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毎年行わわれるドラフト会議、交渉権を獲得して歓喜する監督やスカウトたちの姿をよく目にするが、中にはクジを引き当てたことでため息をつくスカウトもいる。そんな裏事情があることを以前読んだ『ひとを見抜く 伝説のスカウト河西俊雄の生涯』(澤宮優著、河出書房新社)を通じて知った。 1995年のドラフト、7球団が競合した末にPL学園の福留孝介を引き当てた近鉄バファローズ・佐々木恭介監督が「ヨッシャーッ」と歓喜の大声をあげたシーンはあまりに有名。でもその傍らで当時チーフスカウトの河西俊雄の心境は複雑だった。そもそも福留は中日ドラゴンズ一本を表明していたため、近鉄が仮に交渉権を射止めても入団交渉がスムーズにすすむ可能性はほぼゼロ。そのことを球団首脳に伝えていたものの、首脳は強硬指名を決断、さらにクジも引き当て(てしまっ)た。 腹を決めて交渉にあたる河西さんらスカウト陣と、対峙する福留サイド。こう書くと三輪田(勝利)さんの悲しい一件を思い出すが、結局福留は日本生命に進むも、河西さんの「情」と福留の「礼」はむしろ爽やかな印象を残す。 映画『あなた買います』が話題になった昭和31年から、37年間にわたり河西さんはスカウトを生業とした。はじめは阪神。安藤統夫、遠井吾郎、江夏豊、藤田平、上田二朗、山本和行、中村勝広、掛布雅之らを発掘。その後近鉄に移ってからは、大石大二郎、阿波野秀幸、野茂英雄、中村紀洋、小野和義、金村義明など限りがない。決して球団の資金に頼ることなく、「情」を尽くして粘り強く交渉を続けるスタイルが特徴だった。 本書には大石大二郎獲得までのストーリーも描かれている。ボクが大石を初めて見たのは、大石が亜細亜大4年生の時。たまたまテレビで見た日米大学野球で、日本代表の二塁手だった大石に目を奪われたけれども、その際のボクの注目点と河西さんの評価ポイントが結構似通っていて、ちょっぴり嬉しかった。
2022.09.25
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中日・福留孝介選手が今日引退し、24年間の現役生活を終えた。 この福留の名前を聞くたび思い出すのは、1995年のドラフト会議だ。「意中の球団以外なら社会人野球(日本生命)へ行きます」と宣言していたPL学園の福留に対して、なんと7球団が1位指名した。 クジ引きは近鉄、中日、日本ハム、巨人、ロッテ、オリックス、ヤクルトの順、そして真っ先に引いた近鉄・佐々木恭介監督が見事に交渉権を引き当てて「ヨッシャーッ」とはしゃぎ、大声で叫んでいたシーンをよく覚えている。しかし福留は「オリンピックに出たい」という理由で近鉄への入団を拒否して日本生命へ進んだ。 ボクは福留が一体どれだけの選手か知らなかったけれども大いに落胆したし、呪いたくもなった(苦笑)。しかし考えてみれば、近鉄にとって「入団拒否」はそれまでも日常的?なことではあった(残念ながら)。おもな選手を年代順に追ってみたい。(1)三輪田勝利(投手、早稲田大)。1967年に1位指名されたが拒否。大昭和製紙に進み、69年阪急へ。ちなみに67年、三輪田に続く2位指名は「あぶさん」こと永淵洋三(投手、東芝)、3位は小川亨(外野手、立教大)だった。奇しくも今日逮捕のニュースが流れた村田兆治(投手、福山電波高)は同じ年、東京オリオンズの1位指名だった。(2)新井鐘律(宏昌)(外野手、PL学園高)。1970年に9位指名されたが拒否。法政大に進み、74年に南海に入団した。その後85年オフ、トレードで近鉄に移籍した。ちなみに70年の近鉄2位指名は、79年日本シリーズのスクイズシーンが忘れられない石渡茂(内野手、中央大)だった。(3)池谷公二郎(投手、金指造船)。1971年に7位指名されたが拒否。72年に広島に入団した。池谷に拒否されるも71年ドラフトは近鉄の当たり年だった。1位指名は佐々木恭介(内野手、新日鉄広畑)、2位は梨田昌孝(捕手、浜田高)。さらに4位・羽田耕一(内野手、三田学園高)、6位・平野光泰(外野手、クラレ岡山)。その後に黄金期を迎える近鉄の骨格ができた年といえる。(4)応武篤良(捕手、崇徳高)。1976年に3位指名されたが拒否。早稲田大へ進学した。結局その後プロ入りせず。早稲田大第17代監督。今月7日に死去。ちなみに崇徳高のチームメイトだった黒田真二(投手)は日本ハム1位、山崎隆造は広島1位指名を受けともにプロ入りした。(5)金光興二(内野手、法政大)。1977年に1位指名されたが拒否。三菱重工広島に進み、結局その後プロ入りせず。法政大第15代監督。
2022.09.23
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