吟遊映人 【創作室 Y】

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2010.03.18
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カテゴリ: 月下書人(小説)
自分でも驚くほど記憶が飛んでいる、と麻子は思った。
体が瞬間移動したみたいに、既に三島にいたからだ。
大体、東京からここまで来るのに、新幹線を使ったのかそれとも在来線に乗って来たのか、それすら覚えていない。
普段、飲み慣れない風邪薬が効いて、脳の思考回路をおかしくしているのかもしれないと思った。
ポカポカ陽気に恵まれた日曜日の朝、人も車ものんびりと動いている三島に、久しぶりに帰って来た。
駅前のロータリーを、バスやタクシーが流れて行くのを目で追う。
「おい麻子、こっちだよ!」
白のホンダCIVICの運転席から顔を覗かせたのは、父である。
見れば最後に会った時よりも、一段と若返っていて、肌艶も良い。

確か大病を患って、足腰が思うように立たなくなった時、運転免許証を返上したはずである。
「リハビリが功を奏してな、すっかりこの通りだ」
「良かったじゃん。今のリハビリは進んでいるね」
感心しながら助手席に乗り込むと、カーステレオから賑やかな出囃子が聴こえて来た。

「勤め先の課長も落語が好きで、よく聴いているよ。ああ、これ覚えてる。お父さん、昔からこの演目好きだよね」
「これはな、柳家小さんの『へっつい幽霊』だよ」
「ふぅん」
と答えながら、麻子はとりとめのないことを感じていた。
何とも表現しようのない、無性に懐かしい気持ち。
手を伸ばせばすぐに届きそうなのに、実はとても遠くにいて、声さえ届かないようなもどかしさ。
今、ここにいる父という存在が、儚い幻であるかのような感覚に陥っていた。

父はダッシュボードの方を指差して、麻子を促した。
そこには、ピーナッツにビスケット、チョコレートからドロップまでいろいろ詰め込んであった。
麻子は少しも空腹ではなかったが、そのうちの一つに手を伸ばした。
ここにいる麻子は、三十一歳のしがない独身女性などではなく、ビスケットを手にして喜ぶ、小学生の女の子なのだ。
「お父さん、今日はどこに行くの?」

車は市街地を抜け、国道を滑るように西へ向かう。
大小様々な建物が乱立し、見覚えのないパチンコ店やコンビニの出現で、故郷の面影を薄いものにした。
だが、古くからある自動車教習所や、食堂の看板を見つけると、「あ、知ってる」と、誰かに自慢したい気持ちに駆られた。
滔々と流れる狩野川を跨ぐ鉄橋を越え、目的地が見えて来ると、どう言う訳か、スローモーションのようにゆっくりと時間が流れている感覚に襲われた。
中腹に五重塔が現れ、香貫山は目の前なのに、なかなか麓まで辿り着けない。長く遠い道のりを、ひた走る。
麻子は、久しぶりの父との再会で話したいことが山積みだったのを思い出す。
この機に話さなくては、永久に話せないような気がして、まるでたがが外れたように話し始める。
縁日の金魚すくいで、すくい上げたキンちゃんが長生きしていること。
職場の山下さんのワキガが気になること。
週末、シネコンに行くのが楽しみなこと。
頻繁に、ユッコちゃんと長電話していること。
引き出しに、粉末青汁が入っていたこと。
そして、来月に派遣の任期が終了し、その後は未定であること、など。
父は、麻子の溢れ出る話題に、ただ黙って耳を傾けていた。
否定も肯定もせず、時々、鼻にしわを寄せて笑い、ハンドルを右へ左へとゆっくり操作していた。
麻子は、まだまだ話し足りないと思った。
だがその一方で、車内の暖房が効き過ぎているのか、喉がカラカラに渇き、顔がほてった。
「お父さん、何か冷たいものが欲しい。コンビニでアイス買ってもいい?」
「アイスならあるぞ。そこのやつ、食べていいから」
麻子は「えっ?」と思いながら、父がひょいと示した後部座席の方を振り返って見た。するとそこには、いくつもの袋菓子に混じって、アイスモナカまで用意されているではないか。いくら寒い季節でも、ドライアイスもなしに、こんな所へアイスを置いておくなんてどうかしてる・・・そう訝りながらも、麻子は喉の渇きに勝てず、アイスモナカの袋を破り、パクッと一口食べた。
「ああ! 冷たくて美味しい!」
思いのほか、全く溶けていなかったことに驚いた。
薄いモナカの皮に包まれたバニラアイスクリームは、渇いた喉を潤し、余分に暖められた体を程好く冷やしてくれる、極上の逸品だった。
口に含むと、バニラアイスクリームは一瞬のうちに儚く溶けてしまい、舌先には、冷たさと甘味とそしてモナカの皮が、記憶の欠片のように残された。
夢中になってパクついたせいで、瞬く間にアイスモナカは麻子の胃の中に納められてしまった。
やがて麻子は、心地良い清涼感を味わいながら、ぼんやりと外の景色を追っていた。

舗装された山道をくねくねと登って行く。
すれ違う車もなく、人影もなく、代わりにこの山に棲み付いたらしい丸々とした猫が、転々と、道路脇で置き物みたいに寝そべっている。
「お父さん、ネコちゃん轢かないようにしてよ」
「はいよ」
眼下に広がる沼津の市街地の向こうに、鮮やかな陽射しを湛えた海が見える。
「駿河湾だよ」
決して多くは語らなくても、「ここがお前の故郷だ」と言おうとしている、力強い優しさをひしひしと感じる。
その間、スピーカーからは、柳家小さんの演目が『長屋の花見』から『時蕎麦』に変わり、その後『粗忽長屋』そして『へっつい幽霊』と言う順番でエンドレスに流れている。

「夫婦げんかはおよしよ。みっともねぇから」
「どこで?」
「お前んとこでよぅ」
「夫婦げんかぁ?」
「そうだよ」
「やらないよ」
「やった」
「やらない」
「やった」
「出来ない。俺、ひとり者だから」
「あ、そうだ、おめぇひとり者だったなぁ」

聴くともなく聴いていた麻子は、まるで片桐のように、「ププッ」と噴き出した。

【次回につづく】

・・・時々内心おどろくほどあなたはだんだん読みたくなる。(^_^)v





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最終更新日  2010.03.18 07:57:31
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