽しい。さて、今回の「モスラ対ゴジラ」でも、映画の画面に出て来るものについて、「あれ ? 」と思わせるものを扱っている。しかし、「キングコング対ゴジラ」同様、本作品をからかったり、侮ったりしてのことでは断じてない。どうしても平成以降のゴジラ映画を引き合いに出してしまう。特殊技術そのものは、昭和の特撮をしのぐものもあるだろうが、映画全体を通して、見る者を画面にくぎ付けにするほどのエキサイティングな物語進行は見られない。乱暴に言うなら「退屈」なのだ。私は食わず嫌いを反省するつもりで、改めてスカパー各局で放映されたゴジラ映画を録画して見てみた。だが開巻冒頭から見る者を引きずり込む展開がなく、それでも観察という考えに切り替えてなお見続けようとするが、出だしの物語が次のシーンへと気持ちを引っ張ってくれるような筋運びは残念ながらない。これは偏見、独断ではなく、どうしても昭和のゴジラ映画は、次の場面、その次の場面への鑑賞欲求を喚起させてくれるものだと思えて仕方ない。「モスラ対ゴジラ」を例にとると、冒頭の台風のシーンがその特撮の迫力で台風一過のシーンへと興味をつなげる。空は快晴、そこに何本もの黄色の排水管が勢いよく水を吹き出す。そしてほどなく巨大なモスラの卵が流れ着き、それを追い求めて小美人が、成虫モスラと共に姿を見せる。台風で水浸しとなった倉田浜干拓地では、排水作業がうまく進み、広大な土地を切り開く希望的観測が描かれるが、その土の中に眠っていたゴジラが現われて、土地開発は多分頓挫すると思わせるが、ゴジラは名古屋地域を進んで名古屋城をこわし、さらに東進して、遂にモスラと戦う。ここでモスラは放射能火炎に焼かれて、絶命、ところが卵が孵化してモスラ幼虫が双子で誕生、ゴジラの暴威を食い止めて終幕。ここまで、退屈で困るシーンは無いと言える。ゴジラを食い止めんとする自衛隊のシーンも観客サービス満載で、実にミニチュアのヘリコプター四機編隊が、ゴジラに電撃ネットをかぶせるシーンが次々続く。怪獣ファンを自認するさすがの少年たちも、このシーンにくぎ付けになる。ヘリコプターを操演するだけでも凄いのに、四機のヘリが一糸乱れぬ安定した動きで、巨大なネットを外す。ネットは吊り下げられていた時と全く同じ水平を保って落下するし、ヘリコプターはカッコ悪くゆれるなぞということは全く無い ! 「凄い ! スゴい ! 自衛隊もやるなあー ! 」特撮技術大絶賛の思いで特撮シーンにくぎ付けになった。昭和39年春当時のことはさすがに思い出せないが、多分映画は飽きるまもあらばこそ、あっというまに終わっていたはずだ。しかもこの年は夏に「宇宙大怪獣ドゴラ」が公開されている。「はまぐりの鳴き声」とのパンフレットの言葉にも「何 ? 」とわけが余りわからないまま、新怪獣への興味をかきたてられた。そして極め付きは暮れから正月へかけて公開された「三大怪獣・地球最大の決戦」である。その人気今に至る金星怪獣キングギドラ堂々の登場である。私は今でもこの時代に生まれ育ってよかったと思っている。ほぼ同じ昭和39年のうちに、東宝怪獣映画を三本も見ることが出来るなんて、いくら入場料を払っているからといって、制作スタッフ陣の熱意がなければ、かなわぬことだったはず。そしてガキの私も、この小6から、やがて中一になる頃で、そろそろ正義の味方やアニメに飽きて来た。そしてさらに昭和41年、1966年には園まりさんが少年をも魅了した。「こ、こんなきれいな女(ひと)が ! 」。何んともスゴい誘惑的なお色気を振りまいてくれて、思春期間近の少年も、ようやく異性にひかれ始めた。ようやく大人の女の人の魅力が、文句なく理屈抜きに、下半身を刺激するようになった。こうなると、元から持っていた食欲なぞ、場合によりどうでもよく、「女の人の体って素敵 ! 」と、新たなる心身の変化に身を委ねて喜ぶようになる。おっと、またもお下劣方向に行きそうになる。軌道修正。今回はそろそろ本題の「モスラ対ゴジラ」のエピソードに入ろうか。我れながら横道の話は余り面白くない。試しに入ってみようか。・・・・と書きつつも、本題に近い話はどのあたりまで書いたかと、さぐりたくなる。お ! ゴジラ電撃ネット作戦だ。ゴジラに高圧電流をぶつける作戦は、それこそ初代の昭和29年(1954)「ゴジラ」でも使われたが、怒りを増すくらいがせいぜいで、効き目は無きに等しい。昭和37年(1962)の「キングコング対ゴジラ」ではキングコングが帯電体質になって強くなる設定のためか、ゴジラは送電塔の高圧電流にたじろいで、引き返すようになっていたが、実はゴジラはこれしきの電気攻撃にはびくともしないはず。子供心にと言ってはウソになるかも知れないが、この「モスラ対ゴジラ」におけるゴジラ迎撃作戦にはメリハリが感じられず、「なぜわざわざA作戦、B作戦と名付けたか」との疑問が残った。もっとも、似たような疑問はゴジラ映画前作の「キングコング対ゴジラ」でも感じた。ややダブるが、ゴジラを食い止めようとする作戦のうち、撃滅を期したと思しき「埋没作戦」はわかるものの、すぐ次の送電塔の高電圧による食い止めの試みがやや成功したあと、同じ送電塔に迫ったキングコングがひるまずに、かみついて浴びた電気で、帯電体質になるというつなげ方は、関連書の説明を読むまでわからなかった。大怪獣が市街地や住宅街を破壊しながら進むシーンは、ごく当たり前のことと見ていた我々は、高圧の送電塔も、怪獣の進路にたまたまあるからパチパチと電気がはじけるのだとばかり思って、つまり特別に工事などして用意した作戦地区とは思わなかった。詳しいことはわからないが、ストーリーをざっと調べると、ゴジラは高圧電流の送電塔を突破出来ずに東京を迂回、いっぽうのキングコングは電線をかみちぎって都心へ進行するということがわかる。これでようやく気付いたのだが、ゴジラはこのあといきなり富士山の山腹にいて、キングコングは麻酔で眠らされ吊り下げられて、東京から富士山まで運ばれて来る。キングコングは東京の後楽園遊園地あたりへ進撃して、ついには国会議事堂をも少し壊す。なぜこんなことをわざわざ書くかというと。昭和37年、小学4年生だった私は、御殿場市のところどころに設置されている映画の看板を、見つけるたびに食い入るように見た。ポスター写真は少しずつ異なることもあるが、中にゴジラとキングコングが東京都心で対決している写真があり、これにわくわくしたものだ。そして映画本番では東京都内へ進行したのはキングコング一頭で、大暴れはせず、東京の市街地ミニチュア群も当然出て来なかった。地下鉄丸の内線が地上に出る時のわずかなミニチュアと国会議事堂くらいだ。ただ、上映が始まるや、各場面にくぎ付けになるので、少年の目にはいずれの場面も新鮮であり、ラストの熱海、錦ヶ浦近くのシーンまであっという間のことだった。違和感は何んとなくあった。昭和36年(1961)の「モスラ」のこれもわくわくするような東京ど真ん中・・・でもないが、確実に港区芝公園で東京タワーをこわすシーンが、そこへ着くまでの、例えば昔で言う東京都下の家並みや渋谷道玄坂が、そして渋谷駅の東急デパートが脳裏に焼き付いたので、大學へ行くために上京して、もうそれこそいやというほど、東急東横デパートも見たし遠くからも眺めたし、ついでにこのあたりで女子にフラれた。東宝は昭和29年の「ゴジラ」ではかなり実景に忠実に東京各地の有名建造物をミニチュアで再現し、臨場感と迫力ある市街地場面を作り上げている。昭和30年の「ゴジラの逆襲」でも大阪を中心に街並みを描いている。実景そっくりに街並みを作るのは、見る者にも当然のことだと認識されたと思う。その目で次々に公開される作品を見たので、昭和31年「空の大怪獣ラドン」の、九州を舞台とするミニチュア市街の再現映像は、当地を知らぬ者にも、インパクトがあった。その実景に忠実なる再現の極致は、市街地建物では当時の福岡の岩田屋デパート、そして建造物は当然西海橋だった。モータリゼーションの時代が訪れてさえ、気軽にドライブ旅行なぞとはいかなかった。第一我が家には自家用車なぞない。父が車を初めて買ったのは、1966(昭和41)年5月で、私が中二の時、中古のトヨタ・パブリカだった。ほどなく同年11月に同じくパブリカを新車購入しているが、父はとにかく非力な車だったと言っていた。ゆえに、ようやく自家用車を買っても、ドライブ旅行に遠出することはなく、せいぜい日帰りで富士五湖の幾つかを訪れる程度だった。東宝特撮映画に登場する日本各地の風景は、現地にこそ行かないが、ややなじんだところが多く、観光地などの有名な建造物ミニチュアが出るたび、画面に見入ったものだ。それで「キングコング対ゴジラ」では、映画看板ほどの都心部ミニチュアは少なく、それでもラストに用意された熱海城ミニチュア・シーンにもくぎ付けになった。「モスラ対ゴジラ」に戻るが、ゴジラ迎撃シーンには、時代を反映した自衛隊の兵器が登場して、これもまた特撮ファンの我々を魅了した。自衛隊の兵器、銃火器などの沿革をたどるには、それこそ陸海空少なくも三分割するだけでも、同時代に三つに大別出来るものもあろうが、無論、それぞれは時を違えて新型、新兵器が登場するから、単純には眺められない。そこで今回は、陸上自衛隊の戦車に目を向けているのだが、何しろ大東亜戦争敗戦と共に、我が帝国陸海軍は、徹底的に武装解除させられた。原因・理由は様々かも知れないが、一つ特筆すべきは、アメリカが日本を、日本軍の強さを恐れたことが挙げられよう。負けたから弱い、さほど強くないというのは無知な証拠。ゼロ戦、戦艦大和を例示しても足りる。ゼロ戦は海軍のものだが、陸軍にも優秀なる航空機があった。ところが敗戦と共に、当時無傷で残っていたものも含めて、解体、破壊が徹底された。有名なところでは艦体がほぼ完ぺきに残っていた戦艦長門は、原爆実験と称して沈められている。残してあれば、明治の旗艦、戦艦三笠と共に、大東亜戦争の記念艦として、その巨体の威容が未だに語り継がれたに違いない。さて、陸上自衛隊の武装の中でも注目度の高いのはやはり戦車だろう。しかも自家用車などとは異なり、始終モデルチェンジもあり得ぬから、何年に一度かの新型ともなれば、かなりのインパクトである。何しろ敗戦後の様々な事情もあって、あらゆる武装が消滅した。陸海軍全面解体を命じておきながら、本当は愚かではと思うほど、アメリカは朝鮮動乱(朝鮮戦争)で、共産主義のこれまた脅威にまもとに出くわしたから、急きょ日本に再武装を命じた。日本は敗れたりとはいえ、全く見事で、特に(私の父も含む)旧軍人たちは、あっという間に自衛隊編成強化の期待に応えた。警察予備隊なぞでは、一般人には横柄にふるまえても、真の戦闘には臨むべくもない弱体だった。残念ながら各兵装にも不足なところがあって、要はアメリカ軍の戦車、M4シャーマンやM24チャーフィーを供与され、使用することとなった。上掲8枚とも昭和31年(1956)「空の大怪獣ラドン」に登場の軽戦車M24チャーフィー。一枚目は本物のM24。実際、東宝特撮映画でも、米軍製戦車を使う必要となり、1961年の61式戦車が完成するまで、M4、M24が東宝自衛隊の戦車として画面にも登場することとなり、場面により、本物も登場していた。このことにつき、かなり検索してお世話になっているウィキペディアは、詳述に怪しいところがあり、うのみにはせざるべしと心得る。今回扱っている戦車についても、例えば『61式戦車』は初の国産戦車であるが、1960年代の東宝特撮映画では、純然たる61式戦車としてのミニチュアは作られていない。それでも早くも1964年「モスラ対ゴジラ」では複数の61式戦車と思えるミニチュアが登場していてなかなか迫力がある。正直に言うと、軍事兵器に疎い私は、ごく最近までこの61式戦車について、怪しむだけの知識がなかった。改めてビデオをじっくり見て確かめることが出来たのも、ウィキペディアの記述のおかげである。ただし、既に有名な東宝特撮映画の記述となれば、当然正確さが不可欠だ。この点に於いて、ウィキペディアの説明は怪しいものがある。一体誰が情報提供しているのか、怪訝である。話題を戦車以外のことに及ぼせてみる。昭和41年(1966)公開の「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のロケ地を未だに『山中湖』と記してあるが、それならば河口湖も併記する必要を感ずる。劇中、人々がおおぜいガイラの脅威から逃れんと避難する群衆シーンがあり、この画面の背景に『河口湖ホテル』と書かれた建物が登場する。残念ながら意見を申す方法がわからぬ万年ビギナーのため、疑義の申し出がかなわぬが、ハッキリ言えることだ。劇中富士五湖が複数現われても不思議ではないかも知れないので、山中湖を間違いと決めつけることは出来ないが、湖の実写シーンに、湖中の島が見え、特に地元の我々ならば、河口湖の湖中の島はまあ有名なので、怪しむのだ。更に戦車に話を戻すなら、今回テーマとしている「モスラ対ゴジラ」の説明にも疑問がある。★ミニチュアが、日本映画初登場。★こう書いてある。無論意味は『61式戦車ミニチュアが、日本映画初登場。』とのことと判断出来るが、このページの他の日本映画についての文章には61式戦車と明記してあるので、ページ全体のバランスに難を感ずる。更に、昭和40年(1965)「怪獣大戦争」に61式戦車が登場との説明があるが、この時使用された戦車ミニチュアも、接地転輪五個のM24チャーフィーと思しきものも写っているので、疑問をぬぐえぬ。61式戦車の実物。地面に接地している転輪が6個確かにある。まあ、あんまり小言ばかりでは我れながらうんざりなので、このくらいで措(お)く。だいぶ横道にそれてしまったが、いよいよ今回のテーマである東宝昭和39年(1964)「モスラ対ゴジラ」の戦車に及ぶ。ズバリ、この時、61式戦車の全体のミニチュアが完成していなかったためか、『61式戦車』として登場する戦車ミニチュアは、ざっくり言って、車体下半分がM24チャーフィーで、上半分が61式となっている。そして無論、リアルタイムでスクリーンを追う私の目では、細大もらさず観察するのは無理で、「ああ、1964年だから既に制式採用された61式戦車の登場か」と、感激さえした。だが観察眼の見事な人がいたようで、本作品を報ずるウィキペディアは最初、「転輪の数が61式の6個ではなく、5個である」と見事に指摘。私はこれを読んだあと早速録画したビデオで確認した。ただし、今度はやや集中して観察したせいか、転輪、つまり地面に接地している接地転輪は、場面により、6個と5個とに分かれていると見える。あるいは遠景用に6個のミニチュアが作られたのかも知れないが、正確なことはわからない。というのも、M4シャーマン戦車は転輪6個で、装着にやや特徴があるが、シャーマン戦車の上部を付け替えれば61式に見えなくもないとみた。のちに、ウィキペディアの本作品の説明文からは、転輪のことは削除されたようだが、ウィキペディア別ページ『61式戦車に関連する作品の一覧』には、複数の映画作品のことが掲載されていて、これはこれでとても興味深い。「モスラ対ゴジラ」に登場の戦車の転輪の数について書こうとしておきながら、ダラダラと長いだけの駄文を連ねてしまった。おしまいです。
2022.07.08
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「ユコタン音楽シリーズ」曲名と歌詞ロンドンデリーの歌 歌 : 土居裕子さん訳詞 : 野上彰氏アイルランド民謡 2022/02/22開始1. さえずる雲雀の声に ふたたび春はめぐる月日を重ねてあつく 胸にあふれる涙よいとしくはぐくみし我が子ひととき帰りこよ せめては幻となりてなつかしの母の夢に2. リンゴの花びらは春の 盛りを白くひらく その花摘みし我が子の 幼き面影いずこよ 黄泉路(よみじ)をつかさどる神よひととき返し給え いくとせ嘆き深まる悲しき母の胸につまらぬ偏見だろうが、私はこの「ロンドンデリーの歌」というタイトルが好きで、全く同じ歌ながら「ダニーボーイ」と称するほうの歌は余り感情移入出来ないか、し難(にく)い。タイトルがそもそも好きになれない。「ダニーボーイ」は男女の恋愛をテーマとした歌だと記憶するが、「ロンドンデリーの歌」は、いとしい我が子を亡くした母親の切なる哀愁をうたったもので、こちらに共感しながら聴くことが出来る。土居裕子さんの歌も、この歌詞にピッタリのこれ以上ない澄み切った歌唱を堪能出来る。ここで(註 : 「ダニー・ボーイ」を恋愛の歌と書いたのは間違いです。)「ロンドンデリーの歌」楽譜の一つ(野ばら社の歌集「ホームソング」より)と、とりあえず好悪の思いを分けてみた。このことは確かだ。しかしながら、「ダニーボーイ」の和訳にも、好き嫌いに分かれるものがある。NHKEテレで見た「ららら♪クラシック」という30分番組をほとんど毎週録画して見ていたが、終わってしまい残念だ。この中に、「ダニーボーイ」を特集した一話があり、ここで歌われた歌詞には、実はロンドンデリーの歌に匹敵するほどに共感した。全くのついでながら、この回を消してしまったとばかり思い込んでいたが、タイトルで誤解していた。「禁じられた遊び」の特集回とばかり思っていたが、もう一曲「ダニーボーイ」が後半にたっぷり構成されていた。NHKは目下、とかくのうわさが目立つが、私はこの番組などでもそうだが、消えては困るテレビ局だ。歌詞に肉親の深い愛情が描出されていても、訳詞がいいと、歌全体の印象がガラリ変わる。由来、我が日本人はあからさまに愛だの恋だのと言い表わすことになじめない国民性だと思えるが、これはこれでかまわない。日本の歌にはそれに相応しい歌詞が用意されていて、人の情は充分伝わるはずだ。思想を中心にNHKを見ないという動きが盛んだが、来たる時には。NHKから反日分子を追放して、本物の国営テレビ局として再出発させるといいが、目下はむつかしかろう。だがNHKの企画・構成、さらにアナウンサーなどによるナレーションには職人芸とも言うべき見事さを感じるし、惜しいと思う。本当になぜNHKは戦後、これほど悪化したのか。横道にそれたので軌道修正する。「ロンドンデリーの歌」には異なる人々による訳詞が存在するが、根底には母親の愛情がある。ただ、これを日本語の歌詞に訳すとき、音符と詞をまとめなければならず、さすがに限界はあるはずだ。それでも和訳するとなれば、原曲のアイルランド民謡を充分訳して、そのうえで、然るべき和訳にかえるべきだ。ただ、私がその好悪の思いによって描く「ロンドンデリーの歌」評価は必ずしも正しくはないかも知れない。NHKEテレは、「ダニーボーイ」こそが「ロンドンデリーの歌」周知流行の元となることを、納得しやすく説明している。同番組で演奏される「ダニーボーイ」は、私見によれば、最も心にしみる訳詞がなされている。歌唱そのものは浜田真理子さんが担当しており、字幕に日本語訳が表われる。演奏される楽器にも工夫がされていて、見事に心を打つ演奏となっている。なお浜田真理子さんは国立大学の島根大学出身のミュージシャンである。私は秋川雅史さんが歌って大ヒットさせた「千の風になって」を悪しざまに言うつもりはないが、「ダニーボーイ」すなわち「ロンドンデリーの歌」は、死して墓に眠る己れが、最愛の肉親に語り掛ける内容となっていて、この詞がとても感動的である。この点に於いて、黄泉路(よみじ)にいる死者は、その埋葬された墓に永眠していると思わせてくれる。実に味わい深い。以下に、放映された同番組の「ダニーボーイ」訳詞を掲げておく。★ああダニー バグパイプがおまえを呼んでいる谷から谷へ 山腹を下っていく夏は過ぎ去り バラは枯れ落ちてしまったおまえはここを去り 私はここで待たなければならない帰ってきてほしい 草が青くしげるころには谷が雪で静まりかえるころにでも日がさそうと陰になろうと 私はここにいるああダニー 愛しているよ★でもおまえが帰ってきたときに 花はすべて枯れ落ち私が先に亡くなっていたら私の眠る場所を探してひざまづいて 私のために祈ってほしい私の眠る土を踏む おまえの柔らかな足音で私の墓はあたたかく心地よくなるだろうひざまづいて 愛していると私に伝えてほしいおまえが私のところに来るその日まで 安らかに眠れるだろう私は「ららら♪クラシック」を見ていて、この訳詞に感激した。「もしも私の方が先に死んでしまったとしたら、墓のごく近くでおまえが優しく踏む、その足音で私の墓はあたたかくなるだろう」と、愛情の深さをうたっている。そして、最後に、「やがてお前も私の眠る同じ世界へと旅立つ時が訪れるだろう」と語り掛けている。〇いろいろ書いて来たが、歌というものを正しく覚えるにはどうしたらいいかという基本的な課題へ戻ることもある。この「ロンドンデリーの歌」はアイルランドの古い歌として伝えられて来た経緯もあるようだが、元々の歌が歌い継がれたものだとすると、「これぞ正統派」との根拠も弱くなるかも知れない。とりあえず、手許にある歌集の楽譜を頼ってみた。もちろん歌集とて正しいと言い切れるものではないが、私はとりあえず「ロンドンデリーの歌」として歌われた土居裕子さんの歌を聴きながら、歌集の楽譜と照らし合わせてみた。そしてこれがピタリと合っていることを確かめて、かなり感激した。土居裕子さんの歌唱はかなり正確だということになる。無論これとて、楽譜を正しいと仮定してのことだが、著名なソプラノ歌手の土居裕子さんの歌い方と一致するのは、正当な歌手の歌い方を是とする一つの根拠になるのではないかと結論した。土居裕子さん歌唱の「ロンドンデリーの歌」の歌詞に書き直した楽譜。手書きの雑な文字で見づらいが、1番だけ土居裕子さんの歌に合わせてみた。現在、You Tubeで聴ける。
2022.04.07
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「哀愁の素人じじいドラマー」現況記録と併せ、「パワフルですね」と言ってくれた婦人・・・2022/03/16開始3月のレッスン最終日、3月15日(火曜日)、午後3時50分ごろのこと。己れはつくづく異性の縁に恵まれぬヤツだと思った。面識のない婦人に声をかけられただけで、ただそれだけで何やらうれしいのだ。心いささかときめく思いを味わった。レッスン場所は「すみや」という楽器店の一室で、防音措置を施してあるが、ドラムはほかの楽器より音が大きくて、防音は完璧とはいかない。「すみやグッディ」の前で、2021年6月、三台目のPCX150と共に。余り他人とはかかわらぬようにしているので、会話を弾ませるのは講師の先生だけ。さすがの無口な私も、2019年春から習い続けると、レッスンの日の勝手次第くらいはわかるようになる。教室に入ると、まずリュックなどの荷物を降ろし、スティックとテキストなどを定位置に置いて、椅子に腰かけ、先週からの課題内容をドラムに向ける。レッスンで使用しているドラムセット。自宅に購入したものより、バスドラムなどが一回り大きく、迫力がある。レッスン前の自主練習は、ドアを一応閉めてからドラムセットに向かうことなど。初めのうちドアを開けっぱなしでたたいたら、店長さんが閉めてくれて、以来常識的なことを覚えた。レッスン開始の2019年2月からしばらくは、明らかにある程度若いが、余りとっつきの良くないムードのレディが、私の時間帯のあとにいた。当時私が午後2時15分開始、次のレディは早めに来ていた。ただ、しばらくして私のレッスンが終わっても姿を見なくなったので、何らかの理由で、少なくも私のすぐあとの時限からは外れたとみた。相手が不愛想とわかってなお、会話を試みる野暮なところはない。講師の先生との軽い会話を発展させるほうが次第に楽しくなったので、それで良しと思っていた。いつごろからか、私のレッスンの必ずしもすぐあとではないが、何か講師の先生とは知り合いと思しき婦人の姿が複数回見られるようになった。物腰は低そうで、品の良い感じだった。先生と縁のある女(ひと)だと判断していた。現にそうなのかも知れない。それはそれでよいと思った。あるいは生徒さんかも知れない。バイク同様、ドラムに男も女もなし。続けると少しはわかるが、見た目だけで「カッコいい ! 」とか「アグレッシブなムード ! 」などの見方は全く誤りで、ある程度の知識や繊細な神経がなければ続かない。そして件(くだん)の日、3月15日の火曜日、教室を出ると、その婦人がいたので、ごく通りいっぺんに軽く会釈をした。その時、「・・・ですね」とポツリ話すのが聞こえたが、聞き取れず、失礼ながら「Pardon」と言ってみ、・・・るわけがない。婦人から声をかけられたのは久しぶりなので、既に返答の言葉を忘れている。この日、先生の急の用事で、開始時刻は15分ほど遅れた。「あの、何んとおっしゃったのですか ? 」という意味のことを言ったつもりだが、短い刹那の言葉とてこれをすべて話せたとは思えない。かと言って、「え ? 」、「は ? 」ではさすがに無礼である。婦人の声と口調に品が感じられた。これは転瞬にわかる。要するにはすっぱな女が多い昨今だ。そして、改めて答えてもらったのが「パワフルでしたね」だった。横文字が混じっていても、上品さは伝わるもの。恐らくドラムの叩き方を評したのだと思うが、私はこの日、先生から「もう少し優しく叩いて下さい」との注意を受けたばかりだったので、「あの、何んか力が入り過ぎと先生に言われました」と返した。婦人は莞爾(かんじ)として教室の中へ入って行ったから、あとのことはわからない。莞爾としてとは言っても、その微笑に不快さはない。近頃絶えて聞かれない上品なムードだった。私もただ現状を答えるだけでなく、「どうもありがとうございます」と礼を返した。実際、今現在習っている叩き方は、さすがに下手な私でも、レッスン開始当初よりむつかしくなったとわかるレベルなので、リズムに乗る叩き方を目指すと、力が入ってしまう。ここ最近はレッスンのことをブログに書かなかったが、無論レッスンも自宅での練習も続けている。古い話だが、昨年夏、至近距離落雷ののちほぼ2ヶ月は、ひかり回線が不能となり、そして修理を頼むまでの手続きが億劫なので、もちろんユーチューブなども見たかったが、我慢して、練習に切り替えたりした。そして今、私のような年寄りにはピンと来ないオフィシャル髭男ディズムと言ったろうか、このグループの「スタンド・バイ・ユー」を聴き、これに合わせて初めての本格的16ビートを練習するなど、内容がレベルアップした。先生があっという間にホワイトボードに書いた楽譜。見比べやすいように、16ビートと8ビートとを同じスタートで書き出してくれている。音符の位置も五線譜上に正確に書いて下さる。レベルアップしたのは私のテクニックではなく、練習内容である。入門からこれまで、おおむね8(エイト)ビートという八分音符のリズムでたたいていて、1小節に、八分音符が8回ある。4分音符ならば4回である。ハイハット・シンバルをたたく右手はこの八分音符で刻むが、これに合わせるバスドラムも八分音符リズムなので、まあ何んとか叩けはする。ところがこの2022年に入ってから、ハイハット・シンバルのリズムが八分音符でなく、十六分音符に変わった。1小節に十六分音符が16回入る。右手のハイハット・シンバルの叩き方は必ずしも決まってはいないが、練習のしやすさでいうと、両手のスティックを交互にたたく。このように叩き方が細かくなるので、そのぶん手で握ったスティックの動きも細かくなる。これまでの8ビートでは、右手でハイハット・シンバル、そして両手同時に叩くときは左手でスネアドラムを叩けば良かったが、16ビートとなると、既にハイハット・シンバルを両手で叩くので、左手でスネアドラムを叩けず、これも右手でスネアドラムを叩く必要がある。最もむつかしいと私に思えたのは、この16ビートを叩くあいだに入れるバスドラムのリズムとテンポの調和である。初めて先生が叩いて下さった時は、全く文字通り手も足も出なかった。先生はこの叩き方で、髭男の「Stand by you. 」を軽々見せて下さった。メトロノームの速度は「四分音符=76」くらいだが、8ビートではむしろスローに感じるのが、16ビートでは速度が二倍になるので、ポカンとしているうちに終わってしまう。「ゆっくり始めて、リズムをつかんだら、次第に速度を上げて下さい」とおっしゃるが、まず正しい叩き方を習得せねばならず、これは難航した。それでも続けると、ミスは始終だが、叩き方はわかって来る。で、次週、とりあえず叩いてみると、先生が「ああ、かなり出来て来ましたね」とおっしゃるから、恐れ入りながらもホッとする。それもつかの間、これを応用した新しい16ビートを見せて下さる。これが翌週までの課題となる。目下、「四分音符=4,50」程度のスローテンポでようやく叩きかけて来た松田聖子さんの「赤いスイートピー」クライマックスのストローク楽譜。練習曲は実に昭和年間、1980年代にスーパーアイドルとして君臨した松田聖子さんの「赤いスイートピー」。作曲は名前を変えてあるが、紛れも無き天才・松任谷由美さん、ユーミン。出だしはゆっくりで「♪ 春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ・・・」だが、「I will follow you・・・」正確には「follow you」から16ビートになって、速度は「四分音符=80台」という速さ。これは未だに叩けない。スローテンポでようやくといったところ。そろそろ限界が見えて来たような気もする。そして、さすが先生、教習生の心理をよくご存じで「中にはレベルの高さに、吐き気が出る人もいます」とのこと。その旨報告すれば手加減してくれるようだが、私はどういうわけか、ズバリの吐き気は出ないが、気持ちはわかる。それで何んとか形だけでも翌週先生の前で叩いたら、まずまずでというところまでは良かったが、「フィルインを入れましょう」と、またもハードルを上げなさった。フィルインは、規則的リズムの間にインパクトなどを持たせるために入れるもので、タムやフロアタム、クラッシュシンバルを叩く。16ビートのリズムにフィルインが入った楽譜。先生によると、ほんの一例とのこと。少しずつ覚えかかるそのたびに、技術レベルが上がるので、追いつかない。さて、2022年3月のレッスン最終日は16ビートにフィルインを混ぜたもので、これを何んとか叩こうとすると、全体に力が入り、叩く音が大きくなる。パワフルではあっても、強く叩いただけに過ぎず、先生からは「もっと優しく」と注意を受けていた。帰り際に「パワフルですね」と言ってくれたレディは、確かに正しい。もっとも、強く叩いただけのことだった。ドラム・レッスン2022年3月のトドメは、16ビートのリズムをハイハット・シンバルを閉じた状態で叩く時、左右の手を使わずに、右手だけでいつもの倍速の速さで1小節16回叩くというもの。もはやこのひと月だけで、練習すべきテクニックが一挙に三つぐらいに増えた。わずかな慰め、などと言ってはせっかく声をかけて下さったレディに失礼だが、本当に、心が救われる思いだった。それが「パワフルですね」のひとこと。この言葉、我が誤解かも知れないが、そのまま受け取っておこう。
2022.03.19
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富士山に笠雲 2008年10月10日我れながら多分写真撮影にマメだったのだろう。今は気が向かなければデジカメを取り出すことはない。月食さえ夜が暗くて寒くて、どうでもいいやとなってしまう。ようやく納車したオートバイも、オートバイなればこそ撮影に気が向く。富士山の笠雲は、目の前にアパートが建っておらず、かなり撮影しやすい頃に写したもの。そして、ほぼ連日視聴している「ウェザーニュース」にも刺激を受けたから、過去のブログからコピーし、拡大し直したもの。オートバイ趣味にとっても、天気、気候は切り離せないもの。衣替えは車だけの人にはたやすいだろうが、オートバイに乗る者には、真冬の装備をどれほど代えれば良いか、迷うもの。富士五湖の本栖湖湖畔を走った時。HONDA CB900 HORNET。下の画像も同じ。同じオートバイで、場所は伊豆方面。大型バイク免許取得が楽しさを証明してくれた頃でした。ホンダCB900HORNET(ホンダCB900ホーネット国内版)水冷4ストDOHC4バルブ並列4気筒 918cc 最高出力88ps/9000rpm 最大トルク8.6kg-m/5500rpm 車重194kg シート高795mm HORNET900 逆輸入車版水冷4ストDOHC4バルブ並列4気筒 918cc 最高出力110ps/9000rpm 最大トルク9.3kg-m/6500rpm 車重194kg シート高795mm万年ビギナーゆえ、両者の比較をする資格はないかも知れませんが、先に国内版、次に逆車に乗った感覚では、国内版に、発進加速の良さなどを実感しました。ただ、私にはカワサキゼファー750が、つまりナナハンが゛ジャストでした。
2022.03.18
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3年ぶりのオートバイ 2022/03/16開始スズキグラストラッカーSpecifications(スペシフィケーションズ)エンジン:空冷4サイクル単気筒OHC 排気量:249cc 最高出力:11kW(19ps)/7500rpm 最大トルク:21N・m(2.1kg-m)/5500rpm 燃料供給方式:フューエルインジェクション 変速:5速リターン 全長×全幅×全高:2050×900×1130 (mm) シート高:750mm 車両重量:136kg★備考:最近ようやく覚えた単位換算式★kW⇒ps 1kW=1.3596ps kW表示をpsに換算するには、kWの数値×1.3596で換算されます。私の覚え方は「1.3596」を(イザゴクロー/いざご苦労)とやっております。暗記は苦手です。例:懐かしのカワサキZEPHYR(ゼファー)750の最高出力50kW=50×1.3596=67.98ps≒68ps/9500rpm なお、逆にpsからkWに換算するには、psの数値を1.3596で割れば求まります。ただ、イギリス馬力と呼ばれる「HP」は、その名の通り、「ホース・パワー」と言って、厳密には「ps」と同じではありませんが、かなり近い値であり、換算の要なし・・・と言い切れませんが、早い話、psとkWを知れば足りると思います。なお、世界的な動きは「kW」に向いているようです。一応psからHPに換算する式を書いておきます。1ps=0.9863HP 例:68ps=68×0.9863=67.0684HP
2022.03.16
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こんな楽しい天気予報があったとは ! ! 2022/03/05開始「地上波女子アナ」ばかりが、もてはやされ、ちやほやされていた頃、例えばフジテレビ系列のめざましテレビと言ったろうか、「ろうか」とは、私は当時の女子アナにほぼ関心がなかったからだ。そりゃ確かに美形であろうし、高学歴でもあろうが、一つの時期に人気があるのはせいぜい一局につき一人か二人で、私は特にひかれる女子アナはいなかった。そして、やや星移って、地上波テレビが、かつてほど余裕を以て番組放送を出来にくくなっている現状をみると、あれほどちやほやされた女子アナも、出演需要や視聴者の期待感は、だいぶ下がっているのではと思う。さらにかつての人気女子アナも、出続けていればとうがたって来て、さほど心ひかれることはなくなってしまう。私が折に触れ思い出すコラムの師、故山本夏彦氏のコラムに、「あんなにちやほやされたのに」がある。これは少しずつ内容を変えながらも、複数書かれているが、趣旨は一貫していて、それこそ光陰矢の如しを思い出させる。ズバリ書くが、「バカ」な一部の女が、「山本夏彦大っ嫌い」とすこぶる嫌っているらしいが、山本夏彦氏は「人間本来男女なし」とも書いている。何もとうがたつのは婦人ばかりではない。ただ、ある時期、女の人が心ひかれる見事な美しさを発揮するのも事実で、男はかなわない。婦人とて男にほれることはあろうが、多分、数で相当少ないと察する。再三書くが、山本夏彦氏はコラムで「男には根底に女性崇拝の念がある」とも書いていて、全く当を得たことを書いている。で、この「ウエザーニューズ」は画期的な番組になったと驚くばかりだ。余り邪推めいたこともしたくないが、デビューして皆、人気者となるのが凄い。選考も通りいっぺんでなかろうというのが私の見解だが、改めてよく見ると、これは要するに天気予報の番組だ。しかし地上波テレビで、天気予報が番組として独立することはなかったと思う。せいぜいワイドショー企画ものに添えられる程度で、そこから気象予報士のレディが頭角をあらわし超人気者となることはなかったのではないか。もちろん、半井小絵(なからい・さえ)さんのような逸材はごくたまに現われる。ちなみに半井さんは無論「7時28分の恋人」とも呼ばれ、格別の才能を見せてくれたが、のちに保守を自認する私は、彼女が愛国心の持ち主と知って、ますます好きになっている。さて、そんな気象キャスターが、大変な人気キャラクターになるということ、それが、このインターネットの世界では見事に現実のものになっている。つまり天気予報という形を取っているが、番組全体が立派な娯楽になっている。そして、私はこれまで女子アナなぞと書いて来たが、この番組で活躍しているレディたちは、キャスターと呼ぶべきなようだ。地上波のいずれにも出現したことがないキャスターたちが、この「ウエザーニュース」では陸続とデビューし、活躍している。いずれも才色兼備と言うべきレディばかりで、コメントなどで視聴者と見事に意志疎通が円滑に行なわれ、彼女たちはどなたも、それぞれの持ち味をフルに発揮して、完全にサービス業感覚に徹している。恐らく、本当はストレスも半端なものではないはずだが、どなたも驚嘆するほど、美しさ・可愛さ・愛くるしさなどを振りまいて、見る者を魅了している。連想される一つに、そう、殊に小学校時代か、好きな女の子にかまってもらいたくて、浅知恵のガキに出来ることと言えば、その好きな女子にわざと意地悪をして、彼女を困らせやや怒らせて、(実は)お小言を頂戴し、ふくれっ面を見せられたりなどして、彼女の気を引くという、見え透いたことをやった。相手の女子も賢くて、軽く口喧嘩するフリをして、応えてくれたものだ。しかし、心の中は慕情が満たして、さらに想いはあふれ、かなり切ない想いを想ったものだ。確かに時代は地上波テレビの独り天下から、次第にインターネット空間のエンターテインメントの世界へと、シフトし、こちらで開花して、私たちを楽しませてくれる存在となりつつある。くどいが、女性キャスターのかたがたの勤務は、実は相当大変なものと察するのほかない。ところが、彼女たちは毎回、きちんとした態度で語り掛け、長丁場をこなして、そして気が付くと、まるでコントを披露してくれたかのように、大いに笑わせ、楽しい気持ちにさせてくれる。これは目下驚きの連続で視聴するばかりだ。また、忘れてはならないのが、視聴者の人々の協力を惜しまない姿勢であり、有志視聴者の「名場面」作りの情熱とセンスの良さだ。原則一人のキャスターが一気に3時間の区切りを見事にこなし、そのかんのほとんどは、本分と言うべき天気予報、気象情報の提供であるから、その中でキャスター・視聴者共々、楽しめるあるいは笑い、爆笑出来るシーンはしょっちゅうとはいかないはずだ。長い出演場面から、根気よく「楽しい」「おかしい」シーンを拾って編集し、楽しめる新たな番組を構成し直す手腕に驚かされる。番組スタッフのかたがたによるタイトルや字幕の工夫も忘れてはいけないだろう。ともかく、かつてない楽しい娯楽お天気番組が出来上がって、なお継続中である。今一度礼賛しておく必要があるが、番組を楽しい盛り上がりの完成度に作り上げるに、多くの女性キャスターの働きがあることは論を待たない。こんな楽しみがインターネットにあったことに、ようやく気付いて、目下堪能している最中である。個性と才能光る女性キャスターのかたがた、ぜひお体大事になさって、お仕事に励んで下さい。そしてもちろん、貴重なお休みの時は、ぜひ明日の活力のため、というより、せっかくのお休みの時が、リフレッシュの役に立つよう、ぜひ自由時間を活かし、御自愛下さい。★私は当初、いずれ礼賛するなら、今活躍中のすべてのキャスターを取り上げるべきだと思っており、実はそれは紙幅の関係や、文章力等に限界があり、紙幅に細大もらさぬ言及は無理とも断じたゆえ、ならば特定のレディにスポットをあてるのは控えようかとも思った。だが、実際ユーチューブ動画を視聴していて、覚えず涙を流した見事なキャスターの放送に出くわすこととなった。この女(ひと)独りを賞賛してはバランスを欠くに違いなかろうが、あえてピックアップしたい。大島璃音(おおしま・りのん)さん大島璃音(おおしま・りのん)さんに最近魅了された。お名前は昨今取りざたされるキラキラネームみたいだが、覚えてしまえばどうということはない。私が車にほぼ興味がなく、オートバイに並々ならぬ愛着を持つのとは正反対に、璃音さんは大の車好き。しかも面白いアンバランスとして、彼女は車好きなのに、普通免許を持っていない。私が彼女に好感を持った理由の一つがこれだ。璃音さんは明るく「免許が無い ! 」と言う。いつだったか、ホンダのバイクの写真に近寄って、ホンダの翼のマークを指して、「これが好き」と言った時も、「この女(ひと)、偏りのない女(ひと)だ」と感心した。つい、妙な仏心が出て「何んとか、大好きな車に乗れる免許を取得させられないものか」と、むしろ自身の運転の危険性を悟り、安全を優先して取得しないという態度に、何んともいじらしさを禁じ得ない。璃音さんの車好きは恐らくお父上に由来する。しかし、親御さん二人ともが免許を持たないほうが良いと判断なさったのか、もしそうなら本当に可哀そうだが、ご家族の意をくむのも仕方ないかとも思える。今や車はオートマチック主流で、私のようにマニュアル車しか運転出来ない者は、むしろ「ダメな奴」と思われても仕方ないほどになった。オートマなら、やっかいなクラッチ操作はない。璃音さんがゴーカートで友達のゴーカートに突っ込んだとも話していたが、オートマ車は言わばゴーカートの如きもの。どこか道交法に抵触せぬ場所で、存分に練習させてあげられないものかと、つい仏心が出る。私が現代の成人で普通免許を持たない人に好感を抱く原因のもう一つが、亡き母が生涯普通免許を持たなかった事実だ。母は昭和2年、1927年生まれで、最終学歴は高等女学校卒だが、同期の婦人の中には普通免許を持つかたが複数いた。母は「お母さんは不適格だよ。自転車も乗れないしね」とよく言っていたが、私はひそかにこの母の姿勢を評価していた。遅咲きの桜であった私のバイク免許取得にも何も言わず同意してくれたし、人身事故のあとも、すぐに運転を許可してくれたし、この250ccバイクで車とオフセット衝突して廃車となったあとも、ほどなく二台目を買ってくれた。さすがに三台目の400ccを追突事故で大破した時は、私自身が一旦バイクを降りたが、目下新型の250ccに乗るべくバイク店の連絡を待つ身。母の寛容は、PD(パニック障害)で長く苦しんだ私を哀れと認めて、せめて生きるあいだは楽しませようとの親心と察している。かく言う私はというと。もし、免許証資格に関して、適性テストのようなものがあって、適格と不適格のあいだを何段階かに分けたら、私は不適格に近いほうに位置するとみている。オートバイ免許についても、初め発進が出来ずにエンストを繰り返していた。バイク免許を持っている人なら、初日外周一周も出来ず、発進即エンスト転倒をほぼ10回繰り返した男がよくも免許を取れたと事情をわかるのではないか。「どうも体が向いていないのではないか」とさえ思った。璃音さんが今後どうなるか、どうするかはわからないが、今の時代に生きる社会人の中に、このように自己の適性をとらえている人がいることは意味があるとも思い、またその考えに敬意さえ持っている。さて、大島璃音さんに心ひかれた決定打は「彼女がごく自然に涙もろさを見せた」ことだ。これにつきる。もし想いを寄せる異性が、こんな涙を見せたら、たいていの男はこれにてノックアウトされるのではないかと思うほど、彼女の読み上げた視聴者メールは胸を打った。私は女々しいと言われるとも、このごろ感激してみたいと思うたび、大島璃音さんの涙を見られる番組をお気に入り登録からクリックし、彼女が「泣きそう」と言うあたりから既に目を潤ませる次第だ。「おかえりメール」で読み上げる途中、感極まる寸前の大島璃音(おおしま・りのん)さんただ。年はとりたくないと思う別の意識も働く。女の涙は禁物だとか、女は魔物だと昔からよく言われて来たことだ。実は「涙もろい」人は案外いるし、殊に女ですぐ感激し涙を流す人も少なくない。亡き父は、特にテレビドラマなどで、たいてい感激しそうなシーンになっても、全く涙どころか、感激、感動の表情さえ見せないたちだった。反対に母はよく涙ぐんでいた。夫婦の情愛をていねいに描いて見せたNHKのドラマ「流れ雲」は、その最たるものだった。このことだけで、もしこの番組を思い出せる人がいたら、かなりのテレビドラマ好きと言えようか。ところが父はまああんまり無感動だと気が引けたのか、「ううむ。名優じゃ」とひとこと、どうでもいいことを言っただけだった。だが実はいたずらに心をゆさぶられない父のこの姿を、父亡き今は、改めて評価しているのだ。父は逆にたやすく感激し過ぎる我々に「どうせ作り話だ」と憎々しげに言ったものだ。たやすく感激しない性質は、場合によって、冷静をもたらして良いことではないかとも今では思える。話がそれた。何もあてつけに書いたのではない。ものごとに心を動かすことの出来る性質は、それはそれで結構なことではある。殊に婦人は無感動より、人柄を思わせるから、いいことではないか。カメラさんの工夫と大島さんのユーモアで俄然盛り上がるシーン。月は本物の三日月。変な話になってしまった。なお、決して付け足しではなく、ウエザー・ニュースに於いて人気最高位を競い続けるかのような、駒木結衣(こまき・ゆい)さん、檜山沙耶(ひやま・さや)さんの出演番組も、見るたび面白くおかしく、さらに角田奈緒子(かくた・なおこ)さんも美しいうえにきさくな語り方で、とにかく楽しませて下さる。お名前を全員枚挙したいのだが、正直、私はかなり老いを痛感するこのごろで、駒木結衣さん、檜山沙耶さんのお二人を、初めのうち区別出来なかった。もしかしたら「失礼しちゃうわ ! 」とお二人ともこれを知ったら、お思いになるかも知れない。サムネイルによっては「二人は姉妹」などと書いてあったので、「そうか、やっぱり」と勘違いしたほどだ。今では全く別人との区別が出来る。プロフィールは次第にディテールに及んで、遂に私の悪いクセである学歴にまで検索知識が到達している。角田奈緒子さんも抜群にきれいな人で、しかもたいていの男を惑わせる童顔。ブレザーの制服を着たら、高校生かそれより若く見えるはず。角田さんに驚いたのは、国立の大阪教育大を卒業していることだ。つまりセンター試験かそれに相当するものを受けているのだ。私がこんにちあるのは、学歴偏重のポリシーを通したからなのも事実で、否定したらそれは世間への迎合である。高校3年間を、特に帰宅後の夜の数時間を勉強机に向かうことを習慣化して過ごしたからこそ、のちの学習塾経営にもつながる。3つ上の亡き兄もまた、高校生の本分を学習と位置付けて貫き、その後白血病で死んだにせよ、少なくも私のこんにちの姿を導いてくれたことは間違いない。「高校生活を部活動の時期」なぞと言う者どもを唾棄すべしと嫌いだ。兄は学校生活を学習オンリーなどとは限定しない柔軟な人間だったが、運動神経無しの私はかたくなな人間になってしまった。バランスの良い美しさに思わず見とれる駒木結衣(こまき・ゆい)さん。魅力あふれるキャスターさんたちを礼賛するつもりが、どうしても偉そうな内容になってしまう。ええと、今思い出したのだが、駒木結衣さんの番組で、傑作なのがあった。これはご本人のおかしがりようにも、見事なセンスが表われているに違いないと思うが。ある時、駒木結衣さんが「接写リポートをお送り下さい」という意味のことをおっしゃったほぼ直後、多くの視聴者が「拙者」とダジャレを思いついて、「画像を送るでござる」と返して来たのがきっかけで、爆笑となった。駒木結衣さんの番組では、相当笑い上戸と思われる駒木さんが、服装の柄に「弾痕」と茶化されて笑い出すシーンも傑作。何度見てもおかしく、本当に大笑いさせられる。駒木さんご本人のレスポンスの良さも無視出来ない。とにかく、大爆笑の回となった。「接近して写真を撮るということです ! 」と結衣さんは穏やかに返すのだが、もちろん怒ってなぞいない。これだけのギャグなのに、しばし騒然、おかしがりやすい駒木結衣さんの反応も、視聴者たちに、楽しく響いていたはず。ここでシラケるようなことを書いとくが、駒木結衣さん、あの才媛を輩出する『津田塾大学』出身である。偉そうなところなぞ、少しもちらつかせないばかりか、見事に視聴者に溶け込んで、その人気はうなぎ上りに相違ない。本当は利発この上なき才媛、否、才色兼備のレディである。マズい。大島璃音さんにスポットをあてるつもりで書いたのに、有力なキャスターのかたがたに言及し出したら、案の定、話があちこちに散らばってしまった。なお、私個人として、茨城県に縁が濃い、檜山沙耶(ひやま・さや)さんをも意識して、うずうずしているが、今後書く機会はあるかも知れないので、ここは無念だが措(お)く。ただ、亡き兄のことをやや書く。檜山沙耶(ひやま・さや)さんもとても整った美形。茨城弁を聞かせてくれることもある。湿っぽくなるが私には命の恩人と言える存在で、既に幽明境を異にする世界へ離れ離れになったとて、悲しみと懐かしさは脳裏を去らない。茨城県は兄が新築の建売を買った地で、茨城県土浦市である。兄の家を目指す時、常磐道を進み、『桜土浦』インターを降りてまもなくなじんだ家並みのところに出る。兄が家を買い、ついで私が平成元年1989年に一戸建てを建てることが出来た。もはや築30年を超えて、今や老朽化があちこちに出ている。兄のことはここまで。全体に妙な、構成が下手な駄文羅列になってしまったが、実はこのごろ下書きを推敲しない。かつてのブログは長く書いたものを推敲して削り、短くまとめてから更新したものである。ゆえに偉そうな経歴の話も削ったり、初めから書かなかったりしたが、最近、相棒と呼ぶリケ女のサイエンスレディが、生きているうちに本心本音で迫れとほぼ下知するので、残すこととした。最後に。大島璃音さんは、やはり才媛。青山学院大学出身の才色兼備のレディである。同大学は箱根駅伝の上位大学としても、また優勝回数の多さでもつとに有名。さらに最後に。山口剛央(やまぐち・たけひさ)氏は、私のような上っ面の知識しかない者には、驚くべき理系知識の人に見える。ネット情報を頼っても、具体的なことはわからないが、何んと、理系が苦手で法学部に進んだという。しかし、気象予報士の資格を持つ人間はかなりの理系知識、理系洞察力の持ち主なはずである。要するに本当に頭のいい人は、必ずしも経歴に表われる学歴だけで判断はすべからずということだ。さらにしつこいが、山口剛央さんの説明を受けている時の女性キャスターのかたがたもまた、気象はもとより、地震、さらに地質のことにまで及ぶ、理解力を持ってらっしゃることがわかる。同番組は、美しいキャスターのかたがたのコントめいた面白おかしい場面が人気を集めてもいるが、どなたも根本は利発であり、頭が涼しい。恐れ入りました。久しぶりに書きたいことを湧くが如くに思いつくが、これはキャスターのかたがたが「皆さんのコメントに救われています」と、実に謙虚な語り掛けをするのを連想する。女性キャスターの頭の良さが何より根本にあるゆえと断ずる。だから私の駄文も駄文ながらもいつになく止めどがないのだ。しばらく、ウェザーニュースに楽しませていただける。お色気を伴う美しさに、心を乱されそうな思いで見とれる松雪彩花(まつゆき・あやか)さん。ところがこの女(ひと)、やはり抜群のキャラクターで笑わせてくれる。松雪彩花(まつゆき・あやか)さんの魅力の決定版みたいなものに、「キーワード・ランキング」がある。視聴者からのリポート文中などに多く現われた言葉を、多い順に並べ、その何番目かを「???」で隠し、キャスターさんが当てる。松雪彩花さんの予想が外れた時のリアクションは一瞬で悩殺される見事さ。「何んで― ! ! 」の連発は松雪さんの十八番(おはこ)と言える。●NHKドラマ「流れ雲」覚書 / 関西の代表的浪曲師「梅中軒鶯童(ばいちゅうけん・おうどう)をモデルとした同氏原作のドラマ。劇中では金田龍之介氏がその名も松風軒鳳童(しょうふうけん・ほうどう)として演じていた。その妻の留代(とめよ)を三田和代さんが演じていた。ラスト近く、妻の留代が亡くなり、遺体を荼毘(だび)に付すシーンでは、大陸の大雪原の雪上に遺体を火葬し、そのかん夫の鳳童は離れて待つという場面設定。ところがソリで走る間に、耐え切れず雪原に降りて「留代ーっ ! 」と叫んで慟哭(どうこく)するシーンが視聴者の涙を誘った。母が涙を流したのも無理もなかった。10人余りの女性キャスター陣。今回書かせていただいたのは、そのせいぜい半分のかたがたに過ぎず、どなたも見事なアナウンスとキャラクターを見せて下さる。
2022.03.11
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こればかりは吹き替え版ならではの味わい「風と共に去りぬ」オープニングナレーション 2022/03/05開始かつて懐かしき南部と呼ばれしふるさとありぬ。そは、騎士と綿畑の国。この麗しき国こそ、華やかなりし騎士道名残りの地。騎士と淑女、主(あるじ)と奴隷の姿、この地を最後に消え、今や想い出となりて記されるのみ。咲き誇りし文化、風と共に去りぬ。「風と共に去りぬ」オープニングナレーション英文 There was a land of Cavaliers and Cotton Fieldscalled the Old South...Here in this pretty world Gallantry took its last bow...Here was the last ever to be seen of Knights and their Ladies Fair, of Master and of Slave... Look for it only in books,for it is no more than a dream remembered.A Civilization gone with the wind...上記英文はテレビ画面から出来る限り読み取ったものだが、正直私の力では、日本語ナレーションのような名文はとてもつづれない。なお、字幕がすべてなどと豪語する者どもに言っておくが、洋画の字幕を担当する人はまた多く、吹き替え版の仕事も兼務している。さらに言うと、洋画で俳優が語る英語は、必ずしも直訳されていないのも事実で、最近に近い例で書いてみると。第二次世界大戦下、天才数学者アラン・チューリングを描いた「イミテーションゲーム エニグマと天才数学者の秘密」では、実は同性愛者だったチューリングが、学生時代、校長に呼ばれていろいろ言われるシーンに以下のものがある。校長の言葉にけげんな顔を見せたアラン・チューリング少年が反問するシーン。アランは「I don't understand.」と言うが、このシーンの字幕は「どういうことですか」である。これでも字幕オンリー、字幕ベストと言い張れるのかと書いておく。
2022.03.05
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『お久しぶりね』 2022/02/21開始ピンポーン ! 少し緊張。夕子「あら ! ね、入って ! 」村松「・・お邪魔します」夕子「・・・・・」村松「ん ? 」夕子「あのさ、こないだのこと、根に持ってるでしょ。あたしとのあいだに、溝が出来たって」村松「そんなこたないよ。優しくしてくれて、良かったって思ってます」夕子「じゃ、敬語取って」村松「ふうー、疲れ・・あ、いけね」夕子「なるほど。あたしがこないだ泣かしたから、傷になったのね」村松「夕子、それは違うよ」夕子「どう違うの」村松「あのあと、家(うち)帰って寝床で思い出して、でね、ちょっとまた泣いたんだけど、なぜかうれしくなったの。これが本当のこと」夕子「うーん。もしかして、あなたって、昔よく話してたように、甘えん坊なのかも知れないわよね。でも何んかイジメちゃったみたいな感じが残るわ。・・・ごめんね」村松「根にもってなんかぜーんぜん。ところで調子はどお ? 」夕子「おかげさまで、本当に体質が変わったみたいに元気よ」村松「良かった、ホントに。このあと何年か定年まで勤める必要もあるからね。でも、もしや、夕子は会社の一般的な定年に達しても、その、嘱託みたいにして継続するんじゃないの ? 」夕子「実はそうなるみたいなの。雇用形態はまだ明らかではないんだけど、定年は形式として一旦、退職ってことにして、事実上は研究室に残るみたい」村松「あのじゃあ、今のデスクなんかも、そのままってこと ? 」夕子「いえ、それはあたしと会社との簡単な契約めいた話し合いでも決めたことだけど、有望な後進に活躍してもらう意味からも、ポストは私がデスクを去ることにしているの」村松「かんぐるじゃないけど、夕子、お前の意思も入ってるんではないの ? 」夕子「あなたには隠せないね。その通り。特に男の人に譲って、会社を盛り立てて欲しいしね」村松「さすがだな。夕子の選んだ道は全く正解だったね」夕子「何んにも出ませんよ。お茶や食事くらい召し上がっていただくけど」村松「え ! きょうご飯出してくれるの」夕子「あ、そうだ。今週はお休みだから、泊まっていけ・・ないか。お薬もあるしね」村松「夕子、甘えついでに、俺、夜の薬、持って来た。ダメ ? 」夕子「それ先に言ってよ ! わあ、久しぶりね。ようし、そうと決まったら、善は急げ。ね、お買い物行きましょ」彼女の軽自動車に乗る。無論オートマ苦手な私は助手席。村松「車内も整然としてるね。CDがきちんとそろえてある。けど、これ聴いてる ? 」夕子「ええ、近場の買い物でもたいてい乗るとCDかける習慣になってる。どうかしたの ? 」村松「俺、耳が遠くなったから、CDはかけない。前にね、救急車の接近に気づかないでマズいと思ってからは・・」夕子「ふーん。耳がって、どうしてわかったの ? 」村松「訪問看護のたびに体温測るけど、そのピッピッっていう終了の合図が聞こえなくなった。あれ、高い音なんだよな」夕子「そうかぁ」村松「夕子は耳、いいからね」村松「両親健在の頃さ、テレビで、ちょうどいろいろな音を流して、ゲストなんかに試すコーナーがあったんだけど、俺はその時、大型バイクの免許取ったばかりだからか、あらゆる音域がハッキリ聞こえたけどさ、お袋も親父も、まな板で包丁トントンたたく音はよく聞こえるけど、高い電子音が聞こえにくいって言ってた。そして俺が両親の思いがわかる年齢になった」夕子「でもさ、日常生活は支障なしって感じよね。テレビでビデオなんか見てても、違和感ないもの」村松「うん」夕子「そう言えばさあ、またオートバイ乗るって・・」村松「うん。ただ、去年年末連絡があって、改めて修理するって言ってたけど・・」夕子「まだなのね。ははあ、あなたをみくびってるか、さもなければ、意外に苦戦してるって感じかなぁ。メインキーの不具合って、案外知識ないんじゃないかな」村松「でね、待つあいだに久しぶりに書店のバイク雑誌なんか買って見てたらさ、グラストラッカーのあとに乗りたいのがいろいろ出て来てさ」夕子「へえー ! あたしもいわゆるオートバイ手放して以来、スクーターばっかで、飽きて来たところへ、あなたの心変わりっていうか」村松「夕子こそ、子供も手が離れたし、いろいろ選べる環境だよな」ホンダCB250R夕子「でもさ、あなたの言うように、案外足着きを軽視してる気がする。そりゃあ、長身の男の人はいいだろうけど、特に女子はそんなに足は長くないもの」村松「あのさ、バイク雑誌は、信用出来ないね」夕子「そう。『足着きは問題ない』なんて抜け抜けと書いてるけど、あたしに言わせると、両足かかとベッタリが基本だからね。だいたい、シートのところなんてわざとじゃないのって文句言いたいくらい、上にカーブしてるわよ」村松「夕子、もしかして・・」夕子「乗りたいよ ! 今のオートバイ乗ってみたいよ ! 」村松「候補ある ? 」夕子「生産終了車になりがちだけど、例えばカワサキZ250SL」村松「お ! 夕子もか」カワサキZ250SL夕子「だってとりあえずシート高・車重とも、まあ我慢出来る」村松「シート高楽々とは言えなくない ? 」夕子「そうよ。あたしはゼファー750の780mmもアンコ抜きしてもらったぐらいだから、Z250SLの785mmも気に食わない」村松「まだまだ男でも身長170cm前後ってのは日本人少なくないしね。175cmあると、足着きは異なって来ると思うけど」夕子「全車種、ローダウン・パーツくらい用意してもらいたいわよ。ほんっと、それだけで、ストレスなく購買意欲が出るもの」村松「あのさ、月刊『オートバイ』なんかのレビュー出てる奴らさ、メーカーに迎合してるよ。モトブロガーの中に、たまにシート高が問題って言う人いるけど、でも反対に足着きは悪くないっていう奴が多い。『悪くない』なら、『いいとは言えない』って言い直せって言いたくなる。で、本格的にバイク乗ってる奴相手にすると、『低いシート高だけで単純に決まるわけではなく、乗車姿勢全体が大事だ』なんて反論されそうだから黙ってるけど」スズキGSX-S125夕子「あたし、料簡がわかんないのがホンダのCB125RとCB250R。購入検討中の客をバカにしてるのかって」村松「なあホントに。CB125Rの815mmって、何んだよ。CB250Rだって、チェンジして795mmだろ。ったく、腹が立つ」夕子「モンキー人気みたいけど、いかが ? 」村松「意地悪露骨に来たな ! 」夕子「違うの。あなたが子供の頃、ずーっとからかわれて来たっていうから、思いついたの。あたしはね、モンキー・ゴリラついでにダックスも余り好きじゃない。何んで類人猿系にするのよ」村松「そうだよ。ズバリモンキーは好きじゃない ! でも俺の場合はさらに悲惨だよ」夕子「何んで ? 」ホンダモンキー125。会話文中では言いたいことを言っていますが、動力性能など、見事なバイクだと思います。モンキー好きなかた、お許し下さい。村松「夕子に話さなかったっけ。俺さ、斡旋してもらって家庭教師してる時に、塾教室の・・」夕子「あ ! 思い出した。生徒たちが落書きするのって、・・・あなた、類人猿に似てるのかしら」村松「 ! ・・・」夕子「ちょっと。どうしたの ? 」村松「夕子にまでからかわれた」夕子「ごめん ! あたしはあなたの彼女よ、何十年間。類人猿そっくりだと思ったら、付き合ってないかもよ」村松「・・・」夕子「ちょっとお ! またべそかくの ! ? ほんっと、泣き虫になったね、あのね、人の顔は角度や反射光の加減で、いろいろに見えるの。アイドルだって女優だって、たいしたことないって見える写りあるもの。ところで」村松「何 ? 」夕子「家庭教師してる時に、一か月だっけ、学習塾やらされたって・・」村松「うん。あれは半ば脅迫だね。だいぶ面倒みて来たつもりだからって」夕子「ああ、なるほど。その頃、塾教室の分室に、穴があいたのかしらね。で、あなたに白羽の矢が立って」村松「買いかぶり過ぎってとこ。家庭教師はマンツーマンだからやったんで、教室には不向き。俺からの条件として、やってみて果たして不向きと判断したら、すぐやめるっていうことにして引き受けた。で、一ヶ月が限度。・・・何んの話だっけ ? 」夕子「いや、また蒸し返すなんて叱られそうだから」村松「ああ、そうか。そうそう、その時に、或る晩教室あけたら、網戸全面横一間(いっけん)の長さのとこに、チョークの巨大な文字で、『アウストラロピテクス』って書いてあるの。あ、笑ったな」(註 ; 一間は約180cmです)夕子「ごめん。あなた、話がうま過ぎるもの。怒らないで。帰っちゃイヤ ! 」村松「お前のその整ったルックスで言われると、帰りたくなくなるね」夕子「あの、失礼なことを聞くことになるかも知れないけど・・」村松「どうぞ何んでも」かつて、昭和30年代には図鑑などで猿人と紹介されていた北京原人。鼻に高さと言うべきものがない点で、不細工の私に似ています。夕子「あだ名は子供のころからずっとなの ? 」村松「いや、塾で落書きされるまで、そう、中学からは言われなかった。ま、成人に達しても似てると思われたんだから、かなり原始人それも原人、へたすると猿人かもね」夕子「なんてからかわれたの ? 」村松「あのね、佐野モンキーって、運動場の端から呼ばれるから、イヤだったんだよ」夕子「佐野 ! くくっ ! あっ、ごめんなさい」村松「いいや。しかし今頃、夕子にからかわれるなんてなぁ」夕子「違うわよ。佐野とサルをひっかけるようにしてかなって」村松「そうですよ。俺には『サルモンキー』って聞こえんだよ。それで運動場突っ切って文句言うと・・」夕子「佐野モンキーだよってゴマ化されるのかしら」村松「そう。サルじゃないよ、佐野だよって言い訳されて。どのみち、モンキーとは言われてるけど」ネアンデルタール人なども、知力のかけらもない獰猛な原始人のように描かれていた。夕子「動物のあだ名つけられるのって、屈辱じゃなかった ? 」村松「今回はチクチク来るね。ま、夕子だと腹も立たぬけどね」夕子「ね、傷つかなかった ? 」村松「まあ、イヤだったね。だって兄貴なんか、近藤正臣に似てるなんて言われたことあったし、もてたものな」夕子「あなたは誰かに似てるって、クスッ、言われたの ? 」村松「なるほどね」夕子「何 ? 」村松「こういうのイジルっていうのかなと思ってさ」夕子「あたし、今の言葉知らない。あ、今少し笑ったのかしら」村松「別にいいけどね、間借りしてる家のご主人に『佐野君は、バーブ佐竹に似てるね』って。この歌手、北京原人にそっくりだよ」夕子「ククッ ! ごめんなさい。あ、『子連れ狼』のテーマ歌った人かな」村松「そう」夕子「しとしとぴっちゃんよりこの『ててご橋』のほうがいいわ、あたし。あ、ごめんなさい、脱線して」村松「おっ、バイクのシート高の話」夕子「まだまだ六尺豊かな大男なんて少ないよ」村松「でもさ、セシールの通販カタログ見ると、ズボンというか、今ではパンツって言うのかな、俺がたまにまとめ買いするのがあって、サイズ見やすいんだよ。でね、股下が二つに分かれてて」夕子「二つ、だけ ? 」村松「うん。72cmと76cmだけ。股下がこれより短い人は、別の項目をさがすみたいけど、ためしにほかの表見てみると、72の下は69だけでさ、あと上が凄いよ。72の次が75,78,81。長身というか、足の長い人がいるんだなあって」夕子「そうかなあ。あたしの会社、チビぞろいかなぁ。170cmを大きく上回る人って少ない」村松「俺72でも裾で床掃除して歩いてるのに」夕子「くくっ ! 面白いこと言うね。受けちゃった」村松「76で既に『殿中でござる』になるよ」夕子「じゃあ、長裃(なががみしも)ね」大映昭和33年(1958)「忠臣蔵」。演出は「早撮りの巨匠」と謳われた渡辺邦男氏。旧制・沼津中学(現・沼津東高)卒。ある意味、一番凄い先輩と思う人だ。村松「おや、お詳しい。忠臣蔵思い出す」夕子「詳しくないよ。引きずるのって、両方でしょ」村松「ああ。今の長裃(なががみしも)と烏帽子(えぼし)大紋(だいもん)」夕子「さすがね。あら、足着きから股下になっちゃって、とうとう殿中だものね」沼津東高昭和44年(1969)早春発行の卒業記念冊子に掲載された渡辺邦男氏の回想文より。
2022.02.26
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奉祝 !! 天長節かつては浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)親王殿下として、否、私たちは当時のテレビの影響もあってか、ごくごく親しみを込めて『なるちゃん』などともお呼び申していた。親しみはあれども、畏れ多き極みであります。陛下のご健康とご多幸をお祈りいたしております。
2022.02.22
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あれ ? と思いながらも夢中だった東宝特撮映画 ! ! 2022/0214開始東宝昭和37年「キングコング対ゴジラ」(観客歴代一位)読売新聞夕刊の番組欄掲載の広告。映画は首都圏、大都市圏のみならず、実に沼津宝塚でも8月11日土曜日に公開されている。ほかに甲府宝塚、新潟宝塚、仙台日乃出、水戸宝塚、山形宝塚、八戸東宝、青森東宝など、主要都市で同時封切り。特撮殊に怪獣が好きで、恐竜が良く出て来る洋画の特撮映画もチャンスがあれば必ず見た。そして、再び三たび見たいと思うのが日本の、というより東宝の特撮映画だった。東宝特撮映画の世界に回帰するのだった。上掲二画像とも20世紀フォックス配給、1966年「恐竜百万年」三つ上の兄は言わば中庸な存在だった。早い時期にアメリカの「キング・コング」(1933年)に注目し、「ハリウッドの特撮技術はたいしたものだ。どちらかというとキング・コングのほうがいい」といった具合だ。私一人では、広い目で内外の特撮映画に触れることは出来なかった。兄の批評は辛辣を極めることもあったが、その姿勢に助けられた。ただし私は兄の前ではあえて逆らわなかったものの、どちらかというとぬいぐるみで演ずる東宝怪獣が親しめた。兄の感化は私の東宝特撮映画評価にも生かされた。そうしていろいろ見続けるうちに、特撮技術とはまた別の、例えばゴジラが次第に接近する場所の、辺りの風景に対して、「おや」と首を傾げることがあった。私は昭和35年(1960)の小学二年生の夏休み中に御殿場市に引っ越した。学校は富士宮(ふじのみや)市の大宮小学校から御殿場市の御殿場小学校に転校した。自衛官である父の仕事ゆえだ。住まいは自衛隊官舎となるが、ハッキリ言って今のややぜいたくな一戸建てからすると、建付けも良くなく、強度も貧弱だった。だがこの地を離れるまでの十有余年のあいだ、何度か襲来した台風にも耐えたから、粗末な木造官舎、なかなか見事なりと今は思える。今の、もっとも築三十有余年を経たから単純比較は出来まいが、屋根瓦がかなり吹っ飛び、屋内の天井がめくれて来た老朽家屋もまた、経年劣化により、ガタが来たのは当然かも知れない。詳しいことはわからないが、大宮小学校の校名由来は、昭和17年(1942)の市制施行による市名変更つまり旧・大宮町から富士宮市と変わった時、校名まで及ぶことはなかったと思われる。ただ、市名については、既に昭和15年(1940)市制施行された埼玉県大宮市があるので、富士宮市と改められた。個人的には『富士』との名前があるのでこれで良いと思っている。なお、埼玉県大宮市も、長く埼玉県の県庁所在地であった浦和市が新たなる合併で廃止、2001年に新しい県庁所在地が『さいたま市』となったことで、大宮市は廃止、2003年に大宮区となる。うぬぼれても仕方ないが、私は今やブログと呼ばれて親しまれるようになったこの媒体をある意味You Tubeよりも好んでいる。ブログ更新は随意、テキトーということ。この点、You Tubeを営む人は、開設の動機からして更にシビアな条件があるのだろうが、加えて良くも悪くもコメントが始終付きまとい、視聴数にも神経をつかうのがどうにも性に合わない。ユーチューブの前途、つまり未来は、これが生活の糧となるのか、果たしていつまでも順風なのか、寡聞にして存ぜぬ。このブログも、人によってはコメントを送り送られる仲間があろうが、私は2003年から始めてしばらく、ケンカ別れもあったし、私のほうから義絶したこともあった。ブログをつづり続ける以上、己れのアイデンティティーに拘泥せざるを得ぬようになる。しかも、ユーチューブと違って、文章を作ることが至上の喜び、快感でもあるので、書きたい時に書き、あとはのんびりなまけるのが体質としても合っている。ただしユーチューブでも、業としてでなく、言わばビデオ・ブログのような感覚で、やはり更新に足る素材などに恵まれた時だけアップする人もいるから、どちらかというとこのほうが共感出来る。さてさて、ブログを開始し続けた経緯の話から随分脱線してしまった。軌道修正する。御殿場市は都合15年ほど住んだところであり、今のボロ家(や)が30年余りとかなり長くなったが、それまでは御殿場が一番長かった。蛇足ついでに書いておくと、平成元年に新築した家は我が家久しぶりの二階家であり、しかも総二階でない割合ぜいたくなつくりで、何んとこの私めが建てた。改めてこんな脆弱な若造によく出来たものだと、相変わらず実感がない。小生36歳の春だった。その若造も既に古希70にあと一年足らずと年老いた。この家も、デフレ不況の今の時代に30代だとしたら、新築は叶わなかったかも知れない。少なくも住宅ローンは当時の10年完済はむつかしかったかも知れない。さていよいよ軌道修正する。御殿場市に住まう間に、私の特撮趣味は完全に一生ものの趣味となった。ゴジラ・シリーズという言葉さえなく、昭和30年に「ゴジラの逆襲」が公開されて以来、続編も新作も出なかった。昭和30年公開時に私は三つにもならず、映画館に連れて行ってもらえなかった。多分気が散って邪魔になるとの判断だろうし、それで正しい。三つ上の兄は昭和29年の「水爆大怪獣映画 ゴジラ」を映画館で見ている。隣の席の見知らぬガキとひじ掛けの権利を巡って争いとなり、あとで表へ出ろと互いに言い合ったが、終わってみると、いなかったとのこと。弟の観測では、多分兄が勝っていた。小学二年の時、体格でもはるかに上回る小学四年生を軽々倒してしまうほど、兄は相撲が得意で、のちに柔道に打ち込むほどだから、組み技では後れをとらなかったと思う。あえて名づけるなら、すくい投げの応用技の「すくい投げコマ回し」だった。相手は既に負けていて、その場でくるくる回り続け、ズデンと倒れる。おっとまた脱線した。そのあいだ、東宝特撮映画はゴジラ以外のものが必ず公開されていた。そして私が次第に興味をひかれる戦争特撮ものも。ある程度判明してから、「実は・・」とやるのは卑劣と承知だが、子供心に連合艦隊司令長官・山本五十六の言動は気になった。これも子供ゆえの素直な疑問だったが、アメリカ合衆国を相手に、本当に捨て身の戦争に踏み切ったのなら、納得はいった。「戦うも亡国、戦わざるも亡国」という無謀だが我が日本致し方なしとの思いはあった。だが、陸軍が無為無策で、ひたすら暴走したというのには引っ掛かりがあり過ぎた。私の父は既に書いた通り自衛官だったが、それも陸上自衛隊、そしてさらにさかのぼると、大東亜戦争では陸軍士官学校を卒業し、内地勤務ではあるが、陸軍歩兵中尉として軍務に就いていた。その父がよく言ったのは「陸軍士官学校は自由な気風だった」とのこと。巷間、とかく制服姿もスラっとしてカッコいい海軍ばかりが持てはやされるが、私はこれにも「そうかねぇ」と疑問だった。海軍兵学校の規律の厳しさも、どちらかというとうるさ過ぎて素直に礼賛出来なかった。元水兵程度の生き残りが、戦艦大和の話をする時に、ついでのようにしかも喜び勇んでとしか見えぬほど目を細めて、「海兵生徒が帰省で実家を目指して歩くそのあとに、いい香りが残る。これがオーデコロンだったのです」と賞賛めいて言う番組を見たことがあるが、私は「このじいさん、これはこれで罪悪史観ではないかも知れぬが、或る意味洗脳されている」と思った。海兵ばかりでなく、陸士生徒も近所の女学校生徒などに大いにもてたという話は津々浦々にあるはず。富士宮も例外ではない。これで海軍がまともで、陸軍は無為無策で暴走したというのだから、自虐史観は恐ろしい。その恰好ばかり良いと映る「帝国海軍」に恐ろしき反日分子がいた。山本五十六は単なる目立ちたがりのバカ者で、それをそそのかした『米内光政(よない・みつまさ)』がいた。未だにネットでは海軍善玉論が幅をきかせている印象だが、もうそろそろ捏造歴史を捨ててはどうか。それともそんなに海軍が、山本五十六が好きか。五十六と言えば、せっかくの名優・三船敏郎氏の演技も、ここまで暴かれては、もはや補いようもない。海軍東進策、さらなるガダルカナル戦を含む南進策など、首を傾げることばかりだ。何しろ、この輩は我が国を共産主義化せんと、天皇陛下をはじめ、慎重論を貫こうとした陸軍を出し抜き、我が日本国民をおおぜい死に至らしめたのだ。別の機会に書ける自信がないから、今書いておく。わが国には開戦前、既におおぜいの共産主義者が暗躍していて、著名人の死についても、近衛文麿は表向き服毒自殺だが、真実は謀殺されている。海軍軍令部総長だった永野修身(ながの・おさみ)も共産主義者だった。とんでもないことではあるが、永野の死についても、巣鴨プリズンに収監ののち、肺炎にかかりやすい体質の永野の獄中環境を劣悪なものにして罹患せしめ、死後遺族は、返却された遺品を心ならずも紛失している。工作分子がすきをついて奪い取ったのである。これは東京裁判に於ける事実の暴露が、アメリカにとっても不利に進むことを懸念したゆえとも言われている。初めから悪玉に仕立てんとした東條英機氏に至っては、共同謀議の先頭に立った極悪人とのシナリオがあったから、小細工はむしろせずにことを進めている。ひどい脱線になった。軌道修正。御殿場市に引っ越してから見た東宝特撮映画は、時系列で記すと、「モスラ」(昭和36年、1961)、「世界大戦争」(昭和36年、1961)、「キングコング対ゴジラ」(昭和37年、1962)、「マタンゴ」(昭和38年、1963)、「海底軍艦」(昭和38年、1963)、「モスラ対ゴジラ」(昭和39年、1964)、「三大怪獣地球最大の決戦」(昭和39年、1964)。昭和30年代はこのくらい。このかんに公開された「妖星ゴラス」(昭和37年、1962)は見てない。恐らく見せてもらえなかった。次々公開される東宝特撮映画をすべて見るのはややぜいたくとみなされていた。兄が定期購読していた学研の学習雑誌「中一コース」のグラビアに妖星ゴラスを見た時、かなり興奮したことは覚えている。本当に長くなってしまったが、この中でゴジラ映画シリーズ中、観客動員数で歴代トップとなった昭和37年公開の「キングコング対ゴジラ」を街の映画館で見ている。私が小学四年、兄が中学一年である。動員数は「キングコング対ゴジラ」が1120万人。配給収入歴代トップを記録した「シン・ゴジラ」(2016年)は、動員数では551万人。同時代としての単純比較は出来ぬものの、ザっと二倍の開きが優にある。「Oh ! It's GOZIRA ! 」「GODZILLA」ではなく、「ゴジラ」と発音していたのも好印象。とにかく楽しかった。面白かった。この映画には別の点でも、親しみが持てる。なお、私は昔も今も、およそ運転手と名の付く職業を生業とする人々には特別の感情を持っている。どちらかというと恐怖に近い。柔道や空手の有段者に持つ感覚に近いかも知れない。利害が一致せぬ時、つまり路上などでトラブルになりかかると、凄んだり脅したりする傾向が強いとみる。富士急行は御殿場市に住むあいだも、現在の富士市でも、公共交通機関として、避けて通れないものである。もちろん自家用車を使うならこの限りでない。バス運転手にはトラウマに近いものを植え付けられた。高校時代、沼津東高へかようために、自宅近くのバス停から御殿場駅までバスに乗らねばならなかった。バスはほかの車との混合交通の中で、出来るだけ時間を守らねばならないと察する。客の命を預かっているなどというのはとりあえず当然のことなれど、バス運転手も人の子であり、己れの生活を安定させ続けたい思いもあるはず。各停留所に停止する時刻を定刻かそれに近くするのは大変なことで、神経の使い方も半端なものではないはず。車が好きという趣味レベルの者どものたまのドライブとは全く異なるは当然。それらを承知の上で高校時代に遭遇したトラブルのことをつづる。ある朝、いつもの旧国道246号線上の仲町(なかちょう)なるバス停で到着した富士急行のバスに乗るとまもなく、私のすぐ近くの一人の乗客が運転手に話しかけるのが聞こえた。「もう少し、到着時刻を加減出来ないものかねぇ」運転手は何も答えなかった。バスは数キロ先の御殿場駅にほどなく着く。怪獣映画を見に出かける時は、よく歩いて行ったもので、数キロの徒歩なぞ苦にもならなかった。さて、急ぎローカル線の御殿場線に乗らねばならないから、ほとんど何も考えず、バスを降りようとする。その時、ひとことも発せず黙っていた(多分)若い運転手が、突然大音(だいおん)発して「おう ! そこの馬の骨 ! ちいっと待ってろや、話つけてやっからよぉ ! 」今でいう「切れて」いる様子。ケンカを売られかかった乗客は、当時の私からすると、壮年の紳士で、この人は同じく仲町バス停から乗って来る一人の白い杖を必ずついた目の不自由な人の手を引いて誘導する役を恐らく善意でほぼ毎朝行なっていた。しかし運転手はこの紳士を恐らく知らない。格闘技などには全く無縁の私は瞬間、暴力が起こるムードへの恐怖が全身に走り、そして何んとも不愉快な気分にもなった。本質的に暴力、殴る、蹴るは大嫌いだ。もっとも、30代前後に初めて他人の身体を激しく攻撃して戦闘不能にしたことがある。美空ひばりさんのヒット曲「柔」の三番に「♪ 口で云うより手のほうが早い、バカを相手の時じゃない・・・」というのがあり、小学六年でたちまちこの歌を好きになって以来、ますますいきなり声を荒げて威嚇せんとする奴を反射的に憎むようになったが、高校時代のこの朝は、恐ろしさと理不尽への不快感がないまぜになっていた。バスの仕事も大変だろうが、この運転手には乗客への接客態度に難がある。壮年の紳士も、うっかり言ってしまったが、毎朝の運転手のずさんな勤務に辟易もしていただろう。だからついつい各停時刻への注文の言葉を言ってしまった。「あの・・、この人をホームまで届けなければならないから・・」と精一杯、トラブル発展を回避しようとしていたが、運転手はほとんど同じ荒っぽい言葉を続けて、カリカリしていたものの、やがておおぜいの客が降りるうちに、あきらめたようだった。だいたい富士急の営業所は目の前。何かあればすぐに上位の人間があいだに入るなどしただろうが。なおこれにはやや後日談めいたものがある。この朝の一件に関わるのかどうかはわからないが、何日かあとのいつもの朝、壮年の紳士が乗車していなくて、客がそれぞれ降りて御殿場駅を目指して散って行くと、目の不自由な人は、バスまでは降りたところが、当然その場にとどまって一歩も動けない様子だった。人とは冷たいものだと思った。そのバスを降りた誰も、目の不自由な人の手を引いて助けようとしない。まるでその行為を恥ずかしく思っているようにも思えた。ためらうまもあらばこそ、ツッと近寄った私は「どうぞ」と声をかけて、その人と並んで駅へ歩き出したが、障害者のかたの誘導なぞ初めてで、道路の段差を気遣うことさえ考える余裕がなく、しまったと思ったが、その時、一つ学んだことがあった。目の不自由な人は、鋭いカンを持っていた。段差に一方の足がひっかかるとみたとたん、体勢を整えて、滑らかな足取りでここをクリアーした。杖もだてではないように見えた。また話が飛んだが、要は映画「キングコング対ゴジラ」に避難用のバスが数台待機して並ぶシーンに「富士急行」のバスが止まっていたということだ。映画は浜美枝さん演ずるふみちゃんこと、ふみ子が、恋人の一雄(かずお)の乗船した第二新盛丸(しんせいまる)が、北方海上で沈没したとの報を受け、急ぎ東北本線の急行「つがる」で向かうシーンに、待機バスとして、実に富士急のバスが何台も止まっている。自衛隊のヘリコプターがいち早く「東北本線北上中の列車に警告 ! ・・・」と急報して、さて、どのあたりの設定なのかわからないが、列車は急ブレーキの音をきしませて停車し、テンポよく場面が移り変わってゆく。ふみ子は、一人遅れてしまって、あわやという時、一雄のジープがかけつけて間一髪、ゴジラから避難して助かるというものだ。さよう、一雄は途中の根室で船を降りて無事だった。実は私はこの恋人同士の二人のシーンがとても好きである。リアルタイムの時はまだサル同然のガキで何んとも思わなかったが。あえて石頭を装って言うと、東宝本線北上中の急行なら、上野を出てかなり走ると、少なくも首都圏は過ぎて、北関東より北のどこかに至っているはずだと思いたいが、映画ではゴジラは既に松島湾に表われて上陸、南下している。ゴジラの歩く速さは劇中の隊員のセリフにもある通り、時速約50kmほどなので、その巨体を一歩進めると、そんな速さになるのかも知れない。なお、東北本線の起点は、正式には東京、終点は盛岡らしいのだが、現実には、東京駅あるいは上野駅と青森駅とを結んで走るから、ここでは映画に合わせておく。いずれにしても、いくらかなりとも東北地方に達していたならば、宮城県より南としても、福島県のどこかを既に走っていたはずで、つまり映画に現われる富士急バスは、いかにも不思議な設定、地理状況といぶかしく思って当然だ。このことに関して、本編監督の本多猪四郎(ほんだ・いしろう)氏へのインタビュー記事が記録として存在するので、抜粋する。この「東宝SF特撮映画シリーズVOL.5」の出版元はまさしく東宝自身であり、本書の背には「東宝 出版事業室」と記されているし、かの画期的大冊「東宝特撮映画全史」の広告が本書巻末近くにも掲載されている。ハリウッド映画ならば、とにかく地理的正確を最優先して描くのだろうが、そんなお堅いことはないのが我が日本の東宝の特撮映画だ。以下本書インタビューページから抜粋(p164。抜粋文中敬称略)。――急行津軽から浜美枝さんたちがドッと逃げ出すシーンは、本当にどこかの線路で撮影したような感じですが。本多「あれは谷峨(やが)の駅から少し行った所で、国鉄の電車に止まってもらって撮ったの(笑)」(註: 谷峨駅は御殿場線の駅)――そんなことをして、良いんですか(笑)。本多「まあ、製作側は苦労しますけどやってくれるんですよ、頼めば(笑)」――そのあとに避難民がトラックに収容されるシーンは ? 」本多「山中湖の南側の山ふところに浅瀬というところ、木を切り出して運ぶ森林鉄道があってね。ちょうどそこからトラックに受け継ぐ場所なんですよ。そこへロケ隊と一緒にバスもエキストラも入って行って、ロケイションし、列車から降りたカットとつなげたわけ」――そうすると、本編の部分だけでも相当、時間がかかっていますね」本多「あれは、3ケ月くらいかかってたでしょう」以上抜粋。つまり劇中設定がたとえ東北本線であっても、実際に使われたのは『御殿場線』なのである。線路のそばを流れる川も、阿武隈(あぶくま)川でも北上川でもなく、あるいは御殿場線と並ぶように流れる酒匂川(さかわがわ)かも知れない。蛇足ながら、御殿場線の上り路線のうち、御殿場駅―国府津駅間の駅名を記しておく。御殿場駅―足柄駅―駿河小山(おやま)駅―谷峨(やが)駅―山北(やまきた)駅―東山北駅―松田駅―相模金子駅―上大井(かみおおい)駅―下曽我(しもそが)駅―国府津(こうづ)駅このうち、谷峨駅―山北駅間に、第一から第三まで三つの酒匂川橋梁が造られており、さらにウィキペディアに第三橋梁が「地球防衛軍」(昭和32年、1957年)でロケ・シーンに使われたとある。ロボット怪獣モゲラが避難民を襲うシーンだ。さらに付け加えると、御殿場線はかつては東海道本線の一部として運営されていたが、1934(昭和9)年12月1日の丹那(たんな)トンネル開通に伴い、国府津駅―沼津駅間は支線の御殿場線となった。なお、御殿場線は、私が高校一年入学の頃は長く活躍したD52型蒸気機関車が使われていたが、同年つまり1968年、昭和43年7月に全線電化されることにより、「でごに」との愛称でも親しまれて来たD52型はその役目を終えて姿を消し、現在は御殿場駅前広場のうち、富士山口側「ポッポ広場」に保存展示されている。くどいが何もアラさがしをして、その快を楽しもうなぞとは少しも思っていない。東宝特撮映画には限りなく懐旧の情が起こり、常に過ぎ去りし日々への回顧の念がたぎっている。で、先ほどの恋人二人のシーン。改めて見るたび「この二人は出来ている」と無条件に納得する。だいたい東北本線の列車を特定はしたと言っても、ジープでどこへ向かったらいいのか。私なら確実にうろたえて、どこを目指すかわからなくなる。何より昭和37年当時、自家用車そのものがない。しかし一雄の運転するジープはまるで道案内が確定しているかのように、まっしぐらに走る。そして、東北地方のどこかへ無事ついて、さらにはふみ子の姿を追い求めて、「この方向に違いない」と自信たっぷりの如くにひた走り、遂にふみ子を発見するから恐れ入った。川はふみ子役の浜美枝さんが熱演してもおぼれる心配がないほど、慎重に準備してあるのかも知れないが、一応、東北本線と並走するように流れるいずれかの川としておこう。ふみ子は、恐怖と疲労で前後を失いかけるほど混乱の極にあると納得出来る様子で、川にどんどん入ってゆき、きれいな白いハンドバッグもようやく指をかけてある程度で、川の中で足をとられたか、品の良さそうな純白のスーツは川の中で転んだためにずぶ濡れとなった。その拍子にか、ハンドバッグを川に流してしまい、見ていてももったいないとは思えず、何しろゴジラが迫っているから無理もないと無条件に思わせる。そこへ遂にジープでかけつけた一雄が彼女を見つけ、びしょ濡れの体を抱きかかえて、余裕さえありそうなたくましさでジープへ乗せる。夏にふさわしい軽装なので、川で転んだら、ほとんど肌が透けるくらいになり、それでも生死をかけた緊急時、何んとか二人とも最悪の事態を脱した。ここで佐原健二氏演ずる一雄が「どうやら助かったらしい」と言ってすぐふみ子をいたわるように抱いて、「このあわて者さん」とポツリ言うと、ふみ子は、「バカっ ! 」と感極まったかのように叫び、続いて「バカバカバカバカバカ ! 」と、五回も叫ぶ。さすがに女人に縁のない私でも、「こりゃ、二人とっくに出来てるな」と判断したものだ。気の合う恋人同士を描いた場面は、古往今来の物語、あるいは古今東西の映画の中に、それこそ五万とあるだろうが、私はこの怪獣映画に登場した二人の姿に、文句なく「出来てる」と満足。おしまいです。
2022.02.18
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奉祝『紀元節』 皇紀2682年2月11日
2022.02.11
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