JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.12.03
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カテゴリ: JINさんの農園
そして、鵠沼墓地を引き帰して、「 万福寺 」を訪ねる。 万福寺裏門 は木造瓦葺き。


万福寺
鵠沼山(こうしようざん)清光院萬福寺(浄土真宗大谷派)。本尊阿弥陀如来。
寛元三年(1245)僧源海によリ創建と云われます。源海は、親鸞の有力な直第子
「関東六老僧」の一人、荒木源海上人と云われています。
開山 源海上人
万福寺伝によると、源海上人は、俗姓は安藤駿河守隆光と云い、武蔵国豊島都荒木村
(現埼玉県行田市)に住する坂東武者でした。寵愛するニ児を流行り病で亡くし仏道に帰入した
隆光は、江ノ島の岩屋に籠もって修行します。そこで「今東関に権化の僧あり)という
お告げをうけ、常陸笠間の稲田の草庵に親鸞上人を訪ねて、弟子となりました。時に34歳と
伝わります。その後、承久元年(1219)源海上人は、武州荒木にもどり堂宇を建立し万福寺と
名付けました。仁治元年(1240)には、京に上り京都山科郷渋谷の興正寺(現 京都七条)にて
親鸞上人の傍近くに仕え、寬元三年(1245 )に、親鸞上人より聖徳太子自作の太子木像を
譲られ関東に下向し江の島を再び参詣しました。クグイの遊ぶ砥上原の湿地部分を埋め立て、
一宇を建立し鵠沼山万福寺と号しました。その5年後、寺を息子の哲海に譲り、故郷の
荒木万福寺に移り89歳で入寂と伝わります。
中世の万福寺は、文亀ニ年(1502)火災によリ焼失、永正五年(1508 )再建と云われます。
寺の境内からは2基の板碑が出土しており、年銘は應水六年(1399)、應仁ニ年(1467)と、
いずれも室町時代です。他にも、中世の五輸塔や宝篋印塔が多数出土していることから、
この地に仏教遺跡があったことがわかります。享禄元年(1528)には、小田原北条の真宗弾圧に
会い家督替えを迫られます。これを拒否した第八世空円は六本松原にて断殺されてしまいます。
第十世唯順の代に豊臣秀古の禁制を所持していたことから、寺は存続したと考えられますが、
堂字の再興状況は定かではありません。
江戸時代の万福寺は、享保年間に没した良意によって中興、寬文三年(1663)には梵鐘を鋳替え
したと伝わります.文政四年(1821)にも梵鐘が再鋳造され、万福寺の由緒が刻み付けられて
いたそうですが、軍事供出させられてしまい現存しません。近世末以来、当寺の住職は文人が
続いており、第三ニ世 良空は俳号を蕉窓と称し、俳座を催していました.境内には文化人の墓所が
多いことも、この様な背景があるためと思われます。
その後、明治30年代に本堂が焼失し、本尊は小和田(茅ヶ崎市)の阿弥陀堂(廃堂)の本尊を
移入しました。現在の本堂は昭和になり再建されたものです。



本瓦葺き、切妻造り屋根妻入りの 手水舎


太子堂
。本瓦葺きの八角堂。
開基源海が師親鸞の形見として譲られた聖徳太子自作と伝えられる太子像(木像)を祀るため、
法隆寺夢殿を模して建てられた八角形の太子堂。
2003年(平成15年)10月17日、落慶法要が営まれた。



聖徳太子像。







本堂
万福寺は藤沢市鵠沼にある真宗大谷派(東本願寺系)の寺。
僧荒木源海が寛元3年(1245年)に開山・創建したと伝えられる鵠沼最古の寺院。
正式名は鵠沼山 清光院 萬福寺。本尊 は木造阿弥陀如来立像、像高64.3cm、総高181.5cm、
寄木造、江戸時代の作。



境内参道の奥に 鐘楼 が。


最初の梵鐘がいつ作られたかは不明だが、寛文3年(1663年)十六世良意、梵鐘を鋳替え
と寺伝にあり、さらに文政4年(1821年)10月廿世良締、梵鐘を再鋳造とある。
1943年(昭和18年)、太平洋戦争のため供出されたが、1983年(昭和58年)10月に復興。



ズームして。







親鸞聖人尊像



こちらが、万福寺山門。以下2枚の写真は、以前に訪ねた時のもの。

2020.07.19 引地川沿いの緑と由緒ある寺社を巡って 小田急沿線自然ふれあい歩道4-60 - mesetaのブログ

万福寺入口。

2020.07.19 引地川沿いの緑と由緒ある寺社を巡って 小田急沿線自然ふれあい歩道4-60 - mesetaのブログ

「万福寺」を後にして、この日の結願の地・「皇大神宮」に向かう。
皇大神宮一の鳥居横には道陸神碑が。
平成12(2000)年3月に再建?


参道に続く 皇大神宮鳥居群


皇大神宮(通称 烏森神社)
主祭神は、天照皇大神。合祀神は、天手カ男命、天太玉命、天児屋根命、天字受売命、石凝刀
売命。境内社は、石楯尾神社の他、伊勢ノ宮、稲荷神社など10社があります。
由緒(現在の 皇大神宮 ホームページよリ転載)
第五十三代淳和天皇の御代天長9年(832)、御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更に
どれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。
天喜3年(1055)、元亨2年(1322)、天正13年(1585)、昭和60年と造営を
重ねられている。
御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝刀売命を
奉斎している。第六十代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の
藤沢市の内、藤沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国
土甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し、
あまねく人士の尊崇を集めることとなった。また、長治元年(1104)に到って鎌倉権五郎
景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので
大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)
から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢市最北端)から、南は海
(現在の片瀬の一部、鵠沼、辻堂、茅ケ崎の海辺の諸村)に至る区域、いわゆる境川と
小出川とにはさまれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることと
なった。これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、
寿永3年(1184)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、
併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉斎も鄭重で、伊勢神領大庭御厨
総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡八幡宮、
武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが延享年間の盗難により惜しくも伝承の
古記録等を失った。その後に至り明和2年(1765)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、
参篭し祈願奉幣あり。且つ天照皇大神宮と謹書した白絹御戸張を奉納、明治維新まで例年奉幣を
怠りなく続けられた。明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下東下の際、神明宮の
御染筆を賜る。また、例祭は8月17日。当日9基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき
盛観で、神奈川の民族芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが
「神奈川のおまつり五十選」に選定されている。尚、昭和63年に藤沢市重要有形民俗文化財に
指定された。なお、当皇大神宮には、第五十一代平城天皇の御代、大同3年(808)、
御創建の延喜式内相模国13社、式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座で
ある。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された旧社で国史に
所見の神階叙位、官社に列せられた名社である。 
【領主布施家(旗本)】
関ヶ原の役に供した布施孫兵街重次が、慶長六年(1601)この地に220石の采地を徳川家康に
賜ったのが始まりです。その後、代々の子孫が加増を繰り返し幕末には1500石の知行地を
持つ旗本になります。鵠沼村の布施家知行地は江戸時代を通して変わらず維持されました。
皇大神宮に参篭し祈願奉幣した布施頼路が布施家の家督を継いだのは宝暦八年(1758)のこと。
他家から養子に人った頼路でしたが、若くして病を患い弟の重祐も明和ニ年(1765)布施家に
養子に人り家督を継ぎました。



皇大神宮 例大祭(2018年) ​👈️リンク



鳥居が微妙に曲がっている のであった。



拝殿の姿が前方に現れた。



相模国 上甘郷総社 皇大神宮 」碑。



左右に「 山車庫 」。 



三の鳥居 」。


手水舎 」。


社務所 」。


参道左側には「 皇大神宮 末社 」が並ぶ。



そして「 拝殿 」。



藤沢市鵠沼神明2丁目11−5にあり、「藤沢の総鎮守」として知られています。
御祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ) で、旧藤沢宿の中心的な信仰の場。
・千鳥破風(ちどりはふ)と切妻屋根を組み合わせた、現代的に整えられた神明系の社殿。
・正面に掲げられている紫の幕(幔幕)には、皇大神宮の神紋・「花菱」が白く染め
 抜かれていた。
・賽銭箱の前に立つと、奥にある御扉と玉砂利の空間が見える典型的な拝殿配置。
・両側には灯籠(電灯式)と、参拝者向けの掲示物や授与所も確認できる。


内陣。



神社の神楽や祭典で用いられる 大鉦鼓(おおしょうこ) 」 。
「鼓」の字が用いられていますが、青銅製の厚い皿型の内側を二本の桴で打つ楽器 と。



「大太鼓」。



そして拝殿の横の 末社 を見る。
右から、 石楯尾神社 、伊勢ノ宮、稲荷神社



石楯尾神社を正面から




さらに末社が並ぶ。



近づいて。



社務所
を再び。



三ノ鳥居から一ノ鳥居方向を見る。



左:造営記念碑 右:皇大神宮御社殿造営奉賛者碑



案内板が並ぶ。



「相模國土甘郡総社 皇大神宮 由緒
【鎮座地】神奈川藤沢市鵠沼神明ニ丁目十一番五号
【御祭神】(主祭神) 天照皇大神
     (合祀神) 天手カ男命・天太玉命・天児屋根命
          天字受売命・石凝刀売命
【例祭】八月十七日
    人形山車九基参進(藤沢市重要有形民俗文化財)
    湯華神楽(湯立神楽)奉奏(藤沢市重要無形民俗文化財)。
【由緒】省略(既にアップ済み) 



昭和六十三年十ニ月十六日指定
  市指定重要文化財(有形民俗文化財)
皇大神宮人形山車9基
この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の九氏子町内会がそれそれ製作したもので、
三層式・総高約8メートル。人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施され、県下で盛観を
誇っている。
かつては各町内に保管され、八月十七日の例祭に境内に参集したが、現在は、交通事情などの
ため境内の山車庫に納められている。例祭には、いったん参道脇に整列してから、
あらためて境内に入る。その参進行列の順番は宮之前の那須与一、上村の源頼朝、
清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、,中東の浦島太郎、
原の日本武尊、堀川の仁徳天皇という順で決まっている。山車が境内に集まる頃、
拝殿では湯華神楽(湯立神楽市指定文化財)が行なわれる。
この皇大神宮の例祭は、昭和五十ニ年選定「かながわの民俗芸能五十選」に挙げられている。
平成三十年(ニ〇一八)八月
       藤沢市教育委員会」 



「記念碑当皇大神宮参道両側に延々と献備された石玉垣はすべて氏子特志者の浄財寄進による
敬神の現れであります。参道石玉垣竣工に当たり皇大神宮参道整備委員会はあまねき
御神徳をたゝえあわせて氏子崇敬者の平安を祈念しつゝこの事業を結了いたします。
昭和五十四年八月吉日」 



三ノ鳥居越しに拝殿を
振り返る。



末社・厳島神社。



近づいて。



ここにも「記念碑」が。 
皇大神宮斎庭の塗装工事のもの。



二ノ鳥居越しに拝殿を振り返って。



そして 全ての行程を完了 しこの場所で解散したのであった。
この日の「 鵠沼探訪 コースマップ 」。
鵠沼海岸駅から皇大神宮まで約7km、時間は昼食時間も入れて約4.5時間 であった。



                                  ・・​ もどる ​・・・


                        ・・・完・・・




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Last updated  2025.12.03 08:37:13
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Re:鵠沼探訪:相模準四国八十八箇所はじまりの地を歩くーその9(12/03)  
オジン0523  さん

ご苦労様です
このような企画に参加すると日頃見れないものが見れていいですね!

最近は上位に。 (2025.12.03 09:20:02)

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