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さびしい赤い空の下に、ひとり呆然と立ち尽くすクロ ――― その姿は、あまりにも小さくて、哀しくて、このまま見放すことなんかとうていできないと思った。 混乱して、たまこは誰にともなく叫んだ。 「いや! こんなさびしいところにクロちゃんを一人で置いていっちゃうなんてできない!」 小さな子どものように、大声で泣き出したたまこの涙を、ミケが優しくぬぐって微笑んだ。 その笑みは、まるで、慈愛に満ちた母猫のようだ。 「珠子お嬢さま、・・・お嬢さまならきっとそうおっしゃるのではないかと思いました。 それではお嬢さまの代わりにわたくしがここに残りましょう。 思えば十二年前のあの雨の日、お嬢さまの優しいお手に拾われてから今日まで、わたくしは十分にお嬢さまに慈しんでいただきました。 猫として、本当に幸せな一生でございました。 もうこの世で望むことは何一つありません。 ですから今度はわたくしが、あの無垢な子猫に、慈悲の心を教えてあげましょう。 大丈夫、いえ、むしろわたくしのほうがお嬢さまよりうまくできるかもしれませんよ。 同じモト猫同士。 そして守り猫さまもわたくしにお力添えくださっていますからね」 振り仰げば、守り猫の示す空から、一筋の清らかな光が、地上に向かって差し込んでくる。 いや、単なる光ではない。 よく見ればそれは、光に包まれてゆっくりと地上に伸びてくる、ほそい階段なのだった。 はっとした。 「ミケ、・・・まさか、あたしをおいて、クロと一緒に天国へ行っちゃうつもりじゃないでしょうね?! だめよ! そんなの絶対許さないから!」 たまこは狼狽してミケを捕まえようとしたが、ミケは、たまこの手をするりとすり抜けて、クロのほうへと駆け出してしまった。 「行っちゃだめ! 帰ってきて! ミケ! お願い!」 泣きながら懇願したが、ミケはちょっとたまこのほうを振り向いて微笑んだだけで、立ち止まろうとはしなかった。 嬉しそうに駆け寄ってきた黒い子猫に優しく頬ずりする、その姿はまるで本当の親子のようだ。 仲睦まじげに寄り添って、ミケがクロを光の階段のほうへと導いていく。 並んでゆっくり階段を上り始めた二匹の姿が、だんだん白い光に包まれていく。 白い光が強さを増して、まぶしくてとうとう目を開けていられなくなったとき、たまこは、もう二度とミケの姿を見ることはできないと悟った。 真っ暗な悲しみのふちへとつき落されるような気がして、たまこはそのままマサキの腕の中に倒れこみ、気を失った。 人気ブログランキングへ
2014.07.30
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ミケも、すばやくたまこの前に駆けつけて来て、行く手をさえぎった。 「珠子お嬢さま、お二人のおっしゃるとおりです。 お嬢さまはマサキくんたちとご一緒に、もとの世界にお戻りにならなければいけません。 クロなら大丈夫。 ほら、あれをごらんなさいまし」 ミケの指差すほうを見れば、荒野にたゆたう霧の向こうに、不思議な、淡い光が浮かび上がっていた。 夢かうつつか、よく見ると、その淡い光の中に、幻のように、一匹の猫が座っている。 無残なほど背骨の大きく曲がった、けれどどこか高貴な雰囲気をまとった、不思議な猫だ。 その猫が、宙空に端然と座して、静かに天を指し示している。 超然としたその姿を、伏し拝むようにしてミケが言った。 「あれは、遠い森のお寺におわす三匹の守り猫さまのうちのおひとり。 魔界で苦しむ猫たちに浄土の光をお示しになるために、不自由なお体をいっとき離れてここにお出ましくださったのです」 守り猫の指し示す先、不気味な赤い空の一角には、あれが浄土の光なのだろうか、確かに、明るく荘厳な光が、そこだけ霞がかかったように、ぼうっとうららかに浮かんでいるのが見える。 そして、地上では、その天空の光に呼応するように、龍の体から離れたうろこが、ふわっ、と、やわらかい光に包まれて、ひとつ、またひとつ、ゆっくりと天に向かって上昇しはじめた。 長い間この場所で苦しんでいた猫たちの魂が、今ようやく、成仏の光を見いだし、安らぎを得て、昇天していくのだ。 明るい光跡を残して、たくさんのうろこたちが、昼でもない、夜でもない、薄暗い赤い空を昇って、次々と天上の光に達し、静かに溶け込んでいく。 感涙に目を潤ませながら、ミケが言った。 「ほら、猫たちの魂が、極楽浄土に向かって次々と昇天して行くのが見えるでしょう。 クロもきっと、あの猫たちと一緒に天国へ・・・」 けれどクロは、他の猫たちと一緒に天に昇っては行かなかった。 きらきら輝く光の粒のような魂たちが、守り猫の教示によってみんな空のかなたへ昇っていってしまっても、あまりにも長い間ここで彷徨っていたクロには、もはや守り猫の姿も極楽浄土の光も見えないのだろうか、たった一人で、ぽつんと取り残されているのだった。 人気ブログランキングへ
2014.07.29
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懐かしい鈴の音に誘われるように、たまこの脳裏にもまた、クロと昇一お兄ちゃんとの楽しい思い出が、次から次へとよみがえっていた。 昇一お兄ちゃんが家からこっそり持ち出してきた、温めたミルクの入った哺乳瓶を、正樹と奪い合ってクロに飲ませたこと。 たまには思い切り日光浴をさせなきゃねと三人で話し合い、昇一お兄ちゃんの自転車のかごに古いタオルを何枚も敷きこみ、クロを乗せて出かけたこと。 クロを抱いて正樹と道を歩いていたら、大きな犬につきまとわれて死ぬほど怖い思いをしたこと。 そして、昇一お兄ちゃんが、クロが死んじゃった、と、泣きながら、店の裏の藪の中にお墓を掘っている、胸の痛くなるような悲しい光景。 ――― あれこれ思い出したら、クロが愛しくて、思い出が哀しすぎて、それを今まで忘れていたことが悔やまれて、たまこはぼろぼろ涙をこぼしながら、もう一度あのころに戻ってクロを呼んだ。 「おいで、クロ。 珠子と遊ぼ。 一緒に、昇一お兄ちゃんを迎えに行こ」 その瞬間、龍の体がぐらりと大きく揺れて、それから、うろこの一枚一枚が、龍の体を離れてぼろぼろとはがれ落ち始めた。 鎧のようなうろこがみるみるうちにはがれ、龍の体全体が、ガラガラと大きな音を立てて崩れていく。 「クロちゃん!」 驚いて駆け出そうとしたたまこを、マサキがあわてて抱きとめた。 「行っちゃだめだ、珠子! クロはもうこの世のものではないんだ! おまえまであっちの世界に行っちまう気か?! そんなことはさせないぞ!」 トラオも、それに加勢して叫んだ。 「そうだよ、たまこちゃん、かわいそうなようだけど、俺たちにできるのはここまでだ。 クロは自分で行き先を見つけて、一人で行かなきゃいけないんだ」 人気ブログランキングへ
2014.07.28
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古びたその小さな鈴を、昇一さんがクロの首につけた日のことは、珠子もよく覚えていた。 あの日、昇一お兄ちゃんは、店に迷い込んできた子猫を抱き上げ、愛しそうに頬ずりしながらこう言ったのだった。 『今日からおまえは俺の弟だ。 真っ黒だから、名前はクロにしよう。 いいかクロ、怖いことがあったり、お腹がすいたり、寂しくなったりしたら、すぐに兄ちゃんを呼ぶんだぞ。 この鈴の音が聞こえたら兄ちゃんがすぐに飛んで行ってやるからな。 そうだ、もう2度と迷子にならないように、名札も作ってやろう。 龍王クロ。 どうだ、かっこいいだろ?』 荒ぶる魔物の魂を鎮めるように、マサキがおだやかな声で続ける。 「龍王クロ。 昇一兄ちゃんにつけてもらったその名前を、おまえは忘れてなかったんだな。 だけど、おまえが死んだことで昇一兄ちゃんがどんなに悲しんだか、おまえには見えなかったのか。 かわいそうに、おまえはきっと昇一兄ちゃんに拾われる前にも、母猫や兄弟猫から切り離されて独りぼっちになって、何度も人に裏切られて悲しい目に遭ったんだろうな。 そしてようやく、信じられると思った人間 ――― 昇一兄ちゃんにめぐり会えたのに、それもつかの間、その人にもまた見捨てられたと思い込んでしまったんだろう。 無理もないよな」 小さくため息をもらして、マサキが続ける。 「・・・だけど、そうじゃないんだ。 クロ、兄ちゃんは、決してお前のことを忘れたりしなかったぞ。 あんな形でおまえを死なせてしまったことを、兄ちゃんは長い間、悔やんで、苦しんでいた。 あんなところでこっそりクロを飼ったりしなければよかった、と。 父さんの言うとおり、ちゃんとクロをかわいがってくれる人を捜して、その人にクロを頼めばよかったんだ、と。 なのに、クロが可愛いからってどうしても手放さなかった、そういう自分のわがままのせいで、クロに寂しい思いをさせて、そのあげく死なせてしまった。 クロを殺したのは、トラックじゃない、無責任な飼い方をした自分だ、そう言って、昇一兄ちゃんは、自分を責めて、何日も何日も泣き暮らしていた。 おまえの首につけていたこの鈴も、見るのがつらいと言って泣き出してしまう。 オレそんな兄ちゃんを見たくなかったから、だから鈴を預かって、ずっとそのままになっていたんだ。 なあ、クロ、おまえがいなくなってしまったことで昇一兄ちゃんがどんなにつらい思いをしたか、わかってやってくれ。 今でも昇一兄ちゃんの胸の中では、クロ、おまえはかけがえのない弟のはずだぞ」 マサキの言葉の一つ一つが、あたたかい雨のしずくのように、鎮魂の歌のように、薄明の荒野に降り注ぐ。 人気ブログランキングへ
2014.07.27
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竜巻と炎と雷光に染め上げられ、くすぶる冥界の空の下。 果てしなく続く荒野の只中で、離れ離れになったたまことミケの、まず倒れたミケから焼き殺してやろうと、龍が鎌首を持ち上げ、ミケに狙いを定めて、ふたたび真っ赤な口を開けた。 「ミケ! 立って! 逃げて!」 なすすべもなく絶叫した、たまこの背後で、そのとき、チリーン、と、不思議な音が鳴り響いた。 遠い昔、確かに聞いた覚えのある、懐かしい鈴の音 ――― 龍も、はっとしたように動きを止め、こちらを振り向く。 つられて振り向いた、たまこの後ろに立っていたのは、真一文字に口を引き結び、すっくと立った、黒猫のマサキだった。 その後ろには、すっかり怪我も治って元気を取り戻した様子のトラオ。 そして、相変わらず煤と泥に汚れた体の捨吉も、ぴたりと付き従っている。 三匹とも、忽然と地上に降り立った勇者さながら、怖ろしい龍を前にたじろぐ気配もなく、闘志満々、気迫みなぎる表情だ。 「マサキ! トラオ! それに捨吉も?! 加勢に来てくれたのね!」 息を弾ませて叫んだたまこにちょっと笑顔を向けて、マサキが、小さな鈴のついたキーホルダーを差し出して見せた。 「たまこ、おまえの見た夢の話を捨吉から聞いて、オレもやっと思い出したよ。 あいつは、昔昇一兄ちゃんが可愛がっていた、あの、クロだったんだな」 トラオも元気な笑顔を見せてうなずいた。 「正体のわからない怖ろしい魔物だって、オレたちずっと思ってたけど、そうじゃなかったんだな。 自分を見失ってるだけの、さびしい子猫だったんだ」 捨吉も神妙な顔つきで付け加えた。 「マサキさんのキーホルダーについてるこの鈴は、昔昇一さんがクロにつけてやったもので、クロの死んだ後マサキさんがずっと預かっていたそうですよ。 マサキさんは、この音を聞いたらクロもきっと自分を取り戻すにちがいない、って」 たまこにもよく見覚えのある、その鈴を、マサキが龍に向かって高々と差し上げ、叫んだ。 「クロ、オレを覚えてるか? いや、オレのことは忘れちまったとしても、今オレのキーホルダーについている、この小さな鈴のことは、忘れるはずないよな。 さあ、よく見て、思い出してくれ。 昇一兄ちゃんがこの鈴をおまえの首につけたあの日のことを」 薄明の荒野に、哀しげな鈴の音が、チリーン、と、か細く鳴り響く。 その幽玄な音色に耳を傾けるように、龍がちょっと首をかしげた。 人気ブログランキングへ
2014.07.26
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ふいに、二人を守るバリアーが、ゆらっ、と、目に見えるほど大きく揺れた。 その一瞬を狙って、龍が、かっ、と大きく口を開ける。 次の瞬間、その口から、目もくらむような真っ赤な閃光が放たれた。 いや、単なる光ではなかった。 それは、龍の吐く、怒りの炎 ――― 触れたものすべてを一瞬のうちに灰に変えてしまう、地獄の火炎なのだった。 龍の口から吐き出された、地の底まで焼き尽くすような巨大な火炎が、ゴーッとすさまじい音を立てて二人に襲いかかる。 二人の足もとが、ぐらり、と大きく揺れ、と思ったせつな、バリアーが、ふっ、と消失した。 龍の、長年にわたって積もり、固まり、極度にゆがんだ憎しみのパワーのほうが、愛の力よりも強かったのだ。 無防備になった二人の全身を、焼けつくような熱風が直撃する。 襲いかかってきた地獄の炎を、すんでのところで、右と左に飛びのいてかわした、たまことミケの間に、一瞬、小さな間隙が生じた。 その空隙をついて、二人の間を裂くように、ビシッ、と、深い亀裂が走った。 ゴゴゴ・・・という重い地響きと激しい揺れを伴って、足もとに走った亀裂が、底なしの闇へふたりを飲み込もうと、その入り口を大きく広げる。 「ミケ!」 「お嬢さま!」 激しい揺れに耐え切れず地に伏せたたまこと、地獄の炎にあおられて地面に投げ出されたミケとの距離が、激しい地鳴りとともに一気に引き離される。 その間に龍が、ところどころうろこの剥げ落ちた巨体を、のそり、と割り込ませた。 人気ブログランキングへ
2014.07.25
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ミケを守りたい ――― 珠子お嬢さまを守りたい ――― 二つの思いが、重なり合ったのがはっきり感じられたとき、同時に、その二つの思いが、目には見えない、けれど、明確な流動となって、ブーン、とやわらかな唸りをあげながら二人を押し包んだのが感じられた。 強力な磁場のようなものが、バリアーとなって二人をすっぽりと蔽う。 次の瞬間、生白く不気味に光って飛んでくるうろこの刃が、たまこの目の前で、カン、と、高い金属音をたててはじき返された。 続いて飛んできたうろこも、カン、と、はじき返された。 次々と飛んでくる恨みのうろこを、たまことミケの、互いを思いやる慈愛のバリアーが、カン、カン、と、小気味よい音を立ててはじき返していく。 それは、どんな鋭い刃が束になって襲いかかってこようとびくとも揺るがない、強靭なバリアーだった。 数限りない恨みのうろこ、憎しみのうろこが、二人の前に空しく舞い散り、地に堕ちていく。 龍の体から、うろこの数が徐々に減り、ところどころうろこのはげおちたその体が、しだいに強い光を失いはじめた。 あと一息 ――― たまこがそう思ったとき、バリアーに気づいた龍が、怒りに全身を膨らませ、雷鳴のような咆哮を上げた。 「おのれ! どこまでも俺の邪魔をする、こしゃくな三毛猫! お前から先に地獄へ送ってやるわ!」 龍の怒声が、大気を震わせ、冥界の空に暴風を呼ぶ。 二人の頭上でゆっくりと渦を巻きはじめた暴風が、みるみるうちに勢いを増し、巨大な竜巻に成長した。 真っ黒な竜巻が空を蔽い、重い地響きを立てながらたまことミケに迫ってくる。 二人を守るバリアーが、竜巻のおこす激しい風圧を受けて、ゆらゆら、危うく揺れ始めた。 人気ブログランキングへ
2014.07.24
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思わず目を閉じたたまこに、ミケの叱責が飛んだ。 「目をそらしてはなりません! 思い出してください、珠子お嬢さま、あの冷たい雨の日、お嬢さまが子猫のわたくしにかけてくださった、慈悲のお心を。 わが身を忘れて汚い子猫に手を差し伸べてくださった、あの一途なお気持ちこそ、崇高な愛の心なのです。 一度はこれを疑い、無明の道に踏み出しかけたわたくしが、お嬢さまのたしかな手のぬくもりを思い出し、今一度あのあたたかい優しいお手に触れたいと、その一心から、我を取り戻すことができたのもまた、強く熱い、愛の力。 愛こそが、希望を、喜びを、勇気を生み出し、あの魔物のゆがんだ憎しみを絶つ力となるのです。 それが、あの魔物を救うことにもなるのですよ。 さあ、あの雨の日、ミケのために勇気を奮って、心を砕いて、お母さまを一生懸命説得してくださった、あの珠子お嬢さまに、今、もう一度戻って、今度はあの黒い子猫を救ってください! 珠子お嬢さまとわたくしとの強い愛の槍をもって、あの魔物の体を覆う、憎しみの鎧を打ち砕くのです!」 ミケの確かなぬくもりが、ぴったりと自分に寄り添っているのが感じられた。 そのぬくもりを通して、たまこのために命を懸けて、たった一人、この怖ろしい魔物の巣窟に乗り込んできてくれたミケの、強い、深い愛情が、ひしひしと伝わってきた。 思えば、これまで、珠子の足もとには必ずミケがいてくれた。 一見とりすましたその瞳の奥には必ず、深い、あたたかい光が宿っていて、気がつけばいつも、母猫のように珠子を見守ってくれていた。 ――― ああ、あたし、こんなにも、長く、深く、ミケに愛されていた。 いまさらのようにそのことをさとると、珠子の中にも、これまでには感じたことのない、深い、あたたかい思いがこみ上げてきた。 ミケが愛しくて、その存在が、かけがえのない大きな、大切なものに見えてきた。 この手でミケを守りたい、そのためなら何でもできる! そう思ったら、怖いものなんか何もなくなった。 人気ブログランキングへ
2014.07.23
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気がつくと、かたわらにはミケがぴったり寄り添って、しきりにたまこの注意を促していた。 「お嬢さま、しっかり! 弱気は禁物でございますよ! 今情け心を起こして情に流されては、魔物のエネルギーに飲み込まれてしまいます。 今は心を鬼にして戦わねばならないとき。 さあ、心の準備をなされませ。 来ますよ! あれが魔物の正体でございます!」 ミケの指差す空を見上げれば、ごろごろと低く唸り声をあげる黒雲の間から、めまぐるしく明滅する青緑色の光とともに姿を現したのは、黒い、巨大な龍だった。 不気味な青緑色の目玉をらんらんと光らせ、大きな赤い口をかっと開けて、龍が、たまこを睨み下ろす。 「さあ、たまこよ、おまえもこちらの世界へ来るがいい。 おそれることはないぞ。 何の苦しみも悩みもない、静かな安らぎの世界だ。 仲間も大勢いる」 ぬらり、と、かま首を持ち上げた龍の、長々と伸びた蛇のような体をよく見ると、うろこの一枚一枚すべてが、猫の顔でできているのだった。 憤怒の表情、苦悶の表情、悲嘆の表情、・・・どれも皆怖ろしい表情で、成仏できない苦しみを物語っている。 にやり、と、ほくそ笑むように目を細めて、龍が、その長い爪でうろこの一枚に触れた。 触れられたうろこが、もぞり、と、息を吹き返したように動く。 と、次の瞬間、ぱあっとまばゆい光を発しながら龍の体からはがれ落ちたうろこは、白く光る鋭い刃に姿を変え、まっすぐたまこに向かって飛んできた。 激しく燃えたぎる憎しみの、かみそりのような刃が、2枚、3枚、・・・間を置かず次々と飛んでくる。 「きゃーっ!」 人気ブログランキングへ
2014.07.22
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言い放つと、青緑色の目玉は不意に、二人の頭上からさらにすーっと上昇して、天井にまで達した。 同時に、部屋の中全体がぼうっと薄明るくなる。 ぎょっと見回すと、そこはもうあの『龍王』二階の暗い狭い部屋の中ではなかった。 それは、果てしなく広い、殺伐とした、荒野のようなところ ――― 木も草もない、風も水もない、岩も、石ころすらもない、日の光も、月星の明かりもない、ただ寒々とした薄明がどこまでも広がっているばかりの、奇妙な場所だった。 ああ、ここは、死んだ魂が行くという、幽界というところなのだろうか、と、たまこは思った。 それにしても、なんというさびしい眺めだろう。 ここに一人で立っていると、それだけで、さびしくて、心細くて、涙が止まらなくなるのだ。 こんなさびしいところでクロは、長い間一人ぼっちで、昇一お兄ちゃんを捜して呼んでいたのかと思うと、クロがかわいそうで、大声で泣きたくなった。 そうだよね。 こんなところに一人でいたら、そりゃ、通りかかる人なら誰でもいいからすがりつきたくなるよね。 他の幸せそうな猫を見たら、うらやまずにはいられないよね。 たまこがそう思ったとき、突然、はるか上空で不気味な雷鳴がとどろき、薄明の空に、青緑色の稲妻がぴかっと走った。 まばゆい稲妻の光に、一瞬、見上げるような巨大な、魔物の影が浮かび上がる。 人気ブログランキングへ
2014.07.21
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はっとして、赤いキャットフードのお皿を振り返ってみれば、それは確かにミケの言うとおり、キャットフードとは大違い。 姿かたちといい、匂いといい、どう見ても、小動物の死骸、腐敗物あるいは虫のようなもの、すなわち、猫が野生動物であったころ狩って常食としていた違いない、もろもろの食糧。 「きゃっ! いやーん!」 思わず悲鳴をあげて飛び退ったたまこを見下ろして、青緑色の目玉が、怒りの色にゆらり、と揺れた。 揺れた視線が、不気味な光を放って、すっ、と、ミケに向けられる。 「おのれ、三毛猫、まだ生きていたのか!」 ミケの全身の毛が、針のように逆立った。 「おだまり! お前のような大嘘つきが作り出すめくらましには、もうだまされないよ! たしかに、自分にむごい仕打ちをした人間を、あるいは自分を冷たく見捨てた人間を、憎まずにはいられなかった猫たちの気持ちは、肌身にしみてよくわかったよ。 そりゃあ悲しかったことだろう。 悔しかったことだろう。 どんなにか苦しかったことだろう。 だけど、よく思い出してごらん。 おまえだって、人に愛されたこともあった、と、さっき言っていたじゃないか。 縁もゆかりもないお前を、優しい心で包んで慈しんでくれる、そんな人たちだって、この世にはたくさんいるんだ。 そんな人たちまで恨んだり呪ったりするのは、筋が違うと思わないのか? ときに残忍な行いもするけれど、慈悲の心は決して失わない、人間てそういう生き物だと、おまえだって、ほんとうはよくわかっているはずだよ」 青緑色の目玉が、一瞬、考え込むように不安げに揺れた。 が、それもほんのつかの間、――― 激しい憎しみと不審の色はすぐにもとの勢いを取り戻し、ミケに向かって牙を剥きだした。 「慈悲の心、だと? ふん、そんなものがやつらにあるものか! 俺は人間の言葉など二度と信じぬ! 三毛猫、それにそっちの白猫も、われらの仲間に引きずり込んで、この悔しさを骨の髄まで味わわせてやろうぞ! お前たちも、われらと同様、この憎しみの無間地獄の中で、永遠に苦しみ続けるがいいわ!」 人気ブログランキングへ
2014.07.20
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闇に包まれた部屋の中では、いつものように、青緑色の大きな目玉が二つ、ぽっかりと宙に浮かんで、たまこを待っていた。 「おお、しばらくだったね、たまこ。 おなかがすいてるだろう? さあ、美味しいキャットフードを、おなかいっぱい食べなさい。 これを食べないと、おばかさんになっちゃうよ」 たまこが何か言おうとする前に、また、あの、なんともいえない良い匂いが漂ってきて、たまこの足もとに、すっ、と、赤いキャットフードを山盛りにしたお皿が差し出された。 それを目にしたとたん、どうしたことだろう、たまこは、頭がくらくらするほどの耐え難い空腹感に襲われて、何もかも忘れ、つい、ふらふらと、キャットフードに向かって足を踏み出してしまった。 そのときだ。 たまこの後ろで、聞き覚えのある鋭い怒声が響き渡った。 「だまされてはなりません、珠子お嬢さま!」 はっとわれに返って振り返ると、そこに立っていたのは、金色の瞳をらんらんと光らせ、きびしい表情でたまこを見下ろす、ミケだった。 「ミケ! 無事だったのね!」 深い安堵の思い ――― おかげで赤いキャットフードのことなんかころりと忘れて、駆け寄るたまこに、ミケが母猫のように優しく寄り添って、青緑色の目玉を睨み上げた。 「お嬢さま、だまされてはなりませんよ。 その魔物は、命あるものに夢まぼろしを見せてあやしの世界へと誘い込む大嘘つき。 しっかりと目を開けて、その皿の上のものの正体を見極めなさいませ」 人気ブログランキングへ
2014.07.19
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力いっぱい足を踏ん張って泣き叫ぶ娘の様子に、昇一さんは驚いてドアノブから手を離し、彼女を抱き上げてあやし始めた。 「おばけ? ははは、ノンちゃんは怖がりだなあ。 そんなものいないよ。 ここは昔パパが 使ってた部屋だもん。 おばけなんかいたって、パパがやっつけちゃうから平気さ」 昇一さんの首にしがみついて、女の子のご機嫌が少しだけ良くなった。 「ほんとう? パパはおばけより強いの? 怖くないの?」 「怖くなんかないさ。 パパは強いんだぞ! 今日だって、パパが生まれ育った『龍王』の店存続の危機だと察したから、こうして救出に飛んできたんだ。 パパにまかせておけば大丈夫だよ」 そのすきにたまこは全速力で階段を駆け上り、頼もしげに高笑いする昇一さんの足もとをすり抜け、ドアノブに飛びつくと、渾身の力でこれをぐりっと回した。 昇一さんの娘が、目を丸くしてたまこを指差す。 「あっ、パパ見て! 猫ちゃんがドアを開けるよ! 上手だね」 その声を背中に聞きながら、たまこは、まるで自分を誘い込むように簡単に開いたドアの、細い隙間に半身を滑り込ませた。 「え? 猫ちゃんが、なんだって?」 昇一さんが振り返って、娘の指差すほうを見たとき、たまこはもう、ドアノブから離れて一足飛び、真っ暗な部屋の中にダイブしていた。 たまこの着地と同時に、ばたん、と大きな音を立てて、ドアがひとりでに閉まる。 とたん、部屋の中が真っ黒な闇に沈む。 ドアの向こうでは、まだ、女の子の高ぶった声が響いていた。 「パパ! 今、猫ちゃんが、おばけのいるお部屋の中に入って行っちゃったの。 あの猫ちゃんは大丈夫? おばけに食べられちゃう?」 そして、狐につままれたような昇一さんの声。 「えっ? 今ドアが閉まった? 猫ちゃんが入ったから? ほんと? パパには何にも見えなかったよ?」 つづいてガチャガチャとせわしなくドアノブの回る音。 「・・・あれ? へんだな、開かないぞ。 母さんが鍵をかけたのかなあ。 ・・・だって、今このドア開いたんだよね? ノンちゃん、見てたんだよね?」 人気ブログランキングへ
2014.07.18
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後悔と心配に胸も焼け付くような思いで龍王に駆けつけ、外階段を上りかけて、たまこは息も止まるほどびっくりした。 部屋のドアの前に、さっき夢に見たばかりの、けれど今はすっかり大人になった、昇一さんが立っているのだ。 しかもその横には、おそらく昇一さんの愛娘なのだろう、小さな女の子が、しっかり昇一さんの手を握り締めて立っている。 ―――お父さんに勘当されて、現在は絶縁状態で別居しているはずの昇一さんが、なぜ、今、ここに?! しかし、それをいぶかしむよりもさきにたまこを驚愕させたのは、その昇一さんの片手が、今にも、二階部屋のドアを開けようとして、ノブに伸びていたからだ。 ぞっ、と背筋が凍りつくような気がした。 ――― だめ! 昇一お兄ちゃん、不用意にその部屋に入るのは危険だわ! その部屋に棲みついているのは、あたしたちを忘れて怖ろしい魔物に変わってしまったクロちゃんだったの。 今その部屋に入ったら、お兄ちゃんと、かわいい娘さんまで、猫に変えられてしまう! 慌ててたまこが階段を駆け上がりはじめたとき、上で昇一さんの娘が急に、火のついたように激しく泣きだした。 「だめーっ! パパ、そのお部屋に入っちゃだめ! 中におばけがいるの!」 人気ブログランキングへ
2014.07.17
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それは昇一お兄ちゃんがまだ中学生、珠子や正樹は小学生低学年のころだった。 『龍王』の調理場に、一匹の黒い子猫が迷い込んできたことがあって、一人っ子の昇一お兄ちゃんは、この子猫を本当の弟みたいに可愛がっていた。 それが『クロちゃん』だ。 でも、昇一お兄ちゃんの家はお客さんに料理を出すお店。 店の中や調理場を猫がうろついていたら不衛生に見える、と、どうしても飼うことを許してもらえず、どこかに捨ててこい、とお父さんにきびしく言い渡されてしまったのだった。 それでも昇一お兄ちゃんは、クロが可愛くてどうしても捨てることができず、お父さんにもお母さんにも内緒で、こっそり、古い毛布を敷いた段ボール箱に入れて、店の駐車場裏の藪に隠して、朝に夕に、ご飯を運んでいた。 だけどある日、昇一お兄ちゃんが学校に行ってる間に、クロはさびしくなったのだろうか、ひとりで段ボール箱から這い出して、駐車場から国道に迷い出、事故に遭ってしまったらしい。 お兄ちゃんが、給食の残りをお土産に学校から走って帰って来た時、クロはもう、車道の隅の縁石の横に、ぼろきれみたいに投げ出されて、動かなくなっていたそうだ。 ――― あの、かわいそうなクロちゃんのことを、あたしったら、どうして今まで忘れていたんだろう! クロちゃんの魂はきっと、車に轢かれたあの日のまま、あの場所でずっと昇一お兄ちゃんを待っていたに違いないのに! そう思うと、クロちゃんがかわいそうで、涙がこみ上げてきた。 そんな悲惨な出来事をすっかり忘れていた自分に、どうしようもなく腹が立った。 人気ブログランキングへ
2014.07.16
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――― ミケ、どうか無事でいて! 捨吉から、ミケが一人で龍王に向かったことを聞くと、急に不吉な胸騒ぎに襲われて、たまこは全速力でラーメン屋『龍王』に向かっていた。 どんな怖ろしいものが待ち構えているかわからない魔物の巣窟に、あたしのためにたった一人で乗り込んでいってしまったなんて! ああ、あたしがしっかりしていれば、絶対に、ミケにそんな無茶な真似をさせなかったのに! 銭湯の屋根から落ちて、まったく猫らしくもなく気を失っていた、その時間が惜しまれる。 後悔の念にひりひりと胸が痛む。 だが、たまこの気がかりはそれだけではなかった。 気を失っている間に見た、断片的でおぼろな夢が、さらにたまこの不安に拍車をかけていた。 いつもたまこに『美味しいキャットフード』を提供してくれる、『龍王』二階部屋の魔物の、あの青緑色の目の色だ。 自分をこんな姿に変えてしまった憎むべき敵のはずなのに、なんだか憎む気になれない、どころか、ときに妙な親近感さえ覚えてしまう ――― そのことが以前から気になっていたのだったが、たった今見た短い夢の中で、ようやくその正体に思い当たったのだ。 どうして今まで思い出さなかったのだろう。 あの、透き通った宝石みたいな、きれいな青緑色の目 ――― あれは、『龍王』の一人息子、昇一お兄ちゃんが、むかし可愛がっていた黒い子猫『クロちゃん』の、瞳の色そのものではないか。 人気ブログランキングへ
2014.07.15
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仕事、家のこと、人間関係のあれこれ、なぜか身辺怒涛のごとく忙しく、すっかり凹んでおりましたが、またぞろ、『猫』の続きを書きたい、と、のそのそ起き出してまいりましたふろぷしーもぷしーです。このような私のちゃらんぽらんさにもかかわらず、留守中も応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。恥ずかしくも、感謝の気持ちでいっぱいです。思えば、途中で何度も挫折しかけた『猫』でしたが、こんどこそ、完結を目指します。というわけで、またどうぞよろしくお願いしますね。
2014.07.15
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