全21件 (21件中 1-21件目)
1
今月の休みの3分の1がもう既に終わった。明らかに早すぎる。2月と言えば1年の中でも最も日数の短い月だということは自明のことだ。その日数は2・4・6・9・11以外の月と比べると3日も違う。例外的に閏年なるものがあるが、それを加味しても2日も違うことになる。そしてそんなに短い日数から「所労」なる恐ろしいものを算出し、その数字を月の日数から引き算すると「9」という数が出てくる。確かに私にも9日の休みがある。だが!!それはあくまで休みとして「扱う」だけであって、休みではない。形骸という言葉をこれ以上ないくらいに痛感できるとはこのことだ。夜勤のある仕事で、夜勤の明けを休み扱いされることほど辛いことはない。そして、私は不幸にも2月の中で、夜勤の明けが休みとカウントされてしまう地獄夜勤(仮名)が3日もある。結果9日ある休みから3日が引かれ、1ヶ月に6日の休みという結論が導かれる。QEDそして2月1日と2月2日の2日間私は休みだった。残りの休みは4日、これだけの休みで2月を乗り切れというのだろうか!?酷過ぎる…_| ̄|○涙を堪えて本題へ。「マクドナルドの不思議」ももう4回目を迎えることになった。まこと、このお店には謎が多い。そして今回の話は、私が名古屋で経験した話だ。その日、私は三重へと急いでいた。三重という県の位置柄、効率的に行く方法がなかなかない。新幹線で行こうとも、必ず鈍行には乗らなくてはならないことになるからだ。まぁのんびりとした鈍行の旅もまたいいものだ。せかされる気持ちを抑えつつも、私は鈍行に乗り換えることに決めた。そう決めたのが名古屋の駅だった。名古屋の駅前は本当に広い。そして私が最後に訪れた時よりも更に都会度を増していた。道路は広くなっていたし、ビルだって立派に建っていた。人の行き来も激しく、まさに絵に描いたような都会だったのを覚えている。そんな久々の名古屋の風景を楽しみながら、何故か私の足が向かったのはマクドナルドだった。どうせ名古屋に行ったのならば美味しいものでも食べればいいと思われるかもしれないが、如何せん私には鈍行でのんびり旅をする為の時間を確保するという急ぎの用事があったのだ。矛盾しているが本当のことだ(笑)ゆっくりした時間を稼ぐ為には、ご飯も短く済ませる必要がある。というわけで、私は名古屋駅前のマクドナルドによることにした。時期は冬、ナナちゃん人形もサンタの装いをしていた。しかしながら、あれはいつ見ても可愛いというよりは気持ち悪く見える。私だけだろうか?大体あれだけ巨大な意味がわからない。話が脱線した。。。兎に角マクドナルドに行った私は、適当に頼もうと思い、レジの前に行った。流石は天下の名古屋駅前のマクドナルドだ、人の数が尋常ではなかった。にも関わらず過去の「マクドナルドの不思議」で触れたような所謂「端のレジを使わない病」は名古屋駅前のマクドナルドにも蔓延しているようで、沢山の人が並んでいるにも関わらず、右端のレジは店員がいなかった。やっぱりかい!と思いながらも私の番がまわってきたので、適当に目についたセットを頼もうと思った時、店員の女の子に衝撃的なことを言われた。「お召し上がりですか?」……( ゚д゚)!?一瞬何を言われているのかわからなかった。「お召し上がりですか?」私がまっとうな20代の耳を持っているのならば、確かに店員の女の子は名古屋訛りでもなく綺麗な標準語でそう言った。何を言っているのだろうか。お店に来て食べ物を頼んでいるのだから、召し上がらないわけがない。買ってそのままゴミ箱に捨てる人が多いからそんなことを言うならわかるが、そんな文化は今のところ日本には根付いていない。買ったからには食べる、これは常識だ。私は常識がないように見えたのだろうか?見ると、どのレジの店員さんもお客さん全員に対して須らく「お召し上がりですか?」と聞いている。本当に混沌とした光景だった。まぁこのことは真剣になって考えるまでもなくわかることだ。「(お店で)お召し上がりですか?」という意味だ。最近は略語が流行っているので、その文化を取り入れたのだろう。まぁ普通なら珍しい言い方をするなぁと思いそこで終わりなのだが…。どうしてもこうなると関西人の血が疼くというものだ。命題:もしも「いいえ」と答えたらどうなるのか?ミッションスタートだ♪私はいいえと答えた。店で食べるつもりだったからだ。するとまぁ当たり前のように、トレイが用意され、注文した品物が運ばれてきた。何と言うつまらなさだろうか。普通過ぎる。スマイル0円などという画期的なことをしておきながらこの体たらく。誠に遺憾であると言わざるをえない。とは言っても、実際に持ってこなかったらクレームの嵐だろう。私的には持ってこなくて「ちょいちょーい!」とツッコむのを待っていただけに肩透かしを喰らってしまった。そんなくだらない話でした(笑)こういう言い方をするのは名古屋だけなのだろうか??
Jan 31, 2009
コメント(1)
高卒で資格特に無実務経験無で面接もほぼおざなり職務2年目で、夏のボーナス三桁超そんな超優良企業が今や勤務日数よりも休日の方が多いという始末因みにどのような業界かは敢えては言わない。今世間をにぎわせている業界であることだけは予め付記しておく。世の中というものは本当にわからないものだ。つい最近までは給料の払い方もよく、有給だって消化したいだけ消化できたような会社が、今では製造ライン完全ストップという目に遭っている。本当に世の中はわからない。考えてみれば、世の中にはびこっている数多の仕事だって絶対はない。公務員や国家資格を必要とする仕事は確実なものが多い分、仕事に就く為に支払うべき対価も大きい。文字通り学生時代の殆どの時間を割かねばならないほどの努力が必要だ。逆に言えばそれらの「優良」な仕事以外は、常に危険と背中合わせだと言えるわけだ、何が安全で何が危険なのか、その認識もぼやけてくる時代だと言えるだろう。私の業界もそれは同じで、いつ巷で噂の「派遣切り」が行われるかわかったものではない。かと言って実務経験を積もうにも、勤続何年を経ても社会的に認められるような地位にはつけないような、文字通り末端の仕事だ。明日にでも平日の真昼間に公園でおにぎりをぱくつきながら子ども達が遊んでいる様子を切なげに見ているような日が来るかもしれない。絶対に磐石だと言われ、経営危機なんてほかの業界の話だと言われてきた銀行だって潰れる時代だ。何が起こっても不思議ではない。況や鉄鋼業界にもその魔の手は忍び寄っている。楽観的に構えられるほど今は安寧の時代ではないということだろう。そう考えると世の中は本当に上手く回っているものだ。努力をしたものだけが報われ、怠惰に生きたものは最終的には辛い目を見ることになる。私のように中途採用の人間からすれば、その意味するところは痛いほどわかる。今自分が置かれている立場が薄氷なのは、改めて考えなくてもわかる。とは言っても…暇だ。。。そういうことが感じられないくらいに暇な日々が続いている。どこの会社が経営難で、どこの会社が潰れようとしている。そんな噂が遠い外国で起こった事件であるかのように、今の私の周りの環境は安寧としている。危機的状況とはまさに遠い存在だ。しかしながら油断は出来ない。昇進の話もあるし、磐石なしせいを崩すわけにはいかない。まぁそれはそれとしてちょっと愚痴話。世の中にはブームというものがある。一部の業界が賑わえば、その裏で他の業界が廃れているというような感じだ。森羅万象全てはゼロサム理論に則っているというわけだ。例えばテレビで健康食品の特集をしたりすれば、次の日からはその業界が賑わうことになる。一昔前にあったバナナがいい例だ。バナナでダイエット出来るという番組が放送された次の日からは、バナナの売り切れが続出したらしい、流行り廃りというものはどこで来るかわからないものだ。対して銀行や病院、価格弾力性の低いものを扱う業界は、常に一定の売り上げを見込んでいる。ブームと言わずともコンスタント性が約束されている。そういう業界には時代を反映するものがない。必要ないのだから。では私の業界はどうだろうか。私の業界はまさに景気をそのまま投影していると言ってもいいようなところだ。お金に困っている人がいる以上、お金を貸す側の存在は不滅だ。高利子をつけようとも、お金に困っているという現状が存在する以上は、借り手は後を絶たない。不景気によってお金に困る人が現れるということは、私の業界は賑わう。まぁ賑わうのは本当に上層部なのだが(笑)結果返せない人も比例して増え、文字に起こすことさえ気が引けるようなことも日常的に起こっている。まさに人の不幸の上に成り立っているような業界だ。実際私がそのような「汚れ」な仕事をしているわけではないので実数的にはわからないものの、それでもソフトに言うところの「早くお金返してね♪」という勧告の結果が毎日私達のところに届く。その数は一向に減らない。気が滅入る話だ。その部分では葬儀屋に近いものがあるかもしれない。円滑な経営をする上で、死者の存在は欠かせない。疎まれる存在だというわけだ、悲しきかな…。ボランティアや慈善事業、仕事が上手くいくことで喜ぶ人がいる仕事は太陽のような仕事だ。忙しければ忙しいほど、見合うだけの精神的対価が貰える。活力とも言えるものだ。かと思えば私の仕事のように、繁盛すれば繁盛するほど苦しむ人が増えていく仕事もある。こちらは暗闇の仕事だ。そういう仕事はモチベーションが保ちにくい。えてして、そのような仕事に就いている人は、少々変わったものにモチベーションを感じるものだ。私の場合は完全性だ。その仕事をやることで悲しむ人がいるかもしれないが。しかし仕事を完璧にこなすことで、少しでも罪の呪縛から抜け出そうということだ。あくまで私は完全性だが、他の人もきっと何かしらのモチベーション持続法があるだろう。完璧に仕事をこなすことを贖罪としているつもりだ。まぁそんくらいしんとやってられへんっちゅうこって世知辛い世の中やね(苦笑)
Jan 30, 2009
コメント(0)
温めるだけで食べられるおでんに入っている玉子はブービートラップだと思う。おでんを普通に作ったり、皆でわいわい食べることが出来る人には無縁の話かもしれないが、私のように1人でいることが普通の人間にとっては、温めるだけで食べられるおでんは貴重品だったりする。おでんを作るにも1人だと多すぎて食べ切れなかったりするのも要因の1つとしてあるだろう。そんな温めるだけで食べられるおでんなのだが、温め方にも2通りある。1つは沸騰したお湯の中で温めるやり方だ。これは具材の中までしっかり温めることが出来る効果的な方法だ。2つ目は電子レンジで温める方法なのだが、今回話題としているのはこの方法についてだ。当然料理をしたことがある人ならば知っていることだとは思うが、玉子を電子レンジで温めるのは危険とされている。爆発するからだ。件のおでんのにも当然ながら玉子は入っているわけで…他の具材と一緒に温められた結果電子レンジ内で爆発を起こすことになる。はっきり言ってこれは軽いテロ行為に近い。自発的におでんを買ったりはしないが、先日両親から荷物が届けられ、その中に温めるだけのおでんがあった。以前にも同じものを貰って、私の思想に反する玉子という名の国家から報復的なテロ行為を受けた私なので、同じ轍は踏まないよう注意はしている。だが、お湯で温める方法が面倒だから電子レンジで温めるのに、玉子だけ別の取り皿にわけて温めなければならないという手間を強いるということは、遠まわしに何か言いたいのではないだろうか?おでんを自分の家で作ってわいわい食べるということが出来ない人間への嫌がらせのような気がしてならない(笑)さて、本題へ。先日なかなか面白いものを見つけた。フリーのゲームでインターネットの中に存在している「The House」というものだった。製作は海外とのことだったが、実際にその世界観を見てみると、ホラーとは如何なるものであるかをなかなか理解している造りになっていた。それに関連して…ゲームや映画で描かれる「恐怖」という概念、最近の所謂ホラーと呼ばれるジャンルのものを見ても、その本質を感じることが出来ない。ホラーが結構好きな私としては、非常に遺憾だと言わざるをえない状況だ。そもそもホラーとは…まぁ端的に言ってしまえば「恐怖」だ。人を怖がらせるような演出を如何に盛り込んでくるかがネックとなる。実際巷に溢れているホラーというものも、おおまかなコンセプトは怖がらせるということにある。ゲーム業界に於いてもホラーというカテゴリはすっかり浸透しており、確固たる地位を得ているようにも思える。が!!「ホラーとは何ぞや?」という観点で話をする以上、昨今のホラーは甘い。恐怖とは如何なるものかということをわかっていないホラー作品が多すぎる。驚かせればいい、見て怖いと思うものを出せばいい、そんなチープなホラーが大部分を占めている。風体の恐ろしい殺人鬼を画面に出すことに一生懸命になりすぎて、本質に迫ることが出来ていない。本来恐怖とはそのようなものではない。例えば夜、自分以外に誰もいない家、一人で家の番をしていたとしよう。そして誰もいないはずの他の部屋から何か物音が聞こえる。怖いと感じる人が多いだろう。そして物音の正体を確かめると…それは風で揺れているドアの音だった。たったこれだけのエピソードでも怖いと感じることはできる。殺人鬼も狂人も出てこない。ましてや自分以外の何者も出てこないような状況でも十分に怖いと感じることが出来る。要するに、恐怖を感じるのは、殺人鬼に追いかけられることもそうだが、恐怖を生み出すものそのものの正体がわからないことに起因している。見知ったはずの部屋でも、真っ暗にされて小さな物音でもすれば驚くように、何かわからないものが与える恐怖は計り知れない。無駄に血を出したり、人が死ぬ必要もない。これだけのものを出すだけで十分に恐怖を演出することは可能だ。後はフレームとなっているものに物語拝啓や描写を肉付けすればいい。それだけで十分に恐怖になりえる。世の中にはびこっている無数の恐怖を履き違えたようなものよりよっぽど恐怖を感じることが出来るはずだ。そのあたりの認識違いを、最近では顕著に感じることが出来る。海外のホラー映画よりも、日本のホラー映画の方が出来がいいと私は思う。動なる恐怖は最早ネタ切れだろう。日本のホラーの根底にある概念、静なる恐怖を如何に描くか、これからのホラーものはそこが勝負になってくることだろう。冒頭で述べた「The House」は海外の作品ながら、静なる恐怖を描こうとした部分では評価できる。が、ラストシーンを見る限りでは…まだまだ発展途上と言ったところだろうか(笑)興味を持った人がいたら、お試しあれ♪背後には気をつけて…
Jan 29, 2009
コメント(0)
快晴、干された洗濯物も気持ち良さそうだ♪風が強い快晴は洗濯物を干す観点からは非常に好ましい。太陽の光プラス風ですぐに乾いてしまうからだ。しかし、それも海際ならば話は別だ。海の潮風に当てすぎると衣類はすぐにダメになる。だから海際の地域では、洗濯物を干すには風のない快晴が最も望ましいことになる。太陽の光は須らく有効なのに、風の影響は地域によって異なる。なかなか面白い考察だ。さて、本題へ。マクドナルドの不思議、第3回目は今やっているキャンペーンについてだ。マクドナルドでは今「簡易包装キャンペーン」というものをやっている。テイクアウト専用になるが、以前のような袋でテイクアウトしてもらうのではなく、紙袋のような茶色の袋(茶色なのはもしかしたら私の地域だけかもしれないが)を用いるようにするというようなキャンペーンだ。それによって従来よりもエコロジーであるという謳い文句のようだった。実際ファーストフード業界がエコに乗り出すと案外効果は高いもので、マクドナルド程の大手にもなればその効果はかなり見込めることになるだろう。その代わりにテイクアウトするお客さんにはちょっとだけ面倒な手間がかかることになるが…今巷でやっているマイバッグ運動と同じだと考えればさしたる苦労でもないだろう。このキャンペーンは非常に有用なように感じる。だが!!!蓋を開けてみればおざなりというのが現状だ。以前キャンペーンが行われている時にマクドナルドに行ったことがあったのだが、そこで行われていたのは呆れるような状態だった。確かにテイクアウトのお客さんに対して紙袋を使うように勧告してはいたのだが、趣旨とは異なることを行っていた。例えばセットを買った人がいたとしたら、そのお客さんの前には2つの紙袋が並ぶことになる。飲み物とハンバーガーの2つだ。そして従来どおりであれば、その2つの紙袋を持ってお客さんは帰ることになるのだが…なんと私が見た時にはそれを入れる為の更に大きな紙袋を掲示していたのだった。その光景を見て呆れてしまった。エコの名の下に行っているキャンペーンなのに、紙袋を更に増やすようなことをしたのでは全く効果は見込めない。従来使っていた袋を、今のキャンペーン用の紙袋に変える為の設備投資だって無料ではない。受注している会社への紙袋の要請から、変更。そこに発生する些細ではあるが問題。それを加味すれば、大きな紙袋を用意するメリットは1つとしてない。むしろ今までの袋の方がコンパクトでエコの観点からは理に適っているようにすら思える。外資系は不況知らずと言うが、小さな小さなことでもエコ精神があるのならば取り組んでいくべきだろう。口の上だけで「エコ」と言っていても、やっていることが不合理ならばその鍍金はすぐに剥がれる。大切なのは有言実行、不言実行の為のプロセスさえも達成できていないのならば、底は痴れるというものだ。
Jan 28, 2009
コメント(0)
初雪来る都市部であるほど雪が降らないという先入観は田舎出身の人間の偏見なのだろうか。神奈川という土地柄、雪とは無縁だと思っていたが、案外降る時は降るものなのかもしれない。積雪には至らなかったものの、綺麗な雪の結晶は拝めたということらしい。見られなかったのは非常に残念だが。それに関連して…雪が降った後は必ず晴れる、これは何故だろう。前々からずっと感じていた疑問だ。ただの偶然かもしれないが、きっと因果関係があるのだろう。気象条件でゼロサムでも起こっているのだろうか。ということは、雪や雨が降ることはマイナスの事象だということになる。いいイメージを持っていないことに対する偏見かもしれないが(笑)さて、本題へ。誰もが休日を謳歌する日曜日、私は社員食堂でご飯を食べている。とても辛い味付けだ。関西にいた頃には味わうことの出来なかった味だ。話には聞いていたが、関東の味付けは本当に辛い。おかず1品でご飯が何杯もいけるくらいだ。なのに、おかずに対してご飯は1杯と相場は決まっている。不思議なものだ。こんなに味付けが濃いのに、どうして我慢できるのだろうか?関東に来て一番不思議に感じる点がそこだ。それに関連して…最近不思議な光景をよく目にする。こういうことはきっと子どもの頃からの躾が反映されていることなのだろう。今回はそんな話。ご飯を食べる際、茶碗の数は日によって違うかもしれないが、おおよそご飯と味噌汁だけと仮定しても2つの茶碗が机に用意されることになる。社員食堂でご飯を食べることが多くなってきたこともあって、他の人が食べている様が自然に目に入るようになったのだが、件の茶碗のことについていつも疑問に思うことがある。前提条件として右利きの人の観点に基づいて展開すると、一般的な常識では、ご飯を食べる際にはご飯の入っている茶碗を向かって左側、おかずなどのお皿は向かって右側に置く。お皿の数が多くなってしまう場合があるにせよ、向かって左側がご飯の茶碗、向かって右側がおかずのお皿という図式に変化はないはずだ。間違ってもご飯茶碗の左側におかずが来ることはない。だがしかし、社員食堂でご飯を食べながら周りをそれとなく見ていると、ご飯を一番右側に置いて食べている人が5人に1人くらいの割合でいる。これは如何なものだろうか?あくまで主観的な話だが、子どもの頃お箸の持ち方を教えてもらった時と同時期に、ご飯を食べる際のお皿の配置についても学んだ記憶がある。鉛筆の持ち方を一度学んでしまうとその持ち方以外では綺麗に書けなくなるのと同じで、食事の際のお皿の置き方もまた刷り込まれるものだと感じる。故に、お皿の置き方が妙な人が、そのような教育を受けてこなかったのか…或いは左利きかの2つの可能性がある。だがしかし、左利きだからお皿の置き方が逆になるということが果たして当然のように起こることなのだろうか?このテーマについては今後突き詰めていくとして…。問題となるのは、完全にお皿の置き方が逆になっているパターンではなく、滅茶苦茶な置き方をしている人が少なくないということだ。つまり、ご飯の茶碗が中心になったり、おかずの位置が変だったりすることだ。前述の逆転パターンならば左利きかもしれないという一縷の望みがあるが、滅茶苦茶なパターンだけはどうしてもその思考がトレースできない。理解の範疇を超えている。綺麗な姿勢で座る、綺麗にご飯を食べる、綺麗な言葉が使える…などなど、人の一挙手一投足からはその人の育ちが見て取れる。乱雑な行為しか出来ない人は、その人となりが痴れるというものだ。たかだか食事の際のお皿の置き方1つかもしれないが、気になりだすと仕方なくなってくるのが私の悪い癖だ。自分の評価を著しく低下させる行為を自分がいつ行っているのかわからない。昼下がりの社員食堂で一人そんなことを思いながら、味付けの辛いおかずを食べていた今日この頃だった。己を律すること弛むことなかれ。
Jan 27, 2009
コメント(0)
70円の飲み物を買おうとして財布を見たら120円がちょうどあったこれはラッキーと思い120円を自販機に入れて70円の飲み物を買ったところ本来ならば50円玉1枚でお釣りが出てくるところを10円玉5枚でお釣りが出てきた切なかった。。。何と言うか、こういう類のイレギュラーは本当にやめて欲しい。思惑が外れるということはあまり気持ちのいいものではない。今回のことも、10円玉が2枚あるので処理しようという思惑が見事に外れる結果になった。残念というか何と言うか…シュールな気分だ。嫌がらせかと本気で思った(苦笑)それに関連して…自動販売機のお釣りのメカニズムはどうなっているのだろうとたまに思う、例えば今回の件のように、120円で70円の飲み物を買った時に50円玉1枚でお釣りを支払うか、10円玉5枚でお釣りを支払うかをどのように切り分けているのかということだ。機械なのだからそのお釣りを受け取った人の気持ちに立って支払っているわけでは決してない。だとしたら、硬貨数に応じてお釣りの支払い方を選んでいるということになるが…となると、自動販売機内に入っている硬貨数を把握出来るような機構が内臓されているということになる。重量或いは体積的見地での状況把握なのだろう。テクノロジー的な意味で自動販売機を見たことはないのだが、もしかしたら、あのありふれた機械の中にはかなりのハイテクが詰め込まれているのかもしれない。さて、本題へ。ただいま駅名に夢中♪仕事で夜勤をすることが多いということもあってか、夜の暇な時間帯には何をしていいのかわからなくなることが少なくない。実際携帯電話などの精密機械の持ち込みが禁止されている以上、暇な時間を持て余すことも多々ある。私のようにブログを営んでいる者は、こうして休憩時間にでも玉津に向かい草稿を作成することは可能だが、それだって休憩時間に限った話だ。仕事の時間且つ暇な時間、そういう時に何をして過ごすか、長い仕事時間に於いてはその点が意外に重要だったりする。そこで私が考えたのが、自分の住んでいる地域の電車の駅名を覚えることだった。これは案外無駄にならないことだ。どこかへ出かけるにしても、問題となる駅名と前後の駅名がわかっていれば、大体の位置関係は把握出来る。電車に乗ったはいいが寝てしまい、今どこにいるのかわからない時でも少しは助けになることだろう。何よりも、この「覚える」という行為が、劣化しきった脳の活性化につながるのではないだろうか。覚えることは日常行っているだろうが、バリエーションある覚えネタはそうそうない。そういう意味でも駅名はうってつけなのだ。とは言っても、電車のフォルムや鉄道そのものに興味があるわけではない。私にとって電車は移動する手段の1つであって。デザインや機能性の意味で興味の対象ではない。カッコいい車両があるわけでもないし、気に入った沿線があるわけでもない。記憶されるデータの一部として扱っているくらいだ。そういう業界の深層には毛頭興味がない。そんな経緯あって駅名覚えが始まったのだが、まずは手始めに一番乗る東急田園都市線から記憶することにした。数は27、大したことはない。まぁ数時間で完全に記憶することが出来た。前知識がある分アドバンテージも大きかったというところだろうか(笑)続いてJR横浜線、並びに根岸線だ。数は32、これまた大したことはない。すぐに覚えてしまった。そんな感じで次々に覚えていったのだが、調子こいてる私の前に現れたのが最大の宿敵京浜急行線だった。これは以前に妹と一緒に初めて乗って以来乗ったことはなかったのだが、その停車駅の膨大さに都会のクオリティを感じたものだった。総数は70、強敵だ。だがしかし、それもまた数時間で覚えてしまった。もとより記憶することが好きなこともあって、そんなに苦労はしなかった(笑)そんなこんな覚えているうちに…東京・神奈川含めて250駅の記憶に成功♪もう神奈川県であればどこへ行っても迷わない自信がある。地理に弱い男性は幻滅されるということで、その憂いも少しばかり解消できただろうか。因みに…首都圏レベルでの駅の数は、私が覚えているものの軽く4倍はある。コンプリートの日はまだまだ遠そうだ(笑)
Jan 25, 2009
コメント(0)
断然ロングヘアーよりもショートヘアーの方が好き「髪は女性の命」という言葉もあるくらい、髪というものは女性にとって特別な意味を持つものだということはわかっている。これは私の推測だが、そうなったのはきっと男性よりも女性の方が髪の毛の薄くなる確率が低いからだろう。昨今ではファッションの一部となり、男性にとっても髪の毛はオシャレとなりつつある中、それでも女性にとって根強いオシャレの代名詞となっているのにはそれなりに年季と理由があるという何よりもの証拠だ。髪の毛を一定の長さで持続すること、それは思っている以上に大変なことだ。今回はそんな誰でも知っているような話。女性の長い髪の毛が何故いいとされているのか、それは偏に綺麗だからだろう。美という精神は男性よりもむしろ女性に対して使われる言葉だ。綺麗なロングヘアーは魅力的なファクタになっている、大いに納得できる。而して。その管理というものは大変なものであることもまた自明だ。この事に関しては、私が美容院に行って髪の毛を切るのを失敗した回で書いてはいるが、長い髪の毛の管理は本当に大変だと思う。なまじ長い…肩にかかるくらいならば管理は逆にし易い。疲れていてついついソファで寝てしまうことがままある社会人、そういう時に髪の毛が爆発することは短髪ではよくある。そういう時に髪の毛を撫で付けたりして直すのは一苦労だ。実際、私も基本は短髪なので、その苦労の一端はよくわかっている。しかし肩まで伸びる髪だと、意外にそういうこともなく、いい具合の長さだけに寝癖もつきにくい。よって、あくまで男性側の視点に立つならば、ワックスやスプレーが使えない軋轢がありつつも、肩までかかるような髪は便利なところも多い。だがしかし、それよりも長くなり…所謂ロングヘアーの領域に入ってしまうと、管理は一気に難しくなる。先に書いたような事象をロングヘアーの人が経験した場合、短髪の場合とは次元の違う変な癖がついてしまう。これはかなり厄介だ。直すのにも一苦労というわけだ。これだけはロングヘアーの最大の宿敵だと言える。ロングヘアーに関する悩みはまだある。それは静電気を帯び易いということだ。冬場、ドアノブ等の金属に触って静電気を感じることが大好きだという人はいないだろう。静電気は基本忌み嫌われるものであり、その存在を如何にして失くすかを冬場では常に感じていることだろう。そういう意味で髪の毛は殊更静電気の温床と化す。こればっかりは困った問題だ。常に驚かされる危険を孕んで生活することはストレスに他ならない。様々な苦労を持ったまま、ロングヘアーの人は生活している。そのことは賞賛に値するかもしれない。今まで散々書いてきたのに本末転倒かもしれないが、それでも私はロングヘアーが好きだ。その理由は簡単。それは…女性が一番美しく見えるからだ。クサい台詞を吐きたくなる1月の今日この頃だった(笑)
Jan 24, 2009
コメント(0)
とろろ昆布ラブ♪あの汎用性の高さはもっと評価されるべきだ。白いご飯に巻いて食べてもイケるし、味噌汁の中に彫る紺でもまた美味しい。薄くてペラッペラだからカロリーも少ないし。なによりも食物繊維の塊だ。まさに一人暮らしのパートナーだと言ってもいい。私は彼には絶大な信頼を寄せている。だが、悲しきかな、世の中の流れというものは残酷なものだ。もしか私の知らないところで一度か二度くらいは脚光を浴びただろうが、それ以降は表舞台に立つことはなく、炒り胡麻やふりかけと同じランクにされている。実に遺憾だ。とろろ昆布こそ栄養面でも汎用性の面でも高い評価を受けるべきだと思う。これからも時代の流れに逆行するようにとろろ昆布を推していこうと思う。賛同者は歓迎だ(笑)さて、本題へ。スイッチとは押すことでなんらかの効果があるものだ。そして。目の前にスイッチがあるとどうしても押したくなってしまう。ある種の疑問から派生した謎のスイッチに関する素朴な疑問、今回はそんな話。組織に隷属している人ならば一度くらいは見たことがあるだろう。所謂対オフィスを目論んだ固定電話というものを。内戦の数が一般家庭にあるそれよりも数倍以上多く、電話の筐体のホ殆どを内線電話表で埋め尽くすほど変わったフォルムをしている。相手先からの内線、他部署からの内線、様々な用途に沿って作られたことは容易に想像がつく。実際のところ、オフィス用の固定電話とは言っても、製造した会社によって若干の差異がある。限界まで汎用性に特化させたものもあれば、オフィス用でありばがら洗練されたフォルムをしたものまである。千差万別だ。しかしならが、包括している機能には殆ど差異はない。どういう筐体で作ろうとも、使用される機能はほぼ一定だからだ。主に以下にあげる機能を有している。1:保留機能2:短縮機能3:不在機能4:転送機能5:代理応答機能概ねこの5つは基本機能として搭載されているだろう。私の会社の電話もそうだ。だがしかし、私の会社の固定電話には更にもう1つの機能がついている。その機能を示すスイッチがついているのだが、その意味がわからないのだ。そのスイッチは他の機能のスイッチと変わらない形をしているのだが、役割をあらわすところには「◇」とだけ書かれている。試しに何度か押してみたものの、その効果を解明することが出来なかった。未だにその機能の意味がわからない。しかも機能のスイッチの中央に位置するところに設置されている。場所的に考えても重要であることは自明だろう。考えてみれば、会社での電話で使うべき機能はすべて既存のもので事足りている。とすれば、私の常識を打ち破るような画期的な機能を意味しているのだろうか?謎は深まるばかりだ。もしも同じようなスイッチがついている固定電話に巡り合い、その「◇」ボタンの意味がわかる方がいれば助けて欲しいものだ。もう半年間悩み続けているこの問題、できれば早急に可決したいものだから(苦笑)
Jan 22, 2009
コメント(0)
街で見かけた美人さん綺麗な服に綺麗な髪スレンダーな体型に綺麗な顔立ちだけど歩きタバコをしていた。なんだかそれだけで、今まで如何に評価が高かろうががっかりなことになってしまう。どんなに外見を着飾ろうとも、どんなに取り繕おうとも、内面に起因する行動にはすべてが如実に表れる。その人なりを指し示すかのように。歩きタバコをしている人を見かけると、往々してがっかりした気持ちになる。社会人の…否、大人としてのマナーを守らない人がいることを悲観する気持ちになる。悲しきかな、そのような人は後を絶たない。自分勝手に生きている証拠だろう。そういう相手が容姿的に優れているほど、社交性に優れているほど、悲しい気持ちは比例して大きくなる。何故歩きながらタバコを吸ってはいけないというルール1つが守れないのだろうか?自由とは秩序の中に生まれる最も尊い価値だ。そのことに早く気づいて欲しいと感じた出来事だった。さて、本題へ。導入部とちょっと関連しているが、今日はちょっとした考察の話。ルールというものが何故あるのか、考えたことはないだろうか?どのような場所に於いても必ずルールというものは存在している。そのルールを守ることで、場の調和は保たれ、円滑な活動を可能にする。ルールの存在意義というのは本来そういうものだ。しかし、どう考えても生産的ではないようなルールが存在しているのもまた事実だ。遵守することは簡単でも、遵守することでどのようなメリットが生まれるのか甚だ疑問に感じるものはある。例えば。高校や中学などであった女子の制服のスカートの長さが明確に決められているという校則だ。これには一体どのような意味があるのだろうか?名目は風紀の乱れを防ぐというものなのだが、スカートが校則よりも短いことによってどのような効果があるのだろうか。実際のところ、仮にスカートが校則よりも数センチ短かったところで何も起きないことは目に見えているし、よしんば何か起きたとしても、原因がスカートの長さだと断定できる事象はどこにもない。明確な理由が想定されない時点で、このような校則…ルールは意味を成さない。では何の為にあるのか、今回のテーマはそこだ。誰だって一度くらいは意味のないルールにぶつかったことはあるだろう。上記で挙げたスカートのルールなんて、どこにでも溢れている矛盾だ。矛盾だとわかっていてもそのルールが無くならないこと、それが重要な意味を持っている。要するに、本当の目的はルールによって個の相対的自由を縛ることにあるのではない。ルールにどのような意味があるのかはこの際どうでもいい。そのルールを守ろうという気概があるかどうか、意味のないルールの真意はそこにあるのではないだろうか?訝しんでルールを反故することは簡単だ。しかし、ルールを守ろうという気がある人ならば、多少の矛盾を感じつつもルールは守るだろう。それが一体何の役に立つのか、それは社会に出ればわかる。少しラディカルかもしれないが、社会には矛盾が溢れている。謝らなくてもいい場面で謝ることを強要され、不当な扱いを受けることだってある。それを「会社の為だから」とぐっと堪えることの出来る力を育成する、場慣れさせる。そういう意味があるのではないだろうか?意味のないルールは殊更学生時代に多い。つまりはそういうことだ。勿論本意はルールを決めている側次第なので、かような推論も創造の域を出ないのは自明だが。因みに…私が今まで出会った中で一番不合理だと感じたルールは、遠足等でよく言われた「バナナはおやつに入りません」だ。これだけは今でも理解できない(笑)
Jan 21, 2009
コメント(2)
久しぶりに雨が降った恵み…ではないかな(笑)雨にいい思い出がある人はどれくらいいるだろうか?私は雨には何の思い出もない。むしろ嫌な思い出くらいしかない。雨は本当に嫌いだ。楽しい出来事を企画していたとしても、雨が降るだけで必ずと言っていいくらいくらいに企画に下方修正をかけなければならない。それが嫌いな原因だ。思えば私の雨嫌いは6歳の頃から始まっている。あれは今でも鮮明に覚えている。昔々の嫌な思い出だ。今日はそんな昔話。当時、私は雨は嫌いではなかった。家が貧乏だったので、屋根がトタン屋根だったこともあってか、トタンに当たる雨の音をちょっと煩わしい程度にしか感じていなかった。小学校に入学して、初めての遠足。何もわからないままに皆で遠く迄歩いていくという楽しいイベントだという認識しかもっていなかった。実際遠足を目の前にしてのクラスの…主に男子の盛り上がり具合と言ったらなかった。ある一人の男子を除いては。彼の名前はシン(仮名)、クラスの中でも一際存在感を出している少年だった。何が凄いか、それは彼の実家に起因している。彼の実家は牧場だった。私の地元は究極の田舎なので、実家が牧場だという人も少なくはなかった。しかしシンの実家はそこいらの牧場とはちょっとだけ毛色が違うものだった。彼の実家は山の奥深くにあったのだ。実際車で行くにしても数十分掛かるような距離を彼はいつも歩いて学校迄来ていた。そんな彼の凄さを当時小学生のクラスメートに理解できるまでもなく…しばしば彼は珍しい目で見られていた。私は彼のことは面白い人だと思っていた。毎日毎日長い距離を歩いて学校迄来ていることが幸いしてか、蜜を吸ったら美味しい花の見分け方を教えてもらったり、校庭に置いてある遊具の新しい遊び方を教えてもらったりしたからだ。そんな彼の実家、私も一度だけ行ったことがあった。何の機会で行ったのかは覚えていないが、確か彼に招待されて歩いていった覚えだけはある。物凄い距離を歩いた記憶しか今となってはない(笑)話が若干脱線したが本筋へ。遠足の目的地が何処なのか、迫り来る遠足を前にその話題でクラスは持ちきりだった。担任の先生もなかなか教えてくれなかったこともあってか、この話題に一過性はなかった。そして遂に目的地が発表されたのだが、その目的地に驚愕することとなった。もう既にわかっているとは思うが一応。。。目的地:シンの家( ゚д゚)数多くの人が遠足を経験しているとは思うが、遠足で友達の家という稀有な経験をした人がどれくらいいるだろうか?きっとかなりマイノリティだと思う(笑)とは言っても皆でわいわい言いながら遠足に行くこと自体に陰りはなかった為、誰も気にしなかった。唖然としているシン以外は(笑)そして遠足当日、てるてる坊主の力空しくの雨。。。気分は一気に滅入ったものだった。出発する時間には雨もぎりぎり雨天中止を免れるようなレベルだったので出発したのはいいものの、山に入ってしばらくしてからは雨量は圧倒的に増え、文字通りバケツをひっくり返すほどの豪雨となった。危険と判断した学校側は遠足の中止を進言していたのだが、もうシンの家…もとい目的地が目の前だということで、目的地に着いてから様子を見ようという話になった。目的地にいざ着いたのだが、雨は一向に止まなかった為、苦肉の策として取り敢えずお弁当を食べて帰るということになった。遠くまで歩いてお弁当を食べて帰る、なんとシュールな遠足だろうか?まぁ仕方ないのでお弁当を開いたのだが、その瞬間にまた雨の降り方が激しくなった。これ以上山の中にいることを危険と判断した為か、私はちっこいエビフライを食べようとしたところを先生に止められることになった。結局お弁当も食べられず(涙)帰りは皆完全に意気消沈していた。そしてシンはと言えば、そのまま家に帰ってしまった(笑)なかなか嫌な思い出だった。雨を見るとあの時のことを思い出す。楽しみにしていたお弁当も食べられず、遠足も中途半端なまま。雨が嫌いになった原因だった。因みに…私の地区はエスカレーター式だったので、小学校で見た面子は中学校でも見ることになるのだが、中学時代3年間及び高校時代にシンを見かけたことは一度もなかった。彼は今どうしているのだろうか…ふと気になった。
Jan 20, 2009
コメント(0)
悩む日々続き中…本当はこんな話を長々と書くのも気が引けるのだが、実際のところ日記というか、日々あったことを綴るという体ではこの話題がのぼってくるのも致し方ない。数日前までは相談しようとも、偶然が重なってか、誰も話を聞いてくれない状況だった。先日の日記にコメントを残してくださった方の助言もあるのだが、いまいち踏み切れないでいる。こういう相談事というのは、もう殆ど自分の中で解決していると言うが、私の場合はそうでもない。作ったはいいが固まりきらないままに冷蔵庫に放り込まれたゼリーが如く、その表層は未だ確固たる形を見出してはいなかった。とは言っても。今日明日ですぐに答えを出すことでもないというのが唯一助かっている点だ。事の重大性を考えてもそのような措置は当然と言えば当然だ。昨日仕事に行ってそれとなく同じく関東に来たかたがたに話を聞いてみても、そのような「よく言えば昇進話」は聞いていないということだった。まさに私だけに話したようだった。だからこそ余計に、受ける責任感と逃げる背徳感の板ばさみを感じる。受けるべきか受けざるべきか…短絡的には決めにくい。ここまで悩んでいるのには1つの理由がある。先日も書いたように、今回の昇進話が、私の実力が認められた話だとは一概に言いにくいという点だ。実際ここが一番引っかかっている。期せずして昇進の話、それに伴う給料や待遇の向上。普通は手放しに喜んでいいところなのだろう。数多の可能性の中でも1人を選定したというわけではないということ、それが最も悩ましいファクタだ。こんなに悩んだのも本当に久しぶりだ。一過性の事象に関しては、選択を誤ったとしてもそれほどの被害は蒙らない。例えばお昼にA定食とB定食のどちらを食べようか迷い、A定食にしたものの、A定食がまずかったから後悔したというような用例の場合では、後悔のレベルも低い。しかし今回のような選択には、将来にわたるベクトルでの利益と損失が見え隠れする。度外視して考えられない。もう少し考えてみよう、まだ時間は少しだが残されている。実際に会ったりメールしたり電話したりで相談する人も出てくるだろう。その方々には迷惑な話かもしれないが、今度ご飯を奢るということで手を打って頂くしかないだろう(笑)いつも両親に「お前は物事を簡単に決めすぎだ」と叱責を受けている私にしたら、これは下手をすれば大学受験よりも大きな壁なのかもしれないのだから(苦笑)と、ここまでが以前書いたものだったのだが、この段階から動きが出た。上記で「相談する」というようなことを書いていたが、その相談が遂に実行できたのだ。結果、私は昇進の話を受けることにした。完全に背中を押してもらう形になったのだが、相談して良かったと思っている。感謝もしているし、ご飯を奢るだけじゃ足りないだろう(笑)というわけで…昇進話受けます♪上手くいくかどうかは、誰にもわからない。誰にもわからないからこそ、チャンスと捉えるのも1つの価値観だ。平でのんびり過ごすビジネスライフももう終わりだ。昇進したことを良かったと振り返れるように、取り敢えず目の前の問題から片していこうと思う所存だ。最後に相談に乗ってくれた優しい方々へ貴方の優しさこそ私の宝物です♪
Jan 18, 2009
コメント(2)
革靴を履いて歩いていると必ず1回はこけそうになるなんでだろう?こけそうになるというメカニズムは至ってシンプルだ。歩くという行為に於いて、足を前に出すということは必然だ。足を前に出そうとしているのだが、予想よりも靴先が長かった場合や地面が高かった場合にこけそうになる。これが思いのほかカッコ悪い。軽く躓いたくらいならいいのだが、大きくこけそうになってしまった時にはリアクションに非常に困る。何事もなかったかのように歩けばいいのだが、内心は動揺してしまっていて…その心情が更に躓きを誘発することになる。これはかなり如何ともしがたいものだ。同様に、人が思いっきり躓いてしまっているのを見ても気まずい空気が流れてしまう。友人だったなら、笑っておしまいに出来るが、目の前を歩いている人が思いっきりこけそうになっているのを見ると…どういう顔で横を通り過ぎたらいいのか迷う。私はこういう不穏な空気が流れそうになった時には携帯電話を見るようにしている。「携帯電話のチェックをしていたから見ていませんよ」というオーラを出すのだ。今のところこの方法でなんとか乗り切っている。別に気にならない人には気にならないだろうが(笑)さて、本題へ。遂に来てしまった今の会社でのターニングポイント。。。事の発端はつい先日のことになる。毎月行っている会社の上司との面談。私はいつものように行った。最初の方こそちょっとは緊張したが、今となってはそうでもない。初心は大切だというが、同じ人と毎月毎月同じ場所で顔を合わせていると、緊張感も薄まる。もう何度経験したのかわからないが、今月もまた今までと同じだと思っていた。面談は滞りなく進み、いつもよりも少し早い時間に終わった。今日は早く帰れると思っていたのだが、上司は面談に使う紙を仕舞うと、おもむろに話し始めた。その異様な空気はすぐに事の重要性に気づかせてくれた。これはただ事ではないと。話は会社の状態についてのものだった。来期にはわが社は大きな変革をむかえる、その為にも今出来ることをやっておけ、常に精進する心構えを忘れるな。まぁざっくりと要約するとこんな感じだった。上司お得意の精神論か、と思いながら話半分に聞いていた私に、上司は思いがけない一言をかけてきた。上司「きょう…」私「はい?」上司「上に立たないか?」私「は???」上司の言いたいことは以上だった。要するに上に立てということだ。昇進と言えば聞こえはいいが、私のいる会社の大きさから考えると、手放しに喜べることではない。昇進したことによる対外的な見栄えよりも、それに付随する責任の方が圧倒的に大きい。割りに合わないとはまさにこのことだ。だがしかし、逆に考えればチャンスかもしれない。実際会社に入って何年も経っているのに、平社員のままというのもいただけない。会社内での発言権ないしポジション、そして果ては給料に至るまで、昇進というものにメリットは多い。まぁデメリットも勿論ある。それは部下の管理が非常に面倒だということだ。なまじ私なんかが上に立ってしまうと、部下となる人は必然的に私よりも先輩ということになる。先輩を部下として管理するというのは、普通に部下を持つよりも胃が痛いものだ。そういう雑務に割く時間も発生する。まぁ諸刃の剣と言ったところだろうか。一応私には選択の余地があるらしい。受けるも蹴るも私次第だということだ。この件に関して、私は熟考してみようと思う。簡単にやるやらないを決められるほど、この問題は簡単ではない。一応今のところは受ける気でいる。自分を試すいい機会だ。而して疑問が1つ。何故私なのだろうか?私よりも先輩は何人もいる、むしろこっちに遠征に来ている中では私が一番の後輩だ。この点に関しては、上司に聞いてみたかったが、何故か聞けないような雰囲気だった。世の中にはわからないことが多いということで…取り敢えず片付けておくこととする(笑)
Jan 15, 2009
コメント(4)
今日もいい天気だ気分も晴れやか♪いつも何かベクトルの違うものばかり書いているような気がするので、今日は本当の本当に普通の日記でも書いてみようと思う。なんのことはない、ただの気分の問題だ。会社の先輩でとてもオシャレでイケメンな人がいる。イケメンだからモテるし、実際彼女もいる。背も高くてスラっとしているし、服のセンスもいい。ここが一番重要なのだが、関西人の私が嫉妬するくらい面白い人なのだ。面白さでは現場内トップを誇っていた私も余裕かましてはいられない(笑)私の仕事はチーム制だ。2人1チームでチーム構成されており、その単位で仕事にあたる。今までは違う人と組んでいたのだが、2009年ということで大きくチームわけ実施した。今までの人は所謂パソコン業界にいがちな趣味の人だった。オンラインゲームが趣味でインドア、そんな人ばかりだった。それが悪いとは言わないが、どうも私の肌には合いそうになかった。そんな状態が続いた中でもチーム変更だった。そして何かと趣味が合いそうな先輩と遂に一緒のチームになれた。これは仲良くなる絶好のチャンスだった。その先輩とは1度だけ一緒に飲みに行ったことがあるのだが、そのときの話でもずいぶん趣味の一致点が見受けられた。基本的に外に出歩くのが好きで、買い物を大好物にしている点でも気があった。一緒に遊びに行こうという話も何度かしていた。そして今日、買い物でも行きましょうよという軽い一言から遊びに出かけることになった。その先輩は私服もやっぱりオシャレで、2つしか違わないのだが、私とは雲泥の差だった。オシャレなジャケットを着て、カッコいいブーツを履いている。指輪やネックレスもとても似合っていて、何と言うか…私の思い描く大人の男性そのものだった。買い物のテーマは決まっていた。私がわがままを言ったからだ。細身のパンツが欲しいという話をしたら、思いのほか先輩が食いついてきて、それで買い物に行くという運びとなったからだ。というわけで、今回は先輩が私の買い物に付き合ってくれる形になった。109などがあるような都会、どこに行けばいい服があるのか見当もつかない私を色々なところに連れて行ってくれた。この店は何がいいのか、そしてこの店にはどんなものがあるのか、先輩はそこのところを完全に熟知していた。そしてニーズにあったお店に連れて行ってくれた。散々悩んだのだが、ようやく一本のパンツを手に入れることが出来た。値段もお手ごろでまさに文句無しの展開だった。その後も、香水が欲しい、小物が欲しい、などという我侭な注文にもちゃんと対応してくれて、数時間買い物三昧だった。最近は家にいることが多かったので、大いに気分が晴れやかになった。買い物をして気分爽快になるなんて、私も女の子みたいだとちょっと思いながら(笑)買い物も一段落したところで、これまたオシャレそうなバーに入って、お酒を飲みながら色々な話をした。仕事の話、プライベートの話、将来の話。先輩は物事を深く考えてはる人だったので、色々自分の話をしはった時にも大いに感銘を受けることができた。今後は立ち回りが重要になってくる仕事の話でも、とても参考になったのは言うまでもない。その後は時間を持て余したので、先日一緒にお酒を飲みに行った時に話していたダーツバーに行くことになった。私もダーツは少しくらい嗜んでいたので自信もちょびっとはあったのだが、先輩の腕にはとても敵うものではなかった。最初の方は接待だなんだとわいわい盛り上がっていたものだった。昔少し齧ったくらいのダーツなのだが、これは趣味にしてもいいかもしれないと思ったものだった。帰り際にマイダーツを先輩と二人で見ていた時にはそう思った。これからは週1くらいのペースで行きましょうか?などと冗談を言うと、先輩ものってきた。やはりノリのいいことはモテる誘因かもしれない。ひとしきり楽しんだところでその日は解散となった。久しぶりに有意義な買い物が出来たものだった。買ったパンツは本当にいいもので、先輩に感謝感謝♪にしても、本当に類似点の多い人だ。ボーリング、ビリヤード、ダーツが好きで、みんGOLも上手い。スキーが好き(駄洒落ではない)で、香水にも詳しい。インテリアにも目がなく、オシャレな家具ではテンションが上がる。簡単にあげただけでも類似点は多い。折角関東に来たのだから、先輩を見習ってちょっとはオシャレなしてぃーぼーいを目指そうかなぁと思った出来事だった。
Jan 14, 2009
コメント(0)
最近よく晴れる。晴れるということに関する明確な裏づけは非常にとりにくいものなのだが、こと冬に関しては晴れに関する理由付けはわかりやすいこともある。それは雪が降るからだ。日本海側では太平洋側に比べて雪が降りやすい。雪が降りやすいということは、その反対側に位置する太平洋側が晴れる可能性が高くなるということだ。この推察があたっているかどうかはわからないが、少なくとも私が日本海側で過ごした18年を通した経験則のようなものだ。半分くらいは当たっていて欲しい(笑)さて、本題へ。先日かなりショッキングな出来事があった。今回はそんな話。仕事の話ばかりで申し訳ないが、私は手広く仕事をしている。手広くとは言っても、別に仕事を掛け持ちしているわけではない。例えば私と同じ業種の人の仕事量を1とすると、明らかに仕事の範疇を超えたものまで受託しているのだ。数値にしたら4くらいのものだ。多角的にやりすぎて、若干全容を鳥瞰することが難しくなっているというのが正直なところだ。当事者である私だって今やっている仕事を全部羅列しろと言われたらちょっとは困る。仕事というものは往々にして横へ横へと広がっていくものだということだろう。そんな個人的多角経営をしている私なのだが、その業務の中に、ブルーになるようなものがある。それは「お金を借りたのはいいけど、この人返してないじゃん?だからちょっとどこにいるのか調べてね♪」という書類を役所に送りつけるというような仕事だ。平たい言葉で言ってしまうと、最終宣告ということになる。その書類を印刷する仕事も受注している。この仕事は毎日行われるものではなく、完全にアットランダムに行われる。いつやるのかは上からのお達しがあってからで、明確にいつやるのかはわからない仕事だ。まぁ内容から考えてもそうだろう、世の中広しと言えども、お金を借りてそのまま失踪するような人が幾何級数的に上昇するわけではない。定期的な実行くらいでちょうどいいのだろう。或いは金融関係の仕事特有の「自粛」が入っているのか…。真相はわからない、否知りたくない。そのような仕事は前々から何度も行ってきた。印刷されてくる書類には、全国津々浦々の人の名前や住所が列挙されており、そこから出てくる名前は、イコール行方知れずということを示している。はっきり言ってやりたくない仕事だ。いい気分なんて微塵もしない。その日私は依頼されてきたその仕事の印刷作業をしていた。幸いにして他の仕事は全て片付いてしまっていたので、その仕事に集中できた。そして印刷完了した書類をぱらぱらと捲ってどこのどんな人が失踪しているのかを見ていた。その時…見てはならないものを見てしまった。京都府…私「おっ、京都か。珍しい」○○市私「おっ、うちの市じゃん。この会社ってうちの市にもあるんやなぁ」○○町私「えっ、町が同じって…。もしかしたら知り合いかも…」○○ ←実家の区名私「え…」○○○ー○ ←番地名私「…!」○○○○ ←契約者名私「!!!!!!!!!!!!」今まで年齢が同じ、或いは年下の人はいた。そんな人を見る度に、世知辛い世の中を痛感していたのだが、今回のことはそのような衝撃を軽く凌駕していた。まさに知り合いだったからだ。その人とは小学校や中学校の頃一緒に遊んでいた。家も近かったし、友人関係も多かったこともあって、いつも外で野球や鬼ごっこをして遊んでいた人だった。言葉はきつかったが、どことなく優しさの漂うような性格の人で、私はいつもその人とつるんでいた。高校時代になると、その人は悪い道へと入っていった。途中からは高校を辞めたというような話も風の噂で聞いた人だった。今どうしているのかわからなかったが、わからない理由がその時わかった。失踪していたのだ。今まで印刷してきて、名前が流れていった人は、それこそ会ったこともないような人だ。だから印象も薄い。名前が変わっているだとか、年齢が近いだとか、そういう感情しか沸かなかった。当たり前だ、私はそれらの人のパーソナルデータを何1つ知らないのだから。だが、今回は違う。どういう家に住み、どういう性格で、どんな顔かも知っている。そのことが私を大きく落ち込ませた。それまで元気に働いていたのに、そこからは完全に意気消沈してしまったものだった。人生長いお金を貯めろ、老後に備えろとは言わない稼いだお金を全部使ってしまってそれで次の月を迎える結果貯金出来なかったことを責めるつもりはないだがお金だけは絶対に借りないで欲しいそういう人の末路を私は骨身に染みてよくわかっているからだお金を借りるそんな些細なことから知り合いや大好きな人達がいなくなるのはもう見たくない
Jan 13, 2009
コメント(0)
本日1月11日ただいま仕事から帰ってまいりましたそして次の仕事は8時間後(苦笑)一ヶ月一生懸命働いている人には縁のない話かもしれない。実際私もかようなハードスケジュールで仕事をしなければならないとは、先月まで思ってもみなかった。しかし事情というものは、人の心と同じく移ろうものだ。最低勤務時間という越えられない壁を前に、1日8時間勤務という磐石とも思われた壁はいとも簡単に瓦解した。そして昨日、1月11日の夜9時。私は仕事に出かけ、今しがた帰ってきたところだ。そして今日の午後9時、また同じスケジュールで仕事が始まる。12時間勤務を2日にわけて行うという無理に対する負荷がこのような形で私にのしかかってきているわけだ。とは言っても、無理だと根を上げているわけではない。似たようなスケジュールで仕事をしたこともあったし、30時間以上働き続けるという体験もしている。別に辛いわけではないが、はっきり言って喜ばしくはない。むしろ出来ることならば避けたい事象ではある。と言えども、やはり仕事上の事情を前に、個人の事情なんて砂上の楼閣も同じだ。組織に隷属することを良しとした以上、かような扱いも甘んじて受け入れる必要があるわけだ。不本意ではあるが。そうして仕事に向かう時間が迫る中、ブログを書いている私は或いは変人かもしれない。まぁその部分の自覚も少なからずあるのも事実なのだが(笑)さて、本題へ。私の住んでいる街は坂が多い。よって商店なども平らなところを探して競うように展開することになる。つまり、平らなところが多い場所よりも店の数は少ないというわけだ。電車で数駅も行けば平らで拓けた場所がある。この街に住んでいる人の殆どは、買い物を電車で数駅行った場所まで行ってする。電車で数駅とは言っても、直線距離にすれば結構ある。都会ぶってはいるが、所詮田舎に毛が生えた程度で、駅と駅の感覚も広い。件の拓けた都会に行くまでには電車で2駅掛かるのだが、歩くとこれがまた異常に長く感じる。そして私は先日まで、その距離を歩いたことがなかった。だが、ふとしたきっかけで、その道のりを歩くことになった。そしてその道程には、面白いものがあった。今回はそんな話。2駅歩くつもりは最初はなかった。2駅歩いてしまったという結果は、会社の先輩とご飯を食べる為適当なところを探しながら歩いていたところ、2駅越してしまったというだけの話に帰結する。そしてその途中、小さな公園があった。その公園は比較的人の利用の多い場所で、犬を連れたおねーさんや、のんびりとベンチに座って本を読んでいるおにーさんいた。公園の真ん中には対岸まで10メートルもない数字の8を崩したような形の小さな池があり、そこでは釣りを楽しんでいるおじーさんもいた。なんとも和やかな雰囲気だった。その公園の入り口のような場所には、1つの立て看板がかけられていたのだが、そこにはこう書かれていた。「誰もが犬を好なわけではありません。ペットのマナーを守って公園を綺麗に使いましょう。」意味はわかる。わかるだけに惜しさに遺憾の念を禁じえない。私はこの看板を一目見てそのおかしさに気づいた。おわかり頂けるだろうか?気づかない方はある意味では幸せな生活をしている証拠だろう。すぐに気づく方は…私と同類かもしれない(笑)かような洗礼を受け公園に入ったのだが、その和やかな雰囲気に私もほっこりしていた。公園の中央付近にある池の辺りで釣りをしている人をなんとはなしに眺めていたのだが、その池の前にも立て看板がかけられていた。「投げ釣り禁止」意味はわかる。わかるだけに、これまた遺憾の念を禁じえない。投げ釣りというものがどういうものかわかれば、この看板の存在の無意味さはわかるだろう。この池で釣りをする時、きっと釣人は看板を読まずとも投げ釣りをしないだろう。穏やかで情緒溢れる餌釣りを余儀なくされる光景は容易に目に浮かぶ。そんな公園を後にして思った。畏まった雰囲気で厳粛な空気の流れる公園よりも、こういうウィットに富んだことをする公園の方が地域的に受け入れられるのではないかと。そういう意味では、都会と都会の間に生まれたようなこのアメニティの人気も頷けると思った出来事だった。
Jan 7, 2009
コメント(0)
仕事が段々忙しくなってきた。私が今の職場にやってきたのは、新しい現場を安定稼動させる為だ。何事も最初は右も左もわからない状態にある。どうやったらいいのか、何をしたらいいのか。そのような状態になってしまうものだ。仕事を行う上で効率的な方法というものは、それこそ職種によって異なる。病院であったり、学校であったり…私のような現場であったり。効率的に仕事を行い、円滑にすすめる為には、新しい方法を常に模索する必要がある。そのようなことは経験則がものを言うものだ。今の現場は、私が京都にいた頃のものを踏襲している。よって、システム的には京都時代に近いものがある。もう何度も書いたかもしれないが、私が今の現場にいるのは、旧システムを知っているからだ。よって、効率的な仕事の仕方も、提供する側の立場になるわけだ。とは言っても、あくまで踏襲というだけであって、コピーではない。全く同じものであるならば何かとアドバイスのしようもあるが、そうではない。「みんなのGOLF」が出来るから「みんなのGOLF2」を説明もなしに出来るものかと言えばそうではないのと同じだ。そして今年、最初の年明けを迎える。システムが安定稼動するかどうかを考えた場合…答えは微妙だった。そしてその通り、付け焼刃のような対応策した用意されなかった。まぁ仕方ないことだ。私も今の現場での年越しは初めてだが、システム面を構築している方々にとっても初めてなのだ。そしてそれに際して、新たなものがやってきた。例えて言うなら…4人暮らしのアパートにもう1人越して来たような感覚に近い。一応顔を見て挨拶はしたし、アパートの説明についてもやったが、その人なりがまだ理解できない。もしかしたらアパートに対して何かしらの嫌がらせを行うかもしれない。それはまだ今の段階ではわからないというものだ。友達になった人の本質を知ろうとしてもすぐにはわからないように、そのシステムの本質も未だ闇の中なのだ。これから1月終わるまでは相当忙しくなりそうだ。と、まぁ仕事の話はこれくらいにしておいて…本題へ。自動ドアが反応してくれないとちょっとだけ凹む。自動ドアはどこの施設にでもよくあるものだ。人、或いはものを検知し、扉を開ける。中には重量で扉を開ける機構のものもあるらしいが、一般的に普及しているシステムは、赤外線を飛ばしてそれが遮断された場合に扉を開ける機構のものらしい。コンビニやデパートで取り入れられているものの殆どがそのシステムになる。赤外線を飛ばすタイプの自動ドアは、赤外線をどの方向に飛ばしているか、そんなことを考えたことがないだろうか。普通に考えると赤外線を飛ばす機械から真下に照射されているように思えるが、それだと扉にくっつくくらいまで接近しないと開かないことになる。なので、殆どの上記機構のものは、扉から室内に対して斜めに照射している。これで外に出ようとする人に対してストレスなく扉の開閉が可能になるわけだ。だが!!このようなシステムをもってしても開かない扉がある。そのような扉に出会うとちょっと悲しい気分になる。今回はそんな話。誰だって先入観で自動ドアは開くものだと思っているだろう。ドアに向かって歩く速度と、扉が開くタイミングが必ずしも同じだとは思ってないにしても、歩調を緩めることで、過不足なく扉が開くものだと思いがちだ。だがしかし、扉にくっつくくらいまで近づかないと開かない扉があるのもまた事実なのだ。最近私はそのような扉によく直面する。家の近くのコンビニの自動ドアがそれにあたる。そのドアは本当に感度が悪い。ドアのぎりぎりまで立ってしばらく待たないと開かないのだ。私だけなのかもしれないが、いつもその扉は機嫌が悪い。こうなってしまうとちょっとした被害妄想にかられてしまう。もしかして扉に嫌われているんじゃないかと。。。無機質なドアに感情なんてない。だからそのような考えは現実性を持っていないのは十分にわかっている。だが、いつも開かないとそう思ってしまう。センサーの故障なのか、赤外線が照射されている位置がおかしいのかはわからない。でも3回に2回は思い通りに開いてくれない。そういう時はいつも凹まされる。あくまで噂レベルの話なのだが、自動ドアは身長が低いと検知されにくいという傾向があるらしい。確かに赤外線を斜めに照射しているという前提では、そのようなことがあってもおかしくはない。しかし私の身長は175センチだ。それで低いと言われると、かなりの人が自動ドアに嫌われていることになる。それはありえないだろう。どちらにしても、そのようなドアを有している店には早急に対応をしてもらいたいものだ。私は人に嫌われるのが好きではない。特に、信頼している人や大好きな人に嫌われることを最も忌む。今まで仲が良いと思ってきたのに、ある種の裏切りをされてしまうともう立ち直れないくらいに凹んでしまう。自動ドアを大好きだとは思っていないが、そのシステムについては信頼をおいている。ストレスなく開くものだと思っているからこそ、そのような裏切りには過度に反応してしまう。殊更件のコンビニの扉については…私は嫌悪されているのかもしれない。それがまた私を凹ませるのだ。。。嫌われたくない。。。
Jan 6, 2009
コメント(0)
2009年、始まってもう数日が経つが…だからこそ言わなければならないことがある年末、年の瀬の時期、誰もがその存在について一度は考える年賀状。最近はメールで済ませようという流れが強い中、私もその流れに傾倒し始めていた。だがしかし、一度その流れに身を委ねた中で手書きの温かい年賀状を貰うと、そのありがたみと意味について深く考えることになる。大切なものは価値が見えにくい。それは近くにあるからだ。いつも自分の傍にある、もしそれを大切なものだと思っていないとしても…誰にだって大切なものはある。そしてその大切なものは、一度感じると価値が輝きだす。まるで、今までその価値を隠していたかのように。年賀状というものも同じだ。より便利なツールであるメールが普及し出したことで、極端に年賀状の数は減少したことだろう。それはそうだ、誰だって便利な方がいいに決まっている。キーボードや携帯電話のボタンを押すだけで、自分の伝えたい言葉はいとも簡単に現れる。だがしかし、それに本当に価値があるのだろうか?確かに言葉はその人の本質を表すものであることは間違いない。だが、年賀状のように、直筆で書くことに大きな意味があるのではないだろうか?少なくとも私はそう考えている。去年、手書きの年賀状を貰ったことで、私は気づかされた。感謝の気持ち、身を案じる気持ち、そのような気持ちは、直筆にこそ顕著に表れる。自明だ。と、まぁそのような精神論を言いたいわけではない。今回テーマにするのは、そのような高尚な部分ではなく…もっと卑近な部分だ。年賀状ではなくメールに関しての話。年明けにメールを送っているという人は一体どれだけいるだろう。私の周り…主に仕事場では、このような考えは完全にマイノリティとなっている。別にそのようなことをしなくても友人関係は持続するし、面倒なことは極力したくないという気持ちが最も先に立つようだ。まぁわからなくもない。誰だって面倒なことをすすんでしたいとは思わないだろう。この年明けのメールをするかどうかは、それ自体の行為に、それだけの付加価値があるかどうかが明暗をわける。私はその点、そういうことが大好きだ。大切な友人の誕生日にはいの一番にメールを送る。きっと誰よりも先に私のメールが届くことだろう。人はそれを気持ち悪いと言うが、私にしたら大切なことだと自負している。何事も鮮度が大事、初物が大事だ。時間が経つ毎に品質的に劣化してくるのは、メールも魚も同じだろう。若干話がずれた。件の年明けメールなのだが、私はこれを毎年の恒例としている。年賀状を送った人は勿論のこと、メールでも必ず挨拶はする。それは、年賀状よりもタイムリーに届くからだ。そしてそのようなメールは、1月1日0時0分に漸近すればするほど価値がある。もう何年もこの習慣をしてきた私は、最早普通の精神ではないのかもしれない。このような習慣を同じく持っている人でも、秒単位にまで拘っているのは私くらいではないだろうか?そんな年明けメールを友人全てに送るのだが、その過程で、やや悲しいことが判明することがある。今回はそんな話。メールをよくする人は誰ですか?この問いに関して、誰しもが特定の人を挙げるだろう。私の場合もちゃんといる。これはおかしいことではない。だが、逆に、全くメールをしない友人もいるだろう。それは仕方ないことだ。携帯電話のアドレス帳には入っているが、よくて1年に数回レベルでしかメールしない人はいるはずだ。そしてそのような人に年明けメールを送った時…稀に悲しい返答が返ってくることになる。「アドレスが正しくありません」これにはかなり心が折れる気分になる。もしかしたらその友人が携帯電話をやめて固定電話派に転向したのだという可能性もあるかもしれないが、そんなものはかなり低い。ロト6の1等当選くらい低いかもしれない。つまりその友人は携帯電話を所持しているという可能性が高いということになる。ということは…携帯電話を新規で持つようになったか、或いは今までのアドレスに飽きて変更したかという2つの可能性が新たに出てくる。そしてその可能性のもとで考察した場合…自分があぶれたという結論が見えてくる。これは結構キツイ。友人だと思っていた人が、新たに設定したアドレスを自分に通知してくれない。これがすぐに会えるような人ならいいが、遠くに住んでいるような友人だと凹みもひとしおだ。そういう経験はないだろうか?もし私だけなら泣き寝入りものだ(苦笑)因みに私の場合…今年の年明けメールアドレス不明の友人が2名いました。ちょっと切ない年明けでしたとさ(苦笑)
Jan 5, 2009
コメント(0)
遂に拾得完了♪落ちていたもの、それは先にあげたブログに関してもさらっと書いていたが、明言は避けてきた。しかし拾得が完了したということもあって、その必要もなくなる。このもの自体の名前を私は明確に知らない。見た目は…細い木を編んでボール状にしたようなものだ。パッと見た目ではアジアンテイスト溢れているように見える。それ単体では意味がないが、部屋の照明に被せたり、間接照明と一緒に使うことでその力は倍化する。私の部屋には間接照明が一個あるのだが、その間接照明は和紙を基調にしている。柔らかい光をモチーフとした間接照明だ。私はそれが気に入って買ったのだが、どうにもそのもの単体では、部屋に灯りを齎すものであっても、それだけでインテリアと化すまではいかないような気がしていた。なので、間接照明は買ったものの、明確に汎用性を広げる手立てもないままに飼い殺しにしていたというわけだ。そこで件の拾得物に話が移る。これのおかげで、私の部屋の間接照明は見事な変身を遂げた。最初こそ、拾得したものの一体これを何に使おうかと頭を捻っていたのだが、その形状に注目した時、ある1つの考えが浮かんだ。拾得物は、前述したように木を編んでボール状にしたものだ。そしてその元々の用途は恐らく天井に吊るすタイプの照明に被せることだと推察できる。それは、上下に丸い穴が開いていて、片方の穴には金具がついていたからだ。その穴の大きさと私が持っている間接照明の大きさが符合すれば…もしかしたら新しい間接照明が生まれるかもしれないという考えだ。実際に持ち帰って間接照明と穴のサイズが合うかどうかの実験をした時は、ドキドキしたものだった。そして結果は…ジャストフィットだった。なんたる僥倖♪2009年、出だしからいい感じ♪照明としてはまぁまぁの存在感、インテリアとしては及第点もあげられないような照明が、たった1つのパーツで見事その両方のテーマに於いてハイスコアを叩き出した。これは一気に私の部屋の自慢にノミネートと言ってもいいかもしれない。何より拾ったという点が好ましい。インテリアや部屋の拘りは「お金をかけること=素晴らしいこと」ではない。如何に工夫するかにセンスが問われる。高級品に囲まれているような部屋は、自論ではインテリアに凝った部屋だとは言いがたい。そんな穿った自論にも適合するナイスな出来事だった。さて、本題へ。本編は、先に書いた「マクドナルドの不思議2」の続きになる。前置きのせいで間延びしてしまい、大筋を述べるまでに時間が掛かってしまったが、ここからが大筋となる。ずばり、何故徒歩と自転車はドライブスルー使用禁止なのか。考えられる可能性合理性の欠如だ。ドライブスルーという機構において徒歩や自転車ではその恩恵をあずかれないという点だ。車から降りることなくハンバーガーを買うことが出来る、ドライブスルーの一番の売りはそこであるはずだ。当然ながら、注文してから購入するまでの早さという意味で、店内とドライブスルーを比較した場合、比較にもならないのはわかっている。だがしかし、ドライバーにとって、車から降りることなくハンバーガーを購入できるというのは非常に画期的だ。その為に多少の煩雑さが伴ったとしても厭わないくらいの気持ちはあるだろう。その観点で言うと、徒歩や自転車で買うことによるメリットはない。ドライブスルーに空手で並ぶくらいならば、店内に入った方が早いし、確実だ。狭い土地を利用して、車の客にはドライブスルーを。歩きや自転車の客には店内での購入を。車に比べて自転車の方が面積辺りの停められる台数が多いことから、マクドナルド自体があまり土地を有していない場合には、しばしばいこのような手法がとられる。実に合理的だ。だからこそ合理性の裏をかくような「ドライブスルーに徒歩入り」なんて言うのは、店側としてもやめて欲しいというよりむしろ迷惑なのだろう。ドライブスルーに徒歩で入る人がいることで、ドライブスルー全体の流れに淀みが生まれる。ちょうど綺麗に流れている道路で渋滞が発生するように、徒歩という因子が効率的な流れを阻害するのだ。だから店側として禁止している、多いに納得できる。因みに、上記考察は同店内でのドライブスルー営業時間と店内営業時間が「同じ時間である」という前提に基づいている。店の中の方が長い時間営業しているとか、ドライブスルーは深夜までやっている、そのような状況下での考察ではないことは付記しておかなければならない。自明かもしれないが。ドライブスルーに徒歩で挑む、想像すると中々シュールな絵だ。真似したいが、あいにくと私の家の周りにはドライブスルーがない。ドライブスルーが近くにある方には、是非に徒歩で試して欲しい気持ちもあるが…あくまで店側にとって迷惑だという前提で恙無く行って欲しい。迷惑をかけるのは本意ではない。今回何故こんなテーマで書こうと思ったのか、それは年明け早々、こんなくだらないテーマで1時間くらい話をしてしまった悪友Kに起因している。というわけで、ネタを提供してくれた悪友Kにこの考察を捧げる(笑)
Jan 4, 2009
コメント(2)
道端にあるものが捨ててある。私はそれを拾おうと思っていた。あるマンションのゴミ捨て場に、もう何日も放置されているものだった。普通は、そういうものがあっても拾おうとは思わない。それは何故か…。それは、単純に落ちているものが自分にとって価値があるかどうかが大きく影響してくる。実際に落ちているものが自分の欲しいものであった場合…しかも拾得しても誰も困らないという状況にある場合、拾うという人もいるのではないだろうか。まぁこの条件式には「落ちているものを拾って自分のものにするということに対する抵抗」という要素が加わることになる。だがこの要素も、夜中誰もいない時に回収するという条件式のもと、見事なくなることになる。そんなわけで、私はそれを拾おうと画策している。具体的にいつ拾うかは、今のところまだ決めていない。偶然そこに通りかかって、そして人があまりいない時、且つ夜であることという3つの条件が符合する瞬間でないと拾えない。難しいものだ。まぁ幸いにして、捨てられてから何日も放置されている。すぐに無くなることはないだろう。まぁ折を見てということだろう。さて、本題へ。マクドナルドに関して、混雑時でも何故レジが全て使われないのだろうか?という命題を以前に提起したと思う。この命題に関する明確な答えは、未だにないのだが、更に大きな謎が生まれた。今回はそんなくだらない話。マクドナルドには、大きくわけて2つの店舗展開形式がある。1つ目は、普通に街角で見かけるようなタイプのお店だ。入り口があって、食べるコーナーがあって、そういうスタイルだ。そしてもう1つは、上記のお店に加えてドライブスルーが付属されているお店のタイプだ。マクドナルドは現在この2つの形で展開している。今回槍玉に挙がるのは、ドライブスルーを有している店についてだ。ずばり、テーマは…「マクドナルドのドライブスルーでは、何故徒歩と自転車は禁止されているのか?」ということだ。では本筋に入る。そもそもドライブスルーは何故あるのか?それは車に乗ったままでマクドナルドを購入しようというニーズに応える為だ。車から降りるのが面倒だという人は流石にいないと思うが、冬の寒い日や、夏の暑い日などは、一旦車を停めて店内まで買いに行くと、車中の気温は著しく変容する。冬なら寒く、夏なら暑くといった具合だ。かような気候的な影響もあり、ドライブスルーというものは重宝している。しかし、ここで1つの疑問が浮かぶ。ドライブスルーとはそこまで普及しているのかということだ。私は現在横浜に住んでいるが、横浜ではドライブスルーを有したマクドナルドを今のところ1つも見たことがない。しかも、昔住んでいた京都でも殆ど見たことはなかった。ここで1つの推論がなされる。マクドナルド自体はそこらじゅうにあるのだが、ドライブスルーを有したマクドナルドを作るには何かしらの条件があるのではないかということだ。そしてそれらしい答えは…3つほど浮かんでくる。1:ちょっと田舎であること2:道が広くなく、それでいて建物の感覚が比較的広いこと3:建物あたりの土地が狭い傾向にあること以上の3つだ。この3つを満たす地点にあるマクドナルドにはドライブスルーを有しているものが多い。ドライブスルーのメリットはずばり、店の所有できる面積における駐車場の削減が可能なところだ。サービスを提供する店舗としては、外から車で訪れてくるユーザーを獲得するのは重要だ。ということは、大きな駐車場があった方が集客力も増す。だがしかし、上記3の条件のように、土地自体を大きく使えないという場合、際限なく駐車場を設置することが不可能だ。となると…車でのニーズにも応えつつ、土地事情とも要相談。。。答えはドライブスルーとなるわけだ。実際に流れるように客を捌けば、店内とドライブスルーの2段構えで多くの利益に繋がる。逆にドライブスルーのデメリットは、その分人件費が掛かるということだ。ドライブスルーとは言っても、自動でメニューの注文を承って自動でハンバーガーを作ってくれるわけではない。作るのは流れ作業でなんとでもなるが、商品の受け渡しには必ず人の手が介入しなければならない。金銭が絡む為、あらぬ嫌疑をかけられないとも言い切れない。そうなると、ドライブスルー用の店員を店に1人ないしは2人は常駐させておかなければならない。余分に人件費が掛かる結果になるというわけだ。実際私は、このドライブスルー制度に関して賛成でも反対でもない。客観的な考察は、まず主観からの逸脱が重要だ。その観点で話をしているのだが…長い前置きを経てようやく本題に入るところなのだが…容量の加減で次回で持ち越しとする。このまどろっこしさもまた…私のブログの本質なのかもしれない。では次回へ続く。。。
Jan 3, 2009
コメント(0)
初夢に松岡○造が出てきた何かの暗示なのだろうか?汗シチュエーションというのも何故か違和感しか感じないものだった。松岡○造は名うてのボディーガードのようで、小さな女の子の護衛を依頼されていた。そしてその女の子が桜木町のような街並みの場所を逃げ回っている。もう既におかしいことはわかっているが、敢えてここはツッコミ無しでお送りさせていただくこととする(笑)追う者は相手が小さな女の子だとしても容赦はしない。そして小さな女の子はダンディな紳士に助けを求めるが…そのダンディな紳士もまた追跡者の凶弾に倒れてしまう。大さん橋ばり橋に追い詰められ、いよいよ絶体絶命の彼女のもとに、これまた何故かテニスウェアを着た松岡○造の登場だ。片手には不似合いなほど大きな銃が握られている。丁度ショットガンを模したような光景の銃だ。そして登場するやいなや、台詞のようなものを口にし始める。丁度桃太郎侍の登場時の台詞のようなものだ。その台詞のありきたりさに失笑しそうになったところで目が覚めた。所謂初夢に出てくると縁起のいいものとされる、1富士2鷹3茄子。これのどれもが当然のように出てこなかった。上記の夢は、まるで3流のドラマを見ているような気分にさせられた。そんなわけで、今年のスタートを切る上で重要な初夢を、何故か意識も何もしていない松岡○造で飾ることとなった(笑)さて、本題へ。ある日寝ていて突然足が攣った。かなりの衝撃だった。足をはじめとして、攣るということは特に珍しいことではない。運動を頻繁にしている学生時代や、運動を生業としている職業に於いてもそこまで特筆して珍しいことではないだろう。日々運動不足に悩まされている人の方が多い中、足を攣るということは或いは避けられないことなのかもしれない。攣るというメカニズムについては、私はそこまで詳しいわけではないのだが、それでもなんとなくどのような時に起こるのかはわかる。この攣るという現象なのだが、殆どの場合は何かしている時に起こる。そしてその「何か」というのは、足を酷使する作業の途中に起き易い。そしてそれは無理な姿勢の時にも頻出しがちだ。例えば準備運動もしないでいきなり激しい運動をしたりすると攣り易い。激しい運動に足がまだ準備しきれていない状況だからこそ起こるものだ。実際に、陸上を齧っていた私は、そのように急ぎすぎて足を攣っている人を何人も見てきた。それ自体は本人の自業自得という部分が非常に大きい。だがしかし、寝ながらにして足が攣るというメカニズムがいまいち理解できない。上記のように、攣るという行為は無理な運動や突発的な運動によって引き起こされるものだ。寝るという行為が運動ではないように、寝ながらにして攣るというのはおかしのではないだろうか?考えられる可能性としては、寝ている時の「姿勢」がおかしいということになるのだが、それならば寝始めてすぐに足が攣るものではないだろうか。寝ている時に攣るというような状況についてあまり聞いたことはないが、かような経験をした人から離しを聞くと、往々にして寝始めてだいぶ経った時に起こるという話だ。とすると、無理な姿勢で寝ているわけではないという結論に至る。もしかしたら全く同じようなメカニズムが他にあるのではないだろうか?そのような観点に立ち返った場合、思い浮かぶのは「寝違え」だ。寝違えるという状態は、主に首に過負荷がかかる状態を指す。要するに寝ている時、首が変な方向を向いていたりすると起きやすいということだ。あれだって故意に寝違えを発生させようとしても簡単に起こせるものではない。まぁそんな人はいないだろうが…(笑)となると、寝違えもかなりの過負荷から生まれる事象なのだろう。足を攣るということも、寝違えを起こすということも、障害発生箇所に過負荷が掛かるという意味では同義となる。となると…導かれる結論は1つだ。寝違えを起こす場所が違う事象、主に足などの患部に過負荷が掛かること、それが寝ている時に足が攣るということではないか。もともと首よりも足の方が衝撃に強い機構になっているのだから「寝違えの足バージョン=攣る」という図式が見えてくる。あくまでこれは推論の1つだ。真理ではない。だがしかし、今回のテーマに際して確実に言えることが1つだけある。それは、寝違えを故意に起こすのが難しいということ以上に、寝ている時に足が攣るということは難しいということだ。事例が数多くあるから頻出するという帰結は愚かだといういい例だろう。
Jan 2, 2009
コメント(2)
2009年厳かでのしめやかでもなく明けました。厳密に2009年が始まるまでの私の過ごし方たるや、相当なものだった。仕方ないにせよ、月末の夜勤、何もない中でただ時間だけを持て余すような非生産的な時間を過ごした。なまじ仕事の時間として拘束されるからこそ時間が過ぎるのが遅く、それでいてすることに規制がかかる中でのそのような時間は圧倒的に閉塞的なものだった。それが終わり、いざ家に帰ってくると、その後には会社に提出する書類の作成が待っていた。かような雑多な仕事は出来れば年末には持ち込みたくないものなのだが、如何せん今月はそうも言っていられなかった。様々な出来事が重なり、結局大晦日に会社の書類を作ることになってしまった。30時間稼動の疲れが来るなか、眠い目をこすりながら書類を作成した。書き上げた書類をメールで送信し、次は年賀状の清書をする番だった。年賀状を直筆で書くということに去年目覚めてしまった私は、今年も懲りずに書くことにしていた。年賀状自体は2週間前から調達していたので、後は書くだけなのだが、これがまた苦労するものだ。年賀状に字を認めるということはそれほど苦労することではないが、それを綺麗に書くとなると話は別だ。手書きの年賀状には気持ちが籠もるという話があるように、私は年賀状は手書きに拘っている。確かにPCを使った方が効率よく美しい年賀状が出来るだろう。だがしかし、敢えてアナログにすること、それが私なりの美徳に思えるからだ。そうして何度かやり直しを経て年賀状は完成した。80点はあげられるだろう。その後はご飯を食べたり、机の周りを整理したりしながら時間を過ごし、いよいよ2008年が終わりを告げる刻になってきた。一応私は年明けと同時にメールを送信することを毎年の恒例としているので、今回もその行事の為の前準備をしておいた。事前に誰にどのようなメールを送るか決め、携帯電話に下書きしておくのだ。そうすることによって年始のメールセンターの混雑時でも即座に送信不可メールの再送信が可能になる。実際メールセンターは異常な込み具合を呈するわけだが、事前の準備が功を奏して目的を大きく違えなかった。おおよそ予定通りにメールを送ることが可能になっているわけだ。この部分も2009年、いたって良好。と、まぁ…毎年の行事については済ませたところで、これまた毎年の恒例となっている「今年の抱負」について述べてみようと思う。確か去年は「他人の為になる」だった気がする。去年の抱負に対する達成度はと言えば、これまた80点はあげたい。そんな私の今年の抱負は…「頼り甲斐を身に着ける」「飛行機に慣れる」「目標額を決めて貯金する」これで決まりだ・後ろ2つに関しては具体的な目的ラインがあるのだが、最初の1つのような抽象的な事象に関しては、達成したか否かは非常に曖昧になってしまう。実際のところ頼り甲斐を身に着けたかどうかは自己評価ではなく、きゃっかんてきな評価であるし、それがどの程度上昇したのかもわかりにくい。だがしかし、そういう評価に困るようなところを敢えて突いていくこと、それが今年の私には必要な気がする。頼り甲斐というものがあまりない私にとっては、これ以上ないくらいに重要なテーマとなるだろう。そんなわけで、今年の抱負は上記3点に決まりだ。来年の今頃、私は今の私よりも数段ぐれーどあっぷしていることだろう。具体的に何をしたらいいのかは、わかりやすい項目とわかりにくい項目にカテゴライズされるのだが、まずは小さなことからコツコツと励んでいこうと思う。目指せ、いい男だ♪最後になったが…今年もまたこうして向かえることが出来たのは、偏にモチベーションとなっているこれを目にしている方々だ。続ける原動力として、見てくれている方というのは非常に大きい。これからも駄文・乱文入り乱れることになるとは思うが、私という人間の一部であり全てであるこの部ログを御贔屓にしていただければ幸いだ。本年も宜しくお願い申し上げます♪2009年1月1日牛さんよりも鼠さんが好きです♪ きょう
Jan 1, 2009
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1


