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最近、よく「競争から、共創、共感へ」といった声を聴く。
ことをなすに際し、どちらに中心をおくか、といったことはあろうが,どちらを選択する、という戦略問題ではないからである。
だから、競争の時代から、共創、共感へ、と言葉を置き換えたところで
両者は,択一するものではないから、前者がなくなり、
後者の時代になる、といったことにならない。
だから,言葉の遊びで終わるか、自己満足の域をでない。
そもそも人々の生活に寄与する存在である営みである経営に
戦の論理を持込みを、云々することそのものに疑問があるのであって
競争の原理、論理そのものとはとやかく言われる筋のものはないのである。
換言すればば、仮想敵を打ち立てて競争意識を煽る,といったことに
争いを倦んでいる要因があるのであり,そのこと自体が「競争は悪い」と悪者扱いされることには、競争にとってはまったくのぬれ切れだ、
と私は考えている。
生きていることそのものが意志決定の連続で構成されている。
この意志決定を「分別」と置き換えても良い。
分別とは択一である。
これを選ぶ、ということはあれを捨てる,選ばないということである。
この取捨選択行為で生きているわけで、
その流れの一つとして経営判断がある、ということではないか。
選ばれる存在、捨て捨て去る存在があるのであるから、この両者の関係は,対立にある、と受け取れば,その通りであろう。
この対立の「対」を「つい」と読み替えれば、「共創、共感」になる。
マラソンは、ひとりではできない。
皆で創り上げるものだ。
だから「共創」ということになる。
共に走るわけだから「共走」であり、
多くの人が共に走れば、人それぞれ性差、年齢差、体力差、
それに,考え、思いも異なるから、ゴールの際には、順位がつく。
だからといってその順位がすべてではない。
繰り返すが、人それぞれ性差、年齢差、体力差、それに,考え、思いも異なる。
すなわち価値観が異なるのである。
価値観は異なる、というのが根本。
そのことを無視し,価値観を画一化すると、そこに競走が競争、争いが生じるのである。
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