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まぁ、私自身元々読み替え式の最近の演出はあまり好きではないです。
一方、吉田秀和がそんなに読み替え演出についてわぁわぁ言ってるのを読んだ覚えもないんですけれどね。
だから、実は、吉田秀和絡みでどうこうっていうのはあまりないんです。ただ、この、「読み替え演出」っていう話がとてもいい加減に使われてる言葉だと思うんですね。そういう言葉自体に非常に引っ掛かるのですよ。実はこれ前から言ってることなんですけれども。
正直言うと最近はあまり一生懸命世の中の動きを追っ掛けていないので、分からないっちゃぁ分からないんですが、未だに「読み替え演出」なんていい加減な言葉が使われてるんですかね。まぁ、その一方で、ペーター・コンヴィチュニーあたりが言うようなMusik Theatreみたいなのにもいつまで眩惑されてんの?とも思うのですが。
ただ、なんもかんも一緒くたに「読み替え演出」みたいな言い方するのが未だに続いてるんでないかい?という前提で、この話を書いています。
で、申すと、そもそも「読み替え演出」と総称されているならば、それは本当は幾つかに分けないといけないんだと思っています。
というか、言い出すと長いんですが、「読み替え=元の作品のト書き通りでないように思われるもの」とするならば、そもそも何が違うのか、によって変わってくるわけです。
比較的よくあるのは、原作の前提となる舞台を違う場に設定してしまうもの。世界観を変えてしまうわけです。例えば、ペレアスとメリザンドの舞台が現代調になっていたり、オテロの舞台が恒星間大型宇宙船になっていたり、とか。(これどっちもチューリヒで実際に見せられましたが。後者はホセ・クーラのオテロで、ネッロ・サンティの指揮で。なんでこのメンツでこの演出…)これ、わかりやすいしある意味センセーショナルにしやすいけれども、実は、ストーリーとしてもプロットとしても、つまりは物語の骨子も主題も変わってないのですね。つまり、世界観以外はむしろ原作に忠実。
一方、プロットやストーリーを変えてしまうケースもあります。これも、プロットもストーリーもほぼそのままで、いわば解釈の違いレベルで意味を読み替えてしまうケースもあれば、全面的にプロットもストーリーも変わってしまうケースもあります。前者で有名なのは、ジャン=ピエール・ポネルによるバイロイトでのトリスタンとイゾルデの演出でしょう。1983年とかその辺の演出ですが、舞台上は原作のそれを大きく出ることなく、第3幕、最後の最後の最後に、実は第3幕(少なくとも後半部分)は瀕死のトリスタンの夢でした、という、夢落ちトリスタン、イゾルデは来なかったトリスタン。これなんて、少なくとも今から見るに現代的演出とは言えないし、読み替えてもいない、とすら言えるけれど、でも、結末の位置付けは全く異なる形に、これこそ「読み替えられている」訳ですね。ただ、これは、読み替えているけれど、あくまでポネルの演出は「ポネルが解釈した、ポネルが読み取った」「トリスタンとイゾルデ」なんですよね。ギリギリのところで、それはまだ「トリスタンとイゾルデ」である。
問題は後者で、たとえば何年か前に新国立劇場でやったフィデリオ。今見たら2年前でした。 その時も書いたのだけれど、 これはフロレスタンとレオノーレが助からない演出なんですね。で、この時、私は評価としてはあまり否定的には書いていないんだけれど、音楽は変えていないけれども、演出的にはある意味真逆の話になってしまっている。ストーリーもプロットも崩壊しているんですね。実は、この時、この演出にそれほど否定的に書かなかったのは、昔やはりフィデリオでとんでもない演出を見たことがありましてですね。もう20年くらい前、シュトゥットガルトで、これも助からないフィデリオだったんですが、簡単に言うと第2幕最後「殺させないわ!」とレオノーレがフロレスタンを庇ってピサロに銃を向けて、揉み合いになって……..フロレスタン、暴発した弾に当たって死んじゃいましたよ。で、どうすんだどう住んだ、と見ていたら、そのまま訳わからんままに大団円でおしまい、全然落とし前付けないで終わっちゃったというのがありまして。いや、それに比べれば、ちゃんと落とし前付けてるだけマシじゃん、というね。
で、この3種の「読み替え」とは別に、もう一つ評価基準があると思ってます。それは、「作品を”使って”いるのか否か」。表現者としては、どっちでもいい、というのかも知れません。でも、個人的には、古典作品を自分の言いたいことを言うための「道具」として使うのは、表現者としてどうなんだえろう、と思っています。所謂「読み替え」演出では、少なからず「使っている」だけの演出があるんですよね。個人的には、ペーター・コンヴィチュニーとかは、この系統だと思っています。つまり、それ、このオペラで言うべき事なのか?それは、このオペラの中で表現することが必然なのか?という視点。だったら、お前、映画でも撮れよ、と思うんですね。オペラに寄生してるだけじゃねーか、と。件の新国のフィデリオとかは、物語を全く変えてしまっているのだけれども、ただ、それは、あくまで個人の主観ですが、ギリギリのところで、フィデリオという作品の枠内に留まっているのだと思うのですね。多分演出家の言いたいことを言っている演出になってしまっているけれど、ギリギリのところで、それをフィデリオでやることに必然性はあるのか?という問いに答え得ているのではないかなと。それは、ポネルのトリスタンもそうですね。あれを読み替えという人はいるかどうか分からないけれど、でも、殆どあの最後の1分そこそこで、トリスタンとイゾルデというオペラの存在を根底から揺さぶってみせて、かつ、破壊はしていない、というような。
で。訊きたいわけですよ。「読み替え演出」ってなんのことを言ってるの?って。
ちなみに、そもそもの吉田秀和が、どういう演出を否定してたのか、そんなにわぁわぁ言ってる文章を私は見たことないんで、何をそんなに否定してたのか分からないんですけれどね。まぁ、前回書いた通り、吉田秀和自身はオーソドックスなタイプの演出を長く見ているわけだから、中途半端な演出をそう簡単に褒めるということはないんじゃないかな、というくらいには思うんですが、ね。