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たとえば店舗の売り場。今、この現場が地域や消費者との接点、過去と未来との接点を持っている。今という「点」は、独立した点でなく未来の目標を得るために、そこから今に向かって下ろす線の始点である。また一方、過去を振り返るときの過去に下し、今と過去を結ぶ線の起点である。今は、また過去の線の切断点であり、過去と未来を連結している点でもある。こう考えると、「今」がおぼろげだがわかってくる気がする。「今」を深く考えることの重要性もわかってくる。では、この「今」、何のために何をしなければならないか。昨日、すでに答えは記したが,もう一度振り返ってみたい。まず、考えて見たいことは、この「何の」と「何のため」の「何」は、過去、今、未来、この3つの内のどこにあり、どこからやってくるのか、ということである。まずわかることは、今ではないということ。今というその表出された点だけで判断してならないことだ。今のこと。たとえば、その時には多くの人々が、評価し賞賛された経営者がこの今は頓挫、悲惨な形で、消えているといったこと。経営支援を生業にしている私が、なぜこんなややっこしいことを考察しているかと言えば、あの「全体最適化と部分最適化」の本質を押さたいがためである。これをきちんと押さえておけば、駄目になる企業、失敗する人の思考に、事前に待ったをかけて、不幸を減らすことができる、という私の個人的願望もある。今の売上を考えて、ことをなして輝ける未来を暗くした、といった事例の、なんと多いことか。そのことはまさにその折の「是」とした判断が、未来が今に向かって流れてきて、この「今」になれば「非」であったということだ。だから、この今考える事の中心課題は,関心が少なくとも、この今であってはならないのだ。そうしたことが、ぼんやりとだがわかってくる。では、過去か。過去のことあれこれ考えるのが、この「今」の考えるべきことなのだろうか。 続く
2015.05.24
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家康について、おもしろい話がある。「鳴くなら、鳴くまで待とう不如帰」と、その忍耐力ぶりを謳われている家康ですが、実際は逆で、きわめて短気であった、という説。私は、家康に直接会っていませんし、そのころ彼の周辺にいた人のヒヤリングも皆亡くなっているのでできない。それで事実かどうか確認のしょうがないのだが、「辛抱強い」といった説には、疑問がある、と、私には思える。いずれにしても、短気な性格と、戦略思考には直接関係がない。家康は短気だったからこそ、将来(さき)に大望を抱いてその具現に向かって、こつこつと歩んでいくといった長期戦略を採った、と考えられる。以下、軽く文献等で経緯とその根拠に触れてみたい。幼児の頃、あることを契機に、家康は辛苦の生活を強いられた。我慢づよいとか短気であったか、といった性格云々にかかわらず、堪え忍ばざるを得なかった。その「あること」。天文16(1547)年、信長の初陣の年、信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た竹千代(家康の幼名)の父・松平広忠は今川義元に援軍を求める。その際、義元はその見返りとして、竹千代(このとき6歳)を,見返りとして、人質に差し出すよう要求する。広忠はこの要求を受け入れざるを得ず、竹千代を駿河府中の義元の元へ送ることにする。その護送の途中、戸田康光の家臣又右衞門が、竹千代を塩見坂で奪い去り、織田家に売り渡してしまう。 こうして信長の兄・織田信広と人質交換されるまでの約2年間、竹千代は尾張で人質生活を送ることになる。この「あること」が、彼の一生を決めた。この頃から、竹千代は何事かあると、管元総理みたいにいらつく。そして爪をかむ、といったこと癖が始まったとされる。それを彼の周囲の人は、「いら竹」と言ったかどうかわからない。しかし出血するぐらいきつく噛む、といったことであったらしい。こうみてみると、家康が辛抱強い、気が長い性格とは思えないのだが、どうだろう。
2015.03.19
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客体験を実際やってみればわかるが、経営者は、まずできない。ご本人は、お客になったつもりでも、全く駄目だ。ついつい経営者の視点ついつい競合店調査モードになっている。そもそも歩き方、目配り、身体の動き、そうしたものがとても一般の買い物客には見えないのだ。動画でとってもらって、見てみたらいい。仕事、職業に応じた歩き方、考え方が、身体に染み付いているのだ。それだけどっぷり、主観、売り手側の論理に汚染されているのである。そのことがわかるだけでも、最初は、「良し」としよう。次に、家庭サービスのつもりで、奥さんや子供の買い物について行く。大型スーパーか百貨店がいいだろう。この場合、「おい、あの売り場にいってみよう」といったようにリーダーシップを発揮したら、もうそれだけで駄目。失客。子供の走り足の後に付いていく。奥さんの手を引く方についていく。彼ら、彼女たちこそ、消費者であり、あなたこそ消費者失格者なのだから。どこの世界に、買い物をするに、ぎんぎらぎんの経営的視点で、売り場や商品を見る買い物客がいようか。家族がいやがって一緒してくれなかったら、それだけで消費者落第の印を押されたと見てよい。が、仕方がない。無理に一緒せず一人で街に出かけて、他の買い物客の後をついて行けばいい。そんな暇があれば、経営書でも読んでいた方が、といったことが少しでも頭を過ぎるようなレベルでは駄目だ。やがて、自分は、消費者、お客様のことなどまったくわかっていなかったんだと気がつく時が来る。必ず。
2015.03.18
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戦略の共有 大願、戦略は、単に個人的欲求を果たす、ということでは、その望み、戦略に他の多くの人たちを同調させることはできない。家康だけではなく、戦略を知るものは、その個人的戦略を、他の人が共有できるものに転嫁している。さらに言えば、共有とは、こちらの戦略を共有、といった側面で語られるのが一般的だが、これこそ片面思考である。それはそうだろう。組織を構成する各人にしてみたら、戦略の共有と言うが、俺個人の戦略は、いったいどうしてくれる、といった疑義が起きるのは当然である。この疑義が存在する限り、共有、統一は危うさが残る、といって良い。ここである。ここに真の戦略共有の要諦がある。この点を避けて、戦略の共有は存在しえないのである。家康に限らず、個人的大望、戦略を、可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く。これが組織拡大の命題になる。可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行くこれが第一である。加えて、それは可能な限り多くの人たち各人の個々の戦略を内包、組み込まれていなければならない。これが第二だ。多くの「戦略の共有」には、この第二の側面が、はなから欠損、考慮されていないのである。錯覚してはならない。組織力は、雇用数が多いこと、店舗数が多いこと、資本金が多いこと、といったこととは次元が異なることだ。戦略を共有しあっている人の数の大きさが、真の組織の大きさであり、強さである。ここで「戦略を共有しあう」とは、全体の戦略と個々の戦略が統合、融合されている、という意味あり、単に合算されたものではないということ。念押ししておきたい。本稿の総括。以下の3点。1に、人に勝ちを譲ってそれを戦術化することで戦略の実現を図る。2に、戦略は共有された員数で組織力となる。3に、できるだけ多くの人に共有できる大望、戦略を掲げること。(了)
2015.03.17
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命題について考えている。書きながら考える。いや考える前に指が動いているのかも。とにかく、これを書きたくなって、念のためにネットでしらべると、これ、命題とは、~一般に「何々は何々である」といった平叙文が表現する意味内容のこと。良く混同されるが、命題は文そのものではなく文の意味内容である~とある。なんじゃこれは。書いた本人、わかっているのか。まるでチンプンカンプン。これにとらわれれば、書けなくなるから無視して、ここでは、学者から誤用じゃ、とのそしりを恐れず文字通り、私は「命に与えられた題(テーマ)」と定義して、考えてみたい。生まれたと云うことは、死というゴールがあると云うこと。つまり「生」の達成点は「死」であるが、これでは人生は寂しく、つらい。だから、この死にいたるまでを帯体を命と設定。この帯体にタイトル、すなわち各自、自分の目標を設定する。それも楽しく愉快なものとし、死に置き換える。この帯体で、死を包み隠して生きるためのもの。これを「命題」と考えることにしている。事実、この死を覆い、包み隠している目標を失うと、「死」がのそっと顔を出し、恐くなる。死を覆い隠す以外に、死の恐怖から逃れる考え方としては死の先に、天国あり、という考え方が広く布教している。しかし、一方では地獄もあるぞ、としている。死者に選択権があるのなら、まず心配ないが、例えば天国が満席で、ということになれば、あるいは神仏が機嫌悪くて、この私を地獄へといったこともあるから、どうも穏やかではない。で、戻すが、命を、命の帯とし、この帯のデザイン、柄などの織りなしのテーマを、各個人に与え、あるいは設定させ、すばらしい帯を織りなされ、これが、まさに命題であるぞ、と、私は、この思いつきに、悦に入っているのである。なんでも自分の都合にいいことに、楽しいことに嬉しいことに、愉快なことに、こじつけをすることもまた、わが得意とする命題である。ちなみに、出た学校も明大。
2015.03.16
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組織は、機能分担である。それぞれが、共通の目標具現のために役割分担するためのシステム構成である。だから戦略の共有が絶対要件になる。戦略を一部の者にしかに知らせないといったことは、あってはならないことだ。 ところが、現実には、経営陣だけが知っていればよく、他には知らしめない。管理職までは知らしめるが、一般社員には知らせない。社員までは知らしめるが、それ以外例えば契約社員、パート等には知らせる必要はない。が、当然視されている。こうしたレベルの差は、例外なく存在している。そんなことを言っても、組織には企業秘密というのがあるので、情報漏洩があるので契約社員や派遣社員などには、とてもとても。と、いったことを良く耳にする。そして、ここで戦略の共有は、事実上建前に終わってしまい、次の論議がなされることは、まずない。 ○確かに、間違いなくリスクはある。しかし、何事でもリスクはあるのではないか。○漏洩といったことは管理者にも、否、経営陣にも起こりえるのではないか。○もっと踏み込んで考えてみたら、戦略が外部の漏れたとして、失うものはなにか○いやむしろ、外部の人たちにも共有してもらったらどうか。理念、社訓では、むしろ積極的にそれをやっている企業が多いではないか。等々・・・・・・・・・・。 物事をなすに当たり、リスクはつきものと考えたら、上の議論に決着を付ける考え方として、全員が戦略共有できていないことにより失う損失と、戦略が外部に漏れた場合の損失と、どちらが大きいか。そして、全員が戦略共有できていうことにより得る利益と、情報が内部だけに止めおかれた場合の利益と、どちらが大きいかを秤にかけた論議が必要と考える。そしてその上で、共有すべきことと、、そうでないことを、きちんと区分し、前者は全員に徹底的に共有を図る。少なくとも、このレベルには、というのが私の思いである。ちなみに、決算書、日々の部門ごとの売上等を、お客さまにもみてもらおうと、壁に掲げているお店を幾つか知っている。それは、お客さまを、売上を上げてくださるために、絶対不可欠な購買者と定義し、その意味で心的には仲間だという、そのお店の経営者の信念に基づく。
2015.03.15
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これまで客対応と言いながらその逆、内実は、内部の内部による内部のための対応であったこと。それを「お客様第一主義」といったきれいな包装紙で上手に包装。さらにそれに美辞麗句や気の利いたキャッチコピーやトークを添えて、といったことが上手な販売といわれ、努力、精進の目的とであった。要は、外部の消費者のお金を如何に内部に取り込むか、そのために、あの手、この手を講じること。それが「消費者に対応すること」ではなかったろうか。その考え方の一つとして、「お客様第一主義」ではなかったか。しかし、実態は「頭隠して尻隠さず」だ。消費者はその尻からちらちら垣間見えるしっぽの動きから、売り手側の本音を知ることになる。こうしたことで頭隠したこと自体が無意味になってくる。事実,今時、お客様第一主義」と、声高らかに唱えて、感動する人などいやしない。無意味な対応に苦心してどうなる。無意味な対応に工夫と改善を加えてどうなる。対応とは、対するものに応じる、ということであって、対するものに、こちらの思惑に応じてもらうことではない。対するものに応じるには、対するものの動きを知らねばならない。こちらがこちら都合に動いてもらうように仕向けることではなく、対するものが、自分いしで、こちらの思うつぼと合致するよう言動をしてもらうようにすること。これが「応ずる」ということだ、経営の場合、上の「対するもの」とは、消費者だ。ああした場合、こうした場合、消費者が、どう考えるか。どう動くか。企業内外での日常のあらゆるああした場合、こうした場合の、こちらの思考、言動に対して消費者はどう思うか、考えるか、どう動くか、を押さえることだ。それには、相手になりきる。これ以外にないのである。自分がお客だったら、そのことでどう動くか、そのことはお客にとって、直接的、間接的にプラスになるのか、消費者になり切る。お客になり切る。なり切りって、考える以外にない。では、そのためにはどうしたらいいか。オススメは、以前個々に書いた「客体験」だ。.
2015.03.14
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個があっての全体。全体があっての個。そして両者が、独立個体としての「個」と、独立個体としての「全体」の相互協力関係にある。相互協力関係とは、理念、戦略を柱として、その枝葉としての情報、これらの共有が図られる関係、と言っていいのではないか。そして、この関係は、そのまま組織のありかたに通じる。組織という概念には、組織内(自体)と組織外がある。以前にも別の原稿で何度も触れているが内と外では、圧倒的に外が広いし、深いし、大きいし、多い。いわゆる多勢に無勢の関係である、それが逆転することはない。こうした理屈と費用対効果、もしくは投資対リターンの経済の論理を合わせて、端的に言うと、組織外に仲間、同志、友達の多いことこそ、その意に添えるし、経済的にも有利になることがわかる。もちろんそれらは数だけではなく質も関係する。だから、極論をいえば人にしろ、組織にしろ、成功は、仲間、同志、友達の友人の数と質によるといえる。 このことを逆に言えば、孤立系、封鎖性の高い、他との連帯性の低い閉じこもり系の企業がうまくいかなくなる確率が高くなるのは当然ということだ。同根、「俺が俺が」の人もうまくいかない。「自分中心の人」も、うまくいかない。「自分で何事もやりたがる人」もうまくいかない。その理由の根本には、人は、自分の外部の存在である有機的システム、社会システムに組み込まれていることがある。 個は全体を構成し、全体は個を内包する。その全体もまた他の全体と、同様の関わりを持ってそれぞれ宇宙全体を構成している。畢竟、個は常に個の外部との関わりを有し、他との関わりのない個は存在のしょうが無いのである。時として個内部の論理で内部体制やシステムを強く固めることが、外部との関係を疎にし、時には切断するといったことが、結果的に死の戦略になりかねない理由はここにある。繰り返す。企業内の結束や統制、打わ合せを密にするといったことで、逆に外部との情報の流れを遮断するケースがしばしば起きる。これは外部と孤立したため相互交流が分断されたためである。 組織の内と外のつながりを通じ、情報は流れている。これは人の呼吸を考えればわかりやすい。呼吸とは、内部と外部との空気の交流である。この交流がとまった時が「死」。これは,自然の摂理である。人も企業も然り。内と外との相互交流が行われなければ、「死」である。その典型的な例が、「癌」
2015.03.13
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知識は固形燃料に似ている、その理由は次の2つ。1に、いくら持っていても、使わなければまったく何にもならない。2に、固形燃料は、すき焼きとか焼き肉とかを煮たり焼いたりするときに役立つもので、それそのものを使うものではない。だから料理屋で、固形燃料を料理やその材料として出すところはない。知識も知識そのものが直接ひらめかしたり売り物にしたりはない。企業であろうと、人であろうと、「知識」そのものが役に立つことはない。料理屋の冷蔵庫の中の材料と同じようなもの。料理の材料がそのまま、お客に出下としたらお客は、当惑し、怒るだろう。知識も、そして「知っている」も「わかる」も、自分の経験、知識の範囲内のものである。ましてや知識が、外部の人の行動を動かすことにはならない。そもそも自分以外の人は、こちらの思うように動いてはくれない。自分の思うように動いてもらうためには、「戦略とその共有」が不可欠な所以である。共有とは、世には大きく分けて、自分が知らない世界と知っている世界とがあって、「知っている」、「わかる」は自分の範囲以内でのことにすぎない。だから言葉を発したり行動したりするときは、自分の知らない世界がいっぱいある。それは自分が知っている世界とは比較にならないほど広い世界なのだという謙虚さ、それに、自分の世界は、自分ですらわからないことがある。ましてや他人が、私の世界をわかることは大変なことなのだ、といった認識があってこそ、人を受け入れられる。違いがあるから、そしてわかり合えないところがあるからこそ相互に補完しあえ、相互に学びあえるということを前提に、他者と戦略を共有する。ここに「共有すること」の意義と本質がある。
2015.03.11
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自国民の内政への関心を、他の国にそらすやり方を、 私は「あっち向いてホイ戦法」と名付け、愚策として蔑んでいる。 本来は、自国民が自分たちを慕い、支えてくれる状況を創ること。そのためには如何せん、というのが国策の根本戦略なのだ。それがやれないから、他の国に喧嘩をふっかけてくる このあり方は、下の下策、誠に迷惑である。そんことは彼の国の彼らも十分承知していて、それでもあえてやらねば、ということだろうから、 人心が政権側から離れているか、内政上に爆弾を抱えていてほっとけば政権危うし、という状況とみてよい。このことを逆に言えば、 他の国にその危うさ、窮地を自ら披露、あるいは何かを懇願していることに他ならない。では、その他の国の一つである我が国は如何せん、というのが安倍政権に課せられた外交面の課題である。ちなみに彼の国以外に、 我が国にはあっち向いてホイの矛先を剥けてはいないが、上の彼の国よりやばい、 問題の国がある。ロシアである。国際的には、こちらが大きな問題。 私は、緊急性が高い、と読んでいる。エリツイン政権というより反エリツインの要素が強いからである。 元親エリツインノリの離反者が、目立つことがそれを証している。当面目が離せない。
2015.03.10
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戦略の達人 秀吉の、「負けるが勝ちの戦略」、家康の、「立ち枯れの戦略」を考察した。ここで少し戻って、今一度信長の桶狭間の戦いをみてみたい。生きるか死ぬか。今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、死ぬのはいや、ということで、「生きること」を択一した。生きるためには、今川軍に勝つことだ。今川軍に勝つためには、今川義元の首をとる戦略と、今川軍と戦い、勝つ方法。この択一だ。前者、後者、どっちが勝利の確度が高いかを考え、前者を択一して義元の首を取ることを考えた。ワンマン経営者が、いなくなると企業は衰退する。元々今川義元が、京を目指すのは、彼個人の課題。組織全員の目標ではない。彼がいなくなれば、京に行く目的より、早く故郷に戻り妻子の元へ、となるだろう。ランチェスターの「弱者の戦略」を勉強していなくとも信長でなくとも、そうなる。戦略は決まった。次にその方法、戦術だその戦術は、アレがある、これがある、いろいろある。あれとこれと組み合わせて、今川の首を取ってしまった。ということで、一か八かの戦いに挑み、奇跡の勝利、でも運良くでも、強運に恵まれ、といったことでは全くない。ましてや一か八でも、ヤケクソでもない。まさに信長は、「脳力開発」の達人。戦略を立て、それを組織全員に共有する。「生きたいか!」 「オ-!」「それなら狙うは、義元の首ぞ。他にかまうな!」「オ-!」その狙う首が、どこにあるか。その首が、どこにある場合が彼の首を取りやすいか。その首を取りやすい時間帯と場所は? 戦略を具現するためには、まずこうした情報収集だ。信長は、他の武将にまして、かねがねから「情報収集」の重要性を認識していた。戦略を具現するためには、科学的計算にもとづき、様々な戦術の中から、最適のものを組み合わせるのだが、現場と相手の動きは流動的で、変化する。だから、戦術は任せる、ことなのです。否、任せる以外にないのです。それを、アーセー、コーセーと上が仕切るから、うまくいかない。方法、戦術まで指示命令する企業をみたら、うまくいかない企業とみてまちがいない。実際に城野先生に引きつられて、桶狭間、長篠を見てきましたが、信長という人の戦略思考、並じゃなかったのだ、ということが今の地形からも滲み、感じ取ることができた。
2015.03.09
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その後日談とは、家康は昨日述べた秀吉の戦略を読んで、あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下にはいった、という話である。その家康の大戦略とは、秀吉の立ち枯れを待ち、 自分が天下人になるということである。それは時間差、すなわち自分と秀吉の年齢差を利用したのである。私名づけて「立ち枯れの戦略。[泣かぬなら、泣くまで待とう時鳥]織田信長、豊臣秀吉、それに徳川家康という三人の人間性をそれぞれ後世の人が句に詠んだもので、「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長。「泣かぬなら泣かせてみせようホトトギス」が秀吉、家康は「泣かぬなら泣くまで待とうホトトギス」とされたもの。通常は、無理せずに機会がやってくるのをじっと耐えて待つ、という意味に用いられる言葉である。「じっと時の経過を楽しみに待つ」に、 家康の戦略があり、ただ我慢、耐えていたのではないのである。「臥薪嘗胆」の話を思い出しまでもなく人は、勝算 (夢。目標) のないところに我慢はできないものなのである。忙しい現代人には、なかなか考え及ばない戦略である。それだけに、経営的活用には、大いに行かせるし事実、私自身、多くの企業に活用してきた。家康さん、ありがとうと御礼を申し上げたい。
2015.03.08
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「その戦い、くれてやるわい」 人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。 これを、戦いに活かした典型的例が、小手・長久手の戦い。 秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとりました。 家康に負けることで、家康を臣下におく、家康を臣下に置くことで、念願の「天下取り」が成就 (秀吉の大戦略)。そして全国の不満分子のぶつぶつを収めることに成功しました。それは家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、さきにあったからです。戦いそのものにすら、戦術に使っている。 秀吉のまさにすごさといえましょう。つまりこの場合、家康さえ治めれば天下統一が具現できる。そのためには、この戦、くれてやるわい、という大戦略。 負けを撒き餌にして、家康を釣る。繰り返しますがそれは家康をつり上げることで天下をとれる、という確信があったからに他ありません。その後、戦をくれてやるだけでは、まだ心許ない、と思い嫁に行っていた自分の妹(朝日姫(あさひひめ).秀吉の異父妹)を離縁させ、徳川の第二正室として付けている。それでも足りないとみて、 実母まで、送り込む、といった徹底ぶりである。 (ちなみに、この二人は、家康への人質ということになる)常識で考えれば、これは勝者が敗者にとる態度ではない。いかに秀吉が、大戦略の具現にあの手、この手を惜しまなかったか、の歴史的事実である。これには後日談があります。たぬきの家康、そうした秀吉の戦略を読んでいて、あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下にはいった、という話があります。なぜ配下にはいったか。それは、明日にでもお話したいと思います。
2015.03.07
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自分は、消費者、お客様のことなどまったくわかっていなかったのだ、ということがわかることは、次の2つのこと。1に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、消費者は、我が社を選び、あるいは選ばず、我が社の商品を買い、あるいは買われないということ。2に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、消費者は他社を選び、他社の商品を購入されているということ。そんな想いが頭を過ぎるようになったら、わかったとみていい。そして自分の組織の連中が、なんと自分たち経営の都合でものごとを考え、動いているかに驚くだろう。それが客観だ。消費者は、そうした視点で我が社を観ているのだ、と。おめでとう。脱「経営者」思考!消費者として仲間入りだ。組織内に、組織単体という視点だけの部分最適の判断ではなく、組織とその外をワンセットにした全体最適の判断ができる人が、組織に1人でもいいから「いる」ことが、いわば企業の死活を決めると、いってよい。組織内部では、「部分最適ではなく、全体最適でものを見よ」と配下に口を酸っぱく言っている経営者も、彼のいう考える「全体」とは組織全体、組織内部のこと。外は含んでいないことが殆どである。真の意味の「全体最適」、すなわち組織全体ではなく、組織の外まで組み入れ、俯瞰的にものごとを捕らえ、その最適、最善手を図ることこそ、求められることである。そんな余裕などない。それでは企業が損をする、といった意識、あるいは無意識が、ブレーキとなって、全体最適の、全体」を狭義に設定し、それでよしと甘んじていたのかもしれない 。経営者よ、消費者体験をなされ。経営者よ、日常生活の中に過ごしなさい。
2015.03.06
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脳を創る 「継続は力」と、言われている。これは、「やろう」といった計画自体はいくらでも立てたり口にしたりできても、いざとなると実行しない。やっても続かない、ではなんにもならない。逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、という含蓄が背景に込められている、と理解している。継続は難しいことである。が、それだけに継続をなしたものは評価されるし、そのことが力となる、ということであろう。つまりこの「継続は力なり」の意味は、1にどれだけ継続出来るかどうかが本当のその人の実力だ、という意味と、2に小さなことでも一歩ずつ一口ずつ続けていけば、成果という意味での力を得られる、という2つの意味がある、と考えている。逆に言えば多くの人が、なかなか物事を継続ができないということだ。そうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にしているといった皮相的な教訓とも受け取れる。「継続」が、どうして重要かというと、1に、人にしろ、企業にしろ、信用・信頼は時間を経てこそ蓄積されるからである。その意味で、思いつきにきわどさがあるのは、こうした時間軸という意味での試練に耐えていないことである。だから何事でも、「継続」が出来ない人は、約束や時間を守れない人と同様、周囲から信頼、信用されない。これは古今東西の定理といってよい。2に、人間だけではないが、一定のことを意識して継続することで無意識に出来るようになる、私は、これを脳の回線作りといっている。古い習慣を改め、新しい習慣に置き換えていく、これを習慣の改更という。企業でいえばこれまでの悪しき組織風土や体質を改めることすなわち経営革新になろうか。脳力開発でいえば、継続できない人、企業は進歩発展出来ない、ということになる。継続が脳力を創る、と私が言う所以である。
2015.03.05
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しきりに私が言っていること。人はとかく、自分の心にしきりに「しきり」を描く。外部や過去からのすりこみであろうと、それを刷り込ませ、限界を作っているのは自分だ。経営でも然り。せいぜい10年構想。 10年で廃業する気なのだろうか。私は30年構想を必定とし、かつ毎年これをつないでいく人生事業計画を進めている。これは人生100年計画に事業100年計画を重ねるためのユニットだ。いかに全体を想定し、最適化を描けるか、いかに長期の目標を掲げ、長期的な観点から、 最適化を描けるかいかに俯瞰的に、大きな視野、 大きな全体を描けるかが、 経営者の器の大きさ如何と、申し上げたい。ならば器を広げればいいのだ。 視野が広がること。大きな全体を描くこと。 、実際にやらねばわからず、やればわかること。では実際にどう体感したらいいだろう。以下、私のお勧め、あれこれ。できるだけ大きな世界地図、日本地図を壁に貼る。それも国境や行政区分がないものがいい。(理由は、後述する)できるだけ小高い丘に上がって、そこから360度の視野を見下ろす あるいは見通しのいい平地に立ち、天を見上げる。海辺に立ち、その向こうのアメリカなり、中国なりの方向をみる。 高層ビルの上から、豆粒みたいな人や車の往来を眺める。といった、「なんだそんなことを」といったことだ。なんということはない。 人は、自分自身をちっぽけに感じるとき、 大きな世界をイメージできるし、また大きな世界を描くとき、 自分の小ささを感じることができるのである。元来、宇宙は広い。世界は大きい。それを「自分」という仕切りで仕切る。 「自分の課」という仕切りで仕切る。 「我が社」という仕切りで仕切る。 「我が集落」という仕切りで仕切る。 「薩摩川内市」という仕切りで仕切る。 「鹿児島県」という仕切りで仕切る。 「九州」という仕切りで仕切る・・・・といったように細切れに仕切るから、 狭くなる、そして縛られるのだ。 自分の思考、行動に仕切りを入れるのだ。もともと、自分とそれ以外という存在しかない。その自分も、自分と自分以外のつながりであり、そこに仕切りがあるわけではない。その仕切りはすべて人間が、自分が勝手に仕切ったものである。その証拠に、県境なり、市の堺に実際いってみたらよかろう。そこには行政のたてた区分版以外、どこにも区分はないのである。ましてや、思考のなかに仕切りがあるはずはないではないか。だからせめて、人生や経営を考えるときぐらい、 大きな思考、縛られない考えで考えてみようではないか、というのが、いいたいことである。
2015.03.04
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「大望」という言葉が、私は大好きです。 韓国ドラマ「大望」のことではない。 辞書を引く。大望(たいもう)・大きな望み。たいぼう。「-を抱く」類語として、野心 ・ 志望 ・ 大志 ・ 希望(に燃えて) ・ 青雲の志 大きな望み ・ 雄途(につく) ・ 雄図(空しく~) 野望(をもつ) ・ 将来を期す ・ 雌伏する といった言葉がある。私が好きな理由は、言葉の響きともに、あの「太公望」からの連想だ。釣りをして、魚ではなく国をつり上げた、ということで釣り好きの人を「大公望」といいます。父母、家族と自分の国を滅ぼされ、 孤児となった彼、望は、敵への復讐心を「亡国を再興する」という戦略に置き換える。 個々がすごいところだ。 他の3人の孤児とともに20数年後にはそれを実現した。この大公 「望」の話です。すごいです。戦略の凄みです。彼のように変わらぬ大望をもち、 一つの戦略をも持ち続け、その戦略を共有する人数をじわじわ広げていったら、 国家さえ作れる。このように、戦略は大きさと心の広さが大いに関係します。ここは目先の勝ち負けにとらわれず、勝ちと功を相手に譲り、それをもって、自分の戦略を成就する、といったことに対して、 「あの人は器量が大きいね」とか「度量がある」といった言い方がされる。また「人望がある」とも言われます。それはその通りなのですが、大望をもち、その具現のため小異を捨て、功を人に譲るといったことで、 彼の周囲には人が集まる。こうしたことで他人から見たら器量や度量、人望がある、とあるように見える、ということでしょう。 逆に言えば、それは大望、戦略があるからこそ、ということができる。
2015.03.03
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ああら、不思議 組織の外、消費者のことまでを経営判断の範疇として、その全体最適を図ることが、組織のトップだけでも浸透すると、組織は、次第に活性化してくる。その理由は、組織内部、我が社のため、わが課のため、今期、今月の予算達成のため、といった、「のため」が、実は足かせ、縛りになっていたためと考えられる。だから内部と外部の、そうした仕切りが取れると一気に、視野が広がる。思考が広がる。よく「先の見通しが立たない」「先行き不透明だ」「お先真っ暗だ」「展望が開けない」といった言い方をする。そう言っている人をいちいち調査したわけはないが、その人たちが位置している場所は、上空ではあるまい。山のてっぺんではあるまい。先の見通しが立たないのなら、見通しが立つ場と位置に立てばいい。あるいは眼鏡の度数を上げるか、望遠鏡を使えばいい。先行き不透明なら、透明化を図る手立てを打てばいい。それができないなら、見えない先では見ず、この今見えるところで、仕事をすればいい。お先真っ暗ならどうするか。灯りを付けたらいい。普通の電灯で駄目ならサーチライトでお先を照らせばいい。明かりで失せない闇はないのだから。展望が開けない、のであれば、どこかの山上に行って展望台に上がってみるといい。展望台と名が付いているところで、展望が開けないところはないのだから。そもそも部屋にいて、展望が開くはずはないのだ。要は、見通しが立ち、透明で、明るい、展望の開ける場を探し、自分が手足を動かし変えたらいいのだ。それを、見通しが立たない、不透明だ、真っ暗だ、開けない、と口で言っている。言うことで、「仕切り」を増やす、といった逆のことをしきりになしている。自らブレーキを踏んでいながら、この車、動かなくなった、と言っている。家の中にいて、外が見えない、といっている。といったことで、組織のトップの思考、判断が全体最適化と言った場合のその「全体」が拡大し、外をも含まれることになれば当然、外の消費者も見えてくる。トップの思考、判断の仕切りが取り除かれると、あら不思議、いや不思議でも何でもなく、組織は、次第に活性化してくる。仕切りが外れると、各人、個々、何をなさねばならないのか、その優先順位までを含めて、見えてくる。やはり、あら不思議か。
2015.03.01
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ふと考えたことだが、人は「ものを考える」といったとき、どういう姿勢をとっているのだろうか。ロダンの「考える人」のように、顎に手を当て額にしわを寄せて。なんだろうか。私はあれは「嘘」に思える。人は、困ったとき「頭を抱える」といった言い方をするが、どうだろう。私の体験、記憶でいうなら、自分がひとりで悩んでいるとき、顎に手や、頭を抱えた経験も記憶は全くないのだが。事実、ここのところ、多忙でたくさんの処理を同時処理しなければならない。追いつかない、といった状況の日が続いている。列車ではメールしたり、書類を読んだりするが、車もときはそうもできない。では、問題を考えているかというと、まったくそうではない。要は、ぼーっとしているのである。事務所ではどうか。確かにばたばたはしているが、やらなくてもいい部屋のレイアウトをいじったり、急がなくていいホームページの工事をしたり、した。あまりたまっていないのにスクラップもした。眠たいのに夜更かししビデオもみる。これは私の場合だけかもしれないが、あるいは私の癖であろうか。考えるときは、決まっていろんなことを、並行してやることで体を動かしているのだ。ふと、そう考えた、というかそのことに気づいた。人は人に見せるポーズと、自分だけの時のポーズは違うのではなかろうか。だから映画や舞台の俳優さんたちみたいな言葉や動作、たとえば大きく首や手を動かし、顔の筋肉を振るわせて言動をする。たとえば「考え込んでいる」という姿を、頭を抱え込む、小走りで部屋をせわしく動き回る。これらは見せるポーズであり、まず私たちの日常生活では、普段見られないものではないか。
2015.02.28
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守成の本質 「消費者接点」を語る経営者は多いが、実際面はどうだろう。とりわけ大企業では、その接点に「企業者」がいることはまず希である。消費者から見ての「企業者接点」は、零細中小企業にしか存在していない。しかしその零細中小企業にも「いない」といった例は、けして珍しくはない。ときには自動ドアや自販機が店主に代わり挨拶するお店もある。ここで「企業者がいる」という意味は、そこに実際に「いる」ということも含んで、広義の意味で、1に経営者の理念、戦略が組織の末端まで浸透していること。2に消費者の視点から戦術が行使されていること。この2つを加えてみて、いかがであろうか。やはり、ノウ。これが大半、というのが私の実感である。ノルマや地位保身にまみれた現場においての「企業者接点」、「消費者接点」。これがおおかたの現状なのである。そもそも経営の盛衰は何も難しい経営理論で決まるのではない。消費者という個々の人間が自らの選択により、お客になるか背を向けるかといった、単純、かつ普遍性ある分岐で決まるのである。だから、消費者との接点、消費者生活の共有、その中での経営。つまり、「日常の中の経営」がことの中心になる。日常の生活は、ある意味で、繰り返し、といえる。その日常の繰り返しを維持し、望むらくは彩りを添えることに、資することが、経営。それを担うのが企業。こう考えれば企業経営の本来は、繰り返し購入してもらうというというところあり経営の本質は「守成」にあり、ということは自明の理である。人の心を奮わせる理念、それを突き進める戦略、それを形化する現場、消費者接点。それらを繰り返すことと、その過程で進歩発展することその姿勢を守成するという側面を事前に内包した戦略、そしてそれを具現し、消費者を購買行動に走らせ、背についてもらうための様々な戦術、この三つを有機的に結合するための人間的側面の如何。こうしたことが企業の存亡を握っている。そのどれが欠けても、企業が存続し続けることは難しい。
2015.02.27
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予測について考えていることを書いてみたい。予測、予報を仕事として人はたくさんいる。専業のそうした職に就いている人以外も、予測といったことを抜きに生き、生活している人はいない。 だから経営指導ともうひとつの私の看板としての、脳力開発&情勢判断学が、求められるのである。予測が重視され、必要なのは、1に、通常では予測し得ることを予測し得ない人が多いことである。前者を9,後者を3としたら、その6の差が、プロの存在価値ということになる。 2に、予測できないことが存在する、という前提で、予測は成り立つということである。 だが、この2の場合、その見極めが難しい。いや怪しげすらある。実のところ、後々になったら起こるべきして起きた、つまり予測できたといったことを、私たちは多く経験しているからである。 私のパソコンひとつ例にとっても、予測してないことが時々起きる。 パソコンだからまだいい。これが交通事故であったらどうか。考えただけでもぞっとする。そしてその予測なしに発生したことは、「なかったことにする」ということには絶対に出来ない。あり得ないことなのである。起こったことは「なかったことにする」ことはできない。しかし、そのことが起きることを予測し、起きないようにすることは出来るのである。100発100的中ではなくとも、かなりの確率で当てることは可能である。それが「予測」というものだろう。例によって二つに分ける。予測には、当たりと外れがある。例のホリエモンで有名になった「想定外」でいえば、1は、想定対象から外していた場合。2に想定エリアにあったが予測力が乏しく外れた。
2015.02.26
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とんちんかん 鍛冶屋の相槌(あいづち)の音は、槌の音が交互にそろっています。それが、交互に打たれず、そろわなくなったことから、「とんちんかん」という言葉ができたとか。ここから、物事のつじつまが合わないこと。行き違ったりちぐはぐになったりすること。また、そのさまを、「とんちんかん」といいます。たとえば。米が売れないのはあの大きな米屋のせいだ、という時代がありました。食パンが売れ始めたらパンに食われた、と言った時代がありました。ですが今や、いやその頃もラーメン屋も喫茶店やお弁当屋、外食・・・・やがてそれにコンビニもくわわりました。ライバルは、どんどん増えます。それにお店だけではなく、旅行、ダイエットインストラクターも、米が売れないライバルはいくらでもあります。売れないのは、○○のせい。この「せい」は、理由ではありません。理由を、見つけようとせず、直視せず、他に転換する便利な言葉が「せい」なのです。売れない理由は、消費者が、あなたのお店を選択しないことにあるお客にならない結果、「売れなかった」。「売れなかった」、このことを「(米が)売れない」と、微妙にぼかしていう。こうしたことで、本当の理由を転嫁し、さらにぼかすことで対策を講じることから逃避する。とんちんかん、とんちんかん。こうしたことで、自分の気分は一時的に楽になるかも知れませんが経営は、絶対に楽になることはありません。とんちんかんからは、なにも生まれない。
2015.02.25
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喜怒哀楽による感情の振幅は、心の準備があればあるほど減じ意外性があるほど増幅する。畢竟その期待を高い方に裏切られることで、人は感動を覚え、感激する。その期待を低い方に裏切られることで人は落胆し、ときとして怒る。その期待が、期待通りで、振幅が起きなければ人は関心を示さず、無視する。実施した売り出しは、上の3つのどれに当てはまるか。そのイベントは、上の3つのどれに当てはまるか。「超感動!の大感謝祭」と銘打った売り出しは上の3つのどれに当てはまるか。人は期待(予定稿)を高い方に裏切られて感激、その低い方に裏切られて、落胆するのである。しかし、売り手側は、しばし、いやほとんど消費者に高い期待を抱かせ、低い方に裏切理、消費者を落胆におとしめる。それで、「今度の企画は当たらなかった」。とは、なんと脳天気。人をクレーンで、高く持ち上げておいて、そこから落っこちさせて、「今度の企画は当たらなかった」はないだろう。オオカミと少年を体感した消費者は、こぞって背を向ける。なんということはない。高いコスト、手間暇をかけて、消費者に不評を買ってもらっているのだ。プロは、常に期待を裏切る。そのプロの中で、その期待を常に高い方に裏切る人が真のプロ。低い方に裏切る人は、詐欺師。その詐欺師でも、相手にその裏切りを気づかせない人がプロの詐欺師。大きな期待を抱かせ、現実は実績が小さいそうした経営者は、失格者。小さな実績を大きく見せれば、粉飾。
2015.02.24
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歴史は、その後の者によって微妙に歪められる、ということも、あって当然。とりわけ、信長が短気であったとする説は、私が今更検証するまでもなく、後世の俗説、作文である。徳川の時代に生きる者が、どうして徳川の悪口を記せようか。ヨーロッパ中世期時代の肖像画に描かれている人物は、皆美男美女である。当然である。生活の面倒を見てもらっていたお抱え画家達が、そのまんまを描くことは生活基盤を失うことになったろうから。家康をあがめるには、信長を遠回しに落し、家康を婉曲によいしょした苦心の表現といっていい。否、そもそも現象的なみて、短気とか長気とか判断し、それを全体的かつ固定的な「性格のせい」である、と決めつける見方こそ、間違いである。それは短期戦を用いる武将を、短気。長期戦をなす武将を気が長い、とレッテルを貼るに等しい。性格如何に関わらず信長、いや彼らは、短気も、中気も、長気も、時と場合で、使い分け、戦略の具現のための戦術として使う。それでないと、生死をかけた戦に望めるわけはないのだ。当時の武将だけではない。だれしも性格は、固定的なものとせず、どこかで意識し、あるいは無意識に使い分けをしている、といったところがある。子供の頃には、「うつけもの」を装い、成人してからも奇行で知られる信長だが、それはすべて戦略に基づく、科学的計算性に戦術の表れであった。それは先に述べた桶狭間の戦い、武田の崩壊の切っ掛けとなった長篠の戦いなどに、明確に見ることができる。当時としては、あるときは短気に、あるときは気長に、あるときは不遜に、あるときは謙虚に、大願成就のために自在に使い分けた信長は、ことの是非、好き嫌いは別にして、まさに戦略家の典型といえる。
2015.02.23
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「いと おかしげ」創造には目的(意図)がある。朝の出勤の近道となる公園の広場に1円玉、5円玉、10円玉、500玉、千円札、2千円札、5千円札1万円札が無数。そして落ち葉、鼻紙、ゴミ、端切れ、おがくず、宝くじ、おみくじ、木片、数珠玉、花、鎖、爪切り、輪ゴム、・・・とにかくいろいろ散乱している、とします。どれを拾います?と問われたら、頭の中で考えます。どれを拾うかは、「選択」。これには意図が不可欠です。洗濯するにも意図があります。ところで、公園を通りかかった殆どの人は1万円札を拾い出した。猫ババの意図があるからかもですね。Sさんは、どうせ自分のものにならないから、時間の無駄と考え、遅刻したら出世の妨げと考え迷いながらも、素通り。これも意図ありですね。Gさんは、宝くじを手にしました。当たったら大もうけ。宝くじなら、猫ババ許されるかも、と考えてのこと。意図ありありです。Yさんは、なんと木片を手にし、鞄にいれましました。なんでやろ。訊かねばわかりませんが、やはり意図あってのこと、ということはわかりますよね。物事を考え、なすには何気ないようでも意図がある。いや、意図があってこそ想像したり、イメージしたりものや考えが創造できるのです。ここにある机は、様々な部品で創られています。部品があったから机が創られたのではない。机を創ろうという意図があって、その材料が集められたのです。意図を人生の目的に置き換えたら、人生の目的を決めないで過ごすことの空しさがわかります。意図を経営の目的に置き換えたら、経営の目的を知らされず働いているパートさんの虚しさがわかるはずです。その虚しさが、経営に響いてくる。目的、意図がなければすべてが虚し。経営も、いとおかしげになる。
2015.02.22
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消費者から見てマイナスを減じ、プラスを加える。といったようにプラスとマイナスの両者を活かし、新たな物を創生することを創造物、という。もし創造物が、そうではないとしたら、人類は時が経つごとに、滅亡に向かうことになり、この今に世を謳歌できるはずがないのだ。その意味で、この世は想像のたまものと言ったら、寛容力のない神なら、怒るだろうか。ところで、創造性には次のような条件、制約がある、と考えてる。それは、「 創造には制約がある」、そして、その制約の範囲での作業であること。このことは前に触れたが、ルールのないゲームやスポーツはありえない。成り立たない。あっても、なりたっても、おもしろくもおかしくもない。第一どうしたらいいかわからなくなる。赤、青、黄の信号機に、なんのルールも付いていなかったら、どうなるのだ。この世は、制約がなかったら存在できない。命あるものは死ぬ。生きている人から見たら、この制約こそ、取り除きたいものであろう。晋の始皇帝もそう思った。彼は、自分だけは得家員に生き続けたいと思った。それで晋は滅びた。もちろん、当人も。なんと皮肉なことではないか。そもそも始まりだけがあり、終点はないとしたら、地球は生命体であふれ、食べて胃に入った動植物が胃の中で生き続ける、といったとんでもないことがおきる。3度のs食事の度に、胃袋は膨らみやがて破裂する。ものすごい痛みであろうが、それでもその胃の持ち主は、死ねない。自殺をしても死ねない。そのうち地峡は生命体であふれ、その重みで地球は落下、破壊するがそれでも、生き続けることになる。始まりがあれば、終わりある。終わりを想定して、今を生きる。こう考えれば制約があるから生きられる。創造ができる。制約こそ、我が命、ともいえる。
2015.02.21
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30余年ほど前。異業種交流会が通産の肝いりで各県にできた。タケノコのように生まれタケノコのように消えた。そして、やがて廃った。なぜか、当時、彼らの指導役、カタライザーをしていた私は考えた。自分の情報は隠し、相手にはそれを求める。つまり、自分は覆面で、相手には素面を求める。名称を変えたせいではない。 これが工業倶楽部として、発展的解消され、そこのところが概ねわかってきたようだ。概ねと書いたのは、以前消えていく会もあるからだ。それを調べると、やはり覆面会員が多い会である。そもそも覆面をして、「私を信用しなさいよ」。「私の言うことは正しいよ」。といっても無理だ。なぜなら信用され、正しいことを言う人が、通常、覆面をするはずがないのだから。隠す人ほど、うさんくさい。隠す企業の事件発生率は高い、では、これはどうだろう。 「おまえ、あほか!」これは、最近見た映画のセリフの一部。若い女性が、恋人の彼に言っている。怒っているのではない。その逆。こうしたことが判るのは、洞察力があるからではない。映画を、私が見たからである。音だけではどうか。文字だけではどうか。このシーンだけを見ている人はどうか。言葉は、怖いのである。ニックネームだけといった、悪口雑言のカキコミも、美辞麗句のカキコミも、文字の羅列だけでは、同じことである。煎じ詰めれば、 隠すは、他者に不安、胡散臭さを、開示、繋がりは、安心と信頼を 与えることになる。 畢竟隠すは、孤立、滅びの戦略。開示、繋がりは、繁栄の戦略。08.6.16畢竟隠すは、孤立、滅びの戦略。開示、繋がりは、繁栄の戦略。
2015.02.20
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内部体制固め、情報の不開示といったことで、対応を組織内でとどめ置くと、逆に外部との情報乖離が開き、同じ問題が繰り返されるだけでなく、問題が大きくなる、といったことはしばしば発生する。考えればわかることである。100=10,逆の10=100、といった状況はあり得ないから必然的に、いずれにしろ 55=55に落ち着く。その場合、最初に左辺と右辺の数字の大きさが違うほど、つまり、落差が大きいほど、その勢いは激しい。当然だ。正しい対応は、最初から、左辺と右辺の差が起きないようにすることである。具体的には、外部との打ち合わせを密にする、外部との情報交換を随時やる、外部との交流を積極的に行う、外部に社内の温度を合わせる、こうしたことで、外部の風を入れて風通しを良くすることが、効果的な対策となる。良く、「社内の風通しが悪い」といった言い方がされるが、より大事、優先すべきは社外との風通しである。しかし「社外との風通しが悪い」といった言葉を、これまで聞いたことがない。密閉度の高い組織は外部から孤立し、やがて内部崩壊する。そうした事例は枚挙に暇がないのに、あまりにも外部との「差」に関して、関心がないことに驚かされる。東北の大震災以来、東電の隠匿性が、しばしば話題になるが、これは報道されたから大きな問題視されているわけで、実に多くの企業が、大なり小なり、内部可愛さ、己可愛さゆえの隠匿性を強めることで、外部との落差を自ら構築し、それでもって、やがての崩壊を予約している。これを私は、「組織の閉じこもり」と呼んでいる。この閉じこもりにより、社会システムから分断された状態は、数珠のヒモが切れたことをイメージすればわかりやすい。組織の本質は、他との関わり。したがって情報の公開、共有が本来であり、それを隠匿することは、自ら社会的組織の一員から切り離される暴挙であることを、そののちのち気がつくことになるだろう。
2015.02.18
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長期間、少しずつ考え続けている「テーマ」がいくつかある。それを毎日、このブログに書き出しているのだが、元々は、ちょっとした断片、ゴミみたいなものである。頭の中で、おびただしいゴミが浮遊している。その浮遊物は、頭の中で不連続的に無方向性で、流れ、とどまり、ながれている。不思議なことだが、その頭の中の浮遊物を、見ているのは頭の外にある私の2つの目なのだ。それら浮遊物の中から、目にとまったもの、それを少しずつ形化することになるのだが、ここからは、頭と手の共同作業になる。ちなみに、この形になる前の、浮遊している段階を、「イメージ」というのではないか、となんの根拠もないし、自信もないがそう思って、この話を続ける。以下、「イメージの具体化と創造性」と題して、自分の頭の中の「イメージに関するイメージ」を形化する過程について、メモ風に書き、述べてみたい。ちなみにこうした場合、私の思考の主な道具は、頭とパソコン、そしてその画面に表示される文字である。【1】イメージの概念=心の中に浮かべる像(広辞苑)(1)果てしない広がりであって、捉えどころのない空間のひとこま、一部(2)本来は、形なく色もなくそして価値なく、そしてひとコマ。(3)コマとして捉えるためには自我(磁石)による枠どり、色づけが不可欠たとえば楽しいイメージを描きたければ磁石を「楽しい」にセットする。そうすれば、頭の中に過去の楽しい経験が集まってきてこのドッドによりさまざまな流動的な絵が描かれ、次第に鮮明化してくるのが見えるであろう。まだまだ、(4)、(5)と(10)まで続くが、ゴミの羅列では、おもしろくない。ここで一休みし、余話を。私は、ほぼ30年間、そして最近は、ほぼ毎日ではなく、毎日、多い時には8-9のブログを書いていた。それぞれ命題を分けて、これもほぼ隔日ごとに更新し続けていいたが、ここ2年、全部同じ文章。時間がないというより、それだけ書く材料が減じたということだろう。毎日のように全国を旅していた時代は、書いても書いてもつきないぐらい気づきが溢れでてきた。が、行動範囲が狭くなってからは・・・・・そうはいかない。3つ以外は、殆ど更新していない。さて、本題へ戻す。そうしたブログの文章は、頭の中の浮遊物を捕らえてメモし、その断片が、上に述べて思考過程で文章になるのだが、その創成の過程こそ至福の時間である。至福だからこそ、毎日続いているのだ。メルマガも然り。手書き時代を含めると30余年、毎月欠かさず続けてきたが、1昨年やめた。動機は、パソコンの故障でIDを消滅したからだ。で、それをフエイスに転じた。。呼吸、息も生まれてこの方、続いている。生きるは息続ける。それも生きること。楽しいから、続いている。すべからく続くことは楽しいことだ、と私はかってな解釈をつけている。
2015.02.17
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常に「利用者の身になって考える」というのが、本来の経営判断である。それをいつの間にか、も部の都合を充足するために内から外を見る習慣で。脳の回線が、そうなってしまったということだ。内から外を見る限り、外からの自分、自企業は全く見えない。繰り返す。上空か、外からしか自分の全容は見えないのだ。だから、自分の身を外におく。上空、つまり俯瞰的に見るこの2つが自然に行える脳の回線を再構築することになる。事業というのはお客様に合わせて、喜んでいただくことをなし、喜んでいただく、そのお駄賃として糧を得て、生き続ける。これが事業の本質だ。それを円滑に行うために、マネジメント担当として経営者が、そしてその思いを実践実行するものとして「組織」がある。これが経営である。だから売上不振、経営不振といったことがあったとしたら1-お客様に合わせていないか2-喜んでいただいていないかこの2点を疑い、内部を糺して見ることだ。これをなすことで、経営者はお駄賃として糧を得て生きることができるのである。上の2つをなすには、経営者が、仕事ではなく、1に、日常という生活空間で過ごし、体感すること。2にそこで消費者の時間を増やすことで、身をもって身につける以外にないただ、生まれたときから経営をやっているわけではないので、まず内から外に出る。そして事業を営む以前の日常空間に身をおき、以前の消費者としての脳力開発の回線に修復する。それが無意識にできるよう、意識してやる。それを時間と金かけて、売上がたりない、利益が出ない。高コストだ、と、内にいて内向きのことを考え、発案し、それらを組織にいけ、いけどんどん、とやっている。それは的外れだから、あたることは希有である。当たったところは、命を落とし今は生きていない。幸い外れる確率が高いから、多くの企業は救われ、ここまで死なずにすんでいる。 こうした片面思考、片輪の経営でここまでやってこれたのは、実に幸運に恵まれている証といえる。だから、本来の正道、すなわち消費者の側面を加え、両面思考、両輪経営をやったら、どれだけ大きく伸びるか。と、私は胸をわくわくしているのである。
2015.02.16
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理容師の皆さん方の学会がある。その学会で、1年間顧問講師をしたことがある。その成果を、長崎の学会で参加者の理容師の皆さん方に、成果報告していただく、いわゆる1,000円床屋が出現、理容業界がゆれにゆれた。その頃の話である。. 利用者の選択、判断の問題を、「利用者の身になって考える」と、いくらと考えても言っても、なんの解決もしない。そんなことは言っても言わなくてもいいから自分が消費者、お客、利用者、クライアントになる。その経験を踏まえ、それで体感したことを自分の経営に置き換えて、活かす。それ以外がない。お客になってお客の気持ちを体感する。実は、実際にやられた方ならわかるが、これがきわめて難しいのである。そうした話を聞いてその後、このことを実践された方は、私が知る限り長崎のSさんのグループ、5-6人だけ。なぜか。なぜ難しいのか。それは作り手、売り手の経験、経営者、店主の経験、思考、こうしたものが脳を占めていて、消費者体験や消費者の思いなどの進入を邪魔するからである。経営する側が、消費者になりきると言うことは実際、きわめて難しいことである。顔も頭も知られている県内の同業者ではなく、知られていない土地の床屋さんで自分の頭を刈ってもらう。長崎のSさんたちは、それを1年以上続けた。客体験をご子息、お弟子さんと実践された。その体験をお手紙でいただいたが、曰く「床屋ばなれの理由。じっとしているのはしんどい」。お客様の体感をいっぱい積むと、自分の企業、お店の問題が見えてくる。問題、課題と言うが、それらもまた消費者、お客、利用者、クライアントからみたそれらでなければ、なんの対応、解決、革新にならないのである消費者、お客、利用者、クライアントからみた問題、課題こそなさねばならない対応である。消費者になりきれて、真に経営革新を図らねばならないことが見えてくる。今、経営者に乏しいのは日常生活での消費者感覚だ。だから、今、経営者がなさねばならないことは日常での生活だ。今、経営者が取り戻さねばならないことは消費者感覚だ。
2015.02.15
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プロは裏切る (1) 意図をはずして用いられたときに、効果と進歩発展がある。例えば、漫才の掛け合い。いかにも丁々発止にやりとりしているかのようだが、殆どがプロによるシナリオに基づいて行われている。つまり予定稿があるということだ。演じる方もその予定された筋書き通り、原稿どおり、話を進めているのである。それが観客にもわかる。いな、その演題は、もうすでにあちこちの公演で行っていて、観客は知っているかもしれない。それでいて笑いが取れる。だからプロなのである。私達素人が、おじんギャグを連発して、皆がしらけるのは、そのギャグが先読みされているためである。そこが素人と違うプロなのだ。相手に先読みされるようでは、プロとして、舞台にたてる漫才師とはいえない。と、言ってしまえばおしまいになる。進歩発展の素、機会を失うことになる。シナリオがある。筋書きが見える。当然、観客にもそれが読める。観客は、無意識に先読みする。その先読みさせることで、笑いが取れるのである。裏返して言えば、先読みがなければ、笑いは取れないのである。なぜならその先読みを外すことで、彼らは笑いを取れ、それでギャラも取っているからである。「お客様の期待を、高い方へ裏切れ」常に私は、経営者に言っていることである。なぜなら、消費者に限らないが、人は自分の期待を裏切られたとき予想外のとき、喜怒哀楽を感じるからである。悲劇然り。喜劇然り。プレゼント然り。プロポーズ然り。失恋然り。紙くずと思って拾ったら、1万円札だったとき、然り。喜怒哀楽による感情の振幅は、心の準備があればあるほど減じる。意外性があるほど増幅する。
2015.02.14
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喜怒哀楽による感情の振幅は、心の準備があればあるほど減じる。意外性があるほど増幅する。その期待を高い方に裏切られることで、人は感動を覚え、感激する。その期待を低い方に裏切られることで人は落胆し、ときとして怒る。その期待が、期待通りで、振幅が起きなければ、人は関心を示さず、無視する。実施した売り出しは、上の3つのどれに当てはまるか。そのイベントは、上の3つのどれに当てはまるか。感動の「大感謝祭」は、上の3つのどれに当てはまるか。人は期待(予定稿)を高い方に裏切られて、感激、その、低い方に裏切られて、落胆するのである。しかし、売り手側は、しばし消費者に高い期待を抱かせ、低い方に裏切る。それで、「今度の企画は当たらなかった」。とは、なんと脳天気。人をクレーンで、高く持ち上げておいて、そこから落っこちさせて、「今度の企画は当たらなかった」はないだろう。オオカミと少年を体感した消費者は、こぞって背を向ける。なんということはない。高いコスト、手間暇をかけて、消費者に不評を買ってもらっているのだ。プロは、常に期待を裏切る。そのプロの中で、その期待を常に高い方に裏切る人が真のプロ。低い方に裏切る人は、詐欺師。その詐欺師でも、相手にその裏切りを気づかせない人がプロの詐欺師。大きな期待を抱かせ、現実は実績が小さいそうした経営者は、失格者。小さな実績を大きく見せれば、粉飾。
2015.02.13
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「商いの本質と原点」-3本来は、受注生産にあるのでは、と思う。料理をお客が来てから創る。北島三郎の唄CD、DVDのの注文が来てから吹き込こむ。えらくまどろこしいことだが、、在庫かからない。残品が発生しない。この考えを私は特産物などに適用し、待たせることをお客の楽しみに転換すれば可能と考えて、成功させた。お客の目の前で上げた総菜を売れば、「作りたてほかほか」といった嘘の看板代がかからずすむ。余分に作ったものに、価格訂正のシール代貼るコストも省ける。あるスーパーで、日付切れ商品が出て困る。アルバイトやとってでも一掃したい、という。心がけは、大変よろしい。だがそんなところに金をかけてはダメだ。お金はお客様が喜ぶところへ、投じることを旨にすべし」と言ったら、「そんな方法ありますか」という。つまり考えたことがないのだ。 「ありますよ」というわけで、この店は実行した。それはチラシにこういうセリフを追加したのである。「65歳以上のお客様で、日付切れ3日以内の商品をお買い上げの方は3割引。日付切れ商品を発見していただいたお客様にはポイントカード5倍進呈」。これで売上げ上がり、日付切れ一掃、お客様は喜んだ。 嬉々としてお客様に当店の手伝いをして頂くような状態を作れば、アルバイト代ぐらいの削減は出来る、ということだ。 こちらで営業やれば、費用こちら持ち。それをお客にやってもらって、お客も得し、感謝してもらうには・・・・?、とあらゆることに関して考える習慣を作ること。脳の回線をそう作っていくことだ。 白状するとこうした発想は、次の格言?から考え出したものだ。「人のふんどしで相撲を取る」。コレ男性限定。女の人なら、「人のブラで・・・・」。 ところが誰も、ふんどし貸してくれないと、憤怒している。ふんどしやブラジャーの世話まで出来ないので、次の文章で堪忍してほしい。 お乳のでない母親は、出過ぎて苦しんでいるお母さんを見つけて、我が子に飲ませる。感謝されて、かつミルク代が助かる。ちち(父)が乳(ミルク)をのませなくてもすむ。お互い、「お陰で助かりましたよ」と、思わず頭を下げる。これこそ、商いの本質なのだ。双方喜び合える。それが商いなのだ。 人はどうしたときに喜ぶのか。どうしたら感謝してももらえるのかそして大事なことは、それで自分も喜べるのか感謝が生まれるのか。私は、こうしたことを考えるところに商いの妙味、経営の革新あり、と確信している。
2015.02.12
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「そのあなた、自分が買い物するとき、この店の繁盛や儲けを願って、購買選択しているかい」。ここまで理解できたら、後は方法論だ。お客を得させるには、無限の方法があろうから。タバコ1箱かっていただいたら、1万円札1枚進呈もある。電化製品オール1円セールやればお客は大喜びする。 「そんなことしたら、おれんちが損する」。 そうだ。当然だ。だからこちらも当然儲かって、ということが前提になる。これが「商い」だ。この工夫をし続けて繁栄し続けることがなければ、お客さんの喜びも一回キリに終わる。 そこでずっと、ずっとお客様に喜んでいただきたい、という前提を入れる。この前提の上で、どうしたらいいか考えるのが「経営」だ。これを考え続け、実行し続けるのが、経営者だ。自社・自店が喜ぶ結果の生むのは、相手が得をし喜ぶことを無し続けること。これが売上げの部。次に、簡単に経費の考え方の部。「これは金利かかりますから」といった言い方。自分で金利かけておいて、お客に払わせようとする。銀行の発想がそうだ。昔々その昔の例だが、勝手に合併しておいて、通帳のご変更は、窓口で証明と印鑑と、といったことがありました。お客には関係がないのに、自分たちの事情をコストに重ねて、個人客に負担させ、大手法人客へのサービスへ回している。と、言われていたこともありました。あ、これはよけいなこと。これで銀行からの仕事が来なくなったんだから、チャツク。
2015.02.11
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相手に喜んでもらえる要素に比例して、消費者がお客に変わる確率は高くなる。この確率からはじき出された結果が売上げだから、結果が目標になるわけはないのだ。結果としての売上げが上がったとして、それで喜ぶのは自社だけである。それもひょっとしたら経営者だけかも知れない。喜ぶ者をかりに100人と多めに設定したとしても、その喜びに関係の人たちは、地球人口-100人、いることになる。こうした情勢下で、「戦い抜こう、蔵ざらえ商戦を。エイオー」とやっているわけだから、刀で大砲に挑んでいるサムライより、無謀なことなのだ。ところがこの地球人口全部などといわない。せいぜい30坪のお店であれば、10万でも多すぎるが、この10万を味方に付けたら、100人+10万の力になる。これが商いの原理である。いかに自社、自店の協力者を取り付けるかなのであるそんなことわかってている、という人がいる。ではあなたのやっている販促はどうか。仕入れはどうか、と突き詰めたら、わかっていることと反対のことをやっていることがわかる。だったらわかっていない人と同じことだ。そんな考えはおかしいという人がいる。見解の相違だから、それはそれで結構。これまで通りやられたらいい。私は自分の考えを広くあまねく浸透させようとか、押し通したいなどといった野望も気持ちもない。ただ皮肉を1つだけ言わせてもらう。「そのあなた、自分が買い物するとき、この店の繁盛や儲けを願って、選択しているかい」。 続く
2015.02.09
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よく例に出している床屋さん。お客はおおむね1.5時間で入れ替わるからいろんな情報がはいる、とされるが、果たしてそうか。仕事が部屋の中。一日中。それも頭限定の仕事である。だから、部屋内の情報。それも来店されるお客との耳より情報。見るのも、関心も頭、それも頭髪が中心。それにかけっぱなしのTVといったように、きわめて限定的、部分的なのである。昔2年ほどある理髪業界の経営指導をしたことがある。その体験で言えば、この業界は、外の世界を見る機会が少ない業界の典型である。それに、お客を物理的に、かつ心理的、両面で縛る典型的な仕事といってよい。似た仕事にお医者さんだってそうじゃないか、という声もある。確かに個人病院の歯科医は、まさに同じである。いずれにしてもだから問題だ、といいたいのではない。こうした一種の仕事の特性を踏まえて対応したら、すごいことになりますよ、と言いたいのだ。床屋さんの場合で、今度はお客様の方から見てみよう。1時間~1時間40分の拘束は、手錠をはめられているのと同じ。それに剃刀でひげを剃られる時間は、手術台に乗せられた患者の心境。なにせ刃物を持った人にじっと見下ろされているのだから。あの1時間~1時間40分の拘束が如何にお客様にとっての緊張か辛いか、それをしかたがないこととして我慢しているお客さんの立場が理解できていない。繰り返すが、いわば手錠をはめられて、剃刀などの刃物を持った人にじっと拘束されているお客の苦痛がイメージできない。なぜか。答えは簡単である。床屋さんは床屋に行ったことがない。客体験がない。自分の頭は、家族か弟子が刈る。また地域の他の床屋さんに刈りに行く人はない。こうした話をしたのは、S62年5月、長崎市の清流荘で理髪学会の全国大会が行われたときの基調講演。この頃、1000円床屋が出現、いわゆる「床屋離れ」が、この業界を襲った頃である。千人を超す理容師の皆さんに、床屋離れとは、床屋が離れたのではなく、お客が床屋から離れたことを言う。だから、離れた理由を、こちらが考え、議論し多数決で決めてもしょうがない。これは、これ以外にないのです。
2015.02.08
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ゴーイングコンサーンとは、「企業活動は永遠に続く」と想定していること。つまり、人間と違い、企業は一度作られると、死ぬことが想定されていないのである。これは、企業が貴重な雇用の場であり、社会に必要な商品やサービスを提供する生産活動の源とされているため、倒産や廃業をしないように 永久的に継続していくことが企業の社会的責任とされているからである。現実は、予定されていないはずの死、倒産は、想定外と呼ぶにはふさわしくないぐらい多発している。なぜか。理由はいろいろあろうが、私は、経営者の判断ミスによるものがほとんどではないか、とみている。では、その判断ミスとは、ということになるが、それは、全体最適、全体利益を犠牲にして、部分最適、部分利益追求を行ったことではないか。その結果、その部分最適、部分利益も損ない、死滅する。これを別の表現をしたら、短期的な稼ぎのために、その後の長期にわたる、本来は得るべき売上と利益を失う、といったことになる。そのいわば見えない収益の機会損失は夥しいものである。回りくどい言い回しになったが、言いたいことは、要するに。部分最適、部分利益が如何に大損になるかそして命取りになるか、ということを強調したかったのである。そして全体最適、全体利益を考えての判断が、いかに重要か、ということを強調したいのである。経営において、如何に大きな「全体」を想定し、全体最適化を描けるか、これが経営の要諦であり、それができる経営者こそが器の大きい経営者と呼ばれて讃えられて、しかるべきではなかろうか。
2015.02.07
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本稿。これまで、述べてきたことの 実践篇。まず、お客に関わりのない投資、経費と時間を、消費者に関わりのある費目へ可能な限り振替えること。すべからく投資・経費・エネルギー、時間は、自分以外の人(消費者等)に貢献するものと、そうでないものとに、大きく2つに分けられる。さしあたって決算書をみて、この2つに分けてみよう。自分や社員の行動を分析して2つに分類してほしい。自分の関心は、どちらが多いだろう。1日中会社のことで頭が一杯だったら、お客への貢献はゼロだ。1日のスケジュールを見てみよう。それを色分けでもしてみよう。なあに、おおざっぱでいい。ある会社のM社長のある月の予定表では、お客様関連の予定はゼロだった。ゼロとわかって、Mさんは唖然とした。消費者との接点も皆無だった。皆無と気づき、Mさんはびっくりし、「まさか!」と叫んだ。ちなみに、このM社の経営理念:「顧客第一主義」。要は、金や時間が、「ない」のではなく、お客に関係のないことにそれらが使われているに過ぎない。そうしたことを「意識していない」のである。だから、ことは簡単。「意識して」それらをより関係ある方へ振り替えていけばいいのである。 くどいが、わかった、と思っただけではだめだ。口に出して唱えても変わらない。意識して、 どうしたら消費者が喜んでくれるか、組織を挙げて、トップ以下全員が、ただひたすらそのことだけを、明けても暮れても考える。その考えたことを、手を使って、具体的にポスト・イットにでも、どんどん書き出す。書き出したものを一つずつ、実際にやってみる。ここまで至って、初めて「変わるのである」
2015.02.06
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いかに全体を想定し、最適化を描けるか、いかに長期の目標を掲げ、長期的な観点から、最適化を描けるか以下に俯瞰的に、大きな視野、大きな全体を描けるかが、経営者の器の大きさ、と、申し上げたい。視野が広がること。大きな全体を描くこと。これは、実際にやらねばわからず、やればわかること。では実際にどう体感したらいいだろう。以下、私のお勧め、あれこれ。できるだけ大きな世界地図、日本地図を壁に貼る。それも国境や行政区分がないものがいい。(理由は、後述する)できるだけ小高い丘に上がって、そこから360度の視野を見下ろすあるいは見通しのいい平地に立ち、天を見上げる。海辺に立ち、その向こうのアメリカなり、中国なりの方向をみる。高層ビルの上から、豆粒みたいな人や車の往来を眺める。といった、「なんだそんなことを」といったことだ。なんということはない。人は、自分自身をちっぽけに感じるとき、大きな世界をイメージできるし、また大きな世界を描くとき、自分の小ささを感じることができるのである。元来、宇宙は広い。世界は大きい。それを「自分」という仕切りで仕切る。「自分の課」という仕切りで仕切る。「我が社」という仕切りで仕切る。「我が集落」という仕切りで仕切る。「薩摩川内市」という仕切りで仕切る。「鹿児島県」という仕切りで仕切る。「九州」という仕切りで仕切る・・・・といったように細切れに仕切るから、狭くなる、そして縛られるのだ。自分の思考、行動に仕切りを入れるのだ。もともと、自分とそれ以外という存在しかない。その自分も、自分と自分以外のつながりであり、そこに仕切りがあるわけではない。その仕切りはすべて人間が、自分が勝手に仕切ったものである。その証拠に、県境なり、市の堺に実際いってみたらよかろう。そこには行政のたてた区分版以外、どこにも区分はないのである。ましてや、思考のなかに仕切りがあるはずはないではないか。だからせめて、考えるときぐらい、大きな思考、縛られない考えで考えてみようではないか、というのが、いいたいことである。
2015.02.05
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意識して、 どうしたら消費者が喜んでくれるか、具体的にポスト・イットにでも、どんどん書き出す。書き出したものを一つずつ、実際にやってみる。ここまで至って、初めて「変わるのである」何がかわるのか?組織が変わる。お客様が変わる。購買額が変わる。そして結果として、売上が変わるのである。ところで、ここで具体的にとは、1に、実際行動になるように、という意味である。行動とは、口と手と足とを使ってということである。口と手と足とを使えないことを書き出しても行動できない。「真心をこめて」挨拶をする」と書いてもいっても。「真心」は抽象語だから、込められない。できる、と言うのであれば、ここで実際にやってみればいい。やれはしないことだ。やれはしないことは、具体的に表現し直す。「挨拶をする」は、だれでもできるのだから、例えば、これに「頭を45度に垂れて」と、付けたとしたら、これはやれる。2に、具体的にとは、また相手が形、動作として見えるつまり、上の例で言えば、見えない真心を形化して、見えるようにすることをいう。美しい花を、「きわめて美しい花」と唱える、といったことではなくて、その「きわめて美しい花」を実際に指し示す、ということだ。但し、その「きわめて美しい花」の現物を見て、「きわめて美しい花」であるか、そう思わないかは、こちらの判断ではなくそれを見せられた相手の評価、判断に委ねられることは、言うまでもない。やってみると、それに対する相手の反応がわかる。反応は、相手の表情に表れるからだ。それで、当たりと外れが、体感できる。この繰り返しで、確実に脳の回線づくり、習慣づくりができる。普通は、誰しも「うまくいくこと」を念じているだろうから、これは「うまくいく回線づくり、習慣づくり」と言い換えられる。
2015.02.04
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お客を無視して、主観的に動いた報いは確実に訪れる。それは、虫の知らせもなく、徐々に。それがこのせいだ、という理由を知ることもなく、だ。ならば、この今からその報いが訪れない布石を講じる。それが経営者だ。戦略的経営者だ。その布石。「顧客第一主義」などスローガンにし、口で何遍唱えようと、それは自分を中心において唱えているかぎり、まったく意味もないし効果もない。そんな布石、いや布石にも成らないことをやってはいる事自体が、単なる先延ばしだ。報いの方は先延びしないから、逆に滅びを引き寄せることになる。布石とは、意志を持って、石を布のように敷き詰めていくことを意味しているここで意志とは、客観、客が自分たちを観るのと同じ観点、視点で観ること。これを意識して行うことを意味する。つまり、主観の「主」を「客」に置き換える。ここで布石とは、この習慣を組織に徹底的に浸透させること。これがなければ、絵に描いた餅だ。ここで徹底的、というのは浸透率100%ということ。難しいことだ。なら、どうしたらいいかだ。老師の言葉に、「聞いたことは忘れる見たことは覚える経験したことはわかる」経験だ。体験しかない私が、多くの経営者で実証済みの方法がある。消費者体験を増やすことだ。身銭を切って、自分が買い物をする機会を増やすこと。コツがある。他店視察、先進地視察といったように、経営的立場をどこか頭に残して、といったことでは絶対駄目だ。そうした売り手の意識を完全に抜き去ることが不可欠だ。従業員にやらしてみよう、といったことを言わずに、まず自分でやってみよう。やってみればわかるが、経営者にとっては。これが実に難しい。ついつい経営者の視点ついつい競合店調査モードになっている。それが抜けないうちは、消費者の立場など自分はわかっていないのだ、と考え、行動、行動。体験、体験。買い物を続けて欲しい。
2015.02.03
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信用、信頼の積み重ねの方は、その本人の死後も後継者が創業者の思想を継続する限り、さらに積み重ねられる。こうしたことが、長期戦略的にものを見る人には、見えるが、短絡的、短期的指向者には見えないということではどうすればいいか。やはり「おけいこ」だ。財務諸表で言えば、バランスシートの方に重きを置き、過去の10年ぐらい並べてみる。で、どうするか。そうした流れの中での経営者の意志、決断を、イメージし再現してみるのである。ここで売上が下がっているが、それはどうした経営者の意志決定が起因したのだろうか、といったように。もちろん想像でいい。そのときの経営者の身にになって、その意志決定に至った思考プロセスを再現してみるのである。財務諸表などではおもしろくない、と言う向きは手始めに、小説でやってみよう。頁をめくる前に、1頁読む度に、1に、先をかってに想像してみる。2-に、結末を予測してみる。次に、同じことを、映画でやる。また、将棋が好きな方なら、将棋はお勧めだ。先を見る。相手の立場で考える。俯瞰的みる、という感覚を身につけるには、将棋はとても役立つと、自分で体感、実感している。上に上げた例示での方法は、私がやってそれをタノウエ脳力経営塾の塾生に試みてもらいさらに、私自身、こうしたことから身につけ、一種のお宝的物差しとして、経営と経営者を見てきた。要は、結果に一喜一憂と言うことではなく、その結果から、その結果に至ったこれまでの数々の意志決定をできるだけ臨場感をもってよみがえらすことだ。それにより、その結果に至った、いわば思考プロセスの「くせ」を掴めるはずだ。次に、その経営、その経営者の、今後に置き換えてみる。この手法は、ものの見事に当たる、と断言できる。根底には、人が成したることは、人で読む、という脳力開発の真髄がある。
2015.02.02
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曰く、消費不振の時代とか。そうしたこの今、いっそう「消費者は寂しがっている」私は、その思いを強く感じるのです。ものが売れない。このことは売り手から見たら、売上不振、消費の低迷といったことになるのでしょうが、買い手である消費者から見たら、買いたいものがない、買う気にならない、といったこと。それは消費者にとって寂しいことです。もちろんその結果、作り手、売り手側の懐も寂しくなるのですが。寂しいとき、どうしたらいいのでしょう。これを考えることが、曰く、消費不振の処方箋になる。そこで、「寂しい」ということをキーワードに、話を進めてみたいと思います。消費者は消費者の特権であり、本来は楽しいことのはず。たとえば薬を趣味で買う人はいません。風邪の熱を下げて、少しでも楽になりたい、といったことで、投資をして、それを得る。投資以上のリターンがあったら、嬉しい。そうしたことは経営者と同じことではないでしょうか。その意味で、適当な投資先が見当たらない。投資に不安だ、ということで投資ができないことは、寂しいことだと思うのです。売れないということは、消費者の購買する投資先として選択されていないということ。なぜ選択されないかというと、消費者から見て、投資に対するリターンが少ないため、と考えたら、作り手、売り手として自分たちがどうしたら良いかの方向性は見えてくると思うのです。企業は、さまざまな意味で世間が狭い。世間とのズレがある。業界、という「界」という垣根を作っているからです。消費はその垣根の中ではなく、外で行われている。だったら、いかに消費者として豊かな消費者が経験を積んでいるかどうかということが経営の盛衰のキーになるのは当然なことです。その当然のことに関心薄い経営をしているから、またそれができていない。普通の消費者の生活体験画が乏しい人たちが多い業界、企業は、苦しいに決まっています。一日の大半を、工場とか本社といった檻の中で閉じ込められ、過ごしている人には、ハンディがあるといえましょう。時間に縛られている、規則などに縛られている人も然りです。縛られているということは、閉じ込められていることと同じで、日常生活を自由活発に謳歌できませんからね。
2015.02.01
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当てずっぽうでもいいから、当たり障りのないことを読むことで、驚くほど情勢判断力はパワーアップする脳のシクミ上、この道、あの道、どちらを選ぶか、といったシナプスも、この人と結婚するか、あの人とするかのシナプスも、道路で1円落ちている。拾うか、無視するかの判断シナプスも、首をくくるか、くくるまいかのシプナスも、かかる負荷の違いはあっても同じ回線、同じことである。これ、一事が万事といってよい。だから、反省は、あくまでおきたこと、あったことを認めた上の「反省」でなくてはならない。ましてや「このこと、なかったことに」といったことはありえないし、万が一あったとしてもそれは認めてはならないのである。次に、それはどうしておきたのだろう、という理由を明確にし、客観的に押さえた上で、できれば複数の対応策を考えるそうした日常での何気ない些細なことを繰り返すことで、脳の回線が作られる。こうしたことでの脳の回線つくりこそ、脳力開発、情勢判断力の狙う研鑽、と私は考えている。それを心の負担を避けるためにか、あるいは逃避的に、ただ「反省」といったことではその反省は、言葉で終わり、その判断違いは、まず繰り返されることになる。確信犯的判断違いも少なくない。その典型が、談合事件。その繰り返しを見よ。繰り返しつつ、さらに、些細なミスすらも、「ひとつ間違えば命取り」、「ひとつ間違えば、俺の会社でも起きること」、といったように重さを加え、「反省」をすることで、将来(さき)に起こりえる命取りを救う確率が、高くなっていくのである。これが予測力、情勢判断力の真髄である。飯食うに、それいるの? 最初は、田上か一度体験した人が3時間ほどの他の研修の中で、同時並行の形で研修する。つまりわざわざこの技法習得の研修は、一切不要、ということだ。経営革新のセミナーでMMAPを習得できる。創業塾でMMAPも習得できる。経営計画を作成するときに、MMAPを習得できる。社員教育、就活セミナーでMMAPを習得できる。 それで、その日からやれる。 インストラクターがいなければやれない。そんなものではない、ということだ。一度やったら皆やれる。みなインストラクター。飯を食うのにインストラクターは必要ない。普段呼吸をするのに赤ん坊はインストラクターから学んだか普遍性とはそういうものだ。ところで、なぜこのMMAPが出てきたかというと、私は師 城野 宏の提唱した脳力開発の指導者である。情勢判断学の指導者である。この2つをひとことで言えば、「脳の回線づくり」といってよい。そのためのツールとして創案したのがMMAP。言い換えると、脳の働きをモジュールしたのがMMAP。つまりMMAPをやると、脳の新しい回線が創れる。その意味で脳力開発と素情勢判断学を習得したことと同じことになる。脳力開発の創案者、師の城野 宏は、脳力開発のアプリケーションツールとして護身道を創った。私はMMAPを創った。いつかと向こうへいったら、師匠に褒めてもらおうと考えている。脳の働き、動きだから普遍性がある。あれに使えてこれには使えないと言うことがない。諫言すれば、手法(戦術、ツール)ではない、ということだ。このことは、極めて重要なことなので、稿を改めていつか触れてみたい。
2015.01.31
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感想とは、感じ思ったことを形にすることだ。思いを形にするのに、形容詞をつける。そこで、たくさんある形容詞の中から,人は自分で選択し、1つを選んで付ける。ここに、一羽のアヒルがいます。Aという子供がそれを見て、「可愛いアヒル」といって頭をなで、なでしました。それで、それをみてBという子供も、頭をなでなで。でもどうしたことかアヒルは、その子供に凄い形相をしてかみついてしまったのです。それで、Bと言う子供は、「怖いアヒル」だ、と泣きながら先生に、訴えました。先生が、クラスの子供達に問いかけます。ここに一羽のアヒルがいます。Aさんは、可愛いアヒルといいました。Bさんは、怖いアヒルといいました。みなさん、このアヒル。可愛いですか。それとも怖いですか。と50人のクラスの子供達に尋ねました。子供達は、可愛いか、怖いか,どちらの見方に味方をするか,喧々交合論議となりました。「ボクはAさんの見方に味方する」「そう。Bさんは恐がりなんだ」「いや、Aさんはぶりっこなんだ」「それにA さんはアヒルの怖さを知らないんだ」論議は熱を帯びます。議論している間に、アヒルの話が、AさんとBさんの対立構図になってきたようです。しばらく子供達の議論を見ていた先生が、どうですか。このアヒル。可愛いですか。それとも怖いですか。どちらでしよう。それとも・・・・・・・・・、と言いかけたとき、学級員のCさんが、「先生、日本は民主主義の国です。ですから多数決で決めたらいいのではないでしょうか」と、提案しました。いや、はや、こんな大人みたいな子供たちがいるはずはありませんごめんなさい。私の作り話ですから、子供達に謝ります。長い間、多くの企業と関わってきて、その体験でいうのですが、上のような嘘みたいな議論、会議がまじめに行われている。そのおかしさに気が付いていない。そのことを揶揄したかったのです。
2015.01.30
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消費者のチラシに対する不評、風当たりなどは、売り手の想像以上のものである。そんなことはないよ、と思っている人は、それに釣られて来店した客だけを見ているからである。いかなる超繁盛店でも、来店しない人が圧倒的多数。そこでPOSデーターみて、これ消費者が支持している証しと思っている人がいたら、とんでもない思い上がりである。見える情報、見せられる情報以外に、見えない情報、見せない情報があること。情勢判断には、この後者を強く意識して臨むことが不可欠である。不振の因、来店客数の減少、つまり集客力の減少。つまり、来店していないお客の方を見ていないから、わからないのである。だから、「今度のチラシ、効かなかった」といったような、バカな会話が反省会ででるのである。その根本には、売り手都合のありかたがある。すなわち買う人を主語とせず、買い手の売上獲得に狙いを置いての販促企画である、ということだ。では、としたらどう考え、どう対応したらいいのか。それは、キャッチフレーズ的に表現したら、「買い手側に立った販促、情報提供」「情報を受け取った方に、明白に利が見える販促、情報」といったことになろう。しかし言葉の表現を変えただけでは、消費者には通じない。そうした「狼と少年」を繰り返すだけであろう。まず、売り手の組織に体質的にしみこんだ、売上至上主義、売上即効性偏重といったことから、完全に脱する決意をし、高らかに宣言する。まず売上稼ぎのための販促から完全撤退する。 併行し、この戦略転換ができなければ、やればやるほどじり貧へ近づくための努力になり、ひいては企業の存亡になることを、徹底的に組織に浸透させていく。その上で、販促は“そのこと”を繰り返し、し続け、かつ進化させることで、暫時、より売れ続ける体質づくりを具現するもの。といった本来の役割、ありかたに戻すことである。“そのこと”の内容を一言でいえば、「消費者が最適の選択ができる正しい情報の提供」である。たとえば、こういうことである。「これ、安いよ、お買い得ですよ」とわめいている店員に「どうして?,なんで?」「あれとどうちがうの?」とお客が尋ねたとして、これは「豚30%,牛70%の合い挽きミンチ,どちらもオーストラリヤ産。こちらはどちらも和牛。だから高いのですけど。ハンバーグならこちらがでもミートソースや焼きそばであればこちらで十分」といったこと。要は、こちら都合、こちらが用意した、先取り情報を一方的に流すのではなくて、相手に必要な、そして欲している情報を相手から聞き取る耳を持って、それを取り入れて、それに対する最適の情報を伝えること。これがここでいう私の[情報]である。
2015.01.29
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情報の話を続けている。ここで、うんと砕いた話をしてみたい。TVではなくラジオで、アナウンサーが挨拶代わりに必ず女性歌手の着ているドレスを話題にする。つまり褒めている。「なんでや」、といつものくせで、考えてみた。 もちろんアナウンサーは、ラジオでは、女性歌手が着ているドレスは視聴者にはわからないことはわかっている。だから、伝えるのだ、といってしまったら、間違いではないが身も蓋もない。私がいろいろ考えたことのおおよそを述べると次のようなことになる。出演する歌手は、ほぼ固定的。つまり、代わり映えがない常連である。とすれば話題にすることは、1に、変化する「もの」、あるいは「こと」。「変化」でもって、斬新さを加えてやらねば、歌う歌も同じだから、番組自体がマンネリ化してしまう。かといってまさか歌手に向かって、毎回変わり映えしない唄を、「お上手になられた」とは、お世辞にもいえまい。 容貌もそうだ。「お美しいですね」と言えない人もいるし、いいたくても他の歌手の手前がある。「お化粧がうまくいってしわが見えなくなりました」変化を正しく伝えてることもできない。それに容貌は、回を重ねるごとに衰えるもの。それを「いや、今回はお美しく」といったとしたら、整形の成功への賛辞になってしまう。これは惨事だ。としたら、変化で無難なもの、ということで、2のドレスということになる。もちろんドレス以外に、その間変化する「もの」、「こと」があれば、それが優先される。たとえば新曲があるときはそのことを話題にするし、その歌手にまつわる変わったこと、結婚とかリサイタルとかがあれば、それがマイナスにならない限り、ドレスではなくそちらで、よいしょする。 注意して長く見ていると、よくわかるのだが、ここらがアナウンサーの技量の差。というより、情報とはなにか、ということへの理解度と技量、手間暇をいとわない、といったことになる。
2015.01.28
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「企業全体でせっせとやっていることは、さらに大きな墓穴堀り・・・」といった事例は、けして少なくはない。こうした私の言い回しが大げさに聞こえ、ことの大変さが理解しょうとせず、放置。さらに、そのなしていることを日々、些事として見過ごしている「こと」の重大性が理解されていないに他ならない。気がつかないから、やがてその損失金額は莫大になる。そして、突然、コトはおきる。プラス事を積み重ねれば、プラス事の山となる。マイナス事を積み重ねれば、マイナス事の山となる。プラスの山の積み重ねは、周囲の人々が支えるから崩れることはない。しかしマイナスの山は、損失の山。これを喜んで支える人たちがいない。いないだけではなく、最初ちょろちょうろ、あと一斉にパーッと離散し始める。だから、突然、山は崩壊する。とりあえず、この今から机上と現場での視点のずれ、意識の乖離といったことから生じる夥しい損失の恐ろしさに気づくことだ。そしてその分のエネルギーやコストを、消費者・利用者の喜ぶことに振り替えることである。これまでマイナスになることに投じていたエネルギーやコストがプラスになることに投じられるのだから、余分にかかるどころか、業績に倍加して貢献することになる。一人の口コミはねずみ算で拡散する。その内容がマイナス事でもプラス事でも、変わりないコトを考えれば、当然だ。もともと事業の本質は、その存在、なす事の意義が、他の人にとって有り難く、喜ばれることを持っている。故に存在し、成り立つものである。人は生きていくために、日常生活で必要なものを欠かせない。これまで、山を超え、谷を越えて、それを手に入れに行っていた村人たち。そうした村に、その山の向こうから峠を越え、それらの商品を背に担った商人にくる。そうしたときの村人の気持ちはどうであろう。商人に対する、気持ちはいかがなものか。そうした村人の思い、気持ちを、今の商人達は自ら彼らに抱かせることができるのか。そうした村を訪れる商人に、チラシやCMが必要だろうか。こうした話をすると、きまって「そりゃ、時代が違いますよ」「今はね、競争関係がありますしね」「ものあまりの時代で、お店もいっぱいありますしね」と、言い出す。言い出さなくても、心にそう思っている。そうした堂々巡りしたい人は、「どうぞ、そのまま」と言いたい。私は言いたい。「時代が違っても変わらないものありますよ。そこへ着眼されたら」「今、競争関係があるから、なおのこと、お客様が喜ばれることを欲されておられるのです。そこへ着眼されたら」「ものあまりの時代で、お店もいっぱいありますから、消費者は選択眼が鋭く自分たちが喜べるお店を探しておられるのです。あなたのお店がそれになれば良いではないですか」ときおり私は、悲しくなる。宝の山は、人間にとっては宝の山だが、人間以外の動物たちにとっては瓦礫の山にみえるのか、と。
2015.01.27
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1つのものをみて、それに付けることができる形容詞は、形容詞の数だけある、といってよい。人は、それぞれ自分の思いの中から、それに似つかわしい形容詞を無意識、ときには意識的に付ける。様々な形容詞の中から、それぞれ違う人間が、いわば自由選択すれば付けられる形容詞も、いろいろになるはずだ。ところが現実は、違う。ごく限られた形容詞に集約されるのだ。このことを、週刊誌の書き出し風に表現すると、選択肢がいくらでもあるのに、択一に絞られて物事、価値観まで決めなければならなくなった、縛りでがんじがらめの社会、企業の組織。といったことになろうか。しかし、このことを煎じ詰め、極端にいうと、下記のようなことになり、私はぞっとするのだ。ある会議の席上。社長:「これは、間違いなくバカ売れ商品になる」司会:「今の社長のご意見をどう思うか。くったくない意見を許す」。A:「間違いなくバカ売れするでしょう」B:「社長やA専務のおっしゃるとおりバカ売れまちがいなし」。C :「御意、B部長の申されたとおりです」D:「私も、同意見です」まさに、まさに、付される形容詞は、裸の王様により集約されていくのである。もう一つ。以前、ここにアンルイスさんの話を書きましたが。それを思い出している。アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。 以下、彼女の話の概要。売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。だが、だれも注目しなかった。親しい先輩が、こういってアドバイス。 「アン。だめよ。あんなケバケバの安物を身につけていては。有名になりたかったら、無理してでも本物を身につけなくちゃ」。何年か後、売れっ子になった。彼女が身につけているのは安物の宝石である。 みんながアンに、こう言ったそうだ。「アンさん、すごくすてき。あんな高価なもの身につけて。うらやましいわ」。(この会話、田上の意訳)まさに、まさに形容詞は、変わるのである。そして肝腎なことは、どんな形容詞が付けられようと、どうであろうと、本体自体には、「変わりがない」ということだ。
2015.01.26
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