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ぼんやり考え込んでいた珠子の耳に、ふと、正樹の不満げな声が聞こえた。 「・・・だったのかあ。 で、珠子、どんなやつよ、そいつ。 同じ高校のヤツ?」 えっ? 正樹ったら、誰の話してるのよ? と、珠子が声に出すより早く、美緒が話に割り込んできた。 「ははっ! ばっかだねえ、正樹兄ちゃん。 嘘に決まってんじゃん。 ミエよミエ。 お姉ちゃんにカレなんかできるわけないでしょ。 妹のあたしより色気ないのにさ。 お姉ちゃんは昔から正樹兄ちゃん一筋。 チラッとよそ見したことすらないんだから。 妹のあたしが言うんだから間違いない」 そういえばあたし今、ひょっとして、正樹のほかに好きな人がいるような、いないような、微妙な言い方しようとした? 正樹の気をひこうとして? 「こ、こらっ! 美緒っ! 余計なこと言わないの!」 急に顔の熱くなったのを隠そうと、珠子は思い切りラーメンをすすり始めた。 ・・・そうよ。 あたしはあたしだもの。 ナナさんとは違う。 あたしはこの街を出て別天地を求めたりはしない。 正樹のいるこの街で、普通の高校生活を送って、普通の仕事をして、普通の結婚をする。 確かに、未来のことなんてわからないけど、少なくとも今は、それがあたしの幸せだという気がする。 遠い空の上から、ミケがにこにこ笑って珠子を見下ろしているような気がした。 そうでございますとも、お嬢さま。 ナナさんはナナさん。 お嬢さまはお嬢さま。 しっかり前を向いて、ご自分の道をまっすぐ歩いていけばそれでいいのでございますよ。 どうぞお幸せになってくださいまし。 にゃあ。 最終回です(〃^∇^)o_彡☆ 長い間あたたかく応援していただき、本当にありがとうございました。 人気ブログランキングへ
2014.08.10
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ちょっと考えてから、正樹が答えた。 「せっかくだけど、今のところまだいいや。 オレ、なんだかあの事件からこっち、世の中を見る目が少し変わった気がするんだ。 なんていうのか、自分の人生自分で切り開いてやる、っていう、意欲っていうか自信っていうか、熱っぽいものが体の内側から沸いてくる感じで。 こういうの、ふっきれた、とかっていうのかな。 もちろん、バイクに乗るのは今も好きだし、乗りたいとも思うけど、それは、いつか、働いて金をためてオレにとって最高のマシンを手に入れてから、って決めたんだ」 夢見るような瞳を上げて、誰に、というより自分自身に話しかけるような、正樹の横顔は、確かに、あのクリスマスの日と比べたら別人のように大人っぽく、たくましくなって、なんだか一回り大きく見える。 その隣でじっと正樹の言葉に聞き入っていた虎雄も、感慨深げにうなずいた。 「・・・そうだよなあ。 オレもあれからちょっと自分が大人になった気がする。 自分でも不思議なんだけど、前みたいにむやみに腹が立たなくなったんだ。 もうこの先どんなことが起きようとオレは絶対大丈夫、必ず乗り切れる、って思うと、なんだか気持ちに余裕ができて、今までみたいにカリカリしないで、たいていのことは笑ってやり過ごせるんだよな」 照れくさそうに笑う虎雄の顔も、なんだか急に大人びて、堂々と落ち着いて見える。 おばさんが目をぱちくりさせながら正樹と虎雄の顔を見比べた。 「あらら、ふたりとも、どうしちゃったの? 急に大人になっちまって。 事件って、何なのさ? ウチが大食いバトルでてんやわんやしてる間に、そっちでも何かあったのかい?」 「別に何も。 オレたちも、いつまでも子どもじゃない。 それだけのことさ」 「大人になるって、人間もきっと、チョウチョの羽化みたいに、ある日突然、ぱあっ、って、劇的に変身するんじゃないの?」 正樹と虎雄が顔を見合わせて笑う。 昇一さんもカウンターのほうに身を乗り出し、にやにや笑いながら二人を見比べ、それから今度は珠子に目を向けた。 「なるほど。 ・・・で、珠子ちゃんは? 正樹とはその後、どうなってんの? 確か、大人になったら正樹とケッコンするんだ、って言ってたよな」 不意打ちを食らって、たまこは思わずラーメンを吹き出しそうになった。 「やだ! 昇一兄ちゃんてば、そんな大昔のこと、あたしも正樹も忘れてたわよ。 今は、正樹にはナナさんがいるし、あたしにだって・・・」 虎雄が横から口をさしはさんだ。 「またまた。 ナナならとっくに家を出てどこか別の大きな街へ行っちまったよ。 この先もっと自分の可能性を試せるような、アグレッシブな生き方がしたいとか言って。 正樹のことなんか見向きもしなかったぜ。 あいつらしいよな」 「・・・へー。 そうだったんだ」 ナナの、気の強そうな大きな瞳を思い出しながら、珠子は考えた。 結局最後まで、きちんと話をする機会はなかったけど、ナナって、猫のときも、人間に戻ったあとも、ビシッと一本筋の通った女の子だったんだ。 あたしは、ナナの、あの迫力にはとうとう勝てなかった、ってことになるのかな。 人気ブログランキングへ
2014.08.09
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にっこりとうなずいて、昇一さんが続ける。 「だから、これも正樹が提案してくれたんだけど、今度店を建て替えるときも、駐車場は整備するけどクロのお墓とその周りの生垣は壊さずにきれいに造り替えて、猫塚という形で残そうと思うんだ。 思えばこの店の前の通りでは、クロだけじゃなくて今までにたくさんの猫が命をなくしてるわけだから、その供養の意味でもね。 そうすると、猫たちの霊も喜んで、この店と俺たち家族を守ってくれる、そういうものなんだって」 もちろん、これは本当は正樹の提案ではない。 正樹がミケに伝授してもらった『猫の知恵』。 小さな森のお寺の、えらい守り猫さまの受け売りだ。 「えーっ! 店、建て替えるの?!」 美緒と珠子が同時に叫んだのを、虎雄がけらけら笑って見比べた。 「なんだよ、二人とも、知らなかったの? 来月からもう店の建て替え工事始まるんだぞ。 いつまでもこの二階のボロ部屋じゃ、昇一さんたちかわいそうだろ?」 「じゃ、この店もう壊しちゃうの? 工事の間、ラーメン食べられないの?」 美緒が情けない声で叫び、おばさんがくすくす笑って応えた。 「この店はまだ壊さないよ。 工事中ずっと店休んでたら干上がっちゃうもの。 ここはしばらくこのままで、まず駐車場のほうに住まいを作るの。 それから、この店の住まい部分を店に改造して、あとは、このカウンターを取っ払って調理場にちょっと手を加えるだけ。 本当に営業できないのは、そうだねえ、一日か二日だけさ。 でも、店は広くなるよ」 正樹が楽しそうに付け加える。 「今度の店には大きな看板をつけて、大きな龍の絵を描くんだって。 目玉がぎらぎら光るようなネオンもつけて、通りを睨むようにするんだってさ。 遠くからでもよく目立つようにね。そして、夜中でもまぶしいほど明るい店にするんだって。 そしたら、通りを横切ろうとした猫だって、びっくりして思わず立ち止まるよな」 「なるほど」 まじめな顔でうなずいた珠子を、くすくす笑って眺めてから、昇一さんが思い出したように言った。 「ところで正樹、おまえ、家をちょっと留守にしてる間におふくろさんにバイク処分されちゃったんだって? ウチの頑固親父ならそのくらい涼しい顔でやってのけるだろうけど、おまえんちの、あの、優しいおふくろさんがそこまでやるとは、正樹、おまえ、相当親不孝したな?」 珠子の隣で正樹が困ったように頭をかき、うーん、まあその、いろいろとね、とかなんとか、口の中でもごもご応えた。 その様子をおかしそうに見て、昇一さんが言う。 「でも、おまえにとっては大事なバイクだったんだろ? じゃ、これから通学のときとか、どうすんのよ? バイク仲間の付き合いもあるだろうし、新しいの買うんだったら知り合いのバイク屋、紹介してやろうか? 中古だけど、俺の知り合いだと言ったら、きっと格安で世話してくれると思うけど?」 「新しいバイク、かあ・・・」 人気ブログランキングへ
2014.08.08
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ラーメンをどんぶりに移した昇一さんが、返事のかわりのように小さくため息をつくと、おばさんが絶妙のタイミングでそのラーメンにスープを注ぎ入れ、後を引き継いだ。 「それがねえ、かわいそうに、ひとりで寂しくなったんだかお腹がすいたんだか、古毛布の寝床からよちよち這い出して、トラックの往来が激しい大通りまで出て行っちゃったらしいんだよ。・・・ありゃちょうど昇一が学校から帰ってくる時間だったねえ、店もそろそろ忙しくなり始めるころだった。 大通りで突然、キーッ、て、すごいブレーキの音がしてねえ、あっ、また事故だと思って出て行ってみたら、ここの駐車場の前にトラックが止まってて、若いドライバーが、『何でもねえよ、猫だ、猫を轢いちまっただけだ。 おばさん悪いけど片付けといてくんない? 俺時間ないから。 ごめんね』とかなんとか、言い残してさっさと行っちまうんだね。 ウチの店だってちょうど忙しくなる時間だし、片付けてくれったって、ゴミじゃあるまいし、ねえ、・・・そうしたら、ちょうどそのとき学校から帰ってきた昇一が、真っ青になってすっ飛んできて猫にすがりついて、クロちゃん、クロちゃん、って、まあ、泣いて泣いて・・・そんな猫のことなんかきれいに忘れてたあたしまで、思わずつられて泣いちまうくらい、そりゃあもう、大変な悲しみようだったんだよ。 あの時は、あたしもお父ちゃんも、心から反省したもんだ。 もっと昇一の気持ちをよく聞いてやらなきゃいけなかった、ってさ。 ねえ、お父ちゃん?」 またしても、はん、とか、あん、とか、おじさんが生返事をしたが、おばさんはそれには目もくれず、ラーメンにナルトを乗せ、チャーシューを乗せ、メンマを乗せ、最後に海苔と刻みネギを乗せて、美緒の前に、トン、と置いた。 「はい、美緒ちゃん、大盛りラーメン、お待ち遠さま」 「・・・きっとクロは、そのとき、昇一さんが帰ってくる時間だとわかっていて、迎えに出ようとしたんだな」 虎雄がひっそりとつぶやいた。 「きっと、早く会いたくて一刻も我慢できなかったんだろう。 いつも兄ちゃんと一緒にいたかったんだろうなあ」 たとえ怨念になっても、と言う言葉を飲み込んで、虎雄がズズズ、とラーメンをすする。 だけどね、と、昇一さんがきをとりなおしたように笑顔に戻って言った。 「あの生垣のところにクロのお墓を作ったとき正樹が手伝ってくれて、そのことを覚えてくれていたおかげで、今度帰って来た時クロの供養をすることができて、とても良かったような気がするんだ。 不思議に身の回りがすっきり、きれいになった感じで、娘たちも、女房も、なんだかとても明るい表情になったような気がするんだよね。 気のせいだと言われりゃそれまでだけどさ」 あら、ウチもだよ、と、おばさんが、ぽん、と両手を打ち合わせた。 「ウチも、なんだか風通しが良くなった感じで、妙に爽やかな感じで仕事ができるんだよね。 お客さんたちまでなんだか前より明るい顔つきに見えるし、・・・あら? そういやここんとこ、お父ちゃんとも口げんかしてないねえ。 これも気のせいかね、お父ちゃん?」 気のせいじゃない、と、珠子は思う。 クロは、長い間、昇一さんに自分を思い出して、話しかけてもらいたかったのだ。 その望みがようやくかなって、今は、クロも幸せな気持ちでこの一家を見守っているのだろう。 だから、みんな気分がいいのだ。 人気ブログランキングへ
2014.08.07
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猫好きの美緒がたちまち身を乗り出した。 「へえ! 昇一さんが猫の子を? どんな猫? かわいかった?」 「もちろん、すっごく可愛かったさ! 全身が輝くように真っ黒で、目はきれいな青緑色。 俺、こんなきれいな生き物は見たことがないと思って、大喜びで家の中に連れて行ったら、」 ここで昇一さんは、ちょっと悔しそうに、あまりがまちに腰掛けたおじさんをちらっと睨んだ。 「いきなり親父に怒鳴りつけられちゃったんだ。 ばかやろう、ウチは食い物商売だ、そんな汚ねえもんを拾ってくるんじゃねえ、飼うのは許さねえ、って。 ・・・いやあ、悔しかったなあ」 美緒も、ぷーっと口を膨らませておじさんを睨んだ。 「そうだよ! 猫は汚くなんかないよ! きれいに洗って飼ってやればよかったのに」 おばさんが、新しいどんぶりをあたためながら口を挟んだ。 「そういうことじゃないんだよ、美緒ちゃん。 どんなにきれいにして飼っていようと、たとえここのお客さんたちの手や顔より清潔だったとしても、ようは、自分が食事しているそばに犬や猫がいるのはいやだ、って言うお客さんが少なくないってことなんだねえ。 美緒ちゃんは猫が好きだから、そういうお客さんの気持ちはわかりにくいかもしれないけど、たとえば、カエルとかクモとかだったら? もし自分の目につくところにそんなものがいたら、たとえ害がなくたって、気になって、落ち着いてご飯を食べていられないよね。 嫌いっていうのはそういうことでね、理屈じゃないんだよ。 ・・・だけどねえ、あのころはおとうちゃんも今よりもっと頑固だったし、あたしも忙しくて、昇一のそういう気持ち、よく考えてやれなかった。 納得できるようにきちんと説明してやる余裕もなくて、ただ頭ごなしに叱りつけてしまっただけ・・・昇一にはかわいそうなことしちゃったよねえ、おとうちゃん?」 相変わらず新聞に目を落としたまま、ふん、とか、へん、とか、生返事をするおじさんを、昇一さんは、今度は優しい表情で眺め、言った。 「それで、俺は二人に黙って、そこの駐車場の生垣の隅でこっそり、その黒い子猫を飼い始めたんだ。 俺の古い毛布で空き箱に寝床を作ってやって、毎日水やえさを運んでやって・・・、そのとき正樹や珠子ちゃんも手伝ってくれたから、あいつのこと覚えてたんだよな」 ラーメンを大鍋から上げ、シュッとお湯を切る昇一さんを、美緒がますます身を乗り出して見上げる。 「それで? その黒いきれいな猫ちゃんは今どこに?」 人気ブログランキングへ
2014.08.06
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カウンターの上に、出来上がったラーメンを3つ並べて、おばさんがくすくす笑った。 「あらまあ、それじゃあ美緒ちゃんがかわいそうだよねえ」 そうでしょ?そうでしょ?とうなずく美緒を、めっ、と睨んで、珠子は椅子から立ち上がり、美緒の襟首から捨吉を引っ張り出そうと手を伸ばした。 「じゃあ、あたしが捨吉のお守りをしててやるから、あなたが先にこのラーメンを食べなさい。ただし、次にあたしのラーメンができるまでの間に、3分以内に食べ終えて出てきてよねっ」 美緒が慌てて捨吉を抱え込む。 「だめーっ! お姉ちゃん、ステちゃんに冷たいんだもん。 ステちゃんを通りの真ん中にほっぽり出すかもしれないもん。 だいたい、捨吉なんて変な名前をつけたのもお姉ちゃんでしょ。 あたしは最初っからこの子の名前はホワイティと決めてたのに」 「・・・ほ、ホワイティ?」 ぷーっ、と吹き出して、正樹が手を伸ばし、美緒の頭をくりくり撫でた。 「じゃ、美緒がラーメン食べてる間だけ、ホワイティ・ステを昇一さんとこの娘さんたちに預かってもらえ。 外の駐車場で遊んでただろ? 二人とも、猫が大好きだって。 今まで住んでたアパートでも、大家さんの猫といつも遊んでたっていうから、猫の扱いにも慣れてるぞ。 ほら、行ってこい」 カウンターの向こうから、おばさんが苦笑しながら声をかけた。 「いいよ、いいよ、じゃ今日だけ特別に、美緒ちゃんのセーターの中にいる限りステちゃんの入店を認めてあげる。 どうせまだ開店前だしね。 さ、いつまでももめてないで、珠子ちゃんも正樹くんも、早くラーメンを食べなさい。 美緒ちゃんのもすぐにできるからね」 ひとりさっさと食べ始めていた虎雄も口をさしはさんだ。 「そうだよ、せっかくのラーメンがのびちゃうぞ。 ばたばた動き回るとよけい猫の毛が飛び散る。 みんな、おとなしく座れ」 珠子に向かってアッカンベーをした美緒が、カウンターのほうへ向き直る。 「おばさん、ありがとう! ・・・ねえ、昇一さんのお嬢ちゃんたち、あそこで何をしてるの? 駐車場の奥の生垣のところで二人でじっと座り込んでるから、どうしたの、って声かけたら、ここに猫のお墓があるから拝んでるの、だって。 どういうこと?」 新しいラーメンの玉を入れた大鍋をかき混ぜながら、昇一さんがちょっとカウンターのほうを振り返った。 「そうなんだ。 あそこには古い猫のお墓があるんだよ。 俺も今度帰ってきて、正樹に言われてやっと思い出したんだけど、実はオレも、子どものころ猫の子を拾ったことがあってさ。 美緒ちゃん、君たちがミケを拾ったのよりずっと前のこと」 人気ブログランキングへ
2014.08.05
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「ああ、おなかすいた! みんな大盛りラーメン頼んだの? じゃ、あたしもね!」 言いながら美緒が珠子の隣に腰を下ろす。 と、そのセーターの胸元がいやにぽっこり膨らんでいるのに気づいて、珠子は慌てて美緒の袖を引き、小声で叱りつけた。 「こら、美緒! ここは食べるところだよ。 猫を連れてきちゃだめ! 今すぐ外に出しておいで!」 その珠子の声を聞きつけて、美緒のセーターの襟元から、捨吉がひょいと顔を出した。 「にゃあ」 珠子にはもう捨吉の言葉は聞き取れない。 でも、捨吉はあのころより少し太って、体全体も大きくしっかりした感じになって、表情も心なしかおっとり、幸せそうに見える。 そして、何よりも驚いたのが、その毛色 ――― くすんだ灰色だとばかり思っていたら、実は、きれいにシャンプーしてみたらシルクのような光沢のある純白だったのだ。 「いやーん」 捨吉と同じような声を張り上げて、美緒が珠子に抗議する。 「だめっ! ステちゃんを一人で表に放り出すなんて、もし車道に出て行っちゃって車にはねられたらどうすんの! あのね、いつも言ってるけど、この子は特別な子なの。 ウチの銀杏の木の上で生まれて、このごろやっと地面に降りてきたばかりの、天使なんだよ。 まだ車の怖さも、他の猫との付き合いかたも知らない、赤ちゃんと同じなんだから、あたしが守ってやらなきゃ生きていけないの。 ぜーったい、ひとりになんかさせられないんだよーだ!」 そう、美緒は捨吉を、あのころのたまこと思い込んでいる。 長い間欲しい欲しいと思い続けて、やっと手に入った宝物が、もう、可愛くて可愛くてたまらない、といった様子で、捨吉に頬ずりし、口移しにおやつを食べさせ、嘗め回さんばかり。 片時も手放そうとしない。 捨吉もまた、すっかり調子に乗って、目を細め、ごろごろ、のどを鳴らして甘えまくっている。 あの厳しい商店街で、もとの色もわからないほど汚れて、あちこちに擦り傷引っかき傷をこしらえて、ひもじさだけを友として、それでも小ずるくしたたかに生き抜いてきた猫にはとても見えない。 吹き出しそうになるのをこらえながら、珠子は意地のわるーい顔をつくって美緒に言った。 「じゃ、あんたもステと一緒に外で、あたしたちがラーメン食べ終わるのを待ってれば?」 「いやーん! お姉ちゃんの意地悪!」 人気ブログランキングへ
2014.08.04
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珠子の気持ちを察したように、正樹が小声でささやいた。 「・・・しかたないよ。 ミケばあさんも、もう年だったしね。 オレたちも、ミケばあさんに助けられたことはいつまでも忘れないし、いつも心の中で手を合わせて冥福を祈ってる。 だから、珠子もあんまり悲しむなよ。 珠子が泣くと、ミケばあさんも悲しいんだぞ」 正樹の向こうで、同じようにカウンター席に座っていた虎雄も、しょんぼり肩を落として珠子を見た。 「・・・ほんとに、厳しくて、でも優しくて、頼りになる、かっこいいばあさんだったよな。 オレも、もっとばあさんに優しくしてやればよかったな」 大鍋の前に戻った昇一さんのそばで、温めたラーメンどんぶりを3つ並べたおばさんが、きょとんとした顔を虎雄に向けた。 「やだよ、虎雄くんたら。 まるでご近所の知り合いでも亡くなったような言い方をして」 だって、ほんとにご近所の親しいお付き合いをしてたんだよな、ついこの間まで、と、虎雄が目だけで珠子に告げ、つられて珠子も小さく笑った時、後ろのガラス戸がガラッと勢いよく開いた。 「あっ、やっぱり、3人ともここにいた!」 元気な声とともに店の中に駆け込んできたのは、珠子の妹、美緒だった。 「おっ、美緒ちゃん、いらっしゃい! 大盛りラーメンひとつ追加かな?」 声をかけながら、昇一さんが、小さな手付きザルで、麺を一人前ずつ鍋から上げる。 シャッ、と小気味よい音を立ててザルを振り、湯を切った麺を目にもとまらぬ速さでどんぶりの中へ移す ――― 一連の動作は、あの、『大食い競争』の、てんてこまいの間にすっかり板について、今ではもうおじさんに負けないくらいよどみなく、自信に満ちている。 「こら、美緒! よその家に入るときは帽子を脱ぎなさい!」 珠子の叱責に肩をすくめて、美緒が真新しい若草色の帽子を脱いだ。 「おおこわ! こないだまで、どんなドジ踏んだんだかあっちこっち怪我して熱出してうーうーうなってた人が。 あの時はほんとに静かで良かったのに、元気になったとたんに、またもとの口うるさいお姉ちゃんに戻っちゃったよ。 あーあ、あたしってば、こんなお姉ちゃんのために死ぬほど心配して損しちゃった。・・・ねえ、あたしだってあの『大食いバトル』のときには、寝込んでるお姉ちゃんの代わりにこの店で正樹お兄ちゃんたちと一緒に一生懸命ラーメン運びを手伝ったんだからね。 ちょっとはあたしに感謝して、ガミガミ言うのは控えてよねっ」 確かに、珠子が長い悲しい夢から覚めたとき、あの汚れくたびれたピンクの帽子を両手でぎゅっと握り締めて珠子を見つめていた美緒の、真っ赤に泣き腫らした目は、たぶん一生忘れられないだろう。 珠子が眠っている間、どれだけ泣いたかわからない、充血したその目から、また、ポロリと涙をこぼして、美緒はかすかに唇を動かし、ああ、お姉ちゃん、目が覚めてよかった、と、絞り出すような声でつぶやいたのだ。 その横で、目に涙をいっぱいためて珠子を見下ろしていたママも、次の瞬間、珠子にすがりついてわっと声を上げて泣き出した。 急に熱を出して倒れるなんて、珠子いったい何があったの?そんなふうに体中あちこちに傷をこさえて、今までどこで何をしてたの?ママはさっきあなたを『龍王』までお使いに送り出したばかりのはずなのに、どうしてこんなに長い間あなたと離れていた気がするの? 矢継ぎ早の質問で、珠子にもようやく、猫から人間に戻れた実感が、しみじみと沸いてきたのだった。 人気ブログランキングへ
2014.08.03
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珠子の隣で、正樹も楽しそうに笑って言った。 「じゃあ昇一さんは、これから奥さんと2人の娘さんと一緒にずっとこの店の二階に住むわけだ。 オレも兄貴が帰ってくれて嬉しいよ。 ・・・でも、あの部屋ってずいぶん長い間空室だったよね? 大丈夫? 雨漏りとか、しない? 妙に風通しが悪いとか、妙に寒いとか」 おばさんが、ネギを刻む手を休め、顔をしかめてうなずいた。 「そりゃあもう、畳も壁もぼろぼろだよ。 手入れしようしようと思いながら、店も休みたくないし、なかなか暇がなくて、ずっとほったらかしてあったからね。 あのままじゃとても住めないさ。 それでね、今度思い切って店ごと・・・」 話し続けようとするおばさんに、急に菜箸を押し付けて、大鍋から離れた昇一さんが、カウンター越しに正樹のほうに身を乗り出した。 「二階といえば、妙なことがあったんだ。 ウチの下の娘が、まだ2歳なんだけど、最初あの部屋に入るのを嫌がってね。 中におばけがいるって言うんだよ。 おばけの部屋に猫ちゃんがひとりで入って行っちゃった、猫ちゃんおばけに食べられちゃう、って、大声で泣くんだ。 親の俺が言うのもなんだけど、あの子は、同じ年頃の子と比べてうんとしっかりした子だと思ってたんだけどねえ。 ・・・まあ、なんとか娘をなだめて、少し時間を置いてから部屋に行ってみたら、驚いたよ、ほんとに猫が倒れてる。 しかも、よく見たらそれは珠子ちゃんちのミケ・・・」 昇一さんが顔を曇らせて珠子を見、つと口ごもり、気の毒そうに目を伏せた。 ――― ミケは、珠子の代わりに、クロを連れて天国へ旅立ってしまった。 そのショックで気を失った珠子は、その後起きたことを何も覚えていない。 が、正樹の話では、あの後すぐにノロ猫の呪いは解けて、三人はその場で人間の姿に戻り、前後不覚の珠子を、正樹がおぶって家まで送り届けてくれたそうだ。 気がついたときには、珠子はもとの人間の姿で、自分の部屋のベッドに寝ていた。 まるで何事もなかったみたいに。 ママのお使いで『龍王』にみかんを届けに行って、普通にお使いをすませて、普通に家に戻って、そのまま寝ちゃった、みたいに。 でも、いつも傍らに寝ていたミケの姿がどこにもないことに気がついたとき、珠子は、あれが悪夢なんかではなく確かに現実に起こったことだったとはっきりと理解した。 そして、同時に、あの深く悲しい眠りの中でミケが、最後のお別れを言いに、珠子に会いに来てくれたことも、ありありと思い出した。 夢の中でミケは、神々しい明るい光に包まれ、生きているときと少しも変わらない、優しい、幸せそうな笑顔を浮かべて、珠子にこう言ったのだった。 『珠子お嬢さま、悲しんではいけませんよ。 お二人のお嬢さまに愛されて、わたくしの一生は幸せでございました。 とりわけ、最後に珠子お嬢さまと親しく言葉を交わすことができ、この命を捧げることができたことは、わたくしにとりまして至上の喜びだったのでございますから、お嬢さまも、どうかわたくしと一緒に喜んでくださいまし』と。 ――― 悲しむな、と言われても無理だ。 ミケのおかげで、珠子も正樹も虎雄も、たぶんその他のノロ猫たちも全員人間に戻ることができて、以前の平穏な日々を取り戻したというのに、たった一人、犠牲になってしまったと思うとミケが哀れで、珠子はいつまでも涙が止まらない。 みんながそんなに簡単にミケを忘れて、めでたしめでたしと言ってしまったら、ミケがかわいそうすぎる。 人気ブログランキングへ
2014.08.02
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「・・・しっかし、不思議だよなあ。 いったい誰が、何の目的で、こんな大がかりなイタズラをウチの店に仕掛けたんだろう。 『緊急開催! ラーメンの大食いバトル ○月○日○時より 中華料理店・龍王にて』って、おやじもおふくろも、本当にぜんぜん知らなかったの? 」 『龍王』の、朱塗りのカウンターの向こうで、ぐらぐら煮立った大鍋の中にラーメンの玉をほぐし入れながら、赤いバンダナをきりりと頭に巻いた昇一さんが首をかしげながら言った。 「・・・あの朝、朝刊と一緒にこの一帯に配られたチラシと同じものが、俺のアパートの郵便受けにも入っていたんだ。 ここからはずいぶん離れた地区だぞ。 しかも、あの地区で入っていたのはウチの郵便受けだけ。 まるで俺に、来いと言ってるようなもんじゃないか。 このイベント、まさか、俺を呼ぶために二人でこっそり企画したんじゃないだろうね?」 と、その後ろの調理台で、トトトトト・・・とリズミカルな音を立ててネギを刻んでいたおばさんも、首をひねって応じた。 「ほんとに、あたしにもお父ちゃんにも、それに常連のお客さんたちにも、ぜんぜん心当たりがないんだよ。 ラーメンの大食い競争なんて、そんな大それたことを、あたしたちが考えつくわけがないじゃないかね。 ・・・だけど、まあいいじゃないか。 イタズラだろうと何だろうと、とにかく昇一はこの店のことを心配して、奥さんと子どもたちを連れて飛んできてくれた。 そして、あのチラシがイタズラだったとわかっても、いやせっかくここまでお膳立てされたイタズラなら、いっそこれを利用して本当にそのイベントを実現してしまおうよ、って、奥さんと二人で走り回って、常連客やご近所、友達、会社の同僚の方たちまで巻き込んで、材料の仕入れから助っ人の手配、店の大掃除、飾り付け、何から何まで、ほんとに一生懸命になってやってくれた。 おかげでその『大食いバトル』は実現して、しかも大成功を収めて、店の知名度も上がったし新しいお客さんも増えた。 そのうえ、これからは昇一たちもここであたしたちと同居してくれることになったんだもの、このうえ言うことなんか何もないやね。 あたしは、あのイタズラに手を合わせて感謝したいくらいだよ。 ねえ、おとうちゃん?」 調理場から奥座敷へと続く狭い出入り口で、あがりがまちに腰掛けて新聞を読んでいたおじさんが、顔も上げずに、ああ、とか、うう、とか、生返事をした。 おばさんが、くすくす笑って包丁の手を休め、カウンターのこちら側に目を移す。 「ふふ。 あれでけっこう喜んでるんだよ、おとうちゃん。 まさか昇一が本気でこの店を継ぐことを考えていてくれたなんて、おとうちゃんもあたしも、今まで考えもしなかったもの」 「そうよね。 あたしも、昇一お兄ちゃんはお店の仕事がきらいなんだとばかり思ってた」 カウンター席で珠子が笑ってうなずくと、長い端で大鍋をかき混ぜる昇一さんの肩も、楽しげに揺れた。 「そうねえ、俺も昔は親父に反発して、意地になってるようなとこ、あったからね。 だけどずっと会社員やってるうちに、なんか違うんじゃないか、俺、無理してるんじゃないか、って、思えてきてね。 つくづく、たった一人でラーメン屋やってがんばってる親父の生き方が、すごいな、うらやましいな、って、思うようになってたのさ。 くやしいけど」 カウンターのほうを振り返った昇一さんの顔は、昔の面影を残しつつも今やすっかりおっさんになって、気取った口髭なんかたくわえている。 人気ブログランキングへ
2014.08.01
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