全4件 (4件中 1-4件目)
1
これは、春先のことだった。野山にも、雪らしい雪も無くなった頃のことである。そんなある日、山持ちの町内のご老体の「源蔵さん」が同じ町内に住む50歳がらみの男性に、樹木の下刈りや枝払いを依頼した。まだ植林して、4、5年しか経っていなかった。大抵は、年に春先と秋の中頃と二回に渡って行うことが多い。いつもだったなら、毎年同じ人に頼んで手入れをしてもらうのだが、そのベテランの請負人が75、6歳を越して2、3年前から痛風を罹ってしまった。そこで、その人の下で働いていた通称「留さん」と言われている人に頼んだ。雑草が茂ると、植林した杉などは他の食物の日陰になったり、あるいは雑木で根本などに太陽の光が届かなくなる。当然ながら、生い立ちは悪くなったりして平均した丸太に育たない。そこで、こうした枝払いや雑木刈りなどを施すのである。数日して、刈払い作業が終わったと言う知らせが届いたので源蔵さんが早速その点検に山に行った。確かに、依頼した山は綺麗に刈り取られ草履でも歩けるような見通しのよい林に変わっていた。そこで、その地続きの隣にある樹齢30年近い杉の山をも眺めて見ることにした。もう、伐採期に入っている。前の山師の大将に、この刈払いが済んだ跡にはいつもながら御礼代わりにと、丸太10本程度は切って自分の物にして良いと許可をしていた。ところが、どう言う訳か林道側の林の杉が綺麗に伐採されていた。切られた木は、30本以上もあった。源蔵さんは、思わず「盗木」されたと直感した。だが、切り口を見てみると古いものではなくごく最近のものであることに気がついた。まさかとは思ったが、どう考えても「留ドン」の仕業としか思い浮かばない。そこで、夜になってそのことについて伺えを立ててみた。なんと、いつも通りに前の伐採人と同じ事だと思い自分がいただいたと言うことだった。「そ、そんなバカなーっ?」と、空いた口が塞がらない話しだった。確かに、前の請負人とはそんな約束をしたことはある。だが、「留さん」とはまだそうした約束をしたことはなかった。と言うのも、「棟梁」としてはまだ認めてはいないのである。しかも、一度に数十本と言う伐採は常識を越えた行為である。その理由は、ここ3年ばかり手伝った分なので年10本前後と言う事だったので、一度に三年分戴いたと言うことだった。「呆れ返って、話しにならん」と、源蔵爺さんが憤慨した。こうした状況を聞いていた、長男の5年生になる孫が「指切りしたの?」と質してきた。「指切り? 誰と?」と、源蔵さんが反対に聞きただした。「その小父さんと?」と、孫は答える。「前の小父さんとはな。だが、今度の小父さんとは未だだ。前の棟梁さんからな、跡継ぎとしての許可がまだないんじゃよ。これからも長い間の付き合いじゃからの、こう言うことはの、前の人の許可が要るんじゃよ」。「じゃー、前の小父さん、指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ますだね?」。「ほほう、指切りげんまんか、なるほどの。その指切りじゃが、お前いつどこから出たか分かるかい?」。「知らん、でも、友達とはいつもしているよ。どこから、出てきたの?」。一瞬、源蔵爺さんがためらい、「わしもの、知らん」と嘯(うそぶ)いた。これは、昔し遊女がお客に愛情の不変を誓った証拠として小指を切って、そのお客さんに渡したと言うことかららしい。約束を守ることとは言え、大変に痛かったろうと思う。こうした背景上、孫に遊女の存在を教える訳には行かなかった。それが、「約束を守る」ことに置き換えられ現在に至っている。「げんまん」は、「拳万」と書く。握りこぶしで、一万回も叩くと言う意味で「指切り」だけでは満足しないと言う「制裁の証(あかし)」なのである。この「針千本」も、更に制裁を加える意味から後に付け加えられたものだと言う。こうして二重三重に「約束を迫る兵器」を開発したものであるが、常に約束事は破られると言う運命の証拠なのでもあろうか?孫の質問ではないが、考えようによっては前の棟梁との約束であったから、あるいはこの「留さん」にも当て嵌まることなのかも知れない。とは言え、その棟梁から跡継ぎの話しや専門契約としての相談も無かった。棟梁の息子は、大工さんである。木材に関わってはいるが、庭師や山林従事者ではない。だが、山の管理はこの大工さんが請け負っている。それだけに、「窃盗」として告発するにも気分が優れなかった。針千本を飲まされたのは、自分のような気がした。「まっ、高い手間賃と思い諦めては?向こうだって、慣習と受け止め伐採したんじゃないのかね。そのうち、勘違いだったとして変換するかも知れないじゃないですか?」。「変換? ・・・・・・・、もう、売る約束をしたらしいがの。手金の、倍返しになろうて」。「えっ、そんなに早く? 手回しが、いいね?」。愚痴を聞いた私も、一瞬頭に手をやった。「窃盗か 勘違いもある 紙一重」。
2013.08.24
コメント(0)
朝夕だけほんのチョッピリ涼しく感じるような気がするが、多分季節遅れの梅雨のせいかも知れない。と言っても、まだまだ日中はうだるような暑さである。そんな時に、もう秋の味覚の話しは少々早いから、先ず涼しく感じることを言って見ろと叱られそうである。カキ氷のようなお話しでは確かにないが、別に暑さに負けずに食べなさいと言っている訳ではない。いろんな調理による味わい方もあって、それで思い出した訳である。わが町内でのことであるが、焼こうが煮ようがそれを与えない親がいることに心が冷える夏であることをも、感じさせられた幼児虐待事件もあった。ところで、焼くと言うことになれば「トウモロコシ」も含まれると思う。どっちにしろ、「焼いてよいもの」は「煮ても蒸かしても」よいようである。「栗」や「ジャガイモ」や「薩摩芋」、時には「ニンジン」や「茄子」だって味噌を付けて焼いても結構イケルものである。煮たり蒸かしたりしてブヨブヨした物よりは、焼いてホカホカさせて冷ました物は「シャキッ」とした歯ごたえがあるような気がする。子供の頃は、ジャガイモとかサツマイモなどは灰の中に入れてよく焼いて頬張ったものである。もっとも焼くと言っても、最近では色々な器具があってこれがいいとは言えないようだ。網もあればフライパン、バーベキュー用鉄板やトースターあるいは季節によってはやかん置きストーブなどといろいろある。一番手っ取り早いのは、家庭ではフライパンであろう。電子レンジもあるが、もし凍らせてあるときはむしろ水分が多くて上手く焦げ目が出ない。場合によっては、破裂することもある。だからどうしたと言いたいようであるが、実は私が焼いて食べるものとは冬に食べる「みかん」である。もっとも、冬とは限らず今ではスーパーに年中あるが。「えっ、焼いたミカン、マジッ?」と、疑いの眼(まなこ)で睨まれそうだが実はこれはとても美味しい味なのである。焼き方に、一つのコツがある。もっとも、フライパンで結構である。皮ごと焼き、実にもほんのり焼き焦げが現れる程度と言う微妙な火加減が要求される。焼くことによって、甘味も増しビタミンCも普通の3倍ほどに摂取できるなそうである。まぁ、出来れば皮の薄いのが一番であるので買うときには、良く品定めをして買った方がいいようだ。これを今度は、冷蔵庫に入れて冷やしてから食するのである。この調理法は、実はあまり食べたがらない「渋柿(しぶがき)」からの発想である。われら子供の頃には、品種改良された果物などというものはあまり存在しなかった。ろくに、カラスや小鳥でさえも食わないこうした果物を、焼くか蒸すと言う手段でもって味を変化させて食べたものである。時には、軒下に皮を剥(は)いで吊るしておくと言う方法もあった。どちらにせよ、その渋味は取れ味もまろやかに化けたものである。要するに、「干し柿」の方法である。これが高じた訳でもあるまいが、いつしか何でも焼いて食べる癖が居座ってしまった。特にみかんの場合は、甘味が一段と増す上に喉などの炎症を抑える「薬用効果」もあり、且つ「消化吸収を良くする」と医者は言っている。冬などは、特にこの方法がいいのである。体も、温かくなり喉の乾燥をも抑えてくれるのだ。冬の体を温めるこの効果は、灯油代の節約にもなるであろう。と言う訳で、こうした自衛策をも心得ていた方が良いではなかろうか。そんな老婆心が、このクソ暑い今であってもと書き急(せ)かした次第である。ちょっと古い話しではあるが、「焼きみかんの喉飴」とか言うものがあったはずである。確か、「カンロ」とか言ったはずであつたが、最近は目にしたことがない。倒産したのか、それとも製造中止になったのか知らないが、私はよくお世話になったものである。懐かしいの一言(ひとこと)であるが、「南天飴」より効くと思って「焼きミカン」にしている。しかし今は、「冷凍ミカン」で歯を凍みらしてシカメツラをしている。「この暑さ 冬の味覚で しのぐ夏」。スイカの冷やしたのも良いが、今出回っている季節外れのミカンの冷やしたのもオツなものである。やはり、季節なりの「旬のもの」もよいはずだが、最近では年中存在してあり季節感がなくなった。世界の果物や食べ物が、豊富に出回っている。まるで、食うために生きているのか食わさせられるために生かされているのか、分からない世の中になってしまった。とは言え、それでも食わせないで子供を餓死寸前にさせて殺してしまうような親もいるものだ。その年齢に見合わないような、体重の軽い児童を見かけたときには周囲が気をつけて見る必要があるようだ。旬も、季節の味覚も味わうことの無い子供達もいることに背筋が冷たく感じる夏でもある。いろんな方法で味わえる物を、それも与えないで部屋に隔離しているような鬼のような親の夫婦もいたものだ。その子等にとっては、煮るとか焼く蒸(ふ)かすなどと言う調理を見たことが無かったのではなかろうか?近所のおばさんが、偶然にアパートから這(は)って出て来た子供を見た。その子は、腹だけ膨らませた三歳くらいの子供だった。「おや、今時に?」と、疑念を抱いたのだった。話しかけたなら、泣き出してしまった。すると母親らしい女が、その子を抱かかえていきなりドァを激しく閉めて家の中に消えた。しかも、パンツではなくパンパースを履かせていたようだった。「オシメ」を履かせる年齢ではないのだが、何故か手脚が極端に細く感じたようである。このおばさんは不自然さを察知し、児童福祉課に連絡してどうやら一命を落とさずに済んだようだ。明らかに、虐待されているものと読み取っての通報だったようである。市役所では、やはり虐待だったと認定したようである。セックス処理だけの、稚拙な夫婦もいるものである。「余所(よそ)様の 家庭が冷えてる 夏事件」。
2013.08.20
コメント(0)
今若田光一さんたちが、再び宇宙に飛び出すとかというニュースがあった。またしても、長期間にわたっての宇宙生活と思われる。そこで、思いついたことがあった。要するに、トイレの問題以外の重要なことだ。言わば、「セックス問題」ではなかろうかとふと思わった。あと何年間で、一般市民もお金の出しようでは宇宙旅行も可能な筈だと言われている。もっとも、旅行だけの長期滞在だけではなく宇宙ステーションの更なる建設や、あるいは惑星探査などのための長期滞在と言うことも大いに考えられる。そこでだがそうなると、当然ながら一方の配偶者までも同伴させなければならないことだってあり得る訳だ。そんな時に、宇宙では無重力状態で果たして地球上で営むようなセックスは可能なのだろうかと思った。聞く話しによれば、こうした問題は決してタブーなことではないらしく、ロシャやNASAなどでも無視出来ない問題として研究しているなそうだ。お互いに合体しようとすれば、ニュートンの第三法則(作用・反作用の法則)などからして、抱き合って踏ん張れば体が互いに離れてしまうか、あるいはクルクル回って中々合体が出来ないのではないかと思われる。なんの支えも無い訳であるから、浮いて回転だけして離れたりくっついたりしてどうも密着が出来そうも無く集中できない気がした。仮に成功したとしても偶然に、新しい体位などが発見されアクロバット的セックス技法の登場となるのではと思った。無重力の宇宙だけでしか出来ない、新体操に似た体位が発明されたとなると地上のわれわれは、ただ指を銜えて想像して楽しむ以外はなさそうだ。それに加え仮に合体できたとしても、果たして精子が卵子に行き届くのだろうかと疑問を持った。その前に、肝心なことは男性根つまりおチンチンが立派に大きくなるのだろうか?と思い気や、「海綿体の血液充満は、重力に反することにならないから問題がない」と言うことらしい。常日頃、シャキッとしないで何となく萎(な)えでいる状態が多いわけだが、これを聞いて安心して宇宙旅行が出来るかも知れないと思った。とは言うものの、宇宙では放射線が降り注ぐと言うことなので、若い夫婦の場合にその胎児などが、正常な状態で生まれて来るものなのだろうかと言う疑念も払拭出来ない。前に一度メダカやネズミなどで実験したようだったが、その時は骨のあらゆる部分が未発達だったと言う話しもあった。と言うことは、まだまだその弊害を克服しかねている状態なのかも知れない。先ず繁殖は別として、「宇宙セックスの成功」のためにと言う訳でこれをテーマにパネルディスカッションが行われ色々と研究されているようでもある。お互いの体を密着させるために、胸の辺りから足元まで前の部分をパックリ開き、お互いに向き合ってマジックテープのような物で互いの体を固定すると言う方法もあるらしい。最近では、「宇宙セックス用プロダクトのプロトタイプ」とか言うジャバラ式の円筒型の物があるらしい。これを窓際に固定して、そのジャバラを伸ばし二人一緒に入り込むと言う物らしいのだ。しかも、宇宙を眺めながらのお楽しみとかでその密着度と言い感触度は、宇宙ならではの醍醐味いやムーディな雰囲気を満喫させる工夫をしているとのことである。確かに、長期滞在を視野に入れた場合は当然ながらこの「性の解決」を押し図らねばなるまい。人間の体は地上であろうが宇宙であろうが、性欲が湧かないと言うことは無いからだ。増してや、宇宙への家族旅行が可能な時代が来るともなれば当然の設備が必要なのも確かである。「おいおい、何をするんだい、窓を開けて!」。「もう、これっ切り、これっきり、これっきりですわ~。もっと広い宇宙を見てきてね!この機会を、ジッと待っていたのよ、バイバイ」と、女房から宇宙のゴミにされないように心掛けて旅行しないといけない。宇宙は永遠に限界がないが、人間界にはお互いの限界度と言うものがあるようであるから、日頃の愛の確認とその密度の程度をも再確認することもその時の旅行の心得の一つかも知れない。「あ~あ、こんな殺伐とした世界から逃げられるいいチャンスだわ」と言うことも、あるいはあるかも知れない。もっとも、余談としてのお話しではある。遠い未来の、自由に宇宙旅行の出来る時代のお話しではあるが?「もどかしい 熟練要する 愛もある」で、皆さんもこれから練習しておく必要がありそうだ。<離婚の理由>、「離婚の動機ですって? ありますとも、弁護士さん、私が結婚しているということです」(エミール・ポラック弁護士)。 う~ん、確かに。未婚では、有り得ない話しですからな。重きも、軽きも共に背負う仲なれどもどこかでちょっと舵が狂う時もある。「自由とは、どこかで何かに縛られているから欲しがる。だからこそ、その不自由さが無ければ味わいられない」(プラトン)。と言うことは、宇宙でも勝手な自由は無いのかも知れない。宇宙に似た無重力の天国へ行っても、盆と言う名のもとに引き戻されて再び蘇(よみがえ)されて良きも悪しきも問答の対象にされてしまう。その時期が、もう盆と言う形でやって来た。「あの頃の、わたしに戻して」と、拝まれない人生を送りたいものである。「天国で 出来た倅に 追い出され」で、宇宙を彷徨(さまよ)うような地上以上の不幸は造りたくないものである。
2013.08.13
コメント(0)
面白いことと言うか、国家利益主義的発想と言うかそんな感じのする「著作権」を、発動すると言うお国が現れたがその後どうなったのだろうか?その名も文化遺産価値として名高い、あのピラミッドやスフィンクスを有するエジプトである。もっとも、我が国においても「富士山」が世界遺産に格上げになった。その趣旨からして、この国際的文化遺産を自国のお宝として著作権を主張すると言うものであるから満更でもない。「エジプト政府は、これまでピラミッドやスフィンクスを模した工芸品などの販売を黙認してきたが、著作権を主張することにより今後は、エジプト政府に対して許可を求めなければピラミッドやスフィンクスを模したものの制作や販売は認めない方針だと言っていた。エジプト政府では、例えば、米アリゾナ州ラスベガスにあるルクソールホテルのような場合は、その外見はピラミッドやスフィンクスの造形を誇張しており、完璧なコピーとはならないために、著作権の侵害にはならないとしている。しかし、その外見がピラミッドやスフィンクスの造形を忠実に模したものでれば、その造形の著作権はエジプト政府にあり、制作や販売にあたってはエジプト政府の許可を得る必要があると述べている」。(一部報道引用)。これはしたり、しかし何千年も前に造形されたこうした物が果たして、著作権を主張できる物なのであろうか?日本も、国際的文化価値の高い物については既に「ベルヌ条約の加盟国」として参加している関係上、その保護とその著作権を保護する義務が自動的に生ずることになっている。言え換えれば、何もエジプトだけはが著作権を発動出来る訳でもなく、日本とてベルヌ条約に基ついてそのピラミッドの著作権が成立すると言うことになる。いやそればかりではない、この「ベルヌ条約」には世界の殆どの国が加盟しているのである。こんなことが勝手に許されるとなれば、世界遺産に登録なった物はそれぞれその国と、それが存在する地方都市の私的財産として成り立つことになる。「姫路城は、兵庫県の物だ、いや姫路市のものだ」とか、「厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県のものだ」、「白川郷・五箇山の合掌造り集落は、おらが県の岐阜県の物だ」となったなら、一々そうした物が存在する県や市町村の承諾無しには観賞も記念写真も撮れなくなってくる。それはそれとして、「富士山」のような場合は周辺の各県からも眺められる。この場合、どの県の権利なのだろうか?それは、観光資源としての存在価値があるわけであるから多少なりの入場料やお土産販売は当然だが、これに著作権が発生するとなれば確かに莫大な利益が望まれようが、地球上の世界遺産を独り占めにすると言うことはいかがな物であろうか?第一誰の物かとなれば、それは長い歴史の下で延々に築き上げられた人類そのものの遺産であり、時には自然が為し得た壮大なる光景でもある。もはや一国の遺産ではなく、「人類全ての者の遺産」である筈だ。だからこそ、何度も改正されながらこの「ベルヌ条約」が存在するのであるどうもエジプトは、この世界遺産は自国だけのお宝だと思っているようだ。何となく親父が築いた財産を、バカ息子が権利を主張すると言うな事のように私物化して捉えている節がある。あるいは、昔しかの有名だったエジプトの元ナセル大統領が過って、スエズ運河をイギリスやフランスから取り返えし船の通過料で運河を建設したように、そのような大儲けを企(たくら)んだトンでもない夢を見ているのかも知れない。今は時代が違う、何でも自国だけの有利な政治手法はいつかは自滅を誘うことにもあろう。大体にして、30年や50年昔の著作権利ではない。ウン千万年ものの過去の物をである、それを今思い出したような主張は通る物ではあるまい。益してや、過去に於いては死ぬ思いで築き上げて奴隷達の造形物でもある。それだけに、遠い人類の歩みを私物化しないで欲しいと思った。この原油高で、アフリカ南端の喜望峰を通らずアジャと欧州を結ぶ最短距離を利用させ、 その貨物船通航料が増え一ヶ月に475億円を稼ぎ出しているらしい。これに観光料が加わったなら、どんな数字になるのだろうか?無い無いの砂漠のお国にしては、結構左り団扇で儲かっているお国なのである。幾らあっても、欲には終わりがなかろうが?そのお国も、今では「アラブの春」とは言えどこを向いて進もうとしているのか当分不透明のようだ。まぁ、余所様のお国のことは良い。問題は、われらが私生活に於ける将来像がもっとも大切だ。「余所はいい 我家の家計だ 頑張って」と、こちらは女房殿から油を絞られるのがオチのようである。
2013.08.09
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1