inti-solのブログ

inti-solのブログ

2012.10.20
XML
テーマ: 戦争反対(1197)
カテゴリ: 戦争と平和
尖閣諸島をめぐる一連の騒動をめぐって、不意に思い浮かんだのは太平洋戦争直前の時期に起こった日ソ間の国境紛争、ノモンハン事件のことです。
1939年5月、「満洲国」とモンゴル人民共和国(外蒙)との間に国境紛争が勃発、それぞれの宗主国である日本とソ連の前面衝突に発展します。結果は日本側の惨敗。1個師団がほぼ壊滅状態となり、日本軍は外蒙・ソ連側の主張する国境線まで押し返されて停戦となります。
戦闘の細かい経過などは、 ウィキペディア などに譲るとして、互いに数万の兵力と重砲、戦車を動員しての激しい戦争によって、日本側もソ連側もそれぞれ8000人前後の戦死者を出しています。勝ったソ連側の損害もまた、大きかったのです。(戦死・行方不明者は日本側のほうが多いが、戦傷はソ連側のほうが多かった)

ノモンハン事件を描いた映画がありYouTubeにも映像が上がっています。
五味川純平原作、山本薩夫監督「戦争と人間 第3部」です。







さて、それほどの大戦争に至る原因となった国境紛争が、いったいどれほど重大なものだったのでしょうか。
対立の原因は、両国の国境付近を流れるハルハ河の川岸がどちらの領土か、ということです。「満洲国」側(日本側)は、ハルハ河が国境線であると主張していました。それに対して、モンゴル人民共和国(ソ連側)は、河の右岸側に少し入ったところが国境線である、つまりハルハ河は両岸ともモンゴル人民共和国側のものであると主張していたのです。

モンゴル人民共和国(外蒙)側にしても、「満洲国」側にしても、この地域に住んでいるのはモンゴル人ですが、一口にモンゴル人と言っても一枚岩ではなく、いくつかの部族に枝分かれしています。外蒙に住み、清朝崩壊後にモンゴル人民共和国として独立したのは、ハルハ族と呼ばれる系統です。それに対して、現在の中国領内(内蒙)に住むのは、バルカ族と呼ばれる別の系統です。こちらは中国から独立する途を選びませんでした。この2つの部族は、同じモンゴル族とは言え境界線をめぐって、長く紛争を続けてきました。

では日本はどう考えていたかと言うと、何も考えていなかった。1933年に「満洲国」という傀儡国家をでっち上げたものの、日本の軍人の多くは、この地域の国境線がどういう経緯で引かれたのかはよく知らなかったのです。ただ、「満洲国」の「国民」であるバルカ族が、ハルハ河が国境線だというから、よく分からないけれどそうなのか、そのとおりにしたというだけのことです。外蒙側の宗主国であるソ連も、ひょっとすると事情は同じかもしれません。お互いにさほど深く考えていなかった証拠に、「満洲国」をでっち上げる以前の古い時代に日本が作った地図には、外蒙側の主張のとおりの国境線が引かれていたり、逆に帝政ロシア時代にロシアで作られた地図では、内蒙側の主張のとおりの国境線が引かれていたりしているのです。
ただ、清朝の時代に引かれた境界線には、オボと呼ばれる指導標が作られ、それはノモンハン事件当時も厳然として存在していました。もっとも、十数キロごとに指導標があるだけで、その間には金網があるわけでも線が引かれているわけでもありませんが。

はっきり言ってしまえば、当事者であるハルハ族とバルカ族にとってはともかく、日本やソ連にとっては、本来どうでもいいような話なのです。私はノモンハンに行ったことなどありませんが、無人でこそないけれど、それに近い、行けども行けども草原ばかりというところだと聞きます。5キロや10キロ国境線が動いたからといって、たいした話ではない。
境界線付近に住む当事者にとっては、水の少ない地域にあって、川がどちら側に帰属するかというのは重い問題かもしれないけれど、そのために、当事者そっちのけで、宗主国同士が戦争を始めるような重大性など、何もなかったというのが実際のところです。

そのために、日本軍は死者行方不明者8000人以上と、傷病者約1万人を出しています。更に、装備の面での損害も深刻なものがありました。当時の陸軍航空隊の主力戦闘機は、97式戦闘機でしたが、これがノモンハンでほとんど壊滅してしまい、紛争の末期には、複葉機の95式戦闘機の部隊が増援に投入されています。
砲兵は、日本本土からも強力な野戦重砲(ただし、強力というのは「当社従来比」でしかなく、対ソ連軍比では、はるかに弱体)を送り込んだものの、これが文字どおり全滅しました。野砲以上の火砲で生き残ったものはただの1門もなく、全部が破壊されるか捕獲されました。
戦車部隊は、投入した戦車2個連隊約80両近くのうち、損失は約30両ほどでした。それも、実質的に4日間の戦闘での損害なのです。ノモンハン事件は4ヶ月も続いているうちの、そのうちのたった4日間でこれだけの損害を出したため、関東軍首脳は戦車部隊をすぐに引き上げさせてしまいました。だから、それ以上の損害は出なかった。当時の日本陸軍が持っていた戦車連隊は全部で8個、関東軍には3個連隊しかなかったのですが、そのうちの2個連隊をノモンハンに送り込んでいます。それだけ貴重な部隊だったため、全滅が惜しくてあわてて引っ込めてしまったわけです。

いったい何故、そんな草原のなかのわずか数キロの国境線を巡って、これほどの大損害を蒙ってまで戦ったのでしょうか。要するに、国家の尊厳に名を借りた意地の突っ張りあいです。敵に後ろを見せた、逃げたと言われたくないから、勇ましい強硬論を吐く。何しろ勇ましい強硬論を吐く人間が最前線で小銃を持って戦うわけじゃないんだから、いくらでも勇ましいことがいえるわけです。
よく知られているように、ノモンハン事件は関東軍が、陸軍や政府の統制を無視して、勝手に始めた戦争です。関東軍作戦参謀の辻政信は、「満ソ国境紛争処理要綱」なる文章を作成して、その中で「国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し」と指示しているのです。政府でも、軍中央ですらもない、前線の防衛司令官が、勝手に国境線を認定して、それを侵す敵と戦えというんだから、こんなに滅茶苦茶な話はありません。にもかかわらず、軍中央はこれを追認してしまいます。ノモンハン事件は関東軍が勝手に始めたといっても、そのための航空部隊や砲兵の増援は日本本土から送り込まれているのですから、軍中央は、関東軍に対して事実上「勝手にやれ」とけしかけていたに等しいのです。

結局、対ソ関係とか日本のその後の進む道などを対極的に考えた上での行動ではなく、功名心にはやった一部のエリート軍人が、目先の利益と感情に目がくらんで場当たり的に戦った、としかいうことができません。
対するソ連側は、スターリンが全権を握っていた。スターリンは世紀の大粛清を行った凶悪な独裁者で、独ソ戦では軍事的にもずいぶん失敗を繰り返していますが、少なくとも戦略、政略という面では、関東軍のエリート軍人より何枚も上手だった。日本軍は、前線ではずいぶん健闘したけれど、そもそも戦場以前の段階でソ連側にまるっきり勝負になっていなかったのですから、戦場でいくらがんばっても、勝てるわけがなかったのです。



唯一、ノモンハン事件に意味があるとしたら、それは戦訓です。ノモンハン事件は、日本軍にとっての「ミニ太平洋戦争」とも言われます。つまり、太平洋戦争での日本軍の弱点、犯した過ちのすべての原型が、ノモンハン事件に見られるのです。従って、この失敗をよく研究してその教訓を生かすことができれば、太平洋戦争によって同じ過ちを拡大再生産することもなく、そうであればノモンハンの過ちも無駄ではなかった、ということになったはずですが、結果はご存知のとおりです。ノモンハンの戦訓は、一応は検討委員会が設けられて研究が行われて、報告書も出されています。しかし、報告書を(それも極秘裏に)出して、それを部外費として金庫にしまっただけでおしまい。ノモンハンの教訓は、太平洋戦争にはなんら生かされることはなく、同じ過ちが繰り返されたのです。

なんともむなしい戦いです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012.10.20 22:17:11
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: