全17件 (17件中 1-17件目)
1
帚木蓬生氏のお話です。森田正馬の提言は、神経症とはいえない普通人においてこそ、より強力な効果を発揮すると、私は思っています。従来の森田療法研究で抜け落ちていたのは、まさしくこの視点です。森田正馬の治療法は、普通の人々の生活を一層豊かにする要素を多く含んでいるのです。森田正馬が形外会で発した言葉や、記述を読むと、森田正馬自身、自分の治療法は人の生き方の手引きそのものだと、自負していた様子がうかがわれます。(生きる力 森田正馬の15の提言 朝日新聞出版 19ページ)こういうことを神経症の診断をして薬を処方するのが本業の精神科医が指摘されていることは大変心強いことだと思います。尊敬に値します。森田理論を学ぶ目的は2つあります。まずは神経症のとらわれから解放されることです。仕事や日常生活に支障をきたしている人は、精神科医にまかせた方がよいと思っています。その際信頼できる生活の発見会の協力医を探すことです。その他生活の発見会の協力臨床心理士のカウンセラーに相談するのもよい。ここで注意することは、神経症はケガや病気が完全に治るようなことは望めないということです。特に強迫神経症の場合はとらわれやすいという性格特徴は一生ものです。ですから、神経症のことばかり考えていた状態が少しずつ緩み、半分くらいまでに減少すればもうそれ以上の回復は期待しない方がよいと思います。あとは普通人として生きていくことです。生活を思う存分満喫するようにした方がよいと思います。もう一つの目標は神経質性格を活かした人生観の確立をするということです。学習目的の主力はこちらにあります。ではどういう人生観を持つのが望ましいのか。森田の神髄は「あるがまま」と言われています。「あるがまま」を体得するためには、先ずは森田理論の基礎的学習をする。その先に、次のような学習が必要になります。1、不安、恐怖、違和感、不快の感情の特徴や役割を理解すること。2、不安と欲望の関係を理解すること。つまり生の欲望の発揮と制御の関係について理解すること。3、「かくあるべし」の発生とその弊害について理解を深めること。4、事実本位の生活態度を養成していくこと。5、課題、目標、希望、夢に向かって努力していく生き方を確立すること。理解できたら日常生活、仕事、人間関係、子育て、健康、趣味、自然との付き合いなどに活用していくことが肝心です。森田理論は長谷川洋三先生によると中学生でも理解できる内容です。肝心なことは森田理論をいかに応用・活用していくかということです。そのためには自分一人で取り組むよりも、自助組織の生活の発見会の活動に参画することです。現在は家に居ながらZOOMで全国の学習仲間とつながる時代になっています。詳しくは生活の発見会のホームページでご確認ください。
2024.04.01
コメント(0)
森田先生の晩年は不幸が続いています。昭和5年(森田先生56歳) 一人息子の正一郎君(20歳)が肺結核で亡くなる。昭和10年(森田先生61歳) 奥さんの久亥さんが脳溢血で亡くなる。昭和13年(森田先生64歳) 母親の亀さんが亡くなる。母の死から3か月後、昭和13年4月森田先生死去。森田先生の晩年の10年間は喘息と胸の病でほとんど病床についておられました。正一郎君の出棺のときの様子を形外会会長の香取修平氏が次のように語っている。私も告別式の時は、先生のそばにおりましたが、納棺の時は先生も非常に悲しまれ、はらわたを断つように慟哭されました。出棺の時も、先生は門前で霊柩車を見送られましたが、後二階に帰られた時は、はや風光霽月といった風に他のことの話もされて、全く別人の如き態度になられたのを見て、私も非常に感銘したのであります。(森田全集 第5巻 66ページ)母の訃報に接したときの森田先生の様子が「森田正馬評伝」(野村章恒 249ページ)に載っている。確かに訃報が入ってから2、3日おくれてお知らせしたところ非常に悲しまれた。そして、言い訳のように、悲しみはそんなに身体には影響ないよ、僕はこんなに哭いてしまうから後はさっぱりする、と言いながら声をあげて哭かれた。この件について森田先生は次のように説明されている。若い人、心がけのよい人、道学者あるいは武士道とかいうものでは、男は泣いてはならぬとか、人に対して失礼である、みっともないとか、あるいは諸行無常と悟ったとか、おのおのその主義や理論や片意地やで、感情を抑えているのであるが、私にはそのような主義や理論がないから、感情のままに小児のようになる。それでもさすがに告別式とか、多数の人の前では神妙にしているが、それは自然にきまりが悪いからであって、心安い人ばかりの時は、耐えきれないで泣くのである。そういう風であるから、泣いてしまえば感情が放電されて、心が晴れてなんともなくなるのである。(森田全集 第5巻 68ページ)森田先生は悲しいときには思い切り涙を流した方がよいと言われている。悲しい感情を意志の力で押さえつけると、いつまでも後を引くと言われているのである。これは2023年11月23日の、「感動の涙を流してストレスを吹き飛ばそう」という投稿に通じるところがあります。それによると涙にはストレスや辛い感情を押し流す効果があるということでした。さらによいのは感動の涙を1週間に一度くらいの割合で流すと、精神の安定に大きな効果が期待できるということでした。興味のある方はぜひご参照ください。
2024.01.21
コメント(0)
1917年森田先生は中村古峡が主催する「日本精神医学会」の評議委員を受諾している。森田療法が確立したのが1919年であるから、その2年前のことである。評議委員の中には、渋沢栄一、幸田露伴をはじめ、10名を超える東京帝大教授などが含まれていた。中村氏の「日本精神医学会」の設立趣旨に、「はやく父を失ったため10年にわたって苦学する間、脳神経衰弱に襲われ、ひいては脚気、心臓病、肺尖カタルなど万病を併発し、後には弟が精神病にかかり入院中に死亡するという悲惨な経験を経て、ここに新たに精神医学と云う一科を建設してみたいと云う決心を起こしました」と述べている。この経験は森田正馬の体験とよく類似しており、二人は意気投合したという。中村古峡との付き合いは1925年で終わっているが、それまでは親密な付き合いが続いている。中村古峡は「変態心理」という雑誌を発刊していた。変態というのは、正常でないこと。異常心理、超心理というほどの意味である。この雑誌には、幸田露伴、賀川豊彦、伊藤忠太、生田長江、柳田國男、井上円了、金田一京助、富士川游、高群逸枝、南方熊楠、古屋信子などの多彩な著名人が寄稿している。ただし主催者の中村古峡以外で、中心になって積極的に寄稿していたのは森田正馬であった。その一端を紹介しよう。「迷信と妄想」(15回連載)「児童恐怖症について」「恐怖に対する余の臆説」「誤れる不良児の教育法」「神経質の話」「神憑の現象について」「夢の研究」(5回連載)「どんな人が自殺するか」「ヒステリーの話」(2回連載)「催眠術治療の価値」「精神療法の基礎」「赤面恐怖治癒の一例」「肝臓癌の治癒した一例」「神経衰弱に対する余の特殊療法」「若返り法と霊子術」「潜在意識について」「夢の研究に就いて」「変質者に就いて」(2回連載)「形外漫筆」(9回連載)「嫉妬妄想に就いて」「有島武郎の死を評す」「流言蜚語の心理」「心身の健康とは」「注意は活動である」(2回連載)「精神病とは如何なるものぞ」「生の欲望と死の恐怖」(2回連載)私たちが森田理論学習で学習している内容が、この時にすでに考えられていたということです。その他、この雑誌の購読者に対して講話も積極的に行っている。原稿の執筆も含めて「変態心理」に費やす時間は相当なものであった。呉教授をはじめ精神病学の本道を歩む人たちからは顰蹙をかっていたという。しかし「変態心理」は森田先生にとって精神療法を進展させるチャンスだったのであり、自ら正しいと信じて、周囲の眼などは気にかけなかった。それが森田正馬の本領なのである。そして1922年本格的な神経質治療の著書「神経質及神経衰弱症の療法」「精神療法講義」を出版している。この2冊は神経質研究を完成させる重要な役割を担った。森田正馬にこの2冊の主要著書の執筆を勧め、困難を排して自ら刊行した中村古峡の貢献は大変大きいものがある。その後自宅で入院生を受けいれての神経症治療が本格化してくるとともに、二人は疎遠になっていった。1926年に書き手を失った「変態心理」は終刊を迎えた。ところで、森田正馬と別れた中村古峡は40歳から医師を目指している。1942年には名古屋大学で学位論文を提出して学位をとっている。千葉市で中村古峡が開設した診療所は、「中村古峡記念病院」として現在に至っているという。中村古峡は交渉力にも優れ、積極果敢な行動力には驚くばかりである。森田先生が中村古峡と過ごした7年間が森田療法確立に果たした役割は大変大きいものがある。(森田療法の誕生 畑野文夫 三恵社 314ページから320ページ要旨引用)
2019.11.25
コメント(0)
森田正馬は1898年9月に東京帝国大学医科大学に入学している。25歳の時である。入学試験はなかった。高等学校を卒業することで大学への入学資格を得られれば志望のコースに進めたのである。ところで、森田正馬先生は、高校生の頃から脚気と心悸亢進発作で苦しんでいた。森田正馬は我々と同じように神経症の経験者だったのだ。大学入学後も心悸亢進発作をたびたび起こしている。病気と不安神経症のため勉強が進まないことに悩んでいた。当初は神経症と身体疾患を抱えているために勉強ができないのだと本気で思っていた。それを覆すような出来事があった。これがのちに森田療法を生みだしたエピソードとして知られている。お父さんが養蚕の仕事が忙しくて2か月も送金がなかったのである。森田正馬は人を恨み、身をかこち、やるせない憤怒の極み、自暴自棄になったという。よしー父母に対する面当てに死んで見せようと決心した。後で考えれば、きわめて馬鹿げたことであるけれども、自分自身のその時にとっては真剣である。薬も治療も一切拒否した。夜も寝ずに勉強した。まもなく試験も済んだ。ここが我々と違うところだ。自暴自棄になって何もかも放り投げなかったことがすごい。成績が思ったときよりも上出来であった時には、いつの間にか、脚気も神経衰弱も気にならなくなっていた。国元からの送金もあった。養蚕が忙しくて、送金することを忘れていたとのことである。私の今までの神経衰弱は、実は仮想的のものであった。もとより脚気でもなかった。これは後の人間森田正馬の研究により事実と合わないことが分かっている。しかし事実を偽っていても、森田療法(森田先生自身は神経症に対する特殊療法といわれている)誕生に大きなヒントを得たということは間違いない事実である。神経症は、病気のようであるが器質的な病気ではない。誰にでもある不安や恐怖。違和感、不快感にことさら意識や注意を向けて精神交互作用によりあたかも重大な病気であるように錯覚しているのである。神経症は認識の誤りにより、時として実際の器質的な疾患よりも重い障害を呈する。精神交互作用の打破と思想の矛盾の打破が神経症の克服には必要であることがはっきりと分かったのである。このエピソードが森田療法誕生に一役買っていることは間違いないようである。森田正馬は1902年の年末に東京帝国大学を卒業している。1898年に入学してから1901年まで脚気と神経症で苦しんできたが、この年を最後に心悸亢進発作は一度も起こしていない。神経症発症のメカニズムがはっきりと分かったのであろう。これから様々な経験を積んで1919年ついに世界に誇る森田療法を完成させたのであった。その間約18年の歳月を費やしている。その後は自宅に入院生を受けいれて本格的な指導が行われている。
2019.11.23
コメント(0)
森田先生は催眠術の研究を盛んに行っていた時期があった。神経症の特殊療法(のちの森田療法)の確立が、1919年といわれているから、その少し前のことである。他の精神科医は眉唾物として排斥していたが、森田先生は果たしてそうなのか、実際に真偽の程を自分の体験で確かめようとされていたのである。事実催眠術には一定の効果もあったようだ。明治38年には、途中尿意を催すことを恐れて、少しも外出することのできなかった強迫観念の一患者を、その催眠術で2、3ヶ月もかかって全治させ、これを中外医事新報に報告したこともある。また、疼痛、つまり頭痛、歯痛、神経痛、ロイマチス、肩の凝り、分娩時の陣痛などには、睡眠術はとても効果があるという。その他、「五感感覚の障碍」として、「ヒステリー性の聾とか唖とか失声症」とか、其他異常感覚や、感覚麻痺や、若し催眠術にかかりやすいものならば、催眠術は極めて気軽に、之を治すことのできるものであるとしている。この他、「内臓感覚及び内臓機能の障碍」「運動機能」などへの適用例をあげている。ただし、赤面恐怖の患者には全く効果がなく、逃げ回っていたようなこともあった。こうして長年研究をしたにもかかわらず、最終的には、神経質の治療法としては、催眠術の必要を認めなくなったと言っている。効果がないことに気づかれたのです。最終的には、神経症の治療に、「徒に催眠術の効を誇張して余り軽便に考えてはならない」といわれている。以後神経症に対して催眠術を応用することはなくなった。ここで注目するところは、森田先生が自分の目で真偽のほどを確かめようとされたことである。催眠術は眉唾物だと最初から決めつけるのではなく、一度は自ら確かめようとされていた。自分が様々に試行錯誤する中で、すべてを簡単に切り捨てるのではなく、催眠術にも一定の効果は認めていた。これは実際に確かめようと実験をしないと到達できないことである。普通は先入観、決めつけで全く真偽のほどを確かめようともせずに、切り捨ててしまう人が多い中で、事実に向き合う姿勢は驚嘆に値する。我々も人のうわさ話で、その人の性格や人格を決めつけてしまうことが多々ある。実際に話をしてみると、先入観とは大きくかけ離れていたということに驚くことがある。噂話はあくまでも噂話である。事実の裏づけをきちんととらないで、これから先の行動を決断することは間違いが多くなる。森田理論は事実をできるだけ正確に観察して、事実に基づいて思考、行動する理論である。そのことを森田先生は身を持って教えてくださっているように感じる。我々は森田先生の生活態度に学んで、事実本位の生活態度を身に着けたいものだ。
2019.11.14
コメント(0)
改めて形外先生言行録を読み返してみた。この本は森田先生の伝記を読んでいるような気持ちになる。その内容は多くの人たちの森田先生との実際のやり取りから書かれている。だから全体を読むと森田先生の人間像がありありと再現されるのである。森田先生の外観は、蒼白で小柄で猫背で、田舎のどこでもいるおじいさんという感じだったようである。喘息を患い、よく咳をされていた。健康には恵まれていなかった。自宅を開放して神経症の回復のために全生涯をかけられた。昭和4年からは毎月形外会という座談会も始められている。亡くなられる前年の昭和12年まで続いている。この内容が森田正馬全集第5巻におさめられているのである。森田先生の考え方は晩年に近づくに従って鋭さを増している。森田一家にはプライバシィは全くなかった。常に患者と一体の共同生活をされていた。また多額の寄付をよくされているのが印象的であった。森田先生は気のついたことはなんでも口にされていたようだ。人の気持ちを思いやるよりも、認識の誤りを早く自覚させてあげたいという気持ちの方が勝っていたように思う。例えば熱海に行った時、原夫人が森田先生にご飯のおかわりをどうぞと勧められると、そんな親切心は自分の親切を押し売りしているようなものだと叱られている。またよそに家に行って、そこの奥さんが水蜜桃の皮を包丁でむいていると、主人のいる前で、皮は手でむくものだと叱られている。こんな調子で入院生にとっては叱られることは日常茶飯事であった。恐ろしくて森田先生は近寄りがたいという人もたくさんおられた。それに加えて森田先生の片腕として世話をしておられた、奥さんも大変厳しい人であったようだ。それだけ人間教育の真剣さを感じるのである。でも舘野という学生さんが試験勉強をしなければならないときに、庭で声楽の練習していた時は、「僕も試験勉強中に三味線を習っていたことがあります」「何にでも手を出しなさい。僕の療法もあらゆる療法に手を出して、自然にできたものだ」と言われたそうです。また森田先生は自分の洗腸の様子を弟子に見せて参考に供しようとされたり、自分の死体は慈恵医大に献体されたりしている。便所のくみ取りも、ニワトリにやるくず野菜拾いも先生が自ら先頭に立たれている。森田理論のポイントを外した言動は一切ないと言えるのである。私はこの形外先生言行録は優れた森田療法の実践の指南書であると思う。こういう本が絶版なっていることはとても残念なことである。森田正馬先生の周りには多くの人たちが集まった。もと入院患者、大学の先生、医者、慈恵医大の学生、その他学生、会社の経営者、軍人、会社員、農業、主婦まで幅が広かった。だいたい神経症を克服した人が、その治してくれた医者を自分が亡くなるまで慕い続けるということが果たしてあるのだろうかと思う。森田先生は医者というよりも求道者のような雰囲気がある。それも一撤頑固な求道者である。常に好奇心に導かれて横道に脱線することは日常茶飯事であったけれども、森田理論という人生観から外れたことは一度もない。首尾一貫決して変わることはなかった。私のまとめた森田理論の全体像も、森田先生の奇人変人と言われたていたエピソードで再度検証して補足して理論として強固なものに仕上げてゆかなければならないと考えています。後世に残された私たちは、森田理論をさらに進化させなければ森田先生も浮かばれないのではないかと思うのである。森田先生が今生きておられたら、どんなことを考え、どのように森田理論を進化させてゆかれただろうと考えることは楽しいものである。
2016.06.22
コメント(0)
森田先生のエピソードはユニークなものが多い。奇人変人と言われるようなものである。1903年(明治36年)、森田先生は29歳の時医師免許を手にされた。その年の8月、郷里に「犬神憑き」の調査を兼ねて帰省している。その当時新進気鋭の東京帝国大学出身の医師の帰還は、高知では一大ニュースであったという。高知病院を訪問した際にも大歓迎を受けた。入れ替わり立ち替わりもてなされて4次会まで参加された。記憶がなくなるまで飲んでおられる。次の日二日酔いになり、寝ていたところ、ある女学校から始業式に講演を依頼された。森田先生はふらふらにもかかわらず、さらに迎え酒で景気をつけて、600人の女学生を前に「迷信とはなにか」と題し1時間の講話をされた。その後前日のお礼にあちこち訪ね歩いては、さらに宴会を重ねている。調査旅行の最終日には、高知医学会で講演を行った。演題は「犬神の迷信とその症例、祈祷と催眠術、神経症および精神病の治療に関する注意」で3時間にも及んだという。ここでも面白い逸話が残っている。「演説中に、小松先生は、私のために、コップに水の代わりに酒を入れてくれたが、私は演説しながらコップ3杯余りをかたむけつくした。これが精神科医として学会演説の初陣であった」その時の服装は学生用の黒い木綿の袴をはいていた。女学校の講演もこの格好でやったようである。着やすく、実用的であるというのがその理由である。そのため高知病院の院長は、当初帝大出身の医学士、森田正馬先生とは気がつかなかったという。この手の話はいろいろある。形外先生言行録で河原宗次郎氏が書いておられる。「診察料10円をお支払いして診察を受けました。倉田百三先生の本を見てきたので、よほど偉い先生だと思っていた。私は偉い先生にお目にかかるのだからと思って、略礼装の黒上着に折り目正しい細縞のズボンをはいていた。案内されて、粗末な机の前に座っていると、まもなく、和服を無造作に着た、痩せて小さな猫背の老人が現れた。それが森田先生だった。この人が私のむずかしい病気を治せるのかと、少したよりなく思ったことであった」河原さんは、立派な体格で、威厳があり、近寄りがたいイメージで神妙に構えておられたので、かなり面喰ったようである。しかし話し込んでみるとすぐにその認識は変化したようである。恩師の呉秀三教授は立派な体格で、いかにも大学教授という風采であった。ところが森田先生は、小柄で黒い詰襟の洋服を着て、ポケットから下足札をのぞかして話すような人であった。あまりにも風采が上がらず新入生からは小使いさんと間違われていた。往診に行けば、あまりの風采の悪さに弟子を生生と見間違えられて、森田先生は診療を断られて追い返されたこともあった。神経症で苦しんでいる人は、自分の欠点は隠したり、ごまかして、見た目に気を配り、実態以上によく見せようとするものである。しかし、その思いとは裏腹に、他人にとっては、その人は油断も隙もできない付き合いづらい人とうってしまう。森田先生のように、最初から自分の欠点や弱みをあけすけに見せつけられると、かしこまって防御態勢を敷いていたのが、急に緩んで、親しみを持って見ることができるようになるのだろうと思う。
2016.06.09
コメント(0)
森田先生と親交の深かった藤村トヨさんはどんな人物だったのだろうか。藤村トヨさんは国立市の東京女子体育大学、武蔵野市の藤村女子中学校・高等学校の創立者とされている。その前身は私立東京女子体操音楽学校で、所在地は日暮里であった。森田先生の家から15分程度だった。学校とは名ばかりで掘立小屋のようであったという。藤村トヨさんは、当初は創立者の高橋忠次郎氏に請われての一教師であった。高橋忠次郎が野望を持ってアメリカにわたり、その後を託されたのが藤村トヨさんであった。しかし、学生は集まらず最少は1学年6名のこともあったという。学校経営は火の車で、役所から廃校の勧告がなされたこともあった。いばらの道であったことは容易に想像がつく。藤村トヨさんは生活のため私立東京日本女学校で体育教師をしていた。森田先生との親交はここから始まった。森田先生もここで生理学、心理学を教えていた。1908年(明治41年)3月、森田先生34歳の時、藤村トヨさんの依頼で、無償でこの学校の講師を引き受けている。この学校は当初講師料を支払うゆとりはなかったのである。藤村トヨさん31歳の時のことである。以来森田先生は亡くなるまで援助を惜しまなかった。何か普通の女性にはない芯の強さのようなものを感じたという。藤村トヨさんは1876年(明治9年)香川県坂出に生れている。大変な才女であったが、離婚した母のもとで、なんとしても学問で身を立てて家族を養わなければならないということにとらわれ出してから心身ともに変調をきたしてきた。勉強恐怖症になり、不眠、食欲不振、胃腸不良、自律神経失調症などに悩まされた。それでも1899年(明治32年)23歳の時、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)に官費給付生として合格し上京している。ところが2年時から体調がすぐれず、寮の規律は守れず、授業は欠席が多かった。そのうち精神衰弱および脚気として診断されてやむなく退学処分となり、失意のうちに坂出に帰って行った。この病名は森田先生の場合と同じである。森田先生は神経衰弱、脚気、不安発作などで悩まされていたが、藤村トヨさんも同じような症状で生死の境をさまよった経験をお持ちだったのである。いつも死が身近なところに迫っていたのである。そんな折、1902年(明治35年)に高松市で関西教育者大会の運動会があった。その時、東京女子師範で習ってきた体操やダンスを生徒に教えてほしいとの依頼があった。その時は、もう死を覚悟しているような状態で、憔悴していたが、死ぬ前の最後のご奉公のつもりで引き受けた。しかしこれが転機となったのである。昼は生徒と一緒になって走り、跳ね、踊り、夜はたくさん食べ、よく眠った。2月から練習をはじめ5月の本番前の3ヶ月間ですっかり健康を取り戻した。トヨさんは、神経衰弱、脚気、勉強神経症、健康不安等のとらわれを脱して心身ともに健康体となったのであった。ここが森田理論の神経症回復に通じるところである。その後10月からは私立丸亀女学校の体育教師となった。そして翌年1903年、東京女子師範の恩師高橋忠太郎に見出されて再び上京を果たしたのであった。私立東京女子体操音楽学校の教師となったのである。その後はめざましい快進撃で女性の体育教師の育成に一生をささげたのであった。その妥協を許さない厳しい指導方法は森田先生とよく似ている。でも卒業生はトヨ先生を大変に慕っていた。立派な体育教師を一人でも世の中に送り出そうと燃えるような情熱にあふれていたのだ。その二人が運命の糸で手繰り寄せられ、それぞれの分野で多くの人材を育成されて、多大な社会貢献をされた事はとても興味深いことである。(気骨の女 寺田和子 白揚社参照)
2016.06.03
コメント(0)
野村章恒先生の「森田正馬伝」より家系図を作りました。森田先生の著作を読まれるときの参考になると思います。
2015.12.07
コメント(0)
森田正馬全集5巻113ページにこんな記事がある。今度、私(森田先生)の3月の病気の時も、自分は心臓性の喘息であるから命が危ないと思い、古賀君か佐藤君か、よく覚えていないが、死んだら解剖のことを頼み、また井上君や山野井君や修業のできた人には、危篤の電報を打ち、香取君には電話で、きてもらった。それは私が死ぬる今はの実際の状況を見せて、参考に供したいと考えたからである。つまり肉体的解剖でも、臨終の心理的実況でも、これを無駄にしないで、有効な実験物として提供したいのであるいはこれを功利主義といえるかもしれないのである。この文章から森田先生は、死後医学の発展のために自分の身体を献体しようと考えられていたようである。さらに苦しんで死んでいくその様子を、周りの人たちに包み隠さず見てもらおうとしていたのである。自分の臨終の様子も決して無駄にすることはなかったのである。森田先生の物の性の尽くし方は半端ではなかったということがよく分かる。物の性を尽くすという点では、森田先生の水の活用の仕方は有名です。風呂の残り湯は洗濯、ふき掃除、植木、打ち水など最後まで徹底的に利用しつくすというものです。一見すると物を大事に使いましょうという考え方のように思える。よくいわれる「もったいない」運動のように受け止められる。でも、そういう表面的な理解にとどまると、森田理論の本質的な思想に至ることはできない。森田先生が声を大にしていいたかったことは、物、お金、時間、己、他人などはそれぞれかけがえのない「存在価値」や「潜在能力」をもっている。それを見つけ出して最大限に活かしてゆくことだったのではないか。人と比較して欠点や弱みを見つけ出して自己否定するのではなく、自分の「存在価値」や「潜在能力」を見つけ出して活用することに力を入れましょう。お金にしても、森田先生はよく寄付をされています。森田先生は寄付することでそのお金を最大限に有効に活用したいがためであるといわれている。時間についても、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換である」といわれている。仕事を変えることによって、時間を有効に活用することを言われているのだろう。他人に対しても欠点や能力不足を指摘するのではなく、その人の「存在価値」や「潜在能力」を見つけ出して、評価をして、適材適所で活用することを言われているのだと思う。ないものねだりをして現状に不平不満を持つのではなく、持っているものを足がかりにして、現状にしっかりと足場を築いて一歩ずつ前を向いていく生き方を説かれているのだと思う。そういう方向に向かわないと、味気ない人生で終わってしまうだろう。
2015.11.03
コメント(0)
2015年2月号の生活の発見誌の55ページに、森田先生のところで治療を受けられた黒川邦輔氏の記事あった。とても興味深く読ませてもらった。というのは、森田先生が講話をするときは特高警察が監視していた。ある時森田先生がみんなにこう問いかけた。「人はすべからく生の欲望に従って生きていかねばならない、人はだれでも死ぬのは怖い、死にたくないのが人間の心である」「この中で死にたいと思う人はいますか。誰もいないでしょう。いたら手をあげてください」時は戦時下である。特高が弁士注意。集会解散と叫んで森田先生を逮捕しようとしたのである。この時黒川邦輔氏、検事の日高氏、警視庁の金子医師などのおかげでなんとか逮捕を免れたという話を聞いていたからである。もしそういう弟子の人がいなかった場合、当時の状況から考えて森田先生は獄中で拷問死していたことが予想される。(森田正馬癒しの人生 岸見勇美 春萠社参照)黒川氏は軍人である。昭和16年ビルマに派遣されている。昭和16年8月飛行機事故で戦死している。享年44歳であった。「回想ビルマ作戦」(野口省己著・光人社NF文庫)に黒川氏の関連記事があるという。この本の著者は黒川氏の部下にあたる人である。この中で野口氏は黒川氏のことについて、とある上司にまったく頭が上がらない様子だったので情けなく思ったのか「しっかりしてください」と申し上げたと書かれている。つまり黒川氏は森田先生のもとで入院療法をうけて、神経質の性格をうまく活かして、軍隊で参謀にまで地位をあげられ、人格的にも大きく成長された。ところが性格そのものまで変わってしまったわけではなかったのだ。やはり上司の前ではびくびくおろおろし、それを後輩から咎められている。このエピソードは何を訴えかけているのだろう。森田は人前で恥ずかしがり、おどおどする自分を大胆で物おじしない堂々とした人間に変えるということではない。むしろますます恥ずかしがり、おどおどする自分のままで生きていくという覚悟をきめさせることである。不安をなくしようとしないで、自分を正しく自覚するということである。持って生まれた神経質性格は変えることはできない。神経質性格のマイナス面はそのままにして、プラス面に光をあてて性格を活かしていくことである。不安や不快感は横において、今なすべきことに注意を向けて生活を前進させていくこと。そうした生き方が味わい深い人生に通じ、とても大切であるということを教えてくれているのだと思う。
2015.09.22
コメント(0)
12月1日森田先生の生まれられた高知県野市で心の健康セミナーがあり行ってみた。500人収容のホールが大半埋まっていた。参加者が多くて少し驚きました。公演は北西憲二先生の生老病死の生き方の話、生活の発見会理事長市川さんの生活の発見会の活動報告であった。その前に森田先生の生家の見学と墓参りに行った。私は森田正馬伝(野村章恒著)により、森田先生の家系図を作っていたので、森田先生、森田先生のお父さん、お母さん、奥さん、子供さん、弟さん、おじいさん、ひいおじいさんの名前のある墓がそれぞれにあり関係がすぐに分かった。森田先生の妹さんの子供の子供という人が健在で、高知にすんでおられることが分かった。近くに三宝山というトンネルがあり、この名前の山は森田先生が登られた山だとすぐに分かった。森田先生が地獄絵を見たという寺もすぐ近くにあった。また森田先生が寄付された森田館という講堂もまだ残っているようであった。森田先生の生家は立派な門構え、立派な庭、がっちりとした家であった。お父さんは蚕などを飼う農業で生計を立てられていたはずだが、かなりの資産家と見た。少し前までは取り壊す予定であったらしい。今現在は残す方向で考えられていた。
2013.12.07
コメント(0)
今月号生活の発見誌に田原あやさんの「森田先生の思い出」話が始まった。とても興味が尽きない。16、17歳のころから森田先生のお宅に住み込み、家事見習い、看護婦として先生の身の回りの世話をされていた方である。今月号にも森田先生のエピソードが豊富に紹介されていて、とても親近感がわいてくる。森田理論というのは生き方を考える理論であり、どうしても「人間森田正馬」を研究していかざるを得ない。森田理論を学習すればするほど、神経症を治るだけではないと分かる。症状は、生き方を変えることによって副次的に克服できるものである。ここを間違えていくと、薬物療法、認知行動療法、催眠療法などにすぐに鞍替えしてしまうということが起こる。さて、田原あやさんは、その後三島の森田病院に移られた。最近天寿を全うされて故人となられた方である。あやさんは、「森田正馬伝」によると、森田先生の異父の姉で「道」という人がいた。5歳上である。高知の女性の特徴である「はちきん」といわれるような性格であったと聞いている。この方が近くの田原家に嫁がれた。そのご主人の妹に桃子という人がおられた。その人の子どもが、田原あやさんであった。また別の妹ことさんが、土居家に嫁がれて生まれた子どもに、土居光知さんという人がおられる。確か京都大学を卒業して、東北大学の教授をされていた。森田先生の伝記を読んでいるとよく名前がでてくる。ちなみに三島の森田病院は森田秀俊さんがはじめられたが、この方は、森田先生の妹に磯治という人がおられた。11歳下の妹である。その人の3男がこの人である。確か森田先生の養子になられた。森田理論は森田先生の人間関係、生きざまそのものであります。ですから野村章恒先生の「森田正馬伝」の研究は欠かせないのである。野村先生は森田先生の高知中学時代の同級生の子どもである。森田先生は、いろんなところでさまざまな人とつながっているのである。
2013.11.03
コメント(0)
形外会は特高警察の監視を受けていた。ショックな出来事があった。森田先生が逮捕されそうになったのである。ある時森田先生は、「人はすべからく生の欲望に従って生きていかねばならない、人は誰でも死ぬのは恐ろしい。死にたくないのが人間の心である。」「弁士注意」と特高が叫んだ。森田先生は止めない。「この中で一人でも恐ろしくない、と思う人がいますか。いたら手を上げてください。」「弁士警告」特高は顔を真っ赤にして叫んだという。「誰も手を上げないところを見ると、やはり死ぬのは恐ろしい、生きたいからです。」「弁士中止、解散」特高は森田先生を逮捕しようと駆け寄った。幸いなことに形外会の出席者に黒川邦輔大尉、警視庁技師の金子医師、警視日高元次らがいた。なんとか逮捕されずにすんだ。ちなみに井上常七氏が身代わりで出頭している。森田先生は昭和13年4月に亡くなったが、もし太平洋戦争開戦の昭和17年以降生存されていたとすると、ほぼ特高警察によって逮捕監禁されていたであろう。そして山田洋次監督作品「かあべえ」に登場する「とうべい」と同じ運命をたどっていたと思われる。「とうべい」は大学の先生だったが、反戦を唱え獄中死したのである。
2013.02.18
コメント(0)
森田先生は金銭も気前よく人に与えている。郷里の冨家村(ふけむら)には彼が当時の金額で4000円を寄付して建てた森田館という講堂がある。また子供たちのために、学校にブランコや滑り台、図書などを寄付し、帰省するたびに村の小学生たちにおみやげ物を携えていった。昭和12年63歳の時、彼が帰省したときの話である。学校での講話が終わり、森田先生と村長、校長らが談笑しているとき、校長が「実は先生、せっかく立派な講堂を建てていただいたが、まだ時計がないので・・・」私はずうずうしすぎると思うが、いくらぐらいですかと聞くと校長は30円ぐらいと答えた。森田先生は早速30円の寄付をしたということである。 当時1円は今の一万円である。ちなみに河原宗次郎氏によると、当時入院料は1日4円、40日入院するとそれだけで160万円かかっていたことになる。また診察30分で8万円というから結構高かったようである。
2013.01.16
コメント(0)
森田先生は事実唯真と言われます。事実を置いて真実はない。事実は動かしようがない。事実はそれに従うしかないといわれています。それほど事実にこだわられました。街中で熱湯の中に手をつけるパフォーマンスを見て、森田先生は実際に自分自身で確かめられています。55度の熱湯は2秒しか耐えられない。23度の水に1分間手を浸して、その後挑戦すると4秒になった。はじめ手を入れた時は甚だ低温に感じた。0度の冷水に30秒手を浸した後では、熱さを感じず、6秒間耐えることができた。エーテルを手に散布した後は5秒耐えた。ワセリンは少しも効かない。40度の湯から、55度のものに手を移せば、普通よりも高温を感じた。森田先生は先入観で物事を決めつけることをひどくきらっています。どこまでも納得できるまで事実を確かめるという一貫した姿勢である。そうした極めつけは大正13年9月1日に起きた関東大震災の記録であろう。自分で足を運び、震災の生々しい記録はもちろんのこと、その後の流言飛語がどのようにして生まれ拡がっていったのかという観察と分析はものすごいものがあります。森田全集第7巻の309ページから341にかけてこの詳細が紹介されています。我々は圧倒的な事実の前にただ唖然とするばかりです。
2013.01.14
コメント(0)
森田先生は家庭的にも恵まれない人であったが、森田先生の人生は病気との闘いの連続だった。年譜をみるとこんな状態である。18歳 脚気20歳 腸チフス 死の恐怖に直面する23歳 坐骨神経症 25歳 神経衰弱兼脚気29歳 肺結核37歳 赤痢46歳 反復性大腸炎 死の恐怖に直面する47歳 老人性の咳50歳 肺結核 血痰52歳 肋膜炎53歳 富士登山の時 嘔吐、呼吸困難、下痢57歳 喘息で重症63歳 赤痢64歳 肺炎で死去森田先生は心臓神経症でした。15歳 心臓が悪いと高知病院に通院しています。心臓神経症 パニック障害発症 適応不安です。秀才たちの集まったその学校で勉学についてゆけるのか、父の期待に沿えるのか、失望させるのではないか、その不安を疾病恐怖(病気になることで困難に直面することを避けること。)という形で回避したのかもしれない。事実中学時代成績不良で2回落第している。25歳 東京帝大 上京していた母の前で心臓神経症発症している。 大学時代に何回か発作を起こす しかし大学卒業後は発作は経験しなくなった。
2013.01.13
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1