JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.27
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カテゴリ: JINさんの農園
そしてようやく「 三浦安針墓(安針塚) 」への石段下に到着。



按針塚 」案内柱。



「国指定史跡
三浦按針墓
所在地    横須賀市西逸見町三丁目五十七番地
指定面積   一三五ニm2
指定年月日  大正十ニ年(一九ニ三年)三月七日
三浦安針は、本名​ ウィリアム・アダムス 👈️ リンク という英国人で オランダ東印度会社
東洋に派遣した艦隊 の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、、 慶長五年(一六〇〇年)
安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着 しました。
安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、 徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、
江戸日本橋に屋敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石 を与えられました。
また、 安針は造船の知識もあり、伊豆伊東で西洋帆船を建造 しました。
安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、 遺言により
知行地の逸見村に供養塔が建てられました。ニ基の宝筺印塔は、凝灰岩製の右塔が安針、
安山岩製の左塔が妻・ゆき のものです。

              横須賀教育委員会」



宝篋印塔の各部の名称。

川原畑諏訪神社の宝篋印塔 | のめしこき日記

三浦安針墓(安針塚)への石段前から再びピンクの「ミツバツツジ」をズームして。



石段下から見上げて。



ウ井リアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂 」と刻まれた石碑。



史跡の永久保存
1.私達は、ウィリアムアダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、
 西歴1966年(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。
2.毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。
 日英両国民の友好の証しとして、この史跡を大切にしてください。



さらに石段を上って行った。



振り返って。







安鍼塚碑
「三浦按針墓」の手前にある石碑は大正7年(1918年)に建てられたもので、
ウィリアム・アダムスの事績と墓が整備されるに至った経緯が刻まれています。
アダムスは元和6年(1620年)に亡くなり、この地に墓が建てられますが、墓はその後、荒廃して
いたようです。
明治5年(1872年)に横浜の英国人商人のウォルターズが、横浜在住の英国人向け新聞
「ザ・ファー・イースト」に紹介したことで、その存在が知られるようになりました。
その後、逸見の有力者であった鈴木福松(後の第2代横須賀市長)らが整備を行い、さらに
日露戦争中の明治38年(1905年)には広く寄付を募り、その寄付金をもとに整備が行われ、
この石碑が建立されました。」



「石碑全文はこちら」とQRコードが。



安鍼塚碑

塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕
蘭舩航東洋遭颶風漂蕩五年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江
戸賜邸今日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成
稱意又為砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦
郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱
曰吾漂來此國暖飽至今皆徳川将軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其
墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏
生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙
滿比丘宅阯猶在村中香火院曰浄土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈
川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇
納爾海軍大将井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王
英國亜札爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貮
萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保
存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰
 嗟安針氏    海外漂寓     有効國家     報以恩遇
 義不忠恩    生死仰慕     永護江都     東面其墓
    従三位勲二等文學博士三島毅撰
          従六位勲五等髙島張輔書          井龜泉刻字」

現代語訳
塚に葬られているのは、イギリスのケント州ジリンガム出身で安針の名で知られる
ウィリアム・アダムスである。慶長三年(一五九八年)にオランダ船に乗り、東洋への航海中
台風に遭い、五年間の漂流の後、豊後(現在の大分県)の海岸に達した。この時、大阪にいた
徳川家康に召し出され、江戸に屋敷を与えられた。日本橋区(現在の東京都中央区)按針町が
これである。家康は通訳あるいは顧問として按針を取りたてた。西洋式の船の造船を命じ、
安針はその意をかなえた。また、砲術、地理、数学等の師範、或いは外国との貿易に大変な
功績があったので、相模(現在の神奈川県)の逸見に二百五十石の領地を与えられた。
元和六年(一六二〇年)四月十四日に病没した。その際、「私はこの国に流れ着き今や大変に
恵まれた生活をしている。これはみな徳川将軍の恩である。私を逸見山の嶺の東向きにした
墓に葬ってほしい。そうして死後も江戸を望みこの都を永久に保護するものである」との
遺言があった。戒名は寿量満院現瑞居士。妻の馬籠氏との間の二人の子供は夭逝し、寛永十一年
(一六三四年)七月十六日妻もまた病没し、ここに合葬した。
戒名は海華王院妙満比丘。屋敷は現在も逸見にある安針の菩提寺である浄土寺で、所縁の品が
伝わる。明治三十八年、墓が訪れる人もなく荒廃していることを歎いた神奈川県知事の周布公平
(すふ こうへい)が整備をした。イギリス公使マクドナルド、海軍大将井上(良馨)男爵、
イギリス人商人ジェームス・ウォルタらの募金により修繕をした。有栖川威仁親王、イギリスの
アーサー・コンノート親王の保護令旨により紳士、富豪やイギリス人らから二万円の寄付が集まり、
これをもとに墓の拡張や修繕、花や木の植栽、墓守を置くなどの整備が行われ、塚山と
名付けられた。また、これらの事業を後世に伝えるためこの石碑を建立した。
※注:碑文を現代語に訳したものであり、必ずしも歴史的事実を表したものではありません。


三浦安針墓(安針塚)。
供養塔の脇には大きなタブの木(クスノキ科常緑高木)があり、周囲はフェンスで囲われていた




近づいて。
三浦按針が亡くなったのは長崎県の平戸であるが、いろいろな出来事があり墓の所在は定かでは
ないとのこと。そのため、ここは 本来の墓ではなく供養塔であるが、大正12年(1923年)に
三浦按針墓として国指定史跡 となったとのこと。



右の宝篋印塔が​ ウィリアムアダムス・三浦安針 👈️ リンク  の供養塔。

按針とはパイロット=水先案内の意。 磁針を見、天体を測定して船の航海をつかさどった者 と。



左の宝篋印塔が 妻・ゆき の供養塔
慶長7年(1602)に 馬込勘 解由 の娘とされる、 お雪(マリア) という女性と結婚し2人の子供が
誕生したと。
しかし、日本に漂着する前、既に結婚していたとのこと。
ウィリアム・アダムス メアリー・ハイン と結婚して 娘・デリヴァレンス 息子・ジョン
誕生していたと。
多忙であった ウィリアム・アダムス は家にいないことが多かったと。
しかし彼は 家康 に気に入られて武士となった後も一度も帰国しなかったとのこと。



一対の供養塔を左側から。



再び「 安鍼塚碑 」を振り返って。



石段を降りた所にあった石柱。



史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
大正十二年三月内務大臣指定 」と刻まれていた。



大正十三年六月建設 」。



「富士見台」に向かったが、写真を見ると通行止めではなく、駐車禁止案内であったことに
気がついたのであった。



「大楠山(石畳道)」案内。



大楠山山頂より富士山と金時山(左端、富士山直下は矢倉岳)の写真をネットから。



正面にも案内板が。



市制施行七十周年記念 
横須賀風物百選 
三浦按針夫妻墓

墓石は、江戸期の宝篋印塔で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその
妻の墓です。
三浦按針は本名をウイリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで
生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長を
つとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の
航海長として1598年に東洋に向かいました。慶長五年(1600)、台風に遭い、生き残った
乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。
徳川家康は三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地
逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことに
より、按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによります。この頃の按針は、家庭的
にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョゼフと
スザンナの一男一女をもうけました。家康の亡きあとは不遇となり、 元和6年(1620)5月16日に
江戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死 しました。享年57歳でした。この地に供養塔が建てられたのは、
我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、
将軍家のご厚恩を泉下に奉じ奉らん 」との按針のことばに従ったものと言われています。
毎年4月8日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。」



ここからも富士山の姿が見えるのであろうか?



別のルートで「富士見台」に向かって見た。



ここが「 富士見台 」であったが・・・。



「富士見台」から引き返して、ここも別のルートで「三浦安針墓(安針塚)」へ再び。



今度は「三浦安針墓(安針塚)」を先ほどとは反対側から。



そして石段の上から桜をこれでもかと見下ろす。



中央広場 見晴台 」へ。



見晴台側の斜面にあった「 かながわの景勝50選 塚山公園 」碑。



東屋風の建物が。



「ミツバツツジ」の林を見下ろす。



前方には「さくら祭」の舞台があった。



何度もみたいピンクに輝く「ミツバツツジ」の花を。



ズームして。



名残り惜しさに。





                                 ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・

















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Last updated  2024.04.28 04:34:18
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