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今日は2025年の大晦日、今年も例年通り1年を振り返ってみたい と。前半部分のキャプション・写真等はネット・「読売新聞オンライン」👈️リンクから転載させていただきました。読売新聞の2025年十大ニュースは下記のごとし と。【1位】大阪・関西万博 来場2557万人 大阪・関西万博が4月13日、大阪市の人工島・ 夢洲ゆめしま で開幕した。日本と158か国・地域が参加。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、10月13日までの184日間の会期中に一般来場者数は2557万人に達した。開幕前は、建設費の増額やパビリオンの建設の遅れなど、ネガティブな面に注目が集まり、前売り券の販売は低調だった。だが、開幕後は、外国を訪れないと見られない展示品や各国の料理、未来の技術などに触れられる体験に魅了される人が続出。そうした魅力がメディアやSNSを通じて伝わり、来場者は増加していった。特に公式キャラクター・ミャクミャクや、シンボルの大屋根リングは高い人気を誇った。運営収支は最大280億円の黒字となる見通しだ。万博の公式グッズを製造・販売するためのライセンス契約の期限は閉幕日までとされていたが、人気の高さを踏まえ、来年3月末まで延長された。万博は戦争や平和を考える機会にもなった。ウクライナは、戦時下の暮らしを紹介する動画を流し、ロシアの侵略で日本に避難した女性らが案内役を務めた。ただ、運営面では課題もあった。会場やパビリオンの入場を予約出来るようにし、「並ばない万博」を目指したが、実際は人気のパビリオンでは行列が常態化した。8月には大阪メトロの運行トラブルが発生。約3万8000人が足止めされ、多くが場内で一夜を明かした。交通手段が限られる人工島ならではの課題も浮かび上がった。万博の跡地について、大半は活用法が決まっていない。今後は、どのように開発し、万博の遺産を引き継いでいくかが焦点となる特集はこちら👈️リンク 【2位】街にクマ 被害相次ぐクマに人が襲われる被害が相次いだ。環境省は12月5日、今年4~11月のクマによる被害者数は21都道府県の230人(速報値)だったと発表した。2023年度の年間被害者数219人を8か月で上回り過去最悪となった。クマに襲われたことによる死者も23年度と比べ、6人から13人へと増えた。被害者数は秋田県が最多の66人。滋賀県では6年ぶり、広島県でも4年ぶりにけが人が出るなど、西日本でも被害は広がった。相次ぐ被害への対策として、改正鳥獣保護法が9月に施行され、市街地での猟銃使用を可能とする「緊急銃猟」が始まった。山形県鶴岡市が20日、住宅街に出没したクマに対し、緊急銃猟を判断した。10月15日には、仙台市が住宅地付近に現れたクマに緊急銃猟による初の発砲を行った。自衛隊や警察によるクマ対策も進められた。陸上自衛隊は11月5日、秋田県とクマの捕獲に向けて連携する協定を締結。陸自第9師団(青森市)は、箱わなの設置などクマ捕獲の側面支援を実施した。警察官によるライフル銃を使ったクマの駆除を可能とする国家公安委員会規則も13日に施行された。環境省は28日、クマ対策を支援するために、過去最大規模となる34億円を今年度の補正予算案に計上した。自治体が狩猟免許の保有者を職員として雇う「ガバメントハンター」の人件費や国による個体数推定調査などの費用が初めて盛り込まれた。特集はこちら👈️リンク【3位】高市氏、女性初首相自民党総裁選が10月4日、投開票され、高市早苗・前経済安全保障相が第29代総裁に選出された。9月に退陣を表明した石破茂首相の後継を巡る総裁選で、前回選に出馬した、林芳正、小林鷹之、茂木敏充各氏ら5人が再び立候補した。1回目の投票で過半数に達した候補はなく、決選投票で高市氏が小泉進次郎氏を制した。高市氏は10月21日、国会で第104代首相に指名された。女性首相は憲政史上初めて。発足直後に読売新聞社が実施した緊急全国世論調査では、内閣支持率が71%で、内閣発足直後の調査としては、第1次安倍内閣の70%を超えて歴代5位の高さとなった。首相指名選挙を前にした10日、企業・団体献金の規制強化に自民が応じなかったとして公明党が連立離脱を通告。26年にわたる自公の協力関係は幕を閉じた。政権交代を視野に各党の駆け引きが活発化。しかし、日本維新の会は20日、自民との党首会談で連立政権樹立に向けた合意書に署名した。維新は閣僚を出さない「閣外協力」にとどまった。高市氏は首相就任後、各国首脳と会談し、関係構築に奔走し、総合経済対策をとりまとめるなど精力的な取り組みが目立つ。維新が強く求める衆院議員の定数削減は慎重論が根強く、政権運営の課題となっている。特集はこちら👈️リンク【4位】コメ高騰 備蓄放出農林水産省は2月14日、昨夏から続くコメ価格の高騰を受け、政府備蓄米21万トンを大手集荷業者を対象に放出すると発表した。だが、コメ5キロ・グラムあたりの平均価格は前年の2倍を超える高値が続いた。江藤農相が5月、「コメは買ったことがない。支援者がたくさんくださる。売るほどある」と発言し、辞任に追い込まれた。後任の小泉氏は、5キロ・グラムあたり2000円程度で備蓄米を店頭に並べる目標を表明。農水省は、従来の一般競争入札から、政府が安い価格を設定して売り渡す随意契約に切り替え、全国スーパーのコメ平均価格は7月に入って半年ぶりに5キロ・グラム3500円台に低下した。石破首相は8月、事実上の減反にあたる生産調整を見直し、増産にかじを切る方針を打ち出した。しかし、10月に発足した高市内閣では、新任の鈴木農相が「需要に応じた生産」を掲げ、増産方針から事実上の転換となった。鈴木氏はコメなどの購入に利用できる「おこめ券」の導入に前向きな姿勢を見せた。コメの高値は続き、11月には、全国のスーパーで販売されたコメ5キロ・グラムあたりの平均価格は、4335円となり、過去最高値を更新した。特集はこちら👈️リンク【5位】ドジャース連覇 大谷ら貢献大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希選手が所属する米大リーグ・ドジャース(ナショナル・リーグ)が11月1日、ワールドシリーズ(WS)でブルージェイズ(アメリカン・リーグ)を下し、2年連続9度目の制覇を果たした。山本投手は日本人投手で初めてシリーズ最優秀選手(MVP)に輝くなど、日本人選手の活躍が目立った。大谷選手は右肘手術のリハビリを経て、2季ぶりに投打の「二刀流」を復活させた。ポストシーズンでは先発投手として初めてマウンドに立ち、100マイル(約161キロ)を超える剛速球でメジャーの強打者をねじ伏せた。打者としても1試合3本塁打を放つなど勝利に貢献した。11月13日には「満票」でナ・リーグMVPに選ばれた。メジャー移籍1年目の佐々木投手は、ポストシーズンで救援投手として勝利に貢献した。特集はこちら👈️リンク【6位】長嶋茂雄さん死去プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタージャイアンツ」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が6月3日朝、肺炎のため、亡くなった。89歳だった。長嶋さんは1958年に立教大から巨人に入団し、新人王に輝いた。その後も、首位打者や打点王など数々のタイトルを獲得した。ユーモアのある言葉や持ち前の明るい性格で多くの人を魅了。74年に後楽園球場で行われた引退セレモニーでは、「巨人軍は永久に不滅です」との名言を残し、背番号3は巨人の永久欠番となった。巨人監督に就任後は、セントラル・リーグを5度制覇。94年と2000年には日本シリーズ制覇を果たし、01年に勇退した。特集はこちら👈️リンク【7位】八潮道路陥没 男性死亡埼玉県八潮市で1月28日、県道が陥没し、トラックが転落した。運転していた千葉県八街市の男性(74)が死亡。県内12市町で一時、下水道の使用自粛が要請された。1983年に埋設された下水道管が破損して管の中に土砂が流入し、空洞ができたのが原因とみられる。陥没は最大幅40メートル、深さ15メートルに拡大した。事故を受け、国土交通省は9月、設置後30年以上の大型下水道管を対象とした調査の途中経過を公表した。調査を終えた管の約半数の計297キロで5年以内の補修が必要とされた。特集はこちら👈️リンク【8位】坂口さん、北川さんノーベル賞スウェーデンのカロリンスカ研究所は10月6日、2025年のノーベル生理学・医学賞を、過剰な免疫反応を抑える「制御性T細胞(Tレグ)」を発見した坂口 志文しもん・大阪大特任教授ら3人に授与すると発表した。8日にはスウェーデン王立科学アカデミーが化学賞を、気体を貯蔵・分離できる多孔性材料「金属有機構造体( MOFモフ )」を開発した北川進・京都大特別教授ら3人に授与すると発表した。授賞式は12月10日、ストックホルムで行われた。個人での日本のノーベル賞受賞は30人(うち3人は米国籍)となった。団体としては日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が昨年平和賞を受賞している。特集はこちら👈️リンク 【9位】参院選、自公過半数割れ第27回参院選が7月20日投開票され、自民、公明両党の議席は計47議席にとどまり、与党が大敗した。与党の獲得議席は、自民39、公明8。石破首相が「必達目標」と位置づけた50議席にも届かず、参院の過半数(125議席)を割り込んだ。「政治とカネ」の問題を受けて大敗した2024年の第50回衆院選に続く敗北で、自民の政権としては結党以来初めて衆参両院で少数与党となった。野党は明暗が分かれた。国民民主党と参政党は議席を13ずつ増やし、それぞれ17議席と14議席を獲得。一方で、立憲民主党は改選前と同じ22議席。日本維新の会は改選5議席から7議席と伸び悩んだ。特集はこちら👈️リンク【10位】今夏の平均気温最高気象庁は9月1日、今夏(6~8月)の日本の平均気温が1898年の統計開始以降で最も高かったと発表した。同庁によると、今夏の猛暑は太平洋高気圧の張り出しが強かったことなどが要因という。群馬県伊勢崎市では8月、国内最高気温を塗り替える41・8度を記録し、猛暑日(最高気温35度以上)地点数も過去最多となった。暑さの影響で熱中症を訴える患者も相次ぎ、今年5~9月に熱中症で救急搬送された人は、全国で10万人を超えた。総務省消防庁によると、同期間の集計を始めた2015年以降で最多という。特集はこちら👈️リンク11位以下は次の通りと。11位 イチロー氏、米殿堂入り 6,719(30.0%)12位 性加害問題でフジテレビの会長と社長が引責辞任 6,693(29.9%)13位 「国宝」興収100億円突破 実写邦画22年ぶり 6,451(28.8%)14位 公明が連立政権から離脱表明 維新が連立合意 5,776(25.8%)15位 日経平均株価 初の5万円台 5,676(25.3%)16位 旧統一教会に解散命令 4,238(18.9%)17位 岩手県大船渡市で大規模な山林火災 4,109(18.3%)18位 アサヒビール一時生産停止 サイバー攻撃 3,479(15.5%)19位 石破首相退陣表明 3,255(14.5%)20位 「ニンテンドースイッチ2」発売 3,134(14.0%)21位 和歌山のパンダ4頭 中国へ返還 3,097(13.8%)22位 第74代横綱に豊昇龍、5月には大の里が第75代横綱に 2,921(13.0%)23位 車・相互関税 対日15%で米と合意 2,784(12.4%)24位 貸金庫から金塊窃盗容疑で元三菱UFJ行員逮捕 2,692(12.0%)25位 26年前の殺人容疑で女逮捕 2,244(10.0%)26位 80回目の終戦の日 平和誓う 2,120(9.5%)27位 東京で世界陸上開幕 2,094(9.3%)28位 日鉄がUSスチールの買収完了 1,900(8.5%)29位 サッカー日本代表、8大会連続8度目のW杯出場決定 1,825(8.1%)30位 悪石島で震度6弱 トカラ列島近海で地震相次ぐ 1,732(7.7%)★2025年「今年の漢字」は「熊」日本各地で「熊」が出没し、国民の関心と不安が集中した年<「熊」による被害と対策>・「熊」による人身被害者数・死亡者数が、ともに過去最多・被害拡大を受けて、政府が「クマ被害対策パッケージ」を取りまとめ、緊急対策を講じた・自治体からの駆除要請を受け自衛隊も出動<「熊」出没による生活への不安>・市街地など人の生活圏でも「熊」の目撃が相次ぎ、生活を脅かした・「熊」の影響により全国各地でイベントの中止や学校の休校が相次ぎ、社会問題になった・「熊」による農作物の被害が深刻化し、地域住民の生活や経済活動に影響を及ぼした「熊」猫(パンダ)が中国に返還・和歌山県・白浜町にあるテーマパークから4頭のジャイアントパンダが中国へ返還された・日本のジャイアントパンダは来年返還予定の上野動物園の2頭・双子のジャイアントパンダ、 シャオシャオ&レイレイも2026年1月末、中国へ返還されることが発表された★2025年「新語・流行語大賞」は「働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相」高市早苗首相(当時・自民党総裁)が発した言葉で、「女性首相」と共に選ばれました。この言葉は、初の女性総裁・首相としての決意表明でしたが、長時間労働や「ワークライフバランス(WLB)」に逆行するとの批判も受け、過労死遺族などが抗議の会見を開くなど、賛否両論を巻き起こしました と。★今年の創作漢字 最優秀賞「くまにちゅうい」神奈川県川崎市 藤本周司さん(55)山の食物不足のためか、クマによる痛ましい事件が多く、素直に形にしました。くまったものです、皆さまご注意ください と。「わんおぺ」福岡県福岡市 福岡市立三宅中学校3年 畠中逞真さん(14)家族のために一生懸命に動き回り、汗を書いてくれる母。小・中学生の作品。うまい!!★2025「創作四字熟語」 最優秀作「古米奮闘(こまいふんとう)」。古米、古古米、古古古米が放出された と。 最優秀作9編★日本流行色協会(JAFCA)・今年の色 <色名>ホライゾングリーン Horizon Green マンセル値 : 9.9BG4.4/7.0 系統色名:モデレート・ブルーイッシュ・グリーン 「世界では、自然災害や紛争など先の見通せない状況が継続しており、私たちの日常も 危ういバランスの上に立っているような不安感が拭えません。 自然災害があると地球の生態系への関心が高まります。自然の色と言えばグリーンが 挙げられます。中でも青みを帯びたグリーンは、深い森の樹木、豊かな海、美しい 珊瑚など、壮大な自然を想 起させる色です。青みに、混沌とした時代を冷静に読む まなざしや、その先にある希望のイメージを重ね、青みを帯びたグリーンを 2025年の色―メッセージカラーとして選定しました。 水平線は横の繋がりに例えられます。社会的な立場や、年齢、性別、さらには 人や動物までも、ただ一つの命として、広く平等に繋げる線です。空の青と海の エメラルドグリーンが溶け合う水平線の色、「ホライゾングリーン」。 どこまでも繋がる水平線を見つめるように、広い視野で先を見通す、落ち着いた中にも 確かな希望を感じさせる色です。」 ★リオン 2025年「心に残った音」 第1位:「女性初の首相誕生、国会に響き渡った拍手と歓声」👈️リンク 1885年の内閣制度創設以来、初めての女性首相が誕生しました。 決定の瞬間、国会に響き渡った拍手や歓声は、日本政治史に新たな扉が開かれたことを、 多くの人に強く印象づけたのではないでしょうか。 長らく「ガラスの天井」と呼ばれてきた見えない壁を打ち破り、社会と政治に新たな潮流を 生み出す歴史的な日となりました。 この動きは国内にとどまらず、海外からも大きな注目を集め、各国メディアが速報で 報じました。★我が三大ニュースは順不同であるが■後期高齢者となる。「後期高齢者」👈️リンク とは ・75歳以上の人を指す言葉です (※一定の障害がある場合は、65~74歳でも対象になることがあります) ・法律や制度で使われる区分です 日常会話というより、医療や保険の制度で使われます。 ・医療制度が別になります 75歳になると「後期高齢者医療制度」👈️リンク に自動的に加入します。 ・医療費の自己負担割合が決まっています 多くの人は 1割負担 所得が多い人は 2割または3割負担 になることがあります。 ・年金や介護とも関係があります 医療・介護・福祉を一体で支えるための区分です。 ・体の衰えが出やすい年代として想定されています 病気やケガ、介護が必要になる可能性が高くなる年齢層です。 ・「高齢者を差別する言葉」ではありません あくまで制度上の呼び方です と AIから。 ■しかし「後期」の言葉が気にいらない「高齢者」なのである。 ■アイルランド、ロンドンへの海外旅行👈️リンク 5月29日(木)~高校時代の3年の時のクラス仲間4人で、アイルランドへの旅へ。 アイルランド・ダブリン空港又はホテルでの現地集合、現地解散の旅であった。 よって、往復のFlightは4人とも別々で、一人ぼっちのトランジット(Transit)付きの Night flightであった。日本からアイルランドへの直行便は無いのであった。 アイルランドではレンタカーを借り、北海道ほどの広さの国を走り回ったのであった しかしGPS信号が弱く、ナビが固まってしまうことが多々あり、苦戦のドライブであった。 ロンドンへは帰路に2人で立ち寄った。しかし宿のみ同じであったが、ほぼ別行動。 それぞれに、行きたい場所に別々に行き、歩き回ったのであった。 ロンドンからの帰路のヒースロー空港で搭乗便の出発がキャンセルとなったが、その折に 私のトランクが「ロストバゲージ(Lost Baggage)」に。リュック一つで北京経由で 羽田空港へ。空港で手続きを完了し帰宅したが、なんとか無事にトランクも無傷・ 被害なしで5日遅れで帰宅したのであった。アイルランド島は、北海道と同じくらいの面積。 アイルランド(アイルランド共和国)は、北大西洋に浮かぶアイルランド島の大半を占める立憲共和制国家で、「エメラルド島」と呼ばれる緑豊かな自然と、ケルト文化が息づく神秘的な国。首都はダブリンで、アイルランド語と英語が公用語、カトリックが多数を占め、近年はIT・製薬・金融などの分野で高い経済成長を遂げている。美しい自然、ケルトの遺跡、パブ文化、アイリッシュ・ミュージックなどが魅力で、イギリス領の北アイルランドとは異なる独立国。基本情報正式名称: アイルランド共和国 (Republic of Ireland)首都: ダブリン (Dublin)公用語: アイルランド語(ゲール語)、英語人口: 約515万人 (2022年)政体: 共和制愛称: エメラルドの島 (Emerald Isle) 大西洋に面して約8kmにわたり高さ200mの絶壁が続く「モハーの断崖 (Cliffs of Moher)」。カイルモア修道院跡(Kylemore Abbey)。元々は「カイルモア城」という豪華な邸宅でしたが、後に修道院となった場所。妻への愛の証として建てられたゴシック様式の教会や、広大なビクトリア朝時代の庭園、森などが有名。ダブリン城ダブリン城は、アイルランドのダブリンにある城。旧市街中心部のデイム・ストリートにある。 城のある場所は、10世紀にヴァイキングの砦があった場所である。1170年にノルマン人により征服され、1204年から1230年にかけて拡張された。1226年に建てられたレコード・タワーは、今日までその当時の姿をそのままに留めている。■公私多忙な1年であった 元上司の会社での10年来の仕事の継続、そして自治連合会のボランティア活動、さらに 趣味の菜園、養蜂、そして近隣の社寺、遺跡巡りと忙しい日々が続いた。10月のある朝には、突然、足腰の痛みから布団から起き上げれない状況に。診断結果は「変形性腰椎症」と。現在でも週1回のリハビリに通っているのである。そして来年2月には両眼の白内障手術を予約しているのである。 ■今年2025年も我がブロクは1日も休むことなく皆勤賞アクセス数も今朝の5:25現在「8846452」に達しています。今後も毎日継続して「10000000」・1千万を目指したいと考えています。 ★そして大晦日正月飾りも既に1週間程前に購入済み。我が家の正月飾りの準備も昨日30日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も神棚用、床の間用に2個購入し組み立てました。箱を開けて見ると。組み立てて床の間に。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして2尺の牛蒡注連(ごぼうじめ)も新たに購入し奉納しました。「玄関のしめ縄は、「入船(いりふね)」といって、人から見て右側に太い縄(綯いはじめ)が来るように飾るのが一般的です。これは神様から見て左側(神聖な方)に太い方が来るようにするためで、家への神様の招き入れを意味します。ただし、商売繁盛を願う場合は逆の「出船(でふね)」にしたり、地域や神社によって向きが異なる場合もあるので、地元の神社に確認するのも良い方法です」と以前に学びました。 神棚に奉納した鏡餅です。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。近づいて。そして門飾りの左側。短かかった?暑かった!!、そして今年も、毎日、大谷翔平選手の活躍に励まされた2025年。大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」を。世界の平和が確実に実感できる新たな年・2026年へ!! との願いを込めて。そして2026年へのカウントダウン。2026年まで残り12時間。そして元旦は初日の出を見に!! と。今年もアクセスいただきありがとうございました。良き新年をお迎え下さい。 2025年 完
2025.12.31
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「御涼亭」を後にして、「中央休憩所 SASAYAIORI+新宿御苑」前まで戻る。背後に大きく立っている黄金色の樹木はイチョウ(銀杏)。 「笹屋伊織」、紋は「笹」の文字か。 隣は公衆トイレであっただろうか。「新宿御苑のみどころ 晩秋」。 ここにもツワブキ(石蕗)の花がイチョウの黄色に負けずに。御苑通り方向に進む。このイチョウの木はエピローグへと。「新宿御苑 母と子の森 案内図」。 右に曲がり北方向に進む。この付近には観光客の姿も少なく。ラクウショウ(落羽松、学名:Taxodium distichum)の紅葉か?左右で紅葉の進行度が異なる?ズームして。地面から、太い針の如き形状のものが多数顔を出していた。「メタセコイア昭和21年に中国で発見されて、日本にも植えられるようになった樹木です。生きている植物よりも化石が先に発見されていたので、生きている化石と言われています。幹は皮が縦に裂け、まっすぐにのびていて、スギに似ています。緑色をした短い枝に細い針のような葉が向かい合わせについていて、鳥の羽のような形をしています。秋には葉のついた枝ごと赤褐色に色づき、冬には枝も一緒に落ちてしまいます。よく似たラクショウは、葉が小さく互い違いについています。育つのがはやく、材にはあまり利用価値がありません。」 さらに晩秋の木漏れ日の下を進む。「ラクウショウ秋になると枝が鳥の羽のように落葉することから、落羽松といいます。北米原産のヒノキ科の落葉針葉樹で、湿地や沼地に生育するためヌマスギとも呼ばれています。新緑や紅葉が美しいので、公園などの水辺にときどき植えられます。地面にごつごつとタケノコのように並んでいるのは、気根といってラクウショウの根から出ているものです。地上や水面上に出て、酸素をとり入れる働きがあります。ここのラクウショウは明治時代に植えられたもので、樹齢100年をこえる大木です。日本国内でこれほど古く、また気根も美しい発達したラクウショウは大変珍しく、価値の高いものといえるでしよう。」 微妙な形状の木橋を渡る。ラクウショウの気根がゴツゴツと。気根とは?ラクウショウやヌマスギは 湿地に生える針葉樹 で、根が水中に浸かると酸素が不足します。そのため、根の一部が 地上に向かって突き出し、空気を取り込む構造 を作ります。これが 気根(knees=膝根) と呼ばれるものです。◆ 特徴・地面から “とんがった円柱状” に多数伸びる・高さは数 cm 〜 50cm 以上になることも・木の周囲に群生して出る・根の一部なので、切ってはいけない部分◆ 新宿御苑ではラクウショウの名物 新宿御苑のラクウショウ林では、毎年紅葉の時期に地面一面に呼吸根が見られ、 写真のような光景は御苑でもよく見られる特徴 と。「母と子の森この魅力的なエリアは、日本の農村の郊外に見られるような、軽く人の手が加わった森林、草原、水 辺の動植物生息地を再現すべく設計されたものです。持続的に管理されてきたこのような田舎の環境 は、現在では里山として知られています。2007 年にリニューアルオープンしたこのエリアは、生物多様 性を保全するためのビオトープとしての役割、および子どもたちが自然を学べる野外教室としての役割 を果たせるように設計されています。430m の遊歩道では、水辺や草原、さまざまなテーマを持つ森林 が楽しめます。母と子の森は子どもとの散策に最適な場所です。木や野の花だけでなく、トンボやコバ ルトブルーの体が美しいカワセミなど、幅広い種類の虫や鳥を楽しむこともできます。母と子の森の中央には、さまざまな木々や草原エリアに囲まれた池もあります。こうした生息地は、あらゆる種類の小動物 の住みかとなっており、春にはスミレが咲き、秋には鳥たちが地面を覆うドングリや栗を食べにやって来ま す。池の片側には休憩所があり、親子でくつろげる場所となっています。」 この白い花は? サザンカ(山茶花)、その中でも 八重咲きの白花品種。新宿御苑のヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)の仲間●ヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ) 原産地:ヒマラヤ山脈北西部~アフガニスタン東部 種小名の「deodara」(デオダラ)は、ヒンドゥー語で神の樹という意味です。円維形の美しい 樹形を持っことから、世界中で植栽されています。他種に比べて、針葉が長くなり、特大の 松ぼっくりの先端部は、バラの花に似た「シーダーローズJとして親しまれています。●レバノンシーダー(レバノンスギ) (Cedrus libani) 原産地・西アジア・レバノン山脈(レバノン共和国、シリア・アラブ共和国、トルコ共和国) 古代エジプトやメソボタミア地方で建築材や船材等に利用され、文明の発展を支えた種で、 その名は聖書にも登場します。レバノン山脈には、かって純林が広がっていましたが、 長きにわたる乱伐や紛争等の影響により、今日ではわすかに残るのみとなっています。 ヒマラヤシーダーに似た大きな松ぼっくりをつけますが、ヒマラヤシーダーに比べて針葉が 短いのが特徴です。●アトラスシーダー(Cedrus atlantica) 原産地:北アフリカ・アトラス山脈(アルジェリア、モロッコ) 前述した2種のヒマラヤシーダーの仲間と同様、建築材に使用されるほか、精油は アロマテラピー等に利用されています。針葉が短く、他種より小ぶりな松ぼっくりを付けます。 新宿御苑には、アトラスシーダーの品種であり、白銀色の葉をもつギンヨウヒマラヤシーダー (Cedrus atlantica f.glauca)も植栽されています。「新宿御苑のヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)の仲間ヒマラヤスギ属(Cedrus)は、ヒマラヤ西部と地中海地域(中央アジア、北アフリカ)を原産地とし、和名に「スギ」とつきますが、マツの仲間です。成長が早く、堅い材質の大木になるため、優良材として重宝されるほか、材や精油に強い芳香があるのも特徴です。新宿御苑には、明治時代に導入されたヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)、レバノンシーダー(レバノンスギ)及びアトラスシーダーが植栽されています。これらは種間交配が起こることがあリ、アトラスシーダーとレバノンシーダーやヒマラヤシーダーとレバノンシーダーが混じっていることがわかっています。」 ヒマラヤシーダー。この特徴的な大樹は、ユリノキ(百合の木、学名 Liriodendron tulipifera)。「新宿門」に向かって進む。 「新宿門」手前のイチョウの黄葉。近づいて。「新宿門」ゲートから「新宿御苑」を後にする。 チケット自販機前には長蛇の列が。その先にもイチョウが陽光を浴びて輝いていた。「新宿御苑案内図」。 甲州街道に向かって進む。新宿門ゲートを振り返って。「入園料」案内板。新宿門。新宿門の門柱は左右に石造りの柱があり、右側の柱に 「新宿御苑」 の縦書き表示が掲げられていた。大正期に造られた「旧・新宿御苑前駅(省線電車)」の遺構(門柱/照明塔)」と。・上部に ランタン(照明)が入っていたガラス窓・頂部に兜のような装飾(幾何学的モチーフ)・下部に盾形のレリーフ・全体はコンクリート造のスタイル(帝都復興様式)これは旧・新宿御苑前駅(国鉄・省線電車時代)の遺構。・大正12年(1923)頃に造られた駅入口の照明塔(門柱)・当時の新宿御苑は宮内省管轄で、周辺には皇室ゆかりの施設も多かった・そのため、様式はアール・デコ風(帝都復興期のデザイン)現在は駅の構造物ではなく、道路拡張後も取り壊されずに残った「記念的遺構」 として立っている と。大正〜昭和初期に建てられた「旧・新宿御苑関連施設の照明塔(門柱)」の一つ と。・建造時期:大正末〜昭和初期(1920年代)・構造:鉄筋コンクリート・意匠:モダンなアール・デコ風、帝都復興期のデザイン・役割: ・御苑周囲の照明 ・警備・門柱的な役割 ・周辺の省線(国鉄)施設と連動した灯塔としての機能 と。新宿駅南口に向かって、「新宿四丁目」交差点を進む。 そしてJR新宿駅南口に到着。そしてこの日の目的の元同僚の親睦忘年会会場に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・大晦日・・・
2025.12.31
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そして、新宿御苑の「旧御凉亭(きゅうごりょうてい)」(台湾閣) の建物に到着し、正面入口側(南側) から。① 赤い瓦屋根と反り上がる棟 台湾・福建地方の伝統様式「歇山屋頂(けつざんやちょう)」の特徴。 棟の端が天に向かって反り返る優雅なカーブが印象的です。② 入口の柱が並ぶ「門構え」 正面入口には、木の太い柱が数本立ち、まるで楼閣の“門”のような雰囲気。③ 側面に連なる丸窓・八角窓 白壁に 丸窓(円窓)、八角窓 が並ぶのがこの建物の大きな特徴。 台湾建築ならではの連続意匠。正面玄関旧御車寄に近づいて。光を受けた瓦の立体感と影のコントラストが美しく。中国の建築様式を取り入れた部分として、屋根の軒の反りや棟の燕尾、柱礎石や飾り石の形などがある。柱材は台湾杉、石材は伊豆産の本小松石。「旧御涼亭(台湾閣)旧御凉亭は台湾閣としても知られており、当時は旧大日本帝国の一部であった台湾在住の邦人から寄贈された建物です。当時の裕仁皇太子(1901~ 1989 ) (のちの昭和天皇、1926年即位)の1924年の御成婚を記念して献上されたもので、建築は1927年に開始されました。台湾閣の御休息所は日本庭園を一望できる広く開放的な空間で、当時の新聞では「水の上に建つ御休息所・・夏の御散策の際に涼をとる建物」と言及されています。旧御凉亭は、本格的な中国建築が用いられている日本では数少ない建物の一つであリ、屋根の色や形、窓の様式、室内装飾、その他多くの特徴く評価されています。建築様式は「ビンナン式」と呼ばれる、中国南部の福建省のものであり、台湾では19世紀初頭から人気となリました。反り返った軒、化粧漆喰のツバメの尾のような構造、屋根瓦の色、柱を支える梁の形、車寄せの装飾石、そして室内装飾などこれらすべてに「ビンナン式」の典型的な特色が現れています。建設資材の多くは台湾から持ち込まれました。柱には台湾杉が使われており、天井板には台湾檜が使われています。」 外観写真。平面図。青い場所は「非公開範囲」。 ① 公開されているエリア(ベージュ部分) ● 旧御休息所(Former relaxation room) 館内で最も広い部屋で、天井が高く八角形を主体とした台湾様式の装飾が特徴。 当時、昭和天皇のご休憩・接客などに使われた部屋で、現在も内部見学が可能であった。 ② 非公開エリア(水色部分) これらは元々、天皇家の侍従などが控えるための実務スペースでした。 ● 旧御茶準備室(former tea preparation room) 茶の支度をした小部屋。 ● 旧控室(former waiting room) 随員が待機する控室。 ● 旧御手洗所(former washroom) 洗面所。 ● 旧御厠(former lavatory) トイレ。 ● 涼榭(open verandah / 開放式涼亭) 半屋外のスペースで、池や庭の眺めがよい場所。現在は立ち入りできなかったが、 外から見ることはできた。③ 玄関・車寄せ(porte-cochère) 建物正面の出入口。 ● 玄関(entrance) 現在も見学者が入る場所。 ● 御車寄(porte-cochère / 门廊) 皇室の馬車(後には自動車)が横付けできる屋根付きの部分。 この建物が「迎賓用」であった名残 と。 「旧御凉亭(台湾閣)」の側面の外観。非公開エリア(旧控室・旧茶準備室側)の外壁。●八角形・円形の窓(花窓:はなまど) 台湾(福建)系の伝統建築でよく見られる「花窓(huā chuāng)」 と呼ばれる装飾的な窓。 ・円窓(えんそう) ・八角窓(はっかくまど) これらは中国南部の庭園建築(亭・閣)に多く取り入れられた意匠で、外観を柔らかく、 内部に適度な光を取り入れる役割を果たす。 窓枠の内部には格子がはめ込まれ、その模様は吉祥文様を意識した装飾になっていた。入口右にはナンテンの木が。ナンテンの実をズームして。ナンテンは「難を転ずる」縁起木として和風庭園にも多用される と。「旧御凉亭(台湾閣)」の内部から庭園側を眺めて。柱や欄干が黒い影となり、建物の輪郭だけが強調されることで、伝統建築の美しいフレームが浮かび上がっていた。窓の上にある幾何学模様・欄間の透かし彫り文様は、雷文(らいもん)または雲気文に近い台湾・中国系の文様 と。光を受けて明暗が際立ち、東洋建築らしい優雅な意匠が感じられたのであった。「建物の見どころ紹介旧御凉亭は、別名「台湾闍」と呼ばれるように、清朝中期以降の台湾で用いられた閩南建築様式の特徴を取り入れており、それらがこの建物の見どころとなっています。屋根の軒の反りや漆喰仕上げとした棟の燕尾、瓦の色、旧御車寄の柱礎石の形や飾り石、内部の装飾などに注目してみてください。また、建築材料についても、柱に台湾杉(亜杉)、天井の鏡板に台湾扁柏や台湾桧(紅桧)が見られるなど、台湾から取り寄せたものが多く使われています。」 「保存改修工事について[事業の概要]旧御凉亭は、当初の姿をよくとどめ、本格的中国風建築として貴重であるため、平成10年(1998)、保存改宗されることが決まりました。環境省と国上交通省により、学識経験者等からなる委員会の設置、調査の実施、保存改修案の作成、保存改修工事が進められ、平成14年(2002)、創建時に近い姿によみがえりました。」以下 略。 「旧御凉亭について「創建のいきさつ」 旧御凉亭は、皇太子(後の昭和天皇)の御成婚を記念して、台湾在留邦人の有志が造営した建物です。これは、大正12年(1923)の皇太子の台湾行啓を感謝して台湾側で募金活動を行ったところ、5万円の寄付金が集まったため、中国風の涼亭を献上することになったもので、昭和2年(1927)10月に完成しました。設計者は、もと台湾総督府の建築家であった森山松之助。当時の新聞紙上で「水の上に建つ御休息所」「夏の御散策の際に涼をとる建物」と、その設計意図を語っています。なお、建物の完成にあわせて、台湾総督府から台湾杉などが贈られ、今も台湾杉が建物西側で育っています。」 旧御凉亭(台湾閣)の縁(えん)側/高床の張り出し部分から手前に広がる大きな池が玉藻池を。旧御凉亭(台湾閣)前に広がる、御苑でも特に落ち着いた雰囲気をもつ池。池に写り込む空と樹木のシルエットが鏡のように。奥に並ぶ樹木は、・黄葉したイチョウ・赤く染まるモミジやカエデ・多様に刈り込まれたマツ・ツツジ類などが折り重なり、日本庭園らしい立体感のある景観を作っていた。玉藻池は明治期に宮廷庭師の「小川治兵衛(植治)」の流れを汲む植栽も取り入れられ、pond(池)+借景(遠景)+刈込(中景)のバランスがとても美しいエリア。玉藻池は新宿御苑の日本庭園の中心的存在で、「池泉回遊式庭園」の特徴が最もよく現れた場所。●中央:刈込(かりこみ)と松の群植 ・写真中央には、小島状の植栽(マツ・サツキ・ツツジ類)が重層的に配置されていた。 ・池に張り出す木々は「水際の景」をつくるための重要な構成。● 奥:広芝生を彩る紅葉と常緑樹 ・黄色く輝く大きなイチョウ ・赤みを帯びたカエデ類 ・常緑の針葉樹が背景に重なり、日本庭園の四季感がよく表れていた。● 背景:遠景の森が「借景(しゃっけい)」として機能 ・日本庭園では遠景の森や丘を風景に取り込む技法があり、この一帯の樹林は その借景として非常に効果的。さらにカメラを右に向けて。さらに。左側を。旧御凉亭(台湾閣)の内部天井・欄間(らんま)の美しい部分。●中国伝統建築風の「格天井(ごうてんじょう)」 天井板が斜めに組まれ、格子状の骨組みで区切られた構造。 中国建築では pavilion(亭)に多く見られる形式で、木目を生かした落ちつき 均整のとれた幾何学的配置柔らかい陰影の美しさが特徴。●欄間(らんま)の透かし彫りガラス 窓の上部に連なる細長いガラス部分は、「連子(れんじ)文様」や「雷文(らいもん)風」 と呼ばれる中国風の幾何学文様。 この文様には、 ・邪気除け ・吉兆を招く ・永遠性の象徴 といった意味が込められていると。● 柱と梁を結ぶ「彫刻(彫り物)」 写真右側に見える細かい連続彫刻は、台湾閣で特に評価される装飾部分で、 唐草風・雲形風のモチーフを組み合わせたもの。 台湾の宮殿建築の特徴を取り入れ、日本庭園の中に異国情緒を添える役割を果たしていた。「回廊(バルコニー/縁側部分)」から玉藻池を眺めている観光客。玉藻池を広く眺めるためのスペースで、建物から外へ張り出すようにつくられた「楼台(ろうだい)」構造を模していた。絶景を楽しむ観光客の姿を。私も再び。水面には、中央の刈り込み樹木、池の対岸の庭園、遠景の木々が美しく映り込み、玉藻池の静けさと透明感が際立っていたのであった。台湾閣の間近に広がる玉藻池。静水に映る庭園の影と、手前の松が織りなす“借景の一幅”そのもの。ズームして。玉藻池の対岸に並ぶ刈り込み樹木(玉仕立て)と、その美しい水面への映り込みを捉えて。池面が非常に静かで、樹形が上下対称にきれいに映り込むのが印象的なのであった。旧御凉亭(台湾閣)内部に展示されていた「屋根瓦の模型(復元模型)」。旧御凉亭(台湾閣)の屋根は、台湾風の赤瓦(琉球系の影響を受けたもの)が特徴であった と。「花頭窓(かとうまど)」や「円窓」に類する、中国・台湾建築風の装飾窓。特にこのデザインは、「曲線と直線を組み合わせた組子(くみこ)細工」が美しく、台湾閣の意匠の中でも代表的な見どころのひとつである と。●円形窓(円窓)外枠が丸いので、基本的には日本でも寺院などに見られる「円窓」の系統だが、台湾閣の場合は 中国風装飾=「花窓(huā chuāng)」 に近い構造を持っている と。● 組子意匠内部の木組みの形は:・中心に四つ葉型(雲形に近い)・四隅は「隅入り角形」・全体を十字で区切る構造これは中国南部(福建・台湾)の伝統建築でよく使われる文様で、「連弁(れんべん)」「四葉文」「吉祥文」に由来する装飾 と。意味としては、・吉祥・繁栄の願い・魔除け・円満を象徴 などが込められているのだと。内部の一室(旧御茶準備室・旧控室・旧便所などが並ぶ棟) を。中央の覆われた大きな物体は?中国伝統の「吉祥文字(吉祥図案)」。この窓に刻まれているのは、中国の古典的な書体である篆書(てんしょ)風の文字を意匠化したもので、読み方は「於牣魚躍」であると、下記も含めて我が篆書の師匠から。読み:「あゝ満ちて(於牣)魚躍れりと」 意味:「水が満ち、魚が躍るように、ここでは人の心もまた自然に伸びやかになる」と。 再び様々な形の窓(花窓)の姿を。現在地はここ。再び陽光に輝く紅・黄葉を。「回廊(バルコニー/縁側部分)」を振り返って。「旧御涼亭(台湾閣)」を庭園側から。右側のモミジの黄〜橙のグラデーションが強いアクセントとなり、「旧御涼亭(台湾閣)」を引き立てる額縁のような役割を果たしていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.30
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「新宿門」方向に向かって北西に進む。 左:日本庭園 250m 千駄ケ谷門 580m と。後方にあったのが「公衆トイレ」。 「新宿御苑案内図」、現在地はここ。 この樹の紅葉もエピローグへ。皇帝ダリア。竹の支柱に囲まれて。皇帝ダリアの名のわりに風に弱いのである。ズームして。ジュウガツザクラ(十月桜)であっただろうか?近づいて。八重咲き。Y字路を引き返して、更に進むと、こちらは、ツワブキ(石蕗 / Farfugium japonicum)。近づいて。●鮮やかな黄色、舌状花(花びら)が長く細いツワブキの花はキク科で、長めの舌状花 が放射状に広がります。●花の中央には小さな筒状花が固まっており、蜜が豊富で昆虫をよく引き寄せます。 小さな昆虫が訪れているのが見えたのであった。中央に写っている特徴的な白い編み目状のビルは、モード学園コクーンタワー(Mode Gakuen Cocoon Tower)。◆ 特徴 高さ:204m(50階) 竣工:2008年 所在地:東京都新宿区西新宿1丁目 用途:学校(東京モード学園・HAL東京・東京医療秘書福祉専門学校) その名の通り「繭(cocoon)」をイメージした外観で、世界的にも珍しい “教育機関専用の超高層ビル”。「レストラン ゆりのき」。新宿御苑の中でゆっくり過ごせるお食事。木のぬくもりがふんだんに感じられるデザインの店 と。新宿御苑・風景式庭園の真ん中に3本の大きな ユリノキ がある とのこと。「レストラン ゆりのき」。「アワタケの仲間と思われるキノコです。」 「ハスの花托 振ると音がします♪」。 「オニフスベ きのこです!」。胞子を飛ばし終わって乾燥しました。本日の紅(黃)葉みどころ。「紅葉 * Autumn Leaves」案内板。・新宿門近く Near the Shinjuku Gate 大きなイチョウとカエデが染め上げる園路が魅力。・日本庭園 Japanese Garden 点々と風景を彩るカエデがおすすめ・母と子の森 Mother and Child Woods クヌギの優しい色合いにカエデの挿し色がポイント。 メタセコイアとラクウショウも紅茶色に染まります。新宿御苑はエリアによってさまざまな表情の紅葉をお楽しみいただけます。Shinjuku Gyoen National garden offersdifferent expressions of autumn leaves in different areas.・下の池 Lower Pond 擬木橋 (ぎぼくばし) 近くの大きなカエデ、下の池の島に植栽されたメタセコイアとカエデの コンビネーションは知る人ぞ知る紅葉の撮影ポイントです。 新宿御苑にあるこの「擬木橋」(木の枝や幹を模擬した石・コンクリート等の橋)は 橋の中でも”擬木橋”に限定すれば、こちらにあるものが日本最古なのだとか。・丸花壇近< Near the Round Flower Bed 新宿御苑のイチョウの黄葉といえはココ。黄金色のじゅうたんが人気です。 近<のメタセコイアは紅茶色に染まります。・モミジ山 Maple Hill 大きく育ったカエデがカラフルに色づきます 新宿御苑の紅葉をしめくくるエリアです。「園内のみどころ」案内図。 「サービスセンター」。 ・低く水平を強調したシンプルな外観・大きなガラス面が庭園の景色を映し込む造り・内部は木材を多用し、明るく開放的・バリアフリーに配慮したフラットな動線「日本庭園」入口の紅葉。 「現在地」はここ。 近づいて。見上げて。このモミジは紅葉のプロローグ。「日本庭園」の梅の木。ウメ”大宰大弐(だざいだいに)”この梅は、令和への改元を記念し、梅の花をこよなく愛した菅原道真公(815 ~ 903年)を祀り、梅の名所とされる大幸府天満宮より贈られたものである。「令和」の典拠は、8世記に太宰府で催された「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の序文「初春の令月にして、気叔く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の 香を薫らす」(「万彙集」所収)にあり、元号には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められている。 令和2年2月「翔天亭 あのん」。 新宿御苑・翔天亭(しょうてんてい) に併設された甘味処 「あのん(ANON)」 の外観・赤い毛氈が敷かれた縁台 和菓子店らしい“茶屋風の演出”で、春秋にはここで庭を眺めながら甘味をいただく人が多いです。・和傘(番傘) 濃い紅色の和傘がアクセントとなり、新宿御苑の伝統空間に彩りを添えています。「翔天亭 あのん」。NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)を再び。自然石を用いた「雪見灯籠(ゆきみとうろう)」の変種か?新宿御苑・「旧御凉亭(きゅうごりょうてい)」(台湾閣)が現れた。移動してズーム。建立:昭和天皇のご成婚記念(1927年)当時の台湾在住日本人(台湾総督府関係者など)が、ご成婚祝いとして献納した建物で、そのため 台湾様式の楼閣建築 になっているのだ と。旧御凉亭(台湾閣)の手前に広がる池の名は、「玉藻池(ぎょくそういけ)」。玉藻池の畔に立つ代表的な「クロマツ(黒松)」。玉藻池とは?新宿御苑・日本庭園の中心に位置する、御苑内でも最も趣深い池泉庭園のひとつ。・江戸時代、信州高遠藩内藤家下屋敷の庭池 が前身・明治以降、新宿御苑整備の中で再設計・拡張・四季の植栽(松・紅葉・刈込・水辺植物)との調和が美しい・池の周囲に灯籠・飛石・橋などが配置されている旧御凉亭はその玉藻池の畔に建てられており、池越しに眺める姿が最も美しいと言われています。イロハモミジ(Acer palmatum) の紅葉。ズームして。イロハモミジは秋に最も美しく色づき、新宿御苑の日本庭園でも代表的な紅葉樹。枝を大きく張り、“紅葉の天井(紅葉のトンネル)”のような景観をつくっていた。新宿御苑・「紅葉山(もみじやま)庭園」の池(紅葉山の池)。移動して。四阿(あずまや)。玉藻池越しの黄葉を再び。巨大な黄色い樹はイチョウ(Ginkgo biloba)で新宿御苑内でも特に大きいもので、玉藻池周辺の象徴的な一本。右にカメラを振って。玉藻池の北側〜北西あたり から御凉亭を臨む。・手前:玉藻池(ゆるやかな流れ部分)・中景:丸く刈り込まれたサツキや低木・遠景:旧御凉亭の反り屋根屋根の“波のような曲線”が、池と植栽の柔らかな形と響き合い、日本 × 台湾の美が同じ景観の中に共存 しているのであった。新宿御苑の「旧御凉亭(台湾閣)」の建物を、西側から見て。旧御凉亭の 一番奥にある「付属室(倉庫的空間)」 に相当する部分を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.29
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新宿御苑の大木戸門を訪ねた。昭和2年(1927年)竣工の新宿御苑旧大木戸門衛所👈️リンク。皇室庭園だった頃に作られたので、設計は宮内省。当時はいくつか門衛所が作られたそうですが、空襲を免れて現存しているは、こちらと旧新宿門衛所の2つだけとのこと。1. 明治時代の洋風意匠が色濃く残る衛所 この衛所は、明治39~42年頃(1906–1909)に整備された **新宿御苑の正面入口「大木戸門」**の警備・管理のための詰所。 洋風の腰壁レンガ、石造の基礎、上部の太い持ち送り(ブラケット)など 和洋折衷の近代建築様式が特徴。2. 腰壁の幾何学模様のタイル 写真にも見えるように、窓下のタイル張りは特徴的で、 当時の流行である スクラッチタイル(粗面タイル) または 人造石タイルが用いられ、斜め格子の模様が装飾性を高めている と。3. 石積みの基壇 基礎部分は自然石の布積みで、重厚感を出しつつ湿気対策にも優れました。 明治期の公園建築としてよく見られる手法 と。4. 屋根の深い庇と持ち送り 庇(ひさし)を支える黒い木製の「持ち送り」の形が美しく、 明治洋風建築の要素がよく残っていた。管理室・詰所として使われた棟で、大正〜昭和初期頃の洋風意匠が残る極めて貴重な園内建築。そして引き返すと、こちらには温室の遺構が。「戦前の温室の遺構・pre-war Greenhouse Remains。大温室の工事にともなう平成22年の埋蔵文化財発掘査で、日本における観賞を目的とした初期の温室の遺構が出土しました。明治時代から大正時代にかけて建てられ戦後まで使用された「E」の字形の温室の一番東側の基礎部分です。基礎石部分の上に切石、さらに煉瓦が積まれた構造をしていました。他に、ボイラー室、貯炭室、排水施設なども見つかりました。この発掘調査では、他にも、旧石器時代の石器、縄文時代の落とし穴や土器、江戸時代の藩士の長屋跡や陶磁器・元禄一分金・内藤家の家紋瓦、硝子製簪(かんざし)などが出土しました。」 戦前の温室(昭和初期 横から撮影)と。「初期の温室の御休所ここは、戦前に作られた温室が建っていた場所です。初期の温室初期の温室は、1893 (明治26 )年から1914 (大正3 )年にかけて建てられ、皇室御用の園芸試験場の役割などを担いました。現在の大温室の建設時に当時の遺構が発見され、その一部を展示しています。旧洋館「御休所」天皇や皇族が温室を鑑賞する際の休憩所として1896 (明治29)年に建てられ、温室と渡り廊下でつながっていました。2001(平成13)年に国指定重要文化財に指定されました。」 そして広場中央付近から、新宿御苑旧洋館御休所方向を見る。移動してズーム。イチョウの大木が、ここでも黄金に輝いていた。ズームして。そして「新宿御苑旧洋館御休所」を訪ねた。天皇や皇族が温室を鑑賞する際の休憩所として1896 (明治29)年に建てられ、温室と渡り廊下でつながっていました。2001(平成13)年に国指定重要文化財に指定されました と。 「旧洋館御休所」案内板。 「旧洋館御休所(きゅうようかん ごきゅうしょ)The Old Imperial Western-style Rest House (Kyu-Gokyu-sho)旧洋館御休所の概要旧洋館御休所は、天皇や皇族が新宿御苑(当時は新宿植物御苑)内の温室で植物を観賞される際の休憩所として明治 29 (1896) 年に創建されました。 その後 4 度にわたる増改築が行われ、大正 13 (1924) 年の増築によりほぼ現在の規模・仕様となりました。大正後半からは主にテニスやゴルフなどのスポーツ後のクラブハウスとして使用されるようになり、大正 10 (1921) 年に御食堂が増設されると、庭園で栽培された花々でダイニングテーブルを飾り、皇族主催の昼食会や晩餐会が開かれるなど、昭和初期にかけて利用のピークを迎えます。 昭和 20 (1945) 年、空襲により新宿御苑はほぼ全焼しましたが、御休所は戦火を免れ、戦後は長く管理事務所として使われました。その後、歴史的・文化的に価値の高い建物として保存が決まり、平成 13 (2001) 年、大正 13 年当時の姿に復元する保存改修工事が竣工しました。同年 4 月から一般公開が始まり、10 月には重要文化財に指定されました。」 「新宿御苑内新築休憩所五拾分之壱之図」。 旧洋館御休所の内部MAP。「新宿御苑関連年表」。新宿御苑の主な歴史年表江戸時代初期: 徳川家康が内藤家へ屋敷地として下賜。内藤家の庭園となる。明治時代 (1872年頃): 「内藤新宿試験場」として農作物・園芸植物の栽培試験場に。明治・大正・昭和初期: 皇室の庭園(新宿御苑)となり、観桜会・観菊会の会場に。昭和20年 (1945年): 戦災で大部分が焼失。昭和22年 (1947年): 国民公園として運営決定。昭和24年 (1949年)5月21日: 国民公園として一般公開開始。昭和33年 (1958年): ドーム型大温室完成。昭和46年 (1971年): 環境庁の所管となる。平成13年 (2001年): 省庁再編で環境省所管に。旧洋館御休所が重要文化財に指定。平成18年 (2006年): 皇室庭園開園100周年。平成24年 (2012年): 大温室がリニューアルオープン。令和3年 (2021年): 累計来園者数1億人達成 「旧次の間この旧次之間と手前の旧広間、奥の旧御居間は明治29 (1896)年の創建以来手の加えられていないスペースです。壁紙などの内装は、わずかに残された断片や記録などを参考に復元しています。」 この部屋にある家具は、「旧御凉事(台湾閣)・昭和2年(1927創設」で使用していたもので、公開展示のため御休所に移設しました。「重要文化財指定書」。 「旧洋館御休所(きゅうようかんごきゅうしょ)」内部のガラス戸(間仕切り窓)・「縦格子型(リブ)型型板ガラス」。・表面に 細い縦方向のリブ(凹凸) が連続するガラス・向こう側が見えにくくなる「不透明性(視界の拡散)」があり・しかし 光だけは柔らかく通す ため、明るさを確保できるのだ ・ライバシーを保ちつつ、室内の採光を確保 と。「旧臣下浴室」。 「旧臣下浴室」案内板。「旧御浴室」。 「旧御浴室旧殿下御浴室大正11 (1922)年に臣下用のものと併せて増築されました。照明やバスタブ、タオル掛けなどの器具類が当時のまま残されています。増築に伴い、別棟でボイラー室が設けられ、ボイラーマンが給湯に当たりました。」 「旧御厠(かわや)」。 「旧御厠(かわや)大正11 (1922)年に増築され、当時はまだ珍しかった水洗式腰掛便器が設置されました。」 「旧妃殿下御浴室」。 「旧妃殿下御浴室大正13 (1924)年、皇太子(後の昭和天皇)のご成婚に合わせ、随行の女官用の浴室とともに増築されました。この浴室ができたことで皇族方の利用が激増しました。」 廊下からの外の景色。「サンルーム(ベランダ廊下)」部分。「廊下当初は、温室へ向かう渡廊下へと続く外廊下でしたが、大正11 (1922)年の御浴室増築に伴い通路が吹き放しでは都合が悪いため中窓(ガラス戸)をはめ込み、内廊下に改築されました。」 「旧御居間」。 「旧御居間洋風の室内に籐製の家具を置き、花鳥風月を描いた日本画の額や盆栽を飾るなど和洋折衷のくつろいだ雰囲気が演出されていました。大正時代まで、洋室の暖炉では石炭か焚かれていたと推定されています。」 移動して別の角度から。●重厚なペイズリー調カーペット(赤紫系) 床には、大正・昭和初期の洋館で好まれた大柄のペイズリー模様 の絨毯が敷かれていた。 ・暖かみと豪華さを演出。 ・音を吸収し、室内の静けさを保つ ・当時の洋館ではステータスを示す装飾 旧洋館御休所では、皇族をもてなす施設であったため、上質なカーペットが採用された と。● 縦長窓と豪華なドレープのカーテン 中央の窓は縦長で、洋館特有のプロポーション。 その上を覆うカーテンは、 ・厚手のドレープ ・上部のバランス(装飾幕) ・房付きタッセル など、当時の“迎賓空間”を象徴するスタイル。 後ろから差し込む柔らかな光が部屋全体を淡く照らし、優雅なシルエットを 生み出していた。●中国風の意匠を持つ応接家具(テーブル・椅子) 写っている家具は、清朝風の透かし彫り が入った黒檀調のもの。 ・明治末〜昭和初期の洋館では「支那趣味(シノワズリ)」が流行 ・迎賓の場として“異国風の優雅さ”が重んじられた ・手の込んだ透かし彫りは高級家具である証 テーブル上の陶器(円盤状の飾り皿)は、東洋趣味を添えるアクセントとして 配置されていた。●壁紙は全体を覆う華やかなパターン 洋館では必ずといってよいほど使われる壁紙。 旧居間の壁紙は細かな花柄モチーフで、 ・空間に柔らかさを与える ・上質な生活空間を演出 ・大正ロマンの室内装飾として典型的 と。「丸形張り出し窓(ボウウィンドウ/サンルーム先端部)」 から庭園を眺めた光景。平面がわずかにカーブしており、窓がパノラマ状に連なって庭園を包み込むように。これは、19世紀イギリス建築の影響を受けた典型的な意匠で、大正〜昭和初期の洋館に多く見られる と。昼の陽光が窓を柔らかく通り抜け、庭の黄葉や枝ぶりを優しく浮かび上がらせていた。旧洋館御休所は、光を最も美しく取り込む方角 に張り出し窓を配置したのであろう。ガラス回廊(ベランダ廊下)から、秋の新宿御苑を眺めた。窓枠に切り取られた景色が一枚の絵画のようで、建築と庭園がひとつに溶け合うこの建物ならではの美がよく現れていたのであった。「沿革」・1896年(明治29年)1月: 天皇や皇族が新宿御苑内の温室を鑑賞する際の休憩所として創建されました。 設計は宮内省内匠寮が担当しています。・明治〜大正時代: 皇族の来苑増加に伴い、1924年(大正13年)までに4度にわたる増改築が行われ、 現在の規模になりました。大正後半からは、主にテニスやゴルフなどのスポーツを楽しむ 際の「クラブハウス」として利用されました。・戦後: 新宿御苑が「国民公園」として開放された後は、一時期、管理事務所として使用されていました。・2001年(平成13年): ・4月29日: 保存改修工事を経て一般公開が開始されました。 ・11月: 明治期の貴重な木造洋風建築であることから、国の重要文化財に指定されました。 ・2024年(令和6年)12月3日: 改修等のため休止していた一般公開が再開されました。 「旧御食堂」。 「旧御食堂温室観賞の際の休憩所として利用が増えたため、大正10 (1921)年に控室2室を1室に改め、お茶や昼餐をとるスペースが設けられました。昼餐会や晩餐会も催され、その折には御苑で栽培された草花が卓上を飾りました。」 そして見学を終え、隣にあった「管理事務所」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.28
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新宿御苑の「大温室」の内部に入る。近くにある大木戸門から入ると、まず目にするのは、光り輝くガラスの温室。2,750平方メートルもの広さの温室内には、様々な植物が展示されています。展示内容は、山岳地帯の熱帯植物や沖縄・小笠原の亜熱帯植物、熱帯低地の熱帯植物など、複数のセクションに分かれています。また、新宿御苑では、熱帯植物や亜熱帯植物を中心に約2,700種を栽培するほか、日本植物園協会の植物多様性保全拠点園として、絶滅危惧種の生息域外保全にも取り組んでおり、温室内でも絶滅危惧種の植物を鑑賞することができます と。 「新宿御苑における自然保護の取り組み新宿御苑は次のニつの団体への参加を通して絶滅危惧植物の生息域外保全に取リ組んでいます。まず第一に、新宿御苑は日本植物園協会の一員であり、関東拠点園、ランとハナシノブ[Polemonium kiushianum]の特定植物保存拠点園、種子保存拠点園に指定されています。第ニに、新宿御苑は植物園自然保護国際機構が立ち上げた「植物園の保全活動に対する国際アジェンダ」に登録されています。絶滅危惧植物の栽培地域野生植物保全拠点園として、新宿御苑ではハナシノブなどの国内希少野生動植物種の保全への取り組みや、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)」に定められたその他の絶滅危惧植物の栽培を行っています。絶滅危惧植物の種子の収集と保存新宿御苑は他の植物園、大学、研究期間などと連携して、絶滅危惧植物の種子の収集と保存に取り組んでいます。さまざまな機関によって日本各地で採取された種子が、保存のために種の確認用のさく葉標本と併せて新宿御苑に送られてきます。種子は新宿御苑で冷凍保存され、さく葉標本は国立科学博物館実験植物園に送られて保管・分類されます。種子の保存は植物を実際に栽培することに比べ、非常に小さなスペースで膨大な多様性を持つ標本を保存しておける、より効率的で実用的な方法と言えます。」 大温室入口。「大温室のご利用案内この温室では、気候などに応じて多様に展開する熱帯の植物や絶滅危惧植物の展示を行っています。ゆっくりご鑑賞下さい。」 カトレア(Cattleya)。濃い紫〜マゼンタ色は、カトレアの代表的な園芸品種の色合い。後ろにある白花のものも同じくカトレア系の交配種。① 白い大輪のカトレア(中央) 典型的な 大輪系カトレア リップ(中央部)の黄色がアクセント フリルのある花びらが豪華 → Cattleya labiata 由来の交配種に多い形② 黄色 × 赤リップのカトレア(奥) 非常に華やかな組み合わせ “レリオカトレア(Lc.)”などの交配でよく見られる配色 → 黄色花は C. dowiana 系統の血を引くことが多い③ 左側の淡い紫色のカトレア(左) 花弁が細めで繊細 「レリア(Laelia)」系の血が入った 軽やかなタイプのカトレア いずれも 純粋な1種のカトレアではなく、園芸交配種(ハイブリッド) であると。白〜淡緑の斑の入った葉の植物は、アグラオネマ(Aglaonema)。壁面上部に垂れ下がる大きな斑入り葉はディフェンバキア(Dieffenbachia)。こちらもサトイモ科の代表的な観葉植物で、温室の立体的な植栽によく使われる と。この可憐な紫色の花は、ティランジア・キアネア(Tillandsia cyanea)。和名 チランジア・キアネア または クジャクアナナス と呼ばれる植物。ウナズキヒメフヨウ(Hibiscus schizopetalus の近縁種)。英名 Sleeping Hibiscus / Turk’s Cap Hibiscus と呼ばれる植物。つぼみのように見えて、完全には開かない花→ 花弁がねじれるようにして閉じ、下向きに“うなだれる”姿から ウナズキ(頷き) の名があります。近づいて。切れ込みの入ったつる性の葉はモンステラ(Monstera) の幼葉。「ハナキリン(花麒麟)」Euphorbia milii。近づいて。「ハナキリン Euphorbia milii トウダイグサ科」。「金鯱(キンシャチ)」 と呼ばれる代表的な大型サボテン。赤い“つやつやしたハート形の部分”を持つ植物は、アンスリウム(Anthurium)。近づいて。タシロイモ(Tacca chantrieri)。・まるでコウモリの羽のような黒紫色の苞 タシロイモ属特有の形で、まさに「バットフラワー」。・長く糸状に垂れ下がる“ひげ” ひげのように伸びる長い付属体が最も特徴的。・中央の塊状の花序 丸く集まった蕾・花が中心に密集。・深い黒紫色 自然界では珍しい黒色系の花。Chondrorhyncha discolor(コンドロリンカ・ディスカラー)・ラン科 オドントグロッサム連(Oncidiinae) に属する小型ラン・葉が細く、花茎は短く、うつむき気味に咲く・花はカトレアのように大輪ではなく、中小輪・色や模様が独特で“discolor=二色・変色”の名がつく熱帯スイレン(Nymphaea)。レモン。「ミカン科レモンCitrus limon Burm. f.特有の芳香と酸味があるシトロン系柑橘類。適地では一年中収穫できます。インド東北部」 「ヤマトゲバンレイシ」。ヤマトゲバンレイシは、バンレイシ科の常緑樹である。樹高は10m程度に。葉は、長楕円形で、革質、幾分光沢を見せる。果実は、径15cm程度で、果皮には刺がある。芳香は強いが、果肉は果汁分に乏しく、甘味にも乏しくあまり食用には利用されていない と。 「ヤマトゲバンレイシ(山棘蕃茘枝)和名は、中国名の音読みから。中国名は、恐らく英名からの直訳と思われる。Annona martanaバンレイシ科」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.27
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「中の池」岸の遊歩道を歩く。「中の池」越しにNTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)を見る。「新宿御苑のみどころ 晩秋」。 手前には桜の樹が。春になれば。(ネットから)。手入れの行き届いた巨木の松。「スターバックスコーヒー 新宿御苑店」前には人の列が。 再び「新宿御苑案内図」。現在地はここ。 ヒマラヤスギ(ヒマラヤシーダー)?の巨木。「上の池」?越しに。 NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)が水面に映り込んで。新宿御苑の風景には欠かせないNTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)。「中の池」に架かる橋を渡る。 「上の池」?の最奥右に。多くの鯉の姿。ヒマラヤスギを再び。ラクウショウ(落羽松)であっただろうか?「新宿御苑で見られる主な桜の品種と開花情報」 「新宿御苑の桜新宿御苑は東京で最も優れた花見の名所の一つで、園内には65種ほどの桜の木が約1000本植えられています。品種によって開花時期が異なるため、新宿御苑の桜の見頃は比較的長くなっています。中でも最高の見頃は、東京で最もポピュラーな桜の品種であるソメイヨシノが開花する3月下旬から4月上旬です。その後4月上旬~ 4月中旬にかけては、イチヨウやカンザンなどの八重桜が見頃となります。桜は8世紀に編纂された万葉集や古事記にもその名があるように、古くから日本文化において重要かつ欠かせない役割を果たしてきており、平安時代(794 ~ 1185)にはそれまで以上に重要かつ欠かせない存在となりました。19世紀には新しい園芸技術の発展により何百もの観賞用品種が生み出され、現在最もポビュラーな品種であるソメイヨシノもこの時期に開発されたと考えられています。日本は桜で有名ですが、多様な桜の木が揃っている新宿御苑は、花見における長い歴史を有しています。1917年からは皇室主催の観桜会の開催場所となり、1952年からは総理大臣主催の「桜を見る会」が開催され、世界中の賓客をもてなしています。」 ●ソメイヨシノ (Cerasus × yedoensis; Matsumura "Yedoensis") 非常に人気のある品種は、19世紀に2品種の桜を交配して初めて栽培されました。 東京北部の染井村で育成され、当初は吉野桜として知られていました。 生育が早く花が美しいことから、ソメイヨシノは20世紀初頭から広く植栽され、現在では 日本で最も一般的な桜の木となっています。海外でも人気く、日本の桜として最も代表的な 品種であると見なされています。 葉より先に咲き一気に樹帯全体を覆う花は、わずか数日の後に一斉に散り、美しいピンクの カーペットを作ります。 園内には約350本のソメイヨシノが植えられています。●イチヨウ(Cerasus lannensiana;"Ichiyo"Koidzumi) 満開時期: 4月上旬~中旬 八重桜の代表的な品種の一つであり、鎌倉時代(1185 ~ 1333)に生み出されたとわれています。 御苑の八重桜の中心となる品種で、約120本が植えられています。●カンザン(Cerasus lannensiana;"Sekiyama"Koidzumi) 非常に人気のある美しい八重桜の一種であり、イチヨウに比べると花が大きめで紅色が強く、 華やかな印象です。御苑には約80本あります。新宿御苑ミュージアム👈️リンク。展示内容・シアター展示室: 新宿御苑の起源から現在に至るまでの歴史の変遷を、床・壁全面への 投影映像と音声で分かりやすく紹介しています。・Gyoen Topics: 時代と共に歩む新宿御苑の変遷や、日本の園芸を支えてきた歴史、 皇室の庭園としての役割などをイラストや写真で解説しています。・四季の植物: 新宿御苑内で見られる四季折々の植物の標本や写真、マップを展示しています。 丸花壇手前から、黄葉したイチョウの大木を見る。近づいて。イチョウの黄葉を追う。ラクウショウ(落羽松, Taxodium distichum)の紅葉であっただろうか。新宿御苑の「温室(大温室)」を見る。ここにも温室が並ぶ。バックヤード栽培室8棟。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.26
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「整形式庭園・バラ花壇」横をさらに歩く。南東方向の左右にはプラタナス並木が。反対側の北西側・新宿駅方向を望む。アツバキミガヨラン(ユッカ・グロリオサ)が開花中。アツバキミガヨランは学名をユッカ・グロリオサと。北米原産でユッカ属の耐寒性常緑低木。現地では砂漠地帯に自生。細長く鋭利な刀状の葉が多数集合して放射状に広がる。叢生した葉の中心から長い花茎が真っ直ぐに伸びて分枝。別種にキミガヨランという種があるが、そちちらよりも背が低く葉が肉厚である。基本的に葉を観賞する観葉植物だが、成長したアツバキミガヨランが咲かせる花は非常に迫力がある。クリーム色の釣鐘型の花を鈴なりにつける。春と秋に2度咲き。日本では株分けで増やす とネットから。アツバキミガヨラン(Spanish dagger)〔リュウゼッラン科(Agavaceae〕南側のプラタナス並木。「甲州街道」方向の高層マンション。「下の池」廻りの紅葉を追う。 燃えるような赤と柔らかな橙が織りなす木々の葉は、季節の移ろいを優雅に語りかけて来た。陽光が枝の隙間からこぼれ、地面に金色の斑模様を描き、まるで絵画の筆致のよう。水面の鏡・ 静かな水面は、周囲の彩りを優しく映し出し、現実と幻想の境界を曖昧に。風が止まり、時間さえもこの一瞬に溶け込んでいるかの如くに。木々は燃えるような赤や黄金の葉をまとい、まるで季節そのものが絵筆をふるったかのように。「アオサギ」の姿を発見。「アオサギ」(青鷺、蒼鷺、学名:Ardea cinerea)は、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類される鳥類。学名はラテン語でArdea が「サギ」、cinerea が「灰色の」を意味する。 ヨーロッパからアジア・アフリカ大陸にかけて分布。寒冷地に分布する個体群は、冬季になると南へ移動する。日本では亜種アオサギが夏季に北海道で繁殖のため飛来し(夏鳥)、冬季に九州以南に越冬のため飛来し(冬鳥)、本州・四国では周年生息する(留鳥と、ウィキペディアより。池端をのんびりと歩く。アオサギも紅葉見物か?アオサギを追う。アオサギは佇む 静寂の岸辺にて 水面に揺れる紅葉を まるで友のように見つめながら 秋の深まりを感じているかの如くに。「カルガモ」の姿か?左は頭部が光沢のある緑色、首に白い輪、胸は赤褐色なのでマガモの雄か。真ん中は全体的に茶色で、くちばしがオレンジ色?なのでマガモの雌か。ズームして。再び「アオサギ」を。 「下の池」の見事な紅葉と、そこで戯れる野鳥の姿を我がデジカメでひたすら追ったのであった。晩秋の午後、 「下の池」は錦織るような紅葉に包まれていた。 赤、橙、黄金の葉が水面に舞い降り、 風に揺れるたび、光がきらめく。その静けさの中に、 マガモがゆるりと泳ぎ、 カルガモは丸太の上で羽を休める。 羽根をふくらませ、首をうずめ、 まるで秋の夢を見ているかの如くに。水面には彼らの姿が映り、 紅葉とともに揺れるその影は、 自然が描く一幅の絵画のよう。人の気配を忘れ、ただ鳥と木々と水が語り合う。デジカメのレンズ越しに、 私はその一瞬一瞬を追いかけた。 それは記録ではなく、 秋という季節の息吹を、心に刻む時間と空間なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.25
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「下の池」の横まで歩く。「下の池」は、新宿御苑の日本庭園内に位置する池で、園内の南西部にあった。この池には、日本初の擬木橋(木を模したコンクリート製の橋)が架かっており、明治38年にフランスから輸入され、当時の姿のまま現在も残されていた。 また、「下の池」は「中の池」や「上の池」と連なっており、これらの池を巡ることで四季折々の風景を楽しむことができたのであった。「下の池」を見る。池の端(いけのはた)の紅葉樹を。もみじ葉の紅葉を見上げて。まるで頭上いっぱいに広がる「紅の天蓋(てんがい)」の如くに。無数のもみじが重なり合い、光をやわらかく透かしながら、深紅から琥珀色へと揺らめく色の層をつくっていた。青空の気配が葉の隙間からそっとのぞき、紅葉の鮮やかさをいっそう引き立てていた。再び「新宿御苑案内図」。 アメリカスズカケノキ(プラタナス)であっただろうか。4本が仲良く並んでいた。静寂の池のほとりに、まるで大地からまっすぐに生まれた柱のように立つプラタナスの群生。白く剥がれた幹肌が冬の光を受けて淡く輝き、落ち葉に包まれた足元には季節の深まりが静かに広がっているのであった。プラタナス並木に向かって更に進む。閉鎖中の入口(大京門、大京町交差点前)から広がるプラタナス並木。「整形式庭園(フランス式整形庭園)」の両側にプラタナス並木があった。ツツジ類(ドウダンツツジ・サツキ・キリシマツツジ)も美しく刈り込まれていた。春に花を咲かせるが、庭園では花より“樹形美”が重視される球形・ドーム状の刈り込みに。秋には 赤く紅葉する株があり、写真の赤い丸い木はドウダンツツジであっただろうか?手前のプラタナス並木。一直線に続くプラタナスの大樹が、左右から空へ向かって弧を描きながら立ち並び、まるで大聖堂の回廊のような壮麗な空間をつくり出していた。冬枯れの枝先には、秋の名残をとどめた葉がそっと揺れ、樹皮の模様が淡い光を受けてまだらに輝き、並木全体が静かなリズムを奏でているかの如くに。奥へ奥へと吸い込まれるような遠近感が、季節の移ろいの深さと、庭園がもつ歴史の重みを静かに語っているのであった。10日ほど?早ければ。写真はネットから。再び奥のプラタナス並木を。新宿御苑には現在の3門(新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門)のほかに、かつて「大京門」という現在閉鎖中の通用門が存在したようだ。こちらはツツジ並木?春になれば。写真はネットから。再び紅葉をカメラで追う。赤、橙、そして金色へと移り変わる紅葉が、光を受けて炎のように輝き、枝先からこぼれ落ちるように視界を満たしていた。背景の柔らかな緑と影の深さが、鮮やかな紅葉の色彩を一層引き立て、まるで自然が描いた油彩画のような奥行きを生み出していたのであった。ひと葉ひと葉に宿る晩秋の気配が、そっと風に揺れながら季節の温度を伝えてくれる・・・そんな瞬間を見事に現した美しい秋景なのであった。新宿御苑のプラタナス並木越しにそびえる NTTドコモ代々木ビルが、美しいシルエットの如くに。ズームして。・所在地:東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番・高さ:240m(アンテナ含む)/建物自体は150m・竣工:2000年・用途:NTTドコモのオフィスビルおよび通信設備・設計:日本設計◆ ① ニューヨークの「エンパイア・ステート・ビル」に似たデザイン 階段塔のように上へ向かう形状から、 しばしば「日本のエンパイアステートビル」と呼ばれます。◆ ② “時計台”として知られる 2002年のドコモ誕生10周年を記念し、 ビル上部に 巨大デジタル時計 が設置されました。 — 新宿のどこからでも時刻を確認できるほど大きい — 夜間にはライトアップされることが多い 現在もドコモの象徴的存在。◆ ③ 通信施設としての役割 外観はランドマークですが、内部は通信設備が多く、 一般的なオフィスビルとは異なる特別な構造になっています。 耐震・耐災害性能も非常に高い建物です。◆ ④ 新宿御苑や代々木方面からの眺めが美しい御苑の緑越しに見えるグレーの直線的な塔は、自然と都市が融合する象徴そのもの。ネットから。紅葉の色彩の変化を実感。奥のプラやナス並木を歩く。赤、オレンジ、黄色、そして緑が枝の上で複雑に混ざり合い、自然が織りなす見事なグラデーションを生み出していた。これぞ、ひと枝の中に宿る秋のグラデーション。移ろいの美を一枚の葉ごとに刻む、晩秋のもみじ なのであった。そして燃える秋に。燃えるような赤と朱色: 葉の色は、深い赤から鮮やかな朱色、そしてオレンジへと変化し、まるで空に向かって炎が燃え広がっているかのような生命力を感じさせたのであった。光を透かす葉の輝き: 葉の隙間から差し込む白い光(空)が、紅葉の色をいっそう際立たせていた。葉が薄く光を透かすことで、色がステンドグラスのように輝き、幻想的な美しさが生まれていた。樹幹の影との対比: 右側に大きく写る樹幹の暗い色が、手前の明るく鮮やかな紅葉の色彩の深みを強調し、画面全体に奥行きを与えていたのであった。この近くのプラタナス並木はエピローグへと。再び NTTドコモ代々木ビルを。上部の階段状(セットバック)は “6段”か?バラ花壇の背景に。 移動して。ズームして。バラ園も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.24
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JR千駄ヶ谷駅前の「四谷角筈線(よつやつのはずせん)」の紅葉・黃葉を見る。イチョウ他の黄葉。ズームして。既に葉を落とした樹の姿も。「JR千駄ヶ谷駅」。 通りの両側に連なる銀杏が、まるで空へ向かって燃え立つ炎のように鮮やかな黄金色のトンネルをつくっていた。見上げて。周辺案内板。新宿御苑(千駄ヶ谷門)に向かって進む。案内に従い、JRのガード・「八幡前ガード」下を進む。白壁には絵画が。渋谷区落書き対策プロジェクトの一環として、多くの地域住民や関係者が参加するワークショップ形式で制作されたインクルーシブアート作品とのこと。・作品名: 正式な固有の作品名というよりは、「千駄ヶ谷八幡前ガードの壁画アート」 「インクルーシブアート」として紹介されています。・作者: 特定の単独の芸術家ではなく、ワークショップに参加した延べ数百人の人々によって 共同で制作されました。・目的: 落書き対策を目的とした「シブヤ・アロープロジェクト」の一環であり、アートを 通じて多様な人々が関わり、地域コミュニティーの意識を高める「インクルーシブアート」の 取り組みとして実施されました。・デザイン: 画像のようなカラフルで幾何学的な模様が特徴で、左右合計で120メートルを 超える巨大な壁面アートです。・完成時期: この壁画アートは、2025年8月14日に完成しました。 とネットから。このポスターに記載されている通り、この場所は災害時に新宿御苑への一時退避を促すサイン(矢印)の役割も兼ねているようであった。。「発災時には新宿御苑は一時退避場所となります。」と。 東京都渋谷区千駄ヶ谷の道からNTTドコモ代々木ビル(通称:ドコモタワー)を見上げて。そして「新宿御苑 千駄ケ谷門」前に到着。 「新宿御苑 千駄ケ谷門」入口。新宿御苑は東京都新宿区と渋谷区にまたがる広大な庭園で、この千駄ヶ谷門は渋谷区側に位置しここは、JR千駄ヶ谷駅から近い入り口新宿御苑は、元々は江戸時代の内藤家の下屋敷の一部であり、明治時代に皇室庭園となり、戦後に国民公園として一般公開された と。 この門は、公園の3つある主要な入り口の一つ(他は新宿門と大木戸門)。新宿御苑 ご利用案内。・開園時間(ガーデン) 期間 開園時間 閉園時間 3月15日〜9月30日 9:00〜17:30 18:00 7月1日〜8月20日 9:00〜18:30 19:00 10月1日〜3月14日 9:00〜16:00 16:30 ※大温室の開館時間も別途記載されています。・休園日 毎週月曜日(月曜日が休日の場合はその翌平日) 年末年始(12月29日〜1月3日)・入園料 一般: 500円 65歳以上: 250円(証明書提示が必要) 学生(高校生以上): 250円(証明書提示が必要) 小人(中学生以下): 無料 年間パスポートの情報も含まれています。季節のみどころ情報。門から中に入ると多くの案内板が。新宿御苑 早朝開園 と。入園門07:00~09:00までは新宿門のみ開門(大木戸門、千駄ヶ谷門は閉門しています。)※ 09:00以降は通常どおり全入園門から入園可能です。入園料。正面にチケット売り場。時間は11:00。新宿御苑案内図。近づいて。シニアチケットを250円で購入。そして新宿御苑の散策を開始。「下の池」方向に向かって東に進む。 「桜園地」手前の見事な紅葉。黄葉とのコラボ。これぞ錦秋(きんしゅう)!!野山が錦の織物のように色づいた美しい秋を意味する言葉。そして紅葉の帳(とばり)の如くに。:紅葉した葉が垂れ下がり、まるで美しい幕(帳)のようになって。照葉(てりは)・照紅葉(てりもみじ):日差しを受けて紅葉した葉がきらきらと輝いていた。山装う(やまよそおう)。山全体が紅葉で美しく飾られていたのであった。「整形式庭園 350m」方向へ。 色のグラデーション。赤、橙、黄、緑といった様々な色が混ざり合い、複雑で美しい色彩の移り変わりを見せていたのであった。白い花が。山茶花(サザンカ)の花 一重 白に薄紅 であっただろうか。近づいて。左手に「モミジ山」。 絵を描く人の姿を発見。無断でズームさせていただきました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.23
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この日は、12月16日(火)、平塚での私が勤務する会社の忘年会に参加。帰路に、JR辻堂駅で途中下車し、テラスモール湘南・イルミネーション「湘南の青い海、蒼い空 7DAYS SPARKLE BLUE」👈️リンク を訪ねた。2025年11月5日(水)~2026年2月15日(日)の期間中、JR辻堂駅直結のテラスモール湘南で冬のイルミネーション「湘南の青い海、蒼い空 7 DAYS SPARKLE BLUE」が開催されていた。屋根いっぱいに広がる深いブルーの光は、夜の湘南に寄せる海のきらめきそのもの。無数の光粒が波のように連なり、頭上では蒼い空が静かにまたたいていたのだ。湘南の海と空の景色を表現した様々な「あお」が楽しめる15mの巨大ツリー。水面のようにきらめくスパークル演出も。闇の中に、すっと立ち上がる光の円錐(ツリー)。黄金色の粒子が幾重にも重なり、静かに、しかし確かな存在感で夜の空間を支配していた。その背後を走るのは、湘南を象徴する蒼い光の帯。まるで海の水平線が宙に引かれ、白い光の樹はその波間に浮かぶ灯台のごとし。冷えた夜気のなか、青と白が描く対比は凛として澄み、訪れる人の心をそっと上へ、空へと導いてくれるのであった。蒼い光の帯が、建物の稜線をなぞるように走り、その中心に立つのは――夜を集めたかのような、青のツリー。白ではなく、金でもなく、あえて選ばれた深いブルー。それは冬の海の静けさであり、星を映した湘南の夜空でもあった。手前のフェンスに宿る小さな光粒は、まるで波打ち際のさざめき。遠景のツリーへと視線を導きながら、空間全体に奥行きとリズムを与えていた。蒼い光に満たされた夜景のなかで、ツリーだけがそっと色を変える瞬間。深いブルーから、やわらかなピンクへ――それは、夜の海に差し込む一筋の朝焼けの如くに。冷たい夜気のなかに生まれる、青と桃色のグラデーション。それは賑わいではなく、静かな変化そのものが美しいという湘南らしい光の表現。緑、赤、白、そして淡いピンク・・・層をなして重なる光は、まるで波打ち際に反射するプリズムの如くに。7日間毎日色が変化する、その日だけの風景を映し出すツリーを楽しむことができるのだと。空が濃い青色に染まるほんの短い時間帯を指す「ブルーアワー」や朝焼けが始まり空が明るんできた時間帯を指す「暁」など湘南の風景を切り取った幻想的なツリーが出現します。海の水面のように煌めくスパークル演出も実施。頭上には“空”をイメージしたトゥインクルライトと天空イルミネーションを設置し、約30万球の電飾がテラスモール湘南一帯を青く染め上げます と。写真はネットから。ズームして。夜空に向かって、ただ一本・・・光で編まれた巨大な円錐が、静かに、しかし圧倒的な存在感で立ち上がっていた。足元はやわらかな海色のブルー、中腹は澄んだ白のきらめき、そして頂へ近づくほどに夕焼けを思わせる金と紅へ。湘南の一日が、そのまま光のグラデーションになったかのごとくに。静かにそびえ立つ光の円錐。頂は澄み切った蒼、中腹で淡く溶け合い、足元ではあたたかな金色が大地をやさしく照らしていた。更にズームして。闇を背に、まっすぐ天へ伸びる光の円錐。足元には深い海の青、中ほどで静かにほどける白のきらめき、そして頂は、かすかな金の余韻。黒い夜空を背景に、層を重ねたビルの輪郭が温かな光で静かに浮かび上がる。窓という窓からこぼれる灯りは、この場所に集う日常の気配そのもの。夜空を切り取るように伸びる、弧を描くレインボーの光の帯。青から緑、そして橙へ・・・。外壁は落ち着いたダークトーン。そこに配された点と線の照明が、建築にリズムと奥行きを与え、湘南の夜景にほどよい緊張感を添えていた。上部の円形部分に灯る紫の光は、夜のアクセントとして視線を引き寄せる灯標のようであった。広場に立ち上がる、光の塔。足元は湘南の夜の海のような蒼、中腹で白くきらめき、頂へ向かうほどに夕映えの金色へと移ろいながら・・・。そしてJR藤沢駅で乗り換えの為下車。南口のリータリーのイルミネーション。街の玄関口であるロータリーが、冬の夜だけやさしい光の庭へと姿を変えていた。木々の幹を包むのは温かなゴールドの灯り、足元には星屑を散りばめたような細やかな光が広がっていたのであった。視線を落とすと、そこは光が芽吹く小さな庭。木の幹を這うゴールドの灯りは年輪のようにやさしく重なり、足元には星屑を散らしたような無数の光が静かに広がっていたのであった。派手さはなく、けれど確かに心がほどける光景。仕事帰り、買い物の途中、ふと足を止めたくなる・・・そんな藤沢らしい、生活に寄り添うイルミネーション。枝という枝に、金の小さな灯りが宿り、夜の樹木は星座のように輝いていた。葉を落とした冬木だからこそ、光は奥まで行き渡り、一本一本の輪郭を丁寧に浮かび上がらせていた。そして地元の小田急線の西口ロータリー。地元・日本大学藤沢高等学校の生徒会の皆さんに協力頂いた作品。黒い夜の地面に広がるのは、蒼い闇に舞う、淡いピンクの光。それはまさに・・・春を先取りした桜の花びらが、静かに降り積もったかのようであった。冬の夜に仕込まれた、春への予告。小田急線・西口ロータリーは、忙しい日常のすき間に、「やがて桜は咲きますよ」とそっと囁いてくれる・・・我が街らしい、心のイルミネーション。周囲を流れるブルーと白の小さな光は、夜風や水の流れのよう。静かな動線をつくり、桜の形をいっそう際立たせていた。幹から離れて舞う花びらの気配まで、想像させる配置。植栽の枝先から垂れ下がる、細く、静かな白の光。それは落ちるというより、降りてくる・・・夜の空気をすべり、音もなく地へ溶けていく。光は雨のように連なり、触れた闇に淡い輪郭を残す。幹を包む微かな点灯は、通り過ぎた光の残照のようで、しばしそこに留まり、やがて消えることを拒むかの如くに。そして移動して東口ロータリーのイルミネーションへ。窓からイルミネーションを見下ろす。光は一点に集まり、放射し、遠くへほどけていく。三角形に張られた無数の点灯は、夜の広場に星の路を描き出し、中心へと静かに誘う。主調は深いブルー。そこに白や淡い色が混じり、冷たい冬の空気を澄ませるよう。遠景の店舗の灯りと重なり合って、この場所が街の鼓動の交点であることをくっきりと示していたのであった。西口の「花びらが舞う庭」、そして東口は、進む方向を示す光の軌跡。同じ駅前でありながら、それぞれが異なる物語を語っているのであった。こちらは、藤沢工科高等学校の学生の作品・ハンドベルロボット。様々な色に変化しながら音楽を奏でるのであった。 ・・・おわり・・・
2025.12.22
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左奥に見えたのが右:日本オリンピックミュージアム👈️リンク 日本オリンピックミュージアムは、「みんなのオリンピックミュージアム」をコンセプトに、 JOCとアスリート、来館者と共に創り上げる「日本のオリンピック・ムーブメントの 発信拠点」です。展示や映像を通して、オリンピックの歴史や意義を知り、 オリンピックとは何かを考え、来館者が自ら考え、体験し、学ぶことができます。左:日本青年館ホール👈️リンク 東京・神宮外苑地区にあり、多目的ホール、ホテル・宴会場・会議室・駐車場などを 備える複合施設。一般財団法人日本青年館が運営する。 1925年(大正14年)に青年団のための施設として開館した 2020年東京オリンピック用地として使われるため、1979年(昭和54年)に改築・ 完成した二代目日本青年館を解体。敷地を明治神宮野球場前に移し、2017年(平成29年) 8月1日にグランドオープン。建物は地上16階・地下2階、建物高さは70mとなり、 総客室数220室のホテルや1,250席のホールなどを備えている。その他、館内にはレストラン、 宴会場、会議場などがあり、宿泊、食事、結婚披露宴、各種会議、コンサート、講演会、 研修などに使用される。この日に国立競技場で開催された 「RIKUJOファミリー 大運動会」👈️リンク(ミニリレフェス/RIKUJOスクール/RIKUJOパーク)の案内図。日本陸上競技連盟は、陸上を愛するみなさまが歴史を繋いでくださったおかげで、本年創立100周年を迎えることができました。100年支えていただいたみなさまへの感謝を込めて、「~日本陸連100周年記念~RIKUJOフェスティバル in 国立競技場」を開催致します。本イベントでは、陸上を愛する全てのみなさま(トップアスリート、一般の愛好者、審判、指導者等)を「RIKUJOファミリー」と呼び、「RIKUJOファミリー」が一堂に会し、これまでの100年に感謝して、新たな未来に向かってスタートを切る瞬間を分かち合うことを目的としています。国立競技場へ、ぜひご来場ください と。国立競技場前 広場。国立競技場 敷地全体図。国立競技場前の広場には、躍動感あふれる槍投げ選手のブロンズ像が静かに佇んでいた。全身に力をみなぎらせ、今まさに槍を放とうとする瞬間を切り取った姿は、スポーツが持つ美しさと緊張感を象徴しているのであった。バックに広がる青空と都会のビル群が、この像の力強さをさらに際立たせ、国立競技場が「アスリートの聖地」であることをあらためて感じさせてくれる風景であった。円盤投げ(Discus Throw)選手のブロンズ像。(ディスコポロス像)。体を大きくひねり、円盤を放つ直前の緊張感あふれる瞬間を切り取った姿は、まさに陸上競技の力強さそのもの筋肉の動きや体重移動まで感じられる造形で、見る角度によって躍動感が変わり、ずっと眺めていたくなる彫刻。青空と秋の木々を背景に、スポーツの美しさがひときわ際立つ風景。「御者像」は、ファルプ・ビニョーリ(Falbe Bignoli)の作品で、1936年のベルリンオリンピック芸術競技で金メダルを獲得した彫刻を、1936年(昭和11年)に開催された「大日本体育祭」(後の国民体育大会)のために設置されたもので、「力」や「勝利」を象徴する重要なパブリックアートでした。残念ながら、新国立競技場建設時に解体され、現在は旧競技場の敷地内にある日本オリンピックミュージアム周辺に設置されている「オリンピックシンボルモニュメント」がその役割を引き継いでいます。 国立競技場の正面に設置された大きな「NATIONAL STADIUM」のモニュメント。新しいスタジアムの象徴として、多くの人が記念撮影をする人気スポット。木材をふんだんに使った外観は、自然と都市が調和するデザインで、東京の新たなランドマークとして凛とした存在感を放っていた。近づいて。国立競技場のチケット売り場付近から見上げる外観は、木材のルーバーが幾重にも重なり、まるで大きな樹冠・樹木の上部にある枝や葉が茂って広がる部分全体 の如し。各階に配置された植栽が柔らかな表情をつくり、都市の中に自然が溶け込んだ「森のスタジアム」という愛称がよく似合うのであった。青空に映える美しい曲線は、建築としての存在感と、訪れる人を包み込むような温かさの両方を感じさせてくれたのだ。国立競技場の周辺からは、新宿の街を象徴する「NTTドコモ代々木ビル」が美しく見えた。空に向かって階段状に伸びる独特のフォルムは、都会の風景の中でもひときわ存在感を放っていた。ズームして。国立競技場の外周には、東京2020大会のメダリストをたたえる記念プレートがここにも並んでいた。写真のエリアは体操競技の区画で、種目アイコンの下に、金・銀・銅の各メダリストの名が刻まれていた。無観客での開催という特別な状況で行われた東京大会ですが、ここに刻まれた名前の一つひとつが、選手たちが乗り越えてきた努力と誇りを静かに物語っているのであった。国立競技場の施設案内板(National Stadium Facility Guide)。ゲート位置や動線がひと目でわかる、来訪者に優しい案内板。国立競技場から代々木方面へ歩くと、槇文彦が設計した「国立代々木競技場 東京体育館」の美しい姿が見えて来た。大きく波打つような屋根は吊り構造によるもので、完成以来、世界の建築家から高い評価を受け続けている名建築。背景にはNTTドコモ代々木ビルがそびえ、東京の歴史的建築と現代的な超高層ビルが並び立つ、このエリアならではの景観が広がっていた。国立代々木競技場 東京体育館 の側面。曲線的で美しい正面とはまた違った、機能美あふれる姿を見ることができた。とくに目を引くのは、並列にそびえる巨大なダクトタワー。これらは館内空調などに用いられる設備で、槇文彦らしい「建築の構造や機能を外観に表すデザイン」がよく現れていた。ズームして。千駄ヶ谷駅のすぐそばに建つ東京体育館の入口には、鏡面仕上げの大きなサイン壁が設置されていた。「東京体育館 TOKYO METROPOLITAN GYMNASIUM」の文字が刻まれ、青空や周囲の建物がそのまま映り込む姿は、都会らしい洗練された雰囲気。見る角度によって風景が変わり、朝夕の光や季節の色を映し出す“都市の鏡”のような存在であった。千駄ヶ谷駅方面へ歩く途中、国立代々木競技場の大屋根越しにNTTドコモ代々木ビルが見える場所から。曲線を描く体育館のフォルムと、階段状に立ち上がるビルの直線的なシルエット。全く異なるデザインが並ぶことで、このエリア特有の都市景観が際立つのであった。建築の曲線とビルの垂直線が美しく対比し、東京らしい光景を楽しめる瞬間であった。国立代々木競技場(東京体育館)前の広場に立つ パブリックアート=大型の風向計(ウィンド・スカルプチャー)。国立代々木競技場前の広場に立つ、ステンレス製の大型アート。風を受けて静かに回転し、空や街を映しながら表情を変える姿が印象的。代々木らしい“動き”と“光”が感じられるパブリックアート。TITLE:風のように、光のようにARTIST:飯田善國YEAR:1990 と。国立代々木競技場・東京体育館(槇文彦設計) の外観を、東側広場方向から見上げて。巨大な曲線がつくる屋根の張り出しと、リズムよく並ぶ窓面が特徴的で、まるで“宙に浮かぶ円盤”のような近未来的造形になっていた。左奥に向かって、青いジャージ姿の学生の列が。国立競技場前のモニュメント広場(スタジアム通り側)の様子。国立競技場前の広場に立つ塔状モニュメント。編み込まれた金属が空へと伸び、光と影が交差する美しいアート作品。正式名称:HARMONIZED TOWER作者名:野老 朝雄東京体育館 メインアリーナ(Tokyo Metropolitan Gymnasium) の正面入口。● 設計者:槇文彦(Maki Fumihiko) 世界的建築家(プリツカー賞受賞) “透明感ある空間”と“都市の文脈に寄り添う建築”で知られる 東京体育館はその代表作の一つ● 竣工:1990年● 設計体制 基本設計:槇総合計画事務所(槇文彦) 実施設計・構造:東京都/その他技術協力を含● 特徴 外装に金属とガラスを多用したシャープなデザイン 屋根は大きく折り曲げたような構造で、軽快さと力強さを両立 内部は大空間を確保しつつ自然光を取り込む設計 2020年東京オリンピックでは 卓球会場 に使用「東京体育館 案内柱」。 東京体育館のマスコットキャラクター「スージー(SUSIE)」 の展示。・東京体育館のロゴをイメージした “カラフルな羽根飾り”・丸い鼻と大きな耳の愛らしいデザイン・子どもから大人まで親しみやすい柔らかい雰囲気左:〈個人利用施設〉利用案内 プール・トレーニングルーム等の利用案内 が書かれていた。中央:〈メインアリーナ〉イベント情報 東京体育館で開催予定のイベント・大会情報が一覧で表示されていた。右:国立能楽堂(National Noh Theatre) 東京体育館近くの 国立能楽堂(千駄ヶ谷) の公演告知ポスター。 カツラ(桂)の見事な紅葉。丸くこんもりとした樹形(玉のようなシルエット)。黄 → オレンジ → 赤紫 とグラデーションで色づく。葉が比較的小さく、密につく。秋になると甘い香りを放つことがある(カラメルのような香りで有名)。東京体育館前の広場を振り返って。振り返って。「ALL JAPAN CHEER DANCE CHAMPIONSHIP 2025 決勝大会」が行われると。「千駄ヶ谷駅」交差点の横断歩道を渡る。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2025.12.22
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そして「明治神宮野球場」スコアボード裏に到着。 「外野中央」と。明治神宮野球場の「外野中央」は、座席表上の「センター」エリアに位置し、主に外野指定席として提供されている。 位置: 明治神宮野球場の最も外野側の真ん中。座席の種類: 通常は「外野指定席」の一部として販売。入口: 外野ゲート16入口付近が最寄りとなるのだ。現在地はネットからの下の写真の下中央。時計回りに神宮球場の外周通路を進む。神宮球場の外周に取り付けられたゲート案内サイン。神宮球場の外周スタンド下を歩く。・連続するアーチ構造 規則正しく並ぶアーチが奥へ奥へと伸び、遠近感のあるリズムを生み出していた。 古い球場ならではの“素朴だが力強い”建築が魅力的です。・太い梁や柱の存在感 鉄骨とコンクリートがむきだしのように表れ、長年の歴史を支えてきた重厚さを感じさせた。「東京ヤクルトスワローズクラブハウス」 東京ヤクルトスワローズのクラブハウスは、本拠地である明治神宮野球場(神宮球場)のすぐ近く、新宿区霞ヶ丘町に位置しており、練習後の選手が利用する施設で、ファンが選手を身近に感じられるサイン会なども行われる場所 と。ポスター掲示板。・中央には、神宮球場名物である「神宮グルメ(神宮のり)」 のポスターが掲示され、 「日本一記憶にのこる グルメスタジアム」というキャッチコピーが目を引いた。・左右には、ユニホーム姿の選手たちが力強く並ぶ 「猛士(TEAM MOBILIGENS)2023」のイメージポスター。 白いユニホームに陰影が強く出ていて、ドラマチックで映画のポスターのような雰囲気が。東京ヤクルトスワローズのチーム車両が並んでいた。・左のトラック 球団マスコット つば九郎 が大きく描かれています。 バットを振り上げたポーズで、どこかユーモラスで親しみやすい表情。 「Tokyo Yakult Swallows」の文字が丸く配置され、マスコットの存在感をしっかりと。・右のトラック チームロゴ “Swallows” が大きくデザインされ、こちらはよりスポーティで スタイリッシュな印象。 後方には YS のエンブレム が入り、球団の公式感・威厳を感じさせるのであった。この日、11月29日(土)は「東京六大学野球 100周年記念試合 出身高校による東西大会」👈️リンク が行われる と。多くの観客が入場時間を待つ。「東京六大学 オフィシャルグッズ」販売テント。六大学の野球帽やユニフォームを販売中。近づいて。我が母校のものも。7番入口付近 内野ネット裏指定席入口前。「祝 東京六大学野球連盟 結成100周年」と。 祝花(スタンド花)。神宮球場の「8番」は主にバックネット裏席への入場ゲート(入り口)の一つを指し、三塁側寄りの位置にあった。この8番ゲートはバックネット裏席へ行く際に手荷物検査を受けて入場する場所で、7番ゲート(バックネット裏中央)や6番ゲート(一塁側寄り)と合わせて利用される と。新装なった「東京六大学野球発祥の地」記念碑。近づいて。「B.B.L.」とは、(東京ビッグ6ベースボールリーグ・一般財団法人東京六大学野球連盟)の略称。「碑文明治36年(1903)に第1回の早慶戦が挙行され、大正3年(一九一四年)には早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学の三大学によって初めてリーグ戦を組織して試合を行うようになった。大正6年(一九一七年)に法政大学、大正10年(一九二一年)に立教大学が加入したが、早慶戦は行われない変則な状態が続いていた。しかし大正14年(一九二五年)、五大学(早慶明法立)のリーグ戦に秋季から東京帝国大学(現在の東大)が正式に加入し、中断していた早慶戦も19年ぶりに復活、名実ともに充実した東京六大学野球リーグ戦が開始された。東京六大学野球連盟の創設初試合は大正14年(一九二五年)9月20日の明大対立大1回戦で、当時の明大駒沢球場で開催された。翌大正15年(一九二六年)に当連盟の協力のもと明治神宮野球場が完成すると、以降は米軍に接収された第二次世界大戦後の一時期を除き、当連盟は全ての公式戦を明治神宮野球場で開催し、令和7年(二〇二五年)に100周年を迎えた。よって連盟創設100周年を迎えた本年、ここ明治神宮野球場の地を「東京六大学野球発祥の地」と定め、記念碑を設置する。令和7年(二〇二五年)4月12日 東京六大学野球連盟」 「ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月の初め頃白い清楚な花が咲き、満開時には雪を被ったようにみえます。江戸時代後期の植物学者が尾州(愛知県)二宮の山中で発見し、ひとつばたごと名づけられ、ここ青山の六本の道路の交わる所に植えてあったことから「六道木(ろくどうぼく)」とも呼ばれておりました。(現在のヤクルト・クラブハウス裏あたりです。)大正十三年(1924)には天然記念物の指定を受け、大正十五年(1926)十月の外苑造成後も引き続き外苑の手により手厚く保護されてきましたが、昭和八年(1933)樹齢百数十年を誇った名木もついに枯死しました。ここ外苑の地は、明治時代の青山練兵場跡地に造営されたことから木の生前の勇姿は絵画館「凱旋観兵式」の中に画かれており、直径60cmの遺木の一部が絵画館に保存され、展示されております。ここに植えられた木は、「二代目なんじゃもんじゃ」の実生を苑内で育て、外苑創建六十年を記念し、移し植えたられたものです。現在、絵画館前庭には、その由緒を刻した石碑と共に、二代目の実生を苑内で育てた「三代目なんじゃもんじゃ」が植えられております。平成二十八年三月吉日明治神宮外苑」 初代 なんじゃもんじゃ。小林万吾「凱旋観兵式」聖徳記念絵画館をネットから。 天皇が馬車に乗車して閲兵される光景を描いたもの。ネットから。ネットから。多くの子連れの家族の姿が。掲示板「History of Jingu Gaien(神宮外苑の歩み)」👈️リンクその右に「時代と共に様々な変遷を遂げてきた神宮外苑」という副題が。近づいて神宮外苑の歴史をまとめたパネル「History of Jingu Gaien」。大正の造営期から昭和の競技施設整備、平成の花火大会やいちょう並木の賑わい、そして令和の再整備へ——。100年以上にわたり、時代とともに姿を変えながら愛され続けてきた外苑の歩みが一目でわかる、興味深い展示であった。神宮外苑の歴史パネルには、時代ごとに移り変わる神宮球場の姿が並んでいた。満員の観客で埋め尽くされる試合の様子、青空の下に広がる現在の球場、そして往時の貴重な白黒写真・・・。同じ場所でありながら、時代ごとに表情を変える神宮球場の魅力と、受け継がれてきた野球文化の厚みを感じさせてくれる展示なのであった。神宮外苑の再開発計画(令和14年〜17年の予定)を示したパネル神宮外苑の再整備計画を示したパネルには、今後の施設解体スケジュールがまとめられていた。令和14年に「ホテル併設野球場棟」、令和16年に「ラグビー場棟(Ⅱ期)」、そして令和17年には「中央広場」の竣工が予定されています(状況により変更の可能性あり)。下の航空写真には、現在の神宮外苑一帯が俯瞰で写され、これからの街づくりがどのように進むのかを想像させる内容となっていた。神宮外苑の再整備コンセプトを紹介するパネル。近づいて「これまでの100年も。これからの100年も。」という言葉が印象的。外苑が未来へ向けてどのような姿を目指しているかが示されていた。再生イメージの一つ。道路の左側は元神宮第二球場で、明治神宮外苑にあった高校野球などのアマチュア野球の聖地で、野球場兼ゴルフ練習場という珍しい施設であったが、外苑再開発のため2019年11月に閉鎖・解体され、現在は跡地に新ラグビー場が建設されているのだ。右手が聖徳記念絵画館前通り。そして左手が国立競技場のバックスタンド側。国立競技場 施設案内板。大屋根を支える木組みの意匠と、周囲に広がる緑がやわらかく調和し、巨大なスタジアムでありながらどこか温かみを感じさせる場所であった。広い外周にはゆったりとした散策路が続き、競技場というより「街の公園」のような開放感があり、歩くたびに新しい景色が広がって。ここにも国立競技場 施設案内板。国立競技場の外周を歩くと、木のルーバーと緑が連なるデザインが印象的。スタジアムの巨大な外観に、植栽の柔らかな緑が自然と溶け込み、“都会の中の森”というコンセプトを感じさせてくれるのであった。ガラス張りのエスカレーターが青空を映し込み、建築の直線と自然の曲線が美しく重なる風景。前方にGゲート。国立競技場の外壁に、勝利の女神「ニケ(NIKE)」のシルエットが描かれた装飾を見つけた。ギリシャ神話に登場するニケは“勝利”の象徴とされ、スポーツと深い関わりを持つ女神。軽やかな衣をまとい、片手にはオリーブ、もう片手には月桂樹の葉を掲げる姿がとても印象的で、競技場にふさわしい静かな力強さを感じさせるのであった。「炬火台(Olympic Cauldron)」。「炬火台 〜きょくだい〜 Olympic Cauldron - 1964 Tokyo Olympics〈概要〉1958年アジア大会へ向けて、炬火台の設計は当時国立競技場の設計者である角田栄二郎氏、製作は川口白可鍛治所・未杢鍛治の名工である鈴木万次郎氏が担当しました。当初は、前身の国立競技場バックスタンドの屋上に設置されましたが、1964年東京オリンピック大会時はバックスタンド(現在のバックスタンド側)上段へ移設され、大会期間中聖火が灯されました。その後、聖火台は国立競技場解体まで同じ場所に設置されましたが、新国立競技場のシンボルとして2020年に新しい国立競技場に移設しました。(写真下)2.1m × 2.1m 鋳造 1958年2.1m × 2.1m, Casted in 1958」ズームして。こちらも国立競技場の外壁に描かれた「力強い武人(古代の闘技者)」をモチーフとしたシルエットアート。古代の闘技者を思わせる躍動感あふれるポーズで、すべての筋肉が動き出しそうな迫力があった。東京2020オリンピック・パラリンピックの「Cycling Track(自転車競技トラック)」のメダリスト記念プレート。メダリストを讃えるプレートで、オリンピック・パラリンピックで表彰台に立った選手たちの名前と国名が刻まれていた。「陸上競技(Athletics)」のメダリスト記念プレートがずらりと並ぶ壁面。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.21
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「秩父宮ラグビー場」前から明治神宮外苑のいちょう並木へ戻る。細く伸びたいちょうの並木が冬の気配をまといながら道沿いに続き、外苑への帰路を静かに導いてくれた。葉を落とした樹々のシルエットと、ところどころ残る黄金の名残りが「秋から冬へ向かう外苑の表情」をやさしく映し出しているのであった。外苑へ戻る道すがら、葉を落としたいちょうの塔のようなシルエットが空へまっすぐ伸び、冬の訪れを静かに告げている。黄金を残す木々が部分的に彩りを添えつつ、鋭く伸びる裸木のラインが並木の骨格を際立たせ、秋から冬へ向かう明治神宮外苑特有の端正な美しさが感じられたのであった。鋭く空へ伸びるいちょうの尖塔が、冬の光を受けて天空に浮かび上がり、雲の流れと調和しながら並木の美しさを際立たせているのであった。葉を落とした細いシルエットと、なお黄金を纏ういちょうが交互に立ち並び、晩秋から初冬への境界を空に描き出していた。冬の透明な空気の中で、黒い枝と黄金の尖塔が対照的に浮かび上がり、外苑の並木が季節の移ろいを物語るような、美しい余韻を残しているのであった。聖徳記念絵画館方向に引き返して。枝越しに見上げた黄金のいちょうが、澄んだ冬空へ鋭く伸び、光を抱えながら天を指す塔のように輝いていた。黄葉のピークとエピローグの対比の光景。黄金の落ち葉が静かに敷き詰められ、陽だまりがふわりと浮かぶ“秋の静寂の庭”が広がって。木柵の向こうに広がる淡い影と光のグラデーションが、落ち葉の絨毯に柔らかな表情を与え、外苑の深まった季節をしみじみと感じさせるのであった。これでもかと黄金の輝きをデジカメで追う。太い枝から垂れ下がる樹皮の造形(乳根)が、黄金の葉に照らされて生命力の彫刻のように浮かび上がっているのであった。いちょう並木から交差点へ戻ると、冬の陽ざしに照らされた広い道路と静かな樹々が、外苑の落ち着いた空気を取り戻していたのであった。交差点に立つと、黄金のいちょう並木がまっすぐ視界を貫き、外苑の秋が光の道となって街へ伸びていた。両側から整然と並ぶ黄葉の塔が、中央の道をまるで“秋の大通り”のように際立たせ、行き交う人々の姿までも輝かせている印象的な姿が。中央から。黄金の並木が左右から均整よく伸び、遠方の一点へ吸い込まれていくような美しい“秋の遠近軸”が街路に刻まれているのであった。いちょうの尖塔が並行に並び、視線は自然と奥へ奥へと導かれる。外苑いちょう並木ならではの壮麗なシンメトリーが際立つのであった。さらに移動して。外苑の入り口にクリスマスマーケットの明るい看板が立ち、秋色の並木から冬の祝祭へと季節が移り変わる気配が漂っているのであった。イベント準備の白いテントの向こうに、聖徳記念絵画館とクリスマス装飾の塔が並び立ち、外苑の冬が静かに彩られて。ズームして。クリスマスマーケット会場に設置される クリスマスピラミッド(Weihnachtspyramide)」 と呼ばれるドイツ発祥の装飾塔。段を重ねた木の塔に人形が配された、ドイツの伝統的なクリスマス装飾。回転式の“光の塔”として親しまれ、会場全体に温かな雰囲気をもたらすシンボル と。クリスマスマーケットの看板の後方から、明治神宮外苑のいちょう並木を。明治神宮外苑のいちょう並木に別れを告げて。神宮球場の方向に歩を進める。国立競技場の姿も現れた。現在地はここ●。国立競技場をズームして。NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)も顔を覗かせて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.20
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黄葉したイチョウの樹のトンネルから「聖徳記念絵画館」を見る。 「左前方に眺望む円屋根・白堊・石造の建物聖徳記念絵画館👈️リンクTHE MEIJI MEMORIAL PICTURE GALLERY近代日本のあけばの大壁画にみる幕末・明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましよう。」 「聖徳記念絵画館」をズームして。聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営された、神宮外苑のシンボルともいえる存在。青山通りの外苑入り口から銀杏並木越しに見る景観は、東京を代表する風景のひとつとして広く親しまれている。現在では、東京都の景観条例により、その周辺を含めた風格ある景観として守られている。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の御在世中の御事蹟を伝える大壁画(縦3m横2.5~2.7m)が画題の年代順に展示されており、当時の出来事を時代を追って見ることができる。知識を世界に求め、旧弊を退け、近代化への大きな飛躍を成し遂げた明治の時代。その只中に居るような錯覚さえ懐くことのできるところなのだ。聖徳記念絵画館前の総合球技場では、「東京クリスマスマーケット2025 in神宮」が行われていた。11:00からの開催とのことでまだ人の数は少なかった。さらにズームして。花崗岩造りで中央にドームがそびえ、銀杏並木との調和が美しく、大正時代末期(1926年竣工)に建てられた歴史的建造物であり、内装はドーム状の天井や採光窓など見どころが多いのだ。聖徳記念絵画館は保存修理工事実施のため休館中。休館期間: 令和7年(2025)4月1日~令和9年(2027)5月末 ※予定工 事 名 : 重要文化財 聖徳記念絵画館保存修理工事今年・令和7年4月から本格的に開始された絵画館保存修理工事、現在は工事エリアである建物東側の絵画(日本画)40枚を建物西側で保存するための移設作業を行っている。歩いて来た東側の明治神宮外苑のいちょう並木を振り返る。神宮軟式球場噴水前の交差点の横断歩道を渡りながら、西側のいちょう並木を見る。横断歩道を渡りながら、明治神宮外苑のいちょう並木を見る。黄金のいちょうが光を受けて溶け出すように輝き、道ゆく人々を静かに包み込む、秋のきらめきの回廊。逆光で透ける葉が柔らかな光をまとうことで、神宮外苑いちょう並木特有の 黄金のトンネル の魅力が際立っていた。黄金の巨塔が空へそびえ立つように輝き、秋の力強さと静けさを宿す。均整の取れた円錐形のシルエットが見事で、陽光を受けたいちょうの黄葉がまるで発光しているように映えていたのであった黄金の天蓋が頭上に広がり、光に満ちた並木道が人々の時間までも柔らかく包み込む。枝ぶりの力強さと、透けるように輝く黄葉が重なり、いちょう並木ならではの“光の回廊”が見事に続いていた。いちょうの大木の足元に黄金の絨毯が静かに敷き詰められ、季節がそっと大地に灯りを落とした如くに。降り積もった葉の柔らかな光と、太い幹の存在感が、秋の深まりをしみじみと伝えていた。近づいて。黄金の落ち葉が大地をすっぽりと覆い、樹の根元から静かな光が湧き上がるように見える一瞬いちょうの葉が折り重なってつくる柔らかな起伏と、力強い幹の対比が、晩秋ならではの温もりを感じさせるのであった。観光客の数も増えて。左の裸木の静けさと、右の黄金に燃えるいちょうの華やぎ。その対照が、秋の深まりを鮮やかに刻んでいるのであった。左側は冬の気配を帯びた枝のみのシルエット、右側は光を受けて輝く黄葉。同じ並木でありながら、季節の進み方の違いが並行して見えることで、前方に奥行きとリズムが生まれているのであった。右側は光に満ちた黄金の並木道、右側は太い幹の存在感が際立つ落ち着いた列。華やぎと静けさが同じ道を挟んで共鳴しているのであった。同じいちょう並木の中に「光の広がり」と「木の重厚さ」が同時に現れて、印象的な対比を生み出していた。葉を落とした枝のシルエットが冬の訪れを静かに告げ、街路の景色に凛とした気配を。裸木の黒い枝が、逆光の空に織り込まれるように広がり、華やかな黄葉の並木とは対照的に、季節の静寂と移ろいを感じさせるのであった。振り返って。黄金の落ち葉が一面に広がる静かな大地を、そっと守るように結界が張られ、秋の聖域が生まれているのであった。落ち葉の厚い絨毯が柔らかく光を返し、その奥で「立入禁止」の標識が季節の風景を守ろうと佇む姿が印象的。左側には枝ぶり豊かな黄葉、右側には店先の現代的な佇まい。自然と都市が寄り添い、暮らしの中に季節の輝きが流れ込んでいる瞬間が印象的。都会のカフェに、黄金のいちょうがそっと寄り添い、日常のひとときを秋色に染めて。秩父宮ラグビー場へのいちょう並木。黄金の並木がスタジアムへとまっすぐ伸び、試合前の高揚感と秋の輝きが同じ道を満たしているかの如くに。整然と続く黄葉が、まるで観客を歓迎するかのように両側から包み込み、秩父宮ラグビー場へ向かう時間そのものを特別なものにしてくれる光景。黄金の木漏れ日と落ち葉の絨毯が、人々の足取りをやわらかく包み込み、ラグビー場へ向かう道を特別な“秋の舞台”に変えているのであった鮮やかな黄葉の天蓋、足元に広がる黄金の道、そこに佇む人々の穏やかな表情。スポーツの熱気へ向かう前の、柔らかな高揚感と季節の美しさが同時に満ちている場所なのであった。黄金のいちょうが空へまっすぐ伸び、秋の光を掲げるように凛として立っていた。秩父宮ラグビー場のスタンド見えて来た。これぞ黄金の空間。無数の黄葉が大地を黄金色に染め、静かな秋の海原が広がっているのであった。一枚一枚が光を宿しながら折り重なり、季節の終わりをやさしく告げる情景。ラグビースタジアムの静かな外壁を背景に、黄金の落ち葉が大地を覆い、都会の一角に穏やかな“秋の広場”が生まれているのであった。静まり返った階段の向こうに“秩父宮ラグビー場”の文字が現れ、ここで行われる熱戦への入口が静かに姿を見せているのであった。黄金の並木道を引き返すと、両側から光が降りそそぐようにいちょうが迎え、道全体が秋色の輝きに包まれてゆくのであった。左右のいちょうが天蓋のように広がり、足元には黄金の絨毯。明治神宮外苑ならではの、壮麗で心がほどけるような景色が一望できる瞬間!!黄金のいちょうが空へ立ち昇る炎のように輝き、晩秋の光と風を受けて凛とそびえていた。青空と淡い雲を背景に、均整のとれた樹形がいちょう並木の象徴的な美しさを際立たせて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.19
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青山通りから聖徳記念絵画館に向かって約300メートル続く146本のいちょう並木が黄金色に染まっていた。落ち葉で埋め尽くされた並木道はまさに黄金色の「いちょうのトンネル」。このいちょう並木と聖徳記念絵画館の間の広場に特産品の販売店や飲食店が出店。「全国工芸職人展」(旧-森のやきものフェア)は毎年、いちょうが「黄葉」するこの季節に行われる物産フェアであり、多彩な工芸品が展示販売されていた。「全国工芸職人展」入口。 「2025年 第12回 全国工芸職人展」ポスター。 ネットから。開催期間 11月21日(金)~12月7日(日)「2025年 第12回 全国工芸職人展」事務局テント。工芸職人 クイズ「ろくろ」の上で、くるくる回る。形を変えて、圏になるもの なーんだ?A 友情(ゆうじよう)B 努力(どりよく)C 勝利(しようり)D 粘土(ねんど)会場マップ。手前:東京銘菓 ひよこ 左手:日本酒東京銘菓 ひよこ。明治神宮外苑のいちょう並木が描かれていた。日本酒。新潟の酒:八海山・景虎・長者盛まゆ工芸。花文字花文字(はなもじ)とは、中国発祥の伝統芸術で、文字の中に龍や鳳凰、花、鳥などの縁起の良い吉祥絵柄(絵柄)を組み合わせた、書道と絵画を融合させた芸術。幸運を招く縁起物として、特別な日の贈り物やお祝いのプレゼントとしても用いられます と。花文字に近づいて。やきいも 新潟産紅はるか。豚まん。五平餅。狭山茶・団子狭山茶抹茶ビール・抹茶ソフトアイスこちらはキッチンカーにて。ケバブ。鮎塩焼き。近づいて。見事な紅葉の下で。静岡おでん・ビール御観兵榎。ここにも御観兵榎について 案内板。御観兵榎碑。明治天皇には明治二十年青山練兵場設置以来恒例の観兵式又は憲法発布及び凱旋観兵式に親臨・・・・オカリナ振り返って。広島焼・たこ焼き。福井県若狭 箸。再び見事な紅葉を。藍染シャツ。そして再び明治神宮外苑のいちょう並木へ戻る ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.18
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この日は2025年11月29日(土)、卒業した会社の元同僚との新宿駅南口での昼呑み会13:30~に参加した。昼呑み会の前に、神宮外苑のいちょう並木、そして新宿御苑の黄葉散策を決断して、9時過ぎに家を出発し、小田急線・地下鉄を利用して青山1丁目駅に向かう。10:30前に青山1丁目駅から外苑東通りに出る。この横断歩道を渡り、青山2丁目方向に向かう。「外苑いちょう並木 240m」案内板。地図に近づいて。進んでいくと、左手前方の青山通りに面した「POLA青山ビルディング」 に設置された、上空30mに浮かぶ非常に特徴的なパブリックアート作品。「POLA青山ビルディング」 は、東京都港区南青山2丁目に建つ地上16階、地下2階、高さ86.50mの超高層ビル。立地は、青山通りに面して建っていた地上14階、地下1階、高さ51.4m、1973年竣工の「ポーラ青山ビル」跡地に位置。ズームして。建物のガラス面からニュッと “飛び出している” ように見える白い形状は、建築と一体になった大型のアートオブジェで、青山通りを歩く人の多くが「なんだこれは?」と足を止める名物にもなっているのだ。「POLA青山ビルディング」は青山1丁目駅から徒歩2〜3分、青山通り沿いに立つ商業ビルで、2010年に竣工。この白い“曲がった形”のオブジェはアーティスト・建築家が手がけた立体アートで、以下のような特徴を持つ と。・建物のガラスカーテンウォールから突き出すように見える。見る角度によって形が変わる・風になびく布や、未来的な翼のようにも見えるデザイン・ビルの象徴的アイコンとして設計段階から組み込まれたもの私には、昔の缶ジュースにあったプルタブに似ていると感じたが。作品名:「SHIMURAbros《Sigillaria/ シギラリア》」 作者:SHIMURAbros。1976年生まれのユカさんと、1976年生まれのケンタロウさんの、実の姉弟からなるユニット。当初は映画作家として活動をしていたが、のちに、アーティストへと転身。第13回文化庁メディア芸術祭アート部門で優秀賞、TERRADA ART AWARD 2015で最優秀賞を受賞するなど、国内外で高い評価を受けているアート界最強姉弟。2014年からは、拠点をベルリンへと移し、現在は、あのオラファー・エリアソンのスタジオで研究員を務めている。以前は映像インスタレーションを発表していたが、近年は、光学ガラスを用いた作品を多く制作。このPOLA青山ビルディングに設置された作品も、やはり一部に、強い色彩を帯びる光学ガラスが使用されているとのこと。振り返って。ズームして。時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品で、青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置されているのであった。そして「青山2丁目」交差点に到着すると、右手に「明治神宮外苑のいちょう並木」が姿を現した。 「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界によってさまざまな呼称があるのだ。西側のいちょう並木は既に多くが葉を落としていたが。横断歩道を渡りながら。黄金色のいちょうが左右からそびえ立ち、まっすぐ伸びた道を優しく包み込んでいた。光を透かした葉は、空の青と溶け合いながら、まるで季節がここに宿っているかのように輝いていたのであった。横断歩道を渡り終えて。東京に秋が訪れたことを、誰よりも早く知らせてくれるのがこの外苑のいちょう並木。大きな石碑には「明治神宮外苑之記」と。昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。「明治神宮外苑之記明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふものあらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾 大正十五年十月 明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 現代文に直してみました。【明治神宮外苑の記明治神宮奉賛会 総裁・元帥陸軍大将・大勲位功二級載仁(ことひと)親王が題字を書かれた明治45年(1912年)7月、明治天皇が突然ご病気になられ、まもなく容体が悪化された。国中の人々は深く心配し、二重橋前には昼夜を問わず多くの市民が集まり、ただひたすら天皇のご回復を祈り続けた。しかし、7月30日、ついに明治天皇は崩御された。国中の人々は深い悲しみに沈み、天地さえも暗く曇ったかのようであった。8月の初め、東京市民は真心を込めて、天皇の御陵(お墓)をぜひ帝都(東京)に設けていただきたいと願い出た。その結果、御陵は京都・桃山と決定されたが、市民はさらに「神宮を創建し、その御神霊を東京にお祀りしたい」と強く望んだ。帝国議会もこれに賛成し、政府は**神社奉祀調査会(じんじゃほうしちょうさかい)**を設け、神宮をどこに建てるべきかを審議した。その結果、東京郊外の代々木が鎮座地として選ばれた。大正3年(1914年)4月には昭憲皇太后も崩御され、両御祭神をともに祀ること(合祀)が決定された。政府は明治神宮造営局を設置し、社殿の建設が始まった。しかし、国民の「明治天皇を慕う心」はそれだけでは収まらなかった。そこで人々は**明治神宮奉賛会(ほうさんかい)**を作り、神宮の外側に、永遠に記念の事業として残る「外苑」を造ろうとした。この願いは天皇陛下のお耳にも届き、畏れ多くも内帑金(ないどきん)30万円の下賜を受けた。国民はこれに応えて競うように寄付をし、海外在住の日本人からも多くの寄付が寄せられた。こうして、旧青山練兵場を外苑の地として定めることが決まった。この場所は、明治天皇がしばしば観兵式を行われ、憲法発布の式典、日露戦争の凱旋式など重要な儀式が行われた由緒ある地であり、また御大葬の際には葬場殿が設けられた場所でもあった。奉賛会はまず政府からこの土地の提供を受け、さらに周囲の土地を買い足して、全部で15万5千坪の広大な敷地を確保した。工事は明治神宮造営局が担当し、地形を整え、庭園を築き、葬場殿跡地には記念の樹木を植えた。敷地の中心部には聖徳記念絵画館を建設し、天皇・皇太后両陛下のご生涯の重要な出来事を描いた80枚の絵画(多くはご縁ある人々や団体の献納)が展示された。これらは当代一流の画家による作品である。外苑の東側には憲法記念館を置いた。これはかつて赤坂仮皇居にあった建物で、明治天皇が伊藤博文らとともに、帝国憲法と皇室典範の制定について議論を重ねられた歴史的な建物である。また西側には、競技場・野球場・相撲場などを造り、国民が広く利用できる施設とした。工事着手から10年が経ち、その間に初代総裁・伏見宮貞愛親王が薨去され、後を継いだ閑院宮載仁親王が事業を完成させた。この事業には、「国民として恩に報いたい」という人々の真心があふれていた。労働奉仕に励む者、寄付をする者など、誰もが遅れまいと協力し、まるで仁徳天皇の時代(民が豊かでかまどの煙が絶えなかった)を思わせるほどであった。ああ、明治天皇の徳の深さ、業績の偉大さを、慕わずにいられる者があろうか。昭憲皇太后の立派なお心を、仰ぎ敬わずにいられる者があろうか。この外苑の造営は、国民の「追慕のまごころ」を形にしたものである。これから神宮を参拝する人々は、内苑の厳かさに触れれば自然と身が引き締まり、外苑の広々とした景色の中にあっては、両陛下の恩徳を深く思うに違いない。>内苑と外苑がそろって初めて、神域としての規模が完成し、神と人とが共に国の繁栄を願う場となるのである。ここに外苑工事の成ったことを記念し、その経緯を後世に伝えるため、この碑文を記す。大正15年(1926年)10月明治神宮奉賛会 会長正二位・勲一等・公爵 徳川家達(とくがわ いえさと)】繰り返しになりますが「明治神宮外苑の記石碑の題字 「明治神宮外苑之記」 明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ)撰文 明治神宮奉賢会 会長 徳川家達石材 東北仙台産の板岩 高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル碑文の大意明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。 大正十五年十月 明治神宮奉質会 会長 徳川家達」東側の外苑いちょう並木を聖徳記念絵画館方向に進みながら見上げて。見上げれば、黄金の塔が空へ向かってまっすぐ伸び、青空を背景に光を受けて揺れていた。その並びの奥には、絵画館へと続く道が伸び、歩を進めるたびに秋の色がさらに深く染みこんでくるのであった。「銀杏並木いちょう(銀杏・公孫樹)銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本)四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。 平成御大礼の日 之を建つ 平成二年十一月十一日 明治神宮外苑」【明治神宮外苑案内図】案内図右中央付近に伸びる直線。外苑の名物である 黄金のいちょう並木 がここに描かれています。約300mの並木道。秋には黄金のトンネルに。聖徳記念絵画館へまっすぐ続く美しい遠近法。東京を代表する景観のひとつ。・聖徳記念絵画館へと続く黄金の尖塔。・見上げるほどに高く、風の音さえ染める外苑の秋。・青空に突き刺さるような、いちょうのシルエット。左側のいちょう並木は既にこの年の役目を終え、エピローグへと。ゆっくり歩けば、落ち葉の絨毯が足音をやわらかく包み、振り返るたびに別の美しさが現れるのであった。見上げながら歩を進める。秩父宮ラグビー場入口手前を望む。秩父宮ラグビー場への並木道。ズームして。一面に広がる黄金色の絨毯は、まるで 秋そのものが静かに舞い降りて地上に身を横たえたかのよう。いちょうの葉は一枚一枚が小さな光を宿し、落ち葉でありながらも、なおあたたかい生命の余韻を放っていたのであった。足もとに広がるこの風景は、木々が長い季節を終え、最後に贈ってくれた柔らかな金色の祝福。踏みしめれば、かさりと音を立て、その音さえも秋の詩(うた)として耳に届くのであった。淡い黄色から濃い琥珀色まで、色の重なりは自然が描いたグラデーション。そして、ただ落ちているだけなのに、見る者の心をそっと包み込むような静けさと温もりを持っているのであった。秋と人の気配が溶け合う道。まるで 人々の歩みと秋が寄り添っている かのように。足もとに広がるいちょうの落ち葉は、黄金の薄絨毯となって道行く人をそっと迎え、踏みしめるたびにやわらかい音を返す。その上を大人も子どもも並んで歩く姿は、季節の移ろいの中にある日常の温かさを映しているのであった。黄金色の落ち葉が、人の気配を優しく包み込み、静けさとにぎわいが同時に漂う不思議な空間をつくり出していたのであった。さらに見上げながら。絵画館へ向かう道は、まるで秋が編んだ金色の回廊。外苑の東側を絵画館へ向けて歩くと、頭上には、ほとんど天に触れてしまうのではないかと思うほど、高く伸びたいちょうの木が並んでいるのであった。多くの観光客が黄金の回廊の下を。御観兵榎(ごかんぺいえのき)についてこの外苑の数地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の親臨のもとにしばしは観兵式が行われ、なかでも明治ニ十三年(一ハ九〇)ニ月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令ニ百余年)の為台風十ニ号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「ニ代目御観兵榎」として植え継ぎました。平成ハ年一月吉日 明治神宮外苑右の榎の大木は、柵内五〇メートル先の中央地点に在ります。「初代 御観兵榎」榎 にれ科えのき属、樹齢ニ百余年と推定される。 幹廻り、二・ニメートル 高さ、九メートル 技張り、十六メートル碑石 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石題字 東郷平八郎書 明治三十ハ年日本海海戦にあいてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊 司令長官 東郷神社の祭神さらに北に向かって歩く。黄金色の葉が空へ向かって弧を描くように伸び、両側からそっと包み込むように道を覆っているのであった。青空の澄んだ色が、いちょうの金色をいっそう際立たせ、まるで光のトンネルをくぐっているかのよう。人々の頭上で、秋が静かに、しかし確かに満ちてゆくのであった。落葉と紅葉が交錯する境界線のような並木道。左側には葉を落とし始めた木々の渋い表情、右側にはまだ黄金をまとった豊かな姿。二つの季節が並んで立ち、訪れた人を優しく迎えてくれていたのであった。右側の黄金をまとった豊かな姿をズームして。 ・・・つづく・・・
2025.12.17
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「感応院」を後にして、旧東海道まで進み「ふじさわばし」を歩く。 廻り込んで「藤澤橋」。●親柱上部の灯籠型デザイン ・和風屋根を思わせる曲線 ・内部は柔らかく光を拡げる半透明パネル ・下部の金属パネルには 青海波(せいがいは)文様青海波は ・“波が穏やかに続く” ・“平穏・永続・吉祥” を表す文様。→ 境川の流れの静けさを象徴。●中央のレリーフ ・藤(フジ)の房(花房) ・ふっくらとした房が連なって垂れ下がり、丸みのある形状。 藤沢市の「藤」にちなみ、藤の花を象った意匠 。下を流れる「境川」、左岸から合流する準用河川 滝川分水路を見る。 滝川分水路は、柄沢橋付近の滝川分岐点から地下河川として整備され、藤沢市大鋸3丁目(御所ヶ谷橋上流付近)で二級河川境川に合流しています。藤沢市では平成22年に滝川分水路を準用河川及び河川立体区域に指定しました。この滝川分水路の完成により、準用河川滝川の流域のうち、柄沢橋付近から下流域については、1時間当たり50ミリメートルの降雨量に対する整備は完了しています とネットから。 その先が「藤沢橋」交差点。毎年、正月にはこの近くで「東京箱根間往復大学駅伝競走」👈️リンク を応援する私なのである。「さかいがわ」と。 「藤沢橋」周辺の境川は、コンクリート擁壁で囲まれていた。藤沢宿(東海道・藤沢宿)を題材にした浮世絵をデザインとして貼り付けた「景観アート電柱・電気通信ボックス」。藤沢市内では、文化景観の保全と街歩きの魅力向上のために、電気通信設備(ボックス型)の外装に、宿場町をテーマにした浮世絵やデザイン を施す取り組みが行われているのだ。写真の中央に使われている絵は、歌川国貞 東海道五十三次 景色入女画 藤沢図。歌川国貞 東海道五十三次 景色入女画 藤沢図。そして「藤沢橋交差点」近くにあった「金砂山観音堂」を訪ねた。旧・東海道の遊行寺橋(旧・大鋸橋)より100メートル南に位置する観音堂。砂山観音ともいう。通称は帯解観音。 境内には「鼻黒稲荷大明神」もあった。 「緒言夫れ霊験顕著なる金砂山子育安産帯解觀世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井満西なる者不思議の霊夢を感じて一宇を建立す参詣者常に群を成し善男善女の利益感應を蒙ること多し其後天保年間に梶某なる者再築してい一層美観を添え慈徳倍々輝けり然るに星移り物換り明治の初年に堂宇廃絶し眞浄院に移轉し一堂を新築せんと欲して木材を集めしに不幸十三年の大火の災禍に罹り一燼の冷灰を化す又其後毛利觀道和尚十万の浄財に依り一堂字を新築せられしも維持の基礎輩固ならざりし為め廃減に販したるは痛措に堪えず不肖常に復興の願意念頭を去らざること年あり然るに大非救世の機縁熟せしにや今回有志と相計り往昔安置の砂山に圖の如き堂字を建立し觀音音玅智力の慈徳を仰ぎ又富地の舊蹟を復興し繁栄の一助にせんと欲すれども十万信者の倍仰力に依らずんば竣工を期し難し故に信徒諸氏は此の擧を替して浄財を寄付し起立塔像の巧徳を蒙り福聚海無量現受無比楽の美果を得られんことを希ふ大正五年七月二日 金砂山観世音世話人 眞淨院住職 原悦道」 石段を上って行った。金砂山観音堂の入口扁額「觀世音」。 内陣中央。御本尊前には垂れ幕が。本尊仏が安置されているのであろうか。内陣右。内陣左。境内には二基の大きな石碑が並んでいた。左『金砂山 安産 子育 観世音』 と刻まれた石碑。縣下名勝史蹟四十五佳選当選記念碑と。右は「嗚呼 九月一日」と刻まれていた。背面に廻ると関東大震災で亡くなった人の名前が刻まれていた。藤沢も甚大な被害を受けたのであった。こちらが鼻黒稲荷大明神の社殿。鼻黒稲荷大明神の社殿の内陣。境内の石塔群-1左:庚申塔。境内の石塔群-2『金砂山観世音菩薩(きんささんかんのんぼさつ)』の幟が。金砂山観音堂は金砂山と号す。砂山観音ともいう。通称は帯解観音。案内板には金砂山観世音についての緒言が掲示されています。下の文はその書き出部。『夫れ霊験顕著なる金砂山子育安産帯解観世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の霊夢を感じて一宇を建立す・・・・・・』。こちらは「家内安全 鼻黒稲荷大明神 商売繁盛」と。 手水場。遠く、遊行寺の本堂が見えた。「町内会館」。 境内から国道467号線を見る。遊行寺「一つ火」👈️リンク ポスター。 「本堂内陣に台を置き、奥の座を報土(極楽浄土)、下座を穢土(えど=この世)とします。境内道内の灯はすべて消され、最後に大光・後灯が同時に消えると堂内は漆黒の闇となります。十八念仏が始まり、火打ち石で火を起こします。打ち込まれた火は、灯明へ移され、再び阿弥陀と釈迦の光明に照らされた世界が戻ります。これが”一ッ火法要”です。」と。訪ねたいと思ったが、写真撮影は一切禁止とのことなので・・・。「遊行の光」👈️リンク ポスター。■期間:令和7年12月6日(土)~12月14日(日)■時間:午後4時30分~午後8時 ※荒天の場合は中止■場所:遊行寺境内 ※車でのお越しはご遠慮ください 「時宗総本山遊行寺にて、2025年12月6日(土)から14日(日)まで「遊行の光」ライトアップイベントが開催されます。荘厳(しょうごん)をテーマに、大イチョウ、本堂、放生池、いろは坂など遊行寺が誇る美しい景観を、それぞれが放つ光や年月を経た風合い、池の水面に映る樹木、重なりあう木の葉がみせる陰影など個々の光を厳かに照らします」と。 JR藤沢駅に向かって国道467号の歩道を進む。歩道に設置されていた、藤沢宿(東海道・藤沢宿)を題材にした浮世絵をデザインとして貼り付けた「景観アート電柱・電気通信ボックス」の浮世絵をカメラで追う。東海道 藤沢(文久3(1863)年 二代歌川広重)東海道五十三次之内 藤澤 歌川広重歌川広重「東海道五十三次藤沢(隷書東海道)」歌川国貞(三代豊国)による《役者絵+東海道五十三次》シリーズ の一図。歌川広重(初代)《東海道五拾三次 藤澤(ふじさわ)》の別シリーズ版(行書東海道 / 行書東海道五十三次)と呼ばれる作品。歌川国芳(うたがわ くによし)による “東海道五十三次の戯画(ぎが)” シリーズの藤沢宿 の一図歌川国芳 武英名馬競 小栗小次郎助重。馬と共に武者を描いたシリーズで、小栗判官の愛馬としては鬼鹿毛(おにかげ)のエピソードが紹介されています。上部に書かれた詞書を読むと、「小栗判官が山賊に毒の酒を飲まされそうになったものの、酔った振りをして逃げた。山賊は鬼鹿毛を奪い三河(みかわ)まで走るが、その後小栗に討たれた。」ということが書かれています。なお、説教節では鬼鹿毛は人を食らう恐ろしい馬とされており、小栗はその鬼鹿毛を乗りこなしたという逸話が有名です。遊行寺には鬼鹿毛のお墓もあります。歌川国芳 東海道五十三對 藤澤国芳の「五十三対」は:・宿場町の名所そのものは直接描かず・その宿場にゆかりのある物語・舞台・伝説を“人物画”で表現という、国芳独特の創意に満ちたシリーズ。【左】強い男(あるいは霊力ある人物)が巨大な木材(または戸板)を頭上に掲げている構図。足元には大きな縄、背景には車のような荷物があり、“怪力を表す演出”になっています。【右】着物を着た女性が、驚き・畏れ・訴えかけるような姿で男を見つめています。 揚州周延作 雪月花 京都御所月 そして「遊行ロータリー」交差点にあった「江の島弁財天道標」。江の島弁財天道標は、江戸時代の盲目の鍼医である杉山検校(すぎやまけんぎょう)が建立した道しるべです。藤沢宿から江の島への参詣者を道案内するために設置されたもので、藤沢市の重要文化財に指定されている。正面には弁財天を示す梵字(種字「ソ」)と「ゑ能し満(えのしま)道」。 側面には「二世安楽」。「二世安楽」とは、この世(現世)と来世(後世)の両方で安らかに過ごすことを意味します。仏教の教えや信仰に関連する言葉で、現世での幸福と来世の極楽往生を願うことを指します。側面には「一切衆生」。「一切衆生」とは、仏教の言葉で、この世に生きるすべての生命(生きとし生けるもの)を指します。特に、人間を指す場合も多いです。裏面には文字はなし!?「旧東海道・藤沢宿■江の島道・江の島弁財天道標ENOSHIMA-MICHI/ENOSHIMA-BENZAITEN-DOHYO藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川を越えた左手(南側)には、かって「江の島弁財天ーノ烏居」があり、ここから江の島へ向かう境川沿いの道が「江の島道」です。烏居の脇には「ゑのしま道」と刻まれた江島弁財天道標がありました。これは元祿時代( 17世紀後半)に杉山検校が沿道に奉納したと伝えられるもので、現在も道沿い等に十数基が残っています。」 その先にあったパブリックアート。「QUIESCENT ELAN」作者/山本一樹(やまもとかずき)作品寸法/H180xW70xD55cm作品材質/ステンレス遊行通り北入口(藤沢41)「QUIESCENT とは英語で、沈着・静止、ELANは、鋭気・飛翔・情熱の意味。反対の言葉を結び付け将来への躍進を表現したとあります。翼を付けた鐘のようにも、大空に帆を挙げて飛翔しているようにも見えます。案内書に「アートがつなぐ過去・現在・未来」というキャッチコピーがつけられているように、この作品は、藤沢宿から江の島へ向かうこの古道(遊行通り)を未来へとつなぐ道標なのかもしれません。」と。「遊行寺 本堂」 ●大きく反り上がる青銅色の屋根 遊行寺本堂(昭和43年再建)の特徴である 青緑色の銅板屋根の大きな反りがそのまま描かれています。●正面中央の小さな玄関屋根(向拝) 遊行寺本堂の「向拝」が 三角屋根で手前に突き出す形状を再現。●赤い高欄(手すり) 本堂の舞台状の構造に見られる赤い欄干。● 屋根上の六角形の紋 → 時宗の宗紋「折敷に三文字(おしきにさんもじ)」 ・神紋としての起源: 愛媛県の大三島にある大山祇神社(大三島神社)の神紋 「隅切折敷に縮三文字」が起源です。 ・折敷(おしき): 神事や食事の際に供物を載せる縁のついたお盆を指します。 家紋では、四隅を切り落とした八角形の形(隅切り角)で描かれるのが一般的。 ・三文字: 大三島の「三」を象徴しているとされています ・開祖の一遍上人が河野氏の出身であったことから、時宗の寺紋(総本山 遊行寺など)にも 採用されています。藤沢市の自然(市の鳥・市の花)+ 藤沢市章(市のシンボルマーク)を組み合わせたもの●上部の黒いマーク ― 藤沢市章これは藤沢市の正式な市章で、「ふじさわ」の頭文字 “ふ(フ)” を図案化したもの。左右へすっと伸びた線は「湘南の躍動・飛翔」を象徴しています。●垂れ下がる紫の花房 ― 藤(ふじ)紫色の房状の花は 藤の花。(藤沢という地名の由来に関わる花でもあります)市内装飾(街灯・案内板・公園看板など)にも藤の花文様が多く使われます。●青い鳥 ― カワセミ(藤沢市の「市の鳥」)鮮やかな青と黄色の体、長いくちばし。これは カワセミ(翡翠) です。藤沢市は1990年に「市の鳥」を制定し、その第一号が カワセミ。境川・引地川などに多く生息し、藤沢を象徴する自然のシンボルになっています。藤沢市が制作している広報番組(エフエム放送)マスコットキャラクターは、「ハミィちゃん」。道路の反対側にも。歌川広重(初代)《東海道五拾三次之内 藤澤(ふじさわ)》の“隷書版(れいしょばん)。●手前:鳥居と小橋(遊行寺の参道) 大きく描かれる鳥居は、遊行寺への参道にあったもの。 橋を渡る旅人の姿がその手前に描かれています。 広重は藤沢宿を描く際、「鳥居+橋」を象徴的に用いることが多く、この絵でも同じ構図が 採られています。● 中景:宿場町の家並み 橋を渡った先には、茅葺き屋根が連なる藤沢宿の町並み。 当時の活気のある宿場の雰囲気を伝えています。● 遠景:大きな堂宇—遊行寺本堂 山のようにこんもりした森の中に、 大きな石段と堂宇(本堂・山門など)が見えます。 これは 時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)。隷書版は保永堂版よりも大胆に遠近を誇張し、堂宇をシルエット的に大きく描くのが特徴。遊行寺 惣門(そうもん)。左右の柱に次の文字が書かれています:左:清浄光寺(しょうじょうこうじ)右:時宗総本山(じしゅう そうほんざん)「稲毛屋旅館(昭和10年頃)」 近づいて。稲毛屋旅館(旧・藤沢駅前): 1922年頃に、藤沢駅前に存在した旅館。広い宴会場を備えており、当時の藤沢では有名な旅館であった と。こちらは「角若松旅館(昭和10年頃)」。 そして、JR藤沢駅に到着し、この日の次の目的地のJR平塚駅に向かったのであった。 ・・・おわり・・・
2025.12.16
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遊行寺を後にして、旧東海道に出て藤沢橋方向に向かい、「遊行寺」交差点を通過し、写真屋さんの角を左折し東方向に進むと、前方に「感応院」の山門が姿を現した。 滝川分水路に架かる「滝川橋」を渡る。 感応院(かんのういん)は、正式には三島山瑞光院感応院といい、高野山真言宗の寺。藤沢市大鋸二丁目6番8号。山門。「弘法大師 感應院」と。 山門をくぐると、右手に鐘楼、その奥まった所に三島神社、正面本堂の前には弘法大師修行像が。右手に鐘楼。「梵鐘」。 移動し近づいて。正面に弘法大師修行像、右に十三重石塔。弘法大師修行像。ここ感応院は「相模国準八十八ヶ所霊場めぐり」👈️リンク の一番と二十三番札所になっているのある。この弘法大師修行像は二十三番札所に当たり、本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番札所と。四国八十八ヶ所霊場めぐり👈️リンクは、つとに有名であり、昔から信者にとっては、一度は是非巡礼してみたい行脚であったのだ。しかし、総歩行距離は1,450km、およそ2か月(一日平均24km)もかかる。それに四国までの道程、費用を考えるとだれにでもできることではなかった。そのため江戸時代になると、小四国、準四国といわれる仮想四国霊場めぐりができた。富士山に登れない人が気軽に登山できる富士講も、同じようなものであった。さて、「相模国準八十八ヶ所霊場めぐり」は、文政年間に鵠沼村堀川の浅場太郎右衛門によって作られ、現鎌倉市の西部から、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町の各地に札所が置かれました。感応院を一番札所として、藤沢、鎌倉、寒川、茅ヶ崎に八十八ヶ所、そのうち藤沢には四十四ヶ所の札所がある。八十八ヶ所の霊場の中には今は廃寺になったものや個人のお宅にあるものもあるが、満願となる八十八ヶ所目のお寺は本鵠沼にある普門寺である。感応院には弘法大師像が2つあり、1つは本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番。境内中央にはこの弘法大師修行石像があり、これは二十三番。八十八箇所を巡礼する人は、ここに2度来ることになるのです建保6年(1218年)道教を開山、源頼朝が静岡の三島から「三嶋大社」を勧請したのが始まりといわれている。応永5年(1398年)に幸海が中興した。江戸時代の慶長14年(1609年)江戸幕府から檀林所の指定を受け、慶安2年(1649年)には3石7斗の朱印地を与えられたと。この境内の一隅に、ちょっと変わった六地蔵を見つけました。右から「六地蔵」と彫られた台座の上に、一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。磨耗してよく見えなくなっているが、確かに6体。一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。大きな石碑が二基。右:南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)。こちらは「辞碑」と。感応院・不動堂。「建保6年(1218)開山。真言宗の寺で、開基は鎌倉幕府3代将軍源実朝と伝えられています。弘法大師像が本堂に安置され、境内には今にも歩き出しそうな弘法大師の立像があります。藤沢宿で最も古い寺の一つといわれています。本堂右奥には三島明神があり、この社殿は自由に回転する珍しい造りです。本堂には藤沢七福神のうち「寿老人」も祀られています。」と。 不動堂の龍の彫刻。「當山鎮守源頼朝公勧請不動尊三嶋山瑞光密寺無垢染院」正月の藤沢七福神めぐりのひとつにも入っており、寿老人、長寿の神様でウォーカーのみなさんにはお馴染みである。感応院は源頼朝が静岡の三島神社を勧請したのが始まりといわれる。本尊は不動明王、開山は道教、開基は源頼朝、創立は建保6年(1218)、藤沢宿では最も古いお寺である。慶長14年(1609)には、」徳川幕府より檀林所(江戸時代の仏教学研修所)に指定され、慶安2年(1649)朱印地三石七斗を賜り、末寺が14もある大寺院であった と。境内左手の黄金に輝くイチョウの大木を追う。境内の参道も黄金に染まって。本堂正面。感応院本堂唐破風の彫刻も見事。「本堂」前から山門、鐘楼を振り返って。 客殿。右手奥にあったのが「三島明神」。 扁額「三嶋大明神智護大師 御自作 源実朝公 念持佛昭和甲午孟春日◯◯釋丹照敬太◯」 源頼朝が建てたものとされ、堂が360°回転するように造られているとのこと。長谷寺の輪蔵などにも見られるように、経が納められた堂を回転させることで御利益があると。扉の両脇の木の壁には見事な彫刻が。扉脇の「脇障子(わきしょうじ)」部分の彫刻で、左右に一対の龍(りゅう)が深い浮彫で刻まれていた。●左側:昇り龍(のぼりりゅう) 身体を上方へ伸ばし、 雲間を突き抜けるように舞い上がる姿。 天へ向かう力・上昇気流・陽(よう) を象徴。 開運、発展、祈願の昇華を表す。●右側:降り龍(くだりりゅう) 身体をうねらせながら下方へ降り、 地上へ霊気を運ぶ役割を示す。 地へ降りて福をもたらす・陰(いん) を象徴。 豊穣、雨乞い、加護を表す。向拝(ごはい)上部の「木鼻上の中備(なかぞなえ)」に置かれた意匠彫刻で、主題は 「雲に親しむ龍の胴体部分」。再び見事なイチョウの黄葉を追う。十三重石塔とのコラボ。鐘楼とのコラボ。弘法大師像とのコラボ。近づいて。「阿波国 発心」と。 正面からも再び。六地蔵の線刻のある石碑に葉の影が映り込んで。山門に向かって進む。境内の黄金のイチョウも見納め。午後の柔らかな陽を受けて、大きな銀杏が枝いっぱいに黄金を湛え、その光が境内全体に金色の呼吸のように広がっていた。樹の足元には、ほろほろと散った銀杏の葉が金砂のように敷きつめられ、小さな参道は、まるで極楽へと続く細い金の小径のよう。木漏れ日の影が、常緑樹の深い緑と重なり、金と緑が静かに溶け合うその対比は、まるで自然が奏でる光の二重奏。手前のソテツは、古来の南方の風を運ぶように凛と立ち、幹の影が金色の地面に長く伸びて季節の移ろいをそっと刻んでいる。奥には静かに佇むお堂の屋根がわずかに光を受け、まるで秋の風景を静かに見守る守護者のように沈黙をまとって立っている。独り占めした境内は、静寂に包まれながら、ただ一つ、風が起こるたびに枝先から金の雫がゆっくりとこぼれ落ち、「時が舞い落ちる音」だけが聞こえて来たのであった。いつまでも佇んでいたい時間・空間なのであった。 ・・・完・・・
2025.12.15
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「俣野大権現」の右手前にあったのは何であっただろうか。門の一部か? 近づいて。旧石門の上部か?「文化財ハイキングコース案内板藤沢地区の歴史を訪ねて藤沢地区は、鎌倉時代に遊行四代上人呑海によって「清浄光院」(遊行寺)ガ創建され、以後大鋸周辺を中心に門前町として栄えました。江戸時代になると、徳川家康は関東各地に将車宿泊用のために御殿を設置しました。現在の藤沢公民館辺りから妙善寺辺りまでの間に藤沢御殿があったといわれています。その後参勤交代が始まると御殿は廃止され、宿場として本陣・協本陣・問屋が置かれ東海道五十三次の六番目として藤沢宿ができ、門前町に加えて宿場町として発展してゆきました。また、江の島・鎌倉・大山などへの参詣や観光客も多くなり、旅籠屋や商家も繁昌してにぎわいました。明治時代になると宿場制度が廃止され、問屋街として発展しました。ことに、藤沢宿出身の医者、小川泰堂は、藤沢全町て一斉大安売りを行う現金元値市等を提唱して市場振興に努め、その影響は三浦から伊勢原あたりまで及んで活気を集めました。しかし明治20年、鉄道が藤沢に通ると、やがて商業の中心も駅周辺に移ってゆきました。さらに度重なる大火、震災や戦災も続き、昔を語る資料もわずかに残るばかりです。このように藤沢地区は、門前町・宿場町として発展し、藤沢の歴史と文化に大きな役割を担ってきたといえます。藤沢宿 遊行寺コース①庚申堂②江の島弁財天道標③砂山観音堂④⑤常光寺⑥永勝寺⑦伝源義経首洗井戸⑧白旗神社⑨妙善寺⑩遊行寺⑪諏訪神社⑫感応院藤沢市教育委員会」 「大イチョウ」の黄葉をこちらからも。こちらが「戰歿者供養塔」。近づいて。「戦没者供養塔この供養塔は日清・日露戦争・太平洋戦争で藤沢市出身の千二十余名の英霊が眠っている。遊行七十代一求上人による戦没者慰霊名号碑と同時期に、藤沢市遺族会によって供養塔を東門右側に建立、昭和25年4月23日開眼。「倶會一處 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。「倶會一処」とは、阿弥陀仏の浄土に往生して、人びとと共に一ところに会合するという意味である。その後、樹木の生長により供養塔母体が破損、藤沢市、遊行寺の賛同を得、戦後六十年を記念して藤沢市遺族会が平成17年7月30日に現在の場所に移設建立した。また遺族の移住にともない他市の英霊もここに眠る。平成17年8月7日 開眼」「倶會一處(くえいっしょ) 戰歿者供養塔」 「倶會一處」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀様の御浄土でまた共に会わせていただくという意味であると。「畜霊供養塔」。近づいて。昭和9年(1934)5月1日 高座郡農会と高座郡畜産組合が発起人となって建立された「畜霊供養塔」の書は秦堂栗原宣で、手洗鉢は高座郡南部豚商組合の寄進とのこと。手前に「藤沢敵味方供養塔」👈️リンク。後方左に「新田満純公墓碑」。 近づいて。「新田滿純公墓碣新田滿純公幼字容辻王丸其先出自 清和天皇之孫六孫王徑基八傅至贈正一位義貞是實為公之祖考考贈從三位義宗母岩松氏義宗以兄贈從三位義顯死王事嗣家屢與足利氏戰遂殉難於越後國村松公時在襁褓匿外威岩松滿國第◯而為滿國◯養冒其氏岩松氏元為新田氏分家於是兩家合為一及公長欲繼繼承祖考義貞考義宗遺志以勤王事遂又復新田氏應永二十三年與外戚上杉氏憲等倶撃足利持氏戰不利氏憲等自刃公糾合義故◯岩松持氏遣諸將擊之公◯戰◯武蔵國入間川亦不利遂為敵◯捕持氏斬之◯鎌倉龍口實應永二十四年五月十三日也相模國藤澤山清淨光寺十五代尊恵上人請公之遺骸◯持氏葬之於寺内蓋以同寺十二代尊觀上人爲 後龜山天皇曾孫深勝法親王也法名日法龍天用長子家純流寓諸國後賴美濃氏會有足利義教討持氏之事家純乃奉朝◯及義教之命發兵撃而◯之以報父仇義教賞其功賜新田氏◯領地因藥金山城於新田居◯自是子孫世住於新田先考俊純君嘗謁滿純公之墓於清淨光寺有修補之意未果既而墓石失其◯在先考深憂事蹟◯滅臨歿遣命忠純再建墓石忠純乃準◯其◯形而工以大正七年八月成因記其事由以◯後昆大正七年八月 從三位勲三等男爵新田忠純識」 大意は【秀方の将軍であった岩松(新田)満純の死骸が、戦乱の終わった直後の応永24年(1417)1月14日に遊行寺に葬られました。「法龍天用」と刻んだ石塔があったといいます。新田25代俊純は、自分の代では満純の墓を再建できずその子忠純男爵によって、大正7年(1916)8月に再建できました。墓石は御影石で正面に「南無阿弥陀仏」とあり、裏面に「新田十代裔(えい)新田治部大輔満純之墓」と彫られ、右側面に「応永廿四年閏五月十三日」と誌されています。また、満純の墓のかたわらに墓碣があります。その碑文には、「新田満純公は、先祖は清和天皇から出た新田義貞の末裔である。義貞は亡くなった祖父で亡父、義宗の母の里は、岩松氏で、兄義顕は勤王のために死んだ。満純公は幼児だったので、母方の岩松満国のもとに逃れ、満国の嫡男満氏が早世したので、養子となって岩松を名乗った。のち、義宗の嫡男貞方の死によって新田氏岩松氏が合流して新田岩松氏と称した。応永23年(1416)、妻の里、上杉氏憲(禅秀)とともに足利持氏と戦ったが敗れ、部下を卒いて岩松郷へ帰った。持氏は部将を派遣してこれを討たしめた。満純は武蔵国入間川で合戦をしたが、ついに捕らえられ、鎌倉龍の口で斬られた。応永24年閏5月13日のことである。遊行寺の太空上人は、満純の遺骸を持氏に願い求めこれを境内に葬った。満純の長子家純は諸国をさすらい、のち美濃国土岐氏をたよる。さらに朝廷および足利六代義教将軍の命を受けて鎌倉征伐に向かった。足利持氏を滅亡させたのである。その功によって、新田氏旧領を与えられた。これ以降代々新田荘に住み、明治年間、新田俊純は満純公の墓に詣で、これを再建したいと思ったが、墓があれ果てていて、墓石まで分からず俊純は心配しながらも忠純に墓石の再建を申し付けた。そして大正七年八月完成した」(原文は漢文)と誌されています。】「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養塔 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日【南無阿弥陀佛応永二十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。】応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月」 藤沢市教育委員会」 正面には「南無阿弥陀佛」と。 後方にも「南無阿弥陀佛」碑が。 「小栗判官墓所入口」碑。 「諏訪神社 神輿庫」とイチョウとの黄葉のコラボ。「大イチョウ」の大木を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.14
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遊行寺・本堂を横から。この先を左へ入る。そして左手奥にあった「堀田家三代の墓碑」を訪ねる。左手の上段に、一際大きな尖塔角柱型(下の写真)の5つの墓碑があった。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。「藤沢山日鑑=遊行寺の日々の出来事等を記した記録」には、毎年のように堀田家からの墓参の様子が記録されている。さて、この5つの墓碑の内、直接埋葬されたのは正仲であり、正利は浅草日輪寺に、正盛は東叡山の現龍院に葬られている。そして正利・正盛の墓碑を遊行寺に建立したのは正俊。正俊は正盛の三男で母は酒井忠勝の女であり、家光の命によって春日局の養子になった。この正俊がなぜ正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないとのこと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から日輪寺に埋葬されたと考えられる。正俊は幕閣内においても勢力をもって来たことと、時宗の信徒として総本山に墓石を新たに建立することになったのではないかと考えられていると。正仲の墓石には「常楽院殿其阿法漢映性大居士」とあり、さらに元禄7年(1694)7月6日卒とも刻まれているのであった。「堀田正盛妻阿栗供養塔」「正統院殿華岳宗栄大姉」。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「浄生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」少し離れた場所にあった「堀田正仲墓所」「常楽院殿其阿法漢映性大居士」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」正面にあったのが「大念佛講(だいねんぶつこう)」の供養塔(記念碑)。この石碑は、遊行寺境内にある 「大念佛講(だいねんぶつこう)」の供養塔(記念碑) の一つで、講(こう)=信仰組織・念仏講中 が建立した 先達供養・祖師供養の塔。この石碑は法然上人の六字名号(南無阿弥陀仏)と、導師・宗祖・高僧の供養を表す碑無縁法界 一切精霊(むえん ほっかい いっさい しょうりょう)本誓院運弌慈舟法尼(ほんせいいん うんいつ じしゅう ほうに)妙誓院芳弌貞心大姉(みょうせいいん ほういつ ていしん だいし)徳厚會「本堂」を横から。 「永代供養塔」手前から「地蔵堂」、「常香炉」方向を見る。そして「本堂」横にあった「永代供養墓」。竣工年:平成二十五年寸法 :間口十三尺奥行八尺仕様 :散骨用地下納骨棺、骨壺保管用石棚、ガラリ付きステンレス扉、 蓮華台多宝塔、内部照明、明り取りガラス窓こちらは、犬と猫の石像があしらわれたペット類の合祀墓。「いつくしむ」と。ペット類の慰霊塔「蒼空(そうくう)」。大悲水子地蔵菩薩。大悲水子地蔵菩薩近づいて。右肩に寄り添う赤子は、地蔵が水子を抱き、彼岸へ導く姿 を表します。誰にも抱かれることなく去った魂を、地蔵が自ら抱きかかえるという慈悲の象徴 と。地蔵の両足に寄り添う幼子は、・地蔵への帰依・安らぎの中にある水子の魂・親の願いを受けて成仏の道に導かれる姿 を示す と。たくさんの小地蔵が並べられていた。「稲葉家墓碑と隅切三(すみきりさん)」 時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られた。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚いた。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋とした。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげらる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出している。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。右側延宝八庚申(1680) 稔法泉院智感日妙大姉。九月三日中央萬治三庚子(1660) 稔月山院 功美道勲 居士(がっさんいん こうびどうくん こじ)左側知枩院覺順安居士雲照院珠林元大姉寛文九己酉稔八月廿四日そして「酒井忠重五輪塔」。 「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重 は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」移動して「酒井忠重五輪塔」を。 「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」。裏側からも。「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」の後ろにあった石仏。様々な石碑・墓石が並ぶ。そして左手に「諏訪神社 神輿殿」。この日はシャッターが閉まっていた。扁額「諏訪神社 神輿殿」 以前、撮った正月時の初詣の時の写真を。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。 そしてこの日は黄葉したイチョウの樹とのコラボを。これも正月時の写真を。旧東海道の反対側にあった「諏訪神社」👈リンク の写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.13
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そして正面に見えて来たのが、時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院(ちょうしょういん)」。「長生院 小栗判官墓所」「堀田家 稲葉家 酒井家 墓碑」案内板。南無阿弥陀仏 長生院小栗堂「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定時宗板碑(じしゅういたひ)板碑とは卒塔婆の一種で、鎌倉時代から安土挑山時代頃にかけて主に関東地方を中心として盛んに造立されました。長生院の本堂に安置されている板碑は、延文元年(一三五六)の銘がある板碑(全長110cm)と、永和三年(一三七七)の銘がある板碑(全長94cm下部欠失)のニ基があり、いずれも南北朝時代のもので、緑泥片岩製の武蔵型板碑と呼ばれるものです。江戸時代末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の境内から発掘されました。時宗板碑は「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多く、揩書体のものと行・草書体のニ系統がみられますが、こちらの二基は揩書体で刻まれています。令和五年(二〇二三)三月 藤沢市教育委員会。」本堂の中のガラスケースの中に納められて。藤沢市指定重要文化財(彫刻)平成八年(一九九六)三月一日指定木造阿弥陀如来坐像長生院の本尊であり、平安時代後期の作と推定される市内屈指の古仏です。像高は約53cm、檜材の寄木造で、上品下生印(来迎印)を結ぶ典型的な定朝様の尊像です。定朝様とは仏師定朝からはじまる仏像彫刻様式のことで、柔らかな曲線や彫りが浅く流れるような衣文(えもん)が特徴とされ、本像も柔和で優美な印象です。平安時代後期は極楽往生を願う浄土信仰が盛んであり、各地で制作された阿弥陀如来像には人々の極楽への願いが込められています。令和五年(二〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会」本尊:木造阿弥陀如来坐像「平成8年(1996)3月1日・藤沢市指定重要文化財(彫刻)指定。像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」とネットから。ドウダンツツジ(満天星躑躅)の見事な紅葉。正面に「長生院」の「寺務所」。「長生院」の「本堂」を正面から。 「宗祖一遍上人御入滅七百年記念」碑。長生院小栗堂本堂再建寄進者御芳名が。 「小栗判官👈️リンク 墓所入口」案内板。 木製の「小栗判官 墓所入口門」。墓地越しに遊行寺本堂を望む。厄除地蔵尊照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が建立した3体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈迦様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。」 三躯とも火成岩製、総高・中央163㎝・左側157㎝・西側143㎝。右側1躯の手には穴が空けられ何かを差し込んでいた様子もうかがえるのであった。移動して。「照手姫建立 厄除地蔵尊」案内板。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。石造角柱型、総高104㎝・花崗岩製である。馬頭観世音菩薩を配し銘文は「宝暦五乙亥歳七月廿四日(1755)為馬神祭祠 藤澤道場」とある。馬を供養した慰霊塔は、遊行十四代太空応永23年(1416)に建立した国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」(怨親平等碑)が遊行寺境内にあり、順次往生を謳う畜類供養との関連性も見いだせるの と。照手姫之墓。謀略に会った小栗判官と中々添い遂げられなかったが長い苦難の末、最後にようやく結ばれた恋人であり妻であった照手姫。照手姫の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔)、総高110㎝・火成岩製である。「照手姫之墓」案内板。右に「奉供養七観世音菩薩」像。 「奉供養七観世音菩薩 彦七母 長五良内女講中仁兵衛内 伊兵衛母 長右エ門内 特左エ門母 半左衛門母 妙林 新 五良内 七兵衛内」。舟形光背付聖観音像を半肉彫した総高80㎝・安山岩製。左に聖観音像を半肉彫した月窓妙鏡禅定尼墓碑(総高77㎝・安山岩製)「銘 月窓 妙鏡禅定尼霊位 貞亨五戊辰歳四月廿六日」(1688)。「長生院 歴代和尚の墓」。無縫塔には「長生院 小栗堂 歴代和尚之墓」と。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について桓武天皇の曾孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の四子)は、平安時代の久寿二年(一一五五)に、伊勢皇太宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和市宮本)に築城市、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百年余の間、領主として常陸国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(一四二三)八月二日、関東公方 足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯の峰温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(一四四一年)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝行謝恩をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられています。またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗助重であります(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意を表して、小栗主従墳墓の概略由来等を顕彰するものです(小栗伝承藤沢編)」。「(伝)小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」案内柱。「小栗判官👈️リンク 公並に十勇士之墓」。中央部の背高い小栗判官満重の墓石。「小栗判官公並に十勇士之墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、案内柱には「(伝)小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と記されていた。小栗判官満重の墓石は石造宝篋印塔型、総高166.5㎝・火成岩製。十勇家臣の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔・火成岩製)である。10塔のうち、1塔(総高83㎝)に「重阿弥陀仏 応永21年7月13日(1414)」の銘が入る とネットから。中央部の背高い小栗判官満重の墓石にさらに近づいて。右側の「十勇家臣の墓」。左側の「十勇家臣の墓」。「小栗判官眼洗之池小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た小池に纏わる逸話などは記されておらず、謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。小栗判官満重が八徳水と呼んでいた事が『小栗畧縁起』に記載されているとのこと。「小栗判官眼洗之池」案内板。 「小栗判官 墓所」を振り返って。 さらに。「厄除地蔵尊」を再び。 「長生院 歴代和尚の墓」から「遊行寺 歴代上人の墓」を見る。 合同墓。銘板。遊行寺本堂の巨大屋根を。そして「長生院」の「本堂」前まで戻る。院号 長生院宗旨 時宗宗派 遊行派寺格 清浄光寺 (遊行寺) 塔頭創建 永享元年 (1429年)本尊 阿弥陀如来開山 太空上人中興年 元和年間別名 小栗堂文化財 木造阿弥陀如来坐像(藤沢市指定文化財) 時宗板碑(藤沢市指定文化財)「小栗堂」に近づいて。繰り返しになるが寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。 内陣。応永29年(1422)常陸小栗の城主「判官満重」は足利持氏の攻めにより落城、その子「判官助重」が家臣11人と三河に逃げ延びる途中にここ藤沢で横山太郎に毒殺されかけた時、妓女「照手」が「判官助重」一行を逃がし「遊行上人」に助けられたことでゆかりが深い。正長元年(1428)に照手姫は太空上人の弟子となり、剃髪受戒をうけて長生尼と号した。永享元年(1429)に閻魔堂の傍らに「草庵」を結んでこの地に住まわれ閻魔堂を「長生院」と改称された。浄瑠璃で名高い「小栗判官」は家名を再興し「照手」を妻にした。そのゆかりで「小栗堂」と言われている。「助重」の死後に「照手」は長生尼として助重と家臣11人の墓を守り続けここ「長生院」で余生を送った。現在の本堂は平成3年に落成したものだが、明治13年の大火、大正12年の大震災で本堂・庫裏を幾たびか失い再興している。「本堂」裏手には「小栗判官」と「照手姫」のお墓があり、一画には「小栗判官眼洗いの池」、その脇に名馬「鬼鹿毛の墓」までもがある。さらにズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.12
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次の目的地の「宇賀神社」に向かって進む。 右手にあったのが、「赤毛氈」の敷かれたベンチと小さな池。池の奥には小さな滝が。ズームして。「宇賀神社」への石段を上る。 「宇賀神社」。 「遊行寺の宇賀神遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十ニ代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永三年(一三九六)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたものであります宇賀神には戝施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣の福を授かり、特に金福の徳を授かると伝えらています。寛政六年(一七九四 )十一月に当山が消失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。」「宇賀神社(登録有形文化財)」。現存の社殿は1880年(明治十三年)に再建されたもの。社殿の見事な彫刻。その社殿を飾る彫刻は、規模こそ小さいものの、精緻さ・柔らかさ・力強さの三拍子が揃った、まさに「小堂に宿る匠の魂」といえる素晴らしいものなのであった。●懸魚まわりの人物と鳥:「仙人乗鶴図」葉の茂る枝葉の中に、ひげのある人物が座りその下に大きな鳥が翼を広げている姿が。この図は、江戸期の社寺彫刻でよく使われる「仙人が鶴に乗って天界と往来する図」。●「木鼻」の彫刻(右)。非常に力強い 唐獅子(からじし) が彫られていた。●「木鼻」の彫刻(左)。裏手の湧水でお金を洗えば金運上昇にご利益のある「銭洗い弁天」としても信仰されている。湧水が上部の石碑の裏から。「銭洗い弁天」。「銭洗い」用の多くの柄杓が置かれていた。そして多くの一円玉も。「銭洗い」用のザルも置かれていた。「宇賀神社」境内左手にあった「通暁の句碑」。「日のいりて くれぬや富士の うしろ空 通暁」通暁については藤沢の俳人ではないかといわれているとのこと。「宇賀神社」を振り返って。 左:廻向堂、右:遊行寺本堂の巨大な屋根。廻向堂に近づいて。「廻向(えこう)」とは、自分が修した功徳(善い行い)を、他者・亡き人・すべての衆生のために回し向ける=「功徳を分かち与える」という仏教の根本思想を表す言葉。したがって 廻向堂は「亡き人への回向」や「先祖供養」の中心施設。宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的。移動して。● ① 二重の屋根構造(裳階風)下層の幅広い屋根に、上層へ向かって反り上がった屋根が載る形。これは 「宝形造(ほうぎょうづくり)」系の堂塔建築 に見られる意匠で、「供養の堂」として格を示す形。● ② 軒下の密な垂木上層の軒裏の垂木(たるき)が非常にきれいに並び、寺院建築としての 荘厳さ・清浄さを視覚的に表していた。● ③ 外壁の白と黒(こげ茶)の対比白壁と黒(濃茶)の構造は、時宗系寺院に多い“簡素・清浄” の美意識を感じさせた。● ④ 上層部に「請(うけ)」の組物上層の屋根を支える組物が複雑に造られており、仏堂としての格式を示す部分。石段の上に「歴代上人の墓」。 正面に「歴代上人御廟所」と。 近づいて。左手にあった墓石。「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」の墓石。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」「歴代上人御廟所」の山門。中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。徳川以前のものは多く無縫塔(むほうとう)で、それが整然と並んでいた。無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」(らんとう)とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」という。中央正面の「開山塔」。4代遊行上人、藤沢山遊行寺開山の呑海上人と他歴代7人の墓碑。卵塔(無縫塔)の各部の構造と名称。左奥の無縫塔群。ズームして。無縫塔の丸みを帯びた一体形は、仏の身体そのもの、円満・悟りの境地・生死を超えた完全性を象徴すると言われます。右側の無縫塔群。右側奥に見えたのが「長生院」。 白壁で囲まれた「歴代上人御廟所」前から「長生院」を見る。 「長生院」は、神奈川県藤沢市西富にある時宗の寺院。別名、小栗堂。時宗総本山である清浄光寺(通称:遊行寺)本堂裏手にある。「長生院」は、神奈川県藤沢市西富にある時宗の寺院。別名、小栗堂。時宗総本山である清浄光寺(通称:遊行寺)本堂裏手にある。永享元年(1429年)、清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。江戸時代には『小栗略縁起』を発行した。また周囲には小栗判官と十勇家臣の墓、照手姫の墓、名馬鬼鹿毛の墓もあり、小栗判官伝説伝承の中心地となっている。「長生院」下の遊行寺の墓石群。遊行寺「本堂」を裏の墓地から。 墓地の中の狭い通路を歩く。正面に「長生院 小栗判官墓所」案内。 歴史を感じさせる多くの名家の墓地が並ぶ。「長生院」を見上げて。 先程訪ねた「遊行寺 歴代上人御廟所」を横から見る。現在の遊行寺(時宗総本山)の住職は75代目の他阿一浄上人 と。通路に迷い、「回向堂」まで戻る。 八重咲きの山茶花(サザンカ)。近づいて。再び「長生院」を。この裏にこの後訪ねた「小栗判官墓」があるのだ。 「髙瀬家累代之墓」。巨大な墓地なのであった。 そして「長生院」への坂道に出る。 ここにも「無縫塔」墓石があったが・・・詳細不明。金井家先祖代々の諸霊の文字が塔婆にはあったが。「南無阿弥陀佛」と刻まれた墓石が並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.11
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紅葉に囲まれた「太鼓堂」。 太鼓橋を渡る。窓の上部が火炎形または花びらのような曲線を描いている特殊な窓・花頭窓(かとうまど)も美しく。「川田順の一遍上人を讃える長唄」碑。「糞掃衣(ふんぞうえ=ぼろ布を洗ってつづり合わせて作った僧衣)すその短くくるぶしも臑(すね)もあらはにわらんちも穿(は)かぬ素足は 国々の道の長手の土を蹈(ふ)み石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかにいたましく頬(ほほ)こけおちて おとかひもしゃくれ尖(とが)るを眉は長く目見(まみ)の静けく たくひなき敬虔(つつしみ)をもて合せたる掌(て)のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ伊予の国伊佐庭の山のみ湯に来て為(な)すこともなく日をかさね吾は遊ふを この郷に生まれなからもこのみ湯に浸るひまなく 西に行き東へ行きて念仏もて勧化(かんげ=仏の教えを説き、信心を 勧めること)したまふみすかたをここに残せる一遍上人 川田 順」【一遍上人の着ておられる**糞掃衣(ふんぞうえ:ぼろ布を洗って縫い合わせた僧衣)**は裾が短く、くるぶしも脛(すね)も露わになっている。わらじすら履かず、むき出しの素足のままで、国々へ続く長い道を、土を踏み、石を踏みしめて歩いてこられたため、その足には沁み出た血さえ見えるようである。やつれ果てたお顔は頬がこけ落ち、顎の先も痩せて尖り、見るからに痛ましい姿である。しかしその眉は長く、まなざしは静かで、他の誰にも比べようのない**深い敬虔さ(つつしみ)**が漂う。そして、合掌された掌(てのひら)の先からは、まるで光が放たれているかのように思える。伊予の国・伊佐庭(いさにわ)の山の温泉に来ても、遊び暮らすようなことは一切なく、この里に生まれた(=縁のある)身でありながら、湯に浸って休む暇すらない。西へ、そして東へと全国を行脚し、念仏の教えをもって人々を勧化(かんげ:仏の教えを説き、信心をすすめること)なさる、その尊いお姿を、ここに記しておくものである。 川田 順】と。歌碑「感傷も 今宵はよろし 開山忌 あがないてもつ 葡萄の房を 俊人」。俊人(としんど)は、明治31年8月に藤沢大阪町に生まれ、昭和51年1月13日に没しました。アララギ歌人として知られた、若山牧水に師事し「菁藻(せいそう)」「まゆみ」「創作」を主宰し、藤沢市民短歌会会長を歴任した歌人で、旧制浦和中学校・藤嶺学園藤沢高校で教鞭を執りました。「青木泰夫の句碑」。泰夫は昭和3年に生まれ、昭和63年3月11日に没しました。俳誌「波」を主宰し藤沢俳句協会会長でした。句碑には「泰夫の句風を偲ぶ人々により思い出多き此処遊行寺に最初の句碑を立てる 昭和63年9月18日」とあります。「戦後遠し 働く蟻と 迷ふ蟻 泰を」4脚の台座に載った「五重塔」(以前の写真)。「平成三年一月吉日 仙台市真福寺中 寄進高根秀峰」と刻まれていた。「南部右馬頭茂時之墓(なんぶうまのかみしげときのはか)」。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃した。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。彦五郎はその後殉死。弟信長は盛岡に茂時の菩提寺「教浄寺」を建立していると。「南部右馬頭茂時墓鎌倉幕府が滅亡した正慶(しょうぎょう)ニ年・元弘三年(一三三三)北条一族に従って戦死した南部茂時の墓と伝わる。南北朝内乱を描いた『太平記』巻十には、鎌倉東勝寺の奥・葛西ヶ谷(かさいがやつ)にこもる北条高時とともに自害した人々に南部茂時の名が記されるが、遊行寺では、茂時は敵軍を突破して当寺に至り、遊行五代安国上人より御十念(ごじゅうねん)を頂いた後、家臣とともに自害したと伝えられる。茂時墓左右にある五輪塔は家臣の墓とされる。江戸時代、南部氏は陸奥国盛岡藩の領主となり、同氏の菩提寺である時宗教浄寺(きょうじょうじ)(岩手県盛岡市北山)には茂時の供養塔が伝わる。」墓石銘文正慶ニ癸酉歳五月廿ニ日(右側面)教浄寺殿正阿清空天心大居士(正面)南部右馬頭茂時之基(左側面)「百間廊下」の下を潜る方向へ。「百間廊下」は、御番方から本堂へと繋がる幅2.7m総長80mの長大な廊下。当初は側壁はなかったが、雨露を凌げる空間として活用するため今の形となったと。構造・形式:木造平屋建、桟瓦葺、切妻造り。建設の年代:昭和12年。建築面積:221.8㎡。太鼓堂。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.10
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「遊行寺宝物館」入口を見る。「遊行寺宝物館」の前にあったのが「明治天皇 御膳水」。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。 移動して、井戸を見る。(洒落ではありません!!)「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。再び大イチョウを見上げて。本堂を背景に。参拝者の数が少ないのであった。大イチョウの枝下から地面へ向かって垂れ下がっている部分。枝から垂れ下がったように下に伸びた棍棒状の突起物、これを乳根(ちちね)と呼ぶそうである。イチョウはもちろん雌雄異株の樹木である。おっぱいということから雌木に固有のものであれば非常にわかりやすい。しかし、残念なことにこの乳根は雄木でも雌木でも大きく育ったイチョウでしばしば見られるもののようである。一方どんなに巨大なイチョウでも、ないものはないということである。何の機能を担っているのかよくわからないそうである。身近でよく見かける風景の「なぜ」は依然として謎であるようだ。地域によっては乳根が見事なイチョウの巨木を「乳イチョウ(乳銀杏)」とか「垂乳根(たらちね)のイチョウ」とか呼んで、乳のでない母親たちがお参りすると、乳がよくでるとされる言い伝えがしばしば共通して確認できるのだ と。そして奥にあったの「黒門」、「中雀門」を訪ねる。まずは「中雀門(ちゅうじゃくもん)」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。正面に近づいて。「中雀門」は向唐門造り(むかいからもんづくり)で、勅使門として使われていたので正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。「向唐門造り」とは、門の屋根の「唐破風(からはふ)」が、建物の側面(平側)にあり、その下をくぐって出入りする構造の門のこと。中雀門」の見事な彫刻を追う。中雀門は、本堂(登靈臺)へ入る手前外陣(げじん)と内陣を区切る重要な門にあたり聖域への入り口 として、特に荘厳な装飾が施されている と。宗門の格式と江戸~近代にかけての高度な彫刻技術を伝える、まさに“遊行寺の宝”といえる見事な彫刻。●【上段】の彫刻:雲・霊獣文様最上段の梁とその上部には、緩やかに流れる「雲」、守護を象徴する「霊獣」が刻まれています。雲は天界を意味し、中雀門の上部は “仏の世界へ昇る天の領域” を象徴します と。●【中段】の彫刻:海老虹梁・組物組物(斗きょう)と呼ばれる複雑な木組みに、雲や唐草が絡みつくように彫られています。特に正面中央の「海老虹梁(えびこうりょう)」は、曲線が大きくせり出し、“門の力強さと神聖さを支える骨格” を見せる部分。この部分の彫刻は建築技法としても非常に優れている。●【下段の欄間】の彫刻:テーマは「瑞鳥(ずいちょう)・花木」下段の2枚の写真は、特に見事な 欄間(らんま)彫刻。・松に孔雀(くじゃく)大きく尾を広げる孔雀、松の老木、低くたたずむ雌鳥・飛翔する鳳凰(ほうおう)と桜 大きな翼を広げた鳳凰、曲線の美しい尾羽、咲き誇る桜花。「中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。」「中雀門」の右側にあったのが「三宝の松」。人気の訳は大王松の手のひらより大きい松ぼっくりと長い葉。長い3本の松葉は大変珍しく、お守りとして持ち帰る方もたくさんいるのだと。また数年かけて実ることもある巨大な松ぼっくりは、落ちているのを見つけるだけでも非常に幸運であると。ちなみに三宝とは「仏・法・僧」のことであると。左側が藤嶺学園藤沢中学校・高等学校の校門。藤嶺学園の前身は時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の僧侶養成機関「時宗宗学林」です。「時宗」は鎌倉時代、念仏と遊行に徹し、捨聖と呼ばれた一遍上人の開いたものです。本校はその教えを根本とし、宗教的情操豊かな人格の涵養をめざし、1915年(大正4年)に財団法人藤嶺中学校として創立されました。今年で100周年を迎えた歴史と伝統を誇る学校。「中雀門」の左側にあったのが「黒門(くろもん)」。現在の門は石造の“鳥居型の寺門” になっていますが、もともとは黒漆塗りの門または黒い木造門がこの位置にあり、その伝統的名称が 「黒門」 として引き継がれています。宗祖・一遍上人の時代から続く古称のひとつ。時宗総本山、寺務所の表札が。その奥にある「御番方(ごばんかた)」は行事等の正式な玄関として使用されている。「遊行寺」の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この「御番方」と呼ばれる入口から入るのだと。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。左側に玄関・寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いたのであった。「御番方(ごばんかた)」をズームして。「御番方(ごばんかた)」の玄関にあった「このお寺の宗旨」。名 称 : 時宗 (じしゅう)宗 祖 : 証誠大師 一遍上人(智真)(しょうじょうだいし いっぺんしょうにん(ちしん))開 宗 : 文永11年(1274)総本山 : 清浄光寺(遊行寺)( しょうじょうこうじ(ゆぎょうじ))- 神奈川県藤沢市<本 尊 : 阿弥陀仏(阿弥陀如来)(あみだぶつ(あみだにょらい))称 名 : 南無阿弥陀仏教 義: 大慈悲の阿弥陀仏に帰命(おまかせ)するただ今のお念佛が一番大事なことです。 家業につとめはげみ、むつみあって、只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく 生かされても明るさを増し皆倶に健やかに長寿を保つことになります。 浄土への道はそこに開かれるとする教えです。経 典: 「無量寿経(むりょうじゅきょう)」・「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」 「阿弥陀経(あみだきょう)」)・「六時礼讃(ろくじらいさん)」などの経典を 読誦致します。「中雀門」を「御番方」側からも見る。 破風中央の「菊花紋」。遊行寺は江戸時代、幕府から特別保護を受けた“御朱印寺” であった。そのため、菊花紋(皇室紋)を用いることが許されており、格式の高さを象徴している。中雀門は境内の中心へ至る最重要の門であり、菊紋の使用はその“格”を表すもの。写真の上部と下部に 二つの金色の菊花紋(きくかもん) が見えます。上の菊は 屋根の破風板の中央、下の菊は 懸魚(げぎょ)部分に配置されていた。下段の菊花紋のすぐ下にある彫刻―これは 「懸魚(げぎょ)」 と呼ばれる寺社建築の重要な装飾部位。屋根の垂木の先端、向拝(むこうはい)や破風(はふ)中央に取り付けられる火除け(防火)と装飾を兼ねた木彫部材 。由来は「魚(ぎょ)」が“水”を象徴し、火伏せの願いを込めた装飾 といわれます。・流れる雲・翼を広げた霊鳥・天へ昇るような動勢 が組み合わされた 「雲に瑞鳥」 の構図。中雀門の反対側(御番方側)の欄間部分。左側が「桜に瑞鳥(ずいちょう)」、右側が「松に孔雀」という一対の欄間彫刻になっていた。「放生池」前にあった「河野静雲の句碑」。「放生池」の池畔に昭和44年4月27日に建立されたこの句碑は、高浜虚子門下の時宗の僧である河野静雲の句碑である。 左:「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」と。 【こうして生きている今、思いがけず出会ったこのお坊さんよ。 今日は一遍上人のご命日なのだ。】右:「静雲」と刻まれた石碑。「讃歎之碑妙好華たる榎本君 刀自 その遺志により宝池を荘厳し開山七百年を讃仰するものなり維時令和七年二月十八日」 と。新しい石碑であったが、この人物は? 「魚鱗甲貝供養塔遊行一雲 平成九年四月 遊山會」犬や猫の供養塔はよく見るが魚類、貝類は珍しいのでは。「放生池」を見る。放生池は、「生きものを放して命を慈しむ池」 のことで、仏教の慈悲を形にした施設。もとは「放生会(ほうじょうえ)」という、魚・鳥・虫などを放して供養する法会からきている。ここ遊行寺の放生池も、「生かされている命への感謝」を象徴する場所となっているのだ。 「放生池この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿一を保っとされている。」 ・池の水面に映る紅葉 水面が非常に静かで、鮮やかな紅葉や空の光が映り込んでいた。 放生池が「浄土の水鏡」 を思わせる穏やかな雰囲気をつくっているのであった。・小さな「木橋(太鼓橋風)」 池の対岸にかかる木橋が景色に柔らかさを与え、参道と庭園をつなぐ “結びの橋” となっていた。 こうした橋は「俗界 → 聖域」への移行を示す意匠。・右側の水辺に立つ「地蔵菩薩」 池の縁には、柔らかい表情の 地蔵菩薩立像が立っていた。水辺に地蔵が置かれるのは、 三途の川で迷う霊位の救済、水子・子どもの守護 生きとし生けるものへの慈悲 などを 象徴しており、放生池と非常に相性のよい尊像。・背景の瓦屋根と白壁の建物 白壁の奥に見える建物(太鼓堂方向)は、放生池と庭園を包み込むように配置され、 静けさを強めていた。水・木・石・建物のバランスが良く、禅寺にも通じる日本庭園の 構成が見られるのであった。大きな鯉の姿が。こちらも見事な紅葉??が。「本堂」を振り返って。「中雀門」を振り返って。 「御番方」を再び。 近づいて。 見事な向拝欄間彫刻。● 中央両手を組み、落ち着いて坐す人物 → 釈迦如来正面を向き、堂々とした坐像周囲の者が釈迦を拝するように向いている点からも中心人物と分かる● 左右の人物頭光(円形の光輪)をもつ → 菩薩を象徴右側の菩薩:手に巻物様のものを持つ(智慧を象徴)、文殊菩薩型左側の菩薩:合掌・供物を捧げる姿(慈悲の象徴)、普賢菩薩型に通じる● 供物を持つ人物(中央左)大きな皿や籠を釈迦に差し出している人物→ 供養者(施主)または弟子、あるいは給仕を象徴する場面「御番方」の屋根正面(破風部分)を。・千鳥破風(ちどりはふ) 中央の三角形に張り出した優美な屋根が 千鳥破風。 寺院でも格式の高い建物にのみ用いられます。 千鳥破風は観音堂、御影堂、客殿などに使われることが多く、御番方の重要さを示していた。・唐破風(からはふ)と組み合わせ 千鳥破風の下に緩やかな曲線を持つ 唐破風 がついており、これは本堂と調和するように設計 されていた。 唐破風は「仏に向かう入口の荘厳」 を象徴する屋根形式。「御番方」の内部を見る。 「遊戯三味(ゆげざんまい)」と。これは時宗(遊行宗)の重要語で、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)の跡を慕い、その教えの三昧に入る」という宗門思想を簡潔に表した語句であるようだ。「一遍上人ら遊行上人の教えと足跡を慕い、ただ念仏の三昧に入る道こそ尊い」と。『禅の世界に「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉がある と。「遊ぶ」と「戯れる」という字で「遊戯」といいます。字だけをみれば、ふざけて遊んでいるというふうに思われるでしょう。しかしその真意は、悟りを開いた修行者が、こだわりを捨て、思いのままにふるまうということです。凡人は好きな遊びならすぐに遊戯三昧の境地になることができます。しかし嫌いな仕事なら、どうでしょう。本来の遊戯三昧は、嫌いなことでも、やることそのものを楽しむということです。好きだ嫌いだというとらわれを超えて、仕事そのものを楽しむということができれば、理想です。』とネットから。その隣は「信徒会館」。 「丹月流お茶席 関係者専用」と。 「奉納 聖観世音菩薩 為貞鏡院浄弌隆艶大姉 追善」と。「放生池」の奥の小島に「聖観世音菩薩」像の姿が。紅葉が池の水面に映り込んで。美しい「放生池」周辺の秋景色。柔らかな曲線を描く太鼓橋は、浮世絵に出てくるような古風な表情で、景色のリズムを作っていたのであった。橋の向こうに見える白壁の建物は 「太鼓堂」。「本堂」を背景に、放生池の小島に立つ「聖観音菩薩像」を見る。ズームして。・左手に水瓶(すいびょう)または蓮華を持つ・右手は施無畏印(せむいいん)=恐れなくてよいという印・優しい顔立ち・宝冠をつける・衣のひだが深く、写実的な造形 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.09
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そして次に訪ねたのが、本堂右手前にあった「地蔵堂」。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。 この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立された。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。近づいて。扁額「地蔵堂」。 木造で高さおよそ3メートルの「日限地蔵様(ひぎりじぞうさん)」をお祀りしている。日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。日切地蔵と表記する例もあるとのこと。ズームして。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」この美しい飾りは、遊行寺・日限地蔵堂の天井から吊り下げられていた「飾り扇(装飾扇)・鳳凰文の透かし彫り装飾」。◆ 「透かし彫り扇(飾り扇)・鳳凰文の荘厳具」・形は扇(うちわ)形・中央に左右対称の鳳凰(ほうおう)・背景に雲・花・唐草文様・周囲は金色の枠・下部に金色の房飾り(組紐の房)寺院の内陣や御堂の天井などに吊るされる装飾で、聖域を清め、荘厳さを高める役割 を持つのだと。遊行寺・日限地蔵堂内に描かれている「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」の御影(絵像)。そして「本堂」と「天水桶」を斜めから。 遊行寺・本堂前の天水桶に付けられた紋は、「五七桐(ごしちのきり)」、通称 桐紋(きりもん)。」遊行寺(時宗総本山・清浄光寺)は● 徳川家から厚い保護を受けた寺● 歴代将軍が寺領を寄進● 幕府公認の大寺院という歴史があり、江戸期には堂宇・伽藍にも桐紋が多用されている と。とくに徳川家では「葵紋」が有名ですが、幕府の官紋として 桐紋も広く使用されていた。(実際、江戸幕府の公用文書や建築にも桐紋が多数使われています)つまり、遊行寺が江戸幕府から特別に保護された格式を示す紋として、現在も境内の器物・建築に残されているのだ と。常香炉と大イチョウのコラボ。文化庁の制定する「登録有形文化財(建造物)」に本堂、宇賀神社などが登録されたのだ。登録されたのは以下の10棟。・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・回向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。そして本堂の正面に。扁額「登靈㙜?(とうれいだい)」。一遍上人の霊徳が“登るように高まる台”=宗祖の霊威を仰ぎ、念仏の道へ昇る聖なる場所という意味である と。 堂内に入らせていただきました。道内の扁額「清浄光寺」。御本尊は「阿弥陀如来坐像」。 「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。本堂奥の左側は「祖師壇(そしだん)・位牌壇」 に相当する祭壇。背面一面に並ぶ無数の位牌。黒塗りに金文字という伝統的な形式で、非常に多くの供養位牌が年月をかけて納められている のがわかるのであった。中心に置かれている金色の建造物は仏具の「厨子(ずし)」または「宮殿(くうでん)」 。これは、仏や高僧、祖師の御影、重要な霊位の象徴を安置する、最も格式の高い場所 と。中央には「遊行四十二代南方門主他阿尊任大和尚」と書かれた位牌が。遊行四十二代尊任(そんにん)上人の祖師像が安置されているのであろう。 右側:位牌には「遊行二祖他阿弥陀佛真教大和尚」と。遊行二祖真教上人祖師像が安置されているのであろう。現在、本堂に安置されている御本尊は阿弥陀如来坐像で、高さ六尺一寸(184cm)、浅草日輪寺塔頭(たっちゅう)の宝珠院が浅草寺からゆずり受けたものです。宝永5年(1708)夏、遊行四十八代賦国(ふこく)上人が日輪寺に滞在したとき、この仏像をみて大仏であるから、本山の本堂に安置するのがふさわしいとおっしゃられ、元文2年(1737)10月に遊行寺に移されたのだ と。御本尊は阿弥陀如来坐像をズームして。さらに。右側「宗祖証誠大師一遍智真大上人」と。宗祖一遍上人祖師像が安置されているのであろう。 「十方世界 和平発願」、「天下和順」の文字が。「十方世界 和平発願(じっぽうせかい わへいほつがん)」は、あらゆる世界(空間)の平和を心から願い、そのための誓いを立てることを意味する仏教的な表現 と。「天下和順(てんげわじゅん)」とは、仏教の経典『無量寿経』に出てくる言葉で、「天下が泰平で和やかであること」を意味します。これは、日や月が清らかに輝き、風雨が適時に降り、災害や疫病が起きず、国が豊かで人々が安らかに過ごせる平和な理想社会を表す と。「遊行四代呑海上人誉佛大和尚」と。 中央に「遊行藤澤両部歴代上人」と書かれた位牌が。 本堂の祭壇を斜めから。柱には右から「六字名號一遍法 十界依正一遍軆 萬行離念一念証 人中上々妙妙華」の文字が。時宗の根本経典(善導大師の浄土教)に基づく「時宗の教義そのもの」。この文字の書かれた札は、遊行人が諸国に遊行する折に、結縁のため大衆に配られた と。浄土真宗と時宗は、ともに「浄土教」を源流とするため、表現が似ているだけで、これは真宗の教えではないようだ。この四句は、阿弥陀如来の「六字名号」(南無阿弥陀仏)の深い意味と功徳を簡潔に示しており、現代語訳(意訳)は以下の通りである と。六字名號一遍法:阿弥陀如来の救いは「南無阿弥陀仏」の六字のなかにすべて込められており、 ただ一度お念仏を称えることこそが、すべての人を救う法である。十界依正一遍軆:地獄から仏まで(十界)、すべての世界、すべての存在(依報・正報)は、 名号の功徳によって一体となっている。萬行離念一念証:煩悩にまみれた私たちが行う様々な修行(萬行)を離れ、念仏の功徳を 疑いなく信じる「一念」の信心こそが、悟りを開く証しとなる。人中上々妙妙華:その信心を得て念仏を称える人は、数ある衆生の中でも最も優れた、この上ない 美しい華のような存在である。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。反対側から。本堂の「木鼻(きばな)の彫刻・獅子(しし)」。ズームして。巨大な獅子像。寺院や神社の柱の頭部・横架材の端につける彫刻で、建築を飾りながら、邪気を払う守護の獅子 を表している。寺院建築では、木鼻の獅子は・魔除け・火難除け・建物を守る霊獣・荘厳(しょうごん:格式を高める) として欠かせない存在。特に本堂のような中心伽藍では、極めて重要な場所に配置される と。再び正面から。本堂の内陣から外に出て大イチョウを望む。本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な曲線の海老虹梁の本堂。「常香炉」越しに「大イチョウ」を見る。 「大イチョウ」をズームして。そして「本堂」を後にして、「鐘楼」に向かって境内を進む。「おみくじ結び所」と。 本堂前左手には大きな「南無阿弥陀佛」碑が。藤沢市の遺族会が建てた日中~太平洋戦争の戦没者慰霊碑であると。遊行寺の「鐘楼」。この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。遊行七代託何上人は正平9年、文和3年(1354)に七条道場金光寺で入寂されていたので、延文元年2月室町幕府の足利尊氏、鎌倉府の公方足利基氏(もとうじ)から越後寺泊(えちごてらどまり)に滞在中の渡船上人のもとへ、すぐに遊行寺へ入寺住持になるようにと御教書(みぎょうしょ)が届き、渡船上人は3月29日高田応称寺(現・称念寺)において遊行九代白木(はくぼく)上人に遊行をゆずって藤沢に帰山しています。渡船上人がもどった遊行寺は、前住職の一鎮上人によって、仏殿の造営が行われており、その事業のしめ括(くく)りとして、梵鐘の鋳造がくわだてられました。藤沢に帰った渡船上人の最初の仕事がこの梵鐘の完成でありました と。 現在、境内の鐘楼にかけられているこの鐘は、総高168センチ、口径(こうけい)92センチで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されています。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)です。沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮(きゃくりょう)とも呼ばれていました。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆です。鐘楼に脇には、左側に「円意居士」と右側に「中里 理安・理益」の墓があった。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人以来『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬された。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「円意居士」墓。「円意居士」は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主です。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものがこの供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようです。「中里 理安・理益」の墓碑。「南無阿弥陀佛」碑そして「遊行寺宝物館」👈️リンク を望む。 企画展「神仏の表現」が開催されていた。「八百万の神とも称される日本古来の神祇信仰の中に、蕃神(あだしくにのかみ)と称された仏教が伝えられた以降、神祇信仰と仏教は調和してゆきます。6世紀末には神社に付属し、社僧(別当)が神社の祭祀を神前読経などの仏式で行う神宮寺が建立されるのです。時宗との関係が深い例として、遊行上人が法灯相続と共に行う「御砂持ち」が行われる氣比神宮は8世紀には神宮寺として創建されています。さて、各地の豪族が先祖を敬う氏寺を建立するなど、仏教は国内に広く浸透しながら神祇信仰と融合し、神仏習合の教説が定着します。そして、日本の神祇は先例を探れば仏であるとし、仏陀は人間を利益し衆生の苦しみや困難から救うために、日本の実情に合わせ神の姿となって現れた(垂迹)としたのです。これが本地垂迹説です。例を挙げれば、熊野三山における本地は、熊野本宮大社は阿弥陀仏、熊野速玉大社は薬師如来、熊野那智大社は観音菩薩です。また、神格化されてゆく人物にも本地が与えられます。仏教興隆につとめ四天王寺を建立した聖徳太子や、平安初期の公卿で、後世学問の神「天神」として全国的に信仰された菅原道真の本地は観音菩薩とされたのです。神仏習合により、神への祈願によって、仏法帰依の神託を得る姿は、熊野成道図や大隅正八幡影向図などとして描かれ伝えられたのです。このたびは、仏教公伝以降、人々が信仰対象としての仏菩薩や権現の多様な姿に救いを求め、信仰心の具象化にともない発生した絵画や彫刻、経典などを中心に紹介します。この機会に、いろいろな神仏の姿を観覧頂ければ幸いです。2025年10月吉日遊 行 寺 宝 物 館」 と。再び大イチョウを見る。黄金に輝く大イチョウをズームして。さらに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.08
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そして 「遊行寺の石造山門」に到着。左右の石柱に刻まれた “三” の紋。真正面に見える黄金のイチョウは、遊行寺の名物「大銀杏(おおいちょう)」 で、樹齢は 約800年 とされています。湘南藤沢の秋の風物詩の一つで、この黄金色の時期には多くの参拝者・写真愛好家が訪れるのだ。遊行寺の寺紋「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。「東海道名所之内 ふぢさは遊行寺」五雲亭貞秀画、制作=1863年をネットから。手前に江の島弁財天一の鳥居と大鋸橋(遊行寺橋)、奥に遊行寺が描かれている。惣門は現在の冠木門とは異なり屋根を架けた門、奥のこの位置には楼門(仁王門)の山門が描かれているのだ。樹齢800年の遊行寺の大銀杏(大イチョウ)が前方に。樹齢約800年という悠久の時を生きてきた巨樹だからこそ生まれる 深み と 圧倒的な存在感 が。一面を覆う黄金色は、まるで 陽光を自ら放っているかのような輝き。葉一枚一枚が光を受けてきらめき、無数の金箔を散らした屏風の如くに。「時宗総本山清浄光寺(遊行寺)境内案内」。境内の建物、池等が説明されていた。「市指定天然記念物 昭和四十六年(一九七一)七月五日指定大イチョウ樹高 約二十一メートル 幹回り 七一〇センチメートルひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約三十一メートルありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上六メートルの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で六八六センチメートルだった幹回りは、平成二十年の計測では七一〇センチメートルと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月 藤沢市教育委員会」 晩秋の青空との対比が鮮烈で、黄金と蒼穹のコントラストが息をのむほど。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだ部分の現在の姿。枝を四方に大きく広げる姿は、まるで 天を支える大伞(おおがさ)の如くに。幹は時を刻んだように太く、重厚感があり、力強さと優雅さが同居しているのであった。長い年月、戦乱も災害も見て来た木が、今年も変わらず黄金に染まって。枝の一本一本が黄金をまとい、巨大な光の彫刻作品の如し。晩秋の境内に柔らかい風が吹き、葉が舞うとき、黄金の雪が降るような幻想的な光景が広がるのであった。移動して。長い年月、戦乱も災害も見て来た木が、今年も変わらず黄金に染まていたのであった。その姿は、歴史の証人であり、藤沢の記憶を抱く生きた文化財。一遍上人以来、無数の人々を見守り続けた木が、今もなお瑞々しく輝く姿に胸を打たれるのであった。遊行寺の大イチョウは、色の美、形の美、歴史の美、精神の美そのすべてを備えた“湘南随一の名木”。木の下は、まるで 風と光が奏でる小さな聖域。そして遊行寺本堂。昭和十二年(1937)再建の入母屋造銅板葺の「本堂」。木造鋼板葺、1937年の再建。手前右手に手水舎。切妻造桟瓦葺の「手水舎」と蓮華形の「手水鉢」。手水鉢の台部に「明治百年記念 遊行七十一世他4阿隆宝上人御代」の銘が。清浄光寺手水舎は、明治十三年(1880)十一月の藤沢宿大火後に建築された可能性が高く、大正十二年(1923)の大正関東地震によって倒壊。昭和12年(1937)柱の一部など修復するかたちで、現在の位置に再建されている。手水舎の中央に設置された水盤は、昭和44年(1969)3月26日、明治百年記念に、大東亜戦争に供出された水盤を、東京オリンピック聖火台を作成した鈴木文吾氏の手によって復元安置されたものである。その建築様式は、両流造り、二軒繁垂木(しげだるき)、桟瓦葺きで、一般的な水屋に比べて、形態と装飾の優美さが卓越している。手水舎の先の紅葉をズームして。龍の吐水口。本堂前右手の高台には時宗の「宗祖 一遍上人像」。伊予国の豪族の次男として生まれたが、10歳で母を亡くすと天台宗に出家し教義を修学した。1274年2月から布教のための全国行脚を始めそれを遊行と称した。遊行15年目に過酷な遊行により過労と栄養失調で亡くなったと。ズームして。戦中に鉄材供出のため撤収されたが、昭和45(1970)年5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立された。また台石は川越浄国寺檀徒、さらに築山庭石も信徒から寄進された。静かな境内の中でひときわ印象的な銅像。「俣野大権現」。 地蔵堂前に建つ小さな社は「俣野またの大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されていた。「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は、正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります影平公は貞和年中(一三四五~四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております 平成十年七月吉日 藤沢山」本堂を背景に。見事な紅葉を見上げて。句碑。2012(H24).10月に建てられた清水 浩の句碑と。「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の【花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない】という有名な言葉がありますが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようです。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か意義がありそうです とネットから。大イチョウと手水舎とのコラボ。再び龍の吐水口に近づいて。「宗祖 一遍上人像」を正面から。 ズームして。移動して。目元と口元には柔らかい陰影が宿り、「すべてを受け入れる慈悲」が静かに浮かんでいた。悟りを得た僧侶特有の、余計な力の抜けた穏やかな表情で、相手を包み込むような優しさが。両手を合わせた姿勢に呼応するように、顔はわずかに前へ傾き、祈りに深く沈潜する精神の集中 が感じ取れるのであった。まるで「念仏の一声ごとに、心が澄んでいく」そんな境地が表情として結晶しているかのよう。額から頬にかけてのシワや骨格の浮かび上がりには、一遍上人が全国を歩き続けた行脚の年月 が刻まれているのであった。困難や疲労を超えてなお、人々の救いを求めて歩んだ強い使命感を帯びた横顔。きっぱりと笑うわけではありませんが、口元にはかすかな微笑の名残 があり、そのわずかな緩みが「人間味」と「温もり」を添えているのであった。冷たさのない、あたたかく穏やかな微笑。常香炉に近づいて。大きく丸みを帯びた壺形で、落ち着きと安定感を象徴する形。上部の縁のすぐ下に、連続した 蓮の花びら(蓮弁) の意匠がめぐっていた。蓮は浄土・清浄の象徴であり、「香を供える心は清らかな蓮の心である」というメッセージが込められているのであろう。正面の紋章:遊行寺の寺紋「三(さん)の字」写真は以前に撮影した時のもの。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.07
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この日は11月28日(金)、昼過ぎに平塚での仕事の打ち合わせに自宅近くからバスにて藤沢駅に向かう。遊行寺の大イチョウの黄葉が見頃であろうと、自宅を早めに出て途中遊行寺前バス停で下車し遊行寺に向かう。前方に見えたのが朱の色の橋「遊行寺橋」。 道路の右側、なまこ壁の前にあったのが「旧東海道・藤沢宿」案内板。『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。遊行寺橋(旧大鋸橋)と高札場 歌川広重「東海道五十三次藤沢(狂歌入り)」狂歌「松吟庵清風 うちかすむ 色のゆかりのふち沢や 雲井をさして登 る春かな」。「このシリーズは図柄の中に狂歌が1首ずつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれています。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋 (現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山です。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠(大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で大山詣を象徴しています。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺えます。」 とネットから。旧東海道は戸塚方面から来ると、境川手前で右折(現在の藤沢橋の場所には橋がなかった)し直ぐに左折すると境川に架かるこの「大鋸橋」に続いていたのであった。そして右に折れると旧東海道の平塚方面、左に折れると江ノ島に繋がっていたのであった。 ここが旧東海道の大鋸橋 (現遊行寺橋)。現藤沢橋方向を見る。下を流れるのが境川。境川の上流方向。大鋸橋 (現遊行寺橋)を渡ると前方右手にあったのが「ふじさわ宿交流館」。 「ふじさわ宿交流館」👈️リンク。 入口。藤沢・遊行寺のライトアップイベント「遊行の光(ゆぎょうのひかり)」のポスター。「荘厳(しょうごん)」とは美しく厳かに飾ることの意味で大イチョウ、本堂、放生池、いろは坂など遊行寺が誇る景観を、それぞれの放つ光や年月を経た風合い、池の水面に映る樹木、重なりあう木の葉がみせる陰影など個々が放つ光を厳かに照らします。 師走の夜、訪れた方をひと時の荘厳の世界に誘います。」と。・タイトル:藤沢遊行寺ライトアップ 遊行の光(ゆぎょうのひかり)・会期:令和7年 12月6日(土)〜12月14日(日)・時間:午後4時30分〜午後8時・場所:遊行寺 境内 (※荒天の場合中止)・左上の赤い丸: 「令和七年 開山七〇〇年」・主催:遊行の光実行委員会・協賛・協力:藤沢市、藤沢市観光協会 ほか各団体・下部の赤い帯:時宗総本山 遊行寺 と電話番号 遊行寺境内案内図。前方に遊行寺の惣門。右手・藤沢市消防団第八分団の建物のシャッターにも先程の「歌川広重「東海道五十三次藤沢(狂歌入り)」が描かれていた。近づいて。「惣門(そうもん)」。柱の扁額には左:清浄光寺(しょうじょうこうじ) = 遊行寺の正式な寺号右:時宗総本山 。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門。今日では遊行寺の黒門と呼ばれています。ズームして。それから続く石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えています。平成19年(2007)に大改修が行われました。地元の皆様には、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれています。寺号標石「時宗総本山遊行寺」。藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)はまたの名「遊行寺(ゆぎょうじ)」として知られる時宗の総本山である。時宗(じしゅう)は一遍上人(1239~1289)を宗祖とし、南無阿弥陀仏のお札を配りながら各地を回って修行(遊行という)する踊り念仏の宗門である。この清浄光寺はこうした遊行上人の寺ということで広く一般に遊行寺と呼ばれている。開山は遊行四代の呑海(どんかい)上人で、正中2年(1325)この藤沢の地に開かれ、時宗総本山となった。以後、遊行上人は引退するとこの寺に住み、藤沢上人と呼ばれて全国の時衆(時宗)を指導するようになったという。伽藍はたびたび火災に遭い、現在の伽藍は明治30年(1897)の再建による。 惣門前に、青銅製の灯籠が対になって建立されていた。この灯籠については、遊行寺宝物館に蔵されている「籐沢山銅灯籠志記(とうたくさん どうとうろう こころざしのき)」によれば、江戸講中を初めとして遠近の篤志者が一体となって、建造を望みました。時に天保10年(1839)5月であり、江戸講中の者が講元世話人となりました。しかし、実際に建立されたのは、天保13年(1842)8月23日ですから、発願されて3年にして実現しました。右側の脚(竿)に「籐沢山三十九世他阿上人一如(いちにょ)書」とあり、左側の脚(竿)には「遊行五十七世他阿上人一念(いちねん)書」とあります。鋳造師は西村和泉守藤原政時である と右側の青銅製の灯籠。高さ約2m80cm。左側の青銅製の灯籠。築地塀。惣門の右下に石の傍示杭が立っていて「傍示 門前先通道幅四間二尺」と。そして前方に「いろは坂」。 参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれている と。「板割浅太郎の墓」案内板。 「板割浅太郎の墓石」。「板割浅太郎の墓の由来国定忠治への忠義を貫く板割浅太郎(いたわりあさたろう)(本名大谷浅太郎)は、大正五年(一九一六)に刊行された平井晩村の小説『侠客忠治』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄』が話題となった昭和九年(一九三四)公開された映画『浅太郎赤城の唄』の登場人物として知られています。真徳寺には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談がロ承されています。天保十三年(一八四二)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無宿渡世の足を洗い、時宗金台寺(長野県佐久市)住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改めます。後に遊行上人の導きにより藤沢の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となります。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔うのです。仏門に入り改心した姿が認められ遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされます。以上の口承が昭和六十一年(一九八六)山本周五郎が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされます。後の列成和尚は、明治十三年(一八八〇)に発生した藤沢宿大火により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いたのです。明治二十六年(一八九三)十ニ月三十日七十四才にてその生涯を閉じたと伝えられています。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十ニ世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれています。 赤門真寺住職」 「いろは坂」を進むと右手にあったのが「赤門 眞徳寺」。 赤一色の山門の扁額「真徳寺」。 「真徳寺」👈️リンク の境内に入ると正面の大きな石碑が。文字は解読できなかった。「三界萬霊塔」。 「本堂」。 「慶州 李家之墓」。 再び「いろは坂」に戻り更に進む。前方に黄葉した大イチョウが見えて来た。 左手にあったのが「眞浄院」入口門。 遊行寺境内にはいくつかの塔頭(たっちゅう)と呼ばれる小院がありますが、真浄院もその一つで、遊行寺を支える寺院(子院)の一つ。・山門から一直線に伸びる参道・正面奥には真浄院の本堂(緑屋根)が見える・参道の両脇は白塀で整えられ、遊行寺境内らしい清潔で静謐な雰囲気・鉄製アーチに寺名を掲げるという、新しい・珍しい形式の門構えこちらが「山門」か。扁額「金龍山」。 さらに白壁に挟まれた参道を進む。「本堂」。 「開運厄除 毘沙門天」と。 「開運厄除 福壽聖観音」と。本堂正面の彫刻類。右:鳳凰の姿が。左:鳳凰の姿が。上段は「牡丹に唐獅子(からじし)」 を主題とした欄間彫刻。右側。左側。内陣。ズームして。本堂前から山門方向を見る。山門に向かって引き返す。 ・・・つづく・・・
2025.12.06
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こちらは自宅横の菜園です。ここにもブロッコリー、カリフラワーそして手前にほうれん草。妻の希望で自宅横にもほうれん草を育成中なのです。キャベツ、白菜。イチゴを5列。12月に入ったら黒マルチシートを敷く予定です。イチゴ栽培でマルチを使う利点として、次の5点が挙げられるのでは。① 雑草が生えにくい…黒マルチで覆うと光を通さないため、雑草が生育するのを抑えられます。② 地温が上がり、よく育つ…生長が早く、実の太りがよくなります。③ 果実が汚れるのを防ぐ…土に触れないのできれいな状態が保てます。④ 土の乾燥防止となる…根の周辺の水分を保ちます。⑤ 病虫害の被害が軽減される…ナメクジやダンゴムシの果実への食害が少なく、 ボトリチス(灰色かび病)も少なくなるようです。近づいて。来春も孫たちがいちご狩りを楽しんで欲しいのです。今年の春の収穫期の写真です。そら豆、スナップエンドウ、サヤインゲンを自宅横の畑で育成中です。近づいて。そら豆が発芽し、生育したものをここから畑に持ち込み定植しているのです。スナップエンドウ、サヤインゲンの育成中の苗です。あと、1週間ほど後に定植予定です。その後、ビニトンも設置予定です。スナップエンドウ。昨年のスナップエンドウの写真です。さやえんどう。昨年のさやえんどうの写真です。生育を加速させる為にビニトンを設置しました。そして家の横の菜園の片隅にあるミカンの木です。今年は例年になく豊作です。子供の頃に味わったミカンの味を楽しんでいます。そしてもう1箇所の菜園は実家の裏畑。自宅から徒歩で2分ほどの場所。兄が腰痛で農作業はシンドイとのことで、荒らして置くわけにもいかず、私が余った苗や、余り手間のかからない野菜を育てています。実家の畑の小作人なのです。西側の畑を見る。ニンニク。芽を出し、10cmほどになって来ました。そしてこちらはタマネギ。掘り残したジャガイモが発芽し秋ジャガが生育中です。この畑の横にある我が実家の墓地です。寛永年間(1624年から1644年まで続いた日本の元号)が我が実家の初代です。約400年間続いている我が実家。私は18代目の二男坊だと判っているのです。30基以上の墓石が左右に並んでいます。我が実家の累代諸精霊の過去帳石碑です。最初に寛永二年(1625)六月六日の文字が、丁度400年前です。亡き父が檀家寺に通い、先祖様を調べたのです。そして私はこれから18代目の次男坊なのです。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2025.12.05
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この日は11月26日(水)、我が菜園の現状をアップさせていただきます。ここは、自宅から徒歩で5分強の場所にある菜園。我が実家の畑ですが、私が借りて菜園を楽しんでいます。ここで趣味の養蜂もおこなっています。菜園の南側です。まずは、そら豆の植え付けをこの日に行いました。2種類の大粒種(一寸そら豆)をネット購入し、種まきして育てました。ようやく定植できるまでに成長しましたので、植え付けを行いました。2種類の「一寸そら豆」。 ポットで育成し4葉近くまで成長したものを定植しました。ズームして。そしてこちらはニンジン。そしてカブ F1二刀 。成長すると(ネットから)。菜園の北側です。左から大根、ブロッコリー、カリフラワー。ダイコン F1優秀おだいこ。近づいて。成長すると(ネットから)。ブロッコリーF1どっさり緑。成長すると(ネットから)。カリフラワー 野崎早生花野菜。写真は後日。成長すると(ネットから)。手前:キャベツ F1ふゆあまちゃん。奥:ハクサイ F1蔵錦。キャベツ F1ふゆあまちゃん。成長すると(ネットから)。ハクサイ F1蔵錦。成長すると(ネットから)。芽キャベツ F1早生子持成長すると(ネットから)。青梗菜は既に収穫中です。ネギも収穫中。株張り中葉春菊も収穫が始まっています。来春のミツバチ用に菜の花も。近づいて。来春のミツバチ用にクリムソンクローバーも。こちらはサツマイモ。収穫中です。食べきれません!!里芋。里芋も収穫中です。南京豆も収穫しました。そして菜園の中の菊の花も開花中です。ズームして。様々な色の小菊が咲いています。ズームして。さらに。別の場所に咲き誇る中菊。近づいて。そして越冬前の西洋ミツバチの巣箱。そしてこの日の我が菜園からの富士山の姿。前夜に雪が積もったのでしょうか!?富士山の裾野まで白くなっていました。右の高層ビルは我が地域にある日本大学生物資源科学部の本館。富士山をズームして。電線が邪魔!!と我儘にも!! ・・・つづく・・・
2025.12.04
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そして、鵠沼墓地を引き帰して、「万福寺」を訪ねる。万福寺裏門は木造瓦葺き。【万福寺鵠沼山(こうしようざん)清光院萬福寺(浄土真宗大谷派)。本尊阿弥陀如来。寛元三年(1245)僧源海によリ創建と云われます。源海は、親鸞の有力な直第子「関東六老僧」の一人、荒木源海上人と云われています。【開山 源海上人】万福寺伝によると、源海上人は、俗姓は安藤駿河守隆光と云い、武蔵国豊島都荒木村(現埼玉県行田市)に住する坂東武者でした。寵愛するニ児を流行り病で亡くし仏道に帰入した隆光は、江ノ島の岩屋に籠もって修行します。そこで「今東関に権化の僧あり)というお告げをうけ、常陸笠間の稲田の草庵に親鸞上人を訪ねて、弟子となりました。時に34歳と伝わります。その後、承久元年(1219)源海上人は、武州荒木にもどり堂宇を建立し万福寺と名付けました。仁治元年(1240)には、京に上り京都山科郷渋谷の興正寺(現 京都七条)にて親鸞上人の傍近くに仕え、寬元三年(1245 )に、親鸞上人より聖徳太子自作の太子木像を譲られ関東に下向し江の島を再び参詣しました。クグイの遊ぶ砥上原の湿地部分を埋め立て、一宇を建立し鵠沼山万福寺と号しました。その5年後、寺を息子の哲海に譲り、故郷の荒木万福寺に移り89歳で入寂と伝わります。中世の万福寺は、文亀ニ年(1502)火災によリ焼失、永正五年(1508 )再建と云われます。寺の境内からは2基の板碑が出土しており、年銘は應水六年(1399)、應仁ニ年(1467)と、いずれも室町時代です。他にも、中世の五輸塔や宝篋印塔が多数出土していることから、この地に仏教遺跡があったことがわかります。享禄元年(1528)には、小田原北条の真宗弾圧に会い家督替えを迫られます。これを拒否した第八世空円は六本松原にて断殺されてしまいます。第十世唯順の代に豊臣秀古の禁制を所持していたことから、寺は存続したと考えられますが、堂字の再興状況は定かではありません。江戸時代の万福寺は、享保年間に没した良意によって中興、寬文三年(1663)には梵鐘を鋳替えしたと伝わります.文政四年(1821)にも梵鐘が再鋳造され、万福寺の由緒が刻み付けられていたそうですが、軍事供出させられてしまい現存しません。近世末以来、当寺の住職は文人が続いており、第三ニ世 良空は俳号を蕉窓と称し、俳座を催していました.境内には文化人の墓所が多いことも、この様な背景があるためと思われます。その後、明治30年代に本堂が焼失し、本尊は小和田(茅ヶ崎市)の阿弥陀堂(廃堂)の本尊を移入しました。現在の本堂は昭和になり再建されたものです。】本瓦葺き、切妻造り屋根妻入りの手水舎。太子堂。本瓦葺きの八角堂。開基源海が師親鸞の形見として譲られた聖徳太子自作と伝えられる太子像(木像)を祀るため、法隆寺夢殿を模して建てられた八角形の太子堂。2003年(平成15年)10月17日、落慶法要が営まれた。聖徳太子像。ズームして。本堂。万福寺は藤沢市鵠沼にある真宗大谷派(東本願寺系)の寺。僧荒木源海が寛元3年(1245年)に開山・創建したと伝えられる鵠沼最古の寺院。正式名は鵠沼山 清光院 萬福寺。本尊 は木造阿弥陀如来立像、像高64.3cm、総高181.5cm、寄木造、江戸時代の作。境内参道の奥に鐘楼が。最初の梵鐘がいつ作られたかは不明だが、寛文3年(1663年)十六世良意、梵鐘を鋳替えと寺伝にあり、さらに文政4年(1821年)10月廿世良締、梵鐘を再鋳造とある。1943年(昭和18年)、太平洋戦争のため供出されたが、1983年(昭和58年)10月に復興。ズームして。境内のイチョウも黄葉が始まっていた。親鸞聖人尊像。こちらが、万福寺山門。以下2枚の写真は、以前に訪ねた時のもの。万福寺入口。「万福寺」を後にして、この日の結願の地・「皇大神宮」に向かう。皇大神宮一の鳥居横には道陸神碑が。平成12(2000)年3月に再建?参道に続く皇大神宮鳥居群。[皇大神宮(通称 烏森神社)主祭神は、天照皇大神。合祀神は、天手カ男命、天太玉命、天児屋根命、天字受売命、石凝刀売命。境内社は、石楯尾神社の他、伊勢ノ宮、稲荷神社など10社があります。由緒(現在の皇大神宮ホームページよリ転載)第五十三代淳和天皇の御代天長9年(832)、御社殿造立の記録があり、勧請の時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。天喜3年(1055)、元亨2年(1322)、天正13年(1585)、昭和60年と造営を重ねられている。御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝刀売命を奉斎している。第六十代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の内、藤沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。また、長治元年(1104)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢市最北端)から、南は海(現在の片瀬の一部、鵠沼、辻堂、茅ケ崎の海辺の諸村)に至る区域、いわゆる境川と小出川とにはさまれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることとなった。これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永3年(1184)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉斎も鄭重で、伊勢神領大庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡八幡宮、武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが延享年間の盗難により惜しくも伝承の古記録等を失った。その後に至り明和2年(1765)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり。且つ天照皇大神宮と謹書した白絹御戸張を奉納、明治維新まで例年奉幣を怠りなく続けられた。明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下東下の際、神明宮の御染筆を賜る。また、例祭は8月17日。当日9基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき盛観で、神奈川の民族芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが「神奈川のおまつり五十選」に選定されている。尚、昭和63年に藤沢市重要有形民俗文化財に指定された。なお、当皇大神宮には、第五十一代平城天皇の御代、大同3年(808)、御創建の延喜式内相模国13社、式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座である。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された旧社で国史に所見の神階叙位、官社に列せられた名社である。 【領主布施家(旗本)】関ヶ原の役に供した布施孫兵街重次が、慶長六年(1601)この地に220石の采地を徳川家康に賜ったのが始まりです。その後、代々の子孫が加増を繰り返し幕末には1500石の知行地を持つ旗本になります。鵠沼村の布施家知行地は江戸時代を通して変わらず維持されました。皇大神宮に参篭し祈願奉幣した布施頼路が布施家の家督を継いだのは宝暦八年(1758)のこと。他家から養子に人った頼路でしたが、若くして病を患い弟の重祐も明和ニ年(1765)布施家に養子に人り家督を継ぎました。]皇大神宮 例大祭(2018年)👈️リンク鳥居が微妙に曲がっているのであった。拝殿の姿が前方に現れた。「相模国 上甘郷総社 皇大神宮」碑。 左右に「山車庫」。 「三の鳥居」。 「手水舎」。 「社務所」。 参道左側には「皇大神宮 末社」が並ぶ。そして「拝殿」。藤沢市鵠沼神明2丁目11−5にあり、「藤沢の総鎮守」として知られています。御祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、旧藤沢宿の中心的な信仰の場。・千鳥破風(ちどりはふ)と切妻屋根を組み合わせた、現代的に整えられた神明系の社殿。・正面に掲げられている紫の幕(幔幕)には、皇大神宮の神紋・「花菱」が白く染め 抜かれていた。・賽銭箱の前に立つと、奥にある御扉と玉砂利の空間が見える典型的な拝殿配置。・両側には灯籠(電灯式)と、参拝者向けの掲示物や授与所も確認できる。内陣。神社の神楽や祭典で用いられる 「大鉦鼓(おおしょうこ)」 。「鼓」の字が用いられていますが、青銅製の厚い皿型の内側を二本の桴で打つ楽器 と。「大太鼓」。そして拝殿の横の末社を見る。右から、石楯尾神社 、伊勢ノ宮、稲荷神社。石楯尾神社を正面から。さらに末社が並ぶ。近づいて。社務所を再び。三ノ鳥居から一ノ鳥居方向を見る。左:造営記念碑 右:皇大神宮御社殿造営奉賛者碑案内板が並ぶ。「相模國土甘郡総社 皇大神宮 由緒【鎮座地】神奈川藤沢市鵠沼神明ニ丁目十一番五号【御祭神】(主祭神) 天照皇大神 (合祀神) 天手カ男命・天太玉命・天児屋根命 天字受売命・石凝刀売命【例祭】八月十七日 人形山車九基参進(藤沢市重要有形民俗文化財) 湯華神楽(湯立神楽)奉奏(藤沢市重要無形民俗文化財)。【由緒】省略(既にアップ済み) 「昭和六十三年十ニ月十六日指定 市指定重要文化財(有形民俗文化財)皇大神宮人形山車9基この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の九氏子町内会がそれそれ製作したもので、三層式・総高約8メートル。人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施され、県下で盛観を誇っている。かつては各町内に保管され、八月十七日の例祭に境内に参集したが、現在は、交通事情などのため境内の山車庫に納められている。例祭には、いったん参道脇に整列してから、あらためて境内に入る。その参進行列の順番は宮之前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、,中東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇という順で決まっている。山車が境内に集まる頃、拝殿では湯華神楽(湯立神楽市指定文化財)が行なわれる。この皇大神宮の例祭は、昭和五十ニ年選定「かながわの民俗芸能五十選」に挙げられている。平成三十年(ニ〇一八)八月 藤沢市教育委員会」 「記念碑当皇大神宮参道両側に延々と献備された石玉垣はすべて氏子特志者の浄財寄進による敬神の現れであります。参道石玉垣竣工に当たり皇大神宮参道整備委員会はあまねき御神徳をたゝえあわせて氏子崇敬者の平安を祈念しつゝこの事業を結了いたします。昭和五十四年八月吉日」 三ノ鳥居越しに拝殿を振り返る。末社・厳島神社。近づいて。ここにも「記念碑」が。 皇大神宮斎庭の塗装工事のもの。二ノ鳥居越しに拝殿を振り返って。そして全ての行程を完了しこの場所で解散したのであった。この日の「鵠沼探訪 コースマップ」。鵠沼海岸駅から皇大神宮まで約7km、時間は昼食時間も入れて約4.5時間であった。 ・・もどる・・・ ・・・完・・・
2025.12.03
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引地川方向に向かう。鵠沼神明2丁目3の民家の石塀の途中ににあった「地蔵堂」。 三叉路の角にあった立派な門のある民家。その先にあった「宮ノ前の道陸神・道祖神」。藤沢市鵠沼神明2丁目4−18。そして次の目的地の「空乗寺」に到着。真宗高田派の寺院。寺伝によれば、延宝5年(1677年)に入滅した僧了受が江戸初期に開山・創建したと伝えられる寺院である。正式名は金堀山 空乘寺。藤沢市鵠沼神明3丁目3−21。[空乗寺金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)。本尊 阿弥陀如来。永禄八年(1565)に僧 了受により開山と云われます。勢州一身田(現三重県津市)の高田派本山専修寺末寺となったのは元文三年(1738 )のことで、それ以前の浄土真宗本願寺派でした。七世慶心の時、鵠沼の地頭大橋長左衛門重政が自分の采地鵠沼の五百石の内、九石(石上の辺り)を空乗寺に寄進し、慶安ニ年(1649)幕府に請うて将軍家光より朱印状賜りました。江戸期は檀家も少なく、寺領の朱印地九石といくらかの寄進地、境川の石上の渡船料、水車の権利等で寺を運営していたと云われます。明治になり、老朽した堂社は明治3年の暴風て倒壊し、明治42年ニ十ニ世慶心が厚木の中古本堂を移築したのが現在の本堂です。【大橋重政の墓碑】(市指定文化財)空乗寺の境内墓地には、江戸前期の領主だった大橋重政の墓碑があります。大橋家が領主となったのは大橋重政の父重保が、元和三年(1617)に将軍秀忠の右筆となり500石の知行地(鵠沼村と大庭村折戸)を賜ったのが始まりdeす。重保は能書家て知られ、秀忠家光ニ代にわたり右筆を務めます。右筆とは、幕府の事務官僚として文書・記録をつかさどる職です。寬永十一年(1634)に重保が病て職を辞すると、嫡子重政が家督を継ぎ、右筆の職にも就きます。重政もまた能書家て、はじめは父重保に書を学び、後に松花堂流の租となる瀧本坊昭乗に学びました。重政の書は、御家流の一派をなす"大橋流書道"と呼ばれました。寛文十ニ年(1672)に、重政が亡くなると嫡子重好が家督を継ぎますが、知行地は上地(暮府に返す)となり、大橋家はこの地の領主ではなくなります。境内にある大橋重政の墓碑は、息子重好と重尚の兄弟が、重政の三十三回遠忌となる宝永元年(1704)に建立したものです。墓碑の前の一対の常夜灯もその時に建立されたとみられます。墓碑と常夜灯には、重政の名「龍性院殿釋道樹居士」とともに、重政妻の名「上春院殿釋妙慶禅尼」も彫られている。また、空乗寺には文政四年(1842)の銘がある重政夫妻の位牌も納められている。位牌の背面には「大橋先生末門 筆官 濱田三之丞源恒久再造之」とあリ、没後100年を過ぎても大橋重政を書道の師と慕うものが再造立したことがわかります。 参考:『藤沢市文化財調査報告書第3集』「三.大橋重政の墓」より]「市指定史跡 大橋重政の墓」案内柱。 山門。慰霊碑同寺ゆかりの戦没者22柱を合祀した慰霊碑。平成12年10月建立。碑誌:「この慰霊碑は支那事変並びに大東亜戦争 に於て祖国の為に戦死をされた当時ゆかりの 英霊に対し心からご供養を申し上げると共に 永久にこの事を子孫に伝え二度と悲惨な 戦争を起さぬ事を祈念して造立した 次第です終戦後五十五年の歳月が流れ日本は世界 第二位の経済大国になりましたがその反面戦争の あった事も忘れられようとしています一枚の召集令状により妻や子を又親を残して 戦地に赴き祖国の繁栄を願って散華された 英霊の心を想う時万感胸にせまるものが ありますそのご供養を続けることが残された 私達の務であると思います 合掌平成十二年十月吉日空乗寺第二十六世 信明代慰霊碑寄進 林石材産業(株) 林一郎」基壇前面:「空乗寺ゆかりの22名の英霊の氏名 羽鳥 故宗野忠男殿 藤沢 故江成實殿 仝 故江成四郎殿 仝 越川常吉殿 東京都 故赤羽正己殿 鵠沼 故荒木与四郎殿 仝 故宮崎留吉殿 片瀬 故名和藤雄殿 大船 故船引竹三殿 鵠沼 故角田隆吉殿 仝 故角田春太郎殿 茅ヶ崎 故加藤重信殿 仝 故加藤元重殿 鵠沼 故大橋實殿 仝 故大橋正栄殿 仝 故大橋源蔵殿 横浜 故秦野實殿 藤沢 故田村四郎殿 鵠沼 故小島清殿 横浜 故當摩俊衛殿 鵠沼 故山口佐四郎殿 横浜 故山口春殿」空乗寺 本堂。扁額「金掘山」。 本堂前の石灯籠。寺紋「亀甲に三階松」。「市指定史跡 大橋重政の墓」に向かって進む。引地川沿いにある大きな墓地。大橋重政の墓。大橋重政年譜西暦 和暦 月 日 事項1617 元和 3 鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門 重保知行地となる1618 元和 4 大橋重政、大橋重保の長男として生まれる。 幼名小三郎 通称長左衛門1627 寛永 4 重政、はじめて将軍家光に目見え。10歳1631 寛永 8 重政、家光の右筆となる。14歳1633 寛永10 重保、病により右筆を辞す。剃髪して龍慶と号す1634 寛永11 重政、家を継ぐ。鵠沼等の采地500石1639 寛永16 9 18 重政の書道の師松花堂昭乗、没。56歳1640 寛永17 大橋重好、重政の長男として誕生1641 寛永18 12 大橋龍慶(重保)豊島郡放生会寺の縁起2巻を撰し子重政これを書く1642 寛永19 重政、牛込の神木の榎が大風で倒れ、同木で龍慶寿像製作を発願→ 彫刻:藤原真信1642 寛永19 5 龍慶像完成→誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置1649 慶安 2 8 28 大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、 将軍家光より御朱印を賜る1657 明暦 3 7 大橋重政の長男重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。 新五左衛門と称す1665 寛文 5 9 23 重政、寺社領御朱印の労により賞を受く1667 寛文 7 5 16 重政、日光山における家光の法会にあずかって褒賜に浴す1667 寛文 7 7 重好、幕府の大番となる1669 寛文 9 12 重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる1672 寛文12 6 30 大橋重政、病により没す。寿55、龍性院殿道樹居士と謚して 空乗寺に葬る1672 寛文12 重好、家督を嗣いだが、幕府の不評をかったらしい1672 寛文12 大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領 (代官成瀬五左衛門重治)となる1704 宝永元 6 30 大橋重政33回忌。重好、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、 常夜灯一対をささげる1755 宝暦 5 大橋流を継承した篠田行休が「大橋流初学当用集」を日本橋 宗文堂から上梓1871 明治 4 6 大橋重政200回忌、空乗寺にて供養。多くの門人が集う1965 昭和40 5 31 空乗寺大橋重政夫妻の墓を藤沢市の文化財として「史跡」に指定1966 昭和41 12 『藤沢市文化財調査報告第3集』藤沢市教育委員会編、空乗寺に 関する事項を掲載1971 昭和46 11 大橋重政300回忌、空乗寺にて供養 鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭墓石に近づいて。「市指定史跡大橋重政の墓👈️リンク大橋重政は重保の子で、元和四年(一六一八)に生まれ、通称を長左衛門という。寛永八年(一六三一)父重保とともに幕府に見出されて右筆となった。重政の書法は父重保の書法を受け愛瀧本坊昭乗(御家流書道家)に学んで一家を成し大橋流と称せられた。又、青蓮院法親王について御家流書道の奥旨を極めたとも伝えられる。この重政が空乘寺に葬られていることは、右筆として五〇〇石を受けると鵠沼に采地を有し、大檀越として同寺の外護に尽したからである。昭和四十年五月三十一日指定藤沢市教育委員会」 「龍性院殿釈道樹居士 上春院殿釈妙慶神尼」 左面に「承應ニ癸巳年二月一一十九日一色式部少輔源範勝娘」と。 背面に「龍性院殿第三十三回遠忌為追福修善造於石塔回向事菩提」、寳永元甲申稔六月晦日旋主 孝子 大橋新五左衛門源重好 仝 小兵衛尉源重尚」 大橋重政の墓から引き帰して本堂方向に進む。無縁供養塔であったか?再び本堂を。そして次に訪ねたのが、宮前公民館前にあった「首塚」碑。 [宮の前首塚宮の前公民館の脇に、新しい石碑と庚申塔を納めたお堂があります。この場所には、首塚、金掘塚、庚申塚と称された小塚がありました。塚のいわれが不明だったため、明治12年の鵠沼村の戸長関根伝左右衛門の発起により発掘調査されました。塚の下からは頭骨や脚骨発見され、それを甕に入れ弔い、供養のために石碑を建てました。その経緯が示された石碑の篆額“首塚”の文字は、時の縣令野村靖による揮毫てした。明治期に建てられ古くなったため、平成23年3月に現在の石碑に建て替えられました。塚のいわれは現在も判明していません。この辺りが戦いの場になったのは、康正元年(1455 )の鎌倉公方成氏が今川範忠に鎌倉を追われた戦い、永正年間(1504~21)山之内上杉と扇ガ谷上杉の戦い、永正九年(1512)伊勢宗瑞(北条早雲)の相模国東部への進出などが考えられます。]「首塚 野村靖許はふるくよリある塚にしあれど、何の塚てふことを知れる人なく、ただ里人の金掘塚或は首塚あるいは庚申塚などとりどりに呼び、きたかならぬを、今や文明の御代にあひ、千世の古道あきらけくなりゆくときにありて、かかることゆゑよしのしられぬこそ本意なれど、里長関根主はじめ里人のなげけるなんなめるこどなりける。さるほど人々あいかたらい塚をあばきみるに、とくろふたもとも、脚骨四つ出でければ、そをひどつかめに納め、懇に葬りのわざいとなみて、かくなん碑をたてたりける。なれどいつの頃、身うせたりし武部たちのかばねなるか知るよしのなきは、いとも口惜しかりけり。案ふに、このわたりは康生、永正の頃、ことに国の内みだれて、たゝかいのちまたなりしかば、其の頃のものとも思はるれど、證しにすべきものなれば、其姓さへ名さへ知るよしのなきにつけても、其の世のさまのおしはかられて、このわたりに住みけん人の、如何に世を憂しくなげきつらんとおもふにも、我も人もなみ風たつぬ御代にうまれて、おのがみのやすくたのしき月日をおくるは、仰くもたかき御恵ならずやといへば、人々も、実にさるこどなり、いそいでそのよしをこゑるまゝに、かいしるしぬ。神忝川県の里の古きあとの記しかきつくることをうけたまはりてつかうまつる。 星野輝茂剣太刀人刀とがみのにみ(身)をつくしけるむかしをもへば袖ぞぬれぬる。くちはてしうもれかばねもあきらけき みよのひかりにおうはれにけり、明治十ニ年歳次巳卯ニ月改坐相模国高座郡土甘郷鵠沼平成ニ十三年三月ニ十一日首塚碑寄進者 藤沢市本鵠沼三丁目一蕃十四号 林石材産業株式会社 代表取締役 林 一郎」 【現代語訳(首塚 野村靖)この塚は昔からありましたが、何の塚であるのか知っている人はおらず、里の人々は「金掘塚(かねほりづか)」「首塚」「庚申塚」など、それぞれ勝手に呼び、はっきりしないままにされていました。しかし今は文明開化の時代となり、世の中の古い道理さえ明らかになっていこうという時代に、このように由来の分からないままでは本意ではありません。里長の関根氏をはじめ、村の人々が嘆き、心を痛めていました。そこで人々が相談して塚を掘り返してみると、頭蓋骨が二つと、脚の骨が四つ出てきました。それらを一つの大きな甕(かめ)に納め、丁寧に葬ったうえで、このように碑(石碑)を建てたのです。けれども、いつの頃に亡くなった武士たちの遺骸なのか、確かめるすべはなく、それが何とも残念なことでした。考えるに、このあたりは康生・永正の頃(室町末期)、とくに国の内が乱れ、合戦がたびたびあった土地でしたから、その頃のものだとも思われます。証拠となるものはなく、名も姓も知ることはできませんが、その時代の有様は推し量ることができます。このあたりに住んだ人々が、どれほど世を嘆き、つらい思いをしたことでしょう。それを思うにつけても、今の世の中は波ひとつ立たない御代であり、私たちが安全で楽しく暮らしているのは、まことに尊い御恵みではないかと申すと、人々も「まったくその通りだ」と深く感じ入りました。そこで急ぎ、このことを後世に残すための記録を書き記すよう、この神奈川県の里の古跡について記す役目を拝命したのであります。 星野輝茂(署名)添えられた和歌(現代語訳)●剣・太刀・刀で身を尽くして戦った昔を思えば、袖が涙で濡れるばかりです。●朽ち果て、土に埋もれた遺骸も、今は明るい御代の光に照らされ、名誉を回復したのです。】次の目的地の「鵠沼共同墓地」に向かって進む。 右手には、この後に訪ねた万福寺の墓地。「記念碑虐けの跡は毒よりはけしけり 馬にくわする民草もなくこの歌は、田中正造翁が、公害の恐ろしさを警告したものである。昭和34年4月、日本電気硝子が、藤沢市に誘致されて引地川畔に進出し、操業するや、騒音・悪臭・粉塵等の公害を排出し、人体・家屋・農作物に甚大な被害を与えた。又、煙に含まれる亜硫酸ガスのため、樹木の枯死するもの多く、緑の絶滅寸前の状態であった。藤沢市長は公害の防止を怠り、放置したが、県の勧告により煙突の傘上げ、捨塵装置が設けられ、高い塀も造られて、公害は少しく緩和された。昭和46年3月、工場の内外に鉛中毒患者が多く発生し、住民に一大恐怖を与えた。住民は、公害対策委員会を強化し、公害追放運動を展開し、会社側と交渉すること十年に及んだ。一方、新藤沢市長葉山峻は、深くこの問題を愁い、吏員を督励し早期解決を図らしめ、斡旋に努めた。かくて、炉の移転、規模の縮小、酸化鉛の不使用となり、又、鉛中毒患者の治療も進んだ。遂に昭和57年3月、被害を受けた社寺・町内会に補償金を支払い、公害問題の局を結んだ。これより、再び大気は浄化され、青空が仰がれ、樹木は生い茂り、花は咲き、鳥はさえずる平和な郷土に蘇った。 昭和63年5月 鵠沼山主 識」 その先にはいずれも江戸時代の庚申塔が左側2基と大乗妙典六十六部供養塔が。「大乗妙典六十六部」とはなんぞやと調べてみると、壱岐国、対馬国を除く全国六十六の国の寺社に納経する修行だそうで、その修行を遂げた人の供養塔のようであった中央の石碑。相州鵠沼村願主造立石塔一基庚申塔。[鵠沼共同墓地 準四63番霊場万福寺の西側にある共同墓地は、昭和18年、日本精工の軍需工場拡大に伴い、その用地にあった墓地を軍の命で現在地に移しました。各家の墓地は点在していたものを、日本精工の斡旋によりまとめて、現在の共同墓地にになりました。そのため、旧家の墓が多く、宗派も異なる家が集まっています。この共同基地の中ほど、高松本家の墓所内のお堂に準四国八十八箇所第6 3番の弘法大師像があります。この大師像は、もとは仲東集落の毘沙門堂にて祀られていました。毘沙門堂は、教寶院という本山修験寺院(本尊 毘沙門天)であったが、明治に廃寺となりその場所は定かではありません。その位置を示す手がかりは、江戸期の新四国八十八箇所案内に“東観音堂”→“東毘沙門堂”→”原 地蔵堂”の順路が示されている程度です。御詠歌:つとにおき夜半につとめて生れ得し 道を守ればまもるこのかみ高松家の屋号は「毘沙門堂」てす。明治12年に書かれた『皇国地誌』によると、毘沙門堂が廃堂になる時の僧が高松家の人であり、廃堂後は「本尊も同人に帰す」とあります。おそらく、高松家の墓所が日本精工拡張地にあり、その墓所とともにこの場所に移されたものでしよう。参考:鵠沼を巡る千一話 「第0033話 旧家 高松家」]御詠歌の意味は【朝早く起き、夜ふけにもおつとめをして、生まれたこの世で授かった大切な信仰の道をきちんと守って歩んでいけば、ここにまつられている神仏が、必ずあなたをお守りくださる。】と。高松家累代之墓碑の先にあったのが相模準四国八十八箇所63番霊場があった。弘法大師像。四国八十八ヶ所つとにおき 夜半につとめて 生れ得し 道を守れば まもるこのかみその隣には、歴史を感じさせる墓石・石碑が並ぶ。移動して。別の場所にも小さな堂宇が見えた。内陣の石造。ここにも「記念碑」が。 「記念碑当墓地は大東亜戦争の為、日本精工藤沢工場敷地拡張と工場建設に伴ない下記名前の方々と日本精工株式会社の御協力により、昭和十八年二月二十七日付神奈川県知事より当地区に新設の許可が有りました。鵠沼の台地に眠る我々の先祖が今後共永遠に安眠できる様御祈りすると共に子孫の繁栄を祈り続けて下さい。昭和六十一年十一月二十一日建立之鵠沼墓地管理委員会(以下、寄進者名)省略」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.02
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普門寺を後にして、東海道線とは反対方向に歩くと直ぐ左側にあったのが現在の「藤森稲荷」。藤沢市鵠沼の住宅地の中に静かに佇む小さな稲荷社で、地元の「屋敷稲荷」「邸内社(ていないしゃ)」として祀られてきたものと考えられます。住宅地の開発以前から祀られていた古いお社が、現在も地域の人々に守られている形。 [藤森稲荷この神社は鵠沼最古と云われる稲荷社です。由来は、「元弘参年(1333)新田義貞が鎌倉の北条高時を討つ途中、この森に馬を止め近くの湧水を飲んだことからその武名を慕って本社を建立した」と云われています。かつては東海道線路の南側にこんもりとした木々に抱まれて鎖座していました。平成23年頃に、現在の地に移転しています。明治12年に書かれた皇国地誌には「東西十ニ間壱分(22m)南北五間(9m)面積六十壱坪 本村ノ農 関根伝左衛門所有ノ地ナリ」と記されています。関根伝左衛門は、名主を務めた鵠沼村の旧家です。また「今モ小渠社地ラ囲繞シテ湧泉僅ニ流ル 其旧泉ナルヤ否確ナラス」とあり、旧社地には社殿の周りにわずかだが湧水があったことを示しています。]かつての藤森稲荷の様子を転載👈️リンク■石造りの鳥居(明神鳥居)。正面には、風化の進んだ石の鳥居が見えた。2本の柱の上に乗った横柱の両端が上に向かって反っているのが特徴の「明神鳥居」形式。→ このタイプは江戸後期〜明治期の屋敷稲荷に多い形式。正面から。移動して。現在は旧家の広い敷地内にあり、フェンスに鍵がかかり中には入れなかった。その先、道路の右側にあったのが藤沢市立鵠沼小学校。その先を左折すると、左にあったのが、普門寺もちの墓地。相模国準四国八十八箇所を創設した浅場太郎右衛門墓。[浅場太郎右衛門墓普門寺の北側、少し離れたところに普門寺持ちの墓地があります。堀川大師堂の旧浅場家墓所にあった墓碑は、平成29年にこの地に改葬され、現在は新し墓石が建てられ浅場太郎右衛門とその父の功績を称えています。【堀川の浅場太郎右衛門】相模国準四国八十八箇所を創設した浅場太郎右衛門は、鵠沼村堀川の豪農てす。太郎右衛門の名は代々の当主が継承し、下総国相馬郡て四国八十八箇所を見て、この地にも創設を願った人物(父)と、相模国準四国八十八箇所を創設した人物(息子)ともに、太郎右衛門を名乗っていました。高野山慈眼院登山帳には、寛政十一年(1799)、十ニ年(1800)、享和三年(1803 )と浅場太郎右衛門が頻繁に参詣していた記録が残されています。いずれも、鵠沼村の人々と連れ立っての参詣と見られ、信仰の熱心さが伺えます。なお、鵠沼村には堀川の浅場太郎右衛門家の他に、堀川の浅場太郎左衛門(引地川の堤防建設・復旧で知られる)、原の浅場太郎右衛門(浅場家の総本家と云われる)など、複数の浅場家が存在しました。 参考:鵠沼を巡る千一話「第0089話 旧家4淺場家」]浅場太郎右衛門墓に近づいて。浅場太郎右衛門之記鵠沼堀川の浅場一(浅場家十一代)の本家にあたる浅場太郎右衛門は、文化二年(一八〇五)、相模にも準四国八十八ヶ所霊場を創設したいと発願しました。父の死後文化三年(一八〇六)、息子の太郎右衛門がその思いをつぎ、普門寺の住職善応密師に相談しました。真言宗の宗派を越えて、現在の藤沢市・鎌倉市・横浜市泉区、茅ヶ崎市、寒川町の寺社や村々に働きかけました。文化十四年(一八一七)、善応の弟子である鵠沼大東の観音堂の庵主浄心に、四国八十八ヶ所霊場の砂と宝印を集めさせ、寺院と村々に大師像と御堂を建てました。その後、百七十年にわたり、相模準四国八十八ヶ所霊場は多くの弘法大師篤信者により、巡礼され、親しまれてきました。ここに浅場一家十二台当主、浅場崇子、浅場太郎右衛門父子の、この霊場造立の篤信に敬意を表し浅場太郎右衛門家の墓標をここに普請す仏霊の霊地申す浅場家墓標をここ普門寺仏堂墓地に遷座す。こい願わくは、この篤信の浄行により、国土安穏、現世安穏、無病無難、諸災消除、子孫永久、富貴繁昌、諸願成就、浅場家、弘法大師の擁護にあづからんことを。密巖山遍照院院普門寺 第五十六世 川島弘之 師弟 川島弘耀 浅場家十二代 浅場崇子平成二十九年秋彼岸」そしてこの地域の、同じく旧家の宮崎家の墓もあった。その奥には、歴代住職の墓碑も確認できた。浅場太郎右衛門墓を後にして、再び普門寺横の道を引き返す。先程訪ねた、普門寺の横を北に進む。東海道線の線路踏切を渡る。藤沢駅方面を。辻堂駅方面を。「鵠沼道踏切52K412M藤沢市鵠沼3212」と。 そして線路を渡り、次に訪ねたのが法照寺住所 藤沢市鵠沼神明2丁目2-24[法照寺 準四48番震場善光山天龍院法照寺(ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ)浄土宗本尊 阿弥陀如来。浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に享保年間(1716 ~1736 )頃に創建されました。一説には寬文元年(1661)龍保上人の創建ともいわれています。法照寺の辺りの地名"宿庭"は宿場て働く人々ド住まいにしていた地域という説があります。法照寺の由緒には、「ある日、この宿庭に宿を求めた旅の僧に地域の人たちはぜひこの地に寺院を建立して欲しいとの請願をしました。旅をする人々の安全と、自らが住むこの地を明るく安らかなところにしたいと。この請願を受け知恩院から本尊阿弥陀如来をお迎えして法照寺が創建された」と伝えられています。本尊とは別に、秘仏十一面観音は安産にご利益があると云われており、毎年8月9日には四万六千日にて十一面観音の御開帳があります。 (参考:浄土家寺院紹介Navi 法照寺)境内には、堂宇が2棟ありいずれも弘法大師像が納められています。本堂に近いお堂が準四国八十八箇所の弘法大師像で、文政三年(1820)辰年六月吉日の日付と、講中と見られる名前が彫られています。鵠沼村以外の人と見られる名が複数あることも、藤沢宿と縁の濃い宿庭ならではでしよう。お堂の前の標柱は天保五年(1834)の銘があり、弘法大師像に世話人として名のある関根重三郎の寄進物と見られます。御詠歌:錦して みのりの庭を 照らすらん にしのはやしの 月のかつらはもう一つのお堂(本堂から遠い方)の弘法大師像の詳細は不明てす。傍らには置かれた杉板には、ご詠歌とともに、昭和51年の日付と宿庭町内の方々の名前書かれています.建築総費用とあることから、ニつの堂宇建築時のものとみられます。御詠歌の意味は【錦のように色あざやかに彩られて、仏の教えの実りに満ちた庭を照らしているのだろう。西方浄土の林にかかる月と、その月にそびえる桂の木は――。】つまり【信仰と修行(おつとめ)によって得られる仏の国は、錦のように華やかで、月の光が仏の実りの庭を穏やかに照らすような、豊かで澄んだ世界である】と。境内の参道の左に緑と赤の屋根を持つ堂宇が2棟。本堂に近い青い屋根の堂宇前から振り返って。準四国八十八箇所霊場 48番。弘法大師像。文政三年(1820)辰年六月吉日の日付の銘があると。もう一つの赤い屋根の堂宇。こちらにも弘法大師像が詳細は不明と。歴代住職の墓石?が並ぶ。近づいて。移動して。多くの石仏が並ぶ。入口の神社。朱の社。江の島弁財天道標。「ニ切衆生」の文字が。 <<江の島弁財天道標>>境内人り口には、江の島弁財天道標があります。この道標は、元禄ニ年(1689 )に杉山検校が、江島神社に詣する人々が道に迷うことのないように、江の島道に48基建てたもののひとつです。正面に弁才天の種子と「ゑ乃し満道」、右面に「一切衆生」左面に「ニ世安楽」と彫られている。誰かのいたずらか、現在はニ切衆生となっています。この道標は中学通り(現湘南高校通リ)の工事中に掘り出されたものが運ばれたそうてす。江戸時代どこにあったかは、現在も不明てす。「市指定文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標総高一〇三センチメートル 各面幅二十三センチメートル 花崗岩製鳥居の脇にある石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。この道標は、近所の方のお話によると、昭和ニ十二~二十三年(一九四七~四八)頃、現在地に移設されたもので、少なくとも昭和初期にはここから北東約六十メートル付近(今の鵠沼神明一ー五、鳥居に向かって右方向に見えるT字路の日本精工内)にあったとのことです。江の島への参道は、市内西富の遊行寺前から片瀬・江の島に通じる江の島道が本道てすが、他にもルートの違う脇道があったと考えられています。建立当初の位置は明確ではありませんが、この道標もその脇道筋にあったようです。江の島道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校(一六一〇 ?ー九四)が寄進したと伝えられています。元は四十八基あったといわれていますが、現在市内を中心に残欠を含め同型同類の道標十四基の存在が知られています。いすれも頂部のとがった角柱型で、地上の高さ一〇〇ー一三〇センチメートル程度、幅ニ十ニーニ十五センチメートル程度、正面に弁財天を表す梵字「ソ」の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と彫られています。江の島井財天への道をたどるすべての人が現世・来世での安穏・極楽を得られるように、との願いが込められています。ところで、この道標の右側面には、「二切衆生」とあります。「二切」という言葉はなく文意も通じません。書出の高さや書体の相違から当初の「一」を「二」としたものと思われますが、彫痕は深く古いものです。いつ誰が何のためにしたのかは不明とせざるを得ません。平成ニ十一年(二〇〇九)三月 藤沢市教育委員会」 本堂の前には小僧の像があった。そして境内にあった「宿庭町内会館」をお借りして、個人で準備した昼食をとる。会館内にあった 木製の作り物。宿庭町の人形山車・「源義経」の内部であろうか。「烏森神社」の愛称で親しまれる鵠沼地区の氏神様、皇大神宮(鵠沼神明2の11の5)で毎年8月17日に例大祭が催行されるのだ。この日に、藤沢市重要無形民俗文化財指定の人形山車の参進と湯華神楽(湯立神楽)が奉納されるのである。宿庭町の人形山車は「源義経」2023年に訪ねた時の祭りの写真。「鵠沼皇大神宮人形山車連合保存会宿庭町人形山車台車部軸受け修理東京浅草宮本卯之助商店平成三十年六月吉日」と。 平成23年の皇大神宮 例大祭👈️リンク の写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.01
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