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2010.05.23
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<前回の続き>



親鸞の750回忌が近いせいか、最近は「親鸞」が引き合いに出されることが多いが、これは今に始まったことではないと言うことは前に述べられたが、かつてはプロレタリア文学の小林多喜二の「蟹工船」が書店を賑わせ、続いて、新訳が出たと言うことで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が書店を覆った。(これは連れ合いも一気に読破していた)五木氏は、ロシア語を専攻されていたのでドストエフスキーは宗教世界作家という紹介をされ、もう一つの名作「罪と罰」について、この「罪と罰」は神に対してのことであると解説され、ロシア語を直訳すると「犯罪と計画」と言うことになるのだそうだ。

2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、アメリカ同時多発テロ事件は、全世界に戦慄と衝撃を与えたが、あの後、一時、新約聖書「ローマ人への手紙12章19-20」を引用して、「復讐するは我にあり」という考えで受け止めようとした向きもあったようだが、結局は、かき消され、イラク戦争からアフガン戦争へと突っ走ることになるのである。

「ローマ人への手紙12章19」にはこう書かれている。
19:愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐するはわたしのするところである。わたしが報いをすると主は言われる。」

アメリカ人の信仰もこの程度かという方が正しいのか、4千年前のハムラビ法典には「眼には眼を、歯には歯を」と書かれているし、さらに旧約聖書、コーランにも書かれている。神は、どちらを勧めているのか、あやふやな気がするが、1説には罪刑法定主義という意味合いから、現代では、「やられたらやりかえせ」の意味や「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」とする刑罰の限界を定めるというのが本来の趣旨であるとしている。

人間とは、そもそも地球そのものにとって悪ではないのかということは、環境を破壊する先進国や、新興国に大いなる反省をもたらしているが、今の世界は、こういった諸悪と直面して生きていかなければならないということだという。

五木氏は、今の世の中があたかも、平安末期から鎌倉時代に移った時と同じく末世の兆候であるという。たおやかな平安貴族に変わって、野卑な武家が天下を治めることになり、各地で、干ばつ、凶作、飢餓、地震、竜巻などが起こり、京の町は死人が溢れ、腐臭が漂うといった、正に地獄に生きるという感覚であり、飢餓草紙や、地獄草紙で見るような有様であったようだ。

時に大雨が降り、上流から大量の水が、町を洗い死体を下流に持ち去ってくれた時に町の人々は一息ついたという。


このような環境では、良い行いが出来るわけもなく、生きている今も地獄、そして、あの世には浄土もなく、無間地獄が待っているという末世思想である。

これを慰めんと、人々の間では今様が大流行する。後白河法皇はこれをまとめて「梁塵秘抄」を著したが、その中に、
「はかなきこの世を過ぐすとて、海山かせぐとせし程に、萬の仏に疎まれて、後生我が身をいかにせん。」
という歌があり、五木氏はこれを引用された。

「海山かせぐ」の「海山」は、この世に生きて生計を立てる者全てを代表していると言うことであり、はかない世を如何に生きようとも、全ての仏に疎まれてしまって、この先死んでからもどうしようもないと言った、落胆的な諦観の歌である。

このような時に、法然は、ひとすじに弥陀に帰伏して念仏する「専修念仏」で衆生は救われるのであると説いたわけだ。難しいことは要らない、ただ、ただ「南無阿弥陀仏」を唱え弥陀にすがって、弥陀の力(他力)により、浄土に入れると説くのである。
当時としては、正に革命的な教えであって、民衆は飛びついた。さらに、我が生きるために、他を押しのけて来たような悪人の行為であっても、救われるのだと言うから(悪人正機)、民衆は、その教えに一縷の望みを託すのも又当然であったろう。

浄土宗・浄土真宗の教えは、書物に書かれたものからではなく、法然や親鸞の、肉声、姿、表情、身振り手振りにより感銘を受けるものである。正に、「梁塵秘抄」の、
「弥陀の誓ぞたのもしき、十悪五逆の人なれど、一たび御名を称ふれば、来迎引接疑はず。」
といったところである。

法然―親鸞は、こういった教えは、南都北嶺(奈良の興福寺と京都の延暦寺)の如く、立派な僧侶だけが往生できるという差別感はなく、「一切衆生」というのであるから受けたわけである。


高校生が、このような言葉を自発的に使うはずもなく、きっと家庭で常日頃「世も末」という言葉を使っているのだろうという話であった。
それこそ、世も末の話である。

先頃の新聞に「自殺、景気低迷の影濃く 昨年12年連続3万人超」という記事が掲載され、わたしも前に少し触れたが、氏は3万2826人の自殺者数は多すぎるし大変なことだと取り上げられた。統計に出てきただけで、3万人を超えているのであるから、隠れた数は5万人はいるのではないかという事だが、それは、あまりに極端としても、由々しき数字であることに間違いはない。

未曾有のことであり、正に命のデフレーションであるといわれた。
さらに、ヴェトナム戦争を引き合いに出し、1960年代のヴェトナム戦争で、10年間に死んだ米軍兵士と軍属の数は、6万数千人だというのだ。


人は誰しも、心の何処かで「真実の生き方」を希求しているのだという。生き方は即ち死に方に通じる。
平成の末世の今、人は今、直接語りかける相手を失っている。戦後この方、現在までに、「慈悲」という言葉を忘れてしまっているのだというのだ。
「慈」は慈しむなどという意味があるが、人間そのものであるといい、「悲」は嘆かわしいとか心が痛むなどという意味だが、うめき声的なことを含むという。

親鸞は、悲しい時には「悲泣」せよと説いている。さぁ、一緒に泣きましょうと言うことである。
自力で解決できると思うのではなく、素直に「他力」(弥陀)にすがれと言うのだ。

また、ものの哀れを説いた、本居宣長の記した歌論書「石上私淑言」(いそのかみの・ささめごと)では、「人は生きている限り悲しみに出会う」という。その悲しみに横向くことなく正面から見据えて、声に出し、そして他人にもその悲しみを伝えよと説くのである。

西田幾太郎の哲学をも例に出し、人生の悲哀に直面した時、哲学も又然りであるが、腹の底から笑えば、免疫力が増大すると言うだけではなく、必要なことであるという。

金沢の兼六園の「雪吊り」の話を引き合いに出し、「雪吊り」は強い木であっても萎えない木に施すのだそうだ。柳のような木ならば、雪の重さに逆らわず、萎えるが、松などは、強すぎで、頑張りすぎ、やがて限界が来て折れるのだそうだ。人も同じで、頑張りすぎず、萎えようではないかと言うことだ。

昨今の新興宗教は、人が病み萎えている時につけ込み金を儲けたり、悪を成したりするケースが多い。
この事を憂えたりしながら、予定の時間を30分近くオーバーして講演は終わった。

講演の会場は、むやみに暗く、陰気であり、五木氏の指摘にも明るさを増すことはなかったが、講演が終わった瞬間に、パット明るくなったのはどうしてだろうなどと話ながら、今日はいい話が聞けたと、終日バケツを返したような雨の中だが、来て良かったし、久しぶりに細胞が活性化する気がしたねなどと連れ合いと話しながら帰途についた。





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Last updated  2010.05.25 01:03:50
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