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まだまだ寒い日が続いている。今年は雪が降ることが少ないとは言え、それでもかなり寒い冬だと感じる。それは単純に私自身がそう感じているだけなのかもしれないし、或いはこのようなことを毎年言っているだけのような気もする。しかしやはり1月とは違う種類の寒さが2月にはあるような気がしてならない。そしてその寒さもまた毎年違った匂いがあるように思う。冬になれば空気が乾燥するという話がある。実際に部屋の中で加湿器を使っているという人も多いだろう。しかし、殊更外の空気だけについて考えるならば、夏よりもむしろ冬の方が外の空気には水気があるような気がする。仕事柄太陽が上るよりも早く活動しているわけだが、丁度朝の5時半頃の少しずつ明るくなり始めているような時間帯には、なんとも言えないような空気が流れているように感じる。勿論寒いのは寒いのだが、寒さの中にも微妙な水分がある。そしてそれは夏の朝よりも多いように思う。まぁ私だけだとは思うが。恐らくは冬の朝が大好きな分、贔屓目に見ているのだろう(笑)さて、本題へ。もうすぐ決算の時期だ。一般的な商社ならば、そうでもないと思うが、私の職場のような環境では、本当に人の入れ替わりが激しい。1年前までいたのに、もういなくなっている人なんて日常だ。新人が入ってきて1週間でいなくなったという話も語り草だ。兎に角入れ替わりの激しいところだ。そんなところにあって、決算期というのはより入れ替わりの激しい時期になる。3月末日を以って人員の移動がなかった年はなかったと言えるくらいだ。必ず何かある、それが決算期。今が2月の下旬ということもあって、決算期に於ける人員の異動の話は私の耳にも届いている。意外な采配ではあったが、想定の範囲内であったと言える。小さな驚きと溜息で迎えるのが恒例となりつつあるこの時期、ふと不思議に思ったことがあった。今回はそんな話。来期のメンバーも決まり、今期の締めに向かいつつあるこの時期、既存のメンバーを眺めていてある違和感を感じた。社歴の長いメンバーと浅いメンバーがいた場合、通常ならば社歴の長いメンバーがいなくなって新人を入れるというような動きがあるはずだ。しかしながら、今年に限らず私の現場ではその観点から人事を行っていない。1年目や15年目の人が残り、8年目の人がいなくなるということがいつも見受けられた。まぁこのような采配は、単純に新人の育成を考えてのことや、もう社歴の長い社員は次の受け入れ先がないから囲うというような様々な因子があるわけなのだが…残ったメンバーを眺めていてある共通点に気づいた。それは…仕事が出来る人は皆イケメン!!これは私の職場だけではなく、色々な職場にとっても同じことが言える気がする。仕事が出来る人は往々にしてイケメンだ。これは逆説的な意味も孕んでいるかもしれないが、それでもやはり確固たる事実のようだ。仕事が出来るから職場に残り続ける、それが真理に思えて仕方ない。長年いるようなベテランの方はイケメン率が非常に高い。歳を召した方も多いので、イケメンというよりは渋いという方が正しいかとも思うが、一意的に言うと「カッコいい」と換言出来るものではある。やはりカッコいい人は仕事も出来るということなのだろう。で私はと言えば、旧案件のメンバーの中でもかなりの古株になってきている。それは必要だから残されているようにも思えるが、単純に首を切る理由がないだけにも思える。結構長くこの仕事に従事している私がイケメンかどうか…それはきっと全ての人が首を横に振ることが目に見えている。まぁどのような法則にも例外はあるということだ(笑)
Feb 21, 2012
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6歳と言えば、どれくらいだろうか?来年、小学校に通うことが決まっていて、ランドセルなんかを買って貰って毎日つけたりして小学校に行く練習をしているような時期だろうか。それともまだ見ぬ小学校で沢山友達が出来るか心配しているような時期だろうか。どちらにせよ今までにはないような環境の変化が待っている時期だと言えよう。私のブログも今日でその6歳になったわけだ。思えば、かなり長くやっているように思う。小学生なら入学から卒業迄経験したのと同義だ。こう言えば長さがわかりやすいだろう。而して長ければいいというものでもない。内容が大切なのがブログだ。その観点で考えてみると…まだまだだと言わざるを得ないだろう。食材をどう扱うかが料理人ならば、ネタをどう昇華させるかがブロガーの持ち味だというわけだ。そういう意味で言えば私はまだまだ2流だ。反省点の方が多いからだ。まぁそのような諸々の思いがあれど…無事に6年を迎えられたのは偏にアクセスして下さる方のお陰だ。常にそれは忘れないでいようと思っていることでもある。読んでコメントを残してくれる貴方がいるからここがある、それは間違いない事実だからだ。これからもまぁまぁそこそこの面白さを発揮出来れば及第点をモットーに頑張っていこうと思う。ゴールが明確に決まっている以上、そこに向かう足取りは年々軽くなってきているつもりだ。たとえそれが100万キロの道のりを1キロ縮めただけだとしても(笑)
Feb 20, 2012
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ルオンノタルの強さは異常。関東地方は地震が多い。考えてみればもうあの震災から1年が経とうとしている。それでもあの震災以降、微弱な地震の数が増えたのは事実だ。1日に地震は二桁以上は発生しているとは言え、体に感じる程の地震というのはそうそうないものだ。にも関わらず、震災以降のこの1年ではあまりにもその回数が多いように感じる。やはり余波は確実にあるのだろう。そんな日々が続いているわけなのだが、先日少し変わった出来事があった。今回はその話。先日、私は休みの日を家で過ごしていた。家のこともやってしまったし、殊更何もすることがないということでまったりしていたわけだ。すると、近くに置いておいた携帯電話から聞いたことがないような音を発し始めた。まるで警報のような音だった。買い換えてから間もないというのにもう壊れたのかと心配してみてみると、どうやら何かの報せを受信したようだった。よく見てみると、それは緊急地震速報だった。「茨城県沖で強い地震が発生、揺れに注意して下さい。」そんなような内容だったように記憶している。今までそのようなメールは受信したことがなかったので、真偽の程が疑わしかったのだが、事実その30秒後に家が小さく揺れた。その時には緊急地震速報の凄さを身をもって知ることになったわけだが(笑)それが丁度1ヶ月程前になるだろうか?それからも結構強めの地震は何度かあったものの、それ以降一度も私の携帯電話は緊急地震速報を受信していない。頻度低いんじゃあ意味ないんではないか!?確かに地震予知は非常に難しいことだということはわかっているし、全ての地震について対応していたら緊急性が希薄になってしまうのもわかる。しかし100あるうちの1つか2つくらいの地震を検知したところで、その信頼性について評価出来るだろうか?しかもその一度だけ受信した緊急地震速報も、速報が届いてから30秒程で地震が来てしまっている。揺れとしては軽微だから問題なかったようなものの、もしもこれが震災と呼ばれるレベルのものだったなら…30秒で一体何が出来るだろうか?せいぜいガスの元栓を消すくらいが関の山だ。まぁそれでもしないよりはマシだろうが…なんとも言えない感じだ。地震は根本的に無くせないし、予知も難しいと聞く。地震関連の事象については後手後手になってしまうのは仕方ないことだ。今はまだある程度の予知が出来るだけかもしれないが、将来的にはもっと高確率に地震を予知出来るようになることを祈って止まない今日この頃だった。
Feb 15, 2012
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参謀30とエクLIMでは、エクLIMの方が好き(笑)本日はお休みだった。先日の結婚式の二次会の為にとった休暇の派生とでも言うのか、もう1日貰った休みだったというわけだ。生憎と、先日ブログにも書いたように、結婚式の二次会から同窓会に雪崩れ込むといった流れに私は関係ない。今日の休みは予備日のようなものであれ、実質的にはただの休みだったというわけだ。さて、やることがないとは言っても、一人暮らしの休日はそれなりにやることがある。家のことは放置しても誰もやってくれないからだ。そんなわけで今日も今日とて掃除を始めることにした。まぁもう長年やってきた流れの一部だ。掃除をしながら私はいつも考え事をする。大体はブログの内容についてだ。どのような構成にするのか、何を中心に置くのか、そのようなことを考えながら掃除をする。そうすると、丁度電話をしながら電話のコードをくるくるしてしまうのと同様に、掃除が凄く捗る。これは最近見つけた方法だ。そんなわけで、いつものように掃除を始めた。考えながら掃除をしていたのだが、掃除も終わろうとした頃、かなりいいものが思い浮かんだ。構成もばっちりだし、それなりの文量も期待できる。これは今日は大丈夫だなと思った矢先…それは霧散した。それから今に至るまで、必死に思い出そうとしているのだが、結局思い出せないでいる。すぐに思い出せないことはどうでもいいことだという言葉もあるくらいだから、恐らくその時には価値があったものでも、客観的に考えれば価値がなかったのだろう。或いは書かない方が良かったようなものなのかもしれない。夜に考えたラブレターくらい危険な因子があったのかもしれない(笑)というわけで、今回の内容は内容を失ったということを内容にしたブログと相成ったわけだ。考えてみれば、こういう系統のものは1年に2度くらいのペースで書いているように思える。期せずして鉄板ネタになりつつあるのが正直あまり快くない今日この頃だった。
Feb 12, 2012
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今日は友人の結婚式の二次会に参加してきた。結婚式とはめでたいものだ。露骨な幸せがそこにあるから。換言すれば幸せの塊とも言えるようなその場は、皆が笑顔でとてもいい空間だと言える。そしてそこに参加出来ることは、とても光栄なことだと思う。結婚式に呼ばれるかどうかというのは、もろに人間関係が影響するからだ。結婚というめでたい場に於いて、仕事関係以外で嫌いな人は呼ばないだろう。自分達の幸せを祝ってくれる人だけでやりたいと思うのが普通だ。そしてそこに呼ばれたということは、ある意味では信頼されているということになる。普通なら…今回私が呼ばれたのは、以前に飲み会をした面子の女の子の一人が結婚するという名目だった。かなり好意的な見解をすれば、友人だということになる。冒頭で私が「友人の」と言ったが、それはあくまで私がそう思っているだけで、向こうがどう思っているかはわからない。まぁ呼ばれたのだから悪い印象ではないだろう。そしてそれは喜ばしいことだ。普通なら…。私が何をそんなに言葉を濁しているのかと言うと、その結婚式二次会の状況にある。なにしろ…参加者は60名いたのだが…私が知っているのは新婦含めて4人という状況だからだ(笑)新郎さえ知らないし、参加している人の9割近く知らない人の状況だ。これが導き出す場の空気というのは、何やら同窓会のような雰囲気の中にいる異物という感じだ。明らかに誰も私を知らない状況で「誰だあれは」という空気が遠慮がちに流れる場になることは想像に難くない。だから私は憂鬱だった。そして予想していた空気は、見事的中した。勿論悪い意味で。二次会が始まった途端に流れ出す「懐かしいねぇ」という空気。そしてお互いの近況を報告しあう人々。その中で私は明らかに異質だ。どう考えてもそこにいるべき存在ではない。なので私は部屋の隅っこで料理もお酒も口にせずにただ立っていた。言及されるのが嫌だったからだ。そしてそんな時間が40分程過ぎた頃、始まってしまった、あのイベントが。そう、ビンゴ大会だ。結婚式二次会の恒例とも言える行事。これが異分子付の二次会では、かなり殺伐とした空気になってしまう。新郎・新婦の懐かしい知り合いが当たったならば、そこでお祝いのコメント等を残してにこやかに終わることは想像しやすい。そして場には和やかな空気が流れる。しかし今回の私のような存在がビンゴになろうものならば、かなり白けた空気が流れることになる。誰も知らない存在が商品を持っていく、この図式は結婚式の二次会というめでたい空間に於いては異質なもの以外の何物でもない。だから私は参加しながらも参加しなかった。ビンゴした人が出た時に大きな拍手をおくる要員に徹したわけだ。今さっき家に帰ってきたのだが、気を張り過ぎていて気持ち悪くなってしまった。色々な方面に気を遣って存在感を消していたが故に、楽しめる状況ではさらさらなかった。ともあれ、二次会はとても幸せそうな雰囲気でとても良かったように思えた。これからが大変な時期ではあろうが、結婚した2人に幸多からんことを♪
Feb 11, 2012
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人は窮地に陥ると冷静さを欠く。いつものことをいつものように出来るのは当たり前だ。大切なのは、イレギュラーな時に冷静でいられるかどうか。これがまた非常に難しい。何かが起きた時、しかもそれがかなり大きな規模の時、冷静でいられるかどうかは、ある意味では性格が影響するようにも思えるが、実はそこは経験がものを言うことも多い。初めて経験したことでは誰しもがイレギュラーに対して慌てることだろう。そしてそれによって冷静な自分ではとらないような行動をとってしまうかもしれない。それはある程度仕方ないことだ。それによって人は学び冷静さを会得していくからだ。こんなことは当たり前のようにも思えるが、実はかなり難しい。常に一定のリズムで行動することはかなりの経験を積まないと困難だ。そして私は何故だかそんな人に見られがちだということに最近気づいた。周りからの評価がそうだと、少しのことでは動揺出来ない。期待されていると言えば過言かもしれないが、それでも冷静だと思われていることはプラスであることは自明だ。私の好きな作家さんの言葉にこんなものがある。「動揺することは得になりえるが、動揺していると思われることは明らかに損だ」つまりは心の中では動揺していても、それを表面化させなければ問題ないと言うことだ。人は心の中まで見透かされることは殆どない。つまりは表面的にでも冷静さを保つことが出来れば、それは物事を優位に運ぶ可能性が残されているということだ。だが、万事に於いて冷静でいることは非常に難しい。人の評価を保つことも同様に…だ。人の評価というのはなかなかに行動云々を縛り付けるものだと感じた今日この頃だった。
Feb 10, 2012
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とは言ってもラジオの話ではないので悪しからず。私の家の周りは結構なレベルでの田舎だ。大きなショッピングモールもなければ、有名なお店があるわけでもない。所謂普通の住宅地だ。何か買い物したくしても電車に乗って出かけなければ何もないようなところに住んでいる。だが、そんな場所でも必ずあるものがある。今やそれがない地域を見つける方が難しいくらいだ。それはコンビニだ。コンビニには多くの種類があり、どうやら地域によって多くあるコンビニとそうではないコンビニがあるということに最近気づいた。地域性とコンビニの量と種類には何かの因果関係があるような気がするが、単純にコンビニ経営母体の絶対的な位置に起因しているようにも思える。まぁそこは特に掘り下げるつもりもないが…(笑)日本中をコンビニが埋め尽くすように、私の家の近くにもコンビニがある。一番近くのコンビニはFMなのだが、今の家に引っ越してきての3年間かなりお世話になったコンビニだ。3年間も通っていればそれなりに人の出入りもわかってくるし、よく見ていれば店員の変遷も見ることが可能だ。私は元来人間観察が好きなこともあってか、お店の店員等はよく観察してしまう。今回はそのFMの話。彼が入ってきたのは何時だったろうか?少なくとも半年前にはいた。彼は兎に角異質だった。通常研修中のアルバイトというのはそこまで異彩を放つものでもない。通常通りのマニュアル型の店員を育成する途中だからだ。経営する側にとっても欲しいのはコンスタントに働ける人材だ。そこに特殊なノウハウは要らない、普通ならば。しかし彼は違った。初めて彼を見て、そして彼の接客に触れた時から、何かが違うと感じていた。具体的に何が違うのかを明確に理解するまでには少しだけ時間が掛かった。最初はただの違和感だった。たとえるならカスタードの中にマスタードが混ざっているような違和感、そんな感じだ。一目にはわからない異彩が彼にはあった。明確に違和感を感じたのは、ある時私が入店した時だった。コンビニは客が入店すると店員全員で挨拶する風潮にある。その時も挨拶をされたわけなのだが、件の彼の挨拶は何かが違っていた。声が変なのではない、ましてや発音も問題ない。しかし何故だか異様に耳に残る挨拶だった。例えるなら、電車内のアナウンスのような…耳に残る感じだった。とは言っても…コンビニの店員の入れ替わりは激しい。接客がとても丁寧で好感が持てる人がいたとしても、すぐにいなくなってしまうものだ。私が見た彼もきっとすぐにいなくなってしまうだろうと思っていた。しかし予想に反して今でも現役で頑張っている。ただ挨拶が耳に残るだけの店員、そんな彼なのだが、その後店全体に影響を与えるような存在になる。それはまた別の話(笑)
Feb 2, 2012
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今日は風が強くて寒い日だった。朝起きてベランダへ出てみると、ベランダ用の履物が飛ばされてしまっていた。これは私の家独特の風の強さを示すバロメータのようなものだ。風が比較的強くても、履物が飛ばされなければ外へ出たとしてもそこまで風が強いと感じることもないのだが、履物が飛ばされている時に外へ出ると風の強さを体感出来ると言った具合のものだ。冬の寒さと履物が飛ばされているという状況を鑑み、今日は外出を控えることにした。そういえば部屋の電球が1つ消えてしまっているが、それは明日にしようということで落ち着いた。どうやら私には小さなことは先に回してしまう傾向があるようだ。悪い兆候だと言える(笑)さて、本題へ。私の家の近くには商店街と呼ばれるものがある。私が勝手に商店街と呼んでいるわけではなく、商店街そのものが「ここは商店街ですよ」と言っている。つまりは町が認めた商店街だというわけだ。因みに商店街とは…商店街は、一般には道路の両側に店舗が張り付く形態が多い。このため商店街は横の百貨店とたとえられた時期もある。中には、これらが複合化し実質的に面状の商店群を形成しているものや、わき道に飲食店やファッション関係の小店舗など、路面店とは別の業種・業態の店舗が張り付き、魅力ある市街地を形成している例も多い。また、イメージアップのためにアーケードや街灯、カラー舗道等で、商店街であることが視覚的に認識できるようにしているものも多い。アーケードや街灯、舗道の形や色が途中で変わるのは、商店街組合の境界を示す一例である。 (WIKIPEDIA引用)とある。定義的には上記の事項の条件を満たして初めて商店街となるわけだ。しかしながら私の家の近くにある商店街はそうではない。むしろかなり穿った形での商店街だと言える。まず特筆すべきは、同じ店ばかりがあるという点だ。商店街だというくらいだから、店の数はそれなりにあるわけなのだが、どういうわけか同じ種類の店ばかりが並んでいる。例えば、美容院とパン屋とクリーニング屋、この3つは何故か商店街の中に3つずつある。商店街の中の何処かの店が潰れてしまって新規でテナントを募集している時には、何故か毎回もう既にある店が並ぶことが多い。後は、商店街と言っている割にアーケードがないことや、舗道の統一性がないことも挙げられる。商店街だと言いながら、そこが商店街だと認識している人はかなり少ないのではなかろうか。あと致命的なのは、スーパーの存在がないことだと言える。商店街と言えば大なり小なりスーパーの存在は欠かせない。そこを中心に始まっていると言ってもおかしくないあ。しかしその存在も見受けられない。なんだか変わった商店街だという印象を受けるには十分だろう。この間も1つ店が潰れて新しくクリーニング屋が出来た。通り100メートルの範囲にクリーニング屋が3つもあるのはどう考えても不合理なように思えて仕方ない。それならば全く別種の店をおいた方が幾許か効率的なように感じて仕方ない。でも考えてみれば今の世の中そのような形での商店街などは多いのではないか。結局まわりまわって同じ種類の店でしか形成されないのは、設備等を安くあげることを考えれば当然のことなのではないか。そうも感じてしまう。新しいことを始めるには何かとお金が掛かるのであり…そしてそのお金を簡単に捻出出来るほど地域は潤っていないのかもしれない。そう考えると私の家の近くの商店街も頑張っている方なのかもしれない。確かに美容院とパン屋とクリーニング屋ばかりがある商店街だが、その気になれば汎用性を感じることも出来るかもしれないからだ。まぁ…今のところ私にはあまり利用価値のある場所ではないが…(笑)
Feb 1, 2012
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