inti-solのブログ

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2017.08.17
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テーマ: 戦争反対(1197)
カテゴリ: 戦争と平和
「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした


1941年11月に防空法が改正され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。つまり「逃げるな、火を消せ」という命令だ。違反者は最大で懲役6ヵ月の処罰を受ける。1941年12月19日内務次官通達「防空強化促進に関する件」は、「空襲に対し万全の備えを必要とする所以を強調し、こぞって国土防衛に参加せんとする精神の振起に資する教育の実施」を指示している。
11月27日読売新聞は「傍観は立派な犯罪」の見出しで、「国民の一人一人に国土防衛の重大義務が背負わされることになった(中略)国家的義務として一人の逃避者も許されない」と訓示。
同紙12月18日付も「一億防空の義務」と掲げて「老いも若きも、働ける者はすべて防空従事者として敵弾に体当たりの意気込みで」、「日本国民の義務として米英撃滅に邁進しよう」と号令をかけた。

かつて政府は、空襲から身を守るため丈夫な防空壕を建設せよと指示していたが、防空法改正により避難禁止と消火義務が定められると方針転換する。内務省は「国民防空訓」を発表し、家庭用の防空壕は作らないよう指示。新聞は「勝手に防空壕を掘るな」「避難、退去は一切許さぬ」と報じた。内務省「防空待避所の作り方」は床下への設置を奨励。これでは頭上の猛火に向けて床下から這い上がることは不可能である。実際に多くの人が床下で命を落とした。

いかに命令されても、空襲の恐怖が広まれば逃避者が続出する。そこで政府は2つの情報隠蔽をおこなった。
第一は、空襲の危険性や焼夷弾の威力の隠蔽。政府は焼夷弾の爆発実験で威力を確認したが、あっという間に家屋が全焼した事実を隠し、2分で消火と発表した。
第二は、実際に起きた空襲被害の隠蔽である。国防保安法や軍機保護法により、空襲の被害状況を話すことは処罰対象となった。報道も規制された。スパイに知られないためというが、政府の狙いは、敗色濃厚であることを隠して「この戦争は正しい」、「日本は神の国だから必ず勝つ」と言い続けること。そのためにスパイよりも国民が真実を知ることを恐れたのだ。

地方へ移住する「疎開」も厳しく制限された。
1944年3月3日閣議決定「一般疎開促進要綱」は、防空目的で自宅を強制撤去された者や高齢者・幼児・病人などを疎開の対象者と認め、学童以外の疎開は制限され続けた。
新聞も「君は疎開該当者か 帝都の護りを忘れた転出に釘」「疎開足止め」「一般疎開は当分中止」と報じ、国民は空襲の危険が迫る都市に縛られた。
更に、「焼夷弾手掴み 初期防火の神髄」という真偽不明の武勇伝や「手袋の威力 焼夷弾も熱くない」という防空総本部指導課長のトンデモ談話が紹介される。
1945年3月10日東京大空襲後も政府方針は不変「初期消火と延焼防止最後まで頑張れ」(3月15日朝日)「死の手に離さぬバケツ 火よりも強し社長一家敢闘の跡」(読売報知3月14日)「消火を忘れた不埒者」(読売報知 4月16日付)「防火を怠れば処分」(読売報知4月28日)と記事が続いた。
1945年8月6日・9日原爆投下後も、防空総本部発表の原爆対策は「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」「新型爆弾もさほど怖れることはない」さらに「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」という。(要旨)

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恐ろしい時代であった、と言うしかありません。
太平洋戦争の犠牲者は、一般に310万人と言われます。このうち軍人の犠牲者が230万人、民間人が80万人、そのうち原爆を含む本土空襲によるものが、おおむね50万人前後と見られています。ただし、空襲による犠牲者数は諸説ありますし、犠牲者は民間人だけではありませんでした。(空襲に限らず、各戦場での戦死者数も不明確な部分は多々あり、310万人という犠牲者数も実際には概算程度のものです)
米軍の油脂焼夷弾の威力はすさまじく、その1個でさえ、木造家屋1戸が全焼する前に消火するのは至難の技です。そして、焼夷弾は38発を1つの大型爆弾に集束し、B29は、これを1機40発、つまり1520発も積んでいるのです。しかも、そのB29が、1機ではなく、何百機という単位でやって来るのです(3月10日の東京大空襲では300機以上)。それに対して、バケツリレーだの火叩きだのが、何かの役に立つわけがありません。にも関わらず、軍と政府は、国民に対して逃げるな、火を消せと命じたのです。それは、明らかに不可能なことであり、言い換えれば死ねと言っているのに等しい。およそ合理性のかけらもありません。焼夷弾の威力を知らなかったわけではなく、引用記事にあるように、入手した焼夷弾の燃焼実験で威力を知っていたのに、それを隠蔽してこういうことを言い続けたのです。
さらには、広島の原爆投下を受けてもなお、「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」「新型爆弾もさほど怖れることはない」とは、どういうことでしょうか。
当時の日本軍、政府が、軍人は言うまでもなく、民間人の命も、虫けらのごとく軽く考えていたと言わざるをえないでしょう。
もっとも、この頃にはほとんどの国民がこの種の大本営発表をまったく信じていなかったでしょうけど。

もし事前の住民疎開と空襲時のいち早い避難を積極的にすすめていたら、50万前後の空襲犠牲者は、その半分とまでは言わないにしても、2割やそこらは少なく済んでいたでしょう。もっとも、それを行うような日本だったら、あのような無謀な侵略戦争に突き進むことはなかったでしょうけど。

それでも、政府は小学校(当時国民学校)3年から6年生の子どもだけは、学童疎開を行いました。亡父が、敗戦時小学校4年で、まさにこの学童疎開経験者でした。これはこれで、食糧事情が劣悪の極みで、大変な飢餓状態で、大変厳しい生活だったと言います。


私の母は、敗戦時一年生だったので、学童疎開は経験していませんが、実家が川崎で、激しい空襲を経験しています。東京の空襲は焼夷弾でしたが、日本鋼管の製鉄所がある川崎への空襲は、爆弾を主体としたものだったそうです。家も焼け、祖父はその前に亡くなっていたので、祖母は母と叔父を連れて疎開をしています。逆に言えば、小学校一年(母)と未就学(叔父)の二人の子を抱えた母子家庭ですら、家が焼けてなくなるまでは疎開は簡単にはできなかったのです。
母は、一歩間違えれば空襲によって亡くなっていたかもしれないし、そうなっていたら私という人間も生まれてこなかったでしょう。
父も、疎開していたものの、疎開先で戦闘機の機銃掃射を受けたりしたことがあったようですし、疎開中にやはり家は焼失しています。両親(私の祖父母)は無事だったけれど、もしそうでなかったら、戦災孤児となって、父の運命も変わっていたかもしれません。

2度と決して、「空襲から逃げるような卑怯者は懲役」などという時代にしてはならない、そもそも空襲に脅えなければならないような時代にしてはならない、と私はおもいます。





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最終更新日  2017.08.17 19:00:06
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