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クロニクル ラストダンスをあなたと…1940(昭和15)年10月31日75年前の今日のことです。東京の全てのダンスホールが,この夜限りで全面的に閉鎖されました。どのホールも、ラストダンスを楽しむ男女で超満員の盛況だったと、当時の記事は伝えています。日米開戦に先立つ1年1ヶ月余り前のことですが、日中戦争は泥沼化しつつあり、軍部の横暴に眉をひそめる人々も多かった頃でした。横文字は御法度とされ、タバコも改名を余儀なくされ、当時の人気銘柄の「ゴールデン・バット」は「金鶏(きんし)」、「チェリー」は「桜」に変更されたのも同じ10月31日のことでした。野球用語のストライク・ボール・アウト・セーフなども、敵性語として使用を禁じられたのもこの頃のことです。
2015.10.31
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クロニクル 教育勅語発布1890(明治23)年10月30日この日、明治政府は「教育勅語」を発布しました。125年前になります。自由民権運動の盛り上がりは、国会開設の約束でかわしましたが、明治17年の秩父事件では、秩父の農民達がいとも気軽に、「怖レナガラ、天朝様ニ攻敵スルカラ、加勢シロ」と近在農民に呼びかけていたことが伝えられ、政府の魂胆を寒からしめました。徳川270年の支配すら、あっけなく倒されたではないか。ならば、僅か17年の天皇の政府くらい倒すのは簡単だ。これが秩父農民の考え方でした。こうした農民層の受けとめ方は、全国的に共通します。そのことに気付いた政府はあせりました。これは放置できない。天皇を敬う心を教え込み、天皇制イデオロギーを社会に浸透させなければならない。こうして考えられたのが、明治15年に発布されていた軍人勅諭の積極活用であり、この日制定された教育勅語の活用でした。学校と軍隊で思想教育を徹底しようというのです。勅語は、親に孝,主君に忠...などの標語を並べ、「日本は天皇を父とし、皇后を母とする家族国家である」とする事によって、忠と孝の間の相克を取り除いたのでした。そして、勅語の徳目を一つ一つ学習する場が「修身」の授業でした。国史の時間では、歴代天皇の名を全て暗誦することから始めて、天皇の善政と、国民への慈悲の姿勢のみを学ぶことによって、ここでも天皇のありがたさを子ども達に刷り込んだのです。勿論南北朝の抗争など、天皇位を巡る皇族間の争いなど、天皇の名誉に関わることは、教科書では全てカットされていました。皇国史観に撚る脚色された歴史教育です。幼い内に刷りこまれる天皇絶対のイデオロギーは、そうした子ども達が親になり,社会の中心になるにいたって完成します。天皇制国家の支配構造は、こうして日露戦争の勝利後、明治末には完成し、いつしか、天皇は日本国民の父といった位置付けから、現人神にまつりあげられていきました。1番困っていたのは、天皇その人だったのかもしれないと、この頃は考えるようになりましたが...。身近の「拉致」の国の、「将軍」様のやっていることは、明治国家版、国民思想教育をそっくり真似しているように思えます。そう考えると、他人事でないような...。それにしてもひどい話でした。国民思想教育の先兵が教育勅語だった事実は、忘れてはいけないことのように思います。
2015.10.30
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クロニクル 第2次中東戦争勃発1956(昭和31)年10月29日59年前のことになります。この日、イスラエル軍は突然ガザ地区の国境を越えてエジプトに侵入、スエズ運河地帯の占領を目指して、エジプト軍への攻撃を開始しました。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が始まりました。エジプトのナセル大統領は、この年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言し、同運河を接収しました。スエズ運河はイギリスとフランスの資本が支配権を握り、実質的に両国が支配していただけに、この措置に両国は仰天し、次第に武力解決やむなしという判断に傾いていきました。この空気を敏感に察知したのが、イスラエルでした。英仏の尻馬に乗って、領土拡大を実現しようと、スエズ攻撃の先兵役を引き受けたのです。翌日、英仏両国軍は、スエズ運河の安全確保と、運河地帯の中立化のためと称して、スエズ地帯に大軍で侵攻しました。イスラエルにエジプトを攻撃させ、それを口実にスエズ運河を再占領しようという、あくどくかつ姑息な方法でした。当然国際世論は、英・仏・イスラエルに厳しく、英仏が期待したスエズ運河の再接収は、失敗に終らざるをえませんでした。12月22日、国連は緊急総会を開いて,英仏両国とイスラエルに撤退を勧告、スエズ再占領の目論見は失敗に終りました。 結果的に英・仏・イスラエルは、ナセル大統領の名声を高める役割を演じて、舞台を降りたのです。
2015.10.29
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クロニクル プラハの春再び1989(平成元)年10月28日26年前のことです。この日、チェコスロバキアの首都プラハで、民主化を要求する2万人の大デモが行われました。プラハは、ウィーンに移る以前に、オーストリアハプスブルグ王朝の宮廷所在地だったこともある美しい古都です。そのプラハの町が血で染められ、ソ連などの戦車で蹂躙されたのが、1968(昭和43)年8月20日のことでした。「プラハの春」と呼ばれたチェコの民主化運動が、ソ連によって鎮圧された瞬間でした。ドプチェク首相らの指導者は逮捕・投獄され、チェコの民主化への息吹はかき消され、再び冬の時代に戻ったのでした。苦節21年、チェコの市民は不屈の闘志を秘めて、再起のときを待ち望んでいたのですね。それがこの日でした。21年ぶりの満を持しての再起。それが26年前の今日だったのです。運動は成功し、11月22日には、全土ゼネストが始まり、12月28日には、山地の製材所での労働を命じられていたドプチェクさんも帰還、連邦議会議長という名誉職に就任、名誉を回復したのです。68年に「二千語宣言」に名を連ねたとして、職を失い、名誉も剥奪されていた、女子体操の名花として、東京五輪とメキシコ五輪で個人総合を制したチャスラフスカさん、ヘルシンキ五輪で5千メートル、1万メートル、マラソンの3種目を制し、人間機関車の異名をとったザトペックさんのお2人も、この日名誉を回復しました。
2015.10.28
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クロニクル 秋月の乱1876(明治9)年10月27日139年前のことです。この日、福岡県の士族、宮崎車之助らが、秋月で挙兵。小倉の鎮台兵により、鎮圧されました。3日前の24日には、熊本の士族,太田黒伴雄らによる神風連の乱も起きています。ここに明治の日本は、翌年(明治10年)の西南戦争に連なる,士族叛乱の多発時代を迎えました。
2015.10.27
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クロニクル 桶川ストーカー殺人事件1999(平成11)年10月26日16年前のことです。16年前の今日、埼玉県桶川市のJR高崎線桶川駅前で、女子大生が元交際相手とその兄が雇った男によって殺害されました。事件の被害者は犯人グループから監視・中傷・脅迫・プライバシーの侵害等のストーカー行為を受けていたため、事件は「ストーカー殺人事件」と呼ばれました。またこの事件がきっかけとなって、「ストーカー規制法」が制定されました。 日本で最初に認知された集団によるストーカー事件です。この事件では、写真誌『フォーカス』の頑張りにより、警察の怠慢な捜査や隠蔽工作が暴かれました。被害者とその家族は、幾度となく埼玉県警上尾署に相談し告訴状を提出していたのですが、警察側は捜査をせずにこれを放置し、被害者の家族に告訴の取り下げを要求していたというのです。この警察の怠慢と隠蔽工作を週刊誌『フォーカス』が明らかにしました。こうしたいきさつは、翌年3月にテレビ朝日『ザ・スクープ』が大々的に取り上げ、視聴者の関心を高め、マスコミの集中砲火を浴びた埼玉県警が立ち上がり、遂に告訴状を改ざんしていた事実を内部調査の結果として、明らかにしたのです。最後に埼玉県警が不正捜査を認めて被害者遺族に謝罪しました。しかし、上尾署の適切な介入があれば、殺されずに済んだに違いない、若い女性の命が、戻ってくることはありません。 そしてストーカー被害は、現在でも一向になくなる気配を見せないのも、気になるところです。
2015.10.26
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クロニクル 中華人民共和国国連に1971(昭和46)年10月25日44年前のこの日、国連総会は、台湾追放・中国招聘決議案を圧倒的多数で可決しました。ここに中華人民共和国の国連議席が確定しました。考えてみますと、これは摩訶不思議なことでした。第二次世界大戦の末期に連合国は、国際連盟の失敗の苦い経験に基づき、周知を結集して新国際連盟の発足を急ぎ、国連軍派遣の権限を持ち、連合国の中心をなした5大国(米・ソ・英・仏・中)が常任理事国として、拒否権を持った安全保障理事会を中核とする国際連合を組織したのです。ここに発足した国連に、中国は当然のように常任理事国として、議席を持っておりました。国民党内閣の中華民国として‥ ですから、中国の内戦が共産党の勝利に終わり、1949(昭和24)年10月1日に中華人民共和国が建国された時点で、中国としての議席は、当然共産党の中国に譲られるべきでした。ところが、大陸を逃れ、アメリカ第7艦隊に守られて、台湾に逃れた蒋介石は、中国は一つであり、「二つの中国の陰謀には組しない」として、国連に居座ったため、7億(当事)の民を統治する正当中国が、国連に出席できない状態が、この日まで続いていたのです。これは異常な事でした。中国の議席回復を願う国々も年々増えました。ここで、アメリカ政府の意向を伺っていた日本は、大きな失態を演じたのです。それは、大陸中国の招聘は台湾の追放とセットになっている重要事項である。ですから、重要事項に指定して、3分の2の賛成を必要とすることにしようと提案したのです。過半数から3分の2へ。これは中国の国連加盟をさらに遅らせる措置でした。そしてその急先鋒が日本だったのです。この年も同じでした。しかし、7月に翌年2月にニクソン大統領が訪中すると言う米中の関係改善が公表された後でしたから、中国の招聘は圧倒的多数で可決されたのです。日本は、相変わらず重要事項の指定を提案したのですが、この提案も大差で否決され、皮肉なことに中国招聘・台湾追放の決議案そのものが、3分の2を超える賛成を得たのです。
2015.10.25
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クロニクル 東京五輪閉幕1964(昭和39)年10月24日51年前のこの日、15日間の会期を無事に終え、東京オリンピックが閉会式を迎え、無事に幕を閉じました。10日の秋晴れの開会式、その夜いきなりの重量挙げ三宅義信選手(ロンドン五輪の女子重量挙げで銀メダルを獲得した三宅宏美選手の伯父にあたります))の優勝シーンから、毎日日本選手の活躍を、テレビにかじりついて応援していたのが、いまだについこの間のように感じられてなりません。重量挙げという競技は、この時はじめて見たのですが、見ているだけで肩が懲りました。はじめて肩こりを経験したのが、この時です。卒業論文の執筆をそろそろ始めなければいけない時期だったのですが、五輪の誘惑には勝てず、この2週間を棒に振りました。そのツケは、12月15日の締め切りギリギリにようやく自家製の製本を終えるという、最後は72時間で、睡眠1時間という強行軍で、支払わされました。古き良き時代でした。 5年後2度目の東京五輪、質素で環境に優しいオモテナシ五輪という触れ込みで下が、政治屋さんと土建屋さんが幅をきかせて、早くも掛け声倒れの感もしておりますが、うまく立ち直ってくれるのでしょうか?
2015.10.24
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クロニクル オルブライト国務長官訪朝2000(平成12)年10月23日15年前の話です。任期満了間近の、米国クリントン政権のオルブライト国務長官が、この日朝鮮民主主義人民共和国(略称北朝鮮)を訪問。金正日総書記と会談し、米朝間の関係改善について、意見を交わしました。オルブライト長官の訪朝は、米国政府の現役閣僚としては、初めてのものでした。このとき米国は約2週間後の11月7日に、ブッシュ・ゴア両候補による大統領選挙の投票を控えており、何とか自分の任期中に、北朝鮮との関係改善の道筋をつけておきたいという、なみなみならぬ大統領の決意が伺われました。こうしたクリントン政権の努力も、次のブッシュ政権ですべて反故にされ、「北朝鮮」との関係改善は、先送りされ今日に至っています。
2015.10.23
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クロニクル トウ小平氏来日1978(昭和53)年10月22日37年前になります。この日、トウ小平中国共産党副首相が来日しました。この年8月12日に日中平和友好条約が調印されたことを受けてのものでした。トウ小平氏は、86年1月に逝去された故周恩来首相に重用された人物でしたが、プロレタリア文化大革命の時代と、周首相逝去後に起きた、76年4月の第1次天安門事件に絡んで2度失脚しており、2度復活したことから不死鳥と呼ばれ,肩書きは副首相でしたが、事実上中国共産党の最高指導者の地位にありました。そのため、日本側も国賓待遇の接遇で臨み、来日翌日の23日には、昭和天皇との会見もセットしました。席上昭和天皇は、予定になかった日中関係の過去について自ら言及し、「両国の間には、一時不幸な出来事もあったが…」と述べられ、感激したトウ氏は、「天皇の訪中を中国人民と中国政府は、共に切望しています」と述べて、天皇の訪中を招聘しました。しかし、昭和天皇の訪中には、国内保守勢力の反対が強く、天皇ご自身の強い意欲にも関わらず、ついに存命中に実現することはありませんでした。天皇訪中の実現は、1992(平成4)年に、息子の平成天皇の訪中として、ようやく実現を見ました。
2015.10.22
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クロニクル 第2次農地改革法公布 農地改革本格スタート1946(昭和21)年 10月21日ポツダム宣言を受諾し、GHQの占領下にあった日本は、商工業における財閥支配と、農業における地主支配を抜本的に改めることを迫られ、ここに財閥解体と農地改革の断行によって、日本社会の民主化を進めることになりました。69年前のこの日、前年12月29日に公布された第1次農地調整法に続いて、自作農創設特別措置法と農地調整法の改正法(第2次農地調整法)が公布されました。その結果、農地改革が本格的に推進されることになりました。4年後の1950年に完了した農地改革では、(1)不在地主の全貸付け地(2)在村地主の法廷所有地(1町歩=約1ha=3000坪、ただし、北海道ではその4倍の面積)を除く全貸付け地の公定価格による強制買い上げと、同じく公定価格での小作農などへの売却(3)残存する小作地の小作料は、田は生産量の25%・畑は15%を上限として、金納とすること。以上の点が厳しく実行に移されました。こうして、農民の80%以上が自作農または自小作農となり、残存小作地は10%余にまで減少しました。山林には手をつけなかったとはいえ、小規模自作農が多数を占める農村は、冬場の出稼ぎや、中卒男女の大都会や工場地帯への集団就職によって、商工業への労働力の供給基地ではあり続けましたが、もはや『女工哀史』や『あぁ、野麦峠』に描かれたどん底の貧しさとは違った社会に変身していったのです。公定価格での買取り、売却の決定後に顕著になった悪性インフレや新円切換えによって、地主は実質的に農地をただ取りされたような状態に陥り、農民達はただ同然の安値で自作農に変身できたのです。こうして小規模な土地所有者が多数を占める農村は、戦後保守の強固な地盤を形成することになりました。
2015.10.21
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クロニクル 小選挙区制で初めての選挙1996(平成8)年10月20日あれから来年で20年ですか。19年前のこの日、第41回総選挙が初の小選挙区比例代表並立制という選挙制度で行なわれました。戦後、男女平等の普通選挙が導入されて以来(この制度での最初の選挙は、1946(昭和21)年4月10日でした)、ずっと続いてきた中選挙区制を改めた新制度での最初の選挙でしたが、投票率は戦後最低の59,65%まで落ち込みました。この選挙は、各選挙区当選者が1人だけの小選挙区で300人、比例代表で200人の計500人を選ぶ選挙でしたが、選挙区と比例区の重複立候補を認め、しかも比例代表名簿の同一順位に何人もの候補者を並べることが出来、同一順位の候補者は、惜敗率(同じ選挙区で当選した候補に対する本人の得票比率を調べ、その比率の高い候補から当選とするという仕組み)で順位を定めるという,分かり難さが嫌われたのと、狭い選挙区のため、候補者が限定され、馴染みがあったり、応援したい候補がいないなどの理由で、投票所に足の向かない人が増えたのでしょう。また、小選挙区制は小政党に不利な制度であることから、政党の再編も進み、選挙直前の9月28日には民主党が誕生するなどしていました。選挙結果は、自民党239、新進党156、民主党52、共産党26、社会民主党15、さきがけ2、無所属10となり、小政党の苦戦は明らかでした。この時、公明党は、衆院のみ1時解党して、新進党に加わっていました。
2015.10.20
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クロニクル 日ソ国交回復1956(昭和31)年10月19日59年前のこの日、モスクワで、日本とソ連の国交回復に関する共同宣言が調印されました。ソ連との国交回復に執念を燃やしていた鳩山一郎首相は、病躯をおして底冷えのするモスクワまで出向き、共同宣言に自ら署名したのです。ソ連側もマレンコフ首相が署名しました。この日、鳩山首相は、日ソ国交回復を花道に引退する決意も表明、この後、前年に誕生したばかりの自由民主党は、激しい総裁選に突入することになります。なお、日ソ共同宣言においては、歯舞・色丹・国後・択捉四島の帰属については、歯舞・色丹二島の返還を打診するソ連側に対し、四島の返還を求める日本側とが折り合うことが出来ず、解決は将来に残され、現在にいたっています。
2015.10.19
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クロニクル ミニスカートの女王来日1967(昭和42)年10月18日48年前になるのですね。この日を境に、ミニスカート旋風が日本を席巻することになりました。オリンピック後の不況を克服し、再び勢い良く成長を続けた日本経済は、「昭和元禄」と命名されたのを、御記憶の方もいらっしゃると思います。消費の好調が続き、女性の服装も次第に派手好みになり、欧風ファッション、特にパリモードがもてはやされ、スカート丈も少しづつ短くなりだしていた頃です。そんな時に登場したのが、ミニスカートの女王ともてはやされたツイッギーでした。彼女の来日を機に、日本でも若い女性を中心にミニスカートが爆発的に流行し、駅の階段や歩道橋などでは、目のやりばに困ったものでした。ただ、このミニスカート、流行としての息の長さは大記録もので、現在では社会的に定着しています。女性の支持を得た結果といえましょうか。
2015.10.18
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クロニクル 閣議元号法制化を決定1978(昭和53)年10月17日37年前のことです。この日福田内閣は、元号の法制化を目指す元号法を閣議決定しました。明治・大正・昭和・平成の四つの元号は良く知られていますが、それ以前となると、一般に馴染みがあるのは、明治の直前の慶応と、忠臣蔵で名高い元禄と、江戸時代の三大改革に名を連ねる享保、寛政、天保と、大化の改新の大化でしょうか。平成も何時の間にか、24年になり、昭和…年生まれと言われると、年齢を数えるのに、しばらく時間がかかるようになりました。だから西暦がわかり易くて便利と、次第に西暦が幅を利かすようになってきています。おそらく内閣には、やがて元号が消えてしまうという危機感があったのでしょう。一世一元とする元号法が、ここに提案され、翌年可決。79年の6月12日に公布・施行されました。今年は平成27(2015)年。昭和8年生まれの平成天皇も年末の誕生日で82歳。大正生まれの方も少なくなりました。平成時代も長くなってまいりましたが、存命中にもう一度、元号の変更を経験することになるかも知れません。
2015.10.17
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クロニクル 「中国核実験を実施」1964(昭和39)年10月16日51年前のこの日は、東京オリンピックが始まって丁度1週間。折り返し点にかかったところでした。この日、午後3時(日本時間4時)に中国西部のタクラマカン砂漠での大気圏内核実験(当時の発表では原爆実験)に成功したと、中国政府の発表がありました。1960年2月13日にサハラでの核実験を成功させたフランスに次いで、中国が5番目の核兵器保有国に名乗りをあげた瞬間でした。(他は米・ソ・英の3国)中国はソ連(当時)の支援を受けて56年頃から核開発に乗出していましたが、59年頃からの中ソ対立の深刻化で、ソ連の支援は完全に途絶え、独力で核開発を続けていました。使用された核材料は,比較的取り出し易いプルトニウムではなく、より高度な技術を必要とするウラン235であったため、中国は原爆だけではなく、比較的短時日に水爆実験も成功させるだろうと観測されました。同日、中国政府は「核兵器全面禁止条約」の締結に向けた国際会議の開催を核保有国に呼びかけ、世界的な批判をかわそうともしました。それにしても2日前の14日には、ソ連で政変があり、フルシチョフ第一書記が失脚、ブレジネフ書記長・コスイギン首相・ボドゴルヌイ最高会議幹部会議長の3人によるトロイカ体制が登場しています。東京オリンピックは、国際的な諸事件のハザマで行われていたと言えましょう。世紀の祭典と浮かれていたのは(私もその1人でしたが)、日本人だけだったのかも知れませんね。
2015.10.16
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クロニクル サンフランシスコシールズ来日1949(昭和24)年10月15日66年前のこの日、戦後初来日の米国プロ野球チーム(ただし、マイナーリーガーです)、サンフランシスコシールズの来日第一戦が巨人軍との間で行われました。場所は東京後楽園球場でした。シールズは、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーリーグの所属でしたが、国賓並みの待遇で大歓迎され、日本のプロ球団や全日本と7試合を行い、全勝しています。当時の日本のプロ野球のレヴェルは、まだ低かったのですね。この試合の観客席で、この日、日本初お目見えの商品が販売されました。 その商品というのが、今ではお馴染みのポップコーンとコカコーラです。どちらの商品も爆発的人気を博するのは、もうしばらくあとのことになりますが……
2015.10.15
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クロニクル 大政奉還1867(慶応3)年10月14日148年前のこの日、第16代将軍徳川慶喜は、京都の朝廷に対し、大政を奉還しました。この結果、260余年にわたる徳川幕府体制に終止符が打たれました。しかしながら、このことは、ただちに新政府が誕生したことを意味しませんでした。大政を奉還された朝廷の側に、全国の政治を担う基盤が準備されていなかったからです。慶喜及び幕府の要職にあった政治家たちは、そのことを十分に承知していました。それ故、大政奉還は名を捨て実を取る幕府側の作戦でもありました。慶喜の狙いは、奉還後に作られる新政府においても、自らが主導権を握ることにありました。10日後の24日、慶喜は将軍職の返上も申し出るのですが、慌てた朝廷は、2日後の26日、慶喜に対ししばらくの間政務を委任する旨の沙汰を下します。おさまらないのは、倒幕派の面々です。彼等は、巻き返しを狙って倒幕の準備を進めます。かくて幕末の動乱は、一挙に大詰に向っての、全力疾走に入ってゆきます。
2015.10.14
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クロニクル 警職法改悪反対国民会議結成1958(昭和33)年10月13日57年前のことです。この日の5日前にあたる10月8日、政府は警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出しました。その内容は、警察の権限を大幅に強めるものだったため、発表と同時に国内各層から強い反対の声が上がりました。なかでも声優の徳川無声氏が、戦前の「オイ!コラッ!警察」の復活に道を開くとして、声優,俳優、アナウンサー等と共に、反対陣営のスポークスマン役を演じて話題を呼びました。そんな情勢の中、この日、左右の社会党や総評など65団体が、警職法改悪反対国民会議を結成、警職法を廃案に追い込むまで反対を続けるとの決意を表明しました。時に日米安全保障条約の改定交渉が日程に上がっていたため、安保改訂反対闘争を抑え込むための武器を手に入れる目的で、政府は警職法改悪を強行する積りなのではないかという、憶測もまことしやかに囁かれました。こうした中、11月4日に、政府・与党が国会の会期を抜き打ちで30日間延長したため、かえって反対運動は盛り上がり、野党は審議拒否で対抗、結局警職法改悪は審議未了不成立とすることとなり、岸内閣の強硬姿勢は裏目に出てしまいました。
2015.10.13
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クロニクル 国会開設の詔1881(明治14)年10月12日134年前のことです。この日、政府は9年後の1990(明治23)年に国会を開設する旨の勅諭を発表しました。国会の組織・権限については、欽定憲法を公布して、それを定める旨も同時に発表しました。前年来、自由民権運動は最高潮に達しており、政府内でもイギリス型立憲政治を理想とする大隈重信等と、君主権が優越するドイツ型を導入しようとする伊藤博文等の対立が激化、これに北海道の開拓使官有物払い下げに関わる汚職事件が暴露され、政府は厳しい状態に追い込まれていました。そこで政府は、11日に開拓使官有物の払い下げを中止すると同時に、大隈を罷免し、翌12日に、国会の開設を約束した詔を発表したのです。こうした一連の動きを総称して、明治14年の政変と呼んでいます。板垣退助等の民権派は、この後国会開設を見越して、政党作りに本腰を入れ、10月29日には、自由党の結党に漕ぎつけます。
2015.10.12
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ロニクル マッカーサー女性解放等を指令1945(昭和20)年10月11日ちょうど70年前のことです。この日、GHQ(連合国日本占領軍司令部)のマッカーサー総司令官は、10月5日の東久邇宮内閣の総辞職を受けて、9日に成立したばかりの幣原喜重郎内閣に対して、「5大改革」を指令しました。5大改革とは、女性解放、労働組合の結成奨励、学校教育の民主化、秘密審問制の廃止、そして経済機構の民主化の5項目です。経済機構の民主化は財閥解体や農地改革として実現し、労働組合運動もこの後急速に高まって行きますし、教育の民主化は、特に女子に対する教育差別の撤廃として、男女共学化の推進、義務教育の拡大と高等教育(大学)の女性への門戸解放などが実現しました。女性解放もマッカーサー指令によって、推進されたというのが、いかにも日本らしいのですね。
2015.10.11
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クロニクル NHK総合全カラー化 10日の日記1971(昭和46)年10月10日44年前になります。東京オリンピックの開会式から、丁度7年目にあたるこの日、NHK総合テレビの全ての放送番組が、カラー放送となりました。ただし、モノクロで撮影された劇場用映画(例えば、『七人の侍』や『真昼の暗黒』など)をTV放送する場合は例外でしたが…。日本でカラーTVが、爆発的に家庭に普及するようになったきっかけは、何といっても東京オリンピックでした。以前にも記しましたが、「オリンピックをカラーで見よう」というコマーシャルは、人々の心を揺さぶり、カラーTVは飛ぶような売れ行きを見せました。しかし、当時のTV放送では、カラー放送はなお1部の番組に留まっていました。新聞のテレビ欄の番組名の頭に、四角に白抜き文字でCと記されている番組のみが、カラー放送だったのです。オリンピック以降、少しづつカラー番組が増え続け、この日遂にNHKがオールカラー化を実現したのです。間もなく民放各局もあとに続き、全放送局がオールカラー化するのに、長い時間はかかりませんでした。
2015.10.10
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クロニクル ゲバラ死す1967(昭和42)年10月9日48年前のこの日、キューバ革命をカストロと共に戦ったチェ・ゲバラが、ボリビア政府軍との戦いで捉えられ、翌日射殺されました。39歳でした。ゲバラはアルゼンチン生まれの医師で、グアテマラで開業、夫人の影響でマルクス主義者となり、メキシコに亡命中にフィデル・カストロに出会ってキューバ革命への協力を決意。1959年のキューバ革命をカストロと共に指導しました。1965年にキューバを離れてボリビアに渡り、ボリビア革命を試みましたが、米国CIAの支援を受けた政府軍との戦いに敗れ、志半ばに倒れました。
2015.10.09
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クロニクル 閔妃(びんひ)暗殺1895(明治28)年10月8日120年前のこの日、駐朝鮮公使三浦梧楼は、書記官や軍部を動員して、反日姿勢を強めていた閔妃の暗殺を決行しました。この年、日清戦争に勝利した日本は、朝鮮王室に対する支配力を強めようとしましたが、露・独・仏三国による、有名な三国干渉によって、遼東半島の租借権を清国に返還。その影響で朝鮮王室への影響力は低下していました。この間隙をついて、朝鮮政府並びに王室はロシアへ接近し、日露のバランスをとることで、主権の回復を目指す姿勢を鮮明にし始めました。具体的には、王宮の警備を日本軍人が指導する訓練隊から、アメリカ人教官が指導する部隊に換え、日本離れを鮮明にしたのです。この情勢にあせった三浦公使は、この日親日的な国王の実父、太院君を擁してクーデタを起こし、反日派の中心人物と言われた閔妃の殺害を決行したのです。三浦公使は「日本人の仕業と分からないように決行せよ」という指示を出していたのですが、実働部隊は、そのようなスマートな暗殺を行う訓練を欠いており、王妃の顔も分からぬままに、服装などから王妃と思しき人物を次々と殺害、しかも焦りから、使用を厳禁されていた日本語を乱発、日本語を解せぬ侍女たちを脅えさせるおまけまでつけ、変を聞いて駆けつけた各国公使に、日本人の蛮行であることを、つぶさに目撃されてしまったのです。当然、日本政府には、各国から厳しいクレームがつけられ、日本の評判を著しく貶める結果となりました。こうして、三浦公使は外交官として失脚、その他の関係者も厳しい処分を受けることになりました。
2015.10.08
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クロニクル 東ドイツ誕生1949(昭和24)年10月7日66年前のことです。この日の丁度1カ月前にあたる9月7日に、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が誕生しているのですが、1か月後にあたるこの日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が誕生しました。この結果、1871年1月に誕生した統一ドイツ(その間に帝国、民主的共和国、ヒトラーの第三帝国などと、有為転変を経験しているのですが‥)は、僅か78年で、東西二つのドイツに分断されました。この分裂国家の誕生もまた、米ソ冷戦のとばっちりを受けたものでした。この日から41年後の1990年10月3日に、再統一が達成されたのは、喜ばしい限りです。さて残された分断国家、南北朝鮮の統一はいつになるのでしょうね。すぐにとはいきそうもない情勢ですが、なんとか生きているうちに、南北の統一の報に接したいなぁと、願っています。
2015.10.07
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クロニクル サダトエジプト大統領暗殺1981(昭和56)年10月6日34年前になります。この日、エジプトのアンワル・エル・サダト大統領が暗殺されました。サダト大統領は、ナセル大統領の死後、その地位を継ぎ、1973年の第四次中東戦争を指導して、イスラエル不敗神話を砕いた後、一転イスラエルとの和平路線に転じて、イスラエルを承認。それと引き換えにシナイ半島の返還に成功しましたが、シリアなどからは、裏切り者とののしられ、国内の強硬派も、同大統領への不満を並べておりました。そうした中での暗殺劇であり、彼の和平構想の展開は、ここからというときだっただけに、大変惜しまれる死でした。
2015.10.06
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クロニクル サザエさん放映開始1969(昭和44)年10月5日アニメ番組としては、ダントツの世界一の長寿番組となっている「サザエさん」。実は今日が46歳の誕生日です。フジTV系列で、当初から日曜日の夜6時30分から7時までの30分番組として、ずっと平均視聴率で20%程度を確保しているというのですから、まさにお化け番組です。当初は、ホームドラマの全盛期でしたが、家族の形が大きく変化した今も、同じつくりのホームドラマで、飽きられることがないのですから、日本人の琴線に触れる何かを持っているからなのでしょうね。お家の電話は、今でも黒電話。かけて来る電話も公衆電話。遠くなった昭和の香りが漂う作りです。なぜわかるかというと、3ヶ月に1回くらいですが、眺めては楽しんでいるからです。
2015.10.05
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クロニクル 政治犯・思想犯2500人釈放1945(昭和20)年10月4日ちょうど70年前のこの日、GHQは日本政府に「人権指令」を発し、(1)天皇に対する自由討議(2)政治犯・思想犯の即時全員釈放(3)特別高等警察(略称特高)など思想警察の全廃 (4)治安維持法など、人権を抑圧する弾圧法規の撤廃の4点を命じました。この指令から感じ取れることは、敗戦を受け入れた政府がそのまま生き残り、国民の中から旧支配に替わる新しい政府を模索する動きが、この時点でなお生まれていなかったという事実です。なるべく旧制度を残し、将来復活する際の足場を残したい旧勢力の思惑だけで、全てが動いており、本来それを阻むべき日本国民の主体的動きは見られず、GHQという占領勢力によってしか、旧秩序の破壊は進まなかったという事実です。私はここに戦後日本の民主主義の弱さが集中的に表現されていると考えます。一面では戦時中の思想犯弾圧の徹底で、反対勢力が根こそぎにされていたことも事実でしょうが、少なくともポツダム宣言受諾=敗戦の受け入れを知った時点で、反戦の志の故に投獄されていた思想犯、政治犯の即時釈放を求める運動を始めることぐらいは、出来たのではないかと思うのです。8,15以後の獄中で、哲学の俊英三木清は獄死していますし、名著『東洋における資本主義の形成』の著者で、歴史学者の羽仁五郎(夫人は自由学園の羽仁説子氏)氏は、「敗戦を知ってから、毎日いつになったら、迎えに来てくれるのかと、首を長くして待っていたが、遂にGHQが出ても良いというまで、誰も来なかった」と胸中の無念を獄中記に記しています。日本民主化の一歩が、国民の要求によってではなく、GHQの命令として実現したことを示す一齣でした。
2015.10.04
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クロニクル 「スター誕生」始まる1971(昭和46)年10月3日44年前の今日、一時期日本テレビの看板番組として一世を風靡した「スター誕生」が産声をあげました。時刻は、日曜日の11時~11時55分の55分間。視聴者参加型のオーディション番組として、若い世代の人気番組でした。番組は、1983年9月まで、619回にわたって放送された長寿番組となりましたが、初回放送の視聴率は4,7%でした。次第に人気沸騰、翌年からは。日曜昼時の時間帯にも関わらず、コンスタントに20%台の視聴率を稼ぐ看板番組となりました。番組の第1回決戦大会の最優勝賞は、森昌子さんが獲得、プロデビューしたことは御存知の方も多いと思います。その後、桜田淳子さんや山口百恵さんも、この番組からスターダムにのし上がり、さらに、片平なぎさ、岩崎宏美、ピンク・レディ、小泉今日子、中森明菜といった皆さんが、この番組から巣立っています。日本の元気だった時代を代表する番組の一つでした。
2015.10.03
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ブロ友の皆様、こんにちは。今日はこのブログの9歳の誕生日です。2006年の10月2日に産声をあげましたので、ちょうど10年目に入ったことになります。皆様からいただくコメントに助けられて、ここまで続けることが出来ました。感謝しています。因みに、第1号の記事は、以下のようなものでした。クロニクル 東証ダウ1851円49銭の最高値つける1968年(昭和43年)10月2日は、日経ダウ平均が1851円49銭と、この日までの東証のダウ平均で史上最高値を記録した日となりました。因みにこの値が抜かれるのは、翌年のことになります。2000円到達は69年、5000円到達は1972年、1万円到達は84年、2万円は87年、3万円は翌88年です。翌89年大納会の38915.87円が最高値で、翌年バブルがはじけました。今後ともどうぞよろしく。
2015.10.02
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クロニクル 5千円札初登場1957(昭和32)10月1日58年前のことです。当時私は中学3年生。この日、初めて5千円札が発行されました。時あたかも、日本経済が上向きとなり、3年後の1960年には、所得倍増政策が打ち出されるなど、戦後日本が経済的離陸の時期に入り始めていた時期でした。そんな関係で、この日登場した5千円札に続き、翌年1958年の12月1日には、2年続きで新紙幣の1万円札が登場することになります。ところで、この5千円札には、1万円札と同じ聖徳太子の肖像が描かれており、1987年11月1日に、新渡戸稲造博士の肖像にバトンタッチするまで、20年少々にわたって親しまれてのです(流通が停止されたのは、1986年の1月4日でした)。新渡戸博士に続くのが、現在の樋口一葉女史の肖像で、この紙幣は、2004年の11月1日から使われています。
2015.10.01
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