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雪峰祭 限定品記念なのでいっときました
2010.10.30
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下関市 日本海側の夕日 雲の隙間から光が差し込む光景が大好きです。移動中の休憩場所で出会いました。
2010.10.28
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脳性小児麻痺によって、生まれながら四肢と言語が不自由な栗木宏美さん。文字を書く訓練として日記を書き始めたが、いつしかそれは自分の胸のうちを表現する詩へと変わっていった。詩作が自らの年きる証しだったという栗木さんに、障害とともに歩んだ半生と、言葉に込める思いをお話しいただいた。NPO法人 蕗の薹代表 栗木宏美-くりき・ひろみ昭和33年静岡県生まれ。脳性小児麻痺による四肢・言語障害がある。56年同朋大学文学部杜会福祉学科卒業後、翌年結婚。二児の母となる。詩集『お母さんの詩を聞いて』を出版し、高い評価を受ける。現在「明日の風文芸賞 岡崎」代表とあわせて、医療ケアの充実した福祉施設の建設を目指すNPO法人「蕗の薹」代表。著書に『詩集ホイッスル』(蒼岳杜)『キュウリは真っ直ぐじゃないといけないの?』(ヴィレッジブックス)がある。栗木 私は仮死状態で生まれたことが原因と思われますが、脳性小児麻痺になり、物心ついた時から四肢と一言語が不白由で、世間一般に言えば「障害者」です。世の中は「障害がある人、ない人」でものすごく区別しますよね。例えばオリンピックもそうです。--ああ、オリンピックとパラリンピックと分けてやりますね。栗木 しかし、文芸の世界に「障害者枠」はありません。どんな簡単な言葉でも文章でも人を感動させる力がある。そんな思いを文芸賞に込めたつもりです。--栗木さんご自身、詩集を出版されていますが、詩作は幼少の頃に始められたのですか。栗木 鉛筆が持てるようになったあたりから母に毎日日記を書くように言われました。ただ、毎日そんなに書くこともないから(笑)、「お花が咲いたよ」「蝶々が来たよ」と、割と詩的な内容を綴るようになっていきました。おそらく母にしてみれば手の訓練と合わせて、言語に障害があるのなら書いて伝えることだけはしっかりとさせたかったのでしょう。--言葉でも伝えられるよう訓練をされたのですね。栗木 母がいつも言っていたのは「できないことがあるなら、できることを二倍やればいい」と。例えばかけっこが遅いなら勉強は負けるなというんです。また、うちは私だけでなく妹も七歳頃までは原因不明の寝たきりで、その後病名が分かり、良薬によって歩けるようになりましたが、重い障害があります。だからこそ私には強く生きていってほしいという思いが強かったのだと思います。いまになって思えば二人も障害のある子どもを抱え大変だっただろうと思いますが、両親はそんな素振りを見せることもなく、いつも明るく笑顔で、努力家でした。母はよく「心に太陽を 唇に歌を」と言っていましたが、その前向きな姿と言葉が私の心に息づいて、私の支えとなりましたね。自らを痛めつける言葉をもバネにして--ご両親は幼少期から社会に適応するように教育されたのですね。栗木 両親の方針で、学校も養護学校ではなく普通学校に入学しました。男の子たちには「化げ物」とか「宇宙人」と言われていましたが、本当に幼い頃は相手もただ言っているだけで深い意味はなかったように思います。でも、先生はクラスに一人だけ障害のある子がいることに違和感があったようで、三年生の時に養護学校に移るよう強く勧められました。仕方なしに養護学校へ通いましたが、確かに毎日が平和で居心地はよかったんです。でも、泣きたくなるほどつらいこともなければ飛び上がるほど嬉しいこともない。刺激がなかったんですね。結局、五年生になると同時に、以前通っていた普通学校に戻ることにしました。--自ら戻られた。栗木 養護学校の先生たちは、「何もわざわざ大変なところに戻らなくても......」とか「いつでも戻ってきなさい」と心配してくださいましたが、ただ一人、高柳先生という方だけは違いました。「養護学校があると思ってはいけない。頑張れ」と背中を押してくださったのです。--高柳先生は将来を見越して、エールを送ってくださった。栗木 私としては以前の学校に戻るだけだと思っていましたが、それからのいじめは壮絶でした。「おはよう」の挨拶代わりに「バカ」「死ね」「気持ち悪い、こっちに来るな」と言葉で罵られる。私の少し曲がって下がっている肩や、その肩をヒョコヒョコゆすって歩く格好、のどにからみつくようなしゃがれた声、左顔面の緊張などを真似され笑われる。さらには後ろから突き飛ばされる、足を引っ掛けられる、つばをかけられる、石を投げられる......。女子からも、私がどんなに一所懸命やっていても、動作が遅いせいか、「掃除、真面目にやりなさいよ」と言われる。いじめても私がメゲなかったことが逆に癪にさわったのか、ある時、学級会で槍玉にあがったことがあります。あることないことを言われ、最終的には「学校に来ないでほしい」と。--それはショックだったでしょう......。栗木 その日の夕方、担任の先生から母に電話がかかってきて、「クラスのみんなに謝罪のお手紙を書いてもらわないと、もう学校に来ていただけません」と言われました。受話器を置いた母は嗚咽を漏らして泣いていましたね。私も負けず嫌いですから、「私は絶対に謝らない、私は悪くないもん」と抵抗しましたが、父は「人間はたとえ自分が悪くなくても、おかしいなと思っても頭を下げなければならない時がある」と、諭すように言いました。きっと社会に出た時、同じような悔しさを何度も味わうことを父は分かっていたんだと思います。あの時は悔しさに身を切られるような思いでしたが、「自分が立派な人間になることでこの人たちを見返してやろう」と誓い、その思いがバネになったと思います。自分を傷めつける経験や言葉もまた、ある意味で人生の支えになったように思います。そうだ、結婚してしばらくした頃、当時の同級生から電話をもらったこともあるんですよ。お子さんがもうひどいアトピーで、クラスで「お化け」とか言われて、ひどいいじめに遭っているそうなんです。私は旧姓が青島というんですが、「あの時、青ちゃんがいじめに負けなかった姿を思い出して頑張っている」と言っていました。--大人になって理解できることもあると。栗木 私は大学で福祉を専攻しましたが、先生が「どんな理由がなくても、十人に一人は障害のある子が生まれてくるのだから、自分には関係ないと思わないように」とおっしゃっていて、本当にそうだたと思います。またこの世に百%健常者もいなければ百%障害者もいません。誰もが健常の部分と障害の部分とを併せ持っています。だから「健常者」「障害者」と線引きをせず、一人ひとりを社会の構成員として認め合い、受け入れ合うことが大切だと感じますね。神様はそんなに意地悪じゃないよ--その後も大学まで一貫して普通学校に通い続けられましたね。栗木 高校も大学も最初は受験すら断られたところが多いのですが、自ら学生課に受験願いの手紙を出し試験に挑んできました。ところが就職は別でしたね。四大卒の女性が嫌われる時代で、その上障害があるなんていったらゼロに等しかったんです。仲の良い友達は次々と決まっていく。やっぱり私は障害があるから違うんだと自暴自棄になりました。人間として立派に生きたい--詩集を出版されるきっかけとなったことは何ですか。栗木 NHKの厚生事業団が毎年福祉関係の体験論文を募集していまして、応募したらたまたま優秀賞をいただき、『お母さんの詩を聞いて』というドキュメソタリー番組になったんです。番組をご覧になった方々が「詩を読みたい」と番組に問い合わせてくださったそうで、書き溜(た)めていたものが出版の運びとなりました。--詩をつくられるのはどういう時なんですか。栗木 考えてみると、苦しみの絶頂にいる時は書けないかもしれません。出来事や感情を客観的に捉(とら)えられるようになった時、言葉が湧き上がってくるように思います。それから、案外何もない平穏な日々には書けませんでした。もさーっと生きていたら詩は書けないのかもしれない。--栗木さんの活動の原動力は何ですか。栗木 もしも障害がなかったらここまで頑張らなかっただろうなとは思います。「障害があるからこそ、こんなことには負けないぞ」という思いは常にありました。ただ、自分の中でいつも誓ってきたのは「障害者として有名になるのではなく、人間として立派に生きる」ことです。詩人と名乗るのは気恥ずかしいですが、言葉を大切にすることは人を大切にすることだと思っています。だって「障害者」と呼ばれるのと「障害のある人」と呼ばれるのとでは、受ける印象は全然違いますから。--おっしゃるとおりですね。栗木 大人になったり、「詩人」なんて言われたりすると、難しい言葉や熟語を使おうとしがちですが、ほんの数文字あるかどうかで、心を傷つけられることもあれぼ潤されることもある。たった一文字にも人を大切にする思いを込めて詩作に励み、それによって自分の人生も潤していきたいですね。ホイッスル 栗木宏美 それは太平洋に浮かぶ小さな島国の小さな小さな町工場で作られていると言う それは音階も何もなく掌の中に埋もれてしまうだが一度(ひとたび)その音が鳴り響けば黄金の脚に躍動感あふれる肉体に命を注ぐまた一瞬にして息の根を止めてしまうことさえもできる 生まれたがらに健やかな身体を奪い去られた私は内なる秘めた強さが脈々と養われているのかもしれない この無限に広がるスタジアムの中で 私はいつの日か高らかにホイッスルの音(ね)を鳴り響かせよう
2010.10.25
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出雲にて 十月のことを神無月といいます。これは全国の神々が出雲の国に集まられ、神々が留守になられるからとされています。反対に出雲では、神々がお集まりになられるので「神在月(または神有月)」といいます。 『日本書紀』に大国主大神が天照御大神に「国譲り」をなさった時、「私の治めていますこの現世の政事は、皇孫あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰が生まれたと考えられています。それならば御利益も多いかも?と出雲大社に行ってみました。ちょうど2組の結婚式が行われていました。御利益がありそうですつづいて車の移動中に遠くからでも見えて前々から氣にはなっていた出雲ドームも立ち寄りました。今は話題になることはあまりなくなりましたが出来たときには世界一の高さを誇る木造建築として話題になった事を思い出しました。最後に宍道湖の夕日 ずっと曇っていたのですが日暮れのときにだけ雲が晴れて綺麗な夕日を見せてくれました。ご利益がありました真夏と比べると二時間以上も日が暮れるのが早くなりました。もうすぐ冬です。
2010.10.23
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地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。だが、青春(せいしゅん)、朱(しゅ)夏(か)、白(はく)秋(しゅう)、玄(げん)冬(とう)人生の四季は一回限りである。人は皆いずれかの季節を、いま生きている。中には若くして逝き、白秋、玄冬を見ずに終わる人生もある。だが吉田松陰は、人は十歳で死んでも、その人なりの人生の四季を生きて死ぬのだ、といっている。二十九歳の若さで生涯を終えた松陰自身が、人生の四季を堪能(たんのう)して旅立った人なのだろう。年齢的にいえば、青春とは三十歳くらいまでのことになるだろうか朱夏は三十歳から五十歳、白秋は五十歳から七十歳あたりか。玄冬はそれ以降となろう。人は生まれ、若々しく成長し、そして老い、死ぬ。厳然たる事実である。この事実を事実として受け止め、そのすべての季節をどう生きるか、各人の心の工夫が問われるところである。松下幸之助氏が松下政経塾を開塾したのは、八十六歳の時である。初めての入塾式のあとで、住友銀行の頭取を務めた八十一歳の堀田正三氏と、「五年間の修養でどんな人物が育つだろうか」と楽しそうに語り合っていた。同席した新井正明氏は、自分の年齢を忘れて五年後に希望を燃やすお二人の姿に感嘆(かんたん)した、といわれていた。その松下氏が愛唱(あいしょう)してやまなかったのが、サミュエル・ウルマンの「青春」である。人生の四季をいかに生きるか。この詩が語りかけてくるものは多い。味読心読(みどくしんどく)身読したい詩である。全文を紹介する。青 春青春とは人生のある期間をいうのではなく、心の様相をいうのだ。優れた創造力、逞(たくま)しき意志、炎(も)ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛(ゆうもう)心(しん)、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春というのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶(くもん)や、狐疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、こういうものこそあたかも長年月のごとく人を老いさせ、精気(せいき)ある魂をも芥(あくた)に帰(き)せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。日く、驚異への愛慕(あいぼ)心(しん)、空にきらめく星辰(せいしん)、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)、事に処する剛毅(ごうき)な挑戦、小児のごとく求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。大地より、神より、人より、美と喜悦(きえつ)、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎(ひたん)の白雪(はくせつ)が人の心の奥までもおおいつくし、皮肉の厚(あつ)氷(ごおり)がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて、神の憐(あわれ)みを乞(こ)うる他はなくなる。(訳・岡田義夫)
2010.10.20
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ノーマルの状態(フロントスボイラーは一ヶ月で破損) 予想以上に乗り心地が悪くて、特にフワフワして高速で不安定な走りに我慢できなくなりました。そこで強化トーションバー ・フロント薄型バンプストップ・フロントリバウンドストップ・ビルシュタイン/フロント2本・ビルシュタイン/リア2本 リア薄型バンプストップ・ダウンロワリングブロックにかえてもらいました。青いのがビルシュタインのサスです多少リアが跳ねるものの、乗用車に近い乗り心地になり走りについての不満はなくなりました。見た目も大切と?タイヤホイールもノーマルの15インチから18インチに交換しました。 あわせてローダウンしてもらっていたのですが前が下がりすぎて、フロントスボイラーは傷だらけに・・・・下がった状態。これじゃ多くのキャンプ場に入れません。 そこで前を少しあげてもらいました。これでマンションの入り口でフロントを擦ることがなくなりました。一安心です キャンプ場も大丈夫なはずだぶん・・・
2010.10.19
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大阪の次は東京です(仕事ですが)行きの飛行機から見る朝の富士山も、見慣れた景色になってきました。上下に雲に挟まれた富士山。地下鉄で大阪の後輩を発見 3日間しっかり絞られて東京での仕事が終了。昨日の最終便で戻りました。今回のお土産はこちらです。ワンピースグッツ 増加中です
2010.10.17
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定番の観光に海遊館ジンベイザメ派手なイソギンチャク町を歩き回りました。活気のある町で楽しいひと時を過ごせました。
2010.10.14
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3連休は家族で大阪に行ってきました。今回は舞洲アーバンオートビレッジというキャンプ場を起点にしてキッザニア・海遊館・なんばの町と大阪を堪能してきました。出かける前にようやく車のサス+タイヤホイールがやっていたので、装着後テスト走行を兼ねて大阪への移動になりました。サス(ビルシュタイン)は流石で高速の安定感抜群でした。高速でのフワフワ感が無くなりました。あわせてローダウンをしてもらったのですが、少々落ちすぎでフロントスボイラーは初日から傷だらけに・・・割れにくい素材にしていて良かった(爆)低すぎです(笑) 後日、少しあげることにします。朝7時前にはキッザニア甲子園にまずピザ冷凍おにぎり集英社ではワンピースにせりふいれ。コーラ食べ物と漫画です・・・・最後は経済を知るために証券会社体験。これは最高につまらんかったbyけんけん
2010.10.12
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隣のマンションのお色直しが終わったみたいです。覆っていた布をはずし始めました。足場を飛び跳ねるように作業をされている方を見つけました。命綱なしですが怖くないのでしょうか? 私には無理だ!!真ん中の上の部分に作業の方がいます。
2010.10.05
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我が家は夫婦揃って近眼です。お風呂に入るときには眼鏡をはずしているので汚れに気がつきません。 いつからか、お風呂洗いは私の担当になりました。洗うときに氣になっていた目地のカビ、本日徹底的にやっけました。綺麗になりました。やる前の掲載は・はぁちゃんから却下されました(爆)
2010.10.02
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