オトキチ日記

2007年04月21日
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カテゴリ: 小説
『小説の自由』と『小説の誕生』をようやく読了。
理解できて共感できたのが半分。理解は出来るが共感できないのが1/4、そもそも理解できないのが1/4。そんなところか。
この本は著者も言うとおりに引用が多くて、かつ哲学関係の引用が多く、そのあたりで理解できない部分が多かった。アウグスティヌス、ハイデッガー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなど、そのあたり。

それでつくづく思うのだが、哲学の文章の原文はほんとうにこんなに読みづらいものなのか? ということだ。つまり翻訳がおかしいのではないのかね?

たとえばこういう文章。

人格的摂理――生のある高い一点がある。われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。つまり、そのときこそ人格神の摂理という思想が心ゆすぶる威力をもってわれわれに迫り、事実上の証明という最善の弁護者を味方につけ、自分の遭遇する何から何までが、たえず最善なことになるということを、われわれがまざまざと経験するからである。

単語自体は難解ではないのにすこぶる読みにくい。
原文が英語かドイツ語かラテン語か知らぬが、早い話が直訳で、英語(かドイツ語かラテン語)の複文構造そのままに語順通りに訳しているから日本語になっていないのではないか?

われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。

これで一文にすること自体が日本語に翻訳する意思の放棄だと思う。
ちなみに戯れに重訳してみると、

私たちはそれに到達したときに、ふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面する。そして最も困難な試練に耐えなければならない。どれほどの自由を持っているにせよだ。また、日頃、生存の美しい混沌のなかにはいかなる配慮的な理性も善意も存在していないと考えてきたにもかかわらずである。



良い本ではあったけれど。





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最終更新日  2007年04月21日 21時35分55秒
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