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「一輪車少女・高校編」2020年1月14日開始本編・小学校編と題して、初め掲載を考えたが、中学時代がない。やや残念だが出会い編として、タイトルもごく平凡なものにして、第一回目を掲載した。中学生の春香(はるか)の姿をぜひとも記録したかった。地元のこととて、通(かよ)う中学はせいぜい鷹岡中学、岳陽中学などに絞られる。なお、ブログ歴十六年の経験で偉そうに書くが、己れのブログが知らぬ間に他人に読まれて、さらに折りに触れ複数回読まれることはまずないとわかった。ただし、「よく読まれている記事」欄には毎日必ず何件か並ぶので、ネットをよく利用する人、ブログを利用する人にはたまたま読まれているかも知れない。何んとなれば、私のブログの存在を知っている人でさえ、時々に読んでいるということさえひんぱんにはない事実でわかる。この私がそうだが、他人の生活の話なぞわざわざ読む気はしないのだ。コメントがひんぱんなものは、また別の原因があるだろう。プロの作家の著作でさえ、ほとんど読む気は起きない。まして素人のそれとなるとなおのことだ。さらにフェイスブックオンリーの人もいるし、You Tubeオンリーの人もいて、ハッキリ言って住む世界が異なるので、ブログが読まれているとは断言も推定も出来ない。長々と書いたが、ある年に出会った一輪車サークルの少女とのことをかなりまたはいささか書いても、彼女の存在が知れて、プライバシーにかかわる惧(おそ)れなしと独断推理した。この旨、本人に伝え、了解を得た。さすがに掲載を拒否されるのを初め恐れていた。ちなみに彼女は今、女子大生だ。一回目に数年前と書いたのも、近所のスーパーの実名を出したのも脚色というか虚偽掲載であり、彼女の住まい近辺をさぐられる惧れあらじとの推定による。私の自家用車は免許取得後ほぼずっと軽自動車だ。いずれ歴代所有軽自動車のことも書こうと予定している。この軽で春香を自宅まで送り届ける途中、母親の勤める店に寄って、お互いの身の確かさを知らせ合った。このあとすぐ、本人を自宅まで送り届けることとなるが、徒歩で行くにはかなり遠かった。一輪車を抱えた彼女は、路線バスを使ってポスティング活動をした。人見知りのなさ、人懐っこさは驚異に値する。人との交流乏しい私は、この類いまれな性格を持つ人との出会いを待ち望むが、まず出会いはない。ほとんどが人見知りだ。しかし、ひとたび巡り会えると、これもほとんど一瞬で稀なる人見知りの無さを実感出来るので、この時の感激はまず全身がカッと熱くなるほど心地よい。くどいが、この手の稀なる人柄の人は、何人に一人の割合なのか、知る由もないながら、感動的な感覚をもたらすことは間違いない。ただし、この人見知りの無い者にとって、ほとんどの相手がごく普通の平凡なタチの者なので、ここで春香のような娘には、実はこれまた天性と言える観察眼、慧眼(けいがん)が働き、峻別する能力がフル稼働する。私はからくも彼女のフルイの目に引っ掛かって、選にもれずに救い上げられた者と言える。この点、彼女は単に八方美人的な性質ではなく、相手を見ることに長けている。上掲画像、使用前・使用後。昭和61年、旧宅で間に合わせの学習塾開業の時のチラシ広告。既に畳んだ学習塾の看板は無理に撤去するに及ばぬだろうと決めていたが、仕舞屋(しもたや)となって久しいから、意識するとかなり目立つこの看板が目障りだったのも確かだ。皮肉にも2018年の台風でこの看板がほぼ倒壊し、退院後、業者のかたに頼んで骨組みの鉄骨を残して完全にはずしてもらって、実は気持ちがさっぱりした。少女・春香と出会った時、看板はまだ無事で、実はまことに細々ながらもわずかな生徒さんを相手に高校数学に絞って経営していた。彼女はこの看板に当然気づいていた。不思議なものでもないが、普段己れの知力を意識することがなくても、話題が出たら、当たり前だが、学歴などの話はまあする。ただし、これもあえて書くと、学歴にも上下があり、大卒にも上下どころか国立大卒にも上中下、があるから、たいてい世辞・追従(ついしょう)のひとことぐらい聞くことはあったが、世間の多くは同等の大卒でないので、世間知に長けたかどうかが、特に男子の評価基準のおおかたを占めるゆえ、世間知らずの私はメッキがすぐはがれ、またははがされ、屈辱的な思いをずいぶん味わった。だが、この年配へ来て、再びゴーイング・マイ・ウェイで行こうと決心、己れの学歴を振り返る気になった。私の世代、つまり昭和20年代生まれは、大学進学は家庭の事情がない限り進学可能であった。ただし、国公立大となると、学科の成績が平均してある水準に達していないと困難になる。高校時代に、そろそろ趣味に親しもうと思うのは人情の自然かも知れないが、ズバリ言って、国公立大現役合格を目指すなら、趣味は禁物だろう。私も多趣味人間なので、ゴジラに始まる怪獣、特撮、下手ながらひたすら書く文章などは、骨休めとして親しむのはいいが、やはり深入りしたり、その世界に耽溺(たんでき)することはご法度といえる。中学三年で興味をそそられたドラムスも、たたきたくて仕方なかったが、これは場所をとるし、環境的にも思いきり親しめるものではなかったから、これが幸いしたか、実物に触れる機会を得られずに高校進学出来た。高校一年の終わりに、素人流丸出しのデタラメテクニックでただ一度ステージでドラムをたたいたのも、これはこれで良かったと言える。今、本格的なレッスンを受けてしょっちゅう壁にぶち当たっているところである。小学四年程度で「防衛大学校」の存在を知り、学科の成績は「高校が勝負」ということを知るのは、まあたいてい親が影響を与えることがほとんどだが、それ以外の原因もあるかも知れない。春香は、両親の感化を受けずに、独自に学習に対する考えを確立していた。さて、思春期にさしかかり、さらに高校生になると、趣味に興じたいという願望が強くなる。ところが大学受験を考慮するなら、この趣味に気持ちを向け過ぎるのは禁物だ。経験から言えるが、様々な雑学知識は身についても、平均的な教養・知識は要するに穴ぼこだらけになる。くどいが国公立大を目指す場合に限る。ここでは例外を除いている。ある程度学科の成績が良いのが当たり前のようないわゆる「出来る」頭の生徒なら、例えば部活動に打ち込んでも、OBとなる頃から猛然と学習に励めば充分かも知れない。なぜ偉そうなことを書き並べるかというと、私はごく平凡な普通程度の能力しか持ち合わせていないにも関わらず、とりあえず高校も大学もあるレベル以上のところに進めたからだ。謙そんという言葉があるが、私をよく知る母ゃ兄は、私の進路に期待をしていなかった。強いて言うなら虚仮(こけ)の一念である。静岡県下有数と言われる沼津東高に合格したのも、虚仮の一念なら、現筑波大である旧・東京教育大に受かったのも虚仮の一念に違いない。高校・大学いずれも、「落ちた」と覚悟しふてくされた末に、なにゆえか受かっていたまでだ。高校入試は三つ上の兄が既に現役受験に臨んだ国立大医学部――鳥取大医学部に勝算なしと判断し、自衛隊官舎の自宅で体を休めており、速報性に優れていた静岡新聞夕刊の即日解答を見て、私の特に理科の不出来を確かめていた。ちなみに、これも想い出として、また記録として書いておくと、兄は鳥取大受験の朝、旅館の朝食に当たって、凄まじい食中毒症状でとても集中どころでなく、はやばやと帰宅した。その朝は数学という大事な科目などが目白押しで、勝算無しと早くに決めたのだった。結果、兄は三浪した。親類の者はこれを小ばかにした。親類なぞ所詮この程度だ。我が兄弟は初め、県下有数の進学校の沼津東高に兄弟相次いで合格したから、このあたりまでは優越感に恵まれた。ただし、我が家の風潮として、これを鼻にかけることはまずなかった。親類が勝手にコンプレックスをもってねたんだ。そして、兄が三浪したとわかると、鬼の首をとったように陰口をたたいた。これが兄結婚式で仲人をやった夫婦者だ。世代は我が母と同世代。親類なぞこんなものだ。今でも国公立大の医学部は狭き門で、ここに進学出来る者は、優秀な学生として高く評価を受けるが、私の兄の時代、国公立大医学部は今とは比較にならぬ超狭き門だった。それに挑戦しての三浪は至極当たり前なのだが、仲人夫婦には、それがわからない。己れの子等二人が共に明治大学に進学したことに劣等感を強く持っていたから、兄の三浪を「ざまあみろ」とほくそ笑んでいた。ちなみに、この夫婦の二人の子供の長男は富士宮北高から、妹は高校こそ富士高だが、大学は兄と同じ明治大学。私も兄も当時の東京六大学なぞは有象無象と見下していた。さらに言えば、青山学院大も中央大学もどんぐりの背比べである。ちなみに六大学で異色なのは東京大学。無論日本一の大学なのだ。私たち兄弟が私立(わたくしりつ)大学を見下していた根拠はただ一つ。受験科目数の偏りとの一点に尽きる。学費、授業料の多寡ではない。国公立大の受験は、原則、数学・英語・国語がある。ところが、私立大は選び方により、文系は英語・国語主体、数学は無い ! 私立大理系は数学主体で、英語は形式的、そして国語はない。国公立大はこれも大学によるが、文系は英語主体だが数学もある(センター試験など)。理系は数学・理科主体だが、英語もあり、私の場合は社会も国語もあった。今の筑波大学も実質は変わらないと思う。わたくしごとをしばらく書き続けようかと思ったが、やや呪詛めいた文言の羅列に疲れた。話題を変える。要は聡明な少女・春香のことを書きたかった。ごく最近、本人から連絡があり、面白いことに気づかされ、その符合に驚いた。昨今の女の子の名前はもはやこれ以上奇抜なものはないだろうという想像も働かないほど、どっちかと言えば奇天烈なものが存在するので、あきれるを通り越して、驚きもせぬが、私が一輪車の少女の仮名(かめい)をつけて春香としたところ、昨年年末のメールで、「めぞん一刻」のハッピーエンドの二人のあいだに生まれた娘と同じ名前と指摘され、奇妙な偶然の一致に改めて驚いた。「めぞん一刻」については、春香(一輪車少女)との話のほうが書きやすいし、懐かしくもあるので、会話の形をとってみる。歳月をさかのぼる。少女・春香がそろそろ中学に上がる頃だと思い、まあ期待し過ぎぬようにと言い聞かせつつも、得難い話し相手との思いがあり、どうしたのかと怪訝な気持ちだった。忘れかけた頃、春五月に封書が投函された。春香からだった。富士市から引っ越したとの連絡。いい年してみっともないが、正直さびしかった。じかに会って語らうに如くはなし。私のような偏屈な者になると、これはなおさらとなる。同年代に友人は一人も出来ず、なぜか年の差著しい相手にどうかすると恵まれることがある。だがさびしさは束の間。彼女からの便りはあいだをおかぬ、たびたびのものとなり、文面にしたためられた折々の生活の描写のほうが場合により、会うよりも楽しいと思えるようになった。春香は手の届くところにいる心地さえして来た。手紙の文章は変化をつけて見事だった。かつて初めて私の軽自動車に乗せて近場へのドライブをした時も、既にいい意味でなれなれしい言葉遣いで相手をしてくれた。その時の再現のように、文面は今でいうため口言葉が躍っていた。これは実際に経験しなければわからない楽しさだ。脚色して再現してみる。なお、私のことを初めから「おじいさん」とは呼ばず、「おじさん」と呼んだが、私の脚色である。2000年代初めの手紙より。☆ごぶさたしていましたが、お元気でお過ごしでしょうか。実は私は両親の都合で、住み慣れた富士市からこの地へ引っ越すこととなりました。市内だったら、中学の制服でも着て、おじいちゃんに会いに行けたかも知れませんが、気持ちが落ち着いてからのほうがいいかと思ううちに、もう五月になりました。私のあけすけな性格を知っているでしょうから、ご心配に及びませんと書いておきます。お察しの通り、私は新しい土地でもすぐに仲間が出来ました。・・・中略・・・さて、そろそろ末筆になります。最後におじいさんの好きなプレゼントを贈ります。何んだかわかりますか。「フフッ」これですよ。これだけですけど、私のこの笑い方がいいんだとほめてくれてたので、手紙の最後に書きました。「フフッ」。ウソですよ。ホントのプレゼントは、私の新しい住まいの情報です。「ふふっ」。おじいさん、方向音痴だと言ってたから、これでもずいぶんいろいろな方法で自宅までの経路をお知らせしました。それから、・・・・・★・・・これを読みながら、私は不覚にも涙を流し、まるで恋人がイタズラ心半分で、便りを寄こしてくれたかのように、喜びに浸っていた。・・・★文面続き。それから、「うふふ」。もう繰り返すと効果ないかしら。プレゼントはまだですよ。はい、これが私の連絡先の番号です。もし生意気だと不快に思われたら、申し訳ないので、あらかじめお詫びしておきます。少しでも退屈しのぎになったら、私も望外の喜びです。ホントよ !ではまた。追伸 / もう開封したかも知れませんが、中学一年生のピカピカの制服姿の私の写真を同封しました。御覧下さい。おじいさん、さびしい時は、美形の彼女と、そしてフフッ、それでもつまんない時は、春香の制服姿を思い出して下さいね。そのうち、時間が作れたら、会いに行きます。ご迷惑でなければ。☆・・・全く、既に残る人生への希望なぞカケラも持とうとしなかった私に、思いもかけぬ異性の出現である。初め小学生、やがて中学生。亡き兄なぞ年ごろのアイドルなどに一瞥くれて「なんだ、ガキじゃねえか」と言下に言い放っておしまいだった。兄のいかにも大人の男と思わせる態度も今や懐かしいが、私は異性の免疫がなかったせいか、十代のアイドルにも目が向いたし、現にこの小悪魔的とも言える美少女・春香にかなり心を奪われていた。私は妻帯せぬから実際のところはわからないのだが、ある年配以降、「娘が欲しい」と切望したものだ。春香に寄せた思いは、この気持ちだったかも知れない。今でもそうだが、これもある年齢から、自分が欲しいものを買っても、さほどうれしくないと思うようになった。変なたとえだが、20代半ばを過ぎても、神経性の不快感をぬぐえずにじたばたしていた頃のやるせない思いから、薄紙をはぐような回復が始まり、とりあえず家庭教師の仕事でアルバイトのようにわずかな収入を得て、さらにこの収入が平均的な勤め人のそれに迫り、追い抜くようになる頃、母が大島紬の着物を富士宮の呉服店(花島屋さん)で購入した時、「あんたが稼いでくれるようになったから、お母さん、念願の着物買えたよ」との一言がどれほどうれしく、生活の励みとなったか、懐かしく思い出す。今にして母のありがたみが身にしみてわかるのだが、一度は一家心中をほのめかした母は、回復著しい私に、折に触れ、頼もしさを強調して称えてくれた。つまり「あんたは、よくぞ立ち直ってくれたね。ホントにお母さん、うれしいよ」と常に言い続けてくれたのだ。言わずとも知れるはずと言う者もあろうが、私は特に親は、子を折に触れて言葉でほめ称える義務があると思っている。口数が多いのが女の欠点かも知れないが、この口数の多さは、時に著しく奏効する。言葉でほめることは大事なことだ。私の亡き兄などは、病が進んだ最晩年、二言目には我が子に「お父さんはお前が大好きだ」と話しかけていた。バカじゃなかろかと思える言葉だが、亡き兄の最後まで父親たらんとした見事な言葉であり態度だと、今でも思う。しめっぽくなってしまったが、今も変わらぬ最愛の亡き兄への思いである。さて、いきなり飛ばすが、春香は、思った通り、成績優秀な娘へと成長した。歳月もかなり下って、ほんの数年前の早春のある日のことだ。静岡県の高校入試が済んで既に月日が過ぎていた。パソコンはムラがあるものの、さびしい独居生活には欠かせぬものだった。パソコンにメールが届いた。春香は予想を裏切らず、県下有数の進学高校に合格していた。私の高校時代のように静岡新聞に合格者実名が掲載されていたら、コンビニで立ち読みして合格を確かめ、新聞を買って帰り、メールか電話で祝いの言葉を述べていただろう。この日はまるで我がことのようにうれしかった。無論、ご両親などが一番に喜び、合格祝いをやっただろうが、春香は私への報告をも怠らなかった。「受かったら」との約束を決めてあった。これを実行出来る私の喜びいかばかりか。春香は、合格通知のコピーも送ってくれた。さらに撮影した写真も、これはあとの楽しみにと予告して、うれしいじらせかただった。血のつながらぬ初老男にも心を開いて向けてくれる稀なる少女。前途に幸あれと祈った。自宅門扉の前で、当時の愛車カワサキZR-7Sと共に春香ちゃんの記念撮影。まだ制服の胸のバッジはつけていない珍しい一枚。なお画像加工したためか、制服の上がグレーっぽく見えるが、昔も今も変わらぬブラックである。春香ちゃんの高校の記章とバッジ。二つあるのは、私の時代のものと同じなので並べた。
2020.01.19
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タイトルの繰り返しながら、とりあえず生きています。初めブログに直接書き込みかかりましたが、操作ミスで全部消えました。ワードに打って、実に四ヶ月余りを経た今、自由の身と、スクーターを乗りこなせる現状とを二つながら喜んでいます。一度どん底まで落ちつくしたためか、先はわからねど、この年にして、身体が言うことをきくありがたさを思い知りました。春を味わわず、つゆの時節も真夏も通り越して、八月上旬に自宅に戻りましたが、まだ身のまわりの事どもをあれこれやらねばならず、そんな明け暮れに忙殺さるる日々を送っています。最も短いブログでしょうが、ワードに下書きする環境と気力が戻ることを自ら願いつつ、明日の身の無事も知る由もない中で、くどいことながら、身の自由を堪能し続ける毎日です。体調は悪化極まれるところまで進み、のち、己れの身体そのものがとどまってくれて、歯がゆいほどなれども、目下のところはいくらか回復の上昇曲線をたどっていると独断するしかありません。一つだけ近況をつづるなら、当分かなわないと思っていた外食が出来ました。昨日、今日と、二日続けて食堂で定食を平らげました。おおざっぱな場所は、富士市役所を間近に仰ぐ国道139号線、通称大月線から、少し西へ引っ込んだところの食堂です。連日昼食をとる客で繁盛する中で、常にカウンターに向い、意識して肉ものの定食を食しました。定食にはバリエーションが余りないものの、同じものを注文しても良いと気に入り、スクーターを駆る楽しさをも味わえるので、他の食堂を見つけて、通える楽しみも出来て来たら、これらをその時の様子で替えてみてもよろしいと思います。ただ、やはり市役所の近所は繁華な市街地なので、定食を扱う食堂もこのあたりに集中するのも当然とも思います。回復カーブが首尾よく続いてくれるかどうか、一寸先はわからぬことですが、意外に動ける現状を喜びました。ついついメニューを脳裡に巡らせてしまいますが、人間とは、否、生き物とは、死ぬまで食べ続ける皮肉を繰返す宿命にあり、食べるということは、死ぬまでに為すべき基準の行動の連続だと今さらに思い至った次第です。何も、定食にこだわることはなく、味噌ラーメンにライスでもいいし、ほかにもメニューは自らの好みで作れます。食べられることを喜び、この当たり前のことを実現出来たありがたさを否応なく思い知らされている現状です。再びブログを書く環境と気力に恵まれたら、三月末以来の経験を、関係者のかたがたに失礼のないよう慮ったうえで、つづり公表したいと思います。無論、私如きのために、仕事の範囲を越えてさえ下さったかたがたへの感謝は書き尽くせぬものがありますが、慮るとは、その存在も職務も書かぬことと心得、己れの体験内容をしたためるにとどめんと、自らを規制しようと勝手ながら心得ています。ただ、恩を受けたかたへの謝意は、無視出来ないので、ほんのひとこと書いておきます。複数を思わせるように書きましたが、帰宅した私を本当に心なごませて、今ある姿にしてくれたのは、支援して下さったただお一人と断じて書いておきます。この恩は筆舌を絶します。しかしながら、本当にありがとうございました。かつてよくかよった食堂。既に閉店となり、豊富なメニューから選ぶ楽しみは味わえなくなった。
2017.09.09
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「アセンション」夕子「暖かいあいだ、安心してお邪魔することが出来ないから、残念だけど、あなたの言う通りにするわ。これから梅雨があけて、夏が来て、さらに秋になって、ようやく肌寒い晩秋ごろまで、だいぶあるわね。ところで、あたし、最近ネットでいくらか興味あることを読んでみたの。これはもしあなたの心証を害することになったら悪いから、あらかじめ謝っておくね」村松「どんな話になるのか、見当もつかないけど、テーマは何 ? 」夕子「多分英語だと思うけど『アセンション』って言うの」村松「アセンション ? 初めて聞く言葉だね。・・・もしかして、一般動詞の『ascend(アセンドゥ)』の名詞形 ? 」夕子「さすがね。辞書も見ないで、当てたわ。『上昇』って意味なのよね」村松「そのアセンションがどうかしたの ? 」夕子「あなた、常日頃、『俺はこの地球に人間として生まれたことに、どうも自分の身が合わない気がし続けて来た』って言ってたでしょ。現在では精神世界とかスピリチュアルとか、言葉にしても、それほどバカにしたり、見下したりされない世の中になったでしょ。それで、あたしは、あなたが、口ぐせにした違和感のことがわかるような気がして来たの」村松「それで ? 」夕子「ネットの文章をあれこれ読むと理屈っぽくて、面倒だから、あたしなりに解釈すると、『アセンション=次元上昇』なのではないかって思ったの。あなたが感じていたのは、この感覚なのではないかと思ったの」村松「次元上昇って、俺がどこか別の異次元へでも移るってこと ? 」夕子「あくまであたしの見解だけど、あなたのいる場所は、今のこの世界のままだけど、一種の生活意識が変化して、生活レベルなどには変化があってもなくても、意識上昇が首尾よく出来れば、日常が送り続けられるってこと」村松「だけど、昭和53年春に帰宅した時は、ほとんど布団に横になって、神経薬の禁断症状を克服したとはいっても、体調はすぐれないし、当時の日記帳を見ると、7月になっても、『生きていたくない』ってことが書いてあるからなぁ」夕子「でも、あなたはお母さんから一家心中の覚悟をするよう告げられてまもなく、体調不完全のまま、家庭教師の準備にかかって、見事にその年の秋には仕事を始めているし、年内には原付免許を取って、翌年あたしと会った頃は、病なんて感じさせない頼もしさだったもの。もちろん、この頃アセンションが起きていたわけではなく、現状打破の精神力が働いたと思うけど・・」村松「じゃあさ、俺に関するそのアセンションってのは、今何らかの形で起こりつつあるの ? 」夕子「その前に、あなたは、去年年末から今年の春にかけて、ネットをおもにして、いろいろ活躍したでしょ。でも、結果はほとんど不可抗力とも言える妨害によって、ダメになったわよね。あたしは、せっかくのあなたのアセンション、生活変革と言ってもいいけど、これが残念ながら、閉鎖の結果になったってことを気にしてるの。生活パターンはブログだけを書いていた頃に戻って、しかも気力もなえたでしょ。もちろん、ブログ以外すべてやめて正しい選択だと思ったわよ」村松「確かに今、去年暮れよりも、惰性で生活してるばかりになったものな。今度お前が来てくれるのは、冬ごろだから、これも待ち遠しい。・・アセンションかぁ・・」夕子「その言葉自体にこだわらなくてもいいと思うけど、はりあいに乏しい生活になったかも知れないかなぁ・・。これは、あたしの身勝手な大胆仮説だけど・・、あなたがこの冬からしばらく、かなり活発に動けたのは良かったけど、相手が悪かった。あなたに意識上昇をもたらす相手ではなかったってこと。ともかく、しばらく過ごしてみて、様子をみることね。ごめん、たいしたこと話せないで・・」村松「いや、その気づかいがありがたいよ。冬まで全く会えないわけじゃないしな」・・・・・・・・・・この会話を最後に彼女は帰らぬ人となった。また、言いたいことの半分も書けていない。アセンション(意識変化)を望みつつ、人間に生まれ、学校へ通い、やがて大学選びで、入りたい学部が一つもないことにがく然としたこと、さらに、人からは一笑に付されようが、なぜ人は働かねばならないかということへの疑問など、彼女が居れば、巧みに円滑な会話になっただろうが、脚色だけではそれも無理なことも思い知った。話に答えてくれる相手がいないと、会話はたとえ加筆したり一部脚色するにしても、一人では思う通りに進まないことを思い知った。もはやそのかけがえのない話相手が存在しない。なお蛇足だが、彼女の死後まもなく、衛星放送の『超ムーの世界R』という番組で、出演者の紅一点、角由紀子(すみ・ゆきこ)さんが、ズバリ『アセンション』を話題にして、わかりやすく話してくれたが、そのこと自体にも驚くと共に、余りの放映時期の近さに、かえってさびしさが増して、この回の録画を削除してしまった。むなしさ・さびしさがドッと押し寄せた。最後に、彼女の説明を頼りに私見を交えて『アセンション』を感じやすい人の傾向をまとめておく。ネットの詳述とは異なったり、私が間違っているところもあるに違いないが、我流解釈でつづっておく。☆「アセンション」を望むまたは感じる人の性質☆1. 今居る世界は、本来望んでいた生活環境ではないと、常々または折に触れ感じる。2. 対人関係が苦手で他人と溶け込めず、常にある種の孤独感を覚える。3. この世界を地球の三次元と定義するなら、自分にはもっと過ごしやすい世界が別のところ(異次元または、別の恒星系)にあったはずだと思う。4. いかなる宗教にも入信の意志がなく、いくらか興味は持てても、結果として、強い否定の念を保ち、つまり無神論を貫く。5. 根本に親孝行すべしとの信念を持ちつつも、振り返るとあつれき・いさかいの事実があり、何年経っても死別の哀しみを受け入れたり、意識変化で自らの意識・生活を変えることが出来ないか、不得手で、この状況を抜け出すことはまず困難か不可能である。ただ、物理的結果は、様々に親不孝をしたことを悔いてはいても、本来は、親孝行を実践して今日に至ることを望んでいた。6. 自分が今の世界に生まれるべきではなかったとの違和感を強く持つゆえ、これはある種の自殺願望に似ているが、この世界に合わないとの頑固ともいえる違和感と、この世界で可能なあらゆる自殺手段にもまた合わない気持ち、恐怖感などがあって、この傾向の人の多くが、自殺を必ずしも実行せず出来ず、懊悩のうちに、過ごしている。7. 多くのまたはほとんどの人々が、年齢相応に成長してゆくのに対して、青年期・壮年期を過ぎても、例えば幼少年期に親しんだ『怪獣・特撮映画』・『少年活劇』などへの懐旧の情を強く持ち続ける。もっとも、所帯をもち、子供をもうけ育てる人もいるので、一傾向としてとらえたまでである。彼女の科学的考察は常に量子論に基づいていた。
2016.06.29
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タイトルは「美少女二童子・制咤迦(せいたか)&矜羯羅(こんがら)」。著者名は、楽天サイトのネームとはやや違うが、礼儀上書かない。ただし、既にこの手のサイトでは有名になっていると思われるから、いずれでも同じだろう。ともかく、礼を重んじて書かない。さて、ひところ安倍清明(あべのせいめい)にまつわる陰陽道(おんみょうどう)物語がブームになったことがあった。だが、百科事典などによる陰陽道の解説は素っ気ないほど淡々としていて、古代支那に発生した占いが元だが、神秘的側面ばかりを強調する俗信に陥る傾向があったなどと、冷たい。だが著者の、この手のものに対する関心度は確かに高いと思われるし、そうでなければこれだけ精緻を極めた物語にはなるまい。面白いのは、これだけ怨霊・悪霊・妖怪など、この世は我々生身の人間を凌駕する魑魅魍魎(ちみもうりょう)が覆い尽くす世界として、描いていながら、著者自身は例えばある時の日記で「あの世なんか信じませんよ」と、肩透かし食わすようなことを言う。これだけ「あやかし」の跋扈(ばっこ)する世界を描いて、あんまりである。ところが存外そうではない。誰もが水木しげる氏ではない。例えば、SF作家の故・星新一氏だったろうか、SF作家は皆、宇宙人をUFOをその他不可思議なことを信じていると思ったら間違いで、本気になってUFO研究などやっていたら、空想力に頼るSFなんぞ書けやしないと言っていた。これは星氏に限らずおおかたのSF作家がそうであるとも聞いた気がする。死後の世界なぞ信じなくとも、あやかしの世界の話は書けるのである。私如き理系落第の者が、著者の知識を推測するなどは無礼の限りであるが、舞台をざっと見渡して、平安期から江戸時代、そして現代と、おおよそ三つの時代をバランスよくまとめていることから察して、著者の日本史の知識はかなりのものである。学問の神様として知られる菅原道真を取り上げて物語の原因を作り上げているが、こういうところに当然ながら、太宰府に左遷されるに至る謀(はかりごと)を為した対抗勢力(藤原時平)が出てくる。これは少なくとも中学日本史のレベルではないし、せめて高校日本史をかなり己れのものとしていないと、すらすらとは出て来ない陰謀・策略の世界をあっさりアレンジして描いている。といって、大学レベルの歴史は、私は存ぜぬが、かえって現実に偏りすぎているのではないか。ま、それはそれとして、権力に絞ってみると、日本史は一部の例外を除いて、天皇家に取り入ろうとする者共が権謀術数の限りを尽くした力と陰謀の歴史という一側面もある。さて、私の趣味領域の一つでもある歌舞伎にも、この菅原道真は登場するし、物語は歌舞伎の代表作として有名な「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」という全四段の物語になっている。二段目の「道明寺(どうみょうじ)」で、菅丞相(かんしょうじょう)こと菅原道真が太宰府に流される前に、伯母の覚寿(かくじゅ)に別れを告げるべく道明寺を訪れる。ここでは藤原時平(ふじわらのしへい)は悪人である。にせの迎えを出して暗殺を企むが、丞相(しょうじょう)は木像の身代わりという奇跡を現じて時平の暗殺をかわし、見事親族との名残りを惜しんで立ち去る。いずれにせよ、菅原道真は不可思議な力を現出してみせるのだ。ところが「美少女二童子」では、菅原道真は時平によって呪殺されて凄絶な規模の怨霊となる設定だ。ただし、道真、時平いずれを悪役とも断定していない。時の権力者二人は、序章にちらと描かれるのみだが、のちの物語に起伏を与える大きな素材である。物語はここからいきなり現代日本に飛ぶ。小学校の時、私たち児童は、担任の先生から「読書感想文であらすじを書いてはいけません」ときつく戒められた。おかげで以後必ず書くまいと決めて、中一の時、ようやく拙劣な文章が地域の文集に載り、かつ、その年の地域コンクールで入選した。何しろ本が嫌いであるから、仕方なくつまらぬ学習月刊誌の「中学時代一年生(のちに中一時代と改題)」(旺文社)に毎号ついた薄っぺらい付録「中一文庫」のうち、「フランケンシュタイン」をあっというまに読んで、駄文連ねて提出したら、何と入選になったというわけである。国語担当の教師もさすがに「中一文庫か、弱ったな」と言っていたが、結局そのまま印刷された。閑話休題、では何を書くか。とりあえず主なキャラクターを書いておく。初め主役は男一人、女二人と思ったが、二度目読んだとき、間違いに気づいた。この日記冒頭にも書いた名前だが、美少女二人は、人間ではなく、ある種の妖怪である。性格づけがズレていたら、ご指摘いただきたいところだが、とりあえず、タイトル順に「制咤迦(せいたか)」は、主人充を慕う、年齢相応の成長がうかがわれる美少女、もう一人の「矜羯羅(こんがら)」は、茶髪というよりは赤毛と言ってもよいのか、そんな容貌で、ややおっちょこちょいの美少女である。だが、物語では、少女矜羯羅(こんがら)が江戸時代を舞台に大活躍して、ほとんど主役である。この江戸時代のアレンジ描写は作者の筆力であろう。現代言葉をまじえて違和感がない。ただし、日本史をきちんと知っている者でないと荒唐無稽になるところ、作者が、巧みに物語を牽引してゆき、随所に江戸時代の風景・人物をさりげなく描いて、読む者に、ここは江戸時代だという認識を忘れさせぬ。また、言葉について細かいことを言うと、作者は劇中、「目線」という言葉を用いていない。「視線」を劇中に投じて、これまた文章を引き締めている。そうかと思うと会話に「来れる」と使って、現実味をも持たせている。ひところ話題となった「ら抜き言葉」だが、日常会話で「来られる」は場合により固い。「視線」を使いつつ一方で「来れる」をころがすのも、使い分けに成功している。本書、帯にも「新アニメ感覚ファンタジー小説」とうたってあり、本人も「アニメチック」と、これはけんそんしているが、何、序章・終章を除いても全十章に及ぶ物語につづられる文章は、仮にも商業ベースに載った人の書いたもの。我々並の者には到底書けない。詳述はとても無理だが、劇中続出する陰陽呪術が凄い。ひねくれた見方をすれば、都合のいいときに都合のいい術を使ってばかりなどと言われそうだが、それは違う。私が幼い頃、映画などに出てくる忍術とは妖術であった。すなわち、その場の状況に応じて瞬時に次の技、次の技を繰り出して、見る者を圧倒もし、楽しませもした。本書に現われる数々の呪術・呪法は妖術とみなしてもかまわない。その目で見ても、さすがに第十章、物語事実上の最後の段になると、ちょっと読んだだけではわからないほど、著者の念入りな計算によって、クライマックスを描き、大団円に導いたと察しられる、最後の超呪法が使われる。私などは、これで道真の怨霊はどうなったのか、断定する勇気はない。ともかく、現代の陰陽道当主である彩夏という美少女が、一瞬の機転で、敵を退治する。もっとも、熟読が仮に苦手でも、この物語はサッと読むだけでも、作劇の面白さを味わうことはできる。つまりテンポの良い筋運びにどんどん引き込まれて、ストーリー展開を楽しみながら読了できるのである。私は登場人物の多い小説は苦手だが、この物語は、小理屈で見る者を翻弄するようなへたなテレビ推理ドラマとは違い、ほとんどすべて「美少女」と形容していながらも、登場人物の描き分けが明確であり、誰が何の役をやったかということがよくわかる書き方になっている。例えば第五章など、一瞬詩でも書いたかと勘違いするほど短いのだが、この一章あるおかげで、その前の第三章、四章で事件に巻き込まれた(やはり)美少女の立場と今後の物語への再登場を予感できるのである。作者は既に続編計画中とのことだが、確かにこの「美少女二童子・制咤迦&矜羯羅」は、戦争に例えれば緒戦(ちょせん)である。続編で、異界・魔界の使者や、それに立ち向かう主役たちの活躍を堪能したいものである。失礼ながら著者に代わって申す。「続編、請うご期待!!」。
2003.08.19
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「チョイ文章自慢」タイトルとは別のことで我れながらよくぞと思ったことがある。生涯素人ながら、少しは文章が書ける、筆が立つとうぬぼれていた。だからなのか、この楽天日記で、かつて一度だけだが大手新聞の読者投稿欄に掲載された自慢めいた話を掲載しなかったのが、今以て不思議である。改めて本ブログ現在から2003年までをザっと振り返って確かめたが、投書掲載自慢のブログはみつからなかった。さて。ほんの少しだが不思議な一致、シンクロニシティめいた事実もあるので、記しておく。1995年7月26日に、我が最愛の兄が46歳で白血病死した。ここで既に数字の偶然のことに言い及ぶが、兄は誕生日が1949年6月25日で、これが実に母と同じ月日だった。母は1927年6月25日生まれ。計算が楽だ。母は22歳の誕生日に私の兄を生んだ。三つ下の私は1952年12月8日に生まれていて、母との関連づけではないものの、真珠湾攻撃の月日とダブる。この時母は25と若い。さっさと出産、子育てをしてくれたのである。母は安産だと言っていた。そのためか、テレビドラマでうめき声をあげて出産を苦しむシーンにシラケること一再ならずあった。ただし痛がる婦人もいるに違いなかろうから、これは我が母のことと思うしかない。さて、兄の死で、身体に直接ダメージが出たのは腹を痛めた母ではなく、弟の私だった。1995年下半期は日ごとに食欲が漸減して、翌1996年は何んとかこらえたつもりだったが、胸のむかつきは去ってくれず、とうとう1996年10月末日最後の授業をようやく終えたところで回復の望みなしと結論し、母に学習塾休業を生徒たちに周知して欲しいと頼み、11月は水やお茶を飲んでさえ吐き気がして苦しく、かといって自殺する気力も出ず、生きるしかばねと化した。この窮状を救ってくれたのが母だった。母はのちに認知症が出て急速に衰え、86歳で老衰死と診断される終末となったが、母は私たち子供を懸命に育ててくれて、己れを後回しにする模範を体現してみせた。母は11月下旬のある時、私に入院を勧めた。私は回復の希望なしと否定的なことを言ったが、行きつけの医院で神経薬を試しにもらって、私に勧めたが効き目を感じられず、薬効はないとさらに否定した。それでも母はまた別の『デパス』という薬を渡してくれた。先に結論を言うと、このデパスは今や向精神薬として、問題多しと結論づけられている。だが当時の私に離脱症状などを案ずる余裕のあるはずもなく、実はこのデパスを一錠だけ飲んだところで、それまでの不快感がみるみる引いて溜飲が下がるのを実感し、入院加療に期待が出てほどなく入院、個室で過ごしたが、当時は薬が主作用として見事に効いてくれて、実に二週間弱で退院となった。わずかな入院の最中に既に外出許可を得て、数学での受験希望の高三生徒限定で塾を再開した。全員とはいかないので、収入はたいしたことがないが、神経薬の卓効にも助けられて、軽い胸のむかつきくらいの中で、授業を続けられた。実質二週間くらいの臨時授業に過ぎなかったものの収入はおよそ10万円に達していた。ここで今更己れの精神を正常だなぞと力むつもりはない。しかし、私の病はもともとPD(パニック障害)の嘔吐恐怖なのだと、検索で知った。健康な人と比べて、ある種異常なのは言い訳出来ぬことなれど、苦痛が軽減されれば日常生活に戻れる自信はあったし、今もこれは変わらない。これについても、先に書いておくが、2017年初夏ごろ、デパスの離脱症状昂じて「せん妄」という半睡状態の如きに陥り、昼夜の判別つけ難き症状下で車に乗り、富士宮市杉田というところの、他人の土地の倉庫わきのようなところに乗り捨ててさまよったあげく、一台の車に助けられたはいいが、耐え切れぬ尿意で失禁しかかり、乗せてくれた婦人に告げたとたんに激昂されて通報、警察の車に拘束され、富士市立中央病院に送られ、結果大渕というところの精神病院に入れられて、およそ四カ月閉鎖病棟で過ごしたのち退院。この病院で処方してくれた内服薬は軽いとの説明を受けたが、これのおかげでデパスの強過ぎる作用との縁が切れた。ところが内服薬の服用量を間違って体調を崩し、再入院。三か月ほどして二度目の退院、訪問看護を受ける条件で今日に至る。定期的に来てくれる看護師さんたちのおかげで、薬の服用は無事に済ませるようになり、2018年冬11月の退院以来、2024年年末の今日まで、五年ほど経過して明け暮れを過ごしている。特に退院後、2019年の年末の運転免許証更新を無事終えて、更に本2024年は、普通免許を取り消したうえで、高齢者講習を済ませ、更新もぎりぎり合格で、2027年までは過ごせることとなって、ようやく気持ちが楽になっている。さて、兄の死後身体に苦痛の症状が現われたただ一人の血族の私だったが、デパスの服用が出来るあいだだけ、体調はまずまず楽だった。そして、学習塾もまもなく再開し、生徒たちがある人数以上戻ってくれて、収入もやや安定していた。それでも兄がこの世にいない寂しさは常に脳裏を去らず、ようやく一つの行動への計画が寂しさとは別に湧き上がって来た。学習指導を始めた家庭教師の頃からずっとくすぶっていた疑問・不満でもあったのだが、これまた結論めいたことを書くと、我々日本人は、英語を成人後に役立てていない。私はハッキリ「不要」と断じている。英語は必要と思う者だけが勝手に学べば良い。学校教育に導入せずとも、得意な若者は必ず現われる。基礎的なことは中学時代のリーダーの学習だけで充分である。現に実業高校へ進む者たちの何割かは部活動で運動するためにかようばかりだとも仄聞した。スポーツをやりに行くのが通学なのかと怪しまれる。ただし、例外的な生徒もいる。工業高校に学んでのち、家業を継いで励む一人の人が、私を驚愕させるほどの軍事・外交知識を身につけていて、中庸な思想を裏付けに備えて、雑談する時も生理的快感さえ覚える。要は個人の素養次第ということだが、運動やりにかようのなら、やめちまえと言いたい。英語に疑問を持つ私にとって、国公立、私立を問わず大学受験に英語が必修科目というのが不愉快であったので、理論武装を次第に整えつつ、パソコンに英語不要論をつづり始めていた。拙きながら塾を経営した経験から、「英語がなければより高いレベルの大学へ行けた」という生徒がいたからだ。何を隠すことあろうや、余人にあらぬ我が相棒の夕子殿が、かつて高三の時、当時の東京工業大学の数学・化学の問題を見事に解きおおせたからだ。全問とはいかぬまでも、合格点だった。だが英語が必修なので理系私大に妥協の余儀無きとなった。私が出た現・筑波大学と同様、廃学のち慶応大に統合となった今はなき薬科大出身だが、勤めに入るとすぐ頭角をあらわして、男顔負けの活躍を続けている。彼女と知り合ったばかりの頃、本人は遠慮がちに「英語がダメなので・・」と言ったが、私が下心を隠しつつ、「英語なぞ日本人に要らない」と豪語したらたいそう驚いていた。さていよいよ、1997年6月25日『産経新聞』読者投稿欄に掲載された本文を掲載する。この日付、特に狙ったのでもなく、たまたま近い頃に投稿したものだ。当時の本物の日記帳に書いてあるのを読むと、1997年6月20ないし21日ごろ、産経新聞に投書文をファックス送信したら、21日土曜日早朝、投書係から礼の電話があり、決定ではないものの、可能性は高いとの答えをいただいた。これから毎日セブンイレブンに日参して、とうとう6月25日の朝刊に投書が掲載されているのを確認した。この日は兄の誕生日であり、ここにもシンクロニシティを感じた。投稿欄は一般の文章と『アピール』というやや字数制限がゆるくて目立つものとがあった。改めて本文を横書きにしたためた。アピール塾経営 村松厚和 44 (静岡県富士市) 数学は英語より重要度低いのか 市井の塾経営者から、昨今の大学入試について一言。教育改革あるいは入試改革という声を耳にしてから久しいが、実際に高校生の学習の手伝いをしていて気がつくことは、英語が入試の必修科目として課せられていることの不公平さである。 結論をいうと「数学を文理必修にすべし。さもなくば、英語を理系の選択科目にすべし」である。ただしセンター試験は別問題とする。 これだけ英語が定着しきってしまった今、こんなことをいうと、時代遅れなどと笑われそうだが、私見によれば、英語は文系科目の代表である。それにもかかわらず、多くの大学で、文理を問わず英語は必修科目として出題されている。理工系離れの深刻化が叫ばれ、その対策についてのさまざまな意見があるが、実際にはその主因たる理科を取り上げているだけのように見えて仕方がない。 だが、理工系学部を目指す高校生たちがまず目標とするのは、数学の実力向上である。大学によっては、数学の問題の難しさは尋常一様ではない。加えて、彼らまたは彼女らは、「実は文系科目」であるはずの英語もやらなければならず、理科に打ち込む時間はさらに削られる。 一方、大部分の私大文系学部が、数学を例えば「社会・数学いずれか一科目選択」という扱いにしている。だから今の多くの進学校では、日大などの付属高校を例外として、文系生徒は進路によっては高三から数学を全くやらなくてもよくなる。 入試の文系英語は理系英語よりもレベルが高いかも知れないが、理系生徒は難しい数学と、決して平易ではない英語の二科目を受験しなければならないのに対し、私文志望の生徒は英語のみ受験すればよく、数学は全くない。これは一部国公立にもあてはまる。数学がない分、英語に集中できるのである。 こういってはなんだが、ほとんどの文系生徒は、苦手な数学から逃れるために文系を選ぶ一面があると思うので、社・数選択は名ばかりで、これは事実上「社会必修」という、選択肢ともいえぬ受験要件があるようなものだ。 紙幅の都合で委曲を尽くすには至らないが、詰め込み学習が悪いというなら、以上の合理化も一考に値すまいか。
2024.12.01
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「夕子追悼」訃報を簡単に書いたが、もう少しだけ書き加えておく。ただし、急死に至る本人の体調、あるいは前兆については、一切詳述しない。命日も明らかにしない。逆に、臓器のいずれかに悪性腫瘍の如きものがあったわけではないことは明記しておく。彼女は前夜まで自覚症状もなく、翌朝変調を感じてから、その日のうちに息を引き取った。なお、救急搬送される前後の話、さらにその後の様子については、当日の朝、私は知らされていない。のちに彼女の上司からていねいに知らされたものだ。この朝からしばらくは、私の出る幕では全くなかった。本人存命中は、私との行き来は、本人が強い意志を以て認めてくれていたが、死んでしまえば、葬儀などあらゆる権限は実家の遺族が担うものとなる。ここから先は、上司の詳しい話をもとに、再現する。夕子は、上司に息苦しさを連絡してすぐ、恐らくおぼつかぬ足取りで、玄関の施錠を解き、そこで苦しい息を耐えていた。救急隊員がものの数分でかけつけた時、彼女は、あがりがまちに腰かけて、前かがみの姿勢でほとんど動かなかった。救急車の中での隊員の話しかけには、かろうじて「息が苦しい」と答えた。隊員は、多分このような時、必ず問いかけの言葉で話しかける。しかし、病院に着いてベッドに横たわった時は、言語を発する力をなくしていて、ただ、胸を大きく波打たせて、必死に呼吸しようとしていた。この症状は私の母の呼吸が荒くなった時を思い出させる。酸素吸入器を取り付けると、回復が見込まれる患者の場合、その数値が100くらいになるものだが、彼女は80台がやっとで、これは母の時の90台を下回っていた。なお、この数値が何を表わすかは私は知らないし、知る気もなかった。彼女の吐く息よりも吸う息がみるみる弱まっていった。大きく波打った胸の動きが目立たなくなった。やがて、彼女は呼吸しなくなった。蘇生のための処置は行なわなかった。遺族の人々に失礼なことは慎まなければならないが、彼女に遺言をメモ程度でも書く気持ちがあったら、いや、書く必要など、本人でさえ考えてもいなかっただろうし、まして正式の遺言書に至ってはさらなりという、元気な様子だったので、もはや亡くなった今となっては、私がその胸中を忖度するしかないが、彼女は、念願の自宅にその亡がらを運んで、そののち然るべき処置を施してもらいたかったのではないかと思った。彼女の亡きがらは即日、葬儀社の車で静岡の実家に運ばれ、火葬され、かつて暮したどこかの部屋にお骨が置かれていることだろう。やがて49日に至れば、納骨の法要が営まれ、菩提寺の一角に安置されよう。私は折にふれ、「俺にもしものことがあったら、へたに行動しないように頼む。縁ある一人として、亡がらを見てくれればいい。勤務中ならなおのこと、俺が救急搬送される余裕があれば、死んだあとのことは、葬儀社に委ねることにする。もし、村松家の墓に入ることがあったら、なるべく関わりのある人との鉢合わせを避けて、テキトーな時に、手を合わせてくれれば望外の喜びだ」と、半ば冗談に話したことがあるが、まさかこの結果になるとは、予想もしていなかった。なお、彼女との最後の電話会話の下書きがあるが、本文完了しないうちに、訃報がもたらされた。もし今後気力が出たら、記憶をたどって加筆して、文字通り最後の会話ブログとして掲載するかも知れない。夕子の遺影はもっと立派なものが用意されたかも知れないが、仲が良かった母の遺影と並べて撮影した。母の思い出にこだわる私に気兼ねしながらも、経年劣化を心配して、購入決定した電子レンジ。ターン・テーブル不要のなかなか質の良い製品である。その上のものは今でも使用可能なオーブン・トースター。
2016.06.22
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「旧PCX150に感謝、Welcome新PCX150 ! 」こんなことを書くと、せっかくさがして引っ張ってくれた店長さんに失礼かも知れないが、現に初めは軽い気持ちだった。結果を書いておく。新しいスクーターに替えて良かった。現に私は去年八月、車が無い状況下で、すぐに乗れそうなスクーターを、走行可能な状態に復元しなければならなかった。驚いたことに、半年ほども放置しておいたスクーター、ホンダPCX150のエンジンが一発でかかった。もう一台同様の放置状態だったカワサキ・エストレヤ(250cc)は完全にバッテリー上がりだったのに、PCXは同じような長期間放置にもかかわらず、エンジンがかかる。何度やっても、すぐかかった。「大事をとって、バイク店で定期点検を完全にやってもらってから乗ろう」と決めたのが去年八月終わりごろ。私の買い物にまで連れて行って下さったかたを頼ることは出来ない。幸い、二度目の通院の時、今後はほぼ月一度の通院と決まり、私自身も、早く行動の足が欲しいと切望の気持ちがわいて来た。支援して下さったかたとの公的な最後の約束が九月初めで、この時既にスクーターに乗っていたので、いろいろお世話になった手前、ありがたいと感謝すると共に、自分の足を確保し直せた安堵と喜びとを感じていた。爾来、少なくも夏、残暑のあいだはこのホンダPCX150スクーターに文字通り連日乗り続けた。体力にやや自信を取り戻しつつあった。体重もいい気になっていると、70キロに達せんとしていた。適性体重は60キロ台だ。「オートバイに乗りたい ! 」との気持ちがむくむくと頭をもたげて来た。この時、本当に「お世話になったスクーターに申し訳ない」と思っていた。これが異性のことなら、ある意味で「浮気」だ。生涯ただ一人と決めた女を裏切って、ほかの別タイプの女に気が向くようなものだ。オートバイで良かった。だがなぜか気がとがめた。果たして、単気筒にありがちな「ストール(stall)」が多発した。それまでの例えばトライアンフ・ストリート・トリプルのように、信号停止で平然とアイドリングしているわけにはゆかなかった。しかし、これがPCXの呪い・祟りとはさすがに思えなかった。ストール対策は、ある程度の回転数を保つことだった。なにより、200cc単気筒バイクの性能を見直すいい機会となった。クラッチ操作も楽しい。このスズキ・バンバン200、トップの五速で走ったことはほとんどない。市街地では四速でも60キロは軽く出るので必要ない。加えて私も60代半ばの年齢だ。PCXに申し訳ない気持ちはそれでも消えなかった。「乗らねば」と思い続けた。なお、本物の人間の異性には、これは全く縁がないので、浮気どころの話でない。罪ほろぼしは「乗ること」だった。極め付きの時がやって来た。地理感覚ゼロの私に相応しい一事(いちじ)があった。まず、陸上自衛隊の、「板妻」と「駒門」駐屯地とを正反対に認識していた。ために、一日目は迷いに迷ったあげく、滝ヶ原駐屯地まで行ってしまい、さらに射撃演習中の場所にまで着いてしまい、歩哨の隊員さんにていねいに応対してもらうこととなった。御殿場市の市街地から、旧国道246を走り、なぜか国一バイパスに入り、富士東インターを降りて、富士市街地を走って帰宅。ホントは途中、相棒の会社に寄り、門の外で、バカを働いたてん末を話した。果たして「バカねぇ」と言われた。ついでにお礼。勤務中なのに、イヤな顔一つせずに、ずっと笑顔でいてくれた。ありがたきことなり。帰宅した時、走行距離は百キロを超えていた。地図を確認すると、駒門と思い込んだのが、「板妻」駐屯地だった。「何んだ。ここなら若い頃、さんざん通過したではないか」。おバカさんになっていた。元々おバカさんだが、さらにダメになった。翌日、再び出発。地図は不要。十里木を疾走し、それでも決して短距離でないから、カーブを幾度も走ったのち、駐屯地に着いた。今度は難なく帰路に就き、下見終了。二日間で二百キロを超えた。PCX150は一気に老け込んだ。いや、自衛隊の敷地内を走ったりして、全体がひどく汚れていた。折から、バイク店に新しいPCX150が入るとの知らせ。「何んだろ」と思った。タイミングが良かった。良過ぎた。特別に頼んだ記憶はない。偶然入るのかと思っていた。ほどなく電話連絡もないまま、入荷とわかり、来店。かねて欲しいと思っていたダークブルーのPCX150が置いてあった。どうやら私はバイク店にずっとダークブルーが欲しいと言っていたらしい。実物を眼前に、決心。走行距離を見ても、買い時と思った。未舗装路を含むあちこちを走って汚れきったPCX150を出来るだけ磨いて、ある程度見られるまでに洗い、下取りに出して新しいPCX150を納車してもらった。四月中から、しばらく続いた好天の時節が過ぎたのか、五月に入ってぐずつき模様の天気が続くようになった。今度はバンバンに余り乗っていない。軽四輪とスクーター、オートバイと、バランスよく乗り分けねばならない。ぜいたくに見えても、車は軽四輪、バイクは意外と経済的なのだと、書いておく。
2018.05.13
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高校二年の冬休みというと、今のたいていの生徒たちは遊びほうけているのがほとんどではないか。自慢めいたつづり方は我れながらイヤなものだが、当時の日記を見ると、決してガリ勉ではないのに、この時期も習慣として必ず学習をしていたことがわかった。ややさかのぼって抜書きしてみるが、ところどころ要約する。時は昭和44年(1969)、高校二年の冬休みである。12月22日 冬至きょうが一年で一番日が短い日だそうである。思えばこの一年短かったな。もっとも四月から考えて言っているから一月からだとやはり長いのかな。いやいや過ぎ去った日々というのはやっぱり短い。休みになったら、とたんに無気力と来るからいやになる。はや二十二日である。もったいないもったいない、遊びでも良いから有意義なことをしたい。きょうの勉強の記録/ マイティ英文解釈B・4ページ 数III教科書練習問題朝8時20分に起きて顔を洗い御飯を食べ英語を少しやり、昼になって御飯を食べ、机に向かい何もせずに痴呆状態にあり、夕方頃向こうの部屋へ行き、○○君の家へ行こうとして寝てしまい、夕飯時に目をさまし、顔を洗い、無用ノ介の似顔絵第四弾を途中までかいて、御飯を食べ、机に向かい似顔絵を仕上げ、テレビの紅白歌のベストテンを見ようとしたが見せてもらえず、仕方なしに自分の部屋に帰って来て机に向かい、数学をほんの少しやり、はっと思いついて今日記を書いている。つい今しがた紅茶と菓子で我が胃に適度の運動をさせた。便所へ行こうかなあなどと思ったりもしたが、寒いので行かなかった。寝ようと思っても眠れず、勉強も面白くないし、何もすることがなく、つれづれなのである。自転車で外を走りまわりたくても外へ出してもらえず、ウイスキーをほんのちょっと飲みたくても飲ましてもらえず、だれかと話がしたくても相手がいず、木の上に立って見ている人たちは、せかせかと内職に追われているし、ああ、まったく太平ムードだ。しかしこれでいいのだ。・・以下略。次。再三書いて来たが、私はスポーツ大嫌いである。ゆえに学校の体育が大嫌いだった。それでも中学までは体育着に着替えて参加しなければならない。体育の時間が次に迫ると、男子はそのまま教室での着替えが多く、女子はいずこかへ姿を消したが、もちろんあとをつけることは出来ない。不思議なのは、この着替えの時、ほとんどの男子が妙にはしゃいだことだ。「さあ、体育だ、体育だ ! 」と口々に喜びをおおげさなほどに表に出して、嬉々として着替えるのだ。「体育の何が面白かろうか」と常に彼らを横目に見ては、けげんだった。さて、高校になると、体育の授業はいい加減になった。特に冬季は、生徒の希望を教師がほぼ受け入れるようになった。種目はソフトボール。ただし投球モーションその他、ルールは野球そのものだ。またはサッカー。もっとも私にとっては、何の種目だろうがスポーツ嫌いは昔からなので同じだった。体育の場から逃げ出したかった。そして実行した。体育の授業を25時間中12時間さぼって帰宅する習慣を一時期作ったのだ。結果、生涯ただ一度の赤点というものを食らった。単位というものがあることは漠然と知っていたが、まさか体育なぞという学問とはほど遠い学科に単位があるとは思わなかったのは、これも世間知らずの一つだったかも知れない。この話は日記に書いてあるが、ここで話題を変える。学科の定期試験では、当時かよった高校なら当たり前だが、落第点を取るなどということは、それこそ白紙答案でも出さない限り、不可能とも言えることだった。私に限らずとも、普通に学習した多くの人に共通のことと察する。たとえば数学の定期試験が行なわれ、問題用紙と答案用紙が配られる。この日をめざしてとりあえず一通り範囲の学習をしたから、何題かは解けるだろうと、答案に視線を落とす。それでも受験校の問題は、出典もわからぬほど、初めて見る問題が多かった。問題集をすみずみまで解いたはずなのに、教師のオリジナル問題が目立った。どうするかといえば、基本知識でまず解法にかかり、その場で応用を考えねばならない。数字だけかえた程度の今の中堅レベル高校の問題の比ではない。要するに、いずれ取り組まねばならぬ大学入試の問題を視野に入れていたと察する。たとえば、「二次曲線」の範囲にもかかわらず、「軌跡を求めよ」と出題して来る。私の時代は「軌跡」は数Iでとうに終了している。条件を式に変換して、あれこれ最終段階をめざすが、最後の図形の式を特定するところで、それが出来ない。そしてそれが未だ呪縛となって、この稼業に入っていてさえ、解けないままだった。この時の問題用紙をとってあるのだ。よく見ると、定期試験と判断出来る表示がないから、数十年目にして、これは教師が時々行なった小テストかと察しがつく。抜き打ちテストである。だが、テストの体裁は定期試験のレベル・スケールそのままだ。ここで唐突だが、ヤクザに美人局(つつもたせ)されておどされた男が、オカマを掘られて以後、そのヤクザの情婦(情夫にあらず)になるくだりを凄まじい描写で納得させる西村寿行(にしむら・じゅこう)氏の小説があった。男はそれまでは全く普通の男だが、ヤクザの手にかかると、女にされてしまう。遂には声まで鼻にかかったオカマ特有の声で、「あら、あなたお帰りなさい、ううーん、もお、淋しかったわよぉ」などとなるらしい。すなわち呪縛から逃れられぬ運命に甘んじてしまうのだ。再び話を戻す。かつてかよった高校の数学の抜き打ちテスト問題が当時解けなかったのは未熟ゆえと不承しても、仮にもただいま解けないのは我れながら不本意である。だが長いあいだ解けなかった。これは、受験校の呪縛が凄かった証左と考えた。オカマならぬ劣等生としては、是が非でもこの未解決の呪縛から逃れたい。そして、ようやく逃れた。勤勉なる高校生または受験生諸君には、いともたやすい問題と察するが、ヒマがあったら挑戦してみてはいかがと言うわけではない。私は、ここへ来てようやく、解けた一題を掲載する。なお、負け惜しみのようだが、解けてみると他愛ない基本レベルだった。そろそろご帰還と察する。以下の問題に取り組み、解けたら、ログインまたは書き込みで解法を述べられたし。これをささやかながらクリスマス・プレゼントとせん。問題/ 一定な傾きmをもつ直線が、放物線(yの二乗)=4pxによって切り取られる弦をPQとする。PQの中点の軌跡を求めよ。《くノ一より七色仮面へ》この日記、私信には見えませんね。まるっきりrainbowmask殿の回想日記+最近の高校生への叱責。さてと。アハハハ。あなたの高校時代の幼稚な答案、たっぷり楽しみました(怒るな ! )。あなたにも、こんな答案を作るカワイイ時代があったのですね。でも、これ、ほとんど解けていると思いますよ。さて、どこが幼稚かというとね。直線の式をy=mx+bとおいているでしょ。これ、まるっきり中二の置き方ですね。もちろんこれでも解けますがひと工夫を。あのね。この問題で大事なことは、弦PQを含む直線は、絶対にx軸に平行にはならないということなのですよ。そこで傾きは必ずゼロにはならないから、直線の式をy=(1/m)x+bとおけるのです。これを両辺分母を払って、my=x+bmとして、結果、切片のbmはどっちみち定数だから、再びbとしてもいいですね。ゆえに、直線の式をx=my+b・・・(1)とおきます。さてと、ここからはスキャンしないと二乗が出せないから。なお、この問題、古いチャート式数学IIBの中に、類題がありました。昔の岩手医大の問題とほぼ同じでした。今でいう赤チャート、ハイレベルなほうの参考書に載っていると思います。おかげで正解ということも確かめちゃった !さてさて、今年はお互い自宅でゆっくり過ごすことにしましたね。もう去年のようなアクセスは望めないし、手の込んだ日記を書く必要ないから、のんびりしたいですね。追伸/ あ、そうか、あなたが出題した問題では、傾きがmになっているから、私は少し勝手な書き方しましたね。寛大なrainbowmaskさん、お許し下さいね。
2005.12.24
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「張り切り過ぎてのち、病身(風邪)となりぬ」真夏の8月9日帰宅後、とにかくそれまでとは打って変わって、ようやく生活の足として整った150ccスクーターで駆けずり回り、我れながらこの回復カーブ・好調が続くはずがないと予感だけはありました。9月30日、土曜日、予感が現実となり、悪寒を覚えて去らないので、体温計で測ったら、38度2分の発熱。ただし、食欲は幸いあったので、それまでと変わらぬ食事をとり、そのための買い物にも、大事をとって車を使いましたが、出かけて、食事を規則的にとるよう努めました。真夏の余勢を駆ってか、おとなしく寝床に横になってなぞいられません。さすがに8度台の熱が下がらぬうちは、2輪に乗るのを控えましたが、60代の年齢が影響しているのか、平熱にならず、微熱が続きます。暮夜近く、からだが楽になるのは、かつて流行って今また注目されつつあるバイオリズムのせいか、「そろそろ風邪は峠をこして、知らぬ間に治るといいのだが」との希望も出て来るのですが、ほぼ1週間経つ頃に至るも、からだのダルさが抜けず、せっかく急激に増加を続けていた体重も、63、4キロで鈍くなり、これが以前の体調ならば確実に減少に転じていたとも思われます。外来通院は、まあ認めるにやぶさかでないのですが、通院のたびに体重を測るのには閉口しました。ついついこちらも意地になって、次回はさらに体重増を記録してやるとばかりに勇ましくなって、目指すは65キロなぞとバカなことを目標にしてしまいがちです。ものにはほどがあるとは、コラムの師、山本夏彦氏がよく述べていた言葉の一つですが、そう考えると既にその体重に達しています。一旦激しくやせた時のほほのこけ方はなかなか旧に復してくれないのですが、60代半ばはもはや若くはありません。ヘタな看護師などに限って、60代なんてまだ若いんだから、生活をきちんとしなきゃね、なぞとぬかしやがるのだが、少なくとも私より十(とお)年下の者共には、訳知り顔で言われたくないよと思っています。古い話ですが、こんな子供の歌がありました。「♪ 村の渡しの船頭さんは、今年六十のおじいさん、年はとってもお船をこぐ時は、元気いっぱい艪(ろ)がしなう、それギッチラギッチラギッチラコ」言うまでもなく60歳は還暦です。若者に「早く60歳になりたいか」と問うて、「なりたい、なりたい」と待ち遠しそうに答える者はいないと察します。私の母は「40、50くらいまではまだまだ大丈夫と思えるし、そうするうちにいつしか年を重ねるけどね、60になると衰えを感じるね。そこから先は10年経つごとに、からだの衰えを否応なく知らされるようになるよ」と、よく語ってくれました。私がいずれ書評を書こうと予定している昭和の大作家・五木寛之(いつき・ひろゆき)氏は、60代以後、かなり愛好していた車の運転をやめています。五木寛之氏の車好きは、特に彼のファンには周知のことと思いますが、私は漠然と知っていた程度で、どれほどのカー・マニアあるいはドライバーだったのか、寡聞にして存じません。どんなに高齢化が進んでも、平均寿命・平均余命が伸びようとも、からだが思うに任せなくなる年齢は60代だと私は思っています。私自身に関して言うなら、せっかく47歳でようやく大型自動二輪免許をとって、車にも二輪にも乗れる資格を身につけたと思ったら、5年後の52歳の早春に、頸椎ヘルニアを発症して、平均的50代の男子の体力をかなり下回る身体(からだ)となりましたから、60代半ばのただいまは、当然他の60代の平均的な人々より低下した体力です。ホンダホーネット900ccで本栖湖畔を走った時の一枚。車にバイクにスクーターにと、外見だけ見ると、何んだ元気ではないかと誤解されますが、両手両足の力は女子平均にも及ばないはずです。だからなおのこと、老化に伴う衰えを、人より痛感するのは当然です。バイクに乗るのはたくましく見えるでしょうが、これは体力の衰えを支える力学の乗り物だからです。頸椎症を抱えた身体(からだ)でつらいのは、立った姿勢からしゃがむときと、反対にしゃがんだ姿勢から立ち上がるときです。つまり起立した姿勢としゃがんだ姿勢との切り替えがキツいのです。バイクにまたがった姿勢は、これらのどちらでもない、中腰の姿勢で、これは身体(からだ)を起こしている時にとる姿勢の中では、ある意味で一番楽なのです。さらにたとえばスクーターに乗っている時は、たっぷりクッションの効いた肉厚のシートに腰かけているのと同じなので、これは乗らない人には意外なほど楽ちんな姿勢の継続なのです。応接間や洋間のソファにいつも腰かけている人ならわかると思いますが、会議室の折りたたみ椅子や勤め先の回転椅子よりも快適です。分けても、クラッチ操作のない言わばオートマチックのスクーターの乗り心地は最高です。ここでオートマと言うと車を連想するのが普通かと思いますが、私は自家用車としてオートマチック車に乗ったことは一度もなく、ホームセンターで買ったベニヤ板を軽トラックで運ぼうと借りる時、オートマばかりでミッション車が一台もないので仕方なくそれを運転したものの、信号ストップの瞬間、ブレーキを踏みこみ過ぎて車を90度ほどスピンさせるというへまをやったことがあり、以後必ず乗らないことにしています。スクーターのほうが恐いという人のほうが多いかも知れませんが、私がスクーターに乗ったら、まず四輪の追随を許さないほどのパワーで断トツトップを走ります、と言いたいところですが、なぜかのんびりスタートし、加速するにしてもせいぜい時速60キロ止まり程度で、ほとんどの道路を走っています。巡航速度に達するまでの加速が凄く、それを楽しむのです。もちろん飛ばすことはあり、県道380号線、すなわち旧国道一号線を走る時は、後続車にあおられるのに任せていると、次々に追い越されるので、オービスを気にしながらも、この年齢だからもはやゴールド免許でなくなっても構わぬとばかり、加速して80キロ、さらに100キロまで軽く達して、後続車のいない環境下で、先行車に追いついたところで減速し、流れに沿って走ることもあります。スクーターにもまだまだ速いものはあるけれども、実用域を考えると、今活用している150ccが最適です。最高出力14ps、車重131kgの発生するパワーは、そのパワー・ウェイト・レシオ、つまり車重を馬力で割った数値も9.3とまずまずの値。今乗り始めた軽四輪と比べると、最高出力49ps、車重610kgの軽四輪は12.4。四輪はトルクがあるぶん、発進の力強さを感じますが、加速力は150ccスクーターに及ばないのです。ちなみに「パワーウェイトレシオ」の数値が小さいほど、その車両は加速力があるというものです。一つ例を挙げておきます。かつて私が乗ったカワサキゼファー750は、最高出力68ps、車重200kgで、パワーウェイトレシオは2.9でした。四輪は疎いので適切ではないかも知れませんが、マツダCX-8・2.2XDディーゼルターボを選びます。スペックを見ると、なにゆえか四輪にはパワーウェイトレシオが明記されています。9.0とあります。カワサキのナナハンの敵ではないことがわかります。かえってスポーツタイプでないほうがあるいはと、これも知識のなさゆえに思いつきで、もう一台調べました。ホンダシビックセダン1.5が、パワーウェイトレシオ8.0とあります。四輪はレーサーともなれば凄まじい加速を示しますが、市販車はいずれこんなものです。脚力低下著しきを痛感する身体(からだ)となったからこそ、特にスクーターは心強い生活の足なのです。またもだいぶ長くなりましたが、そんな二輪も、弱点は雨と寒さ。殊に風邪が完全に治るまでは、二輪はぶり返しの原因にもなりかねません。バッテリーを維持するためにも早く復調したいのですが、長距離走行は控えています。そう、近所のスーパーまでの往復には二輪を使うようにしています。日照不足と言われた今夏でしたが、それでも9月半ばまでは暑い日が続き、2輪には絶好の季節でもありました。その夏もとうに終わり、まだ残暑があるから二輪を楽しめると思ったのもつかの間、季節は早、秋気忍び寄り、肌寒く感ずる候となりました。ここで退屈な駄文をさらに退屈にする如きを書かねば次へ進めなくなる気がしたので、脱線致します。たった今「肌寒く」と書きましたが、キーボードは日本語入力で「はだざむく」と打っています。「はださむく」でも同じ字が出ますが、最近のテレビのアナウンサーは、濁音の発音をおろそかにするようになりました。「肌寒い(はださむい)季節になりました」なぞと言うのですが、お前の言葉遣いのほうが寒いよと言ってやりたくなります。さらに言うなら、音便というものをもないがしろにする傾向を感じます。音便とはその言葉の通り、発音しやすく言い換えた結果の言葉づかいです。多くになじみのものとしては、「旅客機」があります。「りょかっき」と発音するものと察します。ところが「活火山」を「かつかざん」と平気で言う、というよりわざとそう呼んでいる者共が増えました。理科の教師がそう呼んで強調さえしていました。食堂で注文する時に「カツカレー」と言うのならわかりますが、「かつかざん」と言う必要がどこにあるのか。もちろん正しくは「かっかざん」と促音便(そくおんびん)を使うべしと思います。かつて東京都を走る「山手線」を「やまてせん」と呼ぶ者共が増え、あやうく軽薄な奴バラによって駆逐されるのかと心配したことがあったのですが、NHKアナウンサーが中心となったとの記憶が正しいとするなら、決して短くない期間のあいだに、アナウンサーの人たちが、「やまのてせん」とハッキリ報道し、遂に「山手線」と書いて「やまのてせん」と呼ぶ啓発運動が奏効したことがありました。これは珍しく山本夏彦氏も「NHKのような体力のあるテレビ局が一大キャンペーンを張ったら、かくの如き効果をもたらす好例である」と、メディア批判の得意な山本コラムが称賛していたので、印象に残っています。忘れぬうちにもう一つ書いておきます。NHK礼賛ではなく、言葉にうるさい私の病の如きの続きです。先に書いた発音の話は、百歩譲って是非もなしと無視することは出来ます。しかし、次の言葉は明らかな間違いです。『憎しみ合う』。この間違った言葉は、タイトルは忘れましたが、千葉真一氏が忍者の頭領になるドラマで、うんざりするほど聞かされました。「影の軍団」といったでしょうか。間違いの根拠は『憎しみ』を動詞に変える作業でハッキリします。『憎しむ』という動詞は存在しません。このパソコンの変換で出るということは、既に誤用がまかり通っている証左と言えるでしょう。『親しみ』という言葉があり、これには『親しむ』という動詞が正しく存在します。繰り返しますが、『憎しみ合う』とは本来なら言いません。『憎み合う』と正すべきですが、テレビなどで平然と使われるから、衆寡敵せずなのかも知れません。「言葉は生きている」なぞと訳知り顔に言う専門家・評論家がいますが、俗耳に入りやすいと読んだ上の迎合です。間違いは間違い、NHKが「『憎しみ合う』とは言いません」と、山手線の時のようにキャンペーンを張ったら、かなり効き目があると思うけれども、多分黙殺しているのでしょう。軌道修正致します。私は60代に入ってからの風邪は長引いたり、ぶり返したりするおそれ大なりと、今回の経験で痛感しています。その時、ある人が「ペッパー君の将来は明るいと思う」と言った言葉を思い出しました。私はその人の前途にペッパー君は無縁だと思うものですが、その言葉と簡潔明瞭な説明は説得力を感じました。まだ私にスクーター一台運転出来ぬ都合があって、そのかたの車に乗せてもらっている時の会話の一コマでしたが、印象に残るものです。そして、今回風邪を引いて、なかなか本復の実感を持てぬまま日だけが過ぎるあいだに、ふと思いついたことですが、「ペッパー君ほどではなくとも、ロボット玩具も長足の進歩を遂げているのではないか」ということです。かつて『アイボ』というペット系のロボットが話題となりましたが、価格を見て仰天したまま、当分縁がないと思っていました。果たして、新しいタイプが登場して、どうやらこれらに親しんでいる人もいるようなムードを感じましたが、今一つ食指が動かないのは、急な軍資金に欠くことだけが理由ではないようです。ただし、この手のものを必ずしも毛嫌いするのではない根拠があります。母が2009年に要介護度5から4へ下がる劇的変化を見せてくれたうれしさに、セガトイズの『夢ねこ』という精巧な猫のオモチャを買って、ベッドに横たわる母の隣りに置いてみました。猫の鳴き声に応えて、親しげに話しかける様子を見て、束の間母のペット代わりになるかと思ったものです。やや歳月が移って、2012年、母を特養に入所させる決心をして、その5月に母は入所しましたが、だいぶ衰えが進んだ翌年2013年の誕生日をどうにか迎えたその記念に、今度はラブラドール・レトリバーの、つまり犬のオモチャを買って自室の母に渡したのですが、猫の時のような活発な受け答えは見られなくなっていて、ほどなく家に持ち帰りました。これは今でも母が過ごした階下の部屋に置いてあります。今度は己れの番かとも思いましたが、私なぞは、ロボットを相手にするのさえ億劫なようで、既にロボットでさえ、好き嫌いが出ました。それが今回掲載した二種類です。私がいずれを好むか、これに正解できる人は、楽天ブログ関係の人の中にはいないと察します。答えは人間的でない格好のロボットのほうが好きです。昔よく読んだ月刊誌「少年」の二大人気漫画に例えると、「鉄人28号」と「鉄腕アトム」のうち、「鉄人28号」のほうが断然好きだったと書けば答えの根拠になると思います。鉄人も、2チャンネルプロポという簡単な操縦器にもかかわらず、正太郎少年の指令に正確に応える動きを見せました。しかし、アトムのように人間的な仕草をせず、第一目もあいたままだし、口はありません。西洋の騎士のよろいにヒントを得たと作者の横山光輝氏がものの本に書いていたように、とても精悍な顔のデザインです。余計なことはしない。命じられたことに正しく従って動く以外は、正太郎邸のすぐ外に起立して真っ直ぐ前をにらんでいる。この姿と設定に少年の私はいたく共感しました。私はロボットにダンスをして見せて欲しいとは思いません。こちらの指示に答え、それを完了したら、電池を切ってロボットにも休んでもらう。これがロボットへの要求の理想です。ロボットにとっても、余り付き合いやすい人間ではないかも知れません。
2017.10.07
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きのう書いた通り、この頃の趣味の手製ロケット打ち上げは、別冊にその記録がある。ただ、ちょっと思ったが、ロケット趣味についてあれこれ細かく書いても、われながらさほど面白くないようだ。よって、実は今のところまとめように困ってはいるが、とりとめない内容になるのを気にせず、いろいろ書いてみようと思う。死なぬ限り、先は長い。何しろこの日記回顧は、ただいまの高三二学期をはるかにくだって、控えめに見ても、平成初期ぐらいまでは、書いたり書かなかったりはあるものの、続いていたからだ。タイトルは昭和45年とあるが、実は今書いてるくだりは、しばらく中三、昭和44年である。初飛行成功したあとで、このロケットに命名した。当時、米空軍に既にF4ファントムというジェット戦闘機があったのだろうか。記憶があいまいだが、この名前が気に入り、この意味に近い英単語を語いに乏しい頭で、さがした。だがゴーストくらいしか浮かばなかった。心霊現象にもおおいに興味があったので、「よしこれだ!!」と、飛行成功機に「ゴースト一号」と名づけた。当時のアメリカのサターンロケットのように、垂直発射したいと思い、二号機は、針金を三脚のようにしてロケットに巻きつけて発射実験した。だが、ねずみ花火のように地面を転げ回り、失敗。ゴースト三号用に、ややしっかりした発射台を作った。これも垂直式。また、三号機には、機体に「GHOST3」と書いてある。気分が乗ってきた証拠だった。同じサインベンでも、少しずつ長さや形が違う。この頃、クラスでサインペン使っている者がいると、しつこく予約して、さらに「悪いけど、早く何でもいいから書いて使っちゃってよ」と頼むことを忘れなかった。そして、「ほれ、終わったぞ」と一人が声をかけてくれるや、すぐ礼を言ってもらって帰った。燃料にも加工を施した。学生服のカラーよりもよく燃えるマッチ棒の薬の部分を丹念に削り取って、これをカラーにまぜた。この頃やたら命名癖があって、適当な和製というか、自製英語で新燃料を命名した。速く火がつく落雷のような威力の燃料という意味で、「fast fire thunder」、略称FFTと名づけた。10月29日、日曜日、垂直式ゴースト三号機打ち上げ実験に挑んだが、結果は凄かった。記録に「大爆発を起こす」とある。なお、書き忘れたが、点火方法は、ロケット本体を石油を浸した布をマキにぐるぐる巻きにしてタイマツを作り、ひたすらあぶるだけの原始的なもの。わけがわからなかったが、「パン!!」という一瞬の乾いた大音を発してロケット頂上部のアルミがめくれあがっていた。これでやや原因がわかった。まさしく、ロケット頂上部を熱したため、先にロケット上部が内部で発火し、その炎が未燃焼の下部の燃料を押して、噴射口をふさぎ、行き場を失った炎が頂上から噴き出したものと思われる。このあと、少し、ない頭をしぼり、いろいろ設計図を書いたりしたが、市販のロケット花火はいとも簡単に10mやそこらは上がるのに、マジック使用の我がロケットは、だめだった。のちに導火線点火にも成功し、部分的には進歩していたものの、いかんせん、飛んでくれず、何回か失敗するうち、疲れてきた。そして、高校受験が迫ってきたので、一旦中止。続きは高校入学後となる。なお、ゴースト型は四号機で終了。でも、我が日記、女子はおろか、友達の話も出て来ない。さよう。私は全時期を通じて、友人を一人も持たなかった、くらーい奴なのである。
2003.04.21
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「手作り輪ゴム鉄砲の思い出とバネ式拳銃構想」村松「今回はまたガラリ変わって、御殿場の官舎でみんなでよく遊んだ手作り鉄砲のことから、もう少し進めてくれたら、バネ式のピストルの構造を考えて欲しいんだけど・・・」夕子「意外でしょうけどね、あたし『銀玉鉄砲』でいっとき遊んだの」村松「ええッ ! じゃあ、駄菓子屋なんかで買ったりしたの ? 」夕子「オモチャ屋にもあったわよ。でもね、結論言うと、何んとか仕組みが知りたくて分解したけど、まだ小学低学年ってこともあって、そっと分解したくても、部品がバラバラに飛んじゃって、元の構造がわからなくて、あきらめたの。銀玉鉄砲のことは詳しい人がいて、ネットでも、分解後組み立て直した話も見たけど、今さら解明しようっていう気は起きなかった。これね、母の虐待から解放された頃のことなのよ。ところで、余談だけど、このテーマ、北海道旅行の記録ブログより先に企画したのよね」村松「そう。あれはかなり手間がかかったけど、今度のはもっと大変だったものね。特にお前には、全くの別テーマ連続で、申し訳なかった。おっと、時系列を乱した。話に戻るね。俺も分解したけど、はずしたとたんに飛び散っちゃって、ダメ」夕子「少しわかったのは、トリガー(引き金)とキックバネっていうのがどこかでつながっていて、それで発射するまでかなり固かったってことだけ。知り尽くしてる人が読んだら、これしきのこともわからないかって思うかも知れないけどね」村松「ネットで検索すると、ストライカーとかフックとか書いてあるけど、中を見せる構造図がないんで、お手上げ。トリガーがキックバネを押すような気がするけど、発射後、トリガーの位置がきちんと元に戻って連射出来るようになる仕組みがわからなくてね。俺が夢中になったのも、低学年か、もう少しあとの頃だか余り覚えてないんだけど、もう今はどうでもいいことだけど、・・・そうかあ、お前も子供の頃、いっとき遊んで、それきりなのか」夕子「でね、せっかくのあなたの頼みに答えることは無理だと思うけど、結論言うと、あなたたちが楽しんだっていう手作り輪ゴム鉄砲のほうが、作り方も簡単だし、けっこう楽しめたんじゃないかって・・」村松「そうか・・。じゃあ、バネ式のことは無理か・・」夕子「でもね、あくまで自己流ので良ければ、業者が作るものには及ばないけど、とりあえず単発式で良ければ、仕組みを考えてみるわよ」村松「ホント ? 」夕子「ただし、作図はお願いね。だから、更新までは時間がかかると思うけど、何んとか仕組みを自己流で考えてみる。でも、本格的に親しんでいる人たちの専門用語と比べたら装置や部品の名前に間違いがあると思うけど、そこは我慢してね」村松「いや、助かった。各部の名称は俺たちのあいだで勝手に呼ぶってことでいいよ」夕子「くどいけど、あたしの根本はゴム動力というか、輪ゴム動力なの。まず、あなたが昔作ったっていう輪ゴム鉄砲から始めていい ? 」村松「うん、いいよ。でも、どんな図を用意したらいいの ? 」夕子「それにはまた時間がかかるけど、あなたが作ったっていう鉄砲の簡単な図を描いて送ってね。本題はこのあとね」・・・・・時間経過あり・・・・・夕子「お待たせ」村松「ホントに悪かったね。俺の描いた輪ゴム鉄砲のヘタな図はともかくとして、お前が考案してくれたバネ式のピストルの設計図は、線引きなどが実にきれいで、この各部品に俺のきたない字を書きこむのが、さすがに気が引けてね、結局俺のヘタな絵で描くことにしたけど・・」夕子「いいのよ。警戒するわけでもないけど、あたしの筆跡が残るから、・・と言ってもそこまで用心する必要もないと思ったけど・・」村松「いや、お前の個人情報は、出来るだけ守ることにしたから」夕子「でも、あなたの少年時代の遊びの様子が何んとなく目に浮かぶようで、追体験しそうになったくらいよ。自衛隊官舎の人たちと遊んだんでしょ ? 」村松「少なくとも俺にとっては、官舎というのはある意味で閉鎖社会だけど、みんな仲のいい遊び相手ばかりで、毎日が楽しかった」夕子「あ、そうかぁ。あなたの頃は両親特に父親がほとんど旧陸軍軍人だから、学力とまで狭く考える必要ないとしても、土着の子供たちより、バランスがとれていたのね」村松「そう。俺は学力は今一つだったけど、とにかくみんなに溶け込めたのは良かった」夕子「えーと、さて、輪ゴム鉄砲第一弾に入るわよ。あなただけじゃなくて、初めみんなこの方法で作って、うまく行かなかったのよね。あ、ところで、仕組みがわかるように、あたしの考案したのも、隠れている内部も実線で描いたけど、いいのよね」村松「うん。お前が考案したのも実線だから、これで統一出来てちょうどいい。この失敗例のヤツを何んとかしたいと思ったけど、ダメなんだよな」夕子「これだと、止め金からフックつまり、上の輪ゴムのところまでが、言ってみれば回転の半径になってしまうし、引き金(トリガー)からフックまでが真っ直ぐだから、引き金を引き切るまでに、フックがハズれる角度まで傾かないか、傾きにくいのよね。で、この問題を誰か解決したわけ ? 」村松「これが何んと俺の兄貴」夕子「ええッ ! ? お兄さんが ! ? 」村松「うん。その場でボール紙なんかを用意して切り抜いて、あっという間に俺たちにとっての難問解決。俺はなぜトリガーをこんなふうに曲げると、スムーズに発射するか、わからなくて、とにかくわからないまま、作りなおしてみると、見事に楽々輪ゴムが発射されたし、ほかの仲間も次々うまくいった」夕子「お兄さん、雑誌『少年』の組み立て付録、ほとんど完成させたって聞いたから、そういう知識もあったのかしら・・」村松「これはどういう原理なの ? 」夕子「止め金のところを曲げてあって、その止め金のところから、向かって左側へ傾斜してるでしょ。だから、トリガーを少し引くだけで、上部のフックがはずれやすくなるの」村松「そうか。でね、トリガーを引いて輪ゴムを発射させてしまうとね、鉄砲の下の部分の強い輪ゴムがトリガーを引っ張ってしまうから、指で押さえたりする必要があったんだ。ところが、改良型を作った兄貴のほかにも、ひらめきのいい上級生がいてね、一番上のフックの後ろに突起を取り付けて、トリガーが引っ張られないように工夫することを思いついたりしたんだ。ちょっと図が見づらいかも知れないけど」夕子「わかるわよ。なるほどね。ところで、その頃は市販のオモチャもいろいろ出てたんでしょ ? 」村松「うん、出てたよ。もちろん、銀玉鉄砲もあったし、それからマッチガンもひところ流行ったな。けど、自分で限られた材料と工夫によって、手作りのオモチャを作るのも流行ったな。正月を目指して、上級生の人たちが、畳一畳ぶんの巨大な凧を作って、結果は失敗だったけど、初めは見事に何メートルか上昇して、それから真っ逆さまに地上に激突しておしまい。でも俺は、凄いと思ったね。おっと、話がそれた」夕子「とりあえず輪ゴム鉄砲の話は一区切りつけるわね。でもくどいけど、あたしは、そういう手作りの鉄砲にチャレンジする気持ちが好きなの。でね、あたしが何とか設計したバネ式のピストルのことに移る前にね、あなたが確か幼児雑誌の組み立て付録をヒントに完成させたっていう輪ゴム式連発銃のことを少し話題にしたいんだけど・・。これいつごろの付録なの ? もしかすると思い出したくないことともダブるかも知れないけど」村松「平成5年の暮れに発行した機関誌の組み立て付録かな。スキャンの都合で、付録が傾いてるけど」夕子「大丈夫よ。送ってもらった画像を傾けなおすから」村松「じゃあ、トリガーの部品の画像も送るよ。ちょっと待ってて」・・・・・・・・・・夕子「ありがとう。これで充分よ」村松「何んか見つけた ? 」夕子「ええ。輪ゴムを引っかける部分の傾斜角に対して、トリガーの上の部分の角度が急傾斜にしてあるわね」村松「さすがよく気づいたね。角度に差をつけないと、せっかくの連発が、一気に輪ゴム全部発射しかねないからね」夕子「幼児雑誌って言っても、バカにしてはいけないわね。なるほど」村松「でも、これにも弱点があってね、何回も使ううちに、輪ゴムが切れるんだ。新しい輪ゴムに替えるのに、割りピンか何かを初めから取り付けて、修理可能にしとけば何回も使えたんだろうけどね。組み立てが終わったところで、接着剤で閉じてしまった」夕子「でも、ある意味でそれでいいんじゃないかしら。『少年』の付録はもっと複雑だったでしょうから、いつかは壊れる宿命みたいなものでもあったんでしょ」村松「うーん、何しろ兄貴がすべて完成させたからなぁ。もう記憶はない。でも、壊れたことがあるのは確かだと思うよ。それでまた、来月号に期待したんじゃないかな」夕子「さて・・・モデルガンや電動ガンに詳しい人に読まれるの恥ずかしいけど、いよいよ、あたしの自作のバネ式拳銃に入るわよ。まず初めは単発式だけどね」村松「・・・。ということは連発銃も考えついたの ? 」夕子「もうお互い、正直疲れたでしょ。いいえ、あなたに気力があれば・・」村松「いや、もう今回でしめくくりでいいよ。俺も疲れるなんて言う資格はないけど、お前に手数をかけ過ぎるから。・・・でも、『連発銃』遂に考案したのか ! ? 驚きだな。・・・でも、それについては、話だけで設計図はいいよ。・・でも、お前の能力には恐れ入った・・・」夕子「とりあえず単発式からね。ああやだ。詳しい人がたまたま読んで、構造の間違いを指摘したらと思うと・・・、自信ないけど。とにかく設計図を載せるわね。それから話が長引いて画像が離れてしまったら、同じものを載せるかもしれない。この構造で首尾よく作動するかどうかは別として、原理だけ、ようく確認してね」村松「・・・・・。少しずつわかって来た気がする」夕子「銃身やその他の部品は、なるべく見づらくないように、銃全体を長くしてあるわよ」村松「なるほど。トリガーは輪ゴム鉄砲とは異なって、このまま後ろのバネを圧縮するわけだね。それで、丸いフックのところに、『フック止め具』」がかませてある」夕子「これね、あなたが持っていた『武器』という豪華本で、中国の『弩(ど)』っていう昔の武器を参考にしたの。今でいうボウガン、洋弓銃の元祖ね」村松「フックが回転しないように、『フック回転防止バネ』がフックの左回りの回転を、防いでるんだな。つまりこれも圧縮バネだよね」夕子「そう。圧縮バネが抵抗して、少し伸びてフックの回転を妨げるの。でも、ベランダに布団を干す時に使う製品も同じだし、わざわざ圧縮バネって表現するのが正しいかどうかは自信がないわよ。要するに伸び縮みする弾性力の利用なの」村松「いっぽう、トリガー(引き金)の後ろのバネは完全に縮むんだよね」夕子「そう。『フック回転防止バネ』の強度も考えなければならないでしょうけど、フックとフック止め具のかみ合わせかたによっては、フック回転防止バネが変形し過ぎるほどにならないうちに、フックがハズれてくれれば『弾丸ストライカー』がフックで引っ張られたぶん、前方へ縮んで、弾丸にぶつかるの。ただ、バネが変形しちゃうとダメよね。これがこの仕組みでの限界」村松「何か問題があるの ? 」夕子「弾丸ストライカーとフックは、ただ簡単につないであるだけでしょ。弾丸ストライカー側に、きちんとした筒のようなもので包んだほうがいいかなって考えたんだけど・・・、やっぱり無理があるかなぁ。でも、今言ったように、布団を干す時のものなんか、かなり強度があるのよ。それとね、トリガーが押すバネはむしろ強度をある程度のものにして、フック回転防止バネを、変形しにくいようにしたほうがいいのかなんてことも考えたの」村松「ちょっと待って」・・・・・・・・・・村松「あったよ。確かにこれは強力なバネだね。それにビニールの筒みたいなので包んである。しかも筒が曲がっているけど、きちんと伸び縮みする」夕子「バネは強度によっては、伸びもするしもちろん縮みもするわよね。で、繰返しだけど、トリガーが押すバネはある程度の、どちらかというとキツくないバネでいいとも思うの。その代わり、弾丸ストライカーとフックとをつなぐバネは、強度のあるものを使うほうがいいのかなって思ったの。あなた、物干し用のバネの強度、実感したでしょ ? 」村松「うん。持ち手があるからテコの原理で楽だったけど、バネ自体はかなり強いね」・・・・・・・・・・村松「さすがに疲れたね。でも、無理でなければ、いよいよ連発式の仕組み教えて ? 」夕子「あなたが送ってくれた画像の中に、幼児用かしら、赤いピストルのオモチャがあったわよね。これ、ある意味でコッキング式ってとらえても、全くの間違いではないと思ったの。銃口近くに、楕円形のようなツマミがあるわよね」村松「うん。確かにこれを右に引くと、どこかでトリガーがフックに引っかかる。そうだね。これは本格的なモデルガンでいうコッキング式なんじゃないかね。ツマミを後退させるとバネが圧縮されるから。これの本格的なの、俺、昔持ってた。あ、話を戻そう」夕子「脱線ついでに、幼児用ピストルいつごろ買ったか覚えてる ? 」村松「これがまた正確な記憶はないけど、多分平成3年ごろ。授業が一段落(いちだんらく)した時に、高校生にリラックスさせようと見せたら、かなり夢中になって楽しんでた。何しろポリエチレンの球体の弾丸だし、有効射程も2メートル足らずで安全だしね」夕子「懐かしい頃の思い出ね。でね、画像を見ると、球体の弾丸を入れる筒が一番上にあって、途中から向かって左下へ傾斜してるでしょ」村松「そうだね」夕子「本格的なものとは差があるかも知れないけど、これが言わば弾倉なのね。で、ちょっと面倒でしょうけど、コッキングを完全にやらないギリギリのところまでツマミを引いて、弾丸の様子、見ること出来るかしら」村松「やってみるね。少しずつ引いてと・・。弾丸が一つ銃身内に落下した」夕子「そのまま、銃口を真下にしてみて」村松「弾丸は銃口からこぼれないや」夕子「じゃあ、今度はツマミをゆっくり左へと戻してみて」村松「ストライカーに押されて出て来た。ん ? 何か突起みたいなものがある」夕子「多分、弾丸がその突起に引っかかって、こぼれないようになってるんじゃないかしら・・」村松「なるほどね。目の前にいないのに、たいしたもんだ」夕子「さて、そこでね、もし、あたしの考えたピストルが首尾よく弾丸を発射出来ると仮定してね、その幼児用のピストルと同じように、傾斜をつけた弾倉を取り付けると考えるの」村松「なるほど」夕子「それで、あたしが考案した拳銃の場合はトリガーなんかの構造は連発式に改良出来るスタイルが完成してるから、傾斜式の弾倉を上部に取り付ければ、連発式が可能になるかも知れない」村松「ホントに ? いや、可能性あるね。でも注意点は ? 」夕子「球体の発泡スチロールがあるでしょ。これが弾丸。それとね、銃口内の適切なところに、さっき話した突起のようなものを作って、弾丸がこぼれ落ちないようにするの。それと、一発発射したあとに、次の弾丸が銃口内に落ちるでしょ。でも、この時、ストライカーが弾倉をふさぐおそれがあるかも知れないから、その時は、トリガーを少し引いてみれば、弾丸も弾倉から落下するし、元の位置に戻るはずだと思う。場合によっては前に進み過ぎた弾丸の位置も調整してね。でも、ゴチャゴチャ言って悪いけど、オモチャのピストルも、ストライカーが、銃口近くへ前進して、弾倉からの弾丸の落下をふさいでいるから、意外にうまく行くかもしれない。余り理想通りに行かないけれど、この弾丸位置の調整は仕方ないわね。でも原則、弾丸ストライカーは、フックとフック止め具によって、定位置に落ち着くはずだから」村松「いや、恐れ入りました。長年の難問というか、不可能とあきらめていた連発銃の問題までが解決した心地。何んかお礼しなければならない気がして来た」夕子「気持ちだけで充分。それに、本当はもっと早く実現させたかったのよね。でも、これはあくまでも理屈というか机上の何んとかに過ぎないかも知れないから、これで必ずとも言えないわ」村松「でも、いい気分だよ。ただ・・・」夕子「無理に言わなくていいのよ。あたしだって机上の何んとかって言った通りで・・・、あなたの長年の疑問と思いに答えようとしたまで。もし、機関誌が、そう20年近く昔に戻れれば、チャレンジしたかった・・、そういうことでしょ ? 」村松「察しが鋭いね」夕子「外野が言いたいことを何んと言おうと、あなたは決して被害者意識ばかり強過ぎたんではなくて、事実、損ばかりした経験のほうが多いことを、あたしが一番強く知ってるもの」村松「連発銃が実現してたら、あとの付録なんか、楽々作れたものね」夕子「ただ、くどいようだけど、構造からみて、幼児用のオモチャのほうが無理なく作れる気はするわよ。コッキング式のバネはかなり軽いはずと思うから」村松「全くその通り。これで発砲スチロールを発射出来たら、それでも充分だと思う」夕子「今回でだいぶ疲れたはずだから、また時間をおいて、あなたが完成させた『海底軍艦』のことや、そのほかに作る予定だった付録の話なんかもテーマにしたいわね」村松「今回も、それ以前にも優る協力ありがとう」夕子「いいえ、どういたしまして。あたしも楽しかったわ。もちろん、仮に作ったとしても、一回で成功っていう自信は余りないけど。バネの強度なんかも未知数だしね。これもくどいけど、今は体調に身を任せて、必ず無理はしないでね」村松「ありがとう」夕子「でも最後に意見言ってごめん。あたしは輪ゴム式で、あなたたちが手作りで楽しんだ頃の鉄砲のほうが好きなの」村松「懐かしさを喚起してくれたね」最後に、奥の手とでも言わぬ口調で、彼女は、『改良型』と称する画像を急ぎ追加するよう提案した。私は、弾丸ストライカーとフックとをバネ以外のもので固定したら、フックの回転に支障が出るか、回転不可能になるのではないかと返した。彼女はこう言った。夕子「かねがねストライカーとフックとをバネでつなぐと、トリガーの引きによって、バネが変形するおそれがあったの。それでね、この二つをつなぐのは、何も固い金属の棒などではなくて、例えば輪にして何本かに重ねた凧糸か、または適度な太さと強度の針金の使用を考えたの。針金も適度に取り付ければ、たわみが出るはず。どちらもフックの回転をストップさせるほど、強い力は働かないから、このほうが、トリガーに引かれて、やがてフックはハズれると思うのよ。ただしね、図がないからわかりにくいでしょうけど、針金などでつなぐ場合は、弾丸ストライカーが、弾倉をふさぐ位置に置かないと、せっかくトリガーを引いても、弾丸の手前で止まるおそれがあるから、いっそのこと、ストライカーを弾倉の下あたりに置くようにして、それで、トリガーを引くと、弾倉から弾丸が落下するようになって、このほうが構造的に、理屈に合ってると思うの。幼児用のピストルも、そういう構造なのよ。あたしばかり話しちゃってごめん」私は、仮に作った場合の成否はともかく、彼女の独創性に恐れ入った次第である。そして、彼女の労苦に報いるためにも、最後に考案した連発式の図を描いて掲載したかった。連発式の図は一切描いていない。もし読んで下さったかたがいたら、構造上の難点はご容赦いただくとして、連発式の図がないことをお詫びするばかりである。
2016.10.23
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大学合格はあっけなかった。ただし、私よりも三つ上の兄のことをもう少し書きたいが、既に十年前鬼籍に入って、菩提寺の墓の中に骨壷が安置されて永眠している兄に断わりなく書くのは、やや気が引ける。私は母の切望と厳命とも言える訴えをすべて聞き入れ、兄の死のことはひた隠しにしてきた。だがその母も、最近諦観(ていかん)に達したというのか、私の父方の親類にだけは知らせてはならぬとの強い意思は変わらぬが、それ以外には無理に知らせることもない代わりに、自然にその雰囲気が出来たら、もはや明かしても仕方ないとまで言った。楽天日記に親族はいない。開設以来、交流ある人をあざむき続けることに、忸怩(じくじ)たる想いが絶えずつきまとって来た。母がようやく条件つきで許可してくれた。私の兄は平成七年(1995)、7月26日午後、土浦市内の東京医大病院の広々した個室で死んだ。享年46。妻と三人の子供を残すにしのびずと最後まで懸念を抱きつつ、遂に命脈尽きた。なぜこんなことを書くかというと、私は兄に死なれて以来、その精神も神経も生命力もなえ、ただ息をしているだけで、前途に何の希望も持てず、生きる気力をとうに失っているからだ。だから、おととし開設以来、日記上では、兄を雪国にいるなどと偽って、生かせ続けて来た。その私も50の声を聞く頃から、それまで何とか気を紛らせて来た諸々の事共に次第に飽きて来て、遂に同じ明け暮れに時間のみ費やすことに疲れ果てた。楽天日記を書いていると、兄の思い出がよみがえるテーマに触れることが少なくなかった。兄の魂に断わりなく死んだと書くことは出来ず、兄を生かし続ける設定をした。例によって、原案は夕子だった。言わば共犯だ。彼女は時に、兄になりすまし、巧みに書き込みしてくれた。兄夫婦も薬科大出、夕子も同じく。この奇(く)しき一致は、初め夕子を驚かせ、ついで兄を驚かせたが、私にはさらに忘れられぬことがある。兄の細君はおせじにも魅力とは無縁の顔立ちだ。ただし、顔立ちそのものを評してのことだ。兄はなにゆえか、彼女との縁組に当時は乗り気だったはずだ。好みは人それぞれというところだろう。兄の病名は慢性骨髄性白血病で、これは急性転化という症状が現われたら、死は時間の問題である。現に仕事でベルギー研修に行っているあいだに現地で転化し、帰国して一ヶ月ほどして死んだ。私たち周りの者は、兄の前で必ずこの病名を口に出すまいと決意し、誰より兄自身が、治ることもあると、自他共にあざむきごまかすようなことを言い続けて来た。さて、その兄が白血病に罹患する六年ほど前、私は兄にだけ夕子との付き合いの話を打ち明けた。冗談の好きな兄のことだから、「写真あるか ? あるなら見せてくれ」と言われた時、何をまたからかわれるかと、しばしためらった。兄に対しては素直だから、細君ほか、だれにも内緒にして欲しいと、しつこく念を押した上で、彼女の陸上部時代の部活の写真、大学時代の写真を何枚か見せた。ややあって言った兄の言葉が、久しく聞くことの出来なかったイカした言葉だった。「なかなかシャンだなぁ。ホントにお前の彼女か ? 」これが精一杯の兄の皮肉とも取れる言葉だった。蛇足ながら東宝映画「連合艦隊司令長官・山本五十六」で、加山雄三氏演ずる飛行隊長が、このセリフを言うシーンがある。この時点で私は彼女との付き合いがようやく三年目に入るころだった。今まで二年持ったためしがないから、ジンクスにしていた。「会わせてくれ」と言う兄に、私は「お兄ちゃん、いつフラれるか、わからないから、必ず秘密を守ると約束してくれる ? 」と問うた。なぜだと再び質問を受けたから、ジンクスのことを言い、それでもマに受けてはくれまいと思ったから、何事か忘れたが懸命に訴えて、秘密厳守を請うた。兄は「よし。持てないお前のたっての頼みだ。死んでも秘密を守る」と確約の言葉を告げてくれた。後日、兄は彼女にただ一度会った。これが文字通り現実となるとは思いもよらなかった。昭和63年暮れの会社の健康診断で、兄の罹患がわかった。さらに兄は土浦の病院で再検査を受け、ここに至りもはや間違いなく白血病と判明した。兄は一時的にウツ病の症状を呈したと、これは細君から聞いた。罹患が発見された時は、無症状である。外見も本人の健康状態も健康そのものだ。症状は二年ほどのちにハッキリ現われた。めったに風邪をひかぬ兄が八度の熱で寝込んで胃をもこわした。白血病に風邪は禁物だが、風邪のウイルスは時節を選ばずに襲い来る。いや、細かく書き過ぎたかも知れない。ついでに書くと、兄の霊魂には全くお目にかかっていない。私にはほんのわずかだが、霊能力と呼ばれる不可思議な感覚力があり、深夜の教室にいて、階段をのぼって来る足音と、二階の和室のからかみをあけてしめる音を聞いたことが何回かある。これが兄ならと、良く思い、願ったものだが、残念ながら冗談好きだった兄は、死んでのちは、私をおどかすことを全くしかけてくれなくなった。足音だけのぬしが、和室に入ってから、そっと忍び寄って真っ暗な部屋のからかみをあけたこともあるが、何もいなかった。さて、夕子は母が承知したことを知っていたから、そろそろ兄について本当のことを書けとうるさかった。その夕子という名前を思い浮かべるだけで、兄のほめた「シャンだな」という懐かしい言葉がよみがえって仕方がない。付け加えると「俺はお前に一つだけ負けた。夕子ちゃんだよ。俺のつれあいは、ま、あくまでも面相だけだけど、とてもかなわない」とも言った。婚姻届も出さず、無論挙式なぞそれ以前のことだった。付き合いの形から言っても、事実婚とも呼べなかった。遂につかず離れずのまま、表向きは全く静かに過ぎる我が家の中で、両家泥仕合となり、私は己に異性の良縁は、やはりないと、例のジンクスを思い浮かべ、さらに当時は60代前半だった母に、ややきつく言った。口止めだ。「このこと、必ず他言無用。いいね ! 」と。やはり長くなった。決めたテーマからだいぶそれた。しめくくる。その兄に死なれてから、私は神経症を徐々に悪化させ、一年余りのちの平成八年十一月、遂に食べ物を受け付けなくなる最悪の症状をこらえきれず、塾をたたむと同時に病床に伏せるざまとなった。母も、我が子に先立たれる「さかさま」の起きた兄の死に、すっかり気力・体力共におとろえ、一時は体重がそれまでより十キロ余り減って回復しなかった。だが、昭和一桁は女もしっかりしていたのか、母は少しずつ食欲回復し、体重も旧に復した。やっかい者は私一人だった。兄弟に死なれて、仕事も食事も出来ぬほど参るのでは、世間をわたっていくことはむつかしい。それが私にはある。私が曲がりなりにも世間に出て、糊口することが出来るようになり、さらに家を新築出来たのも、元はと言えば兄の啓発のおかげである。その、スタートとなるはずの大学入学を目前にして、早くも神経症を起こして、精神病院入院となってしまったのだ。なぜ精神病院に入ることになったのかと言うと、単に両親に知識がなかっただけのことだが、私もキチガイ病院でも何でもいい、ともかく苦痛を取り除いてもらいたいと思ったから、むしろ進んで入院した。このことは、いずれもう少し詳しくつづるが、私は不快な気分にさいなまれながらも、合格後のつかの間の休息の中に身をおいていた。
2005.06.06
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「夕子、死す」タイトルがそのまますべてを物語っており、このうえ書き加えることもない。・・・・・・・・・・非常につらい結論だが、著しい体調不良を起こした相棒のインファント・レディこと夕子殿が、最近みまかった。享年53。間接的に、ブログなどで本人に関わって下さったかたには失礼なことながら、病気の詳述は伏せることにした。ただし、直接の死因は、心不全であるが、これは死亡診断書に記載されるものではない。私のブログが今年5月初めで更新がなかったのも、このことゆえである。ある朝とだけ書いておく。起床後まもなく息苦しさを覚えた彼女は、会社に連絡し、上司の機転で救急搬送されたが、病室のベッドに横たわる頃には、呼吸が弱くなっていた。いかなる病気にも、最後は心肺停止に至る症状があるが、意識があるあいだに心臓の働きが不調になったから、いよいよという時、さぞかし苦しい思いをしたことと察する。つまり窒息の苦痛である。自然死の場合、多くの人は誰しもこの過程を通らなければならない。生きている人は、存外この事実を知らないことが少なくないと断ずる。たとえば水泳などで溺死する時は、約1分30秒のあいだは、断末魔の溺水の苦痛に、もがかなければならないが、この90秒間を過ぎると、先に意識が混濁し、呼吸が停止するまでの窒息の苦痛からは解放されるから、自然死と言われる病死のほうが苦しい思いをする。よく「穏やかな死に顔だった」とか「眠るように逝った」などと形容して、死別の悲しみを軽くしようと語る人がいるが、多く死に顔は穏やかに見えるものである。私の父とて、浴槽に浮かぶ姿は、まるで湯の中で眠っているように穏やかな顔をしていた。無論、誰にも知られないところで、腹にも肺にも大量の湯を飲んで苦しむおよそ90秒間があったはずだ。夕子殿は、呼吸困難の苦痛の時期を耐えたのち、意識レベルの低下で、苦しみから解放されながら、生命活動を終えたと察しられる。ある意味で、父より苦痛の時間が長かったかも知れないが、勝手な推測は慎まねばならない。とりあえず以上のことを報告し、本人と間接的にせよ、温かく関わって下さったかたに、お礼を申し上げておく。男らしくないかも知れないが、私もまだ呆然たる状態で、気持ちにまとまりを欠き、このくらいのことしか書けない。ようやくここまで書いたと察していただくしかない。上掲二枚とも、元気な彼女と最後に検討し合った合成画像。
2016.06.16
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コラムを書こうと思うとエネルギーが要る。コラムは毒を含まねばならぬし、その毒に即座に腹を立てる人と、一つ読んでやろうと興味を持つ人とを分けるために、毒舌文章の中に、ユーモア、あるいは皮肉を混ぜなければならない。コラムとは別に論文という文章の分野がある。つぶれかけの塾ながら、とりあえずこれで糊口の足しにしようとするからには、入試の時節になると、小論文指導もしなければならないことがある。小論文は、コラム調で書いてはならぬ分野だ。44歳になって半年あまり経った頃、ただいまの購読紙「産経新聞」の読者投稿欄に挑んで、その初めての投稿文が掲載されたことがある。前年、平成8年秋ごろから、時々ワープロに打っては訂正し、そののち暮れに神経症を再発して入院、二週間ほどで退院ののちも、時々加筆訂正をくり返すうち、いつしか年を越して、初夏六月となった。当時たまたま所有していたファクシミリで深夜送信したら、翌早朝、産経新聞の係りの人から礼の電話をいただいた。「掲載内定ですか ? 」とスケベ根性を出したら、ほかにも何通かあって、決定には至らないとの返事だった。無理もないと思った。この「アピール欄」は、特別の枠組みの論文扱いで、謝礼も一般投稿より数段良い。当時、ある事情で産経新聞購読を中断していた。そこで電話をもらってから早起きして、セブンイレブンに日参し、産経新聞を買ったが、一日目、二日目と、目を皿にしてさがしても、どこにも載っていない。あきらめかけた何日目かに、己れの拙い論文掲載を確認し、記念に新聞一紙まるごととってある。ただし、以来、二度と採用されていない。いつか、このことに触れようと思っていたが、ほかのテーマばかりを思い浮かべて、あれこれ書くうち、すっかり忘れていた。きっかけは、本日の産経新聞コラム「産経抄」である。ゆとり教育を論難する内容だった。だいたい昔から「教育」という言葉は、とんでもないほかの言葉に勝手に飛びつかれ、くっつかれて、迷惑して来た。古くは「教育ママ」という言葉。この二つはおよそくっつくべきでないものだが、いかにも「教育」が「ママ」に飛びつかれて、迷惑している様子が浮かんで来る。そして今、「ゆとり」と「教育」という全く二律背反の性質の二つの言葉が合体して、「教育」はまたも困惑しているはずだ。テレビニュースを見ると、時々小学生が田植えをやった、麦踏みをやった、酒の工場見学をしたなぞという報道に出くわすが、ムダな時間を費やすものだとあきれるばかりだ。だがここにも甘言がひそんでいる。「社会勉強も必要」なぞと言いたいのだろうが、田植えを将来に生かす子供は限られているし、ほんの少しばかりまねごとをやったところで、本物の百姓の足元にも及ばぬのは明らかだ。総合学習の一環とにらんだが、現場の教師たちも、題材さがしで困り果てていると聞いた。仮分数を帯分数に、また、その反対に直すことが出来ぬまま、学年ばかり進級する児童が増えこそすれ、減ってはいないはずだ。なお、私は学習塾経営失格者だと思うが、繁盛する塾のような甘言を以て誘うことが嫌いだったので、必ずこの手の言葉を使わずにやって来た。塾は学習指導の場である。経営上手の塾はこんなコピーで広告を必ず出した。「真の教育を実践する塾です ! 」私はたかが勉強屋の塾教師ふぜいが教育とは笑止だと、つとに心得ている。塾は教育の場にあらず、学習技術指導の場である。更に私はこれは一つのサービス業と心得、初め、入って来た生徒に「いらっしゃい ! 」と大きな声で招いたが、いくらなんでもこれではすし屋みたいだと思い、以後、「どうぞ ! 」と言い、冬なら「寒い中、ご苦労様です」などとねぎらいの言葉をかけて来た。授業終了して送り出す時は、「寒い中、お気をつけて。本当にご苦労様でした」と、ほとんど客をもてなす態度で臨んでいる。公務員もしないことを、進んでやっているのである。再びこの態度は塾経営失格だと思われようが、出来ないものは出来ない。相手は高校生だから、なおのこと、思春期の気難しい世代への配慮から、自然、言葉遣いがこうなる。いつまで続けられるかそれこそ一寸先はやみだが、生徒を向え送る時は客として遇し、授業中は、伝えそこねた説明は己れに責めありと思って、少し詫びながら説明をくり返し、生徒の表情に睡魔ありとみてとったら、休憩し、らちもないことをしゃべり、そんなことを混ぜこぜにして、おだぶつになるまで、せちがらい浮世を生きるのほかなしとみている。
2005.01.28
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「ユコタン音楽シリーズ」東宝映画『海底軍艦』より「真琴のテーマ」楽譜(20191201開始)村松「ホントにありがとう。助かりました。書き写すのが下手だから正直疲れたけど、そんなこと罰当たり。忙しいのに改めて御礼(おんれい)申し上げます」夕子「そう。お役に立ててよかった。で、ほかに言うことは ? 」村松「あ、あの、お礼におごるから」夕子「シャラップ ! ゴマカすな」村松「え、何が ? 」夕子「そのまま書き写して載せる気なら、掲載棄却」村松「え、何んで ? 感謝こそすれ」夕子「正直に言いなさい」村松「あ、すると、夕子チェックして気づいたの」夕子「そう、ミスにね」村松「どうもすみません。訂正なんて罰当たりなこと・・」夕子「照らし合わせするからメールに添付して。あ、その前に訂正箇所を答えて」村松「あのぅ、何ヶ所か」夕子「正直でよろしい。どことどことどことどこ ? 」村松「そんな多くはありません」夕子「ハーモニカで確かめたの ? 」村松「You Tubeと、あとギターで。ギターは半音出せて便利だから」夕子「ごめんね。かえって作業させて。じゃメールね」村松「実に心より、衷心から、ありがたきことと」夕子「よし。帰ってよろしい」村松「帰ります」夕子「じゃねー」村松「ちょ、ちょっと」夕子「何か」村松「そんなぁ、も少しお話させて」夕子「甘えるな ! もとい」村松「はッ ! 今少しお話など、しとうございます」夕子「うふふッ、さびしい ? 」村松「うん。ボクちゃん、ちゃびちい。このごろ会えないから」夕子「そうね。あたしの変則週休にかぶさったからね」村松「そっちへの外泊も不可能でなくてもね」夕子「キツいよね。でもあなた、遂に退院期間一年達成よ。何か気持ちの変化あったでしょ」村松「うん。正確には免許更新終わった時。何言われても気にしないでいられたほど肩の荷がおりた。今回は、複数の人のおかげだと思うよ」夕子「このまま自宅に居られるといいね・・。少なくともあたしは大丈夫と思うよ。あ、そうだった。それからこれさ、何しろ偉大な『伊福部昭さん』だから、音階のほかにも、音符の長さ、もっと細かいこと言うと、速度記号なんか、いろいろ恐いのよ。言い訳だけど、極力、音階と音符を簡潔に記すことに徹底したの」村松「でもね、夕子がいなかったら、楽譜完成出来なかったし、これについて言わば文責は俺にある。ブログ中で断わっておくよ。技術的なことよりね、俺がもたついたり間違ったりしたから、消しゴムで消しきれない跡がついたりして」夕子「判読できればいいと思うけど。試しに送ってみて」・・・送信・・・夕子「ありがと。何んだ、オッケーよ。読める読める。あ、スゴい。ミス全部訂正出来てる。あたしが楽(らく)出来るわよ。くどいけど、プロの音楽家の楽譜の凄さを意識しないで書いたから」村松「それもスゴい謙そんだな。だけどね、夕子がこの世界に強く興味を持ってくれなかったら、ほかにも予定してる数々の伊福部音楽を周知出来なかったのは事実だからね。お前がエレクトーンで伊福部節を弾いたらどれだけ見事なオーケストレーションになるか」既に私、正しくは私たちがつとに感激を共にした伊福部昭氏の独特の音楽を、今回の『真琴のテーマ』以外にも下書きを書いている。東映動画昭和38年(1963)「わんぱく王子の大蛇退治」冒頭近くの一場面。伊福部昭氏の妙(たえ)なるメロディーの歌「母のない子の子守唄」(作詞・もりしま たかし氏)が流れる。いずれが先に清書出来るかわからないので、併記しておく。今一つの伊福部節の妙は東映動画「わんぱく王子の大蛇退治」の中の冒頭近くの『母のない子の子守唄』である。上掲二枚とも伊福部昭氏による映画「ゴジラ」楽譜。下は相棒が読み取った「ゴジラ」メインテーマ出だしの、バイオリン・パートの楽譜。「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」のおなじみのメロディーが書かれている。(出典「東宝特撮映画全史」)なお、相棒・夕子が心配していた楽譜のこととは、例えば何拍子の設定かということと、もう一つは音符の長さの聴き取りと楽譜決定である。「真琴のテーマ」では、本人なりに、エレクトーンで複数のバージョンを検討してみたが、一定リズムに乗せてほかの小節と合うように調整すると、今回私が採用決定した一つのパターンとなる。ゆえに、この楽譜で長さに不正確なところがあったなら、それは私の選択に責めがある。彼女は『変拍子』というオーケストラ・スコア(オーケストラの楽譜 ? )をも提案していたが、私にはむずかしいので、あえて一定拍子を選んだ。それから、これは改めて記すが、伊福部メロディーは、「真琴のテーマ」のように、ゆっくりした長さのものがある。一応四分の四拍子と記したが、演奏速度は例えば「アダージオ」つまり「四分音符=56~80」などだ。ここで音符の記号は、四分音符が環境依存になるので、言葉で記すしかなかった。さらに曲の調は「ハ長調」、ギターなどのコードでいう「C」にしてある。そのほか、これはまだ音階を聴き取ってメモしただけの段階のものだと、同じ「わんぱく王子の大蛇退治」の夜の食国(よるのおすくに)の入り口でスサノオがその国の名を叫ぶシーンに流れるメロディーが、妙(たえ)なる旋律であり、限りなく心優しいムードをみなぎらせている。出だしの一部を音階で書くと、「ミドシラシソラファー」(ハ長調のミから始めることにした)。相棒・夕子曰く。「繰り返しの効果などとも評されるけど、曲によっては、ごく短い間にほんの少しの音階を上下させるだけで、音の数以上の迫力を与える。伊福部昭さんは、二度と現われない。不世出の天才・奇才だわ」彼女の話をもう少し書くと。この短い小節の中に、これまたごくわずかの数の音階を入れて組み合わせた結果、特に「海底軍艦」では、信じがたいほどの衝撃を与える曲がある。委曲を尽くさんとすると、全く枚挙しきれない。さらに彼女は類別して言う。「海底軍艦」には、いや、海底軍艦に限ったことではないだろうと他作品に配慮したうえで、海底軍艦には各曲にタイトルを付すべき印象的なものが多い。既にスクリーンに映像が映ったとたんにそれは始まる。「東宝」のクレジット・タイトルが出た瞬間に流れるというより、「起こる」メロディーである。出だしの一部を音階で書くと「ミ ♯レ ラ ♯ラ シ ファ(註/別案『ミ ♯レ ラ ♯ラ シ ♯ファ』」(ハ長調のミから始めることにした)。彼女はこれについても、半音ずつ探って、調整したが、これまた私が採用決定している。さて、そろそろ私が相棒の楽譜候補の中から採用した「真琴(まこと)のテーマ」の楽譜を掲載してみる。ただし、映画の中では無論、神宮司大佐と娘・真琴とのあいだで、戦争に翻弄された父と娘の、激しくも切ない、そして味わい深いセリフの応酬が繰り広げられる。出来る限り聞き取ったまでのことながら、細大もらさず聞き取ったと独断したところを再現しておく。二人のセリフの応酬を劇的なものにするため、実の親子に相違ないながら、父親を神宮司、娘を真琴と表わす。くどいが、相棒・夕子は、オーケストラ・スコアにありがちな「変拍子」に最後までこだわって、詳しい人の目の鋭さを恐れたが、掲載した楽譜について、文責はすべて私にある。また、ブログ本文が長文に及ぶことから、楽譜の画像を、必要ならば複数回同じものを掲載するかも知れない。では神宮司と真琴の会話シーンから。無論バックには「真琴のテーマ」が流れる。★神宮司「真琴。真琴、何を泣いているんだ」真琴「・・・・・」神宮司「お前は父を恨んでいるのか」真琴「お目にかからないほうが良かったと思っています。夢で見ていたほうが、真琴は幸せでした。お父様、真琴のお願いです。どうか楠見のおじさまのおっしゃる通りにして下さい」神宮司「真琴、この二十年間、お前を人に預けてまで、日本再建を考え続けたこの父の気持ちがわからんのか」真琴「お父様こそ、真琴の気持ちがおわかりになっていません。戦争のために親と別れた子供の気持ち、お考えになったことがありますか」神宮司「わかってる」真琴「いいえ、わかっていません。わかっていれば、世界のために働いて下さるはずです。お父様の頭はムウ人と同じです。そんなお父様はきらいです」神宮司「真琴」真琴「いいえ、きらいです。きらいきらい、大っきらいです ! 」★父親に精一杯抗議して、「きらい」を繰り返す真琴こと、藤山陽子さんの演技が胸を打つ。「てめえなんか、親じゃねえ、バッキャロー」という気持ちは実はミジンもないと察する。言葉が、言葉遣いがきれいである。映画などの劇中のセリフとは勢い過激になるもので、現実の世界の日常にはふさわしくないことも少なくない。だが、藤山陽子さん演ずる神宮司真琴は、日本海軍再建の念に凝り固まっている帝国海軍軍人の父親に精一杯抗議しても、激昂され殴られるかも知れない言葉を、清楚な若い婦人の手本の如き清潔な言葉で抑え尽くしているから、父・神宮司大佐も、手をあげることなぞ出来ない。父親役の田崎潤氏の名演技に負うところも大きい。真琴の、美しい日本語を上品につかう態度・物腰に感じ入り、察したかどうか、紛(まご)うことなき我が娘なりと認めたかどうか、無論推測の域を出ないが、田崎氏演ずる神宮司の表情には、猛々しさの奥に、何か人を忖度する、思いやる人格者の分別があったように思えてならない。再び藤山陽子さんのことを書いておくと、昭和16年(1941)生まれの藤山さんは、映画「海底軍艦」公開当時(昭和38年、1963)12月で、実に弱冠22歳である。ウィキペディアの彼女の説明に、目鼻立ちが整った正統派美人とある通り、本物の美人で、それだけ大人の婦人に見える。その藤山陽子さんが演じた神宮司真琴役は、余人に変えられぬものだったと納得出来る。そして繰り返すが言葉遣いが手本のように上品だ。私が「海底軍艦」に魅了された原因の一つが藤山陽子さん演ずる真琴の存在だ。それに引き換え、今の女どもは老いも若きもダメだ。いたく感激した時も、寒くてたまらぬ時も「メッチャ、感激しました」、「メッチャ寒いです」だものね。バーカ、お前のそのツラが「メッチャ、不細工なんだよ」とでも言ってやりたくなる。が、「そう言うおめえも不細工なジジイじゃんか」と言い返されるがオチだから是非もない。「真琴のテーマ楽譜」作成・監修/ユコタン(広瀬夕子)
2019.12.14
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「ご用とお急ぎでないかたは」私の不人気で拙い駄文ブログを万一お読み下さっているかたがたにお知らせしておきます。トップページの左端「フリーページ」欄の最下段の「リンク」と題している項目をご存じのかたはいいのですが、ご存知でないかたのためにご説明申しておきます。こんなムードで書くからには、病膏肓(こうこう)に入れること甚だしき私のこととて、何か魂胆があると察しられた向きには、ぜひ細心の注意をと、お断わりしておきます。さようであります。クリックしたとたん、この手のものに平然としていられるかたは問題ないので、「このバカが」とか「このキチガイめ」とか不愉快を心中ひそかに感じて下さればけっこうなことです。でも、ここでお断わりをやめると、クリックしたとたん、もしかしたらギョッとして、次いでご立腹なさる人もおられるかと不安であります。どうせ悪趣味・悪ふざけは私の十八番(おはこ)なので、祟りを恐れながらも、罰当たりを働く病は治りません。オツムの病は現在小康を得てありがたきことですが、持ったが病のほうは不治であります。失礼ながら、安易にクリックして不愉快になるくらいなら、クリックなさらないほうがと愚考致す次第です。こんなもったいぶったことを書いてしまうと、なおさら気になる向きもいらっしゃると察します。話しかけの言葉を途中でやめられると、余計気になるという類いの心理ということでしょうか。好奇心ぬぐえずクリックの誘惑と闘っているかたは、あいているほうの手でクリック直後に出現する何かを隠して、準備万端整ったとお思いになったなら、クリックしてみて下さい。実は、今年上半期はろくなことがなかった私が、この「リンク」項目が何んだったか思い出せず、不用意に夜クリックしてゾクッとなったのです。バカなヤツであります。夜遅くはお勧めしたくありませんので、よろしくお願い申し上げます。おしまいです。この人が主演している新東宝の怪談映画の一場面です。最も恐い怪談映画と、今でも恐ろしく思っております。ビデオに録画したこの映画だけは今でも見られません。
2017.09.12
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ただいまより出発せん。例によって余裕があったら、おそらく深夜ごろ書く。世の中「ダメ派」と「マクリ派」に分かれるそうな。私如き未熟者には気のきいた言葉がなかなか見つからぬ。これも故・山本夏彦氏が再三使っていた言葉だ。今や女もその本性をむき出しにしつつあるが、それでも長い歴史はいっぺんにはひっくり返らぬ。この二つの言葉はどちらかというと世の男どもを二大別したものだ。「ダメ派」または「ダメの人」とは、この世はダメだと見る人のことで、生まれつきだと私が言うのではない、山本氏がくり返し言ってきた。正直言うと、私はこの定義を文章でつまびらかにし、委曲を尽くすほどに理解はしていない。ただ、私もどちらかというと「ダメ派」に属するか次第にそちらに向かいつつある気がしてならぬ。逆を言うとわかりやすい。「マクリ派」とは、女のスカートを何度もまくり、時に飽いても、再び三たびまくる者のことである。この派の者共は、女はスカートをまくられることを欲すると信じて、試しに一人まくってみて、偶然相手がそれに応じて来たら、「これぞ男女なり、人生なり」と確信し、さらに何人かまくり、なかには拒絶した女もいたはずなのに、そのことを忘れ、首尾よくいった女のことだけを覚えておいて、再び三たび「これぞ男女なり、世の中なり」と信じきる者である。もうお察しだろうが、私は自分独自の思想を書いているのでなく、山本氏から学んだ事柄を書いているに過ぎぬ。が、本人山本氏曰く「箴言(しんげん)であろうと人の言葉であろうと、消化しきれば己れの思想と化したも同然」とも述べていたので、先ほど理解には達していないと書いたことと矛盾するようだが、どうやら体がそう感じさせるので、もっか、私は自分を「マクリ派」から「ダメ派」に移行しつつある年配者とみて、それでもすっかり枯れることができてないことをも知るのである。なお、ただいま書いたところは、中公文庫刊「ダメの人」から、p248の表題コラムを抄録した。著者はもちろん山本夏彦氏。ほかに思い出しながら書いてみると、浮気も離婚も、「マクリ派」のくり返すことである。いずれも病かくせのようなものだから、この派の人々は何度かくり返す。極論すれば浮気などしてもむなしいのに、女房など例外を除いて何度取り替えても同じなのに、「今度こそは」と、もう一度まくるのである。ダメの人はこれをしない。くり返してむなしいことはしない。歓楽極まりて哀情多しともいう。このことを誰よりも痛感することしきりなのは、実は「マクリ派」のはずである。ところが、「マクリ派」はどこまでも「マクリ派」ゆえ、歓楽のあとで女を見るのもいやになることがあるはずなのに、それを打ち消したくて、さらに励んでまくるのである。マクリ派の男は、己れらの行為を、女すべてが欲して待っていると断言してはばからぬ者どもである。男女ともこの世の人間はすべて常に助平と断じている者どもである。この者共に反論を試み委曲を尽くそうとしても徒労に終わる。「マクリ派」と「ダメ派」は、全き平行線だからだ。どちらがどちらを説き伏せることも不可能である。だが、私は「マクリ派」が断固自説を主張してはばからぬのを聞いてうんざりした。マクリ派というぐらいだから、精力絶倫であろう。ならばそれを維持する生命力も旺盛で、性格も押し出しが強いほうに違いあるまい。とても付き合いきれぬゆえんである。
2003.09.04
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東宝昭和40年「怪獣大戦争」に登場の富士宮市、浅間(せんげん)大社付近の群集シーンで、はるか後ろにゴジラが合成されています。 東宝映画「怪獣大戦争」と全く同じアングルで撮影することは出来ませんでした。それでも、ここが間違いなく合成シーンに使われた証拠を示したい一念で、あちこち歩き回りました。当然ながら、一番上の合成シーンに見られる橋は、ざっと41年前の富士宮市の浅間神社の橋の一つ、「御手洗橋(みたらしばし)」と推測されますが、景色がすっかり変わっています。たとえば橋の向こう側の道路に注意すると、まだこの時代、ガード・レールはおろか川沿いの欄干と言うのか、これが全くありません。本日1月16日の「思いっきりテレビ」の『今日は何の日』のコーナーで、タイミング良く、ガード・レール設置の話をしていたのでじっくり見ると、数々の不幸な事故にようやく腰を上げて、昭和37年、これは偶然「キングコング対ゴジラ」公開の年ですが、全国の主要幹線道路にガード・レールを設置し始めたとのことでした。田舎である富士宮市は、この富士山に続く登山道の出発点としても重要な場所であるにもかかわらず、モータリゼーションへの対応の順番の中には入っていなかったようです。私はしばしこのような写真を撮るべく、この橋の欄干にもたれるようにして、カメラ・アングルをためつすがめつしていました。すると、私が富士山の写真を撮ろうとしていると思ったのか、散策中の老紳士が近づいて話しかけてくれました。いわく。「今は北西の風がゆるりと吹いて、まだあの頂上付近の雲はゆっくりと動いているんだけど」と、腕時計をチラと見て。「今三時ちょっと過ぎぐらいだから、もう少し夕方になって来ると、風が強くなって、あの雲がスーッと流れていくんですよ」こんなふうに説明してくれました。私は印刷した「怪獣大戦争」の写真を見せながら、ざっと来(こ)し方の話をしました。すると、紳士は「ははあ、これは間違いなく当時のこの橋からの写真だね。ん ? 後ろのこれは何 ? 」とたずねるので、私はゴジラですと答えて、およその映画の説明をしました。紳士いわく。「こう写るのは、そうだねぇ、」と振り返って。「あそこの駐車場のところが、元は堤(つつみ)のようになっていて、多分撮影隊は、あそこあたりにのぼったか、クレーンで視線を高くして、この場面を写したみたいに見えるね」 老紳士にいろいろ説明していただく前に、既にいろいろなアングルで撮影しておきました。見れば見るほど、この橋は映画の合成シーンの橋と同一のものと思えます。 橋の向こうの流れが、映画では蛇行しているので、この川――「神田川」も同じカーブを描いていることを示したくて、上の写真を撮りました。また、映画の合成シーンには、ゴジラの背景に富士山が写っていないように見えましたが、実際この角度だと、富士山が視界に入ります。おそらく、合成のマスクを建物のあたりで切って、そこにゴジラを合成したので、背景から富士山の姿が消えたと推測されます。ただし、これは作品を非難しているのではありません。当時の技術を尽くして私たち少年を楽しませてくれた東宝円谷特撮には、感謝こそすれ、つまらない荒さがしで満悦するような気持ちではありません。最後に、この橋は平成6年に新しく造られて頑丈です。映画のシーンの時はまだ木製でしたが、今は鉄で出来ています。お世話になっている「懐かし掲示板」に掲載するには、文章量も画像技術も困難なので私の日記のテーマに選びました。
2007.01.16
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うわさの「シェラデコブレの幽霊」など雑感『悪事千里を走り、好事門を出でず』という誤った例えしか浮かばないものの、私の感ずる身の毛もよだつ『恐怖』の対象は、新東宝昭和31年作品「四谷怪談」(監督・毛利正樹氏)に始まり、同じく本作品に戻るとしか言えません。洋画を含めて『怪談映画』を『ホラー映画』とも呼ぶことにしますが、先ごろTV番組「探偵ナイトスクープ」でたちまちに話題となってネットに蔓延したホラー洋画『シェラデコブレの幽霊』は、中学に上がったばかりかその前後にテレビ放映された作品を見た記憶が、おぼろげながらある気がします。ものごころつくかどうかという頃から、怪談の類いと聞いたら、映画情報に恵まれない時代背景のせいにするも何もなく、無条件に「見る」ことにしていたほど、多分人一倍の「恐いもの見たさ」の少年だったので、洋の東西、時の古今を問わず、怪獣ものスレスレと独断していたフランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男にも興味を抱き、ホラーものほとんどにチャンネルを合わせていました。ただし、劇場映画は好きな怪談ものだからといって、すべてを見させてもらえない我が家の規則というべき事情もあったので、これらはのちにTVの再放送、ビデオレンタルなどで出来るだけ見ました。当時の私がホラー映画を見て、身の毛もよだつ恐ろしい作品かどうかの判断基準にしていたのは、これも余りに独断に過ぎるかも知れませんが、少なくも個人として感じていた事実として申しますれば、「鑑賞後、すんなり就寝出来、夜中にトイレ(当時は便所と言いました)に行けたかどうか」でありました。毛利正樹監督の「四谷怪談」はトイレどころの話ではありませんでした。我が家で昭和34年から昭和40年代前半まで大事に設置して見ていたサンヨーの白黒テレビは、あるいは当時のテレビのほとんどかすべてがそうだったかも知れませんが、イヤホーンの差込口が二つありました。二人同時にひそかに見ることが出来たわけです。これよりやや先に、新東宝作品だけを上映する富士宮市の『ロマンス座』という映画館で、兄に連れられて、初めて毛利監督の「四谷怪談」を見ましたが、これは公開年の昭和31年ではなかったように思います。同年公開の東宝映画「空の大怪獣ラドン」は、幼過ぎて他の観客の迷惑になると懸念した母が、兄一人を連れて見に行っているので、時代劇や怪談全盛の当時、リバイバル上映した時のことと思われます。余りの形相とセリフの凄さに、当時の私はほとんどのクライマックス・シーンをまともに見られず、映画が終わるまで椅子から降りて前の観客の背もたれにしがみつきっぱなしでした。そしてのち、父の転勤で御殿場の自衛隊官舎に引っ越したある日、深夜劇場で、この「四谷怪談」を再び見る機会に恵まれました。ただし、恐がりのくせに見たがりの病に冒された私は、当時息災だった祖母に付き合ってもらいました。さて、本題も冗長に傾いて来つつありますが、続けさせて下さい。先ほど、この「四谷怪談」を「トイレどころではない」と書きましたが、結局、お岩様が顔面半分醜くはれ上がった己れの姿を鏡に映しながら髪をすくシーンあたりが限界で、イヤホーンを布団に投げ捨てたまま、いつのまにか眠ってしまいました。やや大げさに言うならば、ほとんど失神同然に眠りにおちたのでした。昭和31年の「四谷怪談」巷間、怪談演出の名手とうたわれた中川信夫氏演出の同じく新東宝作品「東海道四谷怪談」(昭和34年)を最高傑作と評することが決定的のようですが、恐いホラーは時に、演出や作劇の『理屈』ではなく、「正視出来ない恐さ」を以て定義すれば良いことであり、これは私にとって最も恐いならば、他の人にとってはそうでもないとも言えますから、あくまで私見にとどまりますが、反論に反駁するつもりもなければ、議論するつもりもありません。洋画ホラーの感覚に今ひとつなじめない私は、件(くだん)の「シェラデコブレの幽霊」をいささかの不気味さを覚えつつも、何となく見続け、いつのまにか終わっていたという印象しかありません。技術や演出の効果がいかに優れていても、白人の恐怖観は日本人のそれとはいささか異なり、やや最近の洋画版「リング」にもそれが表われている気がします。「四谷怪談」では、お岩が死んだあとも顔面の腫れが悪化してゆき、恨みの念を伊右衛門一人に集中して、どこまでも執ように迫る描写は他の追随を許さない凄いものです。「シェラデコブレの幽霊」は、現地アメリカの試写で、関係者の一人が余りの恐怖に気分を悪くしたとも言われているようですが、テレビを見終わったその夜、私は布団に入る前に、多分平然とトイレに一人で行けたはずです。ともあれ、万一あるいは幸いビデオ化されて再び日の目を見ることとなったら、ぜひ見てみたいと思います。なお、新東宝の「四谷怪談」は50代半ばを過ぎた今でも、録画ビデオを見る勇気が出ないままですし、あるいは生涯全巻を見られないで終わりそうです。
2009.09.13
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少し前に東宝映画「怪獣大戦争」の合成シーンを現地調査して実物画像などを掲載しながら、つづったことがありました。考えてみると、東宝の特撮映画・怪獣映画には、避難シーンが当然ながらダイナミックに描かれていましたが、この群衆シーンのロケは、本物の自衛隊が進んで協力した攻防シーンと同じく、私の地元に近いところで、少なからず撮影されています。これからまだインフルエンザの脅威迫る本格の冬の到来を控えてもいますが、この時期を過ぎると、やがて水ぬるむ春の訪れとなります。ただ、季節は華やぐ春とは言っても、そこに暮らす人々の境遇には様々なものがあるのも事実です。それでも季節は来たりて去り、私たちの思惑と、その思いで明け暮れる様々な人間模様など、どこ吹く風と言わぬばかりに、移ろってゆきます。少しキザな書き方になったでしょうか。でも、私は人とはちっぽけな存在だと、いささかの厭世観と共に思い、それゆえに容赦なく移ろいゆく季節に身をゆだね、時季が来ればその季節に合わせて、衣替えもして、自然の営みの中に、覚えず生活行動も合わせながら、生きていることにふと気づきます。東宝が製作した数々の特撮映画にもまた、時には実景との合成も混ぜながら、ミニチュア世界として縮小再現した各地の風景が映し出されて、これもまた風情あるものだと思います。私がたとえば愛好おかないナナハンを駆って、現地に赴けば、これはもしかすると、自分の気に入った視点で見すえた写真が撮れるかも知れません。でも、趣味に没頭してばかりもいられませんので、いろいろな方法を尽くして、タイトルのようなシリーズを不定期ながら立ち上げようと思い立ちました。とりあえず、一度アップしてみます。以下一覧は、JRのローカル線の一つ「御殿場線」の駅一覧と、関連項目をネットから無断借用したものです。これを上から下へとたどると、本線「下り停車駅」などが一覧出来ます。読みにくいかも知れませんが、ワードからの貼り付けと直接書き込みを混ぜているので、誤操作による文面消去が心配で、安全のため、少しずつアップしています。ここでまたアップします。駅一覧駅名(営業キロ・接続路線・所在地) 国府津(こうづ)駅0.0 東日本旅客鉄道:東海道本線神奈川県小田原市下曽我駅3.8 上大井駅6.5 足柄上郡大井町相模金子駅8.3 松田駅10.2 小田急電鉄:小田原線(新松田駅) 足柄上郡松田町東山北駅13.1 足柄上郡山北町山北(やまきた)駅15.9 谷峨(やが)駅20.0 駿河小山駅24.6 静岡県駿東郡小山町足柄駅28.9 御殿場駅35.5 御殿場市南御殿場駅38.2 富士岡駅40.6 岩波駅45.3 裾野市裾野駅50.7 長泉なめり駅53.5 駿東郡長泉町下土狩(しもとがり)駅55.6 大岡駅57.8 沼津市沼津駅東宝昭和32年12月公開の「地球防衛軍」に登場したロボット怪獣モゲラと、その登場シーンで作られた鉄橋の巨大ミニチュアセット。 酒匂川(さかわがわ)第3橋梁この御殿場線の各駅の中に、山北(やまきた)駅と谷峨(やが)駅が隣り合って置かれています。全くの余談ながら、私と御殿場線とは縁浅からぬ関係でした。ようやく受かった高校が沼津市にあり、昭和43年(1968)、高一となった私は、当時はひどい田舎としか思えない御殿場市に住み、この御殿場駅から沼津駅まで、およそ50分ほどかかる距離を、蒸気機関車のD52、俗称「デゴニ」にゆられて通いました。車中は、時間帯によっては通勤・通学の行き帰りの社会人・学生生徒でかなり混み、時には立錐の余地もないほどでした。ある帰りの時など、既に満席で御殿場まで立ったままの状態を耐えねばならない混雑の中で、ふと気づくと、目の前に腰掛けて勉強している女子高生、これはあるいは沼津西高の生徒だった覚えがありますが、この女子高生の胸を真上から直角の俯瞰(ふかん)で見下ろす絶好の位置関係にあり、その胸の割れ目に視線を釘付けにして、胸の奥の実物を拝もうと、いえ、見つけようと、混雑のわずらわしさも忘れて、ひととき痴漢ならぬ視漢と化したうれしい思い出があります。すみません、病気が出ました。でも、高一生当時は、これくらいの好奇心は皆あったはずです。私は女の人を腕ずくではずかしめるような行為は嫌いです。当たり前ですね。それでは私の好きな行為はどういうものかというと。すみません、これくらいにしておきます。ま、少なくとも私と付き合って、今も何らかの連絡を取れる関係にある婦人は、私の行為を、これ以上ない恥ずかしい記憶と共に、懐かしくも思い出せることと察します。失礼しました。軌道修正します。かつて「東宝SF特撮映画シリーズ」という豪華な本が何冊か出ました。その中に、「VOL.5」として、「キングコング対ゴジラ」、「地球防衛軍」の2作品を扱ったものがあり、さらにその巻末近くに、長年特撮映画の演出を手がけたベテラン、故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)監督の詳細なインタビューが載っています。「東宝SF特撮シリーズ VOL.5」の裏表紙の一部。このインタビュー記事中に、「地球防衛軍」のロケ場所に言及した箇所があり、それが今回のテーマと符合するようなので、本文をつづったわけです。以下、本書から、興味深いところを抜書きします。本文のまま敬称は略します。――鉄橋を避難民が渡るシーンがありますね。本多「これも御殿場線の山北(やまきた)から谷峨(やが)に行く途中の鉄橋、今でもこれはありますよ」以上抜書き。この鉄橋が、いろいろ検索の結果、画像の「酒匂川(さかわがわ)第3橋梁」ではないかと思われます。今回は、思い込みの域を出ませんが、この推測は当っている気がします。万一、画像の鉄橋そのものではないとしても、この御殿場線の山北―谷峨間の類似の鉄橋のある一帯をロケーションしたことだけは間違いないと察します。
2007.01.29
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新東宝映画昭和31年(1956)「四谷怪談」より。「隠亡堀(おんぼうぼり)の場面」から。浮き上がった戸板に姿を現わしたお岩様。兄が茨城県土浦市在住の頃、「おい、つくば学園都市のほうへ連れてってやろうか。ほら、昔ウルトラシリーズでやった中に、ある男が帰宅しようとした夜、町の人々が姿形だけは見慣れた近所の人なのに、男に対する態度が異様で、実は異星人か何かの化けた姿だったっての、あったろ。それに町の建物もそっくりまるごと入れ替わってたよな。つくばへ向かうとな、それと似たような感覚が味わえるぞ」と言ったことがあり、いっぺんに興味が出て、すぐ筑波大学方面へ向かった。土浦からしばらくのあいだは、何の変哲もない街並みだったのが、ある所を境に、突如当時の東京青山あたりのモダンな街の風景に一変したから、心底ギョッとするほど驚き、「これが茨城県なのか ! ? 」と、車窓からの風景をきょろきょろ見回した。もちろんこれは本当に異世界にまぎれ込んだわけではないが、ほかの土地では一切経験出来なかったことだけに、更に土浦が好きになった記憶がある。さて、前回と同じく、小松方正氏の著書に、異様な街の風景についての怪異をつづった箇所があるので、抜いてみる。小松氏の知人の、お菓子屋の社長、吉元光雄氏は、ある夜、従兄(いとこ)を乗せて、車を走らせていた。時刻は11時過ぎ、世田谷の用賀から環状八号線に入り、杉並方面へ向かっているとき、奇妙な感覚に襲われた。車や自身の体調がどうこうというものではない。自分の車を取り巻く周囲の風景に違和感を覚えた。道路の両側には、ビル、人家、マンションが建ち並び、その景色は走るにつれ、どんどん後方へと遠ざかってゆくし、向かい側の車線にはトラック、乗用車などが走っているし、ミラーには後続のタクシーなどが映って、いつもの夜のたたずまいだった。しかし奇妙な感じはぬぐえなかった。走り続けるうち、ようやく妙な感覚の正体がわかって来た。人の姿がないのだ。たとえ夜11過ぎとはいえ、大都会である。人っ子一人姿が見えないのは異様だと、吉元氏は思った。更に音がない。六月初めで、夜でも少し暑さを感じるほどなので、窓を半分あけていた。だが対向車線を行き過ぎる車の音が全く聞こえなかった。その静寂が不気味だった。街とは、そこに生活する人の息遣いが感じられるものだ。それがまるでなかった。「窓をあけているのに風一つなく、街全体が死んだようでした」と吉元氏は語ったという。背筋にゾーッと悪寒が走った。そのうち、どこをどう走っているかさえわからなくなって来た。ところがしばらくすると、突如耳の中に都会の騒音が入って来た。あたかもボリュームを絞って無音にしたレコードから、突然音声が飛び出して来たかの如き感覚だった。気づくと見覚えのある自宅近所に来ていた。我れに返ったように吉元氏は横にいる従兄に、先刻来感じていた異変のことを話しかけてみた。すると。「ああ、俺も怖かったよ」と、従兄は答えた。その後何度も環状八号線を通ったが、再びあの奇妙にして恐ろしい感じを経験することはなかった。著者の小松氏は、この夜二人は知らぬまにミステリーゾーンに踏み込んでいたのではないかと書いている。更にそれは霊界だとも付け加えている。この経験をした人はかなりの数にのぼるらしい。霊界は異次元だという説もある。つまりこの世とあの世はダブって存在し、我々には不可視の領域というだけのことだというのだ。さて、異世界というのとは違うものの、ある一定地域ぐるみ、何ゆえかわからぬが、怪異に見舞われたという実例がある。なお、小松方正氏が著わした怪奇談の良いところは、出来事にかかわった人に配慮して場合により名前を伏せる以外は、ほとんど地名や人名を実名のまま述べているから、真実味が感じられる点にある。さて、これから語る問題の町は、東京都北区神谷二丁目三十番から三十二番にまたがる一画で、区立神谷公園の東入り口に通ずる、幅四メートルの道路を境に、両側に五軒ずつ、計十軒の家が建ち並ぶ一帯だ。当時、「死霊にとりつかれた町」と近所の住民から恐れられたほどだ。昭和49年から翌50年にかけてのわずか一年間に、十軒のうち七軒までが死人を出したのがそのいわれだ。昭和49年三月十七日、竹下家のおばあさんが老衰で亡くなった(83)。それから一ヶ月も経たぬ四月三日、竹下家の左隣、菅沼家のおじいさんが91でやはり老衰で亡くなった。これだけなら、たまたま高齢の二人があいついで亡くなったと片付けられる。同年七月四日、竹下家から一軒おいた左隣の渡辺さん(32)が交通事故で亡くなった。その十二月、渡辺家の右隣、山崎青果店の息子さん(30)が、登山中転落死した。ようやくこのころから住民たちは不安を隠せなくなった。「次はどこだ・・ ? 」とおびえ始めた。死者が続出しただけでなぜ不気味な思いになるか。葬式がしょっちゅう出て目立つことにある。道路をはさんだ五軒のうち実に四軒までが短期間に葬式を出すのはかなり異様な光景だ。死の気配は、初め町の南側に続出して現われた。年が明けた昭和50年からは、この不気味な気配は北側に移る。年明け早々の元旦、先ほどの山崎家とは別の同姓の山崎さんかたで、76になるおじいさんが老衰で亡くなった。葬儀のあわただしさも消えぬ一月四日、左隣の山本さん(70)が老衰で亡くなった。更に五月二十二日、金子家の息子さん(22)が交通事故で亡くなった。さて、以上の如く、一年で十軒中、七人もの死者が出た。町には線香の香りとお悔やみの言葉が絶えなかった。以上が死神に魅入られた如き町の死者続出談のすべてだ。これをしも「偶然」と片付けるのは簡単だが、実はこのあたりにはそれ以前にも不幸が多かった。話は続くということになる。先に述べた昭和49年老衰死した菅沼さん(享年91)は、昭和30年代から40年代初めにかけて、鉄工場を自らが経営していた当時、従業員三人にたて続けに死なれている。一人は自殺、一人は感電死、一人は交通事故だった。死者が続出した神谷公園のエリアをもう少し拡大すると、その一帯では医師家族四人が次々自殺した家があり、三才の子が公園内のプールに落ちて死んだ家があり、昭和40年から50年にかけての十年間に公園東側の半径わずか百メートルの範囲内で亡くなった人は30人を超す。地元住民のあいだで、「何かのたたりだ」という声が上がったというが、むしろ当然だろう。思い当たる過去の出来事がある。大東亜戦争終戦直前の昭和二十年三月二十日の空襲の時、米軍のB29爆撃機百機による、赤羽(あかばね)軍需工場爆撃の余波を受けて、一帯は焼け野原と化し、至るところに焼け焦げた遺体が転がった。この遺体を仮埋葬したのが、神谷公園のあたりだった。昭和26年遺骨が掘り起こされ、身元のわかったものは遺族に引き渡され、引き取り手のない遺骨の幾つかは近くの寺に埋葬されたものの、遂に掘り起こされることもない遺骨も数多くあった。のちに神谷公園内にプールが作られることになったとき、工事中にたくさんの人骨が出て来た。「空襲で亡くなった人たちの霊が、充分に弔われることもなくほったらかしにされたから、たたったんだ」と、誰言うともなくうわさが広まった。住民たちの意見が一致し、昭和50年七月十日、高さ一メートル、幅七十五センチ、「大東亜戦争犠牲者慰霊記念碑」と彫られた立派な慰霊碑が公園のひとすみに建てられた。戦争が過去のものではない一例と考えても良かろう。この話の最後に著者小松氏は、さまよえる霊もまた悲しいと書いている。無辜(むこ。非戦闘員の意)に罪とがはない。だが結果として、さまよえる霊が、その後のやはり罪とが無き人々に災いをもたらしたこととなる。米軍のしわざだと断ずる。罪とがは、ただ強きがゆえに日本国民たちを非業の死に追いやったアメリカにあると私は思う。資料文献 : 小松方正(こまつ・ほうせい)氏著「小松方正の霊界通信」(主婦と生活社)
2004.08.17
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女子のブルマが消えたって平気だよ。美人アスリートがもっと目の保養させてくれるもん ! 2021/10/19開始学校の体育の時間から女子のブルマ―が消滅したと仄聞したが、はっきり言って玉石混交ならぬ石石混交の一般庶民の生徒の体育着なぞ見たくもないと、小生学校時代から思っていたし、現に体育の時間にも、女子のほうに視線は向けなかった。玉石混交との言葉を使ったように、玉は確かにいたが、こういう上質な女子は一人でいる時に目を向けるほうが楽しみだった。ただし、中学時代は本当に目を向けたことはない。確か高校の時だったか、御殿場線でかよう女子に、見事にスタイルのいい生徒がいて、この女子が今でいう部活動だったのか、どこかの部室の外に体育着でたたずんでいて、白い上着にブルマー姿だったような記憶だ。そしてこの時はブルマ―ではなく、その見事な胸に視線が釘付けになったが、本当に見つめてしまった記憶がある。後年、確かこの人は青山学院大に進み、偶然渋谷の東名バス発着所で会ったが、この時は季節も涼しい頃で、厚着をしていたと思うが、高校生の時よりも、ごく自然に向き合って会話を交わせたものだ。ちなみにルックスも抜群で、もう幸せになっていると察する。大学名もこの時きいて答えてもらったものだ。胸のサイズは今でいうFカップは確実なほど見事だった。さて、話はブラカップではない。絶滅したブルマ―なぞどうでもよく、今や女子陸上競技で、ハッとするほどのきれいなアスリートにお目にかかれるということを書きたかった。この場合、胸の大きさよりルックスに目を奪われる。小玉葵水(こだま・あみ)さん宮坂楓(みやさか・かえで)さん小玉葵水さんはかつて短距離100mもやっていたが、のち東海大北海道で活躍する頃には走り幅跳びに絞っていらっした。6m台の好記録を持つ。宮坂楓さんは名門も名門、横浜国立大に進み三段跳びで活躍を見せるが、実に13m台の記録を見せる。スポーツが優れているだけでも凄いのに、美しさまで備えるというのは、つまり天は二物を与えずを見事に打ち破った稀有な凄さと言える。
2021.10.22
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「バカにつける薬・図形編」村松「何んか、逆襲、報復の連続合戦の様相を呈して来たね」夕子「またそれ言う ! こないだのは、あたしの高校時代の忙しい時期に、暗記で通した導関数の公式について、あなたに素直に教えてもらったから、そんな過激なことでもないでしょ ? 」村松「はいはい、わかりました。」夕子「『はい』は一回で結構なの」村松「はい、わかりました。はい」夕子「イヤミな言いかた ! ま、いいわ。で、初めは何からなの ? 」村松「円O外の一点Aから円Oに接線を引く作図法。ただし、ここでは一本に絞る」夕子「それが質問なの ? 」村松「いいや、とりあえず一気に作図してみた。でも、このごろ頭がダメになって来たから、確かめてもらおうと思って・・」夕子「なあんだ、合ってるじゃない」村松「ええっ ? 見た瞬間に正否を判定出来たの ! ? 相変わらずさえてるね」夕子「ところで、あたしは中学の図形には余り縁がないから、わからないけど、昔のことでいいけど、あなたが塾やってる頃、中学の数学にこういうのあったの ? 」村松「指導経験は多分ない。あ、せいぜいこんな例題くらい。えーとね、円の一部、つまり弧が教科書にあって、『次の円弧をもとに、完全な円があると仮定した時の、円の中心を作図せよ』って問題くらい」夕子「なんだ、物足りないわね。作図しないでも、言葉で説明出来ちゃうわね」村松「何しろ、図形の証明問題がすぐ控えていたから、忙しかったと思うよ。最初に言った円外の一点から接線を引くものに関しても、図が既にあって、『円外の一点からは、接線が二本引ける。この二本の接線の長さが等しいことを証明せよ』って問題にいきなり入ったからね」夕子「図形の証明は中二が最初だったわね、当時は」村松「うん。二等辺三角形が描いてあって、『二等辺三角形の底角は二つとも等しいことを証明せよ』って例題から入ってたかな」夕子「ゆとり教育がひどい頃は、小学校では円周率を『3』で計算するなんてこともあったよね」村松「実際は、『3.14』で指導していた学校もあるとも聞いた気もするけど、俺の頃は、円を描いたあと、半径の長さをコンパスにとって、円周上に弧を描いて最後に各弧を結ぶと、正六角形になったからね、誤差どころじゃない。円の直径を6とした場合、円周率3だと円周は18。 3 .14だと18 .84。とんでもない時代があった」夕子「話を戻すわよ。円外の一点から接線を引く方法だったわね。さっき確認した通り、あなたの作図で充分じゃない」村松「でも、ネットにていねいな図説があったから、無断借用した」夕子「あなたの作図法の正しさをていねいに裏付けてくれてるようなものね」村松「そうか、それで安心した。じゃあ、この作図法は掲載控えるよ。さて、ここからが本題。互いに離れている大小2円があるとき、この2円の共通外接線を引く方法。内接線は省くことにした」夕子「第一、この作図法そのものは、学校の授業では、少なくともあたしたちはやらなかったと思う」村松「俺も。それにしても、楽天ブログで、この手の数学関連のものって、あるのかも知れないけど、今のところ見つかってない。でも、ネットにはズラリ並んでるんだな。たいしたもんだと思う」2円の共通接線の作図■2円の共通外接線ここで,2円 O,O' の半径を r,r' とします。(1) 線分 OO' の中点 M をとり,OO' を直径とする円をかく。(2) 円 O と OO' の交点 A を中心に,半径 r' の弧をかき, OO' との交点を B とする。(3) O を中心に B を通る円をかき交点を C とする。 ( OC = r - r',∠OCO' = 90°)(4) OC と円 O の交点を D とし,D を中心に半径 CO' で弧をかき,円 O' との交点を E とする。(5) DE が求める接線となる。( DCO'E は長方形 )村松「この作図法と、とっかかりの着目点の発見がよくわからない」夕子「じゃあ、結論的な図から入るってのはどうかしら・・」村松「図が変わると、俺のカボチャ頭ではやや混乱するけど。直角三角形と長方形が確認出来るくらいがせいぜいだ」夕子「そこが目のつけどころなんだけど。カラフルな図には描いてないけど、OO´ を直径とする円を描くとするね。あ、またここで、もう一つの図を見てね。見づらくならないように、円には名前がつけてないけど」村松「目まぐるしいね。で ? 」(註 / 『カラフルな図』とは、「2つの円の共通接線の長さ」とタイトルが書いてある図のことです)夕子「OO ´ を直径とする円をイメージとして浮かべて考えるとね、∠OHO´ は90度なのよ。しかもO´をHのほうへ延長すると、円O´ の円周との交点Bに達するでしょ。この点Bに於ける接線は円O´ の半径O´B と垂直よね。つまりここに、円O´の接線のうちの接点が一点Bとして決まるのよ。だから、2円の中心、OO´ を直径とする円の作図は、ここで生きて来るの」村松「なるほど」夕子「で、またもう一つの図に戻ってみて。ごめん、出来たら、二つの図を並べてみて」村松「ううむ。混乱してるのか、少しわかりかけて来たのか、わからん」夕子「初めの図のOO´ を直径とする円の直径の上に立つ円周角はもちろん90度だけど、これがもう一つの図のOO´ を直径とする円の円周角ということと同じで、記号は異なってるけど、∠OHO´=90度なの。もう一つの図で表現すると、∠OCO´ なの。だから、2円の半径の差を半径とする円の作図が必要になるの。どうかしら ? 」村松「すると、カラフルな図でいう、点Hは2円の半径の差を半径とする円と、OO´を直径とする円との交点ってことでいいの ? 」夕子「その通りよ ! やっぱりさえてる」村松「混乱一歩手前ですぐ先は断崖絶壁の心地。でも、カラフルな図のほうの大きな円O´の円周上の点Bは求める接線の一つの接点って考えていいの ? 」夕子「そうなのよ。で、例えば三角定規二枚組み合わせて、小さい円の中心Oを通って、O´B に平行線を作図しても求められるけど、ここではあくまでも、コンパスと線引き一つで考える手順で来たから、えーと、あとは、カラフルな図でいう、もう一つの接点Aを求めればいいわけよね。でね、ここからは、あなたが初めに提示した方法で作図すればいいのよ」村松「つまり小さい円O外の一点Bから、円Oに接線を引く方法と考えてもいいってこと ? 」夕子「そう。ただし、現象には理由があるから、実証して初めて成り立つってこと」村松「なんか、テレビドラマの『ガリレオ』みたいなセリフだな。それでは湯川ならぬ夕子先生の教え通り、実証してみようか。OBを直径とする円を作図してみるよ」・・・・・・・・・・村松「何んか、ピタリ点Aには一致しなかった」夕子「作図上の誤差と思えばいいのよ。これで一区切りついた ? 」村松「おかげさまで。だけど、こういうのを掲載してる人は、数学の能力に長けているね。言っちゃあ悪いけど、楽天ブログのほとんどとは大違い」夕子「だからね、ノロケみたいだけど、あたしには、あなたの存在が貴重なの。ブログだから、人それぞれでいいけど、少なくともあたしにとっては、ワンパターンなものばかりで、退屈なの。もちろん、本格的な趣味に打ち込む人は別よ。でも、新作映画や懐かしい歌を掲載する程度のは、読む側が共感出来なければそれきりでしょ。あなたのは、縦横無尽、数式書いて、あたしとの会話にしたり、それだって、興味ない人にはつまらないかも知れないけど、テーマに幅があるのは確かよ」最後に改めて、初めから2円を用意し、順を追って作図法を記してみた。各点の名前はもう一枚参考にさせてもらった図説のものに合わせることにした。作図順序は、参考にした図より能率の悪い手順をあえて使ったから、無理に描かなくても済む図まで描き込んでしまっている。以下、作図が進むごとに解説を入れる。1 大小二つの円、O 、O´ がある。このO 、O´ は、普通、円そのものを表わしたり、円の中心の点を表わしたり、両方に使う。例えば円O、円Oの中心の点Oなど。この段階では共通外接線の引きかたがわからない。そこで、図が異なるが、完成図を参考に、着目すべきところをさがす。OO´を直径とする円を作図すると、突破口が見つかると判断。2 OO´を直径とする円を作図する。この円を円Mとする。ただし、これだけでは、共通外接線の接点の一つも見つからない。そこでOO´を斜辺とする直角三角形の作図のために、もう一つの円を、円O内に作図することにする。3 2円O 、O´ の半径の差を半径とする円を、大きい円O内に中心をOに一致させて作図する。同心円である。以下、この円を同心円と呼ぶことにする。円Mとの交点Cに注目すると、ここに出来る∠OCO´=90度で、円O内の同心円の、点Oと点Cとを結ぶ線分OCは、円O内の同心円の半径でもあることがわかる。ついでにCO´ は、この同心円の点Cに於ける接線でもある。要点はOCが同心円の半径ということ。つまり、半径OCを点Cのほうへ延長して、大きな円O の円周との交点をDとすると、ODは、円Oの半径になる。だから、点Dに於ける接線はただ一本引けるが、理論上は、点Dに於ける接線を円O´のほうへ延長すれば、もう一つの接点に一致するとわかっていても、作図しなければ接点は確定しない。4 そこで、DO´を直径とする円を作図すると、この円は、円O´と2点で交わるが、ここでは上方の一点に絞り、交点をEとおく。ここで、O´Eは、円O´の半径であることがわかり、点Eは円O´の点Eに於ける接線上の点であることがわかる。最後に、円O の円周上の点Dと、円O´上の点Eとを結べば、これが2円O 、O´ の共通外接線となる。
2016.12.10
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☆好きなAV女優さん変遷少し☆ 2021/0113開始とにかく、AV女優さんが増え、さらにきれいな人が増えた。パイオニア的な日活や大蔵系には失礼ながら、かつての女優は一般映画などにはどうかと思われる人も少なからずいた。もちろん例外は既にあり、美保純さん、東てる美(あずま・てるみ)さんなどは、地上波テレビに安定して出演するほど活躍なさっている。今や美人をさがすならアダルト・ビデオが一番の近道と言えるほど、きれいなキュートな女優さんがたくさんいる。最近ドキッとした女優さん ! !昂じて、スカパーで録画しダビングしたDVDに、オリジナルのパッケージをつけてしまいました。もちろん違法・不法なことはしていません。事実しまったままで、見たいときはハードディスクに録画した同じものを見ています。なお、これは人気シリーズでもあります。まあ、現実には起こらないシチュエーションと察しますが。
2021.06.06
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いい年をして子供向けのいろいろな図鑑を買うのは恥ずかしいと思っていました。ところが先年亡くなった著名な作家の司馬遼太郎氏は、小説などの資料として、最も調べやすく役に立つのが、『子供向けの図鑑』などであり、むつかしい理論・理屈をこねた専門書よりずっと優れていると、簡潔に指摘していました。これに勇気づけられ、時々このようなジャンル別の図鑑を購入しています。でも、当たり前ですが、私が小学生の頃に比べると、その価格は一ケタ多いのが今の図鑑です。もちろん内容に新旧で充実度の差があるのも確かです。このほか、「船の図鑑」などもあります。
2007.08.30
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見るつもりのなかった映画「座頭市血笑旅」だったが・・。2017030610:40以下、タイトルのあとの日付で推測するに、力尽きたような短文。【暗い内容が続くようになるかも知れないが、60代半ばになった今、家族のいないわびしさの中では、いかんともしがたい。文面は自然と気力衰退が読み取れるように流れるが、なるべくテーマを決めてつづってみたい。】・・・・・・・・・・『映画「座頭市血笑旅」礼賛』以上、ほぼ一年前のブログ下書きの書き始めの一段落(いちだんらく)目である。更新日時が自動で出るので、本文を追加する際にこれを書きとめておいた。不思議なものだが事実として私はかなり痛い目にあわないと、暗い思いをふっきれぬタチのようだ。昨年夏に帰宅してから、理屈抜き、明け暮れへの淋しさなどを考えぬようになった。記憶は無論消えないが、今は亡き家族への追慕の念は、落ちるところまで落ち切ったとみた昨年夏以来、悲しい記憶という程度に切り替えることが出来た。ただし、優に優しかった母の夢は、ほんの少しまどろんだあいだにも、懐かしい50代ぐらいの姿とどこまでも優しい笑顔を見ることが増えた。タイトルの通り「座頭市シリーズ」で感銘を受けた小学六年の頃の思い出話と共に、1960年代の同シリーズの音楽のほとんどを手掛けた伊福部昭(いふくべ・あきら)氏のことも書いてみたい。実はこの本文は一部を、かつての一つのブログからコピーして加筆・訂正など施したものだ。全きコピーかほとんどそれならば、『再録』と補足タイトルにするのがこれまでの常だったが、本ブログは過去のブログを土台に加筆などを施して言わば新しくしたものなので、再録と冠するのはやめにした。私が初めて伊福部昭氏の尋常ならざる音楽の雰囲気を感じ取ったのは、まだ映画タイトルが映ってしばらく、次々に流れるスタッフ字幕に目が行かない小学五年冬、東宝映画「海底軍艦」のテーマ曲を聴いた時だった。小学校とはいえ、お粗末な頭だった。字幕は恐らく『特技監督・円谷英二』を確認しただけだ。昭和38年(1963)12月22日公開なのだが、当時住んでいた御殿場市ではなく、現富士市、当時の吉原伝法(よしわらでんぼう)の親類の家で年越しし、市街地の通りにある東座(あずまざ)という映画館で見た。暮れから翌年初めにかけてを親類の家で過ごすのは、多分両親の不和が原因と思われるが、この時祖母は私たちと一緒ではなかった。まさか、祖母が御殿場の自衛隊官舎に父と二人きりでいるはずもなかった。祖母も既に年末年始を穏やかに過ごせる所とてなく、わずかに頼れる別の親類の家に身を寄せていたに違いない。なお、母と祖母が母娘(おやこ)二人そろうこともあり、覚えているのは、現在の自宅から近いが、地名は富士宮市の杉田というところで、祖母と親しくして、心持ちの良い婦人が当時は家を切り盛りしていて、私たち親子はこれは祖母のおかげで、心休まる年末年始を過ごすことが出来た。昔の田舎、というよりその家(うち)は、近所付き合いの得手なこの婦人の人柄なのか、暮れも押し詰まった12月28日または30日に皆で盛大に「餅つき」を行なった。ここで母から聞いた知識として知ったかぶりを書いておく。今書いた年の瀬のせわしない時期に、餅つきを皆で行なう日付は、12月29日はハズしていた。縁起かつぎであり、「九日(くんち)餅はつくな」と言い習わした。「苦をつく」のは良くないとの語呂合わせが由来だろうが、ウィキペディアには、地域により、29を「福(ふく)」と読み、むしろこの日を迎えるとの説明もあるから、私は母から教わったことしか知らない。そのように、年によっては、人様の家で年越しすることもあったから、子供心に印象深く残った。これまた余談ながら、去年夏に帰宅して、改めて父が長年少なからずつらい思いをしていたのではないかとの心境に至った。もちろん、夫婦仲が芳しくないことに悩み続けていた母を難ずる考えはみじんもない。父、母共に、子等に頼ろうにもそれが出来ぬ幼い私たちであったから、二人ともさほどの悪意は無論なく、思うに任せぬ事どもにそれぞれの気持ちで生きるしかなかったのだろうと思うこととなった。父を思い出すと、時に涙ぐむことさえあるようになった。この楽天ブログでは、父の思い出を、その生き方を称えるような内容でつづったものが複数あるから、私の筆力旺盛なうちに書いておいてよかった。血はきたないと言うが、この年齢へ来て、ようやく父に申し訳ないと思えるようになった。ただ、一昨年墓に赴いて、主に母に対して、今後墓掃除や墓参りはキツいから、これでお別れしますと告げて以来、一度も墓に参ったことがない。言い訳はいくらでも出来ようが、怠りはまぎれもなきこと、それを今後どうしようか、相変わらず仏壇の母へのお供え物だけは、消費期限を守りつつ、特に昨年夏、帰宅してようやく従前の習慣を復活させ、以来、欠かさず上げているが、その怠惰に思い至るつど、再び三たび申し訳なさを感じてはいるものの、重い腰を上げることなく月日が経つばかりだ。すべては怠りの言い訳がましきことばかりだが、例えばYou Tubeで軍歌を聴いているうちに、父が若き日を過ごした陸軍士官学校の校歌を聴き、あるいは一番ぐらいを歌ったりしている。話を戻す。暮れの押し詰まったギリギリに見たのかどうか思い出せないが、親類の家(うち)から徒歩で映画館まで歩いたのは覚えている。必殺シリーズの一つ『暗闇仕留人』のヒット主題歌を歌った美少女・西崎みどり嬢を幼くしたように顔立ちが整って、親類ながら想いを寄せていた女の子と一緒に、今の「アピタ」、以前の「ユニー」へ向かう下り坂を歩いた記憶はある。ただしこの「ユニー」は、昭和38年当時どうだったのか、全く見当もつかない。そこでネット検索したら、閉店間近に何枚もの写真を撮って掲載していたページをみつけた。そしてていねいな解説を読んで、ユニー開店が昭和49年と知った。失礼ながら二枚無断コピーしておいた。昭和38年当時はどうだったのか、これはこのページを読んでもわからない。私が富士市の自宅に住むと決めてやや落ち着いた昭和50年代半ばごろ、隣りの富士宮(ふじのみや)市に、まだ「ほていや」と称する大型店舗の建物があり、そのどこかに「ほていやは近く『ユニー』と名前を変更します」とのあいさつ文が目立ったのを覚えている。この機会に「ほていや」から「ユニー」への変遷・沿革などを調べられたらと思い、さらに検索してみた。現在「ほていや」を名乗る店の会社概要ページに以下のようにあったので、コピー&ペーストしておく。1988年(昭和63年)に逝去した創業者は、総合GMS企業であるユニーの前身の一つで、元来呉服店だった「ほていや」創業者の一人であった。しかし、「ほていや」と「西川屋」の合併後、取締役を辞任し起業。ユニー(元ほていや)の呉服部門が1974年(昭和49年)、さが美に移管されたことを機に、不要となった"ほていや"の商号とロゴ、布袋の図案をユニーから有償で買い取り、念願の呉服店頭販売に進出。呉服のほていやを復活させた。さて、閑話休題。「海底軍艦」のテーマ曲に衝撃を受けた話である。同じ旋律の繰り返しの箇所を含み、とても聴き取りやすいのに、とてつもない迫力がある。既に伊福部音楽に何度か触れていながら、それまでは映画全体の迫力を味わう程度でしかなかったのだ。さらに、この音楽には「重さ」がある。ハカリにかけたら、何トンかの質量を示すのではないかとさえ思い、作曲家がいるとも知らず、「東宝は凄い映画会社だ」と認識を新たにし、この曲に勝手に「海底軍艦の曲」と名づけたほどだった。爾来、風呂は長風呂となった。ハーモニカを吹くか、軍艦の模型を湯船で操って、特撮場面を空想してのぼせるまで悦に入ったのだった。この時、伊福部昭さんの凄絶な迫力に満ちた曲をうろ覚えのまま、発声したのは言うまでもない。レコードなぞ一枚も発売されていないので、うろ覚えの「伊福部節」を何んとか再現したに過ぎない。九十一歳は、天寿全うの証しでもある。惜しい人を失ったなどと紋切り型を書くつもりもない。だが、すぎやまこういちなど、平成ゴジラの音楽を台無しにした作曲家のゴジラ映画は、間違いなく何割か退屈で、迫力に欠けた。「ゴジラvsビオランテ」もがっかりした。なにゆえか、劇中突如初代ゴジラのテーマが流れたりもしたが、以来、ゴジラ映画では、この姑息な手法を取り入れている。「シン・ゴジラ」もそうだが、伊福部氏の曲だけが余りの迫力でそこだけ浮いて目立ってしまう。全篇伊福部節を流すべし。前段落について言い訳がましいが、すぎやまこういち氏は、共感出来る国家思想の持ち主として、今では敬意を持っている。妙な文面になるが、過去のブログに加筆・訂正したものゆえ、このまま妙な文章を混ぜる。すぎやま氏は日本文化チャンネル桜で、長くレギュラーとして出演していたが、今はどうなのかわからない。私は平成ゴジラのトップをきって公開された『ゴジラvsビオランテ』の音楽担当が『すぎやまこういち氏』と知って、「何んだ、テレビ・ゲーム音楽ばかり作る人物の起用か」とがっかりしたものである。ところが、「帰ってきたウルトラマン」の主題歌の作曲がすぎやま氏と知って、考えを改めた。話を戻す。ゴジラが背びれの発光の直後、放射能火炎を吐く演出が、アイデア抜群であると同様、ゴジラ映画には伊福部昭さんの曲だけが合っている。それにしても、映画開始まもなく流れる字幕で音楽担当誰々ということにも注意が行かないのは、いかにも愚かだった。私が伊福部昭氏の名前を知ったのは、先年亡くなった、怪獣研究、分けても東宝円谷特撮映画研究の第一人者として数々の写真集などを手がけた竹内博(たけうち・ひろし)氏のゴジラ写真集(確か文庫本サイズの全三冊。なにゆえか処分済み)のおかげだった。大学入学まもない頃だった。つまり昭和46年かその翌年ごろか。年齢も年齢だったからか、そうやたらには聞かない響きの名字だと思った『伊福部昭』氏の名前は、竹内氏のこれも淡々とつづる解説文でなぜか強烈に印象づけられ、のちに大学卒業が近づく頃、伊福部氏のLPレコード「伊福部昭の世界」が発売されるや、「これだ ! ! 」と飛びついたものだ。これは今でも持っているし、幸い音飛びがない。特に「大魔神」の曲はとても好きで、劇中やラストに流れる哀愁漂う旋律には、重厚感と共に味わい深いムードをたっぷり感じ、これを選曲した人は見事だとも思う。さて小学六年の時、東宝の「宇宙大怪獣ドゴラ」か「三大怪獣・地球最大の決戦」か、どの映画かは思い出せないが、とにかく伊福部氏の名前も知らない頃には違いない、怪獣映画最新作を目当てに映画館に向かった。持てぬ私なれば女と一緒にゆく機会はまずないが、珍しくチャンスがあっても、怪獣映画、特撮映画だけは女を連れてはゆかぬ。力むまでもなく、当時、まともな( ? )婦人は怪獣映画を男と共に見るなどということはしなかった。小学生の身なれば当然だが、ともかく映画館には必ず一人でゆく。そしてこの時、見たい怪獣映画は既にだいぶ始まっており、次の見たくもない座頭市のシリーズを見なければ、一巡したあとのお目当ての怪獣映画が見られなかったから、仕方なく見た。ところが、この「座頭市血笑旅」が実に哀感漂って、このシリーズをあなどったガキの自分を愚か者と思ったものだ。このタイトルは「座頭市血笑旅(ざとういち・けっしょうたび)」と読む。ただ、どうも気になった。この座頭市映画に流れる曲が、余りにも特徴が際だって、一巡のあとの怪獣映画の曲の雰囲気とそっくりである。のちに中学の音楽の時間に、「♪・・はりこや、すいたかじゅんさい・・」と文句をいう歌を教わった時、「ああ、あの時の座頭市で流れた歌だ ! 」と思い出した。だが、小六で聴いた歌は、さらにアレンジされて洗練された曲が実に物悲しい。この「座頭市血笑旅」の音楽が伊福部昭さんの作曲とわかったのは、私が大学を卒業する頃買った伊福部さんのLPレコードの作品リストを見た時である。元歌は伊福部氏のものとは全く異なる旋律だった。クラスの一人の女子が「変わった節の歌だね」と言ったのを覚えている。さらにインターネットの情報の充実により、「座頭市血笑旅」のテーマ曲の元歌がわかった。愛知県の子守唄「守さ子守さ」だ。✰守さ子守さ愛知県民謡 守さ子守さ晝寢(ひるね)が大事 ヨホヨウ 晩げ遲うまで門に立つ。 ハリコヤ スイタカ ジュンサイ。 なんぜこの子はなぜこに泣くか ヨホヨウ 乳が足らぬか親なしか。 ハリコヤ スイタカ ジュンサイ。 向ふ山をばちんばが通る ヨホヨウ 傘が見えたり隱れたり。 ハリコヤ スイタカ ジュンサイ。✰ウィキペディアによると。『座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ(座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している)でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したと言う。以上ウィキペディアより。1960年代の同シリーズは、まだ目の不自由な座頭市が、それでも見込みありそうだと、様々な出会いなどの中で、自ら思えるようになって、堅気(かたぎ)の道に戻ろうと四苦八苦する姿を見せて、切なくも共感を覚えるものがあったが、女への慕情、幼子への情の移りを次第に断ち切るようになり、晴眼者をはるかにしのぐ抜群のカンを働かせながらも、ある意味で己れの立場を悟って、明け暮れに自然に身を任せるようになってゆく。それが気づくと、目ばかりあいていても、節穴だらけという者共をむしろ哀れにも思えるようになり、座頭市へのれんびんの情や共感の念は増してゆくから、このシリーズは見事な着想だと認めるばかりだ。今回テーマにした『座頭市血笑旅』は、昭和39年(1964)の作品で、共演が高千穂ひづるさん。昭和29年の東映映画『笛吹童子』で20代前半の初々しい娘役を演じた彼女の30代初めの、ベテランの演技も光る。もちろん、一大忍者ブームを起こして日本中を席巻したテレビドラマ『隠密剣士』や、それより前のこれも我が国の子等をとりこにした正義の味方のテレビドラマ『月光仮面』などで大人気となった大瀬康一(おおせ・こういち)氏の奥方でいらっしたが、先年亡くなっている。高千穂ひづるさんは、姉さん女房であった。さて、高千穂ひづるさんは、本作品で女スリを演じている。ここからあらすじを書く。座頭市は旅の途中ひょんなことからカゴに乗ることとなったが、道ばたでシャクに苦しむ赤ん坊連れの婦人を見て気の毒に思い、カゴを譲った。これがアダとなる。これよりわずか先、市がカゴに乗る姿をめざとく見つけたやくざの連中が先回りして、街道を進んで来るカゴに殺到し、ドスで突き刺す。赤ん坊の泣き声にようやく我れにかえったヤツらは、中の婦人の死体とそれでも赤ちゃんを抱いて離さぬ姿に驚くが、サッサと立ち去る。座頭市はカゴかきの二人に見つけられ、わけを聞いて血相を変えて戻るが、悔むばかりだ。赤ん坊を抱いて、近くの庄屋を訪ねると、ある程度仔細がわかるが、何んと市は「責めは自分にある」と言って、無事だった赤ん坊を亡き婦人の連れ合いのもとへ届けると決心する。道中は、市の献身なぞ解するはずもないやくざどもにつけ狙われる危機も幾たびかあるが、おしめに使うための布を苦労して調達したりして、ようやく人心地つく。ある女郎屋で赤子と共に束の間の休息をとった翌朝、赤ん坊を抱いて歩いていた市のところに、少し前に道中知り合った女スリが助けを求めて飛び込んで来る。すぐに一人の侍がかけつけ、財布をすられた、その女を斬ると凄んで譲らない。市はとっさに女スリが出まかせを言った『市が女の亭主』との言葉を侍に伝えて、許しを乞うが、一向に聞き入れられず、仕方なく三人共斬られると告げ、ついては紙を一枚拝借と頼み、怪訝な顔ながら侍が半紙を取り出すと、転瞬、座頭市の居合が稲妻の如く動くが、気づくと半紙は見事に同じ大きさ・形の三枚に切り分けられている。「それに三人の戒名を書いてお寺に」と市は言う。恐らく肝を冷やした侍は、何気ない顔を装いながらも座頭市の腕の凄さを称えつつ去って行く。このあと、市の頼みを受け、女スリは一両もの日当で子守りを引き受け、その後様々な出来事にあいながらも、二人は束の間夫婦のように過ごして、赤ん坊の故郷へ着くが、市の身代わりの如くに絶命した婦人の亭主は、やくざの首領となって明け暮れを過ごすとんでもないワルで、結局座頭市は最後に、凄絶な立ち回りで彼らを壊滅させ、赤ん坊は寺の住職に因果を含められて託し、そこを辞して一巻の終わりとなる。この映画で高千穂ひづるさんは、チョイとワルの女を演じているが、書いた通り、既にベテランの演技を見せる。場面を戻るが、座頭市に一両の日当で赤ん坊の子守りを頼まれ、道中川などでおしめを洗ったりするが、市は目が不自由なかわりに、鼻が利く、利き過ぎる。晴眼者はおしめなどを洗って、目で見て汚れの有る無しを確かめるが、市にかかると、まだきれいになっていない。一軒の宿に落ち着いたと思うまもなく、洗い方・お乳のやり方がダメだと文句を言う。女スリが他人の売り物のうぐいすの鳴き声の笛をスッて赤ん坊にやろうとしたことが主な理由だが、これがきっかけで口論になり、女スリは「やめさせてもらう」と早くも子守りの役を降りて、身づくろいを始める。この場面、小6当時の私はハラハラしたかどうか思い出せないが、今では口げんかのやり取りの中に、こっけいさが見てとれる。実に良き時代の名作映画であり、それも勝新太郎氏と高千穂ひづるさんの見事な共演で出来上がっていると思える。そそくさと着物を着つける彼女に市は「オシッコだってさ」と訴えるが、当然知ったことかと返される。女スリを演ずる高千穂ひづるさんの表情に期待さえ感じて、「ほら、姉さん赤ちゃんがさ」と告げたくもなる。果たして。「お前さんにさせてもらいたいんだよ」と市が言ったひとことは殺し文句だろうか。彼女はみるみる相好を崩すと赤ん坊に近寄って抱っこして、おしっこをさせようとする。が、動作は荒い。片足で障子戸を蹴破らん勢いであけると、二階から階下へかけて赤ん坊に「しーしー」と声をかけるといった具合だ。このあと、すぐに次のトラブルの場面が待っているが、何せ座頭市が控えているから、ほとんど安心したまま、成り行きだけを見守って楽しむ余裕が出る。アップテンポで、正味一時間半ほどだったか、私見によれば映画はこれくらいがジャストである。今の映画のように二時間を楽々超えていろいろ見せても、バカっていねいな小説つまり作り話を読むように退屈で冗長であるばかりなのはいただけない。とにかく、東宝の怪獣映画か特撮映画を見にゆき、結果二本とも伊福部昭氏の荘厳な旋律の曲に魅せられ、「座頭市血笑旅」も、忘れがたい映画となった。今では、第一作「座頭市物語」、第二作「続・座頭市物語」、第三作「新・座頭市物語」など、かなりの数を録画してあり、何枚かはDVDにダビング(移動)してある。もちろん、「座頭市血笑旅」はDVDにしてある。スカパーのハード・ディスク録画の作品は、DVDへは一回きりしか出来ないので、作品を選んで、ハード・ディスクに同じものを二本録画しておき、チャプター設定したりしてのち、DVDに移動して保存してある。
2018.04.08
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やい、下に書いたバカ者ども、俺はまたもわざと操作をしてみた。とたんに、メール攻勢だ。楽天日記もこいつらを撃退出来ないのは確かに困ったことだ。03/10 08:1803/10 01:3403/10 01:2803/09 21:5503/09 20:57さゆり067642 さん03/09 19:5003/09 19:4903/09 15:3003/09 15:2803/09 13:27りさちゃん... さん「さゆり067642」を名乗る詐欺師の野郎、お前は女と登録しているが無論男だな。いや、正確には複数の詐欺団体だな。いつまで見え透いた頭の悪いあこぎな、悪質な商売をやっておる ! ?たとえばな、「デリバリー・ヘルス」といういかがわしい風俗業がある。うそかまことか忙しくて猫の手も借りたいほどの繁盛ぶりらしいが、仕事以下の下劣極まるわいせつサービスで、だいたい一時間前後で二万はとる。そんな終戦直後のような情けない金かせぎの道がある時代に、どこにそんなにゴロゴロ逆援助交際なぞというのがころがっているものか。なお、一日は耐えるが、アドレスを即座に変更したから、不届きなものを見ることがなくなって済む。そんなに普通の仕事がバカバカしくてやれないか。やい、さゆり、りさの両名 !度胸があらば俺と決闘をしないか、無論、タイマンはってだ。俺の個人情報は塾の広告HPにほとんどあるから、名乗り出よ。素手との条件で正々堂々とデスマッチをしようではないか。連絡待つ。万一複数で来たり、鉄パイプなどの得物を使った場合は、俺が不覚をとらぬ限り、お前らの少なくも一人を、たたき殺すから覚悟しろ。これは正当防衛にはならぬだろうが、執行猶予くらいにはなる。仮にも格闘技を20年余りやった男の恐ろしさを目の当たりにするがいい。サービスに、殺人の際の技を教えておいてやる。顔面をたたいて殺す。一瞬鼻を強く打たれて脳が錯覚現象を起こし、きな臭いにおいがするが、俺の正拳突きは師範がスピードを認めたほどだから、確実に頭蓋骨が砕ける。ただし、用心棒を呼んだら、俺は出来るだけ逃げる。
2008.03.10
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うっそうたる樹林の中をうねって続くほとんど獣道のような林道は、既に眼前のゴツゴツ角張った岩場が、その終点を示していた。また視線は自然とすぐ前方のもう一つの光景に移る。見たままを表現するなら、岩場のすぐ向こうには、とうに水がかれ果て干上がった河原があり、それまで昼なお暗い木々の群れで限られていた狭っ苦しい視界を一気に広げて、妙な開放感を与えた。いや、尋常ならば与えるはずだった。その乾いた河原には大小の岩や石塊(いしくれ)などが無数にころがっていたが、佐々木警官は、最前から混乱と怒りで、かなり興奮していた。職務に忠実な気質も手伝ってか、この興奮が、むしろ平静さや警戒心を彼から奪っていた。佐々木「俺は出る。あの怪物を拳銃で撃つ格好を見せれば、ヤツらも少しはあわてるだろう」こう告げると、同僚の渥美の制止も全くきかずに振り切って、佐々木は今しも車のドアに手をかけようとしていた。佐々木助三郎「チキショっ、コノヤロウ。こういう時、シートベルトは邪魔だ ! 」渥美格之進「助さん、落ち着け。もう少し様子を見ようぜ」その時だった。突如パトカーを下から突き上げる衝撃がドンッと襲った。 格之進「地震だッ ! 」 いっぽうこちらはタイムマシン車内。村松「あいつら、今何してるんだろ。おとなしくなったのか・・」田所「今ヤツらはパニックに体が言うことをきかぬはずだ。この一帯のほんのわずかな範囲に限定して、地面を振動数6ヘルツ前後で上下動させている。つまり局地人工地震だ」 再びパトカーの中。佐々木「ふん、どうせあいつらの小細工に違いない。おい格さんよ、俺は出るぞ ! 」佐々木は蛮勇にかられたように、全身を地震のゆれに任せて上下に動かしながら、再びシートベルトをハズしかかった。地面のゆれがおさまりつつあった。するとその時。 干上がった河原のように岩塊が散らばるくぼ地のほぼ真ん中の地面から、突如間欠泉のように途方もない量の水が噴出した。と、見るうちに、さらにほかの場所からも既に水蒸気と化した白い湯気がほとばしり出た。あたりは次々噴き出る水にみるみる浸され、嵐のあとの茶色く濁った川のような色に染められた水に隠れ、この河原一帯はたちまちのうちに巨大な池と化した。 これが田所発明の人工湖であることは既に明らかだが、ため池とは異なり、何しろこの圧倒的な量の水面は、河原を浸して、さらに水深を増しても、必ずある高さを越えてあふれ出すことはなかった。にわか湖を出現させた富士山伏流水は、あとからあとから地上に噴き出て奔流し激しく波立つにもかかわらず、田所の操作により、一定量に保たれていた。水面は一通りの広さのまま波立つ水だけが暴れていた。ある量を越えようとすると、巨大な容積の水どもは、どこか一定の場所から再び地下に潜り、流れ下って、標高の低いほうへと無数の水路へ枝分かれしていた。だが、このような光景を生まれてこのかた見たこともない二人の警官には、眼の前に起こっている奇怪な出来事は、文字通り天変地異そのものであった。二人とも来た道を車で戻って避難するという簡単な方法も忘れていた。恐らくほぼ思考停止した二人の脳裏には、噴出する水はほどなくこちらへ躍り出て、車ごと自分たちは水没しておぼれる恐怖の場面が描かれていたに違いない。 またもタイムマシンの中。田所「渥美はともかく、あの佐々木という警官は、思ったより度胸がすわっている。警戒せねばなるまい。マシンの位置を変えて、あいつらの様子が見える角度にする。それから彼らの会話も聞いてみよう」舞台またまた変わってパトカーの中。佐々木「格さん、見ろ。やっぱりあの田所とかいうならず者どもの仕掛けた小細工だ。水があふれて来ないじゃんか。湯船の水を軽く引っかきまわしてるようなもんだ」富士山伏流水は間断なく湧き出し、水深を保つべく、先に出て来た水があとの水に譲るように地下深くへ流れこんでいたから、水面も次第に澄んで来て、それまでの泥流のような水は青く変化していた。田所「村松。思った通り、佐々木という警官はなかなか肝の太い男だ。初めは頭に血がのぼった勢いだけかとも思ったが、そろそろ俺が仕掛けた地震と噴水の効き目も薄れて来た」そう言い終わった田所が操縦席の機械装置に視線を移したとたん、珍しく顔色を変えた。田所「いかん ! 時空バリアーの設定を切り替えていなかった」私はまだ発射桿の操作もままならぬ全くの素人だったので、彼が機械装置をカチャカチャ操作するのを見ても、へたに手伝おうとすることがかえって邪魔をすると判断し、ただ彼のせわしない動きを見守るしかなかった。ようやく田所が私のほうを向いて口を開いた。田所「バリアーがうまく作動しない」私はこの時、「さあどうしよう ? 」とつまらぬダジャレを思いついたが、無論口には出さなかった。その代わり真面目に彼に問いかけた。私「田所、何とか出来ないのか・・・」田所「少し己れの発明を過信して調子に乗り過ぎた。・・・推測だが、さっきの人工地震の震動で、バリアーを左右する電磁場に乱れが生じて、ディプロドクスを包んでいるバリアーの方向性の切り替えが出来ない ! 」その時、眼下のパトカーから一人の警官が飛び出して、恐竜のあとを追い始めた。田所「しまった ! 最悪のケースになる ! 」そういう私はというと、この場面を見ながら、昔親しんだ外国のSFドラマの「タイムトンネル」を思い出して懐かしい思いさえ覚えていたのだが、これももちろん口には出さなかった。のちに判明した事実によると、この時の佐々木助三郎警官が起こした無茶な行動が、やがて地球全土を未曾有の危機にさらすおおもとになるのだが、今は一警官の軽挙妄動の一コマにしか見えなかった。―序章最終回その2後編につづく―
2008.04.02
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日曜日、期末テスト特訓授業で、本文を書く時間がありませんが、この画像は保存版にします。
2005.11.27
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私は動機付けを先行させ、己を追い込んで、行動を起こすことがある。今年一月にサイパン旅行を計画したのは紛れもない事実。そしてゆえあって中止した。某婦人に「口先だけ」と言われたのが今でも悔しい。そこで盆休みを単独ツーリングに使おうかどうか迷っている最中である。五年期限のパスポートも、ムダにせずに終わりにしたいとも思っている。ただし、このところ特に日航を中心に航空機は安定していない。さて、私の仕事は原則として盆暮れ余り関係ない。特に盆休みは、相手の事情で休みになることを除けば仕事はフル稼働態勢だ。ところが来週月曜が先方のレジャーの都合でキャンセルになった。今、迷い出している。とりあえずここで一旦アップする。つまらぬことかも知れないが、この並び方見事なり。67888 2005-08-13 00:18:19 rainbowmaskさん 67887 2005-08-13 00:18:04 ***.bbtec.net 67886 2005-08-13 00:08:47 rainbowmaskさん 67885 2005-08-13 00:05:52 ***.bbtec.net 67884 2005-08-13 00:05:02 rainbowmaskさん 67883 2005-08-13 00:02:27 ***.bbtec.net 「***.bbtec.net 」がどなたかは、全く見当がつかないが、名前が交互に並んで、いささか良い心持である。さて、ゼファーレディから携帯メールが届いた。少しまとめてからアップしてみる。と、言いたいところだが、余り調子に乗ると、某家族帰宅後、久しぶりの戦闘開始になるやも知れぬ。ちきしょー。私は今ヒマなのだよ。あんまりヒマだから、ヤフーの出会いサイトをのぞいてみたが、やはりこういうのは性に合わない。その代わり、全き「独身」との触れ込みで、某サイトの「お友達募集」欄に投稿してみた。ハハハ。これ、少し、いや、かなり激しい戦闘になること必定か。何しろ世間的には独身だし、内縁関係でもないから、事実上自由の身だ。ふうー、疲れた。またアップ。しかし、置き去りにされた身はわびしい・・・。私は首都高が恐い。かつて亡き兄最後の地、土浦を車で訪れた時は、母が見事にナビゲーターをやってくれた。スムーズに常磐道に入った。ここから本当に快適なドライブになる。三郷(みさと)何キロという標識が次々出るのも安心感を増して、なお快適だ。そして「桜土浦」インターあと何キロの表示が出ると、もう大安心だ。懐かしい名前である。兄が罹患する以前も、この名前を見ると胸が躍った。「お兄ちゃんに会える ! 」。この喜びが脳裏を満たした。そして今、土浦とは事実上絶縁である。もはや親類とは思っていない。再び土浦へ行くことはない。さて、首都高が恐い。以前何度目かの土浦ゆきの時は、途中で降りて、何と銀座の真ん中を通ってしまった。帰還出来たのが不思議なくらいだ。田舎に住んでいるから田舎へ帰る必要がない。さて、どうしよう。メール要約完了。以下の如し。発/ 夕子 宛/ ひろちゃんハハハ。恥ずかしいが、お互いのメールの表示名を用いた。電文要約「ひろちゃん、憎らしい日記読んだわよ。お察しの通り、途中スコールみたいな土砂降りになりました。でもそこは不幸中の幸い。某所にいて、バイクにもカバーをかけ、雨宿りしました。しばらく足止めを食いましたが、小降りになって、まずまずの様子なので、カッパを着て一気に発進。無事旅館に着きました。でも、父は車なので、渋滞のたびに結局待たなければならず、あなたのナナハンと合流の時のようにはいかないことを痛感しました。深夜の日記を書くかどうかわかりませんが、もう一度のぞいてみますね。今夜、私はなぜか眠くなりません。先夜は夜通し飲んで楽しく(?)過ごしたのにね。ではまた」
2005.08.13
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日産キューブ。様々な種類があるので、検索で見つけた一つを載せました。初めは、後ろから見るとまるで正方形が走っているような車体に、なんだこの車は ? と、さげすむような心地で、ナナハンであとをついて行ったこともある。しかし、昨年のある時から、この車に親近感を持つようになった。人の好悪の感情は、ある交流をきっかけに16点大回頭(船舶の180度方向転換)の如く変わる。サッカーがわからなく、興味がなくても、鹿島アントラーズだけは別格に見ようという考えに換わる。ご本人看護師時代の話から、看護師の喫煙率は高いとのうわさは本当だということもわかった。だが、本人はタバコなど吸わなかった。いや、タバコなぞ、もってのほかだった。半年に近い入院、加療生活は、想像出来ない。私の教え子に小児ぜんそくが残っている高校生がいた。そうとも知らず、私は家庭教師の休憩時間に本人の目の前でタバコを吸った。ほどなく、お母さんがお茶や菓子などを持ってみえて、息子の事実を告げて、以後の喫煙を控えて欲しいとおっしゃったが、物腰低いご一家で、むしろ、遠慮がちに話して下さった。この生徒は大学合格の頃には、小児ぜんそくは完治していたと記憶する。自動車教習所の息子で、オートバイ好きで、車好きで、今はおそらく全種類を乗りこなすと察する。医療関係者といえど、人の子である。昨年の日記閉鎖は、病気も主因かも知れないが、私になお、内心忸怩たる自責の思いがある。一度、鹿島神宮を訪れようと計画したことがあったが、このことで、二度と茨城県鹿嶋市へは行くまい、行ってはならぬと、心に決めた。せめてものお詫びの気持ちである。いや、行ったとて、何もストーカーまがいの行為の出来るはずもないし、無論そんなふらちな気持ちはみじんもなかった。月日やや経て、今なら、今後なら、少なくも鹿嶋市を訪れるだけのツーリングは許されるのかという気になった。目的は、鹿島アントラーズのスタジアムか関連施設を訪れて、キャラクター・グッズなどがあったら購入し、さらに鹿島神宮など参拝して帰ろうとのあっさりしたものであることは言うまでもない。だが、未だに、罪とがの念去りがたく、ためらっている。妙な言い方をするなら「禁断の地」である。成人をとうに過ぎてからの持病は、しつこく続くものなのか、無知な私にはわからないが、時が、静養が症状を好転させる見込みがあると信じたい。そして、早く念願の地、エジプトへ旅して、ハワイに優るとも劣らぬ写真をたくさん撮影して、再び公開して下さることと、その日を、せかさずに待つものである。どうぞご自愛下さい。準備項目 後日日記「ああ東宝特撮大プール」画像準備開始。かまぼこ型のスタジオを背に見ると、そこには大海原が出現します。 学生時代一度だけ東宝撮影所を見学する機会があり、そこに憧れの大プールを見ました。草はぼうぼうと生え放題、ホリゾント(背景)も一部曇天の空があるだけでした。いざ撮影となると、大プールは息を吹き返すように、海面と化します。「癒し」などという大嫌いな言葉がありますが、ここに立って広々とした水面を見るだけで、心は満たされ休まりました。
2005.06.27
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前文/ 今年の正月から日めくりを使っている。長所短所共にある。一ヶ月を曜日と共に一覧出来るカレンダーは、言わばアナログ感覚で、今日とその前後を確かめられて便利だ。日めくりは今日のその日付を強調するから、そこは便利だが、長く使っていると、まず何月かを確認しようとすると、月の文字が日付に比べて極端に小さい。さらに今日が何曜日かを見るときも、日付よりもずっと小さい文字で、ちょこんと置かれているだけだから、乱視の私には見づらい。こんなことを書くと早くもボケて来たかと怪しまれそうだが、ボケたら日めくりをする行為そのものも忘れるだろう。この日めくりは、実は楽天日記と結びついている。職掌柄夜更かしである。午後十一時前後、パソコンに向かうことが多い。十一時五十分ごろになると、早くも日めくりを一枚はがして翌日の日付を出す。同時にホワイト・ボードに翌日の仕事の予定を書き込む。これが日課となっている。珍しく疲れていると、そのままパソコンを閉じて寝床につくが、眠くない時は、パソコンに向かい続け、壁の時計をにらむ。完全に午前零時を過ぎたと見て、楽天広場をあけると、果たして日付は前日と本日ほやほやの表示が二つ出るから、何か書き出せそうなときは、日付改まれるほうをクリックして、駄文を書き始める。前文しめくくりとして一つ。日めくりには肝心の日付以外に、古来伝わって来た様々な事共がズラリ並んでいる。本日のことで気になったのは「盗難あり」との言葉だ。本日、何を盗まれるのか、まだ盗まれた覚えはないから、何事もないようだが、やや不気味である。本文/ アクセスが、60を切った。不人気度が増したことと察する。さて、台風が去れば多分ドカッと暑くなり、夏らしさが戻ると察しられる。そこでこの夏の日記テーマを、再び「怪談シリーズ」にしようかどうか、迷っているところだ。一日も休まずにぶっ続けで書いた昨年の本テーマで、ほぼネタ切れだが、まださがせばいくらか見つかるはずだ。あるいはこうも考えている。昨年のシリーズの話の中の何話かを再録することだ。だが、いずれにしても、昨年のようにエネルギッシュに連日掲載というわけには行くまい。そこで間隔をおく。さて、本日はタイトル通り、面白くも何ともない「高校数学講座」である。矛盾という言葉がある。パラドックスとも言う。パラドックスの意味は逆説と解釈されるが、矛盾したこととの意味もある。思い出されるパラドックスは、まだSFに興味があった頃、よく雑誌などの特集でも読んだ「タイム・パラドックス」だ。有名な一例を挙げる。「親殺しのタイム・パラドックス」だ。アクセス、さらにどれだけに減るか ?ここらで一休み。休憩終了。遠い未来か近未来か知らないが、既にタイムマシン(時間旅行機械)が出来ているとする。一人の若者が世をはかなんで死にたいと思うが、さすがに自殺には勇気が要るから、己をじかに毀傷(きしょう)するだけの決心には至らぬ。そこで、タイムマシンで過去に行って、自分をこの世に生んだ両親またはいずれかを殺せば、自分はこの世に生まれなかったことになると考えて、決行せんとする。勇躍若者は時航機・タイムマシンに乗り込むが、そこではたと新たなる問題に突き当たる。「過去にさかのぼって親を殺せば自分は生まれて来なくなる。生まれて来なければ、自分は親を殺しに過去にさかのぼらんと、タイムマシンを操ることは不可能になる。すると殺されなかった親は無事だから、自分はこの世に生まれて来る。そこで過去にさかのぼって親を殺せるが、殺せば自分は生まれて来ないのだから、タイムマシンに乗って過去にゆくことが出来ない」以上、タイム・パラドックスである。私はこれを読んで知る頃から、タイムマシンの実現可能性に疑問を抱くようになったが、時の、時間軸というものは、一本の直線のような単純構造ではなく、過去で親を殺せば、その時点で、並行世界→パラレルワールドへ移行し・・・などと、さらに小理屈のような理論を並べ立てる何かを読むうち、次第にSFそのものへの興味が失せた。だが、この矛盾を見事に利用して、理路整然と導き証明する分野が、数学にはある。今回はその中でも一番簡単な証明問題を例示して、矛盾を利用した証明法をつづってみる。この証明法を「背理法」と呼ぶ。問題√2が無理数であることを背理法を用いて証明せよ。なお、√2とは、方程式、xの二乗=2を満たす解のうち、正の解である。ここで一旦休憩。帰還せり。新しい家に行く。前任からの引継ぎ。評価を生徒に問う。前任者のほうが教え方が上手だったとハッキリ批評される。長年の経験から、めったに言われないことを言われて後味いささか良からず。予想通りの展開となった。本音は一日も早くやめたいが、今夜が初日である。人生教師になるなかれという。知っていることと教えることとは別ものということだ。それにしても、ハッキリ言う子供が増えた。因果はめぐる小車(おぐるま)ともいう。えり好みは、己に振りかかって来ることを昨今の児童生徒は知らない。私はもはや老兵である。時世に合わなくなったら消え去るのみだが、小学生坊主二人を同時に教えるのは家庭教師の長所を殺している。この点、家庭教師センターへの不満あり。なお、√2が無理数であることの背理法による証明方法は、明日以降に送る。不愉快なり。本日これまで。
2005.07.25
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昭和46年3月受験の東京教育大の数学の問題全問のコピー。数年前、聖文新社(旧・聖文社)から無料で郵送していただいた。夕子「いよいよね。あたし、待望の問題よ。昭和46年3月、あなたが大学入試で受験した数学の問題」村松「あ、でもね、お前さんへのイジワルじゃなくて・・」夕子「わかってる。それは望むところよ。ただ、別解が有利とも思えないわね」村松「むむっ。その口ぶりからして、もう解法わかったとみた」夕子「その場で解かせて、あたしが苦しむのをとくと味わいたかったか ! 甘いぞ、おぬし」村松「むむ。おぬし、今回はあらかじめ術を巡らしたか」夕子「ね。あの、口調変えるけどさ、あなた、この大きな3番の問題一題を全問あきらめたって言ったでしょ ? 」村松「うん」夕子「どう考えても、今は解けるわよね」村松「それだよ、それなんだよ。正四面体の三つの頂点の座標が明らかならば、残る頂点の座標なんて、少なくとも作図は思いつくものね。だからね、俺は相当ひどい数学力だったとしか思えない」夕子「どうしてあきらめたの ? 」村松「直方体、つまり石けんの空き箱みたいな立体を頭に浮かべて、混乱した。かなりバカだろ ? 」夕子「正四面体とはほど遠いわね」村松「石けんの空き箱じゃあ、解けるわけないわな」夕子「確か、数学は入試の二日目だったわよね。遠縁の家(うち)に泊まって、一日目の朝、朝食を食べたのがいけなかったって聞いたけど・・」村松「もう、あの頃既に神経症だったんだよ。気力だけで受験したんだけど、家族の人みんなが朝食とってる時に、断われなくて、つい食べたんだよ。そうしたら、大学へ向かうバスの中で気持ちが悪くなってね。でもね、まあ神経の病だからか、農学部の教室の自分の机についたとたん、気分が楽になった。で、二日目は朝食抜きで出かけた」夕子「数学が何時間目かは忘れたって聞いたけど、とにかく試験が始まったのよね」村松「それがさ、数学が何日目かも思い出せない」夕子「あらま」村松「当時の日記帳見ると、入試は3月3日と4日で、後年、出版社に頼んで無償で送ってもらった問題コピーを見ると、数学は4日、つまり二日目だ」夕子「じゃあ、記憶と合うわね」村松「ほぼ間違いないのは、一日目に物理と化学があって、物理は得意な問題なのに大変なミスしたし、化学は苦手なのばかりで、半分取れなかったはず。これで親類の家(うち)へ帰って、すぐ確認して、もうダメだと思った」夕子「物理は高校の時、あなたが上位得点者として廊下に掲示された記念のテストで、その時得点した問題とほとんど同じ『円すい振り子』の問題よね」村松「物体に働く力を矢印で書き込めたら、しめたものだけど、一つでも矢印を書き忘れると、すべて狂って来るから、これも大きな一問全部ダメ」夕子「でも合格したのは事実だから、失点した科目のぶんを、ほかでかなり補ったのよね」村松「結果からすると、そうだろうね。もし数学が予想通り8割としたら、あとは、文系科目の英語・国語・日本史でかせいだとしか思えない」夕子「でも、凄いことよ。国立大学理系だもの。あ、そろそろ本題に入っていい ? 」村松「ああ、そうしよう。・・・フフフ。と、言いたいところだが、忍法とは手段を選ばず、敵に勝つことがすべてだ。おぬし、俺が本当に試したい問題がどれなのか、予想しなかったな」夕子「ええッ ! 正四面体じゃないの ? 」村松「いや、もちろんそれもある。しかし、おぬしは、いきなり突きつけられる緊張感を好むとも聞いた」夕子「むむっ、ひきょうな ! 」村松「まあ、そう言うな。降参するならそれも良いが、まず挑んでみぬか ? 」夕子「くくっ・・。何番だ ? 」村松「大きな2番なり。いかがかな・・・」夕子「・・・・・」村松「うむ。やはりわしの術がおぬしの技を上回り過ぎたか」夕子「フフフ、いつになっても進歩がないのう、おぬしは」村松「な、何だと ! ? 」夕子「あのね、あなた、数学の問題、全問送ってくれたでしょ。あたしが3番だけ関心持つわけないでしょ ? 」村松「あ、それもそうだね。とりあえず、3番を載せとくよ」以下、相棒がベクトルをあえて利用して見事正解した解法を、村松が整理して、まとめたもの。なお、(2)は省く。「会話つづき」村松「お見事でござるが、不意打ち問題は、やはり卑劣かな ? 」夕子「いいえ。あなたに前に言ったでしょ。緊張感と解く快感があるって。だって、あなたの塾も、生徒がいきなり突きつける問題をその場で説明する宿命だったって。ふふ、でも今回は先に見ちゃったから、チョイ反則ね」村松「でも何番を指摘されるか、わからなかっただろ ? 」夕子「ふふ、それがね、全問解いちゃった」村松「ううむ、参った。じゃ、とりあえず2番はまたの機会に頼むね」夕子「承知つかまつり候」「追記」本問はベクトル利用ゆえ、内積の成分表示による能率的解法もあり。折りをみて掲載予定。
2014.04.19
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★「男たちの大和」こきおろし★星の数ほどかどうか知らないが、あまたのサイトの中のおすすめが『映画無段』。管理人のユーモアと毒舌と、知識の豊かさにうなる。たとえ名作と評判とろうとも、ヒットしたと言えども、この人の批評眼にかかったら、理論武装いくらしても、まず返り討ちにあうこと必至。何より面白いのは「リンク・フリー」。ただし、無許可でのコピー・ペーストはわからないが、この管理人氏、メール送ってもナマケモノなので、返信を期待なさらざるべしとも書いているから、余りの詳しさと、多くが感動した映画を、洋画・邦画かまわずバッサバッサと一刀両断してのけるから、そのうち、トップ・ページにリンクを貼らせていただこうかとも予定している。では、今回は「男たちの大和」である。なお、私の拙いコメントもどこかに註釈するつもりだ。●この映画のために、広島県尾道市向島町の造船ドックに戦艦大和の実寸大セットが建設された。大和の全長は263メートルだが、その内の 艦橋から前部を原寸大で再現した190メートルが再現された。広大なセットには約6億円の総工費が注ぎ込まれ、4ヶ月の期間を要して 完成した。映画全体としての製作費は約25億円。日本の映画としては、破格のスケールと言っていい。長渕剛のエンディング・テーマ曲「CLOSE YOUR EYES」は、全体としては雰囲気も合っているし悪くない。ただ、タイトルとサビの部分になっている「CLOSE YOUR EYES」は無いだろう。米軍と戦った日本兵に向けた歌のはずなのに、なぜサビとタイトルが英語なのかと。まあ、それを言い出すと映画のタイトルに「YAMATO」とあるのも気になるんだけど。角川春樹はコカイン密輸によって逮捕された後、保釈されて1997年には『時をかける少女』で監督・脚本・製作を務め、2000年にはアニメ 映画『アレクサンダー戦記』を製作している。だが、それは完全な復活劇というわけではなかった。その後、彼は最高裁で懲役4年の実刑が確定し、服役した。そして2004年に仮出所した角川春樹は、この映画で完全復活を遂げた。映画人としての彼は、まだ死んでいなかったのだということを、この映画が見事に証明した。まだ角川春樹が角川書店社長を務めていた頃の角川映画における黄金期には、メディアミックス路線でヒットを連発した。この映画でも、ちゃんと角川春樹事務所から小説を発行している辺り、ハルキイズムは健在だ。豪華キャスト、莫大な予算、壮大なスケールの映画に莫大な宣伝費を掛けて客を呼ぶ戦略は、1990年の『天と地と』を思い起こさせる。やはりハルキイズムだ。前述したように大和の巨大セットが建設されているが、たぶんやろうと思えば、部分的なセットとミニチュア、自衛隊の協力による実際の 艦艇の映像とCGを組み合わせれば、それなりに上手くやれたんじゃないかという気もするのだ。だが、それでも巨大セットにこだわる辺りが、さすがの角川春樹なのだ。この人は、ようするに「どうだ、すごいだろう」と力を誇示したいのだ。とにかく「巨大セットの大和を見せたい」という気持ちで一杯なので、劇中での大和のシーンは局部ばかりで全体を捉えるシーンがほとんど出てこない。全体を捉えようとすると、CGやミニチュアにしなくちゃいけなくなるからだ。航行するシーン、つまり大和と海を同時に捉えるシーンも少ない。セットの位置関係でカメラワークとして難しかったのか、右舷から大和を捉えるシーンも無い。大和だけで戦っているわけではないのに僚艦が全く出てこないが、「大和さえ見せれば他はどうでもいい」ということなのだ。一部で中村獅童の芝居が批判を受けているようだが、これがハルキイズムの映画、角川春樹のケレンが込められた映画であることを 考えれば、中村獅童のようなスケールのデカさを感じさせる力一杯の芝居こそがリアリティーよりも必要なのだ。それは角川春樹の映画におけるリアリティーとなる。ただし残念ながら『北京原人 Who are you?』で壊れてしまった佐藤純彌監督がハルキイズムを体現できず、 「中村獅童の芝居が浮き上がっている」と一部で感じるような結果となってしまったのだ。最初に真貴子が大和ミュージアムを見学し、「1985年に大和が発見されて云々」という長いナレーションが入る。その後も、何度もナレーションによる説明が入るが、これが疎ましくて仕方が無い。資料映像やテロップも多いが、これも邪魔。年老いた神尾が森脇の墓参りをするシーンで、わざわざ「森脇庄八之墓」とテロップを入れる 無粋なセンスには度肝を抜かれた。それと真貴子が大和の沈没現場に向かって神尾が回想するという入り方は『タイタニック』をやりたかったのかもしれないが、現在の シーンはもっと短くまとめるべきだ。最初の真貴子が博物館を見学するシーンなんて、全く必要性が無い。漁船に前園が乗るのは少年兵と重ね合わせようという意識なのだろうが、こいつも全く要らない。途中で何度も現在のシーンに戻るが、これも最初と最後だけで充分だ。真貴子が船酔いするシーンなんて、何の必要があるのか。大和沈没の後も、少年兵の神尾が西の母親に会いに行ったり、年老いた神尾の様子を描いたりしてダラダラと話を続ける冗長ぶり。西の母が少年兵の神尾を責めるセリフを、そのシーンの直前で「年老いた神尾が思い出した声」として聞かせるのも演出としては論外。エピローグが長すぎるのも問題だが、そこで描かれる内容も完全に外している。神尾と内田が生き残ったことは最初の時点で観客に提示されているのだから、エピローグで帰還後を描くとすれば、それぞれの恋人の関係 はどうなったのかを描くべきだろうに。それと最後、真貴子の「長生きをさせていただき、ありがとうございました」のセリフは無いわ。神尾は仲間が死んだのに自分だけが生き延びたことを負い目に感じているのに、その目の前で平然と言うべき言葉ではないよ。思いやりが無さすぎる。内田の娘が鈴木京香というのは年齢的に無理がある設定で、「かなり年を取ってから生まれたってことか。 あまりにもヒロインが年を取りすぎていると訴求力の部分で苦しいという判断なのかなあ」と思っていた。すると途中で「実の娘ではなく養女」と言い出すので、「ああ、そういうことで不自然さを回避する手に出たか」と思ったら、 「内田は戦災孤児の面倒を見ていた」と言い出す。おいおい、戦災孤児だと、ますます年齢的には無理があるぞ。戦艦大和の話で、しかもタイトルが『男たちの大和』だから女は要らないだろうと見る前は思っていたのだが、その考えは大間違いだった。むしろ出番の少ない女の方が、男どもよりも存在感を発揮している。蒼井優は一服の清涼剤になっているし、高畑淳子は助走の無い中で 感動の芝居を強いられているにも関わらず個人的には唯一、グッと来るシーンを作ってくれる。慌ただしく話が進んでいくため、反町隆史や中村獅童はともかく、神尾を除く少年兵のように「誰がどんな名前でどんな顔でどこの配属か」 が良く分からないメンツも多い。例えば玉木なども、顔も良く分からない内に「出て来たかと思ったら死にました」という状態であり、涙 の別れとして盛り上げようとしても全く感情が揺り動かされない。各人に用意されたエピソード、人間関係は異なっているが、キャラの中身、性格は大して変わらない。基本的に皆が「抗うこともなく素直に命懸けで戦う覚悟を固める」という筋書き。1人を主人公に据えるのではなく群像劇にしたかったようだが、ただ散漫になっている、バラバラになっているという印象しか受けない。また、ストーリーの流れが無くブツ切りで薄味。政治的、思想的な主張はなるべく排除されており、それは戦略として賢明だと思うが、そこを薄めたからって話そのものも薄めたらイカンだろうに。大和が発進する高揚感も、沈没の悲哀も描かれていない。おそらく売りの1つであろう戦闘シーンは、『プライベート・ライアン』風にやりたかったのか、血糊たっぷりで激しい描写にしてあるが 、レイテ沖海戦と沖縄特攻の色の違いが無い。描き分けが出来ていないので、戦闘時間の長短ぐらいしか区別するポイントが無い。●以上、抜き書き。さて、私からひとこと。本作品を見て、戦艦大和実物大セットやら、砂で波と見せかけた特撮シーンに感動して見終わった人も少なくないと思う。だが、ブログお気に入りに登録してある「ノーチラス」さんクラスのモデラーになると、お気づきではないか。ご覧になっていれば、あるいはと思った次第。まず、実物大模型を見て「おや ? 」と思った人は、基本的知識ありと称える。戦艦大和の主砲は、昔流に言う46サンチ(46センチ)だ。私はDVDを見て、貧弱な主砲に見えた。「男たちの大和」を批判した一文が載る本。早速久しぶりに本屋へ急行、関連本を立ち読みして品定めし、買って帰った。果たして、砲身が長いので、95パーセントほどに縮めて作ったとのこと。ざっと電卓頼りに計算すると、43.7センチ。それまでの連合艦隊旗艦だった戦艦長門の主砲が、40センチだと思い出すと、「男たち」版大和の主砲は、長門と大和のあいだ・・とも言えぬ。直径という長さで比較するのではなく、円形の面積を比べるべきなのだ。それからもう一つ。これはさすがの軍事知識疎い私も、笑ってしまった。「映画無段」の管理人氏は、演技面に於いて称えているが、蒼井優演ずる田舎の一女学生が松山ケンイチに向かって「大和で沖縄行くんじゃろ」とのセリフを聞いたとたん、もし椅子に坐っていたら、転げ落ちるとこだった。本物の戦艦大和。白黒写真に着色のもの。当時、海軍将校でさえ、戦艦大和の存在そのものを知らされていなかった。最高機密事項である。母が元気な頃の話を思い出した。その昔、父親(私の祖父)に同道して、九州・大牟田の祖父の石炭山を見にゆく途中、広島の呉軍港の近くにさしかかる。もちろん、秘密裡に巨艦大和が建造中だ。その時、車掌が列車じゅうの乗客に「窓のブラインドを全部しめて下さい。まもなく呉軍港のそばを通ります」と告げた話を聞かせてもらった。戦時中の車掌が「ブラインド」と敵性語を使ったかって ?日本人は心が広い。海軍兵学校では、原則、授業中は英語をしゃべらされたのだよ。大学野球も同じ、ストライク・アウト・ヒットなど、英語を使っていたよ。田舎の一女学生に、どこから情報がもれたのか、もちろんそんなはずはない。映画を作る者共に知識がないか、あえてバカなセリフを言わせたとしか思えない。蒼井優嬢に責めはなし。ことのついでに書いとく。古い話だが、東宝昭和38年の「太平洋の翼」に登場の巨大ミニチュアの大和も、何回見ても、艦首から一番主砲までの甲板が短過ぎる。これものちに専門家の話または東宝関連書で、短くしてあると知った。なお、「男たちの大和」の実物大写真に、細い主砲は見たことがない。第一、手前からのショットでは遠近感でごまかせる。富士五湖最大の山中湖で大和巨大ミニチュアを空撮中の写真。この大和は東宝版にあらず、新東宝昭和28年(1953)の「戰艦大和」のミニチュア。なかなかの出来栄えである。同じく新東宝「戰艦大和」撮影スナップ。そして私はやはり東宝昭和38年(1963)の「太平洋の翼」登場の戦艦大和が好きなのである。艦首から一番主砲までがかなり短いが、東宝美術陣の熱意と自信が感じられる。こちらはオマケ、拙い自作ジオラマの大和。
2016.02.22
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辛口コラムあるいはかたい話のあとは、反動が襲って来て、いきなりくだけたものを書きたくなる。何しろ二十年近く前のことだから、会話の詳細は創作が入るが、ただ一度の本格的恋愛から、ほぼ二年後奈落に突き落とされて、発狂の恐怖におびえるほど、痛めつけられた経験だったから、印象強烈な思い出の会話などは、おおよそを再現できる。以下は、既に何十回もドライブ、デートを重ねた中の、最後に近いある時のものである。潤色はあるが、書いたように、要所はほぼ当時のままである。「さあてと、俺たちだいたいの近場のホテル巡り、やっちゃったからな、どこにすべえか・・・、ホ、ホ、ホテル来い。あっちの風呂は熱いぞ、こっちの風呂はぬるいぞ」「プッ、何よそれ」彼女が吹き出した。「うーん。思い切ってきちんとしたホテルへでも泊まるか!!伊豆の旅館とか・・・」「えっ? 何で。だって時間が無理じゃない!?」「まあね。と言って今から御殿場まで行く気もしないしな」「遠いわよ」「ね、さっきの替え歌ほかに知ってる? 知ってたら歌ってみて」「面白かねえぞ」「あら、面白いから歌ってって言ったのよ」「じゃあ、元歌ひとつが下品なのとスケベなのに分かれて両方割りと有名だった奴」「何それ」「たぬきばやしの歌知ってるべ?」「うん」「じゃ。まず下品なほうから。ゴ、ゴ、ゴジラ、ゴジラのおなら、せ、せ、世界で一番くさい。おいらの友達ゃ黄色くなって死んじゃった」「アッハッハッ、面白い。小さい頃あったの?」「うん」「じゃ、もう一つのは?」「しょっ、しょっ、処女でない、処女でない証拠には、つん、つん、月のもの三月(みつき)もないないない。あの娘(こ)のおなかはポンポコポンの、ポン」「ハッハッハッ、傑作ーっ。面白いじゃない。ほかにもある?」「又似たのだけど・・・。月のものーがー、きょうもないわー。私ー妊娠したのーかしらー。きっとー、きっとよー、あーのー時よー。二人はきっとー、しくじーったのよー」「ああ、月の砂漠ね。ほんとはあたし大好きな歌。へえー、面白いのね」「これ俺の作詞。やっぱ、ゴジラのおならにはかなわない」「ホント? じゃ、中学ぐらいの時にでも作ったの?」「当たり!! だって日本地図なんか見てさ、変な地名や産物があると、すぐクラスの奴らがお互いに教えあって、ゲラゲラ笑ってたもん。ま、ガキだったんだよな」「どんなの?」、「何だっけな。・・・ああ、例えば焼き物の産地さがしてたら、万古焼きなんてのあるの」と漢字を説明しながら、「ばんこやきって読むけどな、わざとばをばと読まないでにやつくんだ」「ふうん。ね、替え歌ほかのは?」「ピルの町にゆくー、ピルの町にゆくー。ダダダダダーッとかけてゆく。バババババーッと走ってく。ピューッと出ったらたーいへん。さあさ急げー、手ーを洗え、生理の味方、しゃぶり尽くせ、あくまで全部。敵ーに渡すな大事な女、貞操、貞操守るのだ、ピューッと出ったらたーいへん、さあさ急げー。グリコ、グリコ、グーリーコー」「あ、それ鉄人28号でしょ」「詳しいね。だけど歌の歌詞ばらばらでつながってないだろ。何しろガキだったからな」、ここで話題を変えた。「あのさあ、それより又車ん中でいいからさ、レズごっこ一度してくれない」「だーめ」「意志固いね」「だって、あなた女の人のマネ似合わないわよ。どっちかというと、いつもの軍人みたいな話し方のほうがいいわ」「俺が軍人? 意外だね」「あら、そう。あたし前から・・・そうね、さっそうとした陸軍軍人の軍服姿が似合うって思ってたもの」「へえーっ、全然考えたことなかった。でも悪い気はしないな。サービス!!」「あっ、またこんなとこで、恥ずかしいわ」「俺左利きだからちょうどいいんだ。それと初めての帰りの日のお返し」「うそばっか。もう何回もお返ししたじゃない、あ・・・」「ちょっと実験するからよ、耐えてみな」「えっ?」「チョメチョメチョメ。まあ、そのお・・・」「やめてッ」と彼女は私の手を一旦振りほどいたが、やがて「いいわよ、耐えるから」と気を変えた。ふふふ、慣れると女もスケベだ。私は延々田中角栄氏をやりながら続けた。「ま、わたくしも日中国交正常化など、我が国のためにいろいろ貢献して参りましたが、しかしですな、まあそのお、わたくしがロッキードで、ピーナッツ食いすぎて腹をこわしたなどということは、絶対にありません!!・・・」「ふっ、ハッハッハッハッ、だめっ。全然だめ。くすぐったくなっちゃってダメよ」「俺の勝ち!! しかし、何たること。そちは、これしきのことが我慢ならぬか」と又時代劇口調である。「そもそも、世界一くすぐったいのは、わきの下と足の裏と相場が決まっておる。そのようなことでは、チェックチュ道はいつになっても己れのものとすることかなわぬぞ。ふかーく反省するがよい。パッ。」「旗本退屈男でしょ」「お、よく知ってるな。でも、これはあんまりうまく出来ないや」と、言いながら私は左手の人差し指をピチャピチャとなめて、「うーん、ヒジョーにうまい!!」「あっ、やだ。ん、もお、財津一郎のマネなんかしちゃって・・・」「男は黙ってチョメチョメビール!!」「ねえ、・・・どんな味? ん、もお、恥ずかしいけど気になるもん」「生徒から聞いた話だけどさ、粉チーズの腐ったにおい」「うわ、いやだわ。・・・じゃあ、男の人は?」「イカの腐ったにおい。ついでに俺のはインキン長年飼ってるから、複雑だな。わかんなかった?」「やだあ・・・でも知ってたけど。だってあなた、気にしてたでしょ。でも、あんまり気にならなかった、あたし」「お前、風呂や便所で自分のかいだことないの?」「あるわけないでしょ。でも男の人って変なことばかりするのね」「それは聞き捨てならぬ。俺はしょんべんをなめたこともあるぞ。ついでに飼い犬のうんこも」「あなた、変態ってより、やっぱちょっと変じゃない?」「フフフッ、さよう俺は頭のネジがちょっとおかしい。しかし、飼い犬のうんこに触るだけでも相当な勇気がいる、ましてやそれをなめるとなると、更なる勇気と覚悟がいる」「あーあ、あたし変態相手にしちゃったのかな・・・」「幻滅したろ」「ううん、うそよ。でも、何でそんなことしたの? いつごろ?」「小学校の時。きっかけはね、砂場で知らないうちに犬のうんこ混ざった砂、うっかり触っちまったんだよ。何だこれは、バカに固まってる砂だけど弾力があって変だなと思ったら、犬のだった。あれで汚いものへの親しみが出ちゃったみたいだ」「ところでさ、このまま行くと、又もちやの向こうのホテルになっちまうな。あそこ、設備はいいけど飽きたな。思い切って変わったとこ行くべか」「どこ?」、「さっき遠いって言ったとこ。御殿場のホテル王城。東名の御殿場インターから一番目立つやつ」「あ、知ってる。お城みたいなのがとがってるのでしょ」「そうそう。行くか」「いいわよ。どうせ泊まりだから」「よし、レッツゴー」ホテル王城はひどいところで、車がそのままホテル駐車場へ入らない。まるでスーパーの駐車場みたいに、外に駐車場があって、降りるとそれぞれのカップルがいやでも鉢合わせする。そしてエレベーターでもつかの間同室するから、お互いを見るともなく見て、男女の品定めまでお互いするしされることになる。彼女すっかり興ざめしたのがはっきりわかったから、早々にここを出て、無駄遣いだが、口直しすることに決めて、結局富士宮のあるホテルに入るというはしごをした。「おい、ここはサービスいいな。コーヒーのティーバッグ(そんな言い方あるか)みたいなの用意してあるぞ!!」、ベッドに寄った私が歓声を上げた。私の早とちりであるが、「ホント?、紅茶なら知ってるけど」と彼女も興味津々である。「な、色も茶色で・・・あれ? 」「アッハッハッハッ。何よ、これ全然違うじゃない。よく見てよ」「あーっ、何だ。岡本理研じゃねえか」これ、当人同士でないとわからないが、しばし二人ともゲラゲラ笑って、ムードも何もあったもんじゃない。この晩、二人は何事もなく、おとなしく、はやばやと寝ちゃったのである(うそ)。これまたお粗末。一巻の終わり。
2003.12.21
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コラムの師、故・山本夏彦氏の作品に『年賀状は虚礼か』という意味のタイトルのものがある。初め私は、珍しく反感をやや覚えたが、さすが一流のコラムニストだけあり、レトリックを操る筆力は抜群だった。詳しい内容は忘れたが、「形ばかりの年賀状は虚礼だというが、果たしてそうか。実は友人・知己の多寡に一喜一憂することに、彼我共に、思いを致すから、それが不要とは言えないのである」と書いてある。私は業者以外、一枚も受けないものである。もちろん送ることもない。年賀ハガキは安いから、パソコンに長けた者は、年末ごとに、工夫を凝らすが、あれは一種の趣味である。その証拠の一つに、年賀状は送っても、盆暮れの贈答品は送らない者が少なくないとみる。根本はケチである。品物は一件数千円かかるし、決めるのに迷う。贈れば先方も何かしらを選んで贈り返すが、互いに面倒だと思うはずだ。山本氏は、いかにもイジワルそうに、盆暮れの付け届けは、受け手が値踏みして悪口を言う快があると書いてある。受け手がそうなら先方も同じである。何んだ、またこんなものかと悪口を言うのだから、勝負はまずつかない。私の兄は晩年に至っても、年賀状に家族写真を添えて送って来る旧友の無神経にいや気がさして、全く送らなくなった。私は未だに官制ハガキは5円という時代の感覚と知識しかない時代遅れの人間だが、送らない習慣の者にとって、今の値段を知って改める必要はないから、これこそ知識にするに値しない。「旧年中は何かと云々」も、実は心のカケラもこもっていない。くどいが趣味である。たかが一年一回の年賀状とは言っても、気づくと歳月を経て、枚数がたまる。状差に残しておいても、あふれんばかりになり、十年も経てば古新聞と同じく、あれは年賀状のミイラ、死体である。私は受けるたびにゴミ箱へ捨て、ごみ出しで処分している。好きな者は末永く書き続け、送り続ければ良いから、文句はないが、話を変えれば、便せんに自筆でしたためた封書の中に、往時を偲び、文面の巧みさと達筆さを惜しいと思い、必ず大事にしまってあるものがある。あるいは、失恋したわけではなく、先方が結婚し、やり取りが途絶えた封書の中にも、捨てがたいものがある。何より、自らの手で書くから、実際は達筆でなくとも、当時を思い出し、懐かしむことが出来る。この達筆という言葉も、今や死語と化していると察する。この点、母は達筆か否かを判断出来る一人であった。母に反論するではないが、私は字の巧拙は気にしない。ていねいに書いたことがわかれば、文章の巧拙も気にならない。もちろん程度問題だが。便せんにしたためるには、自然、心がこもる。送り手の人柄、その時の心境が垣間見えて、明け暮れの無事と息災を応援したくもなる。こういう習慣も多分途絶えつつあるか、途絶えているのだろう。電子メールなぞ到底及ばぬ見事なものだと思うが、そう言う私自身、つづり送ることがなくなって久しい。
2016.11.04
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御殿場、杉原(すぎばら)自衛隊官舎、つかの間の銀世界。十数棟写っている家屋群は2所帯が隣り合う長屋形式。この画面から右へはずれたところに、一戸建ての官舎が3棟あり、私たち家族は、途中からこの少し広い家に移った。神童・井元(いもと)君のことを書く前に、彼の思い出とかかわりある「海底人8823(はやぶさ)」に関係する思い出を書いておく。何しろあることないこと、つづって来たから、もはやホラ話と思われても一言(いちごん)もないが、私は学生時代、黒沼健(くろぬま・けん)氏と電話で延々一時間近く話したことがある。どこの誰ともわからぬ、得体の知れぬ若造が、作家の家(うち)に電話をかけて、まともに話相手になってもらえることは、まずなくて当たり前である。ものには偶然ということがある。たまさか、機嫌の、虫の居所の良かった時に電話し、その言葉遣いも細心の注意で、ていねいに話したことも幸いしたかも知れない。間違っても「マジすかーっ ! それって、超ヤバイッつーか、凄いっすねえ ! 」などというバカっ言葉は無論用いないし、だいたい当時――昭和50年前後でさえ、そんな愚かな言葉は存在しなかった。ついでに言うと「目線」などという超バカっ言葉の湯桶(ゆとう)読みも存在しなかった。これは映画撮影所など、喧騒の中で作業せねばならない場所で、便宜を図って作られ広まった業界用語である。私が目下認める湯桶読みの一つは、「手本」である。何百年の時を経て生き残れば、不自然な湯桶読みが、自然のまともな言葉になる。読み方と言えば、これも思い出す一つだが、「鉄腕アトム」の主題歌を作詞した詩人・谷川俊太郎氏でさえ、時代迎合の翻訳をして、吉行淳之介氏に見事に批評されている。私はろくに本を読まないから、名前は忘れたが、その昔、著名な作家が、ある外国の詩を「もしもし、そこなお娘御・・・」と翻訳した同じ箇所を、谷川氏は「もしもし、そこの可愛い子ちゃん・・・」と翻訳した。これをめざとく見つけた吉行氏が、「新しい言葉は、その部分から既に古びてゆくものだ」と喝破している。今、チャーミングな娘をつかまえて「可愛い子ちゃん」とは言わない。だが、「目線」は言葉にこだわりのない圧倒多数があちこちで使っているようだから、私はかなり孤立に近くなる気がする。話を戻す。怪獣ファンなら、東宝昭和31年作品「空の大怪獣ラドン」をご存知と思うが、原作者は異色作家の黒沼健氏である。私は電話口の向こうの黒沼氏に、出来るだけ敬語を使って、思いつく限りの質問をしたが、黒沼氏はよほど機嫌が良かったとみえ、まだコンピュータのない時代、劇中の電子計算機さえ、想像上のものでしかないところ、優れた数学力で、ラドンの卵の殻の破片の大きさから、全長を推測して、のちに算出された数値が推測の値にかなり近いものと判明したことを、誇らしげに語っていた。このエピソードは、あるいは怪獣ファンには周知のことかも知れないが、私の学生時代は、まだまだ東宝怪獣映画の情報は謎に包まれたままのものが多かった。ついでに、黒沼健氏の本名も教えてもらい、これは氏の著書の奥付のページに記してある。さらに、黒沼氏が旧制第八高等学校、すなわち八高出身ということは知っていたので、大学は「名古屋大学」ですかと問うと、「いえ」と打ち消して、東京帝国大学だと答えてもらった時は、さすがだと驚いた。さて、この黒沼健氏は、テレビドラマ「海底人8823」の主題歌の作詞者でもある。実は私はこの見事に科学をイメージさせる歌詞をフルコーラス覚えることが出来ず、比較的なじめる一番だけしか歌えない。だが、この一番の歌詞には、その時代を反映する音の周波数の数値が出て来るから、未だに「ヘルツ」が嫌いな私は、この「サイクル」という周波数すなわち振動数の単位が懐かしくもあり、好きである。正義の味方のドラマ「海底人8823」の主題歌一番を書いておく。「♪ 誰の耳にも聞こえない、3万サイクル音(おと)の笛、その笛吹けば、飛んで来る、8823謎の人、8823海底人、正義の勇者だハヤブサだ」この歌詞でわかるように、昔の、つまり昭和30年代の正義の味方のドラマ主題歌は、ほとんど皆勇壮な響きがある。これを少年合唱団が歌うから、なおのこと心躍る思いに浸れたのかも知れないが、時代の宿命としての、ドラマ自体の稚拙さとは裏腹に、リズミカルな旋律に、勇壮な歌詞が見事に合っていた。なお、これは田舎者の私の勝手な決めつけかも知れないが、これら正義の味方のドラマ主題歌は、二大少年合唱団とも言うべき二つが圧倒独占していた。西六郷少年合唱団と上高田少年合唱団である。聴いていても区別がつかず、いずれも甲乙つけがたい勇壮な歌いっぷりで、生理的快感さえ覚えた。正義の味方がスーパー・ヒーローと横文字に改名されて久しいが、新しい時代のドラマに親しんでいる人々には申し訳ないと承知で書くと、私は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」の主題歌は、悪いとは思わないが、昔日の胸がワクワクするような冒険活劇の主題歌には数段劣ると断じている。たとえば「鉄人28号」には、私の知る限りでは実写版と、のちに有名になったアニメとがあるが、主題歌はいずれも見事に勇壮な感じである。まずアニメのほうをワンコーラス書くと。 「♪ ビルの街にガオー、夜のハイウェイにガオー、ダダダダダーンと弾丸(たま)が来る、バババババーンと破裂する、ビューンと飛んでく鉄人28号、手を握れ正義の味方、たたきつぶせ悪魔の手先、敵に渡すな大事なリモコン、鉄人鉄人はやくゆけ、ビューンと飛んでく鉄人28号」さて、もう一つあるが、実は昭和30年代当時は、ものによっては冒険活劇をラジオで放送し、テレビ化し、映画化もしたから、これから書くものが「何版」かはわからない。書いてみる。あるいは歌詞の一字一句正確なのかも自信はないが、やはり一番だけ書くと、およそ以下のような歌詞だった。「♪ 鉄のヨロイに身を固め、きょうも飛びゆく大空へ、見よそのスピード、その勇姿、爆音とどろくロケットは、ああ僕らの鉄人28号、ゆけ、ゆけゆけ、僕らの鉄人28号」そろそろ神童・井元(いもと)君の話に戻らねばならない。だが思い出すと、連想が連想を呼び、つい横道にそれてしまう。ともかく、余りに優秀過ぎて、ねたむ気持ちも起こさばこそ、かえって素直にさわやかさを感じた彼のことは次第に書いてゆく。井元君は、小学2年当時、自家中毒を持っていて、よく学校を休んだので、給食のコッペパンを届けるのは専ら私の役目だった。「井元君ッ ! 」と玄関で声をかけると、たいてい本人でなく、お母さんが出て来た。ある時、今は亡き私の兄が、「世界伝記全集」の皇帝ナポレオンが載っている巻を母と私の前でひろげて、「井元君のお母さん、どうも誰かに似ていると思ったら、ほら」と肖像画のような絵を見せてくれたことがあった。たちまち母が笑い出したが、そのままおかしがるわけにもゆかず、「全くあんたは、悪い子だねえ」などと、付け足すようにとがめたのが懐かしい。 長屋形式から引っ越して住んだ一戸建ての官舎。ちなみに長屋形式の番号はG50-2、一戸建てはD27。もちろんいずれも現存せず。それ以後、私は再び三たび欠席した井元君の家を訪ねては、兄の見せたナポレオンの姿を井元君のお母さんにダブらせて、実はおかしいのではなく、不気味さを覚えるようになった。怪談的と言っても良い。私の薄れ行く記憶の糸をたぐると、井元君の家は暗かった。これは雰囲気が暗いのではなく、単純に光が余りささずに暗い印象だった。いつものように「井元君」と声をかけると、暗がりの奥から、皇帝ナポレオンを思わせるお母さんが、何か地味な色のショールのようなものを肩から胸の辺りまで巻きつけて、滑るように現われた。やや緊迫の瞬間であった。そしてお母さんは「ホホホホ・・・」などと不気味に笑ったわけではないが、ショールだかマフラーだか、そんなものを巻きつけて、腕組みしながら、やや腺病質な感じに見える姿を現わした。なかなか独特のムードを持つ婦人だった。ちなみにお父さんは、私を頭が悪く、特に不器用な子供だと見破ったせいか、人を見下す態度が不愉快だった。井元君のお母さんは、その日の井元君の症状を詳しく話してくれたので、元々余り体が丈夫ではなかった私は、やや胸が悪くなる思いをこらえて聞いたものだ。だが井元君が回復して、ひとたび教室に現われると、風景がガラリにぎやかになった。クラスの数人の女子が「オルガン弾いてえ ! 」と、休み時間に彼を追い回すのだった。井元君は、当時テレビ放映されていた正義の味方のドラマの主題歌をすべてアレンジさえ交えて、勇ましいメロディーをオルガンで再現することが見事だった。そのうちでも、一番勇壮に弾いて、しばし皆を魅了したのが「海底人8823」の主題曲だった。放映たけなわの頃だったかも知れない。私と同年配で、この歌を覚えているかたは、その初めの伴奏のところからオルガンの音色にかえてイメージされたい。これは全く聴きほれる奏法であった。やがて学年が上がり、いつしか彼ともクラスが分かれると、――これは私のように昔も今も特定の友人のいない出来損ないに特有のことだったかも知れないが、クラスが違うと、友達の如き親密さが薄れて、登下校のわずかな道のりも共にしなくなるし、学校ではなおのこと、休み時間に一緒に遊ばなくなる傾向だった。さらに歳月を経て、私は小学校卒業を間近に控え、雑誌「少年」最後の三月号を、そうとも知らず、毎月届くものと思って余り意識せずに、ながめたり、また軽く畳に放り投げたりして、退屈な日々を過ごしていた。そんなある日、一通のハガキが届いた。差出名は井元君だった。実にのんびりしたもので、私はこの時初めて、彼がもう御殿場を去って、神奈川県に引っ越したことを知った。文面は、私立中学受験首尾よく果たし、当時の少年の感覚では遠く神奈川の地に去った彼が、訣別と共に、合格した中学のことを告げる内容だった。「栄光学園」との校名のところだけ、字を大きく書いてあり、それを説明する如く「ここだけ字が大きくなっちゃった」と書いてあったが、この頃と前後してだったか、自衛隊が主力戦闘機として配備したロッキードF-104 Jの和名か愛称が「スター・ファイター栄光」だったので、「変な名前の学校だ」とだけ思い、返事のハガキ一つ出さずにいるうち、いつしか彼のことも忘れていた。のちに、とりあえず県下有数の進学校・沼津東高に進んで、全国の強豪を知るようになる頃、栄光学園が我が校をはるかに上回る進学校と知り、かつての神童・井元君への思いを新たにしたものだ。「神童・井元君 追加」井元君は、わずか小学二年で、既に「エリーゼのために」・「乙女の祈り」を軽々弾く天才でした。確か学芸会で、ピアノ独奏を聞かせたのだと思います。自宅にもピアノがありました。しかし、彼の非凡を物語るのは、音楽のみでないことです。算数、いえ数学に優れた才能を見せ、のちに東大に進み、今や某国立大に於いて物理学の教鞭をとる立派な教授と仄聞しました。
2007.03.19
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多くは言わない。このキチガイを早く逮捕し、罰してくれ。たかが車というが、これに乗ることで「あおり」とケンカをただ一つの生きがいとしていたバカ者にとって、厳しい法律が整備されつつあるのは、実は無念なのではないかと思う。このヤカラがうようよいるのだ。あおって威嚇して、あまつさえケンカして、腕っぷしの強いことを誇示したいのだ。もちろん頭はカラッボ゜。学歴とは無縁もいいとこ。こういうバカが車に乗り、なぜかこれまたクソ出しバカ女を伴ってる。女もクソ女。殺してもかまわぬと思う。俺は束の間北朝鮮の金正恩になって、いきなり死刑の判決を下して、このバカに中学数学の図形の証明でもやらせ、当然解けぬバカなので、銃殺を命ずる。迫撃砲で木っ端みじんにし、連れのスマホかなんか撮ってたクソ出し女は、男のなぐさみものにして、最後は野垂れ死にさせる。親もバカに違いないから、憐みなぞ不要。こういう時代にこそ必要なのが、大山倍達氏のような人。かつて、校内暴力を憤り、「私が教師だったらタダでは済まないよ」と著書で書いていた。かのキチガイが万一大山倍達氏とトラブったら、これは逆の意味で傑作なニュースになった。
2019.08.14
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優秀な科学者・発明家を擁する国家ドイツが第二次世界大戦末期に開発したと噂されるUFOの実写画像。1/35の縮尺だと、ナチスUFOの初期型の直径二十数メートルのスケールにはならず、パースペクティブ(perspective)――遠近感も出ません。このスケールではUFOは直径9メートル大にとどまる。1/35スケールのまま、兵隊フィギュアを増やしてみました。スケールが小さいうちは、どうしてもUFOは9メートル大にとどまります。フィギュアはプラモデルの残りを漁って間に合わせた旧陸軍戦車九七式のパーツ。身長160cmとみると、フィギュアのサイズとほぼ合います。なお、完成段階では、当時の「ペーパー・クリップ作戦」でアメリカにおおぜい亡命したドイツ軍の将校、科学者、技術者を配置するので、軍用ジープなどもアメリカ製を中心に、いろいろ混ぜようかと思います。スケールをせめて1/48に拡大したいので、Nゲージなどを検討してみます。
2019.08.14
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『セクシー女優さん礼賛及びAV作品礼賛』☆ピックアップ作品☆伊織羽音(いおり・うた)さんに見入る ! 演技か自然か ! ? セリフの軽妙さと飾り気のない所作が光る ! ! 2023/01/17開始異性の好みは人それぞれである。ゆえに私は己れの好みで書く。それにしても、AV作品はVHSテープ版で売り出された頃よりも格段に進歩した。何より女優さんが質・量ともに充実して目移りするばかり。殊に、いっとき我が世の春と言わぬほどに、視聴率を誇った地上波トレンディー・ドラマは姿を消し、活躍していたヒロインを今見ると、「ルックスの良いセクシー女優さんに劣るのではないか」と評価したくなるほど、たいした器量ではない。その一方で、気になる事実がある。車やバイクで走行すると、当然ながら赤信号で停止することも少なくない。この時、すぐ近くの歩行者専用信号で立ち止まって待つ女子高生の姿がよく目につく。自転車に乗っている娘さんもかなりいる。かつて己れが中高生の頃は、同じく中高生の女子を見ても、わざわざ品定めなぞしなかったし、チラと見ても「十人並みだ」と無造作に評価する程度だった。だが今この老いた年齢になると、容姿容貌ごく水準的な女子高生でさえ、「顔立ちが整ったいい娘(こ)だ」と好意的に見るようになった。不細工な己れに比して、見事に端正に生まれ育ったものと感心するのである。殊に紺色のブレザーの上着に同じく紺色のスカートまたは紺の上着にチェック柄のスカートと、上下で異なる色・デザインの制服に身を固めた娘さんが自転車をとめて信号待ちする姿は、かなり絵になっていると感激さえする。「眺めるぶんには罪にはならぬだろう」と、ついわき見しがちである。マスクをする娘さんもかなりいるが、私が気づいたのは例のウイルス騒ぎの前である。近頃は、女子高生が一人ではなく、黒の学生服の若い男子と連れ立って下校する姿も見かけるようになった。ここで妄想が独り歩きを始めそうになる。「高校生の年頃で既にカップルであれば、ただ一緒に下校してどこかでさよならしてそれぞれの自宅に帰るばかりでもあるまい。情交体験の年齢は中高生くらいから始まっても何ら不思議ではない」さよう。そうである。セクシー女優さんの中には中学で経験済みという例も珍しくない。相手の年齢が釣り合っていることが多いというだけのこと。そして、この世界の女優さんの中には、おとなも驚くほど、早く激しい経験を持つ人もいる。このことで言えるのは、女優さんたちの品性下劣ではなく、表に出さぬ一般の婦人たちも、人に隠れて何をしているかわからないということだ。私は所帯を持つ若い婦人がおめでたとわかると、無事の出産をよそながら願うくらいの気持ちはあるものの、全く別に「お励みになりましたねえ、奥様」と冷やかす気持ちにもなる。夫と起居を共にするだけで子供を授かるなどということは当然なく、恐らく新婚まもなくは、その行為に励んだことは想像に難くないからだ。世間は「おめでた」と言ってねぎらい、称えて、それきりだが、私は何回目にヒットしたのか、ともかくせっせと毎晩、またはひんぱんに共々嬉々として臨んだわけだとしか受け取れない。それでいて、この行為を積極的に楽しんでいるとは限らないともみている。子供が出来ると夫婦いずれも互いに対して冷めるともきく。行為に興奮することも少なく、子供が出来ればさらに冷めるというのでは、夫婦とは家庭とは何ぞやと首を傾げたくなるのだ。結婚し子を授かり、家族として暮らしていく婦人を見る時、その根本に好色がないものかと怪しむのが常だ。普段、すました顔をしてごく当たり前の世間話に興じているのを見るにつけ、本当は好きものに違いないとみる。現にこの私のような不細工でつまらぬ男にも、不倫体験がザっと二つある。相手の婦人は、例外なく「こういうことするの、好き ! 」と正直に言ったものだ。日常に刺激を与えるきっかけがあれば、およそ婦人の半数は不倫に気持ちを向けるようになる。この半数という数字は脳科学者の中野信子先生が複数の人の50%が不倫体質だという意味のことをおっしゃっていたからだ。ただし、初めにも書いたように、好みは人それぞれだから、誰でも相手に出来るわけではないことになる。だがここに己れの本性をごまかすレトリック(修辞法)が働くチャンスが出来る。「こんなこと、私は本来的に好きではない。興味もない」とすました顔で打ち消すふりが出来る。己れの好みに合う相手が現われれば、気持ちは欲望昂揚に向かおうが、「私はそんな女ではありませぬ」というフリが出来る。しかし本音は正反対。その本性を巧みに創作の世界に暴いて見せてくれるのが、AVであると私はみる。このビデオ世界に描かれる物語はファンタジーである。現実世界ではほとんどが犯罪となるものばかりだ。妙な引っ張り方になるが、だからこそ、この世界が存在する。これにも婦人は多く興味が薄く、専ら哀れな男たちのためのものと見られがちだが、人間の半数は願望が強いというならば、かなりの率になるはず。ともかく現実は、容姿容貌整える女優さんが急増して、しかもなかなかの演技を見せてくれる。もちろん玉石混交と言う通り、セリフ棒読み、一本調子のお粗末な女(ひと)もいるが、どちらかというと、その美しさ・麗しさでデビューした女優さんの大部分が演技も見事で、きれいな容姿容貌に自然なムードの演技が加わって、堪能させてくれる。ただし、オーバー演技というのも問題があり、我々がいかなる事態に至っても、必ずそこまではしないいわゆるオーバーなセリフ回しで演技してみせ、シラケさせるパターンも無きにしもあらず。演技演技と言うが、もともとこれは我々素人が普段使う言葉や会話の言葉が基準であり、その延長上に役者の演技というものがある。それは必ずしも劇的なものでもない。早くからユーチューバーとしても活躍していた岡田斗司夫氏が見事に指摘なさっていたが、役者のオーバー演技が鼻につく話だ。例えば宇宙戦艦ヤマトに敵ミサイルが刻々迫る時、乗員が「艦長、あと10秒でミサイル本艦に命中しますぅ ! ! 」と迫真のセリフ回しと言いたいが、こんな切羽詰まった時、金切り声で報告するヤツなんていないよということだ。生死がかかった場面であっても、任務遂行が軍務であるから、「あと10秒、あと5秒」はあり得ぬというわけだ。そんなことわめく間に、ミサイル回避に努めるのではないか。これに対して、AV作品で見せる上手な女優さんは、この『淡々とした』と『興奮気味に』との境目をなかなか自然に見せ聞かせてくれるから、かえってリアリティが出る。世の中、「死んでもこんな世界になんか入るものか ! 」と、顔に出すいわゆる堅気の仕事で衣食する婦人が少なからずいるのだろうが、「他人に見られぬ場所では何をやってるのかね」と揶揄したくなる真面目人間ぶりが怪しい。この業界の女(ひと)を見下したいなら、子供の一人も生んでいないはずだが、多分かなりの数の婦人が必ず子供を持っている。本来、好色で、若い一時期は始終体が欲していたからこその結果がこうなのだ。さてと。能書きタラタラ書いたところで、この世界については必ず意見の賛否がつきまとう。ゆえにこれくらいで措(お)く。AV礼賛・セクシー女優礼賛については、既に比較的近い過去、二つほど書き、掲載しているが、作品鑑賞はほぼ毎日で、それによる酷使のためか、レコーダーのダビング機能が壊れてそれきりとなり、目下のところハードディスクへの録画だけは使えるのでめぼしい作品は続々録画し、録画モードも最大の15倍速である。私は確かにAVをよく見るし、お気に入りの出演女優さんの人数もどんどん増えているが、申し訳ないこととして、DVD作品は余り買っていない。専門のチャンネルとして、三局一セットのものを契約して視聴しているから、それで鑑賞には不自由ない。レインボーチャンネル・パラダイステレビ・チェリーボムの三チャンネルだ。いずれの局にも長所があって、満足出来ている。さらに言うならば、スカパー放映の番組は、レコーダーのハードディスクに録画保存し、再生時に好きな箇所でチャプターが入れられるのが重宝である。これに対して、市販されている製品としてのDVDは、AV作品に限らず、例えば私の趣味の一つである特撮映画のDVD版でも、市販品はチャプターが既に作られていて、自分のお気に入りの場所には入ってないことも必ずある。今回鑑賞したAV作品から、いよいよ一部シーンのセリフなどを抜粋して再現してみる。言い訳になるが、抜粋と書いた通り、俳優さんが演技したセリフのすべてを書き取ってはいない。欠くべからざるセリフを拾った。ドラマ内容はほとんど再現に近くはなっていると思う。タイトルはこのAV番組世界では定着しているが、かなり長い。『伊織羽音 取引先との飲み会で終電を逃した僕は、後輩女子の誘惑に負けて、種付け社内不倫をしてしまった。』伊織羽音は女優さんの名前で、「いおり・うた」さんと読む。ドラマは、取引先の企業との商談が首尾よく成立し、本ドラマに登場する某社の課長は、所をかえての飲み会の席におり、姿の良い新人OLと隣り同士に坐り、向かい合わせの相手企業の人たちの盃を受けるとの場面から始まる。取引先のお偉いさんのような社員も気さくにもてなしてくれるが、一人が「さ、新人さんも」と、とっくりを向ける。実は伊織羽音さん演ずるOLはお酒が得意ではなく、それを既に知っている男子課長が、表向きは「盃をいただくにはまだ弱輩過ぎて」と彼女をさえぎるが、実はこのOLの「酒苦手」を助けている。タイトルにあるのだが、伊織羽音さんは女優さんの名前であると共に、ドラマ内の役名にもなっている。このAV作品の世界では、例えば若妻の名前が「未帆(みほ)さん」と呼ばれるのなら、それは通野(とおの)未帆さんという女優が演じていることが少なくない。例外として、白鳥すわんさんが義父に弄ばれる役を演ずる作品で、「すわんさん」では通りにくいと判断されたのか、別の役名がついていたということもある。課長は勧められるまま、大丈夫かというほど急ピッチに盃を干し、現に横にいた新人OLの伊織さんが「課長、大丈夫ですか」と心配そうにささやくが、課長は莞爾(かんじ)として彼女に応える。場面かわって、まず軽い機械音がガーッと響いて来る。私はこの作品と伊織さんの魅力に参ってしまったからか、このドラマの細かい描き方に共感を以て接することが多い。何んの音かと画面を見ていると、先刻の飲み会で痛飲した課長がベッドに横たわり、すぐ隣で、伊織さんがドライヤーを使っているのだとわかる。課長「あ・・・、こ、ここは・・・ ? 」OL「わたしの家です」課長「え ! な、何んで・・・ ? 」OL「課長のお住まい、かなり遠いみたいなんで、わたしの家のほうが近かったし・・」課長「い、いや、そうだとしても・・・」OL「それに、こんな遅い時間に帰られたら、身重の奥様のお体にさしつかえるかと思って・・・」課長「あ、いや、でも、これはさすがにマズいよ」OL「すみません。わたしの稚拙な判断で課長にも迷惑が・・」課長「あ、いや、そんな、じゃあ始発を待つ間だけ」OL「ハイ。ぜひゆっくり休んでいって下さい」新人OL、伊織さんは「あ ! 」と思い出したように後ろを振り返り、「あの、これ、よかったら、これ、弟が家(うち)に泊まりに来た時に、置いていったものなんですけど・・・どうぞ」と、洗濯済みの男もののパジャマを差し出す。課長「ああ、ありがとう」OL「あの、お先に浴びさせていただいたんですが、よかったら課長もシャワーどうぞ」課長「あ、ああ、どうしようかな。じゃあ、お言葉に甘えて」脱衣場の洗濯機の中に、OLのブラジャーをみつけて手にとり、みつめる。・・・・・課長「シャワーありがとう」OL「あ、課長、ここ坐って下さい」課長「ああ・・・うん」伊織、課長の肩をゆっくり揉み始める。気に入った女優さんへの思い入れが強いのか、伊織羽音(うた)さんの静かな語り口が品があって、とても感じがいい。それにセリフのひとことずつが知性を感じさせて、これも作品の質の高さを思わせる。このムードが、のちの絡みのシーンとのギャップを否応なく与えて、ドラマは下劣感が薄くなっている。伊織「きょうはお疲れ様でした」課長「え、いや、そ、そんなことしなくて大丈夫だよ」伊織「肩ぐらい揉ませて下さい。本来なら新人のわたしがたくさんお酒を飲まなきゃいけないのに、課長がかわりに飲んで下さって」課長「い、いや、お酒が得意でない伊織君に飲ませるようなわけにはいかないから」伊織「課長はホントにお優しいですね」伊織、後ろから顔を近づける。気づいた課長は即座に離れる。課長「いや、むしろ僕が伊織君にお礼しなきゃいけない・・・家にまで泊めてもらっちゃって・・・」課長、照れ笑いか、女心に響くとも思えぬ笑い声を出す。伊織、チャンスと見たか、意を決したか、責めに入る。伊織「じゃあ、わたしのお願い一つきいてくれますか ? 」課長「うん、もちろん。あ、でも何んか買ってとか、そういうのはちょっと・・・僕、ほら、おこづかい全然ないからさ」伊織「わたしの肩を揉んでくれますか・・・」課長「え ! そんなことでいいの」伊織「はい」課長、「ああ、じゃあ」と肩を揉み始める。伊織は、揉まれるたびにまるで敏感なところを触られたように、「ン ! 」と、切なげな吐息をもらし、上体を身悶えさせる。もっとも、巨乳の伊織羽音(うた)さんなれば、課長が揉む肩のすぐ下に、豊かな胸のふくらみが目立つ。巨乳しか勝たんと言うつもりはないが、ここでは確かに巨乳は優位だ。伊織羽音(うた)さんの声の演技が品がありながらも、危うい予感を与える。ここで蛇足であるが、私が30代の時、ほんのしばらく付き合った人妻は、身長150cm大と小柄だったが、胸は100cmあったと言っていた。ただし、私が巨乳に余り感じ入らぬのは、この人妻の張りのある胸のふくらみが、軽く揉んでみると、空気の抜けかかったボールのように柔らか過ぎた印象だったからだ。私は程よく空気が満たされた弾力のあるものを想像していた。伊織「課長、ここも」と、言いながら、課長の手を胸に誘導する。課長はすぐに手を引っ込める。伊織のおだやかだが鋭いひとことが迫力とある種の凄みを感じさせる。つまり。伊織「お願い、きいてくれるんですよね」反論出来るとすれば「胸を揉むようなことまでは出来ない」と突っぱねられるはずだが、この場のムードではそれは野暮というもの。伊織はやや甘えるように、しかしキツいともとれる口調である。課長「え ! いや、でも」と、これがやっと。伊織は、またも課長の手を胸に誘導、そして課長はすぐ手を引っ込める。野暮と思ったか、どぎまぎしながら謝るが、伊織はさらに手をとって胸に触れさせる。課長は手を引っ込めるタイミングを失い、そこに伊織のとどめの言葉が。伊織「わたし、課長のこと尊敬していて・・・。いつか、こんなふうになりたいなんて・・・」課長「いや、でもダメだよ伊織君」伊織はゆっくり体の向きを課長のほうに向けて、顔を近づける。若く美しい伊織の顔が、唇が近づく。伊織は半開きの唇を重ねる。このドラマの特徴の一つだと思うが、濃厚な口づけのカットが目立つ。そして伊織羽音(うた)さんの口づけが、実に見る者を興奮させ気分を昂まらせる。伊織「会社にも奥様にも秘密にしますから」改めて、二人、向かい合って濃厚な口づけを交わす。唇を重ねて、離し、また重ねるというシーンが見事だ。伊織羽音(うた)さんの形のよい横顔の彫りの深さが魅了する。ここからは、お決まりのpettingつまり主に男子による女体各所への愛撫が続き、やがて、かつて「C」と呼んだ情交に至って第一ラウンドとなる。ただ、この一連の行為のシーンで特徴的なのは、常に濃厚な口づけが交わされるところである。伊織羽音(うた)さんはネットの公表ページなどでは、身長159cmと、日本人女性としてはまあ標準に属するが、メリハリのあるきれいなスタイルのためか、大柄にも見える。これはほかの女優さんにも言えるが、ちょっと見ただけでは長身かどうかわからない女(ひと)が多い。伊織さんのデビュー時のうたい文句なのか、「付き合っている彼氏がいるから出演は一本だけ」と、早くもファンとなりそうな男たちを寂しがらせることが書かれていたが、既に複数の作品に出演している。だがここで己れの独断を書く。もし私が既に執筆経験あるシナリオライターのはしくれだったら、ただいまリリースされている作品群はほとんどなじめない。まあ、何んとか鑑賞できそうなのはというと、伊織さんが高校生とおぼしき制服姿で出演する作品があって、「お ! 」と期待させてくれそうだが、この女子高生は大人の男に一物をしつこく味わわされるシーンがあるようで、これで既に興ざめである。これも偏見だろうが私は情交シーンは一対一しか認められないほか、かつて尺八と呼ばれた行為のしつこいのは嫌いだ。秘め事と言う通り、ひそかに行ない燃え上がるからいいのであって、唇も胸も局所も男たちに弄ばれてもシラケるばかりだ。さらに伊織さんがせっかく出演するのに、凌辱の内容に傾き過ぎるのも残念だ。私が今回セリフまで聞き取って書いたのも、彼女のセリフ回しや表情、そして演出に好みがピタリ合ったからだ。発売されている作品や予約作品の中から、もう一本ぐらい見つけてみたいが、彼女の価値を今回作品のように引き出せる良質な新作にも期待したい。この第一ラウンドのシーンを初めとして、好感が持てるのは、本作品中、伊織さんは「イッちゃう、イキそう、イク ! 」との決まり文句を全く言わないことだ。伊織さんは自然としか聞こえない喘ぎ声と身悶えの動きの演技で、見る者の心を捕える見事さだ。さらに、今回の新人OLと課長の不倫ドラマのもう一つの優れた演出は、一回目の情交シーンに『男子の一物をくわえる尺八シーンが無いこと』である。私事ばかりだが、私が経験した時代、フェで始まる横文字そのものが知られておらず、この手のオーラル奉仕は「尺八」と呼んだし、これは主にプロの女性の必殺技の趣があった。今や、仄聞したところだと、若いカップルの情交では、日本人の六割がこれを行なうという。「そんなこた必要ないよ」と言いたい。可愛い彼女の姿や声だけで十分一物は怒張するものだ。さて、ドラマ続きをまとめてみる。課長が新人OLを愛撫して充分潤わせたところで、二人はもはや一刻も早く一つに合わさりたい思いでいっぱいである。ところが。課長「伊織君・・・アレ・・・ないんだけどね」伊織「このまま、して下さい ! 」課長「え ? でも、それは・・・」伊織「このままがいいんです」課長「伊織君、ホントに何んにもつけないで入れていいの」伊織「はい ! そのまま入れてほしいです」課長「じゃあ、ホントにそのまま入れちゃうよ」激しい絡みが続いてこの手の作品のお決まりのように、女性が下になっての姿勢でいよいよフィニッシュというとき。噴火寸前ということを課長が伝えると。伊織「中に出して下さい ! 」課長「え ! いや、それは」伊織「いいんです。わたし、課長の・・・中にいっぱい出して欲しい」第一ラウンド無事終わって、二人とも汗だくで心地よさそうな脱力感に身を委ねる。伊織がポツリ「きょう、ありがとうございました」と告げる。課長の夫婦仲を壊そうという悪意の思いはないというムードだが、確実に二人は不倫を浮気をした。このあと、課長がまず一人で風呂の湯船に浸かっていると、ほどなく全裸の伊織がタオルで前を隠しながら湯船に入る。ここでようやく尺八の激しいのが始まり、伊織は「このままお口に出して下さい ! 」と、激しく咥える。この尺八シーンは、もう一つある。早朝出社した二人は、自分たち以外に誰もいないオフィスで、第二ラウンドをあっさりやって、さらに日ならずして後日だろう、サッパリした私服の伊織は、課長の家に招待されて来る。恐らくマンションだろう。お腹の大きい妻が食事の支度の手をとめてニッコリして伊織を迎える。若く美しい新人OLの噂を夫から聞いていて、彼女の優秀さを称える。だが妻はこの夫の話を単なる仕事関連のこととして聞いていただろうか。再び食事の支度にかかる妻の胸中や如何に。伊織は大胆にも、隣同士テーブルについたその席を離れて課長の真向かいに身を沈め、ここでさらなる尺八に入る。まもなく課長は大噴火して果てる。食事の支度をしていた妻は、にわかに軽いめまいを起こして、ベッドに横になる。この時の夫つまり課長の心配そうな看病の様子を、伊織はやや冷めた目つきで見る。妻が眠りに落ちるや、伊織は課長を誘い始める。ためらう課長に顔を近づけた彼女の言葉が鋭い。伊織「このままだと、わたしたちのことがバレて、全部台無しになっちゃいますよ」もはや彼女のするがまま。別室のソファで第三ラウンドとなり、濃厚な行為のうちに終わる。再びダイニング。何んとか妻の体調は一眠りで良くなり、この時お腹の子が動いた様子。「ママがおいしいものを作ってあげますよ」と腹をさすって微笑む。伊織はまた鋭い視線を課長に向ける。こういう場面、なにゆえか私は独身の伊織に、哀愁を感じずにおれない。たとえ上司の心をつかんだとは言え、社会的には彼女は不利だ。ここに私は我が国の一夫一婦制の不完全さを感じてならない。それはさておき。伊織はさらに顔をぐっと近づけて。伊織「出したくなったら、いつでもここに出して下さいね」これで画面フェードアウトしてドラマは終わる。本ビデオ作品の一般的評価がどうなのかはわからないが、この年までAVを愛好おかなかった私が、珍しく細かいチャプターまで入れて、録画・再生した一作なのは確かだ。なお、蛇足だが、ダビング機能が一度全く壊れたレコーダー、これがなぜか数日後、機能回復して、ダビング・スタンバイとなっていた。またいつダメになるやも知れぬと、あきらめていた作品を急ぎ二本ダビングした。最後に今回の伊織羽音(うた)さん主演の作品は、セリフなどをA4コピー用紙五枚にびっしり下書きして、本文にまとめた。それにしても、ドラマに登場するような素敵なレディが、男をあっさり誘惑してくれるはずがない。伊織羽音(うた)さんの煽情的な、蠱惑的(こわくてき)な誘惑を見るにつけ、現実は厳しいと我れに返るのみなり。★言葉の泉★【煽情】劣情を刺激すること。【蠱惑(こわく)】人の心をひきつけて乱し、まどわすこと。【蠱惑的】(その姿・動作に)心をまどわされそうな、あやしい魅力をたたえているようす。
2023.01.28
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若大将とすみちゃん(澄子) in 「太平洋の翼」2024/01/29開始既に2019年暮れごろにはスカパー放映の「太平洋の翼」のめぼしいと判断したシーンをデジカメ撮影していたが、意余りて筆進まずの歯がゆさを自ら感じて年月ばかり過ごしてしまった。東宝怪獣映画への大いなる興味は、予期せぬ新たな娯楽として『若大将』シリーズへの関心と、昭和36年(1961)作品「世界大戦争」で目を見張る思いで見た女優・星由里子(ほし・ゆりこ)さんへの憧れを再燃させることとなった。故・竹内博氏が「本作品の彼女の美しさは絶世であった」と書いたほど、田村冴子(たむら・さえこ)役の彼女は、その美しさを際立たせた着物姿も抜群に似合っていて、己れの住まう半径何キロ以内には望むべくもない希少な美人にすっかり心を奪われていた。終生、結婚には縁のない私の負け惜しみに思われても仕方ないが、一般庶民の多くは、男女ともに、かなり妥協の末に、お互いを『二人と存在せぬ理想の人』とは到底思えぬ相手と所帯をもって家族を営んでいる。ごくまれに双方共にかなり整った夫婦ものを見かけることはあるが、これとて、美男美女というほどではない。いずれも主役を演ずるに値せぬ容姿容貌だからだ。それゆえかどうか、わからないが、映画に主演する男女は、まあ間違いなく水準以上のカップルである。漫画、アニメなどにさえない若者役の設定で登場する者も同じで、高橋留美子さんの大ヒット作『めぞん一刻』でも、うだつの上がらぬ五代裕作なぞ、明らかに長身でハンサムに描かれている。だからラブストーリーというものは、ファンタジーである。現実には存在せず、ひたすら夢物語として見果てぬ創作に尽きる。さて。ところが、私の女優評価は礼賛には終始しない。偉そうに書くつもりはない。我が家では星由里子さんを礼賛するのは当時小学五、六年生だった私くらいで、しかも女優を綺麗だなどと口に出そうものなら、兄が妙に潔癖症というのか、「ブスは黙ってろ」と仮にも男の私にこの言葉をぶつけたことがあったから、まず言い出せなかった。そこへ来て、のちに再婚した花登筺(はなと・こばこ)氏と死別した時の喪服姿に、私自身違和感を覚えていたところ、母が「なに、この人 ! ずいぶん器量が落ちたねえ」とズバッと言ってのけた。私もそう思っていたのだ。若大将シリーズの頃は並外れた美形と映る見事な美人女優だったのに、死別後まもなく見た時は、老けたというより、顔の造作(ぞうさく)にかなりの変化が起こったように見えて、残念であった。しかしその星由里子さんも、70代半ばほどで病没なさり、まさしく『美人薄命』『佳人薄命』の通りになったと感慨深い思いである。星由里子さんがハリウッド女優などに優るとも劣らぬ美しさで魅力を放っていたことがあるのは、まぎれもない事実である。今にして思えば私は理論武装が苦手な人間で、主義主張はむしろ人一倍あるのに、己れの説を声に出して相手に伝えることがダメだった。大学の時も普通免許に関心がない私に兄が言った。「二十歳(はたち)にもなって車の免許一つ持ってないのはみっともないぞ」と。そして私は渋々教習所に通い出したが、ここで取得する見込みもその気もない未公認のところで、文字通り三日坊主に終わった。のちに、私が自動二輪免許と普通免許を共に取得した頃、私のオートバイを見て兄は「何が楽しいのか全くわからぬ、興味なし」と言った。この時私は口答えこそしなかったものの、兄にかげりを感じた。一応持ってて乗らないのならともかく、二輪免許そのものを持たない者に批判の資格なしと思ったのだ。あえて反論するなら「車の免許が社会人の常識でバイクはどうでもいいというのなら、必要なければ車も要らないのではないか」。これものちに、自動二輪免許を所持する人にある程度共通の特徴を知ってなるほどと思ったことがある。称える意味もあるので実名を出すが、元AKB48メンバーで、現在バイク女子としても活躍中の平嶋夏海(ひらじま・なつみ)さんは、お父様が現役のライダーであり、彼女がモトグッチの大型オートバイを購入し実家へ帰った時も、娘さんに誘われるまま、近くをこのオートバイで走って来て、親子で話に花を咲かせたと思われる動画があった。要するに『血』なのかと察するばかりだ。では私はどうかというと、父が若い頃、所帯を持ちながらも敗戦処置による『公職追放』で、思うに任せぬ就職事情下、複数の職業に就いて苦労した中で、のちの出光興産のガソリンスタンドに勤めた時期があり、この時オートバイの後部に石油缶などを積んで、当時はほとんど未舗装だった国道一号線を走った経験を持つ。私は父の遺伝子を継いだと思われる。新明和興業(現・新明和工業)がかつて販売したポインターエース(250cc)またも脱線してしまった。さて、ここで東宝昭和38年作品『太平洋の翼』に目を向けてみる。折しも若大将シリーズが軒並みヒットし続けていたが、私自身は昭和40年当時、中学一年生で、映画のラブロマンスもほとんどピンと来ない体質にとどまって、このシリーズものも、怪獣映画との併映作品としてたまたま見たにとどまる。しかし、私はこれとは別にフジテレビ系列で毎週放映の30分番組『勝ち抜きエレキ合戦』に夢中になっていて、特に趣味として今に続くドラムのリズム、ビートの妙に魅せられ始めていた。昭和40年は、キングギドラ二回目の登場となる『怪獣大戦争』を見に御殿場駅近くの映画館へ徒歩で出かけたが、この時併映の若大将シリーズが『エレキの若大将』で、この頃既に軽音楽の楽器をドラムのみに絞っていたかどうかは覚えていないが、沼津東高にかよっていた兄に加山雄三氏の『君といつまでも』、『夜空の星』収録のシングル・レコードを帰りがけに買って来てくれるよう頼んでいて、帰宅した兄からレコードを受け取ってうれしかった記憶がある。私が特に聴きたかったのは『夜空の星』であり、ドラムのリズムをまねて、両手の人差し指などで机をたたいて興じていた。映画『太平洋の翼』は昭和38年に公開済みだったが、見たい映画をすべて見せてはもらえない家庭環境であり、しつけだったので、当時兄が購読していた中一コース(学研)のグラビアページに鮮明に掲載された戦艦大和の巨大模型にくぎ付けになった記憶だけは今なお鮮明である。「東宝が新しく公開する戦争特撮映画のために、こんな巨大な戦艦大和を造ったのだ ! 」、グラビア写真を見て一目でここまで察せられた。この巨大模型、東宝では『太平洋の翼』のほか、昭和56年(1981)『連合艦隊』でも本格的な模型が造られている。スケールは関係書を調べる限りでは、『太平洋の翼』では縮尺15分の1、『連合艦隊』では20分の1の模型が造られていて、これを単純に割り算して、前者が17.5メートル、後者が13メートルである。『太平洋の翼』では、東宝が誇った特撮大プールに浮かべたばかりでなく、富士五湖の一つの山中湖にも浮かべて、さらにヘリコプターで空中撮影されてもいる。ただ、関係書の記述にも疑問が残る。書物により、『太平洋の翼』の大和は13メートルと書かれている。実物の大和の263メートルを基にすると、13メートル模型は縮尺20分の1となり、計算が合わない。これ以上マニアの一人としての検索には限界があり、新旧の戦艦大和模型の縮尺、サイズの正否を決するのは無理だ。さて、ここで記憶を改めてさぐってみる。私が初めて『太平洋の翼』を見たのはいつごろ、どこであるいは何んの手段でかということだ。確かに後年テレビ放映で見たかも知れないし、さらにのちにはスカパー放送の作品を複数回録画もしている。なお、蛇足だが私は録画した映像からDVDにダビングする時、以前はハイビジョン画質を選んでいたが、これはハッキリ言ってパナソニックの不親切に迷惑をこうむった。パソコン内蔵のプレーヤーで再生しようとしても、ハイビジョン画質でダビングしたものは再生不可能とわかった(パソコンは富士通のデスクトップパソコン、内蔵ディスクプレーヤーはCorel WinDVD)。これこそは経験的に学んだことであり、ソニーなど他社の機器との互換性に難があるのならまだしも、パナソニックが何年か扱っていた富士通のパソコン゛でも、そのような不都合が出たのは確かだ。なお、今はこの二社は契約をやめている。聞くところではパソコンの売れ行きが不調のようだ。恐らくより簡便なスマートフォンなどに多くが利用機会を移しているのだろう。私はかつて日本語ワープロにとことん慣れ親しんだ。そしてこれはパソコンに駆逐された。そして今そのパソコンが安価で使えるスマホなどに駆逐されつつある。あえて自慢めいたことを書くが、私は年来の文章趣味人間であり、それはよく言われた「読書習慣」ではなく、ひたすら書くことを趣味として続けた結果、脳中の思いを文章で記録し残す形でまとまった。しまった。また脱線した。もはやテーマはまとまりを著しく欠いてしまったが、急ぎ『太平洋の翼』に戻る。まず一つ言えるのは、これよりさらにおよそ三年前の昭和35年『太平洋の嵐』は映画館で見ている。味方の命(めい)による雷撃処分で空母飛龍沈没後の海中の山口多聞(やまぐち・たもん)少将と加来止男(かく・とめお)大佐との会話シーンに何やら不思議な感覚だった記憶がある。海中に没した空母飛龍の発令所と思しき場所の柱に自らを縛りつけた二人の亡霊が、前途への憂いを語り合うシーンだ。昭和38年の『太平洋の翼』ならばさらに見ていても何らおかしくないはずだ。ただ、戦争特撮映画は個人としてすべて興味を持ったわけではなく、たとえば昭和40年『太平洋奇跡の作戦・キスカ』は、恐らくモノクロ作品だったことが理由かも知れず、結果これは映画館では見ていない。『太平洋の翼』を映画館で見たかどうかは結局わからなかった。どこかでテレビ放映されたのを見たことにしてもよいが、なにゆえかひっかかる。昭和43年『連合艦隊司令長官・山本五十六』は、これは確かに父と車で沼津まで出かけて見た記憶がある。さらに昭和44年の『日本海大海戦』は一人で出かけて見ている。これは艦船しか出ない特撮映画と知って、ともかく見ようとの決意があり、多分映画館で見たのは私だけだった。高校二年の夏だった。旗艦・三笠の雄姿も脳裏に焼き付き、久しぶりに戦争特撮映画を堪能出来た満足感があった。しかし私の世代でも、我が国の対外戦争には興味がない高校生が多かった。ついでに書くと、同じ高校時代に見た「トラ・トラ・トラ ! 」も全く同じで、そのすぐ前に「シェーン」は軽く提案しただけなのに、全員で見たのだが、「トラ・トラ・トラ ! 」には全く興味を示さなかった。さていよいよ、昭和38年『太平洋の翼』に入るが、ここに掲載したかったのは、同時期に大ヒットを飛ばしていた若大将シリーズのことにもかこつけて書きたかったからだ。若大将・田沼雄一と澄子(すみちゃん)のことをどうしても連想するのは当然のことと言える。若大将が海軍士官ならば、すみちゃんは、束の間大東亜戦争時にタイムスリップした日本美人の典型で当然で、二人が会話を交わしながら基地の近くを歩くシーンは全く決まっていた。「よお ! ご両人っ ! 」と大向こうから声がかかりそうな名場面である。内地帰還の命を受けて、フィリピンから輸送機で飛行途中、滝海軍大尉(だいい)は、敵機の攻撃により、数名の部下を失い、さらに燃料切れのおそれ大なるにより、投棄出来るものを極力機外へ投棄と命じた。その中に玉井兵曹の遺体もあったが、機は何んとか危地を脱して、滝は内地に帰還した。ほどなく玉井の姉を名乗る婦人が訪れて、彼女・玉井美也子(たまい・みやこ)は、戦死の報は知らされていたが、今少し詳しく話して欲しいと告げ、滝は己れが行動した通りのことを語る。美也子は絶句し、両目に涙があふれかかるが、そのままひとことも告げずに、その場を立ち去った。以上が言わばもう一度描かれる美男美女二人のシーンの伏線である。星由里子さん演ずる美也子が、このまま二度と現われないはずがない。滝たち紫電改搭乗の精鋭パイロットたちが米艦載機相手に大活躍したあと、基地近くの静かなたたずまいの城址公園をゆっくり歩く滝と美也子の姿。いや、これは城址どころか松山城そのものなのだろうか。知識がなくロケ地情報も見つからなかったので残念だが、二人の背景の石垣は見事な巨大さで、石垣だけが残るいかにも城郭を失った城跡には見えない。ゆっくり歩を進めながら、穏やかに美也子が話し始める。美也子「先日は失礼いたしました。お呼びだてしたりして、申し訳ないと思ったんですけれど、お詫びをしないではいられなかったものですから。女の私(わたくし)にも弟の遺体をお捨てになったことがやっとわかるような気がして来たんです」滝「いや、わからないほうがいい」美也子「え ? 」滝「いつまでも僕を憎んでいてくれたほうがいいんです。僕を許そうとして、あなたの戦争への憎しみまでがぼけるのが困るんです。心の優しい女なら、僕を憎まないのはウソです。しかし僕は憎まれても戦う。憎まれれば憎まれるほど、戦う勇気が湧いて来るんです。美しい日本の風土の中に優しい日本の女の心が生きている。僕はそう信じて戦いたいんだ。その美しいものを守るためにも戦いたいんだ。僕を許してはいけない。憎んでください」美也子(かぶりを振る。そして滝を見つめる)「・・・」滝(さすがに照れたような顔つき。そりゃ、こんな美人に見つめられたら・・・)「・・・」美也子「死なないで・・・死なないでください ! 」そう言うと彼女は走り去ろうとするが、その挙止は映像では見せない。美女を慮(おもんぱか)ったかどうかは知らないが、少なくとも演出上の効果を期したのか。今度も別の意味で美也子は泣き出しそうになっていたのではないか。滝は照れたように伏せていた顔を上げて、美也子の姿を(多分)追おうとするが、これが本作品上の二人の最後の待ち合わせの場面となる。滝の言葉もまあ我々普通のまたはそれ以下の顔の造作レベルの者たちが言葉にはとても出来ないキザな文句だが、美男美女の会話ではかなりかっこよく聞こえる。私なんぞ最後は思わず「すみちゃん ! 」と軽く叫びたいもんだと思いもしたが、現実には星由里子さんはまこと、今昔に共通する結婚を選んでいる。昨今の女子アナなぞも、プロスポーツ選手と結婚する女(ひと)、医師と結婚する女(ひと)、実業家と結婚する女(ひと)だらけで、ほんっと、その通りだと認めるにやぶさかでなくなりますね。しかも縁に恵まれずに離婚したとしても、もう次のチャンスが必ず待っている。要するに高収入の男と結婚するに決まっているということ。間違っても、保育士と結婚した音無響子さんのようなことはしません。『めぞん一刻』は創作世界にしかあり得ないファンタジーです。姿の良いセクシー女優さんがさえない男に本気で迫ってくれるAVと同じ世界です。ついでに書いとくがほんっと、セクシー女優さんたちの美人度・美形度・清楚さ・上品さ、さらに少なからぬ女優さんたちの知力の高さ、例えば学歴は大卒が珍しくない昨今である。話を戻して最近近くの例で言うと、テレ東一番の美人アナウンサーと称えられた角谷暁子(かどや・あきこ)さん。少なくも私は彼女を初めて画像などで見た時、その美しさとさらに美しいうえに可愛いと思わせるルックスに圧倒されました。お相手はただ医師というのではなく、開業医として医療法人経営に敏腕をふるう勝ち組中の勝ち組男。角谷さんの人生選択は当然と言えるほど正しい。またも変なムードに引っ張っちまった。いや言葉遣いが乱れた。軌道修正、ヨーソロー!そう言えば、映画も前半部を過ぎ、佳境にさしかかる頃、味方の戦死などでいら立っていた滝が突然離陸出撃せんとして、上空であっけなく敵機につかまり、あわやという時、味方機の敵機撃墜に救われるシーンがある。滝は「ありがとう、誰だ、名乗れ」と命令口調だが、横に並んだ味方紫電改の窓から千田司令が「バカ者 ! 」と怒鳴り𠮟りつけながらも、滝を誘導して助けるシーンに胸がすく。世界のミフネと呼ばれた御大・三船敏郎氏に加山雄三氏との組み合わせもぴったりに映る。千田司令は言うまでもなくモデルとなったのが、これも大東亜戦争をおおよそ知る人には周知の源田実(げんだ・みのる)氏である(なお旧字体表示では源田實氏)。東宝戦争映画は、実在の人物をモデルとして、劇中には造語による名前を使うことが目立つ。もちろん、連合艦隊司令長官・山本五十六氏などは実名のままであるし、その他にもいくつもある。創作された名前から実名をさがすのもまた一つ勉強になる。この二大スター俳優共演のシーンから千田司令のセリフを抜いてみる。千田司令「列機を操縦する方法を教えてやる。血気にはやって独断専行、勝手な行動をとる奴は、容赦なくぶっ放す。こうやるんだ。わかったか」叱られた滝もニッコリして「はい」と返す。千田司令「帰れ。松山基地よーそろー」またこの映画では制作スタッフ曰く、『ヘルダイブ』と称されたかなりハイレベルな操演が使われていて、東宝特技陣の自信のほどがうかがえる。と書きつつも、私はヘルダイブなる操演方法がよくわからず、劇中の飛行シーンからあえて推測してみたが、正しいという確信も何もない。ただ素人考えながらも、編隊機と離脱機を同一画面に一気にとらえた見事なシーンがあるので、正確との自信がないままだが検討してみる。★ヘルダイブの操演★飛行機の編隊を見せるだけなら複数の模型をピアノ線で吊って撮影すればいいが、編隊機はそのままの姿勢にしておいて、ダイブする飛行機を一機また一機と編隊から離脱するように見せるには、操演用のクレーンを少なくも二つ用意しなければならない。「東宝特撮映画全史」より、映画「太平洋の翼」のヘルダイブ操演と思(おぼ)しき画像。編隊機は右から左へと進む。編隊機用のメインのクレーンがまず一つ必要だが、ダイブする飛行機用のクレーンを、メインのクレーンの先端部に取り付けて、先端部を円の中心にして、ここに吊るした模型を一機ずつ動かして、編隊から離脱してゆくように見せる。離脱機は主翼を大きくバンクさせて視覚効果をたっぷり見せるために、飛行機を水平に吊るやり方ではなく、編隊機と同じく、模型を例えば図のように吊って、カメラも横にして撮影する。ここで主翼を吊ったピアノ線を回転させると、カメラのファインダーには、翼を左右方向にバンクさせるように見える。ヘルダイブ操演シーンを映画の画面から90度回転して再現した画像。実際の撮影ではこのように吊ったと思われる。文献画像などを参考に、下手ながら手描きでヘルダイブ操演のピアノ線の吊り方などを推測して描いたイラスト。カメラはこちら側から、機械を横に、この場合は左に90度傾けて撮影と思われる。とりあえず、私が実際に鑑賞した『太平洋の翼』DVDから「ヘルダイブ操演」と思(おぼ)しきシーンを例示してみたが、この方法は様々に技術進歩して、複数の方法が確立されていったとも察しられる。かつて特撮映画の特殊技術は言わばトップシークレットで、必ず公表、周知されないものだった。私たち特撮ファンもそれで当然と承知していた。この流れに革命的とも言える変化をもたらしたのが竹内博氏、池田憲章氏(お二方ともに故人)である。特に竹内博氏は円谷英二特技監督の偉業をたたえ伝え、池田憲章氏は東宝特撮の技術面を関係書を通して、巨細に述べて下さった。どちらかというと、怪獣映画に傾くきらいのある竹内博氏に比べて、池田憲章氏は、戦争特撮映画に言い及ぶこと少なからず、東宝特撮、円谷特撮の奥深さに迫ることが出来て楽しかった。CGがあれば特撮なんぞ何んでもござれと、まるでかつての特技陣苦心の特殊技術を時代もの、時代の遺物扱いする者がいるようだが、結果の巧拙にしか興味の持てぬバカ者と言えよう。この者にどんな性質、特徴があるか、わざわざ調べたはずもないから憶測しか出来ないが、まあ結果主義、実利主義であろう。明らかな特撮画面を見て、極めてリアルに仕上がっていたら是とするのだろう。ただ、私見を述べるなら、初めて「スターウォーズ」を見た時、冒頭の巨大宇宙船の、いつ果てるとも知れぬ船体が長く続き、ようやく最後尾が現われた時は確かに見事だと感心したが、戦闘シーンで、数々の戦闘機がヒラリヒラリと身をかわして、光線などを発射するシーンは、見続けるうちに「何か平面的だ」と思えて来た。同じことを、後年『東宝戦争映画編 特撮映画大全集』の編者が書いていた。CGばかりの特撮シーンは平面的な質感を残さざるを得ず、アニメっぽくなる。いっぽうミニチュアには立体感がある。もっとも昨今はアニメばかり見て、観察眼が初めから無い者がいる。私はディズニーが描いた動きのしなやかなフルアニメを知っており、鉄腕アトム以降、粗製乱造されたテレビアニメのぎごちない動きに辟易して、中学二年くらいには、アニメを一切見なくなったものであるので、テレビアニメのリミテッドアニメに体質が合わない。かつて日本の東宝の特撮をはるかにしのぐと言われたレイ・ハリーハウゼンの特撮も、迫力を感じたのは最初だけで、ここに現われる恐竜や怪獣ことごとくが、モデルアニメーションの限界から逃れられぬ『ぎごちなさ』で画面いっぱいにガクガクして動いているから、遂に目障りに映るようになった。どうやらアニメにどっぷり浸かった世代にはこれがわからず違和感を覚えぬようだ。一種の鈍感とみるしかないのか。またしても脱線した。もっともアニメ制作技術も長足の進歩を見せており、今やフルアニメ、リミテッドアニメという二大別は時代遅れとも承知せざるを得ない。かつてセルロイドに直接描いて彩色していたアニメ―トも、CG(コンピューター・グラフィックス)の発達により、パソコン上でデジタル彩色を行なうことで例えば直接着色することによる乾燥までの時間経過や色調補正などが省力化されている。いい加減横道にそれてばかりで、駄文羅列が著しくなっているので、またも軌道修正する。若大将コンビのシーンも良かったことに加え、本作品では戦艦大和の沖縄特攻とは無関係な松山の紫電改を絡めて、創作ながらも心に響く感動を呼ぶシーンも作られている。このあたり、徳川時代の史実に創作を巧みに加えた東映時代劇とダブる感じもある。松山基地の紫電改は十機余りの編隊を組んで戦艦大和を見送りに出かけるが、千田司令の命じた通り、定刻に達する頃、まず加山雄三氏演ずる滝大尉(だいい)が大和の武運長久を祈りますと機上からあいさつすると全機遠ざかって行ったが、このうちの安宅(あたか)大尉(だいい)・稲葉上飛曹・水野二飛曹・丹下一飛曹の四人が、編隊を離脱して行く。再び戦艦大和上空に飛来した四機の搭乗員が、対空無線により、官氏名を告げる。このシーンではそれまでのマーチ「敷島艦行進曲」に代わって、おなじみ「同期の桜」(メロディーのみ)が流れる。映画鑑賞をいくらしても、さすがに官氏名の正確な聞き取りはきついので、ハードディスクの字幕をオンにして何んとか書き取った。以下に記しておく。「大阪府南河内郡(みなみかわちぐん)道明寺町(どうみょうじちょう)出身、海軍大尉(だいい)・安宅信夫(あたか・のぶお)」(夏木陽介氏)。「福岡県宗像郡(むなかたごおり)玄海村(げんかいむら)出身、海軍上等飛行兵曹・稲葉喜平(いなば・きへい)」(西村晃《にしむら・こう》氏)。なお、西村氏は大東亜戦争中、本当に特攻隊員だった。「島根県那珂郡(なかぐん)弥栄村(いやさかむら)出身、海軍二等飛行兵曹・水野健一(みずの・けんいち)」(新野悟氏)。なお、正確な読み方がわからないので、漢字のお名前のみにしました。「千葉県夷隅郡(いずみぐん)長者町(ちょうじゃまち)出身、海軍一等飛行兵曹・丹下太郎(たんげ・たろう)」(渥美清氏)。終わります。―了―資料・参考文献等 「東宝特撮映画全史」、「東宝戦争映画編 特撮映画大全集」 東宝昭和38年作品「太平洋の翼」ビデオ(日本映画専門チャンネル放映版)星由里子さん(映画「太平洋の翼」公開の昭和38年1月の時、星由里子さんは弱冠19歳の若さでした)
2024.02.12
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『兄による数学指導』の想い出 2024/01/24開始2003.12.23お兄ちゃんやーい。 加筆訂正再録カテゴリ:数学・数式12月23日 火曜日 天長節あえて固い内容にしてみる。勉強の話である。私は友人を一人も持たぬ者である。むしろまだ世の中のことが何が何だかわからぬ小学校低学年から高学年までのうちは、言いたい放題したい放題をして、友の如き者、更には気楽に話せる特定の女子が常にいたが、中学以来、思想一変したのが原因か、ごく気楽に付き合える友人が一人もいなくなった。休日突如訪ねて来る級友なぞ誰もいない。これより以後、女子と気楽に話すことも出来なくなっていた。横道にそれるが、中一初めの頃、気軽に話しかけてくれる女子が一人いたのに、なにゆえか、休み時間などに、彼女とおしゃべりを楽しもうという気が起こらず、気がついたら彼女でさえ、ほかに親しく雑談などが出来る級友を得て、私は孤立が始まった。記憶が正しければ、彼女は小6の時、同じクラスで、変に飾ったりしないが男女両方から好かれる好印象の生徒だった。私には既に『女性崇拝の念』が根本にあり、この傾向は長じて好色に著しく傾いてゆく。なお、私の思想一変とは、中学入学初めの朝礼の時に訪れた。既に人気投票によって選ばれた学級委員が、教師と隣り合って、ずらり各組勢ぞろいした。日射病ではなく、はっきり目の前が真っ暗になり、同時に後頭部を殴られた感覚を味わった。もちろん痛撃を受けたのではないが、激烈な劣等意識が後頭部を襲った。この場面を錯覚したのが、私の思想一変だった。人は五歳にして既にその人であるとは、幼児教育の創始者、フレーベル(ドイツ)の名言だが、私は性格こそつまらぬマイナスタイプの少年だったが、居並ぶ委員を見て、「この連中は要するに学業成績の優秀さを認められた生徒たちだ」と勘違いしたのだ。己れに出来そうなことはただ一つ。学科の勉強を根気・能力の続く限りやることだった。「そうしたら、次の学級委員選挙では、何かの役職に当選するかも知れぬ」と勝手に思い込んだ。もとより人気投票と知っていたはずだが、今一つの可能性にかけたのである。無論、三年間ほとんど無役だった。これ又鮮明に記憶している。中一初めての学科の勉強を教わった日の夜、勉強しようと思った。ところが何をどうしていいか、全く見当がつかない。その日の授業を振り返ってみた。担任の先生が社会科担当で、軽い気持ちで始めたのか、「地図記号の見方」から始めたことを思い出した。社会科のノートを開くと、確かに書き写してある。発電所・港・桑畑・果樹園などいろいろ書いてある。とりあえずこれを覚えこむことから始めた。数学は本格の内容には入らなかったようだ。三つ上の兄は既に沼津東高一年生であるが、やはり新入生である。中学数学の本格授業が始まった。こちらはまず何から始めたかは全く記憶にない。正の数・負の数あたりが初め近くに位置しただろうか。そして、以前も書いた通り、「文字式」が最初の巨大な壁となった。たとえば「一の位がa、十の位がbの数字を文字式で表わせ」というものがどうしてもわからない。アルファベットを数字に例えることが出来なかった。兄も高校の課程に入って忙しそうである。両親は狭い自衛隊官舎の三間つまり部屋数が三つしかない部屋の二間を兄弟二人に与えてくれた。ただし、からかみ一枚隔ててすぐ、兄弟二人の机が、くっつかんばかりに横並びにしてある。兄を頼むのは簡単なようで実は恐ろしかった。思い切って文字式のことを手ほどきしてもらおうと思って問うたら、「そんなの自分で考えろ!!」という叱責が返って来た。ややあって、一度ピシャリと閉めたからかみが開いて、「どう、見せてみろ」と相変わらず恐い口調だが、兄が個人教授に乗り出してくれる顔をしていた。ただし、叱られながらである。「お前な、中学以降の数学は、算数じゃないということをまず肝に銘じておけ ! ! 小学校では答えを出すための計算ばかりやって来ただろ・・・。何だ、返事ぐらい出来ないのか ! ? 」「うん」「うん、じゃない。はい、だ」「はい」「声が小さい ! ! やり直せ」「ハイッ ! ! 」まるで軍隊である。だが私は挙止整った軍人の動作が実は好きだったので、覚悟を決めて、上官から訓示を受ける部下のつもりになって、従うこととした。「お前な、小学校でやった文章問題のこと、思い出してみろ。あの時、式を作ってだんだんそれを解いて行ったよな」「ハイッ」「その式を書いたところで、それから先一歩も進めないところを想像できるか ? 」はっきり言ってよくわからない。兄は察したらしく、「例えば、一の位が5で、十の位が2の数はいくつかという問題があったとするな」「ハイッ」「お前、はいはいって、声だけはたくましいけど、ちゃんとわかってるのか ? 」「だって、お兄ちゃんが『はいっ』と大きな返事しろって言ったから・・・」「バカヤロ ! ! ま、いい。いいか、教えてくれる人に対して、ふてくさったような態度とったら、金輪際教えないからな。教わる者の態度だけは守れよ」「わかってるよ」「やめた」「あ、お兄ちゃん、言い方間違ったら謝るからさ、俺ここがわからないと、先へ全然進めないんだから・・・」「じゃあ、今の返事言いなおしてみろ」「言いなおすって ? 」「バカか、お前。わかってるよって今言ったろ ! ! そういうのは返事とは言わない。口ごたえというんだ」ようやく私も察して、「あ、わかりました。言いなおします。ハイッ ! ! 」「よおし。じゃ、続き行くぞ。今の問題の答え言えるか ? 」「ええーと・・・25」「小学校ならそれでいい。だけどダメだ。文字式の世界で言うと、それは単に2と5を並べてにーごーと言ったに過ぎない」「・・・」(わかってない)「じゃあ聞くけど2と5はどっちが大きい ? 」「5」「バカ ! ! 25の場合を言ってるんだ。25の2はただの2か ? 」おつむの回転甚だしくのろく、しばし考えるが、ようやく、「あっ、25は20と5だから2のほうが大きいや」「そうだろ。つまりこれは20+5なんだ。もっと進めるとな、20はいきなり20じゃない。2を十倍したものだ。だから2×10だ。それを5と足すんだ。だから全部で、2×10+5だ。どうだ、全然計算なんかしてないだろ」「うん、じゃなかった、ハイッ ! ! 」「よし。じゃあな、一の位がaで十の位がbの数字だったら、どう表わす ? 」既にへとへとである。予想はしていたが、いきなりアルファベットが来たからである。「ちょっと待って。考えるから・・・」「言葉遣い改めろ ! ! 」「あ、しばし待って下さい。ただいま急いで考えますので」本当にまるで軍隊である。ちょっと照れくさいが、私より数段優秀な兄に憧れてもいたので、叱られても、反感を覚えるどころか、軍隊調で行けば必ず助けてくれる兄ということも知っていたから、懸命に言葉に気をつけ、且つこの難題に挑んでもいた。「えーと、b×10+a」「ようし、わかって来たな、と、言いたいところだが、お前は文字式の決まりを怠ってる。よく考えろ ! ! 」「ハイッ ! ! 」ここまで来てようやく気がついた。答えた。「10b+a」「よし。もう一度言うぞ。その正解よくみてみろ。計算してるか ? まるで式そのものだろ ? 」「ハイッ」「お前、返事は良くなったけど、何かほかの言葉しゃべってみろ」「ハイッ、その通りです ! ! 」実はこのあたりから、突如脳中に何やらはじけるものがあり、以後、方程式のむつかしい文章題でつまずくまでは、文字式問題がスラスラ解けるようになった。だが兄は私を操縦することも巧みである。「なあ、ひろ(私の呼び名。厚和と書いてひろかずと読む。そんなこた、どうでもいいか)、腹減ったな」「うん」。ここからは軍隊式でなくとも良い。だが私は空腹ではない。要するに兄が即席ラーメンを作ってくれと、言っているも同然なのである。「サッポロ一番でいい ? 」、「おお、いいな」。現に母がサッポロ一番の即席ラーメン(味噌・塩・しょうゆ)味三種類を常備してくれていた。好みは人それぞれだろうが、このサンヨー食品のサッポロ一番は今なお台所に用意してあり、私たちはサッポロ一番が文字通り一番おいしいと認めていた。さて私は、返礼の意味もあるから、かいがいしく働く。湯の量など、兄の好みも既に知っているから、取っ手のついたナベで、手際よく作ると、盆にナベ敷を乗せて、そこにラーメンのナベを乗せ、すぐに兄のところへ持っていく。直接ナベで食べると、スープを飲むのにヤケドしそうになるから、大きなスプーンも忘れず用意する。「おお、サンキュー。いつも悪いな」と言って、ハフハフ言いながら兄はおいしそうに食べ始める。なお、これも忘れぬうちに書いておくが、兄弟二人の学習時間中、毎晩工夫して夜食を用意してくれたのは母だった。この工夫はかなり手間をかけていて、即席ラーメンではない様々なおやつを二人に提供してくれた。何らかの原因で、私が兄の夜食を作ることもあったが、恐らくいつもの夜食のほかに、遅い時刻に兄一人が食欲を感じることがあったものと察しられる。中高の都合六年間、ほぼ欠かさず作ってくれた。この時代、『主婦』といえば、今でいう専業主婦をさした。外へ仕事に出る婦人は「兼業主婦」と呼んで、一段低いものとして見下していた。ただし、我が母は、いざという時のために女も働けるようにすべしと心得ていて、パートがあれば比較的近所のオフィスに赴いて仕事をし、パートがない時は、夜、ほとんど常に内職仕事をしていた。何回も書いたが、この兄の存在がなかったら、つまり兄が凡庸な頭脳で、スポーツにうつつをぬかすばかりの俗物だったら、今の私は存在せず、せいぜい御殿場南高程度で終わり、人生が大きく変わっていたのである。月刊誌「少年」の面白さを私に伝えてくれたのも、ゴジラの凄さを伝えてくれたのも、ほとんど、語り口巧みな兄である。その兄も、私が何とか教授業で糊口するようになると、私を対等に扱ってくれるようになった。かつての恐さがうそのようであるこの昭和50年代当時、私は兄より先にあの世に行きたいと願っていた。兄は大学理科系を目指していながら、歴史物語や我が国古典の妙を語り、興じさせてくれるのだ。この兄が先に逝ったとしたら、今度こそ凄まじい神経の病が再発して、私はダメになるに違いないと確信していた。身内自慢で終わったようにみえるが、私の気持ちとしては「お兄ちゃん、大好きだよー」という本心を吐露したつもりである。持論として私は可能ならば、数学・物理学・化学を戦力として国立大学理科系学部を目指すべしと考える。私が押しの強い危ない男と見かけだけ親密になってのち、この男の本性の恐ろしさに気づいた時、私を一喝し「いいか、ある年齢になったら、男が男にほれては危険だ。それは任侠の世界につながるようなものだからだ。そんなヒマがあったら、女にほれろ ! ! 女にほれてうまく行くと、所帯がもてる、子供に恵まれる。所帯を持てなくても、交際相手がいる生活が格段に楽しいものになる。女にはとことんほれろ」と、諭してくれたのも兄である。こののち、例の「もちや」(富士宮市あさぎり高原)が縁で一人の女と付き合うこととなる。残念ながら、兄は昭和63年(1988)暮れの会社の健康診断で、白血病が見つかり、およそ七年の闘病ののち、急性転化して世を去った。そして私は神経症が再発し、食べ物がのどを通らなくなって衰弱、入院加療で当時の処方薬に効き目があり、何んとか回復したが、この内服薬の離脱症状でせん妄という精神症状を起こし、閉鎖病棟の精神病院に入院することとなった。兄、もしも先に逝くことあらば、私は無事では済まぬだろうとの予測は当たった。目下はずいぶん軽くなった薬の常用で普通の生活を出来るまでになってはいる(富士市内の精神病院通院中)。だが、尊敬、憧憬の兄は既に平成七年、1995年に旅立って、兄のいない生活のむなしさだけは常に感じている。「いいヤツほど先に逝く」と、戦時中の将兵が言ったそうだが、私にとって兄がそのいいヤツに当てはまる。生業(なりわい)がなければ人は自活してはいけないが、私の場合、自惚れに思われるかも知れないが、中高時代に学科の学習をある程度習得したことが、のちの身入り(みいり)のある程度の良さにもつながった。逆に高校時代など、好きなドラムを何が何んでもやろうとしていたら、今の生活は存在しなかったことは間違いない。今、2019年2月から始めたドラムの進展がはかばかしくない。つまりドラムという楽器も、道は遠いということだ。ただし、このドラム・レッスンは講師の先生の人柄にも助けられて、何んとか続いている。★追記事項★高3のある時、自身も進路を確保すべき重大な時期にあってなお、察しの悪い私のために、学習時間を割いて解いてくれた大学入試問題。この解説は等比級数の初項と公比だけが書いてあるが、無限級数問題でこの二つが明らかになれば解答出来たも同然。のちに学習塾をやった時、ほぼ同じとみてよい類題を確認して、当時の兄が正しかったことを確かめた。
2024.02.29
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東映動画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』劇中挿入歌「行こうよみんなのうた」楽譜掲載 2024/03/08開始亡くなった三つ上の兄を思い出すことがかなりたくさんあるのだが、その一つに『音楽』がある。私が小学低学年の頃、これはまず初めに父のハーモニカが私を感化した。母とのいさかいが少なからずあり、母を懐かしく思い出そうとすると、勢い父の悪口の羅列ともなる。だがこの年へ来て、私の趣味あるいは少しうぬぼれて特技となると、俄然父のハーモニカがごく自然に思い出されるようになった。楽器の管理、寿命を考えると多分良くないことなのだろうが、父は風呂に浸かりながらハーモニカを吹いて聴かせてくれた。そう、父や母と一緒に風呂に入るのが、しばらくの習慣だった。また、兄と一緒に入ったこともある。兄弟一緒のお風呂。撮影はカメラを愛用していた父。ハーモニカを吹くのは身体中一通り洗って、湯船に浸かった時で、これものぼせる原因になるが、その時により、カラスの行水ではなかった。もちろん初めの頃は父が吹くハーモニカに聴き入ったのだが、不思議なもので、そのうち、小学中学年から高学年になる頃には、ハーモニカは私のものになっていた。人の吹いたハーモニカを汚いと思うのが普通なのかも知れないが、なぜか抵抗はなく、晴れて自分の所有物になったといううれしさもあり、今度は私が長風呂してハーモニカに興ずることとなった。ハーモニカは今でも趣味の一つ。上二枚は複音ハーモニカ、三枚目が半音ハーモニカ。この頃ハーモニカは学校の音楽の授業でも扱うことがあり、私は「誰でも出来る楽器」と勝手に考えていた。のちに、不得意またはほとんど出来ない人がいることを知ったが、未だに簡単な楽器との印象はぬぐえない。いっときはハーモニカを想う存分吹くために風呂に入るも同然というほど、ハーモニカが楽しみで仕方ないほどだったが、70代に入った今は、湯船に浸かることさえ億劫な時があり、シャワーで済ますことが多くなっている。本題からそれるので、委曲を尽くすことへのこだわりは捨てて、急いで書いてみる。音楽への興味をもたらしてくれたのは、今は亡き三つ上の兄である。兄は中学、高校と、これらの時期に、「行進曲」、「山岳歌曲」などに広く興味を持ち、普通のレコードは高かったのか、朝日ソノラマというメーカーが盛んに出していたソノシートという薄いプラ板のような材質のレコード盤を買って次第に増やしていった。記憶に間違いなければ、ソノシートは近所の書店に置いてあり、それもEPのシングルレコードとは異なり、どちらかというと、直径30cmのLPレコードに近い収録内容で、レコード盤そのものはコンパクトに収まっていたが、収録曲数が断然多く、それも本のようにまとまった書籍風のものに、何枚か、つまり複数枚のレコードが一冊の中にまとめられていて、行進曲つまりマーチならば、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザやタイケ、ワーグナーなどの有名なマーチが見事にそろっていて、レコード・プレーヤーで聴けるから、何曲も聴いて存分に味わうことが出来た。光文社の月刊誌『少年』組み立て付録のレコードプレーヤーとソノシート。本物のプレーヤーで聴けたので楽しめた。のちの中学の吹奏楽部のマーチを聴くより早く、既に当時の有名な曲はソノシートで覚えていた。兄の音楽への関心度の高さは見事というほかなく、唱歌・外国歌曲・童謡・軍歌・懐メロ流行歌など、ジャンル分けの必要が不要と言えるほどだった。ポップスしか聴かないという狭さではなかった。メロディーが良いと感じたら、ジャンルを問わず片っ端から聴き入るようになっていったので、同じくハーモニカで曲を吹く趣味を持っていた私も、見事に感化された。兄の音楽への関心度で未だに驚異と感ずるのは、「日本民謡」にも強い興味を持ち、やはりソノシートで日本民謡集を買って興じていたことだ。中でも兄は「小諸馬子唄」をいたく気に入り、今や追憶と共に、私の好きな日本民謡となっている。分けても兄が凄いと思ったのは、劇場映画の有名な曲に敏感に反応したことだった。もっとも、当時は映画会社も作劇以外に主題歌に力を入れていたと思われるので、音楽への興味ひとかたならぬ者は、等しく興味をひかれたのかも知れない。中でも、当時『動画』、『漫画映画』と呼んで親しんだ「東映動画」の長編漫画映画は格別で、長編漫画一作ごとにほぼ必ずと言えるほど、印象に残る曲を随所に流して、私たちもごく自然に、主題歌や挿入歌を印象強く受け止めるようになっていた。早くも記憶がいいかげんなのだが、東映漫画映画公開年から、ある程度類推するしか方法がなく、そのようにつづってみる。御殿場に引っ越したのが昭和35年(1960)の夏休み中。父が自衛官だったのが理由だが、この御殿場市は、それまで住んだ富士宮市よりあかぬけているとはとても思えず、さらに僻遠の地に移るのかと思った。ところがカルチャー・ショックは引っ越し早々の夏休み中に訪れた。富士宮市の大宮小学校では、女子は普通の水着なのだが、何んと男子は局所のみ隠すといういわゆる越中ふんどしの水着をつけるというひどさで、胴回りなどはヒモと言うべきなほど細いヒモだけであり、今婦人が穿(は)いているティーバックよりもさらに過激なスタイルの水着だった。学校の方針に曰くの理由が実に面妖で、「貧しい家の子が海水パンツをはけなくて困る」からというのだそうな。では女子で貧しい家庭の子はどうなのか。実にくだらない規則があるひどい学校だった。さて、御殿場市に引っ越して早々にプール使用可能との情報がもたらされ、驚いたことに、母が既に海水パンツを買ってくれてあった。早速学校が備えているプールに行くと、実にカラフル ! 男女共に目の保養になるほど、様々な水着が目を射る。御殿場小は教育方針が充実していて、小学六年間に続くすぐ隣の御殿場中学での学習にスムーズにつながる高い指導内容だった。中でも感激さえしたのが『映画教室』と称する映画鑑賞の時間を設けたことだった。大きく二種類あって、業者の方々が映写機材共々、鑑賞に堪(た)える内外の劇映画を用意してあって、公会堂と呼んだ講堂で上映が行なわれた形のものが一つ。もう一つは、既に公開年を過ぎたかつての劇場映画を、学校貸し切りで街の映画館で上映して鑑賞させてくれたことで、何日か前から予定が知らされていて、その日は全日授業無しとまで行かなくとも、午前のみあるいは午後のみ映画に費やして生徒にいっときの娯楽を楽しませてくれた。映画館まで教師引率で徒歩で出かけて行った。多分その中には、公開時に映画鑑賞出来る時もあったかも知れない。私が転校して初めて見た漫画映画は昭和34年(1959)公開だった「少年猿飛佐助」で、これは御殿場小・御殿場中学共に同日か一両日のうちにたて続けに上映した。思えば娯楽に飢えてもいたかも知れない。「♪ 力よ力 雲に乗って来い 山の仲間は猿・熊・小鹿 オー 胸に友情瞳に正義 やるぞ負けずについて来い 僕は少年猿飛佐助 オー」の主題歌一番が、タイトルと共に流れたから、もう初めから大感激だった。なお断わっておくが、昨今のストーリー重視が当たり前となったアニメにしか感ずることが出来ない者どもは、このかつての東映動画は見ないほうが良い。昭和30年代の勧善懲悪の物語に意外性を求めるのは筋違いだ。さて。映画鑑賞の興奮を余韻としてみなぎらせたまま帰宅となる。同じく本作品を見ていた兄が改めて作品について語ってくれたような気がする。話術に長けた兄の話は、また一味違う感動を再燃させてくれた。第一、忍術使いの猿飛佐助の名を知らしめてくれたのはほかならぬ兄だった。兄はこれもまた父の自衛隊勤務のために、実に遠方の地、北海道は釧路近くの辺ぴな土地、別保(べっぽ)に引っ越すその時も時、大好きだった祖父の足に両手でがっしりと抱きついたまま、上野駅のその場から動こうとせず、遂に根負けした両親が幼い私だけ連れて汽車に乗るという一大事があったほどだった。兄とは数年後、富士宮市の自宅で再会となるが、懐かしい思い出だ。この祖父が大日本雄辯会講談社(現・講談社)が無償で発行した講談本所収の話に通ずる様々な物語を、幼い兄にほぼ毎晩聞かせてくれた。さよう、かつての年寄りはオートバイになんぞ乗らない、というよりそんなもの存在しなかった。真田十勇士を列挙出来たのは当たり前で、祖父は講談に名高い英雄豪傑、妖怪変化の物語を幼子に語り惹き付けることが楽々出来たのだ。そんな祖父の感化よろしきを得てか、兄は古往今来の古典に明るかった。話術も見事だった。例えば私の小中学時代に忍者漫画がはやった時期があるが、兄は「忍術というのは、今はやりの忍者が苦行の果てに体得した現実的な技ばかりではない」と話し始めた。週刊誌で少年サンデーが人気があり、その中に掲載の「伊賀の影丸」という忍者漫画がヒットしていたが、兄は影丸のかぶる頭巾の不自然さを早くから指摘していた。影丸の頭巾の横からとがった妙なものが突き出ているとの指摘で、これはその通りである。ただしそんなことを言い出したら、漫画史上に名高い「鉄腕アトム」の頭のとがった髪の毛も、極めて不自然に見えるから、これをむきになって非難したら名作漫画がそうでなくなるおそれもある。兄の頭の中にあったのは、かつて子供らの心をとらえ続けた『忍術使い』であり、その術は『忍術』であり、忍法ではなかった。三すくみの原理も巧みに取り入れた『忍術児雷也』を知る世代の人ならば、全面賛成は出来なくても、言わんとするところがわかって下さると思う。兄たちを興じさせた忍術とは、言わば『妖術』であり、難行・苦行を乗り越えるところは同様なれども、免許皆伝の暁には、九字を切るだけで炎を呼び、嵐を呼び、逆巻く波を起こして、見る者を熱狂させた。話はやはり長くなったが、「少年猿飛佐助」が使ったのは紛れもなき妖術だった。だから迫力があってわくわくしたのだ。手裏剣をピシピシなどと投げてなぞいない。「えいっ ! 」との気合いもろとも様々な天変地異を起こして、敵味方共に妖術合戦を繰り広げた。これでは「少年猿飛佐助」の話になってしまう。何しろ楽譜などは基本も何もわかっていない身でテキトーに書くものだから、「少年猿飛佐助」も出来ればいずれ楽譜にしてみたいと思い続けているが、完成譜面の整然さは、望むべくもない。とにかく、数多くの歌謡曲などの楽譜がフリー素材としては存在しない事実がある以上、多少の見づらさは無視してでも、曲がりなりにも『音階』を目で見られる楽譜という形にしたい一心で掲載するものである。この機会にひとこと書いておく。楽譜を金をとって提供するなぞといういやしい商売なぞするな !さて、昭和37年(1962)公開の東映長編漫画映画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』の劇中挿入歌『行こうよみんなのうた』のただしかなりテキトーな楽譜を掲載してみたい。なお、今回は今までの楽譜作成練習結果を、その都度チェックしてくれていた「ユコタン」こと相棒の夕子殿の、昨今の仕事多忙に配慮して、完成後ごく大ざっぱに確認してもらうにとどめた。これまでの楽譜は、彼女が入念に確認してくれて、現に私の音階の明らかな間違いをも見つけて訂正してくれたこともあったので、安心していられたが、こちらはあくまで趣味なので、今回は「音階」のみに絞ってみていただいた。本作品の「行こうよみんなのうた」は、動画作品中で流れる歌、さらにはかつて販売されたCD全集『東映動画アンソロジー』に収録されたデニー白川氏の歌それぞれに、歌い方の異同があるのだが、ここは思い切ってDVDに流れる『行こうよみんなのうたII』に絞って楽譜作成してみた。蛇足的な話の最後として、この『行こうよみんなのうた』も、私自身、教師引率で街の映画館で見た印象が強烈で「東映動画はいい歌を作るなあ」と、これも興奮さめやらぬ鑑賞後の思いのまま帰宅したところ、三つ上の兄が「シンドバッド良かったなあ。日本の娯楽のいいところはな、我が国の神話、説話はもちろんのこと、世界中の名作を惜しげもなく作品として作ることだ」と言った。兄はその思想既にある意味『保守』であり、それでいて、巷間「名作」と言われる映像作品などは、国家主義――資本主義・共産主義を問わず、いいものを「いい」と認めるにやぶさかでない柔軟さがあった。弟ながら、憧れ、尊敬するのも当然と思うゆえんである。そして、こういう優れた考えを持つ者ほど、天はその生命を早くに絶ってしまうものだとさえ思える。兄はとどめというべきことを言った。「今度も映画の中に流れるシンドバッドの歌がいいなぁ」。こう言って、実に一回見ただけの漫画映画の劇中挿入歌を、ワンコーラス歌いきって聞かせてくれた。それが『行こうよみんなのうたII』だった。いよいよ最後に。我が国音楽界の重鎮と言える音楽家の湯川れい子さんは、当時歌唱のデニー白川氏を評して「ナット・キング・コールそっくりのハスキーな優しい声で、非常に人気があった。言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、慎み深かった」とおっしゃっていた(ウィキペディアから抜粋)。「行こうよみんなのうたI 」この海の底には 神秘があるんだその波の下には あこがれがある行こうよみんな 行こうよみんな月の光の中に 星の影の中に魔の海の幽霊船に現われたたくさんの亡霊に向かって、シンバッドは静かにギターを奏でて「行こうよみんなのうた」を聴かせる。すると、これが霊たちへの鎮魂歌となり、一つまた一つと消えて、とうとう海は明るさを取り戻す。名場面である。「行こうよみんなのうた II 」あの空の下には 幸せがいっぱいあの雲の果てには 希望がいっぱい行こうよみんな 行こうよみんなあの空の下まで あの雲の果てまで『行こうよみんなのうた』作詞 米山正夫氏 作曲 冨田勲氏 歌唱 デニー白川氏〇補足〇この『行こうよみんなのうた』は、劇場公開版と言うべきか少なくともDVDでは、途中から見事な女声スキャットが流れて、歌の品格を高める工夫がなされている。具体的にいうなら、『行こうよみんなのうたII』の「♪希望がいっぱーい」の「望」のところからハッキリと女声コーラスのスキャットが流れて、歌の完成度を高めている。
2024.03.13
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運転免許証ようやく更新、ただし普通免許は取り消してもらう 疲れきって文章をつづる力がない。ともかく、今後は自動二輪免許のみで、買い物などを続けるのみ。ただし、視力検査は不合格一歩手前で、危なかった。我れ、高齢者にして来月誕生日で72になる。ゴールド免許ではあるが、年齢による資格年数の減少措置があり、実に若い人のブルー免許と同じ3年である。現在の買い物の足、ホンダPCX150なお、バイク人生恐らく最後の買い替えとなるスクーターは、ホンダDio(ディオ)110を予定して、記念に新車購入を決定している。無論110とは排気量である。頸椎ヘルニアで衰えた身に、スクーターはありがたい存在。今後近場の買い物はディオ、ドラム・レッスンはPCX150の予定。ホンダDio(ディオ)110 主要諸元全長×全幅×全高(mm) 1870×685×1100シート高(mm) 760車重(kg) 96最高出力(kW, ps/rpm) 6.4, 8.7/7500最大トルク(N・m, kg・m/rpm) 9.0, 0.92/5750☆備考・単位換算目安1kW=1.3596ps, 1 N・m=0.1kg・m例示 6.4kW=6.4×1.3596=8.7ps 9.0N・m=9.0÷9.8=0.92kg・m kW⇒psの1.3596の語呂暗記法1 . 3 5 9 6 は「い・ざ・ご・く・ろー」とこじつける。N・m⇒kg・mについて。高校物理学で学ぶ運動方程式のF=maにおいて、FはN(ニュートン)、mはm(kg)、aはa(m/s2乗)。ここで質量mにかかる重力加速度aは、a=g=9.8m/s2乗で、F(N)をm(kg)に換算するには、F=maの式を変形して、m(kg)=F(N)/a(m/s2乗)で求められる。なお、ネットのページによっては、9.8で割るのを9.8≒10として10で割っても近似値が得られると記すものもある。改めて、9.0N=9.0÷9.8=0.92kg。よって9.0N・m=0.92kg・m。
2024.11.25
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かつてはテレビ放映される劇場映画の区別が楽だった。なぜかと思いながらも、別にぜひにもわけを知りたいと欲するほどではなかったから、わからぬに任せておいた。多分年のせいだろう。年のせいと書いて、ふと思い出したが、このところ顕著なのは、漫画の本を全く買わなくなったことだ。少し前まであれほど魅力を感じた漫画に、さほどの思いがなくなって来た。絵とセリフをほぼ同時に味わえ、味わい続けることがすこぶる楽しかった年齢でなくなったようだ。読んで読めないこともなかろうが、漫画の本に金を出す気持ちは失せた。ただし、もともと本が嫌いなので、これは漫画を見下しているのではない。「鉄腕アトム」も「鉄人28号」も「エイトマン」も、きちんと読まなかっただけのことだ。物語をじっと見つめながら追ってゆくのが、おっくうなタチらしい。さて、話を戻す。20代後半、ようやくテレビ番組を録画する『ビデオ・デッキ』という家電製品が登場した。その昔、テレビ放映される映画は、その場で精一杯鑑賞し、目に焼きつけ、脳裏に刻まねばならなかった。だが不思議と、見た映画の場面場面を強く印象に残せた。不便な時代であったぶん、好きな映画の各場面に、記憶力と感受性がフル稼働したのかも知れない。しかしながら、ビデオ・デッキの出現は確かにありがたいことだった。様々なドラマ、バラエティー、歌番組などは言うに及ばず、各局放映の過去の劇場映画も夢中で録画した。むしろ、これら映画を残しておいたから、退屈な現在をしのげると言えるかも知れない。特に三つの番組が印象に残った。「荻昌弘です、今晩は」と始まる月曜ロードショー。荻昌弘(おぎ・まさひろ)さんが東大卒という色眼鏡で見るまでもなく、そのよどみない簡潔明瞭な解説の言葉にまず聞きほれた。 荻昌弘氏「いやあ、映画って、本当にいいもんですね。それではまたご一緒に楽しみましょう」で番組が終わった、水野晴郎(みずの・はるお)さん解説の「水曜ロードショー」。この番組はテーマ曲にまで力を入れ、ニニ・ロッソのトランペットで始まるという凝りようだった。 水野晴郎氏なお、昨今いとも簡単に市民権を得て、乱用される「こだわりの・・・」という言葉が大嫌いである。今書いた「凝る」という言葉には、「工夫をこらしてあり、趣がある」の意がきちんとあり、「こだわりの」を使わずに、「凝った料理」などと言うほうがふさわしいし正しい。さて、一番ユーモラスに見えて実は私は一番真剣な解説に聞こえた淀川長治(よどがわ・ながはる)氏の「日曜洋画劇場」。確かに語り口はユーモラスだった。 淀川長治氏これはずいぶん長寿番組と記憶しているが、淀川氏の名調子がずっと同じだったかどうかを既に思い出せない。たとえば冒頭、「はい、またお会いしましたね」とあいさつして解説を始めたのかどうか、もう全く思い出せない。遠く昭和30年代に大ヒットした西部劇「ララミー牧場」の「ニギニギおじさん」の愛称で親しまれた頃の印象があるためか。比較的最近、とは言っても1981年作品「スーパーマンII」放映の時だから、私も30歳前後だったと思うが、この時はまず「はい皆さん今晩は」で始まり、一通りの解説のあと、本編放送前に、「あとでまたお会いしましょう」と言ってまず、一休み。映画が終わると、再び解説を加えてようやく「はい、もう、お時間来ました。それでは次週の作品、ご紹介しましょう」と言ったあと、予告編が流れ、最後にあの名調子、「それでは次週をお楽しみ下さい。さよなら、さよなら、さよなら」と莞爾(かんじ)として言葉を投げかけて終わりとなる。以上の三つを未だ強く印象に残している。もはや思い出となったこれらの映画劇場に優劣の順位などはつけたくないが、特徴で言うと、荻昌弘さんは、先に書いた通り簡潔明瞭なのに加えて、演出家や主演俳優を、妙に批判的に語るのでなく、特色を理路整然と伝えて、さわやかな後味が残った。水野晴郎氏は、いかにも映画ファンの解説と言ったところか。ただし、放映する映画が子供だましの邦画の時も、妙にほめ称えたのが気になった。ま、けなすわけにもゆかぬだろうが。そして、淀川長治さんだが。実は私は「日曜洋画劇場」における淀川さんの映画解説よりも、ある映画の解説が凄まじい印象を残して忘れられない。正確には解説と言うよりは、一冊の対談集で読んだ話である。吉行淳之介(よしゆき・じゅんのすけ)氏は対談の名手と言われたらしい。私が持っているだけでも、対談集は、5冊に達する。これらは皆、私の好きな『恐怖』をテーマにしたものだが、吉行氏のことゆえ、色っぽい話はたくさん出て来る。その中の一冊、「恐怖対談」で、吉行氏は淀川長治氏と対談している。無論、映画が主な内容となるが、読み進むうちにほとんど衝撃を受けた箇所があった。アラン・ドロンの代表作「太陽がいっぱい」を『ホモ・セクシャルの映画』と断じ、さすがに「ええ ? 」とけげんに反問する吉行氏を、しまいには「説得力が出て来た」と感心させるくだりは、凄い迫力だった。「太陽がいっぱい」がなぜホモの映画かについては、長くなるので省くが、一度納得すると、もはや否定出来ぬほど、淀川氏の映画文法の話術に陥ったままになる。この映画の話で本書のテーマ通り『恐かった』のは、ラストシーンの解説だ。淀川氏は言う。「そして、モーリス・ロネを殺してしまって、最後のシーンがくるでしょ。その時に、ヨットが一艘(いっそう)沖にいる。あれは幽霊なの。おまえもすぐ俺のところへ来るよ、という暗示なのね」ここで吉行淳之介氏、感心したように、「なるほど。あのヨットは何だろう、とおもっていた」本書を机に置きながら書き写していると、つい、もう少し書きたくなるが、きりがないので措(お)く。さて、最後に最近テレビ放映される映画は味気なくなった。CG特撮の発達で、タイトル画面だけは派手なものの、あとはただ映画を流すだけ。説教めいた講釈は不要と言う人もいるかも知れないが、著名人のちょっとした解説の入った、かつての「お茶の間ロードショー」が懐かしい。
2006.11.11
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昼近く雷が鳴っていたが、無視してあるサイトのかたに書き込みをしているさいちゅう、電源がプツンと切れた。どこかに落雷したのかと思い、書き込みは消え失せて仕方ないが、ともかくこちらも改めて電源をすべて切った。その少し前、いつも書き込み下さるサイトのかたからの書き込みを確認してやや気になっていた。そこで又も思い切って某婦人に電話した。無論誰が出るのかわからない。先日「オレオレ詐欺」に間違えられたばかりなので、お互いを知らせる暗号を決めておいた。ただし、複数を用意した。「山」と「川」との合言葉。無論「忠臣蔵」を気取った。それから「ニイタカヤマノボレ」と「トラトラトラ」。全くこりぬ二人だが、これもささやかな潤滑油。もっとも、向こうに家族又は誰か知人などがいる時は、私が「山」というのに答えて「川」とは返せない。「違います」と間違い電話を装うことが多い。もう一つある。「子機か?」と私が問うてその通りの時は、「うん、わたし。ちょっと待って」と芝居をして、自分の部屋に移ってもらうことにした。本日がこれに当たる。「いいわよ」と言うのに答えて、「あのさ、アドレスの末尾のアルファベットのことはさ、今朝の電話でわかったし、これは日記に公表しないほうがいいと思ってさ・・、もしもし」と言うと、「聞いてるわよ」と、ややキツい答え。「きょうも機嫌悪いの?」と問うと、「そうじゃないわよ。ちょっと驚いたから黙って聞いていただけ。気にさわったらごめん」と、これで納得。「あのさ、生霊のほうが恐いんだって」と私。「何よ、いきなりから恐い話・・? 」と、再び雲行き怪しいか。「まあ、そう言わないでさ、昼間なんだから・・。お前さんの生霊じゃないのではないかと、ある人から書き込みがあったんだよ」と告げると、「わたしも読んだわよ」との答え。「背中に乗る何者かっていうのはね、平成元年新築以来、時々出たんだよ」と初めて話すと、「いやあね、やっぱり恐い話じゃない、切るわよ」、ちょっと待った、もう少し聞けと思って、続けた。「いや、安心させるつもりもあるんだ。要するにお前の生霊じゃないから、無縁のことと思っていいってさ」とようやく会話をつなげた。「そう・・。わたしじゃないのね、良かった。・・ええ? じゃあ、それ誰なの? 」と恐怖再燃。「多分、死霊だな」と又も火に油かと覚悟して言った。「ねえ・・、それ何回ぐらいあったの?」と意外な質問。それに答えて「いや、ほんの数えるほど。そう、この十五年余りで五、六回くらいか・・・。でも、それも去年まででパッタリ途絶えたし、去年一ヶ月のあいだに二度も出てそれっきりだから、どこかへ去ったのかも知れないな」。「あなた、霊能力があるの?」と不安そうに問うから、「いいや、俺にはないよ。断定出来ないけど、ないと思ってる。だって、ほかの人が『ほら、そこにおじいさんがいる』と言った時にも、俺には何も見えなかったもん。それにね、仮にそんな能力が存在するにしても、見えないほうがいいんだって、見える人は必ず言うんだ」と答えた。「おじいさんって、それ何の話?」と、よせばいいものをこの人、つい興味が出たようだ。せっかくだから話した。「昔拳法をコーチについて習っていただろ。その頃、トレーニングが終わると、コーチと二人で、よく老人ホームの駐車場に俺の車を止めて、あれこれ話したんだよ。このコーチが霊感の持ち主でね、それこそ身の毛もよだつ経験をしょっちゅうしていた」とここで、深く呼吸をした。「どうしたの?」とやや心配そうな声。答えて、「いや、一気にしゃべって息苦しくなったから深呼吸したの」。続けた。「それである夜中にさ、話のさいちゅうに、コーチがシッと言って、あたりを見回して、更に車を降りて一周したんだよ。席に戻って、今おじいさんがいた、先日ここのホームで亡くなった人によく似ていたと言ったんで、見えないからなおさらだろうけど、ゾーッしたんだ」「いや、恐い。何でそんな話聞かせるのよぉ。わたし部屋に一人よ」と文句を言ってきた。「何だよ、お前が聞きたがるから話したんじゃないかよ。それにまだ明るいだろが」と私。「日が暮れれば暗くなるんです ! 」と彼女。ま、ともかく私はいわゆる霊感の持ち主ではないと念を押してあとはよもやまの話に変えた。電話会話終了。本日ぶん始まり始まり。ビートたけし氏がある時気味の悪いアパートに入ったことがあった。この話は、彼が司会をするトーク番組「たけしのここだけの話」で、たけし氏自ら語ったが、強く印象に残っている。私の家族が住んだ家のことでも、以前「東海道焼津怪談」と題して日記を書いたことがあるが、借家などには、因縁話がつきまとうものが少なくない。この点、アパートも同じだ。自分が今住む部屋に、それまで何人住んでは去って行ったか、過去に何か事件があったかどうか、全くわからないし、あったとしてもなかなか本人の耳には入らない。ビートたけし氏が入ったアパートは、台所と広い日本間とに分れていて、日本間は、くつろぐにもゆったり寝るにも充分な広さだったから、彼は早速そこに床(とこ)をのべて、一晩ぐっすり眠ろうとしたがなぜか気味が悪くて眠れない。とうとうふとんを台所に移動し、テーブルの下に突っ込んで寝たらぐっすり眠れた。ある日友人が来て一緒に酒など飲むうち、すっかり暗くなり、泊まって行くことになった。たけし氏は、友人に日本間を勧めたが、泊めてもらうほうがいい部屋では悪いと相手は遠慮した。なに、客人だからかまわず広い部屋でくつろげよと言って、人の悪い(?)たけし氏は、その部屋の雰囲気のことをいっさい語らずに、お互い二部屋にわかれた。深夜、友人が台所へ起きて来たので、灯りをつけると顔色が悪い。「あの部屋はなんだか気味が悪い。俺も台所へ寝かせてくれ」と頼むので、結局たけし氏は友人と二人して台所へ寝た。翌日、二人で隣の部屋は何だろうと話し合った。何かあると感じたたけし氏は、大家(おおや)を問い詰めてようやくある過去の事実を聞き出した。ビートたけし氏の部屋で、かつてある女が首吊り自殺したという。と言って、この女の亡霊一つ姿を現わすわけではない。ともかく、夜寝ようとすると、とても薄気味悪くて背筋がゾクゾクし、全く眠れないのだ。のちにビートたけし氏はアパートを移ったが、こういう所にたまたま住むと、霊感云々に関係なく、この種の思いを味わうようだ。土地に因縁がない限り、住まいは新築に限ると言う人がいる。もっともな理屈だ。だが、因縁はそこに住む家族たちが作るものでもある。大過なく築何年かが過ぎて古くなるならいいが、その家(や)の住人が、新たな因縁の元となる場合、次に住む人々に、有形無形の形で、不気味な事柄が襲いかかるから、廉価な中古住宅又は借家と思ってうっかり入ると、身の毛もよだつ思いをすることがある。らしい。どこかのコマーシャルで一生楽しみたければ家を建てろと言うが、一生楽しめればいいが、場合によっては死霊の住む家で戦慄の経験を味わうかも知れぬと思いながら、私はこの見飽きたコマーシャルを見るともなく見ることがある。本日も軽いジャブでした。お粗末一巻の終わりです。新東宝昭和31年作品「四谷怪談」より。顔半面腫れあがって凄まじい面相になる。演ずるは相馬千恵子さん。
2004.07.25
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「わんぱく王子の大蛇退治」より「母のない子の子守唄」楽譜2019/11/24開始『伊福部昭』と聞いて知らないと答える人もいるかも知れないが、名前を知らずとも「ゴジラ」を初めとする数多くの伊福部節を聞いて「どこかで聞いた気が・・」とこたえ得る人もあろう。この私も、子供の頃は『音楽・伊福部昭』の字幕を確かめることも出来ずに、凄い音楽だと驚嘆するだけだった。ただし、伊福部昭氏の映画音楽の特徴は重々しい低音の迫力が身体をゆさぶるように伝わるとの印象を残すのも当然。そして伊福部氏の曲には心の琴線に触れさせる『優しさ』を湛えた見事なものがこれまたかなりある。映画「ゴジラ」(昭和29年、1954)で言うと、終幕近く、水中酸素破壊剤「オキシジェン・デストロイヤー」の発明者・芹沢が南海サルベージ所長の尾形と口論昂じて殴り合い、尾形にケガを負わせたあとに、テレビから流れる女子生徒の合唱だ。私が伊福部昭氏の名前をようやく知ったのは、大学一年、弱冠18の夏だった。早くに亡くなった円谷特撮、東宝特撮映画研究家の竹内博氏に負うところ大である。今研究家と書いたが、竹内氏の存在なくして、円谷英二氏が、東宝特撮が、広いファンの支持を受けることはなかったと断言出来よう。竹内氏は、これも勝手な解釈であるが、円谷英二特技監督研究一筋だったと言えるのではないか。特撮技術そのものについての批判めいたことはハッキリ言って一切書かない。今思うと、こういう徹底ぶりは見事だ。神技とも言える。私初め、少なからぬ特撮ファンが円谷特撮の悪口さえ言ったり書いたりしたはずだ。竹内博氏は、円谷英二氏のすべてを是として全面的に肯定して与(くみ)して受け止めて、資料情報をつづった。その巨細なこと、遺漏なきこと、これまた見事だ。こうして東宝特撮映画史は、キラリ輝く作品群の歴史として印象づけられた。竹内博氏は、それこそ子供向けの趣にしか見えぬ当時のケイブンシャ刊のゴジラ写真集(全三冊)の中で、健筆を奮った。これを読んだ当時の私は、これまた淡々とつづった竹内氏の文「・・・伊福部昭作曲の重厚な曲に乗って、ゴジラは品川第二台場から巨体を現わした・・・」という意味の文章に、突然何もかもを悟ったかのように、衝撃を受けつつ、東宝特撮映画に、『伊福部昭』氏ありを、電撃に打たれた心地で、さらに土砂降りに打たれる心地で、むしろ快感さえ覚えながら、思い知ったのだった。その大学も終わりごろ発売された伊福部昭氏のLPレコードを宝玉に触れる思いで買った。音楽に容易に触れられる今とは感激に大いなる差があろう。「ゴジラ」のテーマは改めて電撃に打たれた心地で聞いた。初代ゴジラの咆哮は、昭和37年「キングコング対ゴジラ」以降のおなじみのものではなく、何種類にも異なった吠え方に興ずる楽しみをも楽しませてくれた。もちろん、「キングコング対ゴジラ」のあの完成度の高い咆哮は、これまた聞いて快感甚だしい。あえて書くと「アアーン、キーン、グワーム」といったところか。人により聞こえ方は異なろう。だがハリウッドほかの怪獣映画に、このゴジラのカッコいい咆哮は無い ! 今に至るゴジラの咆哮はこの昭和37年(1962)「キングコング対ゴジラ」が最初と言えようか。マニアにはおなじみの鳴き声だ。さて、一たび伊福部音楽を知ると、とたんにかつて見た「大魔神」シリーズ、さらには「座頭市」シリーズの音楽がよみがえった。ウィキペディアにもあるが、伊福部氏は勝新太郎氏から先生と呼ばれ、自分の映画の音楽はぜひ先生のボレロでと請うたというから、伊福部昭氏の存在は大きい。で、戻るが一作目の「大魔神」の音楽の一つに、例えば前領主の娘・小笹(こざさ)がラスト近く、「お願いです。小笹一人を踏み殺すことで、お山へお帰り下さい」と訴えて涙を一粒大魔神の足に落とす名シーンがある。ここで流れる曲に哀感が込められていて見事だ。大魔神による破壊のシーンの重厚なムードではなく、限りなく優しく切ない旋律が聴く者の心の琴線に触れて、うっとりするばかりだ。You Tubeで容易に聴けるが、このような名曲は、楽譜が欲しいものだ。メロディーを音階にするくらいなら出来るかも知れないが、楽譜となると、知識も要るのでやや大変だ。しかしながら楽譜がないことには、自己満足に終わる。私は今、相棒と称する女人に請うて、楽譜を書いてもらっている。その一曲が、今回掲載する「母のない子の子守唄」である。初め私は聴き取ったままを音階に書き、確かめるためにハーモニカで吹こうとしたら、次々ミスが見つかった。そこで相棒ことサイエンスレディ・夕子に頼んだ。無償ではなく、食事又はスイーツをおごる返礼が不可欠だ。細かいことを言えば気まずくなるは必至だが、この御仁、私の失言も含め、いっとき回数券の如きものを作って、自らも忘れぬよう心掛けた周到さには恐れ入った。さて、もう少し伊福部音楽のことを書いてみる。初代「ゴジラ」の乙女たちの歌声は重厚だけではない伊福部節を味わった最初だったか。次が「大魔神」のラストの音楽。いや、じっくり思い起こすと、かなりムードたっぷりの曲がある。昭和38年(1963)の「海底軍艦」にもある。私は勝手に名前をつけているが、その伝でいくと「真琴のテーマ」だ。オープニング・テーマの物凄さとは全く異なって、やはり哀愁がある。楽譜におこしたくなったが、いかんせん書けない・・・。仕事で大変と承知で相棒に連絡した。村松「とりあえず音階は書けたけど、音楽のスピードなんかわからないし・・」夕子「ありがとお ! もー、イライラしてたのよ」村松「どうもすみません」夕子「違うの。ううん、わからなくていいの。で、なあに ? 」村松「あの・・、お仕事だから・・」夕子「なあによお ! いいって言ってるでしょ。んもお、腹が立つ」村松「すみません。ユコタンのムードじゃないから慎みます」夕子「ΦΣλαβγ! ! あ、やっぱりかけ直す、ごめん」村松「・・・・・(>_<)」ケータイコール。村松「はい村松ですが」夕子「ごめん。取り込んでたから」村松「あ、夕子か」夕子「ユコタンでーす、なんちゃって。あたしの愛称、ブログに公表だものね。今いいわよ。何 ? 真琴のテーマね」村松「楽譜なんて大変だからいいや、やっぱり」夕子「よくないよ ! 大丈夫。メール見たから。じゃ、ノートで送るよ。ええ、パソコンから。じゃね。・・あ ! スマホの通話出来た ? うん、あ、そう、とりあえず、ええ、通話出来たらいいのよ、何んでも。はい、じゃね」会話が入ると長くなる。話を戻す。伊福部昭氏の哀愁を帯びた曲の特徴の一つは、「歌詞」を余りハッキリさせないことだ。例示した「ゴジラ」ラスト近くの『平和の祈り』もそうだ。私は偶然当時話題になったバンド、ヒカシューの井上誠氏の「ゴジラ伝説」で歌詞を知った。掲載画像にもあるが、見づらいので、改めて掲載しておく。かつて発行していた特撮機関誌「大一プロブック」付録の表紙。『平和の祈り』収録。『平和の祈り』(東宝昭和29年、1954「ゴジラ」より)平和(やすらぎ)よ 太陽(ひかり)よ疾(と)く返れかし生命(いのち)込めて祈る我らのこの一節(ひとふし)の哀れに愛でて平和(やすらぎ)よ 太陽(ひかり)よ疾(と)く返れかしああ、ああ・・・・・歌詞中「平和」と「太陽」をこのように読むのが伊福部氏流かといぶかしんだが、ともかく女生徒たちの合唱の歌詞は言わばぼやかしている。これがなにゆえか良い。邦画の音楽は昔も今も歌詞が強過ぎて興ざめというのが私の年来の感想である。昭和29年(1954)「ゴジラ」劇中の『平和の祈り』の一場面。桐朋学園女子生徒による迫力ある合唱。洋画を見よ、聴けと言って生意気ならば、聴くべしとでも言いかえるか。ニーノ・ロータの「太陽がいっぱい」・「ジェルソミーナ(映画『道』)」・「ゴッドファーザー愛のテーマ」を列挙すればわかる。さらに西部劇なら「シェーン」、大作だと「風と共に去りぬ」・「アラビアのロレンス」共に映画音楽だけで鑑賞に堪える。翻って邦画をこき下ろすしかないが。アニメはほぼ歌詞付きなのは仕方ないと言いたいが、実はかつての東映動画に曲だけのものがある。東映動画第一作「白蛇伝」はNHK朝ドラでもモデルとして扱われたかも知れないが、支那(中国)の古典と題したもので、歌詞はない。「安寿と厨子王丸」も、木下忠司氏の哀愁たっぷりの旋律がタイトルバックに流れる。再び邦画の映画音楽の貧困さについて。まあ洋画の名作に比べて貧弱なのは仕方ないにしても、例えば歌謡曲映画と呼ばれたか、ともかく興行収入を当て込んだものが多くなり、タイトルバックから既に主題歌が流される。レコードで聴くものとほぼ同じバージョンで流れるから、いかにも安っぽくなる。まあ、仕方ないと心得るべきなのかも知れないが、アイドルの映画がシリーズになると、これは甚だしくなる。憎まれ口に違いないので実名は省いた。とにかく、邦画は映画音楽が独立して広く知られたという歴史がない。だから先述の竹内博氏の存在が貴重だと書いたのだ。彼が伊福部昭氏を周知させなければ、伊福部節という偉大な音楽に親しむに、まだ時間がかかったのではと思う。幸い、ある時期から例えば東宝昭和52年(1977)「八甲田山」公開の頃から、本作品作曲の名音楽家・芥川也寸志(あくたがわ・やすし)氏など、わが国に名だたる作曲家たちの名前が多分関係者有志の意気込みもあって、知らしめられるようになったから、邦画ファンの一人として、心から「良かった」と喜んだものだ。私はまあマニアなので、邦画の音楽は少しは知っているが、ともかく優秀な音楽家たちが、陸続と周知せしめられて本当に良かった。で、コロコロ変わる二枚舌となるが、邦画にも、その目で見れば、名作曲家による名曲はだいぶある。松竹映画「男はつらいよ」シリーズにも、おなじみの主題歌以外に、山本直純氏作曲の数々の名曲が流れる。特にラスト近く寅次郎が旅に出るくだりにはクラリネットのしんみりした曲が流れる。昭和38年(1963)東映動画「わんぱく王子の大蛇退治」より、名場面画像以下の画像のシーンから「母のない子の子守唄」が流れる。「母のない子の子守唄」楽譜 作成・監修/ユコタン(広瀬夕子)
2019.12.21
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「少―しマニア」発、東宝特撮映画見て「アレ ? 」2022/03/05開始「モスラ対ゴジラ」(2024年11月画像追加)今回は昭和39年、1964年4月公開の「モスラ対ゴジラ」。小生、小学6年生になったばかりだった。美空ひばりさんが歌った「柔」は、同名のテレビドラマの主題歌でもあり、このドラマは日曜日の夜8時から日本テレビ系列で放映されたと記憶するが、これは間違いかも知れない。なお、失礼ながら本題の文章は、ほとんど終わり段落近くなので、あとは冗長な駄文となります。長広舌の駄文を避けるには、最後から三段落目まで飛ばして下さい。「モスラ対ゴジラ」は、当然の如く、映画館で見た。ただし、この時のいわゆる「モスゴジ」と呼ばれるタイプのゴジラのぬいぐるみは余り好きではない。私は昭和37年の「キングコング対ゴジラ」に出た「キンゴジ」が好きである。初代ゴジラを除けば、歴代ゴジラの中で最も恐竜っぽい怪獣として大好きだった。東宝特撮ファンには周知のことでしょうが、画像上が「キンゴジ」、下が「モスゴジ」です。また脱線する。大学へは何んとか復帰して、特撮の趣味もいろいろ実行したが、この時期に束の間知り合い、のちケンカ別れした特撮マニアに「モスゴジ派」がいて、キンゴジを「カエルづらでカッコ悪い」と言った。これがケンカの原因ではないが、私はこの年となった今、趣味を同じくする者たちとは仲間にならぬが良いと断言出来る。無論バイク然り。だいたい、マスツーリングとかいう、大ぜい徒党を組んで走るのも、大嫌い。イヤな奴が必ずいる。結論は人数の多寡に関わらず、同好の士は禁物ということだ。無論、例外はある。互いにバイク好きな交際相手の彼女を持つこと。これは男同士と異なり、ざっくり言って、こちらが下手(したて)に出るを事としている限り、良好に続けることが出来る。女人と意見が合わぬ時は、余程こちらに論破の自信無き限り、真っ向から論戦を挑むべからず。女人のほうが「超論理」で必ず強い。もっともフラれたらそれまで。女はナゾだ。私も一度はフラれた。そして今でもなぜか交際している。万一失恋してそれまでだとしても、女子ライダーが一人誕生に至ったことは良かったと言える。ひとことのろけておく。私がこの婦人との交際を続けた大きな理由の一つは、「おしゃべりが少ないこと」である。ユーチューブのある番組で、男を一日七千語とすると、婦人は二万語との大差と仄聞したが、この婦人はあるいは理系畑で来たからか、私より言葉数が少ない。やや長くなる時は、私が科学的解説を頼んだ時の、説明くらいで、いわゆる「まくしたてる」ことをしない。例外はどこそこにスイーツのおいしい店があったなどという時のみ。これは聞いていて楽しい。さて、今回の「モスラ対ゴジラ」でも、映画の画面に出て来るものについて、「あれ ? 」と思わせるものを扱っている。しかし、「キングコング対ゴジラ」同様、本作品をからかったり、侮ったりしてのことでは断じてない。どうしても平成以降のゴジラ映画を引き合いに出してしまう。特殊技術そのものは、昭和の特撮をしのぐものもあるだろうが、映画全体を通して、見る者を画面にくぎ付けにするほどのエキサイティングな物語進行は見られない。乱暴に言うなら「退屈」なのだ。私は食わず嫌いを反省するつもりで、改めてスカパー各局で放映されたゴジラ映画を録画して見てみた。だが開巻冒頭から見る者を引きずり込む展開がなく、それでも観察という考えに切り替えてなお見続けようとするが、出だしの物語が次のシーンへと気持ちを引っ張ってくれるような筋運びは残念ながらない。これは偏見、独断ではなく、どうしても昭和のゴジラ映画は、次の場面、その次の場面への鑑賞欲求を喚起させてくれるものだと思えて仕方ない。「モスラ対ゴジラ」を例にとると、冒頭の台風のシーンがその特撮の迫力で台風一過のシーンへと興味をつなげる。空は快晴、そこに何本もの黄色の排水管が勢いよく水を吹き出す。そしてほどなく巨大なモスラの卵が流れ着き、それを追い求めて小美人が、成虫モスラと共に姿を見せる。台風で水浸しとなった倉田浜干拓地では、排水作業がうまく進み、広大な土地を切り開く希望的観測が描かれるが、その土の中に眠っていたゴジラが現われて、土地開発は多分頓挫すると思わせるが、ゴジラは名古屋地域を進んで名古屋城をこわし、さらに東進して、遂にモスラと戦う。ここでモスラは放射能火炎に焼かれて、絶命、ところが卵が孵化してモスラ幼虫が双子で誕生、ゴジラの暴威を食い止めて終幕。ここまで、退屈で困るシーンは無いと言える。ゴジラを食い止めんとする自衛隊のシーンも観客サービス満載で、実にミニチュアのヘリコプター四機編隊が、ゴジラに電撃ネットをかぶせるシーンが次々続く。怪獣ファンを自認するさすがの少年たちも、このシーンにくぎ付けになる。ヘリコプターを操演するだけでも凄いのに、四機のヘリが一糸乱れぬ安定した動きで、巨大なネットを外す。ネットは吊り下げられていた時と全く同じ水平を保って落下するし、ヘリコプターはカッコ悪くゆれるなぞということは全く無い ! 「凄い ! スゴい ! 自衛隊もやるなあー ! 」特撮技術大絶賛の思いで特撮シーンにくぎ付けになった。昭和39年春当時のことはさすがに思い出せないが、多分映画は飽きるまもあらばこそ、あっというまに終わっていたはずだ。しかもこの年は夏に「宇宙大怪獣ドゴラ」が公開されている。「はまぐりの鳴き声」とのパンフレットの言葉にも「何 ? 」とわけが余りわからないまま、新怪獣への興味をかきたてられた。そして極め付きは暮れから正月へかけて公開された「三大怪獣・地球最大の決戦」である。その人気今に至る金星怪獣キングギドラ堂々の登場である。私は今でもこの時代に生まれ育ってよかったと思っている。ほぼ同じ昭和39年のうちに、東宝怪獣映画を三本も見ることが出来るなんて、いくら入場料を払っているからといって、制作スタッフ陣の熱意がなければ、かなわぬことだったはず。そしてガキの私も、この小6から、やがて中一になる頃で、そろそろ正義の味方やアニメに飽きて来た。そしてさらに昭和41年、1966年には園まりさんが少年をも魅了した。「こ、こんなきれいな女(ひと)が ! 」。何んともスゴい誘惑的なお色気を振りまいてくれて、思春期間近の少年も、ようやく異性にひかれ始めた。ようやく大人の女の人の魅力が、文句なく理屈抜きに、下半身を刺激するようになった。こうなると、元から持っていた食欲なぞ、場合によりどうでもよく、「女の人の体って素敵 ! 」と、新たなる心身の変化に身を委ねて喜ぶようになる。おっと、またもお下劣方向に行きそうになる。軌道修正。今回はそろそろ本題の「モスラ対ゴジラ」のエピソードに入ろうか。我れながら横道の話は余り面白くない。試しに入ってみようか。・・・・と書きつつも、本題に近い話はどのあたりまで書いたかと、さぐりたくなる。お ! ゴジラ電撃ネット作戦だ。ゴジラに高圧電流をぶつける作戦は、それこそ初代の昭和29年(1954)「ゴジラ」でも使われたが、怒りを増すくらいがせいぜいで、効き目は無きに等しい。昭和37年(1962)の「キングコング対ゴジラ」ではキングコングが帯電体質になって強くなる設定のためか、ゴジラは送電塔の高圧電流にたじろいで、引き返すようになっていたが、実はゴジラはこれしきの電気攻撃にはびくともしないはず。子供心にと言ってはウソになるかも知れないが、この「モスラ対ゴジラ」におけるゴジラ迎撃作戦にはメリハリが感じられず、「なぜわざわざA作戦、B作戦と名付けたか」との疑問が残った。もっとも、似たような疑問はゴジラ映画前作の「キングコング対ゴジラ」でも感じた。ややダブるが、ゴジラを食い止めようとする作戦のうち、撃滅を期したと思しき「埋没作戦」はわかるものの、すぐ次の送電塔の高電圧による食い止めの試みがやや成功したあと、同じ送電塔に迫ったキングコングがひるまずに、かみついて浴びた電気で、帯電体質になるというつなげ方は、関連書の説明を読むまでわからなかった。大怪獣が市街地や住宅街を破壊しながら進むシーンは、ごく当たり前のことと見ていた我々は、高圧の送電塔も、怪獣の進路にたまたまあるからパチパチと電気がはじけるのだとばかり思って、つまり特別に工事などして用意した作戦地区とは思わなかった。詳しいことはわからないが、ストーリーをざっと調べると、ゴジラは高圧電流の送電塔を突破出来ずに東京を迂回、いっぽうのキングコングは電線をかみちぎって都心へ進行するということがわかる。これでようやく気付いたのだが、ゴジラはこのあといきなり富士山の山腹にいて、キングコングは麻酔で眠らされ吊り下げられて、東京から富士山まで運ばれて来る。キングコングは東京の後楽園遊園地あたりへ進撃して、ついには国会議事堂をも少し壊す。なぜこんなことをわざわざ書くかというと。昭和37年、小学4年生だった私は、御殿場市のところどころに設置されている映画の看板を、見つけるたびに食い入るように見た。ポスター写真は少しずつ異なることもあるが、中にゴジラとキングコングが東京都心で対決している写真があり、これにわくわくしたものだ。そして映画本番では東京都内へ進行したのはキングコング一頭で、大暴れはせず、東京の市街地ミニチュア群も当然出て来なかった。地下鉄丸の内線が地上に出る時のわずかなミニチュアと国会議事堂くらいだ。ただ、上映が始まるや、各場面にくぎ付けになるので、少年の目にはいずれの場面も新鮮であり、ラストの熱海、錦ヶ浦近くのシーンまであっという間のことだった。違和感は何んとなくあった。昭和36年(1961)の「モスラ」のこれもわくわくするような東京ど真ん中・・・でもないが、確実に港区芝公園で東京タワーをこわすシーンが、そこへ着くまでの、例えば昔で言う東京都下の家並みや渋谷道玄坂が、そして渋谷駅の東急デパートが脳裏に焼き付いたので、大學へ行くために上京して、もうそれこそいやというほど、東急東横デパートも見たし遠くからも眺めたし、ついでにこのあたりで女子にフラれた。東宝は昭和29年の「ゴジラ」ではかなり実景に忠実に東京各地の有名建造物をミニチュアで再現し、臨場感と迫力ある市街地場面を作り上げている。昭和30年の「ゴジラの逆襲」でも大阪を中心に街並みを描いている。実景そっくりに街並みを作るのは、見る者にも当然のことだと認識されたと思う。その目で次々に公開される作品を見たので、昭和31年「空の大怪獣ラドン」の、九州を舞台とするミニチュア市街の再現映像は、当地を知らぬ者にも、インパクトがあった。その実景に忠実なる再現の極致は、市街地建物では当時の福岡の岩田屋デパート、そして建造物は当然西海橋だった。モータリゼーションの時代が訪れてさえ、気軽にドライブ旅行なぞとはいかなかった。第一我が家には自家用車なぞない。父が車を初めて買ったのは、1966(昭和41)年5月で、私が中二の時、中古のトヨタ・パブリカだった。ほどなく同年11月に同じくパブリカを新車購入しているが、父はとにかく非力な車だったと言っていた。ゆえに、ようやく自家用車を買っても、ドライブ旅行に遠出することはなく、せいぜい日帰りで富士五湖の幾つかを訪れる程度だった。東宝特撮映画に登場する日本各地の風景は、現地にこそ行かないが、ややなじんだところが多く、観光地などの有名な建造物ミニチュアが出るたび、画面に見入ったものだ。それで「キングコング対ゴジラ」では、映画看板ほどの都心部ミニチュアは少なく、それでもラストに用意された熱海城ミニチュア・シーンにもくぎ付けになった。「モスラ対ゴジラ」に戻るが、ゴジラ迎撃シーンには、時代を反映した自衛隊の兵器が登場して、これもまた特撮ファンの我々を魅了した。自衛隊の兵器、銃火器などの沿革をたどるには、それこそ陸海空少なくも三分割するだけでも、同時代に三つに大別出来るものもあろうが、無論、それぞれは時を違えて新型、新兵器が登場するから、単純には眺められない。そこで今回は、陸上自衛隊の戦車に目を向けているのだが、何しろ大東亜戦争敗戦と共に、我が帝国陸海軍は、徹底的に武装解除させられた。原因・理由は様々かも知れないが、一つ特筆すべきは、アメリカが日本を、日本軍の強さを恐れたことが挙げられよう。負けたから弱い、さほど強くないというのは無知な証拠。ゼロ戦、戦艦大和を例示しても足りる。ゼロ戦は海軍のものだが、陸軍にも優秀なる航空機があった。ところが敗戦と共に、当時無傷で残っていたものも含めて、解体、破壊が徹底された。有名なところでは艦体がほぼ完ぺきに残っていた戦艦長門は、原爆実験と称して沈められている。残してあれば、明治の旗艦、戦艦三笠と共に、大東亜戦争の記念艦として、その巨体の威容が未だに語り継がれたに違いない。さて、陸上自衛隊の武装の中でも注目度の高いのはやはり戦車だろう。しかも自家用車などとは異なり、始終モデルチェンジもあり得ぬから、何年に一度かの新型ともなれば、かなりのインパクトである。何しろ敗戦後の様々な事情もあって、あらゆる武装が消滅した。陸海軍全面解体を命じておきながら、本当は愚かではと思うほど、アメリカは朝鮮動乱(朝鮮戦争)で、共産主義のこれまた脅威にまもとに出くわしたから、急きょ日本に再武装を命じた。日本は敗れたりとはいえ、全く見事で、特に(私の父も含む)旧軍人たちは、あっという間に自衛隊編成強化の期待に応えた。警察予備隊なぞでは、一般人には横柄にふるまえても、真の戦闘には臨むべくもない弱体だった。残念ながら各兵装にも不足なところがあって、要はアメリカ軍の戦車、M4シャーマンやM24チャーフィーを供与され、使用することとなった。上掲8枚とも昭和31年(1956)「空の大怪獣ラドン」に登場の軽戦車M24チャーフィー。一枚目は本物のM24。実際、東宝特撮映画でも、米軍製戦車を使う必要となり、1961年の61式戦車が完成するまで、M4、M24が東宝自衛隊の戦車として画面にも登場することとなり、場面により、本物も登場していた。このことにつき、かなり検索してお世話になっているウィキペディアは、詳述に怪しいところがあり、うのみにはせざるべしと心得る。今回扱っている戦車についても、例えば『61式戦車』は初の国産戦車であるが、1960年代の東宝特撮映画では、純然たる61式戦車としてのミニチュアは作られていない。それでも早くも1964年「モスラ対ゴジラ」では複数の61式戦車と思えるミニチュアが登場していてなかなか迫力がある。正直に言うと、軍事兵器に疎い私は、ごく最近までこの61式戦車について、怪しむだけの知識がなかった。改めてビデオをじっくり見て確かめることが出来たのも、ウィキペディアの記述のおかげである。ただし、既に有名な東宝特撮映画の記述となれば、当然正確さが不可欠だ。この点に於いて、ウィキペディアの説明は怪しいものがある。一体誰が情報提供しているのか、怪訝である。話題を戦車以外のことに及ぼせてみる。昭和41年(1966)公開の「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」のロケ地を未だに『山中湖』と記してあるが、それならば河口湖も併記する必要を感ずる。劇中、人々がおおぜいガイラの脅威から逃れんと避難する群衆シーンがあり、この画面の背景に『河口湖ホテル』と書かれた建物が登場する。残念ながら意見を申す方法がわからぬ万年ビギナーのため、疑義の申し出がかなわぬが、ハッキリ言えることだ。劇中富士五湖が複数現われても不思議ではないかも知れないので、山中湖を間違いと決めつけることは出来ないが、湖の実写シーンに、湖中の島が見え、特に地元の我々ならば、河口湖の湖中の島はまあ有名なので、怪しむのだ。更に戦車に話を戻すなら、今回テーマとしている「モスラ対ゴジラ」の説明にも疑問がある。★ミニチュアが、日本映画初登場。★こう書いてある。無論意味は『61式戦車ミニチュアが、日本映画初登場。』とのことと判断出来るが、このページの他の日本映画についての文章には61式戦車と明記してあるので、ページ全体のバランスに難を感ずる。更に、昭和40年(1965)「怪獣大戦争」に61式戦車が登場との説明があるが、この時使用された戦車ミニチュアも、接地転輪五個のM24チャーフィーと思しきものも写っているので、疑問をぬぐえぬ。61式戦車の実物。地面に接地している転輪が6個確かにある。まあ、あんまり小言ばかりでは我れながらうんざりなので、このくらいで措(お)く。だいぶ横道にそれてしまったが、いよいよ今回のテーマである東宝昭和39年(1964)「モスラ対ゴジラ」の戦車に及ぶ。ズバリ、この時、61式戦車の全体のミニチュアが完成していなかったためか、『61式戦車』として登場する戦車ミニチュアは、ざっくり言って、車体下半分がM24チャーフィーで、上半分が61式となっている。そして無論、リアルタイムでスクリーンを追う私の目では、細大もらさず観察するのは無理で、「ああ、1964年だから既に制式採用された61式戦車の登場か」と、感激さえした。だが観察眼の見事な人がいたようで、本作品を報ずるウィキペディアは最初、「転輪の数が61式の6個ではなく、5個である」と見事に指摘。私はこれを読んだあと早速録画したビデオで確認した。ただし、今度はやや集中して観察したせいか、転輪、つまり地面に接地している接地転輪は、場面により、6個と5個とに分かれていると見える。あるいは遠景用に6個のミニチュアが作られたのかも知れないが、正確なことはわからない。というのも、M4シャーマン戦車は転輪6個で、装着にやや特徴があるが、シャーマン戦車の上部を付け替えれば61式に見えなくもないとみた。のちに、ウィキペディアの本作品の説明文からは、転輪のことは削除されたようだが、ウィキペディア別ページ『61式戦車に関連する作品の一覧』には、複数の映画作品のことが掲載されていて、これはこれでとても興味深い。「モスラ対ゴジラ」に登場の戦車の転輪の数について書こうとしておきながら、ダラダラと長いだけの駄文を連ねてしまった。おしまいです。
2022.07.08
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