全50件 (50件中 1-50件目)
1
その同じ頃、トゥパク・アマルもまた、一人、天幕を抜けて深夜の白い月を見ていた。滑らかなその月の光は流れるように地に注ぎ、彼の漆黒の影を静かに引いていく。真夜中の木立を吹きぬける冷風に揺られながら、さやさやと繊細な音を立てる木の葉にも、月明かりが濡れたように反射している。彼の長い黒髪が、風の中に溶け込むように静かに舞っている。辺りは実に幻想的な眺めだった。戦乱の足音が着実に近づいているというのに、この静けさは何だろう。いずれが夢か現(うつつ)か分からなくなりそうだ。嵐の前の静けさ、さしずめ、そのようなところであろう。トゥパク・アマルの思念に呼応するがごとく、突如、静けさを破って甲高い声を発し、一羽の黒い鳥が茂みの中から上空指して飛び去った。彼は飛び去る鳥の黒い影を目で追った。黒い影は、深い藍色をした夜の天空に吸い込まれるように消えていく。それは、かのインカ帝国の旧都――クスコがある方角だった。トゥパク・アマルは、直観した。クスコに、反乱の情報が伝わったに相違ない。再び険しい目つきのまま上空を見つめる彼の全身に、追い討ちをかけるがごとく、一陣の強風が吹きつける。彼の纏う黒いマントが、巨大な漆黒の翼のように、バサリと音を響かせながら大きく風の中に翻った。いよいよ戦闘の真の幕開けだ…――!!月明かりをその美しい目元に反射させながら、強い決意を秘めた横顔で、トゥパク・アマルは天頂を振り仰いだ。 ◆◇◆ お知らせ ◆◇◆本日もお読みくださり、誠にありがとうございます。今回にて、「第四話 皇帝光臨」は終了となります。明日から、「第五話 サンガララの戦」に入って参ります。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.23
コメント(6)
一方、コイユールが作業に再び戻ると、アンドレスは気配を感じ取られぬように、そっとその動きを止めた。気配を読み取ることにも既に長けているアンドレスにとって、眼下の空き地に人が入ってくれば、瞬時にそれは分かった。当然ながら、偶然にも、それと気付かず自分の方向にやってくるコイユールの姿を、彼もまた、心臓が止まる思いで高台の上から見ていたはずである。そして、ついにコイユールが自分に気付き、見つめるその視線を感じながら、しかし、アンドレスはその視線に応えることはできなかった。彼は、コイユールがしたように、相手を真っ直ぐ見つめることもできぬまま、ただ後ろ姿のままで、しかし、彼女の気配だけはしっかりと感じ取りながら、ただ気付かぬふりをしてサーベルを振るしかなかったのだ。今や、アンドレスは、コイユールを一人の女性として強く意識している己の心を、はっきりと自覚していた。しかし、今の彼には、己の立場と、任務と、責任と、そして、己の心とのバランスを、一体どうとったらよいのかまるで分からなかったし、この状態でコイユールとひとたび身近に接したら、ギリギリに保っているバランスを崩してしまいそうで非常に怖くもあった。今、こうしていてさえ、サーベルを握る指も、既におぼつかない。そんな自分を感じると、アンドレスの心はいっそう落ち着かなく、ひどく不安になった。彼はそのまま逃げ去るように、完全に己の気配を消したまま、決して振り向かずにその場を立ち去った。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.22
コメント(8)
時が止まったように思える。周囲には、本当に、二人以外は誰もいなかった。しかも、少し大きな声で呼べば、十分に声が届く距離である。コイユールの心臓は、早鐘のように激しく打ちはじめた。手足が微かに震えてくる。釘付けられたままの彼女の瞳の中で、アンドレスはこちらに背を向けたまま、幾度も、幾度も、ただ黙々と、一刀一刀に渾身の思いをこめるようにサーベルを振っていた。素人の彼女の目にもわかるほどに、それは、本当に、力強くも美しい動きだった。あの少年の日、アンドレスの瞳の中に燃えていた蒼い炎が、彼の全身から発せられているのを、コイユールは今、はっきりと感じ取ることができた。コイユールは切なさと共に、否、それ以上に、何か感極まるものを感じて、胸が熱くなるのを覚えた。彼女は揺れる恍惚とした瞳で暫しアンドレスの姿を見つめた後、そっと瞼を閉じて、その後ろ姿にむかって心の中で指を組んで祈りを送った。インカの民の解放、その共通の願いが、あのまだ幼かった二人の心を結び合わせた懐かしい日々。そして、今、その同じアンドレスは、それに相応しい一人の武人に成長して、あのインカ皇帝にも等しきトゥパク・アマルの信頼のもとで、確実に、かつての願いの実現を形にしつつあるのだ。アンドレスが己の道を真っ直ぐに進んでいるように、自分も、自分なりにできることを精一杯するのみなのだ。物理的な距離がどれほど遠くとも、傍で感じられなくとも、大事なことは、そんなことではないはず。コイユールは、うっすらとこみあげた涙をつい泥のついた指先でぬぐってしまい、泥が顔についてしまうと、ちょっと慌てながら夜闇に感謝する。それから彼女は、音を立てぬように注意深く残りの作業をすませてしまうために、再びジャガイモに視線を戻した。
2006.06.21
コメント(4)
空き地の入り口付近で警護に当たる険しい目つきのインカ兵が、鋭い声でコイユールを呼び止めた。「こんな夜中にどこに行く。」コイユールは重そうなジャガイモのカゴを抱えたまま、兵の方に頭を下げた。「チューニョをつくるために、空き地の隅にジャガイモを野ざらしに行くだけです。すぐに戻ります。」兵は、コイユールとジャガイモとを見交わして、「こんな夜中にせずとも。」と訝しげな目をしてはいたが、「では、すぐに戻ってくるように。」と、通してくれた。コイユールは、もう一度、頭を下げてそこを通り抜けた。空き地の隅に着くと、ジャガイモと一緒に持ってきた蓆(むしろ)を敷き、その上にジャガイモを丁寧に並べはじめた。まだ冷え込みの強い季節のうちにこの作業を終えておくことで、貴重な保存食、チューニョを作ることができるのだった。チューニョはアンデス地帯に古来から伝わる伝統的な保存食で、冷え込みの強い夜間のうちにジャガイモを野ざらしにして霜で凍結させ、その後、真昼の強い日差しで解凍させることを3~4日繰り返し、最終的に、しっかりと足で踏みつけてよく脱水することによってできあがる加工食品である。晴れた空に輝く月明かりがコイユールの手元を照らし、その作業の進行を助けてくれる。黙々とジャガイモを並べているうち、心の平静が少し戻ってくる。半分ほど並べ終えると、彼女は冷気に凍える手を軽くこすり合わせた。そして、手元を照らしてくれる月に感謝するように、白い月を優しく見上げた。手の平をそっと開くと、その中に月の静やかな白い光が満たされる。その手の中の美しい光に見入る彼女の傍を、深夜の冷たい風が静かに吹き抜けていく。まるで精霊でも現われてきそうな、幻想的な雰囲気の漂う夜の風景だった。いっそう幻夢を誘う夜風が、周囲の草木をそっと揺らしていく音がする。コイユールは、その優しい音に耳をすませた。精霊の声が聞こえるかもしれない、そんな気持ちで。そんな彼女の耳元に、風の音にしては、やや趣の異なる規則的な音が微かに響いてきた。それは、何か、まるで空(くう)を鋭く切るような音である。その音の方向に視線を動かす。空き地の少し先にある高台の一角で、美しい構えでサーベル片手に、一人、素振りの練習をしているのは…――。それは後姿ではあったが、コイユールには、すぐにそれが誰か分かった。(アンドレス…!!)コイユールの視線は、その姿に釘付けられた。
2006.06.20
コメント(10)
マルセラは再びコイユールを見て、「アンドレス様も、いくら忙しいからって、ちょっとくらい、あんたに会いにきてもいいはずじゃない?」と、本当に訝(いぶか)しそうに首をかしげた。マルセラは、コイユールが義勇兵に加わっていることを伝えた時、アンドレスが確かに嬉しそうにしていたと感じていただけに、いっそう首をひねった。もちろん、アンドレスに対して自分自身も特別な感情を抱くマルセラにとって、あの時、コイユールのことを知ったアンドレスの過剰な反応に複雑な心境を抱いたことは事実だった。しかし、竹を割ったような性格のマルセラは、嫉妬のような感情を抱くタイプではなかった。事実は事実として受け留める、そうした潔さを備えていた。ただ、マルセラ自身も、まだこの時は、コイユールの気持ちも、アンドレスの気持ちも、よく分かってはいなかった。そのため、マルセラは、ただ純粋に思うがままを口にした。「だって、あんただって、もう何年も会ってないんでしょ。以前は、あんなに仲良さそうだったじゃない。せっかく、今、こんなに近くにいるのにさ。」コイユールは自分でも説明しきれぬ動揺を感じながらも、確かに、マルセラの言葉の一つ一つに、その胸はひどく痛んでいた。本当に、こんなに近くにいるのに、どうして一度も会いにきてくれないのだろう。でも、今や連隊長として重責を担っている身なのだし、それどころではないはずだわ。だけど、一言くらい…あっても…。まさか連隊長ともあろう者が、一義勇兵に会いにくるなんて、他の人の目もあるのだから。でも…、人目につかずに、ちょっと声をかけるくらいできそうなものなのに…。いえいえ、こんな大事な時に、自分などに構っていられるはずはないでしょう。それとも…自分のことなど、もしかして、本当に忘れてしまったの…?コイユールの中で、二人の自分が矢継ぎ早に声を上げる。いつの間にか無意識に下を向いてしまったコイユールに味方するように、マルセラは大きく溜息をついた。そして、「アンドレス様も、せめて一言あんたに何かあってもいいだろうに。意外と冷たいお人なんだね。ちょっと見損なったな。」と乾いた声で言って、全く本心から眉を顰(ひそ)めた。 その晩、コイユールは先刻のマルセラとのやり取りにずっと心を占められたまま過ごしていた。すっかり夜も更け、そろそろ多くの兵は天幕の中で就寝に入る頃である。コイユールも、天幕の下でその身を横たえていた。しかし、とても眠れる気分ではないし、静かに横たわっていると、かえって余計なことばかり考えてしまいそうだった。今が、インカ軍にとって、いかに緊迫した状況下にあるのかを理性ではよく認識していた。今は、心を一つに、インカの民の復権のために、心を一つに、そのことだけに心を集中しなければならないはずだ。それなのに、今の自分の心は、一体、どこを向いてしまっているのだろう…!!コイユールは横たわっていた身を、素早く起こした。そして、そのまま天幕をそっと抜け出し、片付けを先ほど済ませたばかりの炊き出し場に向かった。時々、インカ軍の警護の者が松明を片手に巡回しているくらいで、辺りはすっかり静かになっている。彼女は炊き出し場の一隅に積まれているジャガイモの方へ向かい、それらを大きなカゴに入るだけ入れた。どのみち、近いうちにしておかねばならぬ作業なのだ。それは、この地域の保存食「チューニョ」をつくるために、ジャガイモを野ざらしにし、霜で凍結させる作業である。実際、晩春の、まだ気温の低い夜のうちにやらねばならぬことだった。どうせなら、眠れぬ今、やってしまおう。幸い、今夜は冷え込みも厳しいし、作業にはうってつけの夜だった。コイユールはカゴいっぱいに積み上げたジャガイモを炊事場から運び出すと、天幕が張り巡らされている界隈から離れ、訓練場の端の方にある空き地に向かった。
2006.06.19
コメント(6)
それから、コイユールは再び瞼を閉じ、そっと胸の前で手を組んだ。そして、ゆっくりと、その意識を別の人物へとシフトさせていく。(アンドレス…!)心の中で呼びかける。ふっとアンドレスの面影が脳裏によぎる。その途端、先ほどにも増して胸の鼓動が速まって、コイユールはとっさに目を開けた。そして、再び小さく溜息をつく。義勇兵に加わってからというもの、いつもこうだった。アンドレスのことをイメージし、光を送ろうとしても、自分でも説明のつかぬ雑念が邪魔をして、決してうまく行うことができない。まだ高まっている鼓動を感じながら、微かに揺れる瞳で見つめる夕陽は、既に群青色の夜闇に溶けつつあった。コイユールは観念したように深く息を吸い込むと、アンドレスへ向けていた意識を、故郷の祖母へと移していく。(おばあちゃん…!どうか、どうか、元気で暮らしていて。)祖母のもとに光を送る彼女の閉じた瞼から、微かに光る涙が滲む。遠目から見ると、コイユールの姿は、空に向かって瞼を閉じたまま、まるで放心しきっているように危うげに見える。そんな彼女の傍に、仕事に一区切りつけたマルセラがゆっくりと近づいた。「コイユール!」ハッと目を見開いて声の主を振り返るコイユールの瞳の中で、すっかり隊長補佐的な役割が板についたマルセラの変わらぬ闊達な笑顔があった。コイユールも、何となく安堵を覚え、微笑み返す。それから、彼女はアンドレスのことは心の隅にそっと隠したまま、もう一つの懸念をマルセラに尋ねてみる。「キキハナの代官は、捕まえられそうなのかしら?それとも、反乱のこと、クスコに知られてしまうのかしら?」マルセラはやや難しい目をして、「まだ、代官は捕まっていないらしいけど…。」と答える。見合わせる2人の表情に、不安気な影がよぎる。しかし、マルセラはその瞳に再び力を宿してコイユールを見つめ、彼女の叔父であるビルカパサを思わせる毅然とした張りのある声で話す。「いずれにしても、スペイン側に知られるのは時間の問題だったし、ね。どのみちスペインの討伐軍と戦うことになるのは、トゥパク・アマル様もはじめから計算に入れてのことだから。だって、そのために、あんなに何年間もかけて同盟者を増やして、準備してきたのだもの!」そして、ビルカパサ似のその凛々しい瞳で改めてコイユールを見つめ、青年のような眼差しで微笑んだ。「あんたが、そんなに心配しなくって大丈夫よ。」コイユールは、マルセラの頼もしげな眼差しに深く頷き、微笑み返す。本当に、この短期間に、マルセラはインカ軍の一人の長に向けて急速に成長しつつあるのだと、改めて感じる。「それより…。」と、マルセラは、少々ためらいがちな声音に変わって、コイユールをしげしげと眺めた。「コイユール、アンドレス様と会った?」いきなりマルセラの口から「アンドレス」の名前が出て、コイユールは口から心臓が飛び出しそうになるほどドキンとして、身を竦(すく)めた。そして、ためらいがちに小さく首を振る。マルセラはやや難しい表情をつくった。「あんたが叔父様の連隊に加わってること、私、ずいぶん前にアンドレス様に伝えたんだけど。」コイユールは息を呑んだ。それじゃ、アンドレスは、自分がここにいることを知っているのだ…――!!鼓動が早鐘のように打ちはじめる。
2006.06.18
コメント(6)
コイユールは自分の不吉な想念を振り払うように、思い切り頭を振って、それから、きっ、とした目でその不気味な空を見返した。そして、再び瞳を閉じ、頭の中からその嫌らしい血のイメージを押し出すように、光のイメージを脳裏に描いていく。それから、インカ軍が布陣を敷いているこの一帯の地域を心に思い描き、それに向かっていつものように太陽と月のシンボルをイメージで描き、秘伝のマントラを3回唱える。すると、イメージの中で、光が全軍を包んでいく様子が感じられる。いつにも増して、熱心にコイユールは光を送った。さらに、彼女は閉じた瞼の中に、全軍の指揮者、トゥパク・アマルをイメージする。そして、彼に向けて集中的に光を送る。トゥパク・アマルにしてみれば、義勇兵の天幕の片隅で、そのようなことをしている者がいるなど知る由もないだろう。しかし、コイユールはトゥパク・アマルに光を送ることで、それは、すなわち特殊な波長で相手にアクセスすることであり、従って、逆にトゥパク・アマルの様子を逆輸入的な情報として感じ取ることができた。それは、もちろん、直感的なイメージのレベルのものなのだが、その感触が時によって、あたたかかったり、冷たかったり、柔らかかったり、硬かったり、そんなふうに彼女のイメージの中に届けられてくるのである。そして、今、彼から送られてくるイメージは、コイユールが想像していた通り、決して明るい感覚のものではなかった。むしろ、冷たく、硬い感触が伝わってくる。表面には決して出さぬトゥパク・アマルの不穏な心境が、読み取れるように思われた。コイユールはさらに意識を集中した。いっそう深くまで読み取っていく。すると、その暗いイメージのさらに奥深くで、それとは全く逆のイメージが…――眩(まばゆ)い強烈な光の塊が激しく燃え上がり、煌々と輝き渡るさまが、彼女の脳裏に電流のごとくに流れ込む。 それはイメージの中でさえ直視できぬほどの眩しさで、思わず、閉じた瞼の中で目をそらした。コイユールの鼓動が急激に速くなる。慌てて呼吸を整え、それから、再び息詰めて、その光に意識を向けた。今、その鮮烈な閃光は、その表面に覆いかぶさるがごとくになっていた、冷たく、硬いものを、まるで炎が鉄を溶かすかのように、ジワジワと消し去っていく…――!!コイユールは、ハッと目を見開いた。高揚感が高まり、頬が高潮する。彼女は己を落ち着かせるように、片手を速まる胸に、そして、もう片手を火照った頬に、ぐっと押し当てた。それから、まるで赤黒い空に挑むように、再び、きっ、とその清い瞳で上空を見返した。「トゥパク・アマル様は、やはり強いお人!必ず、インカを守ってくださる!!」そう天空に向かってきっぱり言うと、その言葉を自分の中にも染み込ませるように深く噛み締めた。
2006.06.17
コメント(12)
こうして、様々な者たちの活躍する中、戦乱の渦へと、刻々と事態は進みつつあった。それでも、世界はいつもと変わらず、朝がきて、昼が過ぎ、そして、夜が訪れる。インカ軍が進軍をはじめて、はや数日が経っていた。義勇兵たちも徐々に新たな環境に慣れてきて、分担の作業や訓練の合間には、それぞれにちょっとした小休止をとる時間を捻出できるくらいにはなっていた。夕刻時、その日の訓練を終えたコイユールは、炊き出しの準備に向かいながら恨めしそうに棍棒を見下ろした。そして、小さく溜息をつく。ちっとも上達しない自分に呆れてしまう。実際、義勇兵たちのうちから戦線に出られる者は、その訓練の成果をインカ軍の専門兵から認められた者だけだった。もともと運動神経のよいあの黒人青年ジェロニモなどは、早い段階でその腕を認められ、既に戦線に参戦していた。トゥパク・アマルら中枢部の者からすれば、義勇兵の大切な命の保護を考えての配慮によるシステムであったが、コイユールのような認められぬ者にとっては、少なからず虚しさを覚えさせられるものだった。何か、自分が無力で、存在価値が無く思えてきてしまう。コイユールは、人気の少ない道端で足を止めると、再び、溜息をついた。それから、考え深気な目になって、ゆっくり顔を上げる。暮れかけの夕焼けの今日の空は、どこか不気味に赤黒く、いつにも増してその胸をざわめかせる。トゥパク・アマルら軍の中枢からは、末端のコイユールたち義勇兵にも、各連隊長を通して、インカ軍の状況について刻々と詳細な情報が伝えられていた。また、トゥパク・アマル自身が義勇兵の天幕近くまで下りてきて、現状の報告及び士気を高めるための演説を行うこともあった。その日も、先刻、トゥパク・アマルは義勇兵たちが訓練している広場近くの壇上までやってきて、参戦している者も、参戦せずとも背後で支えているコイユールのような者にも、義勇兵たち一人一人に包みこむようなあの眼差しを送りながら、その労をねぎらい、現状の報告を行った。そのような時のトゥパク・アマルは、常にインカ皇帝さながらの威風堂々たる輝きを放ち、見る者、聞く者の心に希望を燃え立たせるごとくに熱く語り、その強気にさえ見える姿勢を決して崩さなかった。そんなトゥパク・アマルの先ほどの姿を思い出してコイユールは深い感動を覚えつつも、しかしながら、今、改めて、彼の報告した現況を分析してみる。一見、勢いを増しながら着々と進軍を行っているかに見えるインカ軍ではあったが、事態は決して楽観できるものではないことを、コイユールは察することができた。キスピカンチ郡の逃走した代官が本当にクスコに到達すれば、いよいよ本格的なスペイン軍との激突になるはずだ。避けられぬ激しい流血の時が、確実に近づいていることは明らかに思われた。コイユールは、再び、まるで血のような色の空を見た。直観力の鋭い彼女の脳裏に、血生臭い、ひどく不穏なイメージが急激に湧き上がる。
2006.06.16
コメント(6)
ところで、トゥパク・アマルの館に構えたトゥンガスカの本陣では、彼の妻、かのインカ族の才媛ミカエラが、非常に良くその才を発揮し、活躍していた。類(たぐい)稀なる美女でありながら、実に雄々しいこのミカエラは、いよいよ戦乱の世へ突入したこの時期、その才覚はいっそう目覚め、輝きを放っていた。もちろんトゥパク・アマルとの間に生まれた三人の息子たちを養育する優しい母として、また、堅実なる妻としての側面をも併せ持つ彼女ではあったが、今、この戦乱の渦中にあっては、まさしく、本陣を離れている夫の代理、あるいは最も有能な参謀のごとくであった。彼女は、各軍へ夫の指令を伝え、時には、夫に意見を進言し、また、占拠地の通行許可証の発行を取り仕切った。反乱の火の手が続々と上がる中、未だ旧都クスコにも、また首府リマにも、スペイン側に反乱幕開けの情報が全く知られずにいたこと、さらには、やがて反乱勃発の事実をスペイン側が知ってしまった暁にさえ、スペイン側は、いつまでも反乱の実情をはっきりとは掴めなかったこと、それは、このミカエラの力によるところが大であった。彼女は、決して秘密の漏洩のなきよう、万全を期した。反乱軍の押さえた地域の中は、彼女の発行する通行許可証を持たねば通行することができなかったのだ。さらに、彼女は、夫トゥパク・アマルが前線で戦っている間、この背後の本陣にて、インカ軍本隊をはじめ、各地の軍への武器や食糧の補給にも采配を振るった。ミカエラは、パン、コカ、酒などの食糧の他にも、衣服、銃弾、望遠鏡など、軍が必要とするものは何でも揃え、補給した。本陣の中枢での彼女の鮮やかな活躍ぶりは、インカ軍を、そして、夫トゥパク・アマルを、背後から紛れもなく強力に支えていたのである。
2006.06.15
コメント(8)
こうして、逃亡したキスピカンチ郡の代官カブレラをフランシスコが追い、分遣隊を率いたディエゴが出陣した後、まもなくトゥパク・アマルらインカ軍本隊はそのままキキハナを首府とするキスピカンチ郡に進軍して当地を占拠した。恐れをなした代官が遁走してしまったその地は、まともな戦闘らしきものも起こりえぬまま、あっさりとインカ軍の統治下に落ちた。かのティンタ郡の広場での演説と同じように、新たな占拠地でのトゥパク・アマルの高らかな呼びかけに深い感銘を受けた当キスピカンチ郡のインカ族の者たちや、当地生まれの白人、混血児、そして、黒人たちが、その日、新たにインカ軍に馳せ参じ、軍団はほぼ倍の人数に増強された。当地に保有されていた武器類もインカ軍は手に入れ、その中には数十梃の小銃も含まれていた。さらに、時を逸せず、そのままインカ軍は、キスピカンチ郡近郊にあるポマカンチ郡とパラパッチュ郡にある織物工場(オブラヘ)へと向かった。これらの織物工場は、かの鉱山での悪名高い強制労働(ミタ)と等しく、スペイン人たち制圧者が、永年に渡り、言語を絶する過酷な強制労働をインカ族の者たちに強いてきた場所である。そこはまさしく恐るべき牢獄に等しく、疲労と栄養不良と不衛生のために、無数のインカ族の者たちが、釈放を待たずにここで死んでいたのだった。従って、この地を解放することは、トゥパク・アマルのかねてからの念願でもあった。今や、大軍を前にして織物工場はあっさりと明け渡されたが、歴史上の資料によれば、トゥパク・アマルは、当地の労働者たちに生産物を分配したのはもちろんのこと、恨んでも恨みきれぬはずのこの織物工場を仕切っていたスペイン人の身内の者たちにさえ、去り際に羊毛3.5トン、染料2袋を与えている。なお、これら占拠した各地には、よく訓練された専門兵の中から統率力に優れた者を司令官として選任し、屯軍として残し、各地の統治に当たらせた。
2006.06.14
コメント(8)
それから、トゥパク・アマルはあの包み込むような目をして、側近たちをゆっくりと見渡した。「大丈夫だ、案ずるな。」と、その眼差しは語っているようだった。そのトゥパク・アマルの眼差しに、側近たちも再び落ち着きを取り戻していく。しかし、では、逃亡した代官を追うのは、どの者が…――?再び、思い出したように、側近一同の間に緊迫した沈黙が流れる。先ほどから、ビルカパサが、騎馬のまま何度も一歩踏み出しかけては、こらえるように再び一歩引くことを密かに繰り返していた。再び、ビルカパサが、一歩、前に踏み出す。しかし、彼には、いついかなるときもトゥパク・アマルを守るという任務があり、その主(あるじ)の元を容易に離れるわけにはいかなかった。再び、アンドレスが身を乗り出しかけたとき、集団の端の方で、やや不安気な面持ちで場の様子をうかがっていたフランシスコが、「わたしが参りましょう。」と、意を決した声で名乗り出た。その声には、明らかに緊張が滲んではいたが、覚悟の色も見て取れた。相変わらず神経質そうな表情をした、ひょろりとしたこの男は、しかし、理知的な文化人的雰囲気を備えており、他の野性的で豪腕な雰囲気の側近たちとは一味違う精彩を放っている。アンドレスと同様、インカ族とスペイン人との混血であったが、その文化人的な雰囲気と繊細そうな面持ちは、どちらかというとスペイン人によく似ていた。このフランシスコは側近であると共に、トゥパク・アマルのクスコ神学校時代からの同窓生であり、行動的文化人的側面をも併せ持つトゥパク・アマルにとって、心許せる貴重な朋友でもあった。また、トゥパク・アマル自身、本来はどちらかといえば物静かな寡黙なタイプの人物であったため、他の豪腕タイプのインカ族の者とはやや趣の異なる、この理知的で静かな雰囲気のフランシスコの存在は、彼にとってはある種の安らぎでもあったかもしれない。実際、フランシスコは、トゥパク・アマルの息子たちの名付け親でもあった。この時代の当地では、名付け親になることは、すなわち、義兄弟の関係性を結んだ証でもある。トゥパク・アマルがいかにフランシスコを信頼しているかを、側近一同もよく認識していたため、フランシスコの申し出に口を挟む者は誰もいなかった。トゥパク・アマルは、重大な任務を名乗り出てくれたフランシスコに深く礼をこめた眼差しを返した。「フランシスコ殿、そなたに、この大役、任せよう。わたしの精鋭の部隊を、そなたの供(とも)として連れてゆくがよい。」長いつきあいになるフランシスコの心を察し、まるでその不安を和らげるかのように、トゥパク・アマルは穏やかな声でそう言った。そしてさらに、「もはや代官はクスコ近郊まで逃げ去っているやもしれぬ。深追いすることはない。そなたが無事に戻ることを、第一と心得よ。」と、静かな声でつけ加え、微笑んだ。
2006.06.13
コメント(6)
その時、トゥパク・アマルのすぐ傍にいた側近たちの中から、いち早く声を上げたのは、あのアンドレスだった。「自分がすぐに代官の後を追い、捕らえて参りましょう!!もはや一刻の猶予もなりませぬ。」トゥパク・アマルの先ほどからひどく鋭くなった目を見据えるアンドレスの眼差しも、また、トゥパク・アマルにも増して鋭く、ことの重大性を明らかに見抜いているのがわかる。しかし、すかさずディエゴが、アンドレスを制した。「アンドレス、おまえにはまだ別行動は、はやすぎる!まずは軍団と共にあり、己の隊をしかと統率できるようになることを学ぶのが先決だろうが。」ディエゴはアンドレスの父親のごとくの眼差しで見下ろしながら、やや叱咤するような、それでいて、諭すような口調でそう言った。トゥパク・アマルも、そんなディエゴの言葉に同意する。そして、先刻から鋭くなっていたその目元に、今は静かな笑みをも湛えながら、その目を細めてアンドレスに言う。「アンドレス、そなたの心意気は買おう。しかし、ディエゴの申す通りだと、わたしも思う。」「しかし…!」と、今にも馬を駆りださぬばかりのジリジリとした眼差しで、アンドレスはまだトゥパク・アマルを見据えている。「こうしている間にも、代官は逃げ延びてしまいます!!」ディエゴが「おまえが言わずとも、わかっている!」と、再びたしなめるような口調で言う。それから、「全く、出すぎた奴だな。」と肩を竦(すく)めてから、しかし、すぐに父親のような包容力のある眼差しに変わって、「おまえが行かずとも、俺が行って捕らえてくるから、案ずるな。」と、アンドレスの肩を、その岩の塊のような逞しい手で一発叩いた。ディエゴは、改めてトゥパク・アマルに視線を返した。彼は、その巨大な、隆々とした体を反らし、力の漲る眼差しで、トゥパク・アマルに真正面から向いて言う。「トゥパク・アマル様、自分が行って参りましょう!!クスコまでは距離もある。追いつける可能性もありましょう。」トゥパク・アマルは、暫し、思慮深げな目でディエゴを見つめた後、静かな、しかし、ゆるぎなき声で言う。「いや、そなたには、早速、分遣隊として兵を率い、近隣の郡に進軍してほしい。同盟を結んでいる各カシーケ(領主)たちを助け、統治下に置く地を増やし、我らの元で共に戦ってくれる兵を募るのだ。いずれにしろ、スペイン軍の討伐隊が向かってくるのは時間の問題であろう。それまでの間に、我らインカ軍の兵力を増強しておかねばならぬ。」傍でやりとりを見守っていた当インカ軍本隊の参謀オルティゴーサも、トゥパク・アマルの意見に同意した。「トゥパク・アマル様の仰る通り、もはやスペイン軍との戦闘は時間の問題であろう。まだ兵力の乏しい分遣隊を率いて各地に出征できるだけの実践力があるのは、今のところ、ディエゴ殿、そなたしかあるまい。」トゥパク・アマルと参謀オルティゴーサに、熱い眼差しでしかと見据えられ、ディエゴは恭しく礼を払った。「ありがたきお言葉!!では、早速にも!」ディエゴの力強い返答に、トゥパク・アマルは頷き、穏やかな笑みを返した。アンドレスは、己の父親にも等しいディエゴのその頼もしい様子に、澄んだ瞳を輝かせながら敬意をこめた眼差しを送っていた。トゥパク・アマルの表情は、はやくも既に落ち着きはらっており、完全に平常心を取り戻していることが見て取れる。むしろ、その瞳には、いっそうの鋭い光が宿り、まだ見えぬ討伐隊の軍団を射抜くがごとくに強く、毅然とした色が燃え立っていた。
2006.06.12
コメント(8)
翌朝早く、隣郡キキハナへ向かう山間部の険しい道を進軍するインカ軍の元に、先遣隊として、いち早くキキハナへ向かっていた参謀オルティゴーサの一隊が、激しく砂塵を散らしながら馬で駆け戻ってきた。オルティゴーサは、すぐさまトゥパク・アマルの元に騎馬のまま駆け参じる。そのオルティゴーサの険しい表情に、馬上のトゥパク・アマルは瞬時に事態を察した。「トゥパク・アマル様、キスピカンチ群の代官カブレラは既に領土を放棄し、いずれかに逃走したもようです!!」激しく息を切らしながら、緊迫した、低く、太い声で、オルティゴーサが言う。トゥパク・アマルもまた、やや緊迫感を滲ませた眼差しで頷いた。「オルティゴーサ殿、ご苦労であった。」トゥパク・アマルの言葉にオルティゴーサは恭しく頭を下げ、その場を下がる。トゥパク・アマルは険しい目で、前方を見据えた。手綱を握る手に、無意識のうちに力がこもる。問題は、代官カブレラを捕えられなかったことではなく、そのカブレラがこの反乱を知り、その情報をもったまま逃走したということであった。代官のことだ、恐らく、当地からは最もスペイン人による植民地支配の中枢に近いクスコ辺りを目指して、逃げ上ったに相違あるまい。いっそう険しさを増したトゥパク・アマルの切れ長の目元が、鋭く光る。かつてのインカ帝国の首都クスコには、今や植民地支配の中枢を牛耳るスペインの大物役人が数多くひしめいており、反乱の勃発についてクスコに知れることは、すなわち、首府リマに知られることと同義であった。しかも、クスコには、この植民地におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭、かのモスコーソもいる。モスコーソ司祭がトゥパク・アマルたちを反逆者とみなす時には、それは、すなわち、この国のカトリック教会にとっても逆賊とみなされることに等しい。今やインカの民にとっても精神的支柱となっているキリスト教に反旗を翻したとみなされることは、今後、トゥパク・アマルが民意をつかむことを困難にする危険性をあまりに多分に孕んでいた。それは、彼が最も避けたいことの一つであった。実際には、トゥパク・アマルはキリスト教が、今やインカの民にとっても重要な精神的支柱となっていることを深く認識していたため、今回の反乱の眼目の中には、キリスト教の否定は全く含んでいなかった。しかしながら、モスコーソ司祭がそのような彼の意志など汲み取るはずもなく、むしろ、反乱を押さえ込むために、敢えてキリスト教への反逆者に仕立て上げ、追い詰める宣伝材料に利用してくる可能性はきわめて濃厚である。手綱を強く握り締めたまま、トゥパク・アマルの表情は、一瞬、完全に動きをとめ、彼の頭の中で今後の対応への思いがめまぐるしく動き出していることが明らかに見て取れた。
2006.06.11
コメント(6)
そして、再び、トゥパク・アマルが、静かに、しかし、今度は、やや力を込めて言う。「最後に、将にとって最も必要とされるもの、それは責任に対する勇気だ。そのことを、しかと心に留めよ、アンドレス。」トゥパク・アマルの眼差しが、その瞬間、突き刺すばかりに鋭く険しいものとなり、アンドレスは己の心の奥底まで貫かれたような錯覚に襲われた。既に鼓動が速まりはじめていた彼の中で、心拍数がさらに上がっていく。アンドレスは無意識に、両手の拳を握り締めた。彼の手の中に汗が滲む。「そなたのもとにいる者たちの、幸も、不幸も、生も、死も、すべてそなたが責を負っているということを、決して忘れてはならぬ。」トゥパク・アマルの声は低く、そして、変わらず静かだった。しかし、その中に込められている非情なまでの厳しさ、険しさを、アンドレスは読み取った。トゥパク・アマルの静かな眼差しの向こうで、しかしそれは、トゥパク・アマル自身がこのインカの地のすべての民のために自らに負わせている責に相違ない、と、アンドレスは察した。その重みを、唯一人で、じっと耐え、甘受しているのだ、と。今、トゥパク・アマルが、己に投げかけようとしているものは…――!!アンドレスは、その瞬間、恐ろしく重いものがのしかかってくる重圧感を覚え、眩暈を感じた。だが、恐らく、トゥパク・アマル自身もそれらと戦ってきたし、そして、今も、それらと孤高のままに戦い続けているのだ。アンドレスは、いっそうきつく拳を握り締めた。その拳が、わななくように震える。トゥパク・アマルは、そんなアンドレスを、ただじっと見下ろしていた。一方、アンドレスもまた、トゥパク・アマルの表情を、慄きの感情を押しのけて真っ直ぐに見やった。ディエゴやビルカパサには、分かっただろうか。トゥパク・アマルのその表情は、まるで修羅のごとくに、厳しく、険しく、決然としていたが、しかし、同時に、あまりにも苦しげで、悲しげでさえあったのだ。アンドレスは奔流のごとくに迫り来る感情をぐっと押さえ込み、トゥパク・アマルの目を見据え続けた。(逃げることはできない、否、逃げたくはない、しかし…――!!)彼の心の中で、様々な感情が再び激しく突き上げ、うねり、渦巻いていく。天幕を吹き抜ける風はさらに強まり、天幕全体が悲痛な叫び声を上げているかのようだ。トゥパク・アマルは、その天幕の捻(ひね)り出す風の悲鳴にかき消されそうな低い声で、最後に言った。「まだ若きそなたには、この後、試練も多いかもしれぬ。しかし、我らの父祖である亡きインカ皇帝の血を色濃く継ぐ末裔の一人として、己の宿命を受け入れ、しかとその責を果たしてもらいたい。」アンドレスの理性は、トゥパク・アマルの言葉に、もっとしかと力強く応えねばならぬ、と己を激しく叱咤していた。だが、実際には、彼はまるで何かに押し潰されていくような危うい眼差しで、今はまだ小さく頷くのが精一杯だった。
2006.06.10
コメント(8)
「そして、アパサ殿のもとで、このことも学んできたであろう。将は、兵の士気を上げることができねばならぬ。」トゥパク・アマルの深く静かな声に、アンドレスは眩さの残光を引き摺りながら、再び頷く。そして、かつての恩師、アパサの言葉を思い出す。『おまえの戦場での振る舞いの一つ一つが、いや、戦場だけでなく、人前に立ついかなる場面でも、インカ皇帝の血統として相応しくなければならぬのだ。それが、おまえの宿命だ、アンドレス。おまえは、周りの者の心を惹き付け、奮い立たせ、士気を高める、そのための偶像にならねばならぬのだ。』アンドレスは、今、とても近くにいるインカ皇帝の末裔、否、彼にとっては皇帝そのものであるトゥパク・アマルを改めて見上げた。眼前のその人は、全身から沸き立つような青白く輝くオーラを纏いながら、インカ皇帝の子孫たるゆるぎなき自覚と、自信と、そして、インカの民への深い慈愛とに貫かれた眼差しで、厳然と、今、ここに存在している。(皇帝陛下…――!!)アンドレスは、無意識に、深く身を屈めて礼を払わずにはいられない。彼は、いつしか瞼を閉じ、じっとトゥパク・アマルの前に頭を下げた。そして、閉じた瞼のままで、己の心に耳を傾ける。『インカの民の精神的支柱としての「インカ皇帝」の属性の一部として、インカの民の士気を高め、その魂を高揚させることにこそ、おまえの存在意義がある。』アパサの言葉が、彼の耳に再び甦る。(自分の役割は、皇帝陛下を引き立てるためにある…!それが、民の窮状を解き放っていくことにつながるのだ!!その役割、果たしていかねばならぬ…――!!)アンドレスは頭を下げたまま、ゆっくりと瞼を開けた。その目に蒼い炎が燃え上がる。アンドレスは、きっぱりと視線を上げ、真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。トゥパク・アマルはアンドレスの心に応えるように、光を強めた目をして、ふっと微笑む。「アンドレス、そなたは良く心得ているようだね。」トゥパク・アマルの声はあくまで穏やかで、静かであった、が、しかし、その静けさの奥底から、何か、激しく突き付けてくるような気迫があった。トゥパク・アマルの目元が鋭利に光る。『アンドレス、そなたは、本当に覚悟を固めているのか。完全にその身を投げ出せるのか。』トゥパク・アマルの声は、目は、そう強く迫り、問い詰めてくるようでさえあった。アンドレスは、思わず、固唾を呑む。決意したつもりの彼の瞳が揺れはじめる。彼の奥底で、何か、押し込めきれぬものが、再び、ざわめきだす。アンドレスは、そんな己の内面の怯みを隠すように、殆ど反射的に、さっと目を反らした。そして、隙間風に揺れる蝋燭の炎に、慌てて視線を落とす。トゥパク・アマルは無言のまま、やや険しい色を浮かべて、僅かにその目を細める。ディエゴもビルカパサも、アンドレスの横顔に、その真意を汲み取らんとするがごとくにじっと見入った。トゥパク・アマルは、「まあ、よい。」と、低く言うと、場の雰囲気を切り替えるように、淡々とした声になって話しはじめる。「部隊の損傷が増し、士気が弱まり、無気力が支配するような状況では、気力を高める将の力はとても重要なのは言うまでもない。しかし、それは、攻めるときだけのことではないのだよ。」アンドレスは空気の変化に、無意識のまま、心の中で小さく息をつく。そして、蝋燭の炎から目をはずし、意識して武人らしい表情になると、トゥパク・アマルの方に再び向き直った。トゥパク・アマルは、淡々とした声で続ける。「撤退をする時にも、士気を維持することは非常に重要だ。秩序を保ち、損傷を最低限にするために。つまりは、一人一人の兵の命を守るために。そのこともよく覚えておくのだよ。」息詰めて見上げるアンドレスの瞳の中で、トゥパク・アマルの目は無言のまま、『そなたは、まだ、本当にはわかっていない。』と語っているようで、アンドレスの心は不安定に乱れた。
2006.06.09
コメント(6)
アンドレスの父親代わりにも等しい叔父のディエゴが、二人の傍で、やはり父親のごとくの眼差しで、無言のままアンドレスの方に視線を向けている。アンドレスはトゥパク・アマルの前で、再び、深く頭を下げた。トゥパク・アマルも穏やかな眼差しで、アンドレスに目で礼を送る。眩(まばゆ)い蝋燭の光を切れ長の目の端に宿しながら、トゥパク・アマルがゆっくりと口を開く。「アンドレス、いよいよ、この後、そなたも人の上に立つ者として振舞っていくことになる。今は小規模な連隊なれど、いずれはさらに大きな部隊を率いていくことになるであろう。それ故、そなたに将としての心得を、伝えておきたい。」「はい!」アンドレスが蒼く燃えるような、あの眼差しで、トゥパク・アマルを見上げた。トゥパク・アマルもその瞳に、頷き返す。「将に必要な心得は幾つかある。例えば、そなたもよく知っているように、戦場で己の私情や感情を抑え、理性的に動ける能力などだ。」トゥパク・アマルは静かに微笑み、それはアパサの元でも既によく学んできたことであろう、という目の色でアンドレスを見た。アンドレスは頷いた。しかし、頷く彼の心の奥底で、微かにざわめくものがある。次第に夜も深まり、天幕の外では風が強まってきたようだ。天幕の隙間から吹き抜ける風が、まるで小さく叫ぶかのような音を上げはじめる。それと共に、蝋燭の炎も、風に煽られ、不安的に揺れだす。その炎と呼応するかのように、天幕の中の四人の男たちの黒い影も大きく揺れはじめた。トゥパク・アマルはアンドレスの方にやや前傾姿勢になると、己の顔にかかっていた艶やかな黒髪を、そのしなやかな褐色の指先で、優雅に、ゆっくり、掻きあげた。そして、相変わらず静かな、しかし、決然とした光を湛えた眼差しで、貫くようにアンドレスの目を見つめる。アンドレスは瞬間、光を直視したがごとくに激しい眩(まばゆ)さを覚え、反射的に目を瞬かせた。そんなアンドレスに、上方から視線を注ぎ続けたまま、トゥパク・アマルは、妖艶にさえ見えるその美しい目をすっと細め、再び、ゆっくりと口を開く。
2006.06.08
コメント(6)
野営場の中央にあるトゥパク・アマルの天幕は、松明の中に白く浮かび上がり、その周りを険しい面持ちをした厳(いかめ)しい警護の兵たちが、幾人も眼を光らせている。既に戦場のごとく、ものものしい緊迫した雰囲気である。アンドレスは、己の心の統制を再び取り戻そうと、天幕の入り口そばの松明の元で足を止め、じっと眼前の炎を見つめた。赤々と燃える炎は、時折、軋むような音と共に、火の粉を散らしながら天頂高く燃え上がり、そして、また静まる。まるで生き物のようなその炎を見つめながら、己の心を現在の状況に相応しいものへと統制していく。アンドレスは、固く瞼を閉じた。松明の炎から、熱風が流れ来る。そうだ、いよいよ戦闘がはじまろうとしているのだ。己の全てをそのことに集中しなければならない。非常に重要な局面にきているのだ。どのような些細な失敗も許されない。目的のためだけに、集中しなければならない。彼は再び目を開き、もう一度、松明の炎を己の瞳に映した。その瞳の中の炎は、彼の心の中の蒼い炎に着火するかのごとく、強い閃光を放つ。アンドレスは松明の前を離れ、武人としての表情でトゥパク・アマルの天幕の方に歩みはじめた。そんな彼を護衛するようにして、さりげなく後を追ってきていたビルカパサが、天幕の入り口の垂れ幕を恭しい手つきで開き、アンドレスを中にいざなった。アンドレスが天幕の中に入ると、中には、トゥパク・アマルとディエゴが濡れたような蝋燭の光を受けながら、彼の来訪を待っていた。アンドレスは深く礼をして、天幕の内部に進み行く。ビルカパサが垂れ幕を内側から下ろし、入り口のすぐ傍に警護するように立った。トゥパク・アマルは優美な手つきでアンドレスを手招きすると、己の前に座らせた。
2006.06.07
コメント(10)
月明かりの下、遠目から見るコイユールのその姿は、女性らしさを増したとはいえ、髪型も服装も雰囲気も、その印象はあまり以前と変わらない。3年ぶりに見るその姿に、アンドレスの胸は熱くなった。(コイユールは、昔から、あまり変わらないな。)アンドレスは目を細めながら、心の中でそっと呟き、そして、静かに微笑んだ。深い懐かしさのためだろうか、何故か、心がすっと和んでいく。この数日、いや数年の間に起こり続けてきた様々な緊迫した出来事の数々が、まるで夢のようにさえ思えてくる。そんな彼の視界の中で、自分の手にした武器に弄ばれるようにして地面に転ぶコイユールの姿が映る。アンドレスは、眉を顰(ひそ)めた。(まさか、戦線に出るつもりではないだろうな…。) 「アンドレス様。トゥパク・アマル様がお呼びです。」不意に鋭い声で背後から呼びかけられ、一瞬、アンドレスは身を縮めた。振り返ると、ビルカパサがやや厳しい眼差しでこちらを見ている。アンドレスは、瞬時に現実に引き戻された。そして、自分の反応に己の隙の大きさを見て取ると、決まり悪さからビルカパサを直視できぬまま、「わかりました。」と、急ぎ足で立ち去った。
2006.06.06
コメント(8)
一方、コイユールたち義勇兵は、今後の戦闘に向けてインカ軍の専門兵から訓練を受けていた。コイユールは生まれてはじめて棍棒なるものを手にして、おぼつかぬその手つきで悪戦苦闘している。そんな彼女の隣で、持参した斧の振り方を練習していた黒人青年ジェロニモが、心配そうな面持ちでコイユールを見やった。華奢なコイユールには、棍棒を持ち上げていることすら、ひどく難儀に見える。振ろうとしようものなら、はっきり言って、彼女の方が明らかに棍棒に振り回されていると言った方が正解だった。最初は、インカ軍の指導の呑みこみがはやいジェロニモが、コイユールに二次的に教えていたけれど、さすがに気のいい彼にも、どうもそうした次元ではないと思えてくる。「ねえ、コイユール。無理しないで、もっと別の方法で手伝えばいいんじゃないかな。」と、いたわるように声をかける。コイユールは額にいっぱいの汗を浮かべながら、小さく溜息をつく。そして、既に疲労からなのか何なのか、ぼんやりとした視線で、ジェロニモの方を見上げた。「ううん。できるようになりたいの。」「それなら、別に、止めないけどサ。ただ、はじめっから、あんまり無理しない方がいいって思うよ。何せ、先は長いンだから。」「あ…そうよね。」まだ肩で激しく息をしながら、コイユールは頷き、意識して明るい笑顔を返した。が、心の中では、何かに惑う己の気配に怯んでいた。改めて、己の手の中にある鈍器の感触を確かめる。(これで、人を打つ…叩く…殺すのね。)それから、再び、周囲で訓練に励む義勇兵たちの姿を見渡す。一縷の迷いも無いように、決然とした表情で棍棒を振り切るジェロニモ、そして、その他の兵たちの姿が彼女の瞳の中に、はっきりと映る。そんな彼らの姿を見つめる彼女の心は、さらに落ち着かなくなっていく。次の瞬間、何か、自分の足が地から浮き上がっているような不穏な感覚に襲われ、コイユールは、慌てて足の裏に力を入れた。敢えて力を込めて、大地を踏みしめてみる。そして、何かを振っ切るようにして、きっ、鋭く前方を見据えた。それから、意を決したように、恐らく、外見的には滑稽なほどに不釣合いなその厳(いか)つい武器との格闘を再開した。 そんな義勇兵たちのまだ危なっかしい訓練風景を、遥かに高台の上からアンドレスは息詰めて見下ろしていた。晩春の空は霞みがかってはいたが、それでも美しい月に照らされて、眼下の様子は夜でも良く見渡せた。穏やかな涼風が吹き、夜露に濡れた瑞々しい若草の香りが漂っている。アンドレスの目は、真っ直ぐビルカパサの連隊の方に向けられていた。意識せずとも、コイユールの姿を探してしまう。そして、今や、彼は、しっかりとその懐かしい姿を見つけ出していた。
2006.06.05
コメント(6)
「アンドレス様、お久しぶりです。」高揚感を滲ませた声で、瞳を輝かせながらマルセラが言う。アンドレスも深い懐かしさと、見違えるように成長したマルセラを前にした驚きから、瞳を輝かせた。「マルセラ、すっかり見違えたよ。」アンドレスは、率直な気持ちを笑顔で伝える。マルセラはと言えば、やはり見違えるほどの逞しい若者に成長したアンドレスを間近にして、言葉を失ったように立ち尽くす。自分の心臓の鼓動がアンドレスに聞こえるのではないかと思うほどで、彼女は慌てて何か話題を探した。そして、「そういえば!」と、はたと思いついたように声を上げる。「アンドレス様、コイユールが義勇兵に加わっていますよ!」アンドレスとコイユールが幼馴染みの関係にあることを知っていたので、マルセラはアンドレスとの共通の話題を思い出した安堵感から、ほっと心の中で息をついた。が、その瞬間、アンドレスが何かに打たれたように固まったように見えたのを、しかし、マルセラは何か目の錯覚かと思って、数回、瞬(まばた)きをした。そして、改めて、アンドレスを見る。一方、そのアンドレスは、真剣な眼差しに変わってマルセラを正面から見据えた。 「コイユールが?来てるって!?」彼なりに感情を抑えているのだろうが、その声には歓喜の色がはっきりと見て取れた。マルセラは予想を超えたアンドレスの反応に、説明しがたい複雑な心境を抱きながらも、「はい。叔父様の連隊に入っています。」と、ありのままを伝える。「そうだったのか。」と恍惚とした表情で、アンドレスは改めてマルセラを見ると、「ありがとう!」と妙に力のこもった礼を述べた。「いえ…。」と、やや気圧された感のマルセラの少し背後では、遠目から二人のやりとりを見ていたビルカパサが、明らかに様子の変わったアンドレスに、表面からは決してその裏側が読み取れぬあの感情の統制された視線をじっと投げていた。
2006.06.04
コメント(8)
「アンドレス様、すぐに慣れますよ。」ビルカパサの言葉にアンドレスは笑顔で頷き、丁寧に礼を述べる。「ビルカパサ殿とて、ご自分の隊のことがあおりなのに、すっかり世話になってしまった。かたじけなく思います。」そんなアンドレスに、ビルカパサは恭しく礼を払う。「当然のことです。それに、私のところには、手助けをしてくれる者もありますので。」そう言って僅かに肩をすくめてから、少し向こうに陣を張っている自分の連隊の方にちらりと視線を投げた。連られるように、アンドレスもそちらの方に目を向ける。二人の視線の先に、テキパキと兵たちに指示を出しながら闊達に活動している一人の女性の姿がある。「出すぎたところも多いのですが、意外とよく働いてくれています。」と、ビルカパサは再び軽く肩をすくめ、笑顔をつくった。アンドレスはその女性が、にわかには誰かとわからず、しかし、確かに見覚えがあるような気がして、じっと見た。ビルカパサは、そんなアンドレスの様子に少々苦笑しながら、説明する。「昔からお転婆で困っていた、私の姪っ子です。あのマルセラですよ。」アンドレスも、はたと合点のいった表情になる。そして、やや驚いたふうに、ビルカパサとマルセラを見比べるように交互に見渡した。確かに、言われてみれば、その女性はマルセラに違いなかった。男勝りで少年のような風貌だったあのマルセラが、3年程会わぬ間に、すっかり美しく大人びているその姿には、さすがのアンドレスも目を疑った。そんな彼の視線に気付いたのか、ふとマルセラがこちらを振り返る。アンドレスが自分の方を見ていることに気付いたマルセラは、パッと頬を紅潮させた。が、もちろん、遠目からなので、そんな彼女の様子にアンドレスは気付くことはなかったが。アンドレスは、思わず懐かしさからマルセラに笑顔で右手を挙げて、挨拶の合図を送った。マルセラは完全に仕事の手が止まったまま、彼の姿に釘付けられたように見入っていたが、やがて意を決したようにこちらの方に歩み来る。アンドレスも、懐かしさをかくせぬ眼差しで、近づいてくるマルセラの方にまっすぐ向き直った。
2006.06.03
コメント(14)
まもなく、群集の力強い歓声に包まれながら、逞しい白馬に跨ったトゥパク・アマルが広場に現れた。豪華な金糸の刺繍が施された、いつにも増して厳かな黒ビロードのマントと黒服を身に纏い、膝と靴には朝陽を受けて鋭い閃光を放つ金の留め金が付けられ、彼の備える高貴な風貌にいっそうの輝きを添えていた。胸元では、あの黄金の太陽の紋章が、眩い朝の光の中で、まさしく太陽さながらに煌いている。そして、彼の周りでは、やはり美しい金糸の入った格調高い黒服に身を包み、艶やかな黒馬に跨ったいつもの側近たちが、トゥパク・アマルを堅く護衛しながら進み来る。白馬に跨ったまま威風堂々たる身のこなしで壇に上り、トゥパク・アマルは、集まった大群衆を深い礼を込めた眼差しではるばると見渡した。よくぞ集まってくれた!!――侵略以降200年間の永きに渡り、徹底的に虐げられ、自尊心を奪われ、すっかり縮こまっていたインカの地の人々が、今、自ら立ち上がらんとしている…――!!その勇姿が、彼の目には、どのように映っていたことだろうか。トゥパク・アマルにとっても、その瞬間は、心に激しく迫り来るものがあったに相違ない。彼は朝の瑞々しい太陽が輝く蒼い天空に向けて、高々と右腕を振り上げた。「インカの地のすべての民の復権のために!!」トゥパク・アマルの地底から湧き上がるような、厳かな、ゆるぎなき声が、天空に、大地に、力強く響き渡る。それに呼応して、激しく強烈な気迫が、混成の軍団の間に嵐のごとくに波立ち、うねり、漲っていく。「これより、進軍を開始する!!」トゥパク・アマルの声に、「オオー!!」と猛々しく呼応する軍団の声は、遥かコルディエラ山脈までをも揺るがすほどの怒涛の力強さで響き渡っていった。こうして、代官アリアガを処刑した翌11月11日、インカ族、混血児、当地生まれのスペイン人、そして少数の黒人たちから成る混成のインカ軍は、トゥパク・アマルの指揮のもと、一路キスピカンチ郡首府キキハナに向かって進軍を開始したのだった。 ところで、キスピカンチ郡は隣接郡といえども、アンデスの山々を越えながらの進軍は、そう容易なものではない。その日の晩は野営をし、翌朝のキキハナ到着を目指すことになっていた。南半球の11月は晩春とはいえ、アンデス高地の夜の冷え込みは厳しい。この季節、この地では、まだ時に雪に見舞われることさえあるのだ。インカ軍幹部たちにとって、兵に加わった人々が慣れない環境の中でも安全に休息が取れるよう、寝所の確保や食糧面の補給など、手配しなければならぬことは多かった。トゥパク・アマルの指示のもと、各連隊の長たちは、兵たちの野営が滞りなく進むよう手配に忙しく動いていた。特に、戦など無縁だった義勇兵たちへの目配りは、細やかになされなければならない。経験が無いのはアンドレスも同様で、ビルカパサが細かな点まで丁寧に彼に助言を行っていた。今やアンドレスも一人の長として、配下の兵を――哨戒に立つ者、天幕を張る者、炊き出しをする者などを――適切な指示によって統率し、迅速に動かしていかねばならぬ立場である。そんな彼の仕事が一段落する頃には、月もすっかり高くなっている。「ふう…。」と、白く光る月を見上げながら小さく一息ついたアンドレスの傍で、ビルカパサがあたたかい眼差しを送っていた。
2006.06.02
コメント(8)
「やっぱり来てくれたのね。あんたなら、来ると思ってた!」マルセラは、馬上から、まるで青年のような闊達な笑顔を向けた。彼女は金糸の刺繍が施された緋色の衣装に身を包み、逞しい黒馬を軽々と乗りこなしている。髪はインカ族の女性には珍しい相変わらずの短髪だが、平素の無造作なターバンではなく、光沢のある真紅の絹のバンダナで優雅に巻き上げていた。機動性を増すために丈を短くした衣装からは、あのカモシカのような美しい褐色の脚線美が見えている。一見、男勝りな雰囲気でありながらも、内側から放たれる中性的な美しさをもつマルセラの風貌が、今日はこれまでにも増して眩しく輝いて見えた。コイユールは、思わず感嘆の声を漏らした。「マルセラ!とっても、よく似合ってるわ。」コイユールの隣で二人を見交わしながら、黒人青年ジェロニモが「知り合いなの?」と驚いたような顔をしている。コイユールはジェロニモに笑顔で頷き、そして、改めて、眩しそうにマルセラの勇姿を見上げた。こうして高貴な衣装を身に纏い、優美に振舞うと、まさしく押しも押されぬインカ貴族としての風格がある。その上、さすがに、あのトゥパク・アマルの側近中の側近ビルカパサの姪だけあって、ただの貴族では終わらぬ、群を抜いた毅然とした輝きを強く放っているのだった。「もう、そんなに見ないでよ!」いつもの口調で、マルセラは少し頬を紅潮させた。「それより、コイユール、どこの連隊に入る?」と、手綱を俊敏に引きながら、少しまじめな顔になってマルセラが問う。「連隊って?」我に返って戸惑う頼りなげなコイユールの表情に、マルセラは頷き、「あんたのことだから、なんにも分かっていないと思うけど。」と、いつもの調子で説明をはじめる。現在のところ、インカ軍は、オルティゴーサなど有力なカシーケ(領主)の元で強化された専門兵と、広場に集まった義勇兵との混成部隊から成るが、現時点で結集した総数は約2000人。それらの兵を、一連隊約350人から成る6つの連隊に分け、各連隊の長をトゥパク・アマルの最も信頼できる側近たち、参謀オルティゴーサ、従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、相談役ベルムデス、そして、甥のアンドレスがつとめる。なお、トゥパク・アマルは、それらの連隊全体を統率する総指揮官の立場にある。マルセラの説明を聞きながら、コイユールは息を呑んだ。アンドレスも連隊長をつとめると聞いて、はからずも彼女の鼓動は速まる。ひとしきり説明した後、「私は、叔父様を手助けしなきゃなんないから、当然、叔父様の連隊に入っているの。」と、マルセラはコイユールの顔を覗き込んだ。マルセラが、叔父であるビルカパサの連隊に入っているのは自然なことだろう。コイユールは、納得して頷いた。それから、マルセラは不意に、「あんたも、私と一緒に叔父様の連隊に入るのは、どう?」と、馬上から身を乗り出す。コイユールは、瞬間、言葉に詰まった。「はじめは、それぞれの連隊は一緒に行動すると思うけど、そのうち戦線が広がれば、分遣隊として、各連隊は別行動になると思うの。そんな時、あんたが傍にいてくれたら、私も心強いから。」マルセラは思いのほか真剣な眼差しで、コイユールを見つめている。マルセラは気丈で男勝りのくせに、実は、とても寂しがり屋で繊細な一面をもっていることを、コイユールは長い付き合いの中で知っていた。本当は少しでもアンドレスの近くにいたい…と、思ったけれど、目前のマルセラの顔を見ていると、コイユールにそれは言えなかった。それに、実際、少しでもマルセラの力になれるのならば、それは嬉しいことだった。コイユールは頷いて、マルセラの手配によって、ビルカパサの連隊に編入された。他に知り合いも無いらしいジェロニモも、コイユールと一緒にビルカパサの連隊に入ることにした。
2006.06.01
コメント(8)
その黒人青年は、今しがたの一連の出来事に関する経緯については何も言わなかったが、恐らく、先ほどのスペイン人の家で酷使されていたところを脱走し、今回の義勇兵に加わろうとの魂胆なのだろう、とコイユールは察した。かたや、青年は走りながら、コイユールが手ぶらなのをいぶかしげに見た。「君は、何も武器を持ってこなかったの?」そう言われて、コイユールは、はじめて武器を持参すべきだったのだということに気付く。ハッとして「あっ!」と小さく声を上げる彼女の方に、今度は冗談めかした目をして、「素手で戦おうなんて、勇敢なお嬢さんだ。」と青年が笑う。一方、コイユールは「武器を持ってくるなんて、私、全然、思い当たらなかった…!」と、自分で自分に驚き呆れたように呟いた。青年の手には、当然のように、厳(いか)つい斧が握られている。彼は少し真顔になってから、「俺たち、義勇兵として参戦するんだよ。君、わかってる?」と、彼もまた、半ば呆れたような、半ば心配そうな表情でコイユールの顔を覗く。本当に、私ったら、大丈夫かしら…と、コイユールは自分が無性に頼りなく思えてくる。ふっとコイユールの表情が曇ったのを見て、青年は、「まあ、何とかなるって!大丈夫、大丈夫!」と明るく言ってから、「さっきみたいに睨みを利かせれば、スペイン兵も逃げ出すって!ははは…!!」と面白そうに笑った。励ましているのか、からかっているのか分からぬ素振りの青年に、コイユールは戸惑い、返す言葉を無くす。他方、青年は、相変わらず、あっけらかんとした調子で、「急がないと!俺は、ジェロニモ。よろしく。」と、いっそう早足になりながら、もうすっかり意識は前方に向いている。しかもジェロニモと名乗ったその黒人青年の足は、俊敏で、やたらと速い。コイユールは戸惑いを抱えたまま、「私は、コイユール。よろしくお願いします。」とひとまず応え、青年の速さに必死で追いつこうと夢中で走った。 息を切らしながら広場に着くと、コイユールは改めて息を呑んだ。斧や棍棒などの自弁の武器、あるいは武器になりそうな農具を手にした無数の村民が集まっている。皆、興奮と緊張を滲ませた表情で、しかし、これまで村でみかけていた頃の人々の表情とは全く別の、己の魂を吹き返したような生き生きとした人間の顔をしている。コイユールはそれら広場の人々皆が、とても眩しく思え、自らも胸の鼓動が熱く速まるのを感じた。集う人種も、インカ族はもちろん、混血の者、当地生まれと思われるスペイン人、そして、少数ながらもジェロニモのような黒人もいる。性別的には、やはり男性が圧倒的に多いが、女性の姿もちらほら見ることができた。そして、集まった義勇兵志願の民衆を守るように、訓練された数百名の専門兵たちが広場の周辺を悄然と取り囲んでいる。さらにコイユールが驚いたのは、これだけの大規模な人々の集まりにもかかわらず、広場の中はきわめて整然と規律が保たれていたことであった。広場の入り口では、インカ軍の専門兵たちが、広場に続々と押し寄せる村人たちを台帳のようなものに登録しながら、幾つかの集団に手際よく振り分けている。また、武器を持たぬ者には、予めインカ軍が用意していたらしき棍棒や戦斧などの武器を手渡していた。それを見て、ジェロニモがコイユールを軽く小突き、「良かったね。」と、あの茶目っ気たっぷりの視線で合図を送ってくる。コイユールも素直に頷く。その時だった。背後から、よく通る、凛とした女性の声が響いた。「コイユール!!」コイユールが振り向くと同時に、艶やかな黒馬に跨ったマルセラが、二人の前に勢い良く回りこんだ。
2006.05.31
コメント(15)
翌朝はやくに、祖母と別れをかわし、コイユールは家を出た。すぐに広場には向かわず、彼女は近所の親しい知人宅をめぐり、祖母のことを見守ってほしいと深々と頭を下げて回った。それから、急ぎ足で、インカ軍の義勇兵として参戦すべく、村人たちが緊張と興奮の面持ちで馳せ参じている広場に向かった。途中、まもなく集落の中心部にさしかかる辺りでのことである。大通りへの脇道を走っていたコイユールの前を、突如、黒い影のようなものがよぎり、道端に積んであった藁の陰に潜り込むようにして身を隠した。思わず、足を止めて息を呑むコイユールに、その藁積みの陰から押し殺したような声がする。「頼む!!大通りの方に走っていったと、言ってくれ!」コイユールが訳の分からぬまま目を瞬かせている間に、背後からスペイン語の険しい男の罵声が飛んできた。「おまえ!!ここで黒人の男を見かけなかったか?!」慌てて振り向くと、餓鬼のごとくの形相でこちらを睨みつけているスペイン人の中年男性が、仁王立ちになっていた。いからせた肩で激しく息を切らしながら、見開かれたその眼は血走り、ギラギラとした強い殺気を帯びている。身なりは貴族風だが、その男の手には、いかにも使いこまれたふうな、今にも血の滴らぬばかりの赤黒い鞭が握られている。コイユールもまた、走ってきたので息を切らしながら、しかし、その男の手にあるものを見て、直観的に、瞬時に、事態を察した。そして、意を決した目になり、男の脂ぎった顔面を見据えた。「大通りの方に走っていくのを見ました。」コイユールは心臓の鼓動が速まるのを悟られまいとしながら、先ほど藁積みの中から言われた通りに答える。スペイン人の男は険しい形相で、「本当だな?!」と凄んで、コイユールの目を見据え返す。「もし偽りを言えば、おまえがどうなるか、わかっているだろうな。」凄みながら己の顔を覗きみる男の醜悪に歪んだ顔に、体の芯から凍てつくような悪寒が走る。しかし、コイユールは恐怖を押しのけ、毅然とした、清い光を宿した目元を吊り上げ、まっすぐに男を見返した。「本当です。大通りの方に走っていくのを見ました。」男はまだ疑わしげに斜めにコイユールの方を睨んでいたが、チッと地面に唾を吐くと、苛々と体をゆすりながら大通りの方に走り去った。スペイン人が彼方に消えると、藁の中から、慎重に周囲に目を配りつつ、一人の黒人青年が姿を現した。その手には、厳(いか)つい斧を持っている。姿はコイユールにも増してみすぼらしいが、生気に満ちた明るい瞳が、黒い顔の中で輝いている。青年は、「ふう!」と深く息をつくと、コイユールにウィンクを送ってきた。「お嬢さん、ありがとう。助かったよ!」茶目っ気のある、親しみ深い笑顔である。その瞬間、コイユールは急に安堵から足の力が抜け、ガクガクと両足が震え出すのを感じた。が、すぐに状況を思い出し、何とか足に力を入れて、地面をしっかりと踏みしめる。青年はそんなコイユールの方に、笑顔を返す。「あはは、怖い思いをさせてごめん。でも、スペイン兵は、あんなもん比じゃないぜ、きっと。最初から、命を狙ってくるんだから!」コイユールが複雑な顔になるのを見て、「ごめん、ごめん、冗談!…でもないか、あはは。」と、青年は再び明るく笑う。それから、前方に視線を移し、「とりあえず、急ごう!君も、広場に行くんだろう?」と、大通りとは別のルートに向かって走りはじめる。コイユールも頷くと、青年の後を追うようにして急いで走りはじめた。
2006.05.30
コメント(18)
己の方に注がれる苦し気なコイユールの視線に、もう随分前から気付いていたように、しかし、まずは慎重にジャガイモを喉に流し込んでから、ゆっくりと老婆は顔を上げた。突然目が合って、コイユールの鼓動が速まる。老婆は皺だらけの目元に笑みを浮かべた。そして、少し探るような眼差しになって、コイユールの瞳を覗く。コイユールは、どんな色を浮かべたらいいのか戸惑いつつ、小さく笑い返した。すると、ふっと老婆の眼差しに、いたずらっぽい色が浮んだ。意外な老婆の眼差しに、コイユールは目を瞬かせ、「おばあちゃん?」と、思わず問いかける。「おまえ、まさか、わたしのために、ここに残ろうなんて考えているんじゃあ、あるまいね?」老婆は、いたずらっぽい微笑みを湛えたまま、しかし、探るようにコイユールの顔を覗いてくる。不意の言葉に、コイユールの手から、もうすっかり錆付いたスプーンがこぼれ、小さな音を立てて皿の上に落ちた。コイユールは、目を見開いて、祖母の顔を驚いたように見つめる。老婆は相変わらず、いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、コイユールの瞳に応えるように言う。「おまえは、誇り高いインカの娘だろう。今、皇帝様を助けないでどうするんだい。」わざと大袈裟な表情をつくってみせる祖母に、コイユールの胸が熱くなった。「おばあちゃん…!」コイユールは、身を乗り出すようにして、祖母を見据えた。老婆は皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべて、何度も頷いている。「わたしの事なら、心配しなくていいんだよ。自分のことくらい、自分でできるさ。それより、おまえは皇帝様と力を合わせて、はやくこのひどい生活を何とかしておくれ。」相変わらず、おどけたように言う祖母の口調に、自分の不安を取り去ろうとしてくれているのだという祖母の思いが伝わってきて、コイユールの心はいっそう切なくなった。コイユールの揺れる瞳から、思わず涙がこぼれそうになっている。祖母は、優しい眼差しになって、コイユールの髪にそっと触れた。「コイユール。おまえは、おまえが生きたいように生きておくれ。」老婆の目にも、うっすらと涙が滲む。そして、再び、おどけたような口調で、「わたしがもう少し若かったら、一番乗りで、皇帝様のところに馳せ参じているところなんだけどねえ。」と言って、笑った。『おばあちゃん、本当にいいの?!行っても、いいの?!』と、尋ね返しそうになる自分をぐっと抑えて、コイユールはその言葉を呑みこんだ。そんなふうに聞いたら、祖母はまた気持ちをこらえて、大丈夫というだけだと分かっていた。それに、そんなふうに尋ねてしまったら、祖母に決断を委ねるのに等しいことになってしまう。これは、自分自身が、決断すべき問題なのだ…――!!コイユールは、涙を浮かべながらも、意を決した瞳で祖母を見つめた。私は皇帝様と一緒に行きますと、コイユールの目に浮んだ決意の色に、老婆もまっすぐな目で頷いた。コイユールの瞳から、涙が一筋、頬を伝う。「おばあちゃん、本当に…、どうもありがとう。」今回のことも、そして、今まで育ててくれたことも…――。コイユールは、涙の溢れる瞳で深く礼を払った。祖母も目を細め、優しくコイユールの髪を撫でたまま幾度も頷く。霞んだ視界の中で、いつの間にか、とても真剣な眼差しに変わっている祖母は、揺れるような瞳でじっとコイユールを見つめた。「命だけは、大事にね、コイユール。」コイユールは深く頷いた。「おばあちゃんも…。」祖母も深く頷いた。いつの間にか、老婆の目からも涙が伝う。また必ず戻っておいで、とも、また必ず帰ってくる、とも二人は言葉にすることはできなかった。もう二度と会えないかもしれない…。コイユールも祖母も、この時、心の奥でそっと覚悟を決めたのだった。
2006.05.29
コメント(12)
さらに、出陣までのこの短期間に、トゥパク・アマルがしなければならぬことは多かった。彼は予め反乱計画の根回しをしておいた諸郡の有力なカシーケ(首領)たちに早急に使者を送り、いよいよ反乱の火蓋が切られたことを告知した。そして、各地において機を逸せずに蜂起し、代官を逮捕し、代官の職能を廃絶し、強制売付けや強制労働その他の非道な搾取を直ちに廃止に導くべく通告した。もちろん、使者は、ラ・プラタ副王領の同盟者、あのアパサの元にも走った。どれほど早急に使者を飛ばしても、交通手段が徒歩か、せいぜい馬かラバしかないこの時代、遠方の同盟者までトゥパク・アマルの言葉が届くには、何日間もの期間が必要だった。一方で、トゥパク・アマルは、首府リマにも、そして、遠からず奪還せねばならぬ牙城クスコ――かつてのインカ帝国の首都である――にも、反乱の実情に関する情報が漏洩せぬよう、厳重な配慮を怠らなかった。スペイン側の中枢部がこの反乱を知れば、すぐさま大量の火器を投入した討伐軍を組織し、躍起となってインカ軍の制圧に向かってくることは必定。スペイン側の役人に気付かれる前に、いかにインカ軍の勢力を高められるかは、今後の命運を分ける重要な鍵となる。先述の通り、通信手段はスペイン側にとっても、せいぜい使者による手紙か口頭による伝達しかなく、つまりは足だけが通信の道具であったこの時代においては、その通行路を押さえてしまうことが肝要だった。そこで、トゥパク・アマルは、今後、反乱軍及び同盟者たちが押さえる地域には、通行許可証が無ければ通行出来ぬよう整備するように、各同盟者たちに指令を発した。こうして、交通の要所を押さえ、銃後の守りを厳しく固めるべく采配を振るった。なお、有能かつ勇猛な同志でもある妻ミカエラには、トゥパク・アマルらが前線で戦っている間、この本陣トゥンガスカにて、武器・食糧の管理及び補給を指揮するよう指示がなされた。もちろん、ミカエラは、本来の男勝りの才覚を存分に発揮すべく、重責を伴うその要請に、麗しくも凛々しい眼差しでしかと同意した。 一方、その頃、コイユールは、やはり考えがまとまらぬまま、それでも、ともかくも小屋に戻り、祖母のために夕食の支度をすませた。今日も昨日も、足腰の弱った祖母は、広場には出向いていなかった。しかし、昨日からの広場でのトゥパク・アマルの一連の動向については、すっかり村中の噂になっていたから、事態のおおよその成り行きは祖母も知っていた。だが、そのことには、祖母もコイユールも何も触れずに過ごしていた。そして、今、やはり、そのことには触れられぬまま、窓もない薄暗い小さな一間の小屋の片隅で、いつものように質素な食卓を祖母と囲んでいる。蝋の少なくなった小さな一本の蝋燭の向こうで、皺だらけになった顎のあたりを一生懸命動かしながら、湯で柔らかくした干したジャガイモの切片を歯茎で噛んでいる祖母を見る。皿の傍に力なく添えられた枯れ枝のように痩せ細った、その祖母の指や腕が痛々しい。そんな祖母を前にして、自分がこの家を出てインカ軍に加わりたいなどとは、コイユールにはとても言えなかった。
2006.05.28
コメント(11)
その後、間もなくオルティゴーサが到着した。オルティゴーサはインカ族の豪族で、トゥパク・アマルらの治めるティンタ郡に比較的近いアコビア郡のカシーケ(領主)であった。トゥパク・アマルにとって、かのアパサ同様、最も有力な同盟者の一人である。夜闇の中を勢い良く馬で馳せ参じたその男は、トゥパク・アマルの従弟ディエゴをも凌ぐ筋骨逞しい大男で、厳(いかめ)しい褐色の顔には、耳から顎一帯にかけて黒々とした髭をたっぷりと蓄えている。全身からは強い気迫が漲り、いかにも戦場の似合いそうな武人という風貌だ。出迎えたトゥパク・アマルとオルティゴーサは、共にがっちりと手を握り合った。「トゥパク・アマル様、いよいよですな!!」オルティゴーサが逞しい肩をいからせながら、興奮をかくせぬ様子で、太く、響く声で言う。「ああ、いよいよだ。」トゥパク・アマルも力強く頷き返した。それから、トゥパク・アマルを中心に、オルティゴーサ、従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、相談役ベルムデス、甥のアンドレス、そして、妻のミカエラが参加し、明日からの行軍に向けて最終的な打ち合わせが行われた。「兵の状態は、明朝の出陣に向けて万全ですぞ!!」オルティゴーサはトゥパク・アマルの方にその身を乗り出すようにして、武人としての自信溢れる堂々たる声で言った。トゥパク・アマルも、しかと頷き返す。スペイン人の役人の嫌疑の目を逃れるため、トゥパク・アマルは敢えて自分のもとではなく、このオルティゴーサのもとに武勇に秀でた者たちを集め、専門兵として密かに訓練を行わせてきた。オルティゴーサは、アンドレスの師であるアパサ同様、ペルー副王領の中では名の轟く腕の優れた武人であり、有能な戦術家でもあった。この後、反乱本部の参謀として機能していくことになる男である。燭台の下に広げた地勢図を前にして、トゥパク・アマルは力のこもった眼差しで集まった者たちを見渡した。「本陣をここトゥンガスカに置き、まず、キスピカンチ郡の首府キキハナに向かって進軍を開始する。」一同も深く頷く。キスピカンチ郡はトゥパク・アマルらの治めるティンタ郡に隣接する郡であり、その地の代官は亡き当地の代官アリアガと結託して、永年に渡り当地に類する非道な搾取を続けていた。いまや、迅速な行動によって極悪非道なスペイン人の役人たちを屠り、スペインの植民地支配の絆を断ち切り、一気にその瓦解を引き起こさねばならぬ…――!!それぞれの者たちの表情に、険しい緊張と気迫が漲っていた。
2006.05.27
コメント(6)
アンドレスが返す言葉を探しているうちに、今度は、背後から明るい子どもたちの声が響く。「アンドレス!アンドレス!!」振り返ると、トゥパク・アマルの子どもたちが瞳を輝かせながら、やっとつかまえたとばかりに、アンドレスの方に駆け寄ってくるところだった。トゥパク・アマルには、先に登場した末子のフェルナンドのほか、長男のイポーリト、次男のマリアノがいる。それぞれ、現在、イポーリトが12歳、マリアノが10歳、そして、フェルナンドが8歳になったばかりである。三人共、トゥパク・アマル似の、流れるような黒髪と澄んだ美しい切れ長の目をした、凛々しくも、天使のように愛らしい少年たちだった。たちまち、まだ幼いフェルナンドは何の躊躇もなく弾丸のように飛んできて、アンドレスの足に巻きつくと、ニコニコした笑顔でまっすぐに見上げてくる。すぐにイポーリトとマリアノもアンドレスを囲むようにして、「ねえ、アンドレス、お願いがあるのだけど。」と、まだあどけなさの残る、はにかむような輝く瞳を向けてくる。アンドレスは、ドアの方に進みかけていた足を止めるしかなかった。ビルカパサが、静かな眼差しで見守っている。アンドレスは少年たちの目の高さに跪き、「願いとは、何ですか?」と、いつもの優しい眼差しで三人を交互に見渡した。イポーリトが瞳できちんとアンドレスに礼を払い、「アンドレスがもっている、あのサーベルを見せてほしいのだけれど。」と、長男らしく三人を代表して、トゥパク・アマルそっくりの美しいケチュア語で話す。残りの二人も頷きながら、強い期待感を込めた眼差しをまっすぐに向けてくる。アンドレスは戸外の方に思いを残しながらも、しっかりと三人の少年たちに囲まれて観念したように頷く。「わかりました。おいでください。」と、広間の一隅の壁に大切そうに立て掛けていたサーベルの方に三人をいざなった。見えやすいように三人の中央にサーベルを置くと、少年たちは恍惚とした表情で喰い入るように見入る。長男のイポーリトが、眩しそうな目をして、思わず溜息を漏らした。「なんて綺麗で強そうな剣なのだろう…!父上だって、こんなにすごい剣は持っていないのに。」他の二人も幾度も頷きながら、次男のマリアノが利発そうな瞳をアンドレスに向ける。「アンドレス、このサーベルは、どこで手にいれたの?」アンドレスは優しい眼差しで応える。「俺に武術を教えてくださった方から戴(いただい)たのです。」不意にアパサのことが思い出され、熱いものがこみあげる。その時、サーベルを囲む四人の若者たちの輪の中に、いつの間にか広間に戻っていたトゥパク・アマルがすっと入ってきた。サーベルを前にして、子どもたちの目の高さに合わせて跪いているアンドレスの隣の床に、トゥパク・アマルも共に跪く。「父上!!」少年たちが、嬉しそうな声を上げた。トゥパク・アマルは息子たちに微笑み返してから、自らも輝くような瞳で、そのサーベルを見つめた。「確かに、見事なサーベルだ。これはアパサ殿から?」アンドレスはしっかりと頷きながら、「はい。」と力強く応える。「アパサ殿は、厳しい師であったろう。」トゥパク・アマルは静かな笑みを湛えた眼差しで、アンドレスを見る。アンドレスは再び「はい。」と応え、それから、「そして、本当に素晴らしい師でした。」と、トゥパク・アマルの目に深く礼を払った。「アパサ殿の元に行かせて頂けたこと、生涯無二の宝と感じます。」アンドレスの言葉に、トゥパク・アマルはその目を細め、無言のまま、ゆっくり深く頷いた。
2006.05.26
コメント(8)
しかし、ただ一つ、コイユールをトゥパク・アマルらの軍に加わることを思い留まらせるものがあった。それは、祖母のことだった。ただでさえ最近はめっきり老けこみ弱ってきている祖母を、これからますます政情不安に陥りそうな当地に一人残していくことは、非常に心配なことであった。これまで親代わりとなり自分を育ててきてくれた祖母に、言葉では言い尽くせぬ深い恩を感じてもいた。それに、多くの人々が参戦するために集落を離れれば、農地を耕す者も減ってしまうだろう。残った女性や年寄りで、この地を守っていかねばならぬのだ。それはそれで、戦闘に加わることにも等しい難儀なことに相違ない。コイユールは、どのような気持ちで、どのような顔で、祖母の待つ小屋に戻ったらよいのか決められず、まだ農道の端に立ち尽くしたままでいた。吹き抜ける夜風の冷たさが増している。冷え切った体を腕で抱くようにしながら、彼女は心の中で無意識のうちに呼びかける。(アンドレス!私、どうしたらいい…?) そして、アンドレスもまた、トゥパク・アマルの館の広間の窓から、一人、風の吹きぬける戸外を見ていた。すっかり夜の帳がおりた広大な庭の随所では、松明の炎が風に煽られ、上空に舞い上がっては夜闇を焦がしている。館には、まもなくトゥパク・アマルの有力な同盟者の一人、インカ族の豪族オルティゴーサが到着する予定になっている。それを待つほんの束の間だったが、トゥパク・アマルら館の者たちは、ひとときの一人の時間をそれぞれに過ごしていた。トゥパク・アマルも、今は書斎に一人で入っている。アンドレスは、窓の向こうのはるか集落の彼方まで、遠く視線を向けた。それは、コイユールの家のある方角だった。アンドレスの瞳が微かに揺れる。コイユールのことだ、きっと、あの広場に来ていたに相違ない…。どう感じ、そして、今、一体、何を思っているのだろうか。窓辺に添えられたアンドレスの指に、力がこもる。馬を走らせれば、ここから30分もかからぬ距離にいるのだ。今まではアリアガを見張っていたが、今なら…――!アンドレスは思い切ったように、足早に戸口に向かいはじめた。それをすかさず、トゥパク・アマルの腹心ビルカパサが制する。「アンドレス様、どこに行かれます?」アンドレスを見るビルカパサの目は、完璧なまでに感情の統制がなされており、決して冷たいわけではないのだが、目的遂行以外の情の挟む余地を全く与えぬ色である。「まもなく、オルティゴーサ様がお着きになられます。今暫く、お待ちを。」まるで己の心を見透かすようなビルカパサの視線を、アンドレスは思わずそらす。「すぐに戻ります。」アンドレスの不可解な挙動にビルカパサはいっそう見据えるような眼差しで、「ならば、どこに行かれるのか教えてください。トゥパク・アマル様にお伝えしておきます。」と、婉曲的に牽制してくる。アンドレスは、ぐっと言葉に詰まる。
2006.05.25
コメント(15)
コイユールが、自分の小屋のある集落はずれに戻ってくる頃には、すっかり日も傾きかけていた。前方の空にはそろそろ寝座(ねぐら)に戻るのだろうか、黒い影のような一羽のコンドルが、山脈の方へと滑るように飛び去っていくのが見える。その瞬間、彼女の脳裏に、あの広場で見たトゥパク・アマルの姿が、その声が、その言葉が、ありありと甦ってきた。 『誇り高き、気高き魂が、今も、そなたたち一人一人の中に生きていることに、目覚めよ!!今こそ、眠れる魂を呼び覚まそうではないか!!そして、我々自身の手で、このインカの地を、この地の民を、己(おのれ)自身を解放するのだ!!』 コイユールは、再び胸の前で両手を祈るように硬く結び合わせた。「トゥパク・アマル様…。」彼方へ飛び去るコンドルを見つめる彼女の瞳の中にも、静かな炎が燃え上がる。『たとえ皇帝陛下が生きていたとしても、スペイン人から闘って勝ち取らなければ、この国はインカの人々の手には決して戻ってこない!』ずっと昔、アンドレスがそう語った言葉通り、今、まさにそれが動き出そうとしているのだ。涼やかで清い、そのくっきりとした目元に、澄んだ光が宿りはじめる。(私たち自身で、私たちを解放する…!!)胸が熱くなり、鼓動が速くなる。明日、進軍と…、明朝、結集と、言っていた。コイユールは夜の帳がおりはじめた農道の片隅で、立ち止まったまま空を見つめ続ける。しかし、その目には、もはや空の風景は映っていなかった。彼女は、ただ、じっと自分の心の中を見つめていた。自らの中に静かに燃え続けてきた炎。その炎が、今、さらに激しく、強く、燃え上がっている。そう、この日が来るのをずっと待っていたのかもしれない。アンドレスに出会い、そして、トゥパク・アマル様に出会った時から。きっと、もう何年も前に、あのビラコチャの神殿で、偶然にもトゥパク・アマル様を垣間見たあの日から…――!私たち自身で、私たちを解放するのだと、トゥパク・アマル様は言っていた。そのために、私たち一人一人の力が必要なのだ、と。コイユールは思いつめたような眼差しで、再び空を見た。既に、あたりは闇に包まれ、晩春の涼風が吹きぬけていく。風の揺らす新緑の草木が、ざわめく音がする。長大なコルディエラ山脈に囲まれた空には、次第に初夏の星座が瞬きはじめる。そして、それを見上げるコイユールの瞳にも、煌く星々がくっきりと映し出されていた。
2006.05.24
コメント(13)
その後のティンタ郡一帯の集落は激しい興奮に包まれたまま、人々はまるで蜂の巣をつついたかのように慌しく動き回っていた。インカ族の者たちは当然のことながら、混血児の者たち、そして、当地生まれのスペイン人たちまでもが、明朝の出陣に向けての準備を嬉々として開始した。そして、一見、いつもと変わらぬ仕事に勤(いそ)しむ黒人の者たちの横顔にさえ、密かな高揚が滲んでいた。スペイン人の圧政によって苦しんできたのは、決してインカ族の者たちだけではなかった。当地生まれのスペイン人も混血児たちも、そして、はるばるアフリカより白人に連れてこられた黒人奴隷たちも、スペイン渡来の白人たちによって激しく蔑視され、搾取され続けてきた不平分子であった。トゥパク・アマルは、もともとそれらの人々の窮状にも目を向けていたし、この反乱においても、単にインカ族の解放にとどまらず、それらの人々の真の自由を取り戻すことをも反乱計画当初からその眼目としていた。ところで、このインカ軍の構成の特徴の一つには、多くの女性も参加したということが挙げられる。実際、アンデスの女性たちは、織物や土器を作り家事を取り仕切るばかりか、身体的にも精神的にも強靭で、しばしば畜群を追って遠く旅をすることもあるし、また、農作業などにおいても、平素から男性顔負けの働きぶりを示す。歴史上の資料に残る反乱軍の隊長たちの中には、実際に、複数の女性たちの名を見出すことができる。そんな集落の喧騒の中を、人々の波をかきわけるようにしながらコイユールは自分の住む小屋への帰路を急いだ。中央広場から集落のはずれにある彼女の小屋までは、軽く見積もっても1時間以上の距離があった。集落の中心部を抜けるとき、教会の傍のアンドレスの館の前を通りかかる。無意識のうちに、コイユールの足が、ふっと止まる。門の傍でその美しい西洋建築をそっと見上げると、不意に自分の名を呼ぶ、あの少年の日のアンドレスの声が聞こえてくる気がする。胸の前で握り締める彼女の手が、微かに震えた。コイユールは揺れる瞳で、今は灯りもともっていないニ階のアンドレスの部屋の窓を見つめた。かつて二人で語り合った日々が、あまりにも懐かしく、切なく思い出され、彼女の胸をそっと締めつける。その思いを振り払うようにして、コイユールは小屋への道を走りはじめた。
2006.05.23
コメント(10)
トゥパク・アマルはあの燃え立つような瞳で、まるで、そこにいる民衆の誰一人たりとも漏らさぬとばかりの気迫をこめた真摯な眼差しで、広場の隅々まではるばると見渡した。広場のほんの片隅に佇むコイユールさえ、その瞬間、はっきりとトゥパク・アマルと目が合ったと感じたほどだった。それから、トゥパク・アマルは深く息を吸い込み、ゆるぎない決意を秘めた表情で、力強く訴えはじめた。「これより、我らインカの父祖の地と、この地に生きるすべての民の真の自由を回復するために、制圧者との戦闘を開始する!!我らインカの民は、かつて輝くような文明を築き、自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結び生きていた。かつて我々の父祖の生活は、そのまま自然の法則に則り、そして、人も自然も互いに支え合い、補い合って生きていた。それ故にこそ、かつてのインカの民には、高潔な誇り高き魂が宿っていたのだ…――!!侵略者たちのもたらした制度は、単に圧政を敷いたに留まらず、反自然的、且つ、利己的であって、この地の民を酷く苦しめ、そして、この大地を悉(ことごと)く汚してきた。だが、そのような侵略者どもの暴威と支配にもかかわらず、我々の魂は、真に失われたであろうか?死にたえてしまったであろうか?!天空を見よ!!太陽は失われたか?月は失われたか?星は?そなたたちが知る通り、今も、変わらず、そこにあるであろう。インカの民にとって、太陽はわが父、月はわが母、星たちはわが兄弟…――!!では、天空を見るように、今、再び、そなたたちの胸の内を、深く省み、感じ取ってみよ!!そして、その誇り高き、気高き魂が、今も、そなたたち一人一人の中に生きていることに、目覚めよ!!今こそ、眠れる魂を呼び覚まそうではないか!!そして、我々自身の手で、このインカの地を、この地の民を、己(おのれ)自身を解放するのだ!!真の魂の輝きを取り戻すのだ!!」風の中、翼のごとくに漆黒のマントが翻り、炎のような眼差しで訴え続けるトゥパク・アマルの全身からは、あの燃え立つような蒼い光が放射状に放たれているのが見える。「これより進軍を開始する!出立は明日。我らと共に戦う者は、明朝、この広場に結集せよ!!」もはや、はるかに聳(そび)えるコルディエラ山脈までも届かんばかりの大歓声の中、トゥパク・アマルたち一行は、まるで凱旋さながらに広場を戻り、去っていく。トゥパク・アマルたちが去っても、半ば狂気に近いごとくの興奮と感動の嵐の中で、群集たちは果てしない「インカ皇帝万歳!!」を、いつまでも、いつまでも叫び続けていた。
2006.05.22
コメント(6)
処刑台、すなわち絞首台に上るアリアガの姿に、群集の中から、再び興奮と緊張のどよめきが漏れる。そして、間もなく、トゥパク・アマルの合図と共に、代官アリアガは落命した。激しい高揚と、恍惚と、緊迫感の混在した空気が広場全体を呑みこんでいく。その興奮の坩堝(るつぼ)のような波の中で、コイユールは微かに震える手を祈るように組んだまま、壇上の人を見守った。壇上からじっと処刑台を見つめるトゥパク・アマルの瞳には、この時、いかなる色が浮んでいたのであろう。壇上から遥かに離れた広場の片隅にいるコイユールには、それはわからなかった。しかし、彼女の目に、その壇上の人は、何故だろうか、今、どこか非常に悲しげに、儚くさえ映るのだった。だが、次の瞬間、同じその人は、まるで別人のように強い光を宿した激しい眼差しに変わり、広場の群集をはるばると見渡した。そして、地底から湧き出るような厳かな声で、力強く話しはじめる。昨日と同じように、美しいケチュア語と、流麗で澱みないスペイン語とを巧みに交えながら。「スペイン国王の王命により、その名代として、インカ皇帝の末裔、このトゥパク・アマル2世はここに代官アリアガを死刑に処した。しかしながら、非道な代官は、このアリアガだけではない。この国のすべての代官は、インカ族や混血児の窮状、当地生まれのスペイン人の搾取、そして、黒人の者たちの酷使に対する責任を負っているのだ。然(しか)るに、この国のすべての代官は、このアリアガと同じ運命に見舞われるであろう!!」そう高らかに宣言すると、再び、あのインカ皇帝さながらの輝くばかりの炯炯とした眼差しで群集を見下ろした。漆黒のマントが、風の中に、まるで巨大な黒い翼のように翻る。トゥパク・アマルに向けて、群集たちは嵐のような拍手を送りはじめた。そして、あの「インカ皇帝万歳!!」の熱狂的な歓声が、地を揺るがすような激しさで、再び高らかに繰り返された。トゥパク・アマルは右手を高々と掲げてそれに応え、「従って…――!」と声を上げる。群集たちが、再び、喰い入るような眼差しで静まりかえる。
2006.05.21
コメント(10)
大人しくなった群集の中を、再び、代官アリアガを伴ったディエゴら一行は進みはじめる。アンドレスの顔からは、まだ血が滴り落ちている。コイユールは揺れる瞳で、事の成り行きを見守るしかなかった。やがて、アリアガはトゥパク・アマルの立つ壇上の下に到着した。トゥパク・アマルが、処刑台近くに組まれたその壇上から、静かな眼差しで見下ろしている。アリアガは顔を上げることもなく、ただ身を震わすようにして頭を垂れている。暫しアリアガを見つめた後、トゥパク・アマルは、手に握っていた豪奢な巻物を厳かな手つきで広げていく。彼の一挙手一動を、広場中の群集が息を詰めて見守った。トゥパク・アマルの群集に向ける眼差しは、再び穏やかなものに戻っている。そして、彼は群集に向かってその目で深く礼を払い、その手にある巻物を高々と掲げ上げた。「これは、スペイン国王カルロス三世からの勅令の書付である!!」彼はよく通る厳かな声でそう宣言すると、その勅令の書を滔々(とうとう)と読み上げはじめた。そこには、かつての強欲な代官、アリアガの罪状が記されていた。とはいえ、実際には、その書付は、トゥパク・アマル自身が反乱の計略上、自らしたためたものであったのだが。「スペインより派遣されたティンタ郡の代官アリアガは、次のようなスペイン国王に対する罪状を働いた。それはすなわち、違法の輸出入税の取立て、売上げ税の取立て、移住労働(ミタ)の強制である。然(しか)るに、スペイン国王カルロス三世の名のもと、それらの罪状を弾劾し、ここに死刑に処する!!」トゥパク・アマルは厳かな声で読み上げると、その勅令の書を静かに巻いて元の形に戻していく。今はやや伏し目がちなその面持ちに、群集には読み取りきれぬ微かな影がよぎる。一方、頭を垂れたままだったアリアガは、その「勅令の書」を読み上げられ、はじめてトゥパク・アマルの方に顔を上げた。憔悴しきったその顔面で、だが今は、眼だけがわななくように見開かれ、不気味な光を放っている。「謀ったな…――!!恐れ多くも、スペイン国王の名代などと!!」そう言わぬばかりに、今やすべてを察したアリアガの血走った眼は、激しく呪い責めるがごとくの視線でトゥパク・アマルを睨みつけていた。トゥパク・アマルも無言でそのアリアガの視線に応えた。そう、この処刑は反乱の幕を開けるための段取りの一つにすぎぬ。そなたは、その最初の犠牲者なのだ。そして、反乱を成功させるためであれば、わたしは国王の名代にさえなりすますことも厭わない。そう瞳で応えた後、トゥパク・アマルはアリアガの血走る眼に向かって、一瞬、己の瞼を閉じ、最後の深い礼を払った。それから、処刑台の方向を右腕で鋭く指し示した。「刑を執行する。」トゥパク・アマルが抑揚の無い、低く響く声でそう宣言すると、側近たちがアリアガを処刑台に導いていく。
2006.05.20
コメント(6)
そして、いよいよ翌日の11月10日が訪れた。代官アリアガ処刑の日である。その日も初夏を思わせる快晴で、むしろ、雲ひとつ無いその日の空の色は、不気味なほどに蒼かった。あのトゥンガスカの中央広場は、昨日にも増して多くの群集でごったがえしていた。広場の中央には、既に処刑台が組まれている。そして、その処刑台の周囲は、三列の兵士たちによって厳重に取り囲まれていた。内側の二列は、武装した当地生まれのスペイン人と混血の兵たちで、彼らは、あのアリアガに署名させた書面によって奪取した小銃を手にしていた。また、一番外側の列には鋭い目をした厳(いか)ついインカ族の兵たちが配備され、オンダ(投石器)と棍棒で武装している。正午2時を回った頃、村の神父との面会を終えた代官アリアガは、告白も済ませ、トゥパク・アマルの側近ディエゴに伴われて、うなだれたまま広場に連れ出されてきた。その2人を警護するように、インカ族の数十名の兵と共に、アンドレスとビルカパサがディエゴらのすぐ傍につき従う。アリアガの姿が広場に現れると、領民たちがひしめく広場の空気に強い憎悪と嫌悪の色が滲む。永年この代官の元で苦しみぬき、多くの肉親たちの命を奪われてきた領民たちの目には、これまで押さえ込んできた激しい怒りと憎しみの色が、もはやはっきりと露呈されていた。群集に埋もれるように立つコイユールもまた、華奢なその手を思わず握り締める。両親は、この代官によって命を奪われたのに等しい。彼女の指が微かに震える。彼女にとっても憎んで余りある代官ではあったが、しかし、今、目の前にいるその男は、なんと弱々しく、惨めな姿になっていることだろう。もはやこの代官を殺しても、両親が戻ってくるわけでもない。コイユールは揺れる瞳で、改めてアリアガを見た。眼前にいるのは、一人の無力な人間にすぎぬのだ。しかし、既に昨日からの強い興奮状態にある群集の怒りは、ますます高潮しながら激しく広場中を渦巻いていた。よろけるように力なく歩む代官に向かって、一人のインカ族の民衆が石を投げる。すると、それが引き金となり、広場のあちらこちらから、代官めがけて無数の石が投げ込まれはじめた。傍にいたアンドレスがアリアガを守るようにして、すかさず己の身を呈して代官の前に立ちはだかった。しかし、興奮しきった民衆は、さらに狂暴に石を投げてくる。アリアガを守りながらも俊敏に身をかわすアンドレスだったが、まもなく彼の右目の下に鋭い石片が命中した。遠くから見ているコイユールの目にも、アンドレスの顔面から血が滴り落ちるのが分かる。コイユールは、全く無駄なことに違いないのに、「やめてください!石を投げるのをやめて!」と、思わず雑踏の中で叫んでいた。そのコイユールの叫びに重なるかのように、広場中央の壇上から鋭い声が放たれる。「やめるのだ!!」トゥパク・アマルの鬼のような剣幕に、荒れ狂ったようになっていた群集がビクリと身を縮めて、その動きを止めた。彼らは、恐れをなしたように、壇上の方を見る。水を打ったように静まり返った広場の中央で、トゥパク・アマルはその切れ長の目元を吊り上げ、非常に険しい面持ちで群集を見下ろしていた。彼は無言だったが、その目は、「制圧者と同じことをしてはならぬ!力を持たぬ者に、力を持つ者が不当な力を振るってはならぬ!!」と、訴えているかのようだ。人々の手の中から、石つぶてが地面に落ちた。
2006.05.19
コメント(14)
館に戻ると、そのままトゥパク・アマルは代官アリアガの監禁されている部屋に向かった。入り口では、変わらず険しい面持ちで警護にあたるビルカパサがいる。トゥパク・アマルはビルカパサの労をねぎらい、錠を開けて部屋の中に入っていった。中では、やはりアンドレスが、真剣な眼差しでアリアガの警護にあたっている。トゥパク・アマルが、アンドレスの方に礼を払う。アンドレスも、深く礼を払い返す。そのアンドレスの瞳にも、深い悲愴感が滲んでいる。恐らく、自分と似た心の疼きを感じているのかもしれない。アンドレスなら、有り得ることだ。トゥパク・アマルは静かな笑みをつくり、「少し休んできなさい。暫くの間、わたしがここにいよう。」と言う。アンドレスもトゥパク・アマルの心を察したように、「それでは、暫く…。」と深く頭を下げて、そっと部屋を出て行った。トゥパク・アマルは、改めて、囚われの代官を見た。この数日、まともに食事もとらず、全く廃人のように呆然としたまま憔悴しきっている。随分前から縄は解かれているのに、もはや壁の方を向いて、何日間も石のように座ったままだ。トゥパク・アマルはアリアガに近づき、傍の床の上にその身を屈(かが)めた。アリアガは、もはや反応一つない。「アリアガ殿。」静かな声でトゥパク・アマルが声をかける。しかし、アリアガは壁の方を向いたままである。トゥパク・アマルは、アリアガの生気のない横顔に見守るような眼差しを向ける。そして、一瞬ためらうかのように一呼吸おくと、低い声で言葉を続けた。「いよいよ明日、お命を頂戴いたします。」その瞬間、アリアガの横顔が、いっそう硬直したように見えた。「何か、言い残すことがありますれば、仕(つかまつ)ります。」低い、静かな声で語りかける。アリアガは無言だったが、その瞳が微かに、非常に微かに、揺れはじめる。この男の体も、心も、まだ生きているのだ。トゥパク・アマルの胸の奥が、激しく疼いた。「明日、刑の前に、神父様とお会いください。そして、本国のご家族に、あるいは、大切なおかたに言い残したきことがあれば、お申し伝えください。必ずや、本国にお伝えできるよう、手配いたします。」その言葉にアリアガは僅かに動き、無言のまま頭を垂れ、膝の上で拳を力なく握り締めた。トゥパク・アマルはそのままの姿で、アリアガが何かを言うかと見守った。しかし、アリアガは言葉を失ったように、押し黙ったままだった。暫く待った後、トゥパク・アマルはそっと立ち上がり、アリアガの元を離れドアに向かう。彼はドアのところで、もう一度だけ、アリアガを振り向いた。そして、壁に向かってうなだれているその代官の背中にまっすぐ向き直り、無言で深く頭を下げた。
2006.05.18
コメント(6)
その晩、いつものようにトゥパク・アマルの妻、ミカエラの用意した夕食を囲んで、トゥパク・アマル、及び、側近であるディエゴ、フランシスコ、ベルムデスは、明日の代官アリアガ処刑の段取りについて話し合った。アンドレスやビルカパサは、これまで通り、アリアガの傍で警護に当たっている。食事を済ますと、緊張感の中にも高揚感の滲むその場の雰囲気から、そっと逃れ去るようにトゥパク・アマルは人気のない館の庭に出た。晩春の涼風が静かに吹いている。やや霞みがかった夜空には、白い半月が粛々と浮んでいる。随所に松明の焚かれた広大なその庭で、一人上空を見上げて立ったまま、トゥパク・アマルは目を閉じた。夜露に濡れた新緑の草の香りがする。今のところ、すべては順調に進んでいる。だが、トゥパク・アマルの心の底で、何か微かに蠢(うごめ)くものがある。彼はそれを振り払うように、強く瞼を閉じた。「父上!」不意に、幼い少年の明るい声が足元で響く。目を開いたトゥパク・アマルの瞳の中に、まだあどけない笑顔を向ける息子の姿があった。目の前にいるフェルナンド、彼の末子にあたるその少年は、今年8歳になったばかりだ。少女のようなサラサラの黒髪、生き生きと澄んだ黒い瞳、そして、年齢に似合わぬ切れ長の美しい目元は、トゥパク・アマル譲りだろう。フェルナンドは輝くような瞳で、トゥパク・アマルを見上げている。「今日、広場で父上を見たとき、僕、父上のこと、とても誇らしく思いました!!」少年はまだ幼い眼差しに、それでも深い敬意をこめて、父であるトゥパク・アマルをまっすぐに見上げていた。トゥパク・アマルはフェルナンドの傍の草の上に跪き、愛しい息子の瞳を覗いた。そして、その柔らかい少年の髪に、指でそっと触れる。「ありがとう、フェルナンド。」何かこみあげてくるものがあり、そのままトゥパク・アマルは息子の首に腕を回して、その胸の中に包み込んだ。この幼い息子たちの命さえも、この後は、自らの手で危険に晒していくことになるのだ。トゥパク・アマルの視線が、不意に館の方に動く。彼はその姿勢のまま、アリアガが監禁されている部屋の辺りをじっと見つめた。それから、フェルナンドをゆっくりと放し、「もう夜も遅い。中に戻ろう。」と優しく微笑み、息子をいざないながら自らも館に戻っていった。
2006.05.17
コメント(10)
トゥパク・アマルは、再び、よく響く、力強くも美しいケチュア語と、あまりにも流麗なスペイン語とを交互に交えながら話しはじめた。「皆の者に告ぐ!この地の代官アリアガは、その非道な暴政によって、この地の領民たちを散々に苦しめてきた。永年に渡るその所業は、あまりにも目に余るものであった。そして、その残虐な仕儀は、この度、ついにスペイン本国の国王カルロス三世の耳にも届いた。それを聞こし召されたスペイン国王が、その外道な代官アリアガを処刑するよう、インカ皇帝の末裔であるこのわたしに命を下された。従って、スペイン国王の名代として、このトゥパク・アマルが、明日、この時間、この場所にて、代官アリアガの処刑を執行する!!」そして、トゥパク・アマルは炯炯たる眼差しで、天を見やった。彼の眼差しの先には、この時間、まさに天頂に光輝く黄金色の太陽があった。どこからともなく、群集の間から、「インカ皇帝、万歳!!」の掛け声が起こる。すると、広場全体から、たちまち渦巻くような激しさで「インカ皇帝万歳!!」の連呼が上がりはじめた。コイユールは、彼女もまた、恍惚の中にあったが、しかし、声も出ず、その嵐のような興奮の波の中に呑まれるように立ち尽くす。人々の歓声の中、トゥパク・アマルはあのインカ皇帝の象徴、黄金の笏杖を再び天高く掲げ上げた。午後の燃え立つような陽光を反射し、煌々としたまばゆい光が放たれる。彼の胸元では、あの太陽の紋章が、笏杖の輝きと共鳴するかのごとく鋭い閃光を放つ。トゥパク・アマルは再び誓詞を立てるように、光り輝く笏杖を、暫しまっすぐに見つめた。そして、再び、歓声を上げる民衆に深く礼を払い、それから、ゆっくりと壇を下りた。広場の出口に向かって兵たちを従え進みゆくトゥパク・アマルに道を開けながら、群集たちは嵐のような歓声で彼らを見送った。コイユールは、身動き一つできぬままそちらを見守る。はるか前方を、白馬に跨ったトゥパク・アマルが堂々たる風貌で通り過ぎていった。そして、トゥパク・アマルのすぐ傍らを、艶やかな黒馬に跨り、見違えるように精悍な若者に成長したアンドレスが、しかし、同時に、あまりにも懐かしいあの横顔で通り過ぎていく。(アンドレス…!)コイユールは、心の中で小さくそう呟くのが精一杯だった。ところで、その広場で呆然と事の成り行きを見ていた当地のスペイン渡来のスペイン人の中には、この時のトゥパク・アマルの話の内容をおかしいと気付いた者もいたはずだ。実際、アリアガの処刑をスペイン国王カルロス三世の名代として行うというのは、トゥパク・アマルの計略であり、作り話であった。ただ、かつてトゥパク・アマル自身も判断に迷っていたように、植民地下のインカ族の者も混血児たちも、代官のような、直接、接触しているスペイン人のことは憎んでも、副王や、さらにはスペイン国王のような、目に見えぬ雲上の人のことまでは憎んでいなかった。かえって、雲上の人は自分たちの味方なのだが、その善意、言ってみれば大御心を、代官などの下役人たちが邪魔しているのだと思いこんでいた。トゥパク・アマルはそれを知っていたからこそ、大規模な反乱を成功させるべく民意をつかむためには、自らが「スペイン国王の名代である」という名目を掲げることが、反乱の戦略上、どうしても必要なことだと考えた。トゥパク・アマルの説明をおかしいと気付いたスペイン人たちも、武装した無数のインディオを前にして、もはや騒ぎ立てるのを諦めるしかなかった。こうして、ラテンアメリカの征服者たちを心底震撼させることになるトゥパク・アマルの大反乱は、ついにその幕開けの時を迎えたのであった。 ◆◇◆ お知らせ ◆◇◆本日もお読みくださり、誠にありがとうございます。この度、アンドレスとコイユール(少年少女時代)のイメージ画を 真魚子様 が新たに描いてくださいました。フリーページ( 登場人物イメージ画 )に追加いたしました。真魚子様に心から深く御礼申し上げますと共に、お読みくださり、また支えてくださっているすべての皆様に、厚く御礼申し上げます。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
2006.05.16
コメント(15)
これほどの大群衆が集まっているにもかかわらず、今、広場は怖いほど静かになっていた。人々は恍惚とした表情で、息を詰めて壇上の人を見る。午後の頭上からの陽光のせいだろうか。コイユールは、あまりの眩しさに目を細めた。まるでトゥパク・アマルの全身から、神々しいまでの白く輝く強い光が放たれているように見えるのだ。トゥパク・アマルは静かな微笑みを湛えながら、群集に頷き返すように再び瞳で礼を払った。それが合図であったかのように、傍に控えていた側近のディエゴが、豪奢な布に包んで持参した、黄金に輝く笏杖を掲げ持ち、それをトゥパク・アマルに捧げるように手渡した。それは、代々インカ皇帝の皇位継承者に受け継がれてきた、まさしく、権威の象徴…――インカ皇帝としての証の笏杖であった。トゥパク・アマルは片手で手綱を取ったまま、もう一方の手でその黄金の笏杖をしっかりと握り、そして、天空に向けて高々とその笏杖を捧げ上げた。黄金の笏杖は、真昼の陽光を反射して、直視できぬほどの強烈な輝きを放つ。トゥパク・アマルは、まるでその笏杖に誓詞を立てるかのように、まっすぐにその光輝く笏杖を見つめた。それから、再び群集の方に、熱を帯びた視線を向ける。群集は酔いしれるような恍惚感の中、輝く笏杖を手にしたトゥパク・アマルを、憑かれたような眼差しで見つめている。トゥパク・アマルは一つ、すっと深く息を吸い込むと、群集を包み込むような眼差しになり、それから、穏やかな、にもかかわらず、非常によく通る声で、「皆の者よ、よくぞ集まってくれた!」と美しいケチュア語で話しはじめた。群集の間に、強い興奮の色が沸き立つ。その空気をさらに高揚させるかのように、トゥパク・アマルが堂々と力強く響く声で続ける。「わたしは、亡きインカ皇帝トゥパク・アマル1世の直系の子孫、トゥパク・アマル2世である!!我こそ、このインカの地の正当なる皇位継承者である!!」トゥパク・アマルは力強く名乗りを上げると、燃え立つような眼差しで、群集を見下ろした。広場中の大群集から、驚きと歓喜のどよめきが渦巻くように湧き上がる。いっそう激しい炎を燃え上がらせた眼差しで、トゥパク・アマルはさらに続けた。「わたしはインカ皇帝の末裔として、そなたたちインカの地に生きる者たちを守る義務がある!!現在のこの国におけるスペイン人による圧政を、これ以上野放しにすることはできぬ!!」トゥパク・アマルの話は、単刀直入であった。さらに、彼は、スペイン人でも決して真似できぬ程の流麗なスペイン語で、同じように名乗りを上げた。広場にいたスペイン人たちは、すっかりど肝を抜かれた表情で、驚愕と呆然との混ざり合った眼で壇上の人を見やっている。広場中の数千人に及ぶインカ族の者、そして、同様に数千人に及ぶ混血の者たちは、「インカ皇帝」という響きへの激しい興奮と感動から頬を紅潮させ、トゥパク・アマルの方に一心に身を乗り出している。トゥパク・アマルはこの機を見計らうように、白馬の手綱を引いた。白馬が天に届くがごとくに高くいななき、それに触発されたように上空のコンドルが、トゥパク・アマルの頭上で優雅に羽ばたくと、天空に巨大な弧を描いて力強く飛び去った。
2006.05.15
コメント(8)
コイユールは、つま先立つようにしながら、色めき立つ群集の間から懸命にそちらの方を眺めやる。そして、息を呑んだ。どよめく人々の間を悄然と進みくるインカ族の兵に堅く守られ、白馬に跨り進みくるその馬上の人に、コイユールの目は釘付けられた。集団の中央でひときわ輝きを放つその人物、それは、あのトゥパク・アマルだった。トゥパク・アマルは、インカ皇帝の礼服である優美で豪奢な黒ビロードの服とマントを身に纏い、輝くような白馬に跨り、威風堂々たる物腰で広場中央に進んでいく。初夏を思わせる爽やかな涼風に黒マントと漆黒の長髪をなびかせながら、精悍な横顔で前方を見据えて進みゆく彼の傍では、やはり格調高い黒服で正装した数名の側近の者たちが黒馬に跨り、トゥパク・アマルを警護している。さらに、それら側近たちの後には、武装した大勢のインカ族の歩兵がつき従う。コイユールは己の目に映る光景がにわかには信じられず、まるで白昼夢を見ているような感覚にとらわれた。しかし、目をそらすことができない。釘付けられたまま、彼女はその一団を見やっていた。さらに、再び、コイユールは目を奪われた。中央のトゥパク・アマルを守るようにして、そのすぐ傍らで黒馬に跨り進みくる凛々しい混血の若者は、紛れもなく、あの懐かしいアンドレスではないか――!!その姿を見るのは、もう3年ぶりくらいだろうか。コイユールは胸に手を当てたまま、心臓が止まる思いで、その場に立ち尽くした。一団はまっすぐに正面を見据え、呆然と彼らを見つめるコイユールのはるか前方を通り過ぎ、広場中央に組まれた壇に向かう。壇の前までくると、トゥパク・アマルは白馬に跨ったまま壇上へと躍り出た。真青な空を背景にして、トゥパク・アマルの纏った漆黒の礼服は、彼の逞しく引き締った肢体の輪郭をくっきりと浮き上がらせた。その胸元では、かつてのインカ皇帝が戦時に愛用したのと同じ、太陽の紋章を象(かたど)った巨大な黄金製の首飾りが、午後のまばゆい陽光を反射して鋭い煌きを放つ。群集の中から、深い感嘆の溜息が漏れた。トゥパク・アマルは強い光を宿したその切れ長の美しい目で、壇上から、まるで集まった群集一人一人に礼を払うかのように見渡した。
2006.05.14
コメント(10)
11月8日。アリアガが監禁されて4日が経った時、すっかりやつれ返ったその代官の前に、再び書面をもったトゥパク・アマルが現われた。書面には、『ティンタ郡に住む全てのスペイン人、インカ族の者、混血児、そして黒人は、24時間以内にトゥンガスカの中央広場に出頭せよ』との内容が、したためられていた。もはや抵抗する気力も失われ、半ば廃人のように虚ろな眼をしたアリアガは、トゥパク・アマルの差し出した書面に、言われるままに署名をした。アリアガが署名したその書面は回状としてティンタ郡内の各村に配布され、すべての領民たちがそれを読み、あるいは、知らされた。そして、翌日の11月9日。無数のスペイン生まれのスペイン人、当地生まれのスペイン人(クリオーリョ)、混血児や黒人たち、そして、インカ族の者たちが、「代官アリアガの命令」のままに、トゥンガスカの集落に集まってきた。ティンタ郡の当時の人口は約二万人と推定されている。広大な中央広場は、大群集で埋め尽くされていた。「代官の命令」によって集められた人々は、一体これは何事なのかと、皆目検討もつかぬまま、ただ顔を見合わせ、あるいは、あること無いこと噂をしては、不安そうな面持ちで事の成り行きを見守った。そして、それら群集の中には、この地に住むコイユールの姿もあった。アンドレスと同い年の彼女は今や18歳となり、貧しい農民の服装やおさげの髪型こそ以前と変わらず、また、体型も、恐らく栄養不足もあるのであろう、かなり華奢ではあったものの、その全体的な印象はすっかり女性らしくなっている。まさしく「コイユール(インカのケチュア語で『星』の意味)」という、その名に相応しく、清らかな美しさを備えた女性へと成長していた。飾り気の無い、清楚な控え目さが、かえって彼女の放つ澄んだ透明感を際立たせていた。褐色の肌は瑞々しく、編んだ黒髪は艶やかに輝き、もともと端正なその顔立ちは、女性的な美しさを増している。幼い頃から涼しげな二重(ふたえ)のすっきりとした目元は、年頃になり、その輪郭がくっきりと際立ち、全体的な清楚で清らかな風貌に、華やかな美しさを添えていた。そして、何よりも彼女を特徴づける、あの年齢に似合わぬ慈愛に満ちた優しげな気配は、いよいよその深みを増し、その清い妖精のような雰囲気は、思わず人を振り向かせるほどになっていた。それと同時に、姿勢の良い凛とした立ち居振る舞いの一つ一つに、意志の強さがうかがえ、しかし、それでいて、彼女の醸し出す雰囲気には、どこか悲しげで、儚げなところもあった。そんな彼女もまた、「代官」からの回状を見て、この広場に急いで出向いてきたのだった。それにしても、何という人の多さだろう。息もできぬほどにごったがえした広場の片隅で、人々の波に呑みこまれるようにしながら、コイユールは新鮮な空気を求めて空を見上げた。時刻は、まもなく午後2時を回ろうとしている。爽やかに晴れ渡った晩春の上空を、一羽の巨大なコンドルが堂々たる翼を広げて自在に舞っていた。コイユールはその姿に魅せられるように、上空に見入った。その時だった。広場の正面入り口の方で、大きなどよめきが起こった。
2006.05.13
コメント(12)
トゥパク・アマルは手に持っていた一枚の書面とペンをアリアガの目の前に置いた。「これに署名をするのだ。」感情の無い声で、トゥパク・アマルが言う。頼りなげに揺れる蝋燭の灯りにすかすようにして、ちらりと書面に視線を走らせたアリアガの顔色が、これまでにも増して蒼白になっていく。アリアガは、改めて事の重大さに驚愕した眼(まなこ)で、眼前のインディオを見た。トゥパク・アマルは、完全にあの能面のような表情である。感情を差し挟む余地は一縷もない。アリアガの表情が崩れるように歪む。そして、再び、その代官は、喰い入るように書面を読み返した。その書面は、アリアガの配下の会計係宛てのものであり、次のような内容であった。『調達できる金を全て、集められる武器を全て、トゥンガスカの集落まで至急届けよ。イギリスの海賊どもが海岸を荒らしているため、代官として手勢を多数引き連れ、直ちにアンデスの高原を下り、英国人の討伐に向かわねばならない。』トゥパク・アマルは、アリアガの手元にペンを置いた。「署名をするのだ。」アリアガは、生唾を呑んだ。単に、代官殺しをしようとしているのではない。これは、反乱計画の一部なのだ…――!!今更ながらアリアガは悟ったが、トゥパク・アマルの氷のような表情を前にして、もはや拒絶すれば直ちにいかなる目に合わされるかは明らかに思われた。アリアガは、震える手で署名をする。トゥパク・アマルは無言のまま署名を確認すると、用件を済ませたアリアガの手首を再び縛り、その部屋を後にした。そして、翌日。その書面は、すぐにアリアガの部下に届けられた。もちろん、「イギリスの海賊が海岸を荒らしている」などという文言は、軍資金や武器を奪取するためのトゥパク・アマルの全くの作り話であった。しかしながら、この時代、スペインにとってイギリスは、当植民地の支配権を狙う予断のならぬ敵国であった。従って、書面を読んだアリアガの部下がその内容を信じ込んでしまったのも無理からぬことであった。代官の部下たちは、これ大変と、早急に「アリアガの命令」に従った。まもなく、2万2千ペソ(邦貨で約1,100万円)の現金と若干の金の延べ棒、75梃の小銃と多数の馬やラバが、トゥパク・アマルらの兵が待ちかねる指定の場所まで運ばれてきた。運んできたアリアガの部下たちは、そのまま捕虜となった。合わせて、トゥパク・アマルは密かに、最も信頼できる筋の近隣の同盟者たちへの呼びかけを開始した。そして、インカ側に味方する反乱軍の兵を自らの領内に集めはじめたのだった。
2006.05.12
コメント(6)
アンドレスは椅子から下りて膝をつき、肥満に膨れ上がった体を折り曲げて冷たい床に頭を押し付けているアリアガを両腕で起こした。そこには、汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった弱々しい男の顔があった。アンドレスは揺れる瞳でアリアガを見据える。「アリアガ殿。あなたのこれまで行ってきたことによって、あなたの今の悲しみと同じ思いをしてきた領民がどれほどいたことか。」アリアガの両肩を起こしながらそう語る彼の声は、しかし、責めるような口調では決してなかった。哀れなアリアガは、いっそう涙に歪んだ顔で呆然とアンドレスを見やっている。「今、あなたは深く反省された。そのことによって、もはやあなたの命運が変わるわけではないが、だが、あなたの魂にとっては、きっと良きことに違いありますまい。」アリアガは意味が分かってか分からいでか、しかし、アンドレスの静かな声に諭されるように大人しくなった。アンドレスは続けた。「あなたが、スペイン人として、いや、真に人としての誇りをお持ちならば、己の成してきたことの責任として、この命運を受け入れることです。あがけば、それだけ惨めになる。」そう語る彼の声は、自らをも納得させようとしているかのようだった。その時、ふいにアンドレスの背後で気配がした。いつの間にか、トゥパク・アマルが部屋に戻ってきていたのだった。いつからそこにいたのだろうか。いずれにしろ、アリアガは、ひどくギョッとして泣きはらした目でトゥパク・アマルを見上げた。アンドレスもハッと息を呑んで、抱き起こしていたアリアガの肩を放した。「アリアガ殿。わたしのかわいい甥を買収するつもりかね?」トゥパク・アマルが淡々とした声で言う。アンドレスは、何かいけないところを見られてしまったような、気まずい思いでトゥパク・アマルに無言で礼を払いながらアリアガの前をどいた。が、アンドレスに向けられたトゥパク・アマルの眼差しは、決して冷たいものではなかった。トゥパク・アマルは無言だったが、しかし、その瞳は静かな笑みを湛えていた、ようにアンドレスには見えた。トゥパク・アマルはアリアガの縄をほどき、部屋の片隅のテーブルの方に連れて行って自分と向かい合わせに座らせた。アンドレスは、所定の見張りの椅子に戻り、息を詰めて2人の様子を見守る。
2006.05.11
コメント(10)
代官が監禁された部屋の中では、かのアンドレスが見張り役をつとめていた。ドアの隣に置かれた椅子に座る彼の傍らには、己の武術指導の師、アパサが授けた厳かなサーベルが光る。アンドレスは、数本の蝋燭が辛うじて灯る薄暗い部屋の中に、縛られたまま蹲(うずくま)る代官にじっと視線を注いでいた。アリアガは、今や、もはやショック状態のように、焦点の定まらぬ目でただ呆然と壁を見ている。この代官のために、どれほどの貧しい領民が苦しめられ、命を奪われてきたことか。今となっては哀れにさえ見える代官に向けられるアンドレスの瞳には、怒りと共に、悲しみの色が浮んでいた。たとえこの代官を殺しても、失われたものは戻ってこない。彼は、揺れる蝋燭の炎を見つめた。否、そもそも今回の目的は、代官を殺すことではない。その先にあることなのだ…――!トゥパク・アマルの計画を知るアンドレスの眼差しが、再び、思いつめたように険しくなる。この代官の死は、いわばそのための道具にすぎない。彼は、再び、惨めに頭を垂れている代官に視線を戻す。思えば、この代官も哀れな運命かもしれない…。そんなアンドレスの心を見透かすように、突如、その代官が彼の傍に擦り寄ってきた。あの強面のインディオたちの中では、確かに、アンドレスはやや趣の異なる印象を放っていた。どれほど鍛え上げられていようとも、華やかで柔らかな雰囲気は失われていなかったのだ。文字通り絶体絶命の危機に立たされたアリアガにとって、そのようなアンドレスの姿が天使のごとくに映っても不思議ではなかった。アリアガは必死の面持ちで、目には涙を溜めてアンドレスを見上げた。「わしが悪かった。領民のことを、もっと大事にすべきだったのだ。それは、もう、よく分かった。二度と領民を苦しめるようなことはしないと誓う!だから…だから、あの男に、トゥパク・アマルに取り成してはくれまいか。せめて、命だけは、助けてほしいと…!」アンドレスを喰い入るように見つめる代官の目から、涙が落ちる。アンドレスの心がずきんと疼く。しかし、彼は静かに首を振った。「頼む!この通りだ!!」代官は、アンドレスの足元の床に額を押し付けるように平伏(ひれふ)した。アンドレスは、しかし、再び、静かに首を振る。アリアガは、床に頭を押し付けたまま、泣きながら呻き続ける。「本国スペインには、家族もいる!こんなところで…、こんな最果ての地で…命を落とすわけにはいかぬのだ!!」もはや、それは一人の素の人間の、生の叫びだった。アンドレスの瞳が揺れはじめる。 ◆◇◆ お知らせ ◆◇◆本日もお読みくださり、誠にありがとうございます。この度、トゥパク・アマルのイメージ画を 真魚子様 が新たに描いてくださいました。【鷲とトゥパク・アマル】【馬上のトゥパク・アマル<代官襲撃の夜>】を、フリーページ( 登場人物イメージ画 )に追加いたしました。真魚子様に心から深く御礼申し上げますと共に、お読みくださり、また支えてくださっているすべての皆様に、改めまして厚く御礼申し上げます。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
2006.05.10
コメント(9)
最後に、トゥパク・アマルは、捕虜たちと同様に張り詰めた緊張を滲ませながら、草陰に身を潜める同志の者たちに目をやった。もはや後戻りできぬ道に進みだしたという決意の色が、それぞれの者たちの険しい眼差しにはっきりと見てとれる。トゥパク・アマルは、周囲の闇の中に鋭い警護の目を光らせているアンドレスを見た。緊張を滲ませながらも、恍惚とした気力溢れる若者の横顔だった。蒼い炎の燃え立つような瞳をしている。敵を倒す腕も、鮮やかなものだった。心身共に逞しく成長してアパサの元から戻った甥の姿に、トゥパク・アマルは誰にも気付かれぬよう目だけで静かに微笑んだ。心の中で、アパサに深く礼を払う。そして、トゥパク・アマルは、再び、この後の計画を心の中で反芻した。そう、代官殺しの大罪を犯した次に来るものは――。決して、失敗は許されない。反乱の最初の命運は、この数日間にかかっているのだ。 星の位置から深夜の12時を過ぎたことを知ると、トゥパク・アマルは低い声で「そろそろ参ろう。」と、出立の合図を発した。ディエゴが頷き、アンドレスたちに目配せする。アンドレスも無言で、力強く頷く。決して人目につかぬよう、注意深く捕虜たちを引き立てながら、無言で深夜の道を進んでいく。目的地は、トゥパク・アマルの屋敷のあるトゥンガスカの集落である。トゥパク・アマルの屋敷に到着したのは、深夜の1時を回る頃だった。松明の炎が燃える屋敷の門前で、トゥパク・アマルの妻、ミカエラが待ちかねたように出迎える。美しいこのインカ族の才媛は、この夜も高貴で涼やかな、そして凛々しく男性的でさえある眼差しで、無事に戻った夫であり同志であるトゥパク・アマルたちを、優美な物腰で館に招き入れた。ミカエラは捕われた代官を冷ややかな瞳で一瞥した後、夫に無言のまま「ひとまず上手くいったのですね。」と、目で合図を送る。トゥパク・アマルも、静かな眼差しで頷き返した。こうして代官アリアガは、トゥパク・アマルの屋敷の一室に監禁された。トゥパク・アマルは、アリアガを捕えた窓も無いその部屋に、外から固く錠を下ろした。そして、ドアの前には、ビルパカサがいつにも増して険しい面持ちで警護に当たる。たとえ、インカ族の同志にさえも、アリアガの所在を明かしてはならぬ。命運は、この数日間にかかっている。秘密裏に、迅速に、手を打たねばならない。そして、トゥパク・アマルは次の段取りのために、書斎に消えた。
2006.05.09
コメント(8)
トゥパク・アマルは鋭い目つきで夜空を見た。星座の位置を確認する。人目の完全になくなる深夜まで、時を待たねばならない。それから、彼はアリアガの方に視線を動かす。縛り上げられたアリアガは恐怖のため、不規則に顔面をピクつかせながら、目を血走らせてガクガクと震えている。脂汗が顔面から、多量に噴出している。相当に動転しているのだろう。目の焦点も定まっていない。トゥパク・アマルの目からは、もはやアリアガに対する冷ややかな眼差しは消えている。確かに、非道で強欲極まりない代官だが、この国の状況を鑑みれば、決してこの代官だけが特別だったわけではない。強欲な代官がひしめいているのがこの国の実情であり、且つまた、それらを公然と黙認し、圧政を敷くために利用しているのが、植民地支配の中枢を握る副王側近の権力者たちなのだ。トゥパク・アマルは、再び、永年敵視し合いながらも、同じこの地を治めてきた代官の横顔を静かにうかがった。脂肪で歪んだ蒼白な顔面は、今や弱々しく、哀れでさえある。己がカシーケ(領主)を務めるこのティンタ郡の代官であったことが、今や不運だったと思ってもらうしかあるまい。この反乱の幕開けのために、ある意味では、最初の犠牲者となってもらうのだから。それから、トゥパク・アマルは、アリアガに付き従っていたがために、不幸にも捕虜として捕えられてしまった2人の黒人奴隷たちを見た。恐らく、この強欲な代官に酷使され続けてきたのであろう。ひどくやせ衰え、その表情には生気が無く、この状況に及んでも、もはや呆然としているのみで感情さえ殺してしまっているように見える。彼ら黒人たちは、もともと奴隷として、アフリカからこの新大陸まで、はるばる白人たちによって連れてこられてきた者たちである。インカ族さえも殆ど保護しようとする者のないこのアンデスの地で、黒人の彼らを保護しようとする者は更になく、言ってみれば、インカ族の者たちよりも、もっと酷い目に合わされ放置されているのが彼ら黒人たちと言えるかもしれない。トゥパク・アマルの胸の内に、再び強い怒りが燃え上がる。それはこの一介の代官であるアリアガに対するものというより、もっと統治機構の中枢に巣くう者たちに対するものである。黒人奴隷たちの解放…――そのことも、決して忘れてはならぬことなのだ。トゥパク・アマルは決意を秘めた瞳で、今は哀れに繋がれている黒人たちに、深い礼をこめた眼差しをそっと送った。
2006.05.08
コメント(8)
アリアガはラバの上で、でっぷりと太った体を反らして体勢を整えた。そして、この肥沃な3万平方キロの土地の代官であることに、改めて黒い腹の中でほくそえむ。しかし、その反面、今宵は、それら道端の木々や畑から、何やら不気味な怨念めいたものが放たれているような気がして、どうにも落ち着かない。アリアガは、憎々しげに前方を見やった。今夜、あの生意気なインディオに会ったせいに相違ない。人気のない夜道を進みながら、アリアガの脳裏にあのトゥパク・アマルの姿がよぎる。背筋に嫌悪と憎悪の虫唾が走った。あの増長したインディオを、このまま放置しておくわけにはいかぬ。これ以上増長させる前に、何かひどい目に合わせてやらねばいかん。アリアガは傲然と胸を反らせ、ラバに鞭をくれようとした。その瞬間だった。インディオの一群が草むらの中から、ばらばらと飛び出した。反射的にギョッと身を固め、狼狽した眼を見開くアリアガの手から、ラバの鞭がこぼれ落ちる。手綱を引き締める間も無く、矢のごとく飛んできた投げ縄に、その首が巻かれた。次の瞬間には、アリアガは、そのまま縄ごと鞍から地に引き摺り下ろされていた。首に縄が巻きついたまま地に伏し、驚愕して血走った眼で見上げるアリアガの前に、黒服に身を包んだ一人のインディオが進み出た。アリアガの顔面が崩れるように歪む。「おまえは…!」だが、恐怖のためか、喉がひきつって声が出ない。アリアガの全身がガクガクと震え出す。トゥパク・アマルは、ただ無言でアリアガを見下ろしていた。投げ縄の先端を握る大男のディエゴが、この強欲な代官の首に巻きついた縄をたぐりよせるようにして、そのままアリアガを固く縛り上げた。その間に、棍棒を手にしたアンドレスとビルカパサが、アリアガの複数の護衛官たちをあっさりと倒し、無傷のまま縛り上げる。アリアガに付き従っていた2人の黒人奴隷たちは、もはや抵抗する気力もなく、フランシスコに大人しく縛られるままになっていた。すべては音も無く、しかも、瞬時のうちに行われた。そのままトゥパク・アマル一味と捕虜たちは、道端の草の中に素早く身を潜めた。
2006.05.07
コメント(12)
ワインを注ぎ終わると、トゥパク・アマルは静かな眼差しで司祭を見た。親代わりのように自分に教育を授けてきたこの高齢の司祭には、深い感謝の念を禁じえない。あるいは、これが今生の別れになるやもしれぬ。トゥパク・アマルは、心の中で深く司祭に頭を垂れた。それが合図であったかのように、ドアにノックの音がする。「入りたまえ。」と、司祭がドアの方に声をかける。ドアを開いたのは、あのトゥパク・アマルの腹心ビルカパサである。ビルカパサは司祭の方に深々と頭を下げてから、トゥパク・アマルの方に視線を向けた。「トゥパク・アマル様。ただ今、館から使者が参りまして、クスコから急用のお客人がお見えとのことでございます。」ビルカパサは用件だけを急ぎ伝えると、また、司祭の方に頭を下げ、素早く姿を消した。トゥパク・アマルは司祭に向き直り、「申し訳ありませぬが、そのような事情のため、今宵はこれにて失礼いたします。」と、深く礼を払った。もちろん、クスコからの使者などというのは、この場を抜ける計略のための口実にすぎないが。司祭も、トゥパク・アマルとアリアガとの間に流れるひどく気まずい空気にそろそろ辟易していたため、半ば安堵の表情で頷いた。「また、いずれゆっくりと話でもしよう。」司祭の言葉に、トゥパク・アマルは深く頭を下げた。「そのような機会がございますれば。是非…。」だが、心の中では、恐らくそのような日はこないかもしれぬが、と思いながら。そして、アリアガの方にも一応の礼を払い、トゥパク・アマルは足早にその場を後にした。 それから数時間後、目障りなトゥパク・アマルがいなくなったロドリゲス司祭の屋敷で、たらふく料理を平らげたアリアガは、ラバに跨り家路についた。腹心の5~6人の護衛官と、2人の黒人奴隷がその後につき従う。すっかり夜も更け、人気のない夜道は静まり返っている。南半球の11月は既に晩春だが、このティンタ郡は標高4000メートル近い高原の部落であり、この時期の夜はまだ冷え込みが厳しい。アリアガは、一瞬、ぶるっと身震いした。ロドリゲス司祭の屋敷は集落から少々離れた場所にあり、中心部のアリアガの館までは人気のない道が暫く続く。道はビルカマユ川の谷を曲がりくねり、道端に立ち並ぶ柳やモイェの木々は怪し気な気配を漂わせ、妙に黒々とその影を浮き上がらせていた。それらの木々の向こうには、領民の耕すジャガイモやトウモロコシ畑があるはずだが、夜闇の中に紛れて今は何も見えない。風もなく、空気も溜まったように動かない。辺りは気味が悪いほどに、しんと静まり返っていた。
2006.05.06
コメント(8)
その後のトゥパク・アマルの行動は早かった。もはや彼は、巡察官アレッチェに、嫌疑の目をかけられていることを察していた。敵が動く前に、早急に事を起こさねばならない。しかも、決して情報の漏れぬよう、極秘裏のうちに。故に、反乱の幕開けとなるトゥパク・アマルの最初の行動計画は、絶対的に信頼のできる極少数の者たちだけに明かされ、その者たちのみが実行犯として加わった。たとえインカ族の同志たちにさえ、あのアパサにさえも、最初の行動は、その内容も期日も明かされてはいなかった。一方、実行犯として加わった者は、トゥパク・アマルの従弟ディエゴ、腹心ビルカパサ、義兄弟フランシスコ、そして、甥のアンドレスだった。また、背後から支えた者として、相談役ベルムデス、トゥパク・アマルの妻ミカエラがいた。運命のその日、1780年11月4日…――。その晩、トゥパク・アマルは、ロドリゲス司祭の招宴の席にいた。ロドリゲス司祭とは、トゥパク・アマルがカシーケ(領主)として治めるこのティンタ郡在住のスペイン人で、また、トゥパク・アマルの旧師でもあった。トゥパク・アマルもアンドレス同様、若き日にはインカ皇族や有力者のための、かのクスコの神学校に通っていた。が、両親を早くに亡くした彼の就学以前の教育を担当していたのが、このロドリゲス司祭だった。そして、この運命の夜、何も知らぬロドリゲス司祭は、スペイン国王カルロス三世の命名日を祝おうと、当地の代官アリアガとカシーケであるトゥパク・アマルを招宴の席に呼んでいたのだった。トゥパク・アマルはスペイン人であるロドリゲス司祭の目を意識してか、上品な白い絹のシャツの上に、深い紺色の上下揃いの西洋風の衣服を身に纏っている。そして、司祭を中央に挟むようにして、彼とあの代官アリアガとは、贅沢なご馳走の並べられたテーブルを挟んで向かい合っていた。温厚な笑顔で二人の間をかわるがわる見渡しながら話す老齢のロドリゲス司祭の手前、トゥパク・アマルもアリアガも、一応笑みを浮かべてみせてはいるが、場に流れる空気はいかにも空々しい。この代官は、トゥパク・アマルの再三に渡る訴えにも関らず、領民へのその非道な搾取を全く改めようとしないばかりか、その仕儀はいっそうの非道を極めていた。自ずと、目前のアリアガを見るトゥパク・アマルの目は険しくなる。一方、アリアガも、もう何年間にも渡って、この煩(うるさ)いインディオの存在に腸を煮やしており、トゥパク・アマルを見る眼差しには強い憎悪が宿っている。とても料理に手をつける心境ではないのは、互いに同じだった。ロドリゲス司祭は刺々(とげとげ)しい場の雰囲気を察して、笑顔でトゥパク・アマルに話しかける。「最近、商売の調子はどうなのかね?」恐らく、司祭なりに、無難な話題を選んでのことだった。トゥパク・アマルは司祭の方に礼を払いながら、「まずまずというところです。」と、やはり無難に答える。「ずいぶん遠方まで、頻繁に行商に出ていると聞いているが。しかも、トゥパク・アマル殿、自らが。」アリアガが、この時とばかり、探るように質問してくる。恐らく、かの巡察官アレッチェから、トゥパク・アマルの動向を正確に把握するようにとの指令が、これまで以上の執拗さで出されているに相違なかった。「行商に出るついでに、各地の様子も見て回っているのですよ。それぞれの土地の代官殿がいかなる統治をなされているのか。」トゥパク・アマルは淡々とした声で応じた。それは事実でもあった。もちろん、同志を募り同盟を結ぶため、などとまでは流石に言わないが。アリアガは、以前にも増して肥満で膨らんだ顔面を、いっそう憎々しげに歪める。ロドリゲス司祭は話の流れが良からぬ方向に進みはじめたのを察して、何か別の話題に変えようと言葉を挟みかけた。が、アリアガの方が、言葉を放つのが早かった。「で、各地の様子はどうだったのだ?」その声色には、ありありと憎悪が滲んでいる。「いずれの土地も、大差はありませぬ。」トゥパク・アマルは招宴の場であることを一応踏まえて、言葉を選びながら慎重に答えた。本当のところは、いずれの土地も代官による搾取は非道を極めているが、アリアガの治める当地ほど酷くはない、と言いたかったのかもしれないが。それから、トゥパク・アマルは横目でちらりと、窓の方を見た。すっかり日が暮れて、夜の闇が館を黒々と包んでいる。トゥパク・アマルは赤ワインのボトルを傾け、「司祭様、さあ。」と、司祭のグラスにそれを注いだ。その後、彼はアリアガの方にもボトルを向け、「おつぎしましょう。」と低い声で言う。相変わらず激しい憎しみに燃える眼のまま、アリアガは無言でグラスを傾ける。そのグラスに真赤な酒を注ぎながら、トゥパク・アマルの目が冷徹な光を放つ。その酒は、まるで、おまえが領民から搾り取った血のようだ。だが、領民の血肉の上に安穏としていられるのも、今、この時が最後になるだろう。
2006.05.05
コメント(10)
全50件 (50件中 1-50件目)
1