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年に一度だけ、ラジオデイズの顧問である演芸研究家の大友浩さんがこの人のこの落語が極めつけであるという組み合わせを選んでプロデュースする落語会が『きわめつけ落語会』である。その第二回目が3月18日水曜日、お江戸日本橋亭にて行なわれる。春風亭小柳枝「井戸の茶碗」八光亭春輔「旅の里扶持」立川談四楼「浜野矩随」の三題ネタ出しである。「井戸の茶碗」は、色々な噺家さんのものを何度も聴いているが通の間で評価の高い小柳枝師匠のものはお聴きしていない。「浜野矩随」は、講談話からきたもので、できそこないの職人が、きっかけをつかんで名人になるまでの話である。春輔師匠の「旅の里扶持」は、一度も聴いたことのない落語なのでどんなものなのか見当がつかないのだが、長谷川 伸作の泣ける噺のようである。落語は、笑いだけではない。今回はおそらくは、笑いながらもしみじみとして、そして動けなくなるという体験をすることになるはずである。大友さんの選択なので、間違いはない。落語の奥深さをじっくりと味わう絶好の機会で、俺が一番楽しみにしている。ああ、待ち遠しい。まだ、残席があるようなので、ラジオデイズから是非お申し込みを。
2009.02.27
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脂の乗り切った白鳥とは言っても、スワンを食うわけではない。25日、新宿ハーモニックホールにてラジオデイズ落語会。三遊亭円丈&白鳥の親子会である。これまでは、確かに物凄いエネルギーと才能を感じはするが作りすぎ、入れ込みすぎ、ねらい過ぎといった感もありときには、うまく笑いの中に引き込まれないこともあった。その白鳥師匠が、確実に変化しており、いままさに脂が乗り切ったという状態になっている。とくに、この日の出し物である『エコ時そば』『スーパー寿限無』はどちらもぶっ飛んでいて存分に笑える素晴らしい出来であった。凄いことになっているのである。もちろん、このところの円丈師匠は俺にとっては高座姿を見られるだけで幸福感を感じるといった稀有の噺家の一人になっておりこの日も、かねてよりリクエストしていた『ヤブツバキ(藪椿)』をたっぷりと聴かせて頂いた。やっぱり、「円丈以前」に円丈なく、「円丈以後」に円丈師匠のような噺家は現われないという気にさせられる。今見ておかなければいけないのだ。両師匠を囲む打ち上げには、産経新聞のトリイさん、新潮社のアダチさん、本願寺出版のフジモトさんも駆けつけてくれた。俺の対面には脚本家の稲田和浩さんの顔も。大笑いしたあとの気持のよい脱力感は、心地よいものである。三月は、ラジオデイズ企画会議で、もうこれしかないっしょと、ヒラカワ渾身一押しの立川談笑独演会&米粒写経の組み合わせが実現した。(チケット売り切れ必死なのでお申し込みはラジオデイズのサイトからお早めに)第15回ラジオデイズ落語会 立川談笑独演会 (立川談笑、ゲスト:米粒写経)2009年03月23日 19時00分なんか、宣伝しているみたいで気が引けるが宣伝しているのである。
2009.02.26
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ラジオデイズ連載コラム(一足先の公開)蒲田のシェーン映画『シェーン』は、1953年のアカデミー賞で五部門にノミネートされ、撮影賞を受賞している。雪を戴いたロッキー山脈を背景にした、ワイオミング州の開拓地が映画の舞台になっており、荒々しいが美しい自然と健気な開拓民の姿がよく描かれている。 何をいまさらと言われそうだが、先だっての日曜日になぜかこの映画が見たくなってTSUTAYAに走ったのである。街を歩いていて、唐突に頭の中でモーツアルトが鳴り出したなんていう高級なものでもないし、かといって餃子のことで頭がいっぱいになって思わず「王将」の暖簾をくぐるなんていうほどにありふれた欲求とも違う。自分のなかで、ふとしたときに時間が一気に逆流して幼年時代の空気の匂いのようなものに触れてしまうことがあり、そうなるとどうしてもその時代の切れ端でもいいから手繰り寄せてみたいといった欲求に駆られてしまうのである。それをノスタルジーっていうんじゃないのと言われるかもしれない。そうかもしれない。年をとった証拠だぜ。それもその通りである。確かに若い時分には無かったことで、年寄りのノスタルジーと言われればそうかもしれないが、私は、こういった「過去への遡行」の欲求に対してもう少し意味のある席を与えてやってもいいような気がしている。未来志向の現代は、ことさら「過去」「後ろ向き」「内向き」への視線が冷たい。もっと優しくしてやったらどうだ、と思うのである。そもそも、私は何故唐突に、忘れ去っていた『シェーン』を見たくなったのだろうか。この映画の中の何が私を呼び止めたのだろうか。いや、ひょっとするとそれは映画の中の出来事ではなく、この映画が上映されていた当時の風景の中の何かが私にフックをかけたのかもしれない。この映画の封切りはアカデミー賞を受賞した1953年。日本での上映もこの頃だろう。私にとっての『シェーン』は、父親に連れられて歩いた蒲田の映画街での大きな宣伝用看板である。この記憶の中の風景が、もし、この映画の封切りのときのものだとすれば、私は三歳だということになる。まさか、父親が、三歳児の私を映画館に連れて行くとは思えないので、おそらくは数年後の再上映のときの風景なのだろうと思う。『シェーン』はただの映画ではなく、同じ年に作られた『ローマの休日』と並んで、映画が輝いていた時代、アメリカがその魅力を振りまいていた時代を象徴する映画なのである。だからどちらも、何度も上映されたはずである。いづれにせよ、私にはこの「ロッキー山脈を背景に馬上で背を向けて去ってゆくシェーン」の光景が目に焼きついている。当時、こんなポスターが本当に作られていたのか、あるいは、蒲田の映画館の看板職人が描いた絵だったのかはっきりとは思い出すことができない。もっといえば、その時私が父親と一緒にこの映画を見たのか、見なかったのかさえ定かではないのである。ただ、その時の「風景」だけはやけにはっきりと目に焼きついているのである。 1950年代の蒲田映画街がどんな様子だったのかについてもおぼろげな記憶しか残っていない。ただ、ここは松竹蒲田の撮影所があった場所であり、深作欣二の名作『蒲田行進曲』の舞台となり、山田洋次が『キネマの天地』でオマージュを捧げた地である。松竹撮影所そのものは1936年には大船に移転してしまったが、その後も、蒲田が映画のメッカであるという地元の人々の思いは残り続けた。蒲田駅東口は、浅草の繁華街ほどではないにしても、遊興の街として南東京を代表する活気のある街であった。 久しぶりに見た『シェーン』は、やはりどこか古めかしく、牧歌的であるが気の抜けたところのある映画になっていた。ただ、ロッキーの山並み、開拓地の広大な景色、動物と人間がまだ一体だった時代の雰囲気を味わうには十分な映画であった。何よりもテーマ音楽の「遥かなる山の呼び声」(同名の映画を山田洋次は、高倉健を主演にして制作している)は、私を一気に半世紀前の空気の中へ連れ戻してくれたのである。有名な「シェーン!カムバアック!」というジョーイ少年の声が響くエンディングまで行ったところで、私は何故か、これは記憶と違うなという思いにとらわれた。記憶の中のシェーンは、振り返ることなく右手を上げて去っていくというものであった。画面ももっと明るかったような気がする。ところが、実際の映像が映し出したシェーンの姿は、陰鬱で、右手はだらりと下がっており、背景も薄暗かった。インターネットで、いくつかの解説を読むと、驚くべきことが書いてあった。実はこのときシェーンはライカー一味との撃ち合いで自らも傷つき、そのまま馬上で息絶えていたというのである。もちろん、そういう説もあるということなのだが、実際、サミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシーが主演した映画『交渉人』の中で、この場面でシェーンが生きていたのかどうかが論じられるシーンがあったらしい。実は、私も『交渉人』は見たのだが、そんなシーンがあったとは思わなかった。多分、その時は映画『シェーン』そのものが私にとってどんな意味も喚起しなかったからだろう。この解説を読んでからもう一度ラストシーンを見返してみると、確かに馬上のシェーンの姿は不自然に見える。この有名になったラストシーンで、シェーンが生存しているか、すでに死亡しているのかによって、この映画の意味は大きく異なってくるはずである。ただ、私にとってはそれももはやどうでもいいようなことのようにも思えるのである。私のシェーン(つまり蒲田のシェーン)は、右手を上げて、ジョーイに別れの挨拶をする。しかし、振り返ることはしなかった。五歳の私には、ハッピーエンド以外の結末は、あり得ないことであり、それが私の真実であった。まして、五十年後にもう一度同じ映画を見て、世の中はハッピーエンドで終わるとは限らないということを知ることになるなどとは思いもよらぬことであった。
2009.02.24
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村上春樹のエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。たとえば大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサーしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザ虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。勿論、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の敵が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、エルサレム市がそれを掲げる事自体が欺瞞であり、イスラエルはこれを政治的プロパガンダとして、自らの行為の正当性を根拠付けることに利用するだろうというのが、その理由である。この理由、つまり今回の式典がイスラエルの政治的プロパガンダに利用されるということに関しては、私はまったく異論はない。あらゆる人間の行為は、歴史の中では必ず政治性として抽出される宿命にある。世間の耳目を集める出来事に、高名な作家がどう関わるかということになれば、その政治性はさらに鮮明度を増すことになる。そのことに対してもその通りだと思う。ただ、それがどのような政治的な背景のものであったとしても、その文学賞に対して、それを受賞するか辞退するかという決断に対して、それが政治的に利用されるという理由によって、他者がその決断に関与するということに関しては大いなる違和感を感じざるを得ないのである。私は、この問題を聞いたときに、受賞を拒否するにせよ、イスラエルに行くにせよ、村上氏は村上氏らしいやり方をご自分で決めるだろうと思ったし、そうしなければ意味はないだろうと思った。同時に、かれはイスラエルに行って自分の言葉で喋るだろうと思ったのである。この問題は、新しくて古い問題でもある。かつてサルトルが「飢えた子どもの前で文学者は何ができるのか」と問うて以来、文学者による文化大革命支援声明のときも、文学者の反核声明のときもこの問題が議論されてきたと思う。それぞれ、場面も登場人物も異なっているが、中心にある問題は同じである。人間は、とくにかれが作家であるならば、主観的にはたとえば文学的人間でありたいと思ったり、政治的に正しい人間でありたいと思ったりすることはできる。しかし、生きている限りかれは、文学的なものと、政治的なものとの両方にいくぶんかの影響を与え、両方からいくぶんかの規制されることを逃れることはできない。政治的であるとはどういうことか。最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。文学的であるとはどういうことか。それはまさに人間が政治的であること自体を拒否することであり、政治的言表を相対化し、無化することである。勿論、現実はそれほど単純でもなければ、旗色が鮮明でもないことは承知している。重要なことは、人間は社会的な存在であると同時に、個人的な存在でもあるということである。そして、その上で、人間はひとつの行動を選ばなくてはならない。村上氏は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。それはまさに、政治的な色合いを帯びているだろうこの授賞式というものに対して、小説家というものに何ができるだろうかという問いを携える旅であっただろうと想像する。つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どうこたえるのかということである。So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies. (私は、ひとりの小説家、つまりは嘘を言うもののひとりとしてこのエルサレムに来ました)かれは、自分がひとりの小説家であり、小説化とは虚構をつくりながら真実を暴きだすことを仕事にしているものだということをスピーチの冒頭で述べた。そして、しかし、この度は嘘ではなく、正直な気持を話したいと続けたのである。その話とは政治的なシステムの比喩としての「壁」と、その「壁」にぶつかって壊れる人間の比喩としての「玉子」の話である。そして、どんなに「壁」が正しくとも、自分は常に「玉子」の側に立つことを表明する。If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.そして最後に、イスラエルの人々に向かって、あなたたちと何か意味のあることを分かち合うことを望んでおり、あなたたちの存在こそがわたしをここに来させた大切な理由なのだと結んだのである。I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.この度の村上春樹の行動と、スピーチに関して、ガザ虐殺についての批判がなまぬるいとか、中途半端であるという批判はあるだろうと思う。しかし、私は小説家の仕事とは、この中途半端さに耐えながら、敵の中に届いていく言葉を探すことであり、その意味ではこのスピーチは村上春樹らしいと思ったのである。村上春樹らしいとは、皮肉でもなんでもなく、よいスピーチであったということである。
2009.02.18
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人間誰でも酒を飲めば酔っ払うし、中川さんだって、人間なんだろうから酔っ払うななどとは言えない。だから、酔ってくだ巻こうが、ろれつがまわなくなろうが、そんなことは構わない。財務当局のトップとして日銀の政策金利を間違えちゃったって、まあ、それは酒の席の話しだし・・・。いや、公式の記者会見での話しであった。しかも、先進国蔵相会議での会見であり、世界に発信されてしまった。問題は、彼のような性向を持つ人間が、財務財政の最高責任者であるということではない。一般論だが、酒さえ入らなければ、クリアでシャープな頭脳を発揮できるというのなら、酒癖が悪かろうが、女癖が悪かろうが構わないと俺は思う。問題は、権力者の行動や思考が明らかにおかしいと思ったときに、誰も彼の暴走や迷走を止められないというところにある。面従腹背してしまうという今の政治状況全般に言える。誰だってそう思うだろう。当たり前すぎてどうも、この話題はつまらない。つまらないが、それでも「あの画面」は見ていられなかった。あってはならないことがまかりとおっている。非常識がまかり通るときに、周囲の誰かが常識の行動をとるのは案外難しいということか。会社に、大学入試の参考書の会社から連絡があった。入試例題集の「赤本」(というらしい)に、拙著が引用されるということである。ということは、どこかの問題に出たのかと思ってよく見てみたら同志社大学の法学部、スポーツ健康学部の今年の国語の最初の問題に『株式会社という病』の一節が出題されている。で、どんな問題なのかと見てみたら、これが大変長文の読解問題で、しかも設問が易しくない。拙文を取り上げていただいたことは大変光栄かつありがたいことであるが、はたして高校を出た若い人にこの問題が解けるのだろうか。俺がやっても全問正解できる自信がない。問題の中に、虫食いの穴埋め問題があった。 ひとが、不条理と知りつつこの「会社の命令」に従うのは、利益の最大化をどのようにして合理的に達成してゆくのかという会社の命題に、不思議なことにほとんどの場合、嬉々として従うからである。それは、人間というものが一つの目的のために、いくつかある他の目的を見ないようにするということである。もちろん、自らの保身のために、●●●●するということも多いだろう。しかし、往々にして、不条理ではあっても、会社の命令は絶対であるという「天の声」には従わざるをえないと考えてしまうことの方が多いだろう。この●●●●に入る正解が「面従腹背」であった。わたしは、ここでは、この「面従腹背」ということばを、ややポジティブな意味でつかっている。むしろ、多くの場合、人間は組織の命令に「面従腹背」ではなく、「嬉々として」従ってしまうことの理由を知りたかったのである。そして、その理由はかれが、会社のフレームワークが作った言葉で思考し、そのフレームが作った価値観でものごとを判断することの「非常識」から逃れることができないからだという仮説を提示したのである。面従腹背は、必ずしも悪いことではない。おとなはときに、何かを守るために面従腹背しなければならないこともある。家族の生活や、隣人の面目や、チームワークといったものを守るために、ひとまずは面従する。ただ、その守るものがただ己の利益だけであったり、臆病心から面従腹背してしまうというのは、ただの去勢である。それは、「おとな」とは何の関係もない。
2009.02.16
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ラジオデイズの収録で、二宮清純さんとお会いする。スポーツ評論家というと、かつてプロで鳴らしたOBだったり、スポーツ新聞で記事を書いていたりしていた人がほとんどだが、二宮さんには、どこか忽然とこの世界に出現してきたような趣がある。いつも、ストライプのダークスーツにネクタイ、長身で歯切れのよいコメントを発する姿は、経済評論家のようでもあり、金融ブローカーといった風情もあってその落差がテレビ画面を引き締めている。かっこいいのである。どこか、もののふの相貌が見え隠れする。話が始まってすぐに、この人とはいくらでも話をふくらませることができると思ったのだが、実際には、プロレス創世記の話だけが目いっぱい膨らんでしまった。人間風車ビル・ロビンソンのスープレックスの凄み。ローラン・ドボックのまったく客に媚びない冷徹。彼には確か「地獄の墓堀人」というあだ名がついていた。二宮さんは、駆け出しの頃、高円寺で飲んでいて、となりでビル・ロビンソンがいるのに気付き、一緒に酒を飲んだのだそうである。いやぁ、人間風車と酒を飲んだ人間とはじめて会ったぜ。まあ、俺は田コロ(田園コロシアム)で、試合が終わった裸の木村健吾とならんで、ボブ・バックランドの試合を観戦したけどさ。このあたりから自慢話のし合いっこになるわけである。いまどきの人には、ほとんど知らない名前ばかりが連発される会話は番組的にはどんなものかと、思案が頭の片隅をかすめる。案の定、ガラス越しのモニター室のディレクター村田さんがげんなりとした顔をこちらに向けていた。かれだけが、番組を番組たらしめる平衡感覚を保持しながら機械を操っているのである。たぶん、ずたずたに編集されるんだろうなと思いながらもブレーキが利かなくなってしまったのである。一息入れた後は、すこし冷静になって今日のアマチュアスポーツのあり方とか、WBCの意味合い、勝敗予測、相撲における問題点などなど現代的な話題についてひとつひとつお伺いした。好漢、二宮清純。今度は、温泉場でじっくり話をお聞きしたいものである。FMサウンズのスタジオから、場所を銀座のラジオ関西のスタジオに移して、午後の収録を行う。ゲストは、絵画修復の第一人者、吉村絵美留さん。本名である。絵を美しく留める。まさに、現在のご職業そのままの名前が、かれの現在を作ったのである。岡本太郎の、『明日の神話』の修復を行った人でもある。絵画修復の面白さは、一枚の絵の背後に隠された制作のプロセスが暴き出されるところにある。最終的に目にする絵画の絵の具の層の下に、しばしば、別の絵が隠されていたりする。画家の逡巡の跡であったり、あるいはまったく別の作品であったりと言うわけである。絵画は百年単位の時間のスパンの中を生きている。そこには、人の目に触れなかった膨大な時間が堆積している。あるとき、かれの元に届けられた額縁の中にはどんな絵画も描かれていなかった。ただ、絵の具のくずが額縁の隅に固まっていたのである。その破片のひとつひとつを、キャンバスのもと在った場所に移していくと、素晴らしい絵が再現されたのだという。どの話にも、驚きがあり、発見があった。収録後、ポツリとかれが言った。「ヒラカワさん、伝統ってなんでしょうかね。ぼくは、伝統を守るために、同じことを同じように積み重ねています。でも、時代はどんどん変化している。同じものが違う時代に置かれるとき、昔のままの存在をただ再現すればいいんだろうかと思うことがあるんです」すごいな。こんなことを、考えながら仕事をしているアルチザンがまだ、日本にいるのである。ちなみに、日本人の修復家の総数は四十人ほどだそうである。「そうですね。ぼくは、空手をやっていて、昔の古いフィルムをみることがありますが、その技を見ていると、今から比べるととても稚拙に見えることがあるんです。でも、それは稚拙ということではなくて、本質的なものが見えなくなってしまっているのかもしれないとも思います。もし、そうだとすれば、伝統を掘り下げるというのは、この見えなくなったものを再発見するという作業のような気がします」こんな風に俺はお答えした。時代の表層はどんどん移り変わり新しくなる。人間はそう簡単に変われない。時代と人間を相対化して見れば、人間は、時代が進めば進むほど退化していくように見えるのである。まさに、「退化に生きる我ら」なのである
2009.02.13
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土曜日の夜は明け方までコンピュータに向かって原稿書きをしていた。堅気の仕事をしていると、なかなかこういう時間がとれないし、億劫な気持もあって、やろうという気力も持てないのだが、締め切りに追われれば、眠い目を擦りながらでもなんとかやれるのである。まあ、いい年なのだから、そんなに頑張らなくても良いのだが、やり始めれば気合が乗ってくる。けりがついたところで、ベッドにもぐりこむ。昼ごろまで眠って、武蔵小山の清水湯へ行く。途中、アゲインに立ち寄り、店長のイシカワくんから『日本ポップス伝2』のテープをお借りする。しかし、カセットテープなので、今のところ聴きようがない。このところ、ずっと『日本ポップス伝』を聞き続けていて、続編があることを知り、どうしても聴きたいと思っているのである。手元に音源があるのに、どうすればいいのかわからないというのは、辛いものがあるね。先日も、『ダークナイト』がえらく面白かったので、『バットマンビギンズ』も見たいと思ってDISCASに注文しておいたら、ブルーレイが届いた。判ってはいたのだが、DVDプレーヤーにかけても、うんともすんとも言ってくれない。この規格違いというのも、困りものである。まあ、事前にしっかりとチェックしていない俺が悪いのだけれどね。前回、風邪気味の折に清水湯へ行って風邪を悪化させた経験があるのでやや、慎重になっていたのだが、晴れた日に露天の風呂に入れるという誘惑には勝てない。今回もまだ咳がでていたのだが、昼間の風呂に浸かることにした。この日は、晴天で風が強く、露天のいい塩梅の湯温のにごり湯に浸かっていると、顔に寒風が吹き付けてきてすこぶる気持が良い。風呂から上がって、まるが死んでからすっかりご無沙汰していた田園調布のデコさんのドッグ・カフェへ行く。忙しそうに立ち働いている彼女と取り急ぎ近況を交換してそのまま実家へ。齢八十五になる、父親と話をする。最近はすっかり老け込んで(あたりまえか)、不機嫌になっている。「こんなに、馬鹿になるとは思わなかった」「え?」「漢字が書けねぇんだ。読むのは読めるんだが」「そりゃ、ぼけてきたってことですか」「ずっと、手書きで書いてりゃよかったんだが、ワープロなんか使ったもんで、すっかり書けなくなっちまった」「なるほど。手を使って、書いていりゃ、身体が覚えているからね」俺は、ほとんど父親とは会話をしないが、此の頃はぽつりぽつりと語る父親の言葉を聴いている。こういう機会がいつまでも持てるわけではないとどこかで思っているのである。父親だけではない。俺もコンピュータで書いているので、たまに万年筆を持つと、字がかけなくなっていることに気付かされる。文明発達がもたらす利便性は、一方で身体性を退化させるのである。得たものも大きいが、失ったもののかけがいの無さに気がつくのはずっと後になってからである。新聞を開くと、リービ英雄が「自分の宝物」といった題でちょっとしたコラムを書いていた。彼にとっての宝物のひとつは、縦書きの原稿用紙である。何も書かれていない原稿用紙は、ただの紙であるが、その升目を、文字が埋めていくと、別のものに変じてくる。思考の痕跡と升目が一体となって新しい価値を生み出す。高級なワインが、人と触れることで価値を増すように、人が関与することで、価値を増してゆくものがある。およそ、こんなことを書いていたと思う。なるほど、原稿用紙なるものは、日本だけのものかもしれない。彼の祖国には、タイプライターはあっても、原稿用紙といったものは必要としていない。原稿用紙は、ただそこに文字のしみをつけられるためにだけ、机の上に積み上げられている。ワープロで、文字が書けるようになれば、必然的に無用の長物となる。無用の長物の用を、知るのは利便性と合理性の社会から逃れてきた稀有の感性を持った作家だけである。無用のものが増えていく社会の中で、俺たちは生きているわけである。
2009.02.09
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特に忙しかったわけでもないのだが、ブログの書き込みが滞ってしまった。特に理由はないのだが、何となく気乗りがしなかったのである。だらだらとした時間に身を任せる贅沢を享受できるのも老人の特権である。老人時間の流れは緩やかであってしかるべきなのである。若いもん?そりゃ、刻苦勉励、骨身を削らなけりゃいけません。若いもんが怠けていちゃ世の中回らない。まあ、働きたくでも仕事がないというのが、目下の問題ではあるけれど。落語のまくらで、俺が好きなやつがある。長屋に、面倒くさがりやばかりが集まった。縦のものを横にするのも面倒だというやつらばかりである。なかのひとりが、「これだけ、面倒くさがりやが集まったんだからひとつ、面倒くさがりやの会でも、つくろうじゃねぇか」「よそうよ。面倒くせぇ」それだけの話である。いろいろな噺家が、バリエーションを持っているがやはり小三治師匠の味が格別で、本当に面倒くさそうにやっている。この、「面倒くさい」には、なかなか強靭な諧謔味がある。ブラックホールのように、このひとことで、すべてが一瞬のうちに、溶解してしまう。退嬰的でもあり、投げやりでもあり、無責任でもあるが、どこか他力念仏のようで、意気込んだ自己主張を相対化するといったものも含んでいる。「面倒くさい」は、「出来ない」ではないし、「やりたくない」でもない。しょうがねぇなと思えば、重い腰を上げるかという積極性(随分消極的な積極性だけど)も含んでいるわけである。何か新しいことや、困難な仕事に向かうときには、「こうせねばならぬ」といった当為の気持でやっても行き詰ってしまうが、しょうがねぇ、やるかと思えば、結構続けられるものである。途中で止めるのも面倒くさいからね。以前、「亜熱帯的生き方」というエントリを上げたが、まあ、それもこれと同じである。解説を加えるのも面倒だからそのままコピペしておこう。昨日は、阿部くんと三軒茶屋のRAIN ON THE ROOF で、久しぶりの対話を楽しむ。「いやぁ、日本はもう亜熱帯だね」「確かに、豪雨の様子とか、今日の日差しなんかを見ているとそうだね」「だからさ、亜熱帯的な生き方というものをすべきなんじゃねぇの」「株式がどうのとか、為替レートがどうのとか、 こういうのは北方系の人たちが、肥沃な土地に恵まれない環境の中で 考え出したことだと、ルソーも言ってる」「日陰を探して、ぼけっとしているのがいいね。 たまに、畑を耕したりしてさ」まあ、こんな話をクーラーの効いた、屋根の下で亜熱帯的な食い物をずるずると頬張りながらしていたのである。その後俺は、渋谷の堀口整体へ。本日も、亜熱帯的な太陽が中天で燃えている。お昼過ぎに、渋谷の堀口整体の二日目。このところずっと、首が痛くてしょうがなかったのである。まくらが合わないのか、首に喰らった回し蹴りの後遺症なのかいつでも寝違え状態が続いた。こういうときは、いつも堀口さんへ行って矯正してもらうのである。針灸整体、いろいろいったのだが、最後は堀口さんへ駆け込む。もし、堀口さんがなければ、俺の人生は結構痛いものになったはずである。以前は親父と息子のコンビで施術していたが、親父さんは亡くなったらしい。今は若先生がひとりで、切り回している。「後継者を育てないといけないんじゃないの」「いいよ、そんなもん」「だけど、困るのは俺のような患者だぜ」「なるようになるよ」「まあ、先生は俺より若いから、俺はいいんだけどね」「・・・」こんな会話をしながら、施術してもらうと、首の痛みが随分楽になっている。若いが恬淡とした良い先生である。知る人ぞ知る名治療師は、今日も救助活動に余念がない。コピペはここまで。去年の夏、この先生の面倒くさがりぶりに感心して書いたものである。半年が過ぎ、気がつけば、日本は随分寒いことになっている。布団から、頭だけ出して、煙草に火をつける。暑いのもこたえるが、寒いのはもっとこたえるねと呟きながら二度ねをすることにする。暑かろうが、寒かろうが、面倒くさがりやの生態は、あまり変わらない。
2009.02.01
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