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クロニクル 川上選手2千本安打1956(昭和31)年5月31日59年前のことです。この日巨人軍の川上哲治選手が、日本のプロ野球選手として初めて、2千本安打を達成しました。その後2千本安打を達成する選手は次第に増え、今年も間もなくドラゴンズの和田選手が達成しそうです。しかし、3千本となると日本では大変少なく、張本選手と日米通算のイチロー選手の2人だけになります。そのイチロー選手は、昨年日米通算4000本安打を達成、昨日現在では通算4154安打を記録しています。安打製造機と言われる打撃技術も凄いですが、私はプロ入り後、一度も大きなけがをせず、長期欠場が40歳を過ぎた現在まで、一度もないというところに、彼の凄さを感じています。米大リーグでは、4千本安打が何人もいますが、イチロー選手がピート・ローズ選手の4256安打という最高記録を、日米通算で抜くことができるかどうか、出場機会が減ってきているだけに注目しています。
2015.05.31
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クロニクル テルアビブ空港乱射事件1972(昭和47)年5月30日43年前のこの日、イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本人ゲリラが自動小銃を乱射、手投げ弾数発を投げて、乗降客ら26人が死亡、73人が重軽傷を負う大惨事が起きました。3人は、パリ発のエール・フランス機にローマから乗り込み、午後9時45分にテルアビブ空港に降り立ち、税関のカウンター近くから乗降客で賑わう待合室へ向けていきない発砲、手投げ弾も投げ込みました。待合室は血の海となり、大混乱に陥りました。イスラエルによるパレスティナ人虐殺への報復でしたが、実行犯が日本人3名と言うのが驚きでした。3人中2人は現場で死亡、捉えられた1名が岡本公三(当時24歳)でした。岡本はよど号ハイジャック事件で北朝鮮入りした岡本武の実弟でした。取調べの結果、3人は日本赤軍内の重信房子をリーダーとするグループに属し、パレスティナ急進派のPFLP(パレスティナ解放人民戦線)と連携していることが明らかになりました。2月の浅間山荘事件、それに続くリンチ殺人の発覚に続く、衝撃的な事件でした。
2015.05.30
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クロニクル 住友銀行、平和相互銀行との合併契約に調印1986(昭和61)5月29日29年前のことです。当時平和相互銀行という、異色の銀行があったことを覚えている方も多いと思います。当時の銀行の中でただ1行だけ、午後7時まで、窓口を開けていた銀行です。 この銀行は、小宮山グループという政商の経営する銀行で、竹下(当時自民党幹事長)派の資金源の一つと噂されていました。この平和相互銀行が、乱脈経営のツケなのですが、過剰融資先の倒産で、巨額の不良債権を抱え、倒産の危機に陥ったのです。今なら当然のことに1時国有化なのでしょうが、当時は、バブルの助走期でした。午後7時まで営業可能な東京など首都圏での店舗が多数手に入るのですから、大銀行のほとんどが、同行救済に関心を示したのは、当然といえば当然でした。そうした中で、同行を射止めたのは、これまた竹下グループとの因縁浅からぬ住友銀行でした。29年前のこの日、住銀と平和相銀は合併契約を結び、やがて、平和相銀の名は、消えていったのです。小渕首相や宮沢蔵相に直接口説かれても、長銀救済に手をあげる銀行は1行もなかったこと(1998年)を考えると、幸せな時代だったのだなぁと、懐かしく思い出されます。
2015.05.29
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クロニクル 山一特融1965(昭和40)年5月28日今年でちょうど50年になります。この日、田中角栄蔵相は、深夜になって突然の緊急記者会見を開き、証券緊急対策として、倒産の危機が噂されていた山一証券の危機が事実であることを認め、同社に対して日本銀行が無制限、無期限の特別融資を行うことを決定したと発表しました。世にいう山一救済劇、日銀特融の幕はこうしてあがりました。1960(昭和35)年の池田内閣の所得倍増政策の発表で、株式市場は活況を呈し、この年初めて日経ダウ平均は1000円を突破。大納会には1356円の高値まで、年間で60%を越える上昇を記録し、翌61(昭和36)年7月に1829円で天井を打ちます。その後は急反落で1258円まで、33%の下落を経験、その後は高値1600円、安値1200円の往来相場に終始するのですが、64年10月の東京オリンピックの開幕が近づくと、オリンピック需要の息切れから、急激に不況感が強まり、強気の経営拡大路線を走り、無理な投信販売と運用の失敗から、山一証券の株価や同社の設定投信の基準価格が暴落、65年に入ると、山一危機が噂されるようになりました。田中蔵相の思いきった措置が効いたのか、証券市場の株価は、1ヶ月半後の7月12日の安値1020円(本当に1000円スレスレまで下げました)を底に反転し、赤字国債の発行解禁が国会で承認される秋以降、大きく値を戻して1400円台を回復するまでになったのです。山一証券も日銀特融で生きかえり、やがて特融は利子付きで返済されます。この時は息を吹き返した山一証券でしたが、何をどうとち狂ってしまったのか、バブル期に再び無茶苦茶な拡大路線を繰り返した結果、バブルの崩壊と共に、再び大きな傷を負い、今度は救世主も呼び込むことが出来ず、1997(平成9)年の11月に、遂に自主廃業に至ったのです。再建後僅か30年足らずでの,野垂れ死にでした。過去の教訓に学ぶことも出来なかった山一の倒産、やはり経営陣に人材がなかったということなのでしょう。失敗の教訓を社訓として守ることも出来なかった山一は、滅ぶべくして滅んだと、私は大変冷ややかにみています。
2015.05.28
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クロニクル ネルー首相死す1964(昭和39)年5月27日51年前、東京オリンピックの年でした。この日、独立インド(1947年独立)の初代首相、ジャワハルラル・ネルーが、心臓発作で現職首相のまま急死しました。75歳になる直前でした。ネルー首相は、ガンジーと共にインド独立運動に身を投じ、インドの独立と被抑圧諸民族の団結に政治行動の原点を置いて、心血を注ぎました。独立時、パキスタンの分離独立の責任を感じたガンジーが、どうしても首相就任を引きうけず、ネルーが初代首相に就任しました。冷戦に組せず、非同盟外交を推進して、新生日本の平和憲法を高く評価、日本の子ども達にと、上野動物園にインド象を寄贈。日本もその友誼に答えて、贈られたインド象にネルー首相の愛娘インディラの名をいただいたことも、当時大きな話題となりました。新生中国の周恩来首相と共にアジア・アフリカ会議を提唱、その中心的指導者としても活躍しました。反英独立運動の指導者として、何度か不当に投獄されて、獄中で過ごしましたが、獄中から娘のインディラに向け、インドを中心に置いた世界史を、書き綴った手紙を毎週のように書き送ったものが、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房全6巻)という大きな著作になっています。この娘御が、後の首相インディラ・ガンディ夫人その人です。
2015.05.27
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クロニクル 東名高速全通1969(昭和44)年5月26日46年前になります。東名高速道路、全長346,7kmがこの日全面開通しました。 名神高速は既に全通しており、ここに東京から神戸までが高速道路で結ばれました。東海道新幹線の開業が1964(昭和39)年10月でしたから、新幹線に遅れる事4年と約8ヶ月にして、高速道路があとを追ったことになります。 当時、日本のモータリゼーションは、猛スピードで整備されつつありましたが、なお外車との差は大きく、石油ショックで小型低燃費の日本車が海外でもてはやされる日が来るとは、誰も夢想すらしなかった日々の中での出来事でした。
2015.05.26
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クロニウル 運動会事始1878(明治11)年5月25日運動会たけなわの時期ですね。お子さんやお孫さん、近所の子どもさん達の幼稚園や小・中・高等学校等の運動会はお済みになりましたか。。きょうは、そうした学校運動会の始まりの話です。年配の皆さんは「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス!)」の語を遺したクラーク博士と札幌農学校をご存知だと思います。山デジさんやペペさんのホームグランド、北大の前身です。私も小学6年の国語の教科書で学んだことを覚えています。舞台は、137年前の北海道は札幌です。そうです。運動会の発案者はクラーク博士だったのです。博士の指導によって、本邦初の運動会が札幌農学校の第1回運動会として開かれたのが、137年前のきょうでした。札幌農学校の運動会は話題を呼び、猛スピードで全国の学校に広まってゆくのですが、その話は機会があれば、あらためてすることにしたいと思います。
2015.05.25
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クロニクル 売春防止法公布1956(昭和31)年5月24日59年前の今日、売春防止法が官報に公布され、翌57年の4月1日から施行されることとなりました。ここに、売買春は共に違法行為とされ、共に処罰の対象とされることになりました。このため、各地の赤線地帯は表面的には消滅しましたが、次第に様々な抜け道が用意され、有名無実の存在と堕し、今日に至っています。今日では、「援助交際」なる言葉まで登場し、罪悪感の全くない状況が生じており、「性の商品化」は新段階に入っていますが、この状況の続く限り、人間の解放は、なお道半ばで留まってしまっているのが、残念です。
2015.05.24
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クロニクル 原子力発電所誕生す1958(昭和33)年5月23日57年前になります。この日イギリスのコールダールに、世界最初の商業用原子力発電所が完成しました。原子力の平和利用、原子の火として、日本でも大きく報道されたことが、かすかな記憶として残っています。しかし、当時は放射性の冷却水、使用済み核燃料等、原子力発電に絡む負の側面は、まだ意識されていませんでした。そして、東日本大震災。原発の暴走を止められなかった日本は、57年間で最大の原発事故を起こした国として、記憶されることとなりました。それでもなお原発に拘る首相と政権政党、どういうつもりなのでしょうね。まるでメフィストフェレスに魂を売った、ファウスト博士のようです。
2015.05.23
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クロニクル 東京ゴミ戦争勃発1973(昭和48)年5月22日42年前のことになります。区内にゴミの最終処分場、夢の島を持つ江東区が、区内の高井戸地区への清掃工場建設に反対して、建設計画の実行を妨害している杉並区を、地域エゴと断定して、杉並区からのごみの搬入を拒否してピケを張り、杉並区のゴミ収集車の処分場への入場を阻止して、実力で追い返す事件が起きました。その第1日目が今日だったのです。「東京ゴミ戦争」とは、当時の美濃部知事の名言でした。基地問題でも、地域エゴは問題になりますね。沖縄県民と共に、「日本に米軍の基地は要らない」とか、少なくとも「大きく減らせ」という運動は、一緒にやる必要がありそうですね。まずは、辺野古への基地建設並びに移転反対の運動に、積極的に協力する姿勢を示すことから始めませんか。
2015.05.22
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クロニクル 長篠の戦い1575(天正3)年5月21日この日、戦国時代史に名高い長篠の戦いが行われました。場所は長篠城の西方に位置した設楽が原。対するは織田・徳川連合軍対武田軍。織田方は、この戦いで、各隊にまたがる鉄砲を一同に集めて、3千挺と言われた鉄砲隊を組織、馬防柵を3段に構えて、交互に鉄砲を撃つことで、鉄砲の連射を行うという、優れた戦術を披露、それまで連戦連勝を繰り返していた武田の騎馬隊を、完膚なきまでに打ちのめしました。織田信長の戦術眼、鉄砲と言う新兵器の利用法を思いついた着想の凄さが見てとれます。ところで、鉄砲はヨーロッパから日本に伝えられたものですが、この時期のヨーロッパでは、まだ3段の陣を敷いて、鉄砲を連射するという新機軸は実行に移されておりません。 威力はあっても連射能力では、弓矢に到底及ばないのが、この時代の鉄砲でした。鉄砲のこうした技術的弱点を克服したのは、実は信長だったのです。鉄砲の連射という作戦は、信長が開発し、宣教師たちを通じてヨーロッパに伝えられた日本発の軍事革命だったのです。 ヨーロッパ世界で、信長型の鉄砲の連射を始めて実行に移したのは、30年戦争に介入したスウェーデン王ギュスターヴ・アドルフその人でした。当時のスウェーデンは、ヨーロッパ世界の北の大国でした。 30年戦争は、1618年~1648年までに及んだヨーロッパの国際戦争だったのですが、この長い戦争の中盤、スウェーデン軍がオーストリア軍に圧勝した1631年のブライテンフェルトの戦いがその舞台でした。長篠の戦いの56年後のことです。 戦国の日本は、何時の間にか鉄砲先進国になっていたのです。
2015.05.21
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クロニクル 成田空港開港1978(昭和53)年5月20日37年前のこの日、午前10時半から、新東京国際空港(成田空港)の開港式が厳戒体制の中でひっそりと行われました。建設決定から12年を経ての難産の開港でした。しかも横風用滑走路も第2滑走路もない、日本の顔としてのハブ空港を目指しての開港としては、極めて中途半端な出発でした。 当日、空港周辺では、三里塚・芝山新東京国際空港反対期成同盟が動員した約6300余名が、空港反対を叫んで、集会を開いていました。過激派による実力行使も続き、成田空港の情報ケーブルが切断されたりとか、羽田空港の管制機能が麻痺に陥るなど、反対派との攻めぎ合いが続く中で、この日辛うじて新空港としてのスタートをきりました。
2015.05.20
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クロニクル 雲仙普賢岳の火砕流1991(平成3)年5月19日あれから24年になるのですね。数日前から、噴煙を上げ続けていた長崎県の雲仙普賢岳で、この日大火砕流が発生。報道関係者やカメラマン、火山学者らを含む死者及び行方不明者43名を出す大惨事となりました。地元住民には数日前から避難勧告が出されていましたので、犠牲者の大半は地元の消防団等警戒にあたっていた人々と、報道関係者や火山関係者といった人々でした。火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は、骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明で、遺体さえ見つけられなかったケースが大半を占める、痛ましい災害となりました。この後も、普賢岳の活発な火山活動が続き、9月15日には、最大規模の火砕流が発生し、家屋170棟以上が焼失しました。昨年は、木曽の御嶽山の噴火で死者57人、行方不明6人という大きな被害がでました。そして今年は、箱根の大涌谷で普賢岳の前兆現象のような事態が観測されています。何事もなければ良いのですが…
2015.05.19
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クロニクル 阿部 定事件1936(昭和11)年5月18日79年前の出来事です。この日東京深川区(当時)尾久町の待合「満佐喜」で、局部を切り取られた男の絞殺死体が発見されました。ほどなく男は、東京中野区で料理屋を営なむ石田吉蔵42歳と判明しました。犯行は1週間前の5月11日から、石田と共に「満佐喜」に投宿していた愛人の阿部定32歳によるものと断定され、同女は指名手配されました。定女は、前年2月に石田の営む料理屋に女中として住み込み、ほどなく石田の愛人となったのですが、家人に知られ、4月末に2人で家を出て、行方をくらましていました。「満佐喜」へ投宿後、2人は前途を悲観、定は現世で添い遂げられない吉蔵を、永遠に自分1人のものにするためには、吉蔵を殺して自分も死ぬしかないと思い詰め、この日午前2時過ぎに、眠っている吉蔵を腰紐で絞殺、最も愛しいものだった局部を牛刀で切り取り、懐紙に包んでフトコロに入れ、夜明けを待って死に場所を求めて、姿を消したのでした。しかし定は死にきれず、2日後の20日、品川駅前の旅館にいるところを逮捕されました。以上は定の供述と、家人からの聞き取りの結果から明かにされた事柄です。定は、12月に懲役6年の刑に処されました。
2015.05.18
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クロニクル サリドマイド系医薬品出荷停止に1962(昭和37)年5月17日53年前の出来事です、この日、サリドマイド系催眠剤「イソミン」の発売元、大日本製薬は、自主的に出荷を停止し、発売を中止しました。これはあくまで製薬会社の自主判断として行なわれ、当時の厚生省は自らイニシアチブを取る事を避け続けました。これは奇怪なことでした。「イソミン」は、副作用が少ない催眠剤という触れ込みで売り出された、サリドマイド系医薬品でした。西ドイツで売り出された「コンテルガン」と同じ種類の薬でした。この「コンテルガン」について、前年1961年の11月に、ハンブルグ大学のレンツ博士が、妊娠初期に服用すると、副作用から奇形児を出産する可能性が高いと警告を発したのです。この発表を受けて、西ドイツなどでは、ただちに同剤の販売を中止し、製品全てを回収する措置が取られました。ところが日本では製薬会社が奇形との因果関係を否定すると、厚生省は具体的な措置を取らず、この日まで、いたずらに販売が続けられていたのです。それだけではありません。厚生行政は、あからさまに企業の都合ばかりを慮り,国民の健康には注意を払っていなかったのです。厚生省はレンツ警告を受けても、何ら有効な対策を取ろうとしなかったばかりか、この年2月には、他の製薬会社のサリドマイド系新薬にまで、製造許可を与えていたのです。後、薬害エイズや薬害肝炎で行なわれていたのと、全く同じ厚生行政の悪質な作為がそこにありました。未必の故意どころではない、確信犯的な行動でした。この遅れで、厚生省発表によれば、309人のサリドマイド被害児が誕生したとされていますが、サリドマイドの副作用によると思われる死産児(3000名とも、4000名とも言われています)数を加えると、国民の受けた被害は、10倍に拡大するのです。
2015.05.17
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クロニクル テレビの受信契約世帯100万軒突破1958(昭和33)年5月16日57年前になります。私が高校1年生の時です。この日、NHKは、テレビの受信契約が100万軒に達したことを発表しました。丁度、日本経済が上潮にかかり始めた時期であり、大量生産による、テレビ受像機の値下がりが、値頃感を呼んだのか、前年暮のボーナス時期から、好調な売上げが続いたことから、時間の問題とされていたところへ、この日の発表となりました。映画「三丁目の夕陽」の第1作に出てきますが、勿論カラーテレビはまだ発売されておらず、白黒テレビに後生大事とばかりに、ビロードの布がかけられて、宝物扱いされていた時期でした。そして、この年秋11月27日には、当時の皇太子(現天皇)と正田美智子さんの婚約が発表され、やがてご成婚は翌年4月10日と発表され、当日馬車によるパレードが行れ、テレビが実況中継すると発表されると、テレビ受像機の売上げはさらに伸びました。こうして、翌年4月10日のパレードの実況中継は、およそ、1500万人が視聴したと推計される、大ヒット番組となりました。もちろん学校は休校になりましたので、私もテレビ桟敷で、のんびりした馬車のパレードを見物させてもらいました。
2015.05.16
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クロニクル マクドナルド事始 1940(昭和15)年5月15日75年前の今日のことです。アメリカ合衆国カリフォルニア州南部のサンバーナーディーノで、マクドナルドの1号店が、ひっそりと開店しました。ただし、マクドナルドの快進撃が始まるのは、戦後の1948年頃からのことになります。そのマクドナルドも、ファーストフードの多様化と、健康志向の高まりに対応しきれず、大きくシャアを落としていますね。さてここからビジネスモデルの再構築が出来るのか、このまま沈没してゆくのか、大きな岐路に立っているようですね。
2015.05.15
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クロニクル 紀尾井坂の変 大久保利通暗殺1978(明治11)年5月14日この日、参議兼内務卿大久保利通が、東京紀尾井坂下で、西郷シンパの6名の旧士族に襲われ、斬殺されました。この日大久保は、霞ヶ関の自宅を出て、赤坂仮御所で行われる、陸・海軍将校への勲章授与式に向かう途中でした。犯人らはその足で自首しましたが、かねて木戸・大久保ら内治優先派の政権独占に反感を抱き、西郷らの征韓派と気脈を通じていたのですが、木戸は病死し(1877年5月26日)、西郷ら征韓派は戦いに敗れ、政権内での大久保の立場が揺るぎ無いものになっていたことに焦り、この日の凶行に及びました。この時大久保は49才、生きていれば、その後の自由民権運動の隆盛に、どのように対処したのかを見たかった気のする、初期明治政府のバランスのとれた政権運営を主導した人物だけに、惜しまれる最期だったと、私は受けとめています。ここに明治政府は、西郷・木戸・大久保に岩倉具視ら、維新の功臣第1世代から、伊藤博文、山形有朋ら第2世代の時代に大きく転換していきます。私は、彼等維新の元勲と呼ばれる日本史の巨星たちの凄さの一つは、政治を私物化せず、自らの子ども達を誰1人として後継者にしなかったことにあると受けとめています。岩倉や三条ら公卿出身の功臣も皆同様です。後継者は後事を託すに足る最も優れた人物とする。その意志は終生変わらなかったこと、私利私欲よりも広く国家に奉仕する、その姿勢がぶれなかった点にあると、受けとめています。教育事業の整備を急ぎ、次代を担う人材の育成に心を砕き、適材を配して、その事業を委ねた姿勢を、特に昨今の内外の情勢との対比で、高く評価しています。ところで、大久保暗殺の後日談を一つ。自首した暗殺犯6名は、所持していた斬かん状(犯行声明)を提出、新聞社にも送っていたのです。翌日の「朝野新聞」が、その全文を掲載したので、その事実が明らかになりました。「朝野新聞」は、ただちに政府によって、発行停止処分を受けました。この後、自由民権運動が活発になるに連れ、民権派の新聞の発行停止処分は増えて行きますが、「朝野新聞」の発行停止処分は、日刊新聞の発効停止第1号の栄誉を担ったのです。最近の大新聞には、こうした気概は感じとれませんね。因みに朝野新聞の社屋は、当初銀座6丁目にあったのですが、後に4丁目の交差点、現在の和光の位置に転居しました。最盛期の発行部数は2万部だったと言いますから、当時としては大変な数字でした。両国国技館の隣になりますが、江戸東京博物館の常設展示場に、朝野新聞の社屋を含む、当時の景観の模型が展示されています。
2015.05.14
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クロニクル F1グランプリ始まる1950(昭和25)年5月13日65年前になります。この日イギリスのシルバーストン・サーキットにて、F1世界選手権第1戦が開催されました。これが日本でも人気となったF1サーキットの開幕戦でした。日本では、鈴鹿サーキット場が有名になりましたが、1987(昭和62)年からフジテレビがF1の全戦を放映するようになり、一時はかなりの視聴率を集めました。しかし、やがてブームはさり、昨今は視聴率確保が難しくなってきているようですね。ホンダの創業者、本田宗一郎氏が情熱を傾けていましたが、そういう時代も過ぎました。今はスピードよりも、環境への負荷をどう減らすかに、経営者や技術者たちの関心が向かっているように思えます。
2015.05.13
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クロニクル 5人の長州藩士イギリスへ密出国1863(文久3)年5月12日文久3年というのは、森鴎外の誕生の1年後のことです。この日の2日前、長州藩は下関で米国船を砲撃するなど、一方で攘夷を実行ししていたのですが、もう一方で海軍の建設や洋式工業の研究のため、密かに英国へ留学生を送る計画も進めていたのです。そして152年前のこの日、伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)等5人が、横浜港で ジャーディン・マジソン商会の持ち船に乗り込み、英国へ向け密出国しました。渡航費用は1人1000両、合計5000両が同商会に支払われました。ロンドン着は9月23日でしたから、4ヶ月と11日の長旅でした。彼等はロンドンで英語を学びつつ見聞を広め、攘夷の愚かさを覚りました。しかし1864年に入って、下関の砲撃事件に鑑み、列強が事件の報復のために、4国連合艦隊による砲撃を計画していることを知り、伊藤・井上の2人は、急遽帰国を決意、6月10日に横浜に帰着しました。この5人組、伊藤博文は千円札にもなりましたし、どなたも御存知の人物です。井上馨は初代外務大臣として欧化政策を推進、条約改正に尽力しましたが、志なかばに倒れました。イギリスに残った3人はどうだったでしょうか。その1人 遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、お雇い外国人から独立した、日本人自身の手による貨幣鋳造に成功して、造幣事業の父と讃えられました。2人目の山尾庸三は、グラスゴーで造船技術を学び、明治4年に工学寮(後の東京大学工学部の前身です)を創立、日本の造船業の生みの親となりました。3人目の野村弥吉(後、井上勝)は、新橋~横浜間の日本最初の鉄道敷設を指揮し、その後も全国の鉄道建設事業に辣腕を振るった、鉄道の父です。晩年小岩井農場を創設したことでも知られます。イギリスに残った3人も、近代日本の礎を築く上で、必要欠くべからざる事業を担当して、大きな成果を上げているのです。。こうしてみると、長州藩がジャーディン・マジソン商会に支払った5千両、決して高かったとはいえないようですね。幕末日本の裏話の一つでした。
2015.05.12
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クロニクル 大津事件1891(明治24)年5月11日ロシアの皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)は、帝王学の一環として世界漫遊中だったのですが、この年3月17日、父の皇帝アレクサンドル3世から、「シベリア鉄道のシベリア側起工式に出席せよ」との手紙を受け取り、日本訪問後にシベリアに向かう計画を立て、4月28日に日本に降り立ちました。124年前のことです。長崎に上陸したニコライは、京都を訪れ、この日は琵琶湖の遊覧を楽しみ、従弟のギリシャ皇子と共に帰路につきました。馬車が大津にさしかかったところで、警備の巡査津田三蔵が、突如抜刀して皇太子に切りつけたのです。警備中の巡査の行動だけに、事件は防ぎ得なかったのです。驚いた皇太子は、ただちに馬車を降りて逃げ、追おうとした津田巡査は、逃げたニコライよりも肝っ玉の太かったギリシャ皇子に、ステッキで打ち据えられ、取り押さえられました。幸い皇太子ニコライの怪我は軽傷で済みましたが、大国ロシアの皇太子に怪我をさせたとあっては大変です。翌日には明治天皇が自ら、皇太子を入院先の京都の病院に見舞うなど、日本政府はロシアとの関係悪化を食い止めようと必死の努力を重ねました。津田巡査は、皇太子の来日を知り、大国ロシアが日本を侵略する布石として、調べに来たのだと思い込み、この日の凶行に及んだのでした。この時の皇太子ニコライは、ロシア帝国最後の皇帝として、ロシア革命後の内戦期に、ボリシェヴィキによって、家族と共に処刑されました。以下後日談です。事件に対し、日本政府は犯人の津田三蔵に対逆罪を適用して死刑とすることを望み、大審院(現在の最高裁)院長に有形無形の圧力をかけ続けました。しかし大審院は大逆罪は日本の皇室に対してのみ適用される規定となっており、外国の皇太子に適用できるものではなく、しかもニコライ皇太子は軽傷であるとして、再三にわたる政府の要請を拒絶し、無期懲役の判決を言い渡しました。大日本帝国憲法が公布・施行されたのは、1889(明治22)年の2月でしたから、憲法に規定する司法権の独立が、字義通り機能するか否かが問われた事件だったのですが、大審院の毅然とした態度によって、政府に対する司法の独立が見事に守られた判決でした。ロシア政府は、一時激怒しましたが、事件後の日本政府の手際のよい処置と、天皇自ら即座に病院に駆け付けた誠意を評価し、それ以上事件をこじらせる行動はとらず、事件は無事決着しました。この事件は、欧米でも大きく取り上げられ、国際的にも日本の司法権に対する信頼を大きく高めることに繋がりました。
2015.05.11
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クロニクル シャウプ税制使節団来日1949(昭和24)年5月10日66年前になります。この日、日本の税制を新時代に相応しい内容に改革し、破綻状態にある日本財政を再建するプランを提言してもらおうと、マッカーサー司令部が三顧の礼で招いた、コロンビア大学のシャウプ教授を団長とする、シャウプ税制使節団が来日しました。シャウプ使節団は9月まで日本に滞在して、精力的な国内視察を続け、有名なシャウプ税制勧告をGHQに提出、現在の日本税制の基礎を築きました。所得税の源泉徴収制度や地方交付税交付金の仕組みを考案したのも、シャウプ使節団でした。このシャウプ税制を改悪し、所得税の累進性を緩和して、高額所得者への課税を緩め、逆進性の強い消費税を導入したことが、現在の歳入不足に繋がっているように思えるのですが、政府も大部分の政治家も財務省も、まるで知らぬ顔をして、高額所得者と大企業を優遇する税制の改悪に邁進しているいますね。そのうち大きなしっぺ返しを受けるのでしょうが、それはそれでこわいですね。
2015.05.10
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クロニクル 日本登山隊マナスル山頂に立つ1956(昭和31)年5月9日59年前のこの日、日本山岳会のマナスル登山隊(槇 有恒隊長)が、3度目の挑戦で、世界7位の高峰であるヒマラヤのマナスル(8156メートル)登頂に成功しました。過去2回はいずれも天候に恵まれず断念していました。日本の登山隊が、世界の8000メートル級の高峰の登頂に成功したのは、これが始めてでした。当時の通信事情は、現在とは大きく違っていましたから、このビッグニュースも、その日の内に日本に届けられることは無理でした。それゆえ、当時中学生だった私が、このニュースを最初に知ったのは、翌朝のラジオでした。学校でも専ら、このニュースで持ち切りだったことを、懐かしく思い出します。
2015.05.09
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クロニクル パソコン時代の幕開く1979(昭和54)年5月8日36年前のこの日、日本電気(NEC)は、最初のパーソナルコンピューター(略称パソコン)PC-8801を発表しました。この最初のパソコンは大きな反響を呼び、発売と同時に最初のパソコンブームの口火を切りました。しかし、何といっても、当時はオフィスコンピュター(オフコン)の全盛期です。パソコンブームが巻き起こっても、当時の巨人IBMは、将来の強敵にして、遂には自社を経営危機にまで追い込むことになるパソコンを無視して、なお泰然と構えておりました。
2015.05.08
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クロニクル ソニー設立1946(昭和21)年5月7日69年前の今日。東京通信工業が産声をあげました。この会社は後に自社の商品名としていたsonyに社名を変更します。世界に冠たるソニーも、当初は小さな町工場でした。小さな町工場が、やがて世界のソニーとなったのは、経営者の先見の明と技術力でした。それが世紀の変わった頃からすっかりおかしくなってしまっていますね。経営者に人をえず、優秀な技術者たちは、この会社では自分のやりたい技術開発は出来ないと見切りをつけたのか、次々と会社を去っていっています。今のままでは、サンヨウ電機やシャープの二の舞になってしまうのではないかと、心配しています。
2015.05.07
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クロニクル 英仏海峡トンネル開通1994(平成6)年5月6日早いもので今年で21年になるのですね。この日ドーバー海峡をまたぐ、英仏海峡トンネルが開通しました。全長50,5km、海底部38kmの長いトンネルですが、鉄道専用トンネルとして作られました。これにより、イギリスとフランス並びにフランス経由で西欧各地(とりあえずはベルギーのブリュッセル)を結ぶ鉄道網が整うことになりました。工事は英仏側から、海峡中央部へ向かう形で、1986年5月にスタート、フランス側の工事に、日本の川崎重工業が参加し、シールド工法の掘削機は同社製のものが使われました。この掘削機の性能は良く、イギリス側の工事に比べ、フランス側の工事の進捗率はかなり高く、同社は面目を施しました。このトンネルをユーロトンネル会社が所有し、鉄道会社に貸し出す形(新幹線と同一の方式)を取り、鉄道会社は列車の運行毎に、定められた使用料を支払う形で運用されています。工事の資金としては、80年代に絶好調だった日本の金融機関の融資が目立っていましたが、バブルの崩壊で状況が変わり、不良債権のヤマを抱えて行き詰まった日本の金融機関は、採算がとれずに困っていた「ユーロトンネル会社」に追加出資することが出来ず、損失覚悟で欧州の金融機関に、海峡トンネル会社の債権を譲り、手を引かざるをえない一幕もありました。時は移りて、さらに数年、リーマンショックとそれに続くユーロ危機で、かつての日本の金融機関以上の損失を抱えた欧米の金融機関が、今度は損失覚悟で、日本の金融機関に手持債権を投売りせざるえない状況に陥ったのですから、まさに因果はめぐりました。この因果、いったいどこまでめぐるのでしょうか。まだまだ、これが最後とは言えそうもありません。
2015.05.06
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クロニクル 屯田兵の誕生1885(明治18)年5月5日この日政府は、北海道内に屯田兵を置く条例を定め、即日実施しました。130年前のことです。北海道は、開拓途上の為、1873(明治6)年に定められた徴兵令の適用を「当分の間」免除されていたのです。そのため、北海道で何かあった場合、本州から兵士が出動するまで、空白が生じることになります。屯田兵条例は、こうした問題を解決するために定められた条例でした。即ち、北海道に徴兵令が施行されるまでの間、屯田兵を置くことを定めたのです。北海道といえば屯田兵。昔習い覚えた屯田兵の誕生は、この条例に依ったのですね。
2015.05.05
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クロニクル PKO文民警察官カンボジャで死亡1993(平成5)年5月4日22年前のこの日、前年6月に成立、8月に公布されたPKO協力法に基づき、カンボジャに派遣されていた、文民警察官の高田晴行さんが、襲撃され死亡する事件が起きました。日本人のカンボジャでの死者は、4月8日に襲撃を受けて殺された、国連選挙監視ボランティアの中田厚仁さんに続いて2人目でした。カンボジャでは、1975年にクメール・ルージュを名乗ったポル・ポト派が政権を握り、農本主義的な国造りを進めていましたが、あまりに急進的で性急に改革を進め、反対派を粛正する恐怖政治を展開したため、多くの国民の反発を招きました。ここに反ポル・ポト派共産党の亡命幹部らが、カンプチャ救国民族統一政府を結成、1978年12月にヴェトナム軍と共にカンボジャに侵攻、ヘン・サムリン政権を樹立しました。その結果、ポル・ポト派は地方へ逃れ、シアヌーク国王や右派とも連携する禁じ手を使って、抵抗を続けました。両派の争いが続く中、国連が仲裁に乗り出し、国連平和維持軍(PKO)が両派の軍事衝突ラインに沿って展開、1992年にはUNTAC(国連カンボジャ暫定行政機構)が正式発足、日本人明石康氏が特別代表を務めました。憲法9条を持つ日本は、「国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇、武力の行使は永遠にこれを放棄する」の精神に基づき、自衛隊の派遣は拒否してきたのですが、一国平和主義の殻に篭り、世界に平和主義を唱え続け、あらゆる軍備の縮小や廃棄の音頭をとることを、してきていませんでした。そのため、日本の平和主義に対する世界の評判は決して高いものではありませんでした。ここに、政府はPKO協力法を制定し、文民の名で選挙監視団を派遣することにしたのです。日本人文民警察官の死は、こうした状況の下で起きました。しかし、UNTACの粘り強い説得が功を草し、6月選挙は無事に行われ、その後カンボジアは少しづつ落ち着きと平和を取り戻し、今日に至って」います。
2015.05.04
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クロニクル 東京裁判始まる1946(昭和21)年5月3日69年前の今日、東京市ヶ谷の元陸軍省本館の大講堂で、極東国際軍事裁判(略称東京裁判)が始まりました。裁判長にはオーストラリアのウェッブ卿が就任しました。 既に先月29日には、A級戦犯28名の起訴状が発表されていました。起訴されたのは、荒木貞夫・平沼騏一郎・広田弘毅・板垣征四郎・小磯国昭・松岡洋右・大川周明・東条英樹ら28名でした。 通例の戦争犯罪に加え、侵略戦争の計画・遂行などの平和に関する罪、一般市民の虐殺などに対する人道に関する罪などを、新たな戦争犯罪として規定していたことが、この顔ぶれからも良く分かります。 こうして、日本人の戦争犯罪は、国際法廷で裁かれることになりました。当時、ドイツではドイツ人自身の手で、ニュルンベルグに戦争犯罪法廷が開かれ、ドイツ国民自身がナチスドイツの戦争犯罪を厳しく断罪しようとしていました。この事実を念頭に置くと、私はドイツと日本の差に慄然とせざるをえません。 我々の先輩にあたる日本人は、戦犯を自ら裁く気力を持ち合わせていなかった。私は、この事実を正確かつ厳粛に受けとめなければならないと、考えています。こう考えると、刑死したA級戦犯を靖国神社に合祀する行為が、いかに許されざることであるかは、おのずと明らかであるように思われます。
2015.05.03
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クロニクル EU首脳会議、ユーロへの統合を決定1998(平成10年)5月2日17年前の今日、欧州連合(EU)首脳会議が開かれ、99年1月に迫った欧州単一通貨ユーロへの各国通貨の統合を正式に決定しました。英国は不参加でしたが、フランス・ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・スペインなど11ヶ国2億9千万人が使用する巨大通貨がこうして誕生することになりました。通貨の発行と利用は国家主権の重要な1部ですから、EUの統一通貨を作る運動は、いずれ頓挫する。これが私の読みでした。しかし、その後の流れが示している通り、この読みはものの見事に外れました。国家主権の1部をなす、通貨の発行権を放棄してでも、ドルに匹敵し、そしてやがてはドルを凌駕する通貨を創出して、アメリカに一泡食わせるのだという、EU各国とりわけ独・仏首脳の強烈な意欲がひしひしと伝わって来る決定でした。事実の迫力に圧倒された一齣でした。そして導入後しばらくは、慣らし運転が続き、ユーロとドルは1:1近くで推移していたのですが、1部アジアマネーやアラブ資金が積極的にユーロ資産のウェートを高め、ドル安ユーロ高が続くなど、堂々たる国際通貨の地位を固めつつあるように見えた時期もありました。しかし、無理をしてユーロ圏を拡大した咎が出て、リーマンショック後は、首の革一枚を残して崩壊寸前にまで至りましたが、ヨタヨタした歩みながらもなんとか踏みとどまって、ここまでやってきました。問題児のギリシアが、何度目かのデフォルトの危機を迎えていますが、ギリシア国債はデフォルトを織り込んだ価格まで売られているにもかかわらず、今回は、ポルトガル、スペイン、イタリアなど、今まではギリシア国債と共に売り込まれた南欧諸国の国債が、今回はギリシアに連れ安せずに踏みとどまっています。今なら、ギリシアをユーロから追い出しても、金融危機が再燃すること心配はなさそうです。
2015.05.02
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クロニクル 公立小・中学校50人学級へ1958(昭和33)年5月1日義務教育段階の学級定員を少なくすることは、1人1人の児童・生徒の個性を伸ばし、丁寧に指導して行く上で、欠かせないことなのですが、それには先生を増やしたり、校舎を増築して教室数を増やしたりする必要があるため、政治が全体として教育を重視し、必要な予算措置を講じることが欠かせません。この頃の日本は、ようやく戦後の混乱期を乗り越え、経済の離陸期、高度成長の入口に指しかかったところでした。そして、戦後のベビーブーマーたちが、小学校の高学年にさしかかる頃で、そうでなくても先生増、学級増が必要とされておりました。 そのため、学級定員の削減は、なかなか実現を見なかったのですが、57年前のこの日、ようやく、次年度から50人学級制に踏みきることが閣議決定されたのです(ただし、公立の小・中学校のみ)。この年は、長島選手や杉浦投手等がプロ野球に身を投じ、4月の開幕と同時に大活躍を始め、野球人気が大いに盛り上がっていました。そんな時代でした。 日本社会はこの決定を歓迎し、以後50人学級が一般化します。今日では30人学級が普及しつつあるのですから、この間の変貌振りが、いかに大変なものだったかが、いまさらながら確認できます。
2015.05.01
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