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カテゴリ: 歴史箱


Strategic Realignment


The US failure in the Vietnam War wiped out the notion that communism had to be contained at all costs.  Therefore, the US came to interpret China in a different way.  Before the Vietnam War, as Jian Chen describes it, the US had generally regarded China as an “aggressive, violent, and irrational” communist country.   The US had not paid as much attention to Chinese nationalism as it did to the Sino-Soviet ideological relationship: China was nothing but a Soviet ally.  But as the US got bogged down in the Vietnam War, it realized that Asian nationalism played a much more important role than it had imagined.  As a result, American foreign policy toward Asia became more sensitive than before to Asian nationalism.  In particular, the US turned its eyes to the historical boundary dispute between the Soviet Union and China.

(対訳、一部意訳)
戦略の再構築

ヴェトナム戦争におけるアメリカの失敗は、共産主義はどのようなコストを払っても封じ込めなければならないという考えを一掃した。それゆえにアメリカは、中国をこれまでとは別の考えで解釈するに至った。ヴェトナム戦争前は、ジアン・チェンが述べているように、アメリカは概して中国を「好戦的で、暴力的で、非合理的な」共産主義国家とみなしていた。アメリカはそれまで、中ソのイデオロギー的関係には注視していたが、中国のナショナリズムに大して注意を払っていなかった。中国はソ連の同盟国でしかなかった。しかし、アメリカがヴェトナム戦争でヘマをしたとき、アメリカは対アジア外交では想像以上にアジアのナショナリズムの力が重要な役割を演じることに気づき、以前にも増して、アジアのナショナリズムに敏感になったのである。とりわけアメリカは、ソ連と中国の間の歴史的な領土紛争に着目した。

(解説)
ヴェトナム戦争後の国際情勢の動きを、戦略の再構築というテーマでまとめてみた。アメリカの対アジア戦略で最初に変わったのは、中国に対する見方であったと論じている。アメリカはこれまでの失敗から学び、中国のナショナリズムに着目を置いた。ナショナリズム的な歴史の見方をすると、イデオロギー的に結びついていたように見えた中ソの関係が異なって見えてくるのである。

Up until the end of the 1950s, relations between the two communist countries had seemed close due to their expanding trade.  But relations gradually deteriorated in the 1960s.  On the surface, the deterioration came from an ideological disagreement over the interpretation of Marxism.  However, the real reason derived from the historical rivalry and mutual fear of the two former empires.

(対訳、一部意訳)
1950年代の終わりごろまでには、中ソという2つの共産主義国は、拡大する両国間の貿易のおかげで緊密な関係を保っていた。しかし1960年代には、その関係は次第に悪化した。表面的には、その関係の悪化はマルクス主義の解釈というイデオロギー的な相違から来ていた。しかしながら、本当の理由は、かつての2つの帝国の相互不安や歴史的なライバル関係から発生していた。

(解説)


For the Soviet Union, Communist China was a myth from its birth since it had assumed that the Nationalists would reassert control over China in the wake of the Japanese surrender.  After China became a communist country in 1949, Soviet leaders still felt China was different from its other European satellites (except Yugoslavia).  Joseph Stalin felt Mao was not very loyal to the Soviet Union. 

On the other hand, Mao himself became very cautious about Stalin after having realized Stalin’s cold attitude in providing promised military aid to the Chinese in the Korean War.  Moreover, Mao disliked the Soviet imperialistic policy and felt that the Soviet Union would never understand Chinese nationalism.  Both Mao and the Soviet leaders were extremely nationalistic in terms of their vast territories, and they did not really trust each other.  Thus the Sino-Soviet dispute went beyond ideology.

(対訳、一部意訳)ソ連にとっては、中国共産党は誕生当初から謎に満ちていた。というのもソ連は、日本が降伏した後、国民党が中国の支配を再び主張するであろうと踏んでいた。中国が1949年に共産主義国家を建国した後も、ソ連の指導者は依然として中国は東欧の衛星諸国(ユーゴスラビアを除く)とは異なると感じていた。ジョゼフ・スターリンは、毛沢東はソ連に忠実とはいえないと感じていた。

反対に毛沢東は、朝鮮戦争のときに、約束した援軍を派遣する際スターリンが冷たい態度を取ったことから、スターリンに対して非常に用心するようになった。さらに毛沢東は、ソ連の帝国主義的政策に反感を覚え、ソ連は中国のナショナリズムを理解できないと感じたのだ。毛沢東もソ連の指導者も、彼らの広大な領土については非常にナショナリスティックであった。そして両者とも、お互いを信じてはいなかった。こうして中ソの争いは、イデオロギーを超えたものになったのである。

(解説)
ここではソ連と中国は当初からすれ違いがあり、お互いにわかりえない間柄であったと論じている。スターリンの冷たい態度に対して中国は警戒を強めるようになる。やがてそのナショナリズム的対立は、国境紛争へと発展するのである。

As a result of this dispute, the Soviet Union first refused to assist the Chinese in developing nuclear power and then withdrew its economic assistance and technical advice from China in 1960.  China, in turn, demanded that the Soviet Union return territories that had been considered Chinese in the 19th century.  The Chinese also accused Soviet leaders of imperialism after the Soviet-led invasion of Czechoslovakia in 1968.  And in 1969, the Chinese attacked Soviet border guards in Manchuria, making Sino-Soviet conflict inevitable.

(対訳、一部意訳)
この争いの結果として、ソ連は当初、中国が核開発を支援することを拒み、1960年には中国から経済援助と技術協力スタッフを引き上げさせた。中国はソ連に、19世紀に中国の国土であるとされた領土を返還するよう要求した。中国はまた、ソ連が1968年にチェコスロバキアを侵攻した後、ソ連の指導者を帝国主義者であると非難した。そして1969年、中国は満州にあるソ連の国境警備隊を攻撃、中ソ紛争は不可避になった。

(解説)
本来なら冷戦構造の中にあって、東側陣営であるはずの中国とソ連が共産主義というイデオロギーを超えて争うようになるのも、ナショナリズムのなせる業であるのだろう。中ソの関係が次第に悪化していく具体例を挙げている。



(対訳、一部意訳)
一方、ヴェトナム戦争を通じて冷戦構造だけではアジアの運動を説明できないことに気づいたアメリカは、中ソ国境紛争を見て、権力構造を再構築する可能性があることを見出した。1971年7月、ニクソン大統領の国家安全保障担当補佐官であるヘンリー・キシンジャーは中国に飛び、ニクソンと中国指導者の首脳会談を開くことを決めた。

この訪問は、中国の外交関係を劇的に変えた。1971年に台湾に替わって国連への加盟を認められた中国は、アメリカがとうとう中国の革命運動の正当性を認識したのであると感じたのである。中国にとっては、ナショナリズムのもう一つの勝利であった。1972年2月、ニクソンは訪中し、公式に外交関係を構築した。

(解説)
中ソのナショナリズム的な対立を見てとったアメリカの動きを説明している。ここでも逆三角形的な構造になっていることを注目してほしい。アメリカは「中ソ国境紛争を見て、権力構造を再構築する可能性があることを見出した」と重要な主張を最初に持ってきて、次に具体的に何をしたかを書いていく。そしてパラグラフの最後は、米中外交の劇的な変化の帰結としてニクソン訪中に触れている。速読法でも最初のパラグラフと最後のパラグラフを読むだけで、主旨がわかるようになっている。

This time, the Soviets lost China; it was a Soviet failure in East Asia.   Like the Americans in the 1950s and 1960s, the Soviets had not realized the importance of Asian nationalism.  Nationalism was proving mightier than communism.  This weakened position of the Soviet Union and the American failure in the Vietnam War combined to bring about a policy of détente in the 1970s.

(対訳、一部意訳)
この再構築は、ソ連の外交政策に多大なダメージを与えた。今度はソ連が中国を失ったのである。それは、東アジアにおけるソ連の失敗であった。1950年代、60年代のアメリカと同様、ソ連はアジアのナショナリズムの重要性を気づいていなかった。ナショナリズムは共産主義よりも強いことの証明でもあった。ソ連の立場が弱くなったことと、ヴェトナム戦争でのアメリカの失敗は、1970年代のデタント政策をもたらした。

(解説)
アメリカの外交と対比する形でソ連の外交を論じたのが、このパラグラフである。米ソの変化はデタントをもたらした。ここでも最初と最後のパラグラフを読めば、主旨がわかるようになっている。途中の文章は、最初の主張を補うものが多い構造になっていることがわかるはずだ。パラグラフの最後の文章は、次のパラグラフへと発展する移行(transition)の意味合いが強いこともわかる。 赤字のセミコロンは、直前の文章の説明のための接続として使っている。

Détente was characterized by Soviet-US cooperation on environmental protection, science and technology, space ventures, and arms limitation.  Nevertheless, détente did not last long.  In December 1979, the Soviet Union invaded Afghanistan to save a Marxist regime.  In the end, the Soviet Union had not learned a lesson from its failure in Asia because this invasion cost the Soviet Union dearly.  Amid condemnation from the rest of the world, it expended much energy and time fighting a nationalist resistance.  Finally, it was obliged to withdraw all Soviet troops from Afghanistan by February 1989, acknowledging that the intervention in Afghanistan had been a mistake.

(対訳、一部意訳)デタントは、環境保護、科学、技術、宇宙開発、武器制限といった分野で協力するという米ソ合意などに現われた。しかしながら、デタントは長くは続かなかった。1979年12月、ソ連が共産主義政権を救うためにアフガニスタンに侵攻したのだ。ソ連は結局、アジアの失敗から教訓を学んでいなかったことになる。というのも、ソ連のアフガン侵攻のコストは多大なものとなったからである。世界中から非難を浴びる中、ソ連はアフガンのナショナリズム的な抵抗と戦うため、多大なエネルギーと時間を費やさざるをえなかった。最後にはソ連は、1989年2月までにアフガニスタンからすべてのソ連軍の撤退を余儀なくされた。そして、アフガン侵攻は適切ではなかったと認めたのだ。

(解説)
デタントの説明と、それに続くソ連のアフガニスタン侵攻がここで語られている。ソ連のアフガン侵攻は、アメリカのヴェトナム戦争と同じぐらい冷戦構造を大きく変える出来事であったといえるので、本当はもっと詳しく説明を加えたかった。だが、論文があくまでも東アジアに焦点を当てるテーマであるため、省略したのである。

Meanwhile, Cambodia and its nationalism fell prey to the power game.  In 1970, the US had masterminded a coup against King Sihanouk, in which American-supported General Lon Nol seized power and sent his army to fight the Vietcong in the border areas between Vietnam and Cambodia.  The Khmer Rouge, Communist party guerrillas, aided by North Vietnam and Sihanouk, resisted Lon Nol, starting a guerrilla war. 

This liberation movement expanded in the early 1970s.  In April 1975, the Khmer Rouge seized Phnom Penh, forcing Lon Nol to flee the country.  However, since the Khmer Rouge headed by Pol Pot soon became notorious for massacring an estimated two million people, the now reunited Vietnam intervened in Cambodia in 1978, resulting in a Cambodian civil war between the Vietnamese-backed regime led by Heng Samrin, and later by Hun Sen, and the Khmer Rouge remnants.

(対訳、一部意訳)一方、カンボジアとそのナショナリズムは、大国のゲームに翻弄された。1970年には、アメリカはシアヌークに対するクーデターを画策。アメリカが支持するロン・ノル将軍が権力を掌握し、ヴェトコンと戦うため、軍隊をヴェトナムとカンボジアの国境付近に集結させた。北ヴェトナムとシアヌークに支援された共産主義ゲリラであるクメール・ルージュがゲリラ戦を開始、ロン・ノルに抵抗した。

この解放運動は、1970年代初めに拡大していった。1975年4月、クメール・ルージュはプノンペンを掌握、ロン・ノルは国外へ逃亡した。しかしながら、ポル・ポト率いるクメール・ルージュはすぐに、推定で200万人の人々を虐殺して、悪名を馳せるようになった。南北統一したヴェトナムは1978年にカンボジアに介入、ヴェトナムが糸を引くヘン・サムリン(後にはフン・セン)に率いられた政権とクメール・ルージュとの間の内戦へと発展した。

(解説)
急いでまとめようとしていることが、このパラグラフから伝わってくる。実はすでにかなりの労力と時間を費やしているので、他のコースのファイナル試験との兼ね合いもあり強引に話を先に進めている。冷戦の後半部分を端折ってしまったが、案の定担当教授からは後半部分の議論が十分ではないとのコメントがついていた。

次節は「冷戦の終焉」です。
(続く)





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最終更新日  2024.12.27 13:29:50
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