ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

PR

×

サイド自由欄

QLOOKアクセス解析

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

Verdiさん

Verdiさん

カレンダー

コメント新着

Verdiさん @ Re[1]:9/14 N響定期公演 (2024年9月 Aプロ1日目)(09/14) Maybe.さんへ >隣の席のテーブルマナ…
Maybe.@ Re:9/14 N響定期公演 (2024年9月 Aプロ1日目)(09/14) 誰がどうであれ、感動したなら構わないけ…
Verdiさん @ Re[1]:3/30 東京春祭トリスタン(04/01) emigmaさんへ ああ、ヤノフスキですね。ま…
emigma@ Re:3/30 東京春祭トリスタン(04/01) ひぇっ!ヤンソンスがN響ふったんですか!…
Verdiさん @ Re:12/3 N響定期公演 (第1971回 2022年12月Aプロ1日目(12/04) NHKで録画が放送されたのを観てみました。…

フリーページ

2020年09月18日
XML
カテゴリ: オペラ

8 年前に亡くなった吉田秀和の著作集が最近文庫本で出ている、と言っても、誰それ?という人も少なくはないのか。戦後から今世紀初頭に掛けて日本のクラシック音楽評論を、まぁ、一応、リードした、と言ってもいい人だとは思うのですが。好き嫌い毀誉褒貶は色々あると思いますが、まぁ、代表的な人の一人。私は結構好きなんですけれどね。ぺダンティックだとか言う人も少なくないでしょうけれど。

 その吉田秀和の文章が、河出文庫からテーマを決めて再編したものが出ている訳です。で、比較的最近、というのはこの2月なのだけれども、出たのが、クライバーとチェリビダッケとバーンスタインをテーマに書いたものなのですが、そこに解説(渡辺和彦)が付いていて、これがちょっと、まぁ、言ってみれば看過出来ないことを書いていて、これを書くことにしました。そういう話だとするとここに書くことではないんでないの?別棟じゃね?という話はあるのですが、言いたいことはどちらかというと舞台に関することなので、ここで書いてみることにしました。いや正直前から思っていることではあるんですよ。

 で、まず、何が看過出来ないかという話から。

 カルロス・クライバーの項目に、スカラ座の引越し公演で「オテロ」を振った時の評が載っているのですね。1981年。で、その中で、ゼッフィレッリの演出についてあまり好ましくないということが書かれているのですが、解説では、これを取りあげて「推測ながら、吉田は映画的な手法や「演劇的虚構」「アンチ・リアリズム」についての理解と体験が乏しかったのではないか。」として、「的外れな感想を表明、ダメ押し的に「大演出家のするべきことではなかったろう」とまで書いてしまった」と言っています。筆者自身も実際に見て批評も読んで「編集部で”殿ご乱心”として制御できなかったのか」と思ったとか。更に、「この認識が災いし、彼は自らの最晩年期に現れたオペラ”読み替え新演出”の舞台を、口を極めて攻撃していた。」と言うのですが、まぁ、正直言うと、少なくとも1990年代以降はある程度読んでいた身としては、一体何処でそんなに口を極めて攻撃していたのやら?とは思います。また、公平を期すならば、筆者は決して吉田秀和を全面的に否定している訳ではないのですけれども。(以上括弧部は直接引用、文庫p206)

 さて。引用が少し長くなりましたが、ここには二つの問題があると思っています。一つは、吉田秀和の「1981年のゼッフィレッリの演出に対する批評の内容」、もう一つは「読み替え演出に対する非難」について。

 まず、吉田秀和という人は、少なくとも戦後かなり早い時期から海外に出るなどして、オペラも含めた数々の公演を見聞きしていた人です。大体がフルトヴェングラーを生で聞いている人ですから、そのくらいから聞いているのは確か。で、後年は海外に行くことは決して多くはなかったと思います。ただ、例えば、バイロイトの新バイロイト様式とかの演出も同時代で見ているのは確かです。

 で、この批評は、そういう履歴を持つ職業的評論家が、1981年の時点に於いて、ゼッフィレッリの演出を見てどう考えて言っているか、という事を考えるべきだと思います。

 吉田秀和がオペラについて、それも演出について書いた中で、私がよく覚えているのは、二期会公演で粟國安彦(粟國淳の父親、と言った方が今は通りがいいのでしょうか)が演出した蝶々夫人についてです。細かいところまでは覚えていませんが、吉田秀和はこの演出を「蝶々夫人は何故死んだのか?」というようなところから再検討して、それをどのように組み立てるか、細部に至るまでよく検討して作られている、というようなことを書いています。それは見ようによっては細部に拘っているだけ、と言えなくもないのかも知れないけれど、それを読めば、少なくとも吉田秀和は舞台というものをどのように見るか、ということは少なくとも自分の視点としては解っていたのではないかと私は思います。

 件のゼッフィレッリの演出は私は見たことはありません。ただ、ゼッフィレッリの演出というのは、若干は見たことはあります。今もまだ残しているであろう、新国の柿落とし公演のアイーダがありますし、ウィーン国立歌劇場で人気のあったボエームの舞台もよく覚えています。他にも何か見ているんじゃないかと思うけれど。

 で、その少ない経験と、ゼッフィレッリの言葉などから思うのですが、私の理解ではゼッフィレッリという人は「写実的」な舞台を作る人だと思っています。ちょっと良い言葉がすっと出てこないのですけれど、この場合の「写実的」というのは、そこにあるものがそこにあるものとして見える、その見え方に拘る、というようなことを言いたいと思っています。

 具体的にはどういうことか、は、端的に言えば、あの新国のアイーダを思い浮かべて頂ければいいのですが、確かに豪華絢爛だけれど、例えば一方で、1幕の御神体が金色に光る、それを本当に金で作る(確か無垢ではなくて金属に本当の金のメッキだったとは思いますが)ことで、実際に見る人にそれが本物であると思わせる、というような話に象徴されると思います。無論それは作り話の作り物だけれど、本当の「金」を置くことで、舞台それ自体の現実感を作り出す、というような。その一方で、幕切れの3重唱、地下に生き埋めにされているその上下を実際に作って見せることで(地下が浅過ぎるとも思わなくもないですがね)現実感をもってみせるようにする。ウィーンのボエームであれば、2幕のカルチェ・ラタン。あれは、舞台を上下にして、上の通りから下の通りに連なっているようにして見せることで、本当に人混みなんだ、と思わせるようにしている。

 ここでいう「写実的」と言ったのは、言い換えると、「安易に”見立て”に頼らない」ということなんですね。

 最近のオペラの舞台は、これはオペラに限らずなんだけれども、ちょっと”見立て”に安易に頼り過ぎていると私は思います。

 舞台というのは、現実とは違う場ですけれども、一方では「そこに具体的に厳として存在する」という意味では現実のものです。その、「現実ではないけれどこうであるという設定」と「現実にそこにあるものとしての舞台」とのギャップを埋めるものとして、”見立て” というものが出て来ます。「実際に舞台で見えているのはこうであるけれども、それは本当はこういうものですよ、という前提を受け入れることで設定を成立させる」とでも言えばいいのでしょうか。

 それは、舞台上に再現されるものがそれそのものでない以上ある程度やむを得ないものです。ただ、それはあまりに安易にやり過ぎると、現実からどんどん離れていってしまう。ゼッフィレッリの演出に感じるのは、その”見立て”を可能な限り排する、或いはその”見立て”を出来る限り観客が成立させやすいようにする、ということだったのではないかと思うのです。その為に可能な限り「写実的」に見せることで、観客に入り込みやすくする。そんなところでしょうか。

 件の評で、吉田秀和はゼッフィレッリの演出について幾つか、まぁ正直言って割と細かいことを言っているのだけれども、確かにそれはまぁそれでもいいんじゃないか?という内容でもあります。ただ、一番詳細に指摘しているのは、最終幕でのオテロのデズデモナの寝ている寝室への登場の仕方。読み解くに、この演出では、寝室は舞台正面に向かって設定されていて、少なくとも吉田秀和は、寝室がダイレクトに客席に向かって見えている設えだと理解していて、その前を、舞台の一番前のところを、オテロが下手から舞台に入って来て横切り、上手側に行って、上手側から寝室に入って来る。多分こういうことを言っていて、これを、吉田秀和は、「寝室と公衆の間には壁も仕切りもないのだから、ステージの前面はすべて寝室の中でなければならない。そこを歩いて横切り、しかもあとで右の外から戸をあけて寝室に入るということが有り得るはずはない。現実的にも論理的にもおかしい。「効果」のために、ここだけ急に非現実的なやり方にすがるという矛盾に目をつぶるのは、私にはできない。いや、大演出家のすべきことではなかったろう。」と言っています。(文庫 p69-70)

 なるほど、「それは見立てなんですよ」と言えば、そうなのかも知れないけれど、私は多分そんなことは百も承知で吉田秀和は書いていると思います。だから、「ここだけ急に非現実的なやり方にすがる」と言うのだと。

 元々吉田秀和はこの演出はあまり好みではなかったらしいことはその前段で書いているので、或いは筆の勢いで書いているのかも知れません。しかし、この表現から察するに、吉田秀和は「観客は寝室をダイレクトに見ている」と舞台を解釈していると思います。だから、その前を横切らせてはいけない、というのだと。確かに、舞台の構造を想像するに、かつ、この部分でオテロの姿を存分に見せたい、と考えればこそ、敢えて横切らせるという判断をゼッフィレッリはしたのかも知れません。それでも、1981年時点でのゼッフィレッリの演出、ということを考えた時、私はこの吉田秀和の評は決して劇というものをよくわかっていない人の発言、だとは思えないのです。むしろ、重々分かっているからこその指摘だったのではないかと思うのです。「安直に見立てに頼るな」「この舞台のグランドデザインがそうであるならば、この人の動きは劇を阻害しているぞ」という指摘なのではと。その違和感を感じ取り、言葉にしたのだと、まぁ、勝手に思ってるんですけれどね。

 長くなったので、読み替えの話はまた。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年09月18日 20時47分44秒コメント(0) | コメントを書く
[オペラ] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: