全120件 (120件中 1-50件目)
【高知新聞 小社会】文士には志賀直哉型と谷崎潤一郎型がある。作家の山口瞳が長く続けた週刊誌のエッセーに書いている。全集の完結を機に55歳で廃業を宣言した志賀に対し、谷崎は70代半ばに「瘋癲(ふうてん)老人日記」を著すなど枯れることなく奮闘した、と。 書きたいことは書き尽くしたとしてスパッとやめるか。死ぬまで小説にこだわって書き続けるのか。どちらがより小説家らしいかと問われたなら、「谷崎の名をあげないわけにはいかない」と山口は書いている。 二つのタイプはスポーツ選手にも当てはまりそうだ。例えば、早くに引退したプロ野球巨人の元エース、江川卓さんを志賀型とするなら、49歳で今シーズン初勝利を挙げた中日の山本昌投手は谷崎型と言っていいだろう。 数々の球界の最年長記録を塗り替えた左腕。「オヤジの星」と言いたくなるが、日ごろの鍛錬が並のオヤジとは違う。自らの体を古いパソコンに例えるのは、一度休むと再び動き始めるのに時間がかかるから。だからオフの休みは元日のみ。「引退まで休みなし」が身上だ。 太くて長い野球人生の秘訣(ひけつ)は、基本を毎日、愚直に繰り返すことにあるとみた。〈六十年間生きてきて、知り得た真理が一つだけある。それは「此の世は積み重ねである」ということだ〉。山口瞳が作ったCMの名コピーを思い出す。 汗を飛ばし顔をゆがめて力投する山本投手の姿も、私たちに人生の真理を教えてくれる。(9月7日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~山本昌さんの偉業には喝采を送りたいが、話しのマクラに志賀直哉と谷崎潤一郎を引かれたのには面食らった。泉下の御両人も苦笑していることであろう。『書きたいことは書き尽くしたとしてスパッとやめるか。死ぬまで小説にこだわって書き続けるのか。』どちらを支持するかは、それはもう好みの問題だ。いずれにしても、定年をもってリタイアする(せざるを得ない)一般の人間にとっては羨ましい限りである。志賀のように『スパッ』とやめ、『死ぬまで』働く谷崎のような御仁を、最大級の敬意をもって眺めていられたらいいなぁ・・・ところで志賀も谷崎も素晴らしいが、近頃巷で見かける引退した老人(魑魅魍魎!)には辟易だ。やめたといって野に下り、またノコノコ舞台に上がってきたわけだ。その老醜をさらした姿は文字通り晩節を汚している。在任中は少なからず「人物」と言われた方々である。誠に興ざめの限りではないか。気を取り直して、さて、画像は『死ぬまで』指揮を執った朝比奈隆氏である。「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立ちたいと思います。」朝比奈氏はそう言って、九十を過ぎても舞台に立っていた。長生きした朝比奈さんの達観はこうだ。「一人の作曲家の交響曲を全部やってみる。そして愚直なまでに楽譜通りに演奏してみることから、何かが見えてくる気がします。」『何か』、朝比奈氏はサラッと言うが『長く生きて』『死ぬまで』励んだ人にしか分からない達観である。「演奏者は譜面に書いてあることをすべてやってみるべきで、譜面通りにやれば、ベートーヴェンでもブルックナーでも、いい音がするようになっているんですよ。」まさに『長く生きて』『多く舞台』に立った朝比奈氏だからこその言葉ではないか。若いうちは自分の才能に溺れるものだ。だから長く生きられなかった音楽家には得られない達観であろう。「ベートーヴェンの音楽はバイブルに比べることができると思います。一生涯かかっても、およそ出来上がったという気がしない深さがあります。演奏後、いつも自分の力の足りなさを思います。」九十過ぎの朝比奈氏にこう言われたら、我々の悩みなど微塵に思えてくる。さすがと言うしかない。朝比奈氏といえばブルックナーである。だが私は氏のブラームスをおすすめしたい。それは氏の九十を過ぎてからの演奏で、交響曲の第一番から第四番までしっかり残っているのだ。美老の音を是非お聴きいただきたいと思う。文士から話がそれてしまった。それにしても「文士」はすでに死語だ。『私たちに人生の真理を教えてくれる』のは、もはや野球選手だけである・・・ だから山本昌さんには『一回でも多く』マウンドに立ってもらいたい、そう思う次第だ。
2014.09.09
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】昭和天皇(しょうわてんのう)が植樹祭(しょくじゅさい)で石川県を訪(おとず)れた1983(昭和58)年のこと、砂丘(さきゅう)の植物(しょくぶつ)を観察(かんさつ)された天皇が記者団(きしゃだん)の数メートル先まで来て帽子(ぼうし)に手をあててニコッとされた。 顔見知(かおみし)りの宮内庁(くないちょう)の年配(ねんぱい)記者に気づかれたらしい。隣(となり)の記者が頭(あたま)をさげたので気がついた。だが、最初はただただ驚(おどろ)いた。われながら単純(たんじゅん)な話だと思うが、多くの人が指摘することでもある。それまでの昭和天皇観(かん)が一変(いっぺん)したのだった。 明治(めいじ)に生まれ「現人神(あらひとがみ)」として戦前戦中(せんぜんせんちゅう)を生き、この「天皇」の名の下(もと)に何百万(なんびゃくまん)の人々が亡(な)くなった。重(おも)い、などという言葉(ことば)では表(あらわ)しきれない歴史を背負(せお)った人がいま、昭和21年生まれの自分の目の前を通っていく。この感情(かんじょう)をどう記事(きじ)にすればいいのか身(み)の引(ひ)き締(し)まる戸惑(とまど)いだった。 「昭和天皇実録(じつろく)」が完成した。人間天皇の素顔(すがお)を描(えが)くものではなく昭和史の真実(しんじつ)を描くものでもない。だが、戦争(せんそう)も平和(へいわ)も繁栄(はんえい)も貧困(ひんこん)も破壊(はかい)も憎(にく)しみもあった昭和を一身(いっしん)に受け止めた「昭和天皇」の姿(すがた)が記されていることは間違いなかろう。 そこに迫(せま)る記述(きじゅつ)を探(さぐ)ってみたい。戦後の40年ばかり、同じ時代を生きた者(もの)の責任(せきにん)だと思う。(8月23日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~それを「昭和天皇観」というのかわからないが、私も同様の経験がある。もう40年近く前の事である。国体の開会式で、当時高校生の私は幸運にも、間近で陛下を拝する栄(もちろん私はそこにいただけだ)を賜ったのだ。陛下は生徒の一団にむかいニコッとされた。それまで天皇や皇室は次元の異なる話しと思っており、別段の興味もなかったが、陛下の微笑みをお見受けしてから陛下と皇室がイッキに身近になった。不敬をお許しいただきたいが、それ以来私は昭和天皇のファンとなった。だが、それは私だけではない。当時の仲間と会う折は必ずその話題となる。各々が「私を見て微笑まれた」と言ってきかないのだ。昭和天皇の微笑みは、それぞれが鮮明な記憶として、「青春アルバム」の一ページに刻まれているのだ。タイトルは「私の天皇陛下」、一団は皆、昭和天皇のファンなのである。余談まで。当時皇太子殿下であられた今上天皇は競技をご覧になるため、我が母校に来られた。授業はなかったのだが私はイソイソと出かけ、玄関の最前列に陣取り皇太子殿下をお迎えした。御無礼ながら時鐘氏の『身の引き締まる戸惑い』はおおいに共感できる。そしてそれこそが日本人を日本人たらしめる極めて健全な感情であると思うのだ。それは畏敬の念の発露であり、先祖から受け継いできた感情の歴史である。このたび「昭和天皇実録」が完成されたという。常人のはかり知れない重荷を負うて生きてこられた昭和天皇の、あの微笑みに思いを馳せ、実録の完成を心よりお慶び申し上げる次第だ。そして私も昭和のいくばくかを生きた者の責任として、時鐘氏と一緒に、そこに迫る記述を探ってみたいと思う。
2014.08.26
コメント(0)
【朝日新聞 天声人語】~木田元氏逝く~その文章は軟らかく、時にユーモアを含む。小中学校の同級生と久しぶりに会い、いまは大学の哲学教師だと近況を報告した。相手は驚き、そういえばお前は子どものころから忍術が好きだったと応じた。これにはまいった、と回想している。 「哲学なんて半分詐欺のようなことをやっていて」と語ったこともある。ものごとを疑い、相対化して見る。そんな思索の積み重ねが大きな業績に結実していた。哲学者で中央大名誉教授の木田元(きだげん)さんが亡くなった。85歳だった。 戦後、テキ屋の手伝いをしたり、米の闇屋をしたり。東北大に入学するまでは、綱渡りのような暮らしだった。それが人間的にも学問的にも幅の広さをもたらしたのだろう。20世紀を代表する哲学者ハイデガーの研究では、日本における第一人者だ。 未来を見通す目を持っていたというべきか。科学技術の肥大化に以前から警鐘を鳴らした。技術を制御できると考えるのは人間の「倨傲(きょごう)」でしかない。技術は人間の思惑を超えて自己運動していく。畏敬(いけい)しながら警戒せよ、と。 ハイデガーの文明観を踏まえて練り上げた木田さんの思想を3・11が裏付けた形だ。旧作「技術の正体」が昨年再刊された。それに添えた新たな文章で福島原発事故を嘆いた。人間の方が技術の部品と化し、ただ酷使されているという告発である。 若いころの遍歴からか「ケンカのプロ」を自任していた。晩年はだんだん仙人に近づいていると書いていたが、鋭い論考をもっと読みたかった。(8月19日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~日本を誇る大哲学者の木田元氏が亡くなられた。ハイデガーの研究者である木田氏はドイツでハイデガーとの面接の機会を自ら断ったという。『もし会えば、頭を下げてサインをもらって帰るのが落ちだ。一宿一飯の恩義を受ければ批判もできない。』武士のような人であった。でも包容力のあるあたたかな人であった。もちろん木田氏にはお会いしたことがないので、あくまでも私の感想だ。そして無礼を承知で書かせていただければ、木田氏には何か漠然とした連帯感を覚えないではいられなかった。後に小林秀雄と岡潔の対談を読んで、漠然とした連帯感が何かを理解した。木田氏も、小林秀雄曰く「こちら側」、の人間なのだ。そう思うと、一見無機質にも見える哲学書も、木田氏のあふれんばかりの情緒をベースに書かれたもの、そう思えるようになった。なお木田氏が小林秀雄を信奉する所以にこうある。ハイデガーの「存在と時間」との出会いで、『読んでもよく分からないが、何かすごく大切な事が書いてあることだけは感じられた。なんとしても読んで、分かりたい。』『簡単に分かるものはつまらない。分からないから面白い。』小林秀雄が、ゴッホやピカソと格闘した動因と同じであろう。木田氏は大学で猛勉強に暮れ「ハイデガー(岩波書店)」を書き上げた。実に出会いから33年の時を経ていた。さて、以下に産経新聞のコラム「産経抄」を添える。産経抄らしい筆致で綴られたコラムは木田氏を見送るのにふさわしい。いまだ「まわり道」途上の私は、コラムを読みつつ木田氏を偲ぶのある。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【産経新聞 産経抄】~ヤミ屋から哲学者へ~自分は何がやりたいのか、分からない。現代の多くの若者と同じように、20歳前後のころの木田元(げん)さんも悩んでいた。ただし、状況はかなり違っている。 旧満州で育った木田さんは、昭和20年の敗戦を、広島・江田島の海軍兵学校で迎えた。東京に出てぶらぶらしているうちに、テキ屋の手先となる。仕事は、焼け残った軍の倉庫から荷物をかっぱらってくることだ。 1年後には母親や姉、弟が引き揚げてきた。18歳の木田さんは、今度はヤミ屋となって、家族の生活を支えた。少し余裕ができると、地元山形の農林専門学校に入学する。といっても農業に興味はなく、ひたすら本を読む毎日だった。その中で出合ったのが、ドイツの哲学者、ハイデッガーの『存在と時間』だ。 なんとなく、冒頭の悩みに答えを出してくれそうな気がして、東北大学の哲学科に進む。木田さんの言葉を借りれば、「ちょっと1回読んでサヨナラというわけにはいかなくなっちゃった」。ハイデッガーの思想を理解するため、ヘーゲルやフッサール、キルケゴールと研究の範囲は、どんどん広がっていった。 木田さんが、ハイデッガーについての著作を出すまでに、30年を超える月日が過ぎていた。中央大学名誉教授の木田さんの訃報が昨日届いた。「まわり道ばかりだった」と、著作で人生をふり返った木田さんには、なによりまわり道の大切さを教わった。 「哲学の勉強なんかしてなんの役に立つのですか?」。一般教養の「哲学」の講義をしていたころ、学生によく聞かれたという。世のため人のためという意味なら、役に立たない。ただし、自分のやりたいことが見つかったという意味では、人生の役に立った。木田さんは、こう答えるのが常だった。(8月18日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ところで木田氏はこう言われている。『将来がどうであれ、何も見えない真っ暗闇よりは少し先が見えると良い。でもそこは若い人の領分で、私に口出しはできません。』巷は扇情と歪曲にあふれている。すべて余計な「口出し」からはじまる。特に、己の役割を終えた方々は、既に「若い人の領分」と心得、木田氏を見習い「口出し」は慎んでもらいたいものだ。たとえ紆余曲折はあろうが、日本は「まわり道」の末に正しいところにたどり着くのだ。何はともあれ衷心より木田元氏のご冥福をお祈り申し上げる。
2014.08.20
コメント(0)
【長崎新聞 水や空】~この坂のぼれば~長崎市と周辺地区をエリアにするケーブルテレビの地元番組「この坂のぼれば」をよく見る。カメラを持った男性ディレクターが1人で坂道を上りながら撮影する。 車が入らない狭くて曲がりくねった坂道。「お年寄りは大変だろうな」「さすがに眺めは素晴らしい」。ディレクター氏の自然体のつぶやきにゆったり時間が流れていく。通りかかった人との会話や路地に咲く草花なども楽しめる。 番組は斜面地で不便な生活を強いられながらも、地元への愛着と心の余裕を持って暮らす住民の姿を映し出す。だが、いつも気になるのは道脇に広がる空き地や空き家の存在だ。総務省の調べで、全国の住宅に占める空き家の割合が過去最高の13・5%に上り、本県は15・4%になった。坂の街の空洞化はさらに急ピッチで進む。 長崎市は全国に先駆けて対策を進めてきた。適用が倒壊など危険が差し迫った家屋に限定され、目に見える成果にはつながっていない。空き家を残した方が固定資産税が減免されることもネックとなっている。 斜面に立ち並ぶ住家は夜景となって観光にも貢献する一方で、空き家の増加が地域の安心と安全を奪い、過疎化に拍車をかけている。この坂の向こうにどんな世界が広がっていくのか。帰省した家族と一緒に考えたい。(宣)(8月14日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~老父と二人、初夏の長崎を旅した。コラムでいう「坂道」と「空き家」はその時に実感していたので、「水や空」を読み記憶がよみがえった。出先では早朝のひと時がなにより楽しい。修学旅行や騒がしい団体客に煩わされることなく、自由気ままに歩くことが出来るからだ。長崎では4時半から7時までひたすら歩き回った。無人の観光地もなかなかオツだと思うのだが、さていかがでしょうか(笑)市内では行く先々の路地で坂道が出迎えた。私は、旅行者は無責任が許される(ただし金を落とす者でなければならない)、そう思っている。だからコラム氏のように『この坂の向こうにどんな世界が広がっていくのか。』と町の行く末を案じることなどしない。ただ好奇心のみである。『この坂の向こうにどんな世界が広がっているのか。』高いところまでのぼり景色が広がると、何とも言えない爽快感を覚える。そして見下ろす景色に浸っていると、天下を取った気分になれるのだ。だから私は坂の上を目指すのである。長崎では何度ものぼりくだりをした。そしてコラム氏が指摘するように空き地や空き家が気になった。だが、旅行者の無責任と、息を切らした先の風景だったので、さもありなん、と思っていた。今にしてみれば、まったく奇異な感じはせず妙に馴染んでいた、そう感じるのだ。少し朽ち果てた空き家は、もはや風景の一部となっていた。なかなかオツな眺めであった、そんな気がするのである。通り過ぎるだけの旅行者は、誠にもって無責任だ。しかし空き家は長崎だけの問題ではない。そして社会的な状況や各々の持つ諸事情があり、一朝一夕に片付くものとも思えない。そうなるとまずは「帰省した家族と一緒に考えたい。」ということになるのか・・・つまりは新聞も旅行者同様ということだ。「空き家」「空き地」のようにそれが現実である。まずはどこぞの自治体で、妙案が出ることを期待したい。ところで齢八十六の父はかつて新聞人であった。だから出先の最大の楽しみは地方紙を読むことである。だが、このごろのは地方に行く度にその衰退を肌で感じ、本人は少なからずショックを受けているようだ。つまり、夕刊の廃刊だ。多くの地方紙が朝刊専門紙に成り下がってしまっているのだ。長崎新聞もしかりである。万難を排し、早目のチェックインで夕刊を楽しもうと考えた父の目論見は、まんまと外れてしまった。それにしてもコラムの「家族と一緒に考えたい。」という一文が、その衰退を象徴するように思えてならない。余談ながら、父の在籍した地方紙は今だ夕刊の発行を続けている。だがその実情はというと、夕刊だけで収支を考えた場合は限界を超えているそうだ。後は新聞人の矜持だけだ、父はそういう。ところで、長崎の翌日は佐世保に遊んだ。そこで宿泊したホテルでは「長崎新聞」を扱っていなかった。ホテルが全国チェーンだから中央紙が揃っていたのは納得できるが、地元「長崎新聞」は扱っていないのに、福岡の新聞を扱っていたのには違和感を覚えた次第だ。新聞も旅の情緒、そう思っている親子には、夕刊の廃刊ともども誠に残念な事であった。もちろん私は佐世保でも早朝の街を楽しみましたよ(^^)v
2014.08.18
コメント(0)
【東京新聞 筆洗】「無舌居士」とは江戸落語中興の祖、三遊亭円朝の戒名である。一九〇〇(明治三十三)年に六十一歳で没している。十一日は円朝忌だった。東京・谷中の全生庵(ぜんしょうあん)では恒例の「円朝まつり」が三十一日まで開かれ、円朝が怪談創作の参考にした幽霊画の数々が一般公開されている。「無舌」。話芸には欠かせない舌をいらない、使わないとはなかなか理解しにくいが、幕臣で円朝には禅の師匠でもある山岡鉄舟の教えに由来するのだという。舌で話すな。心で話せ。円朝は教えに従って「無舌」と号した。 円朝が目指した「無舌」の境地を推し量ることはかなわぬが、心で話せとは、その人物の心になれ、ということであろう。こんな逸話が残っている。 弟子が「品川心中」を演じた時のこと。心中の相談をする、「おそめ」と「貸本屋の金蔵」の演じ方を円朝が叱った。「死のうという男女が大声でスラスラ話の出来(でき)るものか、出来ないものか、考えたって分かりそうなものじゃないか。心なしで話すから少しも情というものが移らないのです」(永井啓夫『三遊亭円朝』)。 芸はともかく、世の中は無舌どころか、大声の時代かもしれぬ。「心なし」に大声を上げれば、ある程度の無理も通ると考える風潮がないか。 昔から全生庵で座禅をする政治家もいらっしゃると聞くが、「無舌」の境地に至った方のことはあまり聞かぬ。(8月12日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~噺家の「無舌」は新聞記者にとってはさしずめ「無筆」といったところか。「そこまで演ると、はなしが陰気になるから、あたしはあんまり好きじゃない」小島貞二氏の「志ん生文庫 楽屋帳」には、志ん生師の「品川心中」談がそう載っている。また志ん生師の「びんぼう自慢」を読むと、明治生まれの師も、円朝の噺は直接聞いたことがない、そう言っており、志ん生師は円朝作の落語は演っても、円朝を過剰に意識することがなかったのではないかと思われる。だから「あたしはあんまり好きじゃない」と言い切ったのであろう。それは噺を聞けば一目(耳?)瞭然だ。心中の話題も志ん生師の手にかかればあくまでも陽気な噺になるわけだ。陰気は野暮、陽気が粋、そういうことであろう。そして何より志ん生師の芸は「語り口」にこそあるのだ。噺のほうはというと、さて心中の段となったお染と金蔵。カミソリで死のうというお染に対して「それ、乱暴だ」「のどァ急所だよ」としぶる金蔵。では「裏の海にとびこもうか」というお染に金蔵は「海はいけねェ、風邪ひいてるから」と重ねてしぶる始末なのだ。志ん生師は、円朝のいう「スラスラ話」で、実に軽妙に語るのである。大家にして名人と言われた円朝ではあるが、志ん生師も向こうを張る大名人ということだ。ところで常々思うのだが、新聞のコラムは最後の結論(一行か二行)を引くがために延々と書き過ぎてはいないだろうか。特に、政治に対する不平不満をいう時は顕著である。おそらく、わかりやすいように平易な例を出す、という計らいなのであろう。だが志ん生師なら「そこまで書くと、はなしが陰気になるから、あたしはあんまり好きじゃない」そう嘆くことであろう。話しが野暮なのだ。もう少し粋にもっていってほしい、そう思うのだ。政治家の「無舌」もさることながら、コラムの「無筆」もいまだ遠い境地に思われる。東京新聞のコラムは「筆洗」という。まずはその名にしたがい筆を洗い直してみてはいかが。なんて野暮なことを言いました(笑)
2014.08.15
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】中国は「矛盾(むじゅん)」の本場(ほんば)である。どんな盾(たて)でも突(つ)き刺(さ)す矛(ほこ)。どんな矛も防ぐ盾。二つを売る男に客(きゃく)が聞いた。この矛と盾で戦うとどうなる?有名な「矛盾」の故事(こじ)である。 現代中国の生みの親・毛沢東(もうたくとう)に「矛盾論(むじゅんろん)」がある。社会も自然も対立(たいりつ)するもの同士(どうし)がぶつかることで前進(ぜんしん)する。資本主義(しほんしゅぎ)が抱(かか)える矛盾が新しい社会を築(きず)くのだと労働者(ろうどうしゃ)を鼓舞(こぶ)した世紀(せいき)の一冊(いっさつ)である。 習近平体制(しゅうきんぺいたいせい)で進む腐敗追放(ふはいついほう)も「矛盾」に満(み)ちている。1兆6500億円相当も蓄財(ちくざい)した党幹部(とうかんぶ)を摘発(てきはつ)した。しかし、一個人(いちこじん)がそこまでできる体制とは何か。なぜ今まで放置(ほうち)されてきたのか。追及(ついきゅう)すればするほど一党独裁(いっとうどくさい)の矛盾が浮(う)き彫(ぼ)りになる。 独裁国家特有の政治闘争(せいじとうそう)との見方も強い。しかし一党独裁は、20世紀初頭(しょとう)の貧(まず)しい労働者(ろうどうしゃ)が権力(けんりょく)を握(にぎ)るための時限立法的(じげんりっぽうてき)な制度ともいえる。国が豊(ゆた)かになれば矛盾が噴(ふ)き出すのは当然だろう。豊かさを享受(きょうじゅ)して制度は昔(むかし)のまま。皮肉な21世紀の「矛と盾」に思えないか。 資本主義の矛盾が社会主義を生んだとするなら社会主義の矛盾は何を生み出すのだろう。富(とみ)の偏在(へんざい)と粛清(しゅくせい)だけなら国民(こくみん)が哀(あわ)れだ。(8月4日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~渦中の人は周永康という。かつて『インド人もびっくり!』というCMがあったが、この金額にアラブの王様もびっくりしたそうだ。いわんや庶民の我々をや、である。さらに輪をかけて驚いたのは、報道によってその金額が異なっていることだ。1兆7000億円と報じているところあり、或は1兆5000億円と報じているところあり。時鐘は中を取ってか1兆6500億円。その差額たるや、ナント2000億円である!途上国の国家予算以上に相当する金額なのだ。いやはや、これはもう笑うしかない。「それを言っちゃあおしまいよ」寅さんでは、おじさんに「出てけ」と言われた時そう返す伝家の宝刀がある。「そこまでやっちゃおいまいよ」まさにそういう金額である。そしてまた、2000万のフェラーリを見て感動する金銭感覚と、2000億の違いを指摘する金銭感覚は、同じ金銭感覚でも別次元の量り事である。と思うのだ。それにしても、1兆6500億円(中をとる)を蓄財できる国家とは、いったい何であろうか。渦中の御仁は序列九位という。その上には八人が存在するわけだ。つまり御仁より強力な権力を有した者が八人いるわけで、一党独裁の社会主義国家において、同様なことが行われていると考えても無理はない。のでは?それが時鐘氏のいう『社会主義の矛盾』であろうか。何だか最後っ屁のようで手におえない。矛盾の闇はすでに想像を絶している。民主国家においては、闇の深遠推察すること能わず、ということであろう。皮肉にも彼の国から学んだことであるが「君子危うきに近寄らず」というではないか。こういう国家は遠巻きに見ているに限る、そう思う。ときに「周」はあまねく、或は、くりかえす、の意。蓄財があまねくくりかえした結果だとすると、「名は体を表す」ということではないか(これも彼の国の教えか!)。そして「習」は、ならう、である。推して知るべし。なお、北國新聞は明治26年8月5日創刊だそうだ。創刊記念日を心よりお祝い申し上げる次第である。
2014.08.06
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】先日亡(な)くなった富山出身の教育学者(きょういくがくしゃ)、森隆夫(もりたかお)さんが、7年前の本紙・北風抄(きたかぜしょう)に「未来日記(みらいにっき)」の話を書いている。 未来研究会(けんきゅうかい)に一人の老人(ろうじん)が入ってきた。「自分が死んだ後の社会がどうなるか知りたい。それが分からないと死にきれない」というのが入会(にゅうかい)の理由(りゆう)だった。未来は未知(みち)に満(み)ちている。受け身ではなく未来を創造(そうぞう)するため何かをしたい。それが「未来日記」の趣旨(しゅし)だった。 日本の未来はどうか。「死(し)に至(いた)る病(やまい)」との表現が飛び出した。人口減少(じんこうげんしょう)に危機感(ききかん)を持った全国知事会(ぜんこくちじかい)が非常事態宣言(ひじょうじたいせんげん)をまとめた際(さい)の会長の言葉である。もともとは聖書(せいしょ)にある言葉で「死に至る病とは、絶望(ぜつぼう)である」と続く。 人口が減って繁栄(はんえい)した社会はないといわれる。危機感を持つのは当然(とうぜん)であり、気持ちは分かるが「死に至る病」とは穏(おだ)やかではない。宣言は「国家(こっか)の基盤(きばん)を危(あや)うくする重大(じゅうだい)な岐路(きろ)」と言う。進む方向次第(ほうこうしだい)では救(すく)われるのである。 未来は希望(きぼう)に満ちていると無責任(むせきにん)なことは言わない。だが、絶望するほどの国ではない。各自(かくじ)が皆(みな)、未来のために何かできることをやっておこう。安心して次の世に行くためだ。(7月17日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『各自が皆、未来のために何かできることをやっておこう。』少し大げさかもしれないが感動で体が震えた。そして黙示的なものを感じた。まずは映画である。近来稀に見る感銘を受けた『クラウドアトラス』で、そのセリフはいまだ生き生きとして我が凡脳を刺激している。「命は自分のものではない 子宮から墓まで 人は他者とつながる 過去も現在も すべての罪があらゆる善意が 未来を作る」徳薄の身なれど、歴史を貫く思考や思惟、そして縁やらの、何かしらの力を感じないではいられないのだ。次に書物、養老先生の『自分の壁』である。「自分の命は自分のもの、という常識ができてしまった。それがいけない。」養老先生はそう語り「自分以外の存在を認識せよ」と諭している。それは形而下はもちろん、形而上の問題も含まれる。私はそれを「何かしらの力」であると思うのだ。時鐘氏のひとことは私には黙示であった。おそらく全国知事会のお歴々は、人口問題にキルケゴールをかけ、哲学的なオチをつけるほどにシャレてはいないはずだ。いたって真面目な議論の末の、悲愴感にあふれた発表である。だから、ペンは控え目だが、時鐘氏はほえたのだ。「未来は希望に満ちている!」と。時鐘氏は「何かしらの力」を感じているはずだ。そしてまた養老先生の未来も希望に満ちている。養老先生は、「日本人は状況依存なんです。」そう断じ、そして続ける。「それは西欧的な価値観でみると『いいかげん』とか『意見を持っていない』とかいわれるが、日本人って案外しっかりしているんですよ。」つまり、我が民族は状況に応じてしっかり対処するのである、だから我々の未来は希望に満ちている、養老先生はそういっておられるのだと思う。幸いなことに、『一人の老人』と『全国知事会』に養老先生は警句を与える。『自然をみるといい。』このごろ巷で跋扈する輩を象徴し、時鐘氏は『一人の老人』と『全国知事会』とひいたはずだ。方々は時間をたっぷりとお持ちである。さすればゆっくり自然を観察し、自然は自分の思うとおりにならない。(養老先生)と、この真理を学んでほしいと思うのだ。(それにしても「一人の老人」とは、まさにK元首相のためにある言葉ではないか!)最後に、『クラウドアトラス』では時鐘氏のいう「次の世」をこういっている。「死は扉に過ぎません 閉じたとき 次の扉が開く 私にとって天国とは 新しい扉が開くこと」「何かしらの力」を感じつつ、あくまでも謙虚に生きていきたい、そう思った次第である。とりとめもないままに。
2014.07.20
コメント(0)
【東京新聞 筆洗】〈そもそも恋をするならば文の二百も三百も 千四五百も遣(や)ってみて それでも叶(かな)はぬものならば ひとりで寝るが ましぢゃもの〉。江戸時代前期の歌人、烏丸光広の小唄という。「千四五百」は大袈裟(おおげさ)だろうが、江戸の人はそれほどたくさんのラブレター、恋文を書いた。効果的な恋文を書くための指南書もかなりの数が出版されていたという。内容も凝っており、天保期に出た「文のはやし」は「最初の附文(つけぶみ)にて返事のおそき時 おいかけて遣(つかわ)す文」「別れし後遣す文」など、状況に応じた、模範文を載せている。『江戸の恋文』(綿抜豊昭著・平凡社新書)に教わった。江戸の人は恋文を頼りにしていた。現代事情は、とんと分からないが、恋文は携帯電話やメール、LINE(ライン)に取って代わられたか。恋文の消える時代にあって最近発見された川端康成が一時期、婚約していた女性にあてた恋文の内容が実に新鮮である。「恋しくつて恋しくつて」「何も手につかない」「夜も眠れない」。飾らぬ文面に若い人は照れるかもしれぬが、そこが恋文の身上。しかも、この一通は投函(とうかん)されていない。青年川端の苦しい胸の内を思うと切ない。研究者には貴重な資料で、この女性がなぜ川端を袖にしたかの謎も解けるかもしれない。お気の毒なのは川端さんの方で、手紙を読まれ、どこかで身もだえしているはずである。(7月10日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~それは違う、そう思った。産経Photoで恋文の大きな画像をダウンロードできたので、ひねもす眺めて暮らした。「青年川端の苦しい胸の内を思うと切ない。」文豪 川端康成はそんなに安っぽくはない。後に別れた恋人をモチーフとして、川端は作品を書き上げている。名作「伊豆の踊子」もそうだ。それが文豪の執念であり、今日、川端を小説家とではなく文豪と称する所以である。恋文を眺め何度も読み返して私は確信した。投函されなかった恋文は、川端は公開されることを前提にそれを綴ったのだ。もしくは、書き上げてからそう段取りを付けたか。いずれにしても、いまこうやって我々は川端の「掌」の中に落ちたわけだ。「恋文」は川端の作品のひとつに他ならないのだ。したがってコラム氏の心配は無用である。「お気の毒なのは川端さんの方で、手紙を読まれ、どこかで身もだえしているはずである。」きっと・・・「掌」の中で踊る後世の我々を見て、身もだえどころか薄ら笑いを浮かべていることであろう。川端は自己を冷徹なまでに客観的に分析し、それを作品に仕上げ自身の美を表現した。だがそれは川端の心の奥底の部分であり、意図して厚いひだで二重三重に覆われているのだ。常人が容易にうかがい知ることなどできるはずはないのだ。おそらくコラム氏は、青春時代を振り返り自身の失恋経験をもって、文豪の心の奥底を推察されたのであろうが、それは恐れ多いというものだ。ちなみに川端は恋愛の不結果について、それを語るくらいなら死んだ方がまし、と言っている。ということで、「研究者には貴重な資料で、この女性がなぜ川端を袖にしたかの謎も解けるかもしれない。」アレコレ詮索するのは野暮でしょう。冒頭の小唄同様に、読書も「百遍義自ずから見る」というではないか。まずは恋文に浸ってほしい。抗わずに、素直に受け入れてほしい、そう思う次第である。それにしても、川端にしろ谷崎にしろ、昭和には大文豪がいたわけだ。すでに「文豪」という言葉が死語となった昨今の文壇を思うと、隔世の感を禁じ得ないのである。恋しくつて 昭和は遠く なりにけり
2014.07.13
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】落語(らくご)の人間国宝(にんげんこくほう)、桂米朝(かつらべいちょう)さんのロボットを見たことがある。師匠(ししょう)そっくりの「しゃべる人形(にんぎょう)」といえば身(み)も蓋(ふた)もないが「米朝アンドロイド」は少々(しょうしょう)不気味(ぶきみ)だった。 アンドロイドとは人間型(にんげんがた)ロボットのこと。ロボットでも人形でも人に似(に)せると親(した)しみがわく。ところが、似すぎるとある時点(じてん)から怖(こわ)くなる。これを「不気味の谷(たに)」という。ロボットと人間の間には深(ふか)い谷があるということだろうか。 女の子と成人女性(せいじんじょせい)にそっくりなロボット「コドモロイド」と「オトナロイド」が話題(わだい)になっている。「米朝さん」と同じ研究者(けんきゅうしゃ)が開発(かいはつ)したロボットで、人工知能(じんこうちのう)で話もできる美人(びじん)だが、暗(くら)やみの中で対面(たいめん)したらかなり不気味だろう。 人間型ロボットより怖いのは「ロボット型人間」である。言(い)われた通(とお)りのことしかしない。自分で善悪(ぜんあく)の判断(はんだん)ができない。探(さが)せば周(まわ)りにいくらでもいる。「ロボット兵器(へいき)」も現実(げんじつ)になった。SFではコンピューターが土壇場(どたんば)で反乱(はんらん)を起(お)こす有名な映画(えいが)もある。 近い将来(しょうらい)、人間がコントロールできない人工知能が登場しないとはだれが断言(だんげん)できよう。ロボット開発の話は楽しいが「オチ」が怖い。(6月30日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~うまいなぁ~。流れるような文脈に身をゆだね、当意即妙の結びに思わず膝を打った。「座布団一枚!」とはいえ、よくよく考えるに『ロボット型人間』や『人間がコントロールできない人工知能』よりも、もっと怖いことがあるのな気がしてならない。そしてそれは既に我々の社会を蝕みつつあるのだが・・・この「時鐘」の起承転結を、特に結びの「オチ」を理解できた方(唸ったり膝を打ったりという程度)は、実はそう多くはないのではないか。そう思えてならないし、合わせてその割合は今後急速に増えると思うのだ。だがしかし、それが現実的に何か問題なのかと言われるとそうでもない。不要な感覚は「時代」のうねりに淘汰されていくわけだ。そういう類の問題であろう。まあ憂いたところで人の疝気を頭痛に病むといわれるのが関の山であろう。そうはいってもここはオチではない。ときに米朝師匠。噺のまくらで橘家圓喬(たちばなや えんきょう)の名演について語っている。演目は「鰍沢(かじかざわ)」、真冬の話である。かの圓喬はそれを真夏の高座にかけた。クーラーなどない時代、寄席はうだるような暑さの中で客は袖をまくり襟を開き、汗だくになりながら扇子や団扇をつかっていた。しかし噺の佳境で圓喬が鰍沢の急流を語ると、寒気を催した客は扇ぐ手を止め、袖と襟をもどしたという。おまけに顔の汗も消えていた。そういう名演であったという。蛇足までに、志ん生師も著書「びんぼう自慢」で同じようなことを語っている。蒸し暑くなるこれから、そんな経験をしてみたいものだが、圓喬のような名人はもういない。残念ながら我が志ん生師も「鰍沢」は残しているが、何度聞いても寒気は催さない。さて、噺の方。オチは『お材木(お題目)で助かった』である。何事も最後が肝心、そういうことか。ではこのへんで。
2014.07.07
コメント(0)
【長崎新聞 水や空】~閣議決定~諫(いさ)める声も反対の叫びも安倍晋三首相には届かなかった。この国が守り続けた非戦の憲法が、別物に読み変えられようとしている。だが、こんな日だからこそ「そうは問屋が・・・」と強がってみる。 集団的自衛権の行使容認を決めた1日の閣議決定を支えている「行政府による解釈改憲の正当性」も、その先の「憲法解釈上許容される自衛権の概念」も、出発点は"安倍流"の憲法観だ。多くの憲法学者が厳しく批判している。だから、国会議員の皆さん、気付いてほしい。これから始まる「関係法制の整備」は、違憲立法のオンパレードかもしれない、と。その片棒を担いではならない。 これを認めたら立憲主義は骨抜きだ、それでは憲法にならぬ、と首相の論法にあきれている裁判官の人数は10人や20人ではあるまい。ならば、心積もりを始めてほしい。もし、その時が来たら、一分のすきもない違憲判決を書いてみせるために。 安倍首相はわが道を思うままに走った。でも、暴挙は暴挙、暴走は暴走だ。それを許さないために、立法権と司法権は別の機関が握っている。 向こう数カ月か数年か。問われるのはこの国の「三権分立」の真価だ。どの教科書にも太字で載っている大切な語句。それほどやわな代物であるはずがない、と信じる。(智)(7月2日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~25.369人30.035人10.182人46.701人29.122人11.926人合計153.335人この人数は何であるか。もちろんデモの参加者ではない。上からマツダスタジアム、倉敷球場、金沢球場、東京ドーム、京セラドーム、西武ドームの同日のナイター入場者数である。そしてまた、京都の上七軒の歌舞練場では芸妓や舞妓が客をもてなす恒例のビアガーデンがオープンし、予約で満席になったという。加えて大阪では道頓堀川万灯祭があり、酔客でおおいに賑わったという。これが実態ではないだろうか。だから国民の声と言われてもピンとこないし、何より当方は『諫める声』を出す気などもうとうない。7月2日付の朝刊コラムは、長崎新聞に限らずそのほとんどが怒り心頭を激烈な文章で綴っていたが、なんとも不平不満の嵐に思え、アプリの「たてコラム」を閉じたときは胸が悪くなっていた。駒沢大学の西修先生が先日の「正論」でこう喝破された。特定の方向に傾きすぎた大仰な報道は、一般にプロパガンダと称される。私は身を持って感得した。胸を悪くした原因は「プロパガンダ」である。なお西先生は結びでこう『諫め』ている。新聞の矜恃として、少なくとも事実の報道だけは心がけてほしいものだ。蛇足まで、『諫める』を検索するとこうあった。1.主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、改めるように忠告する。諫言(かんげん)する。「主君の愚行を―・める」2.いましめる。禁止する。ところで「徳島新聞 鳴潮」にはこうあった。『最近の世論調査では行使容認に約58%が反対し、賛成は約30%にとどまっている。』数字の出し方を産経新聞の五嶋氏が解説した。『産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査で、集団的自衛権行使を全面的に容認する回答が11.1%、必要最小限度の行使を認める回答が52.6%という結果が出ました。安倍政権は限定容認論の立場をとっているので、この2つの回答を合わせた63.7%が今回の与党の方針に賛成しているとみていいでしょう。一方、他紙をみると、単純に賛成か反対かの二者択一で問うている調査があり、「反対」が多いという結果が出ています。しかし、これでは集団的自衛権をあらゆる場面で行使することに反対なのか、きわめて限定的な行使にすら反対なのかあいまいです。本当の世論を浮き彫りにするためには、きめ細かな選択肢の提示が必要なのです。恣意(しい)的な調査結果を導き出さないよう選択肢づくりには工夫が欠かせません。』いやはや、てんこ盛りの大さじ加減ということだ。もうこうなると何が何だかわからない。ときに我が父(齢八十六)はかつて新聞人であった。テレビの報道で、デモを見てこうつぶやいた。「サッカーの応援した人たちが場所をかえたようなもんだ」我が父ながらうまいことをいうものよと感心していると、さらに続けた。「あの音は法華の太鼓か?それにしては題目が違うな。」感服した。老父、まだまだ認知症の心配はなさそうだ。そしてサッカーといえば、我が贔屓のコラム「北國新聞 時鐘」は、サッカーを引いた大人の文章が光った。以下、「時鐘」である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~一年の半分が過(す)ぎた。サッカーの試合でいえば、後半戦(こうはんせん)突入(とつにゅう)である。 立ち上がりに気を緩(ゆる)めると、痛(いた)い目にあう。ガンガン攻(せ)め続(つづ)けると、スタミナ切れとなる。W杯のテレビ観戦(かんせん)で、いろんなことを知る。わが一年の後半戦も、まだまだいける、という心構(こころがま)えを強く持って折(お)り返(かえ)したい。 前後半の戦いで決着(けっちゃく)がつかなければ、疲(つか)れた体にムチ打つ延長戦(えんちょうせん)。それでもラチがあかなければ、心臓(しんぞう)がひっくり返りそうなPK戦。W杯は、過酷(かこく)な戦いに入っている。除夜(じょや)の鐘(かね)が鳴(な)れば、ともかく幕切(まくぎ)れとなる一年の歩みは、まだまだ気が楽なようにも思えてくる。 折り返し点で振り返ると、半年の速さをしみじみ思う。サッカーでも、白熱(はくねつ)した試合は時間の長さを感じさせない。あっという間に一年の半分が過ぎたのなら、まずまずの時間だったのか。そう都合(つごう)よく考えて、前半を締(し)めくくるのも悪くはない。 眠い目をこすってのテレビ観戦で、あらためて知った。後半戦には大概(たいがい)、「まさか」のドラマが潜(ひそ)んでいる。お楽しみはこれから。正念場(しょうねんば)もやってくる。そんな心掛(こころが)けを頼(たの)みの杖(つえ)として、歩み出すことにしますか。(7月2日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~新聞のコラムは一服の清涼剤である。その事をおおいに感じさせてくれた7月2日であった。「お楽しみはこれから」である。でも「正念場もやってくる」、その事を忘れずに私も「歩み出すことに」したいと思う。当方、諫言する気などもうとうないが、他紙には「時鐘」のような謙虚な気持ちをもってほしい。そしてできれば、コラム執筆者はそれなりの大人にお願いしたい、そう思う次第である。
2014.07.03
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】~晶子に賛成先日、愛知県津島市で未発表の短歌が見つかり、歌人の与謝野晶子が再び脚光を浴びている。晶子は実は、100編近い童話も残した。▼「ほんとに貧乏でしたから、玩具は買ってもらえなかった」。長男の光さんは、幼い頃をこう振り返る(『晶子と寛の思い出』)。夜、子供たちが寝る頃になると、床の中に入って即興のおとぎ話を聞かせてくれた。翌日それを書き直して、作品にしていたらしい。▼晶子には、光さんを頭(かしら)に11人の子供があった。それでも、仕事のペースが落ちることはなかった。「やは肌のあつき血汐(ちしお)にふれも見で…」。一世を風靡(ふうび)した名歌の数々は、今も輝きを失わない。詩や小説を書き、「源氏物語」をはじめとする古典の現代語訳に取り組み、評論活動にも力を注いだ。八面六臂(ろっぴ)の活躍で、収入の少ない夫の鉄幹(寛)を助けて、火の車の家計を支えた。▼「お札の顔ぶれをそろそろ変えてみてはどうか」。正論欄で、文芸批評家の新保祐司さんが提言していた。五千円札の肖像に、今の樋口一葉に代わって晶子を採用するのは、大賛成である。▼平成26年版「少子化社会対策白書」によると、25~29歳の未婚率は30年前に比べて男性は16・7ポイント、女性は36・3ポイントも増加していた。また結婚しても出産に踏み切れない女性の多くが、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」ことを理由に挙げている。子育てと社会進出を両立させようとする、女性たちの応援団長として、晶子ほどふさわしい人物はいない。▼光さんによると、夫に先立たれた晶子は、毎日泣き暮らした。世の中の男たちは、お札の晶子の肖像を目にするたびに、こんなメッセージも受け取ることになる。「私のような女に、惚(ほ)れられてみなさい」(6月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~漱石の俳句(詳細はコチラ)といい、晶子の短歌といい、未発表のものが発見されるとワクワクする。「くれなゐの 牡丹咲く日は 大空も 地に従へる こゝちこそすれ」「春の夜の 波も月ある 大空も ともに銀絲の 織れるところは(ところぞ、とも読める)」晶子の歌は、内容もさることながら、文字にしたときに「綺麗」なのが特徴である。文字が実に見目麗しいのだ。もちろん口に出して読んだときの綺麗なことは言うまでもない。それが晶子の短歌であり、文学を芸術の域まで高めている。蛇足ながら、優れた短歌を詠んでも、芸術の域まで高められた方はそうはいない。小説、俳句もまたしかり。晶子はまた、自己の短歌を確立したように、自己の生き方も確立した。コラムから晶子の生き方を垣間見るのだが、自伝や文学アルバムを紐解くと、彼女の圧倒的な人生が満載である。そこに晶子の凄味を感じないではいられない。しかしそう思うと、そう簡単に「私のような女」がいるはずはない。そしてまた、そういう女性に愛された与謝野鉄幹という男性も、それはそれは飛びぬけて魅力的な人であったのだろう。つまり、お互いそうざらにはいない人であり、芸術同様に眺めているに限る域なのだ。ところでコラム中にある五千円札の肖像の件である。論文を抜粋した。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(前略)~お札の顔ぶれをそろそろ変えてみてはどうか。今、日本は大きく変貌しようとしている。政治や外交の面を見ても、第2次安倍晋三政権の誕生以来、日本の在り方が様変わりした感がある。それに伴い、日本の経済や社会の雰囲気もアベノミクス効果もあり、ずいぶんと活気と自信を取り戻しつつあるようである。日本の再生を象徴するものとして普段使っている紙幣の肖像が変わることは、人心に訴えるものがあるではないか。2020年東京五輪の開催も控えている。これを機会に世界中のさまざまな国から大勢の外国人が日本にやってくる。そして、彼らは日本の紙幣を手にすることになる。その時、このお札に描かれている人物はどういう人間であるかと思うこともあるに違いない。その問いに対して、日本人が誇りを持って説明できる人物であることが望ましい。もちろん、現在の野口英世、樋口一葉、福沢諭吉もそのような人物ではあるが、今後の日本の国家、あるいは国民としての進む方向性というものを勘案して、人物を一新することもいいことではないかと思う。あえて私案を示すならば、千円札は後藤新平、五千円札は与謝野晶子、一万円札は内村鑑三でどうだろうか。まず、千円札の後藤新平だが、後藤は満鉄初代総裁や内務大臣・外務大臣などを歴任した近代日本の大政治家である。東京市長にもなり、特に関東大震災直後、内相兼帝都復興院総裁として復興計画を立案した人物である。現在の東京という都市の骨格はその復興計画によるところが大きい。五輪の開催に当たって、今日の東京の基盤を作った人物として回想されるべきであろう。後藤は東北・水沢の出身で、東日本大震災からの復興という観点からも、注目されるべきだ。自治三訣(さんけつ)として「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう」という言葉を遺(のこ)したこの人物は、日本人に「自治」の精神が求められる、これからの時代に偉大な先人として歴史に刻まれるべきである。五千円札の与謝野晶子は、いうまでもなく歌集『みだれ髪』の大歌人で、近代日本の代表的な文学者の一人である。一葉より6歳年下の晶子は、社会における女性の活躍が一層期待される今後の日本にとって振り返られるべき名前であろう。一葉に代わる女性としては晶子がいいように思われる。一万円札の内村鑑三には、明治41年刊行の『代表的日本人』がある。札幌農学校の同期生、新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』などとともに、近代日本の代表的な英文著作である。この本は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人の人物をとりあげているが、上杉鷹山については、ケネディ米大統領のエピソードを思い出す。~(後略)(文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~新保先生の発想は見事である。私は、内村鑑三に関してかねて新保先生から学んだ。万札の内村鑑三は大賛成である。諭吉翁にはそろそろお退き願い、内村鑑三に載ってもらいたいと思う。デフレも脱却したことだし、万札の貫目が上がることであろう。そして樋口一葉にかわる与謝野晶子も大賛成だ。自身の生き方を確立した晶子は、まさにこれからの女性の手本ともなろう。願わくは、肖像画の脇に短歌の一つも載せてほしい。札の格調もあがるのではないだろうか。ときにこの時季、晶子はこんな楽しい歌も詠んでいる。鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな釈迦牟尼仏を「美男」を言い切るところが晶子らしいのだが、その胸中は、『でも我が鉄幹の方が美男よ』といったところであろう。晶子という女性はそういう人なのである!今日は雨の日曜となった。見ごろの紫陽花でも眺めながら晶子の歌に興じたいと思う。
2014.06.29
コメント(0)
【長崎新聞 水や空】~国会のやじ~2年ほど前の「時の人」を思い出す。民主党政権時の田中直紀防衛相。国会審議中、横にぴたりと付いた秘書官が、二人羽織さながらに模範答弁を耳打ちする。野党席から、やじが飛んだ。「腹話術をやめろ!」。 国民の代表の議論の場。品位が大事と分かっていても、記憶に残るのはこんな一幕だ。当意即妙のやじは、庶民感覚をユーモアでくるみ、政治家の失態、失言を一語で突くらしい。 東京都議会で、妊娠や出産の支援策を都に尋ねた女性都議に「早く結婚しろ」「産めないのか」などとやじが飛んだ。非難集中し、声紋分析まで持ち出されて観念したか、やじの主の一人という男性都議が謝罪し、会見で反省の弁を並べた。いわく「早く結婚していただきたいという思いがあった」。 応援や激励の意に取れなくもないが、議場では皆が笑ったというから、励ましと呼ぶのは苦しい。真意は置くとしても、二つのことは確かだろう。女性都議の発言の趣旨、内容に関心ゼロだったこと。性差別発言とは何か、まるっきり分かっていないこと。口は災いのもとだ。分からなければ言わないに限る。 痛いところを突くどころか、やじそのものが暴言になってしまっては、庶民感覚もユーモアも出る幕なしだ。他山の石とすべき人がいるかもしれない。(徹)(6月21日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~セクハラやじ事件は一件落着となるようだ。もちろん越前裁きにあらず、どうやら皆さんが寄ってたかってきめたようだ。「ではこのあたりで」という具合であろう。くだんの何某議員が深々と頭を下げた時に結果は見えた。この御仁は、若いのになかなかの老獪と読んだがどうであろう。深々と頭を下げてからはすべては茶番である。「早く結婚していただきたいという思いがあった」神妙な顔をして彼はそういった。信じる者は誰もいないはずだ。この一件について、知り合いの女性に感想をうかがうと、彼女は烈火のごとく怒っていた。同じ女性として、被害を受けた女性議員に共感を覚えたようだ。さもありなん、気持ちはおおいにわかる。地雷を踏んでも、いけしゃあしゃあと茶番を演ずる何某に同情の余地はない。とはいえ、私はなにか一つ釈然としない。報道自体が、というか話題の根本が間違っていないのか。私はそのことが気になってしかたがないのだ。ずっと以前から気になっていたことだが、そもそもどうして議会ではヤジが認められているのか、それが不思議でならず、だからセクハラやじ事件で「やじを認めないことにしよう」という意見がマスコミから出ない事に納得がいかない。マスコミ報道も茶番の延長線上にあるのではないか。「水や空」が突出しているわけではないが、マスコミは「まずはヤジありき」の論調である。ヤジはいいが内容がいけない、そういうことなのである。40年近く前の話だ。高校二年の一学期終業式、蒸し暑い体育館で校長は長々と演説をぶっていた。もちろん当時は熱中症対策などという概念はない。あまりの暑気で倒れる者もいた。たまりかねた友人が「はやくやめろ~」とヤジを飛ばした。体育館はヤンヤの喝采である。「諸君がそう言うのなら」と降壇した校長は、しかしヤジの主を突きとめ謹慎処分とした。友人は武勇伝のヒーローとして、こうやって後世まで語り継がれているが、処分を下した校長に対する敬意もいまだ抱いたままだ。我々はそれが正当な処分だと考えたからだ。なお余談がある。「はやくやめろ~」に続き別の場所から「そうだそうだ」のヤジも飛んでいる。ヤジとはそういうものなのだ。教育現場と議会を同列で語ることはできないかもしれないが、それでも私は人が何か話しているときに、そこがどこであれ話しを差し込むことは、それ自体がおかしいと思う。いわんやヤジをや、である。講話や訓示、そして演説も、まずは拝聴するのがスジというものではないだろうか。言いたいことはその後に言えばいいことだ。そもそも、それらにおけるユーモアとは発言者が起こすものである。受け手はそれを感じるものであって、決して自ら起こす(発する)ものではない、そう思うのだ。そして一番痛感していることがある。ヤジはコラムの指摘の通り『当意即妙』にある。字の如く、まずはその「妙」である。「妙」は社会を俯瞰してイキやオツやシャレをもってつかむわけだ。また「即」は「間」を意味する。その「間」は一瞬、それを逃せば気の抜けたビールになる。そうした「妙」と「間」のセンスを持ち合わせた者は、一流の世間師に他ならない。堅気がおよそ経験しないような豊かな人生経験を積んだ、いわばヤクザな人間なのだ。当節、そんな御仁はどこにいる?すでに過去の遺産であろう。ヤジを飛ばすに値する人は今や遠い昔なのである。それを、できないくせにやっている、そう思うのだ。時代が違うのである。コラム氏曰く、だから『分からなければ言わないに限る。』である。合わせて、ヤジを理解して受け入れる(ヤジも反応がヘンテコだと興ざめである)集団も、過去の遺産であることは言うまでもない。ときに、以前の結婚披露宴では、新婦のおじさんがいい味を出していた。酔っぱらったり歌(瀬戸の花嫁→娘よ)ってみたり、挙句にシクシク泣いてみせたり。そんな時には、間髪おかずひと声飛んだ。「いいぞ、日本一」あるいは「いよぉ、大統領」という具合だ。しかしそんな結婚披露宴はすでにない。仲人ももはや死語になった。つまり時代が違うのである。時代が変わり、ヤジを飛ばせる人も受ける人もいない。ここはしばらくヤジを封印しようではないか。いかがなものであろう。
2014.06.26
コメント(0)
【東京新聞 筆洗】小学校で授業を取材していて目を見開かされたことがある。授業の課題は、小さな虫を観察し、なるべく詳細に描くこと。先生のひと言に、舌を巻いた。「この虫と同じ大きさの小人になったつもりで見て、描きましょう」。観察するということの基本を教わった気がした。 東京・神田の岩波ホールで上映中の映画『みつばちの大地』は、蜂と同じ大きさの小人の視点で、その世界を見たドキュメンタリーだ。小型ヘリコプターや内視鏡を駆使して撮影した鮮烈な映像は、蜂と共に働き飛んでいる気分にさせてくれる。 ミツバチは飛び回り、花を受粉させることで世界の農業生産高の三分の一を支えている。一匹の蜂が生涯で集める蜂蜜は小さじ一杯に満たぬほど。九百グラムの蜂蜜のために群れは地球を三周するほどの距離を飛ぶというから、あの甘さの何と貴いことか。 だが、そんな蜂たちの現在の労働現場はまるでブラック企業だ。米国の工業化した農業で受粉を担う蜂は、自然の生理を無視した働き方を強いられ、薬漬けにされ、外来の感染病におびやかされ、次々と大量死している。 コスト競争で大規模化を追求してきた米国の養蜂家は映画の中で「蜂を思いやり世話する養蜂の魂を失った。ミツバチとの絆を失ってしまった」と苦悩を打ち明ける。 ミツバチの大きさになって世界を眺めれば、その歪(ゆが)みもまた大きく見える。(6月21日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~コラムを読み、おおいに得心した。細かいことを突かせたら東京新聞(中日新聞)は一流である。常々、感心しながら目を通していた。そして今日、目から鱗が落ちたのだ。なるほど、そういうことであったのか!コラム「筆洗」の眼目は最後の一文につきるのだ。『ミツバチの大きさになって世界を眺めれば、その歪(ゆが)みもまた大きく見える。』これこそが東京新聞の根幹であろう。おそらくこの精神をもって記事を起こしているのだ。だから細部も歪みも見えてくるというものだ。だがしかし・・・細部や歪みしか見えない、そういうこともあるのではないか。そしてまた、それらは概ね大勢に影響のない場合が多いのではないか。コラム氏はミツバチになって世を眺めるという。でもガリバーのような大男になって世を眺めたらどうであろうか。ミツバチのように細部や歪みは見えないかもしれないが、それらの全体が見えてくるはずだ。そして全体が見えれば流れをつかむことができる。大男のガリバーはこう見るのだ。ぼんやりとしか見えない細部や歪みは、それがどんなに著しいものであっても事象に過ぎない。事象には必ず原因がある。事象は原因につながっている。そしてガリバーは気づくのだ。「これが真実である!」ガリバーとは少し違うが安岡正篤先生は「思考の三原則」を垂れておられる。第一、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること第二、物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に全面的に見ること第三、何事にもよらず枝葉末節に捉われず、根本を考える謹んで筆洗氏に進言申し上げる次第だ。細部や歪みも結構であるが、「思考の三原則」をもって大局的な見地から真実を捉えてもらいたい。なお安岡先生は、加えてこう言っておられる。「目先だけで見たり、一面的に考えたり、枝葉末節からだけで見るのと、長期的、多面的、全面的、根本的に考えるのとでは大変な違いがある。物事によっては、その結論がまったく正反対になるということが少なくない。」ゆめゆめ忘れることなかれ!
2014.06.24
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】ブラジルとの時差(じさ)は12時間。午前7時の試合開始(しあいかいし)は、現地では午後7時になる。応援(おうえん)で疲れたノドに、おいしいアルコールが待つ。 テレビ応援は、そうはいかない。我慢(がまん)して一日を始めることになる。時差が何とも恨(うら)めしい。小文も、読者の目に触(ふ)れるまでに紙面づくりや配達(はいたつ)という「時差」がある。大一番(おおいちばん)の行方(ゆくえ)を予知(よち)する魔法(まほう)があれば、と痛切(つうせつ)に思う。 それでも確かなことが一つ。ギリシャ戦の後も、大勢の日の丸応援団がスタンドのゴミ拾(ひろ)いに汗を流し、注目を集めるだろう。褒(ほ)められて悪い気はしないが、確か16年前のW杯初出場でも、ゴミ拾いは「世界の注目を浴びた」はず。もう連続5度目の出場なのに、まだ珍(めずら)しいものを見るように報(ほう)じられる。何を今さら、と思うが、わがゴミ拾いマナーは、ホンダやカガワほどの知名度(ちめいど)を得てはいないのだろうか。 「日本は礼儀(れいぎ)では多くの点を得た」といった褒め言葉には、何かが奥歯(おくば)に挟(はさ)まっている。試合の得点も自慢(じまん)できる強豪(きょうごう)に、早くなりなさいよ、という励(はげ)ましか。 強くなってこそ、立派なマナーも有名になる。勝ってナンボの厳(きび)しい世界、と思い知る。(6月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~勝負の結果はすでに知るところである。時鍾氏は大我慢をして一日を始めたことであろう。想像するに難くはない。さて、第一線終了時からマスコミがこぞって日本人サポーターの「ゴミ拾い」について報じているが、どうも釈然としないでいた。そうなのだ、以前のワールドカップで『ゴミ拾いは「世界の注目を浴びた」はず』である。まさに『何を今さら』なのである。どうしてそれを言わないのか、だから釈然としないでいたのだ。よくいう「グローバルスタンダート」としては、ゴミ拾いは『珍しいもの』なのであろう。だから海外のメディアが何度も報じることはやむを得まい。だがしかし、日本のマスコミがこぞって美談のごとくそれを報じるのはスッキリしない。というか疑問を感じないではいられない。本当に、海外メディアの報道に『何かが奥歯に挟まっている』と感じないのであろうか?穿って見たとき『試合の得点も自慢できる強豪に、早くなりなさいよ』そういう声が聞こえないのであろうか?それ以前に穿った見方を放棄しているのだろうか。もしくは恣意的に、あえて「美談」として扱っているのであろうか。時鍾氏は正鵠を射た!『強くなってこそ、立派なマナーも有名になる。勝ってナンボの厳しい世界』いつもながら、当たり前のことをたんたんと語る時鍾氏に、私は真の大人を見る思いである。おせっかいながらA社やM社のコラム氏は三歩さがって時鍾氏の教えを乞うべきである。(自社の思想をお仕着せするばかりのコラムに未来はない。おせっかいついでにそう申し上げる次第だ。)それにつけても、時鐘氏の真の大人の所以は先のコラムで納得した。以下は6月19日付の「時鐘」である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「互(たが)いに譲(ゆず)らず」。サッカーW杯で強豪同士(きょうごうどうし)のブラジル対メキシコ戦が引(ひ)き分(わ)けになったのを見て思い出した言葉(ことば)だ。 スポーツ面の見出しをつける仕事をしていたことがある。野球やサッカーで引き分けになった名勝負(めいしょうぶ)を、こう表現(ひょうげん)して年配(ねんぱい)デスクに注意された。勝(か)ち負(ま)けを決めるスポーツに「勝ちを譲る者(もの)などいるわけがない」というわけ。 スポーツに限(かぎ)らず勝負ごとは戦(たたか)いである。皆(みな)が命(いのち)がけなのだ。戦後派(せんごは)の君たちは認識(にんしき)が甘い、という話にまで展開(てんかい)するのだった。そんなオーバーなと思わぬでもなかったが、厳(きび)しく言葉を選(えら)ばなければならないことを知った。 平和(へいわ)な戦いであるスポーツは国と国が戦争(せんそう)をしないために役に立つ。政治は最高の「平和のための戦い」である。国民(こくみん)の生命財産(せいめいざいさん)を預(あず)かっている政治家は国際間(こくさいかん)の戦いで譲るわけにはいかない。最初から譲歩(じょうほ)する姿勢(しせい)を感じさせては勝負にならないのである。 日本の国会(こっかい)でも「双方(そうほう)譲らず」が続いている。いや、そう見えるだけなのか。政治家と政党は自らの命をかけているのか。この試合(しあい)に政治的(せいじてき)引き分けはない。ファンが許(ゆる)さないだろう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~真の大人の影にはさらに真の大人(年配デスク)がいたわけである。当たり前のことであろうが、妙に納得した。現時鐘氏は、その手法から気概までを旧時鐘氏から学んだわけである。『スポーツに限らず勝負ごとは戦いである。皆が命がけなのだ。』旧時鐘氏の唱えたこの絶対真理は、現時鐘氏によって『勝ってナンボ』と言葉がわかり、今もコラム「時鐘」に受け継がれているのだ。私は現時鐘氏同様、戦後派であり『認識が甘い』世代である。ここは謹んで旧時鐘氏の薫陶を仰ぎたい。話しは変わるが老父(齢八十六)はテレビ観戦しながらこうつぶやいた。「技術も体力も日本人が劣っているわけではないのだから、死ぬ気で戦えば負けるはずはない」「死ぬ気」とはもはや死語であり、何とも大げさな感じはするが、それもまた真理であろう。それこそが日本人のスタイルであったはずだ。いわく、死ぬ気でばんばる、である。旧時鐘氏や我々の父の世代は、政治も経済もスポーツもそうやって世界に近づき、そして勝ってきたはずだ。「楽しんだ」とか「勇気をもらった」という感覚は『認識が甘い』と一蹴したであろう、そういう世界だ。幸い、昨日のニュースを見ているとゴールキーパーが吠えた。「死ぬ気でやる!」その覚悟やよし。彼は日本のゴールを文字通り死守してくれるはずだ。攻撃陣は何憂うことなく攻めに徹してほしい。さすれば一縷の望みもつながることであろう。頑張れ日本。とはいえ、私は試合よりも時鐘氏が試合結果をどう扱ってくれるのか、それが楽しみである。
2014.06.22
コメント(0)
【太宰の桜桃忌に寄せて 栗木京子】太宰は死に際して、遺書と1枚の色紙をしたためており、色紙には、「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という短歌が書かれていた。「水」「濁り」「影」「雨」といった言葉が暗い心情を表しているようで、太宰自身の詠んだ辞世の歌と誤解されがちだが、実は彼の歌ではない。明治から大正にかけて活躍した歌人・伊藤佐千夫の歌なのである。佐千夫は正岡子規に師事して「馬酔木」や「アララギ」を発刊した人物。小説「野菊の墓」の作者でもある。「池水は」の歌は、佐千夫が世をはかなんで詠んだものではない。現在の都内江東区に住んでいた彼は、近くの亀戸天神にたびたび足を運んだ。その折に境内の藤の花の美しさに魅了され詠んだのがこの句の歌なのである。(6月16日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~本日、6月19日は太宰治の桜桃忌である。毎年、女性を中心にした熱心なファンで墓前に人垣の花が咲く。鬱陶しいなぁ、などと漏らしたら叱られそうだ。彼岸でも、ニヒルな薄ら笑いを浮かべる太宰なのである。それにしても何故、太宰は伊藤佐千夫の短歌を残したのだろうか。太宰ほどのナルシストには、少し不自然な気がする。ましてや、作者の意図を無視した用い方である。そしてなにより辞世の一つや二つを詠めない太宰ではないはずだ。あれこれ考えをめぐらしていると、また太宰の薄ら笑いが見えてきた。やはり一筋縄ではいかない御仁である。死してなおその影響力や大、何か太宰の術中にはまったようでくやしい。ときに画像の『恥の多い生涯を送って来ました。』は「人間失格・第一の手記」の冒頭である。太宰の直筆原稿から一部を拝借した。「人間失格」は太宰の黙示録と言えなくもないのだが、私の書架には時を経て三冊となった「人間失活」がある。私は決して太宰のファンではないが、その時の表紙(装丁)に興味がわいて求めたものだ。薄い文庫でも同じ背表紙が三冊並ぶと存在感がある。そしてその奥にはいつも太宰の薄ら笑いが見える・・・バー「ルパン」で三島由紀夫が太宰にかみついたという話は有名だ。「僕はあなたが大嫌いだ!」私には三島の胸中を察するに難くはない。(ただし、その後の太宰の薄ら笑いも容易に推察される。)栗木さんのエッセーを読み、私は37年前にもとめた初代の「人間失格」を紐解きしばし読み耽った。そして気がついた。また太宰の術中にはまってしまったのだ。「僕はあなたが大嫌いだ!」いくら毒づいても太宰は薄ら笑いを浮かべるだけである。さて、太宰が用いた伊藤佐千夫はすばらしい短歌をたくさん残している。子規門下だけあり、写実の効いた歌がとても多いのだ。そして健全で生き生きしている。伊藤佐千夫は私の故郷に縁があり、故郷を詠んだ歌が多数あることからとても身近に感じている。『み仏に 救はれありと 思ひ得ば 嘆きは消えん 消えずともよし』伊藤佐千夫太宰は伊藤佐千夫のこの短歌を知っていただろうか。薬と女性に溺れた人間は、この歌をどう読むであろうか。それにつけても、太宰が伊藤佐千夫を引いたのはなぜだろうか・・・桜桃忌に際し、なにはともあれ太宰のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
2014.06.19
コメント(0)
【河北新報 河北春秋】「元来、国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なものであります」。夏目漱石の有名な講演『私の個人主義』の一節。今、読み返しても、脳裏に幾つかの国々を浮かべながら「確かに」と納得する。日本人は今でも漱石を喜んで読み、共感し、時に発見をしている。難解さとは無縁でテンポのいい文章も好まれる理由だ。小説、随筆、漢詩、評論。仕事は多岐にわたったが、意外にたくさんの俳句も作っている。〈腸(はらわた)に春滴るや粥(かゆ)の味〉は、大量吐血で生死の境をさまよった「修善寺の大患」の後の作。ようやく食べ物らしい食べ物にありついて、春が滴るようだという。未発表の俳句2句が見つかったという記事が、きのう載っていた。同僚の教師に宛てた手紙に添えられていた。〈花の朝 歌よむ人の 便り哉〉〈死にもせで 西へ行くなり 花曇〉。親友の正岡子規の影響で、さかんに句作に取り組んでいた時期の作らしい。長い小説でも無駄なことは一行も書かなかった人と評される。再来年は没後100年。記念事業や回顧展などの準備が、既に各地で始まっている。これまで縁遠かった人も文豪の作品に親しむいいきっかけになりそうだ。(6月12日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~小説は読んでいなくても「夏目漱石」の名前を知らないものはまずいない。深夜の繁華街をたむろするアンちゃんたちも、おそらく安倍晋三は知らなくても夏目漱石は「聞いた事ある」くらいに言うはずである。しかし「こころ」を読んだことがある人でも、漱石が俳句を詠んでいたことを知らない人は実に多いのだ。漱石の俳句は写実がきいた素晴らしいものである。その実、師匠格の正岡子規も「これは俺よりうまい」と心胆を寒からしめたのではないか。ご参考まで、漱石の句は吟遊映人でも扱った。『某(それがし)は 案山子にて候 雀どの』(コチラ)『日あたりや 熟柿の如き 心地あり』 他四句(コチラ)『秋暑し 癒えなんとして 胃の病』(コチラ)脱線するが漱石はもちろん小説は外せない。定番中の定番『坊っちゃん』の記事はコチラから。そてにしても、冒頭の一文は正鵠を射ている。「詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。」この、物事をうがつ見方が大作家たる所以であろう。それにくらべ、『脳裏に幾つかの国々を浮かべながら「確かに」と納得する』とは、コラム氏は実に控え目だ。ここはガツンと言ってほしいところなのだが・・・さて、漱石の未発表の句がふたつ見つかったという。物騒で暗い話題と勝った負けたの軽薄な話題が多い中で、誠にほのぼのとして明るく健全で、そして知的好奇心を満たす話題ではないか。コラムに付け加えると、「同僚の教師に宛てた手紙」とは、漱石が五高に赴任する折、「同僚の教師」は俳句付きの手紙をよこし、そこに宛てた礼状である。漱石も応えて句を詠み添えたわけだ。寺田寅彦を読むと漱石のひととなりはよくわかるが、こうやって手紙をしたため一句添えるところに、漱石の丁寧で真面目な人柄がわかるのである。■花の朝 歌よむ人の 便り哉■死にもせで 西へ行くなり 花曇何より句自体が平明で直截ではあることがよい。達筆な筆は読めないが、俳句の内容はわかりやすいのだ。没後100年は再来年とか。今から期待したら鬼と漱石ともに高笑いされそうだが、東京、松山、熊本では官民が一体となって100年を記念する一大イベントを企画してほしいものだ。こちらは、事あるごとに全集を紐解き、作品をおさらいしていきたいと思う。
2014.06.17
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】サッカーW杯本番(ほんばん)が近づき、「高まる緊張(きんちょう)」が報じられるが、今回は緊張も並大抵(なみたいてい)ではないらしい。現地の日本総領事館(そうりょうじかん)が治安(ちあん)説明会(せつめいかい)を開いた、という小さな記事が出ていた。 大事なのは強盗対策(ごうとうたいさく)で、「もし襲(おそ)われても抵抗(ていこう)するな」。新興国(しんこうこく)の優等生(ゆうとうせい)としてW杯や五輪を誘致(ゆうち)した国に、いつのまにか「問題児(もんだいじ)」が増(ふ)えた。命あっての物種(ものだね)という物騒(ぶっそう)な緊張が、大会に加わる。 仲良(なかよ)きことは美しきかな。話せば分かる。そう教わってきた私たちには悲(かな)しいことだが、広い世界には話しても通じない物事が幾(いく)らもある。W杯前夜の小さな記事が、そう教える。 地球の反対側だけでなく、近ごろは、隣近所(となりきんじょ)からも「問答無用(もんどうむよう)」というけんか腰(ごし)の声が絶え間なく飛ぶ。だから、国のリーダーの「握手会(あくしゅかい)」を急げ、というもっともらしい意見が出るが、話しても分かり合えないことだってある。そう腹(はら)をくくる方が、賢(かしこ)いようにも思えてくる。 幸(こう)か不幸(ふこう)か、今回も治安対策無用の自宅観戦(かんせん)。「テレビ漬(づ)け」と文句が出そうだが、競技場外に渦巻(うずま)く国際情勢を学ぶ良い機会にもなる。そんな屁理屈(へりくつ)を用意して、声援(せいえん)を送ることにする。(6月8日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『仲良きことは美しき哉』久しく目にすることも耳にすることもなかった。おかげで日曜の午後は武者小路実篤を紐解いて過ごすことになった。幸か不幸か小生、齢半世紀を遠に過ぎても、武者小路に辟易するほど人生に毒されてはいないようで、三読しても感動がわき、胸に熱いものがこみあげるのであった。まずはその機会を与えていただいた時鐘氏に感謝である。余談であるが武者小路は『君は君 我は我なり』とも書いている。白樺派が誤解されるむきがあるが、その本質はこういうことなのだ。自己を確立した大人の世界なのである。コラムを読んで思った。つまり、君子危うきに近寄らず、である。してみると時鐘氏は君子である!(だからいつも安心して読んでいられるわけだ!)このたびも正義ぶることなしに正鵠を射てみせた。そしてまたどこぞのコラムのように、高みから見下ろすような視線も、卑下するような情けない視線も微塵もない。武者小路の「大人の世界」である。何より安心できるのは、時鐘氏が醒めていることであろう。文章を書く上で最も必要な態度であることはわかっていても、それがなかなか難しいことである。(こうやって、熱くなって持ち上げてしまうのだ・笑)ただし時鐘氏、冷たい人間ではない。寅さんの機微を、行間から感じるものである。決して「それを言ったらおしまいだよ」ということはないのだ。さて、前にも書いたのだが私は石川県には縁もゆかりもなく、北國新聞にも何の関係もない。だがコラム「時鐘」は「たてコラム」を通して毎日読んでいる。(「たてコラム」はスマホのアプリ。新聞の休刊日以外は毎日必ず使っている。小生のスマホで一番頻度の高いアプリである。)「たてコラム」に登録したコラムは三十、その中で「時鐘」は日本一の新聞コラムであると私は思う。そしてこのたびその認識を新たにした。それにしても、石川の人々は目覚めのひとときを、知的満足を満たしながら過ごすことができるのだから、なんと幸せなことであろうか。その一点だけでも石川に住む価値があると真剣に思う。残念ながら私の住む地では、多くの目覚めを不平不満で過ごさなければならない。朝一の興ざめは、論説主幹がA新聞から招聘された所以である。ときに武者小路。志賀直哉に送った色紙にこう書いている。『君も僕も獨立人、何年たつても君は君 僕は僕』小生、君子には程遠く、残念ながら武者小路と志賀の関係のような友人もいないが、独立人たる大人ではあるつもりだ。時鐘氏、もとい、時鐘師、を見習いなまじりを決して世の中をしかと見つめていたいと思のである。
2014.06.11
コメント(0)
【神戸新聞 正平調】自由律の俳人、尾崎放哉(ほうさい)は一時期、須磨寺でお堂の番人をしていた。「仏にひまをもらつて洗濯してゐる」。そのころの作だ。参詣客相手に忙しい日が続いたのだろうか。たまの休みを「仏にひまをもらう」と詠むおかしみに、口元が緩む。先日、梅雨入りのニュースを聞き、そういえば梅雨の晴れ間の青空は、お天道さまからの頂き物のようだと思いながら、曇天を見上げた。予報では6月は雨が少なく、7月に入ると長雨に転じるそうだ。大雨、ゲリラ豪雨、土砂災害。最近の各地の被害が連なって、頭の中で危険信号をともす。この夏は異常気象をもたらすエルニーニョ現象発生の可能性が高い。梅雨明けが8月にずれ込む恐れもあり、南の海上では積乱雲の発生がやや活発になるという。ということは台風の数も増えるのだろうか。「天気図の衣替え」というのを、気象予報士のコラムで読む。天気図には夏用と冬用があり、5月1日から夏用に変わる。紙面を繰ってみるとその通りだった。列島が移動し南の海が広くなっている。これからそこに、台風の記号を書き入れる機会が増える。「氷店(こおりみせ)がひよいと出来て白波」(放哉)。気がつくと、須磨の浜で氷屋が商売を始めた。沖に白い波と青い海。あれこれ気をもむばかりでなく、夏の風景を楽しむ心も持ちたい。(6月6日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思えばさびしい生活であった。』放哉を慕う山頭火は、実は放哉が西光寺南郷院に入るより前の三月に、瑞泉寺に入っていた。望月義庵(人物なり!)を導師に出家得度し、法名を耕畝(こうほ)と言った。山頭火は味取観音堂(みとりかんのんどう)の堂守生活を『しづか』で『さびしい』と綴っている。山頭火を代表する一句はその時のものだ。松はみな枝垂れて南無観世音ときに放哉はコラム氏の説明によると「参詣客相手に忙しい日」と、実に勤勉に過ごしているようであるが、山頭火はというとこうであった。ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いているどうやら融通坊主(或は八五郎坊主)であったらしい。そして大正十五年の四月、山林独住の生活に耐えかねて観音堂を去り、一鉢一笠(いっぱついちりゅう)の旅に出るわけである。最も知られた一句はこうして詠まれた。分け入つても分け入つても青い山なお、添え書きには「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅にで出た。」とある。山頭火の無限のさみしさにふれると、はたして放哉の「仏のひま」にもおかしみを感じることはできない。(ちなみに放哉は同月、西光寺南郷院で逝去している。)コラムの放哉ネタに接し、我が脳にある山頭火スイッチが入り、全集を紐解いてはしばし時間を費やした次第だ。記事がコラムに関係なく恐縮、南無観世音菩薩(^人^)話しは変わるが尾崎放哉が番人をした須磨寺の坊さんの話。相撲好きが高じ還俗して「すてごろも」という相撲取りになったというのは本当だろうか。雀枝師の落語(宿屋仇)に出てくるのだが・・・出家に耐えかね出奔する山頭火ともども、誠に楽しい御仁である。余談の余談であるが、この期に及んでというか、満を持してというか、桂枝雀師のDVDシリーズが新たに発売されるという。小生、関係者ではないが、これは揃えて損はない。
2014.06.09
コメント(0)
【山陽新聞 滴一滴】かつて歴史の教科書で学んだ「定説」が近年、塗り替えられているのに気づくことが多い。例えば大正時代に総理大臣を務めた山本権兵衛。覚えた名前の読みは「ごんのひょうえ」だった。 今で言う公務員改革に実績を挙げたが、日本史の教科書に、その名を残したのは、皮肉にも疑獄事件による。軍艦の購入をめぐる海軍高官の汚職疑惑・シーメンス事件で退陣した。ちょうど100年前の出来事だ。 独特の読みなので、妙に記憶に刻まれているが、今は「ごんべえ」が正しい読みとされる。遺族などからの聞き取りの結果という(「もういちど読む山川日本史」山川出版社)。 そもそも教科書に書かれていることは「通説」と指摘するのは東京大学史料編纂所の山本博文教授(津山市出身)だ。新説だったものが時間を経て有力となり、さらに通説となって教科書は書き換えられる。平成に入ってから、これまでの研究成果が反映されて書き換えが進んでいるという(「歴史をつかむ技法」新潮新書)。 「大和朝廷」は「ヤマト政権」、「仁徳陵古墳」は「大仙陵古墳」、「吉田兼好」は「卜部兼好」。山川日本史には従来、定説と思っていたことへの疑問や書き換えられた事例が多数掲載されていて興味は尽きない。 歴史に論争は付き物だ。「権兵衛」の一件からは、そんな教訓も学び取れる。(5月24日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『だからどうしろというの?』耳の奥で桂枝雀師匠がつぶやく。お馴染のマクラである。なるほど、山本権兵衛は「ごんのひょうえ」ではなく「ごんべえ」が正しい読み方なのだ。おそらく膨大な時間をかけてそういう結論に至ったわけだ。でも、だからどうしろというの?つまり、「興味は尽きない」という個人の話をしているのかしらん?それならそれでいいのだが・・・(余談ながら私は大の歴史好きです!)小林秀雄は、岡潔との対談(人間の建設)の中で、本居宣長を引き歴史についてこう語っている。『本居宣長さんという人は歴史家としてはペケですな。なんにも掘り返さないんです。掘り返しちゃいかんと言っている。「古事記」であろうと「日本書紀」であろうと事実である。「万葉集」と同じ種類の事実である、掘り返してはいかん。』そして小林は、『実に健康で簡明な思想です』と言いさらに続ける。『歴史家は文章の上で、実はこうであっただろう、ああだったろうということを言うのはいいが、しかし掘り返すということは、もっと丁寧にやってもらいたいですよ。』また、コラム氏が書く「興味は尽きない」という問題を、小林は、『掘る人の精神傾向』と確言する。一見学問を否定するような小林らしからぬ御説に感じるが、それこそ小林の「精神傾向」であり、小林の情緒の問題なのである。少し脱線するが、そういえば瀬戸内寂聴さんが尼僧として言っていた(伝教大師巡礼)。『えらい人のお話は、いろいろ奇跡がつくのでしょう。みんなが、その方をあがめている気持ちが、そんな話をつくるのだから、そう思った方が愉しい』たとえば、高僧が錫杖をついて井戸を得た、そういうところがあったとしたら、寂聴尼は『そう思った方が愉しい』というのである。『愉しい』は『精神傾向』であり『事実』というのだ。小林が書いた『万葉集と同じ種類の事実』ということだ。これも至極『健康で簡明な思想』であり、科学や医療の進歩に汲々として過ごす昨今では、とても心地良く感じるのである。とりとめもないことを書いた。結論である。つまり、一番愉しいのは桂枝雀師の落語、そういうことだ。おあとがよろしいようで(^o^)
2014.05.27
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】※画像:日本相撲協会大相撲の懸賞(けんしょう)は力士(りきし)の人気を示(しめ)すバロメーターである。先日の遠藤(えんどう)・白鵬(はくほう)戦は24本。きょうは何本かかったか数えるのも勝負前(しょうぶまえ)の楽しみになった。 公演中止(こうえんちゅうし)でお騒(さわ)がせの元ビートルズのポール・マッカートニーさんが、昨年の秋場所(あきばしょ)を観戦(かんせん)して懸賞金に興味(きょうみ)を示した。「勝った方が全部(ぜんぶ)もらえるのか?」と聞いたそうだ。健闘(けんとう)すれば敗者(はいしゃ)にもいくらか行くと思ったのだろうか。日本人には思いつかない疑問(ぎもん)である。 プロスポーツは勝ち負けで収入(しゅうにゅう)が大きく変わる。しかし給料以外(きゅうりょういがい)に、勝った直後(ちょくご)に、ご祝儀(しゅうぎ)をその場でいただける大相撲は現金(げんきん)なスポーツである。「土俵(どひょう)にカネが埋(う)まっている」の名言(めいげん)そのままである。賞金も人気も独(ひと)り占(じ)めは気持ちがいいだろう。 だが、力士には勝負を分(わ)け合(あ)うライバルがいたほうがいい。栃錦(とちにしき)に若乃花(わかのはな)。大鵬(たいほう)に柏戸(かしわど)。輪島(わじま)に貴ノ花(たかのはな)。ビートルズ世代の相撲ファンだから古い例えになるが、角界(かくかい)で一時代(いちじだい)を築(きず)くのは一人の人気力士だけではできないのである。 遠藤にもそろそろ生涯(しょうがい)のライバルとなる力士が現れてほしい。好敵手(こうてきしゅ)はだれか。これを見極(みきわ)めるのも楽しみである。(5月22日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「巨人大鵬卵焼き」世代のしっぽに属する身としては、ここは黙っていられない。時鐘殿。御地の看板を背負って活躍する遠藤関には、勢(いきおい)関はいかがでしょうか。「名は体を表す」というが今場所は特に勢いを増した感のある関取である。因みに勝敗はというと、昨日は松鳳山に叩き込みで勝ち十勝二敗の二桁に乗せた。白鵬は一敗を守ったが、星一つの差なので、まだ優勝の望みも十分にある。勢関、四股名を「勢 翔太(いきおいしょうた)」という。昭和六十一年の生まれだから遠藤関より少し年上にはなるが、今場所の番付は前頭五枚目である。二桁の勝ちと相撲内容を鑑みると来場所は三役であろう。残念ながら昨日の負けで首の皮一枚となった遠藤関にとって、勢 翔太は好敵手として申し分はないはずだ。時鐘殿、いかがでしょうか。さらに加えて、以前、舞の海秀平氏が正面の解説に座った時に勢関の感想を言っていた。「まるで歌舞伎役者のような顔立ちだ。」イケメンの塩梅から見ても遠藤関のライバルとして遜色はない。こうなれば時鐘殿も、勢関を認めないわけにはまいりますまい。さていかが。しかしそうはいっても、まげを結った初場所は首の皮一枚の遠藤関である。今日の相手は西の関脇栃煌山だ。今場所は横綱鶴竜、さらには東の関脇豪栄道を破り気炎を上げている。よほど気合を入れてかからなければ勝てる相手ではない。場所は残り三日。遠藤関には獅子奮迅の覚悟で戦ってもらい、なんとしても勝ち越してもらいたいものだ。遠藤と勢、語り継がれるライバルになることは間違いない。さらに、大相撲ファンの積年の願いである日本人横綱を、二人で切磋琢磨しながら何としても成し遂げてもらいたい、そう熱望してやまない。それにしても、この頃の大相撲の人気は昭和三十年後半から四十年前半のそれを彷彿させる。長年の相撲ファンとしてはうれしい限りなのだ。願わくは、マスコミにおいては、『相撲は神事、芸能である。』『角界は実力社会であり徒弟社会である。』『相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います』(※コチラ)を心得て、『そういう世界』として扱ってほしい。
2014.05.23
コメント(0)
【日本経済新聞 春秋】不祥事を起こす。幹部が並んで頭を下げ、謝罪し、組織の出直し・再生を誓う。おおかたの口をついて出るのは「一丸となって」である。ただし、常(じょう)套句(とうく)になればなるほど言葉の持つ重みはうせていく。そして、はた目には一丸となることの難しさばかりが見えてくる。 おととい急死した日本相撲協会の放駒前理事長(元大関魁傑)が任にあったのは4年前からの1年半ほどでしかない。その間、ことあれば「一丸となって」を繰り返した。やむを得まい。野球賭博に続いて八百長が発覚した大相撲は大揺れに揺れ、もはや国技の体をなしてはいないと思われて仕方のないありさまだったのだ。 大相撲がいまあるのはこの人がいたからだという感慨を、幾つもの追悼記事を読んで新たにした。まったく休場することがなかった現役時代のまっすぐな相撲も目に浮かんだ。しかし、力士に親方、行司や呼び出し、まげを結う床山らを合わせても千人ほどだという狭い社会が一丸になった結果の、大相撲再生だったのか。 抵抗もずいぶんあったという。そもそも、相撲はスポーツであり神事、芸能である。角界は実力社会であり徒弟社会である。「相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います」とは元横綱審議委員長の独文学者高橋義孝の言だ。すっぱり割り切れぬ世界だからこそ、「クリーン魁傑」を生き抜いた誠実さが貴重だった。(5月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~画像は産経ウェブから拝借した。昭和四十七年年五月、夏場所において三賞を受賞したお歴々である。左から輪島、魁傑、貴ノ花である。国技館はまだ蔵前にあった。大鵬は引退していたが相撲は絶大な人気を誇っていた・・・元大関魁傑(放駒前相撲協会理事長)の訃報が届いた。ゴルフの練習中に帰らぬ人となったという。なんともあっけない感は否めないが、しかし氏らしく感じるのだ。不謹慎な言い方をご容赦いただきたいが、とても清々しい死様であると思った。死して爽やかな感を抱かせるのは「クリーン魁傑」の面目躍如であろう。相撲協会を退いてからは未練の「み」の字も見られず、執着はまるでなかったという。さすがである。翻って政治や経済の引退後を見るに、未練たらたらの、執着のがんじがらめはいと興ざめの様相である。俗人なのだ。放駒前理事長の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいほどだ。それはそれとして、氏の訃報に接してしみじみと大相撲観戦するに、あらためて認識した。『相撲は神事、芸能である。』のだ。そして『角界は実力社会であり徒弟社会である。』のだ。『相撲の基本はやっぱり反デモクラシーだと思います』誠に正鵠を射たひとことである。小林秀雄が言っているところの『そういう世界』に通じる。つまり理屈ではなく情緒の中で、わかる人しかわからない、そういう世界なのである。野球やサッカーの比較対象ではないのだ。相撲の妙とでも言おうか・・・古今亭志ん生師ならさしずめ「まあ、そういうもんだからさ」と言うところか。放駒前理事長の奮闘努力もあり、このごろの夏場所を見るに、往時を偲ばせる相撲人気である。願わくは、末永く「そういう世界」として眺めてもらいたい、そう願う次第である。あとは天覧相撲を望むのみだ。ご参考まで、放駒前理事長のお人柄を「大自在」が書いていたのでご紹介する。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【静岡新聞 大自在】「黒いダイヤ」の呼び名通り、精悍[せいかん]な輝きを放っていたという。1975年6月、静岡商業高相撲部の屋内道場土俵開き。その年の春場所、大関に昇進した魁傑が部員に胸を出した。「招きに快く応じてくれた。明るく気さくな方だった」。静商相撲部OBで、県相撲連盟会長の下村勝彦さん(72)は懐かしむ。 元大関魁傑が18日、66歳で急逝した。放駒親方として日本相撲協会の理事長を務めた。現役時代は故障があっても一度も休まず、「休場は試合放棄だ」の名言を残す。75年は後半の成績不振で大関から陥落したが、77年春場所で返り咲いた。 理事長だった2010年8月からの1年半は、相撲史に残る激動が続いた。野球賭博問題による前任者の辞任で、急きょの起用。その半年後、八百長問題が発覚する。「天地がひっくり返るという表現があるが、まさにそういうこと」と眉間にしわを寄せた。 全容解明、処分、再発防止を優先させ、11年3月の春場所中止を決めた。一番嫌っていた「試合放棄」。苦渋の決断だっただろう。「長い相撲の歴史で最大の汚点」と謝罪した。 批判を浴びながらも関係者の大量処分を断行。「技量審査」という異例の方式で2場所連続の中止は避けられた。文部科学省との綿密なすりあわせがあったとされる。平幕まで落ちながら大関に復帰した粘り腰がきいた。 組織改革では憎まれ役を務めた。いったん地に落ちた大相撲は、このところ活気を取り戻し始めている。「アマ相撲にも、いい影響を与えてくれた」と下村さん。残した白星は大きい。(5月20日付)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~衷心より放駒前理事長のご冥福をお祈り申し上げる。
2014.05.21
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】桜(さくら)の素顔(すがお)は「花」にあるのか、花を散(ち)らした後の「青葉(あおば)」にあるのか。しみじみと思う季節(きせつ)である。 今ごろ「偽(いつわ)りの作曲家(さっきょくか)」を持ち出せば笑(わら)われそうだが、サングラスを外(はず)して髭(ひげ)を剃(そ)り、長髪(ちょうはつ)を切って記者会見に登場(とうじょう)した佐村河内(さむらごうち)氏を思い出す。「素顔」はごく普通(ふつう)の男であった。現代のベートーベンといわれたイメージとはほど遠い顔だった。 小保方(おぼかた)さんの会見を見ても気づいたことがある。実験成功報道時(じっけんせいこうほうどうじ)の映像(えいぞう)にあったピアスと大きな指輪(ゆびわ)が消(き)え、マスカラは薄(うす)く見えた。素朴(そぼく)なお嬢(じょう)さまのイメージ造(づく)りに腐心(ふしん)した作戦成功(さくせんせいこう)とみた。 2人は同罪(どうざい)だと言うのではない。佐村河内氏のサングラスと長髪と髭は、凡庸(ぼんよう)な素顔を隠(かく)す道具(どうぐ)であり、それを外すのは「好青年(こうせいねん)」を演出する作戦だった。小保方さんのピアスと指輪外しの会見にも共通するものを感じたのである。人にはそれぞれの「仮面(かめん)」がある。 仮面を外した顔が素顔なのだろうか。仮面をかぶった時の方が本人の素顔に見える時もある。などとうんちくを傾けながら帰宅して、しみじみと妻の顔を見る。結婚してン十年。いまだ素顔は分からない。(4月13日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~毎度お馴染の「時鐘」である。「いよぉ、日本一!」そう声をかけたくもなるが私は北國新聞のサクラではない。ときに、小保方さんの記者会見を扱った某新聞のコラム(4月10日付)である。『言葉に自信が感じられた。これなら信じられるのではないか、とテレビ中継を見ていて思った。』これは人生を経験したいわゆる「いい大人」が書くことではない。信じることは人の美しい姿であり、ときに外国人から「お人よし」と揶揄されようが日本の美徳だと誇りに思う。しかしそれは真理(根本)を愚直に信ずることであり、真理(根本)を見誤った枝葉末節にこだわることではないのだ。コラム「時鐘」はいつも真理(根本)をついている。そして時鐘の妙はそのタイミングと言葉(文体)にある。つまり言うべき事を、言うべきタイミングで、言うべき言葉で言う、それこそが時鐘の妙である。新聞離れ、出版不況が叫ばれて久しいが、こういうコラムがある限り、紆余曲折はあろうがかならず原点に戻る、私はそう信じて疑わない。それにしても、いながらにして日々の新聞コラムを一堂に閲覧出来るというのはこの上ない幸福だ。アプリ「たて書きコラム」の製作者に感謝感謝である。このアプリを使えることだけでスマホを契約する価値があると私は思う。もしスマホをお使いで「たて書きコラム」をインストールしていない方は、是非お試しいただきたい。あなたの人生観をかえるかもしれない。しかし、私は「たて書きコラム」のサクラでもありません。あしからず。さて、以下に4月11日付けの「時鐘」も添える。いい大人の書く「妙」をご堪能あれ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】さまざまな桜(さくら)に出合(であ)う日々である。美しい花に交(ま)じって、妙(みょう)な花やつぼみも出てきている。 お騒(さわ)がせの党首(とうしゅ)に続いて、「リケジョ」の会見があった。それぞれ懸命(けんめい)の釈明(しゃくめい)に、それでも大方(おおかた)はクビをひねってしまう。だが、「分かった」「もっと悪いのがいる」といった声も出る。見物(けんぶつ)のふりをして、上手に一芝居(ひとしばい)打っているようで、確か、あれも「さくら」。 派手(はで)に騒(さわ)いで、さっと姿(すがた)を消す。桜の花みたいだからそう呼ぶという。祭(まつ)りや縁日(えんにち)で見掛けなくなって久しいが、絶滅(ぜつめつ)するほどヤワな種族(しゅぞく)ではなく、ここ一番という折(おり)に時々顔を出す。 愉快(ゆかい)なさくらは、「寅(とら)さん」映画(えいが)でおなじみである。渥美清(あつみきよし)さん歌う主題歌(しゅだいか)に「目方(めかた)で男が売(う)れるならこんな苦労(くろう)も掛けまいに」という一節(いっせつ)がある。おっしゃる通りで、メールで8億円も無心(むしん)ができるからといって、立派な政治家と敬(うやま)われるわけではない。見目麗(みめうるわ)しき博士(はかせ)ゆえに万能細胞(ばんのうさいぼう)がどんどん作れるのなら、何の苦労もあるまい。 それでも時々、春の陽気(ようき)に浮かれ出て、客をあおる「助(すけ)っ人(と)」さくらが出没(しゅつぼつ)する。春爛漫(はるらんまん)、いろんな花見があるものである。(4月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~やはり「いい大人」は寅さんの二つや三つは観ていなければならない。お約束である、吟遊映人では過去に八つの記事を掲載している。ご覧いただけたら幸いだ。ちなみに、寅さんの妹は「さくら」という。寅さんシリーズ『男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~望郷篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~純情篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~奮闘篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~寅次郎恋歌~』 コチラ
2014.04.15
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】評論家の佐高信さんのところに届いた知人の結婚式の招待状には、名前の「信」が「真」と間違って記されていた。佐高さんはそれを踏まえて、披露宴でこんなスピーチをしたそうだ。「結婚生活は、真実より信じることの方が大切です」。 結婚生活はその通りかもしれないが、科学の世界では通用しないようだ。総合研究大学院大学名誉教授の池内了(さとる)さんによれば、「科学は『信じる』ものではなく、事実として誰でもが再現できるものでなければならない」(『宇宙学者が「読む」』田畑書店)。 たとえば、UFOが宇宙人の乗り物だとする仮説は、誰も証明も否定もできない。ゆえに科学とはとても呼べない。ほんの2カ月前には、「ノーベル賞級の発見」ともてはやされていた、新型万能細胞「STAP細胞」はどうか。 理化学研究所の調査委員会は、すでに英科学誌ネイチャーに掲載された論文に、捏造(ねつぞう)や改竄(かいざん)があったとの結論を出している。筆頭執筆者の小保方晴子・研究ユニットリーダーはこれを不服としてきのう、反論の会見を行った。自らの不勉強、不注意、未熟について深く反省するとしながらも、「STAP現象は、何度も確認されている真実」と強調していた。 涙で声を詰まらせる痛々しい姿を見ていると、論文の不備は「悪意」のないミスだったのかもしれないと思えてくる。ただ、STAP細胞が存在する証拠は示されなかった。何より、小保方さんと共同研究者を除けば世界の誰も、再現実験に成功していない。「いつか誰かの役に立つと信じて」、小保方さんが研究を続けてきたSTAP細胞は、まだ科学の要件を満たしていないことになる。 真実は一体どこにあるのか。謎はますます深まるばかりだ。(4月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~巷はSTAP細胞の話でもちきりだ。10日のほとんどの新聞コラムでもその話題を扱っていた。鼻白むものや疑問を感じないではいられないコラムの中にあって産経抄は正鵠を射ていた。池内了氏のひと言が冴えるのである。「科学は『信じる』ものではなく、事実として誰でもが再現できるものでなければならない」話題の眼目は結婚生活ではないのだ。曰く「結婚生活は、真実より信じることの方が大切です」今回の騒動にふれ、枝葉末節はときに楽しくもあるが物事はその根本を見なくてはならない、そう痛感した次第だ。ときに池内了氏の実兄はドイツ文学者の池内紀氏である。以下は氏の「のろまの特性」というエッセイからひいた。「のろまはあきらかに現代では評判が悪いだろう。何ごともスピードが大切で、一瞬のうちに結果がわかり、鉄砲玉のようにしゃべり立て、かたときも休まず動きまわる。機敏で、エネルギッシュで、頭の回転の早い人間がグングンのしていく。しかし、いうまでもないことながら、大きなことをするためには力をためていなければならず、ねばり強く、着実に行動しなくては状況はかわらない。あわただしい時代だからこそ、反時代的な特性が生きてくる。」2013年11月5日「今日の視角」よりはたして我々は何を汲々として生きているのだろうか。原点もどって、STAP細胞は人間にとって必要なものなのだろうか。それは地球規模のことでなのであろうか。そも、人間を救うのは医療や科学なのであろうか。巷の騒動を見て、池内紀先生の文章を読むにつけ、人間は何か根本の根本を見誤っているのではないか、そう思うのである。どうであろうか。
2014.04.11
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】新横綱(しんよこづな)の鶴竜(かくりゅう)を育てた井筒親方(いづつおやかた)の言葉に引かれた。元関脇(せきわけ)の逆鉾(さかほこ)。横綱の夢を果たせなかった師匠(ししょう)は、弟子(でし)に「私のまねをするな」と諭(さと)してきたという。 オレについてこい、と高(たか)みに立って叱咤激励(しったげきれい)する指導者(しどうしゃ)は多いが、オレを反面教師(はんめんきょうし)にしろ、は極(きわ)めて珍(めずら)しかろう。生半可(なまはんか)な覚悟(かくご)では、できないはず。わが身を振り返れば、それが分かる。 サボってばかりだと誰(だれ)かみたいになる、と親に叱(しか)られ、やがて子に対して、そう叱った。アイツみたいになるな、と職場でも小言(こごと)を言ってきた。悪い見本は「誰か」や「アイツ」で、自分のことはちゃっかり棚(たな)に上げる。そうしないと、なめられる。大概(たいがい)、こうである。 良き手本になれるのは、ひと握(にぎ)りの優(すぐ)れた人だろう。角界(かくかい)に限(かぎ)った話ではない。トビがタカを生もうとするなら、「私のまねをするな」という腰(こし)を据(す)えた指導が大切なのに違いない。日本人力士の奮起(ふんき)を促(うなが)す声に、辛口解説(からくちかいせつ)の北(きた)の富士(ふじ)さんが注文(ちゅうもん)していた。「そう。もっと師匠がしっかりしないと」。 近ごろの若い者以上に、近ごろの「年寄(としより)」こそ、しっかりせい。耳が痛いが、思い当たるフシは多々(たた)ある。(3月28日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~指導する側(井筒親方)が人物ならば、それを受ける側(新横綱鶴竜)もまた人物なり。何よりそれを評する側(時鐘氏)が人物である。いぶし銀のコラム(コチラ)が今日は一段と際立った。読後の満足感はひとしおである。さて、井筒親方は私より一歳年下で誕生月が同じである。そんなこともあり氏には親近感を覚え「逆鉾」という四股でブイブイやっていたころから贔屓にしていた。甘いマスクから実弟の寺尾関に人気が集まりがちであったが、私は断然逆鉾であった。引退して親方になってからは、向正面に映る氏を認めては、何やら安堵を覚えていた。「私のまねをするな」語録や逸話(武勇伝)の多い氏ではあるが、これは知らなかった。いやはや立派である。一つ年下の氏ではあるが正直に、こいつにはかなわないなぁ、そう思う。このところ巷に人物を見受けることがなく、酒席での人物評もご無沙汰になっていた。しかし人物はここにいた。井筒好昭、大人物である!ちなみに、井筒部屋は現在、在籍力士が四人の小部屋だそうだ。しかしそのうちの一人が横綱というわけだ。なんという効率のよさ、群を抜く費用対効果なのである。こういうのをセンスという。さすがではないか。三人のモンゴル横綱には閉口もするが、井筒親方の人物ぶりを知り大相撲観戦の楽しみが増した。次の場所を指折り数えながら待つことにしよう。ところで時鐘氏はいみじくも喝破せり。近ごろの「年寄」こそ、しっかりせい。「年寄」はまた範を垂れるものとも言いかえられよう。「先ず生きている」だけの『先生』は落語の世界であったが、今、世で言われる先生を見渡す限りその手の輩が大半ではないか・・・先生ではないが、年長者として時折範を垂れることもある我が身である。「しっかりせい」という言葉を忘れることなくいたい、そう思った次第である。
2014.03.31
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】横綱(よこづな)の締(し)める綱(つな)は「しめ縄(なわ)」である。仏教の結界(けっかい)という考えと似ていて縄一本・石一つ置(お)くだけでそこから先は別世界(べつせかい)、聖域(せいいき)となる。 関脇(せきわけ)、大関(おおぜき)と順調(じゅんちょう)に上がって横綱になる力士がいる。その一方、大関で停滞(ていたい)してそのまま終わると見られていたのに急に強くなり、過去を吹(ふ)っ切(き)るように綱をつかみ、聖域に入り込む力士もいる。鶴竜(かくりゅう)がその一人である。 大関昇進(しょうしん)以来パッとしなかった地味(じみ)な取り口が突然開花(とつぜんかいか)した。先輩(せんぱい)の日馬富士(はるまふじ)もそうだった。低迷(ていめい)の大関が2場所連続全勝優勝(ばしょれんぞくぜんしょうゆうしょう)して横綱になった。かつて70年代には琴桜(ことざくら)がいた。引退がささやかれていたのに2場所連続優勝して横綱に昇進した。 これを「化(ば)けましたねぇ」と言った解説者がいた。どの世界にも「大化(おおば)け」する若者がいる。人が変わったようになってなかなか超(こ)えられなかった壁(かべ)をひょいと超えてしまう。力士なら「しめ縄」を張った横綱という聖域に入る。生身の体に「しめ縄」を張るのだから神さま扱(あつか)いである。 聖域からの戻(もど)り道(みち)はない。「しめ縄」が退路(たいろ)を断(た)っている。覚悟(かくご)を問う一本の縄の恐(おそ)ろしさ。綱の重(おも)みというものだ。(3月27日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~残念ながらご当地には縁もゆかりもない身ではあるが、スマホのアプリ「たて書きコラム」のおかげで毎日「北國新聞」の「時鐘」は拝読している。私にとって、「たて書きコラム」はブラウザーとメールの次に頻度の高いアプリなのである、感謝。さて「時鐘」、今日は一だんと冴えわたていた。その燻し銀のペンに話題の鶴竜に通じる感を見て、何とも妙である。最近はほとんどテレビを見ない私も、相撲だけは幕の内後半から必ず見ている。巨人・大鵬・卵焼き世代のしっぽに属する我が身なのである。相撲の奥深さは半世紀を過ぎてやっとわかってきた。乱暴な比較だが落語と同じだ。どちらも受け手(観客)にそれ相当の人生観を求めるのだ。一朝一夕のものではないということだ。そしてまた「時鐘」。これも小手先のコラムではない。派手やけれんみからほど遠く、読後にしみじみと感じる文章は、これまた一朝一夕にかなうものでもない。コラム氏の豊富で卓越した経験に裏打ちされた人生観が感じられるというものだ。もちろん血のにじむような執筆修行も。全国紙をかさにきせ、不平不満を垂れ流すだけのコラム担当者は三歩下がって熟読玩味してほしいものだ。ところで鶴竜。「綱の重み」はすなわちいばらの道であろう。精進をつくしがんばってもらいたいと思う。「えらい荷物背負うたなあ」天台の叡南俊照師は千日回峯行を満行された後で座主猊下にそう言われたそうだ。本当の行はその満行のときから始まったということだ。これもまた奥の深い話しなのである。
2014.03.28
コメント(0)
【産経新聞 極言御免】~朝日新聞の「特定秘密」~どうやら朝日新聞にとっては、慰安婦問題の真相は読者に知らせるべきでない「特定秘密」に当たるらしい。6日付の同紙の週刊新潮、週刊文春の広告は、それぞれ次のような伏せ字が施されていた。◆週刊誌広告に伏せ字 「●●記事を書いた『朝日新聞』記者の韓国人義母『詐欺裁判』」(新潮) 「『慰安婦問題』A級戦犯●●新聞を断罪する」(文春) もちろん、他紙の広告をみるとこの伏せ字部分は「捏造(ねつぞう)」「朝日」とはっきり記されている。朝日は、こんな子供だましの隠蔽(いんぺい)で一体何をごまかそうとしているのだろうか。 朝日は昨年10月30日付の社説では特定秘密保護法によって秘密が増えるとの懸念を表明し、「秘密保護法案 首相動静も■■■か?」と伏せ字を用いたタイトルでこう説いていた。 「政治家や官僚は、だれのために働いているのか。原点から考え直してもらいたい」◆誰のための記事か 政府には秘密はいけないと説教する一方、自身に都合の悪いことは堂々と隠すというわけだ。そんな朝日にこそ、誰のために記事を書いているのか、報道機関があるのか原点から考え直してもらいたい。 新潮が「捏造」と指摘しているのは、慰安婦問題に火が付くきっかけとなった平成3年8月11日付の朝日の記事「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」のことである。記事はこう書いている。 「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり…」 記事では実名は記されていなかったが、この女性は同年12月に日本政府を相手取り、慰安婦賠償請求訴訟を起こした金学順氏だ。 だが、25歳未満の女性を勤労挺身隊として動員し、工場などで働かせた「女子挺身勤労令」と慰安婦はそもそも何の関係もない。また、金氏は訴状では、17歳だった昭和14年に「金もうけができる」と説得され、養父に連れられて中国へ渡り、そこで慰安婦にされたと記しているが、女子挺身勤労令の公布は19年8月なのである。 朝日の記事は、女子挺身隊と慰安婦を意図的に混同し、しかも養父にだまされたと証言している女性が日本軍に「連行」されたように書いたのだから、捏造といわれても仕方がない。 ◆指摘から目をそむけ 金氏は別のインタビューでは「40円でキーセン(朝鮮半島の芸妓(げいぎ)、売春婦)に売られた」と明かしており、慰安婦募集の強制性を認めた河野談話の根拠となった聞き取り調査に応じた際には訴状とは異なるこんなストーリーを語っている。 「17歳だった16年春ごろ、少女供出の噂が広まり、養父と満州方面に逃げた。北京で将校風の軍人に連れていかれた」 言うことがころころ変わっているが、河野談話は無批判・無条件にこうした証言を受け入れて成立した。一方、朝日は平成4年1月12日付の社説「歴史から目をそむけない」でも、重ねてこう書いている。 「『挺身隊』の名で勧誘または強制連行され…」 慰安婦問題でデマをしつこく報じ、反論や誤りを正す指摘から目をそむけて見ないようにしてきたのは、ほかならぬ朝日自身ではないか。(3月7日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「以前から朝日は傲慢だったな。個人ではみないい人だったが、総じて朝日の看板を背負うと傲慢になった。朝日の企業風土かもしれないな。」齢八十七になる我が父は、かつて地方の新聞社で職務を全うした。月一の協会の会議を通し朝日には懇意の人もいたようだ。上記の伏字事件を、父は朝日の傲慢と見た。「語るに落ちる、といったところだね。」私の語り掛けに対し父は「さもありなん。」そうこたえるのであった。伊達に年を取っているわけではない、我が父ながら頼もしく思った。さて、拙宅は父の勤務した地方新聞を一紙購読しているだけだ。画像は拙宅の新聞広告である。全国すべての新聞の中で朝日だけが伏字にしたわけだ。実際のものは見てはいないが、考えただけでも愕然とする。そして何より、一番恐ろしく思ったのは、もし電子版の産経新聞を閲覧していなかったら、その事実を知らないでいたということだ。だがしかし、冷静になって思うと、それが実相であり実態なのだ。そして世間を象徴した事柄である。そもそも情報などあってもそれを知らなければ無いのと同じだ。それが実相。般若心経の説くところなのだ。そして情報は伝える側によって、それが意識的であるにしても無意識であるにしても、少なからず変わってくるということだ。それが情報の実態である。昨今、汲々としている「秘密保護法」の本質を象徴する一件なのである。少しずれるが朝日の「傲慢」について。かつて立正大学学長をされた中村瑞隆師は著書でこう指摘する。『わたしたちは、ともすると向上心と貪欲を混同したり、自信と驕慢、謙虚さと卑屈をとり違えていることがあります。』朝日の、特にお歴々には耳の痛いひと言であろう。瑞隆師はこう続ける。『向上心と貪欲、自信と驕慢、謙譲と卑屈、その違いは、わわしは、何を目的に生きるのかという人生目的の違いから起こるものだと思います。』さもありなん、老父がそう言った所以かもしれない。それにつけても、産経がウェブ上で解放している紙面には大感謝である。それはまさに社会事業的価値のある行為であり、合わせて産経には謹んで敬意を表したい。時間はかかるだろうが、マイノリティーが世論に変わる時が必ず来よう。非力な私目ではあるが、かげながら応援したいと思う。頑張れ産経!「産経の怒り心頭はそうとうなものだね。しかし品がない。」老父はそう閉めた。ちなみに「不思議と産経とは懇意を築けなかった」そうである。さもありなん。
2014.03.09
コメント(0)
【朝日新聞 天声新語】「ええ、考えるってぇと何でございますな。やっぱり、どうしても、しょうがないもんでしてな。オイ、あんまり出したり引っ込めたりは止(よ)しな。夕立の祭り提灯(ちょうちん)じゃあるまいし」。勝手な創作だが、昭和の名人、落語の五代目志ん生ならこんなふうに叱るだろうか。言っては撤回する。発言しては取り消す。NHK会長の就任会見が尾を引くなか、衛藤晟一(えとうせいいち)首相補佐官が、米国を批判した動画サイトでの発言を撤回し動画を削除した。要職にある人の言葉が、昨今どうにも軽い。首相補佐官は内閣法に基づくポストで、氏は安倍首相の側近である。首相の靖国参拝を米政府が「失望した」と批判したことに「むしろ我々の方が失望だ」とやり返した。ほかにもあれこれ、菅官房長官の指示で直ちに引っ込めた。前にも書いたが、言葉の重みは出口で決まる。同じ意見でも評論家の口と補佐官の口では違う。首相は国会で「個人の参院議員としての発言」とかばっていた。〈手を翻(ひるがえ)せば雲となり、手を覆(くつがえ)せば雨となる〉と杜甫の漢詩にある。もとは人情の浮薄を嘆いたものだが、手の表と裏を返すようにひらひらと、公職と個人、あるいは立場の使い分けはできるものだろうか。NHK会長の例などを見るにつけ、「個人」が都合のいい避難小屋に使われている。赤提灯(あかちょうちん)あたりで、襟(えり)の社章を裏返しにして飲んでいるご同輩らがたまにいる。話題が人事と上司の悪口なのは措(お)くとして、「公と私」の使い分けは、この辺までがいじらしい。(2月21日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~寄合なんぞあったって「まあなんだよ、しょうがないんだよ。これ昔ッからそうだから。」なんて言ってね「じゃァまァいいや。ともかくも一杯やってお目出たくしめましょう」なんて言って、それでおしまいだよ。五代目 柳家小さんコラムの内容はさておき、五代目古今亭志ん生師は政治がらみの野暮は言うはずない。だからくだらないことで人を叱るはずもない。『しょうがねぇなァ』それですべてはおしまいだ。十八番の「黄金餅」をお聞きいただければご納得いただけよう。ちなみに「黄金餅」は「しょうがねぇなァ」の見本のような噺である。ところで実は志ん生師、落語協会の会長もつとめていた。どんな会長っぷりだったのか、その様子を小さん師が語ったのが上記である。会長職も、その芸同様に「ぞろっぺ」だったようだ。※「ぞろっぺ」:芸にむらがあること。「ひと口に、落語(はなし)なんていいますが、あれでひとそれぞれのやりかたてぇもんがある。文楽くん(桂文楽)なんぞは、落語(はなし)そのものが筋道だって、きちんとしてぇる。あたしはそれができねぇんだ。もう思ったまんましゃべっていくのが好きでねぇ。そのときの気分なんですよ。」文芸春秋 71・1月号そのときの気分とは志ん生師らしいが、眼目はこれだ。『ひとそれぞれのやりかたてぇもんがある。』これは実に真理ではないか。数多の落語家が忘れ去られていく中で、志ん生師が残っている所以だと思う。そして志ん生師はこうも語る。「お客を扱うのは別になっちゃう。みんな、おなじことしゃべっているようだけれど、そこに人間てものが、自然とこうでてくるんですね。」同じ演目でも上方と江戸では似て非なるものになるし、江戸でも円生と志ん生師ではまったく違うのだ。だから落語は面白い。つまり人間は何とも魅力的で人生は実に素晴らしい、そういうことなのだ。なんだかんだ言っても、『しょうがねぇなァ』ということだ。人生とはそういうものなのである。枝葉末節で人を評価して、またいつまでもつまらないことをグチグチ言っても「しょうがねぇ」のだ。天声人語氏は志ん生師を引くぐらいなのだから、落語が好きなのであろう。だったら野暮はほどほどにして、オツなコラムを書いてもらいたい、そう思う次第だ。
2014.02.24
コメント(0)
【福井新聞 越山若水】※明治35年2月22日撮影作家、幸田露伴は言葉遣いには厳しかったらしい。娘で同じく作家の幸田文さんが座談会などでいろんなエピソードを交えて述懐している。 例えば若い男が「来やがる」「しゃあがる」と言おうものなら「ヤアガル人種」がいると憤慨。女性が電話で「あのね」「それでね」を多用すると「ネエネエ国人」だとからかった。 そして文さんに対し「悪い言葉を使わないのは自らを守ること。自分をいやしくしないことだ」と、言葉の乱れを厳格にたしなめたという(橋本敏男著「幸田家のしつけ」平凡社新書)。 露伴自身も随筆でこう記している。「身の姿を好(よ)くせんことのみ願ひ、言葉を良くせんことを願はざるは、こころ浅く拙し」。軽薄な話し方や無教育な言葉遣いを一刀両断にした。 とはいえ言葉は生き物、時代に連れ変わっていく。それは重々承知だが、しかしどうにもなじめない若者言葉が「まじやばいっす」。「やばい」は本来、良くない状態を意味する悪い言葉だ。 ところが予想に反して料理がおいしかったとき、想像以上にかっこいい人物や音楽に出会ったとき一様に「やばいっす」と口走る。「全国共通語」になっているのも不可思議だ。 最近改訂された国語辞典では「すばらしい」という意味が追加され、21世紀になって広まったと解説しているとか。さて露伴先生はこの言葉遣い、どう判定するだろう。(2月19日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~同日付の産経新聞の曽野綾子先生のコラム「透明な歳月の日」にこうあった。『高齢者になって、私が自由を得たと思う点はいくつかる。もういつ死んでいいのだから冒険をしてもよくなったということ、高齢者に対する辛口の批判を言い易くなったことである。』御年83歳の綾子先生は、『まだぼけないうちに、高齢者には高齢を生きる技術として、他者の存在に深く配慮できる人であり続けるような老人学も教えた方がいい』というのだ。何も難しいことを言っているのではない。周囲へ配慮をして『無理をしても明るく』振る舞っていろ、そういうのだ。明快で、力強くそして潔い。歯に衣着せぬ物言いは清潔感があり、綾子先生らしい筆致に安堵を覚える。『言葉の乱れを厳格にたしなめた』幸田露伴の如く見えるのだ。越山若水を読んでいて思った。もっと言い切ってほしいのだ。どうも奥歯に物が挟まったように感じる。コラム氏は『言葉は生き物、時代に連れ変わっていく。』と言いながらも、『若者言葉が「まじやばいっす」。』と言葉の乱れを憂いている。だったらもっと明確に言ってほしい。よもやコラム氏が駆け出しの記者であるはずはない。分別をわきまえた大人であろう。社内では人物で通り、そして一言居士だからこそコラムを担当しているのではなか。だからはっきりすっきり言ってほしいのだ。お隣の岐阜新聞、分水嶺氏は年の初めにこう決意したそうだ。『日本語は時代とともに変化するものだとしても、生理的に嫌なものは嫌だ。今年は意識して文句言いの頑固爺になろうと思っている。』立派ではないか。この心意気を越山若水氏にももってもらいたい。ご参考まで、『両者の中間をとるならば、それは単に両者を合して希薄にしたにすぎないのであって、力のないものになってしまう。』中村元先生は著書でそう綴る。はっきりすっきものを言う、大人とはそういうものだと思うのだ。ときに、以前にも書いたのだが、オリンピックが佳境をむかえ「与える」という言葉が耳につく今日この頃だ。まずもって、「与える」とは『相手の欲するものを、くれてやる』と三省堂新明解国語辞典にいう。今でいう「上から目線」である。スポーツの勝者が「応援してくれる人に勇気を与えることができた」というのは、それが意図するものではないとしても、そう発言することによって「応援してくれる人が欲していた勇気をくれてやった」そういう意味になるのだ。勇気を与えられた、という応援者もしかり。勝者に対し猛烈にへりくだる気持ちがあるのならいざしらず、縁もゆかりもない人に対して自分を貶めることになるのだ。曰く、『悪い言葉を使わないのは自らを守ること。自分をいやしくしないことだ。』このごろはNHKも平気で「勇気を与える」という。いわんや民法の女子アナをや、である。『文句言いの頑固爺』には目を光らせていてほしい。時に吼えてほしい。その願ってやまない。そしてもうひとつ。一時は指摘があったがそれきりになったことに「させていただく」がある。どこぞの社会学者が「させていただく症候群」とうまいことを言っていたが、すでに聞くことはなくなった。もはや時代に馴染んでしまったか。それでも、なんでもかんでも「させていただきます!」は閉口だ。これも『文句言いの頑固爺』にご指摘願いたいものだ。
2014.02.21
コメント(0)
【佐賀新聞 有明抄】書店にとっては、祭りの一つかもしれない。今期の芥川賞と直木賞の受賞作が特設コーナーに平積みされている。書店員が選ぶ「本屋大賞」同様、ベストセラーも期待できる。しかも150回の節目となれば力も入ろう。今回受賞の3氏はいずれも女性。並んでいる本は心なしか華やかだ。 芥川、直木賞は「文藝春秋」を創刊した菊池寛が昭和10(1935)年に創設した。純文学と大衆文芸の有望な新進作家に贈る。「本誌の賑(にぎ)やかしに、亡友の名前を使おうというのである」(「話の屑籠」)と菊池は書いているが、早世した芥川龍之介、直木三十五(なおきさんじゅうご)に手向(たむ)けた友情の産物ともいわれる。 芥川の名作は教科書にも出てくる。それに比べ、直木の文業は代表作の『南国太平記』でさえ、今はほとんど顧みられない。だが、その生き方は盛名をもたらすに十分だったようだ。 昭和9年、直木は脊椎カリエスで亡くなる。山田風太郎の『人間臨終図巻』によると、入院時、直木の財布には二、三百円しかなかった。流行作家で月に二千円という当時としては巨額の収入があったが、すべて蕩尽(とうじん)していた。 直木の死は大きく報じられた。評論家の大宅壮一は「魅力の大半は…人間的な面白さ、矛盾だらけの性格、途方もない浪費癖に基づいている」と評した。賞に名を残すに値する「文士」だったのだろう。(2月1日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~直木賞とは通称で、正式には「直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)」という。あまり知られていないのではないか。ましてや文学賞の冠になったとはいえ、直木三十五の作品を実際に読んだ方はほとんどいないはずである。amazonでサイト内検索をかけると、直木の作品は、紙ベースでは絶版となっているようだ。かろうじてKindle版は読むことができるのだが・・・ちなみに、新潮日本文学アルバムでは「直木三十五」の名を見ることはできない。だからであろうか、直木三十五の画像は驚くほど少ないのだ。googleで検索しても、同時代に活躍した作家のように数多の表情をとらえることはできない。つとに有名な直木賞ではあるが、直木三十五という御仁はどうもぼんやりしているのだ。『魅力の大半は…人間的な面白さ、矛盾だらけの性格、途方もない浪費癖に基づいている』かの大宅壮一氏が、いみじくもそういう限りはきっと面白い人であったのだろう。さて菊池寛は直木三十五の死に際して、まずは文芸春秋で「直木三十五追悼」を組んだ。画像は昭和9年3月20日の新聞広告である。文学アルバムは、直木三十五は漏れているが菊池寛はのっており、幸いにも氏の巻で直木の顔写真と新聞広告を見ることができるのだ。そして直木三十五追悼号の翌年に、菊池は直木賞を設けるのである。『友情の産物』である。ただし、経営者としての才能に秀でた菊池の腹には、「儲かりまっせ」という気分が多分にあったことであろう。ときに有明抄では直木の蕩尽ぶりを披露しているが、菊池寛もまた同様であった。競馬に熱中した菊池の馬券購入金額は、そうとう大胆であったらしい。そういう派手な行動が目立ってか、直木を偲び追悼号を企画しているさなかに、菊池は賭博現行犯で検挙されている。いやはやといったところではあるが、かつて「文士」とはそういうものだったのだ。直木賞と芥川賞が時代に合わせて変質を遂げたように、作家も変質を遂げた。というか、作家の変質にともない賞が変質したのか。いずれにしても「文士」はもういない。直木三十五はもっていないけれど、菊池寛ならある。往年の文士に想いをはせ、今宵は「真珠夫人」の世界を楽しんでみようか。
2014.02.03
コメント(0)
【西日本新聞 春秋】※画像昨年の、2月19日に掲載されたコラムである。先日の「コラム紹介」(こちら)で『東京に行くこと』について綴った。その続編である。コラムを読み、共感して膝を打つことはあれど、いまだかつて落涙を禁じ得なかったコラムはこれだけである。『巨大な弁当箱にこめらえた計り知れない大きな愛』昨年の2月19日、コラムを読み私は長谷川法世氏の悔恨の念を我が事のように感じ、日ごろ亡母に抱いていた屈託が堰を切って溢れ出したのだ。なんのことはない、弱冠のころから青年時代を、長谷川法世氏と似たような親不孝をしてきたということだ。一年弱、自戒の念をこめコラム画像を折に触れて眺めてきた。いまだ垢重の身なれば悔恨の思いも時に薄れる。画像を見ては省みるというわけだ。恥ずかしながら、私にとっての『東京へ行くこと』はそういう顛末である。上京への思いは即ち自責の念となったのだ。先の岐阜新聞 分水嶺では、『ずっと親や同級生の中で暮らして自己は確立できるか。一度は「ほどほど」ではない外の世界を目指してほしい。』と若者の背を押した。『東京へ行くこと』は人それぞれの経験だ。だからその意味も人それぞれによって違うはずである。だが、自己の確立につながることだけは間違いない。月並みであるが、離れてみてはじめて理解できることは実に多いのである。我が身のように、それが悔恨の念を抱く結果になろうとも、それはおおいなる自己の確立であると私は思う。長谷川法世氏もきっと、同様の思いであるに違いない。活路は必ずある。だから若者よ、上京せよ!一人でも多くの若者が、何かしらの思いを抱き東京の地を踏まれることを、私は願ってやまない。老婆心ながら。
2014.01.31
コメント(0)
【岐阜新聞 分水嶺】この季節になると、いまだに大学受験生だったころを思い出す。もはや40年も昔のこと。入試制度も受験生を取り巻く環境も、大きく様変わりした。 昨年秋、出身高校から送られてきた学校だよりの進路実績を見て驚いた。地元の岐阜や愛知の大学への進学者数が断然多く、京都や大阪など関西が続く。東京など首都圏はごく少数派になっていた。 産業教育系各高校の校長先生に話を聞く機会があったが、近年は地元志向が強まっているという。ただし普通科進学校出身の大学生にとっては、地元に戻るにも就職先が限られていると口をそろえた。 岐阜市出身の社会学者で甲南大准教授の阿部真大さんによれば、地方都市では郊外の大型ショッピングモールが若者たちの「ほどほどパラダイス」になっているという(「地方にこもる若者たち」朝日新書)。 彼らが関係を持っているのは仲間と家族だけで、旧来の地域コミュニティーとは切り離されているとする。切り口は面白いが、彼らが「内にこもりつつ外に開いていく」可能性を秘めているとの結論はどうか。 ずっと親や同級生の中で暮らして、自己は確立できるか。一度は「ほどほど」ではない外の世界を目指してほしいと考えるのは、古くさいだろうか。(1月26日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「男子たるもの、青雲の志を抱いて上京するからには故郷はないものと考えよ。」上京の日、祖父はそう垂訓した。「あなたも今日から最高学府の徒となるのね。」祖母はそう言って喜んでくれた。今は遠い昔である。「青雲の志」はもはや死語であり、大学をして「最高学府」ということもない。祖父母は当然明治の人である。東京に出て学問を修めるとは、かつてそういうことであったということだ。それにしても『ほどほどパラダイス』とは言いえて妙だ。何だか最寄りのスーパー銭湯にでも出かけるような気軽さだ。『関係を持っているのは仲間と家族だけ』当然そういうことだろう。突き詰めると「関係ねぇ」ということか。だがしかしそんなものなのだろうか・・・願わくは若者が「内にこもりつつ外に開いていく」とあってほしい。ときに分水嶺氏。先のコラム(コチラから)では『今年は意識して文句言いの頑固爺になろうと思っている。』そう気炎を上げているのだ。ここは一発言い切ってほしいところだ。『若者よ、一度は「ほどほど」ではない外の世界を目指せ!』外に出ずして「自己は確立」されないのだ。(←自己の確立という言葉も、このところ目にしなくなったなぁ・・・)東京に出る、コラムを読み我が身を振り返ってみた次第だ。雪溶けて昭和は遠くなりにけり
2014.01.28
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】安政(あんせい)の大獄(たいごく)で処刑(しょけい)された吉田(よしだ)松陰(しょういん)の辞世(じせい)の句(く)が幕府側(ばくふがわ)資料(しりょう)から発見された。弾圧(だんあつ)した側が政敵(せいてき)の偉大(いだい)さを知っていた証(あか)しとみられている。 松陰は辞世の句とは別に、獄中(ごくちゅう)で同じ遺書(いしょ)を2通書いた。一つは長州藩(ちょうしゅうはん)に渡るよう役人に頼んだ。もう一通は幕府に没収(ぼっしゅう)されることを想定(そうてい)して牢名主(ろうなぬし)に渡した。世に出ることがあれば長州の人間に渡してくれと頼(たの)んだのである。 牢名主が島流(しまなが)しになっている間に幕府は倒(たお)れた。約20年後、東京に戻(もど)った牢名主は明治政府で高官となっていた元長州藩士に遺書を届(とど)けた。松陰が維新(いしん)の立役者(たてやくしゃ)であることなど知らない。ただ約束を守ったのである(留魂録(りゅうこんろく)・古川薫(ふるかわかおる)全訳注(ぜんやくちゅう))。 同じ獄中の囚人(しゅうじん)がみな感化(かんか)されて弟子(でし)になったといわれる松陰である。牢名主もそうせざるを得(え)ない何かを松陰は持っていたに違いない。数ある吉田松陰のエピソードの中で最も好きな話だ。 松陰は坂本龍馬(さかもとりょうま)や高杉晋作(たかすぎしんさく)らと違って小説やドラマになりにくい。あまりに堅物(かたぶつ)すぎるからだという。だが、このような清々(すがすが)しい話がまだ眠っていることに維新史の深い魅力(みりょく)とドラマ性を感じるのである。(1月25日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~此程に思定めし出立はけふきく古曽嬉しかりける(これほどに おもいさだめし いでたちは けふきくこそ うれしかりける)安政の大獄は大老、井伊直弼が執った。井伊はその応報で後に桜田門外に散る。「桜田門外の変」は、あっぱれ武勇伝として後世に伝わったので井伊には形勢不利であったが、このごろの解釈で井伊が脚光を浴びている。それはそれとして、吉田松陰の覚悟や見事。覚悟とはまた「潔さ」か。『私は死を覚悟しており、だから処刑の日をむかえることはうれしいのだ。』辞世はそういう意味である。松陰は死を前にしていささかの曇りもない。その晴朗な心持ちに松陰の覚悟のほどを見て、私は魂の震えを覚えた。事ここに及び人が守らなければならないものは、「潔さ」ただそれのみである、そう思うのだ。そしてまた松陰の身の処し方にも感銘を受けた。揮毫には「矩之」と記されている。今回の発見以前から存在する遺書(2通のうちの1通)にも「矩之」と署名されている。なお松陰の実名は「矩方」という。それをして佛教大学歴史学部の青山忠正教授は「松陰が処刑を前に実名を汚したくないと改名したのかもしれない」と指摘する。生きるとは即ち名誉の守護であり、死はまたその完遂である。私は松陰の身の処し方で、改めて思い知った。かつて我が国は名誉を最も重んじた国家であった、そういうことなのだ。翻って現在。名誉をお忘れになられたご老人二名が巷で話題だ。よくよく見ると多くのご老人を侍らせているようだ。「潔さ」は微塵も持ちえない集団である。晩年の未練は老醜以外の何ものでもない。殿様は書画骨董に通じ詩歌も嗜むという。ここは松陰先生の遺書をじっくりお読みいただき、我が身を省みてほしいものだ。このタイミングで遺書が話題となったのは、ご老人たちのためではないか。まさに「妙」である。死してなお、薫陶を授ける松陰は人物中の大人物、そういうことである。
2014.01.27
コメント(0)
【高知新聞 小社会】日本で最も有名な文学賞、芥川賞は今月の選考会で第150回を迎えるという。直木賞とともにスタートしたのが1935年で、約80年の歴史を刻む。3日付の本紙に特集記事が載っていた。 その中で「おや」と目を引いたのが、唯一の辞退者、高木卓。肩書は作家というよりドイツ文学専攻の元東大教授の方が似合う。母は文豪幸田露伴の妹で、高木は露伴のおいに当たる。 なぜ辞退したのか。記事には、辞退すれば同人仲間がもらえると思い込んだという説が書かれている。また手元にある高木の著書「露伴の俳話」の解説によれば、選ばれた作品は「習作だからとして辞退した」とある。 もう一方の直木賞にも辞退者がいる。「樅ノ木は残った」などで知られる山本周五郎。ご次男が後に語る父は「小説は読者にいっぱい読んでもらえたら、それが賞なんだ」と言っていたという(「想い出の作家たち」)。周五郎はその後も、賞と名の付くものはすべて断った。付いたあだ名「曲軒」(へそ曲がり)の本領発揮と言える。 文芸春秋を創設し、両賞を制定した菊池寛の苦虫をかみつぶしたような顔が浮かぶ。しかし辞退者には辞退者の理屈がある。信念があってのことなら、見識として尊重すべきだろう。 太宰治のように、芥川賞をほしくて仕方がなかったのに選に漏れた作家もいる。多数の文学の星を生む一方で、落選や辞退にもドラマがある。両賞の選考会は16日。(1月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~コラムの内容から少し離れるがご容赦を。画像は昭和46年12月発行の『文芸春秋 臨時増刊~明治・大正・昭和 日本の作家100人~』から拝借した。かつて芥川賞は威厳と格調にあふれていた。作家は、この目録一枚に、それこそ人生をかけていた。太宰はこれが欲しくて自ら運動したわけだ。文化勲章は辞退した何某さんも、したり顔で芥川賞を受賞しているのだ。こちらは昭和42年の芥川賞選考委員会の様子である。そうそうたるメンバーが、賞の威厳と格調を物語っている。向かって左から三島由紀夫、永井瀧男、井上靖、丹羽文雄、石川淳、瀧井孝作、川端康成、石川達三、舟橋聖一、中村光夫、大岡昇平の各氏である。三島由紀夫も末席に坐す当時の選考委員会だ。これよりさかのぼること10年。昭和32年の選考委員会では、三島の席に川端が座り最上座に佐藤春夫が座っているのだ。なお、佐藤春夫は石原慎太郎の受賞が気に入らなくて選考委員を辞退した。そして石原慎太郎は田中慎弥の受賞が気に入らなくて選考委員を辞退した。何とも魑魅魍魎の世界である。ちなみに、現在では芥川賞と直木賞の垣根は曖昧であるが、かつて純文学と大衆文学というジャンルが存在したころは、その賞には確然たる垣根が存在した。直木賞の扱いは芥川賞の半分程度であった。余談ながら、文学部の卒論テーマも、よほどのことがないかぎり純文学が対象であった。本日は節目の選考会。屈折何年の作家か、或はポッと出の若者か。いずれにしても、悲喜こもごもであることは過去も現在も変わりはない。さて、結果や如何に。
2014.01.16
コメント(0)
【岐阜新聞 分水嶺】いつごろからだろう。「元気をもらう」「勇気をもらった」などという言い回しをよく耳にするようになったのは。元気や勇気は、もらったりあげたりするものだろうか。どうしても違和感がある。「元気になった」「勇気づけられた」ではだめなのか。 スポーツ競技で使われることが多い。「被災地の人たちに勇気を与えたい」などと、宣誓やインタビューで選手が口にする。あえて言うが、スポーツは、それを見て生きるための勇気をもらうほど大層なものか。 スポーツの感動を否定するつもりはない。年のせいもあり、駅伝で県出身選手の力走を見て涙腺が緩んだりする。ただし頑張るのは勝利のためであり、人に何かを与えるためではないだろう。 ついでに言えば「~してございます」という言い方も変だ。もともとは企業などの企画プレゼンテーションで耳にした。昨今は普通のスピーチや挨拶(あいさつ)でも丁寧語のように使われるようになった。 ぼやき漫才の人生幸朗さんを覚えている人もいるだろう。流行歌のフレーズに文句を付け、「責任者出てこい!」が決め台詞(ぜりふ)だった。 日本語は時代とともに変化するものだとしても、生理的に嫌なものは嫌だ。今年は意識して文句言いの頑固爺(じじい)になろうと思っている。(1月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~そうだその通り!膝を打ちそう叫んでしまった。共感を覚えた諸氏は多いのではないか。なによりうれしかったのは『生理的に嫌なものは嫌だ。』の一文だ。文法解釈や歴史的背景などの見識は「そんなことは言うまでもない!」と行間に込め、ただ一文を記すのだ。これが大人の文章、分水嶺氏が言うところの『頑固爺』の、文章である。願わくは、分水嶺氏には『文句言いの頑固爺』に徹してもらい、事あるごとに気炎を上げてほしい。くれぐれも好々爺然とすることのないよう、あくまでも仁王面でお願いしたいところである。(※ご参考まで 画像の仁王様は近所の寺院のものである。今年から修復することになり、現在はごく間近で拝顔の栄を賜ることができるのだ。この機に乗じてカメラをむけた次第である、感謝合掌。)ときに頑固爺の部類に属さない方々のために、余計なお世話と承知しつつもひと言申し上げる。『与える』とは「相手の欲するものを、くれてやる」と三省堂新明解国語辞典にいう。今でいう「上から目線」なのだ。スポーツの勝者が「応援してくれる人に勇気を与えることができた」というのは、それが意図するものではないとしても、そう発言することによって「応援してくれる人が欲していた勇気をくれてやった」そういう意味になるのだ。勇気を与えられた、という応援者もしかり。猛烈にへりくだる気持ちがあるのならいざしらず、自分を貶めるような言葉は言わないほうがいい。分水嶺氏の言うよう『勇気づけられた』或は「勇気をもらった」と言ったほうがいい。このごろはNHKも平気で「勇気を与える」という。いわんや民法の女子アナをや、である。同業者で言いにくいこともあろうが、分水嶺氏には指摘してほしいところだ。少なくとも、系列のテレビ局には目を光らせていてほしい。そうれはそうと、一時は指摘があったがそれきりになったことに「させていただく」がある。どこぞの社会学者が「させていただく症候群」とうまいことを言っていたが、すでに聞くことはなくなった。なんでもかんでも「させていただきます!」ときたもんだ。これも分水嶺氏にご指摘願いたい。ということで、今年は『生理的に嫌なものは嫌だ。』そう感じたら分水嶺氏にお願いしようと思う。よき先輩を得た気分だ(^^)vどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
2014.01.15
コメント(0)
殿、ご乱心!殿は引退後、伊豆あたりで陶芸をしながら余生を送っていた。「俗人」ご尊父である16代目の殿は、息子を評してそう喝破した。時折聞こえてくる噂に、ご尊父の子息評はまことに正鵠を射ていると感服したものだ。殿、齢七十五。轆轤の前では陶芸の風景とかす老体も、政治の場にあっては老醜そのものである。【産經新聞 産経抄】小津安二郎監督作品になくてはならぬ存在で、「男はつらいよ」でも柴又帝釈天の「御前様」として人気を集めた笠智衆さんは、若いころから老け役が多かった。不朽の名作である「東京物語」(昭和28年)で、尾道から上京し、息子や娘を訪ねる70歳の父親を演じたときもまだ50歳になっていなかった。 妻役の東山千栄子さんと熱海の海岸で海をながめるシーンはことに印象深いが、背を丸めてみせるため浴衣と背中の間に座布団を入れたという。その後は徐々に役の年齢に実年齢が追いついていったが、笠さんのような枯れながらも芯が一本通った翁(おきな)は近ごろとんと、お見かけしなくなった。 「高齢化社会」という用語には、何となく陰気な響きがあるが、お年寄りが元気なのは良い社会の証し。経済発展によって日本人の平均寿命が延び、しかも枯れない元気な老人が増えたのは、すばらしいことである。 東京都知事選への出馬を決意した75歳の細川護煕元首相を、72歳の小泉純一郎元首相が支援するかもしれないと、永田町でも元気な老人たちの話で持ちきりである。2人を結びつけたのは「脱原発」だそうだ。 選挙戦はにわかに盛り上がってきたが、原発を立地していない東京都で「脱原発」を争点にするのは、かなり違和感がある。ともに60歳代で政界を引退し、ヒマを持て余していた2人が「脱原発」と「都知事選」という2つのオモチャをみつけた、というのは言い過ぎか。 もし、本気で「脱原発」政策を実行したいのなら国政選挙に打って出て、安倍晋三首相のように返り咲きを狙うのがスジというもの。笠さんのように良く枯れよ、とは言わぬが、いつまでも生臭過ぎると、「老害」となるのを肝に銘じていただきたい。(1月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~かつて仕事を介してKさんと知り合った。バイタリティーと情熱に満ち溢れた人で当時の細川知事の信奉者であった。氏は定年を迎えるやいなや熊本に移って行った。ささやかな一席で、K氏は「細川知事の熊本で暮らしたい」そう言っていた。新潟出身で都内在住の氏は熊本に縁もゆかりもあるわけではない。男一人の人生を左右する細川とは何者ぞ、私はそう思いながらK氏と盃を重ね、したたか酔った。新宿の始発でK氏と別れ、二三年は年賀の挨拶はしたがその後切れた。残念ながらK氏の消息は不明である。そしてご当地熊本ではこう書いている。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【熊本日日新聞 新生面】「自分がどう感じるかということよりも、自分がどう見えるかということに関心を持つ」。米国の精神科医A・ローウェンが「ナルシシズムという病い」に書いている。むろん、ナルシシストについての定義だ。 このタイプの人は自分の感情よりも「自分がこのように見えているだろう」というイメージを大事にするという。多少なりとも誰にでもある傾向だが、政治家や芸能人に目立つ。 細川護熙氏が東京都知事選に立つという。熊本には縁が深い方だが、「見せ方」「見え方」にこだわりが強いようにも感じる。その決断には何度も驚かされてきた。熊本県知事や首相への去就、任期途中での衆院議員辞職、陶芸家への転身など。 細川さんからすれば、イメージの創造に成功したのかも。その際の「決めぜりふ」も忘れがたい。県知事引退の時は「権不十年」、衆院議員の引退時は「60歳で政界引退を決めていた」「今後は晴耕雨読」。 格好はいいのだが、すべてが後講釈で、いつしかほごになりがちなのがちょっと残念だ。「60歳引退は選挙の時に言うべきでは」と聞いたこともあるが、納得できる説明はなかった。 今回の立候補の動機には反原発があるという。小泉純一郎元首相も唱えている。こちらもなかなか「見せ方」を知る人。言葉の使い方もうまい。もし細川氏を支援すれば、風を起こそうとするだろう。 ただし、衆院選を郵政民営化だけで戦うような劇場型選挙はごめんだ。そのツケは大きい。細川さんも晴耕雨読で学ばれたことだろう。(1月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~小泉さんと細川さん、何やら暗躍していると思ったら細川さんが担がれて都知事選に出るという。「やっぱりな」失望を感じつつも、そう思った人は少なからずいるのではないか。政治家というのは、普通とは異なった人種であることを、我々は知っているのだ。長年新聞社で働いた老父は「期待通りじゃないか」と失笑する。思えば「晩節を汚す」という言葉は政治家のためにあるのかもしれない。老醜をさらしながらテレビに映る御両名を眺めるに、そう痛感した次第だ。大義のない戦に勝ち目がないことは歴史が語るところだ。笠さんのように良く枯れよ、お二人さん。
2014.01.12
コメント(0)
【東京新聞 筆洗】正月といってもコンビニもファミレスも営業している。元日の深夜、たばこを切らしてコンビニへ行く。レジの前に並んでいる青年が正月らしからぬ弁当を持っている。 実家に帰らないのだろうか。コンビニの弁当がたまたま食べたかっただけならいいが、どうも引っ掛かる。〈行くところなき身の春や墓詣(はかもうで)〉 永井荷風。正月のにぎやかさは光となり、かえって心に映る影を濃くする。 永島慎二さんの代表作『漫画家残酷物語』に家出し正月を下宿で過ごす若者の話(『春』・一九六三年)がある。「下宿のふとんの中で除夜の鐘を聞いていたら自分の生活がとてつもなく寂しく思えて」「おとなしくしていれば、みんなニコニコおとそをのんで、おめでとうが言えたのに」。 これに着想を得た曲が、はっぴいえんどの「春よ来い」である。大滝詠一さんが十二月三十日に亡くなった。「春よ来い」は大滝さんの部屋で松本隆さんが永島さんの漫画を見つけて歌詞を書いた。作曲は大滝さんで七〇年のデビューアルバムのA面の一曲目に収録。彼らが目指した「日本語ロック」の嚆矢(こうし)といえる。 大滝さんは「春よ来い」の歌唱について民謡歌謡の三橋美智也と浪曲の広沢虎造に影響されたと言っている。正月の孤独に耐える青年の気持ちをしぼり出すように叫ぶ。 コンビニの元気のない青年はどうしただろう。春よ来いである。(1月4日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~コラムを読みおえて五代目柳家小さん師の「不動坊火焔」を思い出した。『なにもそんなこたぁ大きなお世話なんですな』小さん師のマクラはどれも含蓄に深い。はじまりはこうだ。『人の仙気を頭痛に病む、ってのがよくございますな。あの人は今あんな暮らしをしているが、先にいってきっと困るかもしれない、なんてね。』そして『なにもそんなこたぁ大きなお世話なんですな』となるわけだ。さて、コンビニの青年や如何に。筆洗氏はご親切にも「春よ来い」とエールを送るのだが・・・『おおきなお世話!』青年だけではない。黄泉の小さん師も気色ばんでいるのではないだろうか。『なにぃ言ってやがんでぇ』とかなんとか・・・。人のことをとやかく言うのは落語の場合、ごく人のいい大家さんか、面倒見のいい横丁のご隠居と相場が決まっている。だから傾聴に値するし、言われたほうもストンと落ちるわけだ。筆洗氏に上から目線を感じるのは私だけであろうか。少なくとも、大家さんのような「人のよさ」とご隠居のような「面倒見のよさ」を感じることはないのではないか?加えてつまらないことなのだが、歌風の「墓詣」はそのものズバリではないはずだ。いわゆる「象徴符」である。歌風は実際に墓参りに行ったわけではない。身を持て余し表に出ではみたものの、これといって感興をさそうものもなく、しかたなく場末の寄席にでも入った。実際はそんなところであろう。それをして「墓詣」と言ってのけるのが歌風の真骨頂なのである。それはそれとして、大滝詠一さんの急逝は少なからずショックを受けた。おりしも平成二十五年の物故者一覧を眺めていた時に聞いた一報であった。不謹慎な言い方で恐縮なのだが、物故者の大トリを飾るにふさわしい「大物」である。私は同年代三人と昭和を偲びながら「A LONG VACATION」に聴き入った次第だ。そしてまた、いい機会をいただいたので、久しぶりに桂枝雀師の「不動坊」を聞き直してみた。何度聞いても捧腹絶倒、演じる落語をやらせたらこの人の横に出るものは誰もいない。おかげで除夜の鐘が笑いの彼方に聞こえたものだ。いい年越しをした。え~、話のほうでは昔から「終わり良ければ総て良し」よくそう言ったもので。
2014.01.08
コメント(0)
【東奥日報 天地人】「印刷だけでは味気ないから、一言でも直筆で」。そう思うと、年賀状書きもなかなか進まない。多くの人がまだ呻吟(しんぎん)しているのではないだろうか。郵便局の年賀状受け付けがおとといから始まった。今年も残りわずか2週間。書き終えていない人はそろそろ尻に火が付いたことだろう。 賀状書きに苦しむ人は結構多い。作家の北杜夫(きたもりお)は若い頃、儀礼的に思えて、年賀状が嫌いだった。それでも、昔の先生などからもらうと、やはり返事をしないとまずい。だが、先に先生からもらって、返事を書くのも失礼だから、一計を案じた。「喪中欠礼」のはがきを出すことにしたのだ。 家の誰かが死んだことにし、これを3、4年続けた。「喪中とは知らず賀状を出して失礼しました」。ある時、こんな手紙をもらった。さすがに罪深さを感じ、「喪中欠礼」を廃止したとか。 ところが、年を取り、もらう賀状が千通を超える程度に減ると、感じ方が変わるから不思議だ。「古い友人から来る年賀状は楽しいものだ」。エッセー集「マンボウ家族航海記」にそう記す。 年賀状書きは年に1回、古い友人や知人を思う大切な機会だ。〈賀状書き心東西奔走す〉(嶋田摩耶子(まやこ))の句もある。「あの人は元気でいるかな」。遠くにいる懐かしい顔が頭に浮かべば、ペンにも自然に心がこもる。(12月17日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~記事は12月17日のものである。余計なおせっかいではあるが、天地人氏の賀状書きはもう終了しただろうか。それにしてもマンボウ北杜夫はケッサクではないか。氏のエッセーに馴染んだ世代にはたまらない。ピンポンに精は出しても(画像左)年賀状書きは不精した。挙句の果てが「喪中欠礼」である。これはタマランチ会長!当方は天地人氏からいい塩梅に背中を押され、というか、いよいよ尻に火がついてまずはデザインを決めた(画像右)。そして天地人氏のご助言を入れ「一言」のスペースを作った。そこからが問題だ・・・そして今に至る。まだ終わっていない。「イツモ笑ッテイルサウイウモノニワタシハナリタイ」もしかしたら元旦到着は難しいかもしれない。だから「私」ではなく「あなた」にそうあってほしくて入れてみたのだが。はてさて・・それはそれとして、つつがなく年賀状をしたためることに幸福を感じている人は少ないはずだ。たしかに天地人氏や俳句の嶋田摩耶子さんが書くように、懐かしく楽しく感じることはあろう。私とて、遅々として進まぬ賀状書きなれど、しみじみ懐かしさに浸っているのである。だからこそ、進まない所以でもあるのだが。齢、86の老父は訳が違う。年齢を重ねてその数が大激減し、今年に至っては百枚を切った。「年賀状を出す数と年賀欠礼通知は反比例する。」しみじみそう語る父は、長年使い込んだ万年筆で一字一句を選びながら年賀状をしたためた。もちろん表も裏も手書きでである。「同級生で残ったのは五分の一だ。気のせいか今年は鬼門入りが多かった。」決して沈痛の思いではない。父は何か遠くを眺めるようなやわらかな笑顔でそう言った。きっと「五分の一」にいて、こうして年賀状をしたためることができることに幸福と感謝を抱いているのではないか、私にはそう思えた。幸福感に包まれながら年賀状書きを進めた父は、すでに書き終わり投函も済ませている。愚息はこうしてブログは綴れど年賀状書きはいまだ終わっていない。父を横目によもや「喪中欠礼」は出来まい。天地人氏もまだ書き終えていないことを信じ、競う気持ちを奮って書き進めよう。今日が勝負だ!ときに老父ではこういう蛇足がある。「今年の○○会(小学校の同級会)は幹事が鬼門に入ったから出来ずじまいだった。誰が幹事を引き継ぐのだろう。会も自然消滅するかもしれないな。」その年代年代で幸福感同様にいろいろな心配や悩みがあるということだ。
2013.12.23
コメント(0)
【日本経済新聞 春秋】この人のことを「田舎の中学校の校長先生のような顔」と書いたのは、先ごろ死去した辻井喬(堤清二)さんである。実直で清廉で頑固。生涯を通したその姿勢をうまいこと表した褒め言葉だと思う。この人、政治家・伊東正義が生まれて100年目がきょうにあたる。 地位を得、何事かを為(な)して名を残す人はいくらもあるが、地位を蹴り、為さざることをもって名を残すまれな人である。大物候補が軒並み金銭スキャンダルにまみれた1989年、金にきれいなこの人しかないと請われた首相就任を断った。「自民党という本の中身を変えず表紙だけ変えても意味がない」と語ったという。 大平正芳元首相との関係は盟友とも腹心ともいわれた。大平が選挙直前に急死した80年、官房長官だった伊東は首相臨時代理になったが、その36日間、官邸の首相執務室を決して使おうとせず、閣議では首相の椅子に座らなかった。政治資金集めのパーティーは開かない。勲章は断る。一事が万事、こうした調子で生きた。 話の数々はよく知られていても、日がたつにつれ、為したことばかりが幅を利かせて記録にも記憶にも蓄えられていく。さしでがましいとは思うが、水やりを怠って伊東の逸話を枯らせてしまうわけにはいかない。一生を振り返るとそんな気になるのである。そういえば、田舎の中学校の校長先生のような顔を最近見ない。(12月15日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~すっかり忘れていた。かつて政治家にも人物はいたのだ。コラムで伊東氏の生誕百年を綴ったのは、おそらく日経だけではないか。サスガである。『伊東の逸話を枯らせてしまうわけにはいかない。』そしてまたその意気や見事である。何とも新聞記者としての自負を感じるコラムなのだ。こういう記者がいるかぎり新聞は安泰だ。昨今の新聞を見るにつけ、辟易の感はいよいよたかまっていたので、私はとても安堵を覚えた。日経、春秋氏に謹んで敬意を表する次第だ。さて、日経といえばこんな思い出がある。あれはもう三十年以上前のことだ。新宿の酒場だ。そこに流行り始めたカラオケなどあるはずもなく、歌といえば年配の流しが時折訪れる、至って新宿らしい場末の酒場であった。そこの常連で年のころは五十そこそこ、皆からセンセイと呼ばれ慕われていたのが日経の文藝記者であった。「センセイはどんなに酔って帰っても一日一冊本を読むのよ」おかみから聞いた話だ。センセイはずば抜けて座興上手であった。それが読書の賜物かもしれないが、そんなことは微塵も感じさせることはなかった。私は、後にも先にもセンセイほど博覧強記な人を知らない。だがセンセイは博士ではなかった。言うなら大博士であった。気さくで楽しくて涙もろくておまけに何でも知っていて、だから皆に慕われていた。もちろん私もセンセイが大好きであった。私の新宿通いは卒論作成とゼミの研究発表により終息した。センセイとはそれっきりだ。やがて昭和から平成に変わり、機会があって場末の飲み屋を訪れた。だがビルに変わっていた。コラムを読んで思った。センセイが皆から慕われた理由は、胸の底に秘めた自負心だったのだろうと。なるほど伊東正義も自負の人であった。会津人としての矜持を感じもした。柴五郎閣下の面影を伊東の中に見るのは私だけではありますまい。そして柴閣下もまた会津を自負する人であった。私は春秋氏に意気を感じ、新聞記者としての自負心を見た。春秋氏は伊東正義の政治に意気を感じ、政治家としての自負心を見た、そういうことであろう。つまり自負心の連鎖である。人はおしなべて、自分の仕事に自分の立場にそして自分の人生に「自負」をもって生きなければならない。センセイが座興で語った一言半句は、ただただ楽しかった。それが今コラムに重なり、センセイの胸の内が少しだけわかった気がする。日本経済新聞 春秋氏に感謝(^人^)センセイやいずこ。すでに昭和は遠い昔である。
2013.12.18
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】~酒はしづかに~テレビドラマ『半沢直樹』の決めぜりふ「倍返し」は、流行語大賞に選ばれた。放映中の『リーガルハイ』の怪演も大評判だ。堺雅人さんは、今年もっとも活躍した俳優の一人だろう。その堺さんが同じ宮崎県出身で、早稲田大学の先輩にも当たる、若山牧水の大ファンだという。酒と旅をこよなく愛した歌人として知られる牧水とは、高校時代の恩師である歌人の伊藤一彦さんを通じて出会った。「牧水にとって酒も、歌と同じくらい大事な宗教だったのかも」。堺さんは伊藤さんと杯を傾けながら、『ぼく、牧水!』(角川書店)のなかで熱く語っている。いかにも飲み方に品格が漂っていそうなお二人には釈迦に説法だが、酒はときに「凶器」にもなり得る。国土交通省によると昨年度中、乗客による鉄道係員への暴力行為が900件を超えた。特に多発傾向にある首都圏では、約7割が飲酒絡みだ。「お酒は理由にならない!暴力は犯罪です」。たまりかねた全国の鉄道事業者は、忘年会シーズン本番を迎えた今週から、「STOP暴力」を訴えるポスターを駅構内や列車内に掲示している。泥酔のあげく暴行や強制わいせつに及んで、有名人が逮捕される事件も後を絶たない。各自治体も、職員の飲酒運転やセクハラなどの不祥事に警戒感を強めている。「その一線 越えたら職場へ 戻れない」。酒宴が一段落する時刻になると、職員に注意を促すメールを送る消防署まである。「白玉(しらたま)の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」。牧水の数ある酒を詠んだ歌のなかでも、もっとも人口に膾炙(かいしゃ)した一首であろう。師走の夜も「酒はしづかに」、しかもほどほどにと自らに言い聞かせて、街に繰り出すことにする。(12月13日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~画像は牧水にあらず、山頭火である。あれこれ思いをめぐらすに、何ともプププッな写真である。牧水の酒飲みは知るところだが、彼は飲んで乱れたのだろうか?掲歌を読む限りそんな感じはうかがえない。かたや山頭火の乱れは知るところで、このブログでも何度も綴ってきた。山頭火は酔って電車を止めたこともあったが、その大方は身の回りで「こじんまり」と起している。このごろは、酒の乱れが暴力事件に発展しているようで、こうなると「乱れ」でなく「暴れ」であろう。我同法。不得飲酒。若違此者。非我同法。亦非佛弟子。早速擯出。不得令踐山家界地。若爲合薬。莫入山院。伝教大師最澄の残した文章の中では、弱冠のころに記した「願文」がつとに有名なのだが、死に臨んで弟子に託した「御遺誡」も実にすばらしいものだ。上記はその一文である。現代語にするとこうだ。『我が弟子たちよ。飲酒(おんじゅ)をしてはならない。もしこれが守られなければ私の門でも私の弟子ではない。そして仏弟子でもない。そういう輩はすぐに比叡山を降りて二度と戻ってはならない。酒を薬として飲むこともならぬ。』1200年前の「御遺誡」が化石となった仏教界はそれはそれとして、眼目は「亦非佛弟子(そして仏弟子でもない)」である。数多い仏教書のうちで最も古い聖典といわれるのが「スッタニパータ」だ。碩学、中村元先生の『ブッダのことば』として、現代においても目にすることが可能だ。難解な教理ではなく、人間として正しく生きる道をブッタが諄々と説くものである。もちろん、ブッダは門弟に対して一切の飲酒を禁じていることはいうまでもないのだが、人々にも不飲酒を説いている。「スッタニパータ」ではこう記す。「不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。これは終に人を狂酔せしめるものであると知って。けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、また他の人をして怠惰ならしめ、悪事をなさせる。この禍いの起るもとを回避せよ。これは愚人の愛好するところであるが、しかしひとを狂酔せしめ迷わせるものである。」実に2500年以上前に説いた真理である。我々は仏にむかい合掌して祈り願うにもかかわらず、その後に平気で飲酒をする。その実態は古の先祖から、何も変わっていない。先の最澄の真意は「仏様も飲酒を禁ずるのだから絶対に飲むな」そういう念押しであろう。だがしかし、現実において「泥酔のあげく暴行や強制わいせつ」が多いのだ。曰く、諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、である。この歴史を思うにつけ、師走の夜も「酒はしづかに」、しかもほどほどにと自らに言い聞かせて、街に繰り出すことにする。それは無理でしょ、産経さん!それこそ「歴史認識」が甘いというものだ。さればどうするか。ブッダが説いているのだ。この禍いの起るもとを回避せよこの真理を体得するしか他にはない。飲まなければよい、ただそれだけの事だ。と軽くいってはみたものの、それが出来ないから酒の失敗が続くわけだ。つまるところ強欲である。たかが酒の話ではある。だがその深淵から自ら抜け出せない限り、それは永遠に続く。或る意味で地獄なのだ。少なくとも酒は、ひとを狂酔せしめ迷わせるものである。そう心得て飲むことにしたい。産経さんもどうであろう?
2013.12.16
コメント(0)
【朝日新聞 天声人語】苦楽をともにしてきた老妻が死んで、葬式もすんだ。隣家の奥さんが通りかかって「お寂しゅうなりましたなあ」。「一人になると急に日が長(なご)うなりますわい」。つぶやく夫の向こうに瀬戸内の海――。変哲もないシーンながら、映画「東京物語」のラストは何回見ても胸にしみ入る。 監督の小津安二郎は「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」と後に語っている。その術に心ふるわせたファンは多かろう。世界的な巨匠の、きょうは誕生日にして命日。生誕から110年、没して50年にあたる。 作品の多くは、家族や人のつながりを「無常の相」としてとらえる。古き良きものが崩れていく現実が淡々と示される。作詞家の故・阿久悠さんは小津映画を見ながら、家の間取り図を描いたことがあったそうだ。 そこでは家族それぞれが、他の家族を見るともなく目の端に入れながら暮らしている。盆栽をいじる父、料理をする母、本を読む妹、グローブに油を塗る弟――。「絆」という語をあまり叫ばずにすんだ時代かもしれない。 いま、「孤」という字が社会にのさばる。むろん家族にも地域にも煩わしさや重荷はある。それを嫌って、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏みすぎて来なかったか。功と罪を、古い映画は問うているかのようだ。 「おれは豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言って作風を変えなかった。今ならどんな映画を撮るだろう。その墓は鎌倉の円覚寺にあって、「無」の一文字が刻まれている。(12月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ふたたび小津監督である。先の記事はコチラをご覧いただきたい。朝日新聞も負けじとばかりに小津監督を扱った。「道徳」というと妙に反応する朝日新聞なのだが、記事はなんとも「道徳的」ではないか。とはいえ、こういうコラムを目にすると、サスガは朝日、そう思わないではいられない。「道徳的」なところが鼻白まないでもないが、それもご愛嬌だ。一定の抑制も感じる。今日はわきまえているのだ。やればできるじゃないの、天声人語さん!それはそれとして、小津監督はやはりいうことが違う。「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」文学もそうだが、「ふたたび」の気分にさせてくれるかどうか、それが真贋を見究める判断だと私は心得る。その気分を起すのが小津監督のいう『あと味』なのだ。豆腐屋は正鵠を射る。何事も、ふたたびという『あと味』にさせてこそ真(一流)となる。だから『あと味』のないものは即ち贋(三流)である。余談ながら昨今、サービス業界で言われている「顧客満足」のもとになるのも、「ふたたび」の気分にある。物が売れない、客が入らない、そうお嘆きの企業や店舗に共通するのは、商品やサービスに「ふたたび」の気分が起きないということだ。つまり、小津監督の言う『あと味』がないのである。新規開拓に汲々としているところは疲弊し、やがて没落の憂き目を見る。それは映画も店舗も同じことなのだ。「人は自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」豆腐屋小津安二郎、そうサラッと言いのけるだけの大人物なのだ。(移ったり辞めたりを繰り返す議員さんとは大違いなのだ。)墓石に「無」と刻ませることだけはある。いまだ拝んではいないが、円覚寺の「無」は、さぞやさまになっていることであろう。ときに天声人語さん。『今ならどんな映画を撮るだろう。』これは無粋だ。そして『あと味』の何たるかをご理解いただいていないというものだ。まずは、『何回見ても』胸にしみ入ったという「東京物語」を、もっともっと見てほしい。それはそうと。「剣岳」で気をよくしたのか、木村キャメラマン改め監督が、またメガホンを手にしたそうだ。しかも山が舞台と言う。木村氏らしい。小津DNAの最後が木村氏あたりになるのだろうか。封切の折は、是非とも劇場に馳せ参じたいと思う。新作に思いを馳せ、亡き大監督を偲ぶ師走半ばであった。
2013.12.15
コメント(0)
【佐賀新聞 有明抄】~没後50年の巨匠~「おれは豆腐屋だ」と映画監督の小津安二郎は言った。「がんもどきや油揚げは作るが、トンカツなんてできないよ」。たまには趣向の違う映画を作ったらどうか。そんな周りの声への返答である。 小津は生涯に54本の映画を作っているが、その多くは家庭生活を描いたものだ。その一つ「東京物語」(1953年)は昨年、英国の映画雑誌が企画した「映画監督が選ぶ名作」のベスト1に選ばれた。批評家選定の部門でも3位に入り、世界的な不朽の名作をあらためて印象づけた。 尾道の老夫婦が独立した長男や長女を訪ねて東京旅行に出る。歓待され、失望もする。夫婦を慰めるのは戦死した次男の嫁。そんな話の展開の中で時代がもたらす家族の変容と崩壊を描き、心に染みる。年月を経ても色あせないのはテーマの普遍性にもあるのだろう。 小津は1903年12月12日に生まれ、63年の同じ日に亡くなった。生誕110年と没後50年が重なる今年、名作を未来につなぐ企画も盛んだ。東京国立近代美術館フィルムセンターでは12日から来年3月末まで「小津安二郎の図像学」展。東京 神保町シアターでは1月まで現存する37本の小津作品を上映するという。 自らを豆腐屋と称した小津は、それに呼応するこんな言葉も残した。「人は自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」。(12月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【山陽新聞 滴一滴】60歳の還暦の誕生日に、くしくも亡くなったのが「東京物語」「晩春」などで知られる小津安二郎監督だ。あす12日が没後50年と生誕110年に当たる。 「東京物語」をリメークした「東京家族」(山田洋次監督)が今年公開された。英国映画協会発行の雑誌が昨年行った世界の映画監督による投票では「東京物語」が第1位になった。年月を経て、内外からの評価はむしろ高まっているように思える。 カメラを低位置に固定したローアングル、せりふや感情を極力排した独特のスタイルは「小津調」と称された。派手な演出や劇的な展開に慣れた目にはかえって新鮮だ。 「映画ってのは、あと味の勝負だ」とかつて語っている。「最近は、やたらに人を殺したり、刺激が強いのがドラマだと思ってる人が多いようだけど、そんなものは劇じゃない。椿事(ちんじ)です」(「人生のエッセイ 小津安二郎」)。 今日でも通じる重い言葉だ。夫婦や親子の関係から人生の悲哀に迫った数々の作品は普遍的な価値を放ち、国や時代を超えて共感を呼ぶ。 「東京物語」に続く「早春」は、東京の本社から地方の工場に転勤するサラリーマンを描いている。舞台になったのが備前市三石地区。主演の池部良さんらがロケに訪れたのは58年前だ。地元に刻まれた巨匠の足跡もしっかり伝えていきたい。(12月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さすがにいうことが違う。「おれは豆腐屋だ」ひとつことに邁進する姿は美しい。そこから発せられた言葉も、だから人の心に響くのであろう。先日、文化勲章を受勲した高倉健氏のコメントもそうであった。「一生懸命やっていると、ちゃんと見ててもらえるんだな」ところで、このごろの映画にはさほど興味を感じずにいたが、釈然とした。「最近は、やたらに人を殺したり、刺激が強いのがドラマだと思ってる人が多いようだけど、そんなものは劇じゃない。」「刺激」は「CG」に言い換えられようか。でも本質はそういうことだ。我が意を得たり。こういうことだ。私はけっしてこのごろの映画を否定するわけではない。そして素晴らしい作品も多々あると思う。ただ、こちらの興味が、観た映画の数と寄る年波というふるいにかけられて、明確になってしまった、そういうわけなのだ。そして気力と体力も衰えた、それもある。だから今、私が映画に求めるものは「演技」、ただそれだけである。齢半世紀を過ぎ、後は自分の好きな作品を観ていきたい。そうことで、このごろの映画にはさほど興味を感じずにいるのだ。豆腐屋は正鵠を射た。きっと、サラッ、と言ってのけたのであろう。決して自信漲る態度であったはずはない。そう思う。小津安二郎という御仁、こういう方なのだ。「人は自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」百万の美辞麗句も寄せ付けない圧倒的なカッコよさではないか。つまり、ひとつことに邁進する姿は美しい、そういうことだ。ときに機を逸したこともあるが、なんとはなしにリメイクの「東京家族」(山田洋次監督)は観ていない。食指が動かないこともないが、まずは本家本元だ。今宵は「東京物語」を楽しもうか。正月は小津三昧に暮れてみるのも悪くは無い。そう思うと味気ない暮れの繁忙も頑張れるというものだ。そしていつの日か「人は自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」と人様に垂れることができるよう、さらなる精進を誓う次第だ。映画監督小津安二郎1963年12月12日没、享年60歳。中年の高鳴る思いが彼岸に届くことを願い、合掌。
2013.12.13
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】「嘉田由紀子代表と小沢一郎氏を結びつけたのは、何だったのだろう」。昨年暮れのコラムにこう書いた。当時、内紛状態にあった日本未来の党から嘉田代表が離れ、党に残った小沢元民主党代表のグループが、名前を「生活の党」に変えた騒動を題材にしたものだ。 みんなの党の江田憲司前幹事長が昨日、13人の同調議員とともに離党届を提出し、年内の新党立ち上げを宣言した。「渡辺喜美代表と江田氏を結びつけたのは、何だったのだろう」。名前を入れ替えただけの一文で用が足りてしまう。 「自民党にすりより、与党化をうかがうみんなの党は、原点を見失ってしまった」。江田氏はきのうの会見で、離党の大義を強調していた。ただ、新党結成を急ぐのは、懐具合の事情が大きい。政党交付金の額が、1月1日の時点での国会議員の数などで決まるからだ。新党設立が、永田町の「師走の風物詩」と呼ばれるゆえんである。 ところで平成21年のみんなの党結成の際、名前を付けたのは、江田氏だった。氏のブログによれば、桑田佳祐さんが率いる人気バンド、サザンオールスターズの「みんなのうた」に、感化されたという。 サザンといえば、これまで何度も解散の噂が立ち、活動休止や桑田さんのがん闘病という危機にも直面してきた。それらを乗り越え、結成35周年の節目を迎えた今年、ロックバンドとして初めて、菊池寛賞にも選ばれている。 「いつの日か この場所で 逢えるなら やり直そう」。江田氏は今も、カラオケで十八番(おはこ)の「みんなのうた」を熱唱しているのだろうか。野党再編の軸となり、政権交代を可能にする勢力を作り上げるというのなら、まず、桑田さんのリーダーシップを見習うべきだろう。(12月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~どうもしっくりこない。奥歯に物が挟まった感じがする。諸般の事情があることは想像するに難くはないが、もう少しはっきり書いてもいいのでは?産経さん!!それはそれとして、年末恒例の政治「茶番劇」のはじまりだ。「風物詩」にあらず!なぜか。年末であることは産経抄の説明の通りだ。だから政党交付金の締め切りが夏なら、江田新党は来年の夏になったはずだ。そういうこと。大義は聞いて鼻白むが、ドッチもコッチもソッチもアッチもみな同じである。まさに「茶番劇」なのだ。『江田氏は今も、カラオケで十八番(おはこ)の「みんなのうた」を熱唱しているのだろうか。』これは違う。おそらく、昨晩あたりは「別れても好きな人」を熱唱したことであろう。往年の名曲だが、もちろん「別れても~♪好きな人~♪」と歌うはずはない。替え歌である。肝心なところは「別れたら~♪次のひと~♪」だ。そして極めつけはコーラスだ。後ろで民主の細野氏と維新の松野氏は江田氏に随歌するわけである。「(江田)別れたら~♪(細野・松野)別れたら~♪ (江田)次のひと~♪(細野・松野)次のひと~♪」ときにこの手のゴタゴタがあるたびに思うのだが、選挙で該当政党を支持した人にとってはペテンにかかったようなものではないか。そもそも比例代表という選挙制度は、合理的論理的な整合性をみない、いわば「感情的」「感傷的」な制度であると、思わざるを得ないのだ。「私にはまだ賞味期限が残っている」そう言って議員を続ける御老人もいるが、よもや比例当選の離党者は、「先の選挙の賞味期限はもう切れている」と思っているのだろうか。幸か不幸か、私はそこに投じてはいないので気色ばむこともないのだが、なにやら釈然としない思いに駆られるわけだ。みな茶番ではないか、そう思うとかえってストンと落ちるのだが、それも実にむなしい。昨日は一茶の句を載せた。ともかくもあなたまかせの年の暮※詳細はコチラから一茶は阿弥陀様にすべてをおまかせした。さて、我々はだれにおまかせしたものか・・・まずは産経さんに強烈なイッパツを期待したい。
2013.12.11
コメント(0)
画像はSankei Photoマンデラ氏の訃報にふれ、吟遊映人でもその死を悼む記事を掲載したが(コチラ)、新聞のコラムでも、連日マンデラ氏を扱いその死を悼んでいる。あらためてマンデラ氏の偉大さを思った次第だ。その中から佐賀新聞と神奈川新聞のコラムを掲載する。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【佐賀新聞 有明抄】~虹の国~元南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)の撤廃闘争を率いた同国初の黒人大統領ネルソン・マンデラさんが永眠した。95歳だった。世界の指導者からも畏敬の対象だった。 「マンデラの犠牲があまりにも大きかったために、世界中の人々は、人類の進歩のためにできることをしなければ、と駆り立てられた」。数年前に出版されたマンデラ氏の自著に、心酔する米国のオバマ大統領が序文を寄せている。 武力闘争の末の27年の投獄生活は想像するに余りある。だが家族の心配を和らげるためか、同著で紹介する獄中からの手紙にはユーモアも。「独房は自分を知るのに理想的な場所」と就寝前の瞑想(めいそう)を妻に勧めた。自分の欠点が見えるまでは10回くらいは試すようにと促し、「聖人とは絶え間なく努力する罪人なのだということを、決して忘れないように」。 この長い瞑想で悟ったのが、白人を許し、報復を戒めることだった。獄中に武力闘争を放棄し、白人政権との対話を提唱、1994年に選挙による政権交代を実現して大統領に就任した。 「黒人も白人も恐れを抱くことなく、人間の尊厳に対する権利に確信を持ち、虹の国を築き上げよう」。就任演説で多様な人種が共存できる国をそう表現した。式典には投獄中に知り合った白人の看守も招いた。「やられたらやり返す」とは程遠い人だった。(12月8日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【神奈川新聞 照明灯】優しさに満ちた笑みが印象的だった。ノーベル平和賞受賞者であり、最も敬愛されたアフリカ人の一人だったともいえる。南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が亡くなった。 享年95。長寿とはいえ、その人生を反アパルトヘイト(人種隔離)闘争にささげ、27年半は政治犯として獄中にあった。長く収容されていたロベン島では、粗末な食事や重労働に苦しめられた。 夜には「内なる敵」が忍び寄った。政府の卑劣な仕打ちが家族に及んでいないかという不安に襲われたが、差別のない国を目指す闘士は不屈だった。自著によると、妻に送った手紙に「暗澹(あんたん)たるときでも真実を見限ることなく、あきらめることなく何度も試み、愚弄(ぐろう)されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人に、栄誉は与えられます」とつづっている。 アパルトヘイト廃絶の実現を獄中から訴えた。釈放後、白人への報復を戒め、人種間の融和に尽力した。内戦ではなく選挙による民主的な国民統一政府の誕生は、アフリカ大陸の各国にも影響を与えた。 南アフリカ国民ならずとも、父のような偉大な政治家を失った悲しみは深い。世界各地で起きている紛争や差別の解決に向け、その高潔な精神や不屈の闘志が受け継がれることを望みたい。(12月7日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~両紙とも、氏を敬いその死を悼む気持ちが伝わってくる。人の尊厳に触れた、とても健全なコラムだと思う。しかし、残念なことに、新聞社の中には、昨今の『特定機密保護法』にかこつけてマンデラ氏の記事を掲載していたところがあるのも事実だ。法案成立以前、ことさらに「絶対阻止」を叫んでいた新聞である。手法はどこも同じで、前半にマンデラ氏の死を悼みそして功績を引き、後半でこう唱えるのだ。「だから我々もマンデラ氏にならい絶対反対を叫び続けよ」異口同音である。ただただ鼻白むだけだ。不健全なコラムの、人の尊厳に対して真摯にむかいあえない人々に、憐れみを覚え深い悲しみを抱くのだ。それはそれとして、各紙のコラムを読み、私は中村元先生が書かれた一文を思わずにはいられなかった。『みずからは正しい誓願を起していること。これこそ人生に喜びと確信を与えるものである。高らかな誓願を立てていれば、挫折に屈することもないし、気のめいることもない。他人からとやかく悪口を言われても、誓願をもっている人なら、蚊のなくほどにも気にとめないであろう。いかなる困難も誓願のまえには無にひとしいのである。』著書「ブッタのことば(スッタニパータ) ~こよなき幸せ~」の解説文である。マンデラ氏の、獄中での27年間も、釈放後の活動も、その基となり支えとなったのは、すべては氏の誓願によるものであろう。マンデラ氏とは信じるものは異なれど、発露であることは間違いなく、またその「念い」は同じはずだ。マンデラ氏の誓願を思い描きながら、今ふたたび哀悼の意を表し、衷心からの合掌を捧げる次第だ。南無阿弥陀仏、合掌。
2013.12.09
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】元タイ大使の岡崎久彦氏は、長く防衛庁の情報担当局長や外務省の情報調査局長をつとめた。ものものしい肩書で、国家の最高機密を全て握っていたのかと思ってしまう。だが実際には「本当の機密はひとつも教えてもらっていない」という。岡崎氏自身が『明日への選択』12月号のインタビューで明かしていることだ。役所の文書にはしばしば、「マル秘」や「極秘」の判子を押した。だがどれも漏らしたところで犯罪にはならない情報だった。特定秘密保護法ができても、誰も指定はしない類いだったという。 では本当の機密はどんなものかといえば、例えばレーダーの性能であり、軍艦の甲板の厚さなどである。漏れれば国の安全にかかわる情報だ。しかしそれは外務省の局長でも手が届かない。一般の国民や新聞記者がつい入手し、漏らしてしまうような代物ではない。 ただ岡崎氏によれば、そうした本当の機密に当たる技術は米国が優れている。それが漏洩(ろうえい)すれば、米国の国家機密を漏らすことになり、日米の安全保障の対話ができなくなる。だから秘密保護法が必要なのだ。どこかストンと腑(ふ)に落ちるような気がした。 だが民主党や一部のマスコミの方には、ストンと落ちないらしい。徹底して特定秘密保護法案を廃案に追い込む考えのようだ。法案の中身に関係のない石破茂自民党幹事長の「テロ発言」をも足を引っ張る材料にする。一方で廃案にすることで失われる国益にはお構いなしだ。 スケールが違うとはいえ昭和35年の安保騒動を思い出す。大半の人は日米安保条約改定の意味もわからないまま「反対」を叫んだ。野党も「極東の範囲」など不毛な議論に明け暮れる。50年以上たちその愚を繰り返すというのだろうか。(12月4日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『すべては茶番の中なのだ、政治と言うものはむかしからそうだった。』先日、八十六歳になった老父はテレビを見ながらそう呟いた。現役時代は地方新聞に身を捧げた父である。そして父は、昨今の新聞を見るにつけ、忸怩たる思いを抱かないではいられなかった。側にいる私は、その思いを痛いほど感じた。テレビは咆哮するデモ隊に映像が移り、父はまた口を開いた。『大衆に理論は通じない。あるのはムードだ。それを操れるものが大衆をリードする。』思いは異なれど、デモ隊に咆吼する動物を思い描いたのは、どうやら私だけではなかったようだ。さて、それはそれとしてご参考までに記事にある『石破茂自民党幹事長の「テロ発言」』の全文を添える。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのは知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫しし、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~原発反対も特定機密保護法絶対阻止も一時のTPP反対も「気持ち」はわかる。よく言うではないか。「君の気持ちはわかるよ・・・」と。しかし「わかる」の後に「・・・」がつくのだ。「反対か賛成か」はさておき、概ね人は犬が好きか猫が好きかに別れる。それと同じで、つまりは「感情的」なことがらなのだ。だからどうこう言ってもはじまらない。ただ、それはコチラに害が及ばない範囲でのことである。原発反対も特定機密保護法絶対阻止も人に迷惑を掛けてはならないはずだと、私は思う。法的根拠だけではない。道徳的な話も含めてだ。渦中の方々にしてみるとお祭り気分でいるのかもしれない。老父は正鵠を射る。『大衆に理論は通じない。あるのはムードだ。それを操れるものが大衆をリードする。』だがしかし、そこに何の主義も見出せない人、或いは意を唱える人にとって、あの「原発反対」「特定機密保護法絶対阻止」の騒ぎは暴力以外のなにものでもない。何の因果か、私は何度か遭遇しているが、あの乱痴気騒ぎにはもううんざりだ。念のために、ここでもう一度記すのだが「反対か賛成か」ではない。その方法の問題を述べている。騒ぎの首謀者(と見られる)が言っておられた。「手続きを踏んでおり合法的である」なるほど。法的な根拠はあげられたが、でも道徳的な配慮はあげられない。たとえば、子供がたくさんいる公園で、煙草をパカパカ吸って人は憚らないのか。吸殻を砂場に捨てても法はおかしていないはずだ。それでいいのか。それと同じ事だと思うのだが・・・自己実現を達成するために周囲を犠牲にしていい、そういう考えなのであろうか。国会同様、その茶番に気づいてほしい。ときに『石破茂自民党幹事長の「テロ発言」』について。この一件は論旨のすり替え以外の何物でもない。これはおかしい。石破幹事長はデモを否定することはひと言も触れてはいないし、その意図を行間からでも読むことはできないはずだ。『単なる絶叫戦術』をして『テロ行為』と断じているわけで、これは正論だ。デモ隊とマスコミの方々は言う。「石破氏はデモを否定する!」何が恐ろしいかといって、意図的に歪曲された世論ほど恐ろしいものはない。しかも今回はペンの力でそれがなされた。腕力をもってそうなった方がまだ救われる。かつてマスコミに奉じた老父は忸怩たる思いを抱き、私は近来稀に見る危機感を覚えるものである。哲学者の適菜収氏は歴史認識に関する小論文でこう指摘する。『より正しい歴史認識のためには、殊更に「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背後を研究する必要がある。』さて、この理論をあてはめてみると、なにが見えてくるか。どす黒く汚れた暗黒の闇の正体は何か。それにつけても、最後の砦は産経新聞だ。マイノリティーの分を堅持し、強敵に立ち向かってほしい。「産経新聞には気骨のある記者が、まだいる」老父はそう言った。
2013.12.06
コメント(0)
【産経新聞 産経抄】インド代表の東京裁判判事として、日本人被告全員の無罪を主張したことで知られるパール博士は、裁判後の昭和27年にも来日している。このとき日本の教科書を見て嘆いたという。「日本は侵略戦争を行った」と書かれていたからである。 産経新聞社『教科書が教えない歴史』によれば、博士は「子供たちが歪(ゆが)められた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されていくのを、見過ごすわけにはいかない」と訴えた。こんなに早くから日本の歴史教育の問題点を見抜いた外国の識者がいたとは、驚くべきことだ。 パール博士だけではない。恐らく戦前からの日本の歴史を日本人以上に正当に評価し、好意を寄せてくれたのはインドの人々だ。まだ占領下にあった昭和24年には、東京の子供たちの願いを聞いてネール首相がゾウの「インディラ」を上野動物園にプレゼントした。 昭和35年、皇太子・同妃時代の天皇、皇后両陛下がインドを訪問されたとき、そのネール首相はこう演説した。「日本の政策には同意できたもの、できなかったものもあったが、つねにわれわれは日本と日本国民、その美徳を尊敬してきた。日本は偉大である」。 そのインドを天皇、皇后両陛下が公式訪問されている。長年のインドからの招請に応えたもので、両陛下にとり35年のとき以来53年ぶりのご再訪である。天皇陛下は訪問にあたり「インドへの理解を更に深める機会となることを期待しています」というご感想を発表された。 ご高齢にかかわらず国際親善に尽くされる両陛下に、ただただ頭が下がるばかりである。ゆったりとご旅行いただきたい。同時に国民としてはこの機に、パール博士をはじめ他に例を見ないインドとの交流の歴史を思い起こしたいものだ。(12月1日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~両陛下は、今日から公式行事を執られるという。ご無事をひたすらお祈り申し上げるのみである。従姉妹から久しぶりに電話があった。九十過ぎの伯母を連れ、東京に出かけたという。用事を済ませタクシーで東京駅に向う途中で皇居にさしかかった時、伯母は言ったそうだ。「宮城(きゅうじょう)に参りたい。」「母は哀願するようにいうものだから、新幹線の予定を変更して皇居に行ったのよ。」二人は皇居正面でタクシーを降りたそうだ。足の不自由な伯母は自歩の散策はかなわない。ひとしきり皇居を眺めると伯母は満足したそうだ。「皇太子様ももうご高齢だから健康には十分に気をつけていただきたいわね。」皇太子様とはもちろん今上陛下である。伯母は、陛下より一回り以上も年上だ。それを「ご高齢」といい、陛下の健康を気遣うのが私には微笑ましくも、たいそう清々しく感じた。「母はとてもうれしそうだったの。あんな笑顔は久しぶりに見た気がしたわ。だからタクシーで皇居を周遊したのよ。」話から、伯母の満足感は十分に理解できた。伯母はタクシーのウィンドに顔をつけるようにして皇居を眺め続けていたそうだ。視線の先にある皇居はどう映ったのであろうか。食い入るように眺める伯母の姿が目に浮かんだ。続きがある。「母がね、もう一回お願い、というのよ。」親子は皇居を二周したという。私は、二人に日本人の血流のようなものを感じた。皇室は、世界において日本だけが有している「生きた歴史」である。それを敬い誇りとすることで、日本人としての正気が保たれているように思うのだ。二人には、それが脈々と流れている。こういう人たちがいる限り日本はまだまだ大丈夫だ、少しおおげさかもしれないが私はそう思った。さて、それにしてもパール博士の明察ぶりは見事である。惜しむらくは、かくも見事な先見を昭和27年から公の場で見逃してきたということだ。産経新聞はこういう指摘に長けている。何よりそれが「正論」であることは言うまでもない。A新聞やM新聞が、左翼的な発言を繰り返し、社論をもって世論を煽る昨今である。正しい事を正しいと胸を張って主張することが、どれほど労力のいることかは推察するにあまりある。そんな中でマイノリティーとして気炎を吐き続ける産経新聞に、私は謹んで敬意を表する。ご参考まで、先日の産経抄も引く。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「産経新聞を定期購読している人は決して多くない」。フランス文学者の鹿島茂さんの書き出しの一文には、ショックを受けたものだ。しかし、「多くはないが、その数は減ることはない。いわば強固なる少数派である」と続いて、ほっとする。 実は、『シャネルの真実』(新潮文庫)の解説文から引いた。鹿島さんによれば、「少数派」とは、世間でいうところの「保守派」だけを意味しない。長く小紙パリ特派員を務めたこの本の著者、山口昌子さんのファンであるフランコフィル(フランス好き)も含まれていたという。 購読者の数はともかく、小紙が少数派であることは、間違いないらしい。平成17年10月の、小泉純一郎首相の靖国神社参拝について、全国48の新聞が社説を掲げた。参拝に反対する主張が大半で、「もろ手をあげて支持したのは産経だけである」と、朝日新聞がわざわざコラムで教えてくれた。 その朝日が先日、特定秘密保護法案についても、全国の新聞各紙の社説を検証していた。多くが、反対ないし懸念を表明しているなか、もちろん小紙は意見を異にする。北東アジアの緊張が高まるなか、日本版NSCの創設とともに、安全保障にかかわる機密の漏洩(ろうえい)を防ぐための法整備の必要性を訴えてきた。 といっても、「もろ手をあげて」賛成しているわけではない。国民の知る権利、報道の自由が損なわれることはないのか。一定期間の過ぎた機密の公開の原則は守られるのか。小欄も参院での審議を見守っている。 それにしても、と少数派は首をかしげる。国家機密を守る当たり前の法律のせいで、日本が再び「戦争する国」になってしまう。そんな主張を真に受ける国民が、本当に多数派なのだろうか。(11月28日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~それにつけても、天皇誕生日はもうすぐだ。テレビを通してご尊顔の栄に賜ることの出来る日が楽しみである。まずは両陛下が健やかにお帰りになられることを、心よりお祈り申し上げる次第だ。
2013.12.02
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】紅白(こうはく)歌合戦の出場者が決まると、つい、「知ってる歌手探(さが)し」をしてしまう。最初は知らない歌手を数えていたのだが、とっくに逆になった。 名前や顔どころか、読み方の分からない出演者までいる。泉谷(いずみや)しげるさんは知っているが、なぜ今ごろ初出場なのか、さっぱり分からない。どんどん時代に置いていかれるのか、それともはやり歌の世界がせわしなさ過ぎるのか。 かつては視聴率(しちょうりつ)80%、「国民的行事」といわれた歌番組である。もう、そんな言い方はなじまない。歌合戦に対する熱気(ねっき)は薄(うす)れたが、それでもこの国は「国民的」が好きである。国会では特定秘密保護(とくていひみつほご)法案を巡っても、盛んにその言葉が飛(と)び交(か)った。 賛成派は、法案は「国民的」理解を得たと主張する。反対派は「国民的」議論がまだ必要だと反論する。ダシに使われる方は、たまったものではない。まるで、どっちの主張にも賛成する、いい加減な「国民」だらけだというのだろうか。 自分たちの主張を、都合よく「国民的」と言い換(か)える悪い癖(くせ)なのだろう。世から世、人から人へ、心を打つ流行歌も、心を腐(くさ)らせる詭弁(きべん)も受け継がれていく。(11月26日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~実に妙である!連日の北國新聞なのだ。時鐘氏のコラムは冴えが増す。まるでこの冬一番の寒気に沿うようだ。正論であることはもとより、紅白歌合戦から国会にもってゆく妙は第一級である。眼目はここだ。『自分たちの主張を、都合よく「国民的」と言い換える悪い癖なのだ』正鵠を射る。まさにこの一文のためにあるのではないだろうか。ちなみに、社論を世論に摩り替えるのはA新聞の常套手段なのだが、それをして時鐘氏は『心を腐らせる詭弁』と言ったのであろうか。ひとつ聞いて見たいところだ。ご参考まで、同日のA新聞のコラムにこうある。『安倍政権の本来の性格がはっきり出てきた』激烈に断じるわけなのだが、『本来の性格』というのは『自分たちの主張』に他ならない。そしてそれこそA新聞の『本来の性格』であり、それを自ら『はっきり出』してしまったことになるのだが・・さらにご参考まで、A新聞は第一次安倍内閣の時に『安倍内閣の葬儀はうちで出す』と言い放ったそうだ。だとすると、それがA新聞の『本来の性格』である。ともかくも、『国民的』と言われた多くの人々は、『ダシに使われる方は、たまったものではない。』そう思っているのだ。そしてここからが時鐘氏の面目躍如なのだ。氏の大人たる所以はここでわかる。ただしわかる人にだけだ。泉谷しげる。あたりかまわず人目はばからず言いたいことを言いまくる、この悪口はなはだしい初老のおっさんは、きっと時鐘氏と同年代のはずだ。されば時鐘氏、泉谷のおっさんにホンネを託し読者にそれを伝えたかった、私はそう思うのだ。『たまったものではない』きっと泉谷のおっさんなら『バカヤロー、クソ食らえ!』そう言ったはずだ。時鐘氏が泉谷のおっさんに託したホンネであり、時鐘氏の第一級の大人たる所以である。このごろの新聞には辟易した人も多いことであろう。『いい加減な「国民」だらけだ』新聞のそういう見下す姿勢を「国民」はちゃんと見て取るのだ。侮ってはいけない。そして特定秘密保護法より新聞の行く末を案じてやまないのは私だけであろうか。私にとって時鐘氏は最後の番人であり、新聞の未来を託せるただ一人である。時鐘氏には北陸の北風に立ち向かうがごとく、常に気炎万丈でいてほしい。ますますのペンが冴え渡ることを願ってやまない次第である。頑張れ北國新聞、時鐘!
2013.11.28
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】断じて、お世辞(せじ)でも皮肉(ひにく)でもない。ケネディ新駐日米大使の顔のしわに、飾(かざ)らない自然な美しさを覚(おぼ)える。 女性の化粧術(けしょうじゅつ)には不案内だが、巧みな「修復法(しゅうふくほう)」は山ほどあって、それに金を惜(お)しまぬセレブも結構いるそうな。だが、もとより、年齢を重ねてしわを刻(きざ)むことは、しくじりでも恥(はじ)でもない。隠さない方が自然だし、本物である。 しわを取り上げるなど、女性に対して失礼なのかもしれないが、大切な自然な美しさを教えてくれる人もいる。意志の強さを目尻に刻んだサッチャー英元首相のしわも、そうだった。 加賀藩3代藩主の前田利常(まえだとしつね)は「鼻毛(はなげ)の殿様(とのさま)」として有名である。鼻毛を伸ばして「バカ殿」を装(よそお)い、幕府(ばくふ)を油断(ゆだん)させたというが、本当だろうか。鼻毛の手入れを忘れるほど政務(せいむ)に励(はげ)んだ人、鼻毛ごときで百万石(ひゃくまんごく)の威信(いしん)は揺(ゆ)るがないという信念(しんねん)の人だったようにも思える。幕府にしても、鼻毛1本で警戒を解(と)くほど、甘いはずはない。 人目をはばからず化粧する女性の姿をよく見る。美しく装うつもりで、情けないことに逆のことをしている。新駐日米大使の目に止まらないことを願いたい。(11月25日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~このごろは下火になったが名門ホテルや一流百貨店、或いはレストランでの食材偽装が話題となった。件数の多さや法的に抵触しないこと、何より他の事故や事件が数多あり、意外なほどあっけない結末となった。すでに遠い過去の話である。そのさなかにずっと思っていた事がある。昨今流行のアンチエイジングやカツラも「偽装」ではないのだろうか。四十五歳のご婦人が二十五、六に化けるの年齢詐称ではないのか。年齢を重ねて薄くなった頭髪をカツラで覆うのは粉飾ではないのか。愚にもならないとは思いつつも、そんなことを考えていた。そんな折に時鐘氏はコラムで喝破してくれた。我が意得たりの気分で膝を打った次第だ。『年齢を重ねてしわを刻むことは、しくじりでも恥でもない。隠さない方が自然だし、本物である。』そうだ、その通り!だから、『ケネディ新駐日米大使の顔のしわに、飾らない自然な美しさを覚える。』全くその通りで、痛快な気分を覚える。ときに彼女は着任早々の25日、東北の被災地を訪問したという。画像はその時の様子だ。※Sankei Photoより初日はグレーのスーツ、二日目は黒のスーツに身を包んでいた。そして「顔のしわ」である。間違いなく多くの国民が彼女に好感を抱いたことであろう。だがしかし、である。そうなると話は別なのだ。(話題が変わります!)唐突だが、時代劇ならさしずめこういうセリフが出てくるほずだ。「親分、ありゃぁ食ぇねぇアマですぜ!」もしくは「親分、あのアマぁ、ソウトウなもんですぜ!」忘れてはならないのは、それは単なる「見た目」でり眼前の表層の一部にすぎないのだ。彼女の内側である人格や職務たる任務の内容について、我々はその本質を何も知らないのだ。つまり、我々はそう思い込んでいる、ということなのだ。別に彼女を疑っているわけではなく、現実と感想を分離したまでのことだ。問題を最初に戻す。これはレストランの食材偽装と同じではないのか。有名な産地から直送した食材を使ったカタカナ名の料理は見目麗しい。だから我々は信じて疑わなかったはずである。もう一度いう。我々はそう思い込んでいる、そういうわけだ。大切なの事は、今我々が目にしているものは本質とは限らない、ということだ。それから己が身を省みるとき明白になるはずだが、人は大いなる多面性をおびた生き物なのだ。個人的な次元でもそうなのだから、そこに社会的な役割(仕事や立場など)が加われば、その多面的なことは言わずもがなである。ある一面を見てすべてを判断することは、とても大きな危険をはらんでいるということを忘れてはならない。加えてその判断は、感想や思い込みに過ぎないということだ。そしてもうひとつ。これも忘却の彼方かもしれないが、彼の国による盗聴事件はつい先日の事である。私は間諜の必要性を認めるし、国家の平和を維持していくためには盗聴は間諜における必要欠くべからざる戦術だと思っている。故に私は彼の国に敬意を表し、それについて異を唱える方々を平和ボケと断じる。しかしながら、アメリカ合衆国がそれを粛々と実行する国家である、という事実も忘れることはない。同盟国たる彼の国は、そういう国家だということなのだ。さて、26日の産経新聞で目についた「タイトル」がある。『憲法守って国滅ぶ』これは核心をついた。本質である。何はともあれ、食材偽装も駐日米大使も、その本質を見なければならないということだ。それが見えないときは、感想や思い込みで判断するのは避けたほうがいい、そういうことである。それにしても寒さが増して時鐘氏のペンは日々冴える。冬場が強いのは北陸の面目躍如であろう。ますますのご活躍を期待したい。
2013.11.27
コメント(0)
【福井新聞 越山若水】戦前戦後の少年たちが「赤バットの川上」とあこがれ、その大打者ぶりから「打撃の神様」と尊敬されたプロ野球元巨人の川上哲治さんが先月93歳で亡くなった。 数々の名セリフの中で最も有名なのは「球が止まって見える」だろう。投手の投げたボールが目の前でピタリと止まる。だからいとも簡単に打ち返せたという。 そんなことが本当にあるのか、誰もが首をひねる。しかし不可能ではないらしい。中国文学者、高島俊男さんの「お言葉ですが…第11巻」(連合出版)で教わった。 科学者の寺田寅彦は「空中殺人法」という文章で、練習次第で1秒の時間をうんと長くできると書いている。現に、かつての水上武術で達人ともなると、船から水面に落ちる間に敵を仕留めたそうだ。 自身も同じ経験をしたという。天文観測を始めたころは、望遠鏡の星はすぐに視界から消えて行った。しかし慣れるに従って星が段々ゆっくり見えて来たと寺田は述懐する。 高島さんは、ゾウとネズミの寿命の長短について実は双方の時計が違うだけという説を紹介。動物と同じく人によって1秒の長さも異なると推理する。 本人が慣れていることを他人がやると「ひどくのろく見える」のは、自分の1秒が他人の3秒に匹敵するからだと納得する。「球が止まって見える」かどうかはともかく、何事も習練が大切なのは間違いなさそうだ。(11月20日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~真理が説かれた。大上段でなく、サラッと書かれたことが有り難い。『本人が慣れていることを他人がやると「ひどくのろく見える」のは、自分の1秒が他人の3秒に匹敵するからだ』年齢を積み重ねるほどにこなれて傾聴する姿勢も(多少は)身についた。そうなると周りは真理の山だと理解した。1秒の違いの所以は『双方の時計が違うだけ』たったそれだけの事である。その真理がわからずに、目くじらを立て文句を言いまくってきたわけだ。これ即ち徳薄重垢という。この道理もまさに真理であり、我が身を持って真理に浸っている、嗚呼。それはそれとして、テレビで加治屋さんの作業を見た。コラム氏の言う『習練』であり、その世界では『鍛錬』という。余談に曰く、鉄は熱いうちに打て。またまた曰く、ヤキを入れる。徳薄重垢の身が最近学んだことがある。『久修業所得』偈(経典)の一言にこうある。書き下し文はこうだ。『久しく業を修して得る所なり。』そして和訳はこうだ。『過去に行をおこなって獲得したのである。』※中村元先生による。仏様とはいえ行を積まれた。いわんや凡夫をや、と言うことなのである。コラム氏はいみじくも結べり。『何事も習練が大切なのは間違いなさそうだ。』人を見て一喜一憂するのは虚しい。そして人との比較は不毛だ。自分がどうなのか、ただそれのみを考えていたい。自分は努力を惜しむことはなかったか、繰り返しそれを問いながら進んでいこう。
2013.11.22
コメント(0)
【日本経済新聞 春秋】おばあさんの皺(しわ)のよりかたにもいろいろあるらしい。縦の皺なら唐傘。縦横なら縮緬(ちりめん)。そしてもっぱら横だと提灯(ちょうちん)ばあさんと言うんだという。昭和の名人古今亭志ん生なら「そんなこたあ学校で教えてくれませんな」とやりそうだが、最近聞いた落語のなかの話である。 金を無心にきたと勘違いされた若い衆が「金貸してくれの提灯のってわけじゃねえ」と啖呵(たんか)を切るのも落語で耳にした。こうなるともうなぜ提灯なのかも判然としない。ともかくも、提灯が暮らしの身近にあった名残である。いま、飲み屋の赤提灯と並んで気を吐くのが、東京・浅草寺雷門の大提灯ということになろうか。 一昨日お披露目されたのが6代目。高さ3・9メートル、直径3・3メートルの巨体をつくったのは京都の老舗、京都・丹波の竹や福井県の和紙を材料にした工芸品でもある。「提灯に釣り鐘」といえば、重さが違いすぎることから縁談などが釣り合わないときに使うたとえだが、700キロというのは提灯としては破格の重量であろう。 病気快癒のお礼に松下幸之助が寄進したことに始まるというこの大提灯、今回もパナソニックが奉納した。ただ、はめ込まれた銘板にはこれまで通り旧社名の「松下電器」とある。どちらでもいいようでも、「松下」のほうが由来が分かるし、和風だし宣伝臭さがない。提灯を持ちたくはないが、持たなくてもそう分かる。(11月20日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~パナソニックもオツなことをする。浅草には「松下電器」の方が似合っている。それにしても日経も粋ではないか。コラム氏の熟れたペンが冴え渡る。こういうコラムを目にすると実に清々しい。そしてまた新聞コラムの結びについておおいに考えさせられた。提灯を持ちたくはないが、持たなくてもそう分かる。これは一流だ。よくあるのが、時流時分の話題を上手に引いて、結びで政治を綴るやり方だ。あれは野暮で興ざめ。ペテンまがいの文章は三流というものだ。コラム氏は話題をたとえ話として使うのであろうが、そういう方法は読者を馬鹿にしている。たとえなど引かなくともわかるのだ。言いたいことはストレートに言ってほしい。最初から読まないから(笑)ときに提灯、落語とくれば五代目 柳家小さん師の十八番に『提灯屋』がある。登場人物が多く、場面も入れ替わりするため、表現を得意とする小さん師にはもってこいの演目なのだ。掛け値なしに面白い。そしてこのサゲは愉快だ。いわゆる「とんち落ち」である。ややあって、なるほど、とうならせ高笑いを誘うという次第だ。サゲは文章でいえば結び、つまりは落語もコラムもサゲが命、そういうことなのである。秋の夜長に書物を置いて落語に興じてみてはいかが?秋夜の落語は値千金、かもよ。
2013.11.21
コメント(0)
【秋田魁新報 北斗星】男鹿市で撮影されたJR東日本のCMで、吉永小百合さんは「なまはげは鬼でなく、神様だった」と語った。佐竹敬久氏に当てはめれば「知事であり、殿様だった」となろうか。先ごろ全国放映が始まった「龍角散」のCMのことだ。 殿様役の佐竹知事が、香川照之さん扮(ふん)する医師の作ったのど飴(あめ)で快癒し、褒美に薬草畑を与える内容。香川さんは同社が生薬栽培の協定を結んでいる八峰町でロケを行った。美郷町と協定を結んでいることも字幕で説明される。 知事は佐竹北家の21代当主。同社社長の祖先は佐竹氏の藩医を務め、現在の美郷町に住んでいた。八峰町出身で同社元役員の加賀亮司さん(67)=千葉市=が知事出演に一役買うなど、藩政期の縁、県人の縁が栽培連携やCM制作に結び付いた。 映像ではこんな背景は伝わらないから「なぜ秋田の知事が?」という声も多いだろう。知事の企業CM出演に対する意見はいろいろありそうだが、いまのところ話題性が先行しているようだ。 ともあれCMで「水の国」とされた本県の水の清らかさをPRできるのはありがたい。生薬栽培に意欲を示す県外自治体も多いが、加賀さんは本県での一層の栽培振興に努めてくれるというから心強い。 さて褒美を与えた殿様には、生薬の産地確立に向けた振興策を引き続き打ち出してほしい。八峰町で育つ生薬カミツレの花言葉は「逆境に負けない強さ」。マイナスの指標が多い本県に、いま最も欲しい植物ではないか。(11月19日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~何はさておき秋田県知事に謹んで敬意を表したい。コラム氏の書くが如く、初めてCMを見た時は「なぜ秋田の知事が?」そう思った。CMでナニかしらのテロップはわかったが内容までは把握できなかった。しかしCM自体はインパクトがあった。製作者の思考やインテリジェンスが伝わった。そして品のよさを感じ、大人気のある作品に好感を抱いた。余談であるが老父はさっそく龍角散を買い求めていた。「ゴホンといえば龍角散、冬はこれに限る。」ということだ。効果覿面である。CMの所以はそういうことか。コラムによりこうして判明すると、胸のつかえが降りたようで晴れがましい。そして勇気ある知事に「サスガは秋田県」という想いを抱かないではいられない。何よりそういう風土たる秋田に畏敬の念を抱くのだ。そして羨んでいる。後世畏るべし。それにしても秋田は凄いのだ。何が凄いのかは初夏の記事(コチラ)と初秋の記事(コチラ)をご覧いただきたい。そして今回はさらに凄さが加わった。世が世なら秋田知事はやんごとなきお家の主というではないか。こういうのを大人の洒落として使わないほうはないのだ。経緯はわからないが、そこに加わったのは知事の英断だと思う。他所の人間は間違いなくそれを「勢い」と見る。仏語に「いま為すべき事を為せ」とあるが、私は知事の為すべき事だと確信する。アベノミクスは2014年中には成熟のピークをむかえることであろう。秋田はきっと高笑いしているはずだ。もちろんCMの件だけではない。秋田がいままで粛々と描いてきた図面は、大画として世に出ることは間違いない。コラムを読んで確信した。その所以は秋田が「逆境に負けない強さ」それを常に持ち続けているからではないか、コラムを読み秋田県民の心胆はここにある気がしたのだ。比較するつもりはないが、我が住むところの知事に期待することは何もない。コチラが望まなければアチラも何もしない、だから波風は起きずそこそこの人気はある。これを平和と独りごちても空しいばかりだ。だからなおのこと秋田が羨ましく知事の人物を想はないではいられないのだ。願わくは・・・いわゆる抵抗勢力やなんでも反対団体は必ずいる。よく見る「世論調査」でも、その手の輩が5%程度はいるはずだ。知事はそういう輩に負けないでほしい。それを願いつつ、遠地より秋田県民と秋田県知事にエールを送りたいと思う。
2013.11.20
コメント(0)
全120件 (120件中 1-50件目)