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クロニクル 「北朝鮮」ミサイル発射1998(平成10)年8月31日17年前のこの日、「北朝鮮」は弾道ミサイル「テポドン」を発射しました。日本政府、とりわけ自衛隊の防空レーダー網は、このミサイルの航跡を捕らえることが出来ず、どこに着弾したかを特定できませんでした。日本海のどこかに着弾したものと、日本海上を捜索していたのですが、韓国政府並びに米軍から、着弾は日本列島を飛び越えた三陸沖であることが発表され、遅れてその事実を追認したのです。見事な醜態でした。「北朝鮮」は、人口衛星の打ち上げだと発表しましたが、「北朝鮮」に日本本土を攻撃する能力があることがわかったと、政府・自衛隊は大騒ぎをし、ミサイル防衛網の整備を金科玉条とする、防衛予算の拡大に成功しました。本来ミサイルは命中精度が問題であり、どこに着地するか分からない程度の、精度の悪いミサイルの脅威など、決して高くはないのですが、国民にはその旨は知らされませんでした。最後に、ミサイルは何故日本方面に発射されたかというと、これは日本敵視とは無関係で、地球の自転の方向と関係しています。ミサイルを少しでも遠くに飛ばすには、地球の自転と反対方向に飛ばすに限ります。北朝鮮政府と軍部は、まさに地球の自転の逆方向へ、つまり日本の方向へ、ミサイルを発射したというのが、事の真相でした。
2015.08.31
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クロニクル 三菱重工ビル爆破事件1974(昭和49)年8月30日41年前のことです。この日、午後0時50分頃、東京丸の内の三菱重工ビル正面玄関前で、時限装置付きの爆弾が爆発、死者8名、重軽傷者380名という大惨事が起きました。昼休みの終りに近く、そろそろ勤務先に戻ろうかという男女でにぎわうオフィス街に、突然大音響が轟き、爆風がビルの谷間を吹きぬけました。10階建ての三菱重工ビルをはじめ、付近のビルの窓ガラスおよそ2500枚が、こなごなになって飛び散り、ガラスの破片で多くの通行人が巻き添えとなって負傷しました。三菱重工には、爆発の約10分前、0時40分頃に爆破予告電話があり、同社が防衛庁納入実績でNO,1の防衛産業であることが、爆破の狙いであることが伝えられていました。しかし、僅か10分では対応のしようがありませんでした。1ヶ月後、「東アジア反日武装戦線 狼」と名乗るグループから犯行声明が出され、その後も同じグループに属する「さそり」、[大地の牙」といったグループによって、三井物産ビル、大成建設ビルなどで爆破事件が相次ぎ、都心部の会社員達は、しばらくの間、命がけの心境での通勤を強いらました。連合赤軍の浅間山荘事件と、その語の展開によって、すっかり落ち目となった過激派グループ残党による、最後の抵抗とも言える事件でした。一般市民を標的にするようになっては、まさに断末魔。許される行為ではありませんでした。
2015.08.30
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クロニクル 藤村『若菜集』刊行1897(明治30)年8月29日118年前のことになります。この日島崎藤村の詩集『若菜集』が日本橋の春陽堂から刊行されました。この時藤村26才。藤村は明治学院を卒業後、自由な校風で知られる明治女学校の教壇に立ちましたが、教え子との恋愛に悩み辞職。前年から東北学院で教鞭をとっていました。この地で精神的に安定し、今までの青春の激情と彷徨を、叙情的に歌い上げたのが『若菜集』でした。この作品は、文芸誌『文学界』から始まった明治の浪漫主義運動の一つの頂点でしたが、藤村自身は、抒情詩の限界を感じ、以後散文に転じていくことになります。唐突ですが、私自身は、藤村の作品の中では、『夜明け前』がお気に入りです。
2015.08.29
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クロニクル 日本テレビ本放送を開始1953(昭和28)年8月28日62年前のこの日、日本テレビが先陣をきって、民放初のテレビ本放送を開始しました。放送時間は1日6時間でしたが、スタジオや現場からのナマ放送中心でしたから、スタッフの苦労も大変だったようです。コマーシャルもまた現在のようにあか抜けたものではなく、何となくたどたどしいものでした。土・日はナイターではなく、デーゲームで行なわれていましたので、後楽園球場で行われるプロ野球の巨人戦や、力道山のプロレスがドル箱でした。しかし、当時一般家庭には高額商品であるテレビを買う資力などなく(この点は、人気になった「三丁目の夕日」をご覧になると、当時の雰囲気がわかります)、実況中継中は、テレビのある床屋さんなどが、満員の盛況になるのが常でした。
2015.08.28
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クロニクル 東海村に原子の火1957(昭和32)年8月27日58年前のことです。この日午前5時23分、茨城県東海村の日本原子力研究所で、実験用1号原子炉が臨界に達し、日本で始めての原子の火が灯りました。実験炉は燃料に硫酸ウラニウム水溶液を使う湯沸型原子炉で熱出力は50kwでした。この日臨界に達した実験は、前日の午前9時から始められ、日米の技術者が見守る中で、午前11時20分に最初の燃料注入が行なわれました。それから数度、最後の燃料注入は臨界に達する50数分前の、この日の午前4時30分でした。4時56分頃から、制御棒の抜き取りが始まり、最後の制御棒を抜きとっている最中に臨界に達したと記録されています。この実験の成功で、日本はインドに続いて、アジアで2番目の原子力発電装置の保有国になりました。被爆国の日本がなぜという声もありましたが、正力松太郎や当時若手の中曽根康弘らが、熱心にその必要性を説き、実用化に向けて動き出したのです。フクシマの挫折にいたる第一歩が、ここに記されました。当時私は中学3年生。原子力の平和利用という新聞やラジオの表現を素直に信じていました。なお東海村の原子炉は熱出力50kw。当時世界の実験用原子炉の中でも最小のものでした。
2015.08.27
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クロニクル シャウプ勧告出る1949(昭和24)年8月26日66年前のことです。この日、来日中のシャウプ博士を中心とする使節団が、日本の税制改革に関する勧告文をまとめ、その概要をGHQに提出しました。勧告の全文は、9月15日に公表されましたが、日本語で10万字に及ぶ長文でした。それまでの日本の税制は地租を中心にしたものでしたが、これを所得把握を徹底した上で、個人及び法人の所得税を中心とした税制に改めること、不動産税(固定資産税として実現)や住民税といった地方に固有の税源を配備することの2点が勧告の中心でした。その後、1989年に大型間接税としての消費税が導入され、特に富裕層の所得税と法人(所得)税が軽減されましたが、今日なおシャウプ勧告のかなりの部分は、日本の税制の根幹を占めています。その第1は、会社員の所得の源泉徴収制度の徹底です。税務当局が企業等から直接社員等への人件費の総額と支払い調書を受け取り、所得税の徴収を代行させる世界に冠たるシステムです。そして第2が、地方格差を埋めるための地方交付税交付金の制度です。都会に住もうが、地方に住もうが、同じ日本人として最低限の行政サーヴィスは平等に受けられるようにしよう。住む地域によって,受けられる行政サーヴィスの質が大きく違うことがあってはならない。これがシャウプ勧告の精神でした。そしてこの点は、当時ようやく根付きはじめていた民主主義的な平等意識によって、多くの国民に受け入れられました。当時も今も、米国の地方税の中心は市町村が徴収するレイト(不動産税、日本の固定資産税にあたる)です。地方交付税はありません。そのため行政サーヴィスの質は、住んでいる地域のレイト収入の差によって大きく違ってきます。義務教育経費もレイトによって賄われるのは、日本でも公立の小・中学校が市町村立であることを思い出すと、理解しやすいと思います。そのため、アメリカでは、きれいな街並みを維持し、お洒落な校舎で少人数学級制を採り入れるに十分な教員を配備した学校と、スラム化した街並みに、薄汚れた校舎での多人数学級の学校とが併存しています。シャウプらは、母国アメリカで実現できない,自分たちの理想を日本で実現しようと考えたのでしょう。この試みはあたりました。日本の教育における全国レヴェルでの一定の標準化は、ある程度実現したからです。
2015.08.26
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クロニクル マクドナルド挙国一致内閣成立1931(昭和6)年8月25日1929年10月、米国ウォール街での株価暴落に端を発した世界恐慌は、1933年にかけ、日を追うように深刻さを増していったのですが、この年1931年の5月には、オーストリアの中央銀行、クレディート・アンシュタルトが倒産、世界金融恐慌の様相が深まってきていました。特に、ドイツの受けた打撃は大きく、7月には大手銀行の1行、ダナト銀行が倒産、取引のあった、イギリスの金融機関も大きな打撃を受けました。その結果、イギリス経済も大きな打撃を受け、第一次世界大戦中と同じような挙国一致体制構築の必要性が、意識されるようになりました。当事イギリスは、労働党のマクドナルドが、単独政権を率いていましたが、8月24日、マクドナルドは内閣総辞職を断行、翌日のこの日、保守党、自由党との三党連立による挙国一致内閣を成立させたのです。この挙国一致内閣の成果は、9月に現れ、ポンドの価値低下に悩まされたいたイギリスは、金本位制の停止に踏み切ったのです。これで、恐慌から脱出できたわけではありませんが、単独政権では実施できなかったであろう思い切った政策を、短期間に実施することが出来たのは、まさに挙国一致内閣の成果でした。 84年前の出来事です。それにしても、ユーロとなると、1国で挙国一致内閣が出来たとしても、加盟国全体でユーロ圏一致とはいかないだけに、まだまだ世界経済の波乱要因として、負の影響をまき散らすのでしょうね。
2015.08.25
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クロニクル 参院全国区比例代表制に1982(昭和57)年8月24日33年前のこの日、公職選挙法が改正公布され、参議院全国区に拘束名簿式比例代表制が導入されることが、正式に決まりました。なお、当選者の決定はドント式となることも、同時に決まりました。この選挙方式は、各政党や政治団体が、あらかじめ候補者の順位を示した名簿を提出しておき、選挙民は候補者名ではなく、政党名を投票し、各党は得票数に応じて議席の配分を受け、名簿順位の上位の候補者から、順に当選となる仕組みです。ドント式という方法は、得票数が最も多かった政党に先ず1議席を割り振り、次ぎにその政党の得票を2で割り、再度最も得票数の多い政党に1議席を与え、その政党の得票を2で割っていきます。この場合、既に1議席を獲得している政党の場合は、総得票数を今度は2ではなく、3で割ります。その次は4で割るという形になります。 具体的には10人が当選する選挙とした時に A党が300票、B党が250票、C党が160票、D党が90票を獲得したとします。先ずA党が1議席を得、次ぎのA党の票は150票となります。すると次ぎに最も多いのは、B党の250票ですから、B党が1議席を得、125票となります。従って次にはC党が1議席を得て80票となります。こうして、4人目の当選は150票のA党となり、票は今度は300を3で割りますから100となります。これを繰り返すのです。5人目は125票のB党、6人目は100票のA党、90票のD党、83票のB党、80票のC党、75票のA党までの10人がこうして決まります。A党4議席、B党3議席、C党2議席、D党1議席となりました。この方式での初の参院選は翌83年6月26日に行なわれましたが、92年の参院選からは、非拘束名簿式に改められ、比例選ですが、候補者名を書くことも可能な方式に改められました。なんともややこしいですね。
2015.08.24
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クロニクル 沖縄の通貨ドルに切り替えへ1958(昭和33)年8月23日57年前のことです。沖縄を占領中の米国の高等弁務官事務所(占領中の沖縄統治機関)は、この日、9月16日から沖縄で流通する通貨を、軍票からドル札に切り替えると発表しました。日本本土は、1952(昭和27)年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって、独立していましたから、日本で唯一本格的な地上戦を戦った沖縄の人々だけが、日本人としての権利を持てず、占領国の通貨を自らの通貨のように使わざるを得ないことになったのです。のんきな私は、この3年後になって、沖縄からやってきていた大学の先輩に、本土に来るにはこれがいるんだと、渡航先ニッポンと記されている、米民政府発行のパスポートを見せられ、初めて沖縄問題の深刻さの一端を、理解することができたのでした。 そして沖縄の皆さんにとっての戦後は、いまだに終っていない現実を、重く受け止める必要があると思いながら、気持ちだけで何もできない自分がいます。
2015.08.23
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クロニクル 国産初の蒸気船運行1855(安政2)年8月22日160年前のことです。この日、薩摩藩は、品川沖で、完成したばかりの蒸気船、雲行丸(くもゆき丸)の試運転に成功しました。この船は1849年から、薩摩藩が江戸藩邸で製作を進めていた船でした。しかし、この後しばらくの間は、外国の高い技術を評価した幕府や藩が、オランダ、イギリス、アメリカ等から、軍艦などを購入する時代が続きます。日本がはじめて自前の軍艦を持ったのは、1866(慶応2)年建造のの千代田丸でした。それにしても幕末です。明治時代に大きく成長する日本の工業技術、江戸時代に下地があったからこそだったことが、読み取れますね。
2015.08.22
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クロニクル アキノ氏マニラ空港で暗殺1983(昭和58)年8月21日32年前のことです。この日、日本時間午後、長期に及んだ米国滞在を切り上げ、帰国の途についた、ベニグノ・アキノ元上院議員は、陸軍と警察による厳重な警備の中、フィリピンのマニラ国際空港に到着、タラップを降りて、ターミナルビルへ向けて歩き出したところを、ヒットマンに銃撃され、即死しました。日本では、1973年8月8に起きた金大中氏拉致事件が有名ですが、金氏も朴大統領との選挙戦で健闘、次回は逆転もと言われていた時期の、日本での拉致事件でした。その金氏同様アキノ氏も、長期政権を担う独裁者、マルコス大統領との選挙戦で善戦健闘、次回は勝利もと期待された民主派の有力者でした。米国の受けも良く、それだけにマルコス大統領にとっては、眼の上のコブのような存在でした。それだけにフィリピンに留まっていては、危険が多いと各方面から説得され、長期に米国に滞在していたのですが、フィリピンに帰って国民の中で、その声を聞き、政策課題に反映させるのが政治家であると、あえて火中の栗を拾うとばかりに、強引に帰国の途についたのです。その結果としての暗殺でした。暗殺の情景は日本でもテレビで実況中継され、夏休み中だったおかげで、私はその瞬間を生放送で見ておりました。並み居る警官や軍人の間から発砲したのですから、これは軍首脳が、マルコス大統領自身かその側近と綿密に打ち合わせて仕組んだ、権力による暗殺であることは明かでした。米国政府もそう受けとめたのか、マルコス政権に強い不快感を示したほどでした。それほどですから、フィリピン民衆のアキノ暗殺への怒りは深く、マルコス政権が実行犯を逮捕し(警察と軍人が多数警備に当たっていた中での犯行ですから、逃げられるはずがありません)、背後関係のない単独犯だったと発表しても誰も信じませんでした。8月31日にアキノ氏の葬儀が行なわれたのですが、何と100万人以上の民衆が参列する大葬儀となり、以後各地で反政府運動が地鳴りのような広がりを見せたのです。この怒りは2年6ヶ月後の1986年2月に行なわれたフィリピン大統領選で、夫の弔い合戦だからと説得されて立候補したコラソン・アキノ夫人を支援する運動の起爆剤になり、選管の不正を暴くことから始まった、フィリピン革命へと繋がりました。
2015.08.21
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昨日はPCの不調で、アップできませんでした。まずは昨日のクロニクルです。クロニクル プラハの春よさらば1968(昭和43)年8月20日プラハの春とは、1967年から68年にかけてのドプチェク体制下での、チェコ・スロバキアの民主化運動の総称です。言論表現の自由、出版の自由、複数政党制の容認などを含んでおり、チェコ周辺の社会主義諸国からも、強い懸念が表明されていました。もちろんブレジネフ書記長、コスイギン首相、ボドゴルヌイ最高会議幹部会議長というトロイカ体制下のソ連も、重大な懸念を表明していました。6月、7月とドプチェク体制への締め付けは強化され、そしてついに47年前のこの日、ワルシャワ条約機構軍の戦車がソ連の後ろだけを得ながら、プラハを席捲したのでした。事実上、プラハとチェコの民主化運動は、ソ連軍の戦車で圧殺されたのです。プラハの春では、市民たちの手になる、自由を求めた書簡『二千語宣言』が有名です。この宣言に名を連ねた人々の中には、ヘルシンキ五輪のマラソンと5千メートル、1万メートル3種目の勝者で、人間機関車と呼ばれたザトペックさんや、東京五輪でチェコの名花と渾名された体操の女子個人総合などの金メダリストベラ・チャスラフスカさんなども加わっていました。ドプチェク体制後のチェコの指導部は、頑として二千語宣言への署名を撤回しないチャスラフスカさんのメキシコ五輪派遣を躊躇したのですが、国外からの批判を警戒して派遣を認めたのでした。彼女は仲間の皆さんのためと、東京を上まわる演技で答え、個人総合、鉄棒、段違い平行棒、そして徒手体操と4個の金メダルを獲得、女子団体と平均台で銀メダルを獲得したのです。その後、まさに苦節20年、1989年のオレンジ革命で民主化運動は、苦難の末の復権を果たしました。二千語宣言の署名者たちも、皆名誉を回復したのです。
2015.08.20
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クロニクル バクダッドの国連事務所攻撃2003(平成15)年8月19日12年前のこの日、バクダッドの国連事務所が爆弾攻撃を受け、デメロ代表ら24人が死亡しました。およそ5ヶ月前のこの年3月20日、米国は国連安保理の反対を無視して、一方的にイラク攻撃を始め、圧倒的な軍事力でバクダッドを制圧、イラク各地に駐留して、傀儡政権の樹立に邁進していました。ここに国連の権威は、明確に否定され、大国は都合の良いときのみ、国連を利用する現実が見事に炙りだされたのです。米国は、イギリスや日本などの派兵で満足し、この問題については、国連を無視し続けていたのです。イラクの人々は弱小国家が、大国の理不尽な攻撃に晒され、一般市民にまで大量の犠牲が出ている現実に強い憤りを覚え、小国の味方として力を発揮しない、国連にまで怒りの矛先を向けたのです。それが、この日の国連事務所砲撃となって、現実のものとなったのでした。イラク戦争は、大国のエゴの前には、国連もまた何も出来ない存在に堕していることを、白日の下にさらけ出してしまいったのです。
2015.08.19
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皆様へ 短波放送orユーチューブ視聴のお願い皆さん、今晩は。私のブロ友の1人に、「音屋でオジャル」さんという、作曲と編曲を手掛け、ピアノを弾き、コーラスで歌も歌われるという幅広く音楽活動を続けている才媛がおられます。彼女は、何か御事情があったのでしょう、昨年10月末からブログは休止していらっしゃるのですが、音楽活動は続けられており、昨日以下のようなメールを送ってくれました。それによりますと、「北朝鮮」向けの短波放送で、拉致被害者の救出に向けての訴えとしてアピール出来るような曲の募集があり、それに作詞家と声楽家の友人とトリオで応募したところ、数多く集まった曲の中から、オジャルさんたちの「キンモクセイ」と題した曲が、見事入選して放送されたということです。今後もあと3日放送されること、ユーチューブにもアップされているということなので、皆様の中で、音楽に関心のある方、拉致問題に関心のある方などに、聴いていただけると有難く、お願いのために、ここに記させていただきました。以下、オジャルさんのメール~です。> さて、私事で申し訳ありませんが、お知らせさせていただきたいと思い、メールいたしました。 特定失踪者問題調査会の活動の一環で、北朝鮮向けの短波放送「しおかぜコンサート」で私の曲が放送されました 拉致被害者、横田めぐみさんの母の気持ちを歌った曲「きんもくせい」という歌です。 短波放送はなかなか聞くことはできませんが、同時に、youtubeでも放送の模様がアップされています https://www.youtube.com/watch?v=eHzsqXU9jmM ちなみに、短波放送の放送予定はあと3日、21日22日23日の深夜にもあります。 よろしかったら聞いていただけると、うれしいです(^_^)/ <どうぞよろしくお願いします。 またもし皆様がお聞きになって、お気持ちが許せば、夫々のブロ友の皆様にも、広げていただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 ザビ神父
2015.08.18
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クロニクル 国税庁地価大幅下落を公表1993(平成5)年8月18日もう22年になるのですね。22年前のこの日、国税庁は、1月1日時点の全国の路線価を公表しました。それによると、昨年比で路線価の全国平均は、18,1%という大幅な下落を記録しました。バブルの崩壊は、90年初めからの株価の暴落に始まり、翌年には地価の下落も顕著となり、92年には土地を担保とする融資に傾斜した銀行株が、大幅安を記録するなど、日経平均株価は、高値時の1/3近くにまで、下落していました。この時点で、地価の大幅下落も、市場は見込んでいたと言えましょう。にもかかわらず、政府の公式統計が、地価下落を明らかにしたのは、一年も遅い、今から、22年前の今日のことでした。 日本に15年遅れて、欧米で同じことが起き、同じように怪傑に時間がかかっているのですが、そんなことは、当時は知るよしもありませんでした。まさに因果は巡るというか、人間というのは欲にかられると、何度も同じような過ちを繰り返す、愚かな生き物なのですね。追記 友人のニトトラさんから、路線価は毎年1月1日現在で発表されると、ご指摘を受けました。4月1日としたのは、間違いでしたので、訂正させていただきました。
2015.08.18
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クロニクル 松川事件 1949(昭和24)年8月17日66年前のこの日、午前3時9分頃、東北本線の松川駅(福島県)付近で、上りの旅客列車が脱線転覆し、乗員3人が死亡する事故が起きました。事故現場のレールの釘が何者かによって、抜き取られており、それが事故の原因でした。翌18日、内閣官房長官が、「集団組織による計画的妨害行為」とする政府見解を公表、警察の捜査をその方向に向けました。福島県警は、内閣の見解を忠実に守って、その線での捜査を行い、9月に入って、国労福島支部の組合員と東芝松川工場労組の組合員ら計20人(その多くが共産党員でした)を逮捕しました。折りしも、ドッジラインによるデフレ政策の進行で、不況色が強まっており、行政整理や企業整理による失業の増大に対する、労働者の抵抗運動が強まっていました。こうした事情から、マスコミは、下山事件、三鷹事件に続く、国鉄をめぐる第3の怪事件と書き立てました。裁判は、急ピッチで進められ、翌1950年には一審判決が下り、死刑を含む全員有罪が宣告されました。しかし、裁判の進行に連れて、弁護団の半端でない努力が実を結び、警察および検察が、共産党員らの犯行だという予断をもって臨んだことによる、冤罪事件ではないかという疑いが強まり、作家の広津和郎らを先頭に、精力的な裁判批判の運動が広がることになりました。公正な裁判を獲得して、民主主義と人権を守る運動が、大きな高まりを見せたのです。こうして、高裁からは一転して慎重な審議が行われ、最高裁は原判決を破棄して、差し戻しを決定、ようやく1963年に全員の無罪が確定しました。しかし、事故から14年が経過しての無罪確定でしたから、真犯人の追及はなされないこととなりました。既に時効が成立していたからです。政治の介入が、公正な捜査を曲げ、犯人追及を不可能にした事件として、松川事件は、忘れられない事件となりました。
2015.08.17
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クロニクル 経団連の誕生1946(昭和21)年8月16日69年前のこの日、日本経済団体連合会(略称経団連)が創立されました。経団連創設の構想は、戦後すぐに経済問題の処理と経済再建に向けて、経済界の総力を結集し、総意を動員するための機関を作ろうと計画され、この日実現をみました。設立宣言には、「経済界における各部門の連絡をはかり、財政経済に関する内外の諸問題を研究して、経済界の公正なる意見を取りまとめ、その実現に努力し、もって国民経済の自立と健全なる発展を促進することを目的に…」と記され、各種経済団体並びに企業の総意結集のために創設されたことが読み取れます。後に財界の総本山と自他共に認める組織に成長する経団連はこうして誕生し、経済団体の中核として、経済政策の樹立、経済行政の整備、経済法規の改善などについて、政府・関係官庁との協議などに尽力し、諸外国の経済団体との連絡などにも注力して、存在感を発揮しました。日経連と合併した現在は、そうした存在感も、心意気も失ってしまったようにみえるのが残念です。少なくとも原発再稼働の旗振り役を務めることだけは、やめてほしいですね。
2015.08.16
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クロニクル 大韓民国成立 1948(昭和23)年8月15日それは、日本の降伏から、丁度3回目の独立記念日の出来ごとでした。67年前のこの日、朝鮮半島の38度線の南の地域、すなわち日本の降伏後、米軍が治安維持にあたっていた地域が、大韓民国として独立することを宣言したのです。大統領には、李承晩が就任しました。これを受けて、ソ連軍が進駐し、治安の維持に当たっていた38度線の北側は、南の独立から刺激を受け、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国としての独立を宣言しました。首相には金日成が就任しました。日清戦争以後、次第に日本の支配を受けるようになった朝鮮は、1910年に日本に併合され、完全に日本の植民地とされて、日本の敗戦の日まで、35年間の植民地支配を受けたのです。1945年の7月下旬に発表されたポツダム宣言は、「朝鮮の独立を認めること」という一項を含んでいました。そのため1945年、日本がポツダム宣言の受諾を表明したその日が、朝鮮の人々にとっての独立の記念日となるはずでした。しかし、そうはならなかったのです。日本の軍部の無益な抵抗の続行は、2発の原爆投下やソ連軍の参戦を生み、日本の国民にも、本来ならなくて済んだはずの多大な苦しみを生みましたが、それと同じく植民地だった朝鮮の人々にも、大きな苦しみをもたらしました。ソ連の参戦と進出を受け、米軍は対日戦の参謀次長だったラスクに、朝鮮半島中部に、適当な分割ラインを見つけるよう、命じました(この事実については、後にケネディ・ジョンソン政権で、国務長官を務めたラスク自ら証言しています)。適当な山脈や河川を見つけられなかったラスクは、38度線を分割ラがインに選び、ソ連側との合意に達したのです。適当な時期に南北同時選挙を実施して、ひとつの国にする予定で‥。しかし、この構想は戦後における米ソ冷戦の激化で水泡に帰し、ここに48年、南北分裂国家が誕生することになったのです。そしてこの分断は、49年10月の社会主義中国の誕生を経て、50年~53年の朝鮮戦争という民族的悲劇に発展し、今なお続いているのです。すべては、東条を筆頭とする日本軍部の頭目たちの、現実を直視できない指導者としての決断力の不足と、敗北を受け入れる勇気の欠如が招いたことでした。
2015.08.15
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クロニクル 片山・プレハーノフの握手1904(明治37)年8月14日今日から101年前、日露戦争の最中のことです。この日、オランダのアムステルダムで、第二インターナショナルの第6回大会が開幕しました。日本からは渡米中の片山潜が欧州に出向いて参加、日露戦争の最中ということもあって、大会当事者の粋な計らいだったのでしょう、ロシア代表のプレハーノフと共に、大会の副議長に選出されたのです。2人は壇上で固い握手を交わし、大きな拍手を浴びました。第1次世界大戦前夜の反戦運動を綴る時に必ず取り上げられる、世界史や日本史の教科書でお馴染みのシーンです。片山は、日露両国のプロレタリアが,万国の社会主義者と共に戦争に反対することの意義を強調し、プレハーノフもまた日本が専制的なロシア政府という巨人を悩ませていることを指摘しました。これより先、平民新聞の3月13日号は社説に「露国社会党に与える書」を掲載。「日露両国の社会主義者は、共通の敵である帝国主義や軍国主義と、共に勇敢に戦おう」呼びかけていました。この文章の英訳が欧米の社会主義系の機関紙などに紹介され、大きな反響を呼んでいたのです。ロシア社会民主労働党も、機関紙「イスクラ」5月14日号に返書を掲載、日本の社会主義者の勇気に敬意を表し、「ロシアでは困難な状況の中で、戦いが続けられている」旨を記しました。しかし、その後ロシアでは、反戦平和を求める革命運動が大きな広がりをもって、支持を広げていくのですが、日本の反戦運動は少数者の微々たる運動に留まり、ロシアのような広がりは持てませんでした。
2015.08.14
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クロニクル 甲子園野球初の実況中継行われる1927(昭和2)年8月13日甲子園の高校野球、今たけなわですね。明日でベスト16が出揃うところですか。この甲子園野球、前身の旧制中学時代を合わせると、今年で100年だそうですね。実は、この甲子園野球、日本のスポーツ番組の実況中継の草分けです。当時すでに野球は人気スポーツでしたが、人気のトップは、早慶戦に代表される東京6大学野球でした。ラジオは1920年代初めに、アメリカで最初のラジオ局が誕生し、ニュースや音楽、スポーツ中継で人気を集め、瞬く間に西欧や日本にも持ち込まれ、放送が開始されたのです。そして、88年前のこの日、NHK大阪支局が、甲子園の第13回全国中等学校優勝野球選手権の開会式と各試合の実況放送を初めて実行したのです。「ビー・オー・エー・ケー、こちらは大阪中央放送局甲子園出張所であります。これから大阪朝日新聞社主催、第13回‥‥中略‥‥‥の模様を実況でお知らせいたします。」と、午前9時5分、最初の野球放送の第一声が、関西地区の聴取者に届けられました。観衆の声援や拍手の音が、アナウンスと共に聴取者に届けられ、臨場感があると好評を博したと、当時の新聞は記しています。ところで、1948年の学制の変更で、5年制の中学校が3年、3年の中学校と高等学校に分かれるまで、甲子園の野球大会は、5年制中学校の大会でした。
2015.08.13
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クロニクル 御巣鷹の悲劇1985(昭和60)年8月12日30年目になりましたので、2011年のこの日に掲載したブログを再録させていただきました。この日、午後7時数分前頃、日本航空の羽田発大阪往きのボーイング747SR機が、群馬・長野両県の県境に位置する御巣鷹山の山中に墜落して炎上、乗員・乗客524名のうち、520名が亡くなる、日本の航空機事故としては最大の犠牲者を出しました。機体は翌朝発見され、現場には焼け爛れた機体や遺体が散乱し、さながら地獄絵のような姿だったと、現場で救助と遺体の収容にあたった、警察や自衛隊の関係者が語るほどでしたが、機体の後部座席の近くで、女性ばかり4名の生存者が救助され、感動を呼びました。その後生存者の証言などから、離陸後しばらくして隔壁に穴が開き、バランスを崩した飛行機が迷走しながらも着陸を目指して苦闘していたこと、墜落後もしばらくは、助けを求める生存者の声が聞こえていたのに、その声も次第に弱弱しくなり、遂には聞こえなくなったことなどの、生々しい証言が得られ、その都度涙を誘いました。犠牲者には、歌手の坂本九さん、阪神球団社長の中埜肇さんなどが含まれていました。航空機の中で、最も安全性が高いとされたジャンボ機でなぜ事故が起きたのか。この点が疑問視されたのですが、調査の過程で、もはや言い逃れが出来ないと観念したボーイング社が、同機の修理の際に、隔壁の修理にミスがあったこと、そのため機内の気圧を一定に保つために行なう加圧に絶えきれず、隔壁が飛ばされたことを認め、日航並びに遺族に謝罪する一幕もありました。私はこの日、5才の息子と2人で愛知県の篠島に海水浴に出かけており、13日朝のニュースで事故を知りました。9ヶ月の娘を連れて行くには無理があるため、父親と2人だけで行くかと息子に聞いたところ、海と乗り物の大好きな息子は、イチもニもなく、「行く」の一言。出かけていった先での事故のニュースでした。
2015.08.12
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クロニクル 日本政府,閣議で南ヴェトナムへの緊急援助決定1964(昭和39)年8月11日51年前のこの日、日本政府は南ヴェトナムのドン・バン・ミン政府に対する緊急援助を決定しました。1954年のジュネーブ協定は、北緯17度線の北をヴェトナム政府が治めることを認めましたが、17線の南については、2年後に国民投票を実施して帰属を決めると定めました。そのため、当時反共主義であれば、どんな政府でも認めて支援していた米国は、フランスに替わって同地に進出、自国で亡命生活を送っていた、ゴリゴリの反共主義者ゴ・ジン・ジエムを首班とする傀儡政府を樹立、ジュネーブ協定を無視して、反共の南ヴェトナム政府を作り上げ、南北統一を徹底的に妨害する挙にでました。それは、ヴェトナム全土の植民地からの独立を希求するヴェトナムの人々の希望に反する事でした。そのため60年代に入ると、南ヴェトナムの解放闘争が激しくなり、62年には南ヴェトナム解放民族戦線の活動が、活発になりました。国民の支持のないゴ・ジン・ジエム政権には、独自で解放戦線と戦う力はなく、米国は軍事顧問団の名目で米兵を派遣し、南ヴェトナム政府軍の指導と訓練を行なうと称して、次第に戦争を丸抱えするようになりました。ゴ政権は民衆の反発を力で抑えこもうと、恐怖政治を敷きますが、かえって国内各層の反発を招き、63年秋には穏健派の仏教徒をも怒らせてしまい、民衆の尊敬を集める高僧達が、相次いで政府に対する抗議の焼身自殺を公開の場で行ないます。信仰心の厚いヴェトナムの人々にとって、これは衝撃的でした。同時に、ゴ政権にとっては致命的な痛手になりました。命運尽きたゴ政権は、米国にも見放され、63年11月のドン・バン・ミン将軍を中心とするクーデタで政権を追われ、ゴ・ジン・ジエムは、弟のゴ・ジン・ヌー夫妻と共に、殺害されました。こうしてドン・バン・ミン政府が誕生したのですが、戦局は改善せず、94年7月米国は「北ヴェトナム魚雷挺が、米国の駆逐艦を攻撃した」とするトンキン湾事件をでっち上げて、議会からフリーハンドを獲得、8月9日には初めての北爆を実施するなど、南ヴェトナムでの戦争に本格的にのめり込んで行ったのです。そんな時期での政府の緊急援助の決定でした。東京オリンピックの始まる約2か月前のことでした。
2015.08.11
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クロニクル 国鉄分割・民営化プラン出る1984(昭和59)8月10日もう31年も経っているのですね。この日、国鉄再建管理委員会は、中曽根首相宛ての第2次緊急提言を発表、その中で、初めて国鉄の分割・民営化の方向性を明示しました。分割・民営化を目指す路線はここに登場、強力な労働組合対策も兼ね、急速に実現の方向性を強めてゆきます。分割民営化の実現は、2年8ヶ月後の1987年4月のことでした。国鉄の抱える赤字は、国鉄清算事業団が抱え、金融機関に利子の減免を求めることもなく、国有地となった旧国鉄の所有地を次々に売却したり、民営化会社の株式上場によって得た利益などを次々に注ぎ込んで、返済を続けましたが、高率の利息のために元金はほとんど減らず、最後は20兆円を上回る国庫資金(税金)の投入によって、清算されました。この赤字のほとんどは、代議士達の地元サービスと地元の土建業者へのサービスとして建設された採算無視の赤字路線が積み上げたものでした。また分割民営化は、動労、国労といった労働組合の活力を削ぐためにも利用され、民営化に反対する労組の組合員は、民営化会社への再就職に関して、不利な扱いを受けることになりました。動労の幹部は、この状況をうまく読んだのか、途中で民営化反対の旗を降ろし、組合員が不利な扱いを受けることを防ぎましたが、国労は最後まで民営化反対を貫き、組合員の多くは、債務を処理した後に解散となる、いわば一時的な身の置き所にしかならない、国鉄清算事業団にしか入れませんでした。不等な差別として、国労と組合員は裁判闘争に訴えますが、明るい展望の開ける戦いではなく、組合員は大きな犠牲を払わされることになりました。幹部の判断ミス、ミスと気付いても路線の変更に踏み出せない勇気の欠如が、多くの仲間にとんでもない犠牲を強いた例が、ここにもありました。一方で、国鉄は大きな債務を抱えて立ち往生し、事実上一度倒産して新会社に移行したようなものでしたから、債務の一部カットにまで踏みこまないとしても、少なくとも金融機関に支払う利子の大幅減免程度は、求めて当然でした。そうすれば、最後に20兆円もの税金を投入することは避けられ、国費の投入は大幅に減額されたことになります。民主党政権も全く同じでしたから、日本の政治家たちは自民党に限らず、税金のバラマキ(=無駄遣い)が大好きで、その様はまさしく病的です。ですから私は、今の政治家が総退陣しない限り、消費税の引き上げに賛成することは出来ないと、考えています。
2015.08.10
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クロニクル ハチ公像再建1948(昭和23)年8月9日67年前のことです。戦時中に供出によって、1度溶かされてしまった渋谷駅頭のハチ公の銅像が、戦後3年目のこの日、再建されました。ハチ公の銅像は、ハチ公の生存中の1934(昭和9)年に建立されたのですが、戦時中の金属資源不足から供出を命じられ、1945年の8月14日に鉄道省の浜松工機部で溶かされ、機関車の部品となって東海道線を走っていました。ところで、亡くなったハチ公の亡骸は、剥製となって国立博物館に保存されています。
2015.08.09
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クロニクル 日本初の心臓移植1968(昭和43)年8月8日47年前のこの日、札幌医科大学病院心臓外科教室の和田教授が、日本初の心臓移植手術に踏み切り、無事成功しました。心臓移植は、脳死状態の方の動いている心臓を摘出しなければ、実施できません。それゆえ、日本では、脳死は人の死かいう、神学論争が延々と続けられていました。私のように、デカルトやフランクリンに一目置く者にとっては、「人とは、自ら考える存在である」とする主張に組して、考える力の源である、脳が働かなくなったならば、人としての役割は、もはや終えているとすることは、ごく自然に受け入れられる考え方なのです。考えることなしに、生きていること、或いは生かされていることほど、空しいことはない。脳死は、まさしく「人としての死である」。私はこう考えて、臓器提供カードを所持しています。
2015.08.08
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クロニクル 米軍ガダルカナル上陸1942(昭和17)年8月7日73年前のこの日、17,000名の米軍が、ツラギ島とガダルカナル島に上陸しました。予想を大きく上回る米軍の侵攻に、ツラギ島守備隊400名のほとんどは、翌日までに戦死。ガダルカナル島の守備隊2,800名も、設営した飛行場を捨てて、ジャングルへ退避しました。大本営は、続々と同島に増援部隊を送りましたが、一木支援隊900名の壊滅など、多くの支援隊や師団の派遣も、大きな成果をあげることが出来ず、11月には、同島付近の制海権と制空権を、米軍に握られて万事窮すとなりました。降伏を潔しとしない、日本軍の悪しき伝統もあって、補給を絶たれた約3万名の日本兵は、ジャングルの中で飢えやマラリア、赤痢などに苦しみ、次々に倒れてゆきました。同島での日本軍の死者24,000名のうち、病死・餓死の合計は15,000名に達したとされています。大本営が、ようやく同島の撤退を決断したのは、同年12/31のことでしたが、翌年2月の撤退まで、同島での死闘は続けられました。致命的な判断の遅れは、この頃から目立っていたのですね。日露戦争の時の、時宜を得た講和への動きと考え合わせると、昭和の指導部の不出来は際立って見えます。過去の教訓を学ぼうともしない人たちが、政権を握ることの恐ろしさが、ここには見事に露出しておりました。昨今、その2の舞にならないと良いのですが…
2015.08.07
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クロニクル 第1回原水爆禁止世界大会開催1955(昭和30)年8月6日60年前のことです。前年の東京杉並区の主婦達による、「原水爆禁止」の署名運動の開始に端を発した、原水爆禁止運動の大きなウネリは、この日、世界各地からの代表を広島に集めての、第1回の「原水爆禁止世界大会」の開催に結実しました。広島に原爆が落とされた、まさにその日にです。その日に原水爆禁止世界大会が、これまた広島で開かれたのです。それから、数年運動は成長を続けましたが、成長に連れて、政党が指導権を争うようになり、政党の論理を持ち込んで,市民運動を揺さぶります。その結果、部分的核実験禁止条約の取り扱いを巡って、運動は日本共産党系と総評系に分裂する結果に繋がりました。 民衆運動に政党や政治色の強い労組が介入して、折角の自発的運動の芽を摘んでしまう、悪しき習慣がここでも運動の前途を塞ぎました。現在の反原発の民衆運動は、政党と労組の力が衰えていることが、今のところ幸いしています。このままであると良いのですが…
2015.08.06
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クロニクル 部分的核実験停止条約調印1963(昭和63)年8月5日52年前のこの日、米・ソ・英三国は、大気圏内の核実験を停止するという、部分的核実験停止条約に調印、他国へも参加を呼びかけました。この条約は地下実験は禁止しておらず、やがて成立する核拡散防止条約と共に、地下実験設備を備えつつあった核大国の優位を維持する狙いも持っていました。そのため、核クラブ入りを狙うフランスと中国は強く反発、日本でも、この部分的核実験停止条約に対する評価は、半歩前進とする向きと、全く評価できないとする向きとに大きく分かれ、杉並区の主婦達による市民運動として始まった原水爆禁止運動(略称原水禁)の内部でも、大きな亀裂が生じました。原水禁運動は、この条約をめぐって日本共産党系の団体と、社会党・総評系の団体に分裂し、内部に大きな亀裂を残しました。この対立は、学生運動の世界にも及び、日本共産党系の民青系全学連と、社会党・総評系の三派全学連とに分裂しました。核廃絶を目指す運動の中に、政治が持ち込まれ、廃絶すべき核兵器に良い核と、悪い核があるなどと、ムキになって論じること事態が、悪しき茶番に過ぎないのですが、熱くなるとその茶番にさえ気がつかなくなる実態が、情けなかったことを覚えています。「市民運動に政治を持ち込むな」これが、この経験から学んだことでした。そしてこの教訓を活かしたのが、すでに鬼籍に入られた小田実氏等の「べトナムに平和を!市民連合」(略称ベ平連)の運動でした。
2015.08.05
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クロニクル 日本赤軍のクアラルンプール事件1975(昭和50)年8月4日40年前のこの日、パレスチナ解放闘争を支援していた日本赤軍が、マレーシアの首都、クアラルンプールで、米国大使館とスウェーデン大使館を占拠、館員を人質にとって、日本政府に対し、過激派等7人の釈放を要求しました。7人のうち5人は赤城山荘事件とリンチ殺人事件を起こした連合赤軍のメンバーでしたが、他の2人は左翼思想とは接点のない殺人犯だった点に、意外感が持たれました。事は外国のしかも外国公館が舞台です。当然夫々の大使館については、米・スウェーデン両国に治外法権があり、大使館の安全確保については、マレーシア政府に責任がありました。日本政府自身には、実力制圧の選択肢はなかったのは、幸いだったといえそうです。米・スウェーデン両国も人質となった大使館員等の無事救出を望み、マレーシア政府も両国に遠慮して、強行解決を強く主張することはありませんでした。後は、当時の三木内閣の判断となったのですが、刑が確定して服役中の囚人や未決囚を釈放する法はありません。そこで、超法規的措置として、刑の執行を1時猶予する方式を取り、本人の意志確認によって、赤軍派の要請に応じる意志を表明した5人を釈放することで、人質事件は無事解決に至りました。時に8月5日のことでした。事件から36時間あまりでのスピード解決でした。釈放を要請された7人のうち連合赤軍の坂口弘と松浦某の2人は、路線の違いを主張して赤軍派への協力を拒み、刑務所に留まりました。
2015.08.04
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クロニクル 松代群発地震始まる1965(昭和40)年8月3日ちょうど50年前のことになりました。この日、長野県松代町附近で地震が発生しました。この地震は、何度も何度も繰り返しで発生したところから、松代群発地震と名付けられ、10月9日には、気象庁が初の地震予報を出すに至りました。この松代には、米軍の本土上陸の際の大本営の移転先として、巨大な地下壕が掘られています。地下壕の一部は、見学が可能で、私も見学したことがありますが、現在のような機械での掘削などかんがえられない時代に、これだけの施設をひたすら人海戦術で造り出したとすると、いったいどれだけの無償労働が勤労奉仕の美名のもとに、動員されただろうかと、暗澹たる気持ちになったものです。
2015.08.03
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クロニクル 答えイッパツ1972(昭和47)年8月2日今年で43年になるのですね。この日「答えイッパツ、カシオミニ」のCMソングが、今も耳に残る、カシオ計算機(当時)のパーソナル電卓、カシオミニが発売されました。値段は12,800円。昨今の電卓値段からすると、ヤケに高いなという印象を持たれると思いますが、当時とすると、破格の安さでした。それは、ハンディさと、価格が受けて、カシオミニは飛ぶように売れ、発売僅か3ヶ月の10月末までに、何と100万台を売りきるという、超弩級の大ヒットとなったことからも、理解できます。カシオミニは、電卓全盛期の幕を明けた商品となったのです。その電卓もいまや見る影もないのですから、昨今の変化の速さは凄まじいですね。
2015.08.02
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クロニクル 幸せの青い鳥「ブルーバード」発売1959(昭和34)年8月1日56年前のこの日、日産自動車は、新型車「ダットサン・ブルーバード」を発売しました。ブルーバードは「欧米の乗用車に劣らない技術水準に達した本邦初の乗用車」と日産自動車の技術陣が自負する車でした。排気量は1000ccと1200ccの2種類でした。日産自動車は、1953(昭和28)年から、英国のオースチン社の乗用車の国内組立てを行なっており、そこで習得した技術を生かして開発に漕ぎつけたのが、このダットサン・ブルーバードでした。車名は当初「スノーバード」が予定されていましたが、この語は米国で「コカイン等の常習者」を指すことが分かったため、急遽幸せの青い鳥を意味する「ブルーバード」に変更されました。当時の日本の自動車産業は、欧米の自動車産業との技術提携(日産とオースチン、いすずとヒルマン、日野とルノー等)によるノックダウン方式での組み立て作業が中心でしたが、1955年頃から徐々に国産車の生産を始め、1955年発売のトヨペット・クラウンを先頭に、トヨペット・コロナ、ダットサン110などが、発売されていました。しかし、当時舗装道路区間が限られる国内事情もあって、悪路でもしっかり走れる頑丈さが優先され、車としての商品性に欠ける難点がありました。ブルーバ-ドは、この難点を克服し、走行性と耐久性に共に優れた国産車として、日本車にたいするイメージの転換に貢献、マイカー時代の幕を明ける事に貢献したのです。
2015.08.01
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