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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「図説」でしょうか♪<市立図書館>・教団X・飲み食い世界一の大阪・図説 本の歴史・福岡ハカセの本棚<大学図書館>・注目のハイテク35・図説 日本民俗学図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【教団X】中村文則著、集英社、2014年刊<商品説明>より絶対的な闇、圧倒的な光。「運命」に翻弄される4人の男女、物語は、いま極限まで加速する。米紙WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)年間ベスト10小説、アメリカ・デイヴィッド・グーディス賞を日本人で初受賞、いま世界で注目を集める作家の、待望の最新作! 謎のカルト教団と革命の予感。4人の男女の「運命」が重なり合い、この国を根底から揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。著者最長にして圧倒的最高傑作。ついに刊行。<読む前の大使寸評>本屋の新刊コーナーに置いているロングセラー本でも、4ヶ月ほど待てば借りられのか♪アメリカ・デイヴィッド・グーディス賞の受賞作だとか・・・さて、どんなかな。<図書館予約:(5/4予約、9/23受取)>rakuten教団X【飲み食い世界一の大阪】江弘毅著、ミシマ社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「人より損をしたくない」などと考えていては、結局ロクでもないもんしか口にできない。「街場」の男・江弘毅の至言が、現代日本を駆け抜ける!『ミーツ・リージョナル』(元)名物編集長、大阪・京都・神戸の「食と街」を語り尽くす。『ミシマガジン』連載時から物議を醸し、街の人々を虜にした、極上の21篇。身体でつかんだ「いい店・うまいもん」話。【目次】第1章 これがこっちのやり方です。(値段が書いてない店/バーをよろしく。/ちくわぶはおまへん。/昼にやってる居酒屋。/スナックはお好きですか ほか)/第2章 世界一のうまいもん(鰻屋はタイピン・カフスで/鮨屋の育ち。/コリアンタウン・生野の焼肉。/所謂「コナもん」、それも「たこ焼き」について。/味方の餃子 ほか)/第3章 大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの(街デビュー。/ちょっと京都、行こう。/アジールとしてのお好み焼き屋/大阪的フランス料理について/神戸の昭和 ほか)/対談 中沢新一×江弘毅<読む前の大使寸評>江さんといえば、『ミーツ・リージョナル』の元編集長・・・ホンマもんやで♪内田先生のお友だちでもある江さんが奨める関西の味とは。<図書館予約:(9/22予、9/27受取)>rakuten飲み食い世界一の大阪飲み食い世界一の大阪byドングリ【図説 本の歴史】樺山紘一著、河出書房新社 、2011年刊<「BOOK」データベース>より石に刻み、木や葉に書くことから始まった。紙の発明、大印刷時代。デジタル化、本の未来形までを考える。【目次】1章 書物という仕組みは(本とはなんだろうー旅のはじめにあって/紙という舞台ーこの最強のメディア ほか)/2章 本が揺り籃から出る(アルファベットを書くー書体の工夫/漢字の書体 ほか)/3章 書物にみなぎる活気(グーテンベルクの存在/大印刷時代の展開 ほか)/4章 本の熟成した味わい(本は権利のかたまりー著者権と著作権/本の文明開化ー本木昌造と福沢諭吉 ほか)/5章 書物はどこへゆくか(神田神保町ーどっこいそれでも古本は生きている/デジタル化の衝撃 ほか)<大使寸評>昨今では、スマホやタブレットで電子ブックを読むのがトレンディーだとか。でも、コンテンツがすべてと言ってしまえば身も蓋もないのである。rakuten図説 本の歴史図説 本の歴史byドングリ【福岡ハカセの本棚】林一著、メディアファクトリー 、2012年刊<「BOOK」データベース>より科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。【目次】第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身<読む前の大使寸評>表紙に書かれたコピー「思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊」が、ええでぇ♪さて、ハカセお勧めの100冊とは、どんなかな?ハカセは科学者として、理系のエッセイストとして、これほど文章の上手い人はいないとも言われているようです。rakuten福岡ハカセの本棚福岡ハカセの本棚byドングリ【注目のハイテク35】ムック、ニュートンプレス 、2004年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつき、データなし。<読む前の大使寸評>全ページに、カラー写真、カラー画像満載で、まさに図録という感じで、ええでぇ♪ニュートンプレス社の目次から、個人的な見所を挙げると以下になります。・日本のジェット旅客機 ・はやぶさ2─間もなく打ち上げ・生まれかわった すばる望遠鏡・オーブンレンジ・自動運転が開く車の未来・潜入 スーパーコンピュータ「京」newtonpress注目のハイテク35【図説 日本民俗学】田アジオ, 古家信平、他著、吉川弘文館、2009年刊<「BOOK」データベース>より日本列島各地にいきづくさまざまな民俗。日本人の心のふるさとを豊富な図版で探る。【目次】1 ヒト(身体を包む/身体に施す/身体を守る/ヒトの願い)/2 イエ(住まいの空間/イエと家族/親類と本家・分家/出産と育児/結婚の祝い/死の儀礼)/3 ムラ(ムラの空間/ムラの社会構成/ムラの交際/農と生活/海と山の生活/さまざまな職業/ムラとマチ)/4 カミ(霊魂の行方と先祖/イエを訪れるカミ/カミを求めて/カミとの交流/氏神と氏子/他界と結ぶもの/ふしぎな世界と空間)/特論 南島<読む前の大使寸評>図説というだけに、写真が多くて読みやすいのが、ええでぇ♪rakuten図説 日本民俗学*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き115
2015.09.30
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図書館でニュートン別冊『注目のハイテク35』を手にしたが・・・全ページに、カラー写真、カラー画像満載で、まさに図説という感じで、ええでぇ♪【注目のハイテク35】ムック、ニュートンプレス 、2004年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつき、データなし。<読む前の大使寸評>全ページに、カラー写真、カラー画像満載で、まさに図説という感じで、ええでぇ♪ニュートンプレス社の目次から、個人的な見所を挙げると以下になります。・日本のジェット旅客機 ・はやぶさ2─間もなく打ち上げ・生まれかわった すばる望遠鏡・オーブンレンジ・自動運転が開く車の未来・潜入 スーパーコンピュータ「京」newtonpress注目のハイテク35この本で、スーパーコンピュータ「京」を見てみましょう。<なぜ「京」は速いのか?何に使われるのか?>p133■ただ速いだけでない。効率も世界トップクラス 多数のCPUで通信しながら計算しようとすると、連携できずに余るCPUが出てしまう。その結果、CPUの数と性能から想定される計算能力を使いきることができない。しかし「京」は、独自のCPUネットワークのおかげできわめて無駄が少なく、93.2%もの能力を実際に発揮できているのだ。冒頭のランキング上位のスパコンのなかに、90%をこえる効率のものはない。 また、施設のエネルギー効率もよい。「京」は最大で一般家庭の2万~3万戸分にあたる11メガワットもの電力を使う(電気代は年間12億円、なお、運用費の見積りは年間80億円)。その約3割を、施設内のガスなどによる自家発電がまかなう。また、発電にともなう排気から熱を回収し、75%以上の熱効率を実現した。総合的な省エネ性能は、従来のスパコン施設の約2倍だという。■より効率的に熱を処理する スパコンを動かす際、熱の管理が最も大事だといっても過言ではない。CPUはほうっておくと高温になり処理速度が遅くなってしまうし、冷やしすぎても結露のおそれがあるからだ。 熱源機械棟の中に入ると、大声で話さないときこえないほどの機械音。ただし、同規模のスパコン施設にくらべれば静かだという。音の原因は、ガスを使う自家発電装置と、「京」から熱をうばって温まった水を冷やす冷凍機だった。■スパコンは使い方が最も重要 優先される研究には、「薬の候補物質を探る手法」や「自動車などの次世代設計システム」の開発もある。「京」ならシミュレーションを桁ちがいに速く行えるため、ものづくりにかかる時間が大幅に短縮できると期待されているのだ。 また、重い恒星が最後にむかえる「超新星爆発」のようすを、かつてない精度で再現する基礎研究にも使われる。戦略プログラム以外にも、大学や研究所、企業による研究が採択されており、次々と「京」を使っていく。 一方、スパコンの性能は今も1年に2倍ほど向上しており、1京の100倍の桁である「エクサ」スケールの開発もみえてきており、理研も2014年4月より開発に取り組んでいる。 しかし「京」の関係者や研究者らは、速さだけでなく、スパコンでどのような成果を出すかが重要だと口をそろえる。生命科学、地球科学、宇宙など、さまざまな分野で成果を出しつつある「京」の真価が問われるのは、これからだ。酔狂でミーハーな大使は、2013年にこの「京」を観に行ったが・・・物見遊山で観に行くものではなかったようです(当然である)展示スパコン(スパコンを見た♪ より)今やオーブンレンジはキッチンの必需品とまでなった枯れた技術であるが・・・その原理は不思議でさえある。そのあたりを見てみましょう。<オーブンレンジ>p36~37■レーダー技術から生まれた電子レンジ 今やオーブンレンジは、キッチンの必需品といえるほど普及している。 電子レンジの心臓部は、食品を温めるためのマイクロ波を発生させる「マグネトロン」だ。電波の一種であるマイクロ波を物質に当てて、反射波がもどってくるまでの時間などを測定することで、物の位置をはかるレーダー装置として開発が進んだ。その後、レーダー技術者によって、マイクロ波を照射すると食品が加熱されることが発見され、電子レンジが発明されたのだ。 電気をおびた電子などの粒子が振動すると、電磁波が生じる。この原理を利用して、電子レンジのマグネトロンは電磁波(マイクロ波)を発生させている。■マイクロ波は、食品の中の水分を直接発熱させる マイクロ波で食品が温まるのは、食品内の水分子がマイクロ波を吸収してはげしく振動するからである。ガラスや陶磁器、プラスティックなどは、マイクロ波はほとんど透過するため、マイクロ波で温められにくい。 また、マイクロ波は金属に反射されるので、マイクロ波を閉じこめておくべき電子レンジの庫内は、金属でおおわれている。 では、電子レンジでは、原則として金属のついた食器や金ぐし、アルミホイルなどの金属を使用してはいけないといわれるのはなぜだろうか。実はマイクロ波が当った金属では、マイクロ波が反射するとき、内部で電子がはげしく振動している。このとき、6面がつながって端のない庫内壁面の金属とはちがって、アルミホイルなどのように端のある金属にマイクロ波が当ると、電子が端から飛び出し(放電し)、火花が飛ぶことがある。この火花が食品に引火したり機械の故障原因になることがあり、危険なのだ。 マイクロ波による過熱は、外から熱するのではなく、食品そのものを発熱させるので、効率よくすばやく食品を温めることができるという特徴がある。火が通るのに時間のかかるカボチャやイモ類も、すばやく調理することができる。 ただし、マイクロ波による過熱では、食品の水分が蒸発する。このため、ソーセージや卵、魚など皮のあるものでは、温めすぎると内部にたまった水蒸気で破裂するので、調理前に皮に切れ目を入れるなど破裂しないためのくふうが必要だ。
2015.09.30
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図書館に借出し予約していた『飲み食い世界一の大阪』を5日後にゲットしたのです。著者の江さんといえば、タウン誌『ミーツ・リージョナル』の元編集長・・・ホンマもんやで♪【飲み食い世界一の大阪】江弘毅著、ミシマ社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「人より損をしたくない」などと考えていては、結局ロクでもないもんしか口にできない。「街場」の男・江弘毅の至言が、現代日本を駆け抜ける!『ミーツ・リージョナル』(元)名物編集長、大阪・京都・神戸の「食と街」を語り尽くす。『ミシマガジン』連載時から物議を醸し、街の人々を虜にした、極上の21篇。身体でつかんだ「いい店・うまいもん」話。【目次】第1章 これがこっちのやり方です。(値段が書いてない店/バーをよろしく。/ちくわぶはおまへん。/昼にやってる居酒屋。/スナックはお好きですか ほか)/第2章 世界一のうまいもん(鰻屋はタイピン・カフスで/鮨屋の育ち。/コリアンタウン・生野の焼肉。/所謂「コナもん」、それも「たこ焼き」について。/味方の餃子 ほか)/第3章 大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの(街デビュー。/ちょっと京都、行こう。/アジールとしてのお好み焼き屋/大阪的フランス料理について/神戸の昭和 ほか)/対談 中沢新一×江弘毅<読む前の大使寸評>江さんといえば、『ミーツ・リージョナル』の元編集長・・・ホンマもんやで♪内田先生のお友だちでもある江さんが奨める関西の味とは。<図書館予約:(9/22予、9/27受取)>rakuten飲み食い世界一の大阪ホルモン大好きの大使であるが・・・この本で、鶴橋あたりを見てみましょう。<鶴橋という街>p109~113 JRと近鉄の駅が重なる鶴橋駅西口にあなたが降り立つ。するといきなりパチンコ店と立ち食いうどん店、串カツの立ち呑み屋が並ぶガード下の店舗密集地のど真ん中に放り出される。書店の雑誌が積まれている平台は路地にはみ出し、まるで店の三分の一が通路を占領しているようだし、その向かいにはウコンや高麗人参、スッポン、マカといった精力ドリンク剤専門のスタンドがある屋台風店舗があったりする。 そこからほんの100メートル四方に広がるのが、「鶴橋といえば焼肉」として知られる焼肉・ホルモン店密集地帯だ。(中略) 高架上にある駅以外はすべて市場の店舗で、高架下の改札口を出ると、すぐ前が海産物や塩干の卸に菓子やパンの店が並び、その斜め前はキムチや韓国食品の店という様相だ。通路は人がすれ違うのにやっとの幅で狭く、さらにごちゃごちゃと交差し、そこに手押し車や自転車も行き交う。ほんの数坪の小さな店がモザイクのように狭いエリアを埋め合い、迷路のような通路が縦横斜めに交差する。 頻繁に聞こえる頭上の高架を走る電車の音を聞きながら、店がひしめきあうブロックを歩いていると、「JRの駅はどっちだ」「あれ、さっきここ通ったんじゃないかな」というように、必ず方角がわからなくなる。地元の人に案内してもらうか、店舗の店先にいる人に聞くかしないと迷ってしまうのである。 西に隣接する先ほどの高麗市場は、キムチや韓国食材、韓国料理用の鮮魚店や蒸した豚や豚足などが並ぶ精肉店がメインで、そのなかに焼肉店や店先でチジミを焼いている韓国料理店が混じる。唐辛子とキムチの赤さに目を射られ、ニンニクと魚介類のにおいに頭がクラクラする。 鶴橋の街としての性格を決定づけているのは、なんといっても生野区だ。「区民の四人に一人は外国籍住民です」と区役所のホームページ「区の概要」に記されていたエリアで、日本最大級の在日韓国・朝鮮人コミュニティ地区である。 鶴橋駅はちょうど生野区の西北の端にあり、区への出入り口になっている。 生野区は古代から渡来系の人々が移り住んできた土地である。時代が進み日韓併合後は、大正11年に就航した大阪・済州島間の直行便「君が代丸」で多くのコリアンたちが来阪した。その大半が「猪飼野」すなわち生野区の鶴橋から桃谷の東にかけての中心部に集住した。 近年コリアタウンとして観光客に知られているのは、鶴橋駅のひとつ南にあるJR桃谷駅の約500メートル東にある御幸通商店街である。この商店街は元々が猪飼野の在日コリアンの日常を支える市場であった。 前に述べた鶴橋駅北西側の一角は、とりわけ「焼肉・ホルモンの街」として知られている。 大阪で「鶴橋に行く」ということは「焼肉を食べに行く」ということと同義である。夕方過ぎに近鉄やJR環状線の電車に乗っていて駅に着きドアが開くと、「鶴橋に着いた」と気がつく。焼肉の脂とタレが焼けた匂いが飛び込んでくるのだ。通勤帰宅客で満員の車内で居眠りをしていても、iPhoneに見入っていても、その匂いで鶴橋に着いたのがわかる。そして夕方過ぎに鶴橋西口のガード下に降り立つと、煙はほとんど火事場状態で目が痛いほどだ。 「鶴橋で焼肉」は「カラダの焼肉」だ。 鶴橋の焼肉店や韓国料理店はバラエティにあふれ、在日コリアンの家族がお見合いの席に使うような店もある。もちろん神戸牛や松坂牛といったブランドの黒毛和牛ロースや刺身のように扱われる極上の生タンを出すような店もあって、それらをグルメ的に楽しみたい欲望も捨てがたいが、どちらかとうと身体的な要求にダイレクトに応えてくれるような店が魅力だ。 すなわちカルビやテッチャン、ミノ、センマイといったホルモンをどかどかと網にのせ、カンテキ(七輪)が火を噴き、煙もうもうのほとんど非常事態のような状態で食べる焼肉こそ、「わざわざ本場・鶴橋へ焼肉を食べに行く」ことだと地元の大阪人は思っている。 帰りには衣服や髪に匂いが充満し眼鏡は水滴なら脂滴まみれ、明くる日は人と会うのがはばかれれるほどのニンニク臭。大阪の下町で育った人間にはそういう「街場」の身体的な記憶があるものだ。 唐辛子の辛さを効かせた「もみダレ」を揉みこんだ肉や内臓を七輪で焼き、さらにおのおのが手皿の「つけダレ」につけて食べる「焼肉・ホルモン焼き」は、半島ルーツの焼肉料理を大阪の在日が工夫発展させたハイブリッドなソウルフードである。 なお、ホルモン焼きに対する偏愛については、鶴橋で焼肉食べたいに綴っているので、ご笑覧あれ♪次ぎは「コナもん」のお話なんだが・・・さすがに関西を熟知した江さんである。<メディアが言いだした「コナもん」>p123~126 以前、東京のグルメ誌から、大阪では餃子は「コナもん」であるのか、という論考を書くように言われて困惑したことがある。 多分に直感的ではあるが、餃子を「コナもん」に入れてしまうのは無理筋だと思う。しかし餃子を「コナもん」に入れてしまうしまわない以前に、お好み焼きやたこ焼きを「コナもん」と称するようになったのはここ十年くらいのことであり、それも情報誌やテレビのバラエティ番組的な食べ物カテゴリー名であることを再確認しておきたい。 とある情報誌では、うどんまでも「コナもん」にカテゴライズする向きがあって、それはないやろ、などと思ったし、「B級グルメ」的でなんだか横着な感じすらする。 とくに、わざわざ大阪弁で「お調子もの」を「お調子もん」と言ったりするのと同様の、「コナもの」を「コナもん」と言ったりするところに、「けつねうろん」とか「大阪、コテコテ、ごっつう好っきゃねん」みたいな大阪人特有の自虐自悪的根性が見え隠れする。 この過剰な大阪弁表記の「外部ウケ狙い」は、大阪弁運用があまり上手でないと、必ず「おう、ワイや」の番長日記や「でんねん、まんねん」みたいになってしまって、少しうっとうしい。まるで冷めたたこ焼きを無理矢理食べさせられているような気分になる。 そういうことをマクラに10枚くらいの原稿を書いたのであるが、実際わたしのまわりでは「うどん食べたい」とか「お好み屋に行く」とは言うが、お好み焼きやたこ焼きを食べたいときに「コナもん食べたい」や「コナもん屋に行こう」と言う人はいない。 わたしの知人に四大新聞社の部長さんがいる。八尾出身の彼は大のお好み焼き好きであり、家に鉄板セットがあるぐらいだ。ある休日のこと、昼ごはんがお好み焼きなのを知った中学3年生の息子が、「なんやコナもんかぁ」と不貞腐れて言った。その言い方にカチンときた彼は、「ほな食うな」と一発頭を張り倒した。正しい大阪のおっさんの姿である。 それではいわゆる「コナもん」の定義は、ということになる。わが編集集団の4,5人に聞いてみる。いかと小麦粉生地をいか焼き器で挟んで焼くいか焼きは文句なしにコナもんとは思うが、生地がほとんど卵の明石焼きはどうやねん。お好み焼き屋の焼きソバはコナもんなのか。いや違うな。そんな感じだ。 「水で溶いた小麦粉に熱を加えて成形する食べ物」ということなら、ホットケーキは「コナもん」なのか。「ほな流行りのドーナツは?」という声には、むしろ「それは、揚げもんやろ」と言ってみんなで笑っている。 メディアが使い出した言葉と、実際に街で使われている言葉とはちゃんとリンクしているとはかぎらない。たとえば、御堂筋の西、長堀通の北に位置する「南船場」という街の名称は、大阪ミナミの「特定地域」を指し示している。この「南船場」は90年代半ば頃から、流行感度が高い「オシャレな街」としての地名をも含意している。 90年代初めだったろうか、このあたりにブティックやカフェなどの新しい店が集まりだしたときに、そのエリアのことを「カナダ村」と称して、「カナダ村が今、新しい」みたいな特集をした情報誌があった。なんでも「アメリカ村」の北のエリアだからそう呼んだらしいのだが、今では笑い話にもならない。 情報誌やバラエティ番組で飛び交うこれらの「新用語」は一見、時代感覚をわかりやすく切り取っているようだが、多分に広告コピー表現的で、数年前の広告を見てどれもが旧く感じるのと同様に、その言葉自体が消費されていく。誰かが「何かを仕掛けよう」と企画してつくった言葉は、どこかちぐはぐで虚しい。 その一方で「コナもん」という言い方によって、テーマパーク的に当の街場のお好み焼きやたこ焼き、あるいはそれらと一緒くたにされたりするうどんや餃子という「それ自体」が消費され陳腐化されていくということは、街にとってはかなり痛手である。この言語感覚や流行感度であるが・・・もと情報誌編集長という経歴はダテやないでぇ♪
2015.09.29
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図書館で『福岡ハカセの本棚』という本を手にしたが・・・表紙に書かれたコピー「思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊」が、ええでぇ♪さて、ハカセお勧めの100冊とは、どんなかな?【福岡ハカセの本棚】福岡伸一著、メディアファクトリー 、2012年刊<「BOOK」データベース>より科学的思考と巧緻な文章力の原点。科学者・福岡伸一を生んだきわめつけの良書を熱く語る。【目次】第1章 自分の地図をつくるーマップラバーの誕生/第2章 世界をグリッドでとらえる/第3章 生き物としての建築/第4章 「進化」のものがたり/第5章 科学者たちの冒険/第6章 「物語」の構造を楽しむ/第7章 生命をとらえ直す/第8章 地図を捨てるーマップヘイターへの転身<読む前の大使寸評>表紙に書かれたコピー「思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊」が、ええでぇ♪さて、ハカセお勧めの100冊とは、どんなかな?ハカセは科学者として、理系のエッセイストとして、これほど文章の上手い人はいないとも言われているようです。rakuten福岡ハカセの本棚ハカセが説く村上春樹の魅力あたりを見てみましょう。<「物語」の構造を楽しむ>p180~182 しばしばいわれるように、村上春樹の小説の基本構造はシーク・アンド・ファインドです。主人公が何かを探し求めて旅に出る。そして、それを見つけ出したり、持ち帰ったりする。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』もまさにそうした物語です。壁に囲まれた町の図書館で、「夢読み」をして暮らす「僕」。暗号を取り払う「計算士」として働きながら、自分の意識に仕掛けられた謎を解こうとする「私」。二つの物語が交互に入れ替わりながら、最後には一つの大きな物語に収束します。そこに至る構成もみごとです。 ところで、村上作品を象徴するファクターに、「僕」という一人称があります。その印象があまりに強いため、「僕」で語ると、どんな物語も村上春樹風に聞こえてしまうと感じるのは私だけでしょうか。ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を英訳するとき、翻訳者のバーンバウムは、「僕」と「私」をどう訳すかで悩んだそうです。 英語には「I」しかない。結局、「僕」の物語を現在形で、「私」の物語を過去形で表すことにして、賞賛を浴びました。 村上春樹の小説はとても読みやすく、描写もクリアです。しかし、それぞれの事象に込められた意味はしばしば宙吊りにされ、最後まで明かされません。注意深く組み立てられた構造の中で、謎が謎のまま放置される。それが読者の深読みを誘い、たくさんの研究書が著わされるところは、フェルメールの絵にも通じます。 『1Q84』に登場する「リトル・ピープル」も、そうした謎の一つです。冒頭から物語の強い流れに引きこまれた読者は、「リトル・ピープル」に出合って当惑します。夜ごと山羊の口から出てきて、「空気さなぎ」をつくるこびとたち。実体があるのかないのかもわからず、善悪もわからない。しかし、「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在。 私たちの内部にあるという点で、「リトル・ピープル」は、ジョージ・オーウェルの『1984』における外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とも異なります。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」姿を現し、私たちを徹底的に利用し、利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていくというのです。 えんどう豆。生物学者がこの言葉を聞いて思い出すのは、えんどう豆の実験によって導き出されたメンデルの法則です。だとすれば、ここで暗示されるのは、利己的な意志をもつかのように擬人化された遺伝子ではないだろうか。遺伝子の究極の目的は、永続する自己複製です。「空気さなぎ」はそのメタファーに思えます。 現代人の多くは、生まれながらにもっている遺伝子に、自分の運命を支配されているように感じています。しかし、それは私たちが、遺伝子が利己的な支配者であることを信じ、そこに身を委ねようとするからです。その誘惑に対抗するには、一つひとつの人生を自分の物語として語り直すしかない。それでこそ、私たちはより自由に、ときに利他的に行動できる。私はこの作品をそのように読みました。ウーム 「人生を自分の物語として語り直す」てか・・・・奥が深いですね。しかし、村上春樹作品の批評にメンデルの法則や遺伝子が出てくるところが福岡ハカセのハカセたるところなんでしょうね。・・・座布団3枚。この記事も福岡ハカセの世界に収めておきます。日本人作家をもう一人・・・ハカセがカズオ・イシグロを語っています。<地図を捨てる>p204~206 イシグロは1954年に長崎で生まれ、父の仕事の関係で5歳のときにイギリスへ渡りました。数年の予定と思われていた滞在はついに終わらず、大学を出て社会福祉事業に従事した後は、イギリスで作家を目指します。彼はそのあいだ、日本へのノスタルジーを封印していたといいます。しかし一方、少年期を過ごした長崎の記憶は、ある鮮やかさをもって心に刻まれていた。20代も後半になった頃、イシグロは日本についての記憶がやがて薄れて消えていくことを思い、この小説(『遠い山なみの光』)を書いたのです。 私はその後も、カズオ・イシグロの小説に親しんでいきました。『わたしを離さないで』は、この作家の作品の中で最も知られるものの一つです。 実はこの長篇を読んだのは、新聞の書評欄に「『複製』の概念が『命』の本質を押しつぶそうとする戦慄の小説」と紹介されていたからでした。確かに物語の背景には、生命操作の問題があります。主人公のキャシー・Hをはじめ、ヘールシャムという寄宿舎で一見何不自由なく育てられている少年少女たちは、最新のクローン技術によって生み出され、臓器提供のドナーとなる運命を背負っているのです。 しかし、この作品が意図するのは、彼らの不幸を鏡として近代科学を批判することではありません。他のイシグロの小説がそうであるように、ここで扱われるのは記憶の問題です。『遠い山なみの光』の悦子と同じように、主人公のキャシーはたびたび過去へさかのぼり、ヘールシャムでの何気ない日常を反芻します。それを支えとして、日々を生きようとするのです。 私たちの体を構成する分子は絶え間なく入れ替わっています。私たちの自己同一性を担保するものは、少なくとも物質レベルでは何一つありません。では、何がアイデンティティとして私たちを支え、私を私たらしめるのか。それが記憶だとはいえないでしょうか。 もちろん、記憶も時間とともに変化します。私たちの体が最終的にエントロピー増大の法則に屈し、崩壊せざるを得ないように、記憶もまた儚いものです。そのつど更新され、変容していきます。けれど、人が亡くなったとき、その人の記憶はちりぢりになって別の人々の記憶のなかに宿り、時を超えて生き続けていくことができる。その点において、クローンであるキャシーと私たちの人生になんら違いはありません。 記憶も、過去と現在、人と人、人と場所や物のあいだに生じる関係性です。その不確かさにもかかわらず、ときに何にも増してそれが人を支えるということを、イシグロは巧みに物語にしてみせるのです。なるほど、『わたしを離さないで』のメインテーマは複製ではなくて記憶なのか・・・ハカセの読みはなかなかのもんでんな♪
2015.09.28
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<再読『習近平の中国』>図書館の本を手当たり次第に、借りている大使であるが・・・・なんか慌しいので、この際、積読状態の蔵書を再読しようと思い立ったのです。で、再読シリーズ#2として『習近平の中国』を取り上げてみます。折りしもインチキ国会で集団的自衛権などの安保法案が可決されたが・・・集団的自衛権の必要性の根拠とも言われる「中国の脅威」について考えてみたい。【習近平の中国】宮本雄二、新潮社 、2015年刊<「BOOK」データベース>より猛烈な反腐敗闘争、戦後秩序を揺さぶる外交攻勢、急減速する経済の立て直しー。二〇一二年の総書記就任以来、習近平は猛烈なスピードで改革を進めている。基本的な方向性は間違っていない。しかし、まさにその改革によって、共産党一党支配の基盤は崩れていかざるを得ない。危ういジレンマに直面する中国は今後、どこに向かうのか。中国大使をつとめ、習近平を知悉する外交官が描いた「苦闘する超大国」の実情。<読む前の大使寸評>中国大使をつとめ、習近平を知悉する著者が描いたとのこと・・・本屋で立ち読みしていて衝動買いしたのです。bunshun習近平の中国習近平の中国byドングリかの地で腐敗が蔓延した理由を、この本に見てみましょう。<負の遺産としての腐敗問題>p74~77 江沢民時代に政治改革が進まなかったのは、トウ小平がブレーキをかけたからだと言い訳できるが、トウ小平があれほど警告を発していた腐敗問題の悪化については、江沢民は何の言い訳もできないだろう。改善されるどころか著しく悪化したからだ。 悪化を続けた理由の一つは、すでに触れた制度的要因による。共産党があらゆることを指導し、しかも国家としての憲法の上にいる。法律を守れ、憲法を守れといっても、党員がこれらを遵守しているかどうかをチェックするのは党の紀律検査委員会しかない。そして党員を司法のプロセスにのせて裁くかどうかも党が決めるのだ。 中国においては政府職員をはじめ国有企業等の重要ポストは、ほぼ共産党員に独占されている。これらのポストには取り締まりや許認可の権限があり、直接、実利と関係している。だから簡単に腐敗する。 こういう仕組みの中で腐敗を減らそうとすれば、一方で仕組みそのものをしにくくする必用があるし、もう一方で監査と取り締まりを厳しいものにする必用がある。これらの改革は胡錦濤時代に次第に意識されるようになり、習近平の時代には最大の課題の一つになり、目下大ナタを振るっている最中だ。 江沢民の時代には、腐敗撲滅を口で言う割りには具体的行動が伴わなかった。江沢民の時代に腐敗が蔓延した第二の理由は、江沢民が本気でやらなかったからだ。それは、99年に表面化した福建省の遠華密輸事件の処理ぶりに典型的に表れている。 主犯の頼昌星は、国しか輸入できない石油を軍の名義で輸入し、しかもそれを精製してガソリンとして堂々と販売していたというから驚く。もちろんあちこちに賄賂を贈り、見逃してもらっていた。あの当時としては驚天動地の800億元とも言われる巨額の脱税、そして多数の贈収賄事件であった。 この事件は、江沢民の側近の買慶林が福建省のナンバーワンをつとめていたころに起源をもつ話で、福建人である買慶林夫人の関与も取りざたされた。党中央、すなわち江沢民が本気なら買慶林に対しても何らかの処分はするだろうと思われた。それほど桁違いの腐敗案件だったのだ。 買慶林は当時北京市長に栄転していた。だが、“巷の噂”では、江沢民は「この事案は地方の案件であり地方で処理すべし(北京の買慶林には手を出すな)」という処理をしたという。これを聞いて私は、江沢民は本気で腐敗退治をするつもりはないなと思った。中国国民も同じように感じたであろう。 諸葛孔明は、軍記を維持するために“泣いて馬ショクを斬る”ことをした。自分の信頼する有能な将軍馬ショクでさえ軍規にそむけば、その首をはねたのだ。ルールを定め、それに違反するものは誰であれ許さない。それが組織の紀律維持のために必用不可欠なことだ。 だが江沢民はそうしなかった。だから私は共産党に明日はないと感じたのだ。私が01年に中国共産党の統治があと5年で終わると早とちりした最大の理由は、このような江沢民の対応にあった。 そして江沢民は胡錦濤の時代にも人事に影響を及ぼし続け、彼の系列の人たちが「良いポスト」に就いていった。その結果、既得権益層のかなりの人たちは江沢民とつながり、また腐敗している可能性も高くなってしまったのだ。習近平は今、江沢民が本気で腐敗退治をしなかった後始末をやらされているともいえる。かの地の腐敗はトウ小平が生み、江沢民が育て、習近平がツケを払っているようですね。元中国大使の著者は、中国共産党の終焉という大胆な予測を01年に出していたが、惜しくも外れようです。農民工という大問題に対して改善策が決定されたが、どうなるんでしょうね?<格差問題の象徴としての「三農問題」>p151~153 現在は、あまり口にされなくなったが「三農問題」、つまり農業、農村および農民のかかえる問題は、依然として大きい。中国のあらゆる格差の問題は、都市と農村との間にもっとも顕著に表れている。 都市部一人当たり可処分所得の農村部一人当たり純収入に対する倍率は、09年の3.3倍から13年に3.0倍に低下しているが、まだ大きい。農村部は、第二次産業や三次産業が弱体であり、税収も少なく地方政府の力も弱い。社会保障や医療保険、それに教育といった国民が最も必用とするものが、都市と比べて著しく不足している。しかも悪名高い戸籍制度の問題がある。農村戸籍の者は都市に定住できないのだ。 つまり都市と農村は二元構造となっており、それが都市と農村の一体的な発展を制約する主要な障害となっている。それが教育と就業の機会の差や、社会保障の水準の差を生んでいる。 11年末に都市部人口が農村部人口を超えたが、それでも6億を超える人が、まだ農村部に住んでいることになる。ここをテイクオフさせ「三農問題」が一応の解決を見ない限り、中国全体の「発展」も「安定」もない。 農業は土地に縛られ、生産性の向上にも限界がある。農業人口を減らすしか、農民一人当たりの収入を増やすしか抜本的な方法はない。この離農人口をどうするのかが中国指導部に突き付けられた大きな課題となってきた。 この課題に対する習近平政権の対策は、「都市と農村が一体となった、新しいタイプの工業・農業・都市・農村関係を作り上げるようにする」(『決定』第6項)ことにある。その中心となるプロジェクトは都市化の推進であり、すでに雨後の竹の子のように全国各地で新たな都市が構想され、建設され始めている。中国全土の顔かたちを変えてしまうほどの壮大な実験がすでに始まっているのだ。そこに農村からの人口を吸収していく。 また、既存の大都市に農村人口が大挙して流入してくると管理不能となるので、そうならないような形での戸籍制度改革を進めることにした。基本は、「都市」を特大、大、中、小の四種類に分け、小都市への戸籍転入制限は全面的に撤廃し、中都市への制限は徐々に撤廃し、大都市への戸籍転入はある程度制限し、特大都市へは原則、転入させない、というものだ。 さらに都市に住む農村戸籍住民、つまり農民工の救済が決まった。都市の基本公共サービスを受けられるようにし、農村で参加した年金保険・医療保険を都市のものに接続させることにした。 現代化と言い近代化と言っても、実際は都市化である。先進諸国が長い年月をかけて歩んできた現代化の道を中国はさらに加速させて歩んでいる。その結果は伝統的な社会の崩壊であり、自然破壊であり、環境の悪化だ。それが全中国で、これからもさらに大きな規模で行われるのだ。 そこに待ち受ける無限と言ってもいい多くの課題や挑戦のことを考えると気持ちはひるむ。だが他に三農問題解決のうまい手もない。そこを突き抜けるしか中国共産党の未来はないのだ。自己中心的な中国人は、ほんとうに中国脅威論が理解できないようで・・・怖い。<中国脅威論を理解できない中国人>p216~218 中国を長年観察していて、中国はまだ“自分探しの旅”をしているのだなとつくづく思う。 昨今の中国脅威論の高まりを、中国の人たちは、なぜそうなるのか理解できないでいる。脅威論を煽るのは、中国を悪者にして、自分たちの悪行を隠し、よこしまな利益を得るためだと考えている。中国の“ものの考え方”が、中国脅威論の高まりという結果をもたらす仕掛けになっていることに、彼らの多くは気づいていない。その“考え方”とは、「中国の基本国策は平和と発展であり、世界の平和と発展のために大国としての責任を果たし尽力する。しかし領土や主権、海洋権益と言った中国の生存と発展のために必要不可欠なものについては一切譲歩しない」とまとめることができる。 つまり自分たちの“核心的”な権利や利益を侵犯することは決して許さないという姿勢と、世界の平和と発展のために努力することは両立すると考えているのだ。なぜなら中国の「権利や利益」を守るのは当然であり、侵犯する相手が悪いのだから、世界の平和と発展を損なっているのは相手だ、という理屈になるからだ。 だがここに本質的な問題がある。それは、正しいか正しくないかを自分たちで決めているからだ。中国は、世界大国になれば何が正しいかを自分で決めることができると考えているが、それは大間違いだ。アメリカはそうしているではないか、と言いたいのであろうが、そうではない。アメリカでは大統領が決めたことにも議会は反対できるし、国民も監視している。国際輿論もある。ルール違反をしたり、国民が正義だと思っていることと違うことをやったりすることは難しいのだ。 対イラク戦争のように無理してやったことでも、いずれは是正する。戦後の国際政治秩序は、ルールに則った行動をすることを求めており、大国が自由に振る舞うことを簡単に許さないのだ。 中国が軍事大国になるのは当然だと思っていても、中国以外の世界は「はい、そうですか」というわけにはいかない。軍事力は相手を破壊する手段であるし、持っているだけで相手を恫喝できるからだ。 一昔前、中国から「核兵器を持たない国に対して核は使用しませんので安心してください」などという説明を聞いたことがある。これは、無防備の人にナイフを背中に隠しながら「このナイフは決して使いませんので安心してください。ところでお金を少々貸してくれませんか」と言うようなものだ。兵力に大差があると、相手を脅して目的を達成することはできるのだ。 中国は、これだけの世界大国となり、巨大な軍事力を持つようになった。その軍事力をどのように使おうとしているのか、国際社会に説明する必要がある。合理的な説明を聞くことができなければ、他の国は中国の意図に猜疑心をいだき、それに対抗する動きをするだろう。
2015.09.27
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図書館の本を手当たり次第に、借りている大使であるが・・・・なんか慌しいので、この際、積読状態の蔵書を再読しようと思い立ったのです。で、再読シリーズ#4として『おどろきの中国』を取り上げてみます。【おどろきの中国】橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベースより>そもそも「国家」なのか?なぜ日本人の「常識」は彼らに通じないのか?日本を代表する三人の社会学者が対症療法ではない視座を求めて白熱の大討論。【目次】第1部 中国とはそもそも何か(中国は「国家」なのか?/二千年以上前に統一できたのはなぜか ほか)/第2部 近代中国と毛沢東の謎(なぜ近代化が遅れたのか/明治維新とどこがちがったか ほか)/第3部 日中の歴史問題をどう考えるか(伝統中国は日本をどう見ていたか/中国人の認知地図 ほか)/第4部 中国のいま・日本のこれから(「社会主義市場経済」の衝撃/トウ小平のプラグマティズム ほか)<読む前の大使寸評>この本の著者は、2011年のベストセラー「ふしぎなキリスト教」の社会学者カップルに宮台真司を加えた豪華な社会学者トリオになっています。で、漢民族の病理が解明できるのではないかと期待して読んでみます。(大使、動機が不純です)rakutenおどろきの中国毛沢東の業績を、この本に見てみましょう。<毛沢東は伝統中国の皇帝か>p150~154大澤:とにかく、ここで言っておきたいことは、大躍進政策にせよ、文革にせよ、「いまから振り返ってみると間違いだった」というだけではなく、その当時から、間違った政策だとほとんどの人は思っていたはずだということです。毛沢東の側近たちも、その誤りに気づいていた。それでも、これらの政策は、毛沢東が思うとうりに進められた。そして、毛沢東への崇拝は、今日でも続いている。これはいったいなぜなのか。ものすごく疑問に思います。 そこで、こんなふうに問いを立てたらどうですか。毛沢東はある意味で伝統中国における皇帝とまったく同じと考えたらどうだろうか。「毛沢東は皇帝である」「共産党の中国は毛沢東王朝である」という命題は、社会学的に見て正しい主張なのか。それとも根本的に誤まった権力の性格づけになるのか。橋爪:毛沢東は皇帝か。イエスであり、ノーですね。 たしかに毛沢東は、伝統中国の皇帝イメージを最大限に利用して、それを追い風にしたと思う。まず、天安門。中国共産党は、中華人民共和国の首都を、清朝の首都だった北京にした。北京には故宮、天安門がある。明と清の二代の皇帝がいた場所で、儀式を行うのにちょうどいい。だから、天安門の上に立って、新中国の建国を宣言し、中南海に居を構えて、皇帝のように暮らした。ほかにも、さまざまな特権が認められていた。特別列車に乗るとか、高級別荘を定宿にするとか。毛沢東自身も、皇帝のような気分に浸ったのかもしれない。民衆も毛沢東を、皇帝のように仰ぎみた。 では、皇帝そのものかと言うと、決定的な点がちがっていた。毛沢東の中国共産党は、伝統中国の官僚制に比べ、はるかに社会の末端にまで支配の根を下ろしているという点。伝統中国の政権は、社会の基層のローカル・コミュニティの自立性を認めて、いちいち干渉しないんです。けれども、毛沢東の共産党政権は、党組織の末端を村に伸ばした。どの村にも党書記を置き、工作隊を送りこんで、土地改革(再配分)、合作社、人民公社などの政策を実施した。農村の現場に直接、党の指令を送った。学習会を開き、地主や反革命分子を打倒し、政治活動を行う。いつも新しい目標、新しい敵を見つけ出し、大衆を動員した。都市にも、新しい共産党のユニットをつくった。「単位」というものです。大澤:単位というのは、日本にはまったくないタイプの集団ですね。どんなものですか?橋爪:単位とは、まあ、職場だと思って下さい。工場、病院、学校、商店、バス会社、政府機関、・・・など。どれもが単位。都市は、単位の集まりである。そして、労働者は必ずどれかの単位に所属する。中国に独特の制度です。 単位の特徴は、それがあらゆる機能を果たすこと。 たとえば、住宅。単位はアパートを建てて、労働者を住まわせる。たとえば、医療や社会保障。病気にかかれば単位が医療費を払うし、退職金や年金も単位が負担する。国営企業は、大勢の退職労働者を抱え、多額の財政負担を強いられているところが多い。たとえば、秩序維持。以前は鉄道の切符を買うのにも、ホテルに宿泊するのにも、必ず、「所属単位は?」と聞かれた。単位の許可がなければ、旅行もできない。食糧切符の配給や計画出産、そのほかたいていの連絡は、単位を通じて行われる。 単位には必ず共産党支部が設けられ、書記が指導する。市長よりも、工場長よりも、校長よりも、書記のほうが地位が高い。中国共産党の権力基盤は、網の目のように張りめぐらされた、単位の制度に立脚している。大澤:単位の二重所属というのはできるんですか?一人が二つの単位に所属するということですが、そういうことは許されるのでしょうか。橋爪:できません。夫と妻が、別々の単位に属する、これは当たり前です。でも一人が二つの単位に所属することはできない。大澤:では、家族の中でちがう単位に属している人がいることはありえるわけですね。橋爪:はい、それはよくある。するとどうなるかというと、夫か妻か、どちらかの単位のアパートに住む。大澤:ぼくらも長沙に行ったときに、団地みたいなものを見ましたが、あれも何かの単位の住宅ですね。橋爪:ええ、図書館の裏にアパートがありましたね。あれが単位です。中国では、原則として職住近接。社宅みたいだが、社宅とちがって、退職したあとも住み続けられる。 退職した旦那さんが死んでも、奥さんがいれば住めるし、奥さんが死んでも子どもがいれば、子どもがそのまま住んでいる。だから単位は、運命共同体みたいなものなどです。(中略) さて、農民も、都市生活者も、こういうふうに、生活手段を握る共産党に首根っこを押さえられている。この共産党の頂点に立つ毛沢東の権力は、伝統中国の皇帝が及びもつかない、絶大なものであると思います。 その毛沢東が号令して、一般大衆に、政治参加を呼びかけた。これも、皇帝が決してやらなかったこと。大衆の政治運動が可能になって、中国の人びと全員を政治の主体として登場させたことが、毛沢東の最大の業績ではないかと思います。 橋爪さんが中国共産党の歴史を簡明に語っているので、そのあたりを見てみましょう。<伝統主義か、近代主義か>p191~195橋爪:毛沢東は伝統主義的なのか、近代主義的なのか。やっぱり、両面ある。(中略) さて、この長征のップロセスは、太平天国の場合とよく似ていると思うんです。太平天国の乱は、広西省から始まるんだけど、たちまち清の軍隊に囲まれてしまい、根拠地をおびやかされた。で、家族を連れて逃げ出し、新兵を集めながら逃げのびて、長沙や武漢を通って、最後に南京に入城する。 長沙出身の毛沢東はこの史実を、よく知っていたろう。なぜ、あんな南の井崗山から、四川省の裏をぐるっと回って、内モンゴルのすぐ近くの黄土丘陵地帯を目指したのか、と考えてみると、ひとつは、たぶんソ連からの援助が受けやすい。もうひとつは、日本軍や国民党軍の攻撃を受けにくい。三番目は、北京に入城しやすい。(中略) そういうわけで、意図的にあの奇妙なルートを選んでいると思うんですね。毛沢東の考え方は、伝統中国的、農民反乱的なんです。 もっとも、ただの伝統的な農民反乱だったら成功しなかったと思う。まず、海外の支援を得られない。ソ連の支援や、英米の支援をうるためには、中国の近代化を進める正統な政治勢力なんだと認知してもらう必要がある。そういう側面も十二分に備えていなければならない。こういう二面があった。宮台:ぼくも関連する質問をいいですか? 中国は危機的な状況にあるという理解が多くの指導者層に共有されている場合には、まさに手段的な合理性という観点から、いわゆる近代民主主義的な制度をあえて採用しない、という選択はありえますよね。採用したら、自滅につながるから。 そういう手段的な合理性ゆえに、全体主義やロマン主義に見えるものを擁護するということは、戦略的にいくらでもありうると思うんですね。たとえば、丸山真男は戦前の助手論文で、荻生徂徠なんかを持ち出しながら、福沢諭吉をマキャベリストとしての側面から擁護しましたが、そのことに関連しています。 (中略)橋爪:中国の知識人が、中国を近代化しようと思ったら、まず清朝ではどうしようもないから、清朝の政府を片づけなければならない。そこで、中華民国が成立した。中国でやっと、近代市民主義的な革命が成功したように見えた。 でもすぐ、孫文に対抗して、袁世凱が出てくる。袁世凱は、伝統中国の皇帝みたいな体質をひきずっている。孫文の描いた中華民国の構想をぐちゃぐちゃにしてしまった。孫文が救世主になると期待した人びとのあいだに、失望が広がっていった。 そこに第一次世界大戦が起こった。そのどさくさに、日本が「対支21ヶ条要求」なるものをつきつけえる。当然、中国の対日感情が一挙に悪化する。愛国的な学生が立ち上がる。5・4運動(1919年)が起こって、日貨排斥などが広がった。以後、中国の近代化は、反日も課題にしなければならなくなった。 でも学生やインテリが、ただちに中国革命を担えるわけではない。政治的統一を失った中国は無政府状態。無政府状態では、軍事力がものをいう。そこで各地に、軍閥が割拠した。軍閥にはなんの理念もないから、政治的統一を実現できない。その可能性があるのは、やはり国民党だった。共産党はまだ、マイナーな地方政権にすぎなかった。 ところが、日本が盧溝橋事件(1937年)をきっかけに、中国に大兵力で侵攻してきた。独立の危機である。西欧列強は、植民地をもぎとったが、独立を脅かそうとまではしなかった。そういう危機のなか、共産党ゲリラが勢力を伸ばし、国民党に匹敵する勢力に成長していく。そしてついに、中国革命の主導権を握るのです。 当時の中国は、交通や物流が未発達で、地方ごとの独立性が高かった。都市の基盤は脆弱だった。そこで「農村で都市を包囲する」といった、中国共産党流の戦略が効果をもった。抗日戦争や内戦を勝ち抜くには、精強な大勢の兵隊がカギになる。農民からそうした兵隊をリクルートするにはあ、農民に理解できる明快な世界観と、農民にやる気を出させる具体的なビジョンがなければならない。中国共産党はこの点で、国民党より優勢だった。中国共産党は「解放区」で、地主を打倒し、農地を再配分したから。 中国共産党が成功したのは、たしかに、危機に対応する能力が高かったからです。でもそれは、国民党が近代主義的だったのに対して共産党が全体主義的だったから、というよりも、共産党のほうが当時の農民の現実感覚に密着していたからではないか。そして、革命のためプラグマティックに農民のもつ伝統中国の考え方や行動様式を「利用」したのか、それとも、伝統中国の考え方や行動様式にもとづきプラグマティックに近代主義やマルクス主義を「利用」したのかは、中国共産党の人びとでさえどちらかよくわからなかった、と言えるかもしれない。
2015.09.27
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図書館に借出し予約していた『台湾の歓び』をゲットしたのです。待つこと6ヶ月か・・・・待機期間のバラツキは神戸市が何冊買うかにかかっているのかな?さて、還暦を過ぎた四方田犬彦は、台湾という土地で、どのようなフィールドワークを見せてくれるのだろうか♪?・・・興味深いのです。【台湾の歓び】四方田犬彦著、岩波書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より数多くの民族と言語を抱えながら、きわめて実験的な文学や、洗練された映画を産み出してやまない台湾。その文化・社会とはどのようなものか。台北、台南を拠点に街を歩き、詩人、映画人らと対話を重ね、夜を徹した媽祖巡礼へ参加し、その尽きせぬ魅力について縦横に語る。長期滞在を機に書き下ろす、初の台湾紀行。<読む前の大使寸評>還暦を過ぎた四方田犬彦は、台湾という土地で、どのようなフィールドワークを見せてくれるのだろうか♪?・・・興味深いのです。<図書館予約:(3/15予約、9/19受取)>rakuten台湾の歓びこの本で、台湾のアイデンティティ、言語環境のあたりを見てみましょう。<台北という都市>p5~7 「先住民」という言葉は使われない。もはや絶滅してしまったという意味合いが強いからだ。1994年の第三次憲法修正によって、彼らは公式的に「台湾原住民」と呼ばれることになった。いずれにせよ交通行政は、台湾で用いられているすべての言語が対等であるという立場のもとになされている。 わたしが滞在していたアパートに清掃に来る老人と若い女性は最初に、自分たちがアミ族出身であると誇らしげにいった。老人は流暢ではなかったが、かなり日本語を話した。子供のころ、家の近所にいた日本人が国に帰ることになったとき、海辺で自分を抱きしめてくれたという。それから野球は台湾も強いが、日本も強いねと付け加えた。 台湾人はほとんど例外なしに、子供のときからいくつもの言語を横断し、使い分けしながら生きている。九州よりも小さな島のなかに、少なくとも17の言語がひしめきあい絡まりあっているのだ。単一言語幻想を素朴に信奉してきた日本人や韓国人には想像もできない複雑な言語環境を、彼らは日常的に生きている。どの言語を選んで話すかは、当人の出自と歴史、イデオロギーによるものだが、ときに彼らは複数の言語をジャグリングのように扱い、遊戯的に使いこなす。 1990年代以降のロックでは、客家語や原住民の言葉をどんどん歌詞のなかに取り入れていくことが流行した。同じ内容の短篇小説を、台湾語と中国語の二通りに執筆して発表する宗澤莱という作家もいる。楊徳昌の『独立時代』(邦題は『エドワード・ヤンの恋愛時代』)というフィルムには、二人の男女がタクシーの中で中国語と台湾語を、冗談のように交互に使ってお喋りをするという場面がある。 駅名のアナウンスに話を戻すと、土地の固有名詞を示す発音は複数ある。だが漢字表記は一つだから、標識が煩雑になることはない。漢字さえ正確に記されていれば、誰も自分の文化の伝統に応じて、どのように発音してもかまわない。社会は複数の文化と言語からなっているというのが、現在の台湾人の基本的認識である。 それからもう一つ。漢字は政治体制の手でけっして簡略化してはならず、たとえいかに複雑に見えようとも、正しく綴らなければならないという理念。ヴェトナムは漢字を禁止され、韓国は民族主義の立場からそれを教育体系の周縁へ押しやった。日本は米軍占領下に漢字の簡略化を推し進め、中国も漢字の廃絶を最終目標としながら挫折し、略字の考案に勤しんだ。世界中で本来の漢字をそのまま使い続けているのは、香港と台湾だけとなった。それだけでも台湾の文化的意義は大きい。 台湾の大学人がわたしに教えてくれた基本的なことの一つに、講義のなかでの中国の呼び方があった。誰もが知っているように、1949年に蒋介石率いる中国国民党が中国共産党の人民解放軍との戦いで敗北し、台湾に逃げ込んで以来、この地を「中華民国」の名のもとに統治してきた。大陸の側は「中華人民共和国」であり、両者はそれ以来反目しながら現在にいたっている。 台湾のなかには、台湾を独立国として世界に承認させようという政治的動きもあれば、中国への統一を積極的に求めようという動きもある。もしあなたが「台湾」と「大陸」という言語を対にして口にしたならば、それは統一派と見なされることだろう。いずれの言葉も国名ではなく、地名にすぎないという意味になるからだ。だが、もし「台湾」と「中国」という語を並べて用いるならば、それはいずれも国名として認めていることになり、中国とは別個に成立している台湾の独立性を強調した表現になるだろう。日本人にとっては瑣末に見えることかもしれないが、台湾人にとってはこれは自分たちの政治的・文化的アイデンティティに関わる重要な問題である。ささいな語彙の用い方が、その人物の帰属しているイデオロギーの証立ててしまうことになると留意してほしい。ある教授はわたしに、次のように説明してくれた。 台湾は中国の一部でもなければ、その服属国でもない。中国と日本の文化をともに吸収しながらも、いずれか片方に傾くことなく、島内にあるさらなる文化的多様性を取り込みながら成立している独自の社会である。たとえアメリカと日本、中国が正式の国交を結ぼうとせず、国連に議席の一つも与えられていないにもかかわらず、何人も台湾の文化的アイデンティティを揺るがすことはできない。台湾は実在する。この言語に着目した論説で、台湾が漢字文化圏の文化的中心に位置することが分かるのだ!♪中国の漢字簡略化や韓国の漢字排斥をこころよく思っていない著者のスタンスが、図らずもこの論説ににじみ出ているようです。(大使 読み方が偏っています)大使一押しの台湾人映画監督といえば魏徳聖(ウェイ・ダーシェン)であるが・・・そのあたりが載っています。<魏徳聖と日本>p152~166 とはいうものの、わたしはここで不用意に「反日」「親日」という二分法を使用しようとは思わない。韓国を反日、台湾を親日と呼んだところで、それ以上に議論が進展するとも思えない。またこうしたレッテル貼りが、個人個人の韓国人や台湾人が抱いている、日本に対する複雑な感情を強引に単純化し、ステレオタイプの枠のなかに押し込んでしまうことの害を、まず認めなければならない。自分と異なった出自や来歴をもつ人間を、かかる二種類に分類してよしとする態度こそ、当人を侮辱することではないか。 韓国人にしても、台湾人にしても、日本が植民地化したことのある場所に生まれ育った人間にもし二分法を適用するとすれば、それは知日と無知日(あるいは無識日)の二通りしかないのだというのが、わたしの考えである。(中略) 嘉義農林の甲子園出場のことは、以前から聞いていた。わたしが大学で教えたことのある〇健裕という留学生が嘉義出身で、いつか国に戻って嘉農のことを話に映画にしたいと口癖のように話していたからである。彼はやがて台北に戻ると、台湾接収に来た日本軍と義勇軍との戦いを描いた『1895』の製作に関わり、戦争に懐疑的な青年軍医、森鴎外の肖像を描いた。だが嘉農の映画は実現しなかった。 代わりにそのフィルムを製作したのは、『海角七号』と『セデック・バレ』の監督で知られる魏徳聖(ウェイ・ダーシェン)だった。魏は『セデック・バレ』に出演していたウミン・ボヤに『KANO』の監督を任せた。おそらく野球をよく知らなかったので、どう撮っていいのか、わからなかったのだろう。『KANO』と名づけられたその作品は、3時間半の長尺であったにもかかわらず、2014年2月に台湾で一斉公開されると台湾映画の配収記録を毎週塗り替えていった。それはいつもの魏徳聖の作品と同じ現象だった。(中略) 『KANO』は2014年の台湾映画界で未曾有の興行成績を収めた。映画評論家のなかには、八割の会話が日本語でなされていることを根拠に、このフィルムを「親日映画」として批判する者もいた。だが多くの観客はそれを問題としなかった。1970年代に国民党が国策映画として製作を命じた反共抗日映画のなかでは、侵略者である日本軍の兵士も将校も、誰もがよどみない中国語を口にし、ステレオタイプの悪役を演じている。その荒唐無稽と比較するならば、魏徳聖の製作したこの作品は、植民地時代の言語状況を隠蔽することなく表象していると判断されたためである。 『KANO』が舞台にしている1929年から31年までの台湾中部とは、魏の前作でもある『セデック・バレ』が描いた霧社事件と、まったく時期を同じくしている。日本人の虐殺を描く『セデック・バレ』が反日映画でないように、台湾人の甲子園への情熱を映画版『KANO』もまた親日映画ではありえないと了解すべきだろう。明らかに魏徳聖は、この二本の作品を鏡の表と裏のように見なしている。彼が『KANO』の監督を、『セデック・バレ』に出演したウミン・ボヤに依頼したことが、何よりもそれを証拠立てている。 魏徳聖という映画人の出現は、2000年代以降の台湾映画をもっとも特徴づける現象の一つである。候孝賢や楊徳昌が映像作家としての繊細な文体に拘泥し、世界中の国際映画祭に宛ててハイブロウな芸術映画を撮り続けたとすれば、その次の世代である魏徳聖は逆に、誰もが登場人物に同一化して、強い情動的興奮を体験するエンターテインメントに徹して、台湾映画をもう一度興隆へと導いた。 日本統治時代に投函された手紙が、受取人も不詳のまま、何十年もの後に出現し、若者たちがそれを調査する『海角七号』という最初の評判作は、置き去りにされてきた過去の時間への遡行のフィルムである。回帰してきた手紙とは、日本統治時代の記憶に他ならず、人はその手紙を手掛かりとして甘やかなノスタルジアの庭のなかに足を踏み入れていくのだ。台湾映画については台湾映画アンソロジーをフォロー中でもあり、格別の思いがあるのです。出張で台湾に行ったとき、都市や田舎にやたら廟あるいは祠が見られることに驚いたのであるが・・・そこには、種々の神仏が祀られているようです。<マ祖 黒い面の女神>p187~197 薄暗い空間のなか、休みなく燻される線香の煙に包まれて、夥しい数の神像があった。城〇爺、水仙尊王、観世音菩薩、四海龍王、太上老君、神農大帝、関聖帝君・・・・道教系の神紙もいれば、仏教の菩薩や大師もいる。自然現象の化身もいれば、歴史上の賢人や名君もいる。臨水夫人や註生娘娘のように、安産や子育てを司る民間の俗神もいる。だが、あまたの神々のなかでとりわけわたしを惹きつけたのは、マ祖という女神であった。 マ祖は別名を「天井聖母」という。より公式的には、明代清代に「天妃」とか「天后」といった称号を授けられもしたが、庶民はより親しみをこめて「マ祖婆」とか、あるいはもっと簡単に「姑婆祖」と呼んだりもする。ご先祖の婆ちゃん、くらいの意味である。(文字数制限により省略、全文はここ)
2015.09.26
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図書館に借出し予約していた『対華二十一カ条要求とは何だったのか』をゲットしたが・・・・ゲッ! 完璧な論文スタイルで、注釈のページが3分の1ほど占めています。このような人文系の論文を手にしたのは、もしかして初めてかな♪ナショナリズムで沸き立つ日中両国であるが・・・この際、冷静に歴史を検証してみたいのです。【対華二十一カ条要求とは何だったのか】奈良岡聰智著、名古屋大学出版会 、2015年刊<「BOOK」データベース>より沸騰する世論、先鋭化する日中。反日への決定的転換をもたらした世紀の失政の原因を詳細な実証により解明、100年を経てなお影を落とす外交交渉の全貌を捉えた渾身の成果。【目次】満州問題ー21ヶ条要求の起源/第1部 21ヶ条要求はなぜ提出されたのか(21ヶ条要求提出の背景/参戦外交再考/参戦をめぐる世論と国内政治/21ヶ条要求の策定過程)/第2部 21ヶ条要求の提出とその波紋(21ヶ条要求をめぐる外交交渉/21ヶ条要求と国内政治/21ヶ条要求と世論)/21ヶ条要求とは何だったのか<読む前の大使寸評>中国の凄まじい軍拡に対峙して、「日中対立の原点」をたどる意義は深いのでしょう。吉岡桂子委員の推す歴史書とあれば、いい本だと思います。ちょっと無責任な寸評かもしれないが、それだけ吉岡委員を信頼しているわけです。図書館でこの本を手にしたが・・・ゲッ 完璧な論文スタイルで、注釈のページが3分の1ほど占めています。このような人文系の論文を手にしたのは、もしかして初めてかな♪ナショナリズムで沸き立つ日中両国であるが・・・この際、冷静に歴史を検証してみたいのです。<図書館予約:(7/05予約、9/19受取)>rakuten対華二十一カ条要求とは何だったのかこの本で、情報戦、プロパガンダのあたりを見てみましょう。p200~203<外交交渉の開始> 二十一ヶ条要求をめぐる外交交渉の特徴は、それが「外交戦」であったと同時に「情報戦」でもあった点にある。1905年の北京条約めぐる外交交渉の際、清国全権は日本側からの要請を守り、交渉内容を外部に漏洩することはなかった。1913年の南京事件をめぐる外交交渉にあたっても、袁世凱政権は、中華民国の承認問題を間近に控えていたこともあって、情報を列強や中国国内に漏らすことなく、短期間で交渉を終わらせた。 しかし、第一次世界大戦勃発以降、中国のメディアは、日本が大戦を利用して権益を拡張することを警戒し、その動向に神経を尖らせていた。特に、青島が陥落した後は、山東問題の行方を注視しており、二十一ヶ条要求が提出された頃には、中国の新聞各紙は日本軍の早期撤兵を求めて論陣を張っていた。こうした中で、日本政府は二十一ヶ条要求を提出した。 要求内容が南京事件の時とは比べ物にならないほど大きかったため、袁世凱政権は徹底抗戦を試みた。袁世凱は、外交での力不足を補うために、国内世論を積極的に動員すると共に、情報を巧みに操作・利用し、日本の行動の非を欧米に訴える作戦に出た。以下では、二十一ヶ条要求をめぐる外交交渉を、「外交戦」のみならず「情報戦」という側面にも着目し、列強とりわけイギリスが果たした役割に注意を払いながら、考察していきたい。 1915年1月18日、北京で日置益駐華公使は袁世凱に面会し、二十一ヶ条要求を提出した。これを受け取った袁世凱は、翌日に孫〇〇、曹汝霖、梁士〇らを召集した。曹汝霖の回顧によれば、袁世凱は、日本が「わが国を制圧しょうとしている」という見通しを示して、「第5条の如きは、わが国を朝鮮視せんとするもので、絶対に交渉すべきものではない」と明言し、数日後に袁世凱から曹汝霖に手渡された書類にも、第5号は「絶対に討議してはいけない。銘記せよ。銘記せよ」と記されていたという。 当時『東京朝日新聞』特派員として北京に駐在し、袁世凱政権の高官と頻繁に接触していた神田正雄記者は、「機略縦横なる」袁世凱はさっそく対抗策を練り、その胸中には既に「交渉に関する成算が歴々として立って居たものと思われる」と後に振り返っている。(中略)<二十一ヶ条要求報道の開始> 交渉開始に先立って、東京では加藤高明外相が主要新聞の主幹を招集していた。加藤は彼らに「極内密の含迄として」交渉事項の大要を伝えた上で、この外交交渉に関する記事や論評を掲げることをできるだけ見合わせるよう要請した。 彼らは加藤の要請を諒とし、二十一ヶ条要求の提出当初は、報道を自主規制した。特に政府の方針に忠実だったのは、与党同志会系の新聞であった。例えば、同志会の機関紙的存在だった『報知新聞』は、1月23日になるまで日中交渉の開始について報道せず、その後も24日の社説でこの外交交渉について論評を行ったものの、1月27日までは小さな外電記事を掲載するにとどめた。同じく同志会系の『名古屋新聞』は、1月22日に日置と袁世凱が会見したことを報じたが、会見の内容については一切触れず、日中両政府が外交交渉を開始したことを報じたのは実に2月4日になってからであった。この他、経済専門誌紙『中外商業新聞』も、2月5日まで日中交渉に関する報道は控え目にとどめていた。 もっとも、激しい部数争いを行っていた大手新聞の大半は、そうはいかなかった。例えば『東京朝日新聞』は、1月19日付朝刊で、早くも以下のように日中交渉開始に関する記事を初めて掲げた。この記事は、北京の神田特派員の取材に基づくものだと思われる。●日支密談▽日置公使総統訪問 18日北京特派員発日置公使は18日午後4時袁世凱総統を公式訪問し、両国間の重要問題に就き人を避け密談を凝せり。此会合の結果は一般に非常の注目を惹きつつあり。イラチの大使は、この後、終章に飛ぶのです。<日中対立の原点としての二十一ヶ条要求>p323~324 第一次世界大戦が勃発する前、日本を取り巻く外交環境は必ずしも悪いものではなかった。日露戦後に日本が大陸に進出するにつれ、日本と英米との関係はぎくしゃくし、緊張感をはらんで推移したものの、深刻な利害対立は存在しなかったし、ロシア、ドイツ、フランスとの関係は良好であった。1913年に南京事件が発生するなど、日中関係も悪化の兆候を見せていたものの、日中両政府が正面から衝突するような事態はまだ起きていなかった。 ところが、日本の大戦への参戦は、このような状況を一変させた。日本は、参戦以降積極的に権益拡張に突き進んだが、この過程で日本の外交環境はかつてないほど悪化した。二十一ヶ条要求の提出によって、中国では、日本が新国家建設を妨げる存在として急浮上した。日中関係は、日露戦後に多くの留学生が来日するなど、それなりに良好な面もあったが、これ以後反日ボイコットがしばしば発生するなど、対決色が強くなった。 1919年の5.4運動が、二十一ヶ条要求に起因する山東問題への中国国民の不満に端を発し、二十一ヶ条要求当時の外交担当者であった曹汝霖(外交部次長)、陸宗輿(駐日公使)が「売国奴」として糾弾されたのは、この要求が中国にいかに大きなインパクトを及ぼしたかを象徴している。二十一ヶ条要求は、日中関係の大きな転換点であり、その後の日中対立の原点になったと言っても決して過言ではない。 イギリスは、同盟国としての信義を裏切る形で権益を拡張し続ける日本に対して、警戒感を深めた。韓国併合や辛亥革命への対応をめぐって、イギリスの日本への信頼は相当揺らいでいたが、大戦勃発後の日本の行動は、イギルスの対日不信を一層強めた。1922年の日英同盟廃棄の原因は二十一ヶ条要求に端を発する大戦中の日本の勢力拡張政策に由来すると言ってよいだろう。 アメリカは、中国が日本の最後通牒を受諾した直後、1915年5月11日に、二十一ヶ条要求を否認する第二次ブライアン・ノートを発表した。アメリカは、この後も領土保全、門戸開放という原則を掲げて中国をしばしば支援し、日本を牽制した。 それはやがて、満州事変以降の「不承認政策」につながっていく。こうして見ると、二十一ヶ条要求は、対欧米外交という面でも、まさに日本の転機になったと言える。
2015.09.25
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図書館に予約していた『オートメーション・バカ』という本をゲットしたのです。 いかにも探検家の角幡唯介さんが選びそうな本である。 角幡唯介さんが次に目指すのは北極だそうだが、この探検にはGPS機能の機器を持参しないそうで(星座観測、六分儀を使用?)、オートメーションを拒否して動物的感覚を頼る計画だそうです・・・・すごい♪ また、アップルやグーグルが自動運転車の製造を目論んでいるようだが・・・・ 何と心ときめかない製品ではないか(笑)【オートメーション・バカ】ニコラス・G.カー著、青土社、2014年刊<「BOOK」データベース>より運転手がいなくても車が走り、パイロットが操縦しなくても飛行機が安全に飛び、さらには、自分の必要としているものも、道徳的な判断さえも、すべて機械が教えてくれる世界。それは一体どんな世界なのかー。ベストセラー『クラウド化する世界』『ネット・バカ』の著者が鮮やかに暴き出す、すべてが自動化する世界のおそるべき真実!【目次】第1章 乗客たち/第2章 門の脇のロボット/第3章 オートパイロットについて/第4章 脱生成効果/第5章 ホワイトカラー・コンピュータ/第6章 世界とスクリーン/第7章 人間のためのオートメーション/第8章 あなたの内なるドローン/第9章 湿地の草をなぎ倒す愛<読む前の大使寸評>いかにも探検家の角幡唯介さんが選びそうな本である。角幡唯介さんが次に目指すのは北極だそうだが、この探検にはGPS機能の機器を持参しないそうで(星座観測、六分儀を使用?)、オートメーションを拒否して動物的感覚を頼る計画だそうです・・・・すごい♪また、アップルやグーグルが自動運転車の製造を目論んでいるようだが・・・・何と心ときめかない製品ではないか(笑)<図書館予約:(5/15予約、9/19受取)>rakutenオートメーション・バカオートメーション・バカby角幡唯介グーグル社が開発中の自動運転車のあたりを見てみましょう。<第1章 乗客たち>p15~17 右手はドリンクホルダーになった。わたしは更新され、最新になったというだけでなく、解放された気分になっていた。 長続きはしなかった。やることが少なくなったという喜びは確かにあったが、薄れていったのだ。新たな感情が入りこんできた・・・「退屈」である。誰に対しても、自分に対してさえも認めたくはなかったけれど、シフトレバーとクラッチペダルが懐かしくなりはじめていた。それらが与えてくれた、コントロールと関与の感覚が恋しかった・・・できるだけ勢いよくエンジンをよみがえらせる能力、クラッチを離したりレバーをつかんだりする感触、低速ギアに切り替えるときのちょっとしたスリル。オートマ車はわたしを運転手ではなく、乗客の気分にさせた。腹が立ってきた。 そこから突っ走ること35年、2010年10月9日朝のこと。グーグル社社内開発者でドイツ生まれのロボット工学者、セバスチアン・スランは、驚くべき報告をブログにポストした。グーグル社が「自動運転する車」を開発したといいうのだ。グーグル本社の駐車場をとろとろ走る、不恰好なプロトタイプではない。 誓って道交法にかなった車(正確に言えばプリウス)であり、スランによれば、カリフォルニアとネヴァダの路上を、すでに10万マイル以上走行しているというのだ。すでにハリウッド・ブールヴァードもパシフィック・コースト・ハイウェイも走り、ゴールデンゲート・ブリッジを行き来し、タホー湖の周りもぐるっと回っていた。フリーウェイを走る車に交じり、交通量の多い交差点を渡り、ラッシュアワーの渋滞のなかをのろのろ前進していた。衝突を避けるため大きくハンドルを切ったこともあった。それらをみなこの車は、自分でやっていたのだ。人間の手助けなしに。おどけた謙虚さでスランは書く。「ロボット工学史上初めてではないかと思う」。 自動運転する車を作ったこと自体は大事件ではない。エンジニアもちょっとした技術職人も、少なくとも1980年代以来、ロボット自動車や遠隔操作自動車を作ってきた。だがそのほとんどは、垢抜けないおんぼろ品だった。その使用は閉鎖されたトラックでの試験走行や、歩行者も警察もいない、砂漠など人里離れた場所でのレースやラリーに限られていた。しかし、スランの報告が明らかにしたことに、グーグルカーは違っていた。 交通史とオートメーション史の両者においてこれが画期的だったのは、複雑に荒れ狂うカオスのような現実世界を進んでいくことができる点だった。レーザー距離測定機とレーダー・ソナー送信機、モーション・デテクター(動作検知器)、ビデオカメラ、GPS受信機を備えたこの車は、周囲の状況を精細に感知できる。向かっている先を見ることができる。 そして、流れこんでくる情報すべてをただちに(リアルタイムで)処理することで、搭載されたコンピュータはアクセルやハンドル、ブレーキを、実際の道路を運転するのに必用な速度と繊細さで動かすことができ、また、ドライバーが遭遇するあらゆる不測の事態にもスムーズに反応することができる。 グーグル社の抱える自動運転車の一団は、いまや100万マイル近くの走行を成し遂げており、大きな事故は一度だけである。2011年、シリコンヴァレー本社近くで5台の玉突き事故を起こしたのだが、さほど重要なことではない。ただちにグーグル社が出した声明によれば、それは「人間がマニュアル運転していたときに」起こったのだから。 自動運転車がわれわれを仕事場へ送迎してくれたり、子どもたちをサッカーの試合へ運んでくれたりするまでには、まだ行かねばならない道のりがある。グーグル社は、2010年代の終わりまでには商品として発売したいと述べているが、それはおそらく希望的観測だろう。この車が装備するセンサー・システムはいまなおとんでもなく高価であり、屋根の上に搭載されたレーザー装置だけでも8万ドルはする。雪や枯葉に覆われた道を進んだり、予想外の迂回指示に対処したり、工事現場の交通整理員や警察による手信号を解読したりなど、技術的に克服せねばならないことも多く残っている。グーグルカーべったりでないのは、分かるのだが・・・結論を先送りにしたまま、この調子でえんえんと綴る著者の文体は、疲れるわけです(笑)。お次はウェアラブル・コンピュータです。大使の鬼門とも言えるアップルも一部を商品化しているが、大使は意地でもアップル製品を買わないのだ!<あなたの内なるドローン>p257~259 グーグルグラスのディスプレイはまた、デザイン上、逃れることが難しいものである。目の前に浮かび、いつでもちらっと見さえすれば使える状態だ。少なくともスマートフォンはポケットやハンドバックに入れたり、車のカップホルダーに突っ込んだりできる。グーグルグラスとインタラクトする際、言葉を口にしたり、頭を動かしたり、手ぶりをしたり、指でタップしたりすることも、精神や感覚への要求を増やしている。 アラートやメッセージを伝える聴覚信号(ブリンがTEDの講演で得意気に語ったことによれば、『まさに頭蓋骨をとおして』送られてくるもの)に至っては、スマートフォンの着信音やバイブに劣らずうっとうしいものに思える。隠喩的に言って、いかにスマートフォンが去勢的であろうとも、ひたいに取り付けられたコンピュータは、もっと悪いことになりそうだ。 グーグルグラスやオキュラスリフト(Oculus Rift)のように誇らしげに頭に着けるものであれ、スマートウォッチのペブル(Pebble)のように手首に着けるものであれ、ウェアラブル・コンピュータは新しいものであり、どれだけ人を惹きつけるかはまだわからない。広く人気を得るには、大きな障害をいくつか乗り越えなければならないだろう。現時点では、ユーザーを惹きつける特性はまだ乏しく、見かけが間抜け(ロンドンの『ガーディアン』紙は「あのひどいスペック」と言った)であるうえ、小さな内臓カメラが多くの人に不安に与えている。 だが、これまでのパーソナルコンピュータ同様、これもすぐに改良され、うっとうしさの少ない、もっと実用的なものに変わっていくことはほぼ間違いないだろう。コンピュータを着用するという発想は、いまは奇妙に思えるかもしれないが、10年後には当たり前になっているかもしれない。錠剤ほどの大きさのナノコンピュータを飲みこんで、自分の生化学や臓器機能をモニタリングすることすらあるかもしれない。 とはいえ、グーグルグラスなどのデバイスが、過去のコンピュータからの断絶だとするブリンの示唆は間違っている。これらは、既存のテクノロジーのモメンタムをいっそう強めているのだ。スマートフォンによって、それからタブレットによって、ネットワーク接続された汎用型コンピュータはポータブルで親しみやすいものになったが、同時に、ソフトウェア企業がわれわての生活の、より多くの面をプログラムできるようにもなった。 これは安価で身近なアプリとともにクラウドコンピューティングのインフラを使って、日常の最も平凡な雑事までオートメーション化できるようにしたのである。 コンピュータ化された眼鏡や腕時計は、オートメーションの範囲をさらに拡張する。たとえば歩行中や自動車の運転中にターンバイターン方式の指示を受けること、あるいは、どこで次の食事をするか、夜出かけるとき何を着ていくかについて、アルゴリズムが生成するアドバイスを得ることが容易になる。身体のセンサーとしても機能し、あなたの現在地、考えていること、健康状態などに関する情報をクラウドに送り返す。これによってソフトウェアのプログラマーや企業家は、日常をオートメーション化する機会がまたいっそう与えられる。 視点次第で善にも悪にも見えるサイクルを、われわれは起動させた。アプリケーションやアルゴリズムへの依存を強めるにつれ、それらの補助なしに行動することはますますできなくなっている・・・われわれはスキルの抜け落ちだけでなく、注意力の抜け落ちも経験しつつある。それでさらにソフトウェアは必要不可欠なものになる。オートメーションがオートメーションを生むのだ。 誰もがスクリーンを通じて生活していこうとするのだから、当然社会はみずからのルーティンやプロシージャに適合させていく。ソフトウェアが達成できないこと(計算で処理できず、したがってオートメーションに抵抗するもの)は、不必要なものに見えはじめる。グーグルグラスはスマホより悪質な器具のようですね・・・・大使は買おうとは思わないのだ!
2015.09.24
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INAX BOOKLETシリーズのもう一冊としてこの本を選んだが、出版企画がよく練られていることが分かります。INAX出版は製造業企業の余技というよりは、立派な出版社だったんですね♪この本には、漆芸家、各方面のデザイナー、工業試験場研究員、塗師、乾漆師、芸工大教授など多彩なメンバーを集めた企画力が見えるのです。【漆―進化する樹液】大西長利、他著、INAX出版、1995年刊「MARC」データベースより高価な工芸品というイメージのある漆。しかし、日常生活の場に引き戻し、現代のライフスタイルに合わせた製品を登場させるなどの試みもなされている。変貌を遂げようとしている漆の「現在」を紹介する。<読む前の大使寸評>INAX BOOKLETシリーズのもう一冊としてこの本を選んだが、出版企画がよく練られていることが分かります。INAX出版は製造業企業の余技というよりは、立派な出版社だったんですね♪この本には、漆芸家、各方面のデザイナー、工業試験場研究員、塗師、乾漆師、芸工大教授など多彩なメンバーを集めた企画力が見えるのです。Amazon漆―進化する樹液NHKの朝ドラ『まれ』にも輪島塗が出てくるように・・・皆さん漆器には関心があるようですね。この本で、漆器のプロたちのご意見を見てみましょう。・大西長利:漆芸家・三原昌平:インダストリアルデザイナー・大藪泰:工業試験場主席研究員<座談会:変容する漆>p6~7大藪:僕は工業試験場にいるので産業側に近い立場でして、漆を精製している漆屋さんとの付き合いが多いんです。漆に関連する業界には閉鎖的な側面は確かにあると思います。 たとえば良い材料が出てきて、それによって工程を少し変えるだけで良いものができるのに、今までのやり方に固執するところがあります。そういう業界ですから、僕はデザインに関しては素人ですが、漆を扱ったことのないデザイナーが漆に取り組んだほうが、今までにない面白いものができるだろうという期待はあったんです。ところが残念ながら、消費者の一人としてデパートの売り場などを見ても、欲しいと思うようなものがないんですね。用途が広くて、値段も手頃で、デザインも良いというものにはなかなか出くわせない。 僕は売れる漆器というのは、極論すれば塗りだけのシンプルなものではないかと思っているんですが、加飾を施されたものが多すぎると思います。これはひとつには、漆が工芸品になってしまうと困るんです。だから外部のデザイナーが、シンプルでインパクトのあるものをつくってくれると大変ありがたいんですけどね。大西:私もデザイナーに漆に取り組んでもらって、市場を通して、大衆の生活の中に漆との接点が広がることを望んでいます。漆は本来デザインのしにくいもので、デザインのもつ市場性と、漆のもつ作業性、素材性とがうまく噛み合わない。簡単にいえば、漆は手間がかかりすぎるわけです。初めから近代産業のシステムと折り合わないという大きな問題を孕んでいるなかで、三原さんはいろいろな角度から新しい試みをなさってきたわけで、それは歓迎すべきことだと思います。 ただ私は漆芸家なので、漆そのものの価値と産業として成り立つかどうかは、別の問題として考えたいという立場なんです。漆はかけがえのない、世界に誇るべき素材であって、産業化されなくても恥ずべきことではないと思っています。 それと三原さんがおっしゃった漆ブームについてですが、最近になってようやく、テレビや本を通じて漆の文化性の背景を探ろうという動きが見えてきたように思います。やっとそこまできたかと、嬉しく思えるんですが、それでもまだ神秘のベールに包まれた特別なもの、異質なものへの興味という域を出ていません。大藪:いま、漆液の輸入量はここ数年間で300tから200tまで減っています。国内生産量は4tを切ってしまった。漆について語られる本やビデオは増えているのに、物は出回っていないという現状は、どう考えればいいんでしょうね。三原:それは人手の問題でしょう。大藪:いや、それ以上に漆器が売れてないからですよ。売れていないから人出が必要ないんです。漆を掻く人は不足してますけど。三原:いまの日本を覆っている経済性、採算主義から考えると、漆は効率が悪いし合理化しにくい。つまり産業としての発展性が極端に低いんです。私は漆が高価な工芸品になってしまうのは、自然の帰結だと思います。産地の人だって普通の生活があるわけですから。そこを踏まえたうえで、漆にどんな発展が可能なのか、ということです。漆の塗面の「しっとり感」が科学的に説明されています♪<漆を科学する:永瀬喜助>p24■漆の美しさは「ふっくら感」「しっとり感」「深み感」・私は漆の美しさとは「ふっくら感」「しっとり感」「深み感」という三つの感性にあると思っています。ふっくら感とは、漆の表面張力の大きさと凝集力によるもので、凸面になっていれば光線の接触角が大きくなり、漆塗膜は丸くふっくらとして人の目に映るわけです。・しっとり感は、水分の有無に関わってきます。漆の木から採取した漆液には30%の水分が含まれており、これを漆の精製器で混練し加熱しながら攪拌して、水分が3%くらいになるまで脱水したあと濾過します。これを上塗りなどに使うわけですが、この乾燥塗膜を常温で3年間保存して水分を測定したところ、2.4%が残っていました。つまり漆の塗膜には保湿性があり、この保湿力が漆をいつまでもみずみずしくしっとりとさせているのです。・深み感についてはどうか。これも漆の表面張力の大きさと関係があります。凸面になっていれば光が入って戻ってくる屈折率が大きくなるわけですね。この屈折率の大きさが見る人に深み感を与える所以です。■酵素で固まる漆は、元祖バイオテクノロジー・漆液の成分中60~65%は、ウルシオールという炭素と水素と酸素の化合物で、水に溶けない油のようなものと理解していただければよいでしょう。これが塗膜をつくるときの主たる構成要素になります。このウルシオールの中に、ラッカーゼという酵素が親水性コロイドの多糖成分であるゴム質と一緒に水に溶け、水球となって分散しています。すなわち漆液は油の中に水が混入し乳化している状態、つまり油中水球型のエマルジョンであると考えてください。・このような漆液に適度な温度と湿度を与えますと、酵素が活発に働きはじめ、空気中の水分から酸素を取り出してはウルシオールに与えるという酸化重合反応を起こさせます。この反応によってウルシオールは次第に高分子化し、複雑な化合物となって丈夫な塗膜になるわけです。・合成樹脂などの塗料は乾燥させるために熱や圧力といったエネルギーを必用とします。また石油・化学製品である溶剤を使うために地球環境を汚染します。しかし漆は酵素の働きで固まる生体反応ですから、地球環境に負荷をかけることはありません。漆はまさに古来から人間が活用してきたバイオテクノロジーなのです。ウィキペディアで「漆器」を見てみましょう。wikipedia漆器より<概要> 漆はウルシノキ等から採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。ウルシノキから樹液をとることを「漆掻き」「漆を掻く」という。現在では、国産の漆の生産量はごく僅かで、大半を中国から輸入している。 製造工程は漆の精製から素地の加工、下地工程、塗り工程などに大きく分けられるが、細かな工程を挙げると30から40もあり複雑である。工程の違いにより、漆塗にもさまざまな種類がある。漆の工芸品は中国、インドシナなど東アジアで広く見られる。 英語で、磁器をchinaと呼ぶのに対して漆器をjapanと呼ぶことからも判るように、欧米では日本の特産品と考えられている。 漆器という区分より漆塗の範疇として中国や欧米では捉えられている。 漆を塗る下地は木(木地)に加えて、合成樹脂や木の粉を樹脂で固めたものもある。<産地による分類>・青森県:津軽漆器・秋田県:能代春慶、川連漆器・岩手県:秀衡塗、浄法寺塗、正法寺塗・宮城県:鳴子漆器・新潟県:村上木彫堆朱、新潟漆器・福島県:喜多方漆器(北方地方)、会津漆器・茨城県:粟野春慶・栃木県:日光彫・東京都:江戸漆器・神奈川県:芝山漆器、鎌倉彫、小田原漆器・静岡県:静岡漆器・長野県:木曽漆器・岐阜県:飛騨春慶・石川県:輪島塗、金沢漆器、山中漆器・富山県:高岡漆器・福井県:越前漆器、若狭塗・滋賀県:日野椀・京都府:京漆器・奈良県:奈良漆器・和歌山県:紀州漆器(根来塗、黒江漆器)・岡山県:郷原漆器・島根県:八雲塗、出雲漆器・山口県:大内塗・香川県:香川漆器・愛媛県:桜井漆器 (今治市)・福岡県:久留米籃胎漆器・宮崎県:宮崎漆器・沖縄県:琉球漆器
2015.09.23
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今回借りた7冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「予約本」でしょうか♪<大学図書館>・土泥礼讃・漆―進化する樹液<市立図書館>・貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告・台湾の歓び・オートメーション・バカ・対華二十一カ条要求とは何だったのか・時空の歩き方図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【土泥礼讃】井波律子、他著、INAX出版、2002年刊【目次】(「BOOK」データベースより)土・泥の意味は?/世界の土・泥の言葉/土と泥・中国の神話・文学を繙く/写真構成1 土泥の貌/座談会 土泥の想像力・地球からみた土、人間からみた土/写真構成2 土泥のちから/土泥年表/土泥の利用<読む前の大使寸評>ほぼ正方形の装丁と掲載した写真が・・・わりと哲学的テイストで、ええでぇ♪この本はINAX BOOKLETシリーズの一冊であるが、製造業企業の余技にしてはよくできていると感心するわけです。rakuten土泥礼讃土泥礼讃byドングリ【漆―進化する樹液】大西長利、他著、INAX出版、1995年刊「MARC」データベースより高価な工芸品というイメージのある漆。しかし、日常生活の場に引き戻し、現代のライフスタイルに合わせた製品を登場させるなどの試みもなされている。変貌を遂げようとしている漆の「現在」を紹介する。<読む前の大使寸評>INAX BOOKLETシリーズのもう一冊としてこの本を選んだが、出版企画がよく練られていることが分かります。INAX出版は製造業企業の余技というよりは、立派な出版社だったんですね♪rakuten漆―進化する樹液【貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告】阿古智子著、新潮社、2014年刊<「BOOK」データベース>より焦燥、怨嗟、慟哭、絶望…「格差」が人間を破壊する!中国建国65周年、共産主義の理想は、なぜ歪んだ弱肉強食の社会を生み出したのか。エイズ村、農民工、学歴競争、役人汚職、ネット世論、反日デモ…中国社会の暗部に深く踏み込んだ研究者による衝撃レポート。格差社会の臨界点へと突き進む隣国を、ソフトランディングに導くことは可能なのか。日本人必読の書。【目次】第1章 エイズ村の慟哭/第2章 荒廃する農村/第3章 漂泊する農民工/第4章 社会主義市場経済の罠/第5章 歪んだ学歴競争/第6章 ネット民主主義の行方/第7章 公共圏は作れるのか<読む前の大使寸評>朝日新聞の記事「書棚から見える中国 書店「万聖書園」」で、この本の存在を知り図書館に予約を入れたら、二日後にゲットできたのである。ラッキー♪この本は、なかなか根性の入ったフィールドワークとなっているようです。(予約して借りたのは、2009年刊のハードカバーです)<図書館予約:(9/15予約、9/17受取)>rakuten貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告(その3)byドングリ【台湾の歓び】四方田犬彦著、岩波書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より数多くの民族と言語を抱えながら、きわめて実験的な文学や、洗練された映画を産み出してやまない台湾。その文化・社会とはどのようなものか。台北、台南を拠点に街を歩き、詩人、映画人らと対話を重ね、夜を徹した媽祖巡礼へ参加し、その尽きせぬ魅力について縦横に語る。長期滞在を機に書き下ろす、初の台湾紀行。<読む前の大使寸評>還暦を過ぎた四方田犬彦は、台湾という土地で、どのようなフィールドワークを見せてくれるのだろうか♪?・・・興味深いのです。<図書館予約順位:1(3/15予約、9/19受取)>rakuten台湾の歓び【オートメーション・バカ】ニコラス・G.カー著、青土社、2014年刊<「BOOK」データベース>より運転手がいなくても車が走り、パイロットが操縦しなくても飛行機が安全に飛び、さらには、自分の必要としているものも、道徳的な判断さえも、すべて機械が教えてくれる世界。それは一体どんな世界なのかー。ベストセラー『クラウド化する世界』『ネット・バカ』の著者が鮮やかに暴き出す、すべてが自動化する世界のおそるべき真実!【目次】第1章 乗客たち/第2章 門の脇のロボット/第3章 オートパイロットについて/第4章 脱生成効果/第5章 ホワイトカラー・コンピュータ/第6章 世界とスクリーン/第7章 人間のためのオートメーション/第8章 あなたの内なるドローン/第9章 湿地の草をなぎ倒す愛<読む前の大使寸評>いかにも探検家の角幡唯介さんが選びそうな本である。角幡唯介さんが次に目指すのは北極だそうだが、この探検にはGPS機能の機器を持参しないそうで(星座観測、六分儀を使用?)、オートメーションを拒否して動物的感覚を頼る計画だそうです・・・・すごい♪また、アップルやグーグルが自動運転車の製造を目論んでいるようだが・・・・何と心ときめかない製品ではないか(笑)<図書館予約:(5/15予約、9/19受取)>rakutenオートメーション・バカ【対華二十一カ条要求とは何だったのか】奈良岡聰智著、名古屋大学出版会 、2015年刊<「BOOK」データベース>より沸騰する世論、先鋭化する日中。反日への決定的転換をもたらした世紀の失政の原因を詳細な実証により解明、100年を経てなお影を落とす外交交渉の全貌を捉えた渾身の成果。【目次】満州問題ー21ヶ条要求の起源/第1部 21ヶ条要求はなぜ提出されたのか(21ヶ条要求提出の背景/参戦外交再考/参戦をめぐる世論と国内政治/21ヶ条要求の策定過程)/第2部 21ヶ条要求の提出とその波紋(21ヶ条要求をめぐる外交交渉/21ヶ条要求と国内政治/21ヶ条要求と世論)/21ヶ条要求とは何だったのか<読む前の大使寸評>中国の凄まじい軍拡に対峙して、「日中対立の原点」をたどる意義は深いのでしょう。吉岡桂子委員の推す歴史書とあれば、いい本だと思います。ちょっと無責任な寸評かもしれないが、それだけ吉岡委員を信頼しているわけです。<図書館予約:(7/05予約、9/19受取)>rakuten対華二十一カ条要求とは何だったのか【時空の歩き方】スティ-ヴン・ウィリアム・ホ-キング, 林一著、早川書房、2004年刊<「BOOK」データベース>よりアインシュタインの相対論は、広大な世界についての私たちの見方をぐっと面白いものにした。時間と空間、というように2つばらばらに考えるのでなく、時空というまとまりでとらえるのだ。しかしその面白さは、常識的な考え方を脱した、「時空の歩き方」を身につけていたほうがより愉しめる。ホーキングを初めとする理論物理学者たちが追う、ブラックホールや重力波、タイムトラベルといった、宇宙論の聖杯ともいうべきテーマは、今どうなっているのか?これまでの成果と今後の展望を、先端宇宙論の「基本」を案内する1篇のエッセイを出発点に、遊び心たっぷりのイラストを交えた6篇を読み進みながら味わうポピュラーサイエンス。<大使寸評>先端宇宙論の「基本」を、遊び心たっぷりのイラストを交えて説くのはいいのだが・・・・如何せん、その「基本」が真に理解できないので・・・パラパラとめくった後、読破する気が萎えたのです。rakuten時空の歩き方*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き114
2015.09.22
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朝日新聞の記事「書棚から見える中国 書店「万聖書園」」で、この本の存在を知り図書館に予約を入れたら、二日後にゲットできたのである。ラッキー♪この本は、なかなか根性の入ったフィールドワークとなっているようです。読みどころが多いので(その3)として読み進めたのです。【貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告】阿古智子著、新潮社、2014年刊<「BOOK」データベース>より焦燥、怨嗟、慟哭、絶望…「格差」が人間を破壊する!中国建国65周年、共産主義の理想は、なぜ歪んだ弱肉強食の社会を生み出したのか。エイズ村、農民工、学歴競争、役人汚職、ネット世論、反日デモ…中国社会の暗部に深く踏み込んだ研究者による衝撃レポート。格差社会の臨界点へと突き進む隣国を、ソフトランディングに導くことは可能なのか。日本人必読の書。【目次】第1章 エイズ村の慟哭/第2章 荒廃する農村/第3章 漂泊する農民工/第4章 社会主義市場経済の罠/第5章 歪んだ学歴競争/第6章 ネット民主主義の行方/第7章 公共圏は作れるのか<読む前の大使寸評>朝日新聞の記事「書棚から見える中国 書店「万聖書園」」で、この本の存在を知り図書館に予約を入れたら、二日後にゲットできたのである。ラッキー♪この本は、なかなか根性の入ったフィールドワークとなっているようです。(予約して借りたのは、2009年刊のハードカバーです)<図書館予約:(9/15予約、9/17受取)>rakuten貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告戸籍制度の「差別的」な側面がレポートされています。<「勝ち組」が支配する社会の現実>p112~114 先に述べたとおり、農村と都市を区分する戸籍制度は毛沢東時代に始まったが、当時は農村の人々からも、さほど「差別的な制度」とは捉えられていなかった。農村でも手厚い社会福祉が行われ、教育や医療はほとんど無料であった。人民公社の食堂で、ご飯を食べたいだけ食べられる時期もあった。それは「格差を生じさせない」という共産主義の理想を追求しようとしていたからである。 しかし、改革開放期に入ると、この戸籍制度の「差別的」な側面が、徐々に明らかになっていった。過酷な市場競争と都市偏重の開発が進む中、「持つ者」と「持たざる者」の格差が、想像を絶するほど大きく広がってしまったのである。農民工の中には、長年に渡って経験を蓄積し、高度な技術を持っている者も少なくないが、彼らのほとんどが居住する都市に戸籍を転入することができず、怨嗟の声を上げている。 では、一方の都市市民(都市戸籍を持つ市民)は不平等な戸籍制度をどのように見ているのだろうか。中国社会科学院が2002年11-12月、全国31都市で18-69歳の1万5000人に対して実施した「中国都市市民社会観念調査」によると、貧者と富者、幹部と一般民衆、企業の労使間においては「利害衝突が非常に多い」「深刻である」との回答が約3割を、「少しある」を入れると過半数を占めた。 つまり、都市市民の間では階層間の利害衝突を危惧する声が多かったのである。しかし、一方で、農民と市民の間の利害衝突については、「ない」「非常に少ない」の回答が圧倒的に多かった。これは、都市市民が戸籍制度の差別的な側面にあまり注意を払っておらず、農民を「利害が衝突する対象」とすら見做していないことの証左であり、彼我の格差の大きさを表している。 都市の人々は、レストランや市場で働く農民工に日常接しているはずであるが、直接的に自らの利益や権利が侵されることがなければ、利害関係を考える必要はないのだろう。逆に、平安な日常生活が乱されるようなことがあれば、強く抵抗する者が出てくるはずである。 たとえば、上海の友人は最近、新築のマンションを購入したが、「群租」(集団賃貸)の問題が大変だと話していた。投機目的に不動産を買いあさっている温州出身の人たちが、3LDKのマンションをたこ部屋のように細かく分割し、農民工に貸し出したため、環境や治安が悪化していると住民たちが異議を申し立てているのだ。良識ある普通のサラリーマンである我が友人も、「群租」対策として、開放的で風通しのよかったベランダを全面ガラスで囲い、隣家との堺に槍のように先がするどく突き出た金属の棒を設置していた。 これが今の中国の現実である。都市の中産階級と農民工の生活環境はあまりにもかけ離れている。(中略) 社会階層によって異なる利害関係ができており、一方を調整すれば他方にねじれが生じ、衝突が起こる。あまりに格差が大きくなりすぎて、もはや調整不能になっている。「勝ち組」の地域や人々は、経済成長を犠牲にし、現在の有利な立場を崩してまで、変革を起こそうとしない。それどころか、「負け組」に転落することに怯え、既得権益を奪われないよう、自己防衛したり、弱者を排斥したりせざるを得ないのである。中国の明日を担う子どもたちは、どういう教育を受けているのか?この本の最後にレポートされています。<「自分」を表現したい>p179~181 中国の子どもたちがこれほどまで追い詰められる根本的な原因は、一体何なのか。学歴競争が激しいのは日本やアメリカでも同じであるが、中国の状況がより過酷であるのは、戸籍所在地や親の政治・経済力によって、子どもに与えられる機会が大幅に変わるという不公平なシステムが設けられているからである。 政治・経済が大きく揺れ動く中で、自らの地位の浮き沈みを身をもって経験してきた親たちは、過剰なまでに「リスク管理」を心がけ、「将来への投資」を増大させようとする。既得権益層の親たちはその有利な地位を手放さず、さらに上を目指すために、弱者層の親たちはなんとか上にのし上がるために、子どもの教育に尋常ならざる力を入れる。そして、これだけ時間も金も費やしたのだから、成果が上がるはずだと親たちは信じる。だが、人間はロボットではない。準備された材料をインプットすれば、計算どおりに製品が出来あがるわけではない。子どもには子どもの選択があり、人生がある。 筆者が1998-1999年に上海市で調査した3校のうち、1校は民ベン校だった。自動車教習所の敷地内に民間企業が設立した高校で、周りは畑に囲まれ、交通の便の悪い、浦東新区郊外の辺鄙な場所にあった。教師は市中心部から毎日送迎バスで通勤する。生徒たちは寮に住んでいたが、入口に大きな鍵をかけられており、「まるで監獄のよう」と話す者もいた。 とにかく大学に合格させることが、この学校の使命であり、建平高校が行っていたような課外活動はほとんど実施されていなかった。教師は公立校を退職した年配者が大半で、少数の若手教師はほとんどが農村出身者だった。若い世代の都会っ子の心理を理解できないままに知識を詰め込もうとする教師らに、生徒たちは辟易していた。(中略) 受験対策の知識ばかりを詰め込み、自由に思考することさえ許されないような環境で、創造性豊かな人間が育つわけがない。心も体もぼろぼろになった子どもたちは、自分がいったい何を求めているのか、何を感じ、考えているのかさえ、分からなくなってしまう。競争に勝ち残ったエリートたちも、自らの権益を守るのに必死になり、狭い視野でしか物を見ようとしないならば、将来、弱者を支えるための制度など作ろうとはしないだろう。しかし、公平な競争が保障され、多様な価値観をもつ人間がかかわり合うことなくしては、社会の革新は実現しない。過酷な一国ニ制度が見られますね。大使思うに・・・現在の中華システムのもとで、土地の国有と農業戸籍が存続するかぎりは、如何なる改革も成就できないと思うわけです。西欧的な連邦制が望ましいのだが・・・かの地では、ちゃぶ台返しのように革命が起こり、非民主的な別の統治システムへ変わるだけではないのか?貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告(その1)貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告(その2)
2015.09.21
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昨日(19日)からシルバーウィークと称して5連休に突入したが・・・毎日が日曜みたいな大使にとって連休は意味をなさないのだ(笑)。・・・でもメディアがはやし立てるので、多少は心騒ぐものがある。おっとり刀でお出かけ案を以下のとおり数案見繕ってみました。・ドングリ国内で集中トレーニング・神戸ビエンナーレ2015(9/19~11/23)・京都府立植物園のフローラ像(~10/25)・龍谷大学ミュージアムの玄奘展(8/11~9/27)・国立民族博物館の韓日食博(8/27~11/10)・天神橋筋の古書店巡り・・・やはり安近短になりますね。*****************************************************************************神戸ビエンナーレ2015よりメリケンパーク/ハーバーランド/元町高架下エリアみなとまち神戸を象徴するウォーターフロントを代表するロケーションや高架下のレトロな雰囲気を活かした展示のほか、多種多様な芸術文化を紹介する展示を行います。<大使の見所>・アートインコンテナ国際展・創作玩具国際展・コミックイラスト国際展*****************************************************************************京都府立植物園のフローラ像より女神像「フローラ」*****************************************************************************龍谷大学ミュージアムの玄奘展より玄奘を重要な祖師として篤く崇敬してきた法相宗大本山薬師寺に伝わる宝物を中心に、玄奘に関わる貴重な文化財の数々から、玄奘の人生をたどる。超人的な「玄奘三蔵」と人間「玄奘さん」のイメージの交錯を楽しんでみては。●交通:地下鉄烏丸線「五条駅」から徒歩約10分 ●料金:一般900円*****************************************************************************韓日食博より日韓国交正常化50周年を記念して、「韓国と日本の食文化と博物館」について韓国国立民俗博物館と共同で開催する展示です。1階では、韓国における「食の50年の歩み」、「キムチの世界」、「台所の世界」、「食の道具」、「食の思想」、「食の教育・情報」、「食と人生儀礼・歳時風俗」などを、日本との比較によって見ていただきます。地下には、韓国と日本のお菓子やお茶などをおき、ワークショップやレストランでも味の体験をしていただけます。●会場国立民族学博物館 特別展示館●開館時間10:00~17:00(入館は16:30まで)●休館日毎週水曜日(期間中9月23日(水・祝)は開館、翌24日(木)は休館)●無料観覧日9月12日(土)、9月21日(月・祝)、11月3日(火・祝)●観覧料一般830円●満65歳以上は割引(要証明書)*****************************************************************************<天神橋筋商店街で>よりこの商店街は、食べ物が安いし、古書店も多いし、上方落語が好きな人には、天満天神繁昌亭も有るし、暇人がぶらぶらと歩くには絶好の商店街といえるでしょうね♪ちなみに、天満天神繁昌亭の昼間の部のシルバー料金は2000円でした。天満天神繁昌亭
2015.09.20
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半藤一利さんがインタビューで「戦争体験者減り、“軍隊からの安全”を意識しない国に」と説いているので、紹介します。“軍隊からの安全”という意識か・・・まさに戦争体験者の発想ではないか。(半藤一利さんへのインタビューを9/19デジタル朝日から転記しました) 公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、第2次世界大戦の最終盤に日本の中枢部で繰り広げられた“運命の24時間”を描く作品だ。原作者は作家の半藤一利さん(85)。敗戦間近の東京大空襲では自らも命を失いかけ、戦後に日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、半藤さんの目に“この国のかたち”はどう映るのか。Q:半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ軍人の存在です。一時は武力で皇居(宮城)を封鎖していたのですね。A:ええ、一種のクーデターでした。『ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるという今の政府の決断は間違っている。だから、自分たちの思うような政府に変えて政策をひっくり返さないといけない』。そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたのです。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは軍人ですよね。 いま安全保障を考えるとき、『軍隊による安全』という視点ばかりが正面に出てきます。軍の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも本来は『軍隊からの安全』という視点も必要なはずです。日本人が憲法9条を受け入れてきた背景には、もう殺し合いをしたくないという思いだけではなく、軍隊からの安全を求める思いもあったのだと思います。Q:3年前にインタビューさせていただいたときには、ご自身が1945年3月に体験した東京大空襲のお話が印象的でした。A:15歳のとき、米軍機による焼夷弾攻撃に遭いました。自宅や近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました。Q:しかし半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも聞きます。A:ええ。私が死にそうだったという話をすれば『悲惨だったんだな』と思ってくれる人々がいました。でも最近、勇気ある少年の『物語』として受け止められて、かえって危険を招くんじゃないかという気もしてきました。 特攻隊の歴史を題材にした『永遠の0』がヒットしましたね。特攻を作戦化し命じた立場にありながら戦後ものうのうと生きのびた指揮官たちを私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、若い隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。歴史が物語になっていると感じました。Q:そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう。A:時間がたち、社会の中で体験者が減ったことがあるでしょう。50年を超えてしまうと戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての誇りが表れてきた影響もあると思います。Q:物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか。A:当時の日本政府が国民に『焼夷弾はそれほど恐れるものではない』というメッセージを出していたのはなぜか。米国はなぜ、非人道的な無差別空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮したカーチス・ルメイ氏に日本政府は戦後、なぜ叙勲したのか。事件や関係した人々について多角的・総合的に考えることで、学習していくことはできると思っています。 ■ ■Q:戦後70年の今年、安倍政権は新しい安保法制の整備に踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにし、武力行使の制約が変わります。A:日本を危険な国に作り替えるものだと思います。ただ正直に言うと、国民が法案に相当に反対をしても安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、とも予測していました。今年4月、政権が米国政府との間で約束を交わしてしまったときからです。Q:安倍首相が米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を改定したりしたときですね。A:自衛隊は今後は集団的自衛権も行使しながら極東以外の地域でも米軍に協力します――そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。米国から協力を求められたときに断れる主体性があるとも思えません。 日本が米国の戦争責任にどう向き合ってきたかという歴史の問題と、いま安倍首相が見せている米国追従の姿勢の間には、つながりがあると思っています。Q:先ほどの「軍隊からの安全」という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょう。A:懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。制服組トップの統合幕僚長が米軍幹部との間で今後の日米両軍の共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が法案成立後の自衛隊の運用のあり方を決めたりしていた。文官ではなく武官の側が前面に出てきている傾向が見えます。 しかも国民が知らされないところで。外交防衛政策を軍によって規定される――それがいかに国を危うくするかは戦争の昭和史が教えるところです。Q:今の日本は「軍隊からの安全」に関する意識が薄いと?A:薄いのではなく、無いのだと思います。70年もたっているから仕方ない面もありますが。 ■ ■Q:半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、9条については護憲の立場であり脱原発に賛同してもいます。ご自身を保守派とお考えですか。A:いえ。現実主義者でしょうね。保守派の中でも国家主義的な人とか、革新派の中の党派的な人には、違和感がありました。Q:安保法制への批判も、イデオロギーからではなく現実主義の視点からしていると?A:中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら日本列島の守りは薄くなります。それをカバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして可能なのか。そういう議論をすべきだと思います。Q:2011年に起きた「3・11」のあと、原発に批判的な発言をしています。いつから原発に対して懐疑的になったのですか。A:初めからですね。1950年代に核の『平和利用』が言われ始めた時期から、原子力という技術は人間の理性で制御できるものではない、と思っていました。 地政学的に海岸線が長い日本には、もともと敵からの攻撃を防ぎにくい弱みがあります。だから近代に入って日本は国土の『外』で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に軍を送ったけれど、結果は悲惨な敗戦でした。今はもっと守りにくい状況です。海岸線に40基以上も原発がある。それを攻められたらお手上げです。 武力だけで守ろうとしても守れない、貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと批判されますが、それが現実だし、本気で検討すべきだと思います。Q:中国が台頭してきたことで「アジアで一番の国」という近代日本の自己イメージは揺らいでいるように見えます。戦時中の半藤さんにも「アジアで一番の国」というイメージがあったのですか。A:ありましたね。近所には台湾や朝鮮半島出身の子供もいましたが、『大和民族の方が上だ』と上から見ていました。戦争自体も『アジアのための戦争だ』と。Q:この先、日本は「一番」を目指すべきでしょうか。A:目指すも何も、単純に『不可能』でしょう。こんなに自給自足ができない国、借金が1千兆円もある国が『大国』になれるわけがない。それが現実です。Q:憲法9条を守ろう、という運動を手がけていますね。A:はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年守ろうと言い合っています。100年もてばそれが国の意思になるし、海外の人々の戦争観にも影響を与える。いま約70年ですから、あと30年ですね。Q:いつから9条を支持するようになったのですか。A:憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、非常に喜びました。おやじからは『お前はバカじゃないか』と批判されましたけどね。『人類が始まって以来、戦争がなかったためしがあるか。日本も日清戦争とか日露戦争とか、あれこれ頻繁にやってきたじゃないか』と。 おやじは戦後、1950年に亡くなっています。もし会えるのなら、『あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか』と言ってやりたいですね。 *半藤一利:1930年生まれ。文芸春秋社で「文芸春秋」編集長などを務めた。著書に「昭和史」「『昭和天皇実録』にみる開戦と終戦」など。<取材を終えて> 自分は憲法も原発もそれらが生まれたときから見てきた、と半藤さんは語った。聞いていると、自分の中にある「日本」のイメージが少し変わってくる気がした。「軍隊からの安全」という視点は、安保法制を今後点検していく際にも必要なものと思えた。(編集委員・塩倉裕)歴史に学ぶ半藤一利2015.9.19この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.09.20
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朝日新聞の記事「書棚から見える中国 書店「万聖書園」」で、この本の存在を知り図書館に予約を入れたら、二日後にゲットできたのである。ラッキー♪この本は、なかなか根性の入ったフィールドワークとなっているようです。【貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告】阿古智子著、新潮社、2014年刊<「BOOK」データベース>より焦燥、怨嗟、慟哭、絶望…「格差」が人間を破壊する!中国建国65周年、共産主義の理想は、なぜ歪んだ弱肉強食の社会を生み出したのか。エイズ村、農民工、学歴競争、役人汚職、ネット世論、反日デモ…中国社会の暗部に深く踏み込んだ研究者による衝撃レポート。格差社会の臨界点へと突き進む隣国を、ソフトランディングに導くことは可能なのか。日本人必読の書。【目次】第1章 エイズ村の慟哭/第2章 荒廃する農村/第3章 漂泊する農民工/第4章 社会主義市場経済の罠/第5章 歪んだ学歴競争/第6章 ネット民主主義の行方/第7章 公共圏は作れるのか<読む前の大使寸評>朝日新聞の記事「書棚から見える中国 書店「万聖書園」」で、この本の存在を知り図書館に予約を入れたら、二日後にゲットできたのである。ラッキー♪この本は、なかなか根性の入ったフィールドワークとなっているようです。<図書館予約:(9/15予約、9/17受取)>rakuten貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告フィールドワークとしての筆者のスタンスが「はじめに」に述べられているが・・・・中国の戸籍制度に着目するなど、しっかりしてるでぇ♪<はじめに>よりp10~11 北京で生活していた8年前、自転車でさまざまな場所に行った。外国人であることが目立たないように、ラフな格好でボロ自転車に乗っていると、警察に「農民工」と間違えられ、身分証の提示を求められたことがある。 「農民工」とは、「農民」でありながら、「工人」(ワーカー)であるという、矛盾した概念である。中国には農業戸籍と非農業戸籍を区分する制度があり、農業戸籍を持ちながらも、都市に出稼ぎに来る人々を「農民工」と呼んでいる。暫定的に居住する許可を得なければ、農村に連れ戻される。 北京では、重要な会議が開かれる時期に入ると、警察は規制を強める。許可証を持たない農民工たちは次々にバスに乗せられていた。パスポートも外国人居住証も携帯していなかった筆者も、危うく連れて行かれそうになった。 中国の戸籍制度は一種の身分制度である。社会保障、土地所有、納税、教育や医療に至るまで、どこに戸籍地があるかによって、内容が変わってくる。中国において、経済成長が著しいにもかかわらず、所得格差が縮まらないのは、戸籍制度が主な要因であると筆者は考えているが、筆者が教えている中国人留学生のなかには、「今では移動は自由にできるし、戸籍は関係ない」と話す者もいる。都市部出身で、戸籍制度の恩恵を受けていると、この制度の持つ不平等さが実感として分からないのだろう。 農業だけでは生活できない、或いは都市部で新たなチャンスを見出したいと考える農民たちは、農民工として都市に出稼ぎに来るが、戸籍所在地でない場所では、住民サービスを受けることができない。保険にも未加入の者が多く、医療や教育も十分に受けられない。学歴の低い単純労働者は、働いても、働いても、ステップアップできず、何年経っても、都市社会の主流には入っていけないのである。 日本も、「ワーキングプア」に代表されるように、中国における農民工と共通する問題を抱えている。私たちはあまり気付いていないが、中国が経験しているような根の深い矛盾を、日本も抱え込んでいるのではないか。エスノグラフィック・スタディで中国の人々と関わりながら、そのような見方をするようになった。「自分がどこに立っているのか」を自覚しようとするなかで、中国ではなく日本を、そして自分自身を見ていることに気がついた。 中国の問題は対岸の火事ではないのである。まるで奴隷のような農民の実態がレポートされています。p49~60<戸籍制度が規定する「農民」> 都市と農村の格差が縮小しない背景には、中国特有の戸籍制度がある。戸籍制度とは1958年から実施されている国民を「農業戸籍」と「非農業戸籍」に分ける制度である。重工業を重視していた計画経済時代、都市住民に対する食糧供給を安定させ、社会保障を充実させるために導入された。制度の一部は現在も継続しており、経済格差が拡大する中、財政力の弱い農村地域の戸籍を持つ者は、基本的な社会サービスさえ満足に受けることができない状態に置かれている。 このような戸籍制度があるために、中国では、経済発展に伴って第二次、第三次産業が成長しても、農村戸籍によって規定される「農民」が減少し、都市戸籍をもつ「市民」が増えるという、自然な人口の移行が起こるわけではない。「農民」と「市民」が受給する社会保障の内容が大きく異なっていることもあり、都市と農村の格差は縮まらないのである。(中略)<不公平な農業税制度> 農民工の中には、長く都市で暮らしている者や家族も共に移住している者もいる。しかし、中国の法律では、医療や教育など、基本的なサービスは戸籍地で受けることになっているため、移住先の都市では、彼らは「二級市民」に位置づけられるといっても過言ではない。経済格差が大きく、全国統一の社会保障を整備するだけの財政力もない13億人以上の人口を抱える国家にとって、安定した統治を行うためには、戸籍制度は捨てようにも捨てられない制度である。しかし、農民にとってはあまりにも差別的であり、各方面において不利な条件が与えられている。たとえば、そのうちの一つに、不公平な税制がある。 中国政府は、2006年に廃止するまで、農業税を徴収していた。このように農業に対して特定の税を設ける国は、世界のなかでも非常に珍しい。たいていの国では、サラリーマンから徴集するのと同様に所得税を、工業製品などと同様に農産物に対して流通段階における消費税などを課している。しかし、中国の場合、所有農地の面積と平年の農業生産量にしたがって一定の税率の農業税を課し、それ以外にもさまざまな費用を徴収していた。 また、都市のサラリーマンの所得税は月額1600元(約2万2000円)を超えた分に対して累進課税されていたが、農業税に対しては免除額を一切設けていなかった。したがって、凶作の年でも、耕作放棄している場合でも、全額徴収されていた。 農民たちが疑問を抱くのも無理はない。その上、農業税の他にも、「三提五統」と呼ばれる公共事業等を進めるための費用が徴収されており、三提五統にも該当しない項目についても、さまざまな名目で集金が行われるようになったため、1990年代後半には、過剰な負担に耐え切れなくなった各地の農民たちが納税を拒否するようになった。<烏蘭蘇村の農民たち> 2001年12月、筆者は農民の貧困の実態を把握する為、中国人ジャーナリストの王南と共に内蒙古自治区赤峰市の烏蘭蘇村へ向かった。 烏蘭蘇村は中国でも最底辺に位置する人口900人程度の貧しい村である。人々はトウモロコシ、小麦、アワ、ヒマワリの種、大豆の栽培を主な生業としているが、農作物価格が調査した時点で、7割以上の家庭が借金を抱えていた。多少なりとも現金収入を得るため、都市に出稼ぎに出る者も増えており、ところどころ荒れたまま放置された農地があった。 筆者は村に滞在した間、王秀の家に世話になった。王秀は身長180cm近い大男で、日焼けしてどす黒くなった顔には、皺が何本も刻み込まれ、50代後半だが、60代後半ぐらいに老けて見える。顔を合わせる度に親しみを覚える訛りで「」と筆者を呼び、にやっと笑うと皺が何重にも重なり、なんともいえない温かい表情になる。 王秀ら村の人たちは、毎日朝から夜遅くまで、村の状況を事細かに話してくれた。王秀は、村の仲間たちと共に上級政府や党の関係機関を訪れ、腐敗した村の役人たちによる公有林の違法伐採や公金横領や税・費用の不正徴収に対する損害賠償を求めているという。話を聞くうちに、戸籍や農業税などの差別的な制度だけではなく、さらに役人たちの目に余る腐敗・不正が、彼ら農民を苦しめていることがわかった。 「土皇帝(村の最高権力者である劉芳・共産党支部書記を村人たちはこう呼ぶ)は、日がな一日マージャンをし、遊び疲れると村の食堂で、つけで飲み食いしている!」(中略) 村人たちは、劉書記ら役人たちの腐敗や不正に関する話を、口々にまくしたてた。 冬の烏蘭蘇村は緑が一切見えず、黄土色一色の大地が広がる。村人たちによると、100年ほど前には、山々に白樺や松の木が青々と茂り、岸辺の湿地帯にアシが密生する水量の多い川が流れていたという。しかし今では川の水は涸れ果て、草が所々生えているだけだ。村の姿が変わり果ててしまった原因は、自然環境の変化だけではない。村人たちが大切にしていた公有林が違法に伐採されたからだという。 村人たちの案内で樹木がほとんどない禿山に登ると、羊飼いが羊の群れを前に進ませていた。筆者がのどかな情景に見とれていると、村人の楊文和が地面に残された車輪のあとを指差し、鋭い目を向けた。 「これが、劉書記らが公有林を破壊し、木材を運び出した証拠です。切り株を数えれば5000本どころで済まないことは明らかでしょう。我々は5万本に上る木が伐採されたと見ているが、林業局は認めようとしません。これだけの木材を売り捌いたら、一体いくらになるのか。すべては劉書記たちの懐に消えてしまったのでしょう」 <農民負担問題> 華中師範大学教授の項継権の研究チームが、湖北省京山県で農民負担の状況を詳しく調べているが、それによると、負担増加の原因は、(1)地方の役人が成績を上げようとして、義務教育普及、産業構造調整、公共設備の建設などに関して無謀な目標を設定した、(2)財務管理の混乱、接待費や公務員給与の膨張、公金の私的流用などによって生じた損失を補填しようとした、(3)未徴集分の税・費用を解消しようとしたからである。 失政のつけを農民に押し付けたところで、ただでさえ重い税負担に苦しむ農民たちに払えるわけがない。中国語で「釘子戸」と表現される、「釘のようにしがみつき、頑固に納税を拒否する農家」が増えた京山県では、1998-2000年、未徴収の農業税が全体の25%にものぼった。 1999年の同県の財政収入は約8500万元であったが、2000年7月末には1億2700万元の借金を抱えるまでになり、県下の郷鎮や村の借金も累積していたため、公共事業は大幅に滞った。道路や水利施設が未整備のまま放置され、農産物価格が下落する中、耕作請負の任務を放棄し、都市に出稼ぎに行く者が増加した。 この頃、京山県では約6700ヘクタールの耕地が荒れたまま放置されていたという。同県内の曹武鎮では、全耕地面積の5分の1が耕作放棄の状態で、約100万元の税金を徴収することができなかった。税金の上納義務を果たさなければ、地方の役人は出世できなくなるどころか、処罰される恐れさえある。そのため、高利貸しから資金を調達することが常態化し、返済額が雪だるま式に膨らんだ地域もある。
2015.09.19
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ほぼ正方形の装丁と掲載した写真が・・・わりと哲学的テイストで、ええでぇ♪この本はINAX BOOKLETシリーズの一冊であるが、製造業企業の余技にしてはよくできていると感心するわけです。【土泥礼讃】井波律子、他著、INAX出版、2002年刊【目次】(「BOOK」データベースより)土・泥の意味は?/世界の土・泥の言葉/土と泥・中国の神話・文学を繙く/写真構成1 土泥の貌/座談会 土泥の想像力・地球からみた土、人間からみた土/写真構成2 土泥のちから/土泥年表/土泥の利用<読む前の大使寸評>ほぼ正方形の装丁と掲載した写真が・・・わりと哲学的テイストで、ええでぇ♪この本はINAX BOOKLETシリーズの一冊であるが、製造業企業の余技にしてはよくできていると感心するわけです。rakuten土泥礼讃土に関わる識者の座談会を見てみましょう。松井孝典:地球惑星物理学神崎宣武:民俗学小林澄夫:「左官教室」編集長井本英一:民族学、比較文化学<約4億年前に土は生命から誕生した>よりp26~27Q:約46億年前に地球が誕生し、その後、約4億年前に地球上に土が誕生したとされています。地球史という観点から見ると、土はどのような変遷を辿ってきたのでしょうか。松井:ひと言で土といいますが、じつはその定義のしかたによって、いろいろな土がありますから一概には言えません。今おっしゃった約4億年前に誕生した土というのは、地球の生物圏に存在する土壌のことです。地球の表層を覆っている、有機物をたくさん含んだ土のことを土壌と定義している。 しかし、大気に接している地表の物質を土壌と定義づければ、地球の歴史のもっとも古い時代に、地球の表面にあった土も土壌といえる。専門用語で古土壌、「パレオソル(paleosol)」といいますが、今は岩になっています。当時の地表には微生物がいるわけじゃないから、先ほど言った生物圏の土壌とは違います。 また、月や他の地球型惑星の表面を覆っているものも、ふつう土といっていますが、あれは現在の地球でいう土ではない。月面着陸した当時は「ルナ・ソイル(luna soil)」といっていましたが、紛らわしいので今は「レゴリス(regolith)」という用語を使っています。レゴリスは、小惑星や隕石の衝突によって天体の表面に無数のクレーターがつくられたときに、周囲に飛び散った粉体が堆積したものです。 火星の表面を覆うのも同じくレゴリスです。このレゴリス中には生命が存在しません。ですから地球上の土壌とは、定義が違う。このように、どう定義づけるかによって、土の捉え方が違ってくるんですよ。Q:今回取り上げようとしているのは、生命体とのかかわりのある土ですから、定義としては土壌ということになるんですね。松井:4億年前以降に誕生した、生物圏の一部である土壌ということになります。これは、海から生命が上陸したのち、微生物の働きと風化作用によってつくられたもので、有機物がたくさん含まれている。よく「」という言い方をしますが、植物が芽を出すという意味では正しいけど、土から生命が生まれてきたわけではない。理論的にも実際にもまったく逆で、生命が土を生んだというべきです。 生命は38億年ぐらい前から存在していますから。生命がいる惑星でないと、皆さんの知っている土壌は生まれないわけです。Q:4億年に及ぶ長い歴史のなかで、土は変化してきたのですか。松井:画期的な変化は、約1万年前に現生人類が農耕牧畜を始めて、人間圏を形成したときでしょうね。それまでの生物圏にはなかった、いわば人工的な生態系をつくり出したわけです。それによって土壌ももちろん変わりました。 しかし、地球史全体からみてもっとも大きく変わったのは、人間が加速度的に物質の移動の時間を速めるようになったということです。現在の我々の1年を地球時間に換算すれば、10万年に相当する物質やエネルギーの移動をわずか1年でするようになっています。神崎:それは具体的に言うと、どういうことですか。松井:わかりやすい例で言えば、こういうことです。現在、日本はオーストラリアから鉄鉱石を買って、2週間から1ヵ月ぐらいかけて船で運んでますよね。そんなことをしなくてもオーストラリア大陸は、いずれ日本列島とぶつかるわけですよ。小林:エー!(笑)松井:つまり地球上には、地球固有の物質の移動時間というものがあるわけです。その固有の移動時間を速めているのが、我々現生人類がやっていることなんですね。地球システムの循環のタイムスケールを、ものすごい勢いで速めている。 それはすべてについていえます。遺伝子操作も同じで、もともと進化というのは現象としては遺伝子操作そのものなんですが、それを恐るべき速さでやるから問題なんです。 ところが科学や技術を知らない人は、それは科学技術が悪いんだと発想する。自然科学は本来いいも悪いもないんです。なのに現在我々が直面する文明の問題の原因を全部科学に押しつけて、近代科学が悪いという。とくに最近、環境問題に関連して自然保護運動をやっている人たちが大勢いますが、彼らは自然や自然科学が何なのかということをあまりにも知らない。そういう意味であえて挑発的に言っているんですが、誤解されると困るけど。Q:ところで、現生人類が登場したとされる旧石器時代に、すでに「大地母神」信仰があったといわれています。それは人類が土に対して、早くから特別な思いを抱いていたということなのでしょうか。ヴィーレンドルフのビーナス像井本:3万年くらい前の、ヨーロッパの旧石器時代の遺物に、地母神像が出てきます。皆さんよくご存じの、胸と腰が大きく膨らんだ女神像で、ヴィーナス像とも呼ばれています。「母なる大地」を崇めるのが大地母神信仰ですが、ではこれは農耕生活が始まってから出てきたかというと、必ずしもそうではないんですね。狩猟採集をしていた旧石器時代にすでに見られます。 この「母なる大地」への信仰は、人間は死ぬと魂が山に戻って野獣になる、という考えになっていきます。たとえば私が死にますと、イノシシになって、イノシシが死ぬとウサギになり、次はオオカミになるというように、あらゆる人がそれぞれの動物に変わっていって、ずっと循環していく。(以降省略)土壁が見直されてきたようだが、建築方法の見直しとまではいかなくて、わりと高級な家屋向けというのが辛いところか?<土壁と泥の不思議な魅力>よりp33Q:最近、また土壁が復活してきています。小林さんは雑誌『左官教室』の編集を30余年やってらして、そのあたりの動きをどう見てらっしゃいますか?小林:東京オリンピック前までは、日本の住宅はみな、竹で木舞を組んで泥を塗るという土壁がふつうでした。その後、壁材が石膏ボードに変わって、塗り壁は衰退していった。東京オリンピックを堺に、住宅の建設現場の音が変わってしまったという印象が強いですね。カンナをかけたり、クギを打ったり、壁を塗ったりする手作業の音が、石膏ボードや合板を打ちつけていくマシンガンのような機械音に変わって、とにかくうるさくなった。暴力的な音の洪水です。 この仕事を始めた頃は、コンクリートと鉄とガラスでつくる現代建築や住宅を扱ってましたから、土壁とつきあうようになったのは、ここ14、5年のことです。Q:全国を旅して、さまざまな土壁の美を再発見されています。版築土塀小林:東京がイヤになって。都市が好きじゃないですから。日本全国どこへ行っても、都市は均質化されて同じ顔をしてますからね。 僕が塗り壁に惹かれるようになったのは、たまたま奈良の葛城古墳や山辺の道で、納屋の泥壁を見たのがきっかけです。野良のはずれにぽつんと建っているシンプルこのうえない小屋なんだけど、これがなんともいえず美しくて、味わい深いんですね。 泥壁の泥には、色土や砂利や砂や藁などが混ぜられてますから、その微妙な色合いや質感が美しさを生んでいるんだと思います。単純素朴のようでいて、決して単一でも均質でもないところがすごい。今の都市とは対極にあります。
2015.09.18
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高さ3.25m、重さ850kの金属製ゾウとか、本物ソックリの金属製クワガタとか、「溶接のススメ」という章立てとか・・・大使のツボがうずくのです【メタルに遊ぶ】ムック、マリア書房、2010年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>高さ3.25m、重さ850kの金属製ゾウとか、本物ソックリの金属製クワガタとか、「溶接のススメ」という章立てとか・・・大使のツボがうずくのです。rakutenメタルに遊ぶ自在置物のハチが、ええでぇ♪<うごめき始める金属の虫たち>よりp20 鎧兜の技術を応用して作られたのが始まりという、江戸の昔から伝わる金属工芸品「自在置物」。現在はほとんど作る人がいない消滅しつつあるその工芸品を、後世に遺そうと志す若手作家がいる。それが、満田晴穂さんだ。 「手に乗せた感じが、虫っぽいでしょう?」 そう言って少年のような笑顔を見せる。自在置物作家の満田晴穂さん。幼いころから無類の虫好きだったという満田さんの作る自在置物は、見た目もリアルだが、手に乗せてみると細い足先の感触までも虫そのものだ。 自在置物とは、江戸末期から明治にかけて、甲冑職人たちにより盛んに作られていた金属製の置物。モチーフは、甲殻類や昆虫、龍などが多く、その名の通り「自在」に手足などが動かせるのが特徴だ。客人への届け物などとして重宝されたていたが、海外流出などにより衰退、現在その技術を受け継いでいるのは明珍家と富木家の二流派だけといわれる。自在置物作家として活動しているのは、若手ではおそらく満田さんだけだ。 満田さんが、自在置物と出合ったのは大学三年の夏休み。京都へ「古美術研究旅行」に行った際、現在の師匠である富木家三代目の工房を訪ね、そのときに運命的なものを感じたという。(中略) 満田さんの自在置物は、主に昆虫や甲殻類をモチーフにしている。その特徴は、本物と見間違えるほどリアル過ぎる外見だろう。昔の自在置物は、デフォルメされたようなデザインが多く、またサイズも本物の1.5~2倍ほどだが、満田さんの自在置物は、サイズは必ず原寸。クワガタならクワガタのひとつひとつのパーツをしっかり採寸してスケッチしたうえで制作する。
2015.09.17
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・第2図書係補佐・スクリプトドクターの脚本教室・初級篇 ***************************************************************第2図書係補佐より<お笑いと文学、意外な近さ:速水健朗(コラムニスト)> 芥川賞を受賞した又吉直樹『火花』は、純文学作品として前代未聞のベストセラー。お笑い芸人と権威ある文学賞の間にはギャップがある。そこに人は関心を示しているのだろう。本作は、又吉のエッセー集。エッセーの題名には太宰治から村上春樹まで、名作文学の題名が並ぶ。だが大半は、これらとは関係のない話が語られる。 テレビでマラドーナを見た又吉少年は、その日以来、サッカー部の練習で左でしかボールを蹴らなくなる。周りは大変困る。又吉は元来右利き。蹴ったボールはコースをずれ、パスがつながらなくなる。周りからは「右で蹴れや!」と怒号が飛ぶ。だが、怒号はむしろ、ギャップのあった又吉とチームの間の交流のきっかけになっていく。 又吉に小説の執筆の依頼をした編集者は、彼のエッセーからその文才を見出したという。なるほど、確かにエッセーのうまさは際立っている。 カフカ『変身』の項では、珍しく小説の中身についてたっぷり触れられる。虫に変身してしまうという異常な状況に晒されながら、主人公は自分がセールスマンという職業を選んでしまったことを悔いている。又吉は、そのずれに笑う。一方、本作が戦時下「運命に身を委ねるしかない」一般市民の不条理が描かれていると知り真剣に再読する。でもやっぱり「笑ってしまう」のだ。 小説『火花』には、世間一般との「ずれ」を追求する天才肌のお笑い芸人が登場する。彼は、それを追求し過ぎて苦難の道を歩むことになる。お笑いとは「ずれ」である。そして、文学との間に「ずれ」は意外とないのかもしれない。実際、カフカも自作を爆笑しながら友人に読み聞かせた逸話があるようだ。 お笑い芸人と文学。ギャップがあるようでない。それがこの一冊から強く感じられる。 ◇又吉直樹著、幻冬舎、2011年刊<「BOOK」データベース>よりお笑い界きっての本読み、ピース又吉が尾崎放哉、太宰治、江戸川乱歩などの作品紹介を通して自身を綴る、胸を揺さぶられるパーソナル・エッセイ集。巻末には芥川賞作家・中村文則氏との対談も収載。【目次】尾崎放哉全句集/昔日の客/夫婦善哉/沓子(『沓子・妻隠』より)/炎上する君/万延元年のフットボール/赤目四十八瀧心中未遂/サッカーという名の神様/何もかも憂鬱な夜に/世界音痴〔ほか〕<読む前の大使寸評>又吉直樹のエッセイはどんなかな?♪ということです。<図書館予約:とりあえずカートに入れておこう>rakuten第2図書係補佐スクリプトドクターの脚本教室・初級篇より<ひとの心と向き合う指標に:三浦しをん(作家)>スクリプトドクターは、映画やドラマの脚本が行き詰まったとき、主にプロデューサーから依頼を受けて、問題点を客観的に分析し、助言やサポートをする。つまり、「体調不良に陥った脚本を治療するお医者さん」だ。 本書を読んで、「ここまで作り手の気持ちに寄り添い、的確な指摘をし、作品をより良い方向へ導こうと全力を尽くしてくれるひとがいるのか!」と驚き、感動した。それもそのはず、著者の三宅氏は多数の作品を手がけてきた脚本家・映画監督であり、心理カウンセラーの資格まで取得ずみ。「生みの苦しみ」を知るゆえに、スクリプトドクターとして仕事をするときにも、実作者の迷いや悩みを深く感受し、具体的な解決策を提示することができるのだろう。 本書は、スクリプトドクターという珍しい職業を紹介すると同時に、脚本の書きかた、読みかたについて、かなり詳細かつ実践的に指南してくれる。「はじめに」で、脚本家志望者が書きがちな作品を四つのタイプに分類しているのだが、たしかに私もそのうち二つを、小説で、プロになってから、書いたことある! 的確すぎる分析に爆笑かつ背筋が凍った。 脚本とは、映画やドラマを作る人々の思いや人間模様が反映した、複雑で奥深いものなのだ。まるで、ひとの心そのもののように。そして、その脚本を「治療」する三宅氏の姿勢は、きわめて慎重で繊細だ。だれかの心を解きほぐすには、じっくりと話に耳を傾ける必要があるのと同じように。 本書は、実は脚本ではなく、ひとの心について語っているのだとも言える。「物語」に関連する職業のひとに限らず、人間関係とはなんなのか、考えたり悩んだりしたことがあるひとは必読だ。実生活で他者や自己の心と向きあう際にも、重要な指標となる内容だからだ。嗚呼、私もドクターに往診を頼みたい! ◇三宅隆太著、新書館、2015年刊<「BOOK」データベース>よりTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で特集され知られる存在となった、日本に数人しかいない“脚本のお医者さん”こと“スクリプトドクター”=三宅隆太の初の脚本指南書。あなたにやさしく語りかけるかつてない画期的な一冊。<読む前の大使寸評>「脚本のお医者さん」ってか・・・・三浦しをんが選んだ本なので、単なるハウツー本ではないと思うのだが。<図書館予約:とりあえずカートに入れておこう>rakutenスクリプトドクターの脚本教室・初級篇**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から75
2015.09.17
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図書館で予約していた『街場の戦争論』という本を約3ヶ月待ってゲットしたのです。当地の図書館では、売れ筋の小説ならいざ知らず、堅い内容の本なら3ヶ月ほど待てば借りられるというわけですね♪折りしも、政権与党は安保法案を参院特別委で16日に採決する方針だそうです。えらいこっちゃ、アメリカの戦争に加担するニッポンになるのか?【街場の戦争論】内田樹著、ミシマ社、2014年刊<「BOOK」データベース>より改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動…。「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を別の視座から見ると、まったく別の景色が見えてくる!現代の窒息感を解放する全国民必読の快著。<読む前の大使寸評>内田先生なら、集団的自衛権をどう論じるか?とにかく、国会でも安保法案で時間稼ぎ審議中でもあり、全国民必読の本というのもうなずけるのです。<図書館予約:(6/01予約、9/06受取)>rakuten街場の戦争論この本は読みどころが多いので(その2)として紹介します。戦争法規とか、日本人の失ったものあたりを見てみましょう。<戦争は犯罪ではない>よりp24~27 国際法というものがあります。戦争犯罪は軍法に基き、軍事法廷で裁かれる。そういうルールになっています。でも、それはあくまで「たてまえ」です。戦勝国は「戦争犯罪」をかなり恣意的に敗戦国に適用し、無限に処罰し続けることができる。 極東軍事裁判では、弁護人に立ったベン・ブルース・ブレイクニーは裁判の管轄権についてきわめて論理的かつラディカルな批判をしたことで知られています。彼はこう述べました。 「戦争は犯罪ではない。戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。戦争の開始、通告、戦闘の方法、終結を決める法規はもし戦争自体が非合法ならまったく無意味である。国際法は、国家利益追求の為に行う戦争をこれまでに非合法と見做したことはない。歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。国家の行為である戦争の個人的責任を問うことは法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではないからである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。」 そして、さらにこう続けました。 「われわれは、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?」 もちろん、彼らは殺人罪では訴追されることはありません。「それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである」。 僕はこのとき裁かれたA級戦犯たちにはさまざまなレベルでの政治責任があると思いますけれど、それでもブレイクニーのこの弁護のロジックは話の筋目が通っていると思います。しかし、極東軍事裁判の判事たちはこのロジックを退けました。そして、原爆を落として勝った側はいかなる罪にも問われないが、戦争を計画し実施して負けた側には戦争犯罪を適用しました。 僕ももいいい年ですから、そういうことで青筋立てて怒ったりしません。「世の中というのは、そういうものだ」と思います。戦争を始めた人たちだって「世の中そういうものだ」とわかっていて戦争を始めたのですから、大日本帝国戦争指導部にはこのダブルスタンダードについて文句を言う権利はない。 権利があるとしたら、それは「日本が戦争に勝って、アメリカの戦争指導者たちを軍事法廷で裁くときに、私なら決してアメリカの戦争指導者たちを戦時国際法以外の罪状で告発することはしなかったであろう」という仮定法的な命題を説得力のある証拠に基いて立証し得た人だけです。残念ながら、そのような可能性を持っていた人は戦犯たちの中にはひとりもいなかった。(中略) 日本は戦争に負けることで多くのものを失いました。それはどのようなものか。「そんな話はもう止めよう」と言って済まされるものではありません。僕たちの国は敗戦であまりにも多くのものを失った。それを回復しなければ、この国は蘇生しない。そして、僕たちが敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力です。あまりにもひどい負け方をしてしまったので、そのような問いを立てる気力さえ敗戦国民にはなかった。 その気力の欠如が戦後70年続いた結果、この国の知性は土台から腐蝕してきている。僕にはそのように思えるのです。ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人は何を失ったのかという痛々しい問いを自分に向けなければならないと思います。内田先生が、独自外交や鳩山下ろしの事例を語っています。<従属国民マインドの完成>よりp103~104 アメリカの許可を得ずに日本が展開した外交の最後の企ては、1972年に田中角栄と周恩来の間で取り交わされた「日中共同声明」だったと僕は思います。田中角栄が電撃的に「日中共同声明」を発表したとき、キッシンジャーは「田中を決して許さない」と激怒したと伝えられています。そして、その直後、アメリカの上院で開示された情報で田中が没落するというロッキード事件が起こります。 僕たちが知るかぎり、戦後アメリカに逆らって独自外交を展開しようとした総理大臣が長期政権を保った事例はありません。民主党政権の鳩山由紀夫がそうでした。オリバー・ストーンは先の講演の中で、「日本には大儀や理想を語る政治家がひとりもいない」と言ったあとに前言撤回して、「いやひとりいた。それは最近オバマ大統領の沖縄政策に反対してオバマにやめさせられた人だ」と付言しました。鳩山にしても小沢一郎にしても、民主党政権のときに明確に対米自立を口にした政治家たちはたちまちのうちに引きずりおろされました。 ただし、オリバー・ストーンが「オバマにやめさせられた」というのは間違いだと思います。だって、アメリカ大統領にはそんな内政干渉じみた直接行動をとる必要がないからです。「この政策はアメリカの国益に反するのではないか」と忖度して、「鳩山をおろせ」と活発に世論形成してくれる政治家や官僚やジャーナリストが日本国内には掃いて捨てるほどいるのですから。 鳩山首相は「外国の軍隊が占拠している土地を日本に返してほしい」という当然の希望を述べただけです。でも、「そういうことを言って日米同盟関係の信頼を傷つけたことによって日本の国益を損なった」というロジックが連日メディアを賑わしました。アメリカの国益を損なう人間は日本の国益を損なう売国奴だという奇妙なロジックに対して誰も「変だ」と言わないことが「変だ」と僕は思います。街場の戦争論1byドングリ
2015.09.16
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(勝手に関西遺産)では、関西弁がときどき取り上げられるが・・・・今回のは、関西弁ならではの高度なコミュニケーション術らしいでぇ、ようしらんけど♪(勝手に関西遺産)に「知らんけど」が出ていたので、見てみましょう。2015.9.9(勝手に関西遺産)自信たっぷり 責任ポイッより■知らんけど 「あのカレー屋、毎日行列できてるねんで、知らんけど」 関西の電車や喫茶店でおばちゃんらの会話をちょっと盗み聞き。聞こえてくるわ、聞こえてくるわ、「知らんけど」という言葉。さも見てきたかのように話し続け、最後にすべての責任を投げ捨てる。話し相手の全身を脱力させる言い回し。 これって関西独特らしい。大阪生まれの記者もよくよく考えてみると……、たしかに使っている! 10~20代の関西人に尋ねてみても、「よく使う」とのこと。幅広い年代で口をついて出てくるようだ。 吉本新喜劇のギャグにもなった。大阪のおばちゃんキャラ「すち子」が人気のすっちーさんの座長公演。大坂の陣を題材にした「君臣豊楽 淀殿の見た夢」という芝居で、すっちーさん扮するお茶屋のおばちゃんが、秀吉がどうした、淀君がこうした、と自信たっぷりにしゃべり続けた最後に「知らんけど」。もちろん周りは「知らんのかい!」とツッコミ、笑いが起きる。 「一見深刻なことを言うて、最後に全然違う方向に行く。新喜劇のボケと似てるところがある」とすっちーさん。「日常にお笑いがあふれ返ってる関西だからこそ、生まれた言葉ですよね」 この言い回し、いつごろから使われるようになったのか。 日本漢字能力検定協会の佐竹秀雄・現代語研究室長は「いつごろかははっきりしないが」と前置きしながら、「それほど古いものではない。テレビでワイドショーが盛んになったころからでは」と推理する。テレビでやってた、でも断言できないようなうわさ話を内輪で楽しむときに使ったのでは、とみる。 「ただし、『大阪弁おしゃべり検定』があったとしたら、これは3級の使い方。変形してもっと上手に活用している人もいます」と佐竹室長は言う。 ワンランク上の使い方とは、「知らんけど」の前に、これまた関西特有の言葉「よう」をつけた「よう知らんけど」。こうすると内容のあいまいさに拍車がかかる。しかも、本当は自分がどこまで知ってるかの判断まで話し相手に押しつけている。 「立場が強い人に対して、言いにくいこと、まともに言うと角が立つような本音をカムフラージュできるのです」と教えてくれた。たとえば、怠けている上司に向かって、「課長、最近、仕事さぼってばっかりやって言われてるらしいですよ、よう知らないんですけど」と、たしなめる感じなんでしょうか。 ただ、どんな相手、どういう場面で「よう知らんけど」を繰り出すかは、絶妙なバランス感覚が求められるとも。「下手をしたら、人間関係が壊れてしまう。使いこなせるようになったら、検定1級ですね」 この言い回しって、状況や関係性を大事にする関西弁ならではの高度なコミュニケーション術だったんですね、よう知らんけど。(向井大輔)関西弁についてもうひとつ、勝手に関西遺産5から再掲します。 「んなあほな」とは上方落語協会の情報誌のタイトルなのだそうです。2015.5.27((勝手に関西遺産)ツッコむだけちゃうねんより ■んなあほな 18歳のときに関西で暮らし出した。「ほかす、って放っておくことじゃないの?」「煮抜き、ってゆで卵なの?」。学校でもバイト先でも、数え切れないカルチャーショックを覚えた日々。 この言葉の、独特の響きを耳にしたときのことも忘れられない……、って、あれ? いつやっけ。大阪の寄席、天満天神繁昌亭で、五つのひらがなが並んでいるのをはっきり意識したのは間違いないんやけど。 「んなあほな」 見かけたのは上方落語協会の情報誌、そのタイトルなのだ。笑福亭仁鶴さんの弟子、笑福亭仁勇さん(56)の案だったそう。「『ん』で始まるから、目立つと思ったんですよ」と命名者は明かす。 「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。『そんなあほな』の『そ』がかすれたんでしょうね」。関西のツッコミ文化の一翼を担う言葉だ。 子どもたちが落語に取り組んでいる上荘小学校(大阪府阪南市)の授業参観で、女の子のこんなしゃべりにウケたなあ。 「一万てな年の人がこの世の中におるんか」「おったらオモロイやろなあ」「あんた、おいくつです?」「わたし、一万です」「一万とはお若く見える。どー見ても、九千九百九十七!」「んなあほな」 頭ごなしに否定するんじゃなく、ボケを受け止め、ちょっと楽しむゆとりさえ感じませんか。落語家の桂文珍さん(66)は実に雄弁である。 「しょっちゅう会話で使うけど、相手を愚弄しているわけじゃない。商取引でも使うような、ファジーさがあってね。関西の楽しい言葉、成熟した文化から生まれた柔らかい言葉でしょう。ほかの地域では、あまり受け入れられていないが故のいとおしさを持っているんですよ」 「それにね、常識に対する非常識のような『んなあほな』ことから新しいビジネスや発見、発明が生まれることがある。そんなことを考えられる人は良い意味ではクリエーターやけど、社会性を欠いていれば『あほ』。紙一重やけどね」 おっ、奥深いなあ。あきれた「んなあほな」もあるけど、これまでの考えをくつがえす新たな視点を面白がる土壌と、どこかでつながっているのかもしれない。 もとい、そもそも「ん」で始まる日本語って、ほかにあるのか? 広辞苑に「ん」の欄はささやかにあった。「ンジャメナ」「んす」「んず」「んとす」。なんのこっちゃ。「んなあほな」の方がはるかにポピュラーな気がするけどなあ。 こんな遊びはいかが。ほかす、粋(すい)、いかつい、いんじゃんほい、いちげん、んなあほな。関西のしりとりは、「ん」で終わる言葉をだれかが言っても「んなあほな」と続けられる。すかさず「なんでやねん」とツッコんで、負け?!(篠塚健一)■シンガー・ソングライター 嘉門達夫さん(56) いろんな場合があるけど、「この間モスバーガーに電話したら『モスモス』って出たで」なんて言われたら使いますよね。ありえないことをわざと言うてるときに、こうツッコむ。アホなこと言うてるでコイツは~という感じ、でも愛情はあるんです。東京の漫才だと「バカなこと言ってるんじゃないよ」かな。「んなあほな」は相手をさげすんでいるんじゃなくて、愛を持って包み込んでいる感じがしますよ。おおきに!「勝手に関西遺産」10年勝手に関西遺産6勝手に関西遺産5勝手に関西遺産4
2015.09.16
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図書館で『染織の挑戦、芹沢ケイ介』という大型のムック本を手にしたが・・・・芹沢氏の経歴、作品などをざっと見たら、マルチメディアの人である。なにより、型絵染が版画に似ているので、大使のツボがうずくわけです。型絵染の色調は茶色系統が多いのだが、これが大使好みなんですよ♪【染織の挑戦、芹沢ケイ介】芹沢ケイ介美術館(静岡市立)著、平凡社 、2011年刊<みんなのレビュー>より芹沢氏の経歴、作品などコンパクトにまとめられています。氏の膨大な作品量に対して本に載るのはごく一部ですから、どうしても物足りなさはあります。でもカラーの美しい写真でみることができるのはありがたいことです。肉筆画やステンドグラス、陶器の絵付けといった珍しいものまで載っていて、とても興味深く読みました。<読む前の大使寸評>芹沢氏の経歴、作品などをざっと見たら、マルチメディアの人である。なにより、型絵染が版画に似ているので、大使のツボがうずくわけです。型絵染の色調は茶色系統が多いのだが、これが大使好みなんですよ♪rakuten染織の挑戦、芹沢ケイ介この本で、型絵染の生い立ちあたりを見てみましょう。<脚光を浴びる「型絵染」>よりp36~38 1955(昭和30)年7月、芹沢は自邸内に、カレンダーをはじめ、カード、うちわ、マッチのラベル、テーブルセンターなどを量産する芹沢染紙研究所を設立した。芹沢染紙研究所で生産される品々は、手ごろな値段と優れたデザインで人気を博し、やがて膨大な数を生産するまでになるが、たとえばその主力製品であるカレンダーに限っても、多い年には国内外に1万組(12万枚)を出荷した年さえあり、経済的な成功を収めたのだった。 1956(昭和31)年4月、「型絵染」が重要無形文化財に指定され、芹沢はその保持者に認定された。この「型絵染」という言葉は文化庁による造語で、芹沢の後に「型絵染」で重要無形文化財保持者に認定された人には、稲垣稔次郎と鎌倉芳太郎とがいる。「重要無形文化財保持者」は、「人間国宝」と通称されるようになったこともあり、芹沢は「人間国宝の染色家」としてマスコミに大きく報道され一躍脚光を浴びた。これによって芹沢は、ようやく全国的な知名度を得ることになった。 また同年7月には邸内に、土間と板場をもつ二階建ての大きな工房が建てられた。この頃から染色志望の入門者も増え、本格的な染色工房としての態勢が急速に整えられていった。さらに翌年2月には、宮城県登米市石越町から板倉を移築した。二階建てのこの建物は、もともと米や野菜、農具などの収納庫として使われていた建物であったが、簡素な雰囲気が気に入り自邸内に移築し、改装を施した。 作品の構想を練ったり、型紙を彫ったりした創作の場でもあったが、主に応接間として使われた。また昭和40年代以降、この部屋には芹沢の募集品が数多く飾られ、その模様替えも芹沢の楽しみの一つとなったのだった。芹沢さんの募集品は多彩であるが・・・あらゆるものに対して目利きだったんでしょうね♪<郷土人形への愛惜:千葉惣次>よりp145 私は昭和45年頃から江戸期の郷土人形を求めて毎年、月に一度は東北地方に募集旅行に出かけておりました。 仙台の堤人形、岩手の花巻人形、米沢の相良人形については競争相手が少なく、出かけるたびに収穫があり、楽しく充実した日々でした。ところが三春人形にはまったく縁がありませんでした。その理由は、先行する強力な競争相手が存在したからです。いつもまったく歯が立たず、相撲に例えれば横綱に立ち向かう前頭、いや幕下力士のようなものです。その相手とは芹沢ケイ介さんでした。 三春人形に対する芹沢さんの熱意は実に強烈、江戸期の保存の良い三春人形が日本のどこかの市場に出現すると、まるで水が低い所に流れて行くように、芹沢さんの所に納まる道筋ができておりました。手も足も出ません。まさにお手上げでした。この状態は、芹沢さんがこの世を旅立たれる寸前まで続き、その遺志はご子息の長介さんに引き継がれました。親子二代に亘る三春人形の募集品は、日本有数の日本人形コレクションに数えられます。 昭和50年頃になると東京にも古道具の蚤の市が開かれるようになり、東北旅行の帰りには必ず立ち寄りました。親しくなった道具屋さんが時々芹沢さんの所に出かけていることを知り、同行させてもらう事を依頼しました。間もなく、芹沢さんに直接会う千載一遇の機会が訪れました。確か昭和57年頃のことでした。 道具屋さんとともに東京蒲田の、現在は静岡の芹沢ケイ介美術館に移築されている芹沢家を訪ねました。中にいると、土間から部屋の隅々まで色彩豊かな工芸品が溢れていました。その濃密な景色に圧倒されました。そんな中で笑顔で応対してくれた芹沢さんは幸福に包まれているようでした。<創造への挑戦>よりp52 心に染み入る色彩と、懐かしさがこみ上げてくるような模様。作品はどれも独特の世界を醸し、ひと目で芹沢ケイ介のものであることがわかる。芹沢作品が観る者に幸せな気持ちと懐かしさを抱かせるのは、そのモチーフにあるだろう。野辺に咲く草花、台所に転がる野菜や果物、街中で見かける道路工事や、電気屋の腰に下がる道具、旅で出会う風物、伝統的な手仕事にたずさわる紙漉場や窯場、織物、染物の職人たち、世界各地から募集した品物、そしていたる所で目にする文字など、芹沢の手にかかるとすべての物が作品のモチーフとなった。 どこへ行くにもスケッチブックを離さず、家にいる時にも森羅万象を描きとめていてそれらが模様を生み出すもととなった。型彫りのための下絵を準備する時にも、描きためたスケッチを前に逡巡して模様の構成を練るというより、物や風景を眺めた時、芹沢の中には瞬時に模様が出来上がっていたのではないだろうか。 中でも布が風にひるがえって、ねじれ、折りたたまれて漢字を作る布文字は、芹沢の独創性を示す模様である。朝鮮民画にある飛白体文字から触発されて生まれたとも考えられるが、布を扱う染色家だからこそ、張り場で天を仰ぎながら実感し発想した模様なのだろう。 芹沢は、伝統的な型染の技法を脱してすべての工程を自分で行うという型絵染を確立した。型紙を使うという制約を逆手にとって、型紙だからこそ表現できる模様、型染でなければできない世界を創り上げた稀有な染色家といえる。芹沢ケイ介美術館では、企画展《文字絵と朝鮮民画》が始まったようです。朝鮮民画か♪・・・・大使のツボがうずくが、静岡市での展示だから諦めるしかないのです。静岡市立芹沢ケイ介美術館より暮らしに生きる文字芹沢ケイ介の文字絵と朝鮮民画芹沢ケイ介収集の朝鮮民画2015年9月12日(土)~11月15日(日)
2015.09.15
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「万聖書園」店主・劉蘇里さんがインタビューで「半分解放された国、言論弾圧には限界」と説いているので、紹介します。弾圧が強まるかの地で、このような書店が許されているのが稀有なことにも思えるのだが?おお インタビュアーは吉岡桂子委員ではないか♪(劉蘇里さんへのインタビューを9/12デジタル朝日から転記しました) 北京の大学街にリベラルな知識人が集う民営の書店「万聖書園」がある。出版や言論の自由が限られ、人権派弁護士らモノ言う知識人への弾圧も強まる中国で、書店の果たす役割とは――。創業から20年あまりずっと、自ら選んだ本を並べてきた店主の劉蘇里(リウスーリー)さんは、書棚に何を託しているのだろう。Q:3年前、北京の書店から、中国でも人気の村上春樹さんをはじめ、日本の書籍が一斉に消えたことがありました。日本政府による尖閣諸島国有化への反発が高まったときのことです。A:私の店では何も変わりありませんでした。店頭から日本の書籍を排除する行為は、中国政府の上からの正式な命令というよりも、中間の役人か書店自身が空気を忖度(そんたく)して取った行動でしょう。 むしろ5年ほど前から、日本にかかわる本が売れ始めました。文学、政治、経済、法律、歴史や実用書など非常に幅広い分野にわたります。日本について、もっと深く理解したいと考える中国人が増えているからです。この100年で初めてのことでしょう。Q:明治維新後の日本の書籍を翻訳して、西洋の知識を取り入れようとした時代以来ということですね。ただ、国交正常化後、とりわけ1980年代には日本文化ブームがありました。A:80年代は政府主導の『中日友好』によるものでした。改革開放直後で、中国人にとってすべてがめずらしい時代でした。現在は、人々自身が世界と交流を深めるなかで、日本をもっと理解したいと思うようになった表れです。 中国人は旅行や留学、仕事を通じた自らの経験や口コミ、ネット情報を通じて、日本についての中国政府の伝え方はどうも正しくない、と分かったのです。これは米国や台湾に対しても同じです。Q:しかし、人々が目覚めるいっぽうで、習近平体制のもと、言論の弾圧は激しくなっています。市民活動家や人権派弁護士ら知識人が大勢、拘束されています。A:著作についても、出版もネットでの意見表明も許されない人、ネットなら論考を発表できる人、過去の作品すら書店に並べてはならない人……。知識人ごとに縛りがある。全方位に管理は厳しくなっています。しかし、長い歴史で言えば一時的でしょう。川は曲がりながらも前へ流れていくもの。知識人に不満がたまっているだけでなく、党内の意見も必ずしも一致していないはずです。 ■ ■Q:教育相が今年はじめ、西側の価値観を広める教材を大学に入れるな、と発言しました。書店には数多くの翻訳本がありますが。A:授業で使うには申請が必要だと言われています。大学の先生たちも最初は用心するでしょうが、遅かれ早かれ廃れるのではないでしょうか。当局の指示と需要の間に大きな矛盾があるからです。 中国政府は、最先端の科学技術や文化を取り入れ、世界に追いつき、溶け込みたいと考えています。また、西洋との学術交流や留学を奨励しています。そしてネット上には、制限しても満天の星のごとく西洋の考え方、知識があふれています。Q:中国当局は大学で、ネットに書き込みをする「情報員」を養成しようとしているそうですね。A:若者の心を毀損する話です。将来を心配する若者に、小さな利益を与えて(問題ある書き込みを当局に)言いつけさせたり、意味のない書き込みをさせたりする。目が覚めたら、悪いことをしたと悔やむでしょう。その罪悪に気がつかない人や認めたくない人は、さらに問題です。若者の精神を汚そうとする執政党(共産党)は、なんと罪深いことでしょうか。Q:大学に対しては2年ほど前から、「七不講」として、人類の普遍的価値、報道の自由、公民(市民)社会、公民の権利、共産党の歴史的誤り、権貴(特権)資産階級、司法の独立を論じてはならない、とも指示しています。A:中国の大学を文化大革命時代に、いや清朝時代以前に戻せというのでしょうか。マルクスだって西洋人です。いまの中国は、半分は開放された国家です。半分でも開いた窓から風は入ってくるのです。すべての窓をしめるわけにもいかない。中国の発展に、外からの風が必要だからです。歴史の潮流に逆行する規定はいっときは有用でも、長続きはしません。 飛躍的な経済成長をとげた中国は、世界との関係もますます密接になっています。世界との共通言語が、金もうけだけでいいはずがない。価値を共有できなければ、中国に対する誤解や無理解を外国に広げてしまう。そのことが、中国脅威論にもつながっていることを自覚すべきです。 ■ ■Q:万聖書園は知識人の交流の場にもなってきましたね。A:時代を動かしうる精鋭が集う公共空間をつくりたいと思い、講師を招いてセミナーを開いてきました。これとは別に私自身は、7年前から中国と世界の関係を議論する研究会に参加しています。中心は30代前半の大学の博士課程や准教授クラスの数十人です。何かが起きてからでは遅いですから。Q:何かが起きる、とは。A:いまの中国では、社会、経済、政治、どんな危機だって生じうる。そして危機が起きれば、崩壊の局面になりうる。ソ連が崩壊したとき、軍隊も秘密警察も中央政治局だって強大でした。でも結果はどうでしょう。グローバリゼーションが進むなかで、これほど大きな国家に危機が起きれば、災難は中国にとどまらない。この国は共産党の国家ではなく、我々の国なのです。前途は自分たちで考えなければなりません。 人は知識を得ることが力になるのです。私は六四事件(天安門事件)の後、大学の講師に戻れず、図書館の職員に回された。それなら書店を開いて、知識を社会に提供できる仕事をしようと考えました。自分の選んだ本が並ぶ書棚は、私がメッセージを伝える『メディア』でもあるのです。 六四事件は中国共産党だけの罪悪だとは考えません。我々民族共同の罪であり、傷であり、悲劇です。現代化、民主、憲政や自由といった理想を追求する過程で、政治の未成熟を露呈した事件だったと思います。Q:当時と比べて、いまは?A:いまも未熟です。人は社会で果たすべき責任や義務を知り、公民(市民)として成熟していきます。にもかかわらず、公民社会を築こうと動く人々が拘束されています。知識人の分裂も激しい。30年にわたる改革がもたらした格差など、負の責任はどこにあるのか。党か、市場か、米国の陰謀か。現代化に向かって強めるべきは、国家の権力か、市場の力か。ここ数年は民主主義に反対する知識人すら現れています。Q:金融危機のような民主主義国家の経済的失敗が原因ですか。A:個人の経済的な利益にも関係しています。この体制下で先に利益を得た人たちは、民主化で失うことが怖いのでしょう。 最大の問題は政治制度です。統治の手法と社会の発展の間に、深刻なねじれがある。不満を表現する手段を持たない集団が、危機に直面したらどうなるか。その混乱を思うと楽観できません。Q:答えはあるのですか。A:大きな国がうまくやっていくには、個人的には連邦制だろうと思っています。地方にもっと権力を移譲すべきでしょう。新疆ウイグル自治区では、資源を持っていかれるだけで地元にはいいことがない、という怒りがある。上海や深セン(広東省)など都会には別の怒りがある。自分たちが稼いだ税金で地方を養っている、と。こうした不満を抑えて国を安定させるには、人々に近いところに権力を分散して移す改革が必要です。 *劉蘇里:1960年生まれ。北京政法大学講師の時、天安門事件にかかわり、20ヶ月拘束された。釈放後、93年に北京で民営書店「万聖書園」を創業。■知識の抑圧が発展阻む 東京大学准教授・阿古智子さん 万聖書園には、私も10年以上、通っています。本を売るだけでなく、読書サロンや社会・政治問題に関するセミナーなどを通じた、北京の知識人の交流の場でもあります。そのネットワークの中心にいる劉さんは大学講師時代、中国共産党中央組織部に協力して行政改革をめざした調査に取り組んでいました。1989年の天安門事件で逮捕され、党籍を剥奪されましたが、逆に言えば、そのころまでは、共産党は改革をめざす人物を幅広く抱えていたわけですところが四半世紀が過ぎたいま、自らの頭で考える人を育て、様々な分野の知識人をつなぐ役割を果たす劉さんのような存在を、共産党はむしろ脅威として遠ざけようとしています。書店のサロンも縮小されたと聞きます。 広東省では今夏、教育事業や老人ホームなどをてがける企業家の信力建氏が不正会計処理の疑いで拘束されました。出稼ぎ労働者の子どもを受け入れる学校や孤児院を設立するなど社会貢献活動に取り組み、左右両派の研究者や弁護士、メディア関係者を集める議論の場を作ってきた人です。日本の知識人と交流したいと、中国の研究者や記者ら約20人を自腹で連れて来日したこともありました。 中国では、弁護士や市民活動家ら知識人の逮捕が相次ぎ、才能ある多くの人が口をつぐみ、防御的になっています。当局は庶民にわずかばかりのお金を渡し、政府の趣旨に反する言動を密告させている。まるで文化大革命の時代のような監視が広がっているのです。 しかし、権力を維持するために、党・政府が正しいとする情報や知識だけを一方的に与えようとすれば、新しいアイデアはうまれにくくなります。中国経済が発展し続けるために欠かせないイノベーション(技術革新)も進まないでしょう。共産党の権力維持と経済の発展を両立させることが難しい段階に入っています。 *阿古智子:1971年生まれ。現代中国の社会変動を研究。著書に「貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告」など。<取材を終えて> 万聖書園の店内には、カフェ「醒客カーフェイ庁(Thinker's Cafe Bar)」がある。中国語と英語の発音をかけた名前が示す通り、「考える人」たちがくつろぎ、本を読み、語り合う場になっている。私が時々取材をしていた市民活動家も常連で、面会にはいつもここを指定した。その彼は捕らえられ、刑務所にいる。 劉さんは、戦中の上海で日本人が経営し、日中知識人の交流の場にもなった「内山書店」の名をあげて言った。「あの時代、敵国どうしでも深く交流できる書店があった。今できないわけがないでしょう」。共産党は頭や心の内側まで管理しきれない、とも。 ここに集う人々が中国13億人の多数派か、といえばそうではないだろう。だからこそ、自らの社会の行方を自らの言葉で考えずにはいられない隣国の人々との出会いを、大切にしたいと思う。(編集委員・吉岡桂子)書棚から見える中国 書店「万聖書園」劉蘇里2015.9.12この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.09.14
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図書館で『日本語は天才である』という本を手にしたが・・・・日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。この本は読みどころが多いので、更に(その2)としてして読み進めたのです。【日本語は天才である】柳瀬尚紀著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より縦書きも横書きもOK。漢字とかなとカナ、アルファベットまで組み込んで文章が綴れる。難しい言葉に振り仮名をつけられるし、様々な敬語表現や味わい深い方言もある。言葉遊びは自由自在ー日本語には全てがある、何でもできる。翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を見事に日本語にした当代随一の翻訳家が縦横無尽に日本語を言祝ぐ、目からうろこの日本語談義。<読む前の大使寸評>日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。(借りたのは2007年刊ハードカバーで、データは2009年刊文庫本のものです)rakuten日本語は天才である年金生活となった大使は、暇にまかせて読書することが多くなったわけです。昨今では、読書のせいで日本語の語彙がかなり増えてきた感がするのだが・・・そのあたりについて柳瀬さんが語っています。<箱根の山は天下の剣?>よりp19~23 そうそう、これは余談なんですが、みなさんは I'm full. という英語をいつ頃覚えましたか?「おなかいっぱい」という意味ですね。大人でも子供でもよく使う英語です。最近では早くから英語を習わせる時代らしいですから、小学生でも知っているかもしれない。しかしぼくの場合、中学でも知らなかったように思います。これを覚えたのは、おそらく大学受験時代ではないでしょうか。 いや、もしかすると当時でも、「おなかいっぱい」を英語で言えと言われたら、「マイ・スタマック・イズ・フル」とか「マイ・スタマック・イズ・サティスファイド」とか、そんな英語を口走ったかもしれない。スタマック stomach は胃ですね。そんな英語を口走って「わが胃を得たり」だったかもしれません。 どうしてこんな恥ずかしいことを話したかといえば、今、中学生以上の読者を対象としてこの講演を書き始めながら、中学生、高校生当時の自分が日本語を(もちろん英語も)恐ろしく知らなかったことを思い返さずにはいられないからです。 いやはや、恐ろしく日本語を知らなかった。 たとえば、ええと・・・・「~さざれいしのいわおとなりて~」と歌うには歌っていましたが、意味を知ったのはいつだったか。「さざれいし」は石らしいと思って、だから「岩音鳴りて」、岩のぶつかる音が鳴っていると想像していました。 「箱根の山は天下のケン~」なんてのも、「天下の剣」だと想像していた。五十歩百歩というのは二倍違うことだろうと思っていたし、大人がオンノジと言うのを耳にして「恩の字」とはうまい表現だと感心していた。社会経済に疎い頃(今でもそうとう疎いですが)大手という言葉を聞いて、大手という名の会社があるのだと思っていました。 日本国最東端の根室から早稲田大学へ入りましたが、そのとき早稲という言葉はまだぼくの語彙にはなかったはずです。日本語についてはかなりの晩稲(おくて)ですな。早稲田大学へ入った頃、そう多くの人は知らないだろうけど、ぼくは確実に知っていた日本語をいくつか書き出してみますと― 「あいてくさい」「あずましい」「あったら」「あめる」「いずい」「えんどまあ」「おばんでした」「おがる」・・・・ (大使注:この調子でえんえんと続くのだが、大使判断で以下省略しました) まあ、こんな程度でしょうか。大人になって多少は語彙も増し日本語もましになったつもりですが、しかし明日にも、いや、この講演でも無知をさらけ出すかもしれません。 それにしても、ときどき、おや?と首を傾げる日本語を発する人がいることはいます。 ぼくの趣味の一つは将棋ですが、将棋を指す人でも棋士をギシと言う人がいる。ぼく自身も、天才棋士・羽生善治さんとは十数年のお付合いになりますが、最初に活字だけで出会ったときにはハニュウさんかと思っていた。埴生の宿とか羽生市がありますからね。(中略) もっと社会的に地位のある人が、身をコナにすると二度もおっしゃるので困ったことがあります。身をコナにしても身を誤まりはしないのでしょうが、読みは誤りですね。身を粉(コ)にするのでなくてはなりません。 そういう日本語を耳にすると、イッヒキニビキサンピキというような日本語を聞いてみたいに奇異な感じがする。一匹二匹三匹ならわかりますがね。 わき道にそれましたけれど、日本人でも年齢に関係なく、学歴や社会的地位に関係なく、日本語は不完全だし、よく間違えるということを言いたいのです。そして言葉は間違えながら覚えるということを言いたいのです。とくに若い人にそれを言いたい。若い人たちの日本語は、語彙があまりにも乏しい。嘆かわしいくらいに貧しい。それは今の時代にかぎらなくて、ぼくらの世代もそうだったし、ぼくら以前の世代もそうだったでしょう。 まずは、耳なれない言葉や聞きなれない言葉に興味を持ってほしい。それを間違って覚えたり、間違いながら使ったりしているうちに語彙はふえます。恥ずかしい言い間違いや、聞き間違いのエピソードには、皆さんも事欠かないと思うけど・・・・なに、日常生活を楽しくさせる潤滑材みたいなもんでんがな♪でもやはり、本など読んで語彙を増やしておく必要はあると、大使でも思うのです。文字を知った人という意味のモンジシャという言葉が出てきます。・・・当時としては、なかなかの表現ではないか♪<「文字者」作の和製漢語>よりp51~55 ちょっと話が脱線しましたか? そうなのです。その脱線です。 右の七行の文章で使った、後ろから順に―脱線、自費、時間、自習、自慢、独創、自体、独特、定着、世紀、独自、今度―こうした漢語はすべて、37ページに引いた新潮現代国語辞典の3.和製漢語なのです。 もう少し立ち入りますと、時間と世紀という語は古い漢語にある。しかしその時間は、ぼくらが時間、空間と言う場合の意味ではなく、世紀は「百年」という意味ではありません。そして時間も世紀も、日本語と同じ意味で現代の中国語として使われているのです。いま登場した空間の場合も、やはりそうです。 『漢語外来辞辞典』という中国の外来語辞典には、すでに中国語として定着した和製漢語が900語近く収録されています。その中には、共産主義や共鳴、入口や出口や簡単など、普通の会話に使われそうな言葉も少なくない。その会話もまた、この辞書には日本製であると記されています。 古い漢語である出口(しゅっこう)は、口から出すの意ですが、もはや中国の若者には忘れられている古語らしい。いつか中国の青年にそのことを言ったら、「勉強になりました」とお礼を言われました。 万葉仮名から一気に現代の漢語へ話を進めてしまいましたが、日本語が漢字を天才的に使いこなしてきたことは、おわかりいただけたと思います。 もう一つ付け加えますと、かつて無一文字だった日本語は、室町時代の後半、16世紀には相当な「文字者(もんじしゃ)」になっていた。『日葡辞書』という、宣教師たちが作った日本語=ポルトガル語辞書があります。長崎で1603年に出版されました。この辞書にMonjixaがいます。 Monjixa.モンジシャ(文字者)すなわち、monnjiuo xitta mono.(文字を知った者)日本の文字を熟知している人。『邦訳日葡辞書(岩波書店)』 日本語が文字者という日本語で自分を名乗ったことに、ぼくはなにか心の底から嬉しくなります。 この章で使った和製漢語について、少し補足しておきましょう。 簡単(以前は、むしろ「簡短」とか「簡端」とか書くのがふつうでしたが)これは漢字を用いて造られた造語です。 36ページで、「こんな冗談を言うなんて、常識も良識もない男・・・」と言いました。 冗談は、もともとあった日本語に冗と談をあてたものです。 良識はフランス語のボンサンス bon sens(良き感覚という意味です)それを翻訳した。 常識という言葉も同じように、英語のコマンセンス common sense を翻訳して作った。 漢字を使った日本語の天才的な造語能力を示すほんの数例です。 簡単や常識は中国語に入りましたが、もちろん中国語では使われない和製漢語もあります。 その代表例は時計でしょうか。最近は中国へ旅行する日本人が年間340万人もいるそうですから、たぶん中国語の時計がピョン(鐘の簡化字)であるのを知る人は多いはずです。時計は一般には通じないようです。ただし『漢語外来辞辞典』には方言として収録されていますので、時計という実にうまくできた和製漢語もそのうち中国語に定着するのでしょうか。 そうそう、もう一つ言い忘れていました。 日本語は漢字に倣って文字を作りました。国字と呼ばれます。 最近、出番の多い国字は「込」でしょう。振り込め詐欺に一役買っているみたいで、ちょっとかわいそうな気がします。 本章の初めで、榊山潤という人の名を出しましたが、その姓「榊」は国字です。友達や知り合い姓に、辻、畑、畠、樫、椚などの漢字の入っている人がいると思います。いずれも国字です。 ほかにもいろいろあります。 凧。布巾とか雑巾とかがあったのですが、今はティッシュペイパー、それも略してティッシュになった。頭巾や巾着も、ぼくは言葉では知っていても実際には使ったことがない。巾は「ぬの」です。カゼは風の省略形です。風に乗って布が大空を溌溂と舞っているではありませんか。そうそう、この「溂」も日本製です。 「ぬの」でなく、風が止まってしまうと凪になる。朝凪、夕凪―日本語特有のいい言葉ですね。英語でMorning calm Evening calm と言っても風が止まった静けさは感じられない。日本語は天才である(その1)
2015.09.13
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「何でもあり」でしょうか♪<大学図書館>・里山のことば・メタルに遊ぶ・染織の挑戦、芹沢ケイ介<市立図書館>・街場の戦争論・農山村は消滅しない・日本語は天才である図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【里山のことば】今森光彦著、世界文化社、2006年刊<「BOOK」データベース>より大切なあなたに伝えたい!美しい里山と美しい日本語。里山の四季の移ろいを季節の呼び名で綴る、ファン待望の一冊です。厳選された100枚の写真と季節のことばが心にしみる。見て、読んで、感じる、フォトエッセイ集。<読む前の大使寸評>写真が素晴らしいし、付けられた説明文やエッセイがええでぇ♪どこから見ても、読んでも・・・俳句の季語のように、日本人なら心に響くわけでおま♪rakuten里山のことば里山のことばbyドングリ【メタルに遊ぶ】ムック、マリア書房、2010年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>高さ3.25m、重さ850kの金属製ゾウとか、本物ソックリの金属製クワガタとか、「溶接のススメ」という章立てとか・・・大使のツボがうずくのです。rakutenメタルに遊ぶ【染織の挑戦、芹沢ケイ介】芹沢ケイ介美術館(静岡市立)著、平凡社 、2011年刊<みんなのレビュー>より芹沢氏の経歴、作品などコンパクトにまとめられています。氏の膨大な作品量に対して本に載るのはごく一部ですから、どうしても物足りなさはあります。でもカラーの美しい写真でみることができるのはありがたいことです。肉筆画やステンドグラス、陶器の絵付けといった珍しいものまで載っていて、とても興味深く読みました。<読む前の大使寸評>芹沢氏の経歴、作品などをざっと見たら、マルチメディアの人である。なにより、型絵染が版画に似ているので、大使のツボがうずくわけです。rakuten染織の挑戦、芹沢ケイ介【街場の戦争論】内田樹著、ミシマ社、2014年刊<「BOOK」データベース>より改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動…。「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を別の視座から見ると、まったく別の景色が見えてくる!現代の窒息感を解放する全国民必読の快著。<読む前の大使寸評>内田先生なら、集団的自衛権をどう論じるか?とにかく、国会でも安保法制で時間稼ぎ審議中でもあり、全国民必読の本というのもうなずけるのです。<図書館予約:(6/01予約、9/06受取)>rakuten街場の戦争論里山のことばbyドングリ【農山村は消滅しない】小田切徳美著、岩波書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より増田レポートが「どっこい生きている」地方にショックを広げている。このままでは地方は消滅するのか?否。どこよりも早く過疎化、超高齢化と切実に向き合ってきた農山村は、この難問を突破しつつある。現場をとことん歩いて回る研究者が丁寧にその事例を報告、地方消滅論が意図した狙いを喝破する。<読む前の大使寸評>「地方消滅」という増田レポートの表現には驚いたが・・・・この新書での反論に期待したいのである。「地方創生」論議で注目、増田レポート「地方が消滅する」は本当か? 木下斉を、あとで読もう。rakuten農山村は消滅しない農山村は消滅しないbyドングリ【日本語は天才である】柳瀬尚紀著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より縦書きも横書きもOK。漢字とかなとカナ、アルファベットまで組み込んで文章が綴れる。難しい言葉に振り仮名をつけられるし、様々な敬語表現や味わい深い方言もある。言葉遊びは自由自在ー日本語には全てがある、何でもできる。翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を見事に日本語にした当代随一の翻訳家が縦横無尽に日本語を言祝ぐ、目からうろこの日本語談義。<読む前の大使寸評>日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。(借りたのは2007年刊ハードカバーで、データは2009年刊文庫本のものです)rakuten日本語は天才である日本語は天才であるbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き113
2015.09.13
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図書館で『農山村は消滅しない』という本を手にしたが・・・・日本創生会議の増田座長が発した「地方消滅」という言葉の衝撃が冷めやらぬ今、この新書での反論に期待したいのである。【農山村は消滅しない】小田切徳美著、岩波書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より増田レポートが「どっこい生きている」地方にショックを広げている。このままでは地方は消滅するのか?否。どこよりも早く過疎化、超高齢化と切実に向き合ってきた農山村は、この難問を突破しつつある。現場をとことん歩いて回る研究者が丁寧にその事例を報告、地方消滅論が意図した狙いを喝破する。<読む前の大使寸評>日本創生会議の増田座長が発した「地方消滅」という言葉の衝撃が冷めやらぬ今、この新書での反論に期待したいのである。rakuten農山村は消滅しない著者は1970年代以降に、三つの空洞化が進んでいると説いています。いや非常に分かりやすい説明になっています。<三つの空洞化>よりp16~22 確かに、農山村では、地域の空洞化が進んでいる。それを、筆者は「人・土地・むらの三つの空洞化」として繰り返し問題提起している(小田切徳美『農山村再生』2009年)。そのポイントを、改めてまとめてみよう。1.人の空洞化 農山村における過疎化は、高度経済成長期に著しく発現した。最初の過疎法は、1970年に「過疎地域対策緊急措置法」として制定されている。「緊急措置」が必用なほど人口減少の勢いは激しかったのである。この現実は当時の文献が雄弁に語っている。例えば、「過疎」という造語が生まれたとされる中国山地では、地元新聞社が人口流出を次のように活写している。「この10年間に村の人口は3,4割も減ったというところが続出している。それまでが「過剰人口」だといえばそれまでだが、村に残った人たちの質的エネルギーを換算すれば、村の力は10分の1にも減ったといってもいい。しかも残った人たちが「隣がいつ町に出るやらわからず、いらいらして仕事が手につかない」と話すのを聞いた。集落の生活基盤が、用意のないまま土台から変わっているのだ」(中国新聞社編『中国山地(下)』未来社、1968年) 民俗学者の宮本常一氏もまた、この時期の急激な変化を記録していた。「とくに耕地もせまく、労働条件のわるい瀬戸内海の島々などの離村者は、目ざましいといえる。広島県江田島のごときは、昭和36年1月から9月までの間に、1300人が島外に去ったという。1ヵ月に145人ずつが、村をすてたことになる」「青年団の使命感の中には、郷土をよりよいものにしようとする気持ちがつよかった。そして、農村の未来になってたつ意気込みがあった。そういうものが、急にうすれてしまってきた。都市の発展のほうが目ざましく、自分たちの少々の力で農村の建て直しなど、ありようもないという絶望感がそうさせてきたのである」(宮本常一『村の若者たち』家の光協会、1963年) この文献の中で、宮本氏は氏らしく、「それだけに一方では、村にのこる者に対するいたわりとはげましが必用なのである」と地域から出ない少数の若者の苦悩や孤立感に寄り添おうとしている。 この二つの記録からも直ちに理解できるように、人口移動はあたかも何もかも飲み込む泥流のようなものであり、それに抗することは不可能であった。再び『中国山地』の言葉を借りれば、「ここ100年の間、基本的にはほとんど変わらなかった農村の生活が、この10年間、いっきょに変容の波にのまれた。その波にのまれながら、流れていく方向がわからない」(『中国山地(下)』)という状況にあったのだ。 しかし、1970年代の低成長期に入り、都市からの吸引力が衰えたことや政策支援によって農山村の生活条件の整備が進んだこともあり、以前の雪崩のような人口流出は沈静化した。ところが、過疎化はその後、さらに第二幕に突入した。人口の社会移動により、人口ピラミッドは大きくいびつ化し、出生者数よりも死亡者数が多い人口自然減社会が始まったのである。制度上の過疎地域に限定しても、そのような変化が生じたのはそう昔のことではなく1988年のことである。 2011年度の数字で見れば、過疎法指定市町村合計の人口減少数は13.7万人であるが、その62%が自然減であるのに対して、社会減は38%である。現時点では、過疎地域の人口減少は高齢化による人口自然減が全体をリードし、農山村の「人の空洞化」は続いている。2.土地の空洞化 このような高度経済成長期の「人の空洞化」は、その後「土地の空洞化」に連鎖する。しかし、それが顕在化するまでにはタイムラグがあり、約20年後の1980年代後半以降のことである。 その要因は複合的であるが、この時期が農山村に残った親世代の農業からのリタイア期に重なったことが重要である。それは次のように説明されよう。1960~70年代の人口流出期にも地域に残った当時の中高年齢層は、その後の農業機械化によって、後継者世代がいなくとも農業が継続できていたのである。それでも、この時期になると、彼らは70~80歳代となり、さすがに営農は困難となった。(中略) このような状況が次々と明らかにされる中で、農林水産省により新たに発掘された言葉が、実は「中山間地域」である。その初出は1987年のことである。日本農業の宿アは、それまでは「担い手過剰」、そして「農地不足」であった。しかしこれらの地域では、今まで経験したことがない「担い手不足」という状況が生まれていた。そうした現象は、過疎化が進んだ山間地域で顕著であった。 山間地域とその周辺部では何が起きているのか。政策サイドがこのような問題意識で地域を特定化するために「中山間」が使われ、新たに定義された。この言葉は、元々は「中ぐらいの山間部」という意味で、中国山地の特定の地域を指す言葉であったのが、この段階で新たな意味に生まれ変わったのである。3.むらの空洞化 1980年代後半に顕在化した「土地の空洞化」に加えて、1990年代初頭には、「むらの空洞化」が新たに生じることになる。ここで「村」ではなく「むら」とするのは、行政村ではなく集落を表現するためである。 その「むら」の変化を、社会学者の大野晃氏は次のように明らかにした。舞台は、1991年の高知県の山村である。「集落にこの世帯(独居老人世帯)が滞留し、そのため社会的共同生活を維持する機能が低下し、構成員の相互交流が乏しくなり各自の生活が私的に閉ざされた「」的生活に陥り、(中略)以上の結果として集落構成員の社会的生活の維持が困難な状態となる。こうしたプロセスを経て、集落の人びとが社会生活を営む限界状況におかれている集落、それが限界集落である」(大野晃「山村の高齢化と限界集落」『経済』1991年7月号) フィールドワーカーの目には、集落内の人口規模縮小と高齢化が進み(人の空洞化)、農林地の荒廃(土地の空洞化)に引き続き、集落機能の著しい停滞(むらの空洞化)が確かに捉えられていたのである。「限界集落」という刺激的なネーミングやその定義、さらに一面的なその展望にかかわる氏の認識は批判せざるを得ないが、集落の実態を農林業の態様だけではなく、生活レベルで明らかにした点は、評価されるべきであろう。<「超高齢化社会」の挑戦>よりp35~22 80歳を超える代表者は、この地域を次世代につなぐことを何よりも意識し、それを自分たちの役目として日々活動している。また、それを受けて、同席した後継者(当時44歳)は次のように自らの思いを述べている。やや長くなるが、その発言のすべてを紹介したい。「この地域の農地は基盤整備が済んでおり、機械化作業ができるという点でも私たちにとって非常に価値があり、それを親の世代の人たちが守ってきてくれたことに対してとても感謝している。できれば道をもう少し整備すれば他出者も帰りやすくなると思う。農業に関しては、共同作業や共同機械利用の仕組みをつくってもらっているので、自分たちの世代にとっては、やりやすい立場・条件にある。 しかし、先々は、地元に住んでいる者だけでは集落を維持できなくなる心配もある。そのために、例えば、まちづくり組織等を活用して、今は農業に直接的にかかわっていない一般住民や都市住民、民間企業、会社等々、多くの人々や外の力も活用しながら地域をサポートできるような仕組みが必要と考えている。 自分自身はこの歳(40歳代)になって、地域への愛着がわいてきいた。ベストセラーになっている『国家の品格』(藤原正彦、2005年)にもあるように、田園風景は人の情緒を育むのにとても大切だと思うし、かけがえのないものとして自分たちが守り、必ず子どもたちに残してやりたい。自分もこの風景の中で働いている親や隣人の姿を見ながら育ってきたし、育てられてきた。日本人にとってかけがえのないものだとも思う。 昨今、世間では盛んに国際化が叫ばれているが、英語を勉強するよりも田んぼに入って草取りをして、人間性そのものを豊かにすることの方が、国際化にふさわしい人間を育てると思う。各地方でしかできないことを残していくことが、結果的に町や国のためになるのではないか。ここは小さな集落であるが、ここを見捨ててしまうことは国をも見捨てることと同じこと思う。小さいながらもこの地域にできることもきっとあるはず。これからも集落に愛着を持って接していくことで、自分にできることをやっていきたい」 今はこの集落に住まない後継者でさえも、地域をバトンタッチして、さらに次の世代につなぐことを意識している。先に論じた、集落の強靭性はこのようにして維持されている。 なお、2014年の現在もこの集落では変わらずに生活と営農が続けられている。集落代表者は90歳となっている。ここで、ネットから木下斉氏の論説を紹介します。人口統計だけを軸にした「地方消滅」論は、本質から目を背けさせてしまうことにも繋がりかねないとのこと・・・この短絡には注意しておきましょう。2014/10/27「地方創生」論議で注目、増田レポート「地方が消滅する」は本当か? 木下斉より安倍政権は、今国会を「地方創生国会」と位置づけ、国会では地方活性化に向けた政策についての議論が始まった。「地方創生」という考え方に大きな影響を与えたとされているのが、「2040年までに896の自治体が消滅する」と予測した日本創生会議(増田寛也座長)の発表である。これに対し、数々の地方都市の街づくりのプロジェクトにかかわる、木下斉(きのした・ひとし)氏は、「地方消滅という言葉が一人歩きしている」と警鐘をならす。地方が抱える課題とは何か。木下氏に聞いた。--------------------------------------------------------------------------- 元総務大臣の増田寛也氏が代表を務める、日本創生会議が「地方消滅」を唱えたことで、「人口減少社会」、そして「消滅可能性自治体」の議論が大きくクローズアップされています。そして、安倍政権は、今国会を「地方創生国会」と位置づけ、地方活性化に向けた政策について議論するとしています。(以降、ネット参照)
2015.09.12
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図書館で『日本語は天才である』という本を手にしたが・・・・日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。【日本語は天才である】柳瀬尚紀著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>より縦書きも横書きもOK。漢字とかなとカナ、アルファベットまで組み込んで文章が綴れる。難しい言葉に振り仮名をつけられるし、様々な敬語表現や味わい深い方言もある。言葉遊びは自由自在ー日本語には全てがある、何でもできる。翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を見事に日本語にした当代随一の翻訳家が縦横無尽に日本語を言祝ぐ、目からうろこの日本語談義。<読む前の大使寸評>日本語や英語に関する薀蓄には定評があり、なにより、柳瀬さんの本は面白いはずである。(借りたのは2007年刊ハードカバーで、データは2009年刊文庫本のものです)rakuten日本語は天才である柳瀬さんの薀蓄のひとつを見てみましょう。<!を呑み込んだ日本語>よりp73~76 余談になりますが、チャールズ・キングズリーという19世紀のイギリス人作家に《West-ward Ho!》という小説があります。エリザベス時代を舞台とした海洋冒険物語です。ちなみにこの作中にも“Oh God! oh God!”という嘆き声などが出てくる。そして、この小説のタイトルがそのまま感嘆符付きで地名になっている場所が、南イングランドにあります。つまり、ウェストワード・ホウ!海水浴場のある観光地として知られています。 ついでながら、カナダのケベック州に、やはり感嘆符付きでSaint-Louis-du-Ha! Ha!という小さな町があります。ケベック州で使われているのはほとんどフランス語ですから、サン=ルイ=デュ=ア! ア!でしょう。 《West-ward Ho!》という作品を、ぼくはアーノルド・ベネットという同じくイギリスの作家経由で知りましたが、そのベネットの小説に、若い男女のこんな愉快なやりとりがあります。“Fifty pounds! How mean! Your brother is rich enough to invest!”“Do modify your exclamation marks” 「50ポンドですって! しみったれ! お兄さんはお金持ちなんだから、ぽーんと出せるじゃない!」 「感嘆符を加減してくれよ」 もう少し感嘆符にお付合いください。 永井荷風が生田葵山という作家に宛てた手紙に、 葵山君!! と書き出しているのがあります。これは荷風の中では、かなり珍しい例です。同じく荷風の『ふらんす物語』(明治42年刊)に、こういう文章があります。 文字で示したら、エキスクラメエシヨン、マアクの三つ-!!!-も付く様な語調で 永井荷風は、外国からの記号を用いたこの形容を、もしかすると独創的な言い回しと思っていたかもしれません。少なくとも、江戸趣味に殉じ、文章の中ではほとんど感嘆符や疑問符などを用いない人ですから、意味を込めて!!!を使ったことは確かでしょう。 しかし、当時すでに、これらの記号は日本語の中で珍しいものではなくなっていました。何人かの作家の使用例を挙げてみましょう。 「占めたぞ! 占めたぞ!! 有難い!!!」 (尾崎紅葉『金色夜叉』) 恋愛観の結末に同じく色鉛筆で色情狂!!!と書いてある。 (夏目漱石『野分』) 「断じて眼を! 眼を!! 眼を!!! ひらき」 (宮沢賢治『疾中』)もうひとつ見てみましょう。<敬語は「お」苦が深い>よりp111~114 おしっぽの「お」にもうすこしおつきあいください。 池田弥三郎『暮らしの中の日本語』に、次のようなくだりがあります。 おでんなどは「お」はとれない・・・おひやを持ってこいと言った場合は水が来るが、ひや持ってこいというと酒がきてしまう。まけとおまけとは違うし、つきあいとおつきあいとには、また微妙な違いがある。しぼりとおしぼりとは違うし、しゃれとおしゃれも違う。・・・にぎりもそうで、にぎりというとおすしで、これはちらしずしに対してにぎりずしのことだが、おにぎりというとむすびのことで・・・(中略) 敬語というのは「お」苦が深いかもしれませんね。しかし必ずしもその「お」苦が不快ではないように思います。臆せずに敬語を使うようにすれば、たとえば、初対面の相手や年長者に、自分の輪郭を鮮明に印象づける爽快感を幾度も味わうことができるはずです。 お「ビール」について言うと、ぼくはそれが耳障りに聞こえません。よほど体調を崩さないかぎりビールを飲まない日はないので、外来語という感触も味覚もないからでしょうか。あるいは、そういう世代なのかと思っていたら、ずっと年長の大野晋先生がこう書いておられます。 「お財布を落としてしまったものですから」というような言い方をした場合に、その財布は話手のもので、相手のものでも、尊敬する人のものでもなく、また、尊敬する人に対するものでもない。しかし、財布を話題にするときに、それに「お」をつけることによって、その話題の場全体を尊敬的な、丁寧なものとして考えていることを話手が示すのである。 だから、料理屋で、女中さんたちが、「おビール」「お手ふき」「おてもと」などと、何にでも「お」をつけるのは、話題全体を尊敬的に扱っていることを示すもので、あまりそれを責めるのは、酷なことだということになろう。 (『日本語の年輪』)
2015.09.11
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<街場の戦争論>図書館で予約していた『街場の戦争論』という本を約3ヶ月待ってゲットしたのです。当地の図書館では、売れ筋の小説ならいざ知らず、堅い内容の本なら3ヶ月ほど待てば借りられるというわけですね♪折りしも、政権与党は安保法案を参院特別委で16日に採決する方針だそうです。えらいこっちゃ、アメリカの戦争に加担するニッポンになるのか?【街場の戦争論】内田樹著、ミシマ社、2014年刊<「BOOK」データベース>より改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動…。「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を別の視座から見ると、まったく別の景色が見えてくる!現代の窒息感を解放する全国民必読の快著。<読む前の大使寸評>内田先生なら、集団的自衛権をどう論じるか?とにかく、国会でも安保法案で時間稼ぎ審議中でもあり、全国民必読の本というのもうなずけるのです。<図書館予約:(6/01予約、9/06受取)>rakuten街場の戦争論内田先生の一見右がかったご意見を見てみましょう。要するに44年当時は、責任を持って考える中枢部がいなかったということなんですが。<なぜ「ふつうの敗戦国」になれなかったのか>よりp44~46 僕が本の第一稿を仕上げて、細かい手直しをしているときに、柴田元幸さんから彼の新しい訳本、フィリップ・ロスの『プロット・アゲインスト・アメリカ』が送られてきました。これは1940年の大統領選挙で、非戦論を掲げる共和党の大統領候補チャールズ・リンドバーグ大佐が民主党候補のフランクリン・ローズヴェルトを破り、アメリカが第二次世界大戦に参戦しなかった世界を描いた小説です。 フィリップ・K・ディップの名作『高い城の男』はアメリカが枢軸国に負けて、東半分をドイツに、西半分を日本に占領されたアメリカを描いたSFです。こういう「起きなかった出来事が起きた場合の自分たちの社会はどうなったか」を想像することに知的資源を投じる習慣を僕は羨ましく思います。それは単なる「ディストピアSF」というのではなく、自国の過去に潜在的に含んでいた「今とは違う現実になる可能性」を冷静に吟味したものだと思うからです。 仮に日独伊と友好国になった場合でも、仮に日独に占領された場合でも、それでもアメリカ社会とアメリカ人において今と変わらないものがあるとしたら、それがアメリカにとっての「強い現実」であり、歴史的状況が違っていたらまったく別のものになっているものが「弱い現実」です。フィリップ・ロスやフィリップ・K・ディップは小説を通じて、やはり「アメリカとは本質的に何なのか」ということをラディカルな仕方で問おうとしていたのだと僕は思います。 僕は小説家としてそのような世界を想像的に構築する能力がないので、こうして論文ともエッセイともつかないぎこちない形式で「そういう話」をしてみせるしかない。 話を戻します。統計的にたしかなことは、44年以前に講話していたら、大正世代の多くは生き残っただろうということです。大正時代に誕生した日本人男子は1350万人。うち200万人が戦死しました。7人に1人です。そのほとんどは最後の1年間に死んだ。先んじて講和していれば、大正世代の多くは生きて戦後を迎えることができました。 本土空襲が始まったのは1944年暮れからです。それが翌年8月15日まで続きます。この空襲による死傷者は75万人。被災者は1000万人。原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。44年までに講和が成立していれば、この死傷者被災者はほぼゼロえあったことになります。 せめてあと1年半早く休戦していたら、日本は戦後の再建を担うだけの人的資源を失わずに済んだ。それが「ふつうの敗戦国民」になれたことの重要な条件だと僕は思います。その世代が生き残ってくれていたら、それは多くの青年たちが「次は勝つ」という国家目標に切り替えることができたということです。次の戦争でアメリカに勝つためにはどうすればいいかをリアルかつクールに吟味することがえきたということです。 そのような計量的知性はおそらく「敵対するよりも同盟関係を結ぶほうが国益にかなう」という結論を導き出すでしょう。しかし、クールでリアルな計算の結果として選択された「アメリカに二度と負けないための戦略としての日米同盟」は今の「アメリカに永続的に従属するための」日米同盟とはまったく異質のものであったはずです。外形的には似ているかもしれないけれど、主権国家が主体的に選択した同盟と従属国家に強制された同盟では天地の違いがある。内田先生が次の章でも触れているが、士大夫の気風は日中ともに絶えて久しいわけです。つまり日中ともに国民国家を超える共通の規範を持っていないので、ナショナリズムが興隆してきます。<支配層のクロスオーバーな連帯>よりp227~229 オルテガ・イ・ガセーの時代の気分を後年想像的に回顧した文学作品にカズオ・イシグロの『日の名残り』があります。これは大戦間期のイギリスを舞台にした話です。 イギリス貴族であるダーリントン伯爵がヨーロッパ諸国のエリートたちを自宅に招集し、衆知を集めて、敗戦国ドイツをどうやって支援し、自立させるかを議論します。敗戦国を追い詰めることを伯爵は望んでいません。彼はフェアプレイ精神の英国紳士ですから、戦争では果敢に戦うけれど。いったん勝敗が決した後は、敗者ドイツの名誉を重んじ、その復興を全力で支援しようとする。その秘密会議が物語のひとつの山場となります。 しかし、ヨーロッパの平和の道を探るこのダーリントン伯爵家の会議に登場したアメリカの議員ルイースはこの平和会議の無意味性を激しい言葉で言い立てます。 「私も率直に言わせていただきましょう。ここにおられる皆さんは、まことに申し訳ないが、ナイーブな夢想家にすぎない。」(カズオ・イシグロ『日の名残り』ハヤカワ文庫) そしてダーリントン伯爵をこう酷評します。 「古典的な英国紳士だ。上品で、正直で、善意に満ちている。だが、しょせんはアマチュアにすぎない。そして、今日の国際問題は、もはやアマチュア紳士の手に負えるものではなくなっている。私としては、ヨーロッパが早くそのことに気づいてほしいと願っているのですよ。上品で善意に満ちた紳士諸君、諸君にひとつお尋ねしましょう。諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはあわかりか? 高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。」(同書) このアメリカ議員はまさにオルテガが「大衆の反逆」と呼んだ歴史的変化を人格的に表象したものでした。 僕たち日本人は階級社会ではないところに暮らしているので、国境線と同じくらいに階級が差別化機能を果たしている社会のありようをうまく想像することができません。それは別の言い方をすると、階級を「レバレッジ」に用いると国境線の分断機能が抑制できるという「貴族の発想」をうまく実感できないということです。 たしかに、戦前の一時期までは、日本の文人たちは韓国や中国の士大夫層とその教養において、価値観において、美意識において、かなりの共通点を有していました。漢籍を読み、漢文漢詩を作ることのできた人々は、朝鮮半島でも中国大陸でも、複雑で深遠な主題について筆談によってほぼ完璧な意思疎通をおこなうことができた。宮崎滔天や頭山満や北一輝らがアジアを縦横に駆け抜けて各地の革命家と交友を取り結ぶことができたのは、国境線を越えて「士大夫のエートス」が共有されているという「大いなる幻影」の効果だったのではないかと僕は思います。でも、そのような伝統は絶えて久しい。 ヨーロッパの場合、国民国家と階級社会は、イスラム圏における領域国家と宗派のように、微妙に利害を異にしています。そして、そこにこそ国民国家スキームを「ずらす」ことのできる、ある種のレバレッジもある。 カール・マルクスが『共産党宣言』の最後に「万国のプロレタリアートよ団結せよ!」と書いたのは、支配階級のクロスボーダーな連帯である「万国のブルジョワジーの団結」はすでに存在しているのに、被支配階級は国境線によって分断されているという非対称的な事態を言い表した言葉ではなかったかと僕は思っています。
2015.09.11
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図書館で『里山のことば』という本を手にしたが・・・・写真が素晴らしいし、付けられた説明文やエッセイがええでぇ♪どこから見ても、読んでも・・・俳句の季語のように、日本人なら心に響くわけでおま♪・・・ということで借りたのです。【里山のことば】今森光彦著、世界文化社、2006年刊<「BOOK」データベース>より大切なあなたに伝えたい!美しい里山と美しい日本語。里山の四季の移ろいを季節の呼び名で綴る、ファン待望の一冊です。厳選された100枚の写真と季節のことばが心にしみる。見て、読んで、感じる、フォトエッセイ集。<読む前の大使寸評>写真が素晴らしいし、付けられた説明文やエッセイがええでぇ♪どこから見ても、読んでも・・・俳句の季語のように、日本人なら心に響くわけでおま♪rakuten里山のことばこの本で、秋の七草を見てみましょう。アメリカでは、外来植物として猛威をふるっているクズだが・・・日本では功罪なかばして、その香りは愛されてもいるようです。<土手と七草>よりp92 ススキの穂が銀色に光りながらそよいでいる。涼風にのって、あまったるいクズの香りがどこからか運ばれてくる。夏が過ぎ去った秋は、もの悲しくもあるが、これからやってくる豊饒への期待に胸が膨らむときでもある。 野の草花に出会うには、農道の緑や田んぼの土手がいちばんだ。 昔は、山肌を開墾したり湿地を利用して田んぼがつくられたから、土手の土は、もともとあったもの。土には、さまざまな植物の種子や根っこが残っているので、絶滅することなく生きのびた。野辺そのものはなくなってしまったが、田んぼの土手やあぜの中で生命たちは、りっぱに受け継がれている。 田んぼの土手は、植物にとって実にすぐれたものだった。水が張られた田んぼの際は、半湿地の植物が宿るにはもってこいだったし、傾斜のきつい水はけの良い土手では、やや乾燥したところを好む植物が根を下ろすには好都合だった。 そしてなにより、そうした環境が毎年人の手によって継続され、季節ごとに規則正しくやってくる。野性のときより生息場所はコンパクトになったとはいえ、植物たちにとっては、安定した土地が手にはいった。 色とりどりに咲く秋の七草もまた、人の生活に歩調をあわせてきた植物で、土手という舞台で咲き誇る。IMAMORI MITSUHIKO WORLDで今森さんの写真やブックリストが見られます。
2015.09.10
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本屋にダ・ヴィンチ7月号(又吉直樹特集)が平積みになっているが・・・ムム、『ダ・ヴィンチ』史上初のバックナンバー緊急増刷のようです。・・・ということで遅ればせながら、ダ・ヴィンチ7月号を買い求めたのです。文学界の救世主のような又吉さんであるが、それどころか、出版界の救世主なのかもね。それはさておき、『ダ・ヴィンチ』購入2冊目?になったので並べてみます。・ダ・ヴィンチ7月号(又吉直樹特集)(2015年)・ダ・ヴィンチ10月号(百田尚樹特集)(2013年)【ダ・ヴィンチ7月号(又吉直樹特集)】雑誌、メディアファクトリー、2015年刊<アメーバニュース>より芥川賞受賞作となった又吉直樹の『火花』。受賞後すぐに40万部の増刷を決定したものの、全国の書店で完売状態に…。さらに増刷し、累計発行部数は124万部を突破! その勢いは増すばかりだ。 又吉人気は『火花』以外にも拡がっている。現在8月号が販売中の雑誌『ダ・ヴィンチ』。45ページにわたる又吉特集を組んだ『ダ・ヴィンチ』7月号(6月5日発売)は飛ぶように売れ、急遽2万部の増刷が決定した。なお、『ダ・ヴィンチ』でバックナンバーが増刷となるのは同誌史上初の快挙! なんと表紙も祝・芥川賞受賞バージョンに。現在品切れ中の『火花』が店頭に並ぶころには、『ダ・ヴィンチ』7月号も再び書店に並ぶはずだ。<読む前の大使寸評>文学界の救世主のような又吉さんであるが、それどころか、出版界の救世主なのかもね。・・・ということで、大使にとっては『ダ・ヴィンチ』購入2冊目?になったのです。おっと、『ダ・ヴィンチ』の宣伝になってしまったが・・・又吉さんに関しては、芥川賞受賞以前から、NHK番組「オイコノミア」を通じて、謹厳実直かつ天然ぼけのパーソナリティに惹かれていたわけでおます。又吉直樹特集『ダ・ヴィンチ』史上初のバックナンバー緊急増刷決定!2年前のダ・ヴィンチ10月号もよく売れてましたね。【ダ・ヴィンチ10月号(百田尚樹特集)】雑誌、メディアファクトリー、2013年刊<目次>より百田尚樹 大特集怯まない・屈しない・切り捨てない──◎働くことは生きること【対談】稲盛和夫(京セラ名誉会長)×百田尚樹◎『海賊とよばれた男』に心動かされる理由◎『永遠の0』が熱い理由◎芸人が読む百田尚樹【対談】博多華丸(博多華丸・大吉)×藤原一裕(ライセンス)◎潜入! 『探偵!ナイトスクープ』から作家・百田尚樹を知る◎百田尚樹解体全書&全作品紹介◎百田尚樹書き下ろし短編小説「賭けられた女」<大使寸評>『探偵!ナイトスクープ』のスタッフと共に語る楽屋ウラ話が面白い♪この番組が作家・百田尚樹を育てたといって、過言でないと思うのだが・・・とにかく、エンタメ志向の強い作家である。fujisanダ・ヴィンチ10月号(百田尚樹特集)
2015.09.08
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図書館に予約していた『ベン・シャーンを追いかけて』という本をゲットしたのです。大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。【ベン・シャーンを追いかけて】永田浩三著、大月書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より 1898年に生まれ、1969年に亡くなったベン・シャーン。激動の二〇世紀を疾走したこの画家は、絵画だけでなく、壁画、写真、レコードジャケット、ポスター、舞台芸術で大きな業績を残し、さまざまな社会問題も描いた。『W・P・A・サンデー』『幼かりし日の自画像』『解放』『寓意』『ラッキードラゴン』『美しきものすべて』…。これらの作品に、わたしたちは物語を呼び起こされ、そして自分の人生を重ね合わせる。ベン・シャーンの絵は、なぜわたしたちをひきつけてやまないのか。その答えを探しに、ゆかりの地を訪ね歩いた。【目次】第1章 故郷リトアニア、そしてアウシュビッツ第2章 ヨーロッパで見つけたもの第3章 アメリカのアート・ジャーナリスト第4章 世の不公正にあらがう第5章 ベン・シャーンとヒロシマ第6章 抵抗の画家と韓国を結ぶもの第7章 ベン・シャーンを愛する国、日本<大使寸評>大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。<図書館予約:(8/17予約、8/22受取)>rakutenベン・シャーンを追いかけて線描画に注目して、この本を借りたのであるが、この本は読みどころが多いので(その3)として、読み進めたのです。ベン・シャーンの社会性とかクロスメディアについて見てみましょう。<オキュパイ運動があったウォール街>p154~158 ウォール街のトリニティ教会の前の通りが、2011年にオキュパイ運動がおこなわれたところだ。 ウォール街は、アメリカ経済を守るため、壁(ウォール)をつくったことが、その語源になったいる。いまは、民衆の結集を許さないための警護の壁が築かれている。その広い空白のエリアを、中国やインドの観光客が大勢訪れる。インドのひとたちに聞いてみる。すると、格差があるのは当たり前だという答が返ってきた。中国の旅行者には、英語はまったく通じなかった。警備のひとに尋ねる。いちばん多かったときは、2000人が通りを占拠していたそうだ。ひとりのおじさんが、フルートで「アメイジング・グレース」を奏でている。箱に観光客が小銭を入れていく。(中略) ウォール街を占拠するオキュパイ運動は、いまの政治や社会がごく一部のひとによって牛耳られ、ほとんどのひとは置いてきぼりにされる状況に異を唱えるものだ。アメリカだけでなく、新自由主義が大手をふるう世界中で、その声は高まっている。 ベン・シャーンは、芸術家としては珍しく、政治に積極的に参加した。ローズヴェルト市の市会議員を務めたほか、ヘンリー・ウォレスの選挙応援に2回関わった。(中略) ウォレスは、朝鮮戦争にアメリカが加担するのは侵略だと言った。かれは熱心なクリスチャンだったが、ユダヤ人の悲劇についても積極的に発言した。しかし、そうした言動は、ほかの政治家の反発を生み、共産主義者、神秘主義者のレッテルを貼られることになる。 ベン・シャーンイは、そんなウォレスへの攻撃を知りつつあえて支持し、大統領選挙の応援に動いたのだった。 2013年、忘れられた政治家ヘンリー・ウォレスに、ふたたび光があたる出来事があった。NHKのBSドキュメンタリーで『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』の10回シリーズが放送された、大きな反響を呼んだのだ。そこでは、ウォレスの理念が高く評価されていた。オリバー・ストーンは、もしウォレスがローズヴェルトの後継者であったら、米ソが平和的に共存し、市民が過度な競争にさらされることがない、もうひとつのアメリカ、もうひとつの世界があったかもしれないと語った。<広島の被曝者・富子さん>p158~160 5月27日。前の職場時代にいっしょに仕事をした浜野あづささんと合流する。浜野さんは、ニューヨーク大学の大学院に留学中、大学で日本語・日本文化を教える富子森本ウェストさんにお世話になっていた。ニューヨーク郊外ラグレンジヒルに住む富子さんの自宅を訪ねる。 富子さんは、1945年8月、広島で原爆に遭遇した。13歳のときだった。ガラスの破片が全身に突き刺さる祖父を、防空壕で看病したが、20日後、祖父は息を引き取った。荼毘にふすのは、富子さんの役割だった。人間を骨にするのはとんでもない時間がかかることを知った。彼女はいま、原発反対の運動を積極的におこなっている。原点にあるのは自身の広島での体験だ。 アメリカ人の多くは、原爆投下になんの痛みも感じないと言われてきた。しかし、彼女は、それは違うということを体験のなかで知った。彼女のまわりのほとんどのひとは、彼女がヒバクシャであることに深く同情する。そして、原爆投下はまさにジェノサイド、虐殺だと語る。例外は、退役した兵士たち、原爆が多くのひとを戦死から救ったと信じていると、富子さんは話してくれた。 富子さんが選んだベン・シャーンの絵は、「ラッキードラゴン」シリーズのなかの久保山愛吉さん、《ラッキードラゴン》(1960年)だった。足が細くなった姿が強烈だと言った。 富子さんには、近所にこころを許す友人がいた。ピート・シーガーさんである。富子さんとピートさんはニューヨーク郊外、ハドソン川沿いの老朽化した原発の稼動反対を叫びつづけた。 ピート・シーガーは伝説のフォークシンガー。「サッコとヴァンゼッティのバラード」「花はどこへ行った」「ウィ・シャル・オーヴァーカム」「天使のハンマー」といった曲は、たくさんのひとにカバーされ、ヴェトナム反戦運動や軍縮運動、公民権運動の先頭に立った。ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーは、ピートの背中を見ながらビッグなアーティストになっていった。ピートさんの歌はいまも、日本の脱原発運動や、沖縄の辺野古基地新設反対運動でうたわれている。 ピートさんのアルバムは多いが、初期のLPジャケットの多くをシャーンがデザインしている。(中略) 富子さんに会ったとき、ピートさんは最愛の妻トシコさんを亡くしたばかりで、自宅を訪ねることはかなわなかった。 ピートさんがうたった歌には、サッコとヴァンゼッティ、ヘンリー・ウォレス、キング牧師が登場する。絵の世界のシャーンと歌の世界のピートさんは、価値を共有していたように思う。 2014年1月、ピートさんは亡くなった。94歳だった。生前のピートさんに会うことができなかったことは残念でならない。wikipediaピート・シーガーよりピート・シーガー(1919年5月3日 - 2014年1月27日)はアメリカ合衆国のフォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。第二次世界大戦前の1940年代から全国放送のラジオで活躍し、1950年代はじめにはウィーバーズ (The Weavers) の一員として一連のヒット作を出した。1960年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。ソングライターとしては「花はどこへ行った」、「天使のハンマー」、「ターン・ターン・ターン 」などの代表作を生み出した。スピリチュアル(霊歌)「ウィ・シャル・オーバーカム 」を1960年代の公民権運動を象徴する歌にした立役者でもある。近年では環境問題について訴える活動を続けていた。物語る絵とか線描画、そして、ピート・シーガー、さらに石田徹也、アーサー・ビナードと大使のツボを突きまくるベン・シャーンであった♪ラッキードラゴン線描画の達人たちより『ベン・シャーンを追いかけて』1『ベン・シャーンを追いかけて』2
2015.09.07
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「民俗」でしょうか♪<市立図書館>・打って出る 京都府立植物園・西原理恵子の人生画力対決4<大学図書館>・日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989・手づくりの木の道具、木のおもちゃ・日本その日その日1図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【打って出る 京都府立植物園】松谷茂著、淡交社、2011年刊<「BOOK」データベース>より一時60万人を切った来園者数を77万人まで回復、全国の公立総合植物園で4年連続トップを達成した松谷茂名誉園長が熱く語る、植物園人としての15年間、なんとしても絶やさない、なんとしても咲かせたい、なんとしても楽しませたいと、「生きた植物の博物館」であり続けるための京都府立植物園の総合力と底力。<読む前の大使寸評>この植物園によく通っている大使であるが・・・もしかして、松谷園長の管理方針に惹かれていたのかも。最近はヤノベケンジ作の女神像「フローラ」を期間限定(展示は10/25まで)で飾っているようだから・・・見に行こうと思っているのです。女神像「フローラ」rakuten打って出る 京都府立植物園打って出る 京都府立植物園byドングリ【西原理恵子の人生画力対決4】西原理恵子著、小学館、2011年刊<「BOOK」データベース>より日米開戦、サイバラvsテルマエ・ロマエ。【目次】vs理論社とわたくし 決着編/vsかわぐちかいじ先生/vs寺田克也先生/vs石塚真一先生/vsかわぐちかいじ先生&寺田克也先生&石塚真一先生/vsヤマザキマリ先生/vsコンドウアキ先生/vs浅野いにお先生/vs花沢健吾先生<大使寸評>7人の対決者のうち二人を知っているので、借りたわけですが・・・それだけ、最近の漫画家を知らないということになります。知っていたのは、かわぐちかいじとヤマザキマリでおます♪この本によると、著者は以前よりヤマザキマリが目障りだったようで・・・誌上の対決内容は、「このクソアマ~」とそうとうに険悪な内容となっていて面白いのです♪(イタリア人と結婚し、シカゴ在住で、マンガが日本で売れているとくれば、険悪になるのもわかるが)さいばらりえこの酔ったもん勝ち・・・・全員出待ちしている間に「人生酔人対決」になっているところがコワイでぇ♪この本を読んで得た収穫は、寺田克也という漫画家を発見したことでしょうか。rakuten西原理恵子の人生画力対決4西原理恵子の人生画力対決4byドングリ【日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989】メディアアート国際化推進委員会 編、国書刊行会、2015年刊<内容紹介>より手塚治虫が没した1989年から現在までの25年間に焦点をあて、複合的メディア表現として深化している日本のマンガ、アニメ、ゲームを総合的に展望し、150作品・300点以上の図版でその魅力をたどる。<大使寸評>最近のマンガに疎い大使は、これではあかん、どんな漫画家、アニメーターがいるのか知りたいので借りた次第です。だけど、編集方針の関係からか、かわぐちかいじ、ヤマザキマリ、西原理恵子、松本大洋の作品が載っていないのが、ちょっと気に食わないのだ。なお、アニメでは『鉄コン筋クリート』や『サマーウォーズ』を評価しているところに、好感を持った次第です。この本は2015年6月初版であるが、アナ雪に言及していないのが、ええでぇ♪Amazon日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989byドングリ【手づくりの木の道具、木のおもちゃ】西川栄明著、岩波書店、2004年刊<「BOOK」データベース>より実力ある作家のオリジナリティあふれる作品を紹介。ユーモラスな靴べら、からくり箱、オブジェ…遊び心あふれたクラフト、小物入れ、匙、灯り、一輪挿し、鞄、耳かき…こだわりの日常道具、白漆の皿、朽ちたような皿、木の葉の器…個性豊かな皿と器、たたく、音が出る、からくり、組み木…ユニークなおもちゃの世界、古材の器、流木クラフト…素材のおもしろさを形にする。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten手づくりの木の道具、木のおもちゃ【日本その日その日1】エドワ-ド・シルヴェスタ-・モ-ス著、平凡社、1989年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>活字が小さくびっしりで訳文も古めかしい本なのだが・・・とにかく写生図が多い本である。この「何でも見てやろう」精神がいいではないか♪wikipediaを見ると、18歳で博物学協会へ入会したとあるが・・・その資質が表れた日記なんでしょうね。rakuten日本その日その日1日本その日その日1byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き112
2015.09.06
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<日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989>図書館で『日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989』という本を手にしたのです。メディアアート国際化推進委員会編ということでやや堅い執筆陣であるが、数多い作品を図鑑のように解説していて・・・なかなか、ええでぇ♪【日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989】メディアアート国際化推進委員会 編、国書刊行会、2015年刊<内容紹介>より手塚治虫が没した1989年から現在までの25年間に焦点をあて、複合的メディア表現として深化している日本のマンガ、アニメ、ゲームを総合的に展望し、150作品・300点以上の図版でその魅力をたどる。<大使寸評>最近のマンガに疎い大使は、これではあかん、どんな漫画家、アニメーターがいるのか知りたいので借りた次第です。だけど、編集方針の関係からか、かわぐちかいじ、ヤマザキマリ、西原理恵子、松本大洋の作品が載っていないのが、ちょっと気に食わないのだ。なお、アニメでは『鉄コン筋クリート』や『サマーウォーズ』を評価しているところに、好感を持った次第です。この本は2015年6月初版であるが、アナ雪に言及していないのが、ええでぇ♪(へそが曲がった大使は、アップル製品とか、USJとかディズニー攻勢には近寄らないのです)Amazon日本のマンガ×アニメ×ゲーム from 1989最近は、ディズニーのアナ雪のような攻勢にさらされる日本アニメであるが・・・この先どうなるのか気になるわけです。<アニメ史1989-2015>p132~133 テクノロジーと融合しながら生きてゆく時代、人間のアイデンティティが揺らぐという『攻殻機動隊』のテーマは、日本の都市風景の先進性、ハイテク製品のイメージともリンクしている。『千と千尋の神隠し』(2001)は米国アカデミー賞を受賞したが、それもオリエンタリズムあふれる美術、日本的アニミズムという西欧とは異質の価値観に対する評価が大きい。構造やディテールを細やかに描く「日本式のリアル系作画」の頂点に位置する『パプリカ』(2006)が欧州の批評家から「30世紀の映画のような先進性」と評されているように、日本固有の「西欧と異なるANIME文化」があると諸外国から見られている。 一方で原恵一、湯浅政明、細田守ら2000年以降の作品で作家性が注目された監督には、リアルとは異なる資質が共通的に評価されている。彼らは、東映アニメーションやシンエイ動画など、かつて映画の黄金時代を支えたプログラムピクチャー的な娯楽性を担保してきた会社とその系譜に位置する制作会社の演出家である。映像技術的な基礎をしっかり構築した上で時代に即応した題材を縦横にエンターテインメントの中で描きぬく、新世代の作家性も台頭している。大使一押しのアニメが『鉄コン筋クリート』であるが、この本でその辺りを見てみましょう。<鉄コン筋クリート>p154~155 ハリウッドでVFXスタッフとして活動していたマイケル・アリアスは、松本大洋の原作コミックに心酔。『音響生命体ノイズマン』(1997)の森本晃司を監督に迎えてパイロット版を完成するも、企画は一旦頓挫。その後本作の企画を長年温めていたSTUDIO4℃がアリアスを監督として起用し、長篇アニメ作品として完成させた。 アリアスはその後、実写映画『ヘブンズ・ドア』(2009)や伊藤計劃原作の『ハーモニー』(2015)などを監督。
2015.09.05
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図書館に予約していた『ベン・シャーンを追いかけて』という本をゲットしたのです。大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。【ベン・シャーンを追いかけて】永田浩三著、大月書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より 1898年に生まれ、1969年に亡くなったベン・シャーン。激動の二〇世紀を疾走したこの画家は、絵画だけでなく、壁画、写真、レコードジャケット、ポスター、舞台芸術で大きな業績を残し、さまざまな社会問題も描いた。『W・P・A・サンデー』『幼かりし日の自画像』『解放』『寓意』『ラッキードラゴン』『美しきものすべて』…。これらの作品に、わたしたちは物語を呼び起こされ、そして自分の人生を重ね合わせる。ベン・シャーンの絵は、なぜわたしたちをひきつけてやまないのか。その答えを探しに、ゆかりの地を訪ね歩いた。【目次】第1章 故郷リトアニア、そしてアウシュビッツ第2章 ヨーロッパで見つけたもの第3章 アメリカのアート・ジャーナリスト第4章 世の不公正にあらがう第5章 ベン・シャーンとヒロシマ第6章 抵抗の画家と韓国を結ぶもの第7章 ベン・シャーンを愛する国、日本<大使寸評>大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。<図書館予約:(8/17予約、8/22受取)>rakutenベン・シャーンを追いかけて線描画に注目して、この本を借りたのであるが、この本は読みどころが多いので(その2)として、読み進めます。ベン・シャーンの家族について見てみましょう。<シャーンの息子>p145~148 5月25日。ついにニュージャージー州ローズヴェルト市のジョナサンさんの家を訪ねることになった。画家のYUKAKOさんがエスコートしてくれる。ちょうど町では、ジョナサンさんの個展が開かれていた。テーマは壁と希望。今回のわたしの旅とも重なる。囲われた空間にぽつんと人間が頭をのぞかせる。天井からわずかな光が差し込む。あらあらしい鑿跡が残る人間の首。どこかひょうきんだが、ゆるぎない意志があふれている。堂々としているというのは、こういう作品をいうのだろう。日本の彫刻家・船越圭さんとも通じるが、もう少しあたたかい気がする。 ローズベルト・パブリックスクールの体育館。ここにベン・シャーンの壁画が残っている。画面左上には、サッコとヴァンゼッティの亡骸がある。二人の亡骸の下に自由の女神が小さく立っており、左には亀裂が走っている。自由・平等・博愛という精神はどこへ行ってしまったのか。ベン・シャーンの怒りがそこにある。 その下には暗い船倉がある。かれらは船に乗って大西洋を渡り、アメリカにやってきた。入国審査のためには胸には番号のついたタグがついている。最前列には見覚えのある人物が。そうアインシュタインだ。かれもまた、ナチスに追われて新大陸に逃れた。1933年、ローズヴェルト大統領がニューディール政策を発表した年だ。アインシュタインは、1910年以降、くりかえしノーベル物理学賞の候補となったが、「ユダヤ人による相対性理論」などという差別的な批判にさらされ、受賞を阻まれつづけた。22年にようやく受賞したが、相対性理論ではなく、光電効果が受賞理由であった。アインシュタインは、差別・迫害を受けている研究者への支援を惜しまなかった。(中略) 壁画の真ん中には、縫製工場。ミシンが並び、衣服をつくる。洗濯屋としてアイロンをかける。そして労働運動。差別撤廃を求めて移民たちが立ち上がった。右は、新しい町づくり。現在のローズヴェルト市は、かつてはジャージー・ホームステッズと言い、ユダヤ人のコミュニティが形成された。人びとは暮らしやすい町を自分たちの手でつくろうとさまざまな提案をし実現させた。ベン・シャーンはこの町の議会議員を無償で3年努めたことがあった。 ローズヴェルトが亡くなったあと、人びとは大統領を顕彰して、町の名前をローズヴェルト市に改めた。市内に大統領の銅像も立った。つくったのはジョナサンさん。除幕式には父と息子が並び、ローズヴェルト夫人が出席した。<シャーンの息子>p151 車で10分のところにジョナサンさんのアトリエがあった。まるで自動車修理工場のようだ。たくさんの彫刻や道具が並ぶ。机のまわりにはたくさんの切り抜き写真が、ピンで留めてあった。アイデアを得るためだという。これは父ベン・シャーンのやり方から学んだものだ。 ジョナサンさんは言った。「父の本名はベンジャミン。しかし、若いころからベンと名乗り、終生ベン・シャーンで通しました。父はどんなメディアにも興味を示したひとです。アイディアをさまざまに生かす。まさにマルチメディアのアーティストだったと思います。わたしも新しい作品をつくりだすために、父と同じようなことをします。 ローズヴェルト大統領が亡くなったとき、銅像をつくろうということになりました。父が、若い有望な作家がいるといって推薦したのが、わたしでした。父は読書家で、語学も何ヶ国語もあやつりました。わたしが大人になるころは、すでにからだを壊していて、ベッドで寝ていることが多かった。わたしは、新聞を読んでいる父のことが強烈に印象にあったので、それを作品にしました」 あおむけに寝そべりながら、新聞を読むベン・シャーン。知性と意志の強さがにじみ出ている。年齢はまさにいまのジョナサンさんと同じころだ。二人はほんとうによく似ている。作品には、父への畏敬と愛おしさがあふれていた。ベン・シャーンに影響を受けた日本人アーティストについて見てみましょう。<焼津出身の画家たち、そして>p264~266 シャーンはパリ画壇になじめず、イタリア・ルネサンスのジオットによって救われた。有元利夫にも、それと同じような啓示が訪れたのではないだろうか。 有元利夫を尊敬する彫刻家に舟越桂さんがいる。有元の絵と通じるものがある。肉体はぼってりしていて不均衡だが、人間の精神というものがたしかにある。舟越さんの彫刻作品は、だれかに似ていた。そう、ベン・シャーンの息子ジョナサンさんの彫刻だ。ベン・シャーン、有元利夫、舟越桂、そしてジョナサン・シャーン。四人が連なる魂のリレーのようなものをわたしは感じた。 小林敏也さんは焼津の出身。そして、もうひとり焼津を故郷とするアーティストがいる。2005年に踏切事故で亡くなった、石田徹也である。飛行機と合体して飛べなくなったひと、男子トイレの便器になったひと、階段になったひと、まるでガソリンを給油するような食事をするひとたち・・・・。独自の画風で、いま若者たちから熱い指示を集める。 父親は議員を務め、平和運動にも熱心だった。小学2年生のとき、親に頼んで、東京の夢の島に行った。そこには第5福竜丸が展示されていた。そのときの印象を、石田は作文コンクールに出し、入選した。「まっしろ船君」という題の作文。「なぜ 人間どうし、水バクをつかって、ころし合うのかと思います。ぜったい、水バクを、つかってはいやだと、思います」と書いた。 小学校5年生のとき、クラスの旗を描いた。そのデザインは、がっちり手を握るもの。ベン・シャーンそのものだった。 自己紹介にも、「出身地、ラッキードラゴンに接してきた。ベン・シャーンのような、絵かきになりたいと思っていた」と書いた。武蔵野美術大学に進んだ石田は、ベン・シャーンを強く意識した絵を描いた。(中略) 亡くなる前、石田はこんな言葉を残している。【聖者のような芸術家に強くひかれる。「一筆一筆描くたびに世界が救われていく」と信じ込んだり、「羊の顔の中に全ての人類の痛みを聞いた」りするような人達のことだ。】ラッキードラゴン線描画の達人たちより『ベン・シャーンを追いかけて』1
2015.09.05
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ラクダ4頭と愛犬を連れて砂漠2000マイルを横断する実録の映画化なのだが、予想にたがわずかなりワイルドな砂漠、ラクダが見えて・・・ええでぇ♪驚いたのはオーストラリアでは野生のラクダが闊歩していることです。世界でも野生ラクダの数はオーストラリアがいちばんとのこと。【奇跡の2000マイル】ジョン・カラン監督、2013年豪制作、H27.9.2観賞<movie.walker解説>よりラクダ4頭と愛犬を連れ、オーストラリア西部に広がる砂漠2000マイル(約3000キロ)を横断した女性の回顧録を映画化。オーストラリア各地で大規模ロケを敢行、アリス・スプリングスからウルル(エアーズロック)を経由しインド洋へと彼女がたどった道程を再現している。監督は「ストーン」のジョン・カラン。製作には「英国王のスピーチ」のイアン・カニングとエミール・シャーマンが加わっている。冒険の旅に出た女性を「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカが、ナショナルジオグラフィックの写真家を「フランシス・ハ」のアダム・ドライバーが演じている。第70回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。<大使寸評>ラクダ4頭と愛犬を連れ砂漠2000マイルを横断する実録の映画化なのだが、予想にたがわずかなりワイルドな砂漠、ラクダが見えて・・・ええでぇ♪驚いたのはオーストラリアでは野生のラクダが闊歩していることです。世界でも野生ラクダの数はオーストラリアがいちばんとのこと。(オーストリア大陸へ家畜として人間が移入した後に野生化したようです)それから・・・向かってくる野生ラクダを撃ち殺すシーンがあるのだが、実際、野生ラクダは危険なので、砂漠横断には銃の携行はかかせないとのことです。この映画で見えるラクダは、大使がサウジで見た種類よりもやや大きくて、かなり強面の種類のようです。母の死があって以降、人間不信に陥っている主人公は、父親の跡を継ぐように砂漠横断を決意するわけで・・・ラクダを手に入れるために食堂やラクダ牧場で、アルバイトに精を出すのです。ラクダ4頭を手に入れて、砂漠横断に踏み出すと・・・過酷な砂漠や、アボリジニーとの交流がドキュメンタリー映画のように描かれていて飽きないわけでおます♪彼女の砂漠横断は、ナショナルジオグラフィックの資金援助で実現したのだが・・・この映画でも、5,6週間おきにカメラマンが撮影に訪れるのです。movie.walker奇跡の2000マイル『奇跡の2000マイル』公式サイトちなみに大使は、ナショナルジオグラフィックの「人類の旅路を歩く」シリーズをフォローしているので、その一部を紹介します。ピュリツァー賞を受賞したジャーナリストが、人類の拡散ルートをたどる徒歩の旅に出た。アフリカから南米最南端まで、全長3万3000キロの道のりだ。この映画感想も気分はオーストラリア に収めておきます。
2015.09.04
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図書館で『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)』という本をみつけたのだが・・・・おお、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を読んでいるので、これを読めば本書は完結するわけだ♪ということで、借りたのです。「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より高揚を創出した戦争報道の知られざる側面、開戦を決断したリーダーたちの驚くべき実態。新資料が明かす「なぜ」への回答とは。新たな角度から太平洋戦争までの道のりに光をあてた「メディアと民衆」と「指導者」を収載。井上寿一、ジョン・ダワー、佐藤卓己、半藤一利ほかによる最新の「読み解き」も収載。【目次】第3章 メディアと民衆ー“世論”と“国益”のための報道(“熱狂”はこうして作られた/世論とメディアによる戦意高揚/横並び報道と被害者意識/ラジオが導いた戦争への道のり)/第4章 指導者ー“非決定”が導いた戦争(開戦・リーダーたちの迷走/“非決定”という恐るべき「制度」/アメリカの誤算/1941年、開戦までのアメリカ)/日米開戦史を再考する/対談 太平洋戦争開戦前の「日本と日本人」(半藤一利・松平定知)<読む前の大使寸評>「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)』を更に読み進めています。開戦とメディアの関係を見てみましょう。p31~34 <引金を引いたメディア>「報道では連戦連勝なのに、なぜ中国は屈しないのか」「戦争は長引き、経済は悪化の一途だ」 日本軍の勝利に沸き立っていた国民の間に、やがて戦争の長期化とともに不満が生まれてきた。それは中国を支援するアメリカとイギリスに向かっていった。1939年7月14日、イギリス大使館には6万人の民衆が詰めかけ、抗議の声を上げた。 日本とイギリスの対立が表面化するなか、アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告し、対日経済制裁の強化に踏み切った。当時の日本は、資源の供給をアメリカからの輸入に頼っていた。アメリカの是非もない行動に、世論は一段と反発した。 当時の内閣情報部が出した「新聞指導要領」が残っている。「冷静に米国今後の出方を監視する態度をもって臨み、誇大の取り扱いをなさざること」「筆致過度に感情的に流れることなく毅然たる態度を持すること」 反米報道が過熱しないようにという指導だったが、すでに遅かった。 雑誌『文芸春秋』が行った「対米外交は強硬に出るべきか」という世論調査では、「強硬に出るべき」という意見が三分の二を占めるようになっていた。そこに飛び込んできたのが、第二次世界大戦でのドイツ快進撃のニュースである。日本の民衆の間に、ドイツの時代が到来したという空気が広がった。 新聞各紙は陸軍と連携して、連日のように日独伊三国同盟締結を主張し、世論に訴えた。アメリカ、イギリスに対して不満を募らせていた国民は、ドイツとの同盟締結を熱狂的に支持した。当初、政府内で三国同盟に反対していた外務省や海軍指導部は、徐々に劣勢に立たされていく。「あのときの世論と新聞その他は、陸軍にすっかり引っ張りまわされていましたからね。ああいうような世論に対して、真正面から反対論を唱えたところで、決してそれはできっこないんです。外務大臣がそれをやり切れるわけないんだ」(安藤義良・外交官証言)「非常に強く反対したものをね。海軍がどうして撤回したのかと思うんですがね。私は、やはりこれは世論に押されたんじゃないかと思いますね。そこで、一般に条約熱というものが非常に上がってきた」(大島浩・駐独大使証言) 新しく外務大臣になった松岡洋右のもと、1940年9月27日に日独伊三国同盟が成立する。アメリカ、イギリスとの関係悪化は決定的なものとなった。全権大使としてベルリンでの調印に臨んだドイツ大使来栖三郎は、メディアへの不信を記者団に漏らした。「来栖さんは率直にものをいう人でしたからね、われわれ記者団5,6人のなかで『君たちの新聞が三国同盟を支持するから、ああいうふうになったんだ』と。来栖さんは三国同盟を(日米関係悪化の)中心に見ていましたから」(加藤万寿男・特派員証言)近衛と親しかった同盟通信記者の松本重治は、このとき、首相自身も三国同盟に積極的ではなくなっていたという本音を聞きだしていた。1930年代前半頃の状況について歴史学者のジョン・ダワーさんが語っています。目からウロコが落ちるような気がします。p151~154 <自給自足圏確保のための拡大>Q: 1930年代前半の日本側の誤算は何ですか。日本軍の行為を中国やその他の国々がどのように捉えるのか、日本は予想しえなかったのでしょうか。ダワー:満州事変と日本による満州国支配、そして軍部の台頭に着目するとき、念頭に置くべきいくつかの事柄があります。 まずは世界恐慌です。つまり、それらは武士の伝統から生まれたのではなく、資本主義が世界中で破綻したことから生じたものであるということですね。世界は混乱と大規模な流転の只中にあり、人々は何らかの安定を見出そうと躍起になっていました。恐慌は、世界中の主要国をも突き動かしていたのです。 アメリカはルーズベルトがニューデール政策を打ち出し、「国家の役割とは何か」、「どうやったら、この状況から抜け出せるのか」を模索しました。ドイツでは、人々は共産主義ではなく、国家社会主義とヒトラーを選択します。ソ連では(いわずもがなですが)5ヵ年計画に向かいつつあり、国家計画の話題が盛んでした。イタリアは、経済の新たな構造に関する独自の構想に辿り着き、世界で居場所を見出そうとしていました。そして、日本はまさにこうした最中、グローバルな市場が崩壊した2年後に、1931年の事変が起きたのです。 世界中の人々は、どうしたらこの経済危機から抜け出すことができるのかを模索していました。しかし、相手は「世界不況」というグローバルな経済破綻です。だとしたら、自国が何をなすべきかを問うことだけではなく、どうやって自国を守るべきかについても考えざるを得ない。これが、「自給自足圏を確保する」という考え方につながっていきます。原材料と市場を保障し、支配可能な地域を確保する。どの国もそれを必要としました。 グローバルな経済が破綻し、至るところで軍備増強がなされ、市場が遮断されていくなか、日本はどうしたらよいのか。当然、自給自足圏を確保できそうな近隣地域に注意が向きます。韓国はすでに植民地にした、台湾も同様。そこで、20世紀に入って進出した満州における地位を強化しようと考えた。それは、資源と市場の確保という観点から発想されたのです。Q:日本人は、中国への支配拡大が中国人にどう受け止められるかについて、理解できていなかったように思います。彼らは中国の抗議をあれほどとは予期していなかった・・・。ダワー:誰が予期できたでしょうか。私は、日本人がしたことを擁護するつもりは毛頭ありません。ただ、そこに「日本の特異性は見てとれない」のです。1920年代後半から30年代初めの危機的な時期に、日本が中国支配という考えに惹かれていったことは、特異なことではないと私は考えています。日本はこういっているように思えます、「安全保障を確保するため、これらの地域を支配しなくてはならない」。しかし同時にこうもいっています「これは満州および中国の人々にも利することだ」。 これはいつでも使える論法です。しかし、そこには「日本は中国よりもより進んだ工業国家だ」という一種の傲慢さがある。日本が中国を眺めると、そこには混迷が見える、そこで日本人はいう、「我々は技術的により高度だ、我々の安全保障を強化する傍ら、中国、満州そしてアジア全体にさえ繁栄をもたらすことができる」と。これは拡張主義勢力の変わらぬ謳い文句です。 イギリスは世界各地に進出し、征服して植民地化した人々に進んだ文明を提供しました。つまりどの国も拡大を図りながら、「我々は高度な科学、技術、文化をもたらしている」というのです。 ベトナムに行ったアメリカ人、イラクに行ったアメリカ人、その他侵略に出て行ったどの地域におけるアメリカ人もみな同様です。インドにおけるイギリス人も、また然り。これは傲慢で不遜です。その行為は、どの国の人が行おうと、侵入された人たちに対する想像力の欠如といえるのです。ウーム 日本人の守護神のような、自虐史観とは無縁のダワーさんのご宣託ですね♪なお、ダワーさんの最新の論説が、日本の誇るべき力に見られます。『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を再掲しておきます。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より新たに見つかった膨大な証言・資料から浮かび上がる太平洋戦争へと至った「本当の」道のりとは。大きな反響を呼んだ「外交」と「陸軍」を収載。第一線の研究者による解説も充実。【目次】第1章 外交ー世界を読み違えた日本(“外交敗戦”孤立への道/1930年代日本を支配した空気/外交に活かせなかった陸軍暗号情報 ほか)/第2章 陸軍ー戦略なき人事が国を滅ぼす(巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム/陸軍を狂わせた人事システム/日本が陥った負の組織論 ほか)/陸軍暴走の連鎖/なぜ、日中戦争をとめられなかったのか<読む前の大使寸評>責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)byドングリ日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)1byドングリ日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)2byドングリ
2015.09.03
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図書館で『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)』という本をみつけたのだが・・・・おお、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を読んでいるので、これを読めば本書は完結するわけだ♪ということで、借りたのです。「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より高揚を創出した戦争報道の知られざる側面、開戦を決断したリーダーたちの驚くべき実態。新資料が明かす「なぜ」への回答とは。新たな角度から太平洋戦争までの道のりに光をあてた「メディアと民衆」と「指導者」を収載。井上寿一、ジョン・ダワー、佐藤卓己、半藤一利ほかによる最新の「読み解き」も収載。【目次】第3章 メディアと民衆ー“世論”と“国益”のための報道(“熱狂”はこうして作られた/世論とメディアによる戦意高揚/横並び報道と被害者意識/ラジオが導いた戦争への道のり)/第4章 指導者ー“非決定”が導いた戦争(開戦・リーダーたちの迷走/“非決定”という恐るべき「制度」/アメリカの誤算/1941年、開戦までのアメリカ)/日米開戦史を再考する/対談 太平洋戦争開戦前の「日本と日本人」(半藤一利・松平定知)<読む前の大使寸評>「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)』を更に読み進めています。日本の仏印進駐が、アメリカの覚悟を固めたと言われるが・・・大使としては、日本のこのような(愚かな)政策決定メカニズムを知りたいのです。p105~109 <決意なき進駐を黙認>「具体的措置ニ関シテハ別ニ之ヲ定ム」 要綱の最後に記されたこの一文が、実質的には何も決めず準備だけをする様子見、先送りの決定だったことを象徴している。 「何で妥協したかというと、文字で妥協したわけです。作文で、名人がだいぶ出てきていましたからね。頭の良いのがたくさんおりますから、なかなか面白い文字でもって妥協している。それで国策がわかったような顔で、陸軍は自分の了解にしたがってどんどんやる。海軍は海軍の了解でやっているという、そういう現象なんです」(富岡定俊・軍令部作戦課長談話速記録) この国策は御前会議で裁可され、南北進駐に向けての「準備」が始まった。1941年7月上旬、陸軍は北進準備のための動員を開始した。関東軍特種演習、通称「関特演」である。 総勢16個師団、85万人の大兵力が集結を始めた。鉄道省は普通列車7本から8本を運休し、臨時軍需列車を増発して物資を輸送っした。さらに商工省、通信省は様々な物資を朝鮮に送るため、90万トン分の船舶を民間から徴用した。 任務は秘密とされ、兵士の見送りも許されなかった。「準備」がどこまでを指すかは、軍の判断に任されていた。方針の曖昧さをいいことに、陸軍は「準備」の内容を最大限に解釈した。この大動員が単なる「準備」で済むのか。陸軍はソ連との戦争を始める気ではないのか。周囲には疑念が生まれ、政府に緊張が走った。 海軍省では、軍務課長の石川信吾が、関東軍の大規模動員についての報告を受けた。陸軍の暴走を危惧した石川は、陸軍省軍務課長・佐藤賢了のもとに乗り込み、ソ連への進駐を思いとどまるよう強く訴えた。 様子見のために曖昧なまま放置した首脳陣の方針が、現場の拡大解釈を許す結果につながった。陸軍の動静に危機感を抱いた海軍は、南進の「準備」に焦り出した。 近衛首相ら首脳陣は、陸軍の進駐準備を止める代わりに、陸軍の関心を南に向けようと画策する。そのため、今度は海軍の南方準備に同意してしまう。「近衛さんは(海軍が推す南の)仏印をやらないと、北の方に(陸軍が侵攻を)やりゃせんかという心配があったから認めた。南ならすぐには戦にならないという考えだった」(鈴木貞一証言)(中略) 首脳陣としては、事前交渉でフランス側の合意を得た少数部隊の派遣に過ぎず、石油のあるオランダ領や、アメリカ・イギリスが神経を尖らせるイギリス領には手を出すつもりはない、北方と同様に様子見のつもりで了承した行動だった。「アメリカも東洋方面で、自ら事を構えることはしないだろうと。とにかくヨーロッパの戦争のほうに向いているんですよね。ですから、まさかそこまでは来んだろうという考え方は非常にあったわけですよ」(柴勝男証言)「南部仏印の進駐っていうことが、大東亜戦争の決起になるというほど、僕は不明にして考えなかった。経済やアメリカの圧迫、アメリカの決意をあそこでやらすほどの情勢判断をようしなくって(進駐を)やったですね」(土居明夫証言) 情報畑出身の土居は、個人的には軍の中枢層を中心とした楽観的な見立てに疑問を抱いていたが、組織全体でその懸念が共有されることはなく、結局土居自身も南部仏印進駐直前に更迭されてしまった。「自分たちとしては抑制的に動いているつもりであると、本当はここ(蘭印)まで行きたいんだけど、手前で止めているんですからね。ある意味で、烏合の衆が寄り集まって、綱引きをしているうちに、いつの間にかへんなところに行ってしまったという感じでしょうか」 <漂流する日本首脳部> フランス側の合意を得ているとはいえ、日本の仏印への進駐はアメリカの態度を決定的に硬化させた。それまでの部分的な輸出制限から、石油は一滴なりとも売らないとする対日全面禁輸へと一気に踏み込んだ。 すでにアメリカの反日世論は高まっていた。アメリカ政府内では対日強硬派が力を拡大し、日米交渉での時間稼ぎを考えていたハル国務長官らを圧迫していた。そうしたなかでの強硬措置をルーズベルト大統領も追認、制裁解除の条件には中国と仏印からの撤兵が掲げられた。 日本の首脳部が方針を曖昧にし、意見を一本化できず、選択肢を残そうとしたことが全面禁輸という最悪の結果を引き起こしたことになる。前面禁輸に対する覚悟などまったくしていなかった軍の中枢でも、たちまち混乱が広がった。ウーム、首脳部のインテリジェンスが貧困だったということですか。開戦のメカニズムについて静岡県立大の森山優教授が語っています。 <南部仏印進駐の過程>p137~140話は前後しますが、準備することを決め、その準備が北と南で始まります。北はギリギリのところで止まりますが、南は「武力衝突ではない」ということで、いわば予定どおりに南部仏印に入っていきます。この時点で、すぐに戦争にはならないかもしれないけれど、アメリカの経済制裁や石油禁輸に関して、日本は楽観的かつうかつに軽く考えてしまう。森山:南部仏印に軍事的な本拠地を置きたいという要求は、41年の当初から存在しています。そのときから、松岡が「やる、やる」といいながら陸海軍を煙に巻き、なんとか抑えていたという状況です。それが5月6月ぐらいになって「やはり南部仏印へ進駐したほうがいいのではないか」という議論が出てくる。 それはひとつには、日本軍は北部仏印に進駐しているわけですが、仏印があまり日本に好意的ではないことがわかってきた。約束はしたけれど売ってくれないという状況になってくる。また1941年は、米がたいへん不作な年で、日本国内で米が不足する、どうしようという話になるんですね。 となれば、仏印から米を買わなければいけない。それも当初はたくさん輸出してくれることになっていたのですが、「売らない」といい出すんです。そうなあると、兵力を増強する形で南部の中心を押さえ、威圧していうことを聞かせたいという思いが顕在化します。 さらに、蘭印も日本に対して戦略物資の売り惜しみを始めた。蘭印が売った物資が、シベリア鉄道を経由してドイツに渡ることを警戒したのです。南部仏印に兵を進めることで蘭印を威圧し、戦略物資の入手を容易にしたい。結果は正反対になったのですが、そのような思惑で南部仏印進駐が決定されたのです。 それと同時に、対外的には、「仏印までは、イギリスもアメリカも容認するだろう」という読みがありました。「蘭印やシンガポールではなく仏印ぐらいまでなら、自分たちは抑制的に動いているつもり」なんですね(笑)。本当はその先まで行きたいが、その手前で止めているんだからというような認識があったあのです。 ただし、南部仏印に進駐したらアメリカが石油を禁輸するのかどうかは、イギリスやアメリカの当事者でもわかりませんでした。これは政治の世界ですから、結果責任は問われなければいけませんが、当時そう判断できた人は、現場にはほとんどいなかったと思います。暫定方針は決めたといいながら、仏印進駐を止めて引き返すような決定を下すのは、当時の流れではトップでも難しいものだったのでしょうか森山:いえ、みんなけっこう優柔不断で、ぎりぎりの段階まで「危なそうだからやめようか」といっているのですが(笑)。問題は、「危険だ」「やめよう」といいながら、それをもう一度政策として決定することが煩雑で困難なため、やめることをやめてしまったのですね。 もし権力が集中していれば、「やっぱりやめにしよう」とパッパッと決まるわけですが、まさに「両論併記」のような形で政策運営をしている状況でそれを覆すとなると、またそれも決まらないかもしれないと。結局、南部仏印進駐を中止する機会は、そこで失われることになります。この時点までの特徴は、強力な指導者や主体がひとつの方向へ引っ張っていくというスタイルではありませんね森山:そうですね。ある意味、烏合の衆が寄り集まって綱引きをしながら、いつの間にか変なところに行ってしまっていると。「船頭多くして船山に登る」というような状況だったわけです。『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を再掲しておきます。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より新たに見つかった膨大な証言・資料から浮かび上がる太平洋戦争へと至った「本当の」道のりとは。大きな反響を呼んだ「外交」と「陸軍」を収載。第一線の研究者による解説も充実。<読む前の大使寸評>責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)byドングリ日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)1byドングリ
2015.09.03
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図書館でモ-ス著『日本その日その日1』という本を手にしたのです。活字が小さくびっしりで訳文も古めかしい本なのだが・・・とにかく写生図が多い本である。この「何でも見てやろう」精神がいいではないか♪【日本その日その日1】エドワ-ド・シルヴェスタ-・モ-ス著、平凡社、1989年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし<読む前の大使寸評>活字が小さくびっしりで訳文も古めかしい本なのだが・・・とにかく写生図が多い本である。この「何でも見てやろう」精神がいいではないか♪wikipediaを見ると、18歳で博物学協会へ入会したとあるが・・・その資質が表れた日記なんでしょうね。rakuten日本その日その日1まず、モースさんをwikipediaで見てみましょう。wikipediaエドワード・S・モースより エドワード・シルヴェスター・モース(1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘した。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。 メイン州ポートランドに生まれた。高校は入退学を繰り返し、製図工の勤めも長続きしなかったが、13歳ごろから採集し始めた貝類の標本は、学者が見学にくるほど充実していた。1854年、18歳で博物学協会に入会し、1857年に新種のカタツムリを協会誌上に報告した。7頁にもわたる長い緒言の冒頭のあたりに、この本の成り立ちが出ています。<緒言>p19~21 私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。 殆ど4年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上がらぬ内に、終わってしまった。が、これは特殊な性質を持っていたのである。即ち住宅およびそれに関係した緒事物の覚書きや写生図だった。 これ等の防備録は私の著書『日本の家庭及びその周囲』の材料になったのである。この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。また私は私が特に興味を持っている問題以外に就いては、記録しようとも、資料を募集しようとも努めなかった。日本の宗教、神話、民話等に大した興味を持たぬ私は、これ等を一向研究しなかった。また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も碌に覚えなかった。(中略) 私が何等かの、時には実に些細なことの、覚書きか写生かをしなかった日とては1日もない。私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。そうでないとすぐ陳腐になってしまって、目につかぬ。 ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパーズ』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。しかもこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生き生きとした印象を与える、大切なものなのである。最小限度に於いてでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思うなかれ。君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さい特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。」 本書にして若し価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀に亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ヵ年を経たばかりだという事実に立脚する。 その時(1877年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広範な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起こっていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。それは僅かではあったが、しかもたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべてちょんまげに結い、既婚婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよごく僅かしか影響しなかった。 私の防備録や写生図の大部分は田舎に於いてなされた。私が旅行した地域の範囲は、北緯41度に近い蝦夷の西岸オタルナイから31度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。これを私は主として陸路、人力車ならびに馬によった。私の記録や写生図の大部分は1千年前につくられた記録と同じであろう。事実、この国は『土佐日記』の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。それでは、写生図がちりばめられた日記の冒頭あたりを見てみましょう。モースさんは、この調子でえんえんと綴るのであるが・・・その好奇心と持続力にはおそれいるのです。<1877年の日本-横浜と東京>p6~7 朝飯が終わるとすぐに我々は町を見物に出かけた。日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。―不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼儀、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。 我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光とくらいであった。ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていたが、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘わらず二人我々についてきた。 我々が立ち止まると彼等も立ち止る。我々が小さな店をのぞき込んで、何かを見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうと思わなかったのである。しかし彼等は我々よりも、やがて何が起こるかよく知っていた。 歩き廻っているうちに、くたびれてしまうばかりでなく、路に迷いもするということである。果たしてこの通りのことが起こった。一歩ごとに出くわした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れきった我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。 如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。若し私が車を下りて、はだしの男と位置を代えることが出来たら、これ程面食らわずに済んだろうと思われた。 だが、この感はすぐに消え去った。そして自分のために一人の男がホテル迄の道のりを一休みもしないで、自分の前を素敵な勢いで駆けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚くべきことであった。 ホテルへ着いた時、彼等は十セントとった。この為に彼等は朝半日を全くつぶしたのである!かかる人々の驚くべき持久力はまさに信用できぬ程である。彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、しかも疲れたらしい容子もしないということである。明治維新という激動期の日本と該博なモースが出合ったことは理想的なマッチングだったようです。<解説:藤川玄人>p250~251 モースは、1862年に腕足類に関する最初の論文を発表したが、その研究を深める目的で、腕足類を多産する日本へやってきた(1877年6月18日)のが、日本と直接に関係を持つに至った契機となる。 その日、横浜から当時の新橋までの途中、大森に貝殻が捨ててあるのを汽車の窓から見付け、太古人が食べて捨てた貝塚であることを知り、直ぐに調査を始めて、これが貝塚であることを突きとめたことは、周知の事実である。 この貝塚の発見は、後に『大森介墟編』として、当時の東京大学理学部のメモアに発表されたが、これが日本での考古人類学の嚆矢である。これに続いて、東京近郊に多くの貝塚が発見され、またこれを探す人も増して、全国いたる所に発見されることになる。日本でも、太古は欧米人と同様、貝類を多く食べたことが分かったが、これと同時に石器なども多く見付けられ、日本にも石器時代の人間が住んでいたことが分かった。 そればかりでなく、石器と共に人骨も獣骨も多く発見され、人骨の中には打ち砕かれたものもあって、昔、日本の島々に住んでいた人間が人の骨髄をとり出して食べたものであるから、これらの人びとは食人種であった、とモースは結論した。 このように大森の貝塚の発見は、彼の興味を生物学から人類学へと大転換させる契機となったが、それだけではなく、日米両国の学問文化の交流進展に多大な影響を与えたと言ってよい。300年の鎖国からやっと抜け出そうとしていた当時の日本にとって、考古学は全く未知の分野であった。 腕足類が生物の進化の研究に如何に重要な意味を持つかを語るモースの熱意は聴く者をいたく感動させ、文部省は旬日を経ずして東京大学に動物学科を設置することを決定した。 東京大学が総合大学として発足したのは、モースが来朝する2ヶ月前のことにすぎない。その前身の開成学校には、動物学と植物学は学科として設けられていなかった。 人を逸らさぬモースの話術と柔らかい肌触り、そして何よりもその該博な学殖は、関係者一同にモースを措いて初代教授の椅子につく適任者はないと確信させ、早速高給を以って就任を懇望した。モースはそのような意図から来日したのではなかったが、破格の待遇と豊富な腕足類の魅力、またまだ文明の洗礼を受けぬ日本の美しさが、予定外の教授就任を拒みきれなくした。かくして来日以来僅か3週間で、動物学科設立の契約をむすぶに至る。 当時は外国人教師も教授と呼ばれていたから、モースは東京大学の初代動物学教授である。時に彼は39歳であった。
2015.09.02
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昨年はフェリーに乗り遅れて小豆島ハーフをキャンセルという悔しい目にあったりしたので・・・早めの準備、エントリーを心がけようと思うのです。で、本日、年末までのエントリーを終えたので27年マラソン計画が出そろいました。・4/19 志麻ハーフ・5/24 浜坂ハーフ・9月13日 烏原駅伝(当日エントリー)・11月1日 淀川ハーフ(申込み済み)・11月8日 六甲アイランド10K(9/1申込み済み)・11月29日 小豆島ハーフ(今年はパス)・11/30MRI検査、12/8定期診断・12月20日 三田ハーフ(9/1申込み済み)今年の1泊マラソンは、4/19志摩ロードパーティハーフマラソンに出走したので、11月29日の小豆島ハーフはパスすることにしたのです。志摩ロードパーティ・フォトギャラリーより********************************************************************************<H26のエントリー実績>〇5/25 浜坂ハーフ〇9/14 烏原駅伝〇11/2 淀川ハーフ・11/23 神戸マラソン(応募3連敗となり、もう応募するのを止めようかな)・11/30 小豆島ハーフマラソン(フェリーに乗り遅れキャンセル)〇12/21 三田ハーフ ********************************************************************************<H25のエントリー実績>〇4/14 芦屋ハーフ〇5/26 浜坂ハーフ・定期診断:5月末、8/末、11/末・9/8 烏原駅伝(雨天中止)・9/28 大阪30K(7/7エントリー済み―コース不良で中止)〇11/3淀川ハーフ(6/10エントリー済み)・11/17神戸マラソン(落選)〇11/24瀬戸内ハーフマラソン(7/11エントリー済み、エントリー3500円)・12/15三田ハーフ(9/16エントリー済み、右足受傷で出走キャンセル) ********************************************************************************<RUNNET情報・ネット情報、他>浜坂Mバス・民宿第25回三田国際マスターズマラソンHP2014年のマラソンを振り返って
2015.09.01
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大学図書館で観たDVD映画のその後です。このところ、鑑賞ペースが落ちているが・・・劇場で観る映画の迫力には敵わないと思うからでしょうか。・友へ チング・ぼくたちの家族****************************************************************************【友へ チング】クァク・キョンテク監督、2001年韓国制作、2015.8.20観賞<Movie Walkerストーリー>より1976年、韓国・釜山。ヤクザの父を持つジュンソク(ユ・オソン)、葬儀屋の息子のドンス(チャン・ドンゴン)、優等生のサンテク(ソ・テファ)、お調子者のジュンホ(チョン・ウンテク)は小学校の同級生で、いつも一緒に遊ぶ幼なじみ。4人は別々の中学に進むが、高校で再び顔を合わせ、つるむようになる。ある日の授業中、教師に親のことを言われて逆上し、教室を飛び出すジュンソクとドンス。後日、映画館でツッパリに絡まれ大乱闘になり、退学処分となる。1984年。大学に進んだサンテクとジュンホがジュンソクを訪ねると、彼は薬物中毒になっていた。そんななか、ジュンソクの父が亡くなり、それをきっかけに彼は裏社会に入っていく。そしてドンスも、ジュンソクの組と対抗するサンゴンと盃を交わす。<大使寸評>韓国で大ヒットした映画ということで観たのだが・・・小学校の同級生4人の成人後の友情が描かれています。俳優が代わっての高校生時代であるが・・・おっさん顔の高校生たちにおおいに違和感があるわけです。さらに15年ほど経ちやっといい顔になるのだが、これだけの年代記ともなると俳優3人で演じるべきではないか。ジュンソクを演じたユ・オソン・・・・薬物中毒の演技には鬼気迫るものがあるが、刑務所に収監されたあとの明るい笑顔には渡世人の潔さが見られるわけです♪ちなみに、チングとは漢字で「親旧」と書くそうで・・・あかなか趣きがありまんな♪movie.walker友へ チング****************************************************************************【ぼくたちの家族】石井裕也監督、2013年制作、2015.8.24観賞<Movie Walker作品情報>より母親の突然の病気発覚を機に、バラバラになりかけた家族が必死に絆を取り戻そうとする姿を描く、実話をベースにしたヒューマンドラマ。妻夫木聡、池松壮亮が兄弟役に扮し、その両親を長塚京三、原田三枝子が演じる。監督は『舟を編む』など数々の作品を手がけ、人間味のあふれる作風を得意とする若手実力派の石井裕也。<大使寸評>ブログ友の高い評価もあったので、大学図書館のDVDで観た作品です。監督の初期作品「川の底からこんにちは」ではコミカルな味を出していたが、この作品は、そんなケレン味もなくて、家族に生じた苦境を淡々と描いています。母を想う兄弟の気質がまったく違うのだが、それぞれが相手を認め、気遣うところが、ええでぇ♪なお、経済的には禁治産者のようなダメ親父も、それなりに妻を気遣っています(笑)ラストでは、かすかな希望が見えるのだが・・・そうか、監督の描く作品の通底音は「希望」なのかと合点がいったのです。movie.walkerぼくたちの家族クマさんの今月の映画評「ぼくたちの家族」がええでぇ♪****************************************************************************大学図書館でDVD観賞(その15)
2015.09.01
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