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にほんブログ村 高見観音の話が続き、みなさんも飽きてきたかもしれません。そこで息抜き、久しぶりに鯖弘法(鯖大師)をご紹介しましょう。この鯖弘法は、名古屋市 日泰寺 舎利殿・霊堂の手前におられます。舎利殿などは日泰寺の本堂がある境内の北東にあります。大きな交差点を介して境内から距離も離れています。真面目そうなお姿です。横から見ると、やや前のめり?背中の石板が重いのでしょうか。重荷を背負っても表情はにこやか。しかも手のサバも離さない。さすが弘法大師様です。鯖弘法、化粧地蔵なども、まだ幾つもご紹介できていません。花の話も書きたいので(笑)、高見彰七以外の話題も時折、ご紹介したいと思います。今後もよろしくお願いします。【 薄焼きお魚せんべい 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.29
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にほんブログ村 高見彰七のコンクリート像 リンク集2「観世音菩薩像」更新しました。新情報のご提供、ありがとうございました。まだ新情報はありますので、準備でき次第ご紹介します。●【リンク集1「神馬」編】 「高見彰七 神馬編」●【リンク集2「観世音菩薩」編】 ★ 更新 ★ 「高見彰七 観世音菩薩編」●【リンク集3「その他」編】 「高見彰七 その他」●【妙楽寺の仏像群】 「妙楽寺」●【年表】 「高見彰七 製作年 (年号記述があるもののみ)」【 どら焼きセット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.27
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にほんブログ村 高見彰七氏の観音像の製作風景をご覧ください。型ずれや割れの形状から、ある大きさ(70~80cm)以上の像には、型枠を使って作成し、前後を接合した像があると私は推定しています。写真の観音像も前半分しかないように見えないでしょうか。製作に3ヶ月かかったものもあるとされ、少なくとも仕上げは細かな手作業があったとわかります。高見彰七氏と浅野祥雲氏の活動時期やエリアは重なります。高見彰七氏は1890年生まれ、浅野祥雲氏は1891年生まれ。高見彰七氏が1歳年上でした。大きな違いは、浅野祥雲氏が造形を職業としたのに対して、高見彰七氏はあくまで農業を本職としていた点です。活動エリアも時期も重複する浅野祥雲氏を、高見彰七氏が意識しなかったわけはないでしょう。高見彰七氏は、インタビューに答えています。「素材はコンクリートでも問題ではありません。まごころです。」【 ドゥーブルフロマージュ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.24
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にほんブログ村 今回は高見彰七氏の姿をご覧頂きましょう。高見彰七氏の姿は、全国紙の雑誌にも掲載されています。次の写真は、昭和36年、高見彰七氏が71歳の時のお姿です。とても快活そうなお姿なのは、高見氏が普段から体を動かしていたからでしょう。高見氏の本業は農業で、観音像作りはあくまで趣味でした。若い頃から信心深かった高見氏は、夢枕に観音像の御姿を見たという。それから約40年後の昭和22年、仏像そっくりの木に出会いました。その木を素材に仏像を彫ると、なかなか上出来だったそうです。ただし木材は入手が困難です。そこで25年頃から、コンクリート(モルタル)を素材に代え、次々と観音像などを作りだしました。願ったのは「夢の観音像の再現」でした。つまり、少なくとも250体以上の作品を、たった11年で作ったわけです。本業とは別の取り組みにも関わらず。高見彰七氏は、インタビューにこう答えています。「死ぬまで元気に作り続けます。」写真の高見彰七氏は、自作の馬にまたがっています。その姿からは、作品に対する強い愛着が感じられます。しかし、この写真の馬にも、私はまだ出会えていません。【 冷やし大福 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.22
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にほんブログ村 多数の高見彰七が発見されました。現在、公開登録総数は98体(内、妙楽寺56体)になりました。なぜ、私が高見彰七を追うのか。それを理解頂くためにも、皆さんにも「高見彰七の真実」の一部をお伝えしたいと思います。妙楽寺の高見彰七作品群は、かつては他の寺院にありました。そしてその寺院が引き取る前は、道路沿いに並んでいました。その道路沿いの作品群が、どれほどのものであったのか。次の1961年(昭和36年)の豊田市宮口の写真をご覧ください。道路沿いに並ぶのは、高見彰七の作品群です。幅50メートル、5段の土手に並ぶ作品群は、総数250体。あまりの数に驚かれたのではないでしょうか。土手の最上段にあるのは、高見彰七の住宅です。当時、この場所は名所になり、観光バスも来ていたそうです。その後、何があり250もの作品が撤去されたのか。その一部でも保存するため、高見彰七はどれほど東奔西走したのか。神社、寺院のみでなく、公園、池の縁、路傍、交差点、駐車場。あらゆる場所でみつかる高見彰七作品。吉浜人形本店では、高見彰七から観音像の設置を懇願されたという記録。新発見があるたびに、高見彰七を襲った悲劇と苦労が偲ばれます。名所になり、有名人でもあった高見彰七が、なぜこれほど地元の人の記憶からさえ消えてしまったのでしょうか。人は何も残すことはできないのでしょうか。その答えが知りたくて、私は高見彰七を追っています。そのわずかな痕跡を追い、出会えた高見彰七作品は、まだ100体にもなりません。【 焦がしキャラメル・バウムクーヘン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.20
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にほんブログ村 新発見の高見観音をご紹介します。実は本件は発見者「おいもさん」から、かなり前にご連絡を頂きました。【おいもさん】 「おいもさんのX(旧Twitter)」ところが私がこの場所を個人私有地と勘違い。紹介を断念していましたが、実は日泰寺の一部でした。(No.27) ・所在地: 名古屋市 日泰寺 ・製作年月: 不明 ・作家銘: 未確認 ・特徴: 半流れ形,白色塗装 ・発見者: おいもさん( @oimokotaro )塗装された等身大の高見観音です。何度も来た日泰寺ですが、周囲には広大な霊園なども広がります。そのため、未踏の地も少なくありません。日泰寺の外周には「四国八十八ヶ所めぐり」の石仏群もあります。この高見観音は、そのエリア、日泰寺の東側にあります。このエリアはフェンスで囲まれ、入り口は閉じられています。つまり立ち入り禁止です。そのため、高見観音の撮影はフェンス越しになります。私が紹介をためらったのもそのためです。台座は新調されていて、塗装もまだ綺麗です。信仰者がおられる安心感はありますが、立ち入り禁止扱いには維持管理の不安も感じます。おいもさん、確認、公開などが遅れてすみませんでした。また貴重な情報、ありがとうございました。【 塩レモンピール生チョコ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.17
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にほんブログ村 京町公園、推定・高見観音の続きです。観音像のモルタルの材質までのコメントも頂き、みなさんの高見彰七作品への精通ぶりには驚くばかりです。私は独特のお顔を見て、「あれだ」と思いました。あれとは何か?それは法隆寺夢殿の秘仏、救世観音(くぜかんのん)像です。かつて救世観音は絶対秘仏でしたが、今は期間限定で公開されています。私も秘仏公開で救世観音を拝見しました。それでは救世観音とお顔を比較しましょう。右が救世観音です。(救世観音画像出典: 辻本米三郎氏影撮,https://takashikun.blogspot.com/2012/06/blog-post_1435.html)日本人離れした分厚い唇と微笑みが特徴の救世観音。いかがです? 似ていませんか?そういえば、厚みの薄い高見観音のフォルムや衣装は、飛鳥仏に似ている様にも思います。救世観音は本来、仏教にはおられません。ですので、仏教的な比較ではありません。ただ似ているというだけです。一方で、救世観音は聖徳太子の顔を模したとも言われます。故に、聖徳太子は渡来人という説もあります。仮に高見彰七が聖徳太子をイメージして救世観音を作ったとしたら、どんな想いがあったのか、思いを馳せては如何でしょうか?【 水あんみつ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.15
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にほんブログ村 高見観音の新発見の御報せを頂き、現地確認致しました。今回も発見者は「FDG公式さん」です。【FDG公式さん】 「FDG公式さんのH.P.」ただし今回の新発見も難題です。私は高見彰七作品と思いますが、あまりに造形が独特なので確率80%として登録させて頂きました。(与次作品の発見により、弱気の認定となっています)(No.26) ・所在地: 愛知県豊田市京町 京町区民会館(京町公園北) ・製作年月: 不明 ・作家銘: 無銘 (確率80%) ・特徴: 直立形,高さ台座上から200cm 胸部幅55cm,胸部厚さ30cm先回、霊岩寺の謎のコンクリート像をご紹介しましたが、あの巨大な地蔵像には、この京町の観音像の現地調査に行き、近隣の調査で出会いました。観音像の寸法を計測していますが、ちょうど区民会館の始業時間で、さらに観音像側の窓が開けられ、窓際で計測している私の不審な行動が会館の皆さんには気になったことでしょう。ご迷惑をおかけしました。では、今回の観音像をご覧頂ください。独特のお顔で、従来の高見観音とは異なります。FDG公式さんによると、この観音像は移設とのことでした。もともとは付近の道の分岐点にあり、区画整備で移設されたとのこと。いかがでしょうか。眼には象嵌が埋め込まれています。推定・高見観音では、初の象嵌を使った眼となります。これは型を使うだけではできないでしょう。背面に粒径が大きな石が入っています。背面に粗いモルタルを使う、高見彰七作品の特徴があります。FDG公式さんからの写真を拝見した時、「この観音像はあれだ」と私は思いました。何を思ったのか、次回、お話ししますので、皆さんも御推察ください。【 バウムクーヘン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.13
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にほんブログ村 驚きの新事実が発覚しました。岡崎市 享禄山 見徳寺の観音像を覚えておられるでしょうか。リスト第2集No.23に、確率50%の高見彰七作品として登録した観音像です。「No.23 見徳寺」別の観音像の関係から、「FDG公式さん」の過去の公開情報を閲覧させて頂いていました。【FDG公式さん】 「FDG公式さんのH.P.」その中に、見徳寺の観音像によく似た観音像があるのに気づきました。「豊田市 八王山 春光院」FDG公式さんも、初めは高見彰七作品と思われたようです。しかし次の渡刈町の観音像に遭遇され、作家は「与次」であり、高見彰七作品ではないと考えられたそうです。「豊田市渡刈町 路傍」 (背面に「与次作」とある)春光院、渡刈町の観音像の画像はFDG公式さんからお借りしました。見徳寺、春光院、渡刈町の観音像は、全て「与次」作と思われます。胸に抱いた蓮の花、前に垂れた2本の紐なども共通しています。●「与次」とは誰か?与次のコンクリート像の造形が、高見彰七作品と良く似ています。これだけ類似しているのですから、高見彰七と無関係とは思えません。「与次」は「よつぎ」、つまり「世継ぎ」とも読めます。そのことから、高見彰七の弟子、または御親族かもしれません。自身を銘板に「高見彰七老人」と刻むほど洒落っ気がある高見氏ですから、後継者を「与次」としても不思議ではないでしょう。●「与次」は「雲岳」の様な存在か?あるいは浅野祥雲作品の例が思い出されます。浅野祥雲作品と酷似したコンクリート像には「雲岳」銘の像があります。雲岳は浅野祥雲と同一人物とも、別の人物とも言われ、まだ確定はしていません。与次と高見彰七が同一人物である可能性も否定できません。●なぜ見徳寺の銘板は剥がされたのか?見徳寺の観音像の銘板は剥がされています。「与次」と作家銘があったのであれば、剥がす理由は何でしょうか?これもまた不思議です。「与次」銘の登場で、高見彰七の謎がさらに深まりました。そしてさらに探究が面白くなってきました。見徳寺の観音像の判断は悩みましたが、「高見観音である確率50%」でまさに正解でした。「与次」銘の作品は、実際「高見彰七作品確率50%」の存在です。見徳寺や、FDG公式さんの画像データとの出会いや入手順序、その出会いに運命的なものを感じています。春光院をNo.24、渡刈町をNo.25に「作家銘:与次」として登録します。【 栗きんとん 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.11
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にほんブログ村 豊田市の霊岩寺、謎の巨大なコンクリート像、続きです。霊岩寺の山門は、檀家以外には閉ざされています。過去に不審者の侵入などがあったかもしれません。コンクリート像は高台にあり、階段もありません。足場の巨石は傾き、落ち葉で滑ります。地蔵の高さが3メートル超ですから、かなりの高さにあります。落下しないように注意して、コンクリート像を見ましょう。前後合わせ目を、ノロで埋めた様な痕が見えます。これは高見彰七作品の特徴です。足元付近、前後中心線にヒビ割れが少しあります。背側のモルタルも粗くはありません。型を使ってはできないような鋭い線刻もあります。錫杖さえも平面的に作り、体にくっ付けてしまう。故に錫杖が短い。これも高見彰七作品の特徴です。近くで見ると、高見彰七作品の特徴も見えます。お地蔵様、貴方を作ったのは誰ですか?【 甘夏もち 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.09
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にほんブログ村 高見彰七作品を探していて、巨大なコンクリート像に出会いました。場所は愛知県豊田市の霊岩寺です。まずはご覧ください。大きな地蔵菩薩が、高台に立っています。見覚えがあるようなコンクリート像です。高さは足場が不安定で計測できませんでしたが、3メートル超はあるでしょう。手前にある花入れの造形は、浅野祥雲の作品に似ています。これだけ大きな像ですから、何か情報がありそうです。私は情報を持っていませんので、なにかご存知であればお知らせください。コンクリート像右側にある石碑の裏に何か書かれていたかもしれません。私は確認を忘れました。霊岩寺の境内には、檀家以外立ち入り禁止です。このコンクリート像は山門に向かって右に行き、かなり離れた場所にあり、境内には入りません。次回、このコンクリート像の現地確認情報をもう少しお伝えします。【 贅沢パフェアイス 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.07
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にほんブログ村 享禄山 見徳寺のコンクリート像(モルタル像)、第3回です。●高見彰七作品とする理由 2 (紐)見徳寺の観音像の脚部をご覧ください。着物前に2本の紐が垂れています。そして向かって左の紐がやや短くなっています。では、浄嚴寺の高見観音を見ましょう。同じく、左が短い2本の紐が垂れています。これも多くの直立形の高見観音に共通した特徴です。●高見彰七作品とする理由 3 (足元)上記の浄嚴寺の高見観音をもう一度ご覧ください。多くの石像と同じく、高見観音でも脚が省略されています。そして向かって左の足元に、謎の「く」の字の表現があります。直立形,流れ形を問わず高見観音に現れる「く」。初め、これが何かわかりませんでした。ここで、古瀬間御嶽神社の高見観音をご覧ください。これを見る限り、「く」は着物の裾の表現です。たしかに石仏などでも、似た裾の表現はあります。そして「く」は、今回の見徳寺の観音像にもあります。前回の「ハス」、「指」、「腕」、今回の「2本の紐」と「く」。それらも含めて、私は見徳寺の観音像も確率50%で高見彰七作品としてリスト登録しました。【前の記事】 「享禄山 見徳寺の観音様 その1」【前の記事】 「享禄山 見徳寺の観音様 その2」ここで突然ですが、次回は謎のコンクリート像の情報提供を呼びかけます。高さ3メートル強の巨大コンクリート像と遭遇しました。高見彰七作品の特徴もありますが、浅野祥雲作品の特徴もあります。次回、その新発見(?)を公開します。【 ひんやり涼菓セット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.05
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にほんブログ村 享禄山 見徳寺のコンクリート像(モルタル像)、続きです。●まず初めに、この観音像は移設と推定されます。 観音像の背面をご覧ください。脚の部分に四角い凹みがあります。これはおそらく銘板を意図的に剥がした痕でしょう。寄進者や建立者の書かれた銘板を剥がすというは、観音像が当初はこの寺に寄進されたものではないからでしょう。銘板といえば、吉浜善光寺本坊 柳池院の観音像を思い出します。高見観音と推定しているリストNo.6の観音像です。●高見彰七作品とする理由 1 (蓮の花)今回の観音像の胸元を見てみます。胸元に抱えたハスの花が目立ちます。観音像といえば持物はハスの花ではありますが、このハスの持ち方は高見観音特有です。多くの観音像は下記の様に、花瓶に入ったハスを持ちます。さらに手の指は簡略化され、平面的な表現です。また多くの場合、左手が前です。腕も身体と一体化し、立体的な腕ではありません。立体的な腕は破損しやすいためでしょう。このハス、指、腕の表現は、直立形の高見観音の多くに共通して見られます。一例として、浄嚴寺の高見観音の画像を挙げます。ご覧ください。似た造形があるのがわかるでしょうか。次回、決定的とも言える、もうひとつの判別理由をお示しします。【前の記事】 「享禄山 見徳寺の観音様 その1」【 もちぷりん 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.03
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にほんブログ村 すっかり高見観音の鑑定士級になった皆さんに、問題作をご紹介しましょう。その問題の観音像があるのは岡崎市 享禄山 見徳寺です。1体の観音像があります。かなり特異なお姿の観音像です。私が発見後も悩んでいましたが、確率50%の高見彰七作品として登録します。(No.23) ・所在地: 愛知県岡崎市仁木町 享禄山 見徳寺 ・製作年月: 不明 ・作家銘: 無銘 (確率50%) ・特徴: 直立形,高さ台座上から113cm,台座含めて126cm 胸部幅32cm,胸部厚さ20cm,裾幅48cm岡崎市にはもう1件、同名の「見徳寺」があります。ご注意ください。今回の見徳寺はこちらです。 〇享禄山 見徳寺: 愛知県岡崎市仁木町字東郷48・49まずはじっくりとご覧頂き、皆さんもお考え下さい。三角形のお鼻が印象的です。大きく開いた裾も独特です。問題作ですので、次回、細部を検証します。私がこの観音像を高見観音とする根拠を説明します。【 箸置き 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.01
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