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クロニクル エリツィン大統領辞任1999(平成11)年12月31日16年前のこの日、ロシアのエリツィン大統領が、病気を理由に辞任、プーチン首相が大統領代行に就任しました。プーチン代行は翌年3月の大統領選挙で圧勝。ロシア共和国で2人目の大統領に就任し、権力の基礎固めに乗り出し、やがてエリツィン氏を凌ぐ強大な権力を握りました。 その後、大統領の連続再選を認めないロシア共和国憲法の規定に従い、メドベージェフ大統領の下で首相に就任、同大統領の任期満了に伴って、12年の選挙で再び大統領となり、現在に至っています。
2015.12.31
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クロニクル 地下鉄事始1927(昭和2)年12月30日「地下鉄事始」と言っても、日本のことです。88年前の今日、日本最初の地下鉄が、上野~浅草間で開通しました。現在の東京メトロ銀座線の1部区間が、部分開通したのです。乗車時間は僅か5分でしたが、開通当初は物珍しさから乗客が殺到、5分間の地下鉄に乗るために、連日2時間待ちの行列が出来たと、当時の新聞が伝えています。ポスターの宣伝文には、「東洋で最初の地下鉄道」の文字が踊っていました。現在の銀座線のうち、浅草 - 新橋間は「東京地下鉄道」会社によって建設・運営されました。同社は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたのですが、関東大震災後の不況のため資金調達が困難となり、当時は日本一の繁華街で高収益が見込めた浅草から上野までの建設を先行させたのです。結果的に、これが当たったのですね。経営はその後も順調で、1934年(昭和9年)に全線開通に漕ぎつけています。一方、渋谷 - 新橋間は目黒蒲田電鉄系の「東京高速鉄道」により建設・運営され、1939年(昭和14年)に全通しています。その後、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始されました。両社は、太平洋戦争に伴う国策の一環として、1941(昭和16)年に特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合されました。この営団地下鉄が、2004(平成16)年に民営化され、東京メトロとなりました。ところで、この銀座線、現在でも乗降客が多く、日中も3分に1本という過密ダイヤが編成されています。そしてこの銀座線と2番目に建設された丸の内線は、早くに建設された地下鉄の特権で、地下の最も浅いところを走っています。
2015.12.30
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クロニクル さらば「銀巴里」1990(平成2)年12月29日「銀巴里」は銀座にあったシャンソン喫茶です。戦後の焼け跡がまだあちこちに残っていた、1951(昭和26)年に産声をあげた、日本で最初のシャンソン喫茶です。石井好子、芦野宏、中原美紗緒、美輪明宏、戸川昌子、金子由香里ら、日本の代表的なシャンソン歌手が、銀巴里を拠点に活動し、多くの観客を集めていました。60年代前半の学生時代、ワンステージに飲み物がついて500円の料金は、学生には高かったのですが、家庭教師のバイト代が入ると、先ずは銀巴里に出かけていました。その「銀巴里」が25年前の今日、49年の歴史の幕を下ろしたのです。シャンソンブームが去り、来客数が激減し、支えきれなくなったのです。「銀巴里」の閉店後、「東の銀巴里、西のベル・エポック」と並称されていた、吉祥寺駅近くのシャンソン喫茶「ベル・エポック」が孤軍奮闘、営業を続けていたのですが、その「ベル・エポック」も遂に音をあげ、6年前の2009年10月31日に店を閉じました。「銀巴里」が店じまいして4半世紀。シャンソンに活気が戻る日が、いつか来ないかと、待ち望んでいます。
2015.12.29
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クロニクル 映画の誕生1895(明治28)年12月28日19世紀も終わりに近い1895年のことですから、今から120年前のことになります。この日フランスのリュミエール兄弟、オーギュストとルイは、シネマトグラフを開発、公開しました。兄弟の父、アントワーヌは肖像画家でしたが、ダゲレオタイプ(最初の写真機)が発明されると写真館を開業するなど、進取の気風の持ち主でした。兄弟は、こうした父の遺伝子を受け継ぎ、1894年にパリでエジソンの発明したキネストコープ(映画の原型、箱の中を覗くと動く画面を見ることが出来るが、スクリーンに投影することはできないため、1度に大勢が見ることはできない)を見て、大きな刺激を受けました。ここから兄弟は本格的な動画作りに取り組み、キネストコープを改良、スクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフ・リュミエールの開発に成功したのです。二人は、自らの工場の近辺などで撮影を行い、1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンで、撮影済みの映像を有料で公開しました。これが1度に多くの人たちが、一緒に大きなスクリーンを見つめたという意味で、本格的な映画の始まりでした。とりわけ「汽車の到着」では、カメラに向かって走ってくる汽車を見て、観客が大騒ぎになったと、当時の新聞が伝えています。兄弟はその後、リュミエール協会を作り、世界中にカメラマンを派遣し、映像を撮り続けたのです。2人のおかげで、日本を含む世界各地のこの時期の映像記録が残ることになりました。すると、今度はエジソンがリュミエール兄弟の活躍に刺激を受け、映画撮影のための施設を作って、こちらはドキュメンタリーではなく、劇映画の製作に乗り出しました。こうして20世紀は、映画の世紀として始まることになりました。
2015.12.28
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クロニクル 傾斜生産方式を決定1946(昭和21)年12月27日今から69年前、戦後の焼け跡があちこちに残る時代の話しです。政府は、この日の閣議で、経済復興をどう進めるかに関して、傾斜生産方式を採用する事を、正式に決めました。敗戦、とりわけ米軍の空爆によって、軍需産業を中心に、日本の工業地帯は大きく破壊されており、事実上ゼロからの復興でしたから、1度に全産業の復興を目指す事は、現実問題として無理でした。そのため、あらゆる産業に関連する基幹産業を中心に、少ない外貨を割当、まず基幹部分の復興を目指し、次いで周辺に広げると言う、2段階、3段階の手順で復興してゆくプランが採用されたのです。こうして、当時は国内資源として豊富に採掘された石炭採掘→電力→鉄鋼の順で、政府による支援が行われたのです。このうち石炭は、産業の黒いダイヤと呼ばれ、筑豊・常磐・夕張などの産炭地は活況に沸きました。現在では、こうした産炭地の炭鉱は全て閉鎖されており、その1つ、夕張市の惨状が大きく報道されたのも、つい最近のことでした。
2015.12.27
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クロニクル インド洋大津波2004(平成16)年12月26日11年前のことです。丁度私が頚椎ヘルニアの大手術を受け、50日を越える長期入院を終え、退院したのが10日前の16日でした。退院10日後のこの日、インドネシアのスマトラ島沖を震源とする、マグニチュード9.3の大地震が発生。丁度満潮時と重なったことと、震源が近かった割りに、津波のやってくるスピードが遅かった、震源の東側に当たるスマトラ島やマレーシア、タイ南部などで、特に大きな被害が出ました。また、津波の到着が予想以上に早かった、震源の西側にあたるスリランカ、インド、アフリカ東海岸の国々でも、夫々数百人に及ぶ犠牲者が出ました。2011年3月11日に、東北地方や関東地方の海岸線を襲った、東日本大震災による津波被害の7年前のことでした。
2015.12.26
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クロニクル ヴェトナム軍カンボジアに侵攻1978(昭和53)年12月25日37年前のこの日、ヴェトナム政府軍が国境を超えてカンボジアに侵攻、28日にかけて、カンボジア東部で激戦を展開しました。その後、優勢となったヴェトナム軍の後押しを受けて、翌79年の1月11日に、親ヴェトナム派共産党によって、カンボジア人民共和国の成立が宣言されました。75年に成立したポル・ポト派中心の政府は中央を追われました。それでも根強い抵抗を続け、そこにシアヌーク派や右派のロン・ノル派が加わり、カンボジアは、内戦に突入しました。ポル・ポト派による都市住民の大量虐殺が明らかになるのは、それから1年ほど後のことでした。
2015.12.25
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クロニクル 消費税法案成立1988(昭和63)年12月24日もう27年前になりますが、この日の参院本会議で、当初税率を3%と定めた消費税導入法案が、25時間のマラソン審議の末、ようやく成立しました。社会、共産両党は、時間切れを狙って、徹底した牛歩戦術をとって抵抗しましたが、この日未明大型間接税を導入する「消費税」法案は,可決成立しました。財政再建の旗印の下に、大型間接税導入計画を最初に打ち出したのは、79年の大平内閣でした。付加価値税」構想です。この構想が潰えた後、中曽根内閣が導入を計画した「売上税」もまた、野党や国民各層の激しい反発を受けて、陽の目を見ませんでした。3度目の正直で、ようやく税率を3%とした消費税が日の目を見たのです。導入は翌89年の4月1日。97年4月には、税率が5%に引き上げられて、現在は8%、17年4月には、10%へ引き上げるとか。益々庶民の消費行動は冷え込むでしょうから、景気への悪影響は避けられないでしょうね。昨今の政治の貧困は深刻です。
2015.12.24
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クロニクル 米国でBSE2003(平成15)年12月23日12年前のことです。米国時間のこの日、米国農務省は、BSE感染牛が見つかった旨を発表しました。日本ですと天皇誕生日ですから、通常この日の発表はありません。発表を受けて、日本政府は24日、早々と米国産牛肉の輸入禁止を発表しました。発表当初、私は米政府の圧力に弱い日本政府だけに、この輸入禁止措置は、短期で解除されるだろうと考えていました。ところがそれは、私の読み違えでした。吉野家など、米国産牛肉を使っていた牛丼チェーンの多くは、やがて牛丼の販売を、米国産牛肉の輸入再開まで、中断せざるをえない状況に陥り、販売最終日の模様は、各テレビ局がリポーターを派遣して実況するなどの社会問題になるほど、センセーショナルな出来事になりました。対米関係では、極めて珍しい日本政府の粘り腰でした。月齢24ヶ月までの若い牛に限っての輸入再開後も、禁輸部位が混入していたことが明らかになり、再度輸入がストップするなど、BSEを巡る混乱はおおよそ3年に亘りました。米国側の求める月齢36ヶ月までの輸入制限緩和についても、日本側がそれを受け入れたのは,2012年に入ってからのことです。ここから私が学んだ教訓は、農家及び農業保護に関わる問題では、国会議員と農水官僚の連携チームは、いまだに強力な抵抗勢力であり続けているということでした。
2015.12.23
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クロニクル 民法改正、家制度を解体1947(昭和22)年12月22日68年前のことです。この年5月に施行された日本国憲法(新憲法)の規定にそぐわない個所が多々あった民法の改正が、この日公布されました。戦前の家族制度は、戸主の権利や家督相続権など、家長中心の制度となっていました。そのため戦前の日本では、女性や子どもの基本的人権は認められていなかったのです。ところが、5月に施行された日本国憲法は、民主主義と基本的人権の尊重を声高に宣言するものでした。このため、憲法に抵触する恐れが強い第4篇親族の章と、第5編相続の章が、全面的に書き改められることになったのです。この日公布された新民法は、個人の権利を中心に、結婚及び離婚の自由と男女両性の平等の確保、財産の均分相続、また相続は財産に限ることなどを規定して、家制度を壊す内容となっていました。しかし、法は替わっても、人の内面まで変えるには、長い時間がかかります。真の意味での、両性の平等の実現には、まだまだ時間がかかりそうです。 そして、時代の変化と共に改正民法そのものにも、現実にそぐわない個所がいくつも指摘され、一部には最高裁の違憲判決すら出されています。
2015.12.22
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クロニクル ドゴール大統領誕生1958(昭和33)年12月21日57年前のことです。この日行なわれたフランスの大統領選挙で、対独レジスタンスの英雄ドゴール元将軍が当選しました。ドゴール大統領は、公約に掲げた泥沼のアルジェリア独立戦争の解決に向けて全力を尽くし、1962年にはアルジェリアの独立を認め、フランス軍の名誉ある撤退を実現して、支持を広げました。その後1968年にパリ5月革命によって、退陣を余儀なくされるまで、10年間にわたってフランス政界の再編に全力を尽しました。
2015.12.21
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クロニクル 結婚退職解雇無効判決1966(昭和41)年12月20日49年前のこの日は、日本における女性の権利獲得史において、特筆される重要な判決が出された記念すべき日です。それなのに今日でも、あまり強調されていないのが残念です。舞台は東京地裁。結婚を理由に解雇された住友セメントの女性社員が、会社を相手取って「不当解雇につき、解雇無効」と訴えた裁判で、この日東京地裁は、「結婚退職制は、憲法に定める<法の下での両性の平等>に反する規定であり、違憲である」と、踏み込んだ判決を下しました。この判決は、当時の日本の状況を考え合わせると、原告側にとって望みえた最高の判決でした。当時は、好調な日本経済を背景に、人間の基本権を尊重する気風が、広まりつつあった時期に当たっており、翌年誕生した美濃部都知事が、保育所の大幅な拡充を進めるような環境にありました。しかし、表面的には結婚による退職の強制はなくなりましたが、結婚した女性に対する隠然とした嫌がらせなどによって、依願退職に追い込む企業や、結婚退職は無くなっても、出産や育児に対する配慮がないため、妊娠・出産を期に退職を選ばざるをえない立場に追い込まれる女性は多く、女性の労働の権利が広く認められるようになるためには、産前・産後の休暇制度の拡充や、育児休業法の成立と拡充などを待たなければなりませんでした。そして、現在もなお、女性達が後顧の憂いなく働き続けるためには、なお実現すべき課題が、いくつも残っています。そうした点を考え合わせると、この結婚退職違憲判決は、女性の働く権利を拡大するための、第1歩を記した判決として、位置づけられるように思います。少子化が深刻な問題になっている現代の日本で、少子化による経済の落ち込みを防ぐための方法は、女性の社会進出の推進と、外国人労働力の受け入れ条件の緩和のという、2つの方法しかないのですから…
2015.12.20
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クロニクル 第一次インドシナ戦争始まる1946(昭和21)年12月19日69年前のことです。この日、フランス軍が、ヴェトナム軍に攻撃をかけ、ここに1954(昭和29)年5月に、フランス軍の拠点ディエンビエンフーが陥落するまで7年半に及ぶ、第一次インドシナ戦争が開始されました。ヴェトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ3国は、19世紀の80年代以降、フランスの植民地とされてきましたが、1941年7月末から、仏領インドシナに日本軍が進駐、支配下においてきました。その日本は1945(昭和20)年8月15日に、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。その時、主に米軍の力でドイツ軍の占領から開放されて1年しかたっていないフランスに、植民地占領軍を再派遣するするだけの力はなかったため、現地の日本軍は、ホー・チ・ミンらのパルチザンに武器・弾薬を渡して降伏したのです。ここに、ヴェトナム軍の編成を見たのですが、翌46年のこの日、ようやくこの地に派遣された部隊が、ヴェトナム軍との戦闘の火蓋を切ったのでした。戦争は7年半に及び、1954年5月のディエンビエンフーに包囲されたフランス軍の降伏によって、ホー・チ・ミンらのヴェトナム軍の勝利で決着しましたが、その後にアメリカ合衆国の介入が始まり、全ヴェトナムがヴェトナム人の手に返されるのは、1975年4月のことでした。
2015.12.19
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クロニクル 東京湾アクアライン開通1997(平成9)年12月18日あれから18年経ちました。川崎~木更津を結ぶ東京湾アクアラインが完成、この日開通式が行われました。途中の海蛍までの川崎側は海中トンネル方式で、それ以後の木更津までは海上を走る方式です・しかし、設定した料金が高く、物見高さに見物を兼ねて海蛍に出向く人々が一巡すると、利用車数は、想定を大きく割り込み、大きな赤字路線となりました。当初は料金が高いから、東京湾横断道路を使うという方も多く、無駄な道路の典型になっていました。とりわけ、悲劇的だったのが木更津市で、道路建設を当て込んで、高値に買われた地価は、バブル崩壊の憂き目のなかで暴落。JR木更津駅周辺は、進出したそごうの撤退と共に、閑古鳥が鳴き、寂れた状況が続きました。 現在は、高すぎる通行料が見直され、社会実験価格として普通車が800円に割引されており、その結果、日曜祭日や平日でも夕方のラッシュ時などは、渋滞が生じるほどに、利用が伸びています。とりわけ、2012年4月に誕生した「三井アウトレットパーク木更津」の波及効果もあって、ここ3年の間に利用車数は、それ以前の1,8倍に伸びました。しかし大幅な割り引き価格ですから、相変わらず赤字状態が続いています。
2015.12.18
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クロニクル ペルー大使公邸人質事件発生1996(平成8)年12月17日もう19年になるのですね。19年前のこの日、ひとあし早く平成天皇の誕生日を祝うパーティが、ペルーの日本大使公邸で開かれておりました。ペルーの名士や日本関係者らが集う中、反政府ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)所属の14名のゲリラの襲撃があり、多数の参会者が人質となる事件が発生しました。人質との交換で拘留中の仲間の釈放が要求されました。体調の悪い方など、1部の人質は解放されましたが、それでもなお72名の方々が、人質生活を余儀なくされたのでした。日本政府は人質の人命を最優先するとことを、強くペルー政府に要請、アメリカ政府は人質に犠牲が出ることなど厭わず、強硬突入でゲリラを掃討することで、人質を解放することを求めました。 当時のペルーにとって、日米両国は共に重要な援助国であったため、ペルー政府が両国の顔を立てるために打てる手は解決の先送り、時間稼ぎしかないことは、予測される筋書きでした。 少し頭を使えば,この現実は想像出来ることでしたが、当時の日本のメディアは、すぐに解放しうるものという立場からの論調に終始し、事態を冷静に判断する事が出来ずに、情緒的判断を垂れ流す事しかしませんでした。 結局、事件が解決したのは、発生から127日後のことでした。ほとぼりの冷めた頃、ゲリラの油断を見澄ましての、強行突入による解放でした。日本人人質には死者はなかったのですが、ペルー人人質1名と突入した特殊部隊の隊員2名、ゲリラ14名と、合わせて17名の死者がでたことは、忘れずにいたいものです。
2015.12.17
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クロニクル 日本橋白木屋で本邦初の高層ビル火災発生1932(昭和7)年12月16日83年前のことです。この日、日本橋の白木屋百貨店(居酒屋の白木屋ではないですよ…)で日本で初めての高層ビル火災が発生、日中のことでしたから、大勢の来店客が高層階の窓から飛び降りるなど、大変な惨事になりました。死者14名、重軽傷者130余名と報告されています。 この時期は、まだ夫人の肌着は長襦袢が一般的で、今日のような肌着は着用されておらず、そのため婦人客の多くが飛び降りるのをためらったために、被害は余計に婦人層に集中したことが指摘されています。その結果、この事故の副産物として、以後婦人下着(特にズロース)が急速に普及するようになったと指摘されています。 ところで、白木屋は戦後,昭和30年代に乗っ取り屋の横井英樹氏の株買占めにあい、やがて、東急の傘下に入り、東急日本橋店と名を変えましたが、バブル崩壊後の不況期に売上げ不振から、1999年に白木屋から数えて336年の歴史に幕を閉じ、閉鎖されました。跡地は現在賃貸オフィスと商業テナントとの複合ビルになっています。
2015.12.16
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14日の日記 「民事再生法成立」の補足民事再生法と会社更生法今晩は。昨日の日記で、民事再生法を取り上げましたところ、もう少し丁寧に説明してほしいという要望を受けました。また、私の説明不足で、誤解を招いてしまったように感じられるところもありました。大変失礼いたしました。そこで、以下に少し補足をさせていただきます。民事再生法が成立するまでの会社の倒産や再建については、破産法と会社更生法という二つの法律が対応しておりました。再建の見込みがなければ破産法で、全ての会社資産を処分して、債権者でその全てを分配して終わりにする。再建の見込みのある場合、選任された管財人の手で、会社の再建が図られる。このどちらかになるのが通例でした。破産申請も、会社更生法の適用申請も、いずれも経営陣が行うのですが、どちらも手形の不渡りが決定的となった段階でしか、申請できない仕組みになっていました。つまり、ことここに至って、初めて申請が可能になるのです。ですから、追い詰められていよいよという段階での申請になりますから、もう少し早ければ再建できたかも知れないけれど、ここまで来てはもう無理だと、破産(会社の消滅)を選択するしか無くなるケースも多かったのです。これに対し、民事再生法は、会社更生法と同じ、会社再建を目指した法律ですが、手形が不渡りになる恐れがあるといった段階で申請が可能なため、再建が手遅れになる前に申請できるというプラス面がありました。現実に倒産したわけではありませんから、経営者が退陣しなくても良いことになります。ただし、この申請が裁判所で認められるためには、債権者の2/3以上の同意(=賛成)が必要で、それが得られなければ、申請は認可されず、会社更生法に切り替えて申請せざるを得なくなります。あくまでも、現経営陣の下での再建が可能で、そうした方が自分の抱える債権の回収率が高まると、債権者が判断するか否かが、分かれ道になるのです。最近の例では、日本航空の再建は、会社更生法によってなされましたが、スカイマークの再建は、民事再生法の下で行われることになりました。 何故か。スカイマークの場合、大口債権者の数が少なく、2/3以上という再検査の合意が得やすかったのに対し、日本航空の場合は、債権者が多く、合意の取り付けが困難であったことが挙げられます。民事再生法の適用を申請したけれども、債権者の同意が得られなかったケースとしては、マイカルのケースが有名です。マイカルの経営陣は、あなたたちが今後も経営にあたるのでは、会社の再建は難しいから支持できないと、債権者たちの不信を買い、再建計画を承認してもらえなかったのです。また、民事再生法では、管財人は選任されませんから、債権者が担保権を行使して会社資産を切り売りすることは阻止できません。ですから、しっかりした再建計画を早期に承認してもらい、資産の散逸を最小限に留めることも、再建を可能にする上で、とても大事なことになるのです。とりあえず、こんなことでお分かりいただけるでしょうか…。
2015.12.15
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クロニクル 映画『風と共に去りぬ』初公開1939(昭和14)年12月15日今から76年前の1939年は、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻を契機に、第二次世界大戦が勃発した年でした。米国はまだ戦争に加わってはいなかったのですが、ポーランド侵攻後のドイツは、デンマークから北欧の攻略に向かい、フランスの北部国境地帯に築いたマジノ線沿いに展開して、ドイツ軍を迎え撃つ姿勢を築いた仏英連合軍と、ドイツ軍との戦闘は、まだ始まっていない、奇妙な小康状態が続いていた時期でした。こうした異様な雰囲気が漂う中で、この日、マーガレット・ミッチェルの世界的ベストセラーを原作とした、映画『風と共に去りぬ』が、アトランタで初公開されました。主演がヴィヴィアン・リーにクラーク・ゲーブル、黒人のメイド(女中頭)マミーには、ハティ・マクダニエル、監督はヴィクター・フレミングという顔ぶれでした。映画は3時間42分という大長編でしたが、空前の大ヒットを記録しました。戦争中ということから、日本での公開は遅れ、戦後7年経った1952年9月10日に初公開され、その後、何度も上映されています。因みに私は、中学3年だった1957年に原作を読み、映画を見たのは、1960年代に入ってすぐの頃でした。こんな映画を戦前に撮っていたなんて、アメリカという国は凄い国だ、こんな国に戦争を仕掛けるなんて、何と無謀なことをしたんだろうと思ったことを覚えています。
2015.12.15
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クロニクル 民事再生法成立1999(平成11)年12月14日16年前のことです。97~98年の金融危機の余韻が残り、大型倒産の噂が耐えない時期のことです。そんな中のこの日、民事再生法が参院で可決成立しました(施行は、翌年4月1日)。この法は、全債権者の合意を必要とした和議申請(和議法)に代わる、再建型の倒産処理手続きを定めたもので、経営責任を厳しく問わないところから、経営者が選択しやすい反面、経営者のモラルハザードを助長するとして、マイナス面も指摘され、評価は二分されました。現在も多用されていますが、プラス面とマイナス面、どちらが強く出ているのでしょうね。
2015.12.14
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クロニクル 婦人参政権獲得期成同盟会結成1924(大正14)年12月13日91年前のことです。この日、東京婦人会を中心に、婦人参政権獲得期成同盟会が結成されました。理事には久布白落実(くぶしろおちみ)氏や市川房江氏が名を連ねました。25才以上の男性全てに選挙権を付与する男性普通選挙法が実現を見るのは、翌年3月29日のことなのですが、大正デモクラシー運動の大目標であり、全国民的な悲願でもあった男性の普通選挙権獲得が近づくにつれ、もう一方の性である女性の選挙権が無視されるのはおかしい、1部先進国は女性の選挙権を認めているではないかと、女性の手による、女性の参政権獲得運動が日本でも始まったのです。現実に女性が参政権を手にするのは、この時から21年後の1945年12月のことでした。
2015.12.13
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クロニクル 日債銀の一時国有化決定1998(平成10)年12月12日17年前のこの日、小渕内閣は、日本債券信用銀行を債務超過と認定し、「金融再生法」に基づき一時国有化することを決定しました。当時、日債銀の窪田会長は大蔵OBで、国税庁長官を経て天下った人物でした。大蔵省は、日銀をも巻き込んで、前年3月に「大手20行は潰さない」と宣言し、日債銀に手を貸して、3000億円もの奉加帳増資を実現させていました。それだけに、もし財政と金融の分離が実現せず、金融監督庁がなお、大蔵省の一部局に留まっていたとしたら、日債銀の処理は、なお迷走を続けたでしょう。ですから、ここに記したような大胆な処理が実行できたのは、財政と金融の分離が実現したことの成果だったといえましょう。しかし、最近の金融庁は元気がないですね。欧州に比べれば日本の金融界は落ち着いていますが、波乱の芽はいくつか残っているように思えてなりません。
2015.12.12
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クロニクル 第1次世界大戦の終る1918(大正7)年11月11日97年前になります。この日、ドイツ革命によって成立したドイツ臨時政府は、連合諸国との休戦条約に調印、ここに1914年7月28日に始まった第1次世界大戦は、4年3ヶ月余の長期戦の果てに、ようやく終結しました。第1次世界大戦は、戦争末期の1917年11月(ロシア暦10月)には、戦時体制を維持する政治的・経済的耐久力を持ち得なかったロシアで、国内の反戦・平和の世論の盛り上がりによって、社会主義政権が誕生する一幕があり、同じく18年には戦場を中心にスペイン風邪が大流行して、敵対する双方の陣営で、多数の兵士が病死するなど、戦場以外でも多くの死者を出した戦争でした。戦死者・戦病死者の合計は相方合わせて850万人、負傷者は同じく2,100万人強と推計されています。敗れたドイツでは、1100万人の動員兵力に対し、死傷者は600万人に近いと推計されています。ドイツの総人口およそ6000万人と言われていましたから、国民の1割が傷つくか戦死した戦争だったのです。
2015.12.11
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クロニクル 3億円事件1968(昭和43)年12月10日47年前のこの日、東京府中市で、東芝府中工場へ社員のボーナス資金を運搬中の現金輸送車が襲われ、積んでいた3億円が見事に奪われる事件がおきました。世に名高い3億円事件です。男は白バイに変装、輸送車を止めて、催涙ガスと煙幕を発射、係員が怯んだ隙に、輸送車を奪って逃走しました。その後空の現金輸送車が発見されましたが、白バイの男と現金は遂に発見されず、事件は迷宮入りして今日にいたっています。3億円は当時巨額でしたし、給料の銀行振込は、この事件を契機にして普及に力が入れられましたから、当時はまだ、会社の経理で直接受け取るやり方が一般的でした。プロ野球選手の契約更改で、億の数字が飛び交う現在では、3億円と聞いても、金額に驚くことはなくなってきました。それだけ、私達の金銭感覚も、おかしくなってきているのかも知れません。
2015.12.10
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クロニクル 「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念2003(平成15)年12月9日12年前の今日のことです。この日、宇宙科学研究所(現在の宇宙航空開発研究機構の前身)のプロジェクトチームは、日本の火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念しました。火星軌道に乗せるための逆噴射がうまく行かなかったのですね。プロジェクトチームは、「のぞみ」が火星に衝突することを避けるために、最後の賭けとして、「のぞみ」に弱い噴射を行うコマンドを送信、これには成功して、「のぞみ」は宇宙を漂流することとなりました。火星の探査には失敗しましたが、飛行中の通信で獲得できた成果も多く、失敗から学ぶこともまた多々ありました。それから7年後に、金星探査機「あかつき」の金星軌道への投入も、失敗に終りました。しかし日本の研究チームはあきらめることなく、失敗の原因を検証しつつ、たゆまぬ努力を続け、つい先日再度金星に近づいてきた「あかつき」に信号を送り、今度は見事金星軌道に乗せることに成功しました。嬉しいニュースでした。こういう研究開発は、学問の進化と共に産業の高度化にも大いにプラスになります。目先の短期的な成果を求めるのではなく、将来への投資として、支援し続ける体制を築いてほしいものですね。。
2015.12.09
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クロニクル 力道山刺される1963(昭和38)年12月8日52年前ですから、東京オリンピックの前年です。東京のあちこちで、オリンピックへ向けた建設工事が急ピッチで進められていた頃です。そんな中のこの日、人気絶頂のプロレスラー力道山が、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺され、重傷を負いました。その後一時快復しかけましたが、間もなく状態は悪化し、7日後の15日、腹膜炎を併発して亡くなりました。空手チョップを武器に、外国人レスラーを次々に倒していく力道山は、戦後の経済復興期のまさに英雄でした。英雄のあっけない死でした。
2015.12.08
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クロニクル 吉田内閣総辞職1954(昭和29)年12月7日61年前のことです。この日、長期政権を誇った吉田茂内閣が総辞職しました。3日後の10日には鳩山一郎内閣が成立し、長かった吉田時代が終了しました。吉田内閣は第一次では、1946年5月22日から翌47年5月20日までの短い期間でしたが、片山哲、芦田均の両内閣を経て、48年10月19日に第二次内閣を組み上げ、以後は、この日54年の12月7日まで、6年と50日間政権を維持してきました。第一次内閣の約1年を加えると、7年を超える長期政権でした。
2015.12.07
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クロニクル 福田(赳夫)内閣総辞職1978(昭和53)年12月6日37年前の話になります。この年自民党は、福田赳夫総裁の任期満了に伴う総裁公選を実施することとなり、新たに導入した規定により、全党員参加による総裁予備選を行い、予備選の上位2名による本選を実施して、新総裁を決定することになりました。本選挙は衆参の国会議員と都道府県代表(1県2名)の参加によって行われることになっていました。11月上旬にスタートした予備選は、11月26日に開票が行われ、田中派の支援を受けた大平正芳候補が他候補を引き離して1位となり、福田首相はかなりの票差をつけられて2位に終わりました。福田派では、本選での逆転に望みをかける議員も多かったのですが、福田首相は「天の声にも変な声もあるが、やはり天の声には従わなければ…」とのコメントを発表して、本選への出馬を辞退しました。こうして、12月1日に大平新総裁が誕生したのです。福田内閣は国会が召集されたこの日に総辞職、翌7日に大平新首相が誕生しました。 福田首相の引き際、なかなか見事でした。
2015.12.06
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クロニクル 関東地方で12月に史上初の夏日を記録2004(平成16)年12月5日今年の冬は、暖かいですね。朝晩は冷え込みますが、日中はコートのいらない日が多いです。エルニーニョの影響のようですが…しかし、上には上がありました。11年前の今日、季節はずれの温帯低気圧の接近で、関東地方は軒並み25℃を越える、夏日を記録しています。実は、私にはこの日の記憶がありません。私が始めて入院生活を体験したのが、11年前のこの時期なのです。頚椎ヘルニアで、左腕を動かす神経がやられ、左腕が全く動かなくなり、この年10月25日に関東労災病院に入院しました。左腕の神経がまだ生きていることを確認しないと手術出来ないことから、投薬と懸垂の療法を続けて、11月15日に手術、術後1ヶ月を病院で暮らし、退院したのが12月の16日だったのです。空調の効いた快適な館内で、整形外科病棟はまるでサロンのようなにこやかな空間でしたし、食事制限がない方がほとんどでしたから、御見舞い品のお菓子や果物を相互に融通しあいながら、各部屋巡回でコーヒーブレークを催すなど、大変快適な入院生活を送っておりました。そんな時期だったのですね。そういえば、あの冬は、退院後も寒い日の少ない、温かで穏やかな冬でした。
2015.12.05
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クロニクル 筑波大生の集団買収発覚1978(昭和53)年12月4日茨城県議会議員選挙において、良い小遣い稼ぎと考えたらしい、筑波大学生141名が、1人3000円で買収され、集団で不在者投票していた事実が、37年前のこの日明るみに出ました。筑波エクスプレスもなく、陸の孤島に出現した当時の筑波大学では、学生の多くは寮生活を送っていたので、当地で選挙権を行使したのですが、当然地域への帰属意識が働くことはなく、当然ながら地方議会の選挙になど関心が持てるわけもありませんでした。無用な投票権が、不在者投票に参加するだけで、3000円になるのであれば、効率の良い話だと考えただろうことは、想像に難くないことではありました。積極的に仲間を誘った学生は,仲間から感謝されたとの報道もありました。 成る程と思う反面、国立大学学生の知力の程度と、地方議員のレヴェルの実情に、肌寒いものを感じざるをえない一幕でもありました。日本における学力の低下は、今に始まることではないこと、それは「ゆとりの教育」が生み出したものなのではなく、もっと根が深く、既に70年代の末頃に芽があったことが、ここから分かりますね。あれから37年、地方議員の質は一向に向上しないばかりか、益々劣化が進んでいるように見えますし、今や国会議員の質もお寒い限り、困ったものですね。
2015.12.04
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クロニクル 対人地雷禁止条約調印1997(平成9)年12月3日18年前の今日、カナダのオタワで、対人地雷禁止条約が調印されました。オタワで結ばれたため、この条約はオタワ条約と呼ばれています。地雷は殺人を目的とした兵器ではなく、人を傷つけることで、肢体不自由者を大量に生み出し、要介護者を大量に作り出すことで、敵方の戦力と経済力を大きくダウンさせることを目的とした兵器です。そのため、極めて簡単な作りで、製造も容易、単価も安いため、資金繰りの厳しいゲリラ組織なども大量入手が可能な兵器です。しかも、1度埋設されると、どこに埋まっているかの探知が、探知機なしには難しく、ために除去には膨大な人手と資金が必要になる、厄介な兵器です。簡単な地雷は1個3ドルで製造できるそうですが、その除去には1個につき300ドルはかかるという厄介者なのです。こうした対人地雷の非人間性を憂慮した各国のNGO団体が、対人地雷禁止条約の締結に向けての運動を続け、NGOの地道な活動が、各国政府を動かし、ついに締結に漕ぎ着けたのが、このオタワ条約でした。出発は、1991年のアメリカとドイツの退役軍人が中心となったNGOの呼びかけでした。翌92年には、欧米の6団体がニューヨークに集って、「地雷禁止国際キャンペーン」(ICBL)を立ち上げます。そして95年には、ベルギー政府が世界で始めて、対人地雷の製造、販売、使用を禁じる法律を作成、対人地雷禁止に向けての空気が大きく膨らみました。これを受けて、対人地雷の禁止に向けての国際会議が、96年にオタワで開かれ、97年9月にノルウェーのオスロで、法案の条文が作成され、そしてこの日、オタワで調印されたのです。日本もこの日に、条約に署名し、条約の原加盟国の1つとなりました。ところで、条約案は調印国が40ヵ国に達した日の6ヶ月後に、条約として発効すると定めていたため、条約の発効したのは、約1年3ヶ月後の、1999年3月1日のことでした。なお現在の加盟国は153ヵ国に達しています。なお、この条約は、NGOの努力が国際条約に結びついたはじめてのケースとしても知られ、ICBLの事務局長を務めたジョディ・ウィリアムズは、97年のノーベル平和賞を受賞しています。ノーベル平和賞は、妙な政治臭が強く、私はあまり評価していないのですが、時々ジョディのようなまともな受賞が挟まるので、評価が厄介です。
2015.12.03
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クロニクル 主婦の店ダイエー神戸三宮店開店1958(昭和33)年12月2日 57年前のことです。この日、主婦の店ダイエーの神戸三宮店が鳴り物入りでオープンしました。良い品を安く大量に、主婦の目線で選びましたというキャッチフレーズが評判を呼び、大変な盛況でした。大量販売、廉価販売、セルフサービスで値段をギリギリまで抑えた薄利多売方式は、ダイエー方式と呼ばれるようになり、やがてマスコミから流通革命の騎手と持て囃されました。 もっとも日本におけるスーパーマーケットの草分けは、1953年に東京青山に誕生した紀ノ国屋であるとされており、関西でもダイエー以前に、大阪のはとや、京都の大友といったスーパーが誕生しており、ダイエーの1号店も1957年の大阪店でした。しかし、スーパーマーケットの名を一躍全国に轟かせ、メジャーなものにしたのは、何と言ってもマスコミを賑わせた、ダイエー神戸三宮店の誕生でした。 ここに、スーパーマーケットの時代が幕をあげたのです。そのダイエーも今やなし。イトーヨーカ堂やイオンも精彩がなく、今やコンビニの全盛時代。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、変化の速さは凄いですね。
2015.12.02
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クロニクル 西ドイツ大連立政権誕生1966(昭和41)年12月1日49年前のことです。この日、当時の西ドイツで、CDU・CSU(キリスト教民主同盟・同社会同盟)と社会民主党の大連立内閣が誕生しました。首相にCDU党首のキージンガー、外相に社会民主党党首のブラントが就任しました。戦後政権を離れていた社会民主党ですが、ブラントは大連立の成果をもとに、政権担当能力を国民にアピールすることに成功、東ドイツとの関係改善を進める東方外交を武器に、3年後政権奪取に成功しました。その後の西ドイツ並びにドイツでは、社会民主党中心の内閣とCDU中心の内閣が交互に政権を担当する、実質的な二大政党制が機能しています。翻って日本を見ると、民主党の失敗の原因がはっきりします。種々批判されるのですが、小澤一郎という人物は、見るところをちゃんと見ていました。 彼が党首の時代に、彼の側から時の福田首相に連立政権を持ち掛け2人の間では、実質的に合意が出来ていたのに、民主党内の反対でご破産になったことがありました。あのとき私と同年の小澤一郎の頭の中には、西ドイツとブラントの成功が、見習うべき事例として行き来していたと、私は想像しています。果たせるかな、政権運営即ち官僚操縦術を学ばなかった民主党は、見事にというか小澤一郎の危惧した通りに、見事に政権運営に失敗し、弱小政党に転落してしまいました。転落は自業自得なのですが、結果として日本における二大政党制確立のチャンスを潰し、以前に比べ下品で乱暴な自民党の事実上の独裁を許してしまった責任は、非常に重いと指摘せざるをえません。後悔先に立たずですが、残念です。
2015.12.01
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